日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 03月 31日

末法の本尊とは「法華経の題目を以て本尊とすべし」と明らかにした書【本尊問答抄】その一

【本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう】
■出筆時期:弘安元年九月(西暦1278年) 五十七歳御作
■出筆場所:身延山 草庵にて述作
■出筆の経緯:大聖人が幼少の頃修行した清澄寺時代の兄弟子・浄顕房(後に大聖人に帰依)からの本尊についての質問に答えられている。内容は『末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし』と、明言されている。
尚、大聖人は五十二歳の時、佐渡の地で末法の法本尊について詳細にあかした【観心本尊抄】を書かれると共に、実際にご本尊を自ら墨にてしたためられている。またその年、ご本尊をご下付された信徒に宛てた書【経王殿ご返事』のなかで、本尊について『日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし』と書き記し、諸法実相の体としての『妙法蓮華経』を具現した、末法の本仏の魂魄(こんぱく)をしたためたのが「末法の本尊」であることを明らかにしている。
■ご真筆: 現存していない。時代写本:日興上人書写[断片](北山本門寺 蔵)、日興上人書写(日蓮正宗富久成寺 蔵)

[本尊問答抄 本文] その一
 問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、問うて云く何れの経文何れの人師の釈にか出でたるや、答う法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべし復舎利を安んずることを須いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有す」等云云、涅槃経の第四如来性品に云く「復次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」云云、天台大師の法華三昧に云く「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け」等云云。

 疑つて云く天台大師の摩訶止観の第二の四種三昧の御本尊は阿弥陀仏なり、不空三蔵の法華経の観智の儀軌は釈迦多宝を以て法華経の本尊とせり、汝何ぞ此等の義に相違するや、答えて云く是れ私の義にあらず上に出だすところの経文並びに天台大師の御釈なり、但し摩訶止観の四種三昧の本尊は阿弥陀仏とは彼は常坐・常行・非行非坐の三種の本尊は阿弥陀仏なり、文殊問経・般舟三昧経・請観音経等による、是れ爾前の諸経の内・未顕真実の経なり、半行半坐三昧には二あり、一には方等経の七仏・八菩薩等を本尊とす彼の経による、二には法華経の釈迦・多宝等を引き奉れども法華三昧を以て案ずるに 法華経を本尊とすべし、不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり、此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり。

 問うて云く日本国に十宗あり所謂・倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗なり、此の宗は皆本尊まちまちなり所謂・倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり、法相三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす華厳宗は台上のるさな報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗にも釈迦を用いたり、何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす其の義あるべし、問う其の義如何仏と経といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。

 問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり、問う其証拠如何、答う普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり」等云云、又云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏は是に因つて五眼を具することを得たまえり仏の三種の身は方等より生ず是れ大法印にして涅槃海を印す此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず此の三種の身は人天の福田応供の中の最なり」等云云、此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり。

[本尊問答抄 本文] その二に続く


by johsei1129 | 2014-03-31 21:11 | 御書十大部(五大部除く) | Comments(0)
2014年 03月 28日

『妙法蓮華経』の五字に法華経一部(二十八品)が収まっていることを示した【四信五品抄】

【四信五品抄(ししんごほんしょう】
■出筆時期:建治三年四月十日 五十六歳御作(西暦1277年) 御書10大部の一つ。
■出筆場所:身延山 草庵にて
■出筆の経緯:下総国守護千葉氏の文官で、大聖人立宗当初に入信した最古参の信徒富木常忍より大聖人に「ご本尊に向かって唱題する」ことに関する問いかけがあり、それに答えるべく、本書をしたためておられます。
内容は『妙法蓮華経」の五字に法華経一部(二十八品)が収められていて、これは『日本』の二字に、六十六カ国の人畜財(人・生物・財産)を全て摂尽(含む)していることと同じであると示しされ、さらに法華経一部を収めている題目を唱る功徳は、『小児が乳を含む時に、其の味(栄養分)を知らざれども自然に身を益す』事と同様であると、信徒にも理解できるようわかりやすい比喩を用いて解き明かしておられます。

