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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 07月 15日

三十九、 自界叛逆難の予言符合

  英語版


鎌倉政所は日本国の主にふさわしい豪壮な建物である。ここに畳の敷きつめられた客殿があった。

文永九年五月、平頼綱は蒙古の三度目の使者と対面していた。

蒙古皇帝フビライが親書を送りつけていらい三年がたったが幕府はなんの返事もしなかった。フビライの恫喝を無視したのである。

蒙古のほうはだまっていない。つぎつぎに使節をおくり、国交をひらくよう催促していた。

蒙古側はショール風のいでたちをした眼光するどい蒙古人、そして気弱そうな高麗の役人がすわった。高麗はすでに蒙古に滅ぼされていた。したがって高麗人は蒙古の使用人でしかない。フビライは属国の高麗に鎌倉幕府との交渉を指示した。高麗にとってつらい役目である。

これに対し幕府側には平頼綱、北条宣時らがならぶ。

そして壁一枚をはさんだ隣の部屋には北条時宗と安達泰盛が聞き耳をたてていた。

蒙古側が抗議する。

「われわれは疲れきっている。この鎌倉で二十日も待たされ、その上日本国の主である鎌倉殿に会えないとは。蒙古の使者として面目が立ちませぬ」

平頼綱がせせら笑った。

「その原因は貴公らにある。あの無礼千万な国書を送りつけるとはなにごとか。われわれの返事しだいで武力に訴えるとはどういう意味だ。わが君はいたく立腹されておられる。すみやかに非をわびて帰国されるがよかろう」

高麗の役人が蒙古人に耳打ちした。通訳するためである。そして役人は蒙古側の回答を訳して反論する。

「わが蒙古は、モンゴル高原はもとより漢土、インドシナまでも征服いたし、歴史上もっとも偉大な国となった。わがフビライ皇帝は貴国日本が、われわれによしみを通じるならば歓迎すると申しておられる。これは貴国にとっても有益なことでござろう。すべては鎌倉殿の決断しだい」

時宗が壁一枚をへだて瞑目している。

頼綱がかすかに笑いを浮かべる。

「それは誇張であろう。聞きおよぶところでは、蒙古軍はいまだ中国を支配してはおらぬ。中国の皇帝は江南において抵抗を続けているとのこと。いかが」

高麗の役人が困った顔で蒙古人に告げた。

蒙古人が頼綱をキッとにらみ返す。

頼綱は最後ともいえる口上を吐いた。

「そなたらの魂胆がいずこにあるかは知らぬ。いずれにせよ貴国の皇帝に伝えよ。日本の武士をつかさどる北条幕府は貴国にたいし、なんら返答はしないことを。もしこの処置に不服があれば、一戦を交えるまで」

使節団がすぐさま無言で立ちあがり、客殿を出ていった。

幕府御家人が政所にあつまった。

中心は時宗、ほかに平頼綱、安達泰盛、北条宣時、北条長時らである。彼らは時宗を筆頭に幕府権力をにぎっている。いわゆる主流派だった。

いつの時代でも主流派に反発する勢力は存在する。権力をにぎれず、不平不満でくすぶっている人々である。

反主流派の筆頭は時宗の腹違いの兄、北条時輔その人。彼のわきには名越(なごえ)光時をはじめとした一族がいた。

名越とは鎌倉の地名である。今の鎌倉市大町三丁目から七丁目をいう。ここに光時を筆頭とする名越一族が住んでいた。彼らは本家の時宗とは一線を画す。

主流、反主流にそれぞれ郎従がついている。

この中に日蓮の強信徒、四条金吾がいた。彼の主人は反主流の筆頭格、名越光時である。彼は主人のすぐうしろにひかえていたが、佐渡の流罪中の日蓮上人のことで頭がいっぱいだった。

幕府にとってひさしぶりの大会議といってよい。

頼綱が最後にこう宣言した。

「よって今回の蒙古の国書に対する返事は一切なしと決めた。今後蒙古に対しては情報収集をふくめ、厳戒態勢をしくことになる。おのおの用意せられるよう」

 頼綱が急いで会議を終結しようとしたが、北条時輔がまったをかけた。

「異議あり」

頼綱は時輔をにらんだが執権の兄である。粗末にはあしらえない。

北条時輔は平然といった。

「むこうは礼をもって来日している。ここはわれわれも丁重に返書を出すのが妥当ではなかろうか」

安達泰盛が反論した。

「さりながら武力を匂わす脅しには、屈してはならぬのではないか」

ここで名越教時がすすみでた。光時の弟である。温厚な光時とはちがい、反主流の強硬派として名を知られていた。幕府の方針にたいし、ことごとく反抗した。自然、時宗などの主流派からにらまれている。
 教時は言う。

