日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 06月 30日

観心本尊抄文段 上一 暫(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶(かな)わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来(きた)らざるなく、理として顕われざるなきなり。


  観心本尊抄文段 上    

                      富山大石寺二十六世 日寛 謹んで記す


 ()れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には(ただ)法華経、法華経二十八品の中には(ただ)本門寿量品、本門寿量品の中には但文底(もんてい)深秘(しんぴ)の大法にして本地(ほんち)(ゆい)(みつ)の正法なり。

 此の本尊に(にん)あり(ほう)あり。人は(いわ)く、久遠元(くおんがん)(じょ)境智冥合(きょうちみょうごう)自受用(じじゅゆう)(ほう)(しん)。法は謂く、久遠名字(みょうじ)の本地難思(なんし)の境智の妙法なり。法に(そく)してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は(こと)なれども、その(たい)(つね)に一なり。その体は一なりと(いえど)も、(しか)も人法宛然(おんねん)なり。(まさ)に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。

これ(すなわ)ち諸仏諸経の能生(のうしょう)の根源にして、諸仏諸経の()(しゅ)せらるる処なり。

故に十方(じっぽう)三世(さんぜ)(ごう)(しゃ)の諸仏の功徳、十方三世の微塵(みじん)の経々の功徳、皆(ことごと)くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。(たと)えば百千枝葉(しよう)同じく一根に(おもむ)くが如し。

故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用(みょうゆう)あり。故に(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして(かな)わざるなく、罪として滅せざるなく、福として(きた)らざるなく、理として(あらわ)れざるなきなり。(みょう)(らく)所謂(いわゆる)正境(しょうきょう)に縁すれば功徳(くどく)(なお)多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐(ほんかい)、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人(ぎょうにん)(しょ)(しゅう)明鏡(みょうきょう)なり。

故に宗祖云く「此の書は日蓮が身に当る一期(いちご)の大事なり」等云云。故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂(いわゆる)三種九部の法華経、二百二十九条の口伝(くでん)種脱(しゅだつ)一百六箇の本迹、三大章疏(しょうしょ)七面七重口決(くけつ)(たい)(とう)両家二十四番の勝劣、摩訶(まか)止観(しかん)十重(じゅうじゅう)(けん)(かん)の相伝、四重(しじゅう)興廃(こうはい)、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨(しゅうし)の三箇、文上(もんじょう)文底(もんてい)本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)自行(じぎょう)()()形貌(ぎょうみょう)種脱、(はん)(しょう)名字(みょうじ)応仏(おうぶつ)昇進(しょうしん)久遠(くおん)元初(がんじょ)名同(みょうどう)(たい)()、名異体同、事理の三千、(かん)(じん)教相(きょうそう)本尊(ほんぞん)七箇の口決(くけつ)三重の相伝、筆法(ひっぽう)の大事、明星(みょうじょう)(じっ)(けん)の伝受、(じん)(じん)(おう)()、宗門の淵底(えんてい)(ただ)我が()の所伝にして諸門流の知らざる所なり。

所以(ゆえ)(にっ)(ちゅう)(にっ)(しん)の博覧も(なお)当抄の元意(がんい)(あきら)むる(あた)わず。(いか)(いわん)(にち)(ごん)(にっ)(ちょう)(にっ)(ちょう)日講(にちこう)等の僻見(びゃっけん)(やから)をや。

この故に宗祖の本懐これが為に(おお)われ、当抄の奥義(おうぎ)(いま)(かつ)(あらわ)れざるなり。故に宗門の流々(りゅうりゅう)(みな)本尊に迷い、(あるい)螺髪(らほつ)応身立像の釈迦を以て本尊と為し、或は(てん)(かん)()受用(じゅゆう)色相(しきそう)荘厳(そうごん)の仏を本尊と為す。これ(しか)しながら、当抄の意をめらざる故なり。

(ただ)房州の(にち)()のみ(ひと)りその大要を得たり。(しか)りと(いえど)も、その(もん)()に至っては、(いま)()(つく)さざるの処あり。学者、文に(のぞ)(よろ)しく之を斟酌(しんしゃく)すべし。

()れ時享保(きょうほう)第六(1721年)(たい)(さい)(かのと)(うし)猛夏中旬、総州(ほそ)(くさ)の学校及び当山所栖(しょせい)の学徒等四十余輩、異体同心に、()に当抄を講ぜんことを()う。

