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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 15日

日蓮は首題の五字を汝にさづく、法華経受持の者を守護せん、と説いた【法華経兵法事】

【四条金吾殿御返事(法華経兵法事)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279年)十月二十三日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は、四条金吾が主君である江馬入道の御勘気が解け、さらに以前より領地を加増されたことを恨んだ者から大聖人が度々心配されていたとおり襲われる事態が起きたが、無事対処できたことを直ちに大聖人に報告され、そのことへの返書となっております。
大聖人は「日蓮は首題の五字(妙法蓮華経)を汝にさづく、法華経受持のものを守護せん事疑あるべからず」と記すとともに法華経法師功徳品を引いて、法華経を受持する者は諸天が必ず守護するので「ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」と諭されております。
■ご真筆: 現存していない。

[四条金吾殿御返事(法華経兵法事)本文]

 先度強敵ととりあひ(取合)について御文給いき委(くわし)く見まいらせ候、さても・さても・敵人にねらはれさせ給いしか。前前の用心といひ又けなげといひ、又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給い目出たし目出たし。

 夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従もしたがはず、所詮運ものこり果報もひかゆる故なり。ことに法華経の行者をば諸天・善神・守護すべきよし、属累(ぞくるい)品にして誓状をたて給い、一切の守護神・諸天の中にも我等が眼に見へて守護し給うは、日月天なり、争か信をとらざるべき。ことに・ことに日天の前に摩利支天まします、日天・法華経の行者を守護し給はんに、所従の摩利支天尊すて給うべしや。

序品の時・名月天子・普光天子・宝光天子・四大天王・与其眷属(よごけんぞく)・万天子倶(まんてんじぐ)と列座し給ふ。まりし天は三万天子の内なるべし、もし内になくば地獄にこそおはしまさんずれ。

 今度の大事は此の天のまほりに非ずや、彼の天は剣形(けんぎょう)を貴辺にあたへ此(ここ)へ下(くだ)りぬ。此の日蓮は首題の五字を汝にさづく、法華経受持のものを守護せん事疑あるべからず。まりし天も法華経を持ちて一切衆生をたすけ給う。「臨兵闘者皆陣列在前(りんぴょうとうしゃ・かいじんれつざいぜん)」の文も法華経より出でたり、「若説俗間経書治世語言 資生業等 皆順正法」とは是なり。

 これに・つけても・いよいよ強盛に大信力をいだし給へ、我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべからず。
 将門は・つはものの名をとり兵法の大事をきはめたり、されども王命にはまけぬ、はんくわひ(樊噲)・ちやうりやう(張良)もよしなし・ただ心こそ大切なれ、いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬ(濡)れたる・ほくちに・火をうちかくるが・ごとくなるべし、はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし。

 すぎし存命不思議とおもはせ給へ、なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし。「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ。あへて臆病にては叶うべからず候、恐恐謹言。

十月二十三日 日 蓮 花押
四条金吾殿御返事

【妙法蓮華経 法師功徳品第十九】
復次常精進 若善男子 善女人 如来滅後 受持是経
若読 若誦 若解説 若書写 得千二百意功徳
以是清浄意根 乃至聞一偈一句 通達無量無辺之義
解是義已 能演説一句一偈 至於一月四月 乃至一歳
諸所説法 随其義趣 皆与実相 不相違背
若説俗間経書 治世語言 資生業等 皆順正法

(和訳)
また次に常精進(菩薩)よ、もし善男子、善女人が如来の滅後、この経を受持し
一偈一句でも、若しは読み、誦じ、解説し、書写ずんば、千二百の意(こころ)の功徳を得る。
この清浄な意根をもって、(この経の)一偈一句を聞かんば、無量無辺の義を通達する。
この義を已に解し、一句一偈をも能く演説すること一月、四月、乃至一年に至らんに、
諸々説く所の法は、其の義趣に随して、皆、実相と相違背せず。
同様に、若し俗世(仏法以外)の間の経書、治世(政治に関する)の語言、資生(経済に関する)の業等を説いたとしても、皆正法(法華経)に順ずる。

# by johsei1129 | 2019-11-15 21:51 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 15日

鎌倉の強信徒池上宗仲に、弟子の僧坊の築造を依頼した書【両人御中御書】

【両人御中御書】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)十月二十日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は大国阿闍梨日朗と、池上兄弟の兄宗仲に宛てた書である。
 内容は、下総出身の古参の弟子大進房が熱原法難で敵方に寝返り、法華経信徒を馬に乗り暴徒を指揮して迫害、その時落馬し怪我を負い、それが原因で死去するが、生前法兄である弁阿闍梨日昭に自分の僧坊を譲るという譲状を残していた。
 大聖人はこのことを知り、直ちに今誰も住んでいない僧防を建て壊し、譲状のとおり日昭に渡して日照の僧坊を大きくしなさいと依頼されておられる。
 
 本書では、この頃大聖人の高弟達はそれぞれ僧坊をもち、そこを拠点に布教活動をしていて、弟子が弘教の主体となっていことをうかがわせる。また僧坊の建築に幕府作事奉行(建築・土木部門)の池上家、特に兄宗仲が大きく関わっていたことがわかる貴重な書となっている。
尚、大聖人は生涯最後の二十六日間を池上宗仲の館ですごし、弘安五年十月十三日に御入滅なされる。
■ご真筆: 京都市妙顕寺 所蔵。
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[両人御中御書 本文]

大国阿闍梨、えもん(衛門)のたいう(太夫)志(さかん)殿等に申す。故大進阿闍梨の坊は各各の御計らいに有るべきかと存じ候に、今に人も住せずなんど候なるはいかなる事ぞ。
 ゆづり状のなくばこそ、人人も計らい候はめ。くはしく、うけ給わり候へば、べんの阿闍梨にゆづられて候よし、うけ給わり候き。又いぎ(違義)あるべしとも、をぼへず候。

