日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 11月 18日

補足 日蓮弟子檀那列伝

浄顕房・義浄房

日蓮が清澄寺で修行した時の兄弟子で立宗宣言後、日蓮に帰依(きえ)する。師道善房が逝去すると日蓮は師を弔うために「報恩抄」を書き上げ、日向を使者に持たせて浄顕房・義浄房に送られる。さらに「御()へと義成房と二人、此の御房(浄顕房)()()として(かさ)もり()の頂にて二三遍、又故道善御房の御はか()にて一遍よませさせ給いては此の御房にあづけさせ給いて、つねに御聴聞(ちょうもん)候へ」とご指南なされている。尚、道善房死去後、浄顕房は清澄寺の山主となったため、日蓮は清澄寺の代表として浄顕房に報恩抄を預けられた。


工藤左近尉吉隆

天津の人で大聖人の信者であった。文永元年十一月十一日、大聖人を華房(はなぶさ)蓮華寺より自宅に御招待した。その途中小松原で登場左衛門に要撃され、この急を聞いて吉隆が馳せつけ、景信と戦ったが(しゅう)()敵せず、吉隆は鏡忍房と共に身命を捨てて大聖人を御守りした強信者である。(日享)


三位房日行

 下総の出身にして早く大聖人の門に投じ、叡山に留学し秀才に任せてややもすれば宗祖の御意に背くことがあって(しば)(しば)訓戒を(こうむ)るといえども、然も門下に重きをなしていた。為に日興上人富士弘教の補助を命ぜられ、または諸宗問答の主任に当たらしめられたことがある。惜しいかな信念全からず、(かえ)って大聖人弘教の(さまた)げとなって晩年を全うしなかった。(日享)


宿屋左衛門入道光則

 幕府に仕えていた人であり、安国論はこの人によって献上された。その後極楽寺良観等の帰依をやめて大聖人の信仰に入った。(日享)


弥源太入道

 北条の一門で立正安国論当時より大聖人に心を寄せた者である。大石寺にある宗近の名刀は弥源太の奉納したものであるという。(日享)


富木常忍・大田乗明・曾谷教信 

富木常忍は下総国葛西郡若宮に法華堂を建立する。法友・大田乗明の子息日高を後継者として迎え、後に大田乗明が中山に本妙寺を起こすと、日高は若宮の法華堂を本妙寺と合併させる。これが現在の中山法華経寺となる。富木常忍は千葉氏の文書官であったこともあり日蓮から送られた重要御書の厳護に努め、数多くの真筆が所蔵されている。そのなかでも国宝に指定された「立正安国論」と「観心本尊抄」の所蔵は特筆すべきものである。

大田乗明は、日蓮大聖人ご在世当時の信徒の中では最も法門の理解が深かったと思われ、大聖人の内証をしるされた重要御書を送られている。その一つが将来の本門の戒壇を遺命した「三大秘法稟承事」である。弘安二年二月十七日に四月二十六日卒。

曾谷教信は大田乗明同様、富木常忍の屋敷で開かれた「百座説法」で日蓮の法話を聞き帰依したと伝えられている。富木常忍と同じ千葉氏の家臣で常忍は文官だったが教信は武将であった。また嫡男直秀、弟二人が日蓮のもとで出家しており、親子共々、曾谷・大野の自領に寺院を建立している。娘は千葉氏第九代当主千葉(むね)(たね)の長男千葉胤貞に嫁ぎ、姪も千葉氏の第十一代当主千葉貞胤に嫁ぐなど、千葉氏の有力家臣となって千葉氏を日蓮に帰依させる程の影響力を持っていた。教信に与えられた御書は七本伝えられているが、唯一真筆が残っている大田乗明と連名で与えられた「曾谷入道殿許御書」は、日蓮が楷書(かいしょ)の漢文で書かれており、恐らく教信も、日蓮には当時の武士の習いとして楷書の漢文で消息を書いて送られたと推察される。


四条金吾頼基

 父親の代から北条氏一門の名越朝時・光時父子に執事として仕える。

文永八年(一二七一年)の竜の口法難では日蓮の乗った裸馬の手綱を引き、日蓮と殉死しようとした。そのことを機縁として日蓮は佐渡で最初に述作した、人本尊開顕の書『開目抄』を頼基に送られた。

日蓮は開目抄で「日蓮といゐし者は去年九月十二日()(うし)の時に(くび)はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へ()くれば()そろしくて・()そろしからず。()ん人いかに・をぢぬらむ。此れ (本抄) は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし」と記されている。

頼基は晩年、甲斐国(うつ)(ぶさ)(現、山梨県南部町)に内船寺、身延山中に端場坊(現、身延山久遠寺の最古の宿坊)を建立している。尚、鎌倉の頼基の屋敷跡は現在、四条山収玄寺となり、基頼が日蓮から俗日頼として授与された十界曼荼羅(まんだら)の御本尊を安置している。

永仁四年(一二九六年)六十八歳で卒。尚、妻の日眼女は基頼が死去した五年後の正安三年(一三〇一年)に亡くなっている。


池上宗仲

 日蓮大聖人御遷化後、日蓮門下に妙法蓮華経の文字数「六万九千三百四十八文字」分の坪数の土地を寄進し、伽藍(がらん)を建てる。母方の従兄弟であった日朗が開基住職となり、現在の池上本門寺の基礎を築いた。 


船守弥三郎

伊豆の国の伊東在の河名の住人で大聖人の流罪の時に河名の津に上がられた時、官憲の追放に苦しまれしを(ひそか)に保護して遂に入信した人である。俗伝の(まないた)岩は大いなる誤りと思う。(日享)


日妙

 鎌倉に住した寡婦(かふ)であり、大聖人の帰依者であった。(おと)御前という少女を(たずさ)えてはるばる佐渡に大聖人を訪ねたほどの純真者であった。日妙聖人の名はその信念の賜である。後に興師等の化を慕って乙御前と共に重須(おもす)に来る。(日享)


阿仏房日得・千日尼

承久の乱(一二二一年)の謀反により佐渡島に流罪された順徳天皇の従者として佐渡に渡る。仁治三年(一二四二年)、順徳天皇が崩御すると、妻と共に剃髪し自ら阿仏房と号する。浄土宗の熱心な信徒だったが、日蓮が佐渡流罪後、佐渡及び越後の念仏・真言の僧侶との「塚原問答」を聞き日蓮に帰依し、人目を忍んで妻千日尼共々、食料を塚原三昧堂に運び外護に励む。日蓮が赦免となり身延に入ると、老齢の身でありながら三度も身延の草菴を訪ね、時に一月程下働きをしながら日蓮の説法を学ぶ強信徒であった。弘安二年三月二十一日、九十一歳で亡くなるが、息子の藤九郎が同年七月、遺骨を首に下げ身延を訪ね、日蓮の草菴の宝殿に収めた。尚、阿仏房が自宅に開基した「妙宣寺」には、日蓮が阿仏房、千日尼に充てた直筆の御書三本と曼荼羅御本尊が五幅所蔵されている。


国府入道

 国府入道同尼御前は佐渡の国中の国府に住した人であり、夫妻ともに大聖人を外護した純真の信者である。(日享)


大進房

下総出身の長老で、大聖人が佐渡流罪中は法兄日昭と共に鎌倉を守っていた。

建治三年身延より大聖人の御名代として富士の鹿島に(おもむ)き富士方面の弘教に当たられた。しかし富士地方は実相寺竜泉寺を始め、由比・南条・大内等の諸氏の外護を得て興師の教風が牢固としていた、興師より先輩の大進房は俗気の強い人で自分の活躍の場面がないことにより自負心を傷つけられたのであろう、弘安二年熱原法難の際には遂に叛逆して竜泉寺院主代行智の側に立ち、長崎次郎兵衛等と共に乗馬で暴徒を指揮し法華の信者を迫害したが、此の時誤って落馬しそれが原因で死去した。

大聖人はこれを「法華の厳罰」と仰せられている。(日享)


高橋六郎兵衛入道

富士郡賀島荘(現今の富士町)の住であり、日興上人の叔母が其の妻である縁に依り興師の門より大聖への強信者であり、西山河合の由比一族は(もと)より岩本実相寺内にも筑前房がり、付近の熱原市庭寺の里民の信徒と連絡し、北方上野南条家西人人四十九院法難熱原法難()()本部であり、今現存であろう。

 (なお)六郎次郎又等も不明所縁であろう。(日享


西山入道

 富士郡の西山(現今の芝富村)の柴川畔に住する人で人名が明確でない。俗伝尽く大内安浄とするのは恐らく誤りで、直近の柴川が富士河に合流する河合に住せし由比氏(興師の外戚)の老翁がそれであろう。

 窪の尼・窪の妙心尼・持妙尼も西山由比の人で持妙尼の新しくて旧き墓が西山本門寺の門先で芝川を渡った所(字を窪という)に現存している。この墓より古器物が出土した事もある。

