日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 05月 31日

Gosho 観心本尊抄 The True Object of Worship 9

(せん)ずる所は一念三千の仏種に非ずんば()(じょう)の成仏・(もく)()二像の本尊は()(みょう)無実なり。

Ultimately, however, without the seed of Buddhahood, that is, the three thousand realms in a single moment of life, sentient beings cannot become Buddhas, and any statue or painting would be an object of devotion in name only.

Ultimately, without the seed of the Buddha of ichinen sanzen (three thousand realms in a single life-moment), the attainment of enlightenment of sentient beings and wooden or painted objects of worship would exist in name only.


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by johsei1129 | 2016-05-31 22:25 | PASSAGE OF NICHIREN | Comments(0)
2016年 05月 30日

此の十二因縁を如法に信じ持てば即身成仏疑ひ無し。此の十二因縁より外に仏法無し即ち法華経なりと我が身を知る 故なり。是をしらざるは即ち謗法なり、と説いた【十二因縁御書】

【十二因縁御書】
■出筆時期:康元元年建長七年(1256年)三十五歳御作。
■出筆場所:鎌倉 松葉ヶ谷の草庵と思われます。
■出筆の経緯:本抄は立宗三年後に著された書で、日連大聖人は弟子・信徒教化のため、法華経で説かれている十二因縁について詳しく講説なされておられます。
尚この年(康元元年)には、後に大聖人門下の中心的な強信徒となる四条金吾、工藤吉高(小松原法難で大聖人を守り殉死)、池上兄弟の兄・池上宗仲等が大聖人に帰依しております。
■ご真筆:現存しておりません。

【十二因縁御書 本文】
凡そ成仏とは、我が身を知るを仏に成るとは申すなり。我が身を知るとは、本よりの仏と知るを云ふなり。一切衆生螻蟻蚊虻まで生を受くる程のもの、身体は六根・六境・六識の十八界をもて組み立てたる身なり。此の衆生は五陰和合の身なり。釈に云はく「五陰和合を名づけて衆生と為す」と。此の五陰は十二因縁なる故なり。

其の十二因縁とは、無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死。此の十二因縁をば三世両重の因果と云ふ。初・八・九此の三つは煩悩なり。第二・第十此の二つは業なり。識・名色・六入・触・受・生・老死、此の七つは皆是苦なり。

十二因縁とは煩悩・業・苦の三道なり。無明・行の二つは過去の二因なり。識・名色・六入・触・受の五つは現在の五果なり。愛・取・有の三つは現在の三因なり。生・老死の二つは未来の両果なり。身に三つとは殺・盗・婬苦。口に四つとは悪口・両舌・妄語・綺語なり業。意に三つとは貪・瞋・癡煩悩。

此の十二因縁を如法に信じ持てば即身成仏疑ひ無し。此の十二因縁より外に仏法無し即ち法華経なりと我が身を知る故なり。是をしらざるは即ち謗法なり。「若人不信毀謗此経則断一切世間仏種」とは是なり。我
が身より外に別に仏無く、法華経無きなり。

縁起・非縁生は過去の二支、縁生・非縁起は未来の二支、縁起・縁生は中間の八支、非縁起・非縁生は無為の法なり。十二時とは、無明は過去の諸結の時なり。行は是過去の諸行の時なり。識は是相続心及び眷属の時なり。名色とは已に受生相続、未だ四種の色根を生ぜず、六入未だ具せざる時なり。胎内の五位とは、一には歌羅邏、二には阿浮曇、三には閉尸、四には健南、五には波羅奢伽。此くの如く胎外に生じて人と成る、是を衆生とするなり。

決の六に云はく「頭の円かなるは天に象る、足の方なるは地に象る、身内の空種なるは即ち是虚空なり。腹の温かきは春夏に法り、背の剛きは秋冬に法る。四体は四時に法る。大節の十二は十二月に法り、小節の三百六十は三百六十日に法る。鼻の息の出入するは山沢渓谷の中の風に法り、口の息の出入は虚空の中の風に法り、眼は日月に法り開閉するは昼夜に法り、髪は星辰に法り、眉は北斗に法り、脈は江河に法り、骨は玉石に法り、肉は土地に法り、毛は叢林に法り、五臓は天に在っては五星に法り、地に在っては五岳に法る」と。
身の肉は土、骨の汁は水、血は火、皮は風、筋は木。人の六根は、眼は物の色を見、耳は物の声をきく、鼻は物の香をかぐ、舌は一切の物の味をしる。身は一切の寒・熱・麁・細にふれて苦痛するなり。此の五根の功能は現に目に見えしる間やすし。第六の意と知云ふ物は、一切衆生我等が身中に持ちながら都て之を知らざるなり。我が心さへ知らず見ず、況んや人の上をや。当座の人々知ろし食されんや。仏も心をば不思議と仰せられたり。況んや其の已下をや。知らざる故は、此の心は長・短・方・円の形を離れたり、青・黄・赤・白・黒の色にも非ず、言語道断心行所滅の法なり。行住坐臥、語黙作々、因縁表白の喩ふべきに非ず。絵に書き作り出だすべき物にも非ず、是を習学する物にも非ず、仏より記?せられたることもなし、神の託宣に承る事もなし、親・師匠の手より譲られたる事もなし。天よりふり、地より涌きたるものにも非ず。極大不思議の物なり。