 それに御用いなきは別の子細の候か、其の子細なくば大国阿闍梨、大夫殿の御計らいとして、弁の阿闍梨の坊へこぼ(毀)ちわたさせ給い候へ。

 心けん(賢)なる人に候へば、いかんがとこそ、をもい候らめ。弁の阿闍梨の坊をすり(修理)してひろくも(漏)らずば、諸人の御ために、御たからにてこそ候はんずらむめ。 
 ふゆはせうまう(焼亡)しげし、もしやけなばそむ(損)と申し人もわらいなん。
 
 このふみ(文書)ついて両三日が内に事切(きれ)て、各各御返事給び候はん。恐恐謹言。

十月廿日                  日  蓮 花 押
両人御中
ゆづり状をたがうべからず。

# by johsei1129 | 2019-11-15 06:56 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 14日

伯耆殿並諸人御中

 
 此の事はすでに梵天・帝釈・日月等に申し入れて候ぞ。あえてたが(違)えさせ給ふべからず。各々天の御はか(計)らいとをぼすべし。恐々謹言。
 
 九月二廿六日     日蓮花押

 伯耆殿並びに諸人御中


# by johsei1129 | 2019-11-14 21:53 | 日興上人 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 14日

熱原の三烈士を、鬼に身を投げて仏法を求めた雪山童子の如しと称えた【聖人等御返事】

【聖人等御返事(変毒為薬御書)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)十月十七日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:弘安二年十月十五日、冨士郷・熱原の農民、神四郎、弥五郎、弥六郎の兄弟が、平頼綱(平金吾)より法華経信仰をやめなければ殺すと弾圧され、それでも法華経信仰を捨なかった三人は断首される。この事態を受け現地で農民信徒を励ましていた伯耆房日興上人は、直ちに急使を立て身延の大聖人へ報告、手紙は翌々日の十月十七日午後六時頃到着する。大聖人は直ちに本書をしたため同日午後八時頃には日興上人に送っている。大聖人は本書で熱原の三烈士が処刑されるまで「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えていたことは「偏に只事に非ず」と驚嘆されるとともに「経文の半偈を聞く為に鬼に身を投げ出した釈迦前世の雪山童子の如し」と讃えられている。
 実際に日蓮門下で、法華経を信仰するがゆえに処刑の場に立たされたのは「竜の口法難」の日蓮大聖人以外では、熱原の三烈士だけである。
佐渡流罪の時、日朗上人含む五人の弟子・信徒が投獄されているが、処刑までは至っていない。
 尚、本書の宛名は聖人等御返事になっている。実際は日興上人へ宛てられた手紙であるが、大聖人は日興上人への他の手紙では、伯耆房殿若しくは伯耆殿となっている。また日興上人の弟子で、ともに熱原の農民を励ましていた日秀、日弁に対しては、同じ弘安二年十月十二日の「伯耆房御返事」で、日秀、日弁等へ下すと記している。その意味で本書の宛名「聖人等御返事」は、釈迦前世の雪山童子の如しと称えておられる「熱原の三烈士」を弔っての称号と強く推察される。
ちなみに、本書で「妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか」と予言されてるとおり、熱原法難の十四年後、執権北条貞時の軍に急襲され、平頼綱は自害し一族は滅ぼされた。
■ご真筆: 現存していない。古写本:日興筆(北山本門寺所蔵)
[聖人等御返事 本文]   [英語版]

今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す。

 彼等御勘気を蒙(こうむ)るの時、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云。偏(ひとえ)に只事に非ず。定めて平金吾の身に十羅刹入り易(かわ)りて、法華経の行者を試みたもうか。

 例せば雪山童子、尸毘王(しびおう)等の如し。将(は)た又悪鬼其の身に入る者か。釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝(ぼんたい)等、五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓は是なり。

 大論に云く、能く毒を変じて薬と為す。天台云く毒を変じて薬と為す云云。妙の字虚(むな)しからずんば定めて須臾(しゅゆ)に賞罰有らんか。
伯耆房(ほうきぼう)等、深く此の旨を存じて問注を遂(と)ぐ可し。平金吾に申す可き様は、文永の御勘気の時聖人の仰せ忘れ給うか、其の殃(わざわい)未だ畢(おわ)らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか、最後に申し付けよ。恐恐謹言。
十月十七日戌時               日 蓮 花押判

聖人等御返事

この事のぶるならば此方にはとが(過)なしとみな人申すべし、又大進房が落馬あらわるべし、あらわれば人人ことにお(畏)づべし、天の御計らいなり、各にはおづる事なかれ、つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぼふるなり、今度の使にはあわぢ(淡路)房を遣すべし。




# by johsei1129 | 2019-11-14 21:30 | 日興上人 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 14日

法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なりと説いた書【滝泉寺申状】

【滝泉寺申状】
■出筆時期:弘安二年十月(西暦1279年) 五十八歳 御作(代作)。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書の題号である滝泉寺は駿河国富士郡の天台宗寺院で、この寺院の僧、日秀・日弁らは日興上人の教化により大聖人に帰依した。これに怒りをなした院主代の行智は彼等を寺から追放するために幕府に訴えにでる。本書は日興上人の反訴状の草案に大聖人が添削加筆し、最終的に日興上人が取りまとめ問註所に訴状として提出している。本草案は全11紙からなり、前半の8紙は大聖人が書き記し、残りは主に日興上人が書き記していると思われる。
■ご真筆: 中山法華経寺所蔵(重要文化財)。
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[滝泉寺申状 ご真筆 中山法華経寺所蔵]

[滝泉寺申状 本文]