(こん)()一途(いちず)にして信心無二なり。余(おもえ)らく、四十余輩(むし)一人(いちにん)に非ずや。或は三四(さんし)並席(びょうせき)(いましめ)(まぬか)れんか。

この故に老病()うべきなしと雖も、(つい)固辞(こじ)する能わず、(ほぼ)文の起尽(きじん)(わか)ち、(ほぼ)義の綱要を示す。またこれを後代の君子に(おく)(ねんごろ)に三仏の顔貌(げんみょう)を拝せんことを()するのみ。


                   つづく


by johsei1129 | 2015-06-30 22:31 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 06月 30日

念仏信仰の親を法華経に導いた池上宗長の志を称えた書【兵衛志殿御返事】

【兵衛志殿御返事】
■出筆時期:弘安元年(西暦1278)五月 五十七歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は池上兄弟の弟、池上宗長に対して与えられた消息文です。冒頭の一部は欠損していますが、宗長が身延の草庵にご供養の品々を運ぶのに、馬と人夫を提供したことに対し「たといかまくらにいかなる物を人にたびて候とも、夫と馬となくばいかでか日蓮が命はたすかり候べき<中略>此の歩馬はこんでいこま(金泥駒)となり」と記し、悉達太子(釈尊の幼名)が、出家し王宮を出たときに乗った白馬にも匹敵すると宗仲の志を称えられております。さらに、兄宗仲が二度も父から勘当されながらも、兄弟ともに大聖人に帰依し続け、ついに父を法華経に導いた事を「かしこき上、欲なき身と生まれて三人ともに仏になり給ひ、ちゝかた、はゝかたのるいをもすくい給ふ人となり候ぬ<略>此の事は一代聖教をも引きて百千まいにかくとも、つくべしとはをもわねども・・・」と賛嘆されておられます。

■ご真筆: 京都市妙覚寺 所蔵
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[兵衛志殿御返事 本文]

御ふみにかゝれて候上、大にのあざりのかたり候は、ぜに十余れん並びにやうやうの物ども候ひしかども、たうじはのうどきにて□□□□人もひきたらぬよし□□□も及び候はざりけ□□□□兵衛志殿の御との□□□□御夫馬にても□□□□て候よし申候。
  
 夫百済国より日本国に仏法のわたり候ひしは、大船にのせて此をわたす。今のよど河よりあをみの水海につけて候ものは、車にて洛陽へははこび候。それがごとく、たといかまくらにいかなる物を人にたびて候とも
、夫と馬となくばいかでか□□(日蓮)が命はたすかり候べき。□□□(徳勝)童子は土の餅を仏に□□□□□阿育大王と□□□□□□□□□くやうしまいらせ候ひしゆへに、阿育大王の第一の大臣羅提吉となりて一閻浮提の御うしろめ、所謂ををい殿の御時の権大天殿のごとし。
  
 此は彼等にはにるべくもなき大功徳。此の歩馬はこんでいこまとなり、此の御との人はしゃのくとねりとなりて、仏になり給ふべしとをぼしめすべし。抑すぎし事なれども、あまりにたうとくうれしき事なれば申す。
 
  昔、波羅奈国に摩訶羅王と申す大王をはしき。彼の大王に二の太子あり。所謂善友太子・悪友太子なり。

善友太子の如意宝珠を持ちてをはせしかば、此をとらむがために、をとの悪友太子は兄の善友太子の眼をひき給ひき。昔の大王は今の浄飯王、善友太子は今の釈迦仏、悪友太子は今の提婆達多此なり。兄弟なれども、たからをあらそいて。世々生々にかたきとなりて、一人は仏となり、一人は無間地獄にあり。此は過去の事、他国の事なり。我が朝には一院・さぬきの院の兄弟なりしかども位をあらそいて、ついにかたきとなり給ひて、今に地獄にやをはすらむ。当世めにあたりて、此の代のあやをきも兄弟のあらそいよりをこる。大将殿と申せし賢人も、九郎判官等の舎弟等をほろぼし給ひて、かへりて我が子ども皆所従等に失はれ給ふは眼前の事ぞかし。
  