三沢房は三沢小次郎と云うとの事だが、明確な資料はない。三沢の地は現今の富士郡(ゆず)村大鹿窪一部西山三沢ってい日享


波木井六郎実長

甲斐源氏の南部の一門で四十九院の縁故にてか日興上人と道交ありて大聖の門に入る。波木井(はきり)三郷の地頭で波木井に常住していたので波木井殿が通称であった。大聖が鎌倉を引き上げられて身延山中に入られたのも実長と興師との合議の上の御誘導であった。其の後も深く興師に帰伏して大聖同然の院主と渇仰せしが、誘惑者の為に興師を富士にらしむる程の宗運の不幸を惹起(じゃっき)せしめたのであるが、色法より量より()れば別途である。但し此の間の史談は後世に大いに歪曲(わいきょく)せられている。

諸資料に残る南部六郎・六郎(つね)(なが)は多分(さね)(なが)なるべく又波木井一門次郎三郎兵衛・藤兵衛・右馬入道・弥三郎・弥六郎及び越前房・播磨公等の僧分もある。(日享)


下野坊日秀

熱原竜泉寺の寺家である。日興上人の御教化を受けて後大聖人の直弟に加えられ、弘教の効果甚大なるが為に熱原の法難に遭い(しばら)く真間に避けられたが、日興上人身延離山後には師に随順して大石ヶ原に移り、理境坊を建てて護法の任に当られた。(日享)


少輔房日禅

 富士北部の人で日秀と共に竜泉寺の寺家であったが、法難の当初に熱原を去った。御離山後に西御大坊の前に南の坊を建てて住せられ静岡にも弘教されている。(日享)


神四郎・弥五郎・弥六郎

 此の三人の兄弟は富士郡下方熱原郷の里民で付近の市庭寺(今の伝法村三日市場か)に在りし竜泉寺の寺家僧日秀日弁(日興上人に改宗せし後)等に教化せられて強盛の法華衆となったので竜泉寺の院主代左近入道行智の弾圧に遭い、同士二十余人と鎌倉に拘引(こういん)せられて拷問(ごうもん)を受けたが、少しも信仰を曲げざるに依ってこの三人が張本と指されて斬罪に遇ひ余の十余人は追放の刑を受けた。

 (なお)資料に残る熱原福地(ふち)神主(こうぬし)・六郎吉守・三郎太郎・江美弥次郎・市庭寺の太郎太夫入道・子息弥太郎・又次郎・()四郎入道・田中弥三郎等はこの追放の中で長く苦難をしのんだ人であろう。(日享)


光日房

 光日房は清澄山下の天津の人である。その子弥四郎が青年時代に大聖人に親近し、後に横死したが、その前大聖人に両親の事を申し上げて光日房及びその尼も大聖人の信徒となった。(日享)


妙一尼

 鎌倉に在りし老尼であり、昭師縁故の篤信者であって、佐渡にも一僕を遣わして大聖人の従者とした等の事がある。(日享)


新尼

長狭郡東条は北条の支族名越家の領である、その領家の尼を大尼と言い、その嫁が剃髪(ていはつ)して新尼と言われており、新尼の方が信心強盛であった。(日享)


南条時光

父の南条兵衛七郎ともども親子二代に渡って日蓮に帰依する。所領が上野に在ったため上野殿とも呼ばれていた。日興上人が身延離山を決断すると南条家の領地、大石ヶ原に招聘(しょうへい)し大石寺の開基檀那となる。尚、日興上人の後継者、第三祖日目上人とは縁戚関係にあった。また時光の二人の娘は嫁いで日目上人の後継者、第四祖日道上人、さらに第五祖日行上人を産んでいる。

北条の家臣でありながらも弾圧された熱原の農民を守り通し、日蓮から「上野賢人」と称えられた時光の求道心なくして、今日の日蓮正宗総本山大石寺の興隆は考えられない。


松野六郎左衛門入道

駿河国庵原(いはら)郡松野に住していた強信徒。娘は南条時光の父、南条兵衛七郎に嫁いでいる。つまり南条時光は孫に当たる。また次男は後の六老僧の一人日持である。

松野殿及び妻へは合わせて十三通の消息が伝えられているが、その中でも日蓮に「聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と(いか)(ほど)の多少候べきや」問いかけた手紙への返書「十四謗抄」が特筆される。

この抄で日蓮は「勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の(とも)せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり。(中略) 有る人此れを分つて云く「()きに悪因を列ね次ぎに悪果を列ぬ悪の因に十四あり・一に憍慢(きょうまん)・二に懈怠(けたい)・三に計我・四に浅識・五に(じゃく)(よく)・六に不解(ふげ)・七に不信・八に顰蹙(ひんしゅく)・九に疑惑・十に誹謗(ひぼう)・十一に軽善・十二に憎善・十三に(しつ)(ぜん)・十四に(こん)(ぜん)なり」此の十四誹謗は在家出家に亘るべし恐る可し恐る可し」と諭されている。


五老僧のその後


日昭

五老僧の中で最も早くから日蓮門下に連なった最年長の日昭は、大聖人滅後鎌倉浜土の法華寺を拠点として布教を行った。

現在、静岡県三島市玉沢にある妙法華寺が日昭門流の本山とされる。ここには日蓮が生涯所持していた法華経並びに法華経開結全十巻(注法華経)を所蔵している。

尚、この注法華経は、日興上人が記された「宗祖御遷化記録」に

一、御所持佛教事

   御遺言云

   佛者釈迦

     立像墓所傍可立置云々。

   経者私集最要文

     名注法花経

   同籠置墓所寺六人香花當番時

   可被見之。自餘聖教者非沙汰之限云々。

   仍任御遺言所記如件。

とあり、身延久遠寺の墓所の寺に置くようにと、宗祖日蓮大聖人から遺言されているが、後日、日朗が偽りの遺言状を作り、身延久遠寺から持ち去ったものである。


日朗

縁戚関係にあった池上宗仲が寄進した土地に立てた仏閣の開山となる。これは現在池上本門寺となっている。日朗は重須(おもす)の日興上人を二度訪ねたと伝えられている。また叔父日昭から、「弟子を叡山の戒壇で得度させてもよいか」と問われ、「富士の戒壇で日興上人を戒師として得度させるのが良い」と返答している手紙が伝えられている。

日朗は、日興上人が日蓮の正当な後継者であると認識していたと思われる。


日頂

日蓮大聖人より「器用の弟子」と称えられた日頂は、日蓮滅後、養父の富木常忍と対立し、永仁元年(一二九三)日興に師事し、重須(おもす)本門寺で弟子の育成、弘教に励むことになる。尚、日頂の弟、(にっ)(ちょう)も正安二年(一三〇〇)日向と義絶し日興に師事、日興が定めた新六老僧の一人となり、重須談所の学頭となる。また日興の命で「富士一跡門徒存知事」の草稿を書き上げている。


日持

南條家と姻戚関係にある松野六郎左衛門の次男として生を受け、当初日興の下で得度し日蓮門下に連なっていたが、大聖人滅後は日興と別れ海外布教を目指し北樺太に渡る。その後満州に渡ったとも、蝦夷地で没したとも伝えられているが消息は不明となっている。


日向

 弘安五年六上足の第四に列し、墓輪番に加わったが、(ようや)く弘安八年頃身延に上り院主日興上人より学頭職に補せられたのに、鎌倉方面の軟風をもって地頭波木井日円を誘惑し、自らも亦非行多く身延汚辱の因となった。ただし延山院主職は長からずして上総に退隠したと伝えられている。(日享)



   小説日蓮の生涯 参考文献


「平成新編 日蓮大聖人御書」監修阿部日顕 編集藤木日潤 大石寺

「新編日蓮大聖人御書全集」 堀日亨編 日蓮正宗大石寺版 発行創価学会

「日寛上人文段集」 創価学会教学部編 聖教新聞社

「富士宗学要集」 全十巻 堀日亨編 創価学会

「熱原法難史」 堀慈琳 興門史料刊行会

「真訓両読 妙法蓮華経並開結」 細井日達編 創価学会

「新編 妙法蓮華経並開結」編者阿部日顕 大石寺

「日蓮大聖人 御書辞典」 創価学会教学部編

「日蓮正宗 富士年表」 富士学林

 法華経(上・中・下)訳者:坂本幸男(鳩摩羅什原本)、岩本裕(梵語原典)岩波書店 

図解ブッダの教え 監修者 田上太秀 西東社
「ブッダ大いなる旅路」全3巻 監修高橋直道 日本放送出版協会


「現代語訳 吾妻鑑」 全十六巻 五味文彦・本郷和人・西田智弘編 吉川弘文館

「日本の時代史8 京・鎌倉の王権」 五味文彦編 吉川弘文館

「日本の時代史9 モンゴルの襲来」 近藤成一編 吉川弘文館

「日本の中世1 中世のかたち」 石井進 中央公論社

「中世を読み解く 古文書入門」 石井進 東京大学出版会

「鎌倉武士の実像 合戦と暮らしのおきて」 石井進 平凡社

「中世政治社会思想 上」 日本思想大系21 石井進ほか編 岩波書店

「朝日百科 日本の中世」 朝日新聞社

「蒙古の襲来」 海音寺潮五郎 河出文庫

「執権北条時宗と蒙古襲来」 谷口研語 成美文庫

「忍性 慈悲ニ過ギタ」  松尾剛次 ミネルヴァ書房

「もっと行きたい鎌倉 歴史散歩」 奥富敬之 新人物文庫

「一度は歩きたい鎌倉 史跡散歩」 奥富敬之・奥富雅子 新人物文庫

「最澄」(人物叢書) 田村晃祐 吉川弘文館

「現代語訳 平家物語」 全三巻 中山義秀訳 河出文庫

「中世的世界の形成」 石母田正 岩波文庫
「教行信証」親鸞 金子大栄校訂 岩波書店

ウィキペディア(Wikipedia)日本語版https://ja.wikipedia.org/



by johsei1129 | 2017-11-18 19:16 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 11月 18日