 駿河の国・富士下方(しもかた)滝泉寺の大衆・越後房日弁・下野房(しもずけぼう)日秀等謹んで弁言す。
 当寺院主代・平左近入道行智・条条の自科を塞(ふさ)ぎ遮(さえぎ)らんが為に不実の濫訴(らんそ)を致す謂れ無き事。
 訴状に云く日秀・日弁・日蓮房の弟子と号し法華経より外の余経或は真言の行人は皆以て今世後世叶う可からざるの由・之を申す云云取意。

 此の条は日弁等の本師日蓮聖人・去る正嘉以来の大彗星大地動等を観見し一切経を勘えて云く当時日本国の体たらく権小に執著し実経を失没せるの故に当に前代未有の二難を起すべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、仍(よっ)て治国の故を思い兼日(かねて)彼の大災難を対治せらる可きの由、去る文応年中・一巻の書を上表す立正安国論と号す勘え申す所皆以て符合す既に金口(きんく)の未来記に同じ宛も声と響(ひびき)との如し、外書に云く「未萠を知るは聖人なり」内典に云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る」云云、之を以て之を思うに本師は豈聖人なるかな巧匠(きょうしょう)内に在り国宝外に求む可からず、外書に云く「隣国に聖人有るは敵国の憂(うれい)なり」云云、内経に云く「国に聖人有れば天必ず守護す」云云。 外書に云く「世必ず聖智の君有り而して復賢明の臣有り」云云、此の本文を見るに聖人・国に在るは日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり諸竜を駆り催して敵舟を海に沈め梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし、君既に賢人に在(ましま)さば豈(あに)聖人を用いずして徒(いたずら)に他国の逼(せめ)を憂えん。

 抑(そもそも)大覚世尊・遥(はるか)に末法闘諍堅固の時を鑒み此くの如きの大難を対治す可きの秘術を説き置かせらるるの経文明明たり、然りと雖も如来の滅後二千二百二十余年の間・身毒(しんどく)・尸那・扶桑等・一閻浮提の内に未だ流布せず、随つて四依の大士内に鑒みて説かず天台伝教而も演べず時未だ至らざるの故なり、法華経に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布す」云云、天台大師云く「後五百歳」妙楽云く「五五百歳」伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り末の初め地を尋ぬれば唐の東・羯(かつ)の西・人を原(たず)ぬれば則五濁の生・闘諍の時」云云、東勝西負の明文なり。

 法主聖人・時を知り国を知り法を知り機を知り君の為臣の為神の為仏の為災難を対治せらる可きの由・勘え申すと雖も御信用無きの上・剰(あまつ)さえ謗法人等の讒言に依つて聖人・頭(こうべ)に疵(きず)を負い左手を打ち折らるる上・両度まで遠流の責を蒙むり門弟等所所に射殺され切り殺され毒害・刃傷・禁獄・流罪・打擲(ちょうちゃく)・擯出(ひんずい)・罵詈(めり)等の大難勝(あ)げて計(かぞ)う可からず、茲(ここ)に因つて大日本国・皆法華経の大怨敵と成り万民悉く一闡提の人と為るの故に天神・国を捨て地神・所を辞し天下静ならざるの由・粗伝承するの間・其の仁に非ずと雖も愚案を顧みず言上せしむる所なり、外経に云く「奸人朝に在れば賢者進まず」云云、内経に云く「法を壊(やぶ)る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり」云云。

 又風聞の如くんば高僧等を崛請(くっせい)して蒙古国を調伏(じょうぶく)す云云、其の状を見聞するに去る元暦・承久の両帝・叡山の座主・東寺・御室・七大寺・園城寺等検校(けんぎょう)長吏等の諸の真言師を請い向け内裏の紫宸殿にして咒咀し奉る故源右将軍(げんうしょうぐん)並に故平右虎牙(へいうこが)の日記なり、此の法を修するの仁は敬つて之を行えば必ず身を滅し強いて之を持てば定めて主を失うなり、然れば則ち安徳天皇は西海に沈没し叡山の明雲は流矢(ながれや)に当り後鳥羽法皇は夷島(えびすのしま)に放ち捨てられ東寺・御室は自ら高山に死し北嶺の座主は改易の恥辱に値う、現罰・眼に遮(さえぎ)り後賢之を畏る聖人・山中の御悲みは是なり。

 次ぎに阿弥陀経を以て例時の勤(つとめ)と為す可きの由の事。
 夫れ以(おもん)みれば花と月と水と火と時に依つて之を用ゆ必ずしも先例を追う可からず、仏法又是くの如し時に随つて用捨す、其の上・汝等の執する所の四枚の阿弥陀経は四十余年未顕真実の小経なり、一閻浮提第一の智者たる舎利弗尊者は多年の間・此の経を読誦するも終に成仏を遂げず、然る後・彼の経を抛(なげう)ち末に法華経に至つて華光如来と為る、況や末代悪世の愚人・南無阿弥陀仏の題目計りを唱えて順次往生を遂ぐ可しや、故に仏・之を誡(いさ)めて言く法華経に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」と云云教主釈尊正しく阿弥陀経を抛ちたまう云云、又涅槃経に云く「如来は虚妄の言無しと雖も若し衆生の虚妄の説に因るを知れば」と云云、正しく弥陀念仏を以て虚妄と称する文なり、法華経に云く「但楽(ねがっ)て大乗経典を受持し乃至余経の一偈をも受けざれ」云云、妙楽大師云く「況や彼の華厳但以て称比(しょうひ)せん此の経の法を以て之を化するに同じからず故に乃至不受余経一偈と云う」云云。彼の華厳経は寂滅道場の説・法界唯心の法門なり、上本は十三世界微塵品・中品は四十九万八千偈・下本は十万偈四十八品今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり、其の外の方等・般若・大日経・金剛頂経等の諸の顕密大乗経等を尚・法華経に対当し奉りて仏自ら或は未顕真実と云い或は留難多きが故に或は門を閉じよ或は抛て等云云、何に況や阿弥陀経をや、唯大山と蟻岳(ぎがく)との高下・師子王と狐兎との捔力(すもう)なり。
 今日秀等専ら彼等小経を抛(なげう)ち専ら法華経を読誦し法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱え奉る豈殊忠に非ずや、此等の子細御不審を相貽(のこ)さば高僧等を召され是非を決せらる可きか、仏法の優劣を糺明致す事は月氏・漢土・日本の先例なり。今明時に当つて何ぞ三国の旧規に背かんや。