「それはあくまで蒙古側の国内に向けての強気の姿勢というものでござろう。大人の大局的な判断をもってすれば、今回はせめて一通の文書をもって返答するのがよかろう。ここは時輔様のご意見がもっともでござる。朝廷も同じ判断かと思われまする」

 時輔がにたりとした。

主流派の頼綱、泰盛が身をのりだして教時をにらんだ。呼応して双方の家来が立ちひざになった。

ここで名越光時が片手で教時をさえぎり、おだやかにいう。

「弟は国の将来を心配するあまり、このように声高に申し述べたまで。名越の一族を代表しておわび申しあげる。ここは穏便に話しあおうではないか」

執権時宗も光時と調子をあわせた。

「そのとおり。ここは北条一族の言いあらそいの場ではない。国難に対処する方策を決定する場である。幕府が一体とならねば他国の攻めに対抗はできぬ」

佐渡の守護、北条宣時が呼応した。

「いかにも。だが幸い、わが北条は安泰でござる。若い執権をもり立て、一体となっておる。国内に敵はいない。あの日蓮が百日だとか百五十日に内乱がおきるなどと申しておったが、まったくの笑い草でござった」

嘲笑が場内にひびいた。時輔も笑った。

四条金吾が一人、きびしい顔つきでいる。

評定は終わったが、政所の別室では光時、教時兄弟がにらみあった。そこに同じ兄弟である(とき)(あきら)も加わって険悪な空気になった。三人はいずれも北条朝時を父としたが、年の開きがかなりある。教時は血気盛んな三十八歳、時章は五十八、光時はさらにその上だったという。

彼らの部屋の床下には間者が耳をあて、三人の話を盗聴していた。

兄の光時がきりだす。

「いったいどういうことだ。執権の前であのような言い分は」

教時は傲岸である。

「兄上、鎌倉殿はまちがっておられる。時輔様のいうとおり、ここは返書を差し出して友好をはかり、蒙古との無用な摩擦は避けるべきなのではなかろうか」

次男の時章がとめた。時章は長兄の光時と同じく分別にたけている。地位も高い。筑紫・大隅・肥後の守護として幕府の中枢をになう一人だった。

「教時、われら名越は北条の分家だ。ことあるごとに本家からにらまれている。そのような時に、あのような暴言を吐けば謀反の疑いまでかけられるぞ」

教時は強硬である。

「名越は北条の傍流ではない。やがては幕府の棟梁となる一族なのだ。その時、このわしが・・」

光時が指を口にあてた。

「声が大きい。おぬし、あの席でなぜ時輔様の肩入れをした。あの方は執権の兄上だが、なんの力もない。おぬし時輔様と連絡をとりあっているのか」

床下の間者が耳をすます。

教時が怒りだした。

「とるもとらぬも、わしの勝手じゃ。兄上たちには関係ない。とにかくわしは名越を栄えさせたいのだ。われらは代々朝廷を重んじてきた。その朝廷や時輔様の意見をいってなにが悪い。ええい、もういいわい。兄者にかかわっては、ことが面倒だわ」

教時が出ていった。

のこった光時と時章が暗然として顔を見あわせた。

 名越兄弟の父は北条朝時である。朝時は幕府の基礎を築いた父義時の嫡男だった。当然、北条の筆頭になる資格があった。父の義時は宿敵の和田氏を滅ぼし、承久の変を静めた大政治家として名が高い。その子朝時は嫡男として北条を継ぐ身だったが、粗忽な振る舞いがあったため、父は彼をはずして側室の子である泰時に本家をつがせた。泰時はのちに御成敗式目を制定し、これまた名君とよばれるようになる。

 粗忽な振る舞いとは朝時が若い頃、尼将軍政子の官女に艶書をおくり、密会したことだった。この醜聞が露見して政子の子源実朝の怒りを買い、父の義時にも義絶させられてしまったのである。軽はずみな性格だったのだろう。情緒が安定しない者に本家を継がせることはできない。