 とのばら二人は上下こそありとも、とのだにもよくふかく、心まがり、道理をだにもしらせ給はずば、ゑもんの大夫志殿はいかなる事ありとも、をやのかんだうゆるべからず。ゑもんのたいうは法華経を信じて仏になるとも、をやは法華経の行者なる子をかんだうして地獄に堕つべし。とのはあにとをやをそんずる人になりて、提婆達多がやうにをはすべかりしが、末代なれども、かしこき上、欲なき身と生まれて三人ともに仏になり給ひ、ちゝかた、はゝかたのるいをもすくい給ふ人となり候ぬ。又とのゝ御子息等もすへの代はさかうべしとをぼしめせ。

 此の事は一代聖教をも引きて百千まいにかくとも、つくべしとはをもわねども、やせやまいと申し、身もくるしく候へば、事々申さず。あわれあわれ、いつかげざんに入て申し候はん。又むかいまいらせ候ひぬれば、あまりのうれしさに、かたられ候はず候へばあらあら申す。よろずは心にすいしはからせ給へ。

女房の御事同じくよろこぶと申させ給へ。恐々謹言。
  

by johsei1129 | 2015-06-30 22:17 | 池上兄弟 | Comments(0)
2015年 06月 30日

開目抄愚記 上二五

第十七段 難信の相を示す

一 日蓮案じて云く二乗(にじょう)作仏(さぶつ)

  この下は本迹(ほんじゃく)相対の中の第三、難信の相を示すなり。

一 ()(ぜん)・法華相対するに等文

  これ爾前の多説の()(じょう)と法華の一両品の()(じょう)と相対するなり。

一 一向(いっこう)に爾前に同ず

  迹門十四品、(みな)爾前に同ず。これ下の本門の中に対するなり。

一 (ほっ)(しん)の無始・無終等

  文九・二十三に云く「発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)の三如来は、永く諸経に異なり」と文。次に記九・三十一に云く「法身の非寿は諸経に常に談ず。(ただ)(いま)(かつ)()(じょう)遠寿(おんじゅ)()かず」文。記三下五十四に云く「(ただ)(ほっ)(しん)を以て本と為すは、(いず)れの教にか(これ)無からん」と云云。経に云く「我実に成仏してより已来(このかた)久遠(くおん)なること(かく)(ごと)し」等云云。「我」は即ち法身、「成仏」は報身、「已来」は応身なり。(すで)に「久遠」という、即ちこれ顕本(けんぽん)なり。

一 (ただ)涌出(ゆしゅつ)・寿量等文

  涌出品に云く「我れ伽耶(がや)(じょう)菩提(ぼだい)樹下(じゅげ)に於いて坐して最正覚(さいしょうがく)を成ずることを()て」等云云。寿量品より()(かえ)ってこれを見れば即ち本地(ほんち)の伽耶なり。故に()(じょう)の文なり。(しか)りと(いえど)も、当分にはこれ(けん)(りょう)なるに(あら)ず。故に次下に「汝(ただ)寿量の一品を見て」等というなり。(みょう)(らく)の記一本四十五に云く「但寿量の一文に(まさ)しく本迹を明かす」等云云。文九・十九に云く「()し多に従って少を()つれば、(こうべ)破れて七分と()ること、()梨樹(りじゅ)の枝の如くならん。(たと)えば天子の(みことのり)は、()しは多、若しは少、(とも)()すべからず。之に違すれば罪を得るが如し」と文。録外(ろくげ)・三十九()いて見よ。

           つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-30 21:39 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 06月 29日

南条時光の求道心を「あいよりもあをく」と称えた書【上野殿御返事(雪中供養御書)】

【上野殿御返事(雪中供養御書)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)一月三日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は南条時光(上野殿)が、当時疫病が発生し民衆の半分が死んだとも言われる厳しい時代にも関わらず、正月の祝いのご供養をされたことへの返書となっております。大聖人は亡き父故上野殿の跡を継ぎ、大聖人への純真な帰依の姿勢を貫く時光に対し、中国の儒家・荀子の格言を引いて「あい(藍)よりもあを(青)く、水よりもつめ(冷)たき冰かなと」とその強い信仰心を称えております。
■ご真筆:三ヶ所(京都市妙覚寺、京都市妙覚寺、広島県妙丁寺)にて分散所蔵
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[冒頭の第一紙(京都市 妙覚寺所蔵)]

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[文末の第四紙(京都市 本法寺蔵)]

[上野殿御返事(雪中供養御書) 本文]

