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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 09月 18日

七十九、伯耆房日興、評定対決

夜が更け、月がのぼる中、百姓を乗せた籠が鎌倉の平頼綱邸にはいった。屋敷は幕府の高官らしい広壮な門構えだった。

暗い空の下で二十人はやっと籠から解き放たれた。そしてすぐさま庭に並ばせられる。みなこれからどうなるのかと不安な表情を隠せないでいた。それもそのはずだ。百姓たちは熱原の地を一歩もはなれたことがなかった。くわえてよろい兜で武装した大勢の兵士がとりかこんだのだ。

神四郎が強引な逮捕に抗議した。

「われらは百姓にございます。なにゆえにこのような乱暴をされるのか。天下を支える百姓をなんとするのですか」

兵士は石のように答えない。

この時、平頼綱があらわれた。兵士が片膝をついて敬礼をする。

百姓は思わず土下座した。百姓にとって頼綱は、話には聞いていた地獄の閻魔大王のように見えた。

頼綱は百姓を見る目ではなく、罪人を見る目に変わっていた。百姓は一目頼綱を見ると、その形相に恐れを抱き、うずくまるだけだった。

「こやつらを牢にいれておけ。水以外、なにもあたえるな。二三日でころぶであろう。日蓮の負けだ」

頼綱は兵士に百姓全員の投獄を言いつけると不気味に笑いながら去っていく。

熱原の百姓二十人は直ちに土牢に投獄された。

彼らは格子にしがみついた。籠に乗せられていたとはいえ、富士熱原(現在の富士市の付)から鎌倉までの長旅で心底疲れきっていた。日蓮が三回目の国家諌暁を終え、鎌倉から甲斐国身延に入ったときは五日かかっている。これはおそらく馬での旅と思われるが、人が籠で旅するならもっと日数はかかったと思われる。

しかし熱原の農民はこの先の不安と残された妻子を想う気持がつのり、いつまでも眠りにつくことができなかった。

平頼綱は後世「熱原の法難」とよばれる事件の首謀者である。この時三十八歳。この八年前、彼は相州竜口で日蓮の首を刎ねようとし、今またこれに匹敵する弾圧を強行した。

頼綱は代々北条氏嫡流の得宗家に仕える御内人()で執事をつとめている。また幕府の軍事警察を司る侍所の所司(次官)を担っていた。最高権力者の侍所別当(長官)は執権が兼任していたので、平頼綱は今でいえば防衛長官と警察庁長官を兼任した絶対的存在だった。

日蓮および直系の弟子さらに武家の信徒に対しては、執権時宗が佐渡流罪の赦免を決定して以降、平頼綱といえど直接手を出すことができなくなっていた。しかし平頼綱は極楽寺良観に敵対する日蓮を許してはいない。そこで時宗の目の届かない日蓮の信徒、それも武家ではなく農民信徒を狙い撃ちしたのだった。

軍と警察権力を一手に束ねる頼綱は人々の自由な議論を許さなかった。抵抗する者は名越一族のように抹殺した。彼は権威におびえない者、自分を恐れない者が許せない。

平頼綱の冷酷さは史上まれである。

あるとすれば昭和前期の軍人、東条英機に似ている。東条は天皇絶対に威をかりて、あらゆる主義主張を弾圧した。国民は神札を強要され、東条の放った憲兵におびえた。平頼綱は北条の血を絶対として批判勢力を弾圧している。

権力は(かり)の力ともいう。頼綱はこの力を最大限に発揮した。彼は時宗亡きあと、宿敵だった安達泰盛を滅ぼして絶頂をきわめた。このため執権以外、だれも意見をいう者がいなくなった。言えば殺される。恐怖政治の典型である。世は彼の意のままになり、当時旺盛だった訴訟沙汰は激減した。頼綱は反省も悔悟もなく、自ら破滅をとるまで過ちに気づかなかった。

