日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 06月 30日

一切衆生は悉く仏性を有し、法を聞き観行すれば皆当に作仏すべしと説いた【爾前二乗菩薩不作仏事】

【爾前二乗菩薩不作仏事(にぜんにじょうぼさつふさくぶつじ】
■出筆時期:正元元年(西暦1259年)  三十八歳御作
■出筆場所:鎌倉の草庵
■出筆の経緯:本書を認められた前年の正嘉2年に大聖人は駿河国の岩本実相寺にて大蔵経を研鑽、翌年
立正安国論を鎌倉幕府に建白されている。その時の研鑽の成果として本書の他幾つか御書をしたためている。本書では「爾前経では二乗も菩薩も作仏することができないのに対し、法華経のみが万人を成仏得道せしめる経である」と解き明かしている。今後の布教の糧として弟子・信徒のために書かれたものと思われる。 
■ご真筆: 身延山久遠寺 曽存(かつては存在したが焼失)

[爾前二乗菩薩不作仏事 本文]

 問うて云く二乗永不成仏の教に菩薩の作仏を許す可きや、答えて云く楞伽経第二に云く「大慧何者か無性乗なる、謂く一闡提なり・大慧・一闡提とは涅槃の性無し何を以ての故に解脱の中に於て信心を生ぜず涅槃に入らず、大慧・一闡提とは二種あり何等をか二と為す一には一切の善根を梵焼す二には一切衆生を憐愍して一切衆生界を尽さんとの願を作す大慧・云何が一切の善根を梵焼する謂く菩薩蔵を謗じて是くの如きの言を作す、彼の修多羅・毘尼・解脱の説に随順するに非ず諸の善根を捨つと是の故に涅槃を得ず、大慧・衆生を憐愍して衆生界を尽さんとの願を作す者是を菩薩と為す、大慧・菩薩は方便して願を作す若し諸の衆生の涅槃に入らざる者あらば我も亦涅槃に入らずと是の故に菩薩摩訶薩涅槃に入らず、大慧・是を二種の一闡提無涅槃性と名く是の義を以ての故に決定して一闡提の行を取る、大慧菩薩・仏に白して言く世尊・此の二種の一闡提何等の一闡提か常に涅槃に入らざる、仏・大慧に告げたまわく菩薩摩訶薩の一闡提は常に涅槃に入らず何を以ての故に能善く一切諸法・本来涅槃なりと知るを以て是の故に涅槃に入らず一切の善根を捨つる闡提には非ず、何を以ての故に大慧彼れ一切の善根を捨つる闡提は若し諸仏・善知識等に値いたてまつれば菩提心を発し諸の善根を生じて便ち涅槃を証す」等と云云、此の経文に「若し諸の衆生涅槃に入らざれば我も亦涅槃に入らじ」等云云。  前四味の諸経に二乗作仏を許さず之を以て之を思うに四味諸経の四教の菩薩も作仏有り難きか、華厳経に云く「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きず」等と云云、一切の菩薩必ず四弘誓願を発す可し其の中の衆生無辺誓願度の願之を満せざれば無上菩提誓願証の願又成じ難し、之を以て之を案ずるに四十余年の文二乗に限らば菩薩の願又成じ難きか。

  問うて云く二乗成仏之無ければ菩薩の成仏も之無き正き証文如何、答えて云く涅槃経三十六に云く「仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切に皆悉く之有らず是の故に名けて信不具足と為す」と三十六本三十二、此の文の如くんば先四味の諸菩薩は皆一闡提の人なり二乗作仏を許さず二乗の作仏を成ぜざるのみに非ず、将又菩薩の作仏も之を許さざる者なり、之を以て之を思うに四十余年の文二乗作仏を許さずんば菩薩の成仏も又之無きなり、一乗要決の中に云く「涅槃経三十六に云く仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切皆悉く之有らず是の故に名けて信不具足と為すと三十六本三十二、第三十一に説く一切衆生及び一闡提に悉く仏性有りと信ずるを菩薩の十法の中の第一の信心具足と名くと、三十六本第三十、一切衆生悉有仏性を明すは是れ少分に非ず、若し猶堅く少分の一切なりと執せば唯経に違するのみに非ず亦信不具なり何に因つてか楽つて一闡提と作るや此れに由つて全分の有性を許すべし理亦一切の成仏を許すべし」と。
慈恩の心経玄賛に云く「大悲の辺に約すれば常に闡提と為る大智の辺に約すれば亦当に作仏すべし、宝公の云く大悲闡提は是れ前経の所説なり前説を以て後説を難ず可からざるなり諸師の釈意大途之に同じ」文、金ぺいの註に云く「境は謂く四諦なり百界三千の生死は即ち苦なり此の生死即ち是れ涅槃なりと達するを衆生無辺誓願度と名く・百界三千に三惑を具足す此の煩悩即ち是れ菩提なりと達するを煩悩無辺誓願断と名く・生死即涅槃と円の仏性を証するは即ち仏道無上誓願成なり、惑即菩提にして般若に非ざること無ければ即ち法門無尽誓願知なり、惑智無二なれば生仏体同じ苦集唯心なれば四弘融摂す一即一切なりとは斯の言徴有り」文、慈覚大師の速証仏位集に云く「第一に唯今経の力用仏の下化衆生の願を満す故に世に出でて之を説く所謂諸仏の因位・四弘の願・利生断惑・知法作仏なり然るに因円果満なれば後の三の願は満ず、利生の一願甚だ満じ難しと為す彼の華厳の力十界皆仏道を成ずること能わず阿含・方等・般若も亦爾なり後番の五味・皆成仏道の本懐なる事能わず、今此の妙経は十界皆成仏道なること分明なり彼の達多無間に堕するに天王仏の記を授け竜女成仏し十羅刹女も仏道を悟り阿修羅も成仏の総記を受け人・天・二乗・三教の菩薩・円妙の仏道に入る、経に云く我が昔の所願の如きは今者已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむと云云、衆生界尽きざるが故に未だ仏道に入らざる衆生有りと雖も然れども十界皆成仏すること唯今経の力に在り故に利生の本懐なり」と云云。

 又云く「第一に妙経の大意を明さば諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現し一切衆生・悉有仏性と説き聞法・観行・皆当に作仏すべし、抑仏何の因縁を以て十界の衆生悉く三因仏性有りと説きたもうや、天親菩薩の仏性論縁起分の第一に云く如来五種の過失を除き五種の功徳を生ずるが為の故に一切衆生悉有仏性と説きたもう已上謂く五種の過失とは一には下劣心・二には高慢心・三には虚妄執・四には真法を謗じ五には我執を起すなり、五種の功徳とは一には正勤・二には恭敬・三には般若・四には闍那・五には大悲なり、生ずること無しと疑うが故に大菩提心を発すこと能わざるを下劣心と名け、我に性有つて能く菩提心を発すと謂えるを高慢と名け、一切の法無我の中に於て有我の執を作すを虚妄執と名け一切諸法の清浄の智慧功徳を違謗するを謗真法と名け意唯己を存して一切衆生を憐むことを欲せざるを起我執と名く此の五に翻対して定めて性有りと知りて菩提心を発す」と。
                                                
                                                   日 蓮 花押

by johsei1129 | 2014-06-30 22:41 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2014年 06月 29日