 訴状に云く今月二十一日数多(あまた)の人勢を催し弓箭(きゅうせん)を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具(じょうめあいぐ)し熱原の百姓・紀次郎男・点札(たてふだ)を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云取意。

 此の条・跡形も無き虚誕(こたん)なり日秀等は損亡せられし行者なり不安堵の上は誰の人か日秀等の点札を叙用せしむ可き、将た又尫弱(おうにゃく)なる土民の族(やから)・日秀等に雇い越されんや、然らば弓箭を帯し悪行を企つるに於ては行智云く近隣の人人争つて弓箭を奪い取り其の身に召し取ると云うが如き子細を申さざるや、矯飾(きょうじき)の至り宜しく賢察に足るべし。
日秀・日弁等は当寺代代の住侶として行法(ぎょうぼう)の薫修(くんじゅう)を積み天長地久の御祈祷を致すの処に行智は乍(たちまち)に当寺霊地の院主代に補し寺家・三河房頼円並に少輔房(しょううぼう)日禅・日秀・日弁等に行智より仰せて、法華経に於ては不信用の法なり速(すみやか)に法華経の読誦を停止(ちょうじ)し一向に阿弥陀経を読み念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せしむるの間、頼円は下知に随つて起請を書いて安堵せしむと雖も日禅等は起請を書かざるに依つて所職の住坊を奪い取るの時・日禅は即ち離散せしめ畢んぬ、日秀・日弁は無頼(むらい)の身たるに依つて所縁を相憑(あいたの)み猶寺中に寄宿せしむるの間此の四箇年の程・日秀等の所職の住坊を奪い取り厳重の御祈祷を打ち止むるの余り悪行猶以て飽き足らず為に法華経行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈在世の調達(ちょうだつ)に非ずや。

 凡そ行智の所行は、法華三昧の供僧・和泉房蓮海を以て、法華経を柿紙(しぶかみ)に作り紺形に彫るは重科の上謗法なり。仙予国王は閻浮第一の持戒の仁、慈悲喜捨を具足する菩薩の位なり。而も又師範なり。然りと雖も法華経を誹謗するばら(婆羅)門五百人が頭を刎ね、其の功徳に依って妙覚の位に登る。歓喜仏の末、諸の小乗・権大乗の者法華経の行者覚徳比丘を殺害せんとす。有徳国王は諸の小権法師等を、或は射殺し、或は切り殺し、或は打ち殺して迦葉仏等と為る。戒日大王・宣宗皇帝・聖徳太子等は此の先証を追って仏法の怨敵を討罰す。此等の大王は皆持戒の仁にして、善政未来に流る。今行智の重科は□□べからざるか。然りと雖も日本一同に誹謗を為すの上は其の子細御尋ねに随って之を申すべし。

 堂舎修治の為に、日弁に御書下を給い構え置く所の上葺榑(うわぶきくれ)一万二千寸の内八千寸を之を私用(しゆう)せしむ、下方の政所代に勧めて去る四月御神事の最中に法華経信心の行人・四郎男を刄傷せしめ去る八月弥四郎坊男の頚を切らしむ、日秀等に頚を刎ぬる事を擬(ぎ)して此の中に書き入れ無智無才の盗人・兵部房静印(じょういん)より過料を取り器量の仁と称して当寺の供僧に補せしめ、或は寺内の百姓等を催し鶉狩(うずらがり)・狸殺(たぬきころし)・狼落(ししおち)の鹿を取りて別当の坊に於て之を食らい或は毒物を仏前の池に入れ若干(そこばく)の魚類を殺し村里に出して之を売る、見聞の人・耳目を驚かさざるは莫し仏法破滅の基(もとい)悲んで余り有り。此(か)くの如き不善の悪行・日日相積るの間日秀等愁歎(しゅうたん)の余り、依つて上聞を驚かさんと欲す、行智条条の自科を塞(ふさ)がんが為に種種の秘計を廻らし近隣の輩を相語らい遮(さえぎ)つて跡形も無き不実を申し付け日秀等を損亡(そんもう)せしめんと擬するの条言語道断の次第なり、冥に付け顕に付け戒めの御沙汰無からんや、所詮仏法の権実沙汰の真偽・淵底を究めて御尋ね有り且は誠諦(じょうたい)の金言に任せ且は式条の明文に准し禁遏(きんあつ)を加えられば守護の善神は変を消し擁護(おうご)の諸天は咲(えみ)を含まん、然れば則ち不善悪行の院主代・行智を改易せられ将た又本主此の重科を脱れ難からん何ぞ実相寺に例如せん、誤まらざるの道理に任せて日秀・日弁等は安堵の御成敗を蒙むり堂舎を修理せしめ天長地久御祈祷の忠勤を抽(ぬき)んでんと欲す、仍て状を勒し披陳(ひちん)言上件(くだん)の如し。

