日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 11月 30日

GOSHO 立正安国論37  正しく一凶の所帰を明かす十四


 悲しいかな数十年の(あいだ)百千万の人、魔縁に(とろ)かされて多く仏教に(まよ)えり、

How pitiful to think that, in the space of a few decades, hundreds, thousands, tens of thousands of people have been deluded by these devilish teachings and in so many cases confused as to the true teachings of Buddhism.

Deplorably enough, over the past several decades, as many as tens of millions of people have been deluded by this devilish doctrine, and have failed to comprehend the correct path of Buddhism.

(ぼう)を好んで(しょう)を忘る、善神(いかり)を為さざらんや

If people favor what is only incidental and forget what is primary, can the benevolent deities be anything but angry?

Favored is the erroneous doctrine; forgotten is the legitimate doctrine. How could the guardian deities not become infuriated

円を捨てて(へん)を好む、悪鬼(あっき)便(たよ)りを得ざらんや、

If people cast aside what is perfect and take up what is biased, can the world escape the plots of demons?

Discarded is the complete and perfect teaching; preferred is the distorted doctrine. There is no doubt that demons have seized this opportunity to cause confusion in the nation.

()かず、()万祈(ばんき)を修せんよりは()一凶(いっきょう)を禁ぜんには。

Rather than offering up ten thousand prayers for remedy, it would be better simply to outlaw this one evil.

Therefore, rather than offering a myriad of prayers and rituals, first and foremost it is vital to eliminate the single evil cause of all adversities.


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by johsei1129 | 2015-11-30 21:57 | PASSAGE OF NICHIREN | Comments(0)
2015年 11月 30日

GOSHO 立正安国論36  正しく一凶の所帰を明かす十三

(これ)を以て弥陀(みだ)の堂に非ざれば皆供仏(くぶつ)の志を止め、念仏の者に非ざれば早く()(そう)(おも)いを忘る、

If temples are not dedicated to Amida, then people no longer have any desire to support them or pay honor to the Buddhas enshrined there; if priests are not practitioners of the Nembutsu, then people quickly forget all about giving those priests alms.

As a consequence, everyone has ceased worshiping and making offerings to the Buddhas except at Amida temples and they have lost the desire to provide alms to the priests other than those of Nembutsu.

故に仏閣(ぶっかく)零落(れいらく)して()(しょう)の煙()い、僧房は荒廃(こうはい)して庭草(ていそう)(つゆ)深し、

As a result, the halls of the Buddha have fallen into ruin, scarcely a wisp of smoke rising above their moss-covered roof tiles; and the priests’ quarters have become empty and dilapidated, the dew deep on the grasses in their courtyards.

Thus, the temples enshrining statues of Buddha are desolate. Their roof tiles are covered with moss, making them look like overgrown pine trees. Hardly a streak of smoke rises from the chimneys. The priests’ living quarters have fallen into ruin with dew-soaked weeds growing wild in neglected gardens.

(しか)りと(いえど)(おのおの)護惜(ごしゃく)の心を捨てて並びに建立(こんりゅう)(おもい)を廃す、

And in spite of such conditions, no one gives a thought to protecting the Law or to restoring the temples.

Despite all of this, the people do not have the heart to protect or yearn for the Law, let alone reconstruct the temples.

是を以て住持(じゅうじ)の聖僧()いて帰らず、守護の善神()つて(きた)ること無し、是れ(ひとえ)(ほう)(ねん)選択(せんちゃく)()るなり、

Hence the sage priests who once presided over the temples leave and do not return, and the benevolent deities who guarded the nation depart and no longer appear. This has all come about because of this Nembutsu Chosen above All by Hōnen.

For this reason, venerable priests who continue to uphold and transmit the Law have left, never to return, causing the guardian deities to disappear. This is entirely due to Hōnen’s The Sole Selection of Nembutsu.


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by johsei1129 | 2015-11-30 21:54 | PASSAGE OF NICHIREN | Comments(0)
2015年 11月 30日

願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ、と弟子・信徒を諭した【閻浮提中御書】

■出筆時期:弘安元年(1270年) 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は末尾に「しかるに・たまたまの御とぶらい、ただ事にはあらず」と記されておられるように、身延山中の大聖人の草庵を訪れた某信徒への返書であろうと思われます。

文中では、「願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ」と厳しい指導をなされるととに「此の三師を用ゆる国主終に法皇尽了んぬ、明雲座主の義仲に殺されし、承久に御室思い死にせし是なり」と断じ、弘法・叡山座主慈覚、智証の三師を重用した国主・法皇が滅び、真言亡国の現証を顕わしていることを示し、「我が朝の亡国となるべき事先に此れをかんがへて宛も符契のごとし。此れ皆法華経の御力なり」と断じられておられます。