かゝるくせものなるを天台・妙楽二聖人の御釈、玄文に云はく「心は幻焔の如し、但曲者名字のみ有り、之を名づけて心と為す。適其れ有りと言はんとすれば色質を見ず。適其れ無しと言はんとすれば復慮想起こる。有無を以て思度すべからざるが故に、故に心を名づけて妙と為す。妙心軌るべし、之を称して法と為す。
心法は因に非ず果に非ず。能く理の如く観ずれば即ち因果を弁ふ。是を蓮華と名づく。一心、観を成ずるに由って亦転じて余心を教ふ、之を名づけて経と為す」と。

籤に云はく「有と言はゞ則ち一念都て無し。況んや十界の質像有らんや。無と言はゞ則ち復三千の慮想を起こす。況んや一界の念慮をや。此の有無を以て思ふべからざるが故に、則ち一念の心、中道なること冷然なり。故に知んぬ、心は是妙なり」と。

爰に知んぬ、我等が心は法華経なり、法華経なりと。法華経をしらざるは即ち我が身をしらざるなり。所謂、身を知らざる者あり、移宅に妻を忘れたる是なりと。されば仏にならざる者あり、後世の為に法華経を忘れたる者是なり。故に法華経を信ぜず謗る者は、諸仏に背き、諸天に背き、父母に背き、主師に背き、山に背き、海に背き、日月に背き、一切の物に背くなり。薬王の十喩見合はすべし。玄に云はく「眼・耳・鼻・舌皆是寂静の門なり。此を離て別に寂静の門無し」と。籤に云はく「実相常住は天の甘露の如く是不死の薬なり。今妙法を釈して能く実相に通ず、故に名づけて門と為す」と。寂静とは法華経なり。甘露とは法華経なり。止の三に云はく「如来の無礙智慧の経巻は具に衆生の身中に在り。けい倒して之を覆ひて信ぜず見えざるなり」と。

倩物の心を案ずるに、一切衆生等の六根は悉く法華経の体なりけりと、能く能く目をとぢ、心をしづめてつくづく御意得候へ。心が法華経の体ならんには、五根が法華の閉体にてある事は疑ひ無し。心は王なり、五根は眷属なり。目に見、耳に聞く等の事は、心がみせきかせするなり。五根の振る舞ひは併ら心が計らひなり。物を見るも心が所作なれば眼も法華経なり。耳に聞くも心が計らひなれば、耳即ち法華経なり。余根以
て之に同じ。死ねば随ひて五根も去る。五根の当体は死ねども其の形は滅せず。然れども心がなければ、いつか死人の物を見聞くや。譬へに合せん、法華を謗るもの亦是くの如し。我等が心法華にてあるを、而も法華を謗って心を失するは六根不具なり。法華経の心を失して爾前経立つべきや。法華を謗り不信にては、爾前諸宗等の小乗権法等は、心去りたる死骸にてこそあらめ云云。

今法華宗は法華経と云ふ我等が心を捨てざれば、死骸六根随って失せず。心即ち五根、五根即ち心なれば、心法成仏すれば色法共に成仏す。色心不二にして内外相具せり云云。

釈に云はく「蓮華の八葉は彼の八教を表はし、蓮台の唯一なるは八の一に帰するを表はす。一の中の八、八の中の一、常に一常に八、唯一唯八、一と成り八と成る、前無く後無し」と。止に云はく「夫一心に十法界を具す、介爾も心有れば即ち三千を具す」と。

弘に云はく「一身一念法界に遍し」と。義に云はく「三千と云ふも、法界と云ふも、法華経の異名なり」と。経に云はく「閻浮提の内に広く流布せしむ」と。閻浮とは天地なり、父母なり。又云はく「閻浮提の人の病の良薬」と。良薬は天地、父母なり。此くの如く我等衆生が身は併ら法華の体にて有るを、全く法華経を他国異朝の物と思ひ、天地水火の様に余処余処に思ひ作すなり。加様に目出たく貴き身を捨て終はりて、剰
へ謗じて悪処に落ちんは、浅猿く口惜しかるべきなり。

されば信じて我が身のいみじきやうは、六の巻随喜功徳品にあり。謗じて我が身の悪しき様は八の巻普賢品にあり。普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり。此の経を持つ者は即ち仏身を持ちて即ち仏事を行ずるなり」云云。譬喩品に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」と。普賢経に云はく「諸仏如来真実の法の子なり、汝大乗を行じて法種を断ぜざれ」云云。

日蓮花押






by johsei1129 | 2016-05-30 20:29 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2016年 05月 29日

Gosho 観心本尊抄 The True Object of Worship 8

尭舜(ぎょうしゅん)等の聖人の如きは万民に(おい)偏頗(へんぱ)無し、人界の仏界の一分なり、

The Chinese sage kings Yao and Shun were impartial toward all people. They manifested one aspect of Buddhahood within the human world.

Sages like Yao and Shun treated everyone equally, which represents part of the world of Buddhahood that exists within the world of humanity.