 餅九十枚、薯蕷(やまのいも)五十本、わざと御使を以て正月三日未の時に駿河国富士郡上野郷より甲州波木井)の郷身延山のほらへおくりたびて候。
 
 夫れ海辺には木を財とし山中には塩を財とす。旱颰には水を財とし闇中には灯を財とし、女人は夫を財とし夫は女人を命とし、王は民を親とし民は食を天とす。

此の両三箇年は日本国の中に大疫起りて人半分減じて候か。去年の七月より大なるけかち(飢渇)にて里市とをき無縁の者と山中の僧等の命存しがたし。

 其の上日蓮は法華経誹謗の国に生れて威音王仏の末法の不軽菩薩の如し。将又歓喜増益仏の末の覚徳比丘の如し。王もにくみ民もあだむ、衣もうすく食もとぼし、布衣はにしきの如し、草葉をば甘露と思ふ。其の上去年の十一月より雪つもりて山里路たえぬ。

 年返れども鳥の声ならでは、をとづるる人なし。友にあらずばたれか問うべきと心ぼそくて過し候処に、元三の内に十字九十枚、満月の如し。心中もあきらかに生死のやみもはれぬべし。

あはれなり・あはれなり、こうへのどの(故上野殿)をこそ、いろあるをとこ(男)と人は申せしに、其の御子なればくれないのこきよしをつたへ給えるか。あい(藍)よりもあを(青)く、水よりもつめたき冰かなと、ありがたし・ありがたし、恐恐謹言。
  
正月三日              日 蓮  花 押
   上野殿御返事

by johsei1129 | 2015-06-29 20:33 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)
2015年 06月 28日

蒙古軍船の大破は真言宗・思円の蒙古調伏によるという世評を破した書【富城入道殿御返事】

【富城入道殿御返事(承久書)】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281)十月二十二日 六十歳 御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍が大聖人に度々「蒙古の船が九州の海上で大破(弘安の役)し、世間では真言宗
・思円上人の蒙古調伏の力であると評判になっているが、本当のところはどうなのかと質問したのに対し「それは日蓮を失おうとするたくらみである」と喝破され、それを明らかにするために病をおして本書を記したと
大聖人の真意を吐露されておられます。さらに文末では「銭四貫をもちて一閻浮提第一の法華堂造りたりと霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給うべし」と、富城常忍のご供養で、これまでの身延の草庵を十間四面の大坊に大改修している事を伝え、その志を称えられております。尚、この大坊は翌月11月23日に完成し、大聖人は当時「身延山久遠寺」と命名されております。
■ご真筆:中山法華経寺 所蔵。

[富城入道殿御返事(承久書) 本文]
 
 今月十四日の御札同じき十七日到来、又去ぬる後の七月十五日の御消息同じき二十比到来せり、其の外度度の貴札を賜うと雖も老病為るの上又不食気に候間未だ返報を奉らず候条其の恐れ少からず候、何よりも去ぬる後の七月御状の内に云く鎮西には大風吹き候て浦浦・島島に破損の船充満の間乃至京都には思円上人・又云く理豈然らんや等云云。

 此の事別して此の一門の大事なり、総じて日本国の凶事なり仍つて病を忍んで一端是れを申し候はん、是偏に日蓮を失わんと為て無かろう事を造り出さん事兼て知る、其の故は日本国の真言宗等の七宗・八宗の人人の大科今に始めざる事なり然りと雖も且く一を挙げて万を知らしめ奉らん。

 去ぬる承久年中に隠岐の法皇義時を失わしめんが為に調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失わしめ畢んぬ、然る間同じき十九日二十日鎌倉中に騒ぎて同じき二十一日・山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す、同じき六月十三日其の夜の戌亥の時より青天俄に陰りて震動雷電して武士共首の上に鳴り懸り鳴り懸りし上・車軸の如き雨は篠を立つるが如し、爰に十九万騎の兵者等・遠き道は登りたり兵乱に米は尽きぬ馬は疲れたり在家の人は皆隠れ失せぬ冑は雨に打たれて緜の如し、武士共宇治勢多に打ち寄せて見ければ常には三丁四丁の河なれども既に六丁・七丁・十丁に及ぶ、然る間・一丈・二丈の大石は枯葉の如く浮び五丈・六丈の大木流れ塞がること間無し、昔利綱・高綱等が渡せし時には似る可くも無し武士之を見て皆臆してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過さば皆心を飜し堕ちぬ可し去る故に馬筏を作りて之を渡す処・或は百騎・或は千万騎・此くの如く皆我も我もと度ると雖も・或は一丁或は二丁三丁渡る様なりと雖も彼の岸に付く者は一人も無し、然る間・緋綴・赤綴等の甲其の外弓箭・兵杖・白星の冑等の河中に流れ浮ぶ事は猶長月神無月の紅葉の吉野・立田の河に浮ぶが如くなり、爰に叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等之を聞くことを得て真言の秘法・大法の験とこそ悦び給いける、内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室・五壇・十五壇の法を弥盛んに行われければ法皇の御叡感極り無く玉の厳を地に付け大法師等の御足を御手にて摩給いしかば大臣・公卿等は庭の上へ走り落ち五体を地に付け高僧等を敬い奉る。

