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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 09月 19日

九十四、南条一族の病魔

甲斐は山にかこまれ塩がない。塩がなければ日々食べるものも味もなく、味噌もつくれない。味噌は当時の必需品である。熟した大豆や麦に塩と(こうじ)をまぜて発酵させた。

疫病が蔓延していた。

食生活が変調をきたせば病魔がおそってくる。死活問題だった。このあと三百年たった戦国時代でも、同じ甲斐の武田信玄が塩不足で苦しんでいる。海辺から遥か離れた山あいならではの苦難があった。
 正月からの雨は七月に入って大雨となり、身延山中の日蓮の草庵に通じる道を遮断した。こまったことに塩が手にはいらない。

二十二歳になった時光は窮状を察して塩を身延におくりとどける。

塩一駄・はじ()かみ()送り給び候。

(こがね)多くして日本国の(いさご)のごとくならば誰かた()らとして、()このそこ()におさむべき。(もち)多くして一閻浮提の大地のごとくならば、誰か米の恩をおも()くせん。今年は正月より日々に雨ふり、ことに七月より大雨ひま()なし。このところは山中なる上、南は波木井河、北は早河、東は富士河、西は深山なれば、長雨・大雨、時々日々につゞく間、山()けて谷を()づみ、石ながれて道をふせ()ぐ。河たけ()くして船わたらず。富人なくして五穀()もし。商人なくして人あつ()まる事なし。七月なんどは()ほ一升を銭百、しほ五合を麦一斗に()へ候ひしが、今はぜん()たい()しほなし。何を以てか()うべき。みそ(味噌)()えぬ。小児(しょうに)()しの()ぶがごとし。かゝるところにこのしほを一()給びて候。御志、大地よりもあつく虚空よりもひろし。余が言は力及ぶべからず。たゞ法華経と釈迦仏とにゆづ()りまいらせ候。事多しと申せども紙上にはつくしがたし。恐々謹言。『上野殿御返事:塩一駄御書』

塩一升の価格がつりあがり、百文するという。百文あれば米一石(一八○リットル)が手にはいった時代である。庶民には手がだせない。

日蓮は時光の志を称えるとともに、さらなる強い求道心をうながす。

かつ()へて食をねがひ、(かっ)して水をしたうがごとく,恋ひて人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごとく、みめ()()ちよき人、べに()しろいものをつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給へ。さなくしては後悔あるべし。『上野殿御返事

恋人に会いたいと想う気持ちのように、法華経には信心をしなさいといっている。

彼が二十三歳の時、熱原の法難がおきた。

時光は地元の代表として伯耆房日興とともに法難の矢面に立った。

彼は熱原の百姓を応援し、なりふりかまわず正法の徒を援助しつづけた。母も妻も弟の五郎も必死であった。放免された百姓十七人を引きうけたのは時光である。そのほか事件にかかわった人々をかばいつづけた。

日蓮は、時光が信徒を守るために獅子奮迅する姿を称え、手紙をとどけた。その直筆の断簡が日蓮正宗総本山大石寺に今も残る。

願はくは我が弟子等、大願ををこせ。去年(こぞ)去々(おと)(とし)やく()びゃ()うに死にし人々のかずにも入らず、又当時(もう)()()めに()ぬかるべしともみへず。とにかくに死は一定なり。其の時のなげ()きは()()のごとし。をなじくはかり()にも法華経のゆえに命をすてよ。つゆ()を大海にあつらへ、ちり()を大地にうづむとをもへ。法華経の第三に云はく「願はくは此の功徳を以て(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。恐々謹言。

十一月六日          日蓮花押

上野賢人殿御返事

これはあつ()わら()の事のありがたさに申す御返事なり。

宛先に上野賢人殿とある。日蓮は最初、聖人としるした。しかし時光の慢心をおそれたか、聖の文字を消して賢と書きなおしている。

日蓮の心配は杞憂だった。

時光は日蓮の薫陶をうけて、いよいよたくましい青年となっていく。

こうして万事順調と思われたさなか、突然の悲報がおそった。

熱原法難の翌年の弘安三年九月五日、弟の南条五郎が亡くなったのである。

五郎はわずかに十五歳だった。病死とされているが、あまりにも突然だった。

この二か月前、五郎は時光とともに身延山にのぼり、日蓮と対面したばかりだった。日蓮は若い兄弟を丁重にもてなし、よろこびもひとしおだったのだ。

人生ははかないというが、いざ身近な人々が亡くなると衝撃よりも脱力感におそわれる。日蓮はなによりも、幼き我が子を突然失った母尼御前を察した。日蓮は自身の心境を素直にしるす。