()(きょう)菩薩は所見の人に(おい)て仏身を見る、(しっ)()太子は人界より仏身を成ず、

Bodhisattva Never Disparaging saw the Buddha in everyone he met, and Prince Siddhārtha was a human who became a Buddha.

Whenever Bodhisattva Never Disparaging saw people, he found that they all had the world of Buddhahood. Prince Siddhartha attained Buddhahood in the world of humanity.

此等の現証を以て之を信ず可きなり。

These examples should help you believe.

Based on these examples, one should believe in the principle of the mutual possession of the ten worlds.


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by johsei1129 | 2016-05-29 14:58 | PASSAGE OF NICHIREN | Comments(0)
2016年 05月 29日

Gosho 観心本尊抄 The True object of Worship 7

十界互具(ごぐ)之を立つるは石中の火・木中の花、信じ(がた)けれども縁に()うて出生(しゅっしょう)すれば之を信ず

The mutual possession of the Ten Worlds is as difficult to believe as fire existing in a stone or flowers within a tree. Yet under the right conditions such phenomena actually occur and are believable.

The principle of the mutual possession of the ten worlds holds true, just as in the case of a fire existing in a rock, and flowers existing in a tree.

人界所具の仏界は水中の火・火中の水、最も(はなは)だ信じ難し、

 To believe that Buddhahood exists within the human world is the most difficult thing of all—as difficult as believing that fire exists in water or water in fire.

Although it is hard to believe, one can come to believe in this principle, once phenomena such as these are manifested through causal relations. The fact that the world of Buddhahood is inherent within the world of humanity is most difficult to believe, just as if one found fire in water on water in fire.

(しか)りと(いえど)も竜火は水より()で竜水は火より生ず、心()られざれども現証有れば之を用ゆ、

Nevertheless, the dragon is said to produce fire from water and water from fire, and although people do not understand why, they believe it when they see it occur.

However, dragon fire appears from water, while dragon water comes out of fire. Even if one is not fully convinced, one can accept it if there is evidence.

(すで)に人界の八界(これ)を信ず、仏界何ぞ之を用いざらん

Since you now believe that the human world contains the other eight worlds, why are you still unable to include the world of Buddhahood?

Despite the fact that one believes in the eight worlds that inherently exist within the world of humanity, why is one not able to believe in the world of Buddhahood


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by johsei1129 | 2016-05-29 14:49 | PASSAGE OF NICHIREN | Comments(0)
2016年 05月 29日

 法華取要抄私記 四 止観に云く「月重山(じゅうざん)に隠るれば扇を挙げて之に喩(たと)う」云云。是れ則ち法華経を信じ、仰いで妙法の三身如来を顕わせと云う事なり。


一 「此等」の

 正しく取捨の意を明かす、三。初めに帰流。二に「末世」の下は退止なり。三に「(しか)りと雖も」の下は取捨を加うる意を示す。第三の文、又二。初めに迷情の本を出し、二に「驚き騒ぎ」の下は(かん)なり。

一 (あるい)は旧訳

法相(ほっそう)宗なり。「或は新訳」等とは華厳宗等なり。或は「執著(しゅうじゃく)して」等とは総じて諸宗に(わた)り、別して真言を指すべし。(ぜん)無畏(むい)等なり

一 驚き騒ぎ等とは。

  一義に云く、此の二句は禅宗を破すと云云。一義に云く、実に()(ごん)・廃権(りゅう)(じつ)の為の意なり等云云。啓蒙に出でたり。両義ともに(しか)るべからざるか云云。

  今(いわ)く、此の二句は(かん)(ぎょう)なり。初めの二句は情、次の二句は智に約し、後の二句は結なり。初めの二句の意は、自宗の立義の非を(おどろ)(うれ)いて、正しき出離の要法を尋ね求むるなり。是れ則ち(ごん)(きょう)の非を捨てて実教の理を取る事なり。次の二句の意は、止観に云く「月重山(じゅうざん)に隠るれば(おうぎ)を挙げて之に(たと)う」云云。此の意なり。是れ則ち法華経を信じ、仰いで妙法の三身如来を(あらわ)せと云う事なり。(しか)るに此の事を知らず、(みだ)りに是非を論ずるは大いに誤れり。  

一 第二の文に総じて()(ぜん)と法華との勝劣を弁ずと云うとは。

  此の文は二と為す。初めに権実の勝劣を弁じ、二に「今法華経」の下は教主の()(えん)・無縁を明かす。初めの文に三。初めに略して正義を示し、二に「諸の論師」の下は相似(そうじ)の文を()し、三に「所詮」の下は正しく勝劣を弁ず。文を会する中に三。初めに諸師の所述を述べ、二に「所謂(いわゆる)」の下は別して相似の文を引き、三に「此等」の下は(まさ)しく文を会するなり。此れに又二。初めに略して示し、次に「諸経は(あるい)は」の下は釈云云。

一 文を会するに三義あり。総じて爾前経の、法華の()(こん)(とう)に相似の文を会するなり。啓蒙に、初めの二義は(こん)光明(こうみょう)(きょう)を会し、後の一義は華厳の文を会す、余は例知せしむと云うは、文に便(びん)ならざる者なり。