弘安二年十月 日 沙門 日秀 日弁等上

大体此の状の様有るべきか。但し熱原の沙汰の趣に其の子細出来せるか。

# by johsei1129 | 2019-11-14 21:27 | 日興上人 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 14日

一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人、但日蓮一人なりと説いた書【聖人御難事】

【聖人御難事】
■出筆時期:弘安二年十月一日(西暦1279年) 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:この書を認める前の九月二十一日、熱原の法難が発生。駿河熱原の農民・神四郎等20人が鎌倉に送られ牢に入れられる。これは駿河国方面で日興上人が中心となり天台宗の僧侶・信徒が数多く大聖人へ帰依するようになると、天台宗寺院からの弾圧が始まつた。特に熱原郷・滝泉寺院の行智(院主代)は策謀し、院主の田の稲を刈り取ったという無実の罪で大聖人信徒の農民を訴えた。
これまで自身、直弟子、また武家信徒への難は度々受けてきた大聖人門下だったが、一農民にまで及ぶという日蓮門下の信徒として最大の難を受けるという事態を受け、大聖人は一閻浮提総与(全世界の民衆に授与)する大御本尊の建立を決意、十月十二日に建立している。これは大聖人にとって出世本懐を遂げる重要な出来事となった。尚、捕らえられた20人の農民は、侍所・平左衛門尉の私邸で取り調べられ、大聖人への信仰を捨てるよう強く迫られたが、全員がそれに最後まで屈せず、神四郎・弥五郎・弥六郎の3兄弟は十月十五日刑死し、残りの17人は追放された。

本書で大聖人は、弟子一同に向け「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。」と説いて、末法の本仏としての内証を示されている。
また本書の宛先は人人御中(弟子・信徒一同)となっているが、書そのものは「さぶらうざへもん殿のもとにとどめらるべし」と記され、信徒として最も信頼の厚かった四条金吾の基に留めて置くよう指示されている。
■ご真筆: 中山法華経寺所蔵。
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[聖人御難事 ご真筆:中山法華経寺所蔵]

[聖人御難事 本文]

 去(い)ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に安房の国長狭郡(ながさごおり)の内東条の郷、今は郡(こおり)なり。天照太神の御くりや(厨)右大将(うたいしょうけ)家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其中の大難申す計りなし、先先に申すがごとし、余は二十七年なり。其の間の大難は各各かつ(且)しろしめせり。

 法華経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉(なおおんしつ)多し、況や滅度の後をや」云云。釈迦如来の大難はかずをしらず、其の中に馬の麦をもつて九十日、小指の出仏身血(すいぶつしんけつ)、大石の頂(いただき)にかかりし、善生比丘等の八人が身は仏の御弟子(みでし)、心は外道にともないて昼夜十二時に仏の短(ひま)をねらいし。無量の釈子の波瑠璃(はるり)王に殺されし、無量の弟子等が悪象にふまれし、阿闍世(あじゃせ)王の大難をなせし等、此等は如来現在の小難なり。況滅度後(きょうめつどご)の大難は竜樹・天親・天台・伝教いまだ値い給はず。法華経の行者ならずといわばいかでか行者にてをはせざるべき。又行者といはんとすれば仏のごとく身より血をあや(滴)されず、何(いか)に況や仏に過ぎたる大難なし。経文むなしきがごとし。仏説すでに大虚妄(こもう)となりぬ。

 而るに日蓮二十七年が間、弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきず(疵)をかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流(はいる)、又頭(くび)の座に望む。其の外に弟子を殺され、切られ、追出くわれう(過料)等かずをしらず。仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず。竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし、

 日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提(えんぶだい)の内に仏の御言を助けたる人、但日蓮一人なり。過去現在の末法の法華経の行者を軽賤(きょうせん)する王臣万民、始めは事なきやうにて終(つい)にほろびざるは候はず。日蓮又かくのごとし。始めはしるし(験)なきやうなれども今二十七年が間、法華経守護の梵釈・日月・四天等さのみ守護せずば、仏前の御誓むなしくて無間大城に堕(お)つべしと、おそろしく想う間今は各各はげむらむ。大田の親昌(ちかまさ)・長崎次郎兵衛の尉時綱(ときつな)・大進房が落馬等は法華経の罰(ばち)のあらわるるか。罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰(みょうばち)・四候。日本国の大疫病と大けかち(飢渇)と、どしうち(同士討)と他国よりせめらるるは総ばちなり。やくびやう(疫病)は冥罰なり。大田等は現罰なり別ばちなり。各各師子王の心を取り出して、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子・又かくのごとし。彼等は野干のほ(吼)うるなり、日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり。故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは、禍(とが)なかりけるを人のざんげん(讒言)と知りて許ししなり。今はいかに人申すとも聞きほどかずしては人のざんげんは用い給うべからず。設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等・天照太神・八幡の守護し給うゆへにばつ(罰)しがたかるべしと存じ給うべし。月月・日日につよ(強)り給へ。すこしもたゆ(撓)む心あらば魔たよりをうべし。

 我等凡夫のつたなさは、経論に有る事と遠き事はおそるる心なし。一定(いちじょう)として平等(へいら)も城等(じょうら)もいかりて此の一門をさんざんとなす事も出来せば、眼をひさ(塞)いで観念せよ。当時の人人のつくし(筑紫)へか・さされんずらむ。又ゆく人、又かしこに向える人人を我が身にひきあてよ。当時までは此の一門に此のなげきなし。彼等はげん(現)はかくのごとし殺されば又地獄へゆくべし。我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん。設えば灸治(やいと)のごとし。当時はいた(痛)けれども後の薬なればいた(疼)くていたからず。

