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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 07月 22日

五十八、日蓮、身延山中へ入る

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五月の晴れわたる空の下、日蓮と弟子の日向(にこう)街道を歩いていた。

二人が汗をふきながら長い道をゆく。

日蓮は鎌倉を西に出て、駿河をぬけ甲斐にむかった。

甲斐には波木井(はきり)(さね)(なが)という地頭がいる。日蓮はこの波木井のもとに身をよせるつもりだった。波木井は伯耆房(ほうきぼう)()(どう)した人物である。まちがいはなかろう。鎌倉を去った今となって、この地頭をたよるしかなかった。

日蓮は酒匂(さかわ)(小田原)をとおり、箱根の坂を避けて北上し竹ノ下についた。ここを南下して富士を右に見なが車返(くるまがえし)(沼津)に着く。ここから西にすすみ、富士宮をとおり甲斐にはいった。富士山の南を半周する道のりである。

駿河は日蓮の信徒が多く住む。行けばかならず歓待されるはずだった。だが日蓮は会おうともせずに素通りした。

駿河に長くはいられない事情があった。この土地は北条時宗の管轄であり、ことに富士の一帯は幕府御家人の後家尼御前の所領が多かったのである。彼女たちは日蓮を目のかたきとし、法華宗の信徒を白い目でみていた。日蓮が来たとわかれば、ひと騒ぎはかならずおこる。駿河の信徒をまきぞえにはできなかったのである。

その駿河の信徒、高橋入道にあてた手紙がのこる。高橋は賀島(富士市)に住んでいた。妻は伯耆房日興の叔母である。強信者であり富士地方の中心的な存在だった。日蓮はこの高橋にも会わずに通りすぎた。

のちに高橋入道にあてた手紙の中で、佐渡から鎌倉に帰り、幕府に諫言して鎌倉を去った様子をしるしている。くわえて日蓮は駿河を素通りする時の苦しい胸の内をしるす。

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 たす()けんがために申すを(これ)程まであだ()まるゝ事なれば、()りて候ひし時()()の国よりいかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども、此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候ひき。又申しきかせ給ひし後はかまくらに有るべきならねば、足にまかせていでしほどに、便宜(びんぎ)にて候ひしかば、(たと)ひ各々はいと()わせ給ふとも、今一度はみたてまつらんと千度(ちたび)()もひしかども、心に心をたゝかいてすぎ候ひき。そのゆへはするが(駿河)の国は(こう)殿(どの)の御領、ことにふじ(富士)なんどは後家尼ごぜんの内の人々多し。故最明寺(さいみょうじ)殿・極楽寺殿の御かたきといきどをらせ給ふなれば、きゝつけられば各々の御なげ()きなるべしとをもひし心(ばか)りなり。いまにいたるまでも不便(ふびん)をも()ひまいらせ候へば御返事までも申さず候ひき。 『高橋入道殿御返事

「心に心をたゝかいて」とある。弟子檀那の期待に反し、駿河を通りすぎるのは苦渋の選択だった。

日蓮と弟子日向(にこう)は木陰で休んだ。

すでに駿河をとおり甲斐にはいった。国主に見放され、さまよう身である。さすがに疲労の色がこい。

日向が近くの農家で銭をさしだし、米と交換をたのんだがことわられた。
 百姓はみな冷たく言った。

「飢饉でな。売る米はないのじゃ」

日向があきらめてかえってきた。

「困りました」

 日蓮がはげます。

「よいのだ。がまんしよう。伯耆房が待っている。急ごう」

 日向が聞いた。

「身延の波木井(はきり)殿は上人をうけいれてくれるのでしょうか」

「わからぬ」

日蓮は鎌倉にいる富木常忍に消息を書いたあと、気弱に立ちあがった。

消息の内容は、身延までの詳しい日程を記すとともに、米が手に入らず、飢え死にしそうだと率直に窮状を訴えている。

()かち()申すばかりなし。米一合も()らず。がし(餓死)しぬべし。此の御房たちもみな( 帰)へして(ただ)人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給へ。

十二日さかわ(酒匂)、十三日たけ()した()、十四日くるまがへし、十五日を()()や、十六日()()、十七日この()とこ()ろ。いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中心中(しんちゅう)に叶ひて候へば、しばらくは候はんずらむ。結句(けっく)は一人に()て日本国を流浪(るろう)すべき()にて候。又たちとゞまるみならばげざん(見参)に入り候べし。恐々謹言。

十七日         日蓮花押

ときどの                『富木殿御書

富木常忍は日蓮より六歳年上で、立宗宣言の年に入信している日蓮門下最古参の信徒であった。その意味で日蓮は、常忍への消息には率直にその時々の自身の心情を包み隠さず吐露されている。あるいは日蓮は常忍に対しては、師と弟子という外用()の関係を超えた、法友という思いが強かったのではないかと思われる。