さらに悪いことに、この事件によって朝時は伊豆に流罪となってしまった。

当時、朝時の家来は数百人いたが、みな心がわりした。主人の出世が絶たれたと思ったのだろう。みな出ていってしまった。この時代の武士はすぐに主人をかえる。しかしただ一人、家臣の中務頼員(なかつかさよりかず)だけが伊豆の国に供奉した。四条金吾の父である。金吾の家は親子二代にわたり名越家に仕えたことになる。

 こうして以後、北条の本家は義時―泰時―時頼―時宗とつづく血統が独裁権力をにぎった。この血統を義時の戒名にちなんで得宗といった。

泰時と朝時の兄弟は仲が良かったようである。朝時が強盗に襲われた時、泰時が政務をかえりみず、すぐさま救出にいった話は有名である。しかし朝時は嫡男でありながら、最後まで権力の座につけなかった。

おさまらないのが子孫である。

朝時の子の光時、時章、教時三兄弟はことあるごとに本家に抵抗した。

無理もない。

世が世ならば父親が幕府の主人であり、自分たちも幕府を率いる権利があるはずだったのだ。

こうして北条一族の中で主流、反主流ができあがっていった。

 名越兄弟の反目は今にはじまったことではない。

 光時も今でこそおとなしいが、クーデターをおこしたことがある。この企ては北条時頼の制裁により失敗で終わり、光時は蟄居の身となった。時頼が二十歳で執権になってわずか四ヶ月後のことだった。

この時の経緯については海音寺潮五郎の「蒙古の襲来」にくわしい。

この日、だれが言いだしたともなく、合戦がはじまるとて、鎌倉中が物さわがしくなり、町の住民は家財をとりまとめて避難してごったがえし、甲冑武者らがおどろおどろしい馬蹄の音と物の具の音を立て右往左往しはじめたのだ。

これは新執権時頼のいとこ北条光時の野心によっておこった事件であった。光時は前将軍頼経に信任せられていたが、頼経が将軍職をやめさせられて不平満々でいるのを見ると、おそらく頼経と相談の上だと思うが、時頼を討って頼経を復職させ、おのれが執権となろうと企て、同志を募っていたところ、それが漏れたのであった。

時頼はすばやく兵を集めて二手に分け、幕府と自分の邸とを防備させた。迅速で周到な手配りであったので、光時は手も足も出ない。

頼経は不安になって、時頼の許に使者を使わしたが、時頼は、

 「会う必要はござらぬ」

  と追いかえした。

形勢不利と見て、光時と心を通わせていた武士らも寝返りを打って、時頼の許に走る。光時の周囲にはわずかに数十人しかのこらないという情けない有様になった。今は光時は身のおきどころもなくなったので、もとどりを払い、

「わしは北条家の一人、北条家にたいして謀反の心などあろうはずはない。わしに悪意をふくむ者が、わしに密謀があるといううわさを立てたのであろうか。しかし、今となっては申しひらきの手だてもないゆえ、わしは今日より武門をすてて仏門に入る」

と言う口上に、もとどりをそえて、時頼の許にさし出した。時頼は光時の罪一等を減じて伊豆へ流し、また三浦光村を護送役として、頼経を京に送り返すことにした。

名越家は親子二代にわたり伊豆に流されたことになる。日蓮が比叡山で修行にあけくれていた二十五歳のことだった。

また弟の教時は京都からきた将軍を執権にかわって立てようとして失敗している。これはわずか六年前、日蓮が四十四歳のことである。

いきさつをいうと、幕府は将軍宮の宗尊親王を廃してその子惟康を将軍とした。惟康はわずか三歳であった。

この時、名越教時は幕府の方針に反対し、きびしく武装した数十騎で鎌倉の町を示威行動した。かれは薬師ヶ谷の邸から塔の辻まで行進したので、鎌倉の騒ぎは尋常ではなかったという。

時宗は使者を使わして引き取るように命じたが、教時は少しも陳謝することなく、態度まことに傲岸であった。このときも戦いにはいたらず、なんとかおさまった。

名越は北条一族の中で反逆の巣だった。

時宗は名越が北条の血をひくからといって今までのように甘やかしてはいられない。幕府を存続させる以上、権力は集中させねばならない。時宗の分身ともいえる平頼綱が反逆する分子の壊滅をはかっていた。

