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2016年 11月 10日

開目抄の要点解説 その十二

日蓮大聖人はいよいよ開目抄の終段に入ると、法華経の布教方法に法華経安楽行品に説かれている「摂受」と、法華経常不軽品に説かれた「折伏」があることを示し、今末法の日本国は破法の国で折伏を行じなければならないと、門下一同を諭します。

汝が不審をば世間の学者・多分・道理とをもう。いかに諌暁すれども日蓮が弟子等も此のをもひをすてず一闡提人の・ごとくなるゆへに先づ天台・妙楽等の釈をいだして・かれが邪難をふせぐ。夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ。
摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし。譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木は日輪の眷属・寒月に苦をう諸水は月輪の所従・熱時に本性を失う、末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし。
 問うて云く念仏者・禅宗等を責めて彼等に・あだまれたる・いかなる利益かあるや、答えて云く涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」等云云。「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云。

そして最後に日蓮大聖人は本抄、開目抄の冒頭で説いた「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」に呼応し、ご自身が主師親の三徳を備えた末法の本仏であることを宣言なされ本抄を締めくくります。

日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり。一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親」等云云。無道心の者生死をはなるる事はなきなり、教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をたつと伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず。

愚人にほめられたるは第一のはぢなり、日蓮が御勘気を・かほれば天台・真言の法師等・悦ばしくや・をもうらんかつはむざんなり・かつはきくわいなり、夫れ釈尊は娑婆に入り羅什は秦に入り伝教は尸那に入り提婆師子は身をすつ薬王は臂をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉をうる楽法は骨を筆とす。天台の云く「適時而已」等云云。
仏法は時によるべし。日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし。
開目抄の要点解説 完。

補足:
日蓮大聖人は開目抄を著わされた数か月後に、強信徒の富木常忍に宛てた消息で次のように「開目抄」の意義について説かれておられます。

[富木殿御返事 本文]
鵞目員数の如く給び候い畢んぬ。御志申し送り難く候、法門の事、先度四条三郎左衛門尉殿に書持せしむ、其の書能く能く御覧有る可。粗経文を勘え見るに日蓮法華経の行者為る事疑無きか。
 但し今に天の加護を蒙らざるは一には諸天善神此の悪国を去る故か。二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか。三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか等、一一の証文道理追て之を進せしむべし。但し、生涯本より思い切て候、今に飜返ること無く其の上又違恨無し。諸の悪人は又善知識なり、摂受・折伏の二義仏説に依る。敢て私曲に非ず万事霊山浄土を期す、恐恐謹言。
卯月十日十日     日 蓮  花押
土木殿
日蓮が臨終一分も疑無く頭を刎ねらるる時は殊に喜悦有るべし、大賊に値うて大毒を宝珠に易ゆと思う可きか。




by johsei1129 | 2016-11-10 20:20 | 開目抄(御書五大部) | Comments(0)
2016年 11月 08日

開目抄の要点解説 その十一

日蓮大聖人は、自身が佐渡流罪されたことにより門下の弟子・信徒に退転者が続出したことに対し、「此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし」と、説くと共に、如何なる難があろうとも法華経の信仰を貫き通すよう、弟子信徒を強くかつ厳しく励まします。

「又云く「三障四魔紛然として競い起る」等云云我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠等を奪いとりせしこと・かずしらず、当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし。又法華経の行者の頚を刎こと其の数をしらず此等の重罪はたせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、果すも余残いまだ・つきず、生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし、功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり、権経を行ぜしには此の重罪いまだ・をこらず鉄を熱にいたう・きたわざればきず隠れてみえず、度度せむれば・きずあらはる、麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし。
今、日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し木をもつて急流をかけば波山のごとし睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ」と。


「此の一念三千も我等一分の慧解もなし、而ども一代経経の中には此の経計り一念三千の玉をいだけり、余経の理は玉に・にたる黄石なり沙をしぼるに油なし石女に子のなきがごとし。
諸経は智者・猶仏にならず此の経は愚人も仏因を種べし不求解脱・解脱自至等と云云。
我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし、妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし」と。

