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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 04月 04日

十七、小松原の法難 日蓮、額に傷を負う

英語版
十七、小松原の法難 日蓮、額に傷を負う_f0301354_23285152.jpg
                  (日蓮大聖人御一代記より)
                        
 時はめぐり文永の世となった。日蓮は四十三歳になり、あの立宗宣言から十年がすぎた
 七月五日の夏の夜だった。
鎌倉は寝静まっていたが、夜空に人の頭ほどもある巨大な彗星が出現した。
世の人はこれを文永の大彗星(注)といった。現代とちがい、人々は天変の兆しとして恐れた。
 その光の尾が真っ暗な夜空いっぱいにのびている。深黒の闇に貼りついたようだった。
 人々が指さした。
 一様に不安な顔、おびえきった顔で彗星を見あげた。
 日蓮も夜空をにらんだ。
 まちがいなく凶変の前兆だった。四百年前、比叡山延暦寺に大乗経の戒壇を建立した伝教大師最澄はいう。

 弥天( みてん)の七難は大乗経に非ずんば何を以てか除くことを()ん、未然の大災は菩薩僧に非ずんば豈冥滅(あにみょうめつ)することを得んや。  『下山御消息

 大乗経の最要である法華経は弘まってはいるが一国の規模ではない。立正安国論で一凶と断じた念仏宗も根絶されてはいなかった。日蓮はただ一人、自界叛逆、他国侵逼の二難がおこることを訴えたが、幕府は流罪で答えた。
許されはしたものの依然、だれも聞く耳をもたない。かえって笑うばかりだった。鎌倉でも極楽寺良観を筆頭に嘲笑した。良観は幕府の庇護をうけている。幕府から迫害を受け、人びとを惹きつける豪勢な寺院も持たない日蓮とは、よって立つ基盤がちがっていた。それにもかかわらず双方の信徒の争奪は激しかった。このため危機を感じた良観は高座で口をきわめて日蓮を嘲弄(ちょうろう)した。
 日蓮はこの前兆を憂いた。

文永元年甲子七月五日、彗星東方に出でて余光大体一国土に及ぶ。(これ)又世始まりてより已来(いらい)無き所の(きょう)(ずい)なり。内外典(ないげてん)の学者も其の凶瑞の根源を知らず。余(いよいよ)悲歎を増長す。『安国論御勘由来()()

 執権の館でも時宗、安達泰盛、平頼綱が夜空を飛来する彗星を見つめていた。
 若干十三歳の時宗がまんじりともせず夜空を凝視する。
 泰盛がつぶやいた。
「これほどの彗星はいまだかつてなかったこと。不吉じゃのう」
 時宗が独りごとのようにいった。
陰陽師(おんみょうじ)に占わせよ」

同じころ、日蓮の故郷・安房小湊では、生母梅菊女あらため妙蓮尼が床に伏せていた。
 重い病だった。父の三国太夫は六年前、すでに亡くなっている。
 近所の村人がかけつけ、妙蓮を必死で看病していた。古参信徒の大尼もつきそっていた。兄弟子の浄顕房、義浄房も妙蓮の病変を聞いてかけつけた。
 妙蓮がうなされている。
「日蓮、日蓮・・」
 村人は死を待つばかりとなった妙蓮の病状に悲嘆に暮れていた。
 介護のためにそばにいた大尼は日蓮の帰郷を待ちわびていた
「日蓮殿には危篤と知らせておきましたが。はたして間に合うかどうか」
 その時入口がざわめき、戸がひらいて旅姿の日蓮があらわれた。久々の帰郷である。連れの弟子、鏡忍房、伯耆房、日朗があとにつづいた。
 大尼が思わず立ちあがって日蓮を迎えた。
「よく帰ってこられました」
 日蓮は母が危篤と聞き、とるものもとりあえず鎌倉を旅立った。ここは地頭の東条景信が目を光らせている。危険を覚悟の里帰りだった。
 日蓮は妙蓮の枕元で看病していた大尼に手をついた
「母の世話をたまわり、かたじけなく存じます。それで容態はいかがでしょう」
 大尼が首をふる。
「さきほどから、そなたの名をなんども呼んでおられました」
 大尼は日蓮と妙蓮の母子の対面がかなったことで感極まり、思わず袂で涙をぬぐった。
 日蓮が母妙蓮尼のかたわらに正座した。こうしていられるのは何年ぶりであろう。
 母はうわごとのようにつぶやいていた。
「日蓮、日蓮・・」
 やがて妙蓮尼が目をひらいた。ぼんやりした視界に日蓮がうつる。母は信じられない顔だった。
「・・無事でしたか。流罪になったと聞きました。もう会えないと思っていました」
 日蓮がおだやかにいう。
「母上、もう罪人ではありませぬ。ご安心ください。重い病気と聞きました。私が祈りましょう。必ず治りますぞ」
 日蓮の励ましの声を聞き、妙蓮尼の表情が一瞬でにこやかになった。
「わたしも南無妙法蓮華経と唱えているのですよ。おまえの噂はここにも聞こえてきます。不思議なことにお題目を唱えていると、おまえに会っているような気がするのです」