法華経計りこそ最後の極説なると説き明かした書【持妙法華問答抄】三

[持妙法華問答抄 本文]その三

 倩ら世間を見るに法をば貴しと申せども其の人をば万人是を悪む汝能く能く法の源に迷へり何にと云うに一切の草木は地より出生せり、是を以て思うに一切の仏法も又人によりて弘まるべし之に依つて天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす末代いづくんぞ法は貴けれども人は賤しと云はんやとこそ釈して御坐候へ、されば持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし、然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり其の子を賤しむるは即ち其の親を賤しむなり、爰に知んぬ当世の人は詞と心と総てあはず孝経を以て其の親を打つが如し豈冥の照覧恥かしからざらんや地獄の苦み恐るべし恐るべし慎むべし慎むべし、上根に望めても卑下すべからず下根を捨てざるは本懐なり、下根に望めても驕慢ならざれ上根も・もるる事あり心をいたさざるが故に凡そ其の里ゆかしけれども道たえ縁なきには通ふ心もをろそかに其の人恋しけれども憑めず契らぬには待つ思もなをざりなるやうに彼の月卿雲閣に勝れたる霊山浄土の行きやすきにも未だゆかず我即是父の柔軟の御すがた見奉るべきをも未だ見奉らず、是れ誠に袂をくだし胸をこがす歎ならざらんや、暮行空の雲の色・有明方の月の光までも心をもよほす思なり、事にふれをりに付けても後世を心にかけ花の春・雪の朝も是を思ひ風さはぎ村雲まよふ夕にも忘るる隙なかれ、出ずる息は入る息をまたず何なる時節ありてか毎自作是念の悲願を忘れ何なる月日ありてか無一不成仏の御経を持たざらん、昨日が今日になり去年の今年となる事も是れ期する処の余命にはあらざるをや、総て過ぎにし方を・かぞへて年の積るをば知るといへども今行末にをいて一日片時も誰か命の数に入るべき、臨終已に今にありとは知りながら我慢偏執・名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は志の程・無下にかひなし、さこそは皆成仏道の御法とは云いながら此の人争でか仏道に・ものうからざるべき、色なき人の袖には・そぞろに月のやどる事かは、又命已に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり、若し是れ二念三念を期すと云はば平等大慧の本誓・頓教一乗皆成仏の法とは云はるべからず、流布の時は末世・法滅に及び機は五逆・謗法をも納めたり、故に頓証菩提の心におきてられて狐疑執著の邪見に身を任する事なかれ、生涯幾くならず思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん、又得たりとも是れ夢の中の栄へ珍しからぬ楽みなり、只先世の業因に任せて営むべし世間の無常をさとらん事は眼に遮り耳にみてり、雲とやなり雨とやなりけん昔の人は只名をのみきく、露とや消え煙とや登りけん今の友も又みえず、我れいつまでか三笠の雲と思ふべき春の花の風に随ひ秋の紅葉の時雨に染まる、是れ皆ながらへぬ世の中のためしなれば法華経には「世皆牢固ならざること水沫泡焔の如し」とすすめたり「以何令衆生・得入無上道」の御心のそこ順縁・逆縁の御ことのは已に本懐なれば暫くも持つ者も又本意にかないぬ又本意に叶はば仏の恩を報ずるなり、悲母深重の経文・心安ければ唯我一人の御苦みもかつかつやすみ給うらん、釈迦一仏の悦び給うのみならず諸仏出世の本懐なれば十方三世の諸仏も悦び給うべし「我即歓喜・諸仏亦然」と説かれたれば仏悦び給うのみならず神も即ち随喜し給うなるべし、伝教大師・是を講じ給いしかば八幡大菩薩は紫の袈裟を布施し、空也上人是を読み給いしかば松尾の大明神は寒風をふせがせ給う、されば「七難即滅七福即生」と祈らんにも此の御経第一なり現世安穏と見えたればなり、他国侵逼の難・自界叛逆の難の御祈祷にも此の妙典に過ぎたるはなし、令百由旬内無諸衰患と説かれたればなり。

 然るに当世の御祈祷はさかさまなり先代流布の権教なり末代流布の最上真実の秘法にあらざるなり、譬えば去年の暦を用ゐ烏を鵜につかはんが如し是れ偏に権教の邪師を貴んで未だ実教の明師に値わせ給はざる故なり、惜いかな文武の卞和があら玉何くにか納めけん、嬉いかな釈尊出世の髻の中の明珠今度我身に得たる事よ、十方諸仏の証誠として・いるがせならず、さこそは「一切世間・多怨難信」と知りながら争か一分の疑心を残して決定無有疑の仏にならざらんや、過去遠遠の苦みは徒らにのみこそ・うけこしか、などか暫く不変常住の妙因をうへざらん・未来・永永の楽みは・かつかつ心を養ふともしゐてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず、「三界無安・猶如火宅」は如来の教へ「所以諸法・如幻如化」は菩薩の詞なり、寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本覚の栖を離れて何事か楽みなるべき、願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。

                                                        日蓮 花押

[持妙法華問答抄 本文] 完

by johsei1129 | 2014-06-29 21:34 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2014年 06月 28日

法華経計りこそ最後の極説なると説き明かした書【持妙法華問答抄】二

[持妙法華問答抄 本文]その二

 問うて云く已今当の中に法華経・勝れたりと云う事はさも候べし、但し有人師の云く四十余年未顕真実と云うは法華経にて仏になる声聞の為なり爾前の得益の菩薩の為には未顕真実と云うべからずと云う義をばいかが心得候べきや、答えて云く法華経は二乗の為なり菩薩の為にあらず、されば未顕真実と云う事二乗に限る可しと云うは徳一大師の義か此れは法相宗の人なり、此の事を伝教大師破し給うに「現在のそ食者は偽章数巻を作りて、法を謗じ人を謗ず何ぞ地獄に堕せざらんや」と破し給ひしかば徳一は其の語に責められて舌八にさけてうせ給いき、未顕真実とは二乗の為なりと云はば最も理を得たり、其の故は如来布教の元旨は元より二乗の為なり一代の化儀・三周の善巧・併ら二乗を正意とし給へり、されば華厳経には地獄の衆生は仏になるとも二乗は仏になるべからずと嫌い、方等には高峯に蓮の生ざるように二乗は仏の種をいりたりと云はれ、般若には五逆罪の者は仏になるべし二乗は叶うべからずと捨てらる、かかる・あさましき捨者の仏になるを以て如来の本意とし法華経の規模とす、之に依つて天台の云く「華厳大品も之を治すること能わず唯法華のみ有りて能く無学をして還つて善根を生じ仏道を成ずることを得せしむ所以に妙と称す、又闡提は心有り猶作仏す可し二乗は智を滅す心生ず可からず法華能く治す復称して妙と為す」と云云、此の文の心は委く申すに及ばず誠に知んぬ華厳・方等・大品等の法薬も二乗の重病をばいやさず又三悪道の罪人をも菩薩ぞと爾前の経にはゆるせども二乗をばゆるさず、之に依つて妙楽大師は「余趣を実に会すること諸経に或は有れども二乗は全く無し故に菩薩に合して二乗に対し難きに従つて説く」と釈し給えり、しかのみならず二乗の作仏は一切衆生の成仏を顕すと天台は判じ給へり、修羅が大海を渡らんをば是れ難しとやせん、嬰児の力士を投ん何ぞたやすしとせん、然らば則ち仏性の種あるものは仏になるべしと爾前にも説けども未だ焦種の者作仏すべしとは説かず、かかる重病を・たやすく・いやすは独り法華の良薬なり、只須く汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり、嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし。