小説 日蓮の生涯 下

 作 小杉 貢  監修 三浦 常正  平成二十六年 (二〇一四) 一月三日 公開

                                     英語版
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下巻目次

 

六十四、四条金吾の格闘 

六十五、桑ケ谷の法論  

六十六、金吾の奉行所対決  

六十七、四条金吾の蘇生 







七十四、疫病、国土を襲う  

七十五、病をしめす 

七十六, 熱原の三烈士 

七十七、法華講衆の苦闘 









八十六、亡国の始まり 

八十七、鎌倉幕府の最後 




九十一、千日尼と阿仏房 

九十二、南条時光の信仰 

九十三、青年時光への薫陶 

九十四、南条一族の病魔 

九十五、時光の蘇生 

九十六、妙覚の山 

九十七、身延下山 


九十九、通塞の案内者  

百、不滅の滅  


百二、五老僧の邪義 








                       

        


by johsei1129 | 2017-11-18 01:25 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 11月 17日

百七、一閻浮提の座主 日目上人

日興の跡を継いだ日目も師日蓮の意思を厳格に受け継いだ。鎌倉の武家・京の公家へと為政者への(かん)(ぎょう)を続け、その回数は実に四十二度にも及んだ。

正安元年(一二九九)六月の奏聞のときには、永年の願いであった公場対決が実現し、京都六波羅探題(はらたんだい)において、北条宗宣(十一代執権)が帰依する念仏僧・十宗房道智を完膚なきまでに論破する。

元弘三年(正慶二年一三三三年)には百五十年間続いた鎌倉幕府が滅亡し、京都に天皇を頂点政治体制が敷かれることになった。これは日本の国主が、北条一門が担った執権から天皇に遷移したことを意味していた。

日目上人はすでに七十四歳という高齢だったが、いまこそ天奏すべきとの決意を固め、翌十一月、弟子の日尊、日郷を供として京都へ向かった。しかし途中、美濃の垂井(たるい)(現在の岐阜県垂井町)の宿に至って病床に伏され、日尊、日郷に天奏の完遂と、後継者の日道上人への遺言を残して十一月十五日、七十四歳で入滅する。

その後、日尊は日目の遺命を守り上洛。また日郷は日目の遺骨を抱いて十二月に大石寺へ帰山し、下之坊に埋葬する。日尊は京都に残り、翌年の建武元年(一三三四年)に代奏を果たす。

以下に日目の天奏の申状を記す。


 日蓮聖人の弟子日目誠惶(せいこう)誠恐(せいきょう)謹んで(もう)す。殊に天恩を(こうむ)り、()つは一代説教の前後に任せ、且つは三時()(きょう)の次第に准じて正像所弘の爾前(にぜん)迹門(しゃくもん)の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を(あが)められんと()うの状()え進ず

一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の(かん)(もん
 一通 先師日興上人申状(しんじょう) 元徳二年
 一、 三時弘経の次第 

右、謹んで案内を(かんが)えたるに、一代の説教は(ひと)り釈尊の遺訓なり、取捨(しゅしゃ)(よろ)しく仏意に任すベし、三時の弘経は則ち如来の(ごう)(ちょく)なり、進退全く人力に非ず。(そもそも)一万余宇の寺塔を建立して、恒例の講経(りょう)()を致さず、三千余の社壇を崇めて如在の礼奠(れいてん)怠懈(たいげ)せしむることなし。(しか)りと雖も顕教密教の護持も叶わずして、国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈祷も(しるし)なく、自他の反逆(とし)()うて(ごう)(じょう)なり、神慮(はか)られず仏意思い難し。(つらつら)微管(びかん)を傾け(いささ)か経文を(ひら)きたるに、仏滅後二千余年の間、正像末の三時流通の(ほど)、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三つあり、所謂(いわゆる)法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。之を(しん)(ぎょう)せらるれば、天下の安全を致し国中の逆徒を(しず)めん、此の条如来の金言分明(ふんみょう)なり大師の解釈炳焉(へいえん)たり。就中(なかんずく)我が朝は是れ神州なり、神は非礼を受けず、三界は皆仏国なり、仏は則ち謗法を(いまし)む。(しか)れば則ち爾前(にぜん)迹門(しゃくもん)の謗法を退治せば、仏も(よろこ)び神も慶ぶ。法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え国も栄えん。望み()う、(こと)に天恩を(こうむ)り諸宗の悪法を棄捐(きえん)せられ、一乗妙典を崇敬(すうぎょう)せらるれば、金言しかも(あやま)たず、妙法の唱え(えん)()に絶えず、玉体(つつが)()うして宝祚(ほうそ)の境、天地と(さかい)無けん。日目、先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ。誠惶(せいこう)誠恐(せいきょう)謹んで(もう)す。  元弘三年十一月     日目

この日蓮・日興の精神をあやまたず記した申状は、ついに日目の手で届けられることはなかった。天奏を目前にして、臨終を迎える心情はどうだったのか。日目を看取った日郷が、門流の者に語った伝承をもとに綴った記録がのこる。
                 

目上(もくじょう)御遺言に曰く、此の申状奏せずして(つい)に臨終す。此の土の受生(じゅしょう)所用(しょゆう)無しと(いえど)も、今一度人間に生れ、此の状を奏すべし。若し此の状奏聞の人、未来に()いて(これ)有らば、日目が再来と知るべし。 富要四巻「申状見聞」

訳「この申状を奏進できず、ついに臨終を迎えることは、まことに無念の極みである。此の土に生を受けて以来、自分には取り立てての功績はなかったが、今一度人間に生を受け、なんとしてもこの申状を奏したい。もしもこの状を奏聞する者が将来・未来に現われたなら、日目の再来と知るべきである」

いらい日蓮正宗では広宣流布の代に、日目上人が現われるという言い伝えがある。



          最終章 日本の仏法、月氏へ流れる につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2017-11-17 21:22 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 11月 17日

百六、日興遺誡置文(にっこうゆいかいおきぶみ)

日興は死去の一月前、遺言をのこす。

それは未来の弟子への戒めである。あわせて二十六ケ条。この二十六条のひとつひとつが先師日蓮への敬慕に満ちている。すべて未来の日蓮門下にあてたものである。

内容は日蓮仏法の真髄がこめられている。伊豆流罪、佐渡ヶ島で常随給仕し、日蓮が身延山中で草庵を構えると、甲斐国の布教に邁進、日蓮に影の形に従うがごとくの生涯だった日興だからこそ残せた指針であった。

釈尊には十大弟子がいたという。智慧第一と謳われ、方便品第二の対告衆となった舎利弗。釈尊に二十七歳の時から常随給仕し、滅後の仏典結集で「かくの如く我聞きき」と釈迦の説法を読み上げた声聞第一の阿難。仏を除けば説法で超える者はいないと賞賛された説法第一の富楼那。

日興はある意味、釈迦の十大弟子すべての資質を兼ね備えていたとさえ思える。

後代の弟子檀那は、いまでもこの遺言を鏡のごとくあおぐ。まさしく末法万年への金科玉条であり、この条項を弟子信徒が守ることで、未来の広宣流布の扉が開かれる。

ではつぎにその全文をしるす。

()(おもん)みれば末法弘通の(けい)(じつ)は極悪謗法の闇を照らし、久遠(くおん)寿量(じゅりょう)の妙風は伽耶(がや)(しじ)(ょう)(注)の(ごん)門を吹き払う、於戯(ああ)仏法に()うこと(まれ)にして(たと)へを(どん)()(はなしべ)()(たぐい)浮木(うきぎ)穴(注)()に比せん、(なお)以て()らざる者か。(ここ)に我等宿縁深厚なるに依って幸ひに此の経に()い奉ることを()、随って後学の為に条目を筆端に染むる事、(ひとえ)に広宣流布の金言を仰がんが為なり。

一、富士の立義(いささ)かも先師の御弘通に()せざる事。

一、五人の立義一々(いちいち)に先師の御弘通に違する事。

一、御書(いず)れも偽書に()し当門流を毀謗(きぼう)せん者之有るべし、()し加様の悪侶出来せば親近(しんごん)すべからざる事。

一、偽書を造って御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心()べき事。

一、謗法を呵責(かしゃく)せずして遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)()()並びに外書(げしょ)歌道を好むべからざる事。

一、檀那の社参物詣(ものもうで)を禁ず可し、(いか)(いわ)んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に(もう)づべけんや、返す返すも口惜(くちお)しき次第なり。是全く()()に非ず、経文御抄等に任す云云

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し(さしお)き、御抄以下の諸聖教(しょしょうぎょう)を教学すべき事。