さらに初心信徒にとって末法の行(修行)は、余文を雑えずひたすら南無妙法蓮華経と唱題することに尽きると本書であかされておられます。
■ご真筆: 中山法華経寺(13紙)所蔵(重要文化財)。古写本:日興上人書写(富士大石寺蔵)

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[真筆本文:下記緑字箇所]

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[日目上人筆・古写本(富士大石寺蔵)]


[四信五品抄 本文] 
 
 青鳧一結送り給び候い了んぬ。
今来の学者一同の御存知に云く「在世滅後異なりと雖も法華を修行するには必ず三学を具す一を欠いても成ぜず」云云。余又年来此の義を存する処一代聖教は且らく之を置く法華経に入つて此の義を見聞するに序正の二段は且らく之を置く流通の一段は末法の明鏡尤も依用と為すべし、而して流通に於て二有り一には所謂迹門の中の法師等の五品・二には所謂本門の中の分別功徳の半品より経を終るまで十一品半なり、此の十一品半と五品と合せて十六品半・此の中に末法に入つて法華を修行する相貌分明なり是に尚事行かずんば普賢経・涅槃経等を引き来りて之れを糾明せんに其の隠れ無きか、其の中の分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要・在世・滅後の亀鏡なり。

 けい谿(けい)の云く「一念信解とは即ち是れ本門立行の首なり」と云云、其の中に現在の四信の初の一念信解と滅後の五品の第一の初随喜と此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋・十方三世の諸仏の出る門なり、天台妙楽の二の聖賢此の二処の位を定むるに三の釈有り所謂或は相似・十信・鉄輪の位・或は観行五品の初品の位・未断見思或は名字即の位なり、止観に其の不定を会して云く「仏意知り難し機に赴きて異説す此を借つて開解せば何ぞ労しく苦に諍わん」云云等。

予が意に云く、三釈の中名字即は経文に叶うか滅後の五品の初の一品を説いて云く「而も毀呰せずして随喜の心を起す」と若し此の文相似の五品に渡らば而不毀呰の言は便ならざるか、就中寿量品の失心不失心等は皆名字即なり、涅槃経に「若信若不信乃至熈連」とあり之を勘えよ、又一念信解の四字の中の信の一字は四信の初めに居し解の一字は後に奪わるる故なり、若し爾らば無解有信は四信の初位に当る経に第二信を説いて云く「略解言趣」と云云、記の九に云く「唯初信を除く初は解無きが故に」随つて次下の随喜品に至つて上の初随喜を重ねて之を分明にす五十人是皆展転劣なり、第五十人に至つて二の釈有り一には謂く第五十人は初随喜の内なり二には謂く第五十人は初随喜の外なりと云うは名字即なり、教弥よ実なれば位弥よ下れりと云う釈は此の意なり、四味三教よりも円教は機を摂し爾前の円教よりも法華経は機を摂し迹門よりも本門は機を尽すなり教弥実位弥下の六字心を留めて案ず可し。

問う末法に入つて初心の行者必ず円の三学を具するや不や、答えて曰く此の義大事たる故に経文を勘え出して貴辺に送付す、所謂五品の初二三品には仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る慧又堪ざれば信を以て慧に代え・信の一字を詮と為す、不信は一闡提謗法の因・信は慧の因・名字即の位なり、天台云く「若し相似の益は隔生すれども忘れず名字観行の益は隔生すれば即ち忘る或は忘れざるも有り忘るる者も若し知識に値えば宿善還つて生ず若し悪友に値えば則ち本心を失う」云云、恐らくは中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も天台・伝教の善知識に違背して心・無畏・不空等の悪友に遷れり、末代の学者・慧心の往生要集の序に誑惑せられて法華の本心を失い弥陀の権門に入る退大取小の者なり、過去を以て之を推するに未来無量劫を経て三悪道に処せん若し悪友に値えば即ち本心を失うとは是なり。