 問うて云く一を以て万を察する事なれば・あらあら法華のいわれを聞くに耳目始めて明かなり、但し法華経をば・いかように心得候てか速に菩提の岸に到るべきや、伝え聞く一念三千の大虚には慧日くもる事なく一心三観の広池には智水にごる事なき人こそ其の修行に堪えたる機にて候なれ、然るに南都の修学に臂をくだく事なかりしかば瑜伽唯識にもくらし北嶺の学文に眼を・さらさざりしかば止観玄義にも迷へり、天台・法相の両宗はほとぎを蒙りて壁に向へるが如し、されば法華の機には既にもれて候にこそ何んがし候べき、答えて云く利智精進にして観法修行するのみ法華の機ぞと云つて無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり是れ還つて愚癡邪見の至りなり、一切衆生・皆成仏道の教なれば上根・上機は観念・観法も然るべし下根下機は唯信心肝要なり、されば経には「浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん」と説き給へり、いかにも信じて次の生の仏前を期すべきなり、譬えば高き岸の下に人ありて登ることあたはざらんに又岸の上に人ありて繩をおろして此の繩にとりつかば我れ岸の上に引き登さんと云はんに引く人の力を疑い繩の弱からん事をあやぶみて手を納めて是をとらざらんが如し争か岸の上に登る事をうべき、若し其の詞に随ひて手をのべ是をとらへば即ち登る事をうべし、唯我一人・能為救護の仏の御力を疑い以信得入の法華経の教への繩をあやぶみて決定無有疑の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず菩提の岸に登る事難かるべし、不信の者は堕在泥梨の根元なり、されば経には「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」と説かれたり、受けがたき人身をうけ値いがたき仏法にあひて争か虚くて候べきぞ、同じく信を取るならば又大小・権実のある中に諸仏出世の本意・衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ、持つ処の御経の諸経に勝れてましませば能く持つ人も亦諸人にまされり、爰を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説き給へり大聖の金言疑ひなし、然るに人此の理をしらず見ずして名聞・狐疑・偏執を致せるは堕獄の基なり、只願くは経を持ち名を十方の仏陀の願海に流し誉れを三世の菩薩の慈天に施すべし、然れば法華経を持ち奉る人は天竜・八部・諸大菩薩を以て我が眷属とする者なり、しかのみ
ならず因身の肉団に果満の仏眼を備へ有為の凡膚に無為の聖衣を著ぬれば三途に恐れなく八難に憚りな
し、七方便の山の頂に登りて九法界の雲を払ひ無垢地の園に花開け法性の空に月明かならん、是人於仏道・決定無有疑の文憑あり唯我一人・能為救護の説疑ひなし、一念信解の功徳は五波羅蜜の行に越へ五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり、頓証菩提の教は遥に群典に秀で顕本遠寿の説は永く諸乗に絶えたり、爰を以て八歳の竜女は大海より来つて経力を刹那に示し本化の上行は大地より涌出して仏寿を久遠に顕す言語道断の経王・心行所滅の妙法なり、然るに此の理をいるかせにして余経にひとしむるは謗法の至り大罪の至極なり、譬を取るに物なし、仏の神変にても何ぞ是を説き尽きん菩薩の智力にても争か是を量るべき、されば譬喩品に云く「若し其の罪を説かば劫を窮むとも尽きず」と云へり文の心は法華経を一度もそむける人の罪をば劫を窮むとも説き尽し難しと見えたり、然る間三世の諸仏の化導にも・もれ恒沙の如来の法門にも捨てられ冥きより冥きに入つて阿鼻大城の苦患争か免れん誰か心あらん人・長劫の悲みを恐れざらんや、爰を以て経に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云、文の心は法華経をよみ・たもたん者を見てかろしめ・いやしみ・にくみ・そねみ・うらみを・むすばん其の人は命をはりて阿鼻大城に入らんと云へり、大聖の金言誰か是を恐れざらんや正直捨方便の明文豈是を疑うべきや、然るに人皆・経文に背き世悉く法理に迷へり汝何ぞ悪友の教へに随はんや、されば邪師の法を信じ受くる者を名けて毒を飲む者なりと天台は釈し給へり汝能く是を慎むべし是を慎むべし。

[持妙法華問答抄 本文]その三に続く




by johsei1129 | 2014-06-28 21:02 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2014年 06月 27日

法華経計りこそ最後の極説なると説き明かした書【持妙法華問答抄】一

【持妙法華問答抄(じみょうほっけもんどうしょう】
■出筆時期:弘長三年三月(西暦1263年) 四十二歳御作      
■出筆場所:鎌倉の草庵
■出筆の経緯:本御書は弘長三年二月二十二日、一年九ヵ月振りに伊豆流罪が赦免になり鎌倉の草案に
戻ってきた直後にしたためられた。大聖人は鎌倉幕府と念仏宗僧俗の画策による伊豆流罪で、法華経勧
持品十三に説かれている『濁世の悪比丘は仏の方便・随宜所説の法を知らずして悪口して顰蹙し数数擯
出せられん(所を追われる)』の文言を身をもって読まれ、末法の法華経の行者としての確信を深められ
その確信を伝えるため弟子・信徒一同に宛てて書かれたものと思われる。 
■ご真筆: 現存していない。

[持妙法華問答抄 本文]その一

抑も希に人身をうけ適ま仏法をきけり、然るに法に浅深あり人に高下ありと云へり何なる法を修行してか速に仏になり候べき願くは其の道を聞かんと思ふ、答えて云く家家に尊勝あり国国に高貴あり皆其の君を貴み其の親を崇むといへども豈国王にまさるべきや、爰に知んぬ大小・権実は家家の諍ひなれども一代聖教の中には法華独り勝れたり、是れ頓証菩提の指南・直至道場の車輪なり、疑つて云く人師は経論の心を得て釈を作る者なり然らば則ち宗宗の人師・面面・各各に教門をしつらい釈を作り義を立て証得菩提と志す何ぞ虚しかるべきや、然るに法華独り勝ると候はば心せばくこそ覚え候へ、答えて云く法華独りいみじと申すが心せばく候はば釈尊程心せばき人は世に候はじ何ぞ誤りの甚しきや、且く一経・一流の釈を引いて其の迷をさとらせん、無量義経に云く「種種に法を説き種種に法を説くこと方便力を以てす四十余年未だ真実を顕さず」云云、此の文を聞いて大荘厳等の八万人の菩薩・一同に「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず」と領解し給へり、此の文の心は華厳・阿含・方等・般若の四十余年の経に付いていかに念仏を申し禅宗を持ちて仏道を願ひ無量無辺・不可思議・阿僧祇劫を過ぐるとも無上菩提を成ずる事を得じと云へり、しかのみならず方便品には「世尊は法久くして後要当に真実を説きたもうべし」ととき、又唯有一乗法・無二亦無三と説きて此の経ばかりまことなりと云い、又二の巻には「唯我一人のみ能く救護を為す」と教へ「但楽いて大乗経典を受持して乃至余経の一偈をも受けず」と説き給へり、文の心はただわれ一人して・よくすくひ・まもる事をなす、法華経をうけたもたん事をねがひて余経の一偈をも・うけざれと見えたり、又云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云、此の文の心は若し人・此の経を信ぜずして此の経にそむかば則ち一切世間の仏のたねを・たつものなりその人は命をはらば無間地獄に入るべしと説き給へり、此等の文をうけて天台は将非魔作仏の詞正く此の文によれりと判じ給へり、唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり、之に依つて智証大師は経に大小なく理に偏円なしと云つて一切人によらば仏説無用なりと釈し給へり、天台は「若し深く所以有り復修多羅と合せるをば録して之を用ゆ無文無義は信受す可からず」と判じ給へり、又云く「文証無きは悉く是れ邪の謂い」とも云へり、いかが心得べきや。

 問うて云く人師の釈はさも候べし爾前の諸経に此の経第一とも説き諸経の王とも宣べたり若し爾らば仏説なりとも用うべからず候か如何、答えて云く設い此の経第一とも諸経の王とも申し候へ皆是れ権教なり其の語によるべからず、之に依つて仏は「了義経によりて不了義経によらざれ」と説き妙楽大師は「縦い経有りて諸経の王と云うとも已今当説最為第一と云わざれば兼但対帯其の義知んぬ可し」と釈し給へり、此の釈の心は設ひ経ありて諸経の王とは云うとも前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば方便の経としれと云う釈なり、されば爾前の経の習として今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり、唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に已今当の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ、されば釈には「唯法華に至つて前教の意を説いて今教の意を顕す」と申して法華経にて如来の本意も教化の儀式も定りたりと見えたり、之に依つて天台は「如来成道・四十余年未だ真実を顕さず法華始めて真実を顕す」と云へり、此の文の心は如来・世に出でさせ給いて四十余年が間は真実の法をば顕さず法華経に始めて仏になる実の道を顕し給へりと釈し給へり。