■ご真筆:富士大石寺(一般非公開)。

[閻浮提中御書 本文]

閻浮提中飢餓[勃起]」(又云)「[叉]示現閻浮提中刀[兵勃起]」と。叉曰く「叉示現閻浮提中疫病勃起」等云々。
人王三十代[百済]国の聖明王[仏像経日本]国にわたす。王此れを用いずして三代仏罰にあたるべし。

釈迦仏を申し隠すとが□□念仏者等・善光寺の阿弥陀仏云云、上一人より下万民にいたるまで皆人□□□□此れをあらわす、日蓮にあだをなす人は惣て日蓮を犯す、天は惣て此国を□□□□□□、二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん」等云云。

又云く「多病しょう痩」第八に云く「諸悪重病」又第二に云く「若し医道を修し方に順て病を治せば更に他の疾を増し或は復死を致す」、又云く「若し自ら病有らんに人の救療すること無く設い良薬を服すとも而も復増劇せん」等云云。

弘法大師後に望んで戯論と作す、東寺の一門上御室より下一切の東寺の門家は法華経を戯論と云云、叡山の座主並びに三千の大衆(又)日本国・山寺一同の云く□□□□□大日経等云云、智証大師の云く法華尚及ばず等云云、園城の長吏並びに一国の末流等の云く法華経は真言経に及ばずと云云、此の三師を用ゆる国主終に法皇尽了んぬ、明雲座主の義仲に殺されし、承久に御室思い死にせし是なり。

願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ。

師子は値いがたかるべし、国主の責め・なををそろし・いわうや閻魔のせめをや、日本国のせめは水のごとし・ぬるるを・をそるる事なかれ、閻魔のせめは火のごとし・裸にして入るとをもへ。

大涅槃経の文の心は仏法を信じて今度生死をはなるる人のすこし心のゆるなるをすすめむがために疫病を仏のあたへ給うはげます心なり、すすむる心なり。

日蓮は凡夫なり天眼なければ一紙をもみとを(見通)すことなし、宿命なければ三世を知ることなし、而れども此の経文のごとく日蓮は肉眼なれども天眼宿命□□□日本国七百余歳の仏眼の流布せしやう、八宗・十宗の邪正漢土月氏の論師人師の勝劣・八万十二の仏経の旨趣をあらあらすいち(推知)し[給う]、我が朝の亡国となるべき事先に此れをかんがへて宛も符契のごとし。此れ皆法華経の御力なり、而るを国主は讒臣等が凶言を・をさめて・あだをなせしかば、凡夫なれば道理なりと・をもつて退する心なかりしかども・度度あだをな[せり]。

美食ををさめぬ人なれば力をよばず・山林にまじわり候いぬ。されども凡夫なればかん(寒)も忍びがたく・熱をもふせぎがたし、食ともし表○目が万里の一食・忍びがたく、思子孔が十旬・九飯堪ゆべきにあらず、読経の音も絶えぬべし・観心の心をろそ(疎)かなり。
しかるに・たまたまの御とぶらい、ただ事にはあらず。教主釈尊の御すすめか・将又過去宿習の御催か、方方紙上に尽し難し、恐恐謹言。

※□は判読不明箇所、[]の文は真筆の判読不明箇所を推察したものです。




by johsei1129 | 2015-11-30 20:05 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2015年 11月 29日

法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く、一切法華経に其の身を 任せて金言の如く修行せば<中略>勝妙の大果報を得、広宣流布の大願 をも成就すべきなり、と説いた【最蓮房御返事(祈祷経送状)】

【最蓮房御返事(祈祷経送状)】
■出筆時期:文永十年(1272年)一月二十八日 五十二歳御作
■出筆場所:佐渡国一ノ谷入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本抄は文中で「一、仰せを蒙りて候末法の行者息災延命の祈祷の事。別紙に一巻註し進らせ候。毎日一返欠如無く読誦せらるべく候」と記されておられるように、病弱であった最蓮房が「息災延命」の祈禱法を大聖人に請われ、それに対し大聖人はわざわざ法華経の要文を一巻に認められて最蓮房に送られておられ、本抄はその添え状として書かれたものです。

大聖人は最蓮房の三つの問いに対し一つ一つ丁寧に返答されておられ、共に遠島流罪という難に遭われ、佐渡の地で大聖人に帰依し弟子となった最蓮房を気遣う大聖人の弟子を思う深い自愛に満ちた書となっておられます。
さらに文末では「猶々向後は此の一巻の書を誦して仏天に祈誓し御弘通有るべく候。但し此の書は弘通の志有らん人に取りての事なり。此の経の行者なればとて器用に能はざる者には左右無く之を授与すべからず候か」と記され、病気を克服してその後は一層法華経弘通に励むよう諭されておられます。