 彼のあつわらの愚癡の者ども、いゐはげましてをどす事なかれ。彼等にはただ一えん(円)におもい切れ、よからんは不思議わるからんは一定とをもへ。ひだるし(空腹)とをもわば餓鬼道ををしへよ。さむしといわば八かん(寒)地獄ををしへよ。をそろししといわばたか(鷹)にあへるきじ(雉)、ねこ(猫)にあえるねずみ(鼠)を他人とをもう事なかれ。此れはこまごまとかき候事はかくとしどし(年年)、月月・日日に申して候へどもなごへ(名越)の尼、せう(少輔)房、のと(能登)房、三位房なんどのやうに候。をくびやう(臆病)物をぼへず、よくふかく、うたがい多き者どもは、ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけそら(空)をき(切)りたるやうに候ぞ。

 三位房が事は大不思議の事ども候いしかども、とのばら(殿原)のをもいには智慧ある者をそねませ給うかと、ぐちの人をもいなんと、をもいて物も申さで候いしが、はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ。なかなかさんざんと、だにも申せしかば、たすかるへんもや候いなん。あまりにふしぎさに申さざりしなり。又かく申せばおこ人どもは死もう(亡)の事を仰せ候と申すべし。鏡のために申す又此の事は彼等の人人も内内はおぢおそれ候らむとおぼへ候ぞ。
 人のさわ(騒)げばとて、ひやうじ(兵士)なんと此の一門にせられば此れへかきつけてたび候へ。恐恐謹言。

十月一日       日 蓮 花押
人人御中
さぶらうざへもん殿のもとにとどめらるべし。





# by johsei1129 | 2019-11-14 20:57 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 14日

熱原の法難が勃発した直後に認められ、事に当たり奮闘する日興上人等を御指南なされた【伯耆殿等御返事 】

【伯耆殿等御返事 】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)十月十二日  五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:弘安二年九月二十一日、神四郎、弥五郎、弥六郎始めとする20人の駿河・熱原の農民信徒が捕らえられ鎌倉に移送されるという「熱原」の法難が勃発する。大聖人は直ちに事にあたっていた日興上人を中心とする弟子信徒に対し、幕府問注所への対応方法その他について具体的に御指南された書と思われます。
■ご真筆:存在しない。古写本:日興上人筆(北山本門寺所蔵)

【伯耆殿等御返事 本文】

 大体此の趣を以て書き上ぐ可きか、但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等別に問注有る可からざるか、大進房・弥藤次入道等の狼藉の事に至つては、源(もと)行智の勧めに依りて殺害刄傷する所なり。
 
 若し又起請文に及ぶ可き云云の事之を申さば全く書く可からず、其の故は人に殺害刄傷せられたる上、重ねて起請文を書き失(とが)を守るは古今未曾有の沙汰なり、其の上行智の所行・書かしむる如くならば身を容(い)るる処なく行う可きの罪・方無きか、穴賢穴賢。
 此の旨を存じ問注の時・強強と之を申さば定めて上聞(じょうもん)に及ぶ可きか、又行智・証人立て申さば彼等の人人行智と同意して百姓等が田畠数十苅り取る由・之を申せ、若し又証文を出さば謀書の由之を申せ、事事証人の起請文を用ゆべからず、但し現証の殺害刄傷而已(のみ)、若し其の義に背く者は日蓮の門家に非ず日蓮の門家に非ず候、恐恐。

  弘安二年十月十二日         日 蓮 在 御 判
伯 耆 殿
 日 秀
 日 弁 等へ 下(くだ)す


    



# by johsei1129 | 2019-11-14 20:40 | 日興上人 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 14日

日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す、と説いた【寂日房 御書】

【寂日房御書】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)九月十六日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は日興上人が定めた六人の弟子の一人で大聖人に常随給仕された、寂日房日華上人に宛てられて書です。大聖人は本抄の文末で「此の事寂日房くわしくかたり給へ」と寂日房に指示され、文中では「父母となり其の子となるも必ず宿習なり」と記されていることから、寂日房の両親に本抄で記した法門を説き聞かせなさいと伝えたものと思われます。また大聖人は寂日房に対して「我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑い有ること無けん<中略>かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」と説いて、法華経弘通に更に励むよう諭されております。
■ご真筆: 現存していない。

[寂日房御書 本文]

 是まで御をとづれ(音信)かたじけなく候、夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり。

 日蓮は日本第一の法華経の行者なり、すでに勧持品の二十行の偈(げ)の文は日本国の中には日蓮一人よめり。
 八十万億那由佗の菩薩は口には宣(のべ)たれども修行したる人一人もなし、かかる不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人なり。父母となり其の子となるも必ず宿習なり、若し日蓮が法華経・釈迦如来の御使ならば父母あに其の故なからんや、例せば妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼の如し、釈迦多宝の二仏・日蓮が父母と変じ給うか、然らずんば八十万億の菩薩の生れかわり給うか、又上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹か不思議に覚え候、一切の物にわたりて名の大切なるなり、さてこそ天台大師・五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり。

 日蓮となのる事自解仏乗(じげぶつじょう)とも云いつべし、かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあらん、経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く斯(こ)の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と、此の文の心よくよく案じさせ給へ。斯人行世間(しにんぎょうせけん)の五の文字は上行菩薩・末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさ(指)しい(出)だして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり、此の山にしてもをこたらず候なり、今の経文の次下(つぎしも)に説いて云く「我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑い有ること無けん」と云云、かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり、彼のはんくわい(樊噲)ちやうりやう(張良)まさかどすみとも(将門・純友)といはれたる者は名を・をしむ故にはぢを思う故に・ついに臆したることはなし、同じはぢなれども今生のはぢは・もののかずならず・ただ後生のはぢこそ大切なれ、獄卒・だつえば(奪衣婆)懸衣翁(けんねおう)が三途河のはた(端)にて・いしやう(衣装)をは(剥)がん時を思食(おぼしめ)して法華経の道場へまいり給うべし、法華経は後生のはぢをかくす衣なり、経に云く「裸者の衣を得たるが如し」云云。