[持妙法華問答抄 本文]その二に続く




by johsei1129 | 2014-06-27 23:03 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2014年 06月 24日

法華経の法門の修行方法を解き明かした書【薬王品得意抄】

【薬王品得意抄(やくおうほんとくいしょう】
■出筆時期:文永二年 (西暦1265年) 四十四歳御作      
■出筆場所:鎌倉
■出筆の経緯:富士上野郷の地頭で、熱原の法難の時は法華衆の頭領として、大聖人の弟子・及び在家信徒の庇護に務めた上野時光の妻で、時光と共に強情な信仰を貫いた夫人に与えられた書。法華経の法門の修行方法を記した『薬王菩薩本事品第二十三』の意味を詳しく解き明かしている。
■ご真筆: 御正筆 保田妙本寺(千葉県)、他数カ所に分散されて所蔵。時代写本:日時上人筆(富士大石寺所蔵)
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[真筆本文:下記緑字箇所]

[薬王品得意抄 本文]

 此の薬王品の大意とは此の薬王品は第七の巻二十八品の中には第二十三の品なり、此の第一巻に序品方便品の二品有り序品は二十八品の序なり、方便品より人記品に至るまで八品は正には二乗作仏を明し傍には菩薩凡夫の作仏を明かす、法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は上の八品を末代の凡夫の修行す可き様を説くなり、又涌出品は寿量品の序なり、分別功徳品より十二品は正には寿量品を末代の凡夫の行ず可き様を・傍には方便品等の八品を修行す可き様を説くなり、然れば此の薬王品は方便品等の八品並びに寿
量品を修行す可き様を説きし品なり。

 此の品に十の譬有り、第一大海の譬、先ず第一の譬を粗申す可し、此の南閻浮提に二千五百の河あり、西倶耶尼に五千の河あり総じて此の四天下に二万五千九百の河あり、或は四十里乃至百里・一里・一町・一尋等の河之有り、然りと雖も此の諸河は総じて深浅の事大海に及ばず、法華已前の華厳経・阿含経・方等経・般若経・深密経・阿弥陀経・涅槃経・大日経・金剛頂経・蘇悉地経・密厳経等の釈迦如来の所説の一切経・大日如来の所説の一切経・阿弥陀如来の所説の一切経・薬師如来の所説の一切経・過去・現在・未来三世の諸仏所説の一切経の中に法華経第一なり、譬えば諸経は大河・中河・小河等の如し法華経は大海の如し等と説くなり、河に勝れたる大海に十の徳有り、一に大海は漸次に深し河は爾からず、二に大海は死屍を留めず河は爾らず、三に大海は本の名字を失う河は爾らず、四に大海は一味なり河は爾らず、五に大海は宝等有り河は爾らず、六に大海は極めて深し河は爾らず、七に大海は広大無量なり河は爾らず、八に大海は大身
の衆生等有り河は爾らず、九に大海は潮の増減有り河は爾らず、十に大海は大雨・大河を受けて盈溢無し河は爾らず。

 此の法華経には十の徳有り諸経には十の失有り、此の経は漸次深多にして五十展転なり諸経には猶一も無し況や二三四乃至五十展転をや河は深けれども大海の浅きに及ばず諸経は一字・一句・十念等を以て十悪・五逆等の悪機を摂すと雖も未だ一字一句の随喜五十展転には及ばざるなり、此の経の大海に死屍を留めずとは法華経に背く謗法の者は極善の人為りと雖も猶之を捨つ何に況や悪人なる上・謗法を為さん者をや、設い諸経を謗ずと雖も法華経に背かざれば必ず仏道を成ず、設い一切経を信ずと雖も法華経に背かば必ず阿鼻大城に堕つ、乃至第八には大海は大身の衆生あり等と云うは大海には摩竭大魚等大身の衆生之有り、無間地獄と申すは縦広八万由旬なり五逆の者無間地獄に堕ちては一人にて必ず充満す、此の地獄の衆生は五逆の者大身の衆生なり、諸経の小河大河の中には摩竭大魚之無し法華経の大海には之有り、五逆の者仏道を成す是れ実には諸経に之無し諸経に之有りと云うと雖も実には未顕真実なり。

故に一代聖教を諳し天台智者大師の釈に云く他経は但菩薩に記して二乗に記せず乃至但善に記して悪に記せず、今経は皆記す等云云、余は且く之を略す。
第二には山に譬う、十宝山等とは、山の中には須弥山第一なり、十宝山とは一には雪山・二には香山・三には軻梨羅山・四には仙聖山・五には由乾陀山・六には馬耳山・七には尼民陀羅山・八には斫伽羅山・九には宿慧山・十には須弥山なり、先の九山とは諸経諸山の如し、但し一一に財あり須弥山は衆財を具して其の財に勝れたり、例せば世間の金の閻浮檀金に及ばざるが如し、華厳経の法界唯心・般若の十八空・大日経の五相成身・観経の往生より法華経の即身成仏勝れたるなり、須弥山は金色なり、一切の牛馬・人天・衆鳥等此の山に依れば必ず本色を失つて金色なり余山は爾らず一切の諸経は法華経に依れば本の色を失う例せば黒色の物の日月の光に値えば色を失うが如し諸経の往生成仏等の色は法華経に値えば必ず其の義を失う。

 第三には月に譬う衆星は或は半里或は一里或は八里或は十六里には過ぎず、月は八百余里なり衆星は光有りと雖も月に及ばず、設い百千万億乃至一四天下・三千大千・十方世界の衆星之を集むとも一の月の光に及ばず、何に況や一の星月の光に及ぶ可きや、華厳経・阿含経・方等・般若・涅槃経・大日経・観経等の一切の経之を集むとも法華経の一字に及ばじ、一切衆生の心中の見思塵沙無明の三惑並に十悪五逆等の業は暗夜のごとし華厳経等の一切経は闇夜の星のごとし法華経は闇夜の月のごとし法華経を信ずれども深く信ぜざる者は半月の闇夜を照すが如し深く信ずる者は満月の闇夜を照すが如し月無くして但星のみ有る夜には強力の者かたましき者なんどは行歩すといへども老骨の者女人なむどは行歩に叶わず、満月の時は女人老骨なむども、或は遊宴のため或は人に値わんが如き行歩自在なり、諸経には菩薩・大根性の凡夫は設い得道なるとも二乗・凡夫・悪人・女人乃至・末代の老骨の懈怠・無戒の人人は往生成仏不定なり、法華経は爾らず、二乗・悪人・女人等・猶仏に成る何に況や菩薩・大根性の凡夫をや、又月はよいよりも暁は光まさり・春夏よりも秋冬は光あり、法華経は正像二千年よりも末法には殊に利生有る可きなり、問うて云く証文如何答えて云く道理顕然なり、其の上次ぎ下の文に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無し」等云云、此の経文に二千年の後南閻浮提に広宣流布すべしと・とかれて候は・第三の月の譬の意なり、此の意を根本伝教大師釈して云く「正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」等云云、正法千年も像法千年も法華経の利益諸経に之れ勝る可し然りと雖も月の光の春夏の正像二千年末法の秋冬に至つて光の勝るが如し。

 第四に日の譬は星の中に月の出でたるは星の光には月の光は勝るとも未だ星の光を消さず、日中には星の光消ゆるのみに非ず又月の光も奪いて光を失う、爾前は星の如く法華経の迹門は月の如し寿量品は日の如し、寿量品の時は迹門の月未だ及ばず何に況や爾前の星をや、夜は星の時月の時も衆務を作さず、夜暁て必ず衆務を作す、爾前迹門にして猶生死を離れ難し本門寿量品に至つて必ず生死を離る可し、余の六譬之を略す、此の外に又多くの譬此の品に有り、其の中に渡りに船を得たるが如しと此の譬の意は生死の大海には爾前の経は或は筏或は小船なり、生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖も生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとつきがたし、例せば世間の小船等が筑紫より坂東に至り鎌倉よりいの嶋なんどへとつけども唐土へ至らず唐船は必ず日本国より震旦国に至るに障り無きなり又云く「貧きに宝を得たるが如し」等云云、爾前の国は貧国なり爾前の人は餓鬼なり法華経は宝の山なり人は富人なり。