 問うて曰く其の証如何答えて曰く止観第六に云く「前教に其の位を高うする所以は方便の説なればなり円教の位下きは真実の説なればなり」弘決に云く「前教と云うより下は正く権実を判ず教弥よ実なれば位弥よ下く教弥よ権なれば位弥よ高き故に」と、又記の九に云く「位を判ずることをいわば観境弥よ深く実位弥よ下きを顕す」と云云、他宗は且らく之を置く天台一門の学者等何ぞ実位弥下の釈を閣いて慧心僧都の筆を用ゆるや、畏・智・空と覚・証との事は追つて之を習え大事なり大事なり一閻浮提第一の大事なり心有らん人は聞いて後に我を外め。

問うて云く末代初心の行者何物をか制止するや、答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり、疑つて云く此の義未だ見聞せず心を驚かし耳を迷わす明かに証文を引て請う苦に之を示せ、答えて云く経に云く「須く我が為に復た塔寺を起て及び僧坊を作り四事を以て衆僧を供養することをもちいざれ」此の経文明かに初心の行者に檀戒等の五度を制止する文なり、疑つて云く汝が引く所の経文は但寺塔と衆僧と計りを制止して未だ諸の戒等に及ばざるか、答えて曰く初を挙げて後を略す、問て曰く何を以て之を知らん、答えて曰く次下の第四品の経文に云く「況や復人有つて能く是の経を持ちて兼ねて布施・持戒等を行ぜんをや」云云。

 経文分明に初二三品の人には檀戒等の五度を制止し第四品に至つて始めて之を許す後に許すを以て知んぬ初に制する事を、問うて曰く経文一往相似たり将た又疏釈有りや、答えて曰く汝が尋ぬる所の釈とは月氏四依の論か将た又漢土日本の人師の書か本を捨て末を尋ね体を離れて影を求め源を忘れて流を貴ぶ分明なる経文を閣いて論釈を請い尋ぬ本経に相違する末釈有らば本経を捨てて末釈に付く可きか然りと雖も好みに随て之を示さん、文句の九に云く「初心は縁に紛動せられて正業を修するを妨げんことを畏る直ちに専ら此の経を持つ即ち上供養なり事を廃して理を存するは所益弘多なり」と、此の釈に縁と云うは五度なり初心の者兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐるなり、譬えば小船に財を積んで海を渡るに財と倶に没するが如し、直専持此経と云うは一経に亘るに非ず専ら題目を持つて余文を雑えず尚一経の読誦だも許さず何に況や五度をや、「廃事存理」と云うは戒等の事を捨てて題目の理を専らにす云云、所益弘多とは初心の者諸行と題目と並び行ずれば所益全く失うと云云。

文句に云く「問う若爾らば経を持つは即ち是れ第一義の戒なり何が故ぞ復能く戒を持つ者と言うや、答う此は初品を明かす後を以て難を作すべからず」等云云、当世の学者此の釈を見ずして末代の愚人を以て南岳天台の二聖に同ず誤りの中の誤りなり、妙楽重ねて之を明して云く「問う若し爾らば若し事の塔及び色身の骨を須いず亦須く事の戒を持つべからざるべし乃至事の僧を供養することを須いざるや」等云云、伝教大師の云く「二百五十戒忽に捨て畢んぬ」唯教大師一人に限るに非ず鑒真の弟子・如宝・道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ、又教大師未来を誡めて云く「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」云云。

 問う汝何ぞ一念三千の観門を勧進せず唯題目許りを唱えしむるや。答えて曰く日本の二字に六十六国の人畜財を摂尽して一も残さず月氏の両字に豈七十ケ国無からんや、妙楽の云く「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」又云く「略して界如を挙ぐるに具さに三千を摂す、文殊師利菩薩・阿難尊者・三会八年の間の仏語之を挙げて妙法蓮華経と題し次下に領解して云く「如是我聞」と云云。

問う其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱うるに解義の功徳を具するや否や、答う小児乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益す耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん水心無けれども火を消し火物を焼く豈覚有らんや竜樹・天台皆此の意なり重ねて示す可し。

問う何が故ぞ題目に万法を含むや、答う章安の云く「蓋し序王とは経の玄意を叙す玄意は文の心を述す文の心は迹本に過ぎたるは莫し」妙楽の云く「法華の文心を出して諸教の所以を弁ず」云云、濁水心無けれども月を得て自ら清めり草木雨を得豈覚有つて花さくならんや妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ、初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり。

