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2014年 11月 30日

104 大導師 日興上人

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                           (富士宮から見る富士山)

 日興はこのあと富士のふもと、駿河上野で四十四年の春秋をおくり、八十八歳で亡くなった。

日興は臨終にあたり、師の日蓮と同じように後継者として六人の弟子を定めている。その中で「一が中の一弟子」日目を指名して世を去った。

日興は文永十一年、日目が十五歳の時に出会っている。師匠日蓮が五十三歳で身延山中に草庵を構えたときである。そしてこの二年後の建治二年四月八日、釈尊の生誕日に日興は日目を得度した。
 晴れて日興の弟子となった日目だったが、日興はその年の十一月二十四日、早々と日目を身延の大聖人の元で常随(じょうずい)給仕(きゅうじ)させた。おそらく日目の資質を見極め、自分の後を(ゆだ)ねるのは日目であると決断し、自分と同じ道を歩ませようと考えてのことだと推察される。

日興は元弘三年一月十三日「日興跡条条事」で、日蓮から付属された「日蓮一期の弘法」を日目に付属する旨を記した。

一、本門寺建立の時は新田(にいだ)(きょう)阿闍(あじゃ)()日目を座主(ざす)と為し、日本国乃至(いち)閻浮提(えんぶだい)の内、山寺等に()いて、半分は日目嫡子分(ちゃくしぶん)として管領せしむべし、残るところの半分は自余の大衆等之れを領掌(りょうしょう)すべし。
一、日興が身に()て給はるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝す、本門寺に()け奉るべし。
一、大石寺は御堂(みどう)と云い墓所(むしょ)と云い、日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり。
 右日目は十五の(とし)、日興に()い法華を信じてより以来、七十三才の老体に至るも()えて違失の義無し。十七の(とし)、日蓮聖人の所に詣で(甲州身延山)御在生七年の間常随給仕し、御遷化(ごせんげ)の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞(そうもん)の功他に異なるに依つて此くの如く書き置くところなり、()つて後の()め証状(くだん)の如し。
十一月十日                 日  興 判

                                       『日興跡条々事』

 日興はこうして日蓮の法義を次の世代日目に相承し、広宣流布の血脈(けちみゃく)を絶やすことなく次の世代に引き継いだ

師の日蓮は生前、日興のことを

「万年救護(くご)(しゃ)(びょう)の弟子」

と呼び

(けっ)(ちょう)付属の大導師」

とも呼んだ。

写瓶とは(かめ)の水をそのままうつすように、法の水をあやまたず後世に伝えることをいう。

結要付属とは釈迦が法華経において地涌(じゆ)千界の上首、上行菩薩に末法の要法をさずけた儀式をいう。

結要とは南無妙法蓮華経の題目である。

日蓮は日興を結要の法をそなえた大導師と呼んだ。日蓮の目にくるいはなかったのだ。そしてその日興は後を託した日目を「一閻浮提の御座主」と呼んだ。

ここで波木井(はきり)氏のその後をしるす。

南部氏ともいわれた波木井氏は鎌倉幕府滅亡後、南北朝の争乱にまきこまれた。かれらは後醍醐天皇の南朝側について戦ったが、南朝は足利尊氏率いる北朝に敗れた。南北朝の統一後も、南部氏は足利ひきいる北朝に臣従の態度を見せなかった。

こうして一三九三年、南部一族はついに甲斐の所領のいっさいを捨て、はるか東北に去っていった。日興離山後、百四年目のことである。

また波木井氏の中に日蓮がのこした身延山久遠寺を守る一族がいたが、一五二七年、武田信玄の父信虎によって、隣国の駿河今川氏に内通したという理由で討伐され、波木井氏は完全に滅亡した。理由は波木井が隣国の駿河今川氏に内応したというかどだった。「自業自得果」「還著於(げんちゃくお)本人(ほんにん)」の経文どおりあろう。

()()

日興の晩年はさびしいものだったという。講義をするにも数人の弟子しか集まらなかった。五老僧はことごとく去り、弟子たちは四散した。

しかし数の多寡は問題ではない。日興は今ではなく、自分のあとを見すえていた。いつの日か、かならずこの妙法が広宣流布する時がくるであろう。自分はその道筋に足跡をのこすのだと。

日興は日蓮滅後五十二年後の元弘三年二月七日、八十八歳で世を去った。この前年の五月一日には、熱原の法難でともに戦い、出家僧と在家信徒という関係を超えた生涯の法友ともいえる南条時光が七十四の生涯を終えている。

元弘三年は内外ともに大事件がおきた年である。
 四月十六日には日興の死をまっていたように、足利尊氏が北条幕府に反旗をひるがえした。五月二十一日には新田義貞が鎌倉をおとしいれ、翌日に北条氏は滅ぶ。六月五日、天皇後醍醐は京都に還幸し、建武の新政がはじまった。そして十一月十五日、日興のあとをついだ三祖日目が天奏のため京都に旅立つがその途上、美濃(たる)()の地であえなく入滅、後代の弟子に永遠の範をしめした。

日興は臨終の時、まどろみながら師の日蓮を思った。八十八年の星霜が流れたが、不思議なことに師の思い出しかのこっていない。

十二歳で師に出会い、日興の名をうけた。いらい鎌倉、伊豆、佐渡、甲州と身と影のごとく日蓮に付きしたがった。あの充実が今も胸にやどる。

思えば師匠日蓮は苦悩をよろこびにかえ、大衆を希望にみちびく雄大な人格だった。その人のそばにいた幸せ。日興にとってこの悦びは未来永劫に消えない。

同時に日興は切なさにつつまれた。

「ああ、いつまた聖人に会えるのだろう・・」

四条金吾が竜の口で別れの惜しさに泣いたというが、日興もまた同じだった。

日興は師がのこした本尊に祈る。

法華経化城喩品には、つぎの偈がある。

彼仏滅度後     彼の仏の滅度の後

是諸聞法者     是の諸の法を聞きし者は

在々(ざいざい)諸仏土     在在(ここかしこ)の諸の仏土に

常与師倶生(じょうよしぐしょう)      常に師と(とも)に生ぜん

 つぎの世でも師とともに、おなじ仏国土に生まれ、めぐりあうという。

日興はこの経文を命に刻み、題目をとなえた。乾いた大地が慈雨を求めるように、師にまた会いたいとひたすら渇仰した。

日興はさらに思う。

「それにしても、この世でよくぞ師匠にお会いできたものだ。師があの岩本実相寺をおとずれなければ、いまの自分はなかった。いや永劫の時の中で、よくぞ師とめぐり会えたものだ。仏法に奇跡はないというが、これほどの偶然がまたとあるだろうか。三千年に一度咲く優曇(うどん)()の花を見るよりも、一眼の亀が大海の浮き木に出会うよりもまれではないか。自分はなんという幸せ者か」

上野郷の夜は万点の星だった。

日興はこの大宇宙のひとつとして、自分自身を見つめていた。

日興は死去の一月前、遺言をのこす。

それは未来の弟子への戒めである。あわせて二十六ケ条。この二十六条のひとつひとつが先師日蓮への敬慕に満ちている。すべて未来の日蓮門下にあてたものである。

内容は日蓮仏法の真髄がこめられている。伊豆流罪、佐渡ヶ島で常随給仕し、日蓮が身延山中で草庵を構えると、甲斐国の布教に邁進、日蓮に影の形に従うがごとくの生涯だった日興だからこそ残せた指針であった。

釈尊には十大弟子がいたという。智慧第一と謳われ、方便品第二の対告衆となった舎利弗。釈尊に二十七歳の時から常随給仕し、滅後の仏典結集で「かくの如く我聞きき」と釈迦の説法を読み上げた声聞第一の阿難。仏を除けば説法で超える者はいないと賞賛された説法第一の富楼那。

日興はある意味、釈迦の十大弟子すべての資質を兼ね備えていたとさえ思える。

後代の弟子檀那は、いまでもこの遺言を鏡のごとくあおぐ。まさしく末法万年への金科玉条であり、この条項を弟子信徒が守ることで、未来の広宣流布の扉が開かれる。

ではつぎにその全文をしるす。

()(おもん)みれば末法弘通の(けい)(じつ)は極悪謗法の闇を照らし、久遠(くおん)寿量(じゅりょう)の妙風は伽耶(がや)(しじ)(ょう)(注)の(ごん)門を吹き払う、於戯(ああ)仏法に()うこと(まれ)にして(たと)へを(どん)()(はなしべ)()(たぐい)浮木(うきぎ)穴(注)()に比せん、(なお)以て()らざる者か。(ここ)に我等宿縁深厚なるに依って幸ひに此の経に()い奉ることを()、随って後学の為に条目を筆端に染むる事、(ひとえ)に広宣流布の金言を仰がんが為なり。

一、富士の立義(いささ)かも先師の御弘通に()せざる事。

一、五人の立義一々(いちいち)に先師の御弘通に違する事。

一、御書(いず)れも偽書に()し当門流を毀謗(きぼう)せん者之有るべし、()し加様の悪侶出来せば親近(しんごん)すべからざる事。

一、偽書を造って御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心()べき事。

一、謗法を呵責(かしゃく)せずして遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)()()並びに外書(げしょ)歌道を好むべからざる事。

一、檀那の社参物詣(ものもうで)を禁ず可し、(いか)(いわ)んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に(もう)づべけんや、返す返すも口惜(くちお)しき次第なり。是全く()()に非ず、経文御抄等に任す云云

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し(さしお)き、御抄以下の諸聖教(しょしょうぎょう)を教学すべき事。

一、学問未練(みれん)にして名聞名利の大衆は、()が末流に叶ふべからざる事。

一、予が後代の徒衆等権実を(わきま)へざるの間は、父母師匠の恩を振り捨て出離証(しゅつりしょう)( どう)の為に本寺に(もう)で学問すべき事。

一、義道の(らっ)()(注)無くして天台の学問すべからざる事。

一、当門流に於いては御抄を心肝に染め(ごく)()を師伝して、若し(ひま)有らば台家を聞くべき事。

一、論議講説等を好み自余を交ゆべからざる事。

一、未だ広宣流布せざる間は身命(しんみょう)を捨て、随力(ずいりき)弘通(ぐつう)を致すべき事。

一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如(とうにょ)敬仏(きょうぶつ)の道理に任せて(しん)(ぎょう)を致すべき事。