問うて云く爾前は貧国といふ経文如何答えて云く授記品に云く「飢えたる国より来つて忽ちに大王の膳に遇へるが如く」等云云、女人の往生成仏の段は経文に云く「若し如来の滅後・後の五百歳の中に若し女人有つて是の経典を聞いて説の如く修行せば此に於て命終して即ち安楽世界・阿弥陀仏の菩薩・大衆に囲遶せられて住する処に往いて蓮華の中宝座の上に生じ」等云云。

 問うて曰く此の経・此の品に殊に女人の往生を説く何の故か有るや、答えて曰く仏意測り難し此の義決し難きか但し一の料簡を加えば女人は衆罪の根本破国の源なり、故に内典・外典に多く之を禁しむ其の中に外典を以て之を論ずれば三従あり三従と申すは三したがうと云ふなり、一には幼にしては父母に従う嫁して夫に従う老いて子に従う此の三障有りて世間自在ならず、内典を以て之を論ずれば五障有り五障とは一には六道輪回の間男子の如く大梵天王と作らず二には帝釈と作らず三には魔王と作らず四には転輪聖王と作らず五には常に六道に留まりて三界を出でて仏に成らず超日月三昧経の文なり、銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無し」等云云、但し凡夫すら賢王・聖人は妄語せずはんよきといゐ
し者はけいかに頚をあたいきさつと申せし人は徐君が塚に剣をかけたりきこれ約束を違えず妄語無き故なり何に況や声聞・菩薩・仏をや、仏は昔凡夫にてましましし時小乗経を習い給いし時五戒を受け始め給いき五戒の中の第四の不妄語の戒を固く持ち給いき財を奪われ命をほろぼされし時も此の戒をやぶらず大乗経を習い給いし時又十重禁戒を持ち其の十重禁戒の中の第四の不妄語戒を持ち給いき、此の戒を堅く持ちて無量劫之を破りたまわず終に此の戒力に依て仏身を成じ三十二相の中に広長舌相を得たまえり、此の舌うすくひろくながくして或は面にををい或は髪際にいたり或は梵天にいたる舌の上に五の画あり印文のごとし其の舌の色は赤銅のごとし舌の下に二の珠あり甘露を涌出す此れ不妄語戒の徳の至す所なり、仏此の舌を以て三世の諸仏の御眼は大地に落つとも法界の女人は仏になるべからずと説かれしかば一切の女人は何なる世にも仏には成らせ給うまじきとこそ覚えて候へ、さるにては女人の御身も受けさせ給いては設ひ后三公の位にそなはりても何かはすべき善根・仏事をなしてもよしなしとこそ覚え候へ、而るを此の法華経の薬王品に女人の往生をゆるされ候ぬる事又不思議に候、彼の経の妄語か此の経の妄語かいかにも一方は妄語たるべきか、若し又一方妄語ならば一仏に二言あり信じ難し但し無量義経の四十余年には未だ真実を顕さず涅槃経の如来には虚妄の言無しと雖も若し衆生虚妄の説に因ると知しめすの文を以て之を思えば仏は女人は往生成仏すべからずと説かせ給いけるは妄語と聞えたり、妙法華経の文に世尊の法は久くして後に要ず当に真実を説くべし妙法華経乃至皆是真実と申す文を以て之を思うに女人の往生成仏決定と説かるる法華経の文は実語不妄語戒と見えたり、世間の賢人も但一人ある子が不思議なる時或は失ある時は永く子為るべからざるの理・起請を書き或は誓言を立ると雖も命終の時に臨めば之を許す、然りと雖も賢人に非ずと云わず又妄語せる者とも云わず仏も亦是くの如し、爾前四十余年が間は菩薩の得道凡夫の得道・善人・男子等の得道をば許すやうなれども、二乗・悪人・女人なんどの得道此れをば許さず或は又許すににたる事もあり、いまだ定めがたかりしを仏の説教・四十二年すでに過ぎて八年が間・摩謁提国王舎城・耆闍崛山と申す山にして法華経を説かせ給うとおぼせし時先づ無量義経と申す経を説かせ給ふ無量義経の文に云く四十余年云云。
                                            
日 蓮 花押

by johsei1129 | 2014-06-24 22:45 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2014年 06月 23日

法華経二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品であると説いた書【月水御書】三

[月水御書 本文]その三

 予が愚見をもつて近来の世間を見るに多くは在家・出家・誹謗の者のみあり、但し御不審の事・法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども殊に二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出しても・あそばし候べく候、余の二十六品は身に影の随ひ玉に財の備わるが如し、寿量品・方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり、薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども提婆品は方便品の枝葉・薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候、されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て余の品をば時時・御いとまの・ひまに・あそばすべく候

 又御消息の状に云く日ごとに三度づつ七つの文字を拝しまいらせ候事と、南無一乗妙典と一万遍申し候事とをば日ごとにし候が、例の事に成つて候程は御経をばよみまいらせ候はず、拝しまいらせ候事も一乗妙典と申し候事も・そらにし候は苦しかるまじくや候らん、それも例の事の日数の程は叶うまじくや候らん、いく日ばかりにて・よみまいらせ候はんずる等と云云、此の段は一切の女人ごとの御不審に常に問せ給い候御事にて侍り、又古へも女人の御不審に付いて申したる人も多く候へども一代聖教にさして説かれたる処のなきかの故に証文分明に出したる人もおはせず、日蓮粗聖教を見候にも酒肉・五辛 ・婬事なんどの様に不浄を分明に月日をさして禁めたる様に月水をいみたる経論を未だ勘へず候なり、在世の時多く盛んの女人・尼になり仏法を行ぜしかども月水の時と申して嫌はれたる事なし、是をもつて推し量り侍るに月水と申す物は外より来れる不浄にもあらず、只女人のくせかたわ生死の種を継ぐべき理にや、又長病の様なる物なり例せば屎尿なんどは人の身より出れども能く浄くなしぬれば別にいみもなし是体に侍る事か。

 されば印度・尸那なんどにも・いたくいむよしも聞えず、但し日本国は神国なり此の国の習として仏・菩薩の垂迹不思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに・是をそむけば現に当罰あり、委細に経論を勘へ見るに仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当れり、此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり、此の由を知ざる智者共神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義を申して多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり、若し然らば此の国の明神・多分は此の月水をいませ給へり、生を此の国にうけん人人は大に忌み給うべきか、但し女人の日の所作は苦しかるべからずと覚え候か、元より法華経を信ぜざる様なる人人が経をいかにしても云いうとめんと思うが・さすがに・ただちに経を捨てよとは云いえずして、身の不浄なんどにつけて法華経を遠ざからしめんと思う程に、又不浄の時・此れを行ずれば経を愚かにしまいらする・なんど・おどして罪を得させ候なり、此の事をば一切御心得候て月水の御時は七日までも其の気の有らん程は御経をば・よませ給はずして暗に南無妙法蓮華経と唱えさせ給い候へ、礼拝をも経にむかはせ給はずして拝せさせ給うべし、又不慮に臨終なんどの近づき候はんには魚鳥なんどを服せさせ給うても候へ、よみぬべくば経をもよみ及び南無妙法蓮華経とも唱えさせ給い候べし、又月水なんどは申すに及び候はず又南無一乗妙典と唱えさせ給う事是れ同じ事には侍れども天親菩薩・天台大師等の唱えさせ給い候しが如く・只南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべきか、是れ子細ありてかくの如くは申し候なり、穴賢穴賢。

文永元年甲子四月十七日                              日蓮花押

大学三郎殿御内御報

[月水御書 本文] 完

by johsei1129 | 2014-06-23 22:15 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2014年 06月 22日