一 諸経は或は等文

  一義に云く「対揚(たいよう)」とは説法に約し、「対向」は人と約するなりと。一義に云く、二(とも)に人と約す。則ち対告(たいごう)の義なりと。啓蒙の意なり。

  私に云く、此の所の釈は、次上の「所対を見て経経の勝劣を(わきま)うべきなり」と云う事を(つぶさ)に釈したもう。然るに小乗の如きは二乗凡夫に対して之を説き、権大乗の如きは菩薩に対して之を()ぶ。法華経の如きは涌出の菩薩に対して之を説き給うなり。(よっ)て其の所対を見て権実の勝劣を弁ずべきなり。

一 教主の有縁・無縁を明かす中に四。

初めに双標。二に「(ぼん)(のう)」の下は権果に約して判じ、三に「又諸仏」の下は迹因(しゃくいん)に約して判じ、四に「又果位を以て」の下は(もん)()に約して判ずるなり。

一 二十種。

記の六の本に出でたり。

一 梵王(ぼんのう)云く

 ()の一に云く「大覚世尊は劫を積み、行を満じて六年に(わた)る。以て見を伏し、一指を挙げて而して魔を(くだ)す」文。()の一上十九に云云。れ権果に約して釈し給うなり。

一 「又諸仏」の下、又三。

初めに正しく有縁・無縁を判じ、二に引文、三に他破なり。「釈尊の因位」とは()(じょう)品を見るべし。(こん)()三界(さんがい)」等の文と云云。


                   つづく


本書目次                             日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-29 13:46 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2016年 05月 28日

浄土宗には現在の父たる教主釈尊を捨て他人たる阿弥陀仏を信ずる故に五逆罪の咎に依つて必ず無間大城に堕つ可き なり、と断じられた【念仏無間地獄抄】

【念仏無間地獄抄】
■出筆時期:建長七年(1255年)三十四歳御作。
■出筆場所:鎌倉 松葉ヶ谷の草庵と思われます。
■出筆の経緯:本抄は立宗二年後に著された書で、弟子・信徒教化のため、当時の民衆に広範囲に広まっていた法然の念仏(浄土)宗を厳しく破析した書となります。
大聖人は冒頭で「念仏は無間地獄の業因なり法華経は成仏得道の直路なり。早く浄土宗を捨て法華経を持ち生死を離れ菩提を得可き事」と断じられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【念仏無間地獄抄 本文】
念仏は無間地獄の業因なり法華経は成仏得道の直路なり。早く浄土宗を捨て法華経を持ち生死を離れ菩提を得可き事法華経第二譬喩品に云く「若人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん、其の人命終して阿鼻獄に入らん、一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん」云云 此の文の如くんば方便の念仏を信じて真実の法華を信ぜざらん者は無間地獄に堕つ可きなり念仏者云く我等が機は法華経に及ばざる間信ぜざる計りなり毀謗する事はなし何の科に地獄に堕つ可きか、法華宗云く信ぜざる条は承伏なるか、次に毀謗と云うは即不信なり信は道の源功徳の母と云へり菩薩の五十二位には十信を本と為し十信の位には信心を始と為し諸の悪業煩悩は不信を本と為す云云、然ば譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為せり今の念仏門は不信と云い誹謗と云い争か入阿鼻獄の句を遁れんや、其の上浄土宗には現在の父たる教主釈尊を捨て他人たる阿弥陀仏を信ずる故に五逆罪の咎に依つて必ず無間大城に堕つ可きなり、経に今此の三界は皆是我有なりと説き給うは主君の義なり其の中の衆生悉く是れ吾子と云うは父子の義なり而るに今此の処は諸の患難多し、唯我一人能く救護を為すと説き給うは師匠の義なり而して釈尊付属の文に此法華経をば付属有在と云云何れの機か漏る可き誰人か信ぜざらんや、而るに浄土宗は主師親たる教主釈尊の付属に背き他人たる西方極楽世界の阿弥陀如来を憑む故に主に背けり八逆罪の凶徒なり違勅の咎遁れ難し即ち朝敵なり争か咎無けんや、次に父の釈尊を捨つる故に五逆罪の者なり豈無間地獄に堕ちざる可けんや、次に師匠の釈尊に背く故に七逆罪の人なり争か悪道に堕ちざらんや此の如く教主釈尊は娑婆世界の衆生には主師親の三徳を備て大恩の仏にて御坐す此の仏を捨て他方の仏を信じ弥陀薬師大日等を憑み奉る人は二十逆罪の咎に依つて悪道に堕つ可きなり。

