日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 11月 30日

百四、大導師 日興上人

               英語版

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                           (富士宮から見る富士山)

 日興はこのあと富士のふもと、駿河上野で四十四年の春秋をおくり、八十八歳で亡くなった。

日興は臨終にあたり、師の日蓮と同じように後継者として六人の弟子を定めている。その中で「一が中の一の弟子」日目を指名して世を去った。

日興は文永十一年、日目が十五歳の時に出会っている。師匠日蓮が五十三歳で身延山中に草庵を構えたときである。そしてこの二年後の建治二年四月八日、釈尊の生誕日に日興は日目を得度した。
 晴れて日興の弟子となった日目だったが、日興はその年の十一月二十四日、早々と日目を身延の大聖人の元で常随(じょうずい)給仕(きゅうじ)させた。おそらく日目の資質を見極め、自分の後を(ゆだ)ねるのは日目であると決断し、自分と同じ道を歩ませようと考えてのことだと推察される。

日興は元弘三年一月十三日「日興跡条条事」で、日蓮から付属された「日蓮一期の弘法」を日目に付属する旨を記した。

一、本門寺建立の時は新田(にいだ)(きょう)阿闍(あじゃ)()日目を座主(ざす)と為し、日本国乃至(いち)閻浮提(えんぶだい)の内、山寺等に()いて、半分は日目嫡子分(ちゃくしぶん)として管領せしむべし、残るところの半分は自余の大衆等之れを領掌(りょうしょう)すべし。
一、日興が身に()て給はるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝す、本門寺に()け奉るべし。
一、大石寺は御堂(みどう)と云い墓所(むしょ)と云い、日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり。
 右日目は十五の(とし)、日興に()い法華を信じてより以来、七十三才の老体に至るも()えて違失の義無し。十七の(とし)、日蓮聖人の所に詣で(甲州身延山)御在生七年の間常随給仕し、御遷化(ごせんげ)の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞(そうもん)の功他に異なるに依つて此くの如く書き置くところなり、()つて後の()め証状(くだん)の如し。
十一月十日                 日  興 判


 日興はこうして日蓮の法義を次の世代日目に相承し、広宣流布の血脈(けちみゃく)を絶やすことなく次の世代に引き継いだ

師の日蓮は生前、日興のことを

「万年救護(くご)(しゃ)(びょう)の弟子」

と呼び

(けっ)(ちょう)付属の大導師」

とも呼んだ。

写瓶とは(かめ)の水をそのままうつすように、法の水をあやまたず後世に伝えることをいう。

結要付属とは釈迦が法華経において地涌(じゆ)千界の上首、上行菩薩に末法の要法をさずけた儀式をいう。

結要とは南無妙法蓮華経の題目である。

日蓮は日興を結要の法をそなえた大導師と呼んだ。日蓮の目にくるいはなかったのだ。そしてその日興は後を託した日目を「一閻浮提の御座主」と呼んだ。

ここで波木井(はきり)氏のその後をしるす。

南部氏ともいわれた波木井氏は鎌倉幕府滅亡後、南北朝の争乱にまきこまれた。かれらは後醍醐天皇の南朝側について戦ったが、南朝は足利尊氏率いる北朝に敗れた。南北朝の統一後も、南部氏は足利ひきいる北朝に臣従の態度を見せなかった。

こうして一三九三年、南部一族はついに甲斐の所領のいっさいを捨て、はるか東北に去っていった。日興離山後、百四年目のことである。

また波木井氏の中に日蓮がのこした身延山久遠寺を守る一族がいたが、一五二七年、武田信玄の父信虎によって討伐され、波木井氏は完全に滅亡した。理由は波木井が隣国の駿河今川氏に内応したというかどだった。「自業自得果」「還著於(げんちゃくお)本人(ほんにん)」の経文どおりあろう。

()()

日興の晩年はさびしいものだったという。講義をするにも数人の弟子しか集まらなかった。五老僧はことごとく去り、弟子たちは四散した。

しかし数の多寡は問題ではない。日興は今ではなく、自分のあとを見すえていた。いつの日か、かならずこの妙法が広宣流布する時がくるであろう。自分はその道筋に足跡をのこすのだと。

日興は日蓮滅後五十二年後の元弘三年二月七日、八十八歳で世を去った。この前年の五月一日には、熱原の法難でともに戦い、出家僧と在家信徒という関係を超えた生涯の法友ともいえる南条時光が七十四の生涯を終えている。

元弘三年は内外ともに大事件がおきた年である。
 四月十六日には日興の死をまっていたように、足利尊氏が北条幕府に反旗をひるがえした。五月二十一日には新田義貞が鎌倉をおとしいれ、翌日に北条氏は滅ぶ。六月五日、天皇後醍醐は京都に還幸し、建武の新政がはじまった。そして十一月十五日、日興のあとをついだ三祖日目が天奏のため京都に旅立つがその途上、美濃(たる)()の地であえなく入滅、後代の弟子に永遠の範をしめした。

日興は臨終の時、まどろみながら師の日蓮を思った。八十八年の星霜が流れたが、不思議なことに師の思い出しかのこっていない。

十二歳で師に出会い、日興の名をうけた。いらい鎌倉、伊豆、佐渡、甲州と身と影のごとく日蓮に付きしたがった。あの充実が今も胸にやどる。

思えば師匠日蓮は苦悩をよろこびにかえ、大衆を希望にみちびく雄大な人格だった。その人のそばにいた幸せ。日興にとってこの悦びは未来永劫に消えない。

同時に日興は切なさにつつまれた。

「ああ、いつまた聖人に会えるのだろう・・」

四条金吾が竜の口で別れの惜しさに泣いたというが、日興もまた同じだった。

日興は師がのこした本尊に祈る。

法華経化城喩品には、つぎの偈がある。

彼仏滅度後     彼の仏の滅度の後

是諸聞法者     是の諸の法を聞きし者は

在々(ざいざい)諸仏土     在在(ここかしこ)の諸の仏土に

常与師倶生(じょうよしぐしょう)      常に師と(とも)に生ぜん

 つぎの世でも師とともに、おなじ仏国土に生まれ、めぐりあうという。

日興はこの経文を命に刻み、題目をとなえた。乾いた大地が慈雨を求めるように、師にまた会いたいとひたすら渇仰した。

日興はさらに思う。

「それにしても、この世でよくぞ師匠にお会いできたものだ。師があの岩本実相寺をおとずれなければ、いまの自分はなかった。いや永劫の時の中で、よくぞ師とめぐり会えたものだ。仏法に奇跡はないというが、これほどの偶然がまたとあるだろうか。三千年に一度咲く優曇(うどん)()の花を見るよりも、一眼の亀が大海の浮き木に出会うよりもまれではないか。自分はなんという幸せ者か」

上野郷の夜は万点の星だった。

日興はこの大宇宙のひとつとして、自分自身を見つめていた。

日興は死去の一月前、遺言をのこす。

それは未来の弟子への戒めである。あわせて二十六ケ条。この二十六条のひとつひとつが先師日蓮への敬慕に満ちている。すべて未来の日蓮門下にあてたものである。

内容は日蓮仏法の真髄がこめられている。伊豆流罪、佐渡ヶ島で常随給仕し、日蓮が身延山中で草庵を構えると、甲斐国の布教に邁進、日蓮に影の形に従うがごとくの生涯だった日興だからこそ残せた指針であった。

釈尊には十大弟子がいたという。智慧第一と謳われ、方便品第二の対告衆となった舎利弗。釈尊に二十七歳の時から常随給仕し、滅後の仏典結集で「かくの如く我聞きき」と釈迦の説法を読み上げた声聞第一の阿難。仏を除けば説法で超える者はいないと賞賛された説法第一の富楼那。

日興はある意味、釈迦の十大弟子すべての資質を兼ね備えていたとさえ思える。

後代の弟子檀那は、いまでもこの遺言を鏡のごとくあおぐ。まさしく末法万年への金科玉条であり、この条項を弟子信徒が守ることで、未来の広宣流布の扉が開かれる。

ではつぎにその全文をしるす。

()(おもん)みれば末法弘通の(けい)(じつ)は極悪謗法の闇を照らし、久遠(くおん)寿量(じゅりょう)の妙風は伽耶(がや)(しじ)(ょう)(注)の(ごん)門を吹き払う、於戯(ああ)仏法に()うこと(まれ)にして(たと)へを(どん)()(はなしべ)()(たぐい)浮木(うきぎ)穴(注)()に比せん、(なお)以て()らざる者か。(ここ)に我等宿縁深厚なるに依って幸ひに此の経に()い奉ることを()、随って後学の為に条目を筆端に染むる事、(ひとえ)に広宣流布の金言を仰がんが為なり。

一、富士の立義(いささ)かも先師の御弘通に()せざる事。

一、五人の立義一々(いちいち)に先師の御弘通に違する事。

一、御書(いず)れも偽書に()し当門流を毀謗(きぼう)せん者之有るべし、()し加様の悪侶出来せば親近(しんごん)すべからざる事。

一、偽書を造って御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心()べき事。

一、謗法を呵責(かしゃく)せずして遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)()()並びに外書(げしょ)歌道を好むべからざる事。

一、檀那の社参物詣(ものもうで)を禁ず可し、(いか)(いわ)んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に(もう)づべけんや、返す返すも口惜(くちお)しき次第なり。是全く()()に非ず、経文御抄等に任す云云

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し(さしお)き、御抄以下の諸聖教(しょしょうぎょう)を教学すべき事。

一、学問未練(みれん)にして名聞名利の大衆は、()が末流に叶ふべからざる事。

一、予が後代の徒衆等権実を(わきま)へざるの間は、父母師匠の恩を振り捨て出離証(しゅつりしょう)( どう)の為に本寺に(もう)で学問すべき事。

一、義道の(らっ)()(注)無くして天台の学問すべからざる事。

一、当門流に於いては御抄を心肝に染め(ごく)()を師伝して、若し(ひま)有らば台家を聞くべき事。

一、論議講説等を好み自余を交ゆべからざる事。

一、未だ広宣流布せざる間は身命(しんみょう)を捨て、随力(ずいりき)弘通(ぐつう)を致すべき事。

一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如(とうにょ)敬仏(きょうぶつ)の道理に任せて(しん)(ぎょう)を致すべき事。

一、弘通(ぐつう)の法師に於ては下輩たりと(いえど)も、老僧の思いを為すべき事。

一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。

一、時の(かん)()(注)たりと雖も仏法に相違して己義を(かま)へば、之を用ふべからざる事。

一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫主之を(くじ)くべき事。

一、衣の墨、黒くすべからざる事。

一、(じき)(とつ)(注)を著すべからざる事。

一、謗法(ほうぼう)と同座すべからず、与同罪を恐るべき事。

一、謗法の供養を()くべからざる事。

一、(とう)(じょう)等に於ては仏法守護の為に之を許す、但し出仕の時節は帯すべからざるか。若し其れ大衆等に於ては之を許すべきかの事。

一、若輩(じゃくはい)たりと雖も高位の檀那より末座に()くべからざる事。

一、先師の如く()()()も聖僧たるべし。但し時の(かん)()(あるい)は習学の仁に於ては、(たと)ひ一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も、衆徒に差し置くべき事。