一、弘通(ぐつう)の法師に於ては下輩たりと(いえど)も、老僧の思いを為すべき事。

一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。

一、時の(かん)()(注)たりと雖も仏法に相違して己義を(かま)へば、之を用ふべからざる事。

一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫主之を(くじ)くべき事。

一、衣の墨、黒くすべからざる事。

一、(じき)(とつ)(注)を著すべからざる事。

一、謗法(ほうぼう)と同座すべからず、与同罪を恐るべき事。

一、謗法の供養を()くべからざる事。

一、(とう)(じょう)等に於ては仏法守護の為に之を許す、但し出仕の時節は帯すべからざるか。若し其れ大衆等に於ては之を許すべきかの事。

一、若輩(じゃくはい)たりと雖も高位の檀那より末座に()くべからざる事。

一、先師の如く()()()も聖僧たるべし。但し時の(かん)()(あるい)は習学の仁に於ては、(たと)ひ一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も、衆徒に差し置くべき事。

一、巧於(ぎょうお)難問答の行者に於ては先師の如く(しょう)(がん)すべき事。

右の条目大略()くの如し、(まん)(ねん)救護(くご)の為に二十六箇条を置く。後代の学侶、()へて疑惑を生ずること(なか)れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず。()って定むる所の条々(くだん)の如し。

元弘三年癸酉正月十三日  日興花押   『日興遺誡置文

                  
         最終章 日本の仏法 月氏へ流る につづく
下巻目次

                                        


 伽耶(がや)() (じょう)

釈迦が伽耶城近くの菩提樹の下で初めて悟りを開いたこと。久遠寿量に対する語。伽耶は仏陀伽耶(ぶっだがや)ともいい、釈迦が正覚を成した所。始成は()(じょう)正覚(しょうかく)のこと。

 浮木の穴
法華経妙荘厳王品二十七にある。一眼の亀が海中の浮木にあうことのむずかしさを説いて、衆生が正法にめぐりあい、受持することの困難さを説く。

「御義口伝に云はく、()とは小孔(しょうく)大孔(だいく)の二つ(これ)有り。小孔とは四十余年の経教なり、大孔とは法華経の題目なり。(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは大孔なり。一切衆生は(いち)(げん)の亀なり。栴檀(せんだん)浮木(うきき)とは法華経なり。生死(しょうじ)の大海に大孔ある浮木は法華経に之在り云云。」『厳王品三箇の大事 第二 浮木孔(ぶもっく)の事』

 (らっ)()

「らっきょ」とも読む。落ち着き。終結。物事を徹底して見極めることをいう。

 (かん)()

本来は貫籍(戸籍)の上首の意。①かしらに立つ人。頭領。②天台宗の座主の異称。のちに各宗総本山や大寺の管長の称ともなる。

 (じき)(とつ)

僧衣の一種。上衣と下衣を直接に綴じ合わせたことからこの名がある。直綴は腰から下に(ひだ)のある法衣で、諸宗で一般に用いられ、一般に『ころも』と称される。日蓮正宗では直綴の着用を禁じ、薄墨の素絹のみを衣とし着用する。


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by johsei1129 | 2014-11-30 15:31 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

103 日興、身延離山

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                                (身延山)

 日蓮入滅八年後の正応元年冬、四十三歳となった日興は川沿いの道をたどり、身延山をおりていった。
 師の墓を離れなければならないのだ。断腸の思いであったろう。
 日興はその苦衷を波木井一族の一人、原殿にあてた消息にしたためる。原氏は一族の中にあったが、日興を理解していた。


身延沢を(まか)り出で候事、面目なさ本意(ほい)なさ申し尽し難く候へども(うち)(かえ)し案じ候へば、いづ(何処)くにても聖人の御義を相継ぎ(まいら)せて世に立て候はん事こそ(せん)にて候へ、さりともと思ひ奉るに御弟子(ことごと)く師敵対せられぬ、日興一人本師の正義を存じて本懐を()げ奉り候べき(ひと)に相当たりて覚え候へば本意忘ること無く候、又君達(きんだち)は何れも正義を御存知候へば悦び入り候、(こと)(さら)御渡り候へば入道殿不宜(ふぎ)に落ちはてさせ給ひ候はじと覚え候。

ここに日興の心中をかいま見る。

身延山で正法を興隆するという初志はもろくもくずれた。しかし日興は苦悩のどん底から思いだしていた。いかなることになろうと、聖人の正義を継いで世に立てることが自分の使命なのだと。

日興は原殿のかわらぬ信心をよろこんでいる。原殿が今までどおり日興のもとで教えをうければ、実長は不義におちいることがないであろうという。ここでも日興は実長をかばっている。

日興は最後にいう。

元より日蓮聖人に背き(まい)らする師(ども)をば捨てぬが(かえ)って(とが)にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給ふ可きか、何よりも御影(みえい)の此の程の御照覧如何(いかん)見参にあらざれば心中を尽し難く候、恐々謹言。 

               

日興は自分に言いきかせるようにいう。日蓮にそむく弟子を捨てないのは、かえって謗法になると。御影とは日蓮のことである。

日興が身延山をおりていったのは真冬だった。十一月とも十二月ともいわれる。山中には雪がつもっていた。師の日蓮が佐渡へ流罪となったのも真冬である。

日興は雪をふみわけながら思った。

師匠はこのことをなんと思われるだろうか。はからずもこの有様となってしまったが、師はわかってくださるだろうか。たよれるのは自分しかいない。亡き師はこんな自分を見守ってくださるだろうか。「御影の此の程の御照覧如何」とは無限の思いであったろう。

下山はさすがに大規模だった。日蓮自筆の大御本尊など、はこばれた宝は長持で二十七駄におよんだという。馬に二個背負わせるから合計で五十四棹になる。

江戸時代の史料にいう。

之に(より)て身延山の地・謗法となるがゆへ、日興上人・宗祖大聖人御付属の霊宝、本門戒壇の大御本尊・並に紫宸殿(ししんでん)の御本尊(注)、()御肉付の御歯(注)()・御焼骨其の(ほか)あらゆる霊宝等長持(ながもち)廿七駄方荷に収め給ひ、正応元年十一月・身延山を立ちのかせ給ひければ、波木井の一門大に驚き度々還往を()ひ奉れども思召(おぼしめ)し有りて帰らせ給はず、翌年春南条七郎修理太夫(たゆう)平時光殿の請招によって駿州(すんしゅう)富士上野にいたらせ給ひ、最勝の地を(えら)んで大石の原に御建立あって本門戒壇の大御本尊を安置し給ふ。 富要第七巻『大石要法血脈問答』  

日興はこのあと青年地頭の南条時光が領する富士上野郷に移り住み、ようやく安住の地をえた。時光についてはすでに書いたとおりである。日興が住むべき地は時光の上野郷以外にない。

そして日興は早くもこの年、今の大石寺の建立に着手している。

自ら鍬を取ったであろう。自ら木をはこんだであろう。自ら工具を手にしたであろう。日興には師の正義をここで立てるのだという意気ごみがつのっていた。

日興に続く弟子たちも、さっそく自らの坊を建立しはじめた。日目は蓮蔵坊を、日華は寂日坊を、日秀は理境坊を、日禅は南之坊を、日仙は百貫坊をそれぞれ建てていく。

壮観であった。彼らは日興にともない、師の正義を守り、弘通することに生きがいを感じていた。

こうして十月十二日、日蓮の命日の前日だった。

日興は真新しい本堂に板本尊を安置した。この本尊こそ「日興が身に()て給わる所の弘安二年の大御本尊」すなわち一閻浮提総与の大曼荼羅である。師の日蓮はこの本尊の広宣流布における意義を記していた。

又五人並びに已下の諸僧等、日本乃至一閻浮提の(ほか)万国までも之を流布せしむと雖も、日興が嫡々(ちゃくちゃく)相承の曼陀羅(まんだら)を以て本堂の正本尊と為すべきなり。        『百六箇抄

 五老僧以下の弟子檀那が日本をはじめ全世界に妙法を弘めようとも、日興が譲り受けた大本尊を中心に据えよと。この大曼陀羅はこの富士大石寺に安置され、今日に至っている。

さらに師日蓮は心ある弟子に遺命していた。広宣流布の暁に、この大本尊を安置する本門の戒壇を建てよと。

戒壇とは王法仏法に(みょう)じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳(うとく)(おう)(かく)(とく)比丘(びく(注)の其の乃至(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みきょうしょ)を申し下して霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)に似たらん最勝の地を(たず)ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮(いちえんぶ)(だい)の人、懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず大梵天(だいぼんてん)(のう)帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり。 『三大秘法稟承事

壮大な仏閣を建てることが本門戒壇の建立ではない。日蓮は明確に「有徳(うとく)(おう)(かく)(とく)比丘(びく45)の其の乃至(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」と遺言している。
 この日いらい、今にいたるまで日興をふくめ、あらゆる弟子が本門戒壇の建立をめざした。

二十六世の(にち)(かん)が本門の戒壇について説く。

本門の戒壇に()あり、()あり。理は(いわ)く道理なり。また義の戒壇と名づく。謂く、戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る(ところ)の山々、寺々、家々は皆これ道理の戒壇なり。(まさ)に知るべし「是の処は即ち是れ道場」等云云。

次に()の戒壇とは即ち富士山(あも)生原(うがはら)に戒壇堂を建立するなり。『報恩抄文段

そして「有徳王・覚徳比丘の其の乃至を末法濁悪の未来に移さん時」が来るまで、本門の戒壇は建立できない。



       104 大導師日興上人 につづく

下巻目次



 紫宸殿の御本尊

紫宸殿すなわち政治の中心となる建物に掛ける本尊。

「一、蓮祖真筆大曼荼羅三枚続 一幅

弘安三太歳庚辰三月日、紫宸殿の本尊と号す、伝に云はく広布の時至りて鎮護国家のために禁裏の叡覧に入れ奉るべき本尊なり云々。」『冨要第五巻 富士大石寺明細誌』 


御肉付の御歯

日蓮大聖人が生前、日興に与えた歯のこと。歯には大聖人の肉片がついている。日量の「富士大石寺明細誌」によれば、日蓮大聖人は広宣流布の時に、この歯が光り輝くと予言している。門外不出の非開封だが、五十年に一度および貫主の交代時に公開される。