■ご真筆:現存しておりません。
[最蓮房御返事(祈祷経送状) 本文]
御札の旨委細承り候ひ畢んぬ。兼ねては又末法に入りて法華経を持ち候者は、三類の強敵を蒙り候はん事は、面拝の時大概申し候ひ畢んぬ。仏の金言にて候上は不審を致すべからず候か。然らば則ち日蓮も此の法華経を信じ奉り候ひて後は、或は頭に疵を蒙り、或は打たれ、或は追はれ、或は頚の座に臨み、或は流罪せられ候ひし程に、結句は此の島まで遠流せられ候ひぬ。何なる重罪の者も現在計りこそ罪科せられ候へ、日蓮は三世の大難に値ひ候ひぬと存じ候。其の故は現在の大難は今の如し。過去の難は当世の諸人等が申す如くば、如来在世の善星・倶伽利等の大悪人が、重罪の余習を失せずして如来の滅後に生まれて是くの如く仏法に敵をなすと申し候是なり。

  次に未来の難を申し候はゞ、当世の諸人の部類等謗じ候はん様は、此の日蓮房は存生の時は種々の大難にあひ、死門に趣くの時は自身を自ら食して死ぬる上は、定めて大阿鼻地獄に堕在して無辺の苦を受くるらんと申し候はんずるなり。古より已来世間・出世の罪科の人、貴賤・上下・持戒毀戒・凡聖に付けて多く候へども、但其れは現在計りにてこそ候に、日蓮は現在は申すに及ばず、過去未来に至るまで三世の大難を蒙り候はん事は、只偏に法華経の故にて候なり。日蓮が三世の大難を以て法華経の三世の御利益を覚し食され候へ。過去久遠劫より已来未来永劫まで、妙法蓮華経の三世の御利益尽くべからず候なり。日蓮が法華経の方人を少分仕り候だにも加様の大難に遇ひ候。まして釈尊の世々番々の法華経の御方人を思ひ遣りまいらせ候に、道理申す計りなくこそ候へ。されば勧持品の説相は暫時も廃せず、殊更貴く覚え候。

  一、御山篭りの御志の事。凡そ末法折伏の行に背くと雖も病者にて御座候上、天下の災・国土の難強盛に候はん時、我が身につみ知り候はざらんより外は、いかに申し候とも国主信ぜられまじく候へば日蓮尚篭居の志候。まして御分の御事はさこそ候はんずらめ。仮使山谷に篭居候とも、御病も平癒して便宜も吉く候はゞ身命を捨て弘通せしめ給ふべし。 

  一、仰せを蒙りて候末法の行者息災延命の祈祷の事。別紙に一巻註し進らせ候。毎日一返欠如無く読誦せらるべく候。日蓮も信じ始め候ひし日より毎日此等の勘文を誦し候ひて、仏天に祈誓し候によりて、種々の大難に遇ふと雖も法華経の功力、釈尊の金言深重なる故に今まで相違無く候なり。其れに付けても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり。

  一、御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云。権教を信ぜし大謗法の時の事は何なる持戒の行人と申し候とも、法華経に背く謗法罪の故に正法の破戒の大俗よりも百千万倍劣り候なり。彼の謗法の比丘は持戒なりと雖も無間に堕す。正法の大俗は破戒なりと雖も成仏疑ひ無き故なり。但今の御身は念仏等の権教を捨て正法に帰し給ふ故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり。尤も比丘と成りては権宗の人すら尚然るべし。況んや正法の行人をや。仮使権宗の時の妻子なりとも、かゝる大難に遇はん時は、振り捨てゝ正法を弘通すべきの処に、地体よりの聖人尤も吉し尤も吉し。相構へ相構へ向後も夫妻等の寄り来とも遠離して一身に障礙無く、国中の謗法をせめて釈尊の化儀を資け奉るべき者なり。

猶々向後は此の一巻の書を誦して仏天に祈誓し御弘通有るべく候。但し此の書は弘通の志有らん人に取りての事なり。此の経の行者なればとて器用に能はざる者には左右無く之を授与すべからず候か。穴賢穴賢。恐々謹言。




by johsei1129 | 2015-11-29 22:48 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下二十


 二には、佐渡抄十四・十に云く「法華経の行者を
梵釈(ぼんしゃく)・左右に(はんべ)日月(にちがつ)・前後を(てら)し給ふ、かかる日蓮を用いぬるとも()しく()やまはば国亡ぶべし、(いか)(いわん)や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども(しばら)(いましめ)をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・()うに()ぐれば罰あたりぬるなり」文。