開目抄の要点解説 その十二に続く




by johsei1129 | 2016-11-08 22:25 | 開目抄(御書五大部) | Comments(0)
2016年 11月 07日

開目抄の要点解説 その十

日蓮大聖人は再度、日本国に法華経の行者は存在しないのかと門下に問いかけた上で、法華経の行者としての究極の一念を吐露します。

仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし・いかがせん・いかがせん。

抑たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるる誰の僧か刀杖を加へらるる、誰の僧をか法華経のゆへに公家・武家に奏する・誰の僧か数数見擯出と度度ながさるる、日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし、日蓮は法華経の行者にあらず天これを・すて給うゆへに、誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん、仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし。

 有る人云く当世の三類はほぼ有るににたり、但し法華経の行者なし汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり、此の経に云く「天の諸の童子以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わざらん」又云く「若し人悪罵すれば口則閉塞す」等、又云く「現世には安穏にして後・善処に生れん」等云云、又「頭破れて七分と作ること阿梨樹の枝の如くならん」又云く「亦現世に於て其の福報を得ん」等又云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出せば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん」等云云。

答えて云く汝が疑い大に吉しついでに不審を晴さん。不軽品に云く「悪口罵詈」等、又云く「或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等云云、涅槃経に云く「若しは殺若しは害」等云云、法華経に云く「而かも此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し」等云云、仏は小指を提婆にやぶられ九横の大難に値い給う此は法華経の行者にあらずや、不軽菩薩は一乗の行者といはれまじきか、目連は竹杖に殺さる法華経記べつの後なり、付法蔵の第十四の提婆菩薩・第二十五の師子尊者の二人は人に殺されぬ。此等は法華経の行者にはあらざるか  (中略)

詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん。身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり。善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし。大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり。其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず


開目抄の要点解説 その十一に続く





by johsei1129 | 2016-11-07 22:59 | 開目抄(御書五大部) | Comments(0)
2016年 10月 31日

開目抄 要点解説 その八

開目抄の下巻にはいり、日蓮大聖人は自身が末法の本仏であることを随自意(※)で次第に説き始めます。

我が一門の者のためにしるす、他人は信ぜざれば逆縁なるべし。一たいをなめて大海のしををしり一華を見て春を推せよ、万里をわたて宋に入らずとも三箇年を経て霊山にいたらずとも竜樹のごとく竜宮に入らずとも無著菩薩のごとく弥勒菩薩にあはずとも二所三会に値わずとも一代の勝劣はこれをしれるなるべし、蛇は七日が内の洪水をしる竜の眷属なるゆへ烏は年中の吉凶をしれり過去に陰陽師なりしゆへ鳥はとぶ徳人にすぐれたり。
日蓮は諸経の勝劣をしること華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の弘法にすぐれたり、天台・伝教の跡をしのぶゆへなり、彼の人人は天台・伝教に帰せさせ給はずば謗法の失脱れさせ給うべしや。
当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし、大海の主となれば諸の河神・皆したがう須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし」

そして開目抄を流罪先の佐渡の地で書き著した因縁を次のように解き明かします。
日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十を方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし」と。

※随自意:衆生の機根にかまわず、仏の内証のそのまま説くことを言い、随他意とは、衆生の機根に応じて法を説くことをいいます。


開目抄 要点解説 その九に続く




by johsei1129 | 2016-10-31 19:36 | 開目抄(御書五大部) | Comments(0)
2016年 10月 30日

開目抄 要点解説 その七

日蓮大聖人は「開目抄上」の終段で、門下へ本抄の中で三度目となる「日蓮が華経の行者ならざるか(中略)いかに・なりぬるやらんと大疑いよいよつもり候」と、問い質します。
これは妙法蓮華経 如来寿量品第十六の冒頭で展開する「三誡三請(釈尊が対合衆の弥勒菩薩に教説を信受すべきと三度誡め、それに対し弥勒菩薩が三度説法を請う)」を彷彿させます。