一、巧於(ぎょうお)難問答の行者に於ては先師の如く(しょう)(がん)すべき事。

右の条目大略()くの如し、(まん)(ねん)救護(くご)の為に二十六箇条を置く。後代の学侶、()へて疑惑を生ずること(なか)れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず。()って定むる所の条々(くだん)の如し。

元弘三年癸酉正月十三日  日興花押   『日興遺誡置文

                  
         最終章 日本の仏法 月氏へ流れる につづく
下巻目次

                                        


 伽耶(がや)() (じょう)

釈迦が伽耶城近くの菩提樹の下で初めて悟りを開いたこと。久遠寿量に対する語。伽耶は仏陀伽耶(ぶっだがや)ともいい、釈迦が正覚を成した所。始成は()(じょう)正覚(しょうかく)のこと。

 浮木の穴
法華経妙荘厳王品二十七にある。一眼の亀が海中の浮木にあうことのむずかしさを説いて、衆生が正法にめぐりあい、受持することの困難さを説く。

「御義口伝に云はく、()とは小孔(しょうく)大孔(だいく)の二つ(これ)有り。小孔とは四十余年の経教なり、大孔とは法華経の題目なり。(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは大孔なり。一切衆生は(いち)(げん)の亀なり。栴檀(せんだん)浮木(うきき)とは法華経なり。生死(しょうじ)の大海に大孔ある浮木は法華経に之在り云云。」『厳王品三箇の大事 第二 浮木孔(ぶもっく)の事』

 (らっ)()

「らっきょ」とも読む。落ち着き。終結。物事を徹底して見極めることをいう。

 (かん)()

本来は貫籍(戸籍)の上首の意。①かしらに立つ人。頭領。②天台宗の座主の異称。のちに各宗総本山や大寺の管長の称ともなる。

 (じき)(とつ)

僧衣の一種。上衣と下衣を直接に綴じ合わせたことからこの名がある。直綴は腰から下に(ひだ)のある法衣で、諸宗で一般に用いられ、一般に『ころも』と称される。日蓮正宗では直綴の着用を禁じ、薄墨の素絹のみを衣とし着用する。『当家三衣抄』参照



by johsei1129 | 2014-11-30 15:31 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

百三、日興、身延離山

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        尾形禮正画 大石寺創建之図屏風  中央は日興上人 右端は南条時光

 日蓮入滅八年後の正応元年冬、四十三歳となった日興は川沿いの道をたどり、身延山をおりていった。
 師の墓を離れなければならないのだ。断腸の思いであったろう。
 日興はその苦衷を波木井一族の一人、原殿にあてた消息にしたためる。原氏は一族の中にあったが、日興を理解していた。


身延沢を(まか)り出で候事、面目なさ本意(ほい)なさ申し尽し難く候へども(うち)(かえ)し案じ候へば、いづ(何処)くにても聖人の御義を相継ぎ(まいら)せて世に立て候はん事こそ(せん)にて候へ、さりともと思ひ奉るに御弟子(ことごと)く師敵対せられぬ、日興一人本師の正義を存じて本懐を()げ奉り候べき(ひと)に相当たりて覚え候へば本意忘ること無く候、又君達(きんだち)は何れも正義を御存知候へば悦び入り候、(こと)(さら)御渡り候へば入道殿不宜(ふぎ)に落ちはてさせ給ひ候はじと覚え候。

ここに日興の心中をかいま見る。

身延山で正法を興隆するという初志はもろくもくずれた。しかし日興は苦悩のどん底から思いだしていた。いかなることになろうと、聖人の正義を継いで世に立てることが自分の使命なのだと。

日興は原殿のかわらぬ信心をよろこんでいる。原殿が今までどおり日興のもとで教えをうければ、実長は不義におちいることがないであろうという。ここでも日興は実長をかばっている。

日興は最後にいう。

元より日蓮聖人に背き(まい)らする師(ども)をば捨てぬが(かえ)って(とが)にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給ふ可きか、何よりも御影(みえい)の此の程の御照覧如何(いかん)見参にあらざれば心中を尽し難く候、恐々謹言。 

               

日興は自分に言いきかせるようにいう。日蓮にそむく弟子を捨てないのは、かえって謗法になると。御影とは日蓮のことである。

日興が身延山をおりていったのは真冬だった。十一月とも十二月ともいわれる。山中には雪がつもっていた。師の日蓮が佐渡へ流罪となったのも真冬である。

日興は雪をふみわけながら思った。

師匠はこのことをなんと思われるだろうか。はからずもこの有様となってしまったが、師はわかってくださるだろうか。たよれるのは自分しかいない。亡き師はこんな自分を見守ってくださるだろうか。「御影の此の程の御照覧如何」とは無限の思いであったろう。

下山はさすがに大規模だった。日蓮自筆の大御本尊など、はこばれた宝は長持で二十七駄におよんだという。馬に二個背負わせるから合計で五十四棹になる。

江戸時代の史料にいう。

之に(より)て身延山の地・謗法となるがゆへ、日興上人・宗祖大聖人御付属の霊宝、本門戒壇の大御本尊・並に紫宸殿(ししんでん)の御本尊(注)、()御肉付の御歯(注)()・御焼骨其の(ほか)あらゆる霊宝等長持(ながもち)廿七駄方荷に収め給ひ、正応元年十一月・身延山を立ちのかせ給ひければ、波木井の一門大に驚き度々還往を()ひ奉れども思召(おぼしめ)し有りて帰らせ給はず、翌年春南条七郎修理太夫(たゆう)平時光殿の請招によって駿州(すんしゅう)富士上野にいたらせ給ひ、最勝の地を(えら)んで大石の原に御建立あって本門戒壇の大御本尊を安置し給ふ。 富要第七巻『大石要法血脈問答』  

日興はこのあと青年地頭の南条時光が領する富士上野郷に移り住み、ようやく安住の地をえた。時光についてはすでに書いたとおりである。日興が住むべき地は時光の上野郷以外にない。

そして日興は早くもこの年、今の大石寺の建立に着手している。

自ら鍬を取ったであろう。自ら木をはこんだであろう。自ら工具を手にしたであろう。日興には師の正義をここで立てるのだという意気ごみがつのっていた。

日興に続く弟子たちも、さっそく自らの坊を建立しはじめた。日目は蓮蔵坊を、日華は寂日坊を、日秀は理境坊を、日禅は南之坊を、日仙は百貫坊をそれぞれ建てていく。

壮観であった。彼らは日興にともない、師の正義を守り、弘通することに生きがいを感じていた。

こうして十月十二日、日蓮の命日の前日だった。

日興は真新しい本堂に板本尊を安置した。この本尊こそ「日興が身に()て給わる所の弘安二年の大御本尊」すなわち一閻浮提総与の大曼荼羅である。師の日蓮はこの本尊の広宣流布における意義を記していた。

又五人並びに已下の諸僧等、日本乃至一閻浮提の(ほか)万国までも之を流布せしむと雖も、日興が嫡々(ちゃくちゃく)相承の曼陀羅(まんだら)を以て本堂の正本尊と為すべきなり。        『百六箇抄

 五老僧以下の弟子檀那が日本をはじめ全世界に妙法を弘めようとも、日興が譲り受けた大本尊を中心に据えよと。この大曼陀羅はこの富士大石寺に安置され、今日に至っている。

さらに師日蓮は心ある弟子に遺命していた。広宣流布の暁に、この大本尊を安置する本門の戒壇を建てよと。

戒壇とは王法仏法に(みょう)じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳(うとく)(おう)(かく)(とく)比丘(びく(注)の其の乃至(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みきょうしょ)を申し下して霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)に似たらん最勝の地を(たず)ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮(いちえんぶ)(だい)の人、懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず大梵天(だいぼんてん)(のう)帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり。 『三大秘法稟承事

壮大な仏閣を建てることが本門戒壇の建立ではない。日蓮は明確に「有徳(うとく)(おう)(かく)(とく)比丘(びく45)の其の乃至(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」と遺言している。
 この日いらい、今にいたるまで日興をふくめ、あらゆる弟子が本門戒壇の建立をめざした。

二十六世の(にち)(かん)が本門の戒壇について説く。

本門の戒壇に()あり、()あり。理は(いわ)く道理なり。また義の戒壇と名づく。謂く、戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る(ところ)の山々、寺々、家々は皆これ道理の戒壇なり。(まさ)に知るべし「是の処は即ち是れ道場」等云云。

次に()の戒壇とは即ち富士山(あも)生原(うがはら)に戒壇堂を建立するなり。『報恩抄文段

そして「有徳王・覚徳比丘の其の乃至を末法濁悪の未来に移さん時」が来るまで、本門の戒壇は建立できない。



       百四、大導師日興上人 につづく

下巻目次



 紫宸殿の御本尊

紫宸殿すなわち政治の中心となる建物に掛ける本尊。

「一、蓮祖真筆大曼荼羅三枚続 一幅

弘安三太歳庚辰三月日、紫宸殿の本尊と号す、伝に云はく広布の時至りて鎮護国家のために禁裏の叡覧に入れ奉るべき本尊なり云々。」『冨要第五巻 富士大石寺明細誌』 


御肉付の御歯

日蓮大聖人が生前、日興に与えた歯のこと。歯には大聖人の肉片がついている。日量の「富士大石寺明細誌」によれば、日蓮大聖人は広宣流布の時に、この歯が光り輝くと予言している。門外不出の非開封だが、五十年に一度および貫主の交代時に公開される。

「日蓮聖人肉付の御歯一枚  御生(ごしょう)(こつ)と称す、蓮祖の存日、生歯を抜き、血脈相承の証明と()て之を日興に(たま)ひ、()の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云、日興より日目に相伝し、代々附法の時之を譲り与ふ、一代に於て只一度(だい)(がわり)蟲払(むしばらい)(とき)を開封し奉り拝見に入れしむ、常途(じょうと)之を開かず。」『冨要第五巻 同』

有徳王・覚徳比丘

釈迦の過去世における菩薩修行中の因位の姿。涅槃経巻三金剛身品の文。拘尸(くし)()城に出現した歓喜増益如来の正法が、あと四十年で滅しようとしている末世に、多くの破戒の悪僧と戦い、正法を護持する覚徳比丘を守った。王はこの時全身に傷を受けて亡くなったが、護法の功徳で阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生まれ、その仏の第一の弟子となり、覚徳比丘は第二の弟子となった。正法が滅しようとする時の信仰者の心構えと、正法を守る者の功徳の大きさを示したもの。立正安国論 参照。



by johsei1129 | 2014-11-30 15:26 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

百二、五老僧の邪義

さて日蓮没後、(さね)(なが)(たが)がはずれたかのようにつぎつぎと謗法をおかしていく。実長は日蓮の法義を軽く見ていた。

やがて其の次に富士の塔供養の奉加(ほうが)に入らせをはしまし候、以っての外の僻事(ひがごと)に候、(そう)じて此の廿(にじゅう)余年の間、()(さい)法師、影をだに指さざりつるに御信心如何様(いかよう)にも弱く成らせ給ひたる事の候にこそ候ぬれ。