  文の表は近報を語ると(いえど)も、文の意は(また)遠報にも通ずるなり。(いわ)く、(すで)に数百人に(にく)ませ二度まで流しぬるは鎌倉殿の大科なり。此の大科、(ほう)に過ぐるが故に、近くは文永十一年二月中旬、京・鎌倉に於て同士(うち)して多く一族を誅し(おわ)んぬ。遠くは蓮祖の滅後五十二年に当って子孫跡形(あとかた)無く滅亡し畢んぬ。

太平記第十終に云く「嗚呼(ああ)、此の日は(いか)なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申すに、平家九代の繁昌(はんじょう)一時に滅亡して、源氏多年の(ちっ)(かい)一朝に()くる事を得たり」等云云。

  当に知るべし、法華守護の八幡大菩薩は(いきおい)刹那(せつな)(もよお)し、天照大神の垂迹(すいじゃく)(うしお)を万里に退けて、源氏の(いただき)に乗り移って平家の(やから)を責め(ほろぼ)せしなり。(けん)仁寺(にんじ)(てん)()の詩に云く

短世(たれ)()亀谷(きこく)の水

()(れい)久しく保つ鶴岡(つるがおか)の松

(かつ)て日蓮師の(いさ)めに(たが)うに()って

永々の英将(あと)()がず    等云云。

安国論の性師(じょ)に云く、

先代の英将諫言(かんげん)()れずして万世(たも)たず

(あわれ)むべし焦土(しょうど)となりぬること

惜しいかな亀谷の水は(あざけり)を献じ

鶴岡の松は笑いを()ぐ    等云云。

聖人御難抄二十三・三十一に法華経の行者(ぎょうじゃ)三十九・二十六に極楽寺の事。

  三には、乙御前抄十四・二十一に云く「日蓮が(こうべ)には大覚世尊かはらせ給いぬ」又云く「事の後に()へばこそ人も信ずれ、()うただ・()()きなばこそ未来の人は智ありけりとは・しり候はんずれ、又身軽(しんきょう)(ほう)(じゅう)死身(ししん)弘法(ぐほう)とのべて候へば身は軽ければ人は打ちはり(にく)むとも法は重ければ必ず弘まるべし、法華経弘まるならば死か()(かえ)って重くなるべし、かばね重くなるならば此のかばねは利生(りしょう)あるべし、利生あるならば今の八幡大菩薩と・い()()るるやうに・いはうべし」等云云。

本門の大法年々に弘まり、蓮祖の威光(いこう)月々に倍増し、御影(みえい)の利生日々に(あらた)なり。故に(これ)を祝い祭ること(ほとん)ど鶴岡に過ぎたり。既に是れ眼前なり。(あに)兼知(たが)わざるに非ずや。

故に知んぬ、()が蓮祖は是れ(まこと)に大聖人にして、末法下種の教主なること其の意分明(ふんみょう)なり云云。


                   つづく
撰時抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-11-29 21:11 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一九 日蓮大聖人、滅後の符合に三事あり


  十五日

  問う、宗祖の兼知未萌(けんちみぼう)の現世符合(ふごう)の事、(すで)に命を聞き(おわん)ぬ。又現世の御言、滅後符合の事(これ)有りや

  答う、実に所問の如し。今(しばら)く現世の三事に(じゅん)じて滅後符合(ふごう)の三事を出さん。 

  一には、下山抄二十六・五十二に云く「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が(こうべ)を打ち十巻(とも)に引き散して散散(さんざん)(ふみ)たりし大禍(たいか)は現当二世にのがれたくこそ候はんずらめ」云云。

此の大科(つい)(まぬか)れずして、(へいの)左衛門尉(より)(つな)も宗祖滅後二十一年に当って一類(みな)滅亡せり。

鎌倉将軍()に云く「弘安七年十月、時宗(ときむね)の子息(さだ)(とき)十四歳、家督(かとく)()いで執権(しっけん)す。同八年四月、貞時、(さがみ)(のかみ)に任ず。

(頼綱、泰盛の子宗景(むねかげ)が藤原氏を改めて源氏と為し、(ひそか)謀叛(むほん)して将軍たらんと欲すと()ぐ。十一月、泰盛、宗景(ちゅう)に伏す。()の党皆(たいら)ぐ。(ここ)に於て頼綱(ひと)()(ふる)う)。

永仁元年四月、鎌倉大地震、死者一万余人。貞時の家令(かれい)頼綱、剃髪(ていはつ)して()(えん)と号す。権威()に盛んなり。其の次男安房(あわの)(かみ)廷尉(ていじょう)に任じ、飯沼殿と号す。(ひそか)に安房守を立てて将軍と為さんと(はか)る。果円が長子(むね)(つな)、以て貞時に告ぐ。貞時、果円及び安房守等を誅す。宗綱も(また)佐渡国に流さる。(其の後之を(ゆる)す)一族滅亡す」等云云。