法華経二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品であると説いた書【月水御書i二

[月水御書 本文]その二

 されば此の御消息を拝し候へば優曇華を見たる眼よりもめづらしく・一眼の亀の浮木の穴に値へるよりも乏き事かなと・心ばかりは有がたき御事に思いまいらせ候間、一言・一点も随喜の言を加えて善根の余慶にもやと・はげみ候へども只恐らくは雲の月をかくし塵の鏡をくもらすが如く短く拙き言にて殊勝にめでたき御功徳を申し隠しくもらす事にや候らんといたみ思ひ候ばかりなり、然りと云えども貴命もだすべきにあらず一滴を江海に加へしゃつ火を日月にそへて水をまし光を添ふると思し食すべし、先法華経と申すは八巻・一巻・一品・一偈・一句・乃至・題目を唱ふるも功徳は同じ事と思し食すべし、譬えば大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり、如意宝珠は一珠なれども万宝をふらす、百千万億の滴珠も又これ同じ法華経は一字も一の滴珠の如し、乃至万億の字も又万億の滴珠の如し、諸経・諸仏の一字一名号は江河の一滴の水山海の一石の如し、一滴に無量の水を備えず一石に無数の石の徳をそなへもたず、若し然らば此の法華経は何れの品にても御坐しませ只御信用の御坐さん品こそ・めづらしくは候へ。

 総じて如来の聖教は何れも妄語の御坐すとは承り候はねども・再び仏教を勘えたるに如来の金言の中にも大小・権実・顕密なんど申す事・経文より事起りて候、随つて論師・人師の釈義にあらあら見えたり、詮を取つて申さば釈尊の五十余年の諸教の中に先四十余年の説教は猶うたがはしく候ぞかし、仏自ら無量義経に「四十余年未だ真実を顕さず」と申す経文まのあたり説かせ給へる故なり、法華経に於ては仏自ら一句の文字を「正直に方便を捨てて但だ無上道を説く」と定めさせ給いぬ、其の上・多宝仏・大地より涌出でさせ給いて「妙法華経皆是真実」と証明を加へ十方の諸仏・皆法華経の座にあつまりて舌を出して法華経の文字は一字なりとも妄語なるまじきよし助成をそへ給へり、譬えば大王と后と長者等の一味同心に約束をなせるが如し、若し法華経の一字をも唱えん男女等・十悪・五逆・四重等の無量の重業に引かれて悪道におつるならば日月は東より出でさせ給はぬ事はありとも・大地は反覆する事はありとも・大海の潮はみちひぬ事はありとも、破たる石は合うとも江河の水は大海に入らずとも・法華経を信じたる女人の世間の罪に引かれて悪道に堕つる事はあるべからず、若し法華経を信じたる女人・物をねたむ故・腹のあしきゆへ・貪欲の深きゆへなんどに引れて悪道に堕つるならば・釈迦如来・多宝仏・十方の諸仏・無量曠劫よりこのかた持ち来り給へる不妄語戒忽に破れて調達が虚誑罪にも勝れ瞿伽利が大妄語にも超えたらん争か・しかるべきや。

 法華経を持つ人・憑しく有りがたし、但し一生が間・一悪をも犯さず・五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・無量の戒を持ち・一切経をそらに浮べ・一切の諸仏・菩薩を供養し無量の善根をつませ給うとも、法華経計りを御信用なく又御信用はありとも諸経・諸仏にも並べて思し食し・又並べて思し食さずとも他の善根をば隙なく行じて時時・法華経を行じ・法華経を用ひざる謗法の念仏者なんどにも語らひをなし、法華経を末代の機に叶はずと申す者を科とも思し食さずば・一期の間・行じさせ給う処の無量の善根も忽にうせ・並に法華経の御功徳も且く隠れさせ給いて、阿鼻大城に堕ちさせ給はん事・雨の空にとどまらざるが如く・峰の石の谷へころぶが如しと思し食すべし、十悪・五逆を造れる者なれども法華経に背く事なければ往生成仏は疑なき事に侍り、一切経をたもち諸仏・菩薩を信じたる持戒の人なれども法華経を用る事無ければ悪道に堕つる事疑なしと見えたり。

 
[月水御書 本文]その三に続く


by johsei1129 | 2014-06-22 19:52 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2014年 06月 22日

法華経二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品であると説いた書【月水御書】一

【月水御書(がっすいごしょ】
■出筆時期:文永元年四月十七日(西暦1264年) 四十三歳御作
 鎌倉に住んでいた比企大学三郎熊本の夫人に与えられた書。
■出筆場所:鎌倉
■出筆の経緯:大学三郎の夫人が「法華経一部読誦と一品読誦とは、どちらが正しいのか」また「月水(月経)時における修行は、どうするのが良いか」との質問に答えられるため、本書を認められました。
尚、大学三郎は京都で儒学を習学、順徳天皇に仕えた後鎌倉へ下り、儒官として幕府に仕えた。大聖人が『立正安国論』を北条時頼に提出される際、大学三郎に見せられており、この事を縁として大学三郎は大聖人に帰依する。晩年、大学三郎は自分の邸宅なげうって本行院を建立し自身も出家、自ら本行院日学と称した。婦人ともども大聖人への帰依の志しは生涯変わらず深かったと思われます。
■ご真筆: 現存していない。

[月水御書 本文]その一

与大学三郎妻 伝え承はる御消息の状に云く法華経を日ごとに一品づつ二十八日が間に一部をよみまいらせ候しが当時は薬王品の一品を毎日の所作にし候、ただ・もとの様に一品づつを・よみまいらせ候べきやらんと云云、法華経は一日の所作に一部八巻・二十八品・或は一巻・或は一品・一偈・一句・一字・或は題目ばかりを南無妙法蓮華経と只一遍となへ・或は又一期の間に只一度となへ・或は又一期の間にただ一遍唱うるを聞いて随喜し・或は又随喜する声を聞いて随喜し・是体に五十展転して末になりなば志もうすくなり随喜の心の弱き事・二三歳の幼穉の者のはかなきが如く・牛馬なんどの前後を弁へざるが如くなりとも、他経を学する人の利根にして智慧かしこく・舎利弗・目連・文殊弥勒の如くなる人の諸経を胸の内にうかべて御坐まさん人人の御功徳よりも勝れたる事・百千万億倍なるべきよし・経文並に天台・妙楽の六十巻の中に見え侍り、されば経文には「仏の智慧を以て多少を籌量すとも其の辺を得ず」と説かれて仏の御智慧すら此の人の功徳をば・しろしめさず、仏の智慧のありがたさは此の三千大千世界に七日・若しは二七日なんど・ふる雨の数をだにも・しろしめして御坐候なるが只法華経の一字を唱えたる人の功徳をのみ知しめさずと見えたり、何に況や我等逆罪の凡夫の此の功徳をしり候いなんや、然りと云えども如来滅後二千二百余年に及んで五濁さかりになりて年久し事にふれて善なる事ありがたし、設ひ善を作人も一の善に十の悪を造り重ねて結句は小善につけて大悪を造り心には大善を修したりと云ふ慢心を起す世となれり、然るに如来の世に出でさせ給いて候し国よりしては二十万里の山海をへだてて東によれる日域辺土の小嶋にうまれ・五障の雲厚うして三従の・きづなに・つながれ給へる女人なんどの御身として法華経を御信用候は・ありがたしなんど・とも申すに限りなく候、凡そ一代聖教を披き見て顕密二道を究め給へる様なる智者学匠だにも・近来は法華経を捨て念仏を申し候に何なる御宿善ありてか此の法華経を一偈一句もあそばす御身と生れさせ給いけん。

[月水御書 本文]その二に続く


by johsei1129 | 2014-06-22 00:08 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2014年 06月 18日