南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生まれて死するなら()いとは、智者も愚者も上下一同に知りて候へば、初めてなげ()くべし、をどろくべしとわをぼ()えぬよし、我も存じ人にも()しえ候へども、時に()たりてゆめ()かま()ろしか、いまだわ()まへがた()く候。まして母のいかんがなげかれ候らむ。父母にも兄弟にもをくれはてゝ、い()をしきを()こにすぎわか()れたりしかども、子どもあまた(数多)をはしませば、心な()さみてこそをはし候らむ。い()をしき()こゞ(児子)、しかも()()ゞ、みめ()()ちも人にすぐれ、心もかいがいしく()へしかば、よその人々もすゞしくこそみ候ひしに、あやなくつぼ()める花の風にしぼみ、満月のにわ()かに失せたる()がごとくこそ()ぼすらめ。まことゝもをぼへ候はねば、()つく()るそらもをぼへ候はず。又々申すべし。恐々謹言。

九月六日          日蓮花押

上野殿御返事

追伸。此の六月十五日に見(たてまつ)り候ひしに、あはれ(きも)ある者かな、男なり男なりと見候ひしに、又見候はざらん事こそかな()しくは候へ。さは候へども釈迦仏・法華経に身を入れて候ひしかば臨終目出たく候ひけり。心は父君と一所に霊山浄土に参りて、手をとり頭を合わせてこそ悦ばれ候らめ。あはれなり、あはれなり。 『上野殿御返事(弔慰御書)

母尼の嘆きは日蓮が心配したように、とりわけ深い。五郎は夫が亡くなった時、お腹にいた子だった。若くして夫に先立たれ、いま最愛の子を失った。女人にとってこれほどの悲しみがどこにあろう。

我が子を失い悲嘆にくれる母尼御前に、人並みの激励や説法ではその心を癒すことはできない。絶望した母の心中にわけいり、その気持ちをくみとって一体となるしかない。母尼の嘆きは日蓮の嘆きなのだ。彼女の苦しみは日蓮の苦しみなのだ。日蓮は「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是日蓮一人の苦なるべし」(御義口伝)と説いている。

南条五郎の四十九日がきた。

日蓮は、四十九日を迎えるこの時期なら母もすでに出家して尼となっており、気持ちも落ち着いて法門の話も素直に聞けるだろうと見計らい、尼御前に手紙をしたためたと思われる。

(そもそも)故五郎殿かくれ給ひて既に四十九日なり。無常はつねの習ひなれども此の事うち()く人すらなを()しの()びがたし。いわ()うや母となり妻となる人をや。心のほど()()かられて候。人の子には()さなきもあり、をとなしきもあり、み()くきもあり、かたわ(不具)なるもあり、をもいになるべきにや。をのこ(男子)ゞたる上、かたわにもなし、()()にもさゝ()()なし、心も()さけあり。故上野(こうえの)殿(どの)には盛んなりし時、()くれてなげき浅からざりしに、此の子をはら()みていまださん()なかりしかば、火にも入り水にも入らんと思ひしに、此の子すでに平安なりしかば、誰にあつらへて身をも()ぐべきと思ひて、此に心をなぐさめてこの十四五年はすぎぬ。いかにいかにとすべき。二人のをのこ(男子)ゞにこそにな()われめと、たのもしく思ひ候ひつるに、今年九月五日、月に雲をかくされ、花を風にふかせて、ゆめかゆめならざるか、あわれひさ()しきゆめ()かなとなげ()()り候へば、う()ゝに()て、すでに四十九日()せすぎぬ。まことならばいか()んが()せんいか()んが()せん。()ける花はちらずして、つぼめる花の()れたる。()いたる母はとゞまりて、わか()()()りぬ。なさ()()かりける、無常かな無常かな。かゝるなさけなき国をばいと()()てさせ給ひて、故五郎殿の御信用ありし法華経につかせ給ひて常住(じょうじゅう)不壊(ふえ)のり()う山浄土へまいらせさせ給え。ちゝ()はりゃうぜんにまします。母は(しゃ)()にとヾまれり。二人の中間にをはします故五郎殿の心こそ、をもいやられてあわ()れにをぼへ候へ。事多しと申せどもとヾめ候ひ了んぬ。恐々謹言。

  十月二十四日       日蓮花押

 上野殿母尼御前御返事


     九十五、時光の蘇生 につづく


  下巻目次

 



by johsei1129 | 2017-09-19 21:36 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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