富士の塔供養とは波木井領の福士に建てられた念仏の石塔の事である。

現存はしない。奈良時代から鎌倉時代にかけて、富士山に登って法悦を得ようとする行者の修行が発展して山中や山麓に道場が建ち、記念の石塔がつくられた。

実長はこれを支援した。謗法の供養である。

この二十年、邪宗の僧が身延山に入ったことはなかった。いまそれが破られたのだ。実長は奉加帳にはっきりと自分の名をしるした。彼は自慢したろうが、日興からすれば信心が惰弱になったとしかうつらない。

日興はいう。これら謗法の所以は、まったく五老僧の一人、民部(みんぶ)日向(にこう)の堕落からきたものであると。

是と申すは彼の民部阿闍梨世間の欲心深くして、へつらひ(てん)(ごく)したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思ひも寄らず(おおい)に破らんずる(ひと)よと此の二三年見つめ候て、さりながら折々は法門の曲りける事を(いわ)れ無き由を申し候つれども(あえ)て用ひず候、今年の大師講にも(けい)(びゃく)の祈願に天長地久(ちきゅう)御願(ごがん)円満、左右大臣文武百官、各願成就(じょうじゅ)とし給ひ候ひしを此の(いのり)は当時(いた)すべからずと再三申し候しに(いかで)か国の恩をば知り給はざるべく候とて制止を破り給ひ候し間、日興は今年問答講(つかまつ)らず候き

日興はしばしば訓戒を垂れたが、日向は聞く耳をもたない。日向の祈りは悪を退治しないで世界平和を祈るのとおなじである。国のためを思うならば、(こうべ)を破る折伏しか方法はないのだ。

日興としても、自分とともに弘教にはげんだ日向を簡単に処分することはためらった。いつかは目ざめるかもしれないからだ。釈迦が提婆逹多をさとし、日蓮が三位房を訓戒したのとおなじである。残念ながら二人は退転し報いをうける。

地頭実長は最後に釈迦の仏像をつくるという謗法をおかす。

日興は破折した。師の本懐である三大秘法の本尊を安置し、題目を唱えるのが日蓮の遺志を継ぐことであると。

()()()()()()()()()()()()()()聖人の文字にてあそばして候を御安置候べし、いかに聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主釈尊の木像を最前には破らせ給ふ可きと()ひて申して候し()()()()()()()

「教主釈尊の木像」とは御本尊のことである。にもかかわらず実長は日朗に奪いさられた仏像を再現しようとした。日興は師日蓮の御本尊のほかに信心の対象はないといさめたが、実長は聞かない。

日興は地頭の謗法に動じていない。師の法義をたもち、世に立てようとしたことに悔いはなく、むしろ誇りであるといいきっている。

五老僧の一人、日朗は竜の口の法難のおり、入獄して日蓮から賛辞をうけたほどの高弟だったが、日蓮滅後は甲斐を去り日興に敵対した。日朗が日蓮所持の仏像をなんのために盗みとったかは不明である。だが身延山の惨状を見れば、日朗にはほかになすべきことがあったのではないか。師の山の謗法を、なぜ漫然と見すごしたのか。

 こうして日蓮亡きあと、早くも正法の破壊がはじまった。

これと似た話がある。

釈迦が入滅して四十年のことだった。

十大弟子の一人、阿難はすでに老齢の域に達していた。

彼はとある竹林の中にはいった。

そこに一人の比丘(びく)がいるのをみとめた。この比丘は一つの法句をとなえていた。

()し人生じて百歳なりとも水の潦涸(ろうかく)を見ずんば、生じて一日にして之を賭見(とけん)することを得るに()かず。

潦涸とは生滅をいう、賭見は見ることである。水がたまり、蒸発するのを見なければ、生きている甲斐がないという意味である。比丘はこんなつまらない法句をくりかえし唱えていた。

阿難は比丘を破折(はしゃく)した。

「これは仏説ではない。汝は修行してはならない」

比丘は聞いた。

「では仏はなんと説かれたのですか」

阿難はこたえた。

  若し人生じて百歳なりとも生滅の法を()せずんば、生じて一日にして之を解了(げりょう)することを()んには()かず。

「これが仏説である。汝が唱えたのはこれを誤ったのだ」

比丘はこのことを自分の師匠に語った。

師は答えた。

「余が汝に教えたのは、まことの仏説である。阿難がとなえたのは仏説ではない。阿難は老衰して言葉にあやまりが多い。信じてはならぬ」

この比丘は阿難の教えを捨て、もとの誤った法句を唱えた。

阿難はふたたびおとずれた竹林でこれを聞きおどろいた。

「わたしが教えたものではない」

阿難はかさねて比丘にさとしたが、比丘は信用しなかった。阿難は亡き釈尊を思い、なげいたという。釈迦の死後わずか四十年の出来事だった。

かつて日蓮はこの故事を引き、法をあやまりなく伝えていくことが、いかに困難かを説いている。あたかも今の身延山の惨状を予言しているかのように。くわえてこの窮状に苦しむ日興をなぐさめるかのように。

仏の滅後四十年にさえ既に(あやま)出来(しゅったい)せり、(いか)(いわ)んや仏の滅後既に二千余年を過ぎたり、仏法天竺より唐土に至り唐土より日本に至る論師(ろんし)・三蔵・人師等伝来せり、定めて謬り無き法は万が一なるか、(いか)(いわん)や当世の学者・(へん)(しゅう)を先と為して我慢を(さしはさ)み、火を水と(あらそ)い之を(ただ)さず(たまたま)仏の教の如く教を()ぶる学者をも之を信用せず、故に謗法(ほうぼう)ならざる者は万が一なるか。十法界明因果抄

正法をたもつ者は万の中の一という。日興は身にしみて師の教えを思いだしていた。

それにしてもこのままでは師の正義が消えうせてしまう。訓戒しても地頭実長は聞く耳をもたない。もはや一つ所に住める相手ではなくなっていた。

日興は師の遺言を思いだしていた。

地頭の不法ならん時は我れも住むまじき由、御遺言とは承り候  富要第五巻『美作公御房御返事

日興はかつて日蓮からこの言葉をきいた時、まさか実長が謗法を犯すなどとは思いもよらなかった。実長は自分が折伏した人である。化導にも自信があった。なおかつ日蓮にも従順だったのだ。それが師亡きあと、人がかわったように反逆しようとは。

日興がこれ以上に憤ったのは、六老僧の一人日向(にこう)が波木井の謗法を容認したことだった。日向は熱原の法難の時、日興とともに戦いの矢面に立った人物である。教団内の人望もあった。日興でさえ、ひさびさに身延にかえってきた時、よろこんで要職につけたほどだったのだ。実長はこの日向を盾にして日興に対抗した。

日向は日蓮の法門を理解していなかった。題目を唱えれば、すべて許されるというのが彼の考えである。本尊は釈迦にしてもよい。神社参詣も自由である。こうなれば念仏を唱えても、真言を呪しても、座禅を組んでも、律を固持してもよいことになっていく。

日向は波木井に教えた。妙法をたもてばすべて許され、正も邪もなくなると。日向の法門の理解度が知れよう。

かたや師の日蓮は正邪をきびしく分けよといった。

又立つ浪吹く風・万物に()いて本迹(ほんじゃく)を分け勝劣を弁ず可きなり   富要第一巻『百六箇抄

日向は一切経を本迹にを立て分け、その勝劣を極めた日蓮の教えを追及することはなかった。おそらく百人前後になんなんとする日蓮の弟子の中から、六老僧と指名された弟子でさえ、このありさまだった。五老僧は日蓮を単に法華経の行者としか見ていなかった。日蓮が末法の本仏などと想像だにしていなかった。

日興はこの経緯について悲憤をこめてしるす。

(そう)じて此の事は三の子細にて候、一には安国論の正意破れ候ぬ、二には久遠(くおん)(じつ)(じょう)の釈尊の木像最前に破れ候、三には謗法の()始めて(ほどこ)され候ぬ、此の事共に入道殿の御(とが)にては渡らせ給ひ候はず、(ひとえ)謟曲(てんごく)したる法師の(とが)にて候へば(おぼ)()しなをさせ給ひ候て、自今以後安国論の如く聖人の御存知在世廿(にじゅう)年の様に信じ(まいら)せ候べしと改心の御状をあそばして()(えい)の御宝前に進らせさせ給へと申し候を御信用候はぬ上、軽しめたりとや思し食し候ひつらん、我れは民部(みんぶ)阿闍(あじゃ)()を師匠にしたるなりと仰せの由承り候し間、さては法花経の御信心逆に成り候ひぬ。

重複を恐れずいうならば、波木井の謗法は三点に集約される。

一つは法義の根幹である立正安国論が否定されたことである。神社参詣はむろんのこと、邪法のあやまりを正すという崇高な精神をふみにじった。

二つには根本尊敬の対象を否定したことだった。「久遠実成の釈尊の木像」とは御本尊のことだ。実長は日蓮が命とした本尊を釈迦の木像にかえてしまった。最前とは目の前ということである。日興の目の前でこの愚行がおこなわれた。

三には日興が身延を去る理由である。師日蓮は謗法の供養をうけなかった。邪宗をゆるす北条幕府からは、米一合たりともうけとらなかった。飢えに苦しみ、極寒の毎日でも、法を守りとおして一生を終えた。日興もおなじである。謗法の施をうけることは、謗法をみとめることである。日興は波木井をみとめることはできない。

日興はこのような波木井実長に反省を求め、懺悔(ざんげ)をしるして師日蓮の仏前にそなえることをすすめた。

しかし実長には聞こえない。

彼は腹立ちまぎれに、自分は日向を師匠としていると声高にいったという。地頭の名聞からか、地主である(おご)りからか、自分は仏法を理解していると思ったか、実長には日興の諫言が耳にはいらない。

日興は実長の法華経の信心が逆になったという。逆とは反逆のことである。日蓮日興の仏法にそむき、民部日向の謗法をうけ入れた。

だからといって日興は実長を責めたりはしない。かりそめにも師の日蓮を九年にわたり養った檀那である。日興も実長から恩をうけたのだ。いつかは目覚めて改心するかもしれないからだった。

かわりに日興は日向(にこう)をはじめとした五老僧をきびしく糾弾している。人を導くはずの者が、師に敵対するとはなにごとか。

日興は今さらながら師の言葉をかみしめた。

外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。「師子身中の虫の師子を()む」等云云  『佐渡御書

身延は謗法の山と化した。日蓮の仏法が日蓮の弟子によって滅びようとしている。

日興はもはや自分がこの地にいることはできないとさとった。地頭の供養を断って去ることは、艱難がまちかまえていることを意味したが妥協はできない。日蓮の法をあやまたず、つぎの世にのこしていくためだった。