 日蓮は母の話を黙って聞き続け、時折笑顔でうなずいた。まるで「あなたが日蓮の事を心配して下さっていることは、全てわかっていますよ」とでもいいたけだった。

 日蓮の慈愛溢れる笑顔を見つめていると、妙連
は急に生気を取りもどした。
「おまえのいうことは、母はどんなことでも信じますよ。日本中が敵になっても、母はおまえの味方ですよ。おまえをこのお腹に宿したときのことはよく覚えています。夢を見たのですよ。比叡山の頂に腰をかけて、富士の山からのぼる太陽を(いだ)いたとき、おまえを(はら)みました。驚いたことに、おまえの父も同じ夢を見たのです。そして生まれた夜も夢を見ました。富士山の頂に登って四方を見たのです。明らかなこと(たなごころ)を見るようでした」
 日蓮は心配した。
「母上、あまりお話ししてはよくありませぬ。さ、お休みを」
 妙蓮尼日蓮に言い足りないのか話をやめない。
「これが最後かもしれぬ。少しだけ一緒にお題目を唱えておくれ。強情なおまえでも、母のいうことは聞かねばなりませぬ」
 梅菊が身を起こし手をあわせた。
 日蓮は母に内在する仏界に向かい、静かに唱和する。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・」
日蓮は母とともに南無妙法蓮華経と唱えることに()無上のよろこびを感じとった。
この祈りと村人らの懸命の看病が功を奏し、梅菊は四年の寿命をのばすことになる。

日蓮はこのあと古巣の清澄寺に立ち寄り、道善房らに別れの挨拶をした。
弟子の鏡忍房や伯耆房が防御用の薙刀(なぎなた)をもつ。ひさびさの再会だったが、地頭の東条景信が目を光らせている。長居はできなかった。
 日蓮はかつての師、道善坊に頭をさげた。
「お世話になりました」
 日蓮は時間の許すかぎり道善房と話がしたかった。十二の歳から親がわりになってくれた人である。しかし道善房は法華経の信心に目ざめていない。生来の臆病が身につき、念仏を捨てきれないでいた。
「いやいや。元気な顔を見て安心した。わしも少しばかり話したいこともあったが。これからどこへ行かれる」
「安房天津の領主、工藤吉隆殿に招かれております。今日はそちらへ」
 工藤は安房の領主である。八年前、四条金吾とともに強信者になっていた。
 兄弟子だった浄顕房が不安を口にした。
「道中くれぐれも気をつけてくだされ。景信がつけ狙っているとのことです。さきほど知らせが入りました」