而るに四十余年の経経をば東春の大日輪・寒冰を消滅するがごとく、無量の草露を大風の零落するがごとく、一言一時に未顕真実と打ちけし、大風の黒雲をまき大虚に満月の処するがごとく青天に日輪の懸り給うがごとく、世尊法久後・要当説真実と照させ給いて華光如来・光明如来等と舎利弗・迦葉等を赫赫たる日輪・明明たる月輪のごとく鳳文にしるし亀鏡に浮べられて候へばこそ、如来滅後の人天の諸檀那等には仏陀のごとくは仰がれ給しか。
水すまば月・影を・をしむべからず風ふかば草木なびかざるべしや。

法華経の行者あるならば此等の聖者は大火の中をすぎても大石の中を・とをりてもとぶらはせ給うべし。い迦葉の入定もことにこそ・よれ、いかにと・なりぬるぞ・いぶかしとも申すばかりなし。後五百歳のあたらざるか広宣流布の妄語となるべきか、日蓮が法華経の行者ならざるか、法華経を教内と下して別伝と称する大妄語の者をまほり給うべきか、捨閉閣抛と定めて法華経の門をとぢよ巻をなげすてよと・ゑりつけて法華堂を失える者を守護し給うべきか、仏前の誓いはありしかども濁世の・大難のはげしさ・をみて諸天下り給わざるか、日月・天にまします須弥山いまも・くづれず海潮も増減す四季も・かたのごとく・たがはず・いかに・なりぬるやらんと大疑いよいよ・つもり候」

[妙法蓮華経 如来寿量品第十六]

爾時仏告諸菩薩。及一切大衆。諸善男子。
汝等当信解。如来誠諦之語。復告大衆。汝等当信解。
如来誠諦之語。又復告諸大衆。汝等当信解。
如来誠諦之語。是時菩薩大衆。弥勒為首。
合掌白仏言。世尊。唯願説之。我等当信受仏語。
如是三白已。復言。唯願説之。我等当信

受仏語。爾時世尊。知諸菩薩。三請不止。
而告之言。汝等諦聴。如来秘密。神通之力。
一切世間天人。及阿脩羅。皆謂今釈迦牟尼仏。
出釈氏宮。去伽耶城不遠。坐於道場。得阿耨多羅三藐三菩提。
然善男子。我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由佗劫。
[和訳]

爾時仏(釈尊)は、諸菩薩及び一切の大衆に告げたもう。「諸の善男子よ、
汝等ら当に如来の誠諦(真実)の語を信解すべし。復た大衆に告げたもう。
汝等は当に如来の誠諦の語を信解すべし。復た大衆に告げたもう。
汝等は当に如来の誠諦の語を信解すべし」と。
是の時、菩薩の大衆は弥勒を首となして、合掌して仏に白して言く、「世尊よ唯願わくば之を説きたまえ。我等は当に信受すべし」と。
是の如く三たび白し已りて、復た言く。「唯願わくば之を説きたまえ。我等は当に信受すべし」と。
爾の時世尊は、諸の菩薩の三たび請いて止ざるを知りて。而、之の言を告げん

「汝等よ、諦に聴かん。如来の秘密、神通の力を。
一切世間の天人、及び阿脩羅は皆、今の釈迦牟尼仏は、釈迦族の王宮を出て、
伽耶城(※)を去りて遠からず、道場(※)に於いて座して、
阿耨多羅三藐三菩提(仏の悟りの境地)を得たと謂えり。然に善男子よ。我、実に成仏して已来、無量無辺・百千万億・那由佗劫(※)なり。

※伽耶城:釈尊在世当時のインドの大国マカダ国の都城
※道場:釈尊は法華経の開教・無量義経で、菩提樹の下に端座し六年にて成道したと説いている。
※由佗劫:仏教上、極めて大きな数量のことで、一般的には10の60乗とされてる。