「日蓮聖人肉付の御歯一枚 

御生(ごしょう)(こつ)と称す、蓮祖の存日、生歯を抜き、血脈相承の証明と()て之を日興に(たま)ひ、()の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云、日興より日目に相伝し、代々附法の時之を譲り与ふ、一代に於て只一度(だい)(がわり)蟲払(むしばらい)(とき)を開封し奉り拝見に入れしむ、常途(じょうと)之を開かず。」『冨要第五巻 同』

有徳王・覚徳比丘

釈迦の過去世における菩薩修行中の因位の姿。涅槃経巻三金剛身品の文。拘尸(くし)()城に出現した歓喜増益如来の正法が、あと四十年で滅しようとしている末世に、多くの破戒の悪僧と戦い、正法を護持する覚徳比丘を守った。王はこの時全身に傷を受けて亡くなったが、護法の功徳で阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生まれ、その仏の第一の弟子となり、覚徳比丘は第二の弟子となった。正法が滅しようとする時の信仰者の心構えと、正法を守る者の功徳の大きさを示したもの。立正安国論 参照。


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by johsei1129 | 2014-11-30 15:26 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

102 五老僧の邪義

さて日蓮没後、(さね)(なが)(たが)がはずれたかのようにつぎつぎと謗法をおかしていく。実長は日蓮の法義を軽く見ていた。

やがて其の次に富士の塔供養の奉加(ほうが)に入らせをはしまし候、以っての外の僻事(ひがごと)に候、(そう)じて此の廿(にじゅう)余年の間、()(さい)法師、影をだに指さざりつるに御信心如何様(いかよう)にも弱く成らせ給ひたる事の候にこそ候ぬれ。

富士の塔供養とは波木井領の福士に建てられた念仏の石塔の事である。

現存はしない。奈良時代から鎌倉時代にかけて、富士山に登って法悦を得ようとする行者の修行が発展して山中や山麓に道場が建ち、記念の石塔がつくられた。

実長はこれを支援した。謗法の供養である。

この二十年、邪宗の僧が身延山に入ったことはなかった。いまそれが破られたのだ。実長は奉加帳にはっきりと自分の名をしるした。彼は自慢したろうが、日興からすれば信心が惰弱になったとしかうつらない。

日興はいう。これら謗法の所以は、まったく五老僧の一人、民部(みんぶ)日向(にこう)の堕落からきたものであると。

是と申すは彼の民部阿闍梨世間の欲心深くして、へつらひ(てん)(ごく)したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思ひも寄らず(おおい)に破らんずる(ひと)よと此の二三年見つめ候て、さりながら折々は法門の曲りける事を(いわ)れ無き由を申し候つれども(あえ)て用ひず候、今年の大師講にも(けい)(びゃく)の祈願に天長地久(ちきゅう)御願(ごがん)円満、左右大臣文武百官、各願成就(じょうじゅ)とし給ひ候ひしを此の(いのり)は当時(いた)すべからずと再三申し候しに(いかで)か国の恩をば知り給はざるべく候とて制止を破り給ひ候し間、日興は今年問答講(つかまつ)らず候き

日興はしばしば訓戒を垂れたが、日向は聞く耳をもたない。日向の祈りは悪を退治しないで世界平和を祈るのとおなじである。国のためを思うならば、(こうべ)を破る折伏しか方法はないのだ。

日興としても、自分とともに弘教にはげんだ日向を簡単に処分することはためらった。いつかは目ざめるかもしれないからだ。釈迦が提婆逹多をさとし、日蓮が三位房を訓戒したのとおなじである。残念ながら二人は退転し報いをうける。

地頭実長は最後に釈迦の仏像をつくるという謗法をおかす。

日興は破折した。師の本懐である三大秘法の本尊を安置し、題目を唱えるのが日蓮の遺志を継ぐことであると。

()()()()()()()()()()()()()()聖人の文字にてあそばして候を御安置候べし、いかに聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主釈尊の木像を最前には破らせ給ふ可きと()ひて申して候し()()()()()()()

「教主釈尊の木像」とは御本尊のことである。にもかかわらず実長は日朗に奪いさられた仏像を再現しようとした。日興は師日蓮の御本尊のほかに信心の対象はないといさめたが、実長は聞かない。

日興は地頭の謗法に動じていない。師の法義をたもち、世に立てようとしたことに悔いはなく、むしろ誇りであるといいきっている。

五老僧の一人、日朗は竜の口の法難のおり、入獄して日蓮から賛辞をうけたほどの高弟だったが、日蓮滅後は甲斐を去り日興に敵対した。日朗が日蓮所持の仏像をなんのために盗みとったかは不明である。だが身延山の惨状を見れば、日朗にはほかになすべきことがあったのではないか。師の山の謗法を、なぜ漫然と見すごしたのか。

 こうして日蓮亡きあと、早くも正法の破壊がはじまった。

これと似た話がある。

釈迦が入滅して四十年のことだった。

十大弟子の一人、阿難はすでに老齢の域に達していた。

彼はとある竹林の中にはいった。

そこに一人の比丘(びく)がいるのをみとめた。この比丘は一つの法句をとなえていた。

()し人生じて百歳なりとも水の潦涸(ろうかく)を見ずんば、生じて一日にして之を賭見(とけん)することを得るに()かず。

潦涸とは生滅をいう、賭見は見ることである。水がたまり、蒸発するのを見なければ、生きている甲斐がないという意味である。比丘はこんなつまらない法句をくりかえし唱えていた。

阿難は比丘を破折(はしゃく)した。

「これは仏説ではない。汝は修行してはならない」

比丘は聞いた。

「では仏はなんと説かれたのですか」

阿難はこたえた。

  若し人生じて百歳なりとも生滅の法を()せずんば、生じて一日にして之を解了(げりょう)することを()んには()かず。

「これが仏説である。汝が唱えたのはこれを誤ったのだ」

比丘はこのことを自分の師匠に語った。

師は答えた。

「余が汝に教えたのは、まことの仏説である。阿難がとなえたのは仏説ではない。阿難は老衰して言葉にあやまりが多い。信じてはならぬ」

この比丘は阿難の教えを捨て、もとの誤った法句を唱えた。

阿難はふたたびおとずれた竹林でこれを聞きおどろいた。

「わたしが教えたものではない」

阿難はかさねて比丘にさとしたが、比丘は信用しなかった。阿難は亡き釈尊を思い、なげいたという。釈迦の死後わずか四十年の出来事だった。

かつて日蓮はこの故事を引き、法をあやまりなく伝えていくことが、いかに困難かを説いている。あたかも今の身延山の惨状を予言しているかのように。くわえてこの窮状に苦しむ日興をなぐさめるかのように。

仏の滅後四十年にさえ既に(あやま)出来(しゅったい)せり、(いか)(いわ)んや仏の滅後既に二千余年を過ぎたり、仏法天竺より唐土に至り唐土より日本に至る論師(ろんし)・三蔵・人師等伝来せり、定めて謬り無き法は万が一なるか、(いか)(いわん)や当世の学者・(へん)(しゅう)を先と為して我慢を(さしはさ)み、火を水と(あらそ)い之を(ただ)さず(たまたま)仏の教の如く教を()ぶる学者をも之を信用せず、故に謗法(ほうぼう)ならざる者は万が一なるか。『十法界明因果抄』

正法をたもつ者は万の中の一という。日興は身にしみて師の教えを思いだしていた。

それにしてもこのままでは師の正義が消えうせてしまう。訓戒しても地頭実長は聞く耳をもたない。もはや一つ所に住める相手ではなくなっていた。

日興は師の遺言を思いだしていた。

地頭の不法ならん時は我れも住むまじき由、御遺言とは承り候  富要第五巻『美作公御房御返事

日興はかつて日蓮からこの言葉をきいた時、まさか実長が謗法を犯すなどとは思いもよらなかった。実長は自分が折伏した人である。化導にも自信があった。なおかつ日蓮にも従順だったのだ。それが師亡きあと、人がかわったように反逆しようとは。

日興がこれ以上に憤ったのは、六老僧の一人日向(にこう)が波木井の謗法を容認したことだった。日向は熱原の法難の時、日興とともに戦いの矢面に立った人物である。教団内の人望もあった。日興でさえ、ひさびさに身延にかえってきた時、よろこんで要職につけたほどだったのだ。実長はこの日向を盾にして日興に対抗した。

日向は日蓮の法門を理解していなかった。題目を唱えれば、すべて許されるというのが彼の考えである。本尊は釈迦にしてもよい。神社参詣も自由である。こうなれば念仏を唱えても、真言を呪しても、座禅を組んでも、律を固持してもよいことになっていく。

日向は波木井に教えた。妙法をたもてばすべて許され、正も邪もなくなると。日向の法門の理解度が知れよう。

かたや師の日蓮は正邪をきびしく分けよといった。

又立つ浪吹く風・万物に()いて本迹(ほんじゃく)を分け勝劣を弁ず可きなり   富要第一巻『百六箇抄

日向は一切経を本迹にを立て分け、その勝劣を極めた日蓮の教えを追及することはなかった。おそらく百人前後になんなんとする日蓮の弟子の中から、六老僧と指名された弟子でさえ、このありさまだった。五老僧は日蓮を単に法華経の行者としか見ていなかった。日蓮が末法の本仏などと想像だにしていなかった。

日興はこの経緯について悲憤をこめてしるす。

(そう)じて此の事は三の子細にて候、一には安国論の正意破れ候ぬ、二には久遠(くおん)(じつ)(じょう)の釈尊の木像最前に破れ候、三には謗法の()始めて(ほどこ)され候ぬ、此の事共に入道殿の御(とが)にては渡らせ給ひ候はず、(ひとえ)謟曲(てんごく)したる法師の(とが)にて候へば(おぼ)()しなをさせ給ひ候て、自今以後安国論の如く聖人の御存知在世廿(にじゅう)年の様に信じ(まいら)せ候べしと改心の御状をあそばして()(えい)の御宝前に進らせさせ給へと申し候を御信用候はぬ上、軽しめたりとや思し食し候ひつらん、我れは民部(みんぶ)阿闍(あじゃ)()を師匠にしたるなりと仰せの由承り候し間、さては法花経の御信心逆に成り候ひぬ。