 安房東条の地頭、景信は日蓮に対する積年の恨みを晴らそうとしていた。
 日蓮が安房に来ている。日蓮の命運は景信の手中にあるのも同じだった。この時を逃しては千歳の恨みをのこす。領地争いで敗れた恨みは片時も忘れていない。日蓮は地頭の敵であり、念仏の敵である。生かしておくわけにはいかなかった。
 日蓮は出発まぎわ、道善房にほほえんだ。
「行く手に大難があるのは、もとより覚悟の上です」
 文永元年十一月十一日、日の一行安房天津の工藤吉隆の屋敷に向け出発した。
 小松原の街道に陽がかたむく。わきに大きな岩のある道がつづく。
 日蓮一行が左に山、右に太平洋の大海原を見て進む。
 鏡忍房らの弟子たち、そして荷物をもった下人が供をしていた。
 工藤吉隆の屋敷が近くなった。
 一行はなにごともなかったことに安堵しかけた。
 このとき、突如として彼らの背後から騎馬があらわれた。そのうしろには薙刀を構えた念仏者の群れがつづいた。
 地頭景信が叫んだ。
「今日が日蓮の最後である。打ちもらすな」
 念仏者がこたえる。
「あれぞ阿弥陀如来の敵、生きては帰さぬ」
 景信が刀を抜き、怒濤のごとく日蓮めがけて突撃した。怨恨を晴らすときがきたのだ。刃剣が夕日に反射して輝いた。
 その時、日蓮は鳴りひびく馬の蹄の音にふりむいたが、一瞬おそく景信の刃がふりかかった。日蓮はのけぞったが、額の右側を四寸を切られ、血がふきだした。四寸といえば十二センチ。かなりの出血だった。
 馬上の景信がしてやったりとばかり、勝ち誇る。
 弟子の鏡忍房・日朗・伯耆房が防戦するが、周囲をかこまれてしまった。
 ここで鏡忍房が下人にどなった。
「工藤様の館はすぐそこだ。早く知らせよ」
 鏡忍房は太刀をがむしゃらに振り回し、景信一味の囲いを破る。そこを下人が抜けでて吉隆の館に向かった。
 たがいの刀が火花をあげ、激しくぶつかる。景信側からは弓矢も飛んできた。
 日蓮も杖を使って必死に応酬したが、勝負は見えていた。