開目抄 要点解説 その八に続く






by johsei1129 | 2016-10-30 21:04 | 開目抄(御書五大部) | Comments(0)
2016年 10月 29日

開目抄 要点解説 その六

日蓮大聖人は「何故、法華経の行者に諸天の加護がないのかと」いう日蓮門下の疑いに答えるために、最初に日蓮と同様に釈尊も度々大難に有っていることを明示します。これは同時に日蓮大聖人が末法の本仏であることを宣言する為の、重要な根拠を示すことにもなります。

仏すら九横の大難にあひ給ふ、所謂提婆が大石をとばせし阿闍世王の酔象を放ちし阿耆多王の馬麦・婆羅門城のこんづ・せんしや婆羅門女が鉢を腹にふせし。
何に況や所化の弟子の数難申す計りなし、無量の釈子は波瑠璃王に殺され千万の眷属は酔象にふまれ、華色比丘尼は提婆にがいせられ迦廬提尊者は馬糞にうづまれ、目けん尊者は竹杖にがいせらる。

其の上六師同心して阿闍世・婆斯匿王等に讒奏して云く「瞿曇(釈尊)は閻浮第一の大悪人なり、彼がいたる。処は三災七難を前とす、大海の衆流をあつめ大山の衆木をあつめたるが・ごとし。
瞿曇がところには衆悪をあつめたり、所謂迦葉・舎利弗・目連・須菩提等なり。
人身を受けたる者は忠孝を先とすべし、彼等は瞿曇にすかされて父母の教訓をも用いず、家をいで王法の宣旨をも・そむいて山林にいたる。
一国に跡をとどむべき者にはあらず、されば天には日月・衆星・変をなす地には衆夭さかんなりなんど・うつたう、堪べしとも・おぼえざりしに又うちそうわざわいと仏陀にもうちそい・がたくて・ありしなり。
人天大会の衆会の砌にて時時呵嘖の音をききしかば・いかにあるべしとも・おぼへず只あわつる心のみなり、其の上大の大難の第一なりしは浄名経の「其れ汝に施す者は福田と名けず汝を供養する者は三悪道に堕す」等云云。

文の心は仏・菴羅苑と申すところにをはせしに、梵天・帝釈・日月・四天・三界諸天・地神・竜神等・無数恒沙の大会の中にして云く、須菩提等の比丘等を供養せん天人は三悪道に堕つべし。此等をうちきく天人・此等の声聞を供養すべしや。

詮ずるところは仏の御言を用つて諸の二乗を殺害せさせ給うかと見ゆ。心あらん人人は仏をも・うとみぬべし。されば此等の人人は仏を供養したてまつりしついでにこそ、わづかの身命をも扶けさせ給いしか。されば事の心を案ずるに四十余年の経経のみとかれて法華八箇年の所説なくて御入滅ならせ給いたらましかば、誰の人か此等の尊者をば供養し奉るべき。現身に餓鬼道にこそ・をはすべけれ」


開目抄 要点解説 その七に続く




by johsei1129 | 2016-10-29 22:04 | 開目抄(御書五大部) | Comments(0)
2016年 10月 28日

開目抄 要点解説 その五

日蓮大聖人はさらに自身が法華経勧持品の二十行の偈に説かれた法華経の行者であることの核心に迫り、「日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし」と断じます。
また何故法華経の行者に諸天の加護がないのかという疑いについて「此の疑は此の書(開目抄)の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし」と門下一同に問いただし、引き続いて論を展開していきます。

「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし。

定んで天の御計いにもあづかるべしと存ずれども一分のしるしもなし、いよいよ重科に沈む、還つて此の事を計りみれば我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし。