 此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ・よくよく信じ給うべし、をとこのはだへ(膚)をかくさざる女あるべしや・子のさむさをあわれまざるをや(親)あるべしや、釈迦仏・法華経はめ(妻)とをや(親)との如くましまし候ぞ、日蓮をたすけ給う事・今生の恥をかくし給う人なり後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし、昨日は人の上・今日は我が身の上なり、花さけばこのみなり・よめ(嫁)のしうとめ(姑)になる事候ぞ、信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱え給うべし。

 度度(たびたび)の御音信(おとずれ)申しつくしがたく候ぞ、此の事寂日房くわしくかたり給へ。

九月十六日          日 蓮 花押

 【妙法蓮華経 如来神力品 第二十一】

 於如来滅後 知仏所説経 因縁及次第 随義如実説
 如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇
 教無量菩薩 畢竟住一乗 是故有智者 聞此功徳利
 於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑

 [和訳]
如来の滅後に、仏が説く教の因縁と次第を知りて、義に随って実の如くに説かば
 日月の光明が、諸々の幽冥(くらやみ)を能く除くように、此の人は世間に行じて能く衆生の闇を滅し、
 無量の菩薩(求道者)を究極的に一乗(仏道)に住せしめる。是故に、智慧ある者はこの功徳の利を聞いて、
 我が滅度の後に、まさにこの教を受持すべし。此の人は仏道に於いて、必ず悟を得ることに疑いはない。

# by johsei1129 | 2019-11-14 20:35 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 14日

能く此の経を説き、能く此の経を持つ人は、則ち如来の使なりと説いた【源遠長流御書】

【四条金吾殿御返事(源遠長流御書)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279年)九月十五日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は四条金吾が主君からの御勘気により所領を召し上げられたもかかわらず、法華経信仰を貫き再び所領を賜ったことについて大聖人は「此れ程の不思議は候はず此れ偏に陰徳あれば陽報ありとは此れなり」と讃えられておられる。
また熱原の法難で寝返った大進阿闍梨、三位房について、金吾が皆に問題がある弟子であることを話していた通り罰を受けたことについて「大進阿闍梨の死去の事、末代のぎば(耆婆)いかでか此れにすぐべきと皆人、舌をふり候なり。さにて候いけるやらん、三位房が事さう四郎が事、此の事は宛も符契符契と申しあひて候」と記し、金吾の洞察力が優れていることに感嘆されている。
さらに法華経法師品第十を引いて「凡夫にて候へども口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり、過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり<中略>これをやしなはせ給う人人は豈浄土に同居するの人にあらずや」と記し、日蓮を供養し助けてくれる金吾とは、かならず浄土で同居つまり再び見えるであろうと金吾に慈愛の言葉をかけられておられる。
■ご真筆: 身延山久遠寺 曽存(明治8年の大火で消失)
[四条金吾殿御返事(源遠長流御書) 本文]

 
銭一貫文給いて頼基がまいらせ候とて法華経の御宝前に申し上げて候。定めて遠くは教主釈尊、並に多宝、十方の諸仏、近くは日月の宮殿にわたらせ給うも御照覧候ぬらん。さては人のよにすぐれんとするをば賢人、聖人とをぼしき人人も皆そねみ、ねたむ事に候。いわうや常の人をや。

 漢皇の王昭君をば三千のきさき(后)是をそねみ、帝釈の九十九億那由佗のきさきは橋尸迦(きょうしか)をねたむ。前(さき)の中書王をば、をの(小野)の宮の大臣(おとど)是をねたむ。北野の天神をば時平のおとど(大臣)是をざんそう(讒奏)して流し奉る。此等をもてをぼしめせ。入道殿の御内は広かりし内なれども、せばくならせ給いきうだち(公達)は多くわたらせ給う。内のとしごろ(年来)の人人、あまたわたらせ給へば、池の水すくなくなれば魚さわがしく、秋風立てば鳥こずえをあらそう様に候事に候へば、いくそばくぞ御内の人人そねみ候らんに、度度の仰せをかへし、よりよりの御心にたがはせ給へばいくそばくのざんげんこそ候らんに、度度の御所領をかへして今又所領給はらせ給うと云云。此れ程の不思議は候はず、此れ偏に陰徳あれば陽報ありとは此れなり。

 我が主に法華経を信じさせまいらせんと、をぼしめす御心のふかき故か。阿闍世王は仏の御怨(おんあだ)なりしが、耆婆大臣の御すすめによつて法華経を御信じありて代(よ)を持ち給う。妙荘厳王は二子(ふたりのみこ)の御すすめによつて邪見をひるがへし給う。此れ又しかるべし、貴辺の御すすめによつて今は御心もやわらがせ給いてや候らん、此れ偏に貴辺の法華経の御信心のふかき故なり。

 根ふかければ枝さかへ、源遠ければ流長しと申して、一切の経は根あさく流ちかく、法華経は根ふかく源とをし。末代・悪世までも、つきず・さかうべしと天台大師あそばし給へり。

 此の法門につきし人あまた候いしかども、をほやけ(公)わたくしの大難・度度重なり候いしかば、一年・二年こそつき候いしが、後後には皆或はをち、或はかへり矢をいる。或は身はをちねども心をち、或は心はをちねども身はをちぬ。