一、学問未練(みれん)にして名聞名利の大衆は、()が末流に叶ふべからざる事。

一、予が後代の徒衆等権実を(わきま)へざるの間は、父母師匠の恩を振り捨て出離証(しゅつりしょう)( どう)の為に本寺に(もう)で学問すべき事。

一、義道の(らっ)()(注)無くして天台の学問すべからざる事。

一、当門流に於いては御抄を心肝に染め(ごく)()を師伝して、若し(ひま)有らば台家を聞くべき事。

一、論議講説等を好み自余を交ゆべからざる事。

一、未だ広宣流布せざる間は身命(しんみょう)を捨て、随力(ずいりき)弘通(ぐつう)を致すべき事。

一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如(とうにょ)敬仏(きょうぶつ)の道理に任せて(しん)(ぎょう)を致すべき事。

一、弘通(ぐつう)の法師に於ては下輩たりと(いえど)も、老僧の思いを為すべき事。

一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。

一、時の(かん)()(注)たりと雖も仏法に相違して己義を(かま)へば、之を用ふべからざる事。

一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫主之を(くじ)くべき事。

一、衣の墨、黒くすべからざる事。

一、(じき)(とつ)(注)を著すべからざる事。

一、謗法(ほうぼう)と同座すべからず、与同罪を恐るべき事。

一、謗法の供養を()くべからざる事。

一、(とう)(じょう)等に於ては仏法守護の為に之を許す、但し出仕の時節は帯すべからざるか。若し其れ大衆等に於ては之を許すべきかの事。

一、若輩(じゃくはい)たりと雖も高位の檀那より末座に()くべからざる事。

一、先師の如く()()()も聖僧たるべし。但し時の(かん)()(あるい)は習学の仁に於ては、(たと)ひ一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も、衆徒に差し置くべき事。

一、巧於(ぎょうお)難問答の行者に於ては先師の如く(しょう)(がん)すべき事。

右の条目大略()くの如し、(まん)(ねん)救護(くご)の為に二十六箇条を置く。後代の学侶、()へて疑惑を生ずること(なか)れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず。()って定むる所の条々(くだん)の如し。

元弘三年癸酉正月十三日  日興花押   『日興遺誡置文

 

 この二十六条の遺誡(ゆいかい)は日興の独自の考えではない。あくまで師日蓮の教えを集約したもので、各条項の根拠は日蓮が残した御書に全てあり、全条項に末法の本仏日蓮の教えを一字一句(たが)えてはならないという求道心に貫かれている。それは冒頭の条項「富士の立義(いささ)かも先師の御弘通に()せざる事」に(あらわ)されている。

さらに


 一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如(とうにょ)敬仏(きょうぶつ)の道理に任せて(しん)(ぎょう)を致すべき事。

 一、弘通(ぐつう)の法師に於ては下輩たりと(いえど)も、老僧の思いを為すべき事。

 一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。


この三条項は、立場の違い、身分の違いにこだわること無く、師、日蓮の義を習得し、その義に随順している者こそ師匠として仰ぎ敬い、日蓮が打ち立てた「法」を根本とせよという、日興の後世の弟子信徒に託した強い思いが伝わってくる。


 一、時の(かん)()たりと雖も仏法に相違して己義を(かま)へば、之を用ふべからざる事。

 一、衆義たりと(いえど)も、仏法に相違有らば貫主(これ)(くだ)くべき事。


この二条項は、日蓮が報恩抄で次のように解き明かした「()(ほう不依(ふえ)(にん」の原理を明確に体現している。


涅槃(ねはん)経と申す経に云く「法に()つて人に依らざれ」等云云。依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて(ほか)普賢(ふげん)菩薩・文殊(もんじゅ)()()菩薩乃至(かみ)にあぐるところの諸の人師なり。


日興の御葬送は元弘三年(正慶二年)二月八日に行われた。この時の「御葬送次第」は日興が自ら日蓮の「御葬送次第」を記録した「宗祖()遷化(せんげ)記録」に準じて、日興より新六老僧に指名されていた日郷が「日興上人御遷化次第」として筆録、現在保田妙本寺に所蔵されている。

日郷が記した次の「日興上人御遷化次第」には、日興を取り巻く当時の弟子信徒、例えば南条時光の子息三名、若くしてなくなった兄の子等が数多く連なっていることがわかる。


 日興上人御遷化次第(※日文字の法号は当方で追記)


 正慶二年発酉二月六日(うし)(※七日未明)

 於駿河國富士山麓重須(おもす)郷日興上人御歳八十八而御遷化

 同八日(とり)時入棺

 同(いぬ)時御葬送次第


 先火    三郎太郎入道

 次外居   弥太郎入道

 次大宝花  孫四郎入道

 次(はた)    左 同

       右 和泉又次郎

 次燈    楡井三郎入道

 次香    由比四郎入道

 次鐘    石河四郎    

 次花    西山彦八

 次花    南條左衛門三郎 

 同    秋山与一太郎

 同    小野寺太郎

 同    石河孫次郎

 同    由比大九郎

 同    由比孫五郎

 同    南條左衛門七郎

 同    左衛門太郎

 同    同 彦次郎

次文机  山本又次郎入道

次花瓶  由比弥五郎

次御経  秋山与一入道

次御本尊 石河三郎

次見影  南條左衛門五郎

 次旅籠馬 馬木三郎入道  

次引馬  弥平次

 次引馬  鍛冶入道

 次御乗馬 源内 


     淡路公

        因幡公

        如寂房(日満)

     左  按察公

        大進公(日助)

        式部阿闍梨(日妙)

 前陳 上蓮坊(日仙)

        三位阿闍梨(日潤)

        大武公(日寿)

     右  美濃公

        周防公

        性善房

        尾張公


        幸松丸

        幸乙丸

        竹乙丸

        藤壽丸

 御輿     犬房丸

        乙若丸

        牛若丸

        虎松丸


        侍従公(日朝)

        刑部公

     左  讃岐公(日源)

        同圓公

        日善阿闍梨

 後陳 蓮蔵坊(日目)

        伊予阿闍梨(日代)

        宰相阿闍梨(日郷)

     右  伊賀阿闍梨(日世)

        大夫公(日尊)

        大智坊

        大武公


 餘ノ大衆ハ他行云々

 次天蓋(てんがい)      曽根助

 次太刀      小木五郎

 次刀       和泉又二郎   

 次手

 次弓箭(きゅうせん)      石河小三郎

 次笠       奥五郎二郎入道

 次袋       源太郎

 次草履      又四郎

 次足駄      藤内入道

 次後陣火     紀藤三郎

   御遺物配分事 ()


 正慶二年二月 日 

 [奥書] 右之遷化次第者日郷上人之御筆無粉者也 

 日興上人が末法の本仏日蓮大聖人の正当な後継者であることは文証、理証、現証の観点から(かんが)みて、疑いの余地はない。

例えば日興上人が永仁六年(一二九八)に記された『白蓮(びゃくれん)弟子分与御筆御本尊目録事』には、六十六幅の御本尊を日興上人が、弟子信徒のために授与を日蓮に願い出たことが記されている。このような日蓮自筆本尊の授与を「申し与へ」ている事実は五老僧には全く見られず、日蓮は日興のみに許していたと断定できる。

さらに現在確認されている日蓮直筆の御本尊は百三十余に及んでいるが、この御本尊に日興上人が授与者名等の添え書きを追記している事例が多数見受けられるが、五老僧が添え書きを書き込んでいる事例は全く存在しない。例えば佐渡の阿仏房に授与され、現在佐渡市妙宣寺に所蔵されている御本尊には「佐渡國(ほっ)()東梁(とうりょう)阿佛房彦如寂房日滿相傳(そうでん)之」の日興上人の添え書きが書き込まれている。

また現在、玉沢妙法華寺に所蔵されている注法華経(日蓮が生涯所持していた妙法蓮華経並開結十巻)の行間、背面に二千百七箇所、関連する諸経・天台の文句(もんぐ)(げん)()止観(しかん)等々の文文を日蓮が自ら書き込んでいるが、日興上人が書き込んだ事例が三ヶ所ある。これも五老僧が書き込んだ箇所は全く見られない。

この事例とは逆に、日興上人が書写した「立正安国論」の背面に、蒙古が日本に向かう夢を日蓮が記した「夢想御書」が発見されている。  

これらの事実から見て、日蓮の伊豆流罪、佐渡流罪に、身に影が寄り添うように常随(じょうずい)給仕(きゅうじ)をしてきた日興が「師弟不二」を体現していたと言っても過言ではない。

御本尊書写についても、日興は現在確認されているだけでも、生涯三百二幅もの御本尊を書写し、門下の弟子信徒に授与している。

それに比して五老僧が書写したご本尊はごくわずかしか残されていない。日朗二十一幅、日昭二幅、日向二幅のみである。また日頂は晩年の永仁元年(一二九三年)、養父常忍と義絶し、日興が開基した重須(おもす)談所に赴き、日興に師事している。尚、日持は蝦夷・樺太に布教に行き御本尊の書写は確認されていない。