  今案じて云く、平左衛門入道果円の首を()らるるは、是れ(すなわ)ち蓮祖の御顔を打ちしが故なり。最愛の次男安房守の首を刎ねらるるは、是れ則ち安房国の蓮祖の御頸(おんくび)を刎ねんとせしが故なり。嫡子(ちゃくし)宗綱の佐渡に流さるるは、是れ則ち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり。其の事、(すで)に符号せり、(あに)大科(まぬか)れ難きに非ずや。

問う、頼綱の滅亡は(まさ)しく(あつ)(はら)の法華宗の首を切りしが故なり。謂く、駿州(すんしゅう)富士熱原の郷の住人、神四郎・田中の四郎・広田弥太郎を始めとして多くの信者有り。然るに駿河(するが)の国は(こう)殿(どの)(ごり)(ょう)(こと)に富士(ごおり)後家(ごけ)(あま)御前達の内の人々多し。故に最明寺(さいみょうじ)・極楽寺の御敵(おんかたき)(いか)り給う故にや、平左衛門頼綱、弘安()年の秋の(ころ)、彼の神四郎・田中の四郎・広田の弥太郎等二十四輩を生け()りて(ろう)に入れ、其の年の冬、三人の者は法華宗の張本として頭を刎ねらる。其の(ほか)の者をば残らず追却(ついきゃく)せり。

  されば蓮祖大聖人、彼等籠者(ろうしゃ)の問の御書二十二・三十三に云く「彼のあつわら(熱原)愚癡(ぐち)の者ども・()はげ()まして・をどす事なかれ、彼等にはただ()えん()におもい切れ・()からんは不思議わる()からんは一定(いちじょう)とをもへ」已上。

  又(くび)切られて後、上野殿への御書三十二・十八に云く「()つはら()のものども・かく()しませ給へる事は・(しょう)(へい)将門(まさかど)・天喜の(さだ)(とう)のやうに此の国のものどもは・おもひて候ぞ、是れはひと()へに法華経に命を()つるがゆえなり、まつたく主君にそむ()く人とは天・御覧(ごらん)あらじ」已上。

  其の後、日興上人、彼の菩提(ぼだい)(とぶら)中に御本尊書写し給う。其の端書(はしが)きに云く「駿河国富士下方(しもかた)熱原郷の住人、神四郎、法華宗と号して(へいの)左衛門尉が為に(くび)()らるる三人の内なり。(へいの)左衛門入道、法華宗の頸を切るの(のち)十四年を経て、謀叛(むほん)(くわだ)つる間、(ちゅう)せられ、其の子孫、跡形(あとかた)も無く滅亡し(おわ)んぬ。徳治三年(つちの)(えさる)卯月(うづき)八日、日興在判」云云。

  故に頼綱の滅亡は熱原の現罰なり。何ぞ蓮師打擲(ちょうちゃく)の大科と云うや。

  答う、現報に遠近(おんごん)あり。遠くは蓮師打擲の大科に()り、近くは熱原の殺害(せつがい)に由るなり。故に興師は近く現報を論じ、今は遠く(これ)を論ずるが故なり。


                      つづく
撰時抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-11-29 20:41 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一八 蒙古来襲の兼知符合を説く

一 建長寺(けんちょうじ)文。

  是れ禅宗なり。()福山(ふくざん)と号す。五山の第一なり。相模(さがみ)(のかみ)平時頼(たいらのときより)、建長三年十一月に建立(こんりゅう)なり。開山は宗の大覚禅師(ぜんじ)(いみな)道隆(どうりゅう)蘭渓(らんけい)(つぶさ)には元亨(げんこう)釈書(しゃくしょ)第六九の如し。

一 寿(じゅ)福寺(ふくじ)文。

  (また)禅宗なり。亀谷山(きこくざん)と号す。五山の第三なり。開山は千光(せんこう)国師(こくし)栄西(えいさい)なり。此の地は頼義・義家居住の処なり。(のち)に義朝も(ここ)に住せり。二位の(ぜん)()、彼の菩提の為に栄西に付するなり。

一 極楽(ごくらく)

  是れ律宗なり。霊山(りょうぜん)山と号す。開山は忍性(にんしょう)菩薩(ぼさつ)(りょう)(かん)上人なり。陸奥(むつの)(かみ)平重時の建立なり。重時、極楽寺殿と号するなり。

一 大仏殿等

  建長寺の持分なり。(かん)(げん)元年の建立なり。今の大仏は金銅の()遮那仏(しゃなぶつ)なり。

一 長楽寺

  浄土宗の法然が弟子、(りゅう)(かん)所住の寺なり。

一 去年(こぞ)文永十一年四月八日

 「去年」とは文永十一年なり。故に当抄は建治元年の述作なり。文永十一年(きのえ)(いぬ)二月十四日の御赦免(ごしゃめん)(じょう)、同じき三月八日島に()き、同じき十二日に島を御立ち、同じき二十六日に鎌倉に入り給い、同じき四月八日に(へいの)()衛門(えもん)に御対面なり。註画(ちゅうが)五初