鎌倉の町は兵士でごったがえした。蒙古と戦いうため、はるか筑紫へ行く兵士である。

整列した兵隊が甲冑をまとった武将を先頭に出発していく。

妻子や老いた親がむらがり、別れを惜しんだ。兵士も涙にくれるが引きはなされていく。

軍馬がだんだんと遠ざかる。

妻子と眷属はいつまでも見送っていた。

軍馬の列が街道につづいた。

日蓮は沿道でその姿をながめていたが、やがて背をむけるように山中に入っていった。

甲斐の道はうっそうとした林におおわれていた。日蓮が杖をとり登っていく。

すでにその衣は長旅で汚れきっている。すすむ道沿いに渓流の音、野鳥の鳴き声が響きだした。鹿や猿があらわれては消えた。世間とは隔絶した世界だった。

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甲斐身延は四方の山に囲まれたせまい平地だった。

武家の屋敷らしい建物が二三あるほかは、数件の百姓家があるだけである。人里はなれた秘境だった。

伯耆房が日蓮を見つけて駆けてきた。

「上人」

日蓮が目をほそめた。

「伯耆房、またせたな。ご苦労だった」

「お疲れでしたでしょう、さ、こちらでございます」

武家屋敷の主、波木井(さね)(なが)が一族とともに出むかえた。

伯耆房が紹介した。

「こちらが地頭、波木井実長殿でございます。波木井殿は以前、法華経の説法をしたおり、入信されました。このたびは上人様が甲斐にこられるとお聞きになり、ぜひお招きしたいと申されました」

実長が頭をさげた。

「波木井六郎実長でござる。このたびは人里はなれたこの地へ、よくぞおいでになられました。ゆっくりとおすごしくだされ」

話す口調に高慢の響きがある。

「かたじけのうございます」

日蓮は深々と頭をさげた。それはいままで、だれにも見せたことのない姿だった。そしてまわりの山をながめた。

「この場所はわたくしの心にかなっている心持ちがいたします。波木井殿、どこでもよろしい、一軒家をお借りできないでしょうか」

実長がこたえる。

「一軒家でございますか。それは困りましたな・・そうじゃ。使っておらぬ屋敷があったな。古くてもよろしければ」

日蓮がまた深く頭をさげた。

実長が従者に指示した。

「上人様をお連れ申せ。長旅でお疲れのご様子じゃ。ゆっくりと休んでいただこう。さあどうぞ」

日蓮の一行が従者につられ、そのあとに実長がついていく。

地頭の大屋敷から半里ばかりの林だった。後方を大木に囲まれた古い家がある。

伯耆房と日向が暗然としてうらぶれた家屋を見あげた。二人は戸を開いて中を見たが、板敷にひびがはいり、壁にもよごれがしみついている。鎌倉の真新しい屋敷とは正反対だ。いやでも佐渡の三昧堂を思いだした。

実長は自嘲気味だった。

「いや失礼いたした。長年ほおっておいて、思ったよりいたんでおりますな。地頭とはいえ、やりくりはままなりませぬ。年貢をとるのも一苦労でしてな。家の普請も満足にできぬ。高名な上人にとって、このようなところはふさわしくないでしょうな」

日蓮は意外にもにこやかだった。

「いえ、これはよい屋敷ですぞ。ありがたし。しばらくここを借りて修行させてくださらぬか」

伯耆房と日向がおどろいて互いを見た。

実長が笑う。

「ご自由にどうぞ」

波木井という名は甲斐国身延の別名である。波木井氏は名を南部氏ともいった。甲斐の南端の地の意味である。

波木井実長の先祖は波乱に富んでいる。

血筋は河内源氏である。十一世紀なかばに奥州でおこった前九年の役(一〇五一~一〇六二)、後三年の役(一〇八三~一〇八七)で勝利をおさめた源義光が先祖となる。義光の兄は八幡太郎義家。この義家から五代目が鎌倉幕府を開いた源頼朝となる。

いっぽう弟の義光は後三年の役後、常陸守、甲斐守と昇進し、これがきっかけとなって一族は甲斐に根をおろすことになった。

義光の孫には甲斐国守護となる武田信義がおり、弟の遠光は源頼朝の挙兵に参加し、石橋山の戦いで奮戦している。

波木井氏の初代光行はこの遠光の三男だった。所領は富士山の西側のふもと、富士川の右岸の南部領だったので波木井は南部とも名のるようになっていく。

光行はまたのちの東北南部藩の初代といわれる。彼は源頼朝や北条につかえ、その功により陸奥(青森県)の一部を所領とした。彼の子孫は東北で領土をひろげ、のちの南部藩を築いていく。

日蓮を身延山中にむかえた実長はこの光行の三男であった。
 なお日蓮は文永十一年五月十七日に身延・波木井に到着しているが、その一ヶ月後の六月十日に小さな庵室を新たに設けたことが御書に記されている。
 

去文永十一年六月十七日に、この山のなかに、()をうちきりてかりそめにあじち(庵室)をつくりて候いしが、やうやく四年がほど、はし()くち()かき()かべ()をち候へども、なを()す事なくて、よる()()をとぼさねども月のひ()りにて聖教をよみまいらせ、われ()と御経を()きまいらせ候はねども、風を()づから、()()へしまいらせ候いし  庵室修復書



             五十九、蒙古襲来 につづく


中巻目次


  

 外用(げゆう)

仏・菩薩などが、衆生の機に応じて現す働き、姿。内証の対比語。

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by johsei1129 | 2017-07-22 18:47 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)


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