下人があわてふためいて工藤吉隆邸にはいった。
 吉隆邸の居間は膳がならべられ、日蓮一行を歓迎する準備の最中だった。吉隆は配下の者に食膳の指図をしていた。そこに下人が飛びこんで叫んだ
「この先で日蓮聖人が東条の軍勢に襲われています。すぐに助太刀を」
 吉隆が怒気を発して号令をかける。
「いかん、みなの者、ただちに出陣じゃ。鎧をつける暇はない。刀を持って直ぐに馬に乗れ
日蓮と弟子たちは日暮れの街道で必死に応戦していた。だが多勢に無勢である。全滅するのは時間の問題だった。
 騎馬の武士が日朗の肩を斬る。たまらず倒れた。
 日蓮も兵士が振りおろした棒で、したたかに左腕を打たれた。骨が折れたようだ。額の出血は薄墨の衣を真っ赤に染めている。絶望的な状況だった。
 この時、工藤吉隆が到着し、単騎で東条の軍勢に突撃した。日蓮等を取りかこんだ囲みがとけた。
 馬上の吉隆が景信をなじる。
「東条景信、わが領内でなんたる振る舞い。僧侶を討つとは気でも狂ったか。鎌倉様に知られたら東条一族は断絶に処されるは必定であるぞ
 景信は一瞬ひるんだが、気持ちは修羅の如くに高ぶっており居丈高に叫んだ。
「工藤吉隆、よくぞ来た。飛んで火にいる夏の虫、日蓮もろとも地獄におちろ」
 本来、地頭は領主に従わねばならない。しかしいったん刃をまじえたら、その道理は通じなかった。地頭と領主ではない、勝った者が正義なのだ。
 吉隆の家来も加勢して小松原は戦場と化した。
 日蓮が左の腕をおさえ、囲みからはなれた。
 それを景信は見のがさない。刀剣を高くかかげ、馬をかりたて突進した。
 景信がここぞとばかり日蓮の背中に刀をふりおろしたが、一瞬はやく鏡忍房が立ちふさがった。
 鏡忍房は袈裟がけに斬られ、どうと倒れた。
 日蓮が鏡忍房を抱きかかえる。
「鏡忍房、気をしっかりもて」
 鏡忍房は日蓮の目を見てほほえんだ。
「聖人、ご無事で」
 鏡忍房が片手で題目を唱えようとしたが、そのままくずれた。
 景信は鏡忍房の血を見て野獣の血がさわいだ。彼は笑いとともに気がふれたように絶叫した。
「あたら殺生をしたわ。日蓮、(とが)はおぬしにある。これが最後よ」
 日蓮はこれまでにない怒りを感じた。鏡忍房の薙刀を手にとり、馬上の景信をめがけ突いた。だが景信はたくみにかわす。
景信は立ち合いのすえに日蓮の薙刀の()を真っ二つに切りはらった。
 日蓮がこの衝撃で地面にたおれる。
 景信が勝ちほこった。
「日蓮、覚悟はよいか」
 景信が日蓮に直進する。
 素手になった日蓮は死を覚悟し、大音声で言いはなった。
「過去・現在の末法の法華経の行者を軽賤(きょうせん)する王臣・万民、始めは事なきやうにて(つい)()ろびざるは候わず」
 ここで不思議なことがおきた。
 景信が刀を振りおろそうとしたが、馬があばれだし、いうことをきかなくなった。制止しても止まらない。
 景信が懸命になだめる。
「どうした。気でも狂ったか」
 景信が日蓮を切ろうとするが、馬は後足を蹴ちらし、おりることもできなくなった。
 景信があせりだした。従う兵士も戦いどころではなくなった。
「どう、どう、どう」
 馬が急に前足を大きくあげた時、どうしたことか手綱が音をたててちぎれ、景信は大きくはね飛ばされた。そして路岩に仰向けに落ち、したたかに背中をうった。
 景信の断末魔の悲鳴がひびきわたる。
 景信の郎党はこの声を聞き、ひるんでしまった。かれらは景信をかかえて退却した。

 夕陽とともに敵が去っていく。
 味方が少しずつ集まってきた。みな疲労困憊の姿でいる。
 日蓮はすわりこんで鏡忍房を抱きしめたままだった。
 伯耆房と日朗らの弟子たちは鏡忍房にすがりついて泣いた。鏡忍房は若い弟子たちに慕われていた。寝食をともにした兄弟子が亡くなるとは。
 日蓮は周囲を見渡し、弟子信徒一人一人の安否を確認した
 その時、領主の工藤吉隆が血まみれとなって歩みよった。
「上人、ご無事でしたか・・安堵いたしましたぞ。みなの者、よく上人を守った」
 吉隆がこういって倒れた。
 日蓮が皆に向かって叫んだ。
「早く吉隆殿に手当を」
 そこにこの事態を知った吉隆の父など一族五十騎が駆けつけ、日蓮一行を天津の工藤吉隆の館に避難させた。
 
 太陽が沈んでいく。
 この大難はのちに小松原の法難とよばれた。大檀那で天津領主・工藤吉隆と弟子・鏡忍房が殉死している。日蓮も額に傷をこうむり、左の腕を折られた。難にあうことは法華経の経文どおりであったが、あまりにも大きい代償であった。
 しかし日蓮は弟子・信徒を失った悲しみにいつまでも浸ってはいられなかった。
 一ケ月後、信徒の南条(ひょう)()七郎にあてた手紙の中で、念仏者のはかないことをしるすとともに、法華経の行者として(とう)(じょう)()大難に遭遇したことの意味を、門下の弟子信徒に解き明かした。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()今年も十一月十一日、安房(あわの)国東条の松原と申す(おおじ)にて、(さる)(とり)の時、数百人の念仏等に()ちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ(よう)()ふものわづ()かに三四人なり。いるや(射矢)ふる()あめ()のごとし、()たち(太刀)はい()づまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事の()にて候。自身も()られ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うち()()らされていまゝでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさりて候へ。第四の巻に云はく「(しか)も此の経は如来の現在すら猶怨(なおおん)(しつ多し(いわ)んや滅度の後をや」と。第五の巻に云はく「一切世間(あだ)多くして信じ(がた)し」等云々。日本国に法華経()み学する人これ多し。人の()ねら()ひ、ぬす()み等にて打ちはらるゝ人は多けれども、法華経の故にあ()またるゝ人は一人もなし。されは日本国の持経者はいまだ此の経文には()わせ給はず。(ただ)日蓮一人こそ()みはべれ。「我身(われしん)(みょう)を愛せず(ただ)無上道を惜しむ」是なり。されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。  南条兵衛七郎御書