一 (こと)に真言宗乃至(おおい)なるわ()はひにては

 東寺(とうじ)叡山(えいざん)、並びに是れ真言なり。

 問う、(さき)の両度は(ただ)禅・念仏を破し、今は別して真言を破する所以(ゆえん)如何(いかん)

  答う、三沢抄十九・二十三に云く「又法門の事は()()(くに)へながされ候いし()(ぜん)の法門は・ただ仏の()(ぜん)(きょう)とをぼしめせ」等云云。是れに二義有り。一には所破、二には所顕なり。

  所破と云うは佐渡已前には(いま)だ真言を破せざるなり。何となれば即ち()下の文に云く「此の国の国主、我が()をも・たもつべくば真言師等にも()し合わせ給はんずらむ、()の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろう(披露)してかれら(彼等)()りなんず、さらば・よも()わじと・をもひて各各(おのおの)にも申さざりしなり」云云。

  所顕と言うは(いま)だ三()の秘法を顕さざるなり。即ち()次下の文に云く(しか)るに(いぬ)る文永八年九月十二日の夜、たつ()(くち)にて(くび)()ねられんとせし時より・のち()ふびんなり、我につきたりし者どもにま()との事を()わざりけると()もうて・()()の国より弟子どもに内内申す法門あり、此れは仏より後、乃至竜樹・(てん)(じん)・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口より外には(いだ)し給はず」等云云。三十三・十九三十五・五十一

  佐渡已後(いご)(もっぱ)ら真言を破し、三()の秘法を顕すなり。例せば法華に至って始めて三を破して一を顕し、(しゃく)を破して本を顕すが如し。()(ぜん)の中に於ては此の破顕の二義無し。佐渡已前も(また)(しか)なり。故に「(ただ)仏の爾前経」等と云うなり。()し通じて(これ)を談ぜば、彼も未顕(みけん)真実なり。此れも未顕真実なり。故に(しか)云うなり。

一 よも今年はすごし候はじ等

  即ち其の年の冬、文永十一年十月、蒙古の兵船対馬(つしま)に寄せ(きた)り、二箇国を(うば)い取れり。已上(いじょう)三度の兼知、(ごう)(まつ)(たが)わず、(あに)大聖人に非ずや。

佐渡御書十七・十九に云く「現世に云い()(ことば)(たが)はざらんをもて後生(ごしょう)(うたがい)をなすべからず」等云云。

(ここ)に於て暫時(ざんじ)、筆を()いて紅涙(こうるい)紙を点ず云云。

 

                    つづく
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by johsei1129 | 2015-11-29 20:00 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一七 自界叛逆難の兼知符合を説く

  十三日

一 (へいの)左衛門尉(さえもんのじょう)に向かって云く

 是れ即ち名字なり。故に「へイ」とよむべし。愚案(ぐあん)記三・十六に云云。語式は不可なり。

一 日蓮は日本国の棟梁(とうりょう)なり

 職原抄(しょくげんしょう)一・六の頭書(かしらがき)に云く「室、棟梁に非ざれば(すなわ)(じょう)ず」云云。又云く「(ずい)高孝基(こうこうき)、人を知るの(かがみ)有り杜如(とじょ)(かい)を見て(いわ)く、必ず棟梁の重きに任ぜんと。班固(はんこ)(しゃ)()()(すす)む、(まこと)大僕(たいぼく)の棟梁なりと。棟梁の二字は(ここ)より出ず」と云云。

佐渡抄十四・九に云く「日蓮によりて日本国の有無(うむ)はあるべし、(たと)えば(いえ)に柱なければ・たもたず人に(たましい)なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門(すで)に日本柱をたをしぬ」文。即ち今文に同じきなり。

一 只今(ただいま)自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)

 問う、(けん)()符合(ふごう)如何(いかん)

 答う、顕立正意抄十三・二十七に云く「(いぬ)る文永八年九月十二日御勘気(ごかんき)(こうむ)りしの時()く所の(ごう)(げん)次の年二月十一日に符合せしむ、(こころ)有らん者は之を信ず可し。(いか)(いわん)や今年(すで)に彼の国災兵(さいひょう)の上二()国を(うば)()る。(たと)い木石()(いえど)も、設い禽獣(きんじゅう)()りと雖も感ず可く驚く可きに」等云云。