而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし。

経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある。
日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云。
日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり、例せば世尊が付法蔵経に記して云く「我が滅後・一百年に阿育大王という王あるべし」
摩耶経に云く「我が滅後・六百年に竜樹菩薩という人・南天竺に出ずべし」大悲経に云く「我が滅後・六十年に末田地という者・地を竜宮につくべし」此れ等皆仏記のごとくなりき、しからずば誰か仏教を信受すべき、而るに仏・恐怖悪世・然後末世・末法滅時・後五百歳なんど正妙の二本に正しく時を定め給う、当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん、日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん、南三・北七・七大寺等・猶像法の法華経の敵の内・何に況や当世の禅・律・念仏者等は脱るべしや。
経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ゜悦びをますべし。

例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし、此れも又かくのごとし当時の責はたうべくも・なけれども未来の悪道を脱すらんと・をもえば悦びなり。但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん。
諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし。

 [妙法蓮華経 勧持品第十三]の二十行の偈
 [原文]
 唯願不為慮 於仏滅度後 恐怖悪世中 我等当広説

 有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者 我等皆当忍

 悪世中比丘 邪智心諂曲 未得謂為得 我慢心充満

 或有阿練若 納衣在空閑 自謂行真道 軽賎人間者

 貪著利養故 与白衣説法 為世所恭敬 如六通羅漢

 是人懐悪心 常念世俗事 仮名阿練若 好出我等過

 而作如是言 此諸比丘等 為貪利養故 説外道論議

 自作此経典 誑惑世間人 為求名聞故 分別説是経

 常在大衆中 欲毀我等故 向国王大臣 婆羅門居士

 及余比丘衆 誹謗説我悪 謂是邪見人 説外道論議

 我等敬仏故 悉忍是諸悪 為斯所軽言 汝等皆是仏

 如此軽慢言 皆当忍受之 濁劫悪世中 多有諸恐怖

 悪鬼入其身 罵詈毀辱我 我等敬信仏 当著忍辱鎧

 為説是経故 忍此諸難事 我不愛身命 但惜無上道

 我等於来世 護持仏所嘱 世尊自当知 濁世悪比丘

 不知仏方便 随宜所説法 悪口而顰蹙 数数見擯出

 遠離於塔寺 如是等衆悪 念仏告勅故 皆当忍是事

 諸聚落城邑 其有求法者 我皆到其所 説仏所嘱法

 我是世尊使 処衆無所畏 我当善説法 願仏安穏住

 我於世尊前 諸来十方仏 発如是誓言 仏自知我心
[和訳]
唯、願くば慮いを為さず、仏滅後の後に於いて恐怖悪世の中にて我等当に広く説くべし。
諸の無智な人有りて 悪口罵詈等及び刀杖を加える者を、我等皆、当に忍べし。

悪世中の比丘は邪智にして心諂曲にて、未だ得ずに得たりと謂う我慢の心充満せり。

或は阿練若に有りて納衣にて空閑に在り、自ら真道を行ずと謂いて人間を軽賎する者あり。

利養に貪著する故に白衣(※在家)の為にに説為法し、世(人)の為に恭敬せらる所、六通の羅漢の如し。

是人は悪心を懐いて常に世俗の事を念じ、名を阿練若に仮りて(※)好んで我等の過を出だし、
而も是の如き言を作す「此諸の比丘等は利養に貪する故に外道の論議を説き、自ら此の経典作り世間の人を誑惑し、名聞を求むる故に分別して是の経を説く」と。

常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲する故に、国王大臣、婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かい、誹謗し我が悪を説き「是、邪見の人、外道の論議を説く」と謂わん。
我等は仏を敬う故に悉く是の諸悪を忍ばん。斯(悪世の比丘)の為に軽ぜられれ「汝等は皆是仏なり」と言われても、此の如き軽慢の言を、皆当に忍て之を受けん。
濁劫の悪世の中、多く諸の恐怖あり、悪鬼は其の身に入り我を罵詈毀辱せりとも、我等は仏を敬信する故に、当に忍辱の鎧を著す。
是経を説く為の故に此の諸難事を忍ばん。 我、身命愛せず 但、無上道を惜しむ。