重複を恐れずいうならば、波木井の謗法は三点に集約される。

一つは法義の根幹である立正安国論が否定されたことである。神社参詣はむろんのこと、邪法のあやまりを正すという崇高な精神をふみにじった。

二つには根本尊敬の対象を否定したことだった。「久遠実成の釈尊の木像」とは御本尊のことだ。実長は日蓮が命とした本尊を釈迦の木像にかえてしまった。最前とは目の前ということである。日興の目の前でこの愚行がおこなわれた。

三には日興が身延を去る理由である。師日蓮は謗法の供養をうけなかった。邪宗をゆるす北条幕府からは、米一合たりともうけとらなかった。飢えに苦しみ、極寒の毎日でも、法を守りとおして一生を終えた。日興もおなじである。謗法の施をうけることは、謗法をみとめることである。日興は波木井をみとめることはできない。

日興はこのような波木井実長に反省を求め、懺悔(ざんげ)をしるして師日蓮の仏前にそなえることをすすめた。

しかし実長には聞こえない。

彼は腹立ちまぎれに、自分は日向を師匠としていると声高にいったという。地頭の名聞からか、地主である(おご)りからか、自分は仏法を理解していると思ったか、実長には日興の諫言が耳にはいらない。

日興は実長の法華経の信心が逆になったという。逆とは反逆のことである。日蓮日興の仏法にそむき、民部日向の謗法をうけ入れた。

だからといって日興は実長を責めたりはしない。かりそめにも師の日蓮を九年にわたり養った檀那である。日興も実長から恩をうけたのだ。いつかは目覚めて改心するかもしれないからだった。

かわりに日興は日向(にこう)をはじめとした五老僧をきびしく糾弾している。人を導くはずの者が、師に敵対するとはなにごとか。

日興は今さらながら師の言葉をかみしめた。

外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。「師子身中の虫の師子を()む」等云云  『佐渡御書

身延は謗法の山と化した。日蓮の仏法が日蓮の弟子によって滅びようとしている。

日興はもはや自分がこの地にいることはできないとさとった。地頭の供養を断って去ることは、艱難がまちかまえていることを意味したが妥協はできない。日蓮の法をあやまたず、つぎの世にのこしていくためだった。

後代、このような日興を(かたく)なであると批判する者がいるが、その言葉の中身は五老僧とおなじ水準である。かれらには法を守る責任が欠けているのである。

その五老僧は転落していった。

かれらは日蓮亡きあと、まず自分の名をかえた。日蓮の弟子とは名のらず、天台沙門といった。退転した三位房が慢心のあまり、名をかえたのと似ている。

つぎに折伏を用いず世間と妥協した。他宗に加わり国家安泰の祈祷を行った。竜の口の法難の時、退転した弟子たちが「我等はやは()らかに法華経を弘むべし」といったのとおなじである。

すべては身の安全をはかるためだった。

日蓮の教えはいまだに世の批判をうけている。五老僧は強情な日蓮とは一線を画して非難を避けた。保身をはかり、謗法の供養をうけるために日蓮の義を捨てた。こうして国家を祈り、名をあげようとした。日向が天長地久と祈ったように。

日興はいきどおる。

祈国の段亦以て不審なり。所以は(いかん)、文永免許の(いにしえ)先師()()の分既に以て顕はれ(おわ)んぬ、何ぞ(せん)(しょう)道門の怨敵(おんてき)に交はり坐して(とこしなえ)に天長地久の御願を祈らんや  『五人所破抄

師日蓮は佐渡流罪赦免のおり、幕府から蒙古退治の祈祷を依頼された。このとき日蓮は条件として諸宗の僧の首を刎ねることを申しでた。邪宗をともにする祈祷は、逆に国を滅ぼすからである。日蓮は諸宗退治が許されないと知るや、鎌倉を去り身延の山中に入った。これが日蓮の精神である。

五老僧はすすんで増上慢の僧とともに国を祈った。立正安国の精神は踏みにじられたのである。

彼らの無智は信じがたい。

五人は日蓮の著作などはないという。耳を疑う言葉である。

彼の五人一同の義に云はく、聖人御作(おんさく)()書釈(しょしゃく)は之無き者なり。縦令(たとい)少々之有りと雖も、或は在家の人の為に、仮文字を以て仏法の因縁を(ほぼ)之を示し、若しは俗男俗女の一毫(いちごう)の供養を(ささ)ぐる消息(しょうそく)(へん)(さつ)に施主分を書きて愚痴(ぐち)の者を引摂(いんじょう)し給へり。而るに日興は聖人の御書と号して之を談じ之を詠む、是先師の恥辱を顕はす云云。故に諸方に散在する処の御筆をば或は()かえ()しに成し、或は火に焼き(おわ)んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に(つぶさ)に之を(しる)して後代(こうだい)()(きょう)と為すなり。  『富士一跡門徒存知事

五人は日蓮が弟子檀那にのこした仮名文字の書をみとめない。

仏法といえば漢字で表現していた時代である。五老僧は仮名文字の消息など、知恵の足らない在家信徒にあたえた手紙であり、供養の礼をしるしたものばかりで、価値はないばかりか、師の恥をさらすものだとした。それなのに日興はありがたく読み談じている。五人は俗男俗女を相手にする日興を軽蔑した。それはとりもなおさず、一閻浮堤広宣流布をめざした師日蓮を見下したものとなった。

五人は日蓮の書をすき返してもとの白紙にもどしたり、焼却している。後代の弟子にとって、目をおおうばかりの所業がなされていた。

五人はつねに日蓮のそばにいたわけではない。遠くはなれた地にいるために、師の教えを体読できなかった。仏法の真髄を学ぶには劣悪な環境だった。彼らにも言い分はあろう。だが百歩ゆずって彼らの言い分をみとめても、日蓮亡きあと、五人は日興を手本にして正義をつぐべきだったのだ。彼らの心地に「当如敬仏」の精神はなかった。求道心の一分でもあれば、日興を師範として仏法を学ぶべきだったのだ。

かたや日興は仏法の破滅をおそれ、立正安国論をはじめとする著作の目録をのこした。この目録がなければ、それこそ日蓮の書は五人のいうとおり、皆無となったであろう。現存する書は偽物とされ、仏法は跡形もなくなっていたろう。もちろんこの小説もない。日興と五人はかくも大きなへだたりである。雲泥の差とはこのことではないか。

謗法の者はまず三悪道におちるという。

日興はその証人として身延山を謗法の山にかえた民部日向の所行をしるす。

殊に去る卯月(うづき)朔日(ついたち)より諸岡(もろおか)入道の門下に候小家に籠居して画工を招き寄せ、曼荼羅(まんだら)を書きて同八日仏生日と号して、民部は入道の室内にして一日一夜説法して布施を(かか)へ出すのみならず、酒を興ずる間、入道其の心中を知りて妻子を喚び出して酒を勧むる間、酔狂(すいきょう)の余りに一声を()げたる事、所従眷属の嘲笑(ちょうしょう)口惜(くちお )しとも申す計りなし、日蓮の御(はじ)何事か之に過ぎんや、此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり。

かりにも日蓮門下と名のる者が、見苦しく布施をかかえ、酔態をさらして嘲笑をうける。日蓮からあとを託された日興にとって、これほどの屈辱はない。

日興は日向の醜態がやがて地頭の耳に入るであろうという。実長はそのうちに日向を見捨てるであろうと。


           103 日興、身延離山 につづく
下巻目次


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by johsei1129 | 2014-11-30 15:21 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

101 地頭の謗法

身延の地頭、波木井(はきり)(さね)(なが)が信心に目ざめたのは日興の折伏による。日蓮が身延に居を移したのは日興の力があった。これはすでに述べた。このことはだれも口をはさむことはできない。

伯耆房日興が日蓮に出会ったのは、十二歳の時だった。いらい日蓮を親とも主とも師とも慕って今日まできた。

日興は師亡きあと、教団の統率者として師の教えを忠実に守り、後世に伝えようとした。弟子の育成にも必死だった。

だが時の経過とともに日興からはなれていく者がでてきた。師の日蓮は「身はをちねども心をち(あるい)は心は・おちねども身はおちぬ」の言葉をのこし、信念を続けることがいかに困難かを説いていた。このことは日蓮の死後にも現実化した。

六老僧は日蓮から前もって月単位で墓番を命じられていた。しかし日興以外の五人は三年とたたずに身延を去った。

日昭は相模浜土へ、日朗は鎌倉へ、日頂は下総へ下っていった。五人は墓守で一生を終わりたくはなかったのだろうか。彼らは若僧をつれて去ってしまった。

予想していたとおりだった。わずか三年で日蓮の墓は荒れはてる。

何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの(ひづめ)(まのあ)たり(かか)らせ給ひ候事、目も当てられぬ事に候 『美作公御房御返事

日蓮の墓は鹿のひづめで荒廃していたのである。信じられない話だが、だれも手をつける者がいない。
 日興の困難はさらにつづく。

日興は師亡きあと、九年のあいだ身延山に住み法を弘めたが、地頭波木井実長の邪義のため、離山を余儀なくされた。

波木井の邪義とは四つあった。日興は冷静にしるしている。

釈迦如来を造立(ぞうりゅう)供養して本尊と()し奉るべし、是一。

次に聖人御在生九箇年の間停止(ちょうじ)せらるゝ神社参詣其の年に之を始む、二所(にしょ)三島(みしま)に参詣を致せり、是二。

次に一門の勧進(かんじん)と号して南部の郷内のふく()()の塔を供養奉加(ほうが)之有り、是三。

次に一門仏事の助成と号して九品(くほん)念仏の道場一宇を造立し荘厳(しょうごん)せり、甲斐国其の処なり、是四。

已上四箇条の謗法を教訓する義に云はく、日向(にこう)これを許す云々。この義に依って()ぬる其の年月、彼の波木井入道並びに子孫と永く以て師弟の義を絶し(おわ)んぬ。仍って御廟(ごびょう)(あい)(つう)ぜざるなり。  『富士一跡門徒御存知の事
  