問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ、妙楽の云く「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養すること有る者は福十号に過ぐ」と、優陀延王は賓頭盧尊者を蔑如して七年の内に身を喪失し相州は日蓮を流罪して百日の内に兵乱に遇えり、経に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さん若は実にもあれ若は不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん乃至諸悪重病あるべし」又云く「当に世世に眼無かるべし」等云云、明心と円智とは現に白癩を得・道阿弥は無眼の者と成りぬ、国中の疫病は頭破七分なり罰を以て徳を推するに我が門人等は福過十号疑い無き者なり。

夫れ人王三十代欽明の御宇に始めて仏法渡りし以来桓武の御宇に至るまで二十代二百余年の間六宗有りと雖も仏法未だ定らず、爰に延暦年中に一りの聖人有つて此の国に出現せり所謂伝教大師是なり、此の人先きより弘通する六宗を糾明し七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し諸寺を取つて末寺と為す、日本の仏法唯一門なり王法も二に非ず法定まり国清めり其の功を論ぜば源已今当の文より出でたり其の後弘法・慈覚・智証の三大師事を漢土に寄せて大日の三部は法華経に勝ると謂い剰さえ教大師の削ずる所の真言宗の宗の一字之を副えて八宗と云云。

三人一同に勅宣を申し下して日本に弘通し寺毎に法華経の義を破る是偏に已今当の文を破らんと為して釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵と成りぬ、然して後仏法漸く廃れ王法次第に衰え天照太神・正八幡等の久住の守護神は力を失い梵帝四天は国を去つて已に亡国と成らんとす情有らん人誰か傷み嗟かざらんや、所詮三大師の邪法の興る所は所謂東寺と叡山の総持院と園城寺との三所なり禁止せずんば国土の滅亡と衆生の悪道と疑い無き者か予粗此の旨を勘え国主に示すと雖も敢て叙用無し悲む可し悲む可し。