富士一跡門徒存知事で日興は、師日蓮が図現された御本尊に対する五老僧の姿勢を次のように(いさ)めている。


一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を(あが)め奉る可しとて既に立てたり、(したが)つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、(しか)る間・(さかん)に堂舎を造り或は一(たい)を安置し(あるい)は普賢文殊を(きょう)()とす、()つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に()け奉り又は堂舎の(ほぞおの)に之を捨て置く。

一、御筆の本尊を以て(かた)()(きざ)み不信の(やから)に授与して軽賤(きょうせん)する(よし)・諸方に其の聞え有り所謂(いわゆる)日向(にこう)・日頂・日春等なり。


五老僧にとって本尊はあくまで釈迦仏で、彼らは「(日蓮)聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り」と記している。

このような五人の本尊に対する姿勢は、日朗が開基した池上本門寺の現在の姿そのものである。

池上本門寺の本堂には、日蓮の御影(みえい)を安置し、日蓮自筆の十界曼荼羅(まんだら)を掲げているがその曼荼羅の前に堂々と釈迦仏を本尊として安置している。至極残念なことだが、これは日朗が日蓮の本義を理解していなかったことの何よりの証左となる。

さらに日朗、日昭、日向(にこう)(わず)かな数しか御本尊を書写していないのは、そもそも日蓮から御本尊書写の相伝がなく、見よう見まねでわずかに書写し、もっぱら日蓮が図現した本尊を形木に彫み、()って自らの信徒に授与したものと推察される。


                 
         百七 一閻浮提の座主 日目上人 につづく


下巻目次

                                        


 伽耶(がや)() (じょう)

釈迦が伽耶城近くの菩提樹の下で初めて悟りを開いたこと。久遠寿量に対する語。伽耶は仏陀伽耶(ぶっだがや)ともいい、釈迦が正覚を成した所。始成は()(じょう)正覚(しょうかく)のこと。

 浮木の穴
法華経妙荘厳王品二十七にある。一眼の亀が海中の浮木にあうことのむずかしさを説いて、衆生が正法にめぐりあい、受持することの困難さを説く。

「御義口伝に云はく、()とは小孔(しょうく)大孔(だいく)の二つ(これ)有り。小孔とは四十余年の経教なり、大孔とは法華経の題目なり。(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは大孔なり。一切衆生は(いち)(げん)の亀なり。栴檀(せんだん)浮木(うきき)とは法華経なり。生死(しょうじ)の大海に大孔ある浮木は法華経に之在り云云。」『厳王品三箇の大事 第二 浮木孔(ぶもっく)の事』

 (らっ)()

「らっきょ」とも読む。落ち着き。終結。物事を徹底して見極めることをいう。

 (かん)()

本来は貫籍(戸籍)の上首の意。①かしらに立つ人。頭領。②天台宗の座主の異称。のちに各宗総本山や大寺の管長の称ともなる。

 (じき)(とつ)

僧衣の一種。上衣と下衣を直接に綴じ合わせたことからこの名がある。直綴は腰から下に(ひだ)のある法衣で、諸宗で一般に用いられ、一般に『ころも』と称される。日蓮正宗では直綴の着用を禁じ、薄墨の素絹のみを衣とし着用する。『当家三衣抄』参照



by johsei1129 | 2017-11-17 13:02 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 11月 16日

百三、正義を伝うる者

日興は波木井実長に反省を求め、懺悔(ざんげ)をしるして師日蓮の仏前にそなえることをすすめた。

しかし実長には聞こえない。

彼は腹立ちまぎれに、自分は日向を師匠としていると声高にいったという。地頭の名聞からか、地主である(おご)りからか、自分は仏法を理解していると思ったか、実長には日興の諫言が耳にはいらない。

だからといって日興は実長を責めたりはしない。かりそめにも師の日蓮を九年にわたり養った檀那である。日興も実長から恩をうけたのだ。いつかは目覚めて改心するかもしれないからだった。

かわりに日興は日向(にこう)をはじめとした五老僧をきびしく糾弾している。人を導くはずの者が、師に敵対するとはなにごとか。

日興は今さらながら師の言葉をかみしめた。

外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。「師子身中の虫の師子を()む」等云云  『佐渡御書

身延は謗法の山と化した。日蓮の仏法が日蓮の弟子によって滅びようとしている。

日興はもはや自分がこの地にいることはできないとさとった。地頭の供養を断って去ることは、艱難がまちかまえていることを意味したが妥協はできない。日蓮の法をあやまたず、つぎの世にのこしていくためだった。

後代、このような日興を(かたく)なであると批判する者がいるが、その言葉の中身は五老僧とおなじ水準である。かれらには法を守る責任が欠けているのである。

その五老僧は転落していった。

かれらは日蓮亡きあと、まず自分の名をかえた。日蓮の弟子とは名のらず、天台沙門といった。退転した三位房が慢心のあまり、名をかえたのと似ている。

つぎに折伏を用いず世間と妥協した。他宗に加わり国家安泰の祈祷を行った。あの竜の口の法難の時、退転した弟子たちが「我等はやは()らかに法華経を弘むべし」といったのとおなじである。

すべては身の安全をはかるためだった。

日蓮の教えはいまだに世の批判をうけている。五老僧は強情な日蓮とは一線を画して非難を避けた。保身をはかり、謗法の供養をうけるために日蓮の義を捨てた。こうして国家を祈り、名をあげようとした。日向が天長地久と祈ったように。

日興はいきどおる。


祈国の段亦以て不審なり。所以は(いかん)、文永免許の(いにしえ)先師()()の分既に以て顕はれ(おわ)んぬ、何ぞ(せん)(しょう)道門の怨敵(おんてき)に交はり坐して(とこしなえ)に天長地久の御願を祈らんや  『五人所破抄

師日蓮は佐渡流罪赦免のおり、幕府から蒙古退治の祈祷を依頼された。このとき日蓮は条件として諸宗の僧の首を刎ねることを申しでた。邪宗をともにする祈祷は、逆に国を滅ぼすからである。日蓮は諸宗退治が許されないと知るや、鎌倉を去り身延の山中に入った。これが日蓮の精神である。

五老僧はすすんで増上慢の僧とともに国を祈った。立正安国の精神は踏みにじられたのである。

彼らの無智は信じがたい。

五人は日蓮の著作などはないという。耳を疑う言葉である。

彼の五人一同の義に云はく、聖人御作(おんさく)()書釈(しょしゃく)は之無き者なり。縦令(たとい)少々之有りと雖も、或は在家の人の為に、仮文字を以て仏法の因縁を(ほぼ)之を示し、若しは俗男俗女の一毫(いちごう)の供養を(ささ)ぐる消息(しょうそく)(へん)(さつ)に施主分を書きて愚痴(ぐち)の者を引摂(いんじょう)し給へり。而るに日興は聖人の御書と号して之を談じ之を詠む、是先師の恥辱を顕はす云云。故に諸方に散在する処の御筆をば或は()かえ()しに成し、或は火に焼き(おわ)んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に(つぶさ)に之を(しる)して後代(こうだい)()(きょう)と為すなり。  『富士一跡門徒存知事

五人は日蓮が弟子檀那にのこした仮名文字の書をみとめない。

仏法といえば漢字で表現していた時代である。五老僧は仮名文字の消息など、知恵の足らない在家信徒にあたえた手紙であり、供養の礼をしるしたものばかりで、価値はないばかりか、師の恥をさらすものだとした。それなのに日興はありがたく読み談じている。五人は俗男俗女を相手にする日興を軽蔑した。それはとりもなおさず、一閻浮堤広宣流布をめざした師日蓮を見下したものとなった。

五人は日蓮の書をすき返してもとの白紙にもどしたり、焼却している。後代の弟子にとって、目をおおうばかりの所業がなされていた。

五人はつねに日蓮のそばにいたわけではない。遠くはなれた地にいるために、師の教えを体読できなかった。仏法の真髄を学ぶには劣悪な環境だった。彼らにも言い分はあろう。だが百歩ゆずって彼らの言い分をみとめても、日蓮亡きあと、五人は日興を手本にして正義をつぐべきだったのだ。彼らの心地に「当如敬仏」の精神はなかった。求道心の一分でもあれば、日興を師範として仏法を学ぶべきだったのだ。

かたや日興は仏法の破滅をおそれ、立正安国論をはじめとする著作の目録をのこした。この目録がなければ、それこそ日蓮の書は五人のいうとおり、皆無となったであろう。現存する書は偽物とされ、仏法は跡形もなくなっていたろう。もちろんこの小説もない。日興と五人はかくも大きなへだたりである。雲泥の差とはこのことではないか。

謗法の者はまず三悪道におちるという。

日興はその証人として身延山を謗法の山にかえた民部日向の所行をしるす。

殊に去る卯月(うづき)朔日(ついたち)より諸岡(もろおか)入道の門下に候小家に籠居して画工を招き寄せ、曼荼羅(まんだら)を書きて同八日仏生日と号して、民部は入道の室内にして一日一夜説法して布施を(かか)へ出すのみならず、酒を興ずる間、入道其の心中を知りて妻子を喚び出して酒を勧むる間、酔狂(すいきょう)の余りに一声を()げたる事、所従眷属の嘲笑(ちょうしょう)口惜(くちお )しとも申す計りなし、日蓮の御(はじ)何事か之に過ぎんや、此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり。