我等は来世に於いて仏に嘱せし所を護持せり。世尊は自から当に知るらん、濁世の悪比丘は 仏が方便にて随宜に説法する所を知らず、悪口し而して顰蹙し数数、擯出をあらわし塔寺より遠離せしめん。是の如き衆悪等を仏の告勅を念ずる故に、皆当に是事を忍べし。

諸の聚落・城邑にて其の法を求むる者有らば、我皆、到其所に到りて仏の所嘱する法を説かん。

我是、世尊の使なれば処衆に処して畏る所なし。我当に善く法を説くべし。願くば仏、安穏に住したまえ。
我、世尊の前に於いて諸の来たりたる十方の仏に是如き誓言を発せり。願わくば仏、自から我が心を知ろしめなされまし。
※白衣:釈尊当時の出家僧は糞掃衣(ふんぞうえ)と言わlるぽろぎれをはぎ合わせた布を身にまとっていた。そのため白衣とは出家僧でない在家の人を意味します。
※阿練若:空閑所と訳され山林等の比丘(僧)が静かに修行する所。

開目抄 要点解説 わその六に続く




by johsei1129 | 2016-10-28 21:18 | 開目抄(御書五大部) | Comments(0)
2016年 10月 25日

開目抄 要点解説 その二

日蓮大聖人が自ら名付けられた開目抄の題号である「開目」とは何を意味しておられるのか?
日蓮大聖人はいくつかの御書で「開目」について説かれております。
まず最初に御書五大部の一つ「報恩抄」では次のように説かれております。

「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ。
此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり、極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳(のみ)。
春は花さき秋は菓なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや」

さらに【乙御前御消息】では妙法蓮華経 見宝塔品第十一の最後の偈を引いて次のように示されておられます。
「日蓮を供養せる男女は武内・若宮なんどのやうにあがめらるべしと・おぼしめせ。抑一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし、況や日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや、何に況や一閻浮提・四天下の人の眼のしゐたるを・あけて候はんをや。
法華経の第四に云く「仏滅度の後に能く其の義を解せんは是諸の天人世間之眼なり」等云云。法華経を持つ人は一切世間の天人の眼なりと説かれて候。日本国の人の日蓮をあだみ候は一切世間の天人の眼をくじる人なり。

つまり「開目」とは日蓮大聖人が、律、禅、真言、念仏等の法華経以前の爾前経に執着し盲目になっている末法の衆生の目を開けて、妙法蓮華経という正法を示すことを意味しております。
日蓮大聖人は開目抄の冒頭で「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」と示され、「儒外内」の教えをそれぞれ分別し、妙法蓮華経が末法の正法であることを懇切丁寧に説き明かされ、さらに日蓮門下の弟子・信徒に自身が末法の妙法蓮華経の行者であることを示されていき、その上で終段で末法の本仏であることを宣言なされます。

[妙法蓮華経 見宝塔品第十一]
仏滅度後 能解其義 是諸天人 世間之眼
於恐畏世 能須臾に説 一切天人 皆応供養

[和訳]
仏の滅度の後に其の義(法華経)を能く解かば 是、諸の天・人の世間の眼なり。
恐畏の世に於いて能く須臾(一瞬)でも説かば、一切の天・人は皆、応に(この人を)供養すべし。


[開目 要点解説] その三に続く


by johsei1129 | 2016-10-25 23:27 | 開目抄(御書五大部) | Comments(0)
2016年 10月 24日

開目抄 要点解説 その一

開目抄は日蓮大聖人が佐渡に流罪されて最初にあらわされた御書であり、最も長文の御書です。

御書名の【開目抄】は日蓮大聖人自ら名付けられておられ、第二祖日興上人が定めた御書五大部の一つでもあります。

この御書五大部は述作年順に、立正安国論、開目抄、観心本尊抄、選時抄、報恩抄となりますが、全て日蓮大聖人が自ら

題号を名づけられておられ、謂わば五大部は、末法の本仏日蓮大聖人が説き明かした「経」であると言っても過言で

はありません。

日蓮大聖人は開目抄述作の意義について「種種御振舞御書」に次のように認められておられます。
「去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり。此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ、たもたず。人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり。平左衛門既に日本の柱をたをしぬ。只今世乱れてそれともなく、ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし。例せば立正安国論に委しきが如し。かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉(※四条金吾)が使にとらせぬ」