行住坐臥に法華経を読み行ずることこそ、人間に生を受けて是れ程の悦びはないと説いた【四恩抄】

【四恩抄(しおんしょう)】
■出筆時期:弘長二年(西暦1263年)一月十六日 四十一歳御作
■出筆場所:伊豆 伊東(流罪中) 地頭伊東祐光の館(毘沙門堂)
■出筆の経緯:大聖人の直信徒、安房の国天津の領主・工藤左近尉吉隆に与えられた書。工藤吉隆は大聖人が伊豆流罪中に御供養をお届けするなど庇護にあたられ、また文永元年1264年)十一月十一日に起こった小松原の法難の時には、身命を捨てて大聖人様をお護りした豪信徒である。伊豆流罪にちなみ、法華経に説かれている「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」の文々は、大聖人ご自身の振る舞いに当てはまることを宣言し大聖人が末法の本仏であることを示唆している。また「行住坐臥に法華経を読み行ずることこそ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」と説き、法華経信仰の大切さを伝え、さらに 仏法を習う身には必ず四恩(一切衆生、父母、国主、三宝)を報ずることが大事だと説いている。
■ご真筆: 現存していない。

[四恩抄 本文]

 抑此の流罪の身になりて候につけて二つの大事あり、一には大なる悦びあり其の故は此の世界をば娑婆と名く娑婆と申すは忍と申す事なり・故に仏をば能忍と名けたてまつる、此の娑婆世界の内に百億の須弥山・百億の日月・百億の四州あり、其の中の中央の須弥山・日月・四州に仏は世に出でまします、此の日本国は其の仏の世に出でまします国よりは丑寅の角にあたりたる小島なり、此の娑婆世界より外の十方の国土は皆浄土にて候へば人の心もやはらかに賢聖をのり悪む事も候はず、此の国土は十方の浄土にすてはてられて候・十悪・五逆・誹謗賢聖・不孝父母・不敬沙門等の科の衆生が三悪道に堕ちて無量劫を経て還つて此の世界に生れて候が、先生の悪業の習気失せずしてややもすれば十悪・五逆を作り賢聖をのり・父母に孝せず沙門をも敬はず候なり、故に釈迦如来・世に出でましませしかば或は毒薬を食に雑て奉り或は刀杖・悪象・師子・悪牛・悪狗等の方便を以て害し奉らんとし・或は女人を犯すと云い・或は卑賤の者・或は殺生の者と云い、或は行き合い奉る時は面を覆うて眼に見奉らじとし、或は戸を閉じ窓を塞ぎ、或は国王大臣の諸人に向つては邪見の者なり高き人を罵者なんど申せしなり、大集経・涅槃経等に見えたり、させる失も仏には・おはしまさざりしかども只此の国のくせ・かたわとして悪業の衆生が生れ集りて候上、第六天の魔王が此の国の衆生を他の浄土へ出さじと・たばかりを成して・かく事にふれて・ひがめる事をなすなり、此のたばかりも詮する所は仏に法華経を説かせまいらせじ料と見えて候、其の故は魔王の習として三悪道の業を作る者をば悦び三善道の業を作る者をば・なげく、又三善道の業を作る者をば・いたうなげかず三乗とならんとする者をば・いたうなげく、又三乗となる者をば・いたうなげかず仏となる業をなす者をば強になげき事にふれて障をなす、法華経は一文・一句なれども耳にふるる者は既に仏になるべきと思ひて、いたう第六天の魔王もなげき思う故に方便をまはして留難をなし経を信ずる心をすてしめんと・たばかる、而るに仏の在世の時は濁世なりといへども五濁と始たりし上仏の御力をも恐れ人の貪・瞋・癡・邪見も強盛ならざりし時だにも竹杖外道は神通第一の目連尊者を殺し、阿闍世王は悪象を放て三界の独尊ををどし奉り、提婆達多は証果の阿羅漢・蓮華比丘尼を害し、瞿伽利尊者は智慧第一の舎利弗に悪名を立てき、何に況や世漸く五濁の盛になりて候をや、況や世末代に入りて法華経をかりそめにも信ぜん者の人に・そねみ・ねたまれん事は・おびただしかるべきか、故に法華経に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」と云云、始に此の文を見候いし時は・さしもやと思い候いしに今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと殊に身に当つて思ひ知れて候へ。

日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども此の御経を若しや我も信を取り人にも縁を結ばしむるかと思うて随分世間の事おだやか・ならんと思いき、世末になりて候へば妻子を帯して候・比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり、恐くは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり、是れ偏に法華経を信ずることの余人よりも少し経文の如く信をも・むけたる故に悪鬼其の身に入つて・そねみを・なすかとをぼえ候へば是れ程の卑賤・無智・無戒の者の二千余年已前に説かれて候・法華経の文にのせられて留難に値うべしと仏記しをかれ・まいらせて候事のうれしさ申し尽くし難く候、此の身に学文つかまつりし事やうやく二十四五年にまかりなるなり、法華経を殊に信じまいらせ候いし事はわづかに此の六七年よりこのかたなり、又信じて候いしかども懈怠の身たる上或は学文と云ひ或は世間の事にさえられて一日にわづかに一巻・一品・題目計なり、去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日の程は昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候、其の故は法華経の故にかかる身となりて候へば行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき。

 凡夫の習い我とはげみて菩提心を発して後生を願うといへども自ら思ひ出し十二時の間に一時・二時こそは・はげみ候へ、是は思ひ出さぬにも御経をよみ読まざるにも法華経を行ずるにて候か、無量劫の間・六道・四生を輪回し候いけるには或は謀叛をおこし強盗・夜打等の罪にてこそ国主より禁をも蒙り流罪・死罪にも行はれ候らめ、是は法華経を弘むるかと思う心の強盛なりしに依つて悪業の衆生に讒言せられて・かかる身になりて候へば定て後生の勤には・なりなんと覚え候、是れ程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は末代には有がたくこそ候らめ、又止事なくめでたき事侍り無量劫の間六道に回り候けるには多くの国主に生れ値ひ奉りて或は寵愛の大臣・関白等ともなり候けん、若し爾らば国を給り財宝・官禄の恩を蒙けるか・法華経流布の国主に値ひ奉り其の国にて法華経の御名を聞いて修行し是を行じて讒言を蒙り流罪に行われまいらせて候国主には未だ値いまいらせ候はぬか、法華経に云く「是の法華経は無量の国中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず何に況んや見ることを得て受 持し読誦せんをや」と云云、されば此の讒言の人・国主こそ我が身には恩深き人には・をわしまし候らめ。


仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か、四恩とは心地観経に云く一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し、又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき、二には父母の恩、六道に生を受くるに必ず父母あり、其の中に或は殺盗・悪律儀・謗法の家に生れぬれば我と其の科を犯さざれども其の業を成就す、然るに今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり、梵天・帝釈・四大天王転輪聖王の家に生まれて三界・四天をゆづられて人天・四衆に恭敬せられんよりも恩重きは今の某が父母なるか、三には国王の恩、天の三光に身をあたため地の五穀に神を養ふこと皆是れ国王の恩なり、其の上今度・法華経を信じ今度・生死を離るべき国主に値い奉れり、争か少分の怨に依つておろかに思ひ奉るべきや、四には三宝の恩、釈迦如来・無量劫の間・菩薩の行を立て給いし時一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり、其の一分をば我が身に用ひ給ふ、今六十三分をば此の世界に留め置きて五濁雑乱の時・非法の盛ならん時・謗法の者・国に充満せん時、無量の守護の善神も法味をなめずして威光・勢力減ぜん時、日月光りを失ひ天竜雨をくださず地神・地味を減ぜん時、草木・根茎・枝葉・華菓・薬等の七味も失せん時、十善の国王も貪瞋癡をまし父母・六親に孝せず・したしからざらん時、我が弟子無智・無戒にして髪ばかりを剃りて守護神にも捨てられて活命のはかりごとなからん比丘比丘尼の命のささへとせんと誓ひ給へり、又果地の三分の功徳・二分をば我が身に用ひ給ひ、仏の寿命・百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ給ふ恩をば四大海の水を硯の水とし一切の草木を焼て墨となして一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも争か仏の恩を報じ奉るべき、法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は法に依る、されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし、次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず、故に大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云つて・是を悩すは此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり、然れば僧の恩を報じ難し、されば三宝の恩を報じ給うべし、古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等・此等は皆我が身を鬼のうちかひとなし身の血髄をうり臂をたき頭を捨て給いき、然るに末代の凡夫・三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん、然るに心地観経・梵網経等には仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり、某は愚癡の凡夫・血肉の身なり三惑一分も断ぜず只法華経の故に罵詈・毀謗せられて刀杖を加えられ流罪せられたるを以て大聖の臂を焼き髄をくだき・頭をはねられたるに・なぞらへんと思ふ、是れ一つの悦びなり。