後日、二つの墓が街道にならべられた。工藤吉隆と鏡忍房の墓だった。
 事件を聞いてかけつけた村人が二人の死を弔った清澄寺の別当・道善房や兄弟子の義浄房、浄顕房もその列に連なった
 東条景信の襲撃にともに立ち向かい、辛くも生き残った伯耆房と日朗は、日蓮門下最長老の弟子だった鏡忍房と、法門について激しい議論をした日々の姿に思いを馳せ、いつまでもすすり泣いた
 領主の工藤一族はのちに吉隆の子を日蓮の下で得度させ僧侶にし、法華経の血をつないだ。日蓮は吉隆の子に吉隆の一字を取り日隆の法名を与えた。そして日隆はこの地に鏡忍寺を建てることになる

 いっぽう東条景信の館では絶叫がひびいていた。
 景信が床にふせてうめく。背を打ちつけたのが致命傷となった。
 配下があばれる景信の体をおさえた。
「背骨が・・」
 景信が両手を高く天井にのばした。その指が黒くなりはじめた。
 みな恐怖で景信からはなれる。
 景信はその後、七日間苦しみぬいて全身が黒色となり、狂気に打ち震え息絶えた。景信の一族は仏罰のすさまじい現象を目の当たりにし、みな恐怖におののいた。
 日蓮は十六年後に『報恩抄』で、東条景信の死について次のように記している。

(ただ)(ひとつ)(みょう)()には、景信と円智・(じつ)(じょう)とが、さきに()きしこそ一のたす()かりとはをも()へども、彼等は法華経(じゅう)羅刹(らせつ)()めを()ほりて、はやく(うせ)ぬ。

日蓮と東条景信との積年の戦いはおわった。あしかけ十二年の歳月だった。双方傷ついたが、景信は仏罰を受け、日蓮は末法の法華経の行者として確信を得ることになった 
 日蓮は景信について五十五歳の時、著した『種々御振舞御書』でこう述懐している。
 
釈迦如来の御ためには堤婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよく()すものは()()どよりも強敵(ごうてき)が人をばよくなしけるなり.眼前に見えたり。此の鎌倉の御一門の御繁盛は義盛と隠岐(おきの)法皇(ほうおう)しまさずんば(いか)か日本の主となり給ふべき。
されば此の人々は此の御一門の御ためには第一のかた()うど()なり。日蓮が仏にならん第一のかたうどは(かげ)(のぶ)法師(ほっし)には(りょう)(かん)道隆(どうりゅう)(どう)阿弥(あみ)陀仏(だぶつ)・平左衛門尉・(こう)殿(どの)ましまざずんば、(いか)でか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ

かた()うど()とは味方のこと。日蓮は味方よりも敵の存在が自分を成長させると説いた。釈迦は崖から岩を落とし自分を殺そうとした提婆(だいば)(だっ)()を善知識(仏になる手助けをする存在)であるとし、法華経提婆達多品第十二で、未来に天王如来になると説いた。
 また北条一門の繁栄は和田義盛と後鳥羽上皇のおかげであり、この二人の強敵がいなければ、北条氏は日本の王にはなれなかったであろうと記している。
 そして日蓮が仏になるための一番の味方は、景信、法師では良観・道隆・道阿弥陀仏、さらには平左衛門尉・守殿で、これらの強敵がいなければ、どうして法華経の行者になりえたであろうかと、強敵との出会いを悦んでいるとまで言い切っている。