波木井の所行は日蓮の教義とあい容れない。波木井は日蓮と同じ土地にいながら日蓮の精神を理解できなかった。仏法の理解は距離とは関係ないことがわかる。

本尊は釈迦ではなく妙法の七字を建立する。神社参拝は災いをうける。善神はすでに社を去り、悪鬼のみがのこっているからだ。立正安国論のとおりである。まして念仏の建物を建て供養するなど、なにをかいわんやである。

さらに信じがたいのは、この邪義を五老僧の一人、民部日向が許したということだった。

日興はこの数々の謗法を『原殿御返事』に克明に記録している。以下はそれをたどってみることにする。

日興は最初、波木井の所行に愕然とした。

(そもそも)此の事の根源は去る十一月の(ころ)、南部孫三郎殿、此の御経聴聞のため入堂候の処に此の殿入道の(おおせ)と候て念仏無間(むけん)地獄の由聴き給はしめ奉る可く候なり、此の国に守護の善神無しと云ふ事云はるべからずと承り候し間、是れこそ存の(ほか)の次第に覚え候へ、入道殿の御心替らせ給ひ候かと、はつと推せられ候

日蓮滅後六年目の十一月の頃という。日興四十一歳のことである。

波木井一族の南部孫三郎という者が参詣し、実長の言葉を伝えた。

実長は日蓮がとなえた念仏無間地獄の義は了解したが、この国に守護の善神がいないことは納得できないという。神社参詣を肯定するかのような発言だった。日興ははじめて聞く地頭の唐突な言葉に衝撃をうけた。

日興は懸命に孫三郎を説得した。いま神社には悪鬼しか住みついていない。これは亡き師日蓮の教えではないか。

此の国をば念仏真言禅律の大謗法故、大小守護の善神捨て去る間、其の跡のほ()らには大鬼神入り(かわ)りて国土に飢饉・疫病・蒙古国の三災連々として国土衰亡の由、故日蓮聖人の勘文関東三代に仰せ含められ候ひ(おわん)ぬ、此の旨こそ日蓮阿闍(あじゃ)()の所存の法門にて候へ、是を国のため世のため一切衆生のための故、日蓮阿闍梨、仏の使いとして大慈悲を以って身命(しんみょう)を惜しまず申され候きと談して候

しかし実長と同心の孫三郎は納得しない。

ここで孫三郎は重大なことをいった。この神社参詣について、身延と鎌倉で異論がおこっているというのである。

孫三郎殿、念仏無間の事は深く信仰(つかまつ)り候(おわん)ぬ、守護の善神此の国を捨去(しゃこ)すと云ふ事は不審未だ晴れず候、其の故は鎌倉に御座(おわ)し候御弟子は諸神此の国を守り給ふ(もっと)も参詣すべく候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらる条、日蓮阿闍梨は入滅候、誰に()ってか実否を決す可く候と(くわ)しく不審せられ候

当時、鎌倉の弟子たちは神社参拝を認め、日興のいる身延は断固として認めなかった。

孫三郎の迷いはさめない。

師の日蓮は世を去った。神社参りが是か非かは決められないではないか。根本の師が世を去ったのだ。それならば新たな法義を立てるべきだといいたいのである。心中に後継者の日興を軽視する態度がみえる。

日興はこれにたいし、すべては師日蓮の遺言をもとに判断すべきであると訴える。いわゆる立正安国論をはじめとした御書とよばれる指針である。

二人の弟子の相違を定め玉ふべき事候、師匠は入滅候と申せども其の遺条(ゆいじょう)候なり、立正安国論是れなり、私にても候はず三代に披露し玉ひ候と申して候しかども尚御心中不明に候て御帰り候ひ畢んぬ。

日興は師がいない以上、われわれは師の書、いわゆる御書によって道を決めるべきだと諭した。熱をこめて説いたが、孫三郎は疑念をいだいたまま帰ってしまった。

日蓮滅後わずか七年後のことである。

早くも七年にして日蓮の法義が危うくなっていたのには驚かされる。神社参詣についても宗門の中で意見がわかれていたのである。

この遠因は孫三郎が三島の神社に参詣しようとしたことがはじまりだった。日興はこれを聞き、夜半おなじ波木井一族の弟子である越後公をつかわして叱責した。

是れと申し候は此の殿三島の社に参詣渡らせ給ふべしと承り候し(あいだ)夜半に出で候て越後公を以ていかに此の法門安国論の正意、日蓮聖人の大願をば破し給ふ可きを御存知ばし渡らせをはしまさず候かと申して永く留め(まい)らする

三島とは静岡県三島市伝馬町にある三島神社のことである。かつて源頼朝が平家追討の挙兵にあたって戦勝を祈願した。いらい鎌倉幕府の崇拝をうけ、伊豆山神社とともにニ所(もうで)として毎年正月、将軍自らが参詣した。そのため多くの武士の崇拝をうけていた。

孫三郎も幕府の一員として気軽に参賀しようとしたのである。

日興はこれをきびしく叱った。

あなたはなぜ日蓮聖人の御心を御存知ないのか。神社不敬は師日蓮の法義であることを、なぜわからないのか。

孫三郎は甲斐源氏の血をひく名門南部氏の一人である。日興の忠告はおもしろくない。

この出来事が実長の耳に入った。ここで実長は五老僧の一人民部日向(にこう)の意見をきいた。

驚くことに日向は日興の義をしりぞけた。

彼いわく、日興は日蓮の法門を理解しておらず、仏法の極みを知らないという。日向は言った。

()守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨()(てん)(よみ)に片方を読んで至極を知らざる者にて候、法華の行者参詣せば諸神も彼の社壇に(らい)()す可し(もっと)も参詣す可し()()()()()()()()

日興は実長に直談判して神社参詣を問いただしたが、実長はこれを日向の教えであると反論した。日向と実長は身延山の主である日興を見下していた。

日向は五老僧の中でただ一人、甲斐にもどってきていた。日興は喜んで彼を学頭職につけている。日興と日向とは熱原の法難で苦楽をともにした仲だったのだ。うれしくないはずがない。学頭とは僧侶教育の要職である。その日向が日蓮の法義を曲げようとしていたのである。

日興にとって神社不参拝は当たり前のことである。このことは日蓮のもとで幾度も薫陶を受けていた。耳には今も日蓮の言葉がのこる。

其の上此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味に()へて(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入り()はりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は(いたずら)に魔縁の(すみか)と成りぬ。国の(つい)え民の(なげ)きにて、い()かを並べたる計りなり。(これ)私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし。諸仏も諸神も謗法の供養をば全く()け取り給はず、况んや人間としてこれを()くべきや。 『新池御書



                   102 五老僧の邪義  につづく
下巻目次


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by johsei1129 | 2014-11-30 15:13 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

100 不滅の滅

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              (日蓮の不滅を祝う御会式 富士大石寺にて)
 弘安五年十月十三日、日蓮が目をとじた。

(たつ)の時、今でいえば午前八時頃の早朝であった。六十一年の生涯だった。

伯耆房日興は葬儀の次第を詳細に記した「宗祖御遷化記録」に、このとき大地が震動したと記録している。地震は鎌倉にもおよんだ。人々は日蓮が他界したことを知る。

翌十四日の(いぬ)の時、夜の八時頃、入館。棺は日朗と日昭がうけた。そして()の刻、真夜中の十二時頃、葬儀がはじまった。

松明の光を先頭に弟子檀那がすすむ。

四条金吾と池上宗仲の二人が左右に旗をかかげた。

香は土木常忍がうけもった。
 花弁をまき散らす散華(さんげ)は南条時光。
 太刀は池上宗長がうけた。

そして日蓮の棺が白衣の弟子十八名にかこまれてすすむ。
 前陣は日朗、後陣は最長老の日昭が担い、担ぎ手の中に日興と日持、そして日目がいた。列の最後方に亀王童と滝王童が馬を引いた。

こうして厳粛のうちに荼毘(だび)に付された。

日蓮は自分が不滅であるという。

第六即滅化(そくめつけ)(じょう)の事

御義口伝に云はく、我等が滅する当体は化城なり。此の滅を滅と見れば化城なり。不滅の滅と知見するを宝処とは()ふなり。是を寿(じゅ)量品(りょうぼん)にしては()(じつ)不滅度(ふめつど)とは説くなり。滅と云ふ見を滅するを滅と云ふなり。三権(さんごん)(そく)(いち)(じつ)の法門之を思ふべし。(あるい)は即滅化城とは謗法の寺塔を滅する事なり。今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は化城即宝処なり。我等が居住の山谷(せんごく)(こうや)皆々(じょう)寂光(じゃっこう)の宝処なり云云。『御義口伝上 化城喩品

さらに 寿量品「如来如実(にょじつ)知見(ちけん) 三界之相(さんがいしそう) 無有(むう)生死(しょうじ)」について御義口伝で断言している。

 此の品は万法を無作(むさ)の三身と見るを如実知見と云う。無作の覚体なれば何に()
って生死と云わんや

この武州池上の地で不思議なことがおきた。
木枯らしが吹く中、不思議にも桜が咲いて満開となった。後代の弟子はこれにちなみ、日蓮の命日には桜の造花をかざることが慣例となる。

日蓮門下と名乗る者たちは、この十月十三日を大切にしてきた。信徒たちはこの命日がきたことに祝賀の意をあらわし「おめでとうございます」とよろこびあう。日蓮が不滅である証左として。

四百年後の大石寺二十六世(にち)(かん)は大難に耐えぬき、妙法をのこした宗祖に感謝する。

 仍( よつ)て権教権門のやから、(あるい)は誹謗悪口(あっく)をなし、或は(じょう)(もく)()(しゃく)の難(あまつさ)へ両度まで流罪に()ひ玉ひ、しかのみならずきづを(こうむ)り、(たつ)の口には首の座にまでなをり玉ふ如く大難に値ひ玉ふといへども(ひとつ)には仏の付属の故に(ひとえ)に末代今時の各々我等を不便(ふびん)思召(おぼしめ)す大慈大悲より、是れ此の大難を(しの)ぎ、此の本門寿量の妙法を弘通(ぐつう)なされてある故に、今我等は易々(やすやす)と之れを唱へ即身成仏すること(ひとえ)に宗祖の御恩徳に()るなり云々。     富要第十巻『寿量品談義』