浄土の三部経とは釈尊一代五時の説教の内第三方等部の内より出でたり、此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず三世諸仏出世の本懐にも非ず唯暫く衆生誘引の方便なり譬えば塔をくむに足代をゆふが如し念仏は足代なり法華は宝塔なり法華を説給までの方便なり法華の塔を説給て後は念仏の足代をば切り捨べきなり、然るに法華経を説き給うて後念仏に執著するは塔をくみ立て後足代に著して塔を用ざる人の如し豈違背の咎無からんや、然れば法華の序分 ・無量義経には四十余年未顕真実と説給て念仏の法門を打破り給う、正宗法華経には正直捨方便・但説無上道と宣べ給て念仏三昧を捨て給う之に依て阿弥陀経の対告衆長老・舎利弗尊者・阿弥陀経を打捨て法華経に帰伏して華光如来と成り畢んぬ、四十八願付属の阿難尊者も浄土の三部経を抛て法華経を受持して山海慧自在通王仏と成り畢んぬ、阿弥陀経の長老舎利弗は千二百の羅漢の中に智慧第一の上首の大声聞・閻浮提第一の大智者なり肩を並ぶる人なし、阿難尊者は多聞第一の極聖・釈尊一代の説法を空に誦せし広学の智人なり、かかる極位の大阿羅漢すら尚往生成仏の望を遂げず仏在世の祖師此くの如し祖師の跡を踏む可くば三部経を抛ちて法華経を信じ無上菩提を成ず可き者なり。

仏の滅後に於ては祖師先徳多しと雖も大唐楊州の善導和尚にまさる人なし唐土第一の高祖なり云云、始は楊州の明勝と云える聖人を師と為して法華経を習たりしが道綽禅師に値つて浄土宗に移り法華経を捨て念仏者と成れり一代聖教に於て聖道浄土の二門を立てたり法華経等の諸大乗経をば聖道門と名く自力の行と嫌えり聖道門を修行して成仏を願わん人は百人にまれに一人二人千人にまれに三人五人得道する者や有んずらん乃至千人に一人も得道なき事も有るべし観経等の三部経を浄土門と名け此の浄土門を修行して他力本願を憑んで往生を願わん者は十即十生百即百生とて十人は十人百人は百人決定往生す可しとすすめたり、観無量寿経を所依と為して四巻の疏を作る玄義分・序分義・定善義・散善義是なり、其の外法事讃上下・般舟讃・往生礼讃・観念法門経此等を九帖の疏と名けたり、善導念仏し給へば口より仏の出給うと云つて称名念仏一遍を作すに三体づつ口より出給けりと伝へたり、毎日の所作には阿弥陀経六十巻・念仏十万遍是を欠く事なし、諸の戒品を持つて一戒も破らず三依は身の皮の如く脱ぐ事なく鉢〓は両眼の如く身を離さず精進潔斎す女人を見ずして一期生不眠三十年なりと自歎す、凡そ善導の行儀法則を云へば酒肉五辛を制止して口に齧まず手に取らず未来の諸の比丘も是くの如く行ずべしと定めたり、一度酒を飲み肉を食い五辛等を食い念
仏申さん者は三百万劫が間地獄に堕す可しと禁しめたり、善導が行儀法則は本律の制に過ぎたり、法然房が起請文にも書載たり、一天四海善導和尚を以て善知識と仰ぎ貴賤上下皆悉く念仏者と成れり・但し一代聖教の大王・三世諸仏の本懐たる法華の文には若し法を聞くこと有らん者は無一不成仏と説き給へり、善導は法華経を行ぜん者は千人に一人も得道の者有る可からずと定む何れの説に付く可きか、無量義経には念仏をば未顕真実とて実に非ずと言ふ法華経には正直捨方便但説無上道とて正直に念仏の観経を捨て無上道の法華経を持つ可しと言ふ此の両説水火なり何れの辺に付く可きや善導が言を信じて法華経を捨つ可きか法華経を信じて善導の義を捨つ可きか如何、夫れ一切衆生皆成仏道の法華経、一たび法華経を聞かば決定して菩提を成ぜんの妙典善導が一言に破れて千中無一虚妄の法と成り、無得道教と云はれ平等大慧の巨益は虚妄と成り多宝如来の皆是真実の証明の御言妄語と成るか十方諸仏の上至梵天の広長舌も破られ給ぬ、三世諸仏の大怨敵と為り十方如来成仏の種子を失う大謗法の科甚重し大罪報の至り無間大城の業因なり、之に依つて忽に物狂いにや成けん所居の寺の前の柳の木に登りて自ら頚をくくりて身を投げ死し畢んぬ邪法のたたり踵を回さず冥罰爰に見たり、最後臨終の言に云く此の身厭う可し諸苦に責められ暫くも休息無しと即ち所居の
寺の前の柳の木に登り西に向い願つて曰く仏の威神以て我を取り観音勢至来つて又我を扶けたまえと唱え畢つて青柳の上より身を投げて自絶す云云、三月十七日くびをくくりて飛たりける程にくくり縄や切れけん柳の枝や折れけん大旱魃の堅土の上に落て腰骨を打折て、二十四日に至るまで七日七夜の間悶絶躄地しておめきさけびて死し畢ぬ、さればにや是程の高祖をば往生の人の内には入れざるらんと覚ゆ此事全く余宗の誹謗に非ず法華宗の妄語にも非ず善導和尚自筆の類聚伝の文なり云云、而も流を酌む者は其の源を忘れず法を行ずる者は其の師の跡を踏む可し云云浄土門に入つて師の跡を踏む可くば臨終の時善導が如く自害有る可きか、念仏者として頚をくくらずんば師に背く咎有る可きか如何。