一族の分裂は幕府の弱体につながる。今のうちに反目する名越をなんとしてでも弱体化させねばならい。なによりも心配なのは外様の御家人が名越家について、いつ反旗をひるがえすかわからないことである。時宗にとって、蒙古とともに頭の痛い問題った。

 こう書いていくと、現代の政党政治における派閥の権力闘争と大差がない。ただちがうのは、いったん闘争となれば一族もろとも命がないことだった。

 

北条光時が腹立たしい面構えで政所を退出した。

配下が出迎える。

光時が馬にのった。

ここで彼は四条金吾をよんだ。

「金吾、おぬしはまだ日蓮の教えを信じているのか」

四条金吾は光時のいきなりの問いかけに戸惑いが隠せない。

光時が追打ちをかけた。

「みなの者に笑い者にされて、なんとも思わぬか。そうか。そうだったな。おぬし日蓮が首斬られんとしたとき、腹を切ろうとしたとか。まったく。主君のわしと日蓮と、どちらが大切なのだ」

金吾が腹から押し絞るように一言発した。

「殿、くらべることはできませぬ。いずれが大切とかは・・」

「よい、わかった。おぬしはこれから伊豆に行け。鎌倉からはなれて伊豆の館でおとなしくしていろ」

同僚たちがほくそ笑んだ。ライバルの失態は心地よい。金吾は法華経の信心もさることながら、主君光時なにかにつけ金吾に肩入れしていることで、妬まれていたのである

執権北条時宗は窓ごしに去っていく名越光時の背中を見ていた。

時宗の横には平頼綱、安達泰盛がひかえる。

御内人の頼綱がつぶやいた。

「北条の一族でありながら、名越の奴ら、ことごとく執権に反抗しおる。いずれは一戦を交えねばならぬかもしれませぬな」

時宗がたしなめた。

「不吉なことを申すな。光時殿はわたしの叔父上であり有力な分家だ。蒙古と事あれば働いてもらわねばならぬ」

時宗の妻が妹という、外戚の泰盛も心配顔だった。

「それにしても気がかりでござる。時輔様が公家に接近しているとの噂もございます。さらにあの名越一族が時輔様と結託すれば一大事でござる。承久の乱の二の舞になる危険もありますぞ」

 時宗は即座に否定した。

「時輔兄はそのような方ではない。余は弟の身として執権になったが、今でも兄上を慕っている」

 頼綱の眼光がするどい。

「しかし権力とは人を誤らせるもの。時輔様の取り巻きがだまっていますまい。あの名越や京都の公家どもが、たきつけてくるともかぎりませぬぞ」

ふだん対立してばかりの泰盛と頼綱の意見が一致している。時輔は共通の敵であり、名越一族がいる以上、自分の安泰がないからである。

時宗がここでもらした。

「そのほうら、わしに戦をけしかけようというのか」

泰盛があわてた。

「めっそうもございませぬ。さりながら万が一に備えて、ぬかりなく手配いたしております。すでに名越の屋敷と時輔様の京都六波羅には間者を放ちました」

時宗が腕をくみ、これから間違いなくやってくるであろう苦難に思いを馳せた。

名越光時の騎馬群が都大路をすすむ。

四条金吾が馬をとめて列からはなれた。

彼は北の山々を見つめてつぶやいた。

「日蓮上人、ご無事でいてくだされ。必ず佐渡に参ります

佐渡はあいかわらず吹雪いていた。

どんよりくもる空が落雷で音をたてる。真昼というのに夜のように暗い。

この雪の原野に日蓮と弟子が暮らす塚原三昧堂があった。屋根も壁も豪雪に包まれていた。

眼下に本間重連の屋敷が見える。重連の屋根からは黒々とした煙がながれていた。

日蓮一行の困窮はつづく。

北国の習ひなれば冬は殊に風はげしく雪ふかし。衣薄く食ともし。根を移されし(たちばな)の自然にか()たちとなりけ( )も、身の上につみしられたり。(すみか)にはばな(尾花)かる()()やおひしげれる野中の御三(まい)ばらに、おちやぶれたる草堂の、上は雨もり壁は風もたまらぬ(かたわ)らなり。昼夜耳に聞く者はま()らに()ゆる風の音、朝暮に眼に(さえぎ)る者は遠近(おちこち)の道を踏む雪なり。現身に餓鬼道を()、寒地獄に堕ちぬ。彼の()()(注)が十九年の間、胡国に留められて雪を食し(りりょう)()(注)が厳窟(がんくつ)に入って六年(みの)をきてすごしけるも我が身の上なりき。   『法蓮抄