ここで信徒の一人、秋山孫次郎(やす)(ただ)をあげねばならない。

秋山は甲斐の中巨摩(こま)郡の中野にいた武士だった。甲斐にいたころ、信心強盛の父とともに伯耆房日興の本尊をうけている。

その後、功名を得て四国讃岐に赴任、讃岐の高瀬一郷の民を純信に進ましめ、今の香川県讃岐本門寺の開基となった。

伯耆房日興は讃岐の興隆に感動し「西国参拾参箇国の導師たるべき」とも「西三(じゅう)一箇国の法華棟梁たるべき」ともいい広宣流布を命じている。いかに泰忠に期待していたかがわかる。

泰忠の子孫はこの遺命をよく守り、江戸時代には二千余軒の檀家がいたという。

その泰忠は晩年、子孫に遺書をのこした。時は足利時代、日蓮滅後九十二年のことである。

この遺言に泰忠がかぎりなく慕う日蓮の命日のことがしるされている。

一、十月十三日の御事はやす()たゞ()あと()()()うせんずるなん()()ねうし(女子)まごひこ(孫彦)いた()()でち()うをいた()し申すべきなり、()の御だう()よりほか()にか()そめにも御だう()()()の御だう()そむ()き申すまじき印にまたないない(内内)きや()()いといひ又はおぢ(伯叔父)なか()いとこ(従兄弟)なか()にもうら()むる事ありとも十三日にあい()たが()いに心を一つにして御ほ()け大上人をやすたゞ(泰忠)()おぎ申す()とくに、十五日まで()みなみ(皆皆)な一()ころにて御つと()めも申し候べく候、又しら()びよ()()さる()()くと(殿)ばら()をもぶんぶん(分分)()たがつてね()ごろにもてなし(接待)申すべきなり、()ない()いか(如何)なる()こん()ありと()ふとも、十月十三日はい()ゝかも()()なき事をばおも()()まつ()り申すべきなり。

一、()しこのじ()うをそむ()いていらん(違乱)()たさんずるこども(子供)は御ほ()け大上人十()せち()まん()ほさつ(菩薩)の御ばち()かぶ()るのみならず、やすたゞ(泰忠)ため()にはなが()ふけふ(不孝)もの()なり、ゆづ()ると()ろおば一ぶん()なりともちぎやう(知行)べからず 『富要 第八巻』

泰忠は子孫に御堂すなわち寺院を守り、かりそめにもほかの寺を建てて法を乱してはならないと遺言する。大上人とは日蓮のことである。命日の十月十三日から三日間は一所に参集して勤行し、人々をねんごろにもてなせという。親族の中でどんな遺恨があっても、この三日間だけは心を一つにせよという。

猿楽、白拍子とは今でいう芸能人のことである。芸能人を招いてまで命日を祝えという。

泰忠はこの遺言にそむくことがあれば、日蓮はもとより十羅刹・八幡大菩薩からも罰をうけ、泰忠にも不孝の者であるから、一所たりとも相続はさせないといいきっている。

日蓮の遺骨を抱いた一行が、武蔵をはなれ甲斐身延の帰路についた。身延では地頭の波木井がまっている。

だがこの悲しみの中で、日向(にこう)ら五人が浮かれた笑顔にかわっていった。

「みんな、なにを悲しんでいるのだ。上人がおおせのように笑っていこうではないか」

「そうだ、そのとおりだ。われらは自由になったのだ」

この時、伯耆房日興が立ちどまり、五人を叱責した。

「おぬしらなにをいっている。聖人の遺骨にむかって恥ずかしくないのか。

『未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて(ずい)(りき)弘通(ぐつう)を致すべき事』

聖人の言葉を忘れたか。聖人からはなれるのか。はなれたい者はここで立ち去れ。止めはしない」

伯耆房日興の威風は、師日蓮とかさなりあって見えた。

一同が伯耆房の気迫に威圧されてだまりこんだ。

しばしの沈黙のあと、一行はふたたび進んだ。

雄大な富士が近づいてきた。

伯耆房がなつかしむように山を見あげた。
 一行がようやく身延の房にもどってきた。

  

  
     101 地頭の謗法 につづく
下巻目次


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by johsei1129 | 2014-11-30 14:53 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

99 通塞の案内者

日蓮はつね日頃、信力強盛な者に成仏の日が絶対にくると明言していた。そして信心ある者の臨終には、自分がかならず現われるといった。日蓮は死にさいし、立ち会うという。まるで冥界の主であるかのように。

このことを弟子檀那の手紙にくりかえし説いている。

但し日蓮をつえ()()らともたのみ給ふべし。けは()しき山、あしき道、つえをつきぬればたをれず。殊に手をひかれぬればまろ()ぶ事なし。南無妙法蓮華経は死出(しで)の山にてはつえはしらとなり給へ。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給ふべし。日蓮さきに立ち候はゞ、御(むか)へにまいり候事もやあらんずらん。また先に行かせ給はゞ、日蓮必ず閻魔法王にも(くわ)しく申すべく候。此の事少しもそら()事あるべからず。日蓮法華経の文の如くならば(つう)(そく)の案内者なり。只一心に信心おはして霊山を()し給へ。『弥源太殿御返事

日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん。 『国府尼御前御書

()し命ともなるならば法華経ばし(うら)みさせ給ふなよ。又閻魔(えんま)王宮にしては何とか仰せあるべき。をこがましき事とはおぼすとも、其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ。『一谷入道女房御書

中有(ちゅうう)の道にいかなる事もいできたり候はゞ、日蓮が()()なりとなのらせ給へ、わずかの日本国なれども、さがみ(相模)殿のうちのものと申すをば、さう(左右)なくおそるゝ事候。

日蓮は日本第一の()たう()の法師、たゞし法華経を信じ候事は、一閻浮提第一の聖人なり。其の名は十方の浄土にきこえぬ。定めて天地もしりぬらん。日蓮が弟子となのらせ給はゞ、いかなる悪鬼等なりとも、よも()らぬよしは申さじとおぼすべし。『妙心尼御前御返事

我等は穢土(えど)に候へども心は霊山(りょうぜん)に住むべし。御面(おかお)を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ。いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上(えじょう)にま()りあひ候はん。 『千日尼御前御返事

相かまへて相かまへて、自他の生死はしらねども、御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむか()いにまいり候べし。『上野殿御返事

故に法性(ほっしょう)の空に自在にとびゆく車をこそ(だい)(びゃく)牛車(ごしゃ)とは申すなれ。我より後に来たり給はん人々は、この車にめされて霊山へ御出で有るべく候。日蓮も同じ車に乗りて御迎ひにまかり向かふべく候。  『大白牛車御消息

御義口伝に云はく、皆とは十界なり、共とは(にょ)我等(がとう)()()なり、至とは極果の住処なり、宝処とは霊山なり。日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一同に皆共至宝処なり。共の一字は日蓮に共する時は宝処に至るべし、不共ならば阿鼻(あび)大城(だいじょう)()つべし云云。    『御義口伝上 化城喩品 第七皆共(かいぐ)至宝処(しほうしょ )の事』

弟子たちはこの手紙を読んで奮いたつ。生きては日蓮に随い、死しては日蓮にまみえる。この死への確信があればこそ、今の生が充実するのだ。
 妙法蓮華経 普賢菩薩勧発第二十八には次のように説かれている。

(にゃく)有人(うにん) 受持(じゅじ)読誦(どくじゅ)()()()(しゅ)。  若し人有りて 受持し読誦し その義趣を解せば

是人命終為( ぜにんみょうじゅうい)千仏授手(せんぶつじゅしゅ)    是の人命終せば、千仏の(みて)を授けて、
 令(りょう)不恐怖(ふくふ)不堕(ふだ)(あく)(しゅ)
     恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもう

法華経を信じる者には臨終の時、千の仏がむかえにきて手をさしのべるという。恐れることなく、悪道にも堕ちさせない。一仏二仏の手ではない、千仏の手がすくいあげるという。日蓮はこの千仏を率いてやってくるのであろうか。

逆に謗法不信の者は獄卒がむかえにくる。

(けん)()読誦(どくじゅ) 書持(しょじ)経者(きょうしゃ)。  経を読誦し書持すること有らん者を見て、
  軽賎憎嫉(きょうせんぞうしつ) 而懐結恨(にえけっこん)。   軽賎憎嫉して結恨を(いだ)かん。

 此人( しにん)罪報(ざいほう) 汝今復聴(にょこんぶちょう)   此の人の罪報を汝今(また)聴け。
  其人(  ごにん)命終(みょうじゅう) 入阿鼻獄。
 其の人命終して阿鼻獄に入らん。

法華不信の者は捕縛されて牢獄へゆく。なんという厳しさであろうか。


      100 不滅の滅 につづく
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by johsei1129 | 2014-11-30 14:50 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

98 日興へ相承

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                                        (日蓮大聖人御一代記より)

 宗仲邸に入ってから程なくして日蓮は危篤となった。
 知らせを聞いた弟子・信徒が檀那が池上邸に続々とあつまった。
 四条金吾は鎌倉から、土木常忍は下総、南条時光は駿河からかけつけた。日蓮の故郷安房からも多数の弟子・信徒が参集した。

日蓮はこれを聞き、身をおこした。衰弱していたが立ちあがり、池上家の持仏堂で立正安国論を講じた。九月二十五日のことである。

日蓮の弘教は立正安国論にはじまり、立正安国論におわるという。その終わりをまっとうする時がきた。
 日蓮がのこした法門は、法本尊を説いた「観心本尊抄」、人本尊を説いた「開目抄」はじめ、のちに五大部・十大部と称される重要御書が数多くある。その中で最後に「立正安国論」を説いたのは、『(いま)だ広宣流布流布せざる間、つまり国の主権者が法華経に帰依するまでは、(かん)(ぎょう)を続けなさい』という、すべての弟子・信徒に与えた日蓮の遺言であった。

客の曰く、今生後生誰か慎まざらん、誰か(したが)はざらん。此の経文を(ひら)きて(つぶさ)に仏語を承るに、誹謗の(とが)至って重く毀法(きぼう)の罪誠に深し。我一仏を信じて諸仏を(なげう)ち、三部経を仰ぎて諸経を(さしお)きしは(これ)私曲(しきょく)の思ひに非ず、則ち(せん)(だつ)(ことば)に随ひしなり。十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。今世には(しょう)(しん)(ろう)来生(らいしょう)には阿鼻(あび)()せんこと文明らかに()(つまび)らかなり疑ふべからず。(いよいよ)貴公の慈誨(じかい)を仰ぎ(ますます)愚客の()(しん)を開き、速やかに対治を(めぐ)らして早く泰平を致し、先ず生前を安んじ更に没後(もつご)(たす)けん。(ただ)我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも(いまし)めんのみ。