[四信五品抄 本文] 完




by johsei1129 | 2014-03-28 17:32 | 御書十大部(五大部除く) | Comments(0)
2014年 03月 25日

『妙法蓮華経』の体(実体)は、十界の依正であることをあかした書【当体義抄】 その三

[当体義抄 本文] その三
問う如来の在世に誰か当体の蓮華を証得せるや、答う四味三教の時は三乗・五乗・七方便・九法界・帯権の円の菩薩並びに教主乃至法華迹門の教主総じて本門寿量の教主を除くの外は本門の当体蓮華の名をも聞かず何に況んや証得せんをや、開三顕一の無上菩提の蓮華尚四十余年には之を顕さず、故に無量義経に終不得成無上菩提とて迹門開三顕一の蓮華は爾前に之を説かずと云うなり、何に況んや開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華をば迹化弥勒等之を知る可きや、問う何を以て爾前の円の菩薩・迹門の円の菩薩は本門の当体蓮華を証得せずと云う事を知ることを得ん、答う爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らず迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らざるなり、天台云く「権教の補処は迹化の衆を知らず迹化の衆は本化の衆を知らず」文、伝教大師云く「是直道なりと雖も大直道ならず」云云、或は云く「未だ菩提の大直道を知らざるが故に」云云此の意なり、爾前迹門の菩薩は一分断惑証理の義分有りと雖も本門に対するの時は当分の断惑にして跨節の断惑に非ず未断惑と云わるるなり、然れば菩薩処処得入と釈すれども二乗を嫌うの時一往得入の名を与うるなり、故に爾前迹門の大菩薩が仏の蓮華を証得する事は本門の時なり真実の断惑は寿量の一品を聞きし時なり、天台大師・涌出品の五十小劫・仏の神力の故に・諸の大衆をして半日の如しと謂わしむの文を釈して云く「解者は短に即して長・五十小劫と見る惑者は長に即して短・半日の如しと謂えり」文、妙楽之を受けて釈して云く「菩薩已に無明を破す之を称して解と為す大衆仍お賢位に居す之を名けて惑と為す」文、釈の意分明なり爾前迹門の菩薩は惑者なり地涌の菩薩のみ独り解者なりと云う事なり、然るに当世天台宗の人の中に本迹の同異を論ずる時・異り無しと云つて此の文を料簡するに解者の中に迹化の衆入りたりと云うは大なる僻見なり経の文・釈の義分明なり何ぞ横計を為す可けんや、文の如きは地涌の菩薩五十小劫の間如来を称揚するを霊山迹化の衆は半日の如く謂えりと説き給えるを天台は解者惑者を出して迹化の衆は惑者の故に半日と思えり是れ即ち僻見なり、地涌の菩薩は解者の故に五十小劫と見る是れ即ち正見なりと釈し給えるなり、妙楽之を受けて無明を破する菩薩は解者なり未だ無明を破せざる菩薩は惑者なりと釈し給いし事文に在つて分明なり、迹化の菩薩なりとも住上の菩薩は已に無明を破する菩薩なりと云わん学者は無得道の諸経を有得道と習いし故なり、爾前迹門の当分に妙覚の位有りと雖も本門寿量の真仏に望むる時は惑者仍お賢位に居ると云わるる者なり権教の三身未だ無常を免れざる故は夢中の虚仏なるが故なり、爾前と迹化の衆とは未だ本門に至らざる時は未断惑の者と云われ彼に至る時正しく初住に叶うなり、妙楽の釈に云く「開迹顕本皆初住に入る」文、仍賢位に居すの釈之を思い合すべし、爾前迹化の衆は惑者未だ無明を破せざる仏菩薩なりと云う事真実なり真実なり、故に知ぬ本門寿量の説顕れての後は霊山一会の衆皆悉く当体蓮華を証得せしなり、二乗・闡提・定性・女人・悪人等も本仏の蓮華を証得するなり、伝教大師一大事の蓮華を釈して云く「法華の肝心・一大事の因縁は蓮華の所顕なり、一とは一実相なり大とは性広博なり事とは法性の事なり一究竟事は円の理教智行、円の身・若・達なり一乗・三乗・定性・不定性・内道・外道・阿闡・阿顛・皆悉く一切智地に到る是の一大事仏の知見を開示し悟入して一切成仏す」女人・闡提・定性・二乗等の極悪人霊山に於て当体蓮華を証得するを云うなり。

 問う末法今時誰れ人か当体蓮華を証得せるや、答う当世の体を見るに大阿鼻地獄の当体を証得する人之れ多しと雖も仏の蓮華を証得せるの人之れ無し其の故は無得道の権教方便を信仰して法華の当体真実の蓮華を毀謗する故なり、仏説いて云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」文、天台云く「此の経は遍く六道の仏種を開く若此の経を謗せば義・断ずるに当るなり」文、日蓮云く此の経は是れ十界の仏種に通ず若し此の経を謗せば義是れ十界の仏種を断ずるに当る是の人無間に於て決定して堕在す何ぞ出ずる期を得んや、然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり、問う南岳・天台・伝教等の大師法華経に依つて一乗円宗の教法を弘通し給うと雖も未だ南無妙法蓮華経と唱えたまわざるは如何、若し爾らば此の大師等は未だ当体蓮華を知らず又証得したまわずと云うべきや、答う南岳大師は観音の化身・天台大師は薬王の化身なり等云云、若し爾らば霊山に於て本門寿量の説を聞きし時は之を証得すと雖も在生の時は妙法流布の時に非ず、故に妙法の名字を替えて止観と号し一念三千・一心三観を修し給いしなり、但し此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱うる事を自行真実の内証と思食されしなり、南岳大師の法華懺法に云く「南無妙法蓮華経」文、天台大師の云く「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文、又云く「稽首妙法蓮華経」云云、又「帰命妙法蓮華経」云云、伝教大師の最後臨終の十生願の記に云く「南無妙法蓮華経」云云、問う文証分明なり何ぞ是くの如く弘通したまわざるや、答う此れに於て二意有り一には時の至らざるが故に二には付属に非ざるが故なり、凡そ妙法の五字は末法流布の大白法なり地涌千界の大士の付属なり是の故に南岳・天台・伝教等は内に鑑みて末法の導師に之を譲りて弘通し給わざりしなり。