からたち(枳)は中国原産のミカン科の落葉低木である。中国原産で高さ二~三メートルになる。晩春に白い花を開き、秋に実をつける。また南橘(なんきつ)(ほっ)()といわれ、江南の橘も江北に移せば枳となるという中国のことわざがあった。自然は人をも変える。

仏法に「依正不二」と言う法門がある。依報つまり環境と正報つまり衆生は相互に影響しあい二つにして二つに非ずとする。自然は人に影響をあたえる。人もまた自然に影響力を及ぼすとする。

三昧堂の中では弟子が囲炉裏に薪をいれ、鍋をおいた。

日蓮は早朝から経机に向かい、しきりに書きものをしている。

伯耆房が桶に雪をつめて帰ってきた。

若い弟子が伯耆房の蓑についた雪をはらった。

伯耆房は桶の雪を一片一片とりだして鍋にいれた。

雪が鍋の中でとけだし、湯となってあふれてくる。弟子が菜を鍋にいれてへラでかきまわす。そして味噌を入れ椀にもり、日蓮のそばにおいた。主食はわずかな豆だった。

日蓮はひたすら筆を走らせていた。

伯耆房たちが汁をすすりはじめるが、日蓮は背中をむいたままである。

伯耆房が声をかけた。

「上人、食事でございます。根をつめますとお体にさわります。どうかいっとき休まれて食をなされては・・」

日蓮がにこやかにふりむいた。

「すまんな。わかっているが筆が止まらない。明日はどうなるかわからぬ身だ。それを思うと、今すぐにでも書き上げたくなるのだ」

日蓮は弟子たちを見つめた。

「お前たち、ここまでついてきたことに礼をいうぞ。だがそろそろ我慢の限界であろう。食はとぼしい。危険もある。これからはわたし一人で、どうにかやっていける自信がついた。おまえたちは鎌倉へ帰るがよい。いままでご苦労であったな」

 意外な言葉であった。

 伯耆房がすすみでた。

「上人、わたしは上人と命をともにする覚悟でございます。上人について題目を唱え、難にあい、地の果てまでまいりました。いまさら帰れなどとおっしゃられても困ります。どこまでもついてまいります。お覚悟を」

ほかの弟子もつづく。

「わたしは足手まといにはなりませぬ。自分で食べるくらいのことはできます。どうかご一緒に」

「上人様、なにを今さらそのようなことを仰せでございますか。自分の命は上人様にあずけております。どうかお共を」

「自分もです」

「わたくしも」
 日蓮はしみじみと答える。

「承知いたした。いかにも今度信心をいたして法華経の行者にて通り、日蓮が一門となり通し給うべし。日蓮と同意ならば地涌(じゆ)菩薩たること疑いはなからん。おのおの方、真にたのもしく思うぞ()()()

日蓮が椀の汁を口にふくみ、おどけた。よほどうれしかったのだろう。

「おお、だいぶ味がよくなったぞ。学問はすすまなくとも、味のほうはうまくなっておるな」

日ごろ厳しい師匠の軽口に思わず座がなごむ。

日蓮は執筆に全神経を集中した。

流罪の身であり軟禁されてはいたが、逆にいえばまたとない著述の機会である。鎌倉にいたころは立正安国論による国家(かん)(ぎょう)、弟子信徒の教化にあけくれた。念仏・真言・禅らの他教と法華経の勝劣を記した法門は書き残していたが、日蓮自身が獲得した法門は内証に留めていた。したがってこの逆境を大いに生かさなければならない。

竜の口の法難は、日蓮の生涯に極めて重大な転機をもたらした。日蓮は自身が仏法の正当性を書き記す使命のあることを明瞭に覚知した。これを未来につづく弟子・信徒のためにのこさなければならない。構想はつぎからつぎにわき、筆が休まる暇はまったくなかった。