若い弟子たちの中に泣いている者がいることに気づいた。

日蓮は座を見まわし、いつくしむように叱った。

「どうした。泣いていては講義ができぬではないか」

弟子たちの悲しみがとまらない。父に別れる子のように泣いている。

池上邸は静寂につつまれた。


 十月八日となった。

日蓮は別室に横たわっていた。

そこに伯耆房日興をふくめた六人の僧が神妙にならんだ。

日蓮が死に向かう床で語る。

「わが滅度にあたり、弟子の中で六人をえらび、後継と定める。

日昭 弁阿闍(あじゃ)(り )(六十二歳)

日朗 大国阿闍梨(三十八歳)

日興 白蓮(びゃくれん)阿闍梨(三十七歳)

日向 佐渡阿闍梨(三十九歳)

日頂 伊予阿闍梨(三十一歳)

日持 蓮華阿闍梨 (三十三歳)

以上六名。人はみな、おまえたちを六老僧と呼ぶであろう」

日蓮は入門順に六人の弟子の名を挙げた。読み上げた順番に序列はない、つまり不次第(ふしだい)であるとも宣言した。この中で最長老は六十二歳の日昭で、他の五人は全て三十代だった。

「さりながらその中で上首を定めねばならぬ。在世・滅後ことなりといえども、付属の儀式はこれ同じ。たとえば四大六万の(じき)(てい)の本眷属ありといえども、上行菩薩をもって(けっ)(ちょう)付属の大導師と定めたように」
 結要とは
「要を結ぶ」と読む。法の要点をまとめ、その肝要を選ぶことである。釈迦は南無妙法蓮華経の大法をただ一人上行菩薩にさずけた。日蓮もまた自らの法を一人にさずけようとしている。

弟子がかたずをのんだ。日蓮の教団を引きつぐのはだれなのか。

「今もってかくのごとし。六人以下数輩の弟子ありといえども、伯耆房日興をもって(けっ)(ちょう)付属の大将とさだむるものなり」

伯耆房が日蓮の後継者になることは予想されていたことだったが、日蓮と同郷で最長老の日昭は、三十歳も年下の日興が六人の上首になることは決して満足いくものではなかった。しかし日蓮が遷化(せんげ)されれば重しが取れる。あとは自分の思うままに行動するだけだと自分を納得させた。

日蓮はすでに後顧の憂いの無きように伯耆房日興を後継者とする遺言を書きのこしていた。

日蓮一期(いちご )弘法(ぐほう)、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通(ぐつう)大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と()ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。

  弘安五年壬午九月 日       日蓮花押

      血脈の次第日蓮日興

しかし安堵したわけではない。日蓮は死にのぞみ、日興をのぞく五人の未来を予見したように再び記した。

釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承(そうじょう)す。身延山久遠(くおん)寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

  弘安五年壬牛十月十三日 武州池上

                日蓮花押

この二通の遺言は二箇相承と呼ばれ、それぞれ『日蓮一期弘法付嘱書』『身延山付嘱書』の名がついている。

日蓮正宗二十六世の日寛が解説する。

今得意して云く、二箇の相承は(まさ)しくこれ弘宣(こうせん)伝持の付嘱なり。謂く「日蓮一期の弘法(ぐほう)、白蓮阿闍(あじゃ)()日興(にっこう)(これ)を付嘱す。本門弘通(ぐつう)の大導師たるべきなり」とは、これ弘宣付嘱なり。故に「本門弘通」等というなり。
「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり」とは、これ伝持付嘱なり。故に「別当たるべきなり」等というなり。秘すべし、秘すべし。             『撰時抄愚記


この二箇相承には紆余曲折がある。

この文書は日蓮の死後、日興が建てた重須(おもす)本門寺に保管されていたが、ちょうど三百年後の天正九年(一五八一年)三月、教義について争っていた西山本門寺の宗徒ならびに戦国大名武田勝頼の家臣増山権右衛門に奪われたのである。

当時、重須本門寺の貫首は日殿という僧であった。彼は三月二十八日、すぐさま重宝返還の訴状を武田勝頼に呈した。

勝頼は日殿をまったく相手にしない。それよりも重須本門寺と西山本門寺の教義争いを自ら裁定しようとはやっていた。勝頼は西山本門寺をあと押ししていた。そのために日蓮の相承書を奪い取り、有利にもちこもうとしたのである。

時は戦国時代、勝頼は焦っていたようである。武田一族はこの七年前、長篠の戦いで織田信長に大敗してから凋落の一途をたどっていた。軍神とうたわれた信玄はすでにいない。勝頼はあらゆる方法で勢力を挽回しなければならなかった。日蓮の宝物を搾取したのもそのひとつだった。

翌天正十年二月六日、日殿は訴えが入れられないのを不服として、断食して世を去った。五十七歳だったという。日蓮の遺言を守れなかったくやしさ、自身のふがいなさがつのっていたであろう。彼は戸を締め切り、いっさいの人を入れずに帰らぬ人となった。(富要第九巻)

翌月の三月十一日、武田勝頼は織田・徳川連合軍の攻めに耐えきれず、天目山麓において一族とともに滅んだ。勝頼は自分はもとより一族の女子供までも、なで斬りにして自害している。

『信長公記』はその悲惨な最期をえがく。

三月三十日、武田四郎親子、簾中(れんちゅう)、一門、こがつこの山中へ引き(こも)らるゝの(よし)滝川左近(うけたまわ)り険難節所の山中へ分け入り、相(たず)ねられ候ところに、田子と云ふ所、平屋敷に、暫時柵を付け、居陣候。則ち先陣、滝川義太夫、篠岡平右衛門に下知を申しつけ、取り巻き候ところ、(のが)れがたく存知せられ、誠に花を折りたる如く、さもうつくしき歴貼(れきちょう)上臈(じょうろう)、子供、一貼に、引き寄せ引き寄せ、四十余人さし殺し、其の外、ちりぢりに(まか)りなり、切りて出で、討死(うちじに)候。

武田四郎とは勝頼のことである。長篠の戦いでは一万五千の軍を指揮していた男が、最後は四十人となって無残な死をとげた。名門武田家の滅亡だった。このあたり、北条や平頼綱の最後とよく似たところがある。

二箇相承はこの戦乱のおり、行方不明となり、今にいたるまで発見されていない。余談だがこの六月、織田信長が本能寺で自害している。

日蓮が日興を後継者として指名したことは、当時、弟子信徒のだれしもが疑っていなかった。

日蓮自身がその理由をしるす。

又弘長配流(はいる)の日も、文永流罪の時も、其の外諸所の大難の折節も、先陣をかけ、日蓮に影の形に随ふが如くせしなり。誰か之を疑はんや。

延山(えんざん)地頭発心の根元は日興が教化の力用なり。遁世(とんせ)の事、甲斐国三牧は日興(こん)()の故なり。  『百六箇抄

伯耆房日興は伊豆流罪の時も、佐渡の時もつねに日蓮のそばにいた。ほかの弟子もついてはいたが、日蓮の大願を具現する者ではなかった。弟子たちは日蓮に従っていたが、伯耆房日興以外、日蓮の真意を知ろうとし、またその大願を自分が実現しようとは思ってもいなかった。

地頭の波木井が信心に目覚めたのは伯耆房の折伏による。日蓮が身延に居を移したのは、伯耆房の采配によることはすでに述べた。この事実については五老僧といえど異を唱えることはできない。

 しかし、五老僧が素直に日興上人が身延山久遠寺の別当たるべきなり」という遺言を受け止めたわけではないことは、後々の事実が雄弁に物語っている。

        99 通塞の案内者 につづく
下巻目次


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by johsei1129 | 2014-11-30 14:46 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

97 身延下山

重くなった病状は悪化していくばかりだった。

弘安五年九月、日蓮はついに下山を決意した。九年すごした身延山を去ることにしたのである。この約九か月前の弘安四年十一月二十四日には、十間四面の大坊が完成したばかりだった。下山の理由は常陸(ひたち)の国に湯治に行くためという。
 日蓮は自身がそう遠くない日に滅度することは自覚していた。その場合、身延の僧坊ではあまりに地の利が悪い。また幼い所化たちが日々仏道修行に励んでいる。それに差し障りがあることは避けなければならない。また多くの信徒が集まるには鎌倉の信徒の大きな屋敷が良い。
 釈尊は自身の滅度の後、荼毘(だび)に付し遺骨を分けて舎利(しゃり)塔を立てることを遺言していた。しかしそれらの諸事は
()()(そく)()()()、つまり在家の男女信徒に任せるよう弟子たちに話している。弟子はあくまで修行、布教を続けなさいという意味である。鎌倉の信徒で大きな屋敷と言えば作事奉行、池上宗仲の屋敷であった。もし不穏なことが起きたとしても、幕府直轄の作事奉行の屋敷に手を出すことは考えられない。常陸の国の湯治とは、地主として長年世話なんってきた波木井(はきり)(さね)(なが)(おもんぱか)ってのことだろうと思われる。

日蓮が弟子に担がれ栗毛の馬にのった。伯耆房らの弟子たちがきびしい表情でついた。常陸まで何日かかるのか。病身の日蓮にとって決して楽な旅ではない。

地頭の波木井(はきり)(さね)(なが)は突然の知らせにおどろいたが日蓮の意思はかたい。波木井はあきらめて自分の子を付添いとし同行させた。

出発の時、実長はなおもいった。

「上人。なにも急いで発たれることはないのではありませぬか。もう少しゆるりとされては」

日蓮が弱々しく首をふった。

「病気でありますからもしやのこともありましょう。さりながら日本国の多くが扱いかねるわが身を、九年まで外護していただいた志は申すばかりもございませぬ。いずこにて死ぬるとも、墓はこの身延の沢といたしまする」

日蓮は一時の家主であった実長に深々と頭をさげた。しかし実情は違っていた。日蓮はこの九年間、飢えと寒さに苦しんだ。地主の実長は日蓮の窮状に無頓着だった。後代の信徒は波木井の冷淡さを非難している。だが日蓮は実長にいっさいの不平をもらさなかった。