評定がはじまった。

伯耆房日興、日秀、日弁らの百姓側と行智率いる滝泉寺とが奉行をはさんで対決した。

百姓側には四条金吾や土木常忍がかけつけた。対する行智側には平頼綱の指示により多数の御家人がついた。その威容に、どう見ても滝泉寺が有利と思われた。

伯耆房日興が代表し怒気をふくんで言上した。百姓側を代弁するのにふさわしい人物は伯耆房をおいてほかにない。師日蓮の薫陶を発揮する時がきた。

「駿河の国、富士下方滝泉寺大衆、越後房日弁ならびに下野房日秀にかわって、つつしんで申しあげる。まずは滝泉寺院主代の平左近入道行智が条条の自科を(ふさ)ぎ、(さえぎ)らんがために不実の訴えをいたすのはいわれなきこと」

行智側がさわぐ中、伯耆房はつづける。

「訴状にいわく、日秀・日弁、日蓮の弟子と号し、法華経よりほかの余経、あるいは真言の修行は今世後世みなもってかなわぬこと。 

この条は日弁らの本師日蓮聖人、()ぬる正嘉以来の大彗星、大地震等を見、一切経を考えてのたまわく、今の日本国の(てい)たらく、権経小乗に執着し真実の経を失わんとする故に、まさに前代未曾有(みぞう)の二難おこるべし、いわゆる自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)の難、他国侵逼(しんぴつ)の難これなり。よって冶国の故を思い、かねてかの大災難を退治せらるべきの由、去ぬる文永年中に一巻の書を上表せらる。これを立正安国論という。考え申すところみなもって符合した。すでに釈尊の未来記に同じ、あたかも声と響きとのごとし。

外書にいわく『未萌を知るは聖人なり』と。内典にいわく『智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る』。これをもってこれを思うに、わが師は聖人ではないのか。巧匠は内にあり、国宝外に求むべからず。外書にいわく『隣国に聖人有るは敵国の憂いなり』。内経にいわく『国に聖人有れば、天必ず守護す』。外書にいわく『世必ず聖智の君有り、しかしてまた賢明の臣あり』。これらを思うに、聖人が国にあるは日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。諸竜を()り催して敵舟を海に沈め、梵天帝釈に仰せつけて蒙王を召し取るべし。わが君主賢くおわさば、なぜ聖人を用いずして、いたずらに他国の攻めを憂うのか」

行智側が一段とさわぐが、伯耆房は引かない。

「そもそも大覚世尊が、はるかに末法闘諍堅固の時を鑑み、かくのごとき大難を対冶すべきの秘術を説き置かせられた経文明らかなり。しかりといえども如来の滅後二千二百二十余年の間、印度・支那・日本等一閻浮提の内にいまだ流布せず。したがって四依の大師、内に鑑みて説かず、天台伝教しかものべず、時いまだ来たらざるの故なり。法華経にいわく『後五百歳の中に閻浮提に広宣流布す』。天台大師いわく『後五百歳』と。妙楽いわく『五五百歳』と。伝教大師いわく『代を語れば則ち像の終わり末の初め、地を尋ぬれば唐の東、羯の西、人をたずぬれば則ち五濁の生、闘諍の時』。東勝西負の明文なり
 聖人時を知り国を知り、法を知り機を知り、君のため民のため仏のため、災難を退治せらるべきの由訴え申すとも御信用なきの上、あまつさえ謗法の人らの讒言によって聖人は頭に傷を負い、左の手を打ち折らるるの上、二度まで流罪の責めをこうむり、門弟らは所々に射殺され、切り殺され、殺害・刃傷・禁獄・流罪・
(ちょう)(ちゃく)(ひん)(ずい)悪口(あっく)などの大難あげて数うべからず。

ここによって大日本国はみな法華経の大怨敵となり、万民ことごとく一闡(いつせん)(だい)の人となるの故に天神は国を捨て、地神は所を辞し、天下静かならざるの由、ほぼ伝承するの間、その仁にあらずといえども愚案を顧みず言上せしむるところなり。外経にいわく『奸人朝にあれば賢者進まず』。内経にいわく『法をやぶる者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり』。