日本国には法然上人浄土宗の高祖なり十七歳にして一切経を習極め天台六十巻に渡り、八宗を兼学して一代聖教の大意を得たりとののしり、天下無雙の智者山門第一の学匠なり云云、然るに天魔や其の身に入にけん広学多聞の智慧も空く諸宗の頂上たる天台宗を打捨て八宗の外なる念仏者の法師と成りにけり大臣公卿の身を捨て民百姓と成るが如し、選択集と申す文を作つて一代五時の聖教を難破し念仏往生の一門を立てたり、仏説法滅尽経に云く五濁悪世には魔道興盛し魔沙門と作つて我が道を壊乱し悪人転た海中の沙の如く善人甚だ少くして若は一人若は二人ならん云云即ち法然房是なりと山門の状に書かれたり。

我が浄土宗の専修の一行をば五種の正行と定め権実顕密の諸大乗をば五種の雑行と簡て浄土門の正行をば善導の如く決定往生と勧めたり、観経等の浄土の三部経の外・一代顕密の諸大乗経・大般若経を始と為して終り法常住経に至るまで貞元録に載する所の六百三十七部・二千八百八十三巻は皆是千中無一の徒物なり永く得道有る可からず、難行・聖道門をば門を閉じ之を抛ち之を閣き之を捨て・浄土門に入る可しと勧めたり、一天の貴賤首を傾け四海の道俗掌を合せ或は勢至の化身と号し或は善導の再誕と仰ぎ一天四海になびかぬ木草なし、智慧は日月の如く世間を照して肩を並ぶる人なし名徳は一天に充ちて善導に超え曇鸞・道綽にも勝れたり貴賤・上下・皆選択集を以て仏法の明鏡なりと思い道俗・男女悉く法然房を以て生身の弥陀と仰ぐ、然りと雖も恭敬供養する者は愚癡迷惑の在俗の人・帰依渇仰する人は無智放逸の邪見の輩なり、権者に於ては之を用いず賢哲又之に随うこと無し。

然る間斗賀尾の明慧房は天下無雙の智人・広学多聞の明匠なり、摧邪輪三巻を造つて選択の邪義を破し、三井寺の長吏・実胤大僧正は希代の学者・名誉の才人なり浄土決疑集三巻を作つて専修の悪行を難じ、比叡山の住侶・仏頂房・隆真法橋は天下無雙の学匠・山門探題の棟梁なり弾選択上下を造つて法然房が邪義を責む、しかのみならず南都・山門・三井より度度奏聞を経て法然が選択の邪義亡国の基為るの旨訴え申すに依つて人王八十三代・土御門院の御宇・承元元年二月上旬に専修念仏の張本たる安楽・住蓮等を捕縛え忽ちに頭を刎ねられ畢んぬ、法然房源空は遠流の重科に沈み畢んぬ、其の時・摂政左大臣家実と申すは近衛殿の御事なり此の事は皇代記に見えたり誰か之を疑わん。
しかのみならず法然房死去の後も又重ねて山門より訴え申すに依つて人皇八十五代・後堀河院の御宇嘉禄三年京都六箇所の本所より法然房が選択集・並に印版を責め出して大講堂の庭に取り上げて三千の大衆会合し三世の仏恩を報じ奉るなりとて之れを焼失せしめ法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之れを掘り出して鴨河に流され畢んぬ。
宣旨・院宣・関白殿下の御教書を五畿・七道に成し下されて、六十六箇国に念仏の行者・一日片時も之れを置く可からず対馬の島に追い遣る可きの旨諸国の国司に仰せ付けられ畢んぬ、此等の次第・両六波羅の注進状・関東相模守の請文等明鏡なる者なり。

嘉禄三年七月五日に山門に下さるる宣旨に云く。
専修念仏の行は諸宗衰微の基なり、茲に因つて代代の御門・頻に厳旨を降され殊に禁遏を加うる所なり、而るを頃年又興行を構へ山門訴え申さしむるの間・先符に任せて仰せ下さるること先に畢んぬ、其の上且は仏法の陵夷を禁ぜんが為且は衆徒の欝訴を優に依つて其の根本と謂うを以て隆寛・成覚・空阿弥陀仏等其の身を遠流に処せしむ可きの由・不日に宣下せらるる所なり、余党に於ては其の在所を尋ね捜して帝土を追却す可きなり、此の上は早く愁訴を慰じて蜂起を停止す可きの旨・時刻を回さず御下知有る可く候、者綸言此の如し頼隆・誠恐・頓首謹言。
七月五日酉刻 右中弁頼隆奉わる
進上天台座主大僧正御房政所

同七月十三日山門に下さるる宣旨に云く。
専修念仏興行の輩を停止す可きの由・五畿七道に宣下せられ畢んぬ、且御存知有る可く候綸言此の如く之を悉にす・頼隆・誠恐・頓首謹言。
七月十三日 右中弁頼隆奉わる
進上天台座主大僧正御房政所

殿下御教書
専修念仏の事、五畿七道に仰せて永く停止せらる可きの由・先日宣下せられ候い畢んぬ、而るを諸国に尚其の聞え有り云云、宣旨の状を守つて沙汰致す可きの由・地頭守護所等に仰せ付けらる可きの旨・山門訴え申し候、御存知有る可く候、此の旨を以て沙汰申さしめ給う可き由・殿下の御気色候所なり、仍て執達件の如し。
嘉禄三年十月十日 参議範輔在り判
武 蔵 守 殿