後代、このような日興を(かたく)なであると批判する者がいるが、その言葉の中身は五老僧とおなじ水準である。かれらには法を守る責任が欠けているのである。

その五老僧は転落していった。

かれらは日蓮亡きあと、まず自分の名をかえた。日蓮の弟子とは名のらず、天台沙門といった。退転した三位房が慢心のあまり、名をかえたのと似ている。

つぎに折伏を用いず世間と妥協した。他宗に加わり国家安泰の祈祷を行った。竜の口の法難の時、退転した弟子たちが「我等はやは()らかに法華経を弘むべし」といったのとおなじである。

すべては身の安全をはかるためだった。

日蓮の教えはいまだに世の批判をうけている。五老僧は強情な日蓮とは一線を画して非難を避けた。保身をはかり、謗法の供養をうけるために日蓮の義を捨てた。こうして国家を祈り、名をあげようとした。日向が天長地久と祈ったように。

日興はいきどおる。

祈国の段亦以て不審なり。所以は(いかん)、文永免許の(いにしえ)先師()()の分既に以て顕はれ(おわ)んぬ、何ぞ(せん)(しょう)道門の怨敵(おんてき)に交はり坐して(とこしなえ)に天長地久の御願を祈らんや  『五人所破抄

師日蓮は佐渡流罪赦免のおり、幕府から蒙古退治の祈祷を依頼された。このとき日蓮は条件として諸宗の僧の首を刎ねることを申しでた。邪宗をともにする祈祷は、逆に国を滅ぼすからである。日蓮は諸宗退治が許されないと知るや、鎌倉を去り身延の山中に入った。これが日蓮の精神である。

五老僧はすすんで増上慢の僧とともに国を祈った。立正安国の精神は踏みにじられたのである。

彼らの無智は信じがたい。

五人は日蓮の著作などはないという。耳を疑う言葉である。

彼の五人一同の義に云はく、聖人御作(おんさく)()書釈(しょしゃく)は之無き者なり。縦令(たとい)少々之有りと雖も、或は在家の人の為に、仮文字を以て仏法の因縁を(ほぼ)之を示し、若しは俗男俗女の一毫(いちごう)の供養を(ささ)ぐる消息(しょうそく)(へん)(さつ)に施主分を書きて愚痴(ぐち)の者を引摂(いんじょう)し給へり。而るに日興は聖人の御書と号して之を談じ之を詠む、是先師の恥辱を顕はす云云。故に諸方に散在する処の御筆をば或は()かえ()しに成し、或は火に焼き(おわ)んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に(つぶさ)に之を(しる)して後代(こうだい)()(きょう)と為すなり。  『富士一跡門徒存知事

五人は日蓮が弟子檀那にのこした仮名文字の書をみとめない。

仏法といえば漢字で表現していた時代である。五老僧は仮名文字の消息など、知恵の足らない在家信徒にあたえた手紙であり、供養の礼をしるしたものばかりで、価値はないばかりか、師の恥をさらすものだとした。それなのに日興はありがたく読み談じている。五人は俗男俗女を相手にする日興を軽蔑した。それはとりもなおさず、一閻浮堤広宣流布をめざした師日蓮を見下したものとなった。

五人は日蓮の書をすき返してもとの白紙にもどしたり、焼却している。後代の弟子にとって、目をおおうばかりの所業がなされていた。

五人はつねに日蓮のそばにいたわけではない。遠くはなれた地にいるために、師の教えを体読できなかった。仏法の真髄を学ぶには劣悪な環境だった。彼らにも言い分はあろう。だが百歩ゆずって彼らの言い分をみとめても、日蓮亡きあと、五人は日興を手本にして正義をつぐべきだったのだ。彼らの心地に「当如敬仏」の精神はなかった。求道心の一分でもあれば、日興を師範として仏法を学ぶべきだったのだ。

かたや日興は仏法の破滅をおそれ、立正安国論をはじめとする著作の目録をのこした。この目録がなければ、それこそ日蓮の書は五人のいうとおり、皆無となったであろう。現存する書は偽物とされ、仏法は跡形もなくなっていたろう。もちろんこの小説もない。日興と五人はかくも大きなへだたりである。雲泥の差とはこのことではないか。

謗法の者はまず三悪道におちるという。

日興はその証人として身延山を謗法の山にかえた民部日向の所行をしるす。

殊に去る卯月(うづき)朔日(ついたち)より諸岡(もろおか)入道の門下に候小家に籠居して画工を招き寄せ、曼荼羅(まんだら)を書きて同八日仏生日と号して、民部は入道の室内にして一日一夜説法して布施を(かか)へ出すのみならず、酒を興ずる間、入道其の心中を知りて妻子を喚び出して酒を勧むる間、酔狂(すいきょう)の余りに一声を()げたる事、所従眷属の嘲笑(ちょうしょう)口惜(くちお )しとも申す計りなし、日蓮の御(はじ)何事か之に過ぎんや、此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり。

かりにも日蓮門下と名のる者が、見苦しく布施をかかえ、酔態をさらして嘲笑をうける。日蓮からあとを託された日興にとって、これほどの屈辱はない。

日興は日向の醜態がやがて地頭の耳に入るであろうという。実長はそのうちに日向を見捨てるであろうと。


           百三、日興、身延離山 につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2014-11-30 15:21 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

百一、 地頭の謗法

身延の地頭、波木井(はきり)(さね)(なが)が信心に目ざめたのは日興の折伏による。日蓮が身延に居を移したのは日興の力があった。これはすでに述べた。このことはだれも口をはさむことはできない。

伯耆房日興が日蓮に出会ったのは、十二歳の時だった。いらい日蓮を親とも主とも師とも慕って今日まできた。

日興は師亡きあと、教団の統率者として師の教えを忠実に守り、後世に伝えようとした。弟子の育成にも必死だった。

だが時の経過とともに日興からはなれていく者がでてきた。師の日蓮は「身はをちねども心をち(あるい)は心は・おちねども身はおちぬ」の言葉をのこし、信念を続けることがいかに困難かを説いていた。このことは日蓮の死後にも現実化した。

六老僧は日蓮から前もって月単位で墓番を命じられていた。しかし日興以外の五人は三年とたたずに身延を去った。

日昭は相模浜土へ、日朗は鎌倉へ、日頂は下総へ下っていった。五人は墓守で一生を終わりたくはなかったのだろうか。彼らは若僧をつれて去ってしまった。

予想していたとおりだった。わずか三年で日蓮の墓は荒れはてる。

何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの(ひづめ)(まのあ)たり(かか)らせ給ひ候事、目も当てられぬ事に候 『美作公御房御返事

日蓮の墓は鹿のひづめで荒廃していたのである。信じられない話だが、だれも手をつける者がいない。
 日興の困難はさらにつづく。

日興は師亡きあと、九年のあいだ身延山に住み法を弘めたが、地頭波木井実長の邪義のため、離山を余儀なくされた。

波木井の邪義とは四つあった。日興は冷静にしるしている。

釈迦如来を造立(ぞうりゅう)供養して本尊と()し奉るべし、是一。

次に聖人御在生九箇年の間停止(ちょうじ)せらるゝ神社参詣其の年に之を始む、二所(にしょ)三島(みしま)に参詣を致せり、是二。

次に一門の勧進(かんじん)と号して南部の郷内のふく()()の塔を供養奉加(ほうが)之有り、是三。

次に一門仏事の助成と号して九品(くほん)念仏の道場一宇を造立し荘厳(しょうごん)せり、甲斐国其の処なり、是四。

已上四箇条の謗法を教訓する義に云はく、日向(にこう)これを許す云々。この義に依って()ぬる其の年月、彼の波木井入道並びに子孫と永く以て師弟の義を絶し(おわ)んぬ。仍って御廟(ごびょう)(あい)(つう)ぜざるなり。  『富士一跡門徒御存知の事
  

波木井の所行は日蓮の教義とあい容れない。波木井は日蓮と同じ土地にいながら日蓮の精神を理解できなかった。仏法の理解は距離とは関係ないことがわかる。

本尊は釈迦ではなく妙法の七字を建立する。神社参拝は災いをうける。善神はすでに社を去り、悪鬼のみがのこっているからだ。立正安国論のとおりである。まして念仏の建物を建て供養するなど、なにをかいわんやである。

さらに信じがたいのは、この邪義を五老僧の一人、民部日向が許したということだった。

日興はこの数々の謗法を『原殿御返事』に克明に記録している。以下はそれをたどってみることにする。

日興は最初、波木井の所行に愕然とした。

(そもそも)此の事の根源は去る十一月の(ころ)、南部孫三郎殿、此の御経聴聞のため入堂候の処に此の殿入道の(おおせ)と候て念仏無間(むけん)地獄の由聴き給はしめ奉る可く候なり、此の国に守護の善神無しと云ふ事云はるべからずと承り候し間、是れこそ存の(ほか)の次第に覚え候へ、入道殿の御心替らせ給ひ候かと、はつと推せられ候

日蓮滅後六年目の十一月の頃という。日興四十一歳のことである。

波木井一族の南部孫三郎という者が参詣し、実長の言葉を伝えた。

実長は日蓮がとなえた念仏無間地獄の義は了解したが、この国に守護の善神がいないことは納得できないという。神社参詣を肯定するかのような発言だった。日興ははじめて聞く地頭の唐突な言葉に衝撃をうけた。

日興は懸命に孫三郎を説得した。いま神社には悪鬼しか住みついていない。これは亡き師日蓮の教えではないか。

此の国をば念仏真言禅律の大謗法故、大小守護の善神捨て去る間、其の跡のほ()らには大鬼神入り(かわ)りて国土に飢饉・疫病・蒙古国の三災連々として国土衰亡の由、故日蓮聖人の勘文関東三代に仰せ含められ候ひ(おわん)ぬ、此の旨こそ日蓮阿闍(あじゃ)()の所存の法門にて候へ、是を国のため世のため一切衆生のための故、日蓮阿闍梨、仏の使いとして大慈悲を以って身命(しんみょう)を惜しまず申され候きと談して候

しかし実長と同心の孫三郎は納得しない。

ここで孫三郎は重大なことをいった。この神社参詣について、身延と鎌倉で異論がおこっているというのである。

孫三郎殿、念仏無間の事は深く信仰(つかまつ)り候(おわん)ぬ、守護の善神此の国を捨去(しゃこ)すと云ふ事は不審未だ晴れず候、其の故は鎌倉に御座(おわ)し候御弟子は諸神此の国を守り給ふ(もっと)も参詣すべく候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらる条、日蓮阿闍梨は入滅候、誰に()ってか実否を決す可く候と(くわ)しく不審せられ候

当時、鎌倉の弟子たちは神社参拝を認め、日興のいる身延は断固として認めなかった。

孫三郎の迷いはさめない。

師の日蓮は世を去った。神社参りが是か非かは決められないではないか。根本の師が世を去ったのだ。それならば新たな法義を立てるべきだといいたいのである。心中に後継者の日興を軽視する態度がみえる。

日興はこれにたいし、すべては師日蓮の遺言をもとに判断すべきであると訴える。いわゆる立正安国論をはじめとした御書とよばれる指針である。

二人の弟子の相違を定め玉ふべき事候、師匠は入滅候と申せども其の遺条(ゆいじょう)候なり、立正安国論是れなり、私にても候はず三代に披露し玉ひ候と申して候しかども尚御心中不明に候て御帰り候ひ畢んぬ。