鎌倉にいるときは自身の心中を説かずにいた。国主がこの妙法をたもてば、国主の前で諸宗と対決することがあるだろう。そのときまでと、胸のうちにしまっていた。それほどこの仏法は深い。ありのまま説けば、弟子でさえ疑いをいだきかねなかった。しかしこのままでは信徒は迷うばかりである。未来の弟子は自分を無慈悲となげくだろう。竜の口の瞬間から、いよいよ秘していた内証をあかす時がきた。

日蓮はこのことを三沢小次郎の手紙にしるしている。小次郎は当時、三沢(静岡県富士郡)に住む領主だった。日蓮はこのなかで、佐渡以前の教えは(かり)であり、仏(釈尊)の)(ぜん)経(法華経以前に説いた経・注参照)とおなじであるといいきっている。


又法門の事は()()の国へ流され候ひし以前の法門は、たゞ仏の爾前経とをぼしめせ。此の国の国主、我をもたもつべくば真言師等にも召し合はせ給はんずらん。()の時まことの大事をば申すべし。弟子等にも()()ひ申すならばひろう(披露)してかれら( 知)りなんず。さらばよも()わじとをも()ひて各々にも申さゞりしなり。而るに去ぬる文永八年九月十二日の夜、たつの口にて頸をはねられんとせし時よりのち()ふびん(不便)なり。我につきたりし者どもに、まことの事を()わざりけると()もうて、さどの国より弟子どもに内々申す法門あり。此は仏より後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・()(しん)等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給ひて、口より外には出だし給はず。其の故は仏(せい)して云はく、我が滅度末法に入らずば此の大法いうべからずとありしゆへなり。日蓮は其の御使(おつか)ひにはあらざれども其の時剋(じこく)にあたる上、存外(ぞんがい)に此の法門をさとりぬれば、聖人の出でさせ給ふまでまづ()序分にあらあら申すなり。而るに此の法門出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光、(たく)()の後に(つたな)きを知るなるべし。此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて、(ただ)此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候。各々はかゝる法門にちぎり有る人なればたの()もしとをぼしめすべし。『三沢抄

鎌倉の弟子の中には日蓮がすでに亡くなったと思っている者もいよう。たとい生きたとしても、鎌倉の許しがなければ帰れない身である。なおさら筆に力がはいった。

日蓮は佐渡に着いてすぐに三万五千六百三十八文字にも及ぶ、自身最長の大著「開目抄」の執筆にとりかかり、わずかニケ月で書き上げた。その気迫は門下に遺言を残すかの如く、ただならぬものがあった

日蓮といゐし者は、去年(こぞ)九月十二日()(うし)の時に(くび)はねられぬ。此は魂魄(こんぱく)佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁(うえん)の弟子へをくれば、を()ろしくて()()しからず。()ん人、いかにをぢ()ぬらむ。(これ)は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国、当世をうつし給ふ明鏡なり。かた()()ともみるべし。『開目抄下


                四十、退転する弟子たち につづく


中巻目次



 

 蘇武

 建元元年(紀元前一四○)?~神爵二年(紀元前六十)。中国・前漢の武将。(あざな)()(けい)。武帝の時、中郎将となり、天漢元年(紀元前一○○)匈奴に使いした。匈奴の王は、彼を降伏させようとしたが応じなかったので、穴牢に幽閉し飲食させなかった。数日の間、蘇武は雪と衣類を食べて生きのびたため、匈奴の人は驚き恐れて北海の辺地へ流し、羊を飼わせ、羊が子を産めば返してやろうといった。数年後、李陵が匈奴へ(くだ)ったが、蘇武はその説得にも屈せず、漢への忠誠を誓った。昭帝の代となり、漢と匈奴の和解が成立し、蘇武を返還するよう求めたが匈奴は、彼は死去したといつわった。その時、蘇武の家来が(ひそ)かに漢使に教えて「帝が都近くで雁を射とめたところ、足に帛書があり、彼が某沢に在ると書いてあった」といわせたところ、匈奴王もついに蘇武を帰すことにした。この間十九年、ついに節を曲げずに漢に忠誠を尽くしたので、名臣と後世に知られている。