 又宇治勢田にむかへたる公卿・殿上人は冑を震い挙げて大音声を放つて云く義時・所従の毛人等慥に承われ昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや、狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く修羅が日月を射るに其の箭還つて其の眼に中らざること無し遠き例は且く之を置く、近くは我が朝に代始まつて人王八十余代の間・大山の皇子・大石の小丸を始と為て二十余人王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし皆頚を獄門に懸けられ骸を山野に曝す関東の武士等・或は源平・或は高家等先祖相伝の君を捨て奉り伊豆の国の民為る義時が下知に随う故にかかる災難は出来するなり、王法に背き奉り民の下知に随う者は師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するが如し今生の恥之れを何如、急ぎ急ぎ冑を脱ぎ弓弦をはづして参参と招きける程に、何に有りけん申酉の時にも成りしかば関東の武士等・河を馳せ渡り勝ちかかりて責めし間京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るるの間、四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ又高僧・御師・御房達は或は住房を追われ或は恥辱に値い給いて今に六十年の間いまだ・そのはぢをすすがずとこそ見え候に、今亦彼の僧侶の御弟子達・御祈祷承はられて候げに候あひだいつもの事なれば秋風に纔の水に敵船・賊船なんどの破損仕りて候を大将軍生取たりなんど申し祈り成就の由を申し候げに候なり。

 又蒙古の大王の頚の参りて候かと問い給うべし、其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず御存知のためにあらあら申し候なり。乃至此の一門の人人にも相触れ給ふべし。

 又必ずしいぢの四郎が事は承り候い畢んぬ、予既に六十に及び候へば天台大師の御恩報じ奉らんと仕り候あひだみぐるしげに候房をひきつくろい候ときに・さくれうにおろして候なり、銭四貫をもちて一閻浮提第一の法華堂造りたりと霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給うべし、恐恐。

十月二十二日                 日 蓮 花押
進上富城入道殿御返事

by johsei1129 | 2015-06-28 23:40 | 富木常忍・尼御前 | Comments(0)
2015年 06月 28日

開目抄愚記 上二四


一 本門にいたりて
()(じょう)正覚(しょうかく)をやぶれば四教の果をやぶる等文

 この下は今本の得を明かす。また二あり。初めに迹を破して本を(あらわ)し、次に「九界も無始(むし)」の下は所詮(しょせん)の三千を明かす。

「然るに善男子、我実に成仏して」の文は即ち始成正覚を破するなり。

「四教の果をやぶる」等とは、即ち玄文第七の本因・本果の下の如し。大師、一に近の故、二に(せん)(じん)不同の故、三に被払(ひふつ)の故の三義を以てこれを破するなり。本果の中には(つぶさ)()(ぜん)・迹門の仏果を()げてこれを破し、本因の広釈の中には(ただ)爾前の因のみ挙げ、迹門の因を挙げず。これ則ち略釈の中に、(すで)に大通の因を挙ぐる故なり。故に「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって」というなり。
 「十界の因果」等とは、これ十界各具の因果に非ず。九界を因と()し、仏界を果と為す。例せば九界を権と為し、仏界を実と為すが如し。()し蔵通二教の中に、依報(えほう)(ただ)六界を明かすのみと(いえど)も、正報には十界を明かすなり。別円は知るべし。上の文に「四教の因果」とはこれ(のう)(せん)の教に約し、今「十界の因果」というはこれ所詮(しょせん)の法に約す。能所(こと)なりと雖も、その意はこれ同じきなり。並びに釈尊の因を()げ、通じて九界を収むるなり。