日興は師がいない以上、われわれは師の書、いわゆる御書によって道を決めるべきだと諭した。熱をこめて説いたが、孫三郎は疑念をいだいたまま帰ってしまった。

日蓮滅後わずか七年後のことである。

早くも七年にして日蓮の法義が危うくなっていたのには驚かされる。神社参詣についても宗門の中で意見がわかれていたのである。

この遠因は孫三郎が三島の神社に参詣しようとしたことがはじまりだった。日興はこれを聞き、夜半おなじ波木井一族の弟子である越後公をつかわして叱責した。

是れと申し候は此の殿三島の社に参詣渡らせ給ふべしと承り候し(あいだ)夜半に出で候て越後公を以ていかに此の法門安国論の正意、日蓮聖人の大願をば破し給ふ可きを御存知ばし渡らせをはしまさず候かと申して永く留め(まい)らする

三島とは静岡県三島市伝馬町にある三島神社のことである。かつて源頼朝が平家追討の挙兵にあたって戦勝を祈願した。いらい鎌倉幕府の崇拝をうけ、伊豆山神社とともにニ所(もうで)として毎年正月、将軍自らが参詣した。そのため多くの武士の崇拝をうけていた。

孫三郎も幕府の一員として気軽に参賀しようとしたのである。

日興はこれをきびしく叱った。

あなたはなぜ日蓮聖人の御心を御存知ないのか。神社不敬は師日蓮の法義であることを、なぜわからないのか。

孫三郎は甲斐源氏の血をひく名門南部氏の一人である。日興の忠告はおもしろくない。

この出来事が実長の耳に入った。ここで実長は五老僧の一人民部日向(にこう)の意見をきいた。

驚くことに日向は日興の義をしりぞけた。

彼いわく、日興は日蓮の法門を理解しておらず、仏法の極みを知らないという。日向は言った。

()守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨()(てん)(よみ)に片方を読んで至極を知らざる者にて候、法華の行者参詣せば諸神も彼の社壇に(らい)()す可し(もっと)も参詣す可し()()()()()()()()

日興は実長に直談判して神社参詣を問いただしたが、実長はこれを日向の教えであると反論した。日向と実長は身延山の主である日興を見下していた。

日向は五老僧の中でただ一人、甲斐にもどってきていた。日興は喜んで彼を学頭職につけている。日興と日向とは熱原の法難で苦楽をともにした仲だったのだ。うれしくないはずがない。学頭とは僧侶教育の要職である。その日向が日蓮の法義を曲げようとしていたのである。

日興にとって神社不参拝は当たり前のことである。このことは日蓮のもとで幾度も薫陶を受けていた。耳には今も日蓮の言葉がのこる。

其の上此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味に()へて(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入り()はりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は(いたずら)に魔縁の(すみか)と成りぬ。国の(つい)え民の(なげ)きにて、い()かを並べたる計りなり。(これ)私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし。諸仏も諸神も謗法の供養をば全く()け取り給はず、况んや人間としてこれを()くべきや。 『新池御書



                   百二、 五老僧の邪義  につづく


by johsei1129 | 2014-11-30 15:13 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 29日

三十四、弟子への遺言

日蓮は相模の依智にいたひと月のあいだ、弟子・信徒へ矢つぎ早に消息(手紙)を送っている。

 まず富木常忍には竜の口法難の三日後、九月十五日に届けている。

御嘆きはさることに候へどもこれには一定(いちじょう)と本より()して候へばなげ()かず候。いまゝで(くび)の切れぬこそ本意なく候へ。法華経の御ゆへに過去に頸をうし()なひたらば、かゝる少身の()にて候べきか。又「数々(さくさく)(けん)(ひん)(ずい)」と()かれて、度々(たびたび)(とが)にあたりて重罪を()してこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆへなり。『土木殿御返事

大難はもとより覚悟の上といっている。首を斬られなかったのが不本意だという。
 もちろん日蓮は自ら進んで死ぬつもりはない。
 日蓮は弘安元年五十七歳の時に著した神国王御書で「聖人横死せずと申す」と記している。自分が聖人なら横死などするはずがないと確信していた。単に法華経の行者なら修行の過程で難に遭い死し、その善業により来世で成仏することもあろう。しかし修行を極め、覚知した聖人()なら横死するわけがない。釈尊も提婆達多に再三狙われ、崖から岩を落とされて指から血を出している。また毒殺されそうにもなった。さらに酔った象により信徒が踏み潰され殺される難を受けている。しかし自身が横死することはなかった。
 いっぽう釈尊の二大弟子は法華経で将来仏になると宣言されながらも、ともに釈尊滅後の前に横死している。声聞の舎利弗は重病で死去、縁覚の目健連はバラモンに殺されている。極楽寺良観にもし敗れたら法華経を捨て念仏を唱えると約束して挑戦した雨乞いの祈祷も、一見博打のような行動に思えるが、日蓮は釈尊の究極の教え法華経のとおり行じて、もし敗れることがあるならば、釈尊は大妄語の仏となる。しかしそうはならないという絶対の確信のもと挑戦している。

日蓮は文応九年三十九歳の時に著した『唱法華題目抄』で末法に出現する本尊の相貌を示している。

問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀、並に常の所行は何にてか候べき。
 答えて云く、第一に本尊は法華経八巻一巻一品(あるい)は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても、法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし

そして文永九年六月十六日、佐渡で図現した御本尊には中央に南妙法蓮華経、その両脇に南無釈迦牟尼仏・南無多宝如来と認められている。

本尊を表すためには日蓮自身が末法の本仏であることを明白に末法の衆生に示さなければならい。そのためには釈尊と同じく死を被る難に遭い、それを乗り越えて見せなければならない。四条金吾に竜の口の場に証人として立ち合わせたのはその意味があったからである。

日蓮は法華経の行者としての身を竜の口で捨て去り、末法の本仏としての本地を示した。最初から法華経の行者としての命を捨てるつもりだったのだ。日蓮は弟子檀那とちがって、まったく動じていない。

 つぎは太田乗明、曽谷教信、金原法橋への消息である。

 譬()喩品(ゆぼん)に云はく「経を読誦し書持(しょじ)すること有らん者を見て軽賎憎嫉(きょうせんぞうしつ)して結恨(けっこん)(いだ)かん」と。法師品に云はく「如来の現在すら(なお)(おん)(しつ)多し、(いわん)や滅度の後をや」と。勧持品に云はく「刀杖を加へ乃至数々擯(しばしばひん)(ずい)せられん」と。安楽行品に云はく「一切世間、(あだ)多くして信じ難し」と。此等は経文には候へども、(いつ)の世にかゝるべしともしられず。過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ、身に()たりて()みまいらせ候ひけるとみへ()んべれ。現在には正像二千年はさて()きぬ。末法に入っては、此の日本国には当時は日蓮一人()へ候か。昔の悪王の御時、多くの聖僧の難に値ひ候ひけるには、又所従眷属(けんぞく)等・弟子檀那等()くそばくかなげき()候ひけんと、今をもちておし()()かり候。今日蓮法華経一部()みて候。一句・一()(なお)記(注)をか()れり。(いか)に況や一部をやと、いよいよた()もし。(ただ)をほけなく国土までとこそ、を()ひて候へども、我と用ひられぬ世なれば力及ばず。しげき()ゆへにとゞめ()候ひ(おわ)んぬ。  『転重軽受法門

 法華経勧持品に説かれた『刀杖を加へ乃至数々擯出せられん』はじめ、数々の経文に明らかのように、末法に入っては日蓮ただ一人が身読したと伝えている。

                 三五、真冬の佐渡へ につづく
上巻目次

 


受記

求道者(菩薩)が仏から未来世に仏になるという記別を受けること。逆に仏が衆生に仏記を授けることを授記という。仏は求道者が未来世で成仏する時の仏の名号、出現する仏国土の名前、その仏が存在する時代((こう))の名前を明らかにして比丘()らに宣言する。例えば法華経譬喩品第三で舎利弗は釈尊から、法号を華光如来、仏国土を離垢(りく)、劫を大宝荘厳という記別を与えられる。さらに華光如来が十二劫すぎて滅度する際、堅満菩薩に華足安行多陀阿伽度となるという記別を与えると宣言している。()法華経では、提婆逹多・竜女・舎利(しゃり)(ほつ)迦葉(かしょう)等はおのおの天王如来、無垢証(むくしょう)如来、華光(けこう)如来、光明如来等の名号を与えられ、仏記を受けている。
 末法では妙法の授受を記という。

「御義口伝に云はく、記とは南無妙法蓮華経なり。授とは日本国の一切衆生なり。不信の者には授けざるなり、又(これ)を受けざるなり。今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経の記を受くるなり」  『授記品四箇の大事




by johsei1129 | 2014-11-29 16:46 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2014年 11月 29日

三十三、二度目の流罪、日蓮佐渡ヶ島へ

鎌倉侍所の大広間に御家人が集まり、喧々諤々(けんけんがくがく)の口論がはじまった。

日蓮の処遇についてである。

時宗が広間中央に腕をくみ瞑目していた。明らかに迷っている様子だった。日蓮をどうするか、決めかねていたのである。

彼の前で頼綱と泰盛が、つかみかからんばかりにののしりあった。

泰盛が大声でいう。

「許して召しかえすのだ。これはおぬしの勝手な行動だ」

頼綱は反論する。

「いや斬るべきでござる。このたびは侍所の責任者として行動したまでのこと。やましいことはござらん」

場内かまびすしく激論がつづく。

ここで北条宣時が提案した。

「どうであろう。日蓮は百日のうちにいくさがあるといった。それをまってはどうかな」

何人かの御家人が首をかしげる。笑う者さえいた。

泰盛が時宗に手をついた。

「殿、日蓮は赦免して保護すべきでござる。なにとぞお許しを・・」

頼綱が横から口をだす。

「殿、日蓮の首は斬っておかねば、のちのち後悔いたします。口封じせねば、幕府は危ういでありましょう」

時宗が瞑目したままだった。

そこへ従者が飛びこんできた。

「いま鎌倉の三ヶ所で火事でござる。火付けと思われます」

一同がさわぎ、御家人があわてて出ていった。

頼綱が時宗に言上する。

「すでに鎌倉の火付け、殺人ひまなし。すべて日蓮の残党の仕業でござる」

泰盛がさえぎった。

「ばかな。証拠もなしに。陰謀である」

頼綱が書面を提出した。そこにはおびただしい人名がしるされていた。

「すでに日蓮門下の二百六十人を手配してござる」

「なんと・・」

泰盛があきれた。

「このうち法華経を捨てぬ者は領地没収、鎌倉追放が妥当と思われまする」

頼綱は周到な用意と謀略で日蓮一派を壊滅するつもりでいる。

だが時宗は聞こえないように告げた。

「占ってみよ」

泰盛と頼綱は意外な展開に思わず互いの顔を見る。

陰陽師(おんみょうじ)を召せ」

陰陽師が威厳に満ちた姿であらわれた。やがて時宗の前で占術をはじめた。

当時の陰陽師の力は絶大である。陰陽師は物事の吉凶を占い、為政者に助言した。小事につけ大事につけ人々に注意を喚起させた。「吾妻鑑」には天文の異変や不吉な出来事から、将来を占う記事がうんざりするほどでてくる。