また風聞によれば、幕府は高僧に膝を折り、請うて蒙古国を調伏(じょうぶく)するとのこと。この法を修するの人は、弱くしてこれを行なえば必ず身を滅ぼし、強くしてこれを祈れば定めて主を失うなり。しかればすなわち安徳天皇は西海に沈没し、叡山座主の明雲は流れ矢に当たり死し、後鳥羽法皇は戎の島に放ち捨てらる。現罰(まなこ)(さえぎ)れり。後人これを恐る。聖人山中の御悲しみはこれなり」

ここで行智が反論する。

「おぬしらはなぜ阿弥陀経をもってつとめとしない。日本国はみな南無阿弥陀仏である」

伯耆房がこたえる。

「それおもんみれば花と月と、水と火と、時によってこれを用う。必ずしも先例を追うべからず。仏法またかくのごとし、時にしたがって用捨す。そのうえ汝らの執する阿弥陀経は、四十余年未顕(みけん)真実の小経である。一閻浮提第一の智者たる舎利(しゃり)(ほつ(注)は阿弥陀経を多年のあいだ読誦するもついに成仏をとげず。しかるのち彼の経を投げうち、法華経にいたって華光如来となる。いわんや末代悪世の愚人が南無阿弥陀仏の題目ばかりを唱えて順次往生をとげようか。法華経にいわく『ただねがって大乗経典を受持し、乃至余経の一偈をも受けざれ』。法華経と阿弥陀経はただ大山と()(がく)との高下、獅子王と()()との相撲である」

今度は百姓側が気勢をあげた。

「今、我等はかの小経をなげうちて、もっぱら法華経を読誦し、法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱えたてまつる。あに殊忠にあらずや。これらの子細、ご不審をのこさば、高僧らを召し合わせられ是非を決せられたい。仏法の優劣を糾明せらるること、月氏・漢土・日本の先例あり。今この時にあたってなんぞ三国の旧規に背くのか」

伯耆房の弁舌は流れるようである。

行智があせった。

「今月二十一日、多勢の人数をもよおし、弓矢を帯びてわが坊内に打ちいり、下野房日秀は馬で乗りつけ、熱原の百姓らは立て札をもって稲を刈り取り、日秀の住房に入れたのだ。法華経を読むといいながら、これこそ盗賊の振る舞いではないか」
 伯耆房が反論する。
「それ跡形もなき虚言である。日秀らは行智殿に所を追われ、居る場所もないのに、どうして立て札を使うことがあるのか。はたまた弱い百姓がどうして日秀らに雇われることがあるのか。弓矢をとり悪行を企てたならば、行智といいその一味といい、なぜ武器をうばいとり、その身を召し取って子細を申さなかったのか。虚飾のいたり、よろしくお調べのほどを。

そして去る四月、御神事の最中に、法華経信心の百姓を刃傷せしめ、さらに八月、弥四郎の首を刎ねた。この時彼らは日秀等も首をはねると脅したのであります。あるいは寺の百姓等をせきたて、うずらを取り狸を狩り、鹿を殺して別当の房にてこれを食らい、あるいは毒物を池に入れ、あまたの魚類を殺し、村里でこれを売る。見聞の人驚かない者はありませぬ。仏法破滅のもとい、悲しみても余りあり。

かくの如き不善の悪行、日々に相積むの間、われら愁嘆のあまり上聞を驚ろかさんと欲す。さりながら行智は条々の(とが)を防がんがために、種々の秘計をめぐらし、近隣の輩を相語らい、さえぎって跡形もなき不実を申しつけ、日秀らを損亡せしめんとたばかること、言語道断の次第なり。

しょせん仏法の権実といい沙汰の真偽といい、淵底(えんてい)を究めてお尋ねあり、かつは釈尊の金言にまかせ、かつは式目の明文に準じて厳罰を加えらるれば、守護の善神は異変を消し、擁護(ようご)の諸天は笑みを含むでありましょう。