(これ)即ち本因本果の法門」とは、また(げん)文第七の如し云云。

一 九界も無始(むし)の仏界に具し等文

 経に本果常住を説いて云く「我実(がじつ)成仏已来(じょうぶついらい)無量(むりょう)無辺(むへん)」と云云。故に「無始の仏界」というなり。経に本因常住を説いて云く「(しょ)(じょう)寿命(じゅみょう)今猶(こんゆう)未尽(みじん)」等云云。故に「無始の九界」というなり。(すで)にこれ本有(ほんぬ)常住(じょうじゅう)の十界()()なり。(あに)(まこと)の一念三千に非ずや。これを事の一念三千と名づくるなり。これ(すなわ)ち本因・本果に約して一念三千を明かす故なり。神力の(しょ)に云く「因果は是れ深事」と云云。()し迹門に於ては諸法実相に約して一念三千を明かす。故に理の一念三千というなり。(まさ)に知るべし、今日、迹本二門の事理の三千は(とも)にこれ理の一念三千なり。文底下種の(じき)(たつ)(しょう)(かん)久遠(くおん)名字(みょうじ)の事の一念三千を(まこと)の事の一念三千と名づくるなり。文の元意、見るべし。(つぶさ)に上の(しゅ)(だつ)相対の下に弁ずるが如し云云、云云。またまた当に知るべし、台家(たいけ)観門の難信難解は、今教門に属するなり。

一 かうて・かえりみれば

  この下は三に諸宗の迷乱なり。

一 華厳(けごん)経の台上等文

  註中に梵網(ぼんもう)経を引くが如し。

一 水中の月に実の月の想いをなし

  註中に()一下二十五の大論僧祇(そうぎ)(りつ)を引くが如し。

一 天月を()らず等文

  (げん)第七、本因妙の下の如し。これ体外(たいげ)の迹に(たと)うるなり。若し本果妙の下に「本より迹を()れ、月の水に現ずるが如し」とは、体内の迹に譬うるなり云云。若し文の元意は、文底(もんてい)下種の本仏を識らず、故に天月をも識らずというなり云云。

            つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-28 20:42 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 06月 27日

法華経のかたをあだむ人人は、剣をのみ火を手ににぎるなるべし、と説いた【窪尼御前御返事】

窪尼御前御返事(虚御教書)】
■出筆時期:弘安三年(西暦1280)五月三日 五十九歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は日興上人のおばにあたる窪尼御前御が、5月5日の節句の祝いでチマキ等のご供養の品を携えて大聖人のもとに見参されたことへの返書となっております。内容は前年の九月に勃発した「熱原の法難」は、執権北条時宗の許しを得ずに、「そらみげうそ(虚御教書)」を平左衛門尉が発したものだ断じ、「日蓮はいやしけれども、経は梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のまほらせ給う御経なれば、法華経のかたをあだむ人人は、剣をのみ火を手ににぎるなるべし」と記し、法華経の信者を仇にする者には必ず仏罰が下るであろうと断言し、法華経信仰を貫く窪尼御前を「たうとく候ぞたうとく候ぞ」と称えられております。
■ご真筆: 保田妙法寺 一部所蔵
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[真筆(第二紙)本文:なつの日ながし、山はふかく~さきもそら事なり]

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[真筆(第四紙)本文:うへにそしらば、いかんがと~三度までつくりて候しぞ。これにつけても]

[窪尼御前御返事(虚御教書) 本文]

  粽五把・笋十本・千日ひとつつ給い畢んぬ。いつもの事に候へども・ながあめふりてなつの日ながし、山はふかく、みちしげければ、ふみわくる人も候はぬに、ほととぎすにつけての御ひとこへありがたし、ありがたし。

 さてはあつわらの事こんどをもつて、をぼしめせ、さきもそら事なり。かうのとのは人のいゐしに、つけて、くはしくもたづねずして、此の御房をながしける事あさましと、をぼしてゆるさせ給いてののちは、させるとがもなくてはいかんが又あだせらるべき。すへの人人の法華経の心にはあだめども、うへにそしらば、いかんがと、をもひて事にかづけて、人をあだむほどに、かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ。

 これはそらみげうそ(虚御教書)と申す事は、みぬさきよりすいして候。さどの国にてもそらみげうそ(虚御教書)を三度までつくりて候しぞ。これにつけても上と国との御ためあはれなり。