永尊竪者の状に云く、此の十一日に大衆僉議して云く法然房所造の選択は謗法の書なり天下之を止め置く可からず、仍て在在所所の所持並に其の印板を大講堂に取り上げて三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしめ畢んぬ、又云く法然上人の墓所をば感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしめ畢んぬ。

嘉禄三年十月十五日・隆真法橋申して云く専修念仏は亡国の本為る可き旨文理之有りと。
山門より雲居寺に送る状に云く、邪師源空・存生の間には永く罪条に沈み滅後の今は且死骨を刎ねられ、其の邪類・住蓮・安楽・死を原野に賜い成覚・薩生は刑を遠流に蒙る殆ど此の現罰を以て其の後報を察す可し云云。
嗚呼世法の方を云えば違勅の者と成り帝王の勅勘を蒙り今に御赦免の天気之れ無し心有る臣下万民・誰人か彼の宗に於て布施供養を展ぶ可きや、仏法の方を云えば正法誹謗の罪人為り無間地獄の業類なり何れの輩か念仏門に於て恭敬礼拝を致す可きや、庶幾くば末代今の浄土宗・仏在世の祖師・舎利弗・阿難等の如く浄土宗を抛つて法華経を持ち菩提の素懐を遂ぐ可き者か。

日 蓮 花 押








by johsei1129 | 2016-05-28 23:21 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2016年 05月 28日

Gosho 観心本尊抄 The True Object of worship 6

法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして(ぶっ)()(けん)を開かしめんと欲す」

Expounding on the human world, the Lotus Sutra says, “The Buddhas wish to open the door of Buddha wisdom to all living beings.”

Regarding the world of humanity, the Lotus Sutra states,The Buddha’s wish is to enable all living beings to awaken to their inherent Buddha’s wisdom.””

涅槃(ねはん)(ぎょう)に云く「大乗を学する者は肉眼(にくげん)有りと(いえど)も名けて仏眼と為す」等云云、

The Nirvana Sutra states, “Those who study the teachings of the great vehicle, though they have the eyes of ordinary beings, are said to have the eyes of the Buddha.”

The Nirvana Sutra states,Those who study the Mahayana teachings have the eyes of a common mortal. I, however, say that they have the eyes of the Buddha….””

末代の凡夫出生(しゅっしょう)して法華経を信ずるは人界に仏界を()(そく)する故なり。

That ordinary people born in the latter age can believe in the Lotus Sutrais due to the fact that the world of Buddhahood is present in the human world.

We, common mortals, born in the Latter Day of the Law, are able to take faith in the Lotus Sutra because we possess the world of Buddhahood within the world of humanity.


                      つづく  Next
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by johsei1129 | 2016-05-28 18:09 | PASSAGE OF NICHIREN | Comments(0)
2016年 05月 28日

法華取要抄私記 三  大聖人の法門を自己にまかする人は、沙汰(さた)するに足らざるなり。


一 ()(おもんみ)れば

発句(ほっく)なり。「(がっ)()」とは天竺(てんじく)の総名なり。「西天」とは、天竺に来西南北中央の五国あり。仏は中央に出世して説法したもう。今「西天」と云うは、(かん)()・日本に対して総じて月氏の事を西天と遊ばさるるなり。是れ則ち仏教西天より東国に流布(るふ)する故なり。玄の一に釈して云く「大法東漸(とうぜん)」と云云。

されば漢土には仏滅後一千一十五年に当りて、後漢第二の明帝の永平十年(ひのと)()に始めて渡る。日本には人王(にんのう)三十代欽明天皇の(ぎょ)()、像法の(まつ)四百余年に渡れり。「経論五千巻」は()(やく)なり。「七千巻」は新訳なり。

一 「(その)中」の

二に、取捨の意を加うるに三。初めに諸宗其の義を(ふん)()するを標し、ニに「所謂(いわゆる)」の下は其の相を出し、三に「此等」の下は正しく取捨の意を明かすなり。

一 勝劣(しょうれつ)(せん)(じん)

(ごん)抄に云く「勝劣・浅深・難易・()後の四を教・行・理・位の四に配当して見る可し」云云。啓蒙に云く「或は難易は法体(ほったい)なり。前後は時節なり」と。

私に云く、()の三は真分なり。「先後」は経論の先後なるべし。「経」は五十年説法の次第か。「論」は四依の論師の述作の次第なり。()くの如く法門を自己にまかする人は、沙汰(さた)するに足らざるなり。一宗を立つる人、其の義を紛乱(ふんらん)紕誤(ひご)するなり。悲しむべきなり。

一 之を(わきま)うことは者(乃至)之を知る者

此の両点は啓蒙の点なり。一義に云く、此の両点一義を成ずるなり。其の故は二()の「者」の字を用の字と見る故なりと已上、啓蒙。

(いわ)く、ニ箇の「者」の字は、是れ体の字にして則ち人を指すなり。(よっ)て「之を弁ずる者は」と点ずべきなり。下も(また)是くの如し云云。

一 紛紕(ふんぴ)