 日蓮は工藤吉隆の屋敷を後にし、近くの花房の蓮華寺に移り本格的な治療にあたった。

安房花房(はなぶさ)の蓮華寺は森の奥にある小さな寺院だった。
 日蓮は一室で経典を読んでいた。
 頭の包帯が痛々しい。折られた左腕は三角巾でつるしていた。
 弟子の伯耆房は日朗の手当をした。
 そこに道善房と義浄房・浄顕房が入ってきた。
 気弱な道善房がかつての愛弟子を心配した。

「日蓮、いや上人、けがは少しは良くなりましたか

見てのとおりですが、弟子や蓮華寺の皆が日々手当てしてくれますので、おかげ様で快方にむかっております。心配をおかけしました」
それはよかった。ひとまず安心しました。ところで妙蓮尼殿ですが上人の祈りのおかげでとても元気になりました。この噂が広まって、いま清澄寺では日蓮上人の話でもちきりじゃ。この道善房も母上の平癒で鼻が高いというものです」
 日蓮がいたむ腕をおさえて師に話しかけた。
「このたびの難も法華経への強盛な信力があればこそ乗りきったのです。お師匠もはやく妙法に帰依してください。もし法華経をたもたれたならば、弟子としてこれほどのよろこびはありませぬ」
 ここで道善坊が心中を吐露した。
「そのことだが日蓮、わしはもとより智恵はない。どこぞに取り立てられることもなく、年老いてこれといった縁もないので念仏の名僧にもなれまい。世間でひろまっているから南無阿弥陀仏と唱えているだけなのだ。また気がすすまなかったが先ごろ、縁あって阿弥陀仏を五体まで作ってしまった。これもまた過去世からの宿習だと思っている。日蓮よ、この罪によってわしは地獄に堕ちるのだろうか」
 日蓮はさすがに哀れみを感じざるを得なかった。しかし相槌をうち、なぐさめる訳にもいかない。世法上はともかく、こと仏法に於いては、たとえ師であろうと正すべきは正さなければ自身が与同罪を受けることになる。
 日蓮は大きく深呼吸したあと、師匠を叱りつけた。
「阿弥陀仏を五体つくったということは、五たび無間地獄におちるということです。法華経に釈迦如来はわれらの父親、阿弥陀仏は叔父と説かれている。叔父をうやまい、父親をゆるがせにすることはたいへんな親不孝であり悪人よりなお罪深い。悪人は仏法を信じない。それゆえ釈迦如来を捨てる罪もない。いずれ縁あって信ずることもあるでしょう。しかし、師匠は大善人とみられておりまするが、じつは親を捨て、他人についた大悪人です。法華経謗法の罪はまぬがれませんぞ」
 かつての弟子の非情ともいえる諫言だった。
 道善坊は反論する言葉もなく、ただうなだれるだけだった。
 のちに日蓮はこの時の心中を『善無畏三蔵抄』に次のようにつづっている。

穏便(おんびん)の義を存じおだやかに申す事こそ礼儀なれと思ひしかども、生死界の習ひ、老少(ろうしょう)()(じょう)なり、又二度見参の事(かた)かるべし。

人はいつ死ぬかわからない。この機会を逃すと再び師とまみえることは難しいであろう。師であるからには穏やかに申すのが礼儀であるが、今強く言わなければ、師が法華経に改宗することは叶わないであろう、との思いで日蓮は叱責したのである。 
 

                           十八、他国侵逼難の的中 蒙古の国書到着につづく



文永の大彗星
この彗星は、中国()、朝鮮半島(高麗)や欧州でも観測されたと記録があるが、大彗星であったとする記録は日本に多く残されている。




by johsei1129 | 2017-04-04 21:59 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(0)


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