 木のしたなるむしの木をくらひたうし、師子の中のむしの師子を食らいうしなふやうに守殿の御をんにて、すぐる人人が守殿の御威をかりて一切の人人ををどし、なやまし・わづらはし候うへ。

 上の仰せとて法華経を失いて国もやぶれ主をも失うて、返つて各各が身をほろぼさんあさましさよ。

日蓮はいやしけれども、経は梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のまほらせ給う御経なれば、法華経のかたをあだむ人人は、剣をのみ火を手ににぎるなるべし。

これにつけても・いよいよ御信用のまさらせ給う事、たうとく候ぞたうとく候ぞ。

五月三日       日 蓮 花押
窪尼御返事

by johsei1129 | 2015-06-27 23:07 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2015年 06月 26日

能く是の経典を受持すること有らん者<略>一切衆生の中に於て亦これ第一なりと説いた【富木殿御返事】

【富木殿御返事】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281)十一月二十九日 六十歳御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍が、身延の館で毎月11月24日に行われていた大師講(天台大師の摩訶止観等の講義)へ鵞目一結(銭一結)を供養されたことへの返書となっております。大聖人は法華経法師品第十、薬王第二十三、を引いて「法華最第一なり」と説くとともに、常忍の妻の病状について「此の尼ごぜんは法華経の行者をやしなう事、灯に油をそへ木の根に土をかさぬるがごとし、願くは日月天、其の命にかわり給へと申し候なり」と記し、常忍を支える信仰心を称えるとともに「我身一身の上とをもひ候へば昼夜に天に申し候なり」と励まされています。
尚、文中の「いよ房」は尼ごぜの連れ子で、再婚し常忍の養子となり、後に六老僧の一人日頂上人となります。
富木尼は大聖人の祈りにより二十数年の寿命を延ばし、常忍亡き後は故郷の富士に帰り、日興上人、我が子日頂上人のもとで生涯を全うしております。
■ご真筆: 中山法華経寺 所蔵(重要文化財)
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[富木殿御返事 本文]

 鵞目一結天台大師の御宝前を荘厳し候い了んぬ、経に云く「法華最第一なり」と、又云く「能く是の経典を受持
 すること有らん者も亦復是の如し 一切衆生の中に於て亦これ第一なり」と、 又云く「其の福復彼れに過ぐ」、妙楽云く「若し悩乱する者は頭七分に破れ 供養すること有らん者は福十号に過ぐ」 伝教大師も「讃者は福を安明に積み謗者は罪を無間に開く」等云云、 記の十に云く「方便の極位に居る菩薩猶尚第五十人に及ばず」等云云。

 華厳経の法慧功徳林大日経の金剛薩タ等尚法華経の博地に及ばず 何に況や其の宗の元祖等法蔵善無畏等に於てをや、是れは且く之を置く。

 尼ごぜんの御所労の御事我身一身の上とをもひ候へば、昼夜に天に申し候なり、此の尼ごぜんは法華経の行者をやしなう事 灯に油をそへ木の根に土をかさぬるがごとし、願くは日月天 其の命にかわり給へと申し候なり。

 又をもいわするる事もやと・いよ房に申しつけて候ぞ、たのもしとをぼしめせ、恐恐。
       
 十一月二十九日                             日 蓮 花押
     富木殿御返事


【法師品 第十】
薬王今告汝 我所説諸経 而於此経中 法華最第一
(和訳)
薬王よ、今汝に告げる。 我(釈尊)がこれまで説いた諸々の経があるが、その中で法華こそが最第一の経である。

【薬王菩薩本事品 第二十三】
有能受持。是経典者。亦復如是。於一切衆生中。亦為第一。
(和訳)
能くこの教典を受持するも、またかくの如し。一切衆生の中に於いて、またこれ第一なり。

by johsei1129 | 2015-06-26 22:37 | 富木常忍・尼御前 | Comments(0)
2015年 06月 26日

女人の身でありながら即身の仏であると称えた書【光日尼御返事】


【光日尼御返事】
■出筆時期:弘安三年(西暦1280)九月十九日 五十九歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は夫に先立たれ、さらに子・弥四郎も失いながらも生涯大聖人に帰依し続けた光日尼御前に与えられた書です。大聖人は光日尼へは「種種御振舞御書(五十五歳御作)」など重要な法門を書き記した御書を送られるなど、その信仰心を高く賞賛され「まさしく光日尼あなたは即身の仏である」と、成仏の記別を与えられております。尚、本書の真筆は第一紙が残されていなく、後半の第二紙の箇所となります。
■ご真筆: 富士宮・久遠寺(二紙の内、第二紙 所蔵)