 釈迦仏は浄飯王の嫡子、一閻浮提を知行する事・八万四千二百一十の大王なり。一閻浮提の諸王・頭をかたぶけん上、御内に召しつかいし人十万億人なりしかども、十九の御年・浄飯王宮を出でさせ給いて檀特山に入りて十二年、其の間御とも(伴)の人五人なり。所謂拘鄰(くりん)と頞鞞(あび)と跋提(ばつだい)と十力迦葉と拘利(くり)太子となり。此の五人も六年と申せしに二人は去りぬ、残りの三人も後の六年にすて奉りて去んぬ。但一人残り給うてこそ仏にはならせ給いしか。法華経は又此れにもすぎて人信じがたかるべし、難信難解此れなり。又仏の在世よりも末法は大難かさなるべし。此れをこらへん行者は我が功徳には・すぐれたる事、一劫とこそ説かれて候へ。

 仏滅度後・二千二百三十余年になり候に、月氏一千余年が間・仏法を弘通せる人・伝記にのせて・かくれなし。漢土一千年・日本七百年・又目録にのせて候いしかども、仏のごとく大難に値える人人少し。我も聖人・我も賢人とは申せども、況滅度後の記文に値える人一人も候はず。竜樹菩薩・天台・伝教こそ仏法の大難に値える人人にては候へども、此等も仏説には及ぶ事なし。此れ即代(代)のあが(上)り法華経の時に生れ値はせ給はざる故なり。

 今は時すでに後五百歳・末法の始なり。日には五月十五日・月には八月十五夜に似たり。天台・伝教は先(さき)に生れ給へり、今より後は又のちぐへ(後悔)なり。大陣すでに破れぬ、余党は物のかずならず。今こそ仏の記しをき給いし後五百歳・末法の初・況滅度後の時に当りて候へば、仏語むなしからずば一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん。聖人の出ずるしるしには一閻浮提第一の合戦をこるべしと説かれて候に、すでに合戦も起りて候にすでに聖人や一閻浮提の内に出でさせ給いて候らん。きりん(麒麟)出でしかば孔子を聖人としる、鯉社な(鳴)つて聖人出で給う事疑なし。仏には栴檀の木を(生)ひて聖人としる。老子は二五の文を蹈(ふ)んで聖人としる。

 末代の法華経の聖人をば何を用つてかしるべき。経に云く「能説此経・能持此経の人・則如来の使なり」八巻・一巻・一品・一偈の人乃至題目を唱うる人・如来の使なり。始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり。
 
日蓮が心は全く如来の使にはあらず、凡夫なる故なり。但し三類の大怨敵にあだまれて二度の流難に値へば如来の御使に似たり。心は三毒ふかく一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり。過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり。現在を・とぶらうに加刀杖瓦石(かとうじょうがしゃく)にたがう事なし。未来は当詣道場疑いなからんか。これをやしな(養)はせ給う人人は、豈浄土に同居するの人にあらずや。事多しと申せどもとどめ候心をもて計らせ給うべし。

 ちごのそらう(所労)よくなりたり悦び候ぞ。又大進阿闍梨の死去の事、末代のぎば(耆婆)いかでか此れにすぐべきと皆人、舌をふり候なり。さにて候いけるやらん、三位房が事さう四郎が事、此の事は宛(あたか)も符契符契と申しあひて候。日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすしをば用いまじく候なり。

九月十五日                 日 蓮 花押
四条金吾殿


【妙法蓮華経 法師品第十】

我滅度後。能窃為一人。説法華経。乃至一句。当知是人。
則如来使。如来所遣。行如来事。何況於大衆中。広為人説。
(和訳)
我滅度の後、よく窃(ひそ)かに一人の為に、法華経の一句でも説けば、この人は即ち如来の使いにして、如来に遣わされ、如来の事(仕事)を行ずる人である。まして大衆の中において広く説くとするなら、尚更である。

# by johsei1129 | 2019-11-14 20:28 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
2019年 11月 14日

日蓮が一類は異体同心なれば人人少なく候へども大事を成じて一定法華経広まりなん、と説いた【異体同心事】

【異体同心事】
■出筆時期:弘安二年(1279)八月 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草案にて。
■出筆の経緯:本書は駿河国富士郡上野郷の地頭、南条時光に宛てらけたご消息文です。本書がしたためられた弘安二年には、日興上人と時光の教化により駿河国富士郡の布教が進んだが、それに伴い既存宗派との軋轢が生じた。四月八日に熱原郷の信徒・四郎男が何者かに斬りつけられ、八月には弥四郎がこれも何者かにいきなり斬首されるという悲惨な事件が起きる。さらに十月には熱原の法華信徒二十名が、天台宗・滝泉寺の院主代行智と鎌倉幕府の最高実力者平頼綱の謀略により捕縛されるという、いわゆる「熱原の法難」が勃発する。日蓮門下の農民信徒にまで弾圧が及ぶという、最大の法難に立ち向かったのが日興上人と在家の強信徒・南条時光であった。大聖人は時光に「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候」と励ますとともに「今度はいかにもすぐれて御心ざし見えさせ給うよし人人も申し候。又かれらも申し候」と、時光の厚い法華信徒外護の姿勢を讃えられている。 
■ご真筆: 現存していない。

[異体同心事 本文]

白小袖一つあつわた(厚綿)の小袖はわき(伯耆)房のびんぎ(便宜)に鵞目一貫並びにうけ給わる。

 はわき房、さど房等の事、あつわらの者どもの御心ざし異体同心なれば万事を成(じょう)し、同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は、外典三千余巻に定りて候。

 殷の紂王は七十万騎なれども、同体異心なればいくさにまけぬ。周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ。一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成(じょう)ずる事なし。百人・千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず。日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし。

 日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて、一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ。此の一門も又かくのごとし。

 其の上貴辺は多年としつもりて奉公、法華経にあつ(厚)くをはする上、今度はいかにもすぐれて御心ざし見えさせ給うよし人人も申し候。又かれらも申し候。
 一一に承りて日天にも大神にも申し上げて候ぞ。

# by johsei1129 | 2019-11-14 20:13 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)