しからばすなわち不善悪行の院主代行智を改易(かいえき)しなければ、寺の主の重科は免れがたい。式目の道理にまかせて日秀・日弁ら安堵の御成敗を(こうむ)り、堂舎を修理せしめ、天長地久の御祈祷の忠勤を抜きんでんと欲す。いかが」

百姓側はこの伯耆房の理路整然とした訴えに「勝てる」と勇気がわいてきた。

しかし行智はおちついていた。

「伯耆房とやら。見事な言説であったな。ほめてつかわそう。だが召しとられた百姓は、そなたらのように申してはおらぬ。なぜなら百姓はすべて退転いたした。彼らは法華経を捨て、念仏に改宗いたしましたぞ」

百姓側が動揺するが、伯耆房は追及の手をゆるめない。

「証拠を出されよ。熱原の住民は神四郎、弥五郎、弥六郎をはじめとして、信心堅固の者ばかりである。そなたのいうこと、偽証ではあるまいな。奉行の前である。誓って言うか」

行智が伯耆房をにらみつけた。

「証拠なくとも、日蓮の(とが)は明らかでる。ここに証人がいる」

ここにはじめて三位房日行が登場し、証人席にすわった。

百姓側がいっせいに驚きの顔をみせた。剛毅な四条金吾が三位房をにらみつける。

かつての日蓮の弟子、三位房は平然と証言した。

「三位房日行にございます。余は日蓮殿に長年お仕え申した。さりながらかの日蓮殿は嫉妬心が強く、疑いぶかいため、余の意見を用いず、このたびの難儀を惹起(じゃっき)せしめたのでございます。余がごとき智慧ある者を遠ざけたために、墓穴をほることになった。余は法華宗の中で知恵第一であると自他ともに認める者であり、日蓮殿なきあとは余が教団を受けつぐはずながら、このたびの騒動により、いたしかたなく離れることにあいなった。かくあっては日蓮殿をのぞいた法華経の信徒をあつめ、宗派をたてるつもりにございます。そして」

三位房が百姓たちを見まわした。

「いまだに日蓮殿を慕うあわれな者たちをみちびく所存。子細はのちの機会に」

百姓側から怒号がおきた。

奉行がうなずき、行智側優勢の心証を見せた。

ここで伯耆房日興が三位房を見すえた。

「三位房殿。日蓮聖人は今までのそなたのいぶかしい振る舞いをだまってみておられた。聖人はまわりの者が智慧ある者をそねむのかと、愚かな人は思うであろうと、そなたには物も申さなかった。なかなか散々(さんざん)と叱ったならば、助かることもあったろうにと仰せである」

三位房が日蓮の言葉に恐れた。

「ばかな、助かるとはなにごとだ。たわげたことを。余は日蓮からはなれて罪をのがれたのだ」
 伯耆房は静かに語る。

「臆病ものをおぼえず。欲ふかく疑い多き者どもは、ぬれる(うるし)に水をかけ、空を切りたるように候ぞ。聖人のお言葉である。かみしめて聞くがよい」

場内は静粛になった。弟子檀那が三位房をあわれむように見つめた。

強気だった三位房がいたたまれなくなり、言いのこすように奉行にせまった。

「このたびの沙汰は院主代行智殿に利あり。なにとぞ賢明なご沙汰を」

三位房が逃げるように法廷を去った。

場内が沈黙した。形勢がまた逆転する気配である。

奉行が困った顔で腕をくむ。

伯耆房が言上した。

「奉行殿。いま現に捕らわれている熱原の百姓を放免されましたならば、われらこれ以上の問注はありませぬ。院主代の暴挙で百姓は困惑しきっております。なにとぞ赦免の手配を」