一同がかたずをのんで陰陽師を見守った。

しばらくして陰陽師は突然おどろき、おののいた。種々御振舞御書』にいう。

 (おおい)に国みだれ候べし・此の御房御勘気(ごかんき)のゆへなり、いそぎいそぎ召しかえさずんば世の中いかが候べかるらん

日蓮を罰することは断じてならぬ。陰陽師は日蓮を支持した。

泰盛は歓喜した。いっぽう頼綱は憮然としている。

長い沈黙のあと、時宗が重い口をひらいた。

「日蓮を流罪とする」

「どちらに」

「北海、佐渡ヶ島」

当時、佐渡は絶海の孤島である。今の南極や北極にひとしい。生還は絶望的だった。

いっとき喜んだ泰盛だったが佐渡流罪と聞いて落胆した。頼綱はつぎの策を練っていた。


                三十四、弟子への遺言 につづく


上巻目次



by johsei1129 | 2014-11-29 16:16 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2014年 11月 29日

三十、竜の口の法難

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                      (日蓮聖人御一代図より)
 
信徒らは師日蓮の行く末に不安でいっぱいだった。
日蓮聖人が侍所で喚問されたという。ことによっては捕縛されて帰らぬ人になるかもしれない。さらに法華宗徒に弾圧があるかもしれない。うわさばかりが先行していた。みな戦々恐々となっていた。

その日蓮が帰ってきた。

「みなさん心配をかけました」

四条金吾が前にでた。

「聖人、一刻も早く鎌倉を立ち退()いてくだされ。侍所に兵が集まっています。上人を捕らえる噂がたっております。ほとぼりがさめるまで安全な場所にいてくだされ」

「それはできぬ」

一同がおどろいた。

常忍もすすみでた。

「なぜでござるか。聖人が逮捕されれば、われら法華衆は壊滅いたします」

 日蓮はおちついていた。

「耐えるのです。いまこそ日蓮一門の信心が試されるときですぞ」

この時、多くの信徒が立ちあがり、日蓮に背をむけてぞくぞくと去っていった。
 彼らは形勢が危ういのを感じとった。昨日までは他人事だったが、自分の身に危難がふりかかろうとしている。しりぞく心があらわにでた。
かつて不退の誓いをたてた者もおそるおそる背をむけた。

金吾がおどろく。

「まて、おぬしら、どこへ行く。今が肝心のときだぞ」

常忍も彼らを止めた。

「まて、どこへいくのだ」
 日蓮はのちにこの時の思いをつづっている。
 

我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然(じねん)に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏(あんのん)ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つ()なき者のならひは、約束せし事をまことの時はわするゝなるべし。妻子を不便(ふびん)とをもうゆえ、現身にわかれん事をなげくらん。多生(たしょう)曠劫(こうごう)にしたしみし妻子には、心とはな()れしか、仏道のためにはなれしか。いつも同じわかれなるべし。我法華経の信心をやぶらずして、霊山(りょうぜん58)にまいりて返ってみちびけかし。『開目抄下
      

信者が去っていくのと入れ違いに、幕府重臣の宿屋入道光則があらわれた。

日蓮とは旧知である。彼は立正安国論を北条時頼に取りついだ人物だった。宿屋は侍所の一件いらい、日蓮に善処を促していた。

宿屋が役人らしい出で立ちで正座する。彼の話はすぐさま核心をついた。

「どうしてもお聞き入れくださらぬか。いま日蓮殿や信徒にとって存亡の時でござる。幕府は法華経の信仰を認めているのでござる。ただ他宗の非難をやめよといっているだけなのだ。それさえなければ、幕府が手厚く保護いたすと。おわかりいただけませぬか」
「それはならぬ」
「なぜでござるか」

宿屋は日蓮を理解できない。日蓮は法華経と他の経を同等に考えるところに謗法があるという。

当世も法華経をば皆信じたるやうなれども法華経にてはなきなり。其の故は法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経と一なるやうを()く人をば悦んで帰依し、別々なるなんど申す人をば用ひず。たとい用ゆれども本意(ほい)なき事とをもへり 開目抄上

法華経のみが成仏の経であり、他経は成仏できず、かえって悪道におちる。

人々はこの道理がわからない。日蓮が良観や道隆の首を刎ねよ、極楽寺や建長寺を焼きはらえといったのも、仏法に(うと)人々を覚醒するためだった。

このように法華宗門下が崩壊しようとしている事態を受けても、日蓮は取り乱すどころか予期していることだとばかり、異常ともいえる落ちつきを示した。

「宿屋殿、ご親切はありがたい。しかしその申し出を受けることはできぬ」

この時、弟子や信徒の多くに落胆の色がありありとでた。日蓮は自ら進んで大難をうけようとしている。そんな日蓮をあらかさまに目で非難する者もいた。

「日本国の災難、蒙古の国難をまねいたのは念仏であり禅宗である。そのかれらを罰しなければ日本国の安泰はないのです」

ここで宿屋は幕府の驚くべき動きをうちあけた。

「上人、(それがし)は御家人の身ですが、日蓮殿を尊敬しております。また某は時宗殿が上人のお考えに立つことを願っておりました。しかし一昨日の問注で状況は一変いたした。平の左衛門尉以下、武士団はあなたがた法華宗の面々を一網打尽にする方針を決定いたした」

弟子信徒にさらなる動揺が走った。

「これは決して脅しではございませぬ。弟子たちは牢に入れ、武士は領地没収、信徒は鎌倉追放、そして上人は・・首を刎ねよと」

 そこに居合わせた弟子信徒の誰ひとりとして、声を出すものがいなかった。いや、あまりの衝撃に皆が皆、声を失なっていた。

 少し間をおいて直情径行な金吾が、宿屋に怒りを宿屋にぶつけた

「宿屋殿、無礼なことを申すな。上人にむかってなんたる雑言じゃ。わしも幕府に仕える身だ。聖人には一指たりとも触れさせはせぬぞ」

日蓮が金吾を制して言った。

「宿屋殿、それはもとより覚悟のこと。ご忠告ありがたし。だが余は命にかえて鎌倉殿に申しあげるつもりです。引きさがることはできませぬ。お引きとりくだされ」

 宿屋はあきらかに落胆の色をみせた。妥協を期待していただけに思わぬ結果である。

「これ以上申しても無駄でござるか。惜しいことです。上人のような方が。国を率いる大師にもなれたものを」

宿屋が惜しむように、ふりかえりながら去っていった。

秋の日がゆっくりと西にかたむく。

四条金吾が警戒のため、館の入口で仁王立ちとなり周囲を見渡していた。

彼はいま日蓮門下が重大な局面にあることを承知していた。宿屋がいったように、自分の身にも危険がせまっていることも知っていた。
 だが日蓮からはなれるわけにはいかなかった。
いやむしろ日蓮に接していらい、はなれられなくなっていた。日蓮を目の当たりにし、その慈愛を肌身で感じていた。日蓮上人を渇仰する気持ちは日増しに強まっていた。この気持ちはすぐそこに迫ろうとする大難から逃げ出そうとする己の弱さに、はるかに勝るものだった。

金吾は仏法を深くは理解してはいなかった。法華経の深淵な法理を追及する志は、それほど強いものではなかった。だが彼は、泣く子も黙るという鎌倉幕府の弾圧に、一歩もひるまない日蓮という偉人に惚れた。十五年前、鎌倉松葉ヶ谷の今の館とは比べ物にならないくらい小さな草案で、始めて説法を聞いた時からはなれられなくなった。日蓮とどこまでも共にすることを誓ったのである。

やがて夕闇となり、金吾がひと安心したように館に入り挨拶した。

「今日は何事もないようです。拙者はこれで失礼いたします。なにか動きがあれば駆けつけますので直ちにお知らせくだされ」

日蓮が正座し頭をさげた。

「金吾殿、暇なき宮仕えの身であるのにおそれいりまする。それはさておき、金吾殿に大事なお話があります」

金吾は襟をつくろった。

日蓮はいとおしむように金吾を見つめた。

「金吾殿、いままでよく尽くしてくれました。日蓮、うれしく思いますぞ。さて、これからの出来事は金吾殿の目でしっかり見とどけてくだされ。殿が証人となるのです。よいかな、約束しましたぞ」

日蓮が金吾の手を固くにぎった。

金吾は今までにない日蓮の頼みごとに、緊張のあまり返事ができない。

しかし同時に金吾は不思議に思った。

証人とはいったいなんのことであろう。これからの出来事とは。
 金吾はこの時点で、なにも理解できなかった。

九月長月は現代の十月。秋は確実に深まっていた。落ち葉が舞い散っている。

日蓮は弟子たちに講義をはじめた。法華経巻五が、日蓮の前にある経机におかれている。


「法華経第五の巻勧持品(かんじほん)にいわく『諸々の無知の人の悪口(あっく)罵詈(めり)等し、および(とう)(じょう)を加うる者有らん』と。この経文のとおり、悪世末法に法華経を弘める者は悪口罵詈され、刀や杖の難がある。おのおの方にはこれまで常々話したとおりである。日蓮は聖人ではない。だが法華経を説のごとく受持し、行ずれば聖人の如しです。今まで言いおいたことに、まちがいはなかった。このことをもって未来に私の身に何が起ろうとも疑いをもってはならぬ」

日蓮が遺言のように語っている。

伯耆房や日朗はまなじりを決したかのように大きく目を見開き、日蓮の顔を見続けた。
 日蓮は淡々と法華経の講義を続ける。

「法師品にいわく『即ち変化(へんげ)の人を(つか)はして、之が為に(えい)()()さん』。安楽行品にいわく『天の(もろもろ)の童子、以て(きゅう)使()を為さん。刀杖も加えず、毒も害すること(あた)わじ』またいわく『諸天昼夜に、常に法の為の故に(しか)も之を(えい)()す』。普門品にいわく『(あるい)は王難の苦に()いて(つみ)せらるるに臨んで寿(いのち)終わらんと欲せんに、彼の観音の力を念ぜば(つるぎ)()いで段段に()

れなん』(それがし)いま、大難に遭おうとしている。仏の使いには、必ずこの経文のとおりの現証がおきる。これをもって日蓮が法華経の行者にてあるかなきかを知るべしであろう」