【当体義抄送状】

 問う当体の蓮華解し難し故に譬喩を仮りて之を顕すとは経文に証拠有るか、答う経に云く「世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し地より而も涌出す」云云、地涌の菩薩の当体蓮華なり、譬喩は知るべし以上後日に之を改め書すべし、此の法門は妙経所詮の理にして釈迦如来の御本懐・地涌の大士に付属せる末法に弘通せん経の肝心なり、国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり、日蓮最蓮房に伝え畢んぬ。
                                                           日蓮花押

by johsei1129 | 2014-03-25 18:16 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2014年 03月 24日

『妙法蓮華経』の体(実体)は、十界の依正であることをあかした書【当体義抄】 その二

[当体義抄 本文] その二
 問う劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや、答う釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり、今日又・中天竺摩訶陀国に出世して此の蓮華を顕わさんと欲すに機無く時無し故に一法の蓮華に於て三の草華を分別し三乗の権法を施し擬宜誘引せしこと四十余年なり、此の間は衆生の根性万差なれば種種の草華を施し設けて終に妙法蓮華を施したまわざる故に、無量義経に云く「我先に道場菩提樹下乃至四十余年未だ真実を顕さず」文、法華経に至つて四味三教の方便の権教・小乗・種種の草華を捨てて唯一の妙法蓮華を説き三の華草を開して一の妙法蓮華を顕す時、四味・三教の権人に初住の蓮華を授けしより始めて開近顕遠の蓮華に至つて二住・三住乃至十住・等覚・妙覚の極果の蓮華を得るなり。

 問う法華経は何れの品何れの文にか正しく当体譬喩の蓮華を説き分けたるや、答う若し三周の声聞に約して之を論ぜば方便の一品は皆是当体蓮華を説けるなり、譬喩品・化城喩品には譬喩蓮華を説きしなり、但方便品にも譬喩蓮華無きに非ず余品にも当体蓮華無きに非ざるなり、問う若し爾らば正く当体蓮華を説きし文は何れぞや答う方便品の諸法実相の文是なり、問う何を以て此の文が当体蓮華なりと云う事を知ることを得るや、答う天台妙楽今の文を引て今経の体を釈せし故なり、又伝教大師釈して云く「問う法華経は何を以て体と為すや、答う諸法実相を以て体と為す」文、此の釈分明なり当世の学者此の釈を秘して名を顕さず然るに此の文の名を妙法蓮華と曰う義なり、又現証は宝塔品の三身是れ現証なり、或は涌出の菩薩・竜女の即身成仏是なり、地涌の菩薩を現証と為す事は経文に如蓮華在水と云う故なり、菩薩の当体と聞たり竜女を証拠と為す事は霊鷲山に詣で千葉の蓮華の大いさ車輪の如くなるに坐しと説きたまう故なり、又妙音・観音の三十三・四身なり是をば解釈には法華三昧の不思議・自在の業を証得するに非ざるよりは安ぞ能く此の三十三身を現ぜんと云云、或は「世間相常住」文、此等は皆当世の学者の勘文なり、然りと雖も日蓮は方便品の文と神力品の如来一切所有之法等の文となり、此の文をば天台大師も之を引いて今経の五重玄を釈せしなり、殊更此の一文正しき証文なり。

 問う次上に引く所の文証・現証・殊勝なり何ぞ神力の一文に執するや、答う此の一文は深意有る故に殊更に吉なり、問う其の深意如何、答う此の文は釈尊・本眷属地涌の菩薩に結要の五字の当体を付属すと説きたまえる文なる故なり、久遠実成の釈迦如来は我が昔の所願の如き今は已に満足す、一切衆生を化して皆仏道に入ら令むとて御願已に満足し、如来の滅後・後五百歳中・広宣流布の付属を説かんが為地涌の菩薩を召し出し本門の当体蓮華を要を以て付属し給える文なれば釈尊出世の本懐・道場所得の秘法・末法の我等が現当二世を成就する当体蓮華の誠証は此の文なり。