かりにも日蓮門下と名のる者が、見苦しく布施をかかえ、酔態をさらして嘲笑をうける。日蓮からあとを託された日興にとって、これほどの屈辱はない。

日興は日向の醜態がやがて地頭の耳に入るであろうという。実長はそのうちに日向を見捨てるであろうと。


 ところで直弟子の中から六老僧を指名した日蓮は、自身滅度の後の遺弟の行く末をどのように考えていたのであろうか。()遷化(せんげ)の二日前に池上邸で日興に口伝(くでん)した血脈抄(けちみゃくしょう)「本因妙抄」に次のように極めて厳しい考えを示している。

(釈尊)(じゅく)(だつ)の教主・(それがし)(日蓮)は下種の法主(ほっす)なり、彼の一品(いっぽん)二半()舎利(しゃり)(ほつ)等の為には観心たり、我等凡夫(ぼんぷ)の為には教相たり、理即・短妄(たんもう)の凡夫の為の観心は、余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり。

()くの如く深義を知らざる僻人(びゃくにん)出来(しゅったい)して予が(りゅう)()は教相辺外と思う可き者なり、此等は皆宿業の(つたな)き修因感果の()(ごく)せるなるべし。

()の天台大師には三千人の弟子ありて章安(しょうあん)一人(ろう)(ねん)なり。伝教大師は三千人の衆徒を置く、義真()已後は其れ無きが如し。今以て()くの如し。数輩の弟子有りと(いえど)も疑心無く正義を伝うる者は(まれ)にして、一二の小石の如し。秘す可きの法門なり」


本抄文中の一二の小石とは、日興上人、日目上人であると強く推察される。日蓮は生前、日興を除いた五老僧が「疑心無く正義を伝うる者」とはならないことを已に喝破(かっぱ)していたのだ。

その証左として、現在まで続く五老僧の流れをくむ日蓮系各派は、弘安二年の本門戒壇の大御本尊を信奉せず、多くは釈迦の立像を本尊としている。日蓮直筆の(まん)()()本尊を掲げていても、本仏は釈迦像なのである。

まして日蓮が広宣流布の(あかつき)に戒壇を建立すべきと三大秘法稟承事」に記して遺弟に託したことなど僧侶も信徒も誰ひとりとして知る由もなかった。


(前略)霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提(えんぶだい)の人、懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず大梵天(だいぼんてん)(のう)帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり(中略)」予年来(としごろ)己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可し、其の後は何と()ゆとも叶うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も(せん)無し(後略)


     

          百四、日興、身延離山 に続く


下巻目次


 一品二半

 妙法蓮華経・(じゅう)()()(しゅっ)(ほん)第十五の後半の半品(はんぽん)、如来寿量品第十六の一品、分別功徳品第十七の前半の半品を合わせて一品(いっぽん)二半。日蓮は観心本尊抄で、この一品二半が妙法蓮華経の極説中の極説であるとし、これ以外は法華経と言えど小乗経であると断じ、さらに末法においては「(ただ)題目の五字なり」と解き明かした

 「本門に(おい)(じょ)(しょう)流通(るつう)有り、過去大通仏(だいつうぶつ)の法華経より乃至(ないし)現在の華厳(けごん)経乃至迹門(しゃくもん)十四品涅槃(ねはん)経等の一代五十余年の諸経、十方三世諸仏の微塵(みじん)の経経は皆寿量の序分なり。一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相(ふぞう)教と名く(中略) 在世の本門と末法の(はじめ)は一同に純円なり、(ただ)し彼(釈尊)は脱、此れ(日蓮)は種なり。彼は一品二半、此れは但題目の五字なり。」『観心尊抄』

 義真

 天応元年(七八一) - 天長十年(八三三)

 平安時代前期の天台宗の僧。奈良興福寺で法相を学び、(がん)(じん)の弟子から受戒される。その後最澄に師事し、延暦二十三年、中国語の通訳として最澄にともない唐へ渡り、最澄と同じく道邃(どうずい)から円頓戒を授戒し帰国する。弘仁十三年、最澄が没した後、比叡山大乗戒壇初の授戒の伝戒師となり、二年後の天長元年(八二四年)、初代の天台座主(ざす)に就任する。著書に「天台法華宗義集」がある。





by johsei1129 | 2017-11-16 22:45 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 11月 15日

百、不滅の滅

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              (日蓮大聖人の不滅を祝う御会式 富士大石寺にて)

 弘安五年十月十三日(たつ)の時、日蓮が目をとじた。

()六十一年の生涯だった。

今でいえば午前八時頃、人々はすでに働き出していた。
 伯耆房日興は葬儀の次第を詳細に記した「宗祖御遷化記録」に、このとき大地が震動したと記録している。地震は鎌倉にもおよんだ。人々は日蓮が他界したことを知る。

翌十四日の(いぬ)の時、夜の八時頃、日蓮の御尊体は最長老の弟子日昭、その甥の日朗により入棺された
。そして
()の刻、真夜中の十二時頃、葬送がはじまった。

松明の光を先頭に弟子檀那がすすむ。

四条金吾と池上宗仲の二人が左右に旗をかかげた。

香は富木常忍がうけもった。
 花弁をまき散らす散華(さんげ)は南条時光。
 太刀は池上宗長がうけた。

そして日蓮の棺が白衣の弟子十八名の肩に担がれてすすむ。
 前陣は日朗、後陣は最長老の日昭が担い、担ぎ手の中に日興と日持、そして日目がいた。列の最後方に亀王童と滝王童が日蓮の愛馬を引いた。

こうして厳粛な葬送を経て日蓮は荼毘(だび)に付された。


この日興が(したた)め、その内容を確認した四老僧(日昭・日朗・日興・日持)花押(かおう)が記された「宗祖御遷化記録」の真蹟(しんせき)は国の重要文化財として指定され、現在、日興が指名した新六老僧の一人、日代が開基した重須(おもす)西山本門寺に所蔵されている。(なお)、全文は次の通りである。(※日文字の法号は当方で追記)


 一、弘長元年辛酉伊豆國に流され御年四十

  伊東八郎左衛門尉に預けらるる 立正安国論一巻を造り、最明寺入道に奉る故也。(※北条時頼の法名)

  同三年二月二十二日、赦免(しゃめん)

一、文永八年辛未九月十二日佐土嶋に流され御年五十

  武州の前司(ぜんじ預けらるる 極楽寺長老良観房の訴状に依るなり。訴状は別紙に在り。

  同十一年甲戌二月十四日、赦免。

  同五月十六日甲斐(かいの)(くに)波木井身延山に隠居(いんきょ)す。地頭南部六郎入道

一、弘安五年丙午九月十八日武州池上に入御。地頭衛門太夫宗仲

  同十月十八日本弟子六人を定め置かる。此の状六人面々に帯す可し云々。日興一筆なり。


   


 一、弟子六人の事 不次第


 一、蓮花(れんげ)()(じゃ)() 日持

一、伊予公   日頂


-----(四老僧の花押)---------(日昭・日朗・日興・日持)


一、佐渡公    日向

一、白蓮(びゃくれん)阿闍梨 日興

一、大國阿闍梨 日朗

一、弁阿闍梨  日昭

右六人は本弟子なり。仍って向後(こうごの為に定むる所、(くだんの如し。

  弘安五年

  同十三日(たつの時、御滅。御年六十一 即時に大地震動す。

  同十四日(いぬの時、御入棺日朗

            日昭、(の時、御葬也。

一、御葬送次第

  先火     二郎三郎 鎌倉住人

  次大寶花   四郎次郎 駿河國富士

              上野住人

  次(はた)     左 四条左衛門尉

         右 衛門太夫

  次鐘     大田左衛門入道

  次(さん)()    南条七郎次郎

  次御経    大学亮


-----(四老僧の花押)---------


  次文机    富田四郎太郎

  次佛     大学三郎

  次御はきもの 源内三郎 御所御中間

  次御棺 御輿(みこし)

             侍従公(日浄)

             治部公(日位)

           左

             下野公

             蓮花阿闍梨(日持)

  前陣 大國阿闍梨

             出羽公

             和泉公(日法)

           右

             但馬公(日合)

             卿公(日目)

             

             信乃公

             伊賀公

           左

             摂津公(日仙)

             白蓮阿闍梨(日興)

  後陣 弁阿闍梨

             丹波公

             大夫公(日祐) 

           右

             筑前公

             (そつ)(日高)

  次天蓋(てんがい)    大田三郎左衛門

  次御大刀   兵衛志

  次御腹巻   椎地四郎

  次御馬    亀王童

         瀧王童


-----(四老僧の花押)---------


一、御所持佛教事

   御遺言に云はく

   佛は釈迦立像 墓所の(かたわらに立て置く可し云々。

   経は私集最要文注法花経と名づく 同じく墓所の寺に(め置き、六人香花当番の時之を被見す可し。

   自余の聖教は沙汰の限りに非ず云々。

   (よって御遺言に任せ記す所(くだんの)(ごとし)