この時、外から武士の雄叫びが聞こえた。と同時に窓から薙刀がとびだした。

日蓮がとっさに目の前の法華経第五の巻を懐にしまった。

戸が倒されて武士の一団が土足で踏みこんできた。

鎧と烏帽子姿の武士たちは気が狂ったように口々に叫ぶ。
 「日蓮はおるか、日蓮はどこにいる」 

弟子が体を張って食いとめようとしたが、武士はいともかんたんに突き飛ばす。

兵士は皆、地獄からはいあがったような目つきでで日蓮をにらんだ。さらに日蓮を守るようにまわりを囲んだ伯耆房ら弟子たちの首をつかみ、次から次と外にほうりだした。

平頼綱が最後に出てきてさらに激しい狼藉がはじまった。

郎従の少輔房が哄笑しながら日蓮の懐にあった法華経の経巻をぬきとって頭を三度打ちつけた。さらにそれに飽き足らず経巻を館中にまき散らした。

日蓮の額に血がにじむ。

激痛をおぼえながら、日蓮は法華経の不思議を思った。

杖の難には、すでに()うばう(輔房)つら()をうたれしかども、第五の巻をもてうつ。うつ杖も第五の巻、うたるべしと云ふ経文も五の巻、不思議なる未来記の経文なり。 『上野殿御返事

兵士たちも笑いながら経巻をまき散らし、あるいは踏み、あるいは身に巻きつけた。

館の部屋という部屋がさんざんに荒らされていく。

ここで日蓮は大音声を放った。

「あらおもしろや。平の左衛門尉がものに狂うを見よ。殿方、ただ今ぞ、日本国の柱を倒すなり」

兵士がおどろいて静まった。彼らは日蓮が泣いてひれ伏すかと思ったが、気丈に振る舞う姿を見て一様にささやいた。

「ほんとうにこの御坊は罪人なのか・・」

平頼綱がうち消す。

「罪人じゃ。鎌倉幕府を倒す謀反人である」

日蓮はかえす。

「われには世間の(とが)一分もなし。日蓮はこの関東の御一門の棟梁なり、日月なり、鏡なり、眼目なり。日蓮捨て去るとき、七(59)必ずおこるべし」

頼綱がかみつく。

「日蓮、おぬしは今夜で終わりだ。身からでた(さび)よ。運が尽きたな。天にかわって成敗してくれよう。のちのちまで悪僧の名をのこすであろう」

 日蓮は冷静だった。

「その悪僧がどうして鎌倉に雨をふらせることができたのだ」

頼綱が一瞬言葉をなくしたが、かまわず罵倒する。

「だまれ。おぬしの罪状は明白だ。侍所、後家尼御前、そしてなにより鎌倉幕府の上意である。神妙にいたせ」

ここで日蓮は頼綱の肺腑をえぐるように突いた。

「さにあらず。この黒幕は極楽寺良観なり。武家の棟梁たる者が、ただの一滴もふらせぬ僧に、なぜ肩入れいたす。国をほろぼす悪僧はここにあらず」

頼綱が逆上してめまいをおこした。刀を半分ぬいたが思いとどまって(さや)におさめた。市中で斬るのは(はばか)りがある。

「日蓮御坊を宣時様の館へ連行しろ。北条宣時様あずかりとする」

夕暮れ、館の外には日蓮が捕縛されたことを聞きつけ野次馬が集まってきた。

日蓮が外にでて馬にのる。

弟子の日朗と在家信徒の四人が追いかけて馬にとりすがった。だが日朗をふくめた五人は、抵抗しているとみられたのか捕縛されてしまった。ちなみにのこりの四人の信徒は、井沢入道、坂部入道、山城、徳行寺という名が伝わっている。

馬上の平頼綱が命令した。

「そやつらを土牢に放りこめ」

日蓮は馬上から乱暴に引き立てられていく日朗らを見つめた。釈尊も弟子が度々迫害されていたことを思えば、十分予測されたことではあったが、いざ、弟子や信徒までもが手荒に扱われるのを見ると、忍び難い思いが募った

兵士が日蓮の馬を引きだした。

伯耆房と少年の熊王が日蓮のあとを追う。

日がすっかり傾き、夜の帷が下りていた。

鎌倉市街では鎧をつけた兵士がさまざまな方向へ走っていった。

日蓮門下に対する一斉弾圧である。

「おぬしらが頼りとした日蓮は捕縛された。そのほう法華経の信心をいたしておろう。平の左衛門尉様の命により領地没収とする」

屋敷の主人が両手をあげた。

「まて、まってくれ」

妻があわてて法華経の経巻をもってきた。この主人は経巻を自らやぶってしまった。鎌倉各所でこんなやり取りがあいついだ。


 このころ強信徒の日妙は夫と口論していた。
幼い娘が母親につく。

夫が日妙をさとした。

「なんとしても法華経の信心はすてろ」

日妙はきかない。

「すてませぬ。わたしにはわたしの考えがあります。法華経の信心をすてるのは、もってのほかです」

「日蓮上人は鎌倉様のお咎めを受けたのだ。どうするつもりだ。鎌倉の信者はすべて退転したぞ。法華経を捨てなければ、幕府からきついとがめをうけるのだ。累はこの家にもおよぶ。おまえが信心やめなければ、このわしは・・」

日妙がさえぎった。

「そんな弱気なことでどうするのです。あなたは男です、そして一家の柱です。自分の考えをもってください。ご自分の道をお決めにならないで、これからどうするのです。それでも鎌倉武士ですか」

夫は痛いところを突かれて激高した。

「離縁だ。お前がいては、わしの家がなりたたぬわ」

日妙が涙目となった。

「あなた様のお気持ちがよくわかりました。それが本音でございますね。こちらこそ縁切りさせていただきます。二度とお会いいたしませぬ」

日妙が娘をつれ、出ていってしまった。

のこった夫は茫然としてその場に立ちつくした。

日蓮門下の信徒全体に動揺がひろがっていた。

彼らは不安をかかえてあつまった。

どれも沈痛な面もちでいる。

信徒の一人がきりだした。

「みな考えてみよ。なぜこうなったのだ。法華経は正しいのに、なぜ難をうけるのだ」

「それはしかたあるまい。上人があのように強情では。われわれにも災難がふりかかってしまうのだ」

「それだ。日蓮聖人の布教が問題なのだ。法華経はたしかに尊いお経だが、弘めかたにまちがいがあったのだ。聖人は師匠ではあるが、あまりにきびしすぎる。われらはおだやかに法華経を弘めようではないか」

信者たちが救われたようにうなずいた。

「念仏や禅宗を非難せず、相手のことも思いやっていこう。幅ひろくつきあうのだ。相手の欠点も大目に見ていこう。幕府にも協力していくのだ。そうすれば日蓮上人をこえることもできる」

信者たちがそうだそうだと言わんばかりにうなずきあった。

日蓮門下の信徒は事実上、壊滅状態となった。みな大難に驚き「(きも)を消しはてて」日蓮から離れていった。

日蓮はつね日頃、経文どおりに法華経を弘めれば大難にあうことを説いてきたが、弟子の耳には入っていなかった。難をうけ、乗りこえなければ己の境涯はひらけない。衆生が自らの過去遠々劫の罪障を消すことができるのはこの時である。逆境を乗りこえなければ「慈悲」を体現する仏の境涯には到達できない。だが弟子たちはまず権力への恐怖をおぼえてしまった。

さらに信徒の中には法華経を捨てないまでも、日蓮の失敗に学んで日蓮からはなれようとするものが続出した。彼らは日蓮と一線を画し、世間との迎合も視野に入れ、法華経を弘めようとした。()

日蓮は末法の本仏としての境涯から、これら不信の徒を分別する。彼らは念仏者よりも罪が深いと。日蓮は竜の口法難の半年後、流罪地の佐渡でこう記している。

  これはさて()きぬ。日蓮を信ずるやうなりし者どもが、日蓮が()くなれば疑ひを()こして法華経を()つるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我(かしこ)しと思わん僻人(びゃくにん)等が、念仏者よりも久しく阿鼻(あび)(60)にあらん事、不便(ふびん)とも申す計りなし。修羅が仏は十八界、我は十九界と云ひ、外道が云はく仏は一()(きょう)(どう)、我は九十五究竟道と云ひしが如く、日蓮御房は師匠にておわせども(あま)りにこ()し、我等は()はらかに法華経を弘むべしと云はんは、(ほたる)()が日月を()らひ、(あり)(づか)()(ざん)(くだ)し、井江(せいこう)が河海をあなづり、烏鵲(かささぎ)(らん)(ほう)をわらふなるべしわらふなるべし。  『佐渡御書

天空の月が北条宣時の館を照らす。

おびただしい兵士が建物のまわりに立ち、弓と薙刀で警戒していた。

一本の蝋燭だけが灯る部屋があった。日蓮がここに一人いる。

闇のむこうから宿屋入道がすすみでて、日蓮と対面した。再度の説得である。

「上人、あなたの信者はこの鎌倉で百人が九十九人は退転いたしました。これまででございます。この宿屋、最後のお願いにまいりました。なにとぞ今後は他宗を非難しないと認めますよう」

沈黙がつづく。

日蓮にすべてを見とおしたような笑みがこぼれた。

今宵(こよい)首を斬られれば過去の重罪を今生に消して、未来の悪道からのがれることができます。まことに悦ばしいことです。臭き(こうべ)を放たれれば法華経の行者となることができる。日蓮が仏になるための第一の味方は東条景信、法師では良観、さらに平左衛門尉、時宗殿。この方々がいなければ、どうして法華経の行者になれたでありましょう。宿屋殿、あなたも善知識の一人です。礼をいいますぞ」

宿屋入道がうなだれた。

大広間では平頼綱と北条宣時が待ってた。

宿屋入道が放心した姿で部屋に入り、大きく左右に首をふった。

頼綱と宣時は、あとは打ち首にするだけだとばかりに無言でうなずく。



                   三一、発迹顕本 につづく


上巻目次





58 霊山

釈迦が法華経を説いた霊鷲山をさす。古代インドのマカダ国の都、王舎城の東北にある山の名。釈迦はこの地で法華経などの諸経を説いたといわれる。大智度論巻三によると、山頂が鷲に似て、鷲が多くいるため霊鷲山と名づけられたとある。転じて仏のいる清浄な国土のこと。法華経を受持する者の住所が霊山である。現在は世界中の仏教徒が訪れて人が絶えない。釈迦布教活動の遺跡の一つとなっている。
「霊山とは御本尊並びに今日蓮等の
(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住所を説くなり云云」『御義口伝 寿量品二十七箇の大事

59 七難

正法を謗ずることによって起こる七種の災難。経典では仁王経、薬師経にそれぞれ七難が説かれている。

仁王経の七難

     一、日月失度難

     二、星宿失度難

     三、災火難  

     四、雨水難

     五、悪風難

     六、(こう)(よう)

     七、悪賊難

薬師経の七難

「薬師経に云はく()(せつ)(てい)()(かん)(じょう)(おう)災難起所謂人衆疾(にんじゅしつ)(えき)の難・他国侵逼(しんぴつ)難・自界叛逆(ほんぎゃく)難・星宿(せいしゅく)(へん)()難・日月薄蝕(にちがつはくしょく)の難・非時風雨の難・過時不雨の難あらん」『立正安国論


60 阿鼻地獄

無間地獄のこと。阿鼻とは梵語で無間と訳す。




by johsei1129 | 2014-11-29 16:03 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2014年 11月 25日