「次の年の二月十一日」とは(すなわ)ち文永九年二月の騒動の事なり。

文永九年壬申(みずのえさる)春、鎌倉の時宗の舎兄・六波(ろくは)()の南方・北条式部丞(ほうじょうしきぶのじょう)(とき)(すけ)(ひそか)に時宗を(ちゅう)せんと(はか)る。北条尾張守(きみ)(とき)入道(にゅうどう)(けん)西(ざい)遠江守(とうとうみのかみ)教時(のりとき)(これ)に応ず。事、関東に聞こゆ。故に二月十一日、鎌倉に於て彼の与党(きみ)(とき)入道並びに遠江守教時を誅す。(しか)るに(けん)西(ざい)罪科なき故に()って、討手(うって)大倉次郎左衛門尉、渋谷新左衛門尉、四方田(よもだ)竜口左衛門尉、石河神の次左衛門尉、薩摩左衛門三郎等、首を()られ(おわん)ぬ。又中の御門(みかど)中将(さね)(たか)郷、(ろう)者と成る。その(ほか)、多くの人誅敗(ちゅうばい)を受く。

同じき十五日、鎌倉の早馬、六波羅の北方・北条義宗(よしむね)(もと)に来る。義宗(にわか)に南方へ押し寄せ、(とき)(すけ)()(ほろぼ)す。吉野の奧に遁逃(とんとう)し、(つい)に行方を知らず。(これ)二月の騒動と()うなり。

 (とき)(すけ)は是れ時宗の兄なるに、弟の時宗家督(かとく)を取られ鬱憤(うっぷん)止まざる故に、逆心の(くわだて)りしなり。六波羅の北方・義宗は是れ長時が子なり。長時は重時(しげとき)が子なり。重時は是れ義時の三男なり。義時は時政が嫡子(ちゃくし)なり。(きみ)(とき)(のり)(とき)(みな)時頼、時宗の一門なり。自界叛逆(ほんぎゃく)の兼知(あたか)も符節の合うが如し。(あに)大聖人に非ずや。

 日妙抄十九・六十に云く「今年二月十一日合戦、()れより今五月のすゑ()・いまだ世間安穏ならず」等云云。

 又文永九年正月十六日、佐州塚原に於て諸宗と法論、勝利を得るの後、本間重連(しげつら)に向って未萌(みぼう)を示す。此の事、三十日の内に符合せり。(つぶさ)佐渡抄十四・八紙()()の如し。

 「(いか)(いわん)や今年二箇国を(うば)()る」とは、「今年」は即ち文永十一年なり。王代一覧の五・四十二に云く「文永十一年十月、蒙古の兵船、対馬(つしま)島に寄せ来る。武士等防戦」等云云。「二箇国」とは壱岐(いき)・対馬なり。

一 経文の如く乃至(ないし)彼等が()由井(ゆいの)(はま)にて切らずば等

  問う、(いず)れの経文を指すや。

  答う、安国論の意に(じゅん)ずるに、(せん)()有徳(うとく)の経文なるべし。会疏(えしょ)三・五十五、同十一・十九、安国論十七・八。

  問う、涅槃(ねはん)経には「(とう)(じょう)を持すと雖も、(まさ)に命を断ずべからず」云云。安国論に云く「釈迦の以前の仏教は其の罪を()ると(いえど)(のう)(にん)の以後、経説は(すなわ)()()を止む」等云云。「諸宗の僧の(くび)()ねらるべし」云云。(あに)相違するに非ずや。

  答う、「則ち其の施を止む」とは、是れ為人悉(いにんしつ)(だん)に約す。「頸を()ぬべし」とは是れ対治(たいじ)悉檀に約す。本経の文に両辺あり。故に(おのおの)一意に()るなり。啓蒙九・十四、又会疏(えしょ)三・三十一に云云。二十一・二十三


                    つづく
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by johsei1129 | 2015-11-29 17:52 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一六 他国侵逼難の兼知符合を説く


  第三十二段 
聖人(しょうにん)たるを広く釈す

 

一 外典(げてん)に云わく等

 此の下は広釈、三あり。初めに釈名、次に「()に三度」の下は正釈、三に「問うて云く第二」の下は(かん)(もん)なり。

一 未萌(みぼう)をしるを是れ聖人と云う

()二末九十三に云く「(ぜい)(えん)に云く、(ぼう)(ちょう)(いま)だ現れざるに存亡の機を見るを名づけて聖臣と為す」云云。文選(もんぜん)四十四に云く「明者は(あやう)きを無形と見、智者は福を未萌に(はか)る」云云。良曰く「(ぼう)は初生なり」と。善曰く「太公金匱(きんき)に曰く、明者は未萌を見る」文。

三沢抄十九・二十二に云く「聖人は未萌(みぼう)を知ると申して三世の中に未来の事を知るを・ま()との聖人とは申すなり」等云云。二十八巻八の聖人知三世抄()いて見よ。