奉行がここで伯耆房に提案した。

「どうであろう。起請文を書かれては。神仏に誓ってこのたびの事、嘘いつわりはないと起請を書かれよ」

行智がしめたと喜ぶ。しかし伯耆房が反論した。

「それは一切でき申さぬ。今回の狼藉の事は行智の殺害刃傷がはじまりです。起請文はまったく書きませぬ。そのゆえは人に殺害刃傷せられたる上、重ねて起請文を書き(とが)を守るは古今未曾有の沙汰である。その上、行智の所行を書かしむるがごとくならば、身を()るる処なく行うべきの罪明らかであります。このこと叶わねば、上聞におよぶまで」

上聞とは執権時宗の耳に入れることである。
 行智が狼狽した。

「あらたに証人を立てたい。こやつらの指図で刈り取った百姓らが証言いたす」

「奉行殿。真実は逆であります。かれら行智と同意して百姓に田畠数十を刈り取ったもの」

さらに行智がいう。

「証文あり。百姓の悪行をあばいた証文が」

伯耆房がかえす。

(ぼう)書である」

行智側がついに沈黙した。

伯耆房が奉行人に力強くいった。

「以上、ことごとく起請文を用いるつもりはございませぬ。日蓮の門家としてただ一つ、現証すなわち殺害刃傷を訴え申すのみ」

行智がくやしがった。

行智不利の知らせは、平頼綱の耳にとどいた。

裁判の主役は熱原の二十名である。二十名が退転すれば、日蓮側がどんなにあがいても行智側の勝利となる。

だが神四郎をはじめとする百姓たちは懸命に耐えた。

頼綱がまなじりをあげて絶叫した。

「なんとしてでも百姓どもを転ばせろ。手段はえらぶな」

百姓たちは庭に引きだされた。

頼綱の次男為綱が(かぶら)()をひいた。鏑矢は戦場で鳴らす弓矢である。この矢は悲鳴に似たすさまじい音を発した。百姓はおびえ、逃げまどった。

「きさまら、すなおに念仏を唱えぬか、阿弥陀を唱えれば放免してくれよう。さもなくば」

為綱はつぎつぎに弓をひく。

これを見ていた長男宗綱が父をいさめた。

「父上、百姓をおどすことはおやめくだされ。待遇をよくすれば彼らはなびくはずです」

頼綱が怒る。

「馬鹿者。こやつらが簡単に転ぶと思うか。評定の行方はこやつらにかかっているのだ。百姓を落とせばわれらの勝利、日蓮の負けなのだ。弟を見習え、長男としてだらしがないぞ」

しかし百姓はいっこうになびかない。

次男為綱は怒り狂った。父親の気性は為綱に受けつがれている。百姓が鏑矢にひるまないのを見ると、鞭をもって百姓を打った。

このつらさの中、百姓の一人がうつぶせのまま題目を唱えた。まわりの百姓がその声に反応した。彼らは無意識に手をあわせて題目を唱えていく。

為綱が立ち往生した。

そして法華講衆筆頭の神四郎が正面をむいて正座し、高らかに題目を唱えはじめた。神四郎は妙法を断じて(たも)つことを牢の仲間に訴えていたのだ。これに弥五郎、弥六郎がつづく。この二人も退転になびく百姓たちを懸命に励ましていた。

為綱が合唱する三人を鞭で打った。

切るような音が鳴る。

三人は傷つき、倒れながら題目をうわごとのように唱えた。



             八十、法華講衆の誓い につづく



下巻目次




 舎利弗

梵名シャーリプットラ。シャーリは母の名。プットラは子、男子の義。釈迦十大弟子の一人。マカダ国・王舎城外の那羅村の生まれ。最初は六師外道の一人・刪闍耶(さんじゃや)に師事するが、師亡き後、釈迦の弟子・阿説示(五比丘の一人)から仏所説の因縁法を聞き、目連とともに仏に帰依した。目連の神通第一に対して、声聞の弟子の中で智慧第一と称される。法華経方便品第二の開三顕一の法を聞き開悟した。釈迦の弟子となったあと、外道等を破折し多くの僧を帰依せしめたと伝えられるが、釈迦に先立って没した。



by johsei1129 | 2017-09-18 09:22 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
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