「紛」とは雑なり、乱なり、(みょう)なり。此れ則ち其の義を雑乱(ぞうらん)して(あやま)りにする意なり。

一 ()(ごん)宗の云く

祖師は、天竺には()(みょう)菩薩・竜樹(りゅうじゅ)菩薩・(てん)(じん)菩薩なり。漢土には()(じゅん)()(ごん)・法蔵・(ちょう)(かん)なり。是れ(ぼん)の三、()の四の祖師と云うなり。日本には人王四十五代(しょう)()(ぎょ)()なり。

一 法相(ほっそう)宗。

天竺には弥勒(みろく)無著(むじゃく)・世親・提婆(だいば)菩薩の四人なり。唐には戒賢論師・玄奘(げんじょう)三蔵・慈恩大師・()(ほう)法師の四人なり。日本には道昭法師なり。

一 三論宗。

中論・百論・十二門論に大論を加えて四論なり。祖師は竜樹菩薩・清弁(しょうべん)著薩・智光論師・()(じょう)法師なり。日本には観勒(かんろく)僧正(そうじょう)百済(くだら)国より伝来したまえり。

一 真言宗。

三経一論あり。祖師は竜樹菩薩・竜智者薩・金剛智三蔵・(ぜん)無畏(むい)三蔵・不空三蔵恵果(けいか)和尚・弘法大師なり。

一 禅宗。

迦葉(かしょう)菩薩・達磨(だるま)慧可(えか)等なり。

一 浄土宗。

三経一論。祖師は曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)・善導和尚(わじょう)(ほう)(ねん)上人等なり。

一 ()(しゃ)宗。

四阿含(なら)びに倶舎論を以て所依と為す。祖師は世親菩薩、旧には天親と云うなり。

一 (じょう)(じつ)宗。

成実論を以て(しょ)()と為す。呵利(かり)跋摩(ばつま)三蔵(これ)を立つるなり。

一 律宗。

成実の内、道宣(どうせん)律師是れなり。

(あるい)此の四宗の中の立義不同なり。然れども大旨(たいし)は同じきなり。(よっ)て「華厳宗」と遊ばさるるは同義を示すなり。「或は云く或は云く」と遊ばさるるは、異義を(ひょう)給えり。(しか)るに啓蒙に「種種」と出せるは一意に当らざるなり。

一 (しかる)に「彼れ彼れ」の

  宗々の祖師を(いだ)すなり。上には諸宗の立義を出すなり。


                     つづく


本書目次                           日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-05-28 17:33 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2016年 05月 28日

Gosho 観心本尊抄 The True object of Worship 5

(こころ)みに道理を添加(てんか)して万か一之を()べん、

I will try to employ reasoning to explain a bit about the matter.

Therefore, let me use some reasoning to reveal something about it.

所以(ゆえ)に世間の無常は眼前に有り、(あに)人界に二乗界無からんや、

The fact that all things in this world are transient is perfectly clear to us. Is this not because the worlds of the two vehicles are present in the human world?

We see the transience of worldly things, [to which those of the worlds of the two vehicles are awakened]. Does this not mean that the world of humanity possesses the worlds of the two vehicles

無顧(なこ)の悪人も(なお)妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり、

Even a heartless villain loves his wife and children. He too has a portion of the bodhisattva world within him.

Even an evil man who never reflects upon himself shows tenderness and affection to his wife and children. This is a glimpse of the world of bodhisattva.

(ただ)仏界(ばか)り現じ(がた)

Buddhahood is the most difficult to demonstrate.

Only the world of Buddhahood is very difficult to manifest.

九界を()するを以て()いて之を(しん)じ疑惑せしむること(なか)れ、

But since you possess the other nine worlds, you should believe that you have Buddhahood as well. Do not permit yourself to have doubts.

Since we possess the nine worlds, you should believe [that you possess the world of Buddhahood] and have no doubts about it.


                      つづく Next
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by johsei1129 | 2016-05-28 15:50 | PASSAGE OF NICHIREN | Comments(0)
2016年 05月 28日

Gosho 観心本尊抄 True True Object of Worship 4


 問うて(いわ)く、六道に於て分明(ふんみょう)ならずと雖も(ほぼ)之を聞くに之を(そな)うるに似たり、

Question: Although I am not entirely certain about the six paths, it would appear from what you have said that we possess them.

Question: Considering the things that I have heard until now, it appears that [our life] possesses the six paths, although I cannot clearly understand it.

四聖は(まった)く見えざるは如何(いかん)

But what about the four noble worlds that cannot be seen at all?

However, why are we completely unable to recognize that we also possess the four noble worlds

答えて曰く、(さき)には人界の六道之を疑う、(しか)りと雖も()いて之を言つて相似(そうじ)の言を()だせしなり

Answer: Earlier you doubted that the six lower worlds exist within the human world, but when I illustrated the point through an analogy, you understood.

Answer: At first, you doubted that the world of humanity possesses the six paths. However, after I clearly pointed it out, you said that you generally understood.

四聖も又(しか)る可きか、

Perhaps it will be the same with the four noble worlds.

The same also applies to the four noble worlds.


                    つづく Next 
本文 Original Text  目次 Index



by johsei1129 | 2016-05-28 15:33 | PASSAGE OF NICHIREN | Comments(0)