     弘安五年十月十六日    執筆日興 花押


日蓮は自分が不滅であるという。

第六即滅化(そくめつけ)(じょう)の事

御義口伝に云はく、我等が滅する当体は化城なり。此の滅を滅と見れば化城なり。不滅の滅と知見するを宝処とは()ふなり。是を寿(じゅ)量品(りょうぼん)にしては()(じつ)不滅度(ふめつど)とは説くなり。滅と云ふ見を滅するを滅と云ふなり。三権(さんごん)(そく)(いち)(じつ)の法門之を思ふべし。(あるい)は即滅化城とは謗法の寺塔を滅する事なり。今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は化城即宝処なり。我等が居住の山谷(せんごく)(こうや)皆々(じょう)寂光(じゃっこう)の宝処なり云云。『御義口伝上 化城喩品

さらに 寿量品「如来如実(にょじつ)知見(ちけん) 三界之相(さんがいしそう) 無有(むう)生死(しょうじ)」について御義口伝で断言している。

 此の品は万法を無作(むさ)の三身と見るを如実知見と云う。無作の覚体なれば何に()
って生死と云わんや

この武州池上の地で不思議なことがおきた。
木枯らしが吹く中、桜が咲いて満開となった。後代の弟子信徒はこの機縁にちなみ、日蓮の命日には末寺に桜の造花を飾ってこの日を寿ぐことが慣例となる。

日蓮門下と名乗る者たちは、この十月十三日を大切にしてきた。信徒たちはこの命日がきたことに祝賀の意をあらわし「おめでとうございます」とよろこびあう。日蓮が不滅である証左として。

日蓮滅後四百年後に誕生した大石寺二十六世(にち)(かん)は大難に耐えぬき、御本尊をのこした宗祖日蓮大聖人に、限りない報恩の辞を記している

 仍( よつ)て権教権門のやから、(あるい)は誹謗悪口(あっく)をなし、或は(じょう)(もく)()(しゃく)の難(あまつさ)へ両度まで流罪に()ひ玉ひ、しかのみならずきづを(こうむ)り、(たつ)の口には首の座にまでなをり玉ふ如く大難に値ひ玉ふといへども(ひとつ)には仏の付属の故に(ひとえ)に末代今時の各々我等を不便(ふびん)思召(おぼしめ)す大慈大悲より、是れ此の大難を(しの)ぎ、此の本門寿量の妙法を弘通(ぐつう)なされてある故に、今我等は易々(やすやす)と之れを唱へ即身成仏すること(ひとえ)に宗祖の御恩徳に()るなり云々。     富要第十巻『寿量品談義』

ここで信徒の一人、秋山孫次郎(やす)(ただ)の逸話をあげねばならない。

秋山は甲斐の中巨摩(こま)郡の中野にいた武士だった。甲斐にいたころ、信心強盛の父とともに伯耆房日興が書写した御本尊を授与された。

その後、功名を得て四国讃岐に赴任、讃岐の高瀬一郷の民を純信に進ましめ、今の香川県讃岐本門寺の開基檀那となった。

伯耆房日興は讃岐の法華宗の興隆に心を強く打たれ、秋山孫次郎に対し「西国参拾参箇国の導師たるべき」とも「西三(じゅう)一箇国の法華棟梁たるべき」とも賞賛し、讃岐広布を委ねている。いかに泰忠に期待していたかがわかる。

泰忠の子孫はこの遺命をよく守り、江戸時代には二千余軒の檀家がいたという。

その泰忠は晩年、子孫に次のような遺書をのこした。時は足利時代、日蓮滅後九十二年のことである。

この遺言には、泰忠がかぎりなく慕う日蓮の命日のことがしるされている。

一、十月十三日の御事はやす()たゞ()あと()()()うせんずるなん()()ねうし(女子)まごひこ(孫彦)いた()()でち()うをいた()し申すべきなり、()の御だう()よりほか()にか()そめにも御だう()()()の御だう()そむ()き申すまじき印にまたないない(内内)きや()()いといひ又はおぢ(伯叔父)なか()いとこ(従兄弟)なか()にもうら()むる事ありとも十三日にあい()たが()いに心を一つにして御ほ()け大上人をやすたゞ(泰忠)()おぎ申す()とくに、十五日まで()みなみ(皆皆)な一()ころにて御つと()めも申し候べく候、又しら()びよ()()さる()()くと(殿)ばら()をもぶんぶん(分分)()たがつてね()ごろにもてなし(接待)申すべきなり、()ない()いか(如何)なる()こん()ありと()ふとも、十月十三日はい()ゝかも()()なき事をばおも()()まつ()り申すべきなり。

一、()しこのじ()うをそむ()いていらん(違乱)()たさんずるこども(子供)は御ほ()け大上人十()せち()まん()ほさつ(菩薩)の御ばち()かぶ()るのみならず、やすたゞ(泰忠)ため()にはなが()ふけふ(不孝)もの()なり、ゆづ()ると()ろおば一ぶん()なりともちぎやう(知行)べからず 『富要 第八巻』

泰忠は子孫に御堂すなわち寺院を守り、かりそめにもほかの寺を建てて法を乱してはならないと遺言する。大上人とは日蓮のことである。命日の十月十三日から三日間は一所に参集して勤行し、人々をねんごろにもてなせという。親族の中でどんな遺恨があっても、この三日間だけは心を一つにせよという。

猿楽、白拍子とは今でいう芸能人のことである。芸能人を招いてまで命日を祝えという。

泰忠はこの遺言にそむくことがあれば、日蓮はもとより十羅刹・八幡大菩薩からも罰をうけ、泰忠にも不孝の者であるから、一所たりとも相続はさせないといいきっている。

初七日の法要を池上宗仲邸で滞りなく終えると、十月二十一日、日蓮の遺骨を首に懸けた日興を先頭に、日蓮の遺弟一行が、池上宗仲邸を出立した。身延では地頭の波木井がまっている。

だがこの悲しみの中で、日向(にこう)ら五人が浮かれた笑顔にかわっていった。

「みんな、なにを悲しんでいるのだ。上人がおおせのように笑っていこうではないか」

「そうだ、そのとおりだ。われらは自由になったのだ」

この時、伯耆房日興が立ちどまり、五人を叱責した。

「おぬしらなにをいっている。聖人の遺骨にむかって恥ずかしくないのか。

『未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて(ずい)(りき)弘通(ぐつう)を致すべき事』

この聖人の言葉をすでに忘れたのか。聖人からはなれるのか。はなれたい者はここで立ち去れ。止めはしない」

伯耆房日興の威風は、師日蓮とかさなりあって見えた。

一同が伯耆房の気迫に威圧されてだまりこんだ。

しばしの沈黙のあと、一行はふたたび進んだ。

七合目まで白雪に覆われた、雄大かつ壮麗な富士が近づいてきた。

伯耆房は在りし日の日蓮を思い起こすかのごとく偉大な富士を見あげた。
 十月二十五日、一行がようやく身延の館にもどってきた。

  

  
     百一、身延の地頭、波木井実長の謗法 につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2017-11-15 22:33 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 11月 12日

10. Discipline to the Disciples 1

Japanese edition


Sunset shines in the downtown area of Kamakura.

The downtown area was dotted with wells.

Citizens draw water from this well.

Disciple of Nichiren, Chikugobo Nichiro joined the line of people too, drawing water.

He is still in his teens. He was born in the Shimousa country Kaijo district Note volost, and a childhood name was called Kizhijomaru. He was converted to Nichiren with Hiraga Jiro Arikuni of father in 1254 and he entered to the Buddhist priesthood under Nissho of the uncle.

From around this time, the name of Nichiren propagate all over Kamakura for better or worse. And the Buddhist priest who was attached to Nichiren became his disciple one after another.

The reputation of the world was notorious Nichiren, but the mind was kindly, and his story was witty when they met him actually. His every word based from the text of Buddha's sutra and was logical. The person to listen was captivated by not only the sermon of strong conviction by Nichiren but also personality itself.

Kyoninbo, Daisinbo, a disciple with talent including Shoibo became disciples following Nissho and Nichiro. Above all, Kyoninbo was twenty years older than Nichiren, and he is eloquent, a knowledge and opinion were excellent together, and he was considered as the first-rate among then disciple.

Nichiren came back home.

Nichiro was stewing a bean when he opened the entrance.

“Welcome home.”

Disciples set up the dining table. As everybody is young, they have a good appetite.

The pickles were served on dish and beans were on the tray. In those days, staple food of the common people are the beans, or the cereals which mixed unpolished rice with a fox tail millet and Japanese barnyard millet. Court nobles ate the polished rice, but they suffered from beriberi for hypovitaminosis, and it is said that they were a premature death.

Nichiren heard while eating.

“Where did Chikugobo go to for propagation today?”

Nichiro boy is fine.

“Yes. I went to propagate the neighborhood of the shore of Wakae.”

“Oh, it was good.”

“There were many houses of the Nembutsu in that whole area. In addition, they are believing in priest Ryokan of the religious precepts sect ardently.”

Nichiren is smiling.

“Well done! This is the important ascetic practices for Nichiro too. Talk about faiths to many people.”

When they notice, two children are peeping from a window in a house. They are poorly dressed. The children were looking at the tray of the bean.

Daishinbo of the disciple sent them away.