 李陵

 ?~天平元年(紀元前七四)。中国・前漢代の武将。李広の子。字は(しょう)(けい)(ろう)西(せい)(甘粛省奉安県)の人。漢書巻百九によると、天漢二年(紀元前九九)自ら願って五千の兵を(ひき)、匈奴と戦ってよく撃破したが、ついに匈奴に(くだ)った。武帝は怒ってその一族を誅した。陵を弁護した司馬遷が帝の怒りにふれて宮刑に処せられた話は有名。陵はその後、匈奴の単于(ぜんう)(王)の娘をめとって右校王となり、二十余年を匈奴で過ごし病死した。

()(ぜん)(きょう) 

 釈尊一代の聖教を30歳で成道してから42年間の説法=()(ぜん)経と、72歳から80歳で滅後するまでの8年間に説いた法華経とに分ける。


 法華経と爾前経が決定的に相違する点が二つある。

 一、爾前経では「()(じょう)正覚(しょうかく)」といい、釈迦族の王子ゴーダマシッタルダが十九歳で出家、バラモンの難行苦行をへて菩提樹(ぼだいじゅ)のもとに端坐(たんざ)、六年間瞑想(めいそう)し三十歳で覚知し仏になったと説いている。しかし釈尊は、法華経の如来寿量(じゅりょう)(ほん)第十六で「始成正覚」を打ち破り、はるか昔(久遠(くおん)元初(がんじょ))に仏になり、衆生を仏道へと導いてきたと説いた。


 以下 妙法蓮華経如来寿量品第十六の該当する():

「皆謂今釈迦牟尼仏出釈氏宮去伽耶城不遠 坐於道場得阿耨多羅三藐三菩提 然善男子我実成仏已来無量無辺百千万億 那由佗劫<>自従是来。我常在此娑婆世界。説法敎化。亦於余処。百千万億。那由佗。阿僧祇国。導利衆生。

 和訳:皆は今の釈迦()()仏は釈氏の宮を出て、伽耶(がや)城を去ること遠からず、道場に座して阿耨(あのく)多羅(たら)三藐(さんみゃく)(さん)菩提(ぼだい)(仏の悟り)を得たりと(おも)えり。(しか)るに善男子よ、我はすでに無量無辺百千萬億那由佗(なゆた)(こう)という(はる)か昔(久遠元初)に仏になっていたのだ。<>これより(仏なって)以来、我は常に娑婆(しゃば)世界にいて衆生を説法教化してきた。また他の仏国土に()いても、百千万億那由佗阿僧祇(あそうぎ)(無数の)国で衆生を導いてきたのだ。


二、爾前経では悪人、女人、二乗は成仏できないと釈迦に宣言されていた。

 二乗について: 知恵第一といわれた舎利(しゃり)(ほつ)、縁覚第一といわれた(もっ)健連(けんれん)(声聞、縁覚)は仏の悟りと比べ小さな理解、小さな覚知で満足し、それ以上を求めないため仏道を成就することができないと釈尊に責められていた。

 しかし法華経では、方便品第二ですべての衆生に仏性があることが説かれ、比喩(ひゆ)品第三で、釈迦から舎利弗が将来華光(けこう)如来になると記別(きべつ)を受け、提婆(だいば)(だっ)()品第十二では、釈迦を毒殺しようとして自らに毒が回って大地が()れ、地獄に落ちたと言われている提婆達多が天王(てんのう)如來となる記別を受け、また竜女(りゅうにょ)も即身成仏をする。さらに勧持品(かんじぼん)第十三で、釈尊の養母で最初に出家を許された女性である摩訶(まか)波闍(はじゃ)波提(はだい)比丘尼(びくに)が一切衆生喜見(きけん)如来の記別を受け、また釈迦が釈迦族の王子の時の妻、耶輸(やしゅ)()()比丘尼が具足(ぐそく)千万光相如来の記別を受け、みな将来に成仏することを宣言され、すべての衆生が仏心を成就(じょうじゅ)できると説いた。


妙法蓮華経方便品第二の該当する偈 

唯以一大事因縁故。出現於世。諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清淨故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舍利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。

和訳:諸仏と世尊(釈迦)は、衆生をして仏知見(仏性)を開かせ、清浄なることを得させ、仏知見を示し、仏知見を悟らせ、仏知見に入らせるという、(ゆい)一大事の因縁によってのみ、この世に出現したのだ。



by johsei1129 | 2017-07-15 14:15 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
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