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[妙法尼御前御返事 本文]

なきなをながさせ給うにや、三つのつな(綱)は今生に切れぬ、五つのさわり(障)はすでにはれぬらむ。心の月くもりなく身のあか(垢)きへはてぬ。

 即身の仏なり。たうとし、たうとし。くはしく申すべく候へども、あまりふみ(文)ををくかき候ときに、かきたりて候ぞ恐恐謹言。

九月十九日              日 蓮 花押
光日尼ごぜん御返事

by johsei1129 | 2015-06-26 20:06 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2015年 06月 24日

法華経を頼み詣らせ候へば(略)国王一人の太子の如し、如何でか位に付かざらんと説いた【上野殿御返事 】

【上野殿御返事(熱原外護事)】
■出筆時期:弘安三年(西暦1280)七月二日 五十九歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は前月の6月15日、南条時光が成人(16歳)になった弟の五郎とともに、身延の大聖人もとへ見参された事への返書となっています。その時時光は、大聖人門下となった神主を庇護していることについて相談したものと思われ、それに対し「しばらく、かうぬし等をば、これ(身延の草庵)へとをほせ候べし」と指示しておられます。これは前年の九月に起こった「熱原の法難」からまだ十ヶ月ほどしかたっておらず、熱原の農民を庇護してきた時光に対し、陰に陽に幕府の圧力がかかっている事を憂いていた大聖人の心遣いが見て取れます。また文末では「我等は法華経をたのみまいらせて候へば、あさきふちに魚のすむが、天くもりて雨のふらんとするを魚のよろこぶがごとし。しばらくの苦こそ候とも、ついにはたのしかるべし。国王一人の太子のごとし、いかでか位につかざらんとおぼしめし候へ」と諭し、たった一人の太子は将来必ず国王になるように、法華経をたもつならば必ず成仏すると断言されております。
■ご真筆: 富士大石寺 所蔵

[上野殿御返事(熱原外護事) 本文]
 去ぬる六月十五日のけさん悦び入つて候。さては・かうぬし(神主)等が事いままでかかへをかせ給いて候事ありがたくをぼへ候。ただし、ないないは法華経をあだませ給うにては候へども、うへには、たの事によせて事かづけ、にくまるるかのゆへに、あつわらのものに事をよせて、かしこ、ここをもせかれ候こそ候いめれ。

 さればとて上に事をよせて、せかれ候はんに、御もちゐ候はずは、物をぼへぬ人にならせ給うべし。をかせ給いて、あしかりぬべきやうにて候わば、しばらく、かうぬし等をば、これへとをほせ候べし。

 めこなんどはそれに候とも、よも御たづねは候はじ。事のしづまるまで、それにをかせ給いて候わば、よろしく候いなんとをぼへ候。

 よのなか上につけ下によせて、なげきこそををく候へ。よにある人人をば、よになき人人は、きじのたかをみ、がきの毘沙門をたのしむがごとく候へども、たかはわしにつかまれ、びしやもんは、すらにせめらる。
 そのやうに当時、日本国のたのしき人人は、蒙古国の事をききてはひつじの虎の声を聞くがごとし。また筑紫へおもむきて、いとをしきめを、はなれ子をみぬは、皮をはぎ、肉をやぶるがごとくにこそ候らめ。いわうや、かの国より、おしよせなば、蛇の口のかえる、はうちやうしが、まないたにをける、こゐふなのごとくこそおもはれ候らめ。

 今生はさてをきぬ、命きえなば一百三十六の地獄に堕ちて無量劫ふべし、あさきふちに魚のすむが、天くもりて雨のふらんとするを魚のよろこぶが・ごとし。 しばらくの苦こそ候とも、ついにはたのしかるべし、国王一人の太子のごとし、いかでか位につかざらんとおぼしめし候へ。 恐恐謹言。

弘安三年七月二日                      日 蓮 花押
上野殿御返事
人にしらせずして、ひそかにをほせ候べし。

by johsei1129 | 2015-06-24 19:19 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)