 第二に大なる歎きと申すは、法華経第四に云く「若し悪人有つて不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん其の罪尚軽し、若し人一つの悪言を以て在家・出家の法華経を読誦する者を毀呰せん其の罪甚だ重し」等と云云、此等の経文を見るに信心を起し身より汗を流し両眼より涙を流すこと雨の如し我一人此の国に生れて多くの人をして一生の業を造らしむることを歎く、彼の不軽菩薩を打擲せし人現身に改悔の心を起せしだにも猶罪消え難くして千劫阿鼻地獄に堕ちぬ、今我に怨を結べる輩は未だ一分も悔る心もおこさず、是体の人の受くる業報を大集経に説いて云く「若し人あつて千万億の仏の所にして仏身より血を出さん意に於て如何・此の人の罪をうる事寧ろ多しとせんや否や、大梵王言さく若し人只一仏の身より血を出さん無間の罪尚多し、無量にして算をおきても数をしらず阿鼻大地獄の中に堕ちん、何に況や万億の仏身より血を出さん者を見んをや、終によく広く彼の人の罪業・果報を説く事ある事なからん但し如来をば除き奉る、仏の言はく大梵王若し我が為に髪をそり袈裟をかけ片時も禁戒をうけず欠犯をうけん者をなやましのり・杖をもつて打ちなんどする事有らば罪をうる事・彼よりは多し」と。

弘長二年壬戌正月十六日                                 日蓮花押
工藤左近尉殿





by johsei1129 | 2014-06-18 20:24 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2014年 06月 17日

天台の止観は釈尊滅後の像法時の正観で、末法では妙法蓮華経こそ正観であることを説いた【立正観抄】四

[立正観抄 本文]その四

 夫れ天台の観法を尋ぬれば大蘇道場に於て三昧開発せしより已来目を開いて妙法を思えば随縁真如なり目を閉じて妙法を思えば不変真如なり此の両種の真如は只一言の妙法に有り我妙法を唱うる時・万法茲に達し一代の修多羅一言に含す、所詮迹門を尋ぬれば迹広く本門を尋ぬれば本高し如かじ己心の妙法を観ぜんにはと思食されしなり、当世の学者此の意を得ざるが故に天台己証の妙法を習い失いて止観は法華経に勝り禅宗は止観に勝れたりと思いて法華経を捨てて止観に付き止観を捨てて禅宗に付くなり、禅宗の一門云く松に藤懸る松枯れ藤枯れて後如何上らずして一枝なんど云える天魔の語を深く信ずる故なり、修多羅の教主は松の如く其の教法は藤の如し各各に諍論すと雖も仏も入滅して教法の威徳も無し爰に知んぬ修多羅の仏教は月を指す指なり禅の一法のみ独妙なり之を観ずれば見性得達するなりと云う大謗法の天魔の所為を信ずる故なり、然而法華経の仏は寿命無量・常住不滅の仏なり、禅宗は滅度の仏と見るが故に外道の無の見なり、是法住法位・世間相常住の金言に背く僻見なり、禅は法華経の方便無得道の禅なるを真実常住法と云うが故に外道の常見なり、若し与えて之を言わば仏の方便三蔵の分斉なり若し奪つて之を言わば但外道の邪法なり与は当分の義・奪は法華の義なり法華の奪の義を以ての故に禅は天魔外道の法と云うなり、問う禅を天魔の法と云う証拠如何、答う前前に申すが如し。

 [立正観抄送状]

 今度の御使い誠に御志の程顕れ候い畢んぬ又種種の御志慥に給候い畢んぬ。
抑承わり候、当世の天台宗等止観は法華経に勝れ禅宗は止観に勝る、又観心の大教興る時は本迹の大教を捨つと云う事先ず天台一宗に於て流流各別なりと雖も慧心・檀那の両流を出でず候なり、慧心流の義に云く止観の一部は本迹二門に亘るなり謂く止観の六に云く「観は仏知と名く止は仏見と名く念念の中に於て止観現前す乃至三乗の近執を除く」文、弘決の五に云く「十法既に是れ法華の所乗なり是の故に還つて法華の文を用いて歎ず、若し迹説に約せば即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し寂滅道場を以て妙悟と為す、若し本門に約せば我本行菩薩道の時を指して以て積劫と為し本成仏の時を以て妙悟と為す本迹二門只是此の十法を求悟す」文、始の一文は本門に限ると見えたり次の文は正しく本迹に亘ると見えたり、止観は本迹に亘ると云う事文証此に依るなりと云えり、次に檀那流には止観は迹門に限ると云う証拠は弘決の三に云く「還つて教味を借つて以て妙円を顕す○故に知んぬ一部の文共に円成の開権妙観を成ずるを」文、此の文に依らば止観は法華の迹門に限ると云う事文に在りて分明なり両流の異義替れども共に本迹を出でず当世の天台宗何くより相承して止観は法華経に勝ると云うや、但し予が所存は止観法華の勝劣は天地雲泥なり。

若し与えて之を論ぜば止観は法華迹門の分斉に似たり、其の故は天台大師の己証とは十徳の中の第一は自解仏乗・第九は玄悟法華円意なり、霊応伝の第四に云く「法華の行を受けて二七日境界す」文、止観の一に云く「此の止観は天台智者己心中に行ずる所の法門を説く」文、弘決の五に云く「故に止観に正しく観法を明すに至つて並びに三千を以て指南と為す○故に序の中に云く己心中に行ずる所の法門を説く」文、己心所行の法とは一念三千・一心三観なり三諦三観の名義は瓔珞・仁王の二経に有りと雖も一心三観一念三千等の己心所行の法門をば迹門十如実相の文を依文として釈成し給い畢んぬ。

 爰に知んぬ止観一部は迹門の分斉に似たりと云う事を若し奪つて之を論ぜば爾前権大乗・即別教の分斉なり其の故は天台己証の止観とは道場所得の妙悟なり所謂天台大師・大蘇の普賢道場に於て三昧開発し証を以て師に白す師の曰く法華の前方便陀羅尼なりと霊応伝の第四に云く「智ぎ・師に代つて金字経を講ず一心具足万行の処に至つてぎ・疑有り思・為に釈して曰く汝が疑う所は此乃ち大品次第の意なるのみ未だ是法華円頓の旨にあらざるなり」文、講ずる所の経既に権大乗経なり又次第と云えり故に別教なり、開発せし陀羅尼又法華前方便と云えり故に知んぬ爾前帯権の経・別教の分斉なりと云う事を・己証既に前方便の陀羅尼なり止観とは己心中所行の法門を説くと云うが故に、明かに知んぬ法華の迹門に及ばずと云う事を何に況や本門をや、若し此の意を得ば檀那流の義尤も吉なり此等の趣を以て止観は法華に勝ると申す邪義をば問答有る可く候か、委細の旨は別に一巻書き進らせ候なり、又日蓮相承の法門血脈慥に之を註し奉る、恐恐謹言

文永十二乙亥二月二十八日                               日 蓮 花押

最蓮房御返事

by johsei1129 | 2014-06-17 21:35 | Comments(0)