九月八日、一行が山をおりた。波木井実長が呆然と見送った。

一行は人気のない道をすすんだ。日蓮が下山するとあってはどんなさわぎがおきるか知れない。一行を指揮する伯耆房は身を隠すように()山道を選んだ。

身延山の急な坂を下る。

日蓮が眠るように馬にのっている。伯耆房が手綱をはなさず見守った。

さらに一行は富士川をこえる。

日蓮は弟子に背負われて川をこえた。

彼らは武蔵野にでた。一行が壮大な夕日を背にすすむ。

富士山がしだいに小さくなっていった。

武蔵の池上宗仲邸は林にかこまれた武家屋敷だった。今の東京都大田区である。

身延出立から十日後の九月十八日、日蓮は敬愛する信徒、宗仲の屋敷にたどりついた。

宗仲は弟の宗長とそろって門に立っていた。二人は師を自らの屋敷に迎える喜びは大きかったが、師の病を考えると手放しでは喜べない。しかし二人は精いっぱいの笑顔で日蓮を出迎えた。

日蓮が兄弟の笑顔を見てわずかにほほえんだ。

「お世話になり申す」

かつてきびしく指導した兄弟に深々と頭をさげた。

日蓮はこの武蔵から甲斐の波木井に生涯最後の手紙をおくった。かつての家主にこまやかな配慮がよみとれる。

(かしこ)み申し候。みち()ほど()べち()事候はで、池上までつきて候。みちの間、山と申し、かわ()と申し、そこばく大事にて候ひけるを、きう()だち()()護せられまいらせ候ひて、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候。さてはやがて()へりまいり候はんずる道にて候へども、所()うの()にて候へば、不ぢ()うなることも候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候()を、九年まで御きえ(帰依)候ひぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも()かをば()のぶさわ(延沢)にせさせ候べく候。又くり()かげ(鹿毛)の御馬はあまり()しろ()くをぼへ候程に、いつまでもうし()なふまじく候。ひたち(常陸)()()かせ候はんと思ひ候が、もし人にもぞとられ候はん。又そのほか()いたはしくをぼへば、()よりかへり候はんほど、かづさ(上総)もばら(藻原)殿のもとにあづけをきたてまつるべく候に、しらぬ()ねり()をつけて候ひては、()ぼつか()なくをぼへ候。まかりかへり候はんまで、此の()ねり()()けをき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢのために申し候。恐々謹言。

九月十九日          日蓮

進上 波木井殿御侍

()うのあいだ、はん()()うをく()へず候事、恐れ入って候。 『波木井殿御報            

やっとのことで池上に到着した。九年のあいだ養われたことは感謝にたえない。ついては、いずこの地で死のうと墓は身延におくといっている。また栗毛の馬がひときわ気にいったので馬使いをつけた。存知のために前もってお知らせしたという。当時、馬泥棒が頻発していた。

さらに病気のために自分の印、すなわち花押をしるすことができないことをわびている。なんという腰の低さだろう。


 日蓮が池上宗仲邸に入ってまもなく事件が起きた。
 幕府役人・二階堂伊勢守の子で比叡山学僧・二階堂伊勢法印が、日蓮が滞在していることを聞きつけ、池上宗仲邸に大勢の供を引き連れ、法論をいどんできたのである。その時日蓮は「卿公に相手させよ」と言いつけ、問答に勝れた日目上人が日蓮の身代わりで伊勢法印と問答に臨むことになった。
 問答は、第一番の「即往安楽世界、阿弥陀仏」の経文に始まり、十番ほど行われたが、全て法印を
屈伏させたという。この結果についは日蓮もさぞ満足したものと思われる。
 日蓮は日目を極めて重要視していた。後を託した日興は別格としても、他の五老僧よりもむしろ日目を重要視している。
 そのことがよくわかるのは下付された御本尊にある。
日蓮は弘安二年二月に日目に御本尊を下付している。そして他の弟子には授与名を「沙門○○授与之」と図現年月を右脇に小さくしたためているが、それに対し日目には「釈子日目授与之」と右側にほとんど中央の日蓮の文字と同じ大きさで明確にしたためていた。弘安三年十一月に下付した日昭にも釈子日照伝之と記しているが極めて小さい。
 おそらく日蓮は、日目は日興の後継者となり、三代で日本広布の基礎を築くことが出ると確信していたと思われるのである。


          98 日興へ相承 につづく
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by johsei1129 | 2014-11-30 14:37 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

96 妙覚の山

身延の草庵はひっそりとしていた。

伯耆房が日蓮の部屋にはいった。

朝餉(あさげ)の支度ができました。南条殿が供養されました米をたいて・・」

伯耆房は日蓮が本尊の前で倒れているのを見た。

「お師匠」

伯耆房があわてて日蓮をだきおこす。

「だれか」

人間だれしもかならず一度は臨終をむかえる。死は不吉だとか、死は思いたくもないとしても、のがれた者はだれもいない。生の行く末が死だと思えば、人生ははかないということになるが、死をむかえる覚悟をしたうえで、ひるがえって生を考えれば、有意義な人生をおくることができる。

しかし人はそれに気づかない。

日蓮は信徒の松野六郎左衛門入道に手紙をおくった。松野は駿河国庵原郡松野の人である。娘が南条時光の父兵衛に嫁いだ縁によって日蓮に帰依した。

子供が多くいる。蓮華寺を建立した長男の六郎左衛門尉、日蓮の高弟となる日持そして南条家に嫁いだ娘が知られている。

消息から推測すると、松野はかなり教養の深い人だったと思われる。また彼は日蓮と同年輩だった。それだけに日蓮は松野に親しみをこめ、妙法をたもつ者の生き方を訴える。おなじ老いをむかえる者への手紙である。


 種々の物送り給び候
(おわ)んぬ。山中のすま(住居)ゐ思ひ()らせ給ふて、雪の中ふみ分けて御訪(おんとぶら)ひ候事 御 志( おんこころざし)定めて法華経・(じゅう)羅刹(らせつ)( し)ろし()し候らん。さては涅槃経に云はく「人命の(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)(そん)すと(いえど)も明日(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀(せんだ)()の羊を()って()()に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、(なお)火宅の如し。(しゅう)()充満(じゅうまん)して(はなは)怖畏(ふい)すべし」等云々。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫(ぼんぷ)をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。(しか)りと(いえど)須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を()こざす、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ()らんがために、いとまを入れ衣を(かさ)ねんとはげ()む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと()もみへずなるべき身を(やしな)はんとて多くの(たから)たく()はふ。    『松野殿御返事
 

われわれは屠殺場へおもむく羊であるという。またこの世界は火炎が充満する苦しみの世界であると。

現代の文明は死から逃避している。人々は死を忌み嫌い、遠ざける。終焉がないかのように。

日蓮は雪山童子の故事をひいて死の尊厳を説いている。くわえて仏法をもとめず、いたずらに生を終える人のはかなさをしるす。おなじ松野への手紙である。

(つらつら)世間を観ずるに、生死無常の理なれば生ずる者は必ず死す。されば()()のあだにはかなき事、譬へば電光(いなびかり)の如く、朝露に向かひて消ゆる似たり。風の前の(ともしび)の消えやすく、芭蕉の葉の破れやすきに異ならず。人皆此の無常を(のが)れず。(つい)に一度は黄泉(よみじ)(たび)(おもむ)くべし。(しか)れば冥土の旅を思ふに、闇々として()らければ日月星宿(せいしゅく)の光もなく、せめて灯燭(とうしょく)とてとも()す火だにもなし。かゝる(くら)き道に又()もなふ人もなし。(しゃば)にある時は、親類・兄弟・妻子・眷属(けんぞく)集まりて父は(あわ)れみの志高く、母は悲しみの情深く、夫妻は偕老同穴(かいろうどうけつ)(ちぎ)りとて、大海にあるえび()は同じ畜生ながら夫妻ちぎり細やかに、一生一処にともなひて離れ去る事なきが如し。鴛鴦(えんおう)(ふすま)の下に枕を並べて遊び(たわむ)る仲なれども、彼の冥途の旅には伴ふ事なし。冥々として(ひと)り行く。誰か来たりて是非を(とぶら)はんや。(あるい)老少(ろうしょう)不定(ふじょう)の境なれば、老いたるは先立ち若きは留まる。是は順次の道理なり。歎きの中にもせめて思ひなぐさむ(かた)も有りぬべし。老いたるは留まり、若きは先立つ。されば恨みの至って恨めしきは幼くして親に先立つ子、(なげ)きの至って歎かしきは老いて子を先立つる親なり。是くの如く生死無常、老少不定の境、あだ()にはかなき世の中に、但昼夜に今生の(たくわ)へをのみ思ひ、朝夕に現世の(わざ)のみなして、仏をも敬はず、法をも信ぜず。無行(むぎょう)無智(むち)にして(いたずら)に明かし暮らして、閻魔(えんま)の庁庭に引き迎えられん時は、何を以てか資糧として三界の長途(ちょうと)を行き、何を以て(せん)(ばつ)として生死の(こう)(かい)を渡りて、実報(じっぽう)寂光(じゃっこう)の仏土に至らんや

 海にいるエビは雄雌そろっておなじ穴にいる。これを偕老同穴という。転じて夫婦仲のむつまじいことをあらわす。夫婦が一生を共にし、おなじ墓穴にはいる意味である。それでも世を去るときは一人なのだ。

 鴛鴦の衾とは男女(とも)()の夜具をいう。鴛鴦とはオシドリのこと。これまた良い夫婦仲の形容詞だが、死にのぞめばはなれてしまう。

 日蓮は仏法の根本命題である死について、若い時から思索をかさねていた。現代人が忘れているテーマである。

例えば日蝕がある。古代の人々は突然太陽が欠け始め、ついには昼なのに真っ暗になると、この世の終わりが来たと恐れをなしたただろう。
 しかし現代の人間は、日蝕は天体の運行で起きる現象で「月が地球と太陽の間に入り、月の影に入った地域では太陽が欠け、あるいは全く見えなくなる」ことを知っている。また将来おきる日食の日時と地球上の位置を正確に知ることができ、日蝕を天体ショーとして楽しんでいる。これは天体の運行という法則を把握してい