“This is no place for child. It is a place of training itself of the Law of Buddha. Return home early.”

Nichiren talks.

“What happened?”

Daishinbo spoke as if spitting out words.

“Probably will be orphans. It is thought they are children of the houses which broke up by famine. Recently they hang around this neighborhood.”

“Well.”

When Nichiren looked from a window, young two boys snuggled each body and concreted. They do not seem brothers.

Nichiren took out the wooden bowl of the beans, and went outside.

When children noticed Nichiren, they have run away.

After Nichiren made sure of children running, he put the wooden bowl of the beans in the floor of the entrance. They will eat freely if do it this way.

Daishinbo was disgusted.

“Priest, …”

"Let me. It is not fault of the children to have become an orphan. Anyone feels hungry now. We must deal out this around ourselves at least. They will not have a place to sleep. Nichiro, were there not the straw mat?”

“Yes, there is.”

“Bring that.”

Nichiren put a straw mat on the dirt floor.

“This is good.”

Nichiro put it in the corner where Nichiro exercised tact there and brought two pillows and spread a straw mat.

Nichiren stared with a smile without saying.


Continued to Discipline to the Disciples 2


Life of Nichiren Part 1 contents




by johsei1129 | 2017-11-12 21:44 | LIFE OF NICHIREN | Comments(0)
2017年 11月 11日

9. Appearance of Women Believers 2

Japanese ver.


Nichiren preaches woman believers still more.

“All women of nowadays are living in the first 500 years after 2000 years of the death of Buddha. Shakyamuni Buddha had written down that time. This is genuine time of the woman who would attain Buddhahood. For example, there is much ice in winter, the flower is not rare in spring, and there is much grass in the summer, and the much fruit in autumn. The season rotates in this way. The attaining Buddhahood of the woman in nowadays is the same too. It is not a problem whether if it is much arrogant whether it is much folly even if there is much anger even if it has much greed and even if much jealousy. To say nothing of the woman not having these faults.” Writings about the Woman Attaining Buddhahood.’

Women received the marvelous Law by the faiths of the husband and kept it. They entered faiths as the man said, but they felt interest in the teachings at which woman became the Buddha in the Lotus Sutra. Furthermore, they knew that the Lotus Sutra preached a gender equality surprisingly. This was a shock to them.

The sutras before the Lotus Sutra preached that the woman could not become the Buddha if was reincarnated many times and not became a man. It preaches they cannot become the Buddha as a woman. The sutras are bitter to a woman as if Buddha would have a grudge against a woman.

“She is a messenger of the hell, and women cut off seeds of Buddha well. The outside resembles a Bodhisattva, but the inside is like the demon.” ‘Avatamska Sutra’

“The Bodhisattvas of mercy existing in every world cannot let the extreme accumulated evilness of woman surrender.” ‘The Sutra of the Buddha who Has the Twelve Names.

“The worldly desires of the man of the three thousand worlds gather and become the obstacles of karma of one woman.” ‘Same as above

“The man is caught by the karma of the transmigration of souls for a long time watching a woman once only. Besides he falls into the hell of incessant suffering definitely if he violated her even once.” ‘Commentary on the Great Wisdom Sutra’

The man reading this might think happy not being born as a woman. In addition, there may be a point to recall of in woman criticism of Buddha to woman.

“In the different viewpoint, a woman is called the people of suffering.” ‘Chapter of Devadatta in the Record of the Orally Transmitted Teachings.’ The women were the vulnerable groups in society in those days overwhelmingly so that Nichiren pointed out.

But it was Shakyamuni Buddha either to have broken the pains of this woman.

Buddha did not accept the priest of the woman at first because he thought the woman would disturb the ascetic practices of the Buddhist priest of the man. The priest of the first woman was Mahaaprajaapatii of the foster mother of the royal palace era of Buddha, but she applied for becoming a priest over and over again, but continued being refused from Buddha. Unable to stand by any longer, Anan of the disciple entreated Buddha, and said "Mahaaprajaapatii is the lady who had taken care of you." He begged to accept her as a priest and was finally permitted. Still, in religious precepts (commandments for completeness) which a person of priest should follow, the nun was 348 religious precepts, though a man was 250.

Furthermore, in the Lotus Sutra, Buddha gave disciples a prediction of future becoming the Buddha one after another, but promises to become the Buddha for not only the monk but also the nun.

He gave Mahaaprajaapatii of the aunt a prediction of becoming the Buddha who is watched with joy by all creatures, and gave Yasodhara of the wife of the royal palace era a prediction of becoming the Buddha with the countless light. In addition, the lady of dragon with a body of snake attained Buddhahood in present form without changing the body, this fact surprised arhats of Shariputra and others.

Nichiren preaches about the essential qualities of the woman as follows.

“To become a woman is the existence that obeys a thing and lets a thing obey.” ‘Letter to Brothers’

While woman is bound by every social limitation, the complete freedom is got by faiths. It seems to be restricted and is the position to let a thing obey. If one had this awareness and chant the marvelous Law, one can get circumstances of the freedom. For a woman, this was the same as the blindness was opened by the Lotus Sutra.

It was the course of nature that women of the strong faiths appeared one after another in the sect of Nichiren. Women of the strong faiths were born as nun Myoho, nun Sazhiki, nun Sennich, and Nichigannnyo including Nichimyo so that Nichiren oneself was surprised.


    Continued to Discipline to the Disciples


Life of Nichiren Part 1 contents



by johsei1129 | 2017-11-11 12:09 | LIFE OF NICHIREN | Comments(0)
2017年 11月 03日

9. Appearance of Women Believers 1

Japanese ver.


Spring calm sunlight comes in in a samurai residence.

Wives and widow nuns had gathered here. There were wife Nichigannyo of Kingo, and Nichimyo who became a great believer later.

Nichiren was active in the enlightenment of the woman believer too.

Originally the Lotus Sutra is the sacred book of the woman to attain Buddhahood. Nichiren emphasized that woman should believe in the only Lotus Sutra that preached the woman to become the Buddha.

“The woman was said to be a person with many crimes from ancient times. Woman is said to be the source tearing a country, too.

The Buddhist sutra reveals five obstacles of women and the teachings of non-Buddhism teach the three subordinations. Three subordinations mean that they follow parents when they are child, follow a husband when they come of age, and follow child when they grow old. This is the three subordinations without hearing what want to listen to without watching what want to watch without saying what to think without going as expected following of the three people up to old age from childhood. Because there are three obstacles in this way, women are not free in the world. It was said that they could not attain Buddhahood in the Law of the Buddha either. However, Shakyamuni Buddha preached the becoming the Buddha of women for the first time, in the Lotus Sutra.”

Women had been hearing only Nembutsu sect. That is the teachings which are helped only after dying. They are not interested in such a sermon. But Nichiren was different. Lotus Sutra preaches that the woman becomes the Buddha directly. It was fresh surprise.

“However, all women of Japan do not chant Nam-myoho-renge-kyo, and advocate the Amida Buddha's name per one day 60000 times, 100000 times, by the Meditation and Amitayurdhyana sutra which do not reveal becoming the Buddha of woman. Because this is an Amida Buddha's name, it is similar skillfully, but she is a woman counting a fortune of the other person in vain. The reason is because she relies to the sutra of not becoming the Buddha and not being beatified. This cause is because she was tempted by the evil friends. Therefore, it is the enemy of all women of Japan that the person teaches Nembutsu without teaching the Lotus Sutra than an enemy of parents than the harlot than a bandit pirate than a wolfish villain. Though the standpoint of the woman should chant Nam-myoho-renge-kyo and be a woman believing a Lotus Sutra, the women of nowadays chant Amida's name frequently during their life, and perform Buddhist service of Nembutsu consistently without chanting the Lotus Sutra and without holding a service, and they let the upholder slightly read the Lotus Sutra, but they treat bonze of Nembutsu like parents brothers, and look down upon the upholder of the sutra than vassal and kindred. All the same, they say that they believe the Lotus Sutra. Reform yourself early and come back to the correct Law.”

Precious writing which reveals women believers opened their mind to Nichiren in those days is left.

It is the About the Menstruation.’ That is the answer of Nichiren to the wife of Hiki Daigaku Saburo having asked how she should do ascetic practice at the time of woman special menstruation coming monthly.

Nichiren preaches it clearly as follows.

“In my own study of the sacred teachings, though I find clear prohibitions on certain days of the month against the impurity of things like meat or wine, the five spicy foods, or sexual acts, for instance, I, Nichiren, have never come across any passage in the sutras or treatises that speaks of avoidances connected with menstruation.

While the Buddha was in the world, many women actively became nuns and devoted themselves to the Buddha's teachings, but they were never shunned on account of their menstrual period. Judging from this, the menstruation is not any kind of impurity coming from an external. It is simply a handicap or a characteristic of the female sex which has a law of nature in the succession of the seed of birth and death. Or in another viewpoint, it might be regarded as a kind of chronically recurring illness. In the case of feces and urine, though these are substances produced by the body, so long as one keeps cleanly habits, these are not disliked. It is surely the same in this case.”


Continued 2nd


Life of Nichiren Part 1 contents



by johsei1129 | 2017-11-03 14:58 | LIFE OF NICHIREN | Comments(0)