さらに開目抄の本文の中にて「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし」と認められ、この開目抄は、釈迦始め諸仏が今の日本を映し出す「明鏡」でもあり、日蓮の「かたみ」であると見るべきである」と門下一同に説かれておられます。

大石寺二十六世日寛上人は『開目抄愚記』にて開目抄は人本尊開顕の書であり、同じく佐渡であらわされた観心本尊抄を法本尊開顕の書と断言されておられます。

人本尊開顕つまり末法の本仏であると明かされている根拠を次に示します。

日蓮大聖人は開目抄の冒頭で「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」と示されます。これは一切衆生の尊敬すべき者は仏であることを前提に、仏とは主師親の三徳を備えていることを示されています。そして本抄の後段で「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」と宣言されご自身が主師父母の三徳を備えた末法の本仏であると宣言されておられます。

ここでいう衆生の父とは仏の尊称の異名であります。法華経では仏の尊称として世尊、如来、導師、教師等が記されていますが、特に釈尊は自身を「衆生の父」と度々宣言されています。決して「我、仏なり」とは宣言されておられません。

また法華経で説かれている諸菩薩が、自ら「我、衆生の父となりて」と説かれている「偈」はありません。

妙法蓮華経 如来寿量品第十六の終段で釈尊は次のように説かれています。

[原文]
我亦為世父 救諸苦患者 為凡夫顛倒 実在而言滅
以常見我故 而生驕恣心 放逸著五欲 墮於悪道中 
我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法 

[和訳]
我、亦、世の父と為りて、諸の苦患を救う者なり 凡夫が顛倒(本心を失う)する為に、(仏が)実在すとも而

して滅すと言うのだ。
常に我を見る故を以て、而して驕恣(おごり)の心を生じ、放逸し五欲に著し、(凡夫)は悪道中に墮す 
我、常に衆生が仏道を行じ、行ぜずを知りて、度(教化)す可き所に随応し、為に種種の法を説くのだ。 
(仏は)毎に自から是の念を為す。以何にして衆生を無上道(仏道)に得入し 速やかに仏身を成就させんと。


[妙法蓮華経 譬諭品第三]
如来亦復如是。則為一切。世間之父。於諸怖畏。
衰悩憂患。無明暗蔽。永尽無余。而悉成就。
無量知見。力。無所畏。有大神力。及智慧力。
具足方便。智慧波羅蜜。大慈大悲。常無懈倦。
恒求善事。利益一切


舎利弗。仏見此已 便作是念。我為衆生之父
応拔其苦難。与無量無辺。仏智慧楽。令其遊戲。
[和訳]
舎利弗よ、 仏、此を已に見て 便ち是の念をなせり。我、衆生の父と為りて
応に其の苦難を抜き、無量無辺の仏の智慧の楽を与え 其に遊戲せしまん。

[化城諭品第七]
今仏出於世 為衆生作眼 世間所帰趣 救護於一切 
為衆生之父 哀愍饒益者 我等宿福慶 今得値世尊
[和訳]
今、仏は世に出でて 衆生の為に眼となり 世間の帰趣する所として 一切を救護し 
衆生の父と為りて 哀愍し饒益したまう者なり 我等(衆生)に宿福の慶びありて 今、世尊に値いたまうを得たり


[開目抄 要点解説] その二に続く




by johsei1129 | 2016-10-24 22:31 | 開目抄(御書五大部) | Comments(0)