人法体一の明文を明かす【文底秘沈抄第二】本門の本尊篇

今此等に(じゅん)ずれば法は是れ諸仏の主師親なり、(なん)ぞ人法体一と言うや、若し明文無くんば誰人か之を信ぜんや。

答う、所引の文(みな)迹中化他の虚仏(こぶつ)色相(しきそう)荘厳の身に約す故に勝劣有り、若し本地自行の真仏は久遠元初の自受用身、(もと)是れ人法体一にして更に優劣有ること無し、今明文を出だして以て実義を示さん。

法師品に云く「若しは経巻所住の処、此の中(すで)に如来の全身有り」云云。

天台釈して云く「此の経は是れ(ほっ)(しん)舎利(しゃり)等云云。

宝塔品に云く「若し能く持つ有らば則ち仏身を持つ」云云、

()(げん)経に云く「此の経を持つ者は則ち仏身を持つ」云云。

文句第十に云く「法を持つは即ち仏身を持つ」云云。

又涅槃経に如来行と云い今経には安楽行と云う。

天台文八-六十五に之を()して云く「如来は是れ人、安楽は是れ法、如来は是れ安楽の人、安楽は是れ如来の法、総じて之を言わば其の義異ならず」云云。

記八末に云く「如来涅槃、人法名殊(なこと)なれども大理別ならず、人即法の故」に云云。会疏(えしょ)十三-二十一に云く「如来は即ち是れ人の醍醐(だいご)、一実諦は是れ法の醍醐、醍醐の人、醍醐の法を説く。醍醐の法、醍醐の人を成ず。人と法と一にして二無し」云云。

略法華経に云く「六万九千三八四、一々文々是真仏」云云。

諸抄の中文字は是れ仏なりと云云。

御義口伝に云く「自受用身即一念三千」。

伝教大師秘密荘厳論に云く「一念三千即自受用身等」云云。

報恩抄に云く「自受用身即一念三千」。

本尊抄に云く「一念三千即自受用身」云云。

 宗祖示して言わく「文は睫毛(まつげ)の如し」云云。()の言(まこと)に由有るかな、人法体一の明文赫々(かくかく)たり、誰か之を信ぜざらんや。


                色相荘厳の仏を破す につづく

文底秘沈抄 目次
六巻抄 目次


by johsei1129 | 2014-11-25 22:13 | 日寛上人 六巻抄 | Comments(0)
2014年 11月 24日

人法体一の深旨を明かす【文底秘沈抄第二】本門の本尊篇


三には人法体一(じん)()とは、()わく、前に明かす所の人法の本尊は其の名(こと)なりと雖も其の(たい)是れ一なり。所謂(いわゆる)人は即ち是れ法、自受用身即一念三千なり、法は即ち是れ人、一念三千即自受用身なり。是れ(すなわ)ち正が中の正、妙が中の妙なり、即ち是れ行人所修の明鏡なり、(あに)鏡に臨んで(すがた)を正すに異なるべけんや。諸宗の学者近くは自門に執し、遠くは文底を知らず。所以(ゆえ)(ほぼ)之を聞くと雖も()えて之を信ぜず、(いたず)らに水影に(ふけ)りて天月を(ないがし)ろにす、(むし)ろ天月を()らずして(ただ)()(げつ)()者に非ずや。妙楽の所謂(いわゆる)目に如意()て水精と争い、(すで)に日光に()って燈燭(とうしょく)(はか)る」とは是れなり。

問う、(かつ)て諸経の明文を開きて衆釈の(げん)()を伺うに人法の勝劣(なお)天地の如し、供養の功徳(また)水火に似たり、(なん)ぞ人法体一と云うや。

()(げん)(きょう)に云く「此の大乗経典は三世の諸の如来を出生する種なり」云云。又云く「方等経典は()れ慈悲の主なり」云云。

涅槃経に云く「諸仏の師とする所は所謂法なり、()の故に如来()(ぎょう)供養す」等云云。

薬王品に云く「若し(また)人有って七宝を以て三千大千世界を満てて仏を供養せん、是の人の得る所の功徳も此の法華経の乃至一四句偈(くげ)を受持せん其の福の最も多きには()かず」と云云。

文十-三十一に云く「七宝を四聖に奉るは一偈(いちげ)(たも)つに如かず、法は是れ聖の師にして()く生じ、能く養い、能く成じ、能く栄うる、法に過ぎたるは()し、故に人は軽く法は重し」云云。

記十-六十七に云く「発心(ほっしん)法に由るを生と為し、始終随逐(ずいちく)を養と為し、極果を満たしむるを成と為し、能く法界に応ずるを栄と為す、四不同なりと(いえど)も法を以て本と為す」云云。

(せん)八-二十五に云く「父母に非ざれば以て生ずること無く、師長に非ざれば以て成ずること無く、君主に非ざれば以て栄うること無し」云云。

方便品に云く「法を聞きて歓喜し、()めて乃至一言をも発すれば(すなわ)(すで)に一切三世の仏を供養する為りぬ」云云。

宝塔品に云く「若し能く此の経法を(まも)ること有らん者は、則ち我及び多宝を供養するに為りぬ」云云。又云く「此の経は持ち難し、若し(しばら)くも持つ者は我則ち歓喜す、諸仏も(また)(しか)り」云云。

神力品に云く「能く是の経を持つ者は我及び分身(ふんじん)滅度の多宝仏をして一切(みな)歓喜せしめん。亦は見、亦は供養し、亦は歓喜することを得せしめん」云云。

陀羅尼(だらに)品に云く「八百万億()由他(ゆた)恒河沙(ごうがしゃ)等の諸仏を供養せんより、能く是の経に於て乃至一四()()を受持せん、功徳(はなは)だ多し」略抄。

善住天子経に云く「法を聞きて謗を生じ、地獄に堕つるは恒沙(ごうしゃ)の仏を供養するに勝る」等云云。名疏(みょうしょ)十-三十八に云く「実相は是れ三世諸仏の母なり。母若し病を得ば諸子憂愁(うしゅう)す、乃至若し(ただ)一仏を供養するは余仏に(おい)て功徳無し、若し一仏を(そし)るは余仏に於て罪無し、仏母(ぶつも)の実相を供養せば即ち三世十方の仏所に於て(とも)に功徳を得、若し仏母を毀謗(きぼう)せば則ち諸仏に於て(あだ)となる」云云。()


註解

〇いよい深旨が明かされる。人法体一とは、日蓮大聖人の仏法において、法本尊と人本尊は、その名が異なる(名異(みょうい)が、本体である人法一体人法(にんぽう)一箇(いっか)もいう。人法勝劣に対絶対究極であ南無妙法蓮華経と、生命体現衆生教化大慈大悲生命同じ本体であり、ままであり、生命そのままであをいう。すなわち南無妙法蓮華経法本尊は、人本尊であ日蓮大聖人生命(ぷく)御本尊図顕(ずけん)であり、大聖人大慈悲生命南無妙法蓮華経本尊万年の未来現存よう久遠(くおん)元初(がんじょ)自受(じじゅ)(ゆう)(しん)であ大聖人南無妙法蓮華経体一であり、優劣ない。我ら一切衆生が人法体一の御本尊に題目を唱えて境地冥合し、即身成仏できるのはこのためである。

この章ではまず人法勝劣の浅義を排し、体一を説き明かす。の法門は本書の肝心、秘伝抄の眼目、一大秘法の骨髄、寛師懐中(かいちゅう)の如意宝珠である。

〇如意とは、如意宝珠のこと。意のままに宝物や衣服・食物をとりだすことのできる宝珠。一つの珠で全世界に宝をふらすという。仏や経典の威徳をあらわす。如意珠・如意宝ともいう。文は「如意宝珠があるというのに、価値の劣る水晶を得ようとして争い、日光がさしているのに(しょく)(だい)とも本体見失をいうまた如意宝珠御本尊であ御義口伝上参照。



                人法体一の名文を明かす につづく

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by johsei1129 | 2014-11-24 13:29 | 日寛上人 六巻抄 | Comments(0)
2014年 11月 23日

「南無日蓮大聖人」の深旨を説き明かす【文底秘沈抄第二】本門の本尊篇七


(また)次に南無日蓮大聖人とは、
 問う、他門流の如き一同に皆日蓮大菩薩と号す、即ち是れ勅命(ちょくめい)に由るが故なり、所謂(いわゆる)(にん)(のう)九十九代()(こう)厳院(ごんいん)(ぎょ)()大覚僧正祈雨の効験(こうげん)により、文和元年(みずの)(たつ)六月二十五日大菩薩の綸旨(りんし)(たま)う故なり、何ぞ当門流のみ(ひと)り日蓮大聖人と称するや。

答う、是れ即ち(れん)()の自称、(また)是れ仏の別号の故なり。撰時抄下に云く「南無日蓮聖人と唱えんとすとも南無と(ばか)りにてや有らん、不便(ふびん)と云云。又云く「日蓮当世には日本第一の大人(だいにん)なり」云。(すで)に大人なり、聖人なり、(あに)大聖人に非ずや。聖人知三世抄二十八に云く「日蓮は一閻浮(いちえんぶだい)提第一の聖人なり」等云云。第一と云うは即ち大の義なり。故に開目抄上十一に云く「此等の人々に勝れて第一なる故に世尊をば大人と申すなり」云云。聖人の名通ずる故に大を以て之を(えら)ぶなり。

(まさ)に知るべし、大聖人とは即ち仏の別号なり。故に経に云く「慧日大聖尊」と云云。尊は即ち人なり、人は即ち尊なり、唯我(ゆいが)独尊、唯我一人是れなり。又開目抄に云く「仏世尊は実語の人なる故に聖人・大人と号するなり」等云云。故に知んぬ、日蓮大聖人とは即ち蓮祖の自称にして(また)是れ仏の別号なり、何ぞ(かえ)って大菩薩と称すべけんや。下山抄二十六-五十一に云く「教主釈尊よりも大事なる日蓮」云云。佐渡抄十四に云く()かる日蓮を用ゆるとも()()敬わば国亡ぶべし」等云云。之を思い合わすべし。


註解


〇後光厳院。北朝の天皇。在位文和元年(1352)~応安4年(1371

〇文和元年。1352年。大聖人滅後70年にあたる。

撰時抄の御文は、きたる蒙古の攻めに絶望して右往左往する高僧にむけて発せられたもの。つぎの大人の御文は、大聖人が法華経を持つことにおいて、日本第一の大人であるとおおせられる。

開目抄の「此等の人々」とは、外典・外道の中の賢人・聖人・天仙などをいう。

〇慧日大聖尊とは仏のこと。日は仏の智慧が一切衆生をあまねく照らすことを日光にたとえたもの。御義口伝下「普賢経五箇の大事」参照

〇下山抄とは下山御消息のこと。日本国が大聖人を怨嫉(おんしつ)法華経第五って聖人ち、狼藉(ろうぜき)にお大禍たいるお言葉。

〇佐渡抄とは種々御振舞御書のこと。自界(じかい)叛逆難(ほんぎゃくなん)二月騒動勃発さい嘆願来た佐渡守護代本間六郎左衛門重連(しげつら)言葉。小説 中44参照。


              人法体一の深旨を説き明かす につづく

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by johsei1129 | 2014-11-23 19:40 | 日寛上人 六巻抄 | Comments(0)