一 ()に三度の高名(こうみょう)あり等

  此の下は正釈、又二あり。兼知(けんち)未萌(みぼう)を明かすに(おのずか)ら三あり、見るべし。

一 最明寺(さいみょうじ)殿等

  釈書十七・二十、王代一覧五・二十九、鎌倉志三・四十六。

一 宿()の入道に向かって云く等

  (のち)蓮師に帰し、光則寺(こうそくじ)を立つるなり。啓蒙の一・三、往いて見よ。

一 禅宗と念仏宗とを(うしな)い給うべし

  問う、安国論には(ただ)法然のみを破す。今何ぞ「禅宗」と云うや。

 答う、彼の論の現文は但法然のみを破すと(いえど)も、意は諸宗に通ずるなり。(つぶさ)には安国論愚記の如し。諸宗の中に於ても禅宗は別して鎌倉殿帰依(きえ)の宗なり。故に宿屋に向って「禅宗と念仏宗」等と云うなり。報恩抄に云く「国主は禅宗を尊む、日蓮は天魔の所為(しょい)と云うゆへに我と(まね)ける・わ()わひなれば」と云云。

一 此の一門より事()こりて他国に()めらせ給うべし等

 次上(つぎかみ)の二十六紙を往いて見よ。

 問う、兼知符合(ふごう)は如何。

 答う、種種御振舞抄二十三・三十九に云く「()ぬる文永五年(のち)の正月十八日、西戎(せいじゅう)大蒙古国より日本国を(おそ)うべきの由(ちょう)(じょう)を渡す。日蓮が()ぬる文応元年(たい)(さい)庚申(かのえさる)立正安国論に(かんが)えたるが如く、今に少しも(たが)わず符合(ふごう)しぬ。此の書は(はく)楽天(らくてん)楽府(がふ)にも越え、仏の未来記にも劣らず、末代の不思議、何事か是れに過ぎん。賢王・聖主の御代(みよ)ならば日本第一の権状(けんじょう)にも行われ、現身に大師号あるべしと思いしに()の義なし」(取意)等云云。

「白楽天の楽府にも越え」とは安国論愚記(ごと)し。

「仏の未来記にも劣らず」とは、顕立正意抄十三・二十五に云く「立正安国論に云く、乃至朝に賢人(けんじん)有らば(これ)(あやし)む可し」等云云。

()(とく)外道(げどう)涅槃(ねはん)経三十一・八の如し。瞻婆(せんば)長者は涅槃経二十八・七の如し。「()って後三月」の文は()(げん)観経に出ず。()の外、六十年の()田地(でんち)、一百年の(きょう)比丘(びく)及び阿育(あそか)大王、六百年の馬鳴(めみょう)、七百年の竜樹(りゅうじゅ)、皆仏記(ぶっき)の如く(しゅう)(ごう)(たが)わず。蓮祖の兼知(また)(また)()くの如し、故に「仏の未来記にも劣らず」と云うなり。

  

                        つづく
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by johsei1129 | 2015-11-29 17:12 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一五

七日

 
 第三十一段 閻浮提第一の聖人


一 いまにしもみよ等

  此の下は第三に、日蓮は(えん)()第一の聖人なることを明かす、三あり。

  初めに略して(けん)()兵乱(ひょうらん)を示し、次に「外典に曰く」の下は広く釈し、三に「されば国土いたくみだれば」の下は結。初めの兼知兵乱を示す中に、()ず正しく示し、次に信伏(しんぷく)を明かす中に内外(ないげ)の例を引くなり。(註:兼知=かねて知る事。予知、予言。兼讖と同義)

一 月支(がっし)の大族王。

  西域(せいいき)四・二。註の所引の如し。

一 (むね)(もり)(かじ)(わら)うや()まう等

  「(かげ)(とき)」の二字は(まさ)に「能員(よしかず)」に作るべし。即ち是れ比企四郎(ひきしろう)能員なり。東鑑(あずまかがみ)第四の元暦(げんりゃく)二年、盛衰記四十五・五の如し。此の能員は安国論所覧(しょらん)の比企大学三郎の父なり。

一 提婆(だいば)乃至南無と唱え等

  増一(ぞういち)阿含(あごん)四十六・十三に云云。「南無」の事、種々の因縁は林の二十・二十、愚案記の十六巻五十七に云云。

一 南無日蓮聖人等

  聖人知三世抄二十八・九に云く「日蓮は一閻浮提(いちえんぶだい)第一の聖人なり」文。経に云く「()(にち)大聖尊」云云。「尊」とは人なり。人即尊なり。「唯我独尊(ゆいがどくそん)・唯我一人(いちにん)(これ)を思え、(まさ)に知るべし「大聖人」とは即ち仏の別号なり。是れ(すなわ)ち末法下種の教主なるが故なり。江戸阿私加大論二十二・十六。


                    つづく
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by johsei1129 | 2015-11-29 13:06 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)