故に末法今時に於て如来の御使より外に当体蓮華の証文を知つて出す人都て有る可からざるなり真実以て秘文なり真実以て大事なり真実以て尊きなり、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経爾前の円の菩薩等の今経に大衆八万有つて具足の道を聞かんと欲す云云、是なり。
問う当流の法門の意は諸宗の人来つて当体蓮華の証文を問わん時は法華経何れの文を出す可きや、答う二十八品の始に妙法蓮華経と題す此の文を出す可きなり。
問う何を以て品品の題目は当体蓮華なりと云う事を知ることを得るや、故は天台大師今経の首題を釈する時・蓮華とは譬喩を挙ぐると云つて譬喩蓮華と釈し給える者をや、
答う題目の蓮華は当体譬喩を合説す天台の今の釈は譬喩の辺を釈する時の釈なり、玄文第一の本迹の六譬は此の意なり同じく第七は当体の辺を釈するなり、故に天台は題目の蓮華を以て当体譬喩の両説を釈する故に失無し、問う何を以て題目の蓮華は当体譬喩合説すと云う事を知ることを得んや、南岳大師も妙法蓮華経の五字を釈する時「妙とは衆生妙なるに故に法とは衆生法なる故に蓮華とは是れ譬喩を借るなり」文。

南岳天台の釈既に譬喩蓮華なりと釈し給う如何、答う南岳の釈も天台の釈の如し云云、但当体・譬喩合説すと云う事経文分明ならずと雖も南岳天台既に天親・竜樹の論に依て合説の意を判釈せり、所謂法華論に云く「妙法蓮華とは二種の義有り一には出水の義、乃至泥水を出るをば諸の声聞・如来大衆の中に入つて坐し諸の菩薩の如く蓮華の上に坐して如来無上智慧・清浄の境界を説くを聞いて如来の密蔵を証するを喩うるが故に・二に華開とは諸の衆生・大乗の中に於て其心怯弱にして信を生ずること能わず故に如来の浄妙法身を開示して信心を生ぜしめんが故なり」文、諸の菩薩の諸の字は法華已前の大小の諸菩薩法華経に来つて仏の蓮華を得ると云う事法華論の文分明なり、故に知ぬ菩薩処処得入とは方便なり、天台此の論の文を釈して云く今論の意を解せば若し衆生をして浄妙法身を見せしむと言わば此れ妙因の開発するを以つて蓮華と為るなり、若し如来大衆に入るに蓮華の上に坐すと言わば此は妙報の国土を以て蓮華と為るなり、

又天台が当体譬喩合説する様を委細に釈し給う時大集経の我今仏の蓮華を敬礼すと云う文と法華論の今の文とを引証して釈して云く「若し大集に依れば行法の因果を蓮華と為す菩薩上に処すれば即ち是れ因の華なり仏の蓮華を礼すれば即ち是れ果の華なり、若し法華論に依れば依報の国土を以て蓮華と為す復菩薩・蓮華の行を修するに由つて報・蓮華の国土を得当に知るべし依正因果悉く是れ蓮華の法なり、何ぞ譬をもつて顕すことをもちいん鈍人の法性の蓮華を解せざる為の故に世の華を挙げて譬と為す亦何の妨げかあるべき」文、又云く若し蓮華に非んば何に由つて遍く上来の諸法を喩えん法譬雙べ弁ずる故に妙法蓮華と称するなり、

次に竜樹菩薩の大論に云く「蓮華とは法譬並びに挙ぐるなり」文、伝教大師が天親・竜樹の二論の文を釈して云く「論の文但妙法蓮華経と名くるに二種の義あり唯蓮華に二種の義有りと謂うには非ず、凡そ法喩とは相い似たるを好しと為す若し相い似ずんば何を以てか他を解せしめん、是の故に釈論に法喩並び挙ぐ一心の妙法蓮華は因華・果台・倶時に増長す此の義解し難し喩を仮れば解し易し此の理教を詮ずるを名けて妙法蓮華経と為す」文、
此等の論文釈義分明なり文に在つて見る可し包蔵せざるが故に合説の義極成せり、凡そ法華経の意は譬喩即法体・法体即譬喩なり、故に伝教大師釈して云く「今経は譬喩多しと雖も大喩は是れ七喩なり此の七喩は即ち法体・法体は即ち譬喩なり、故に譬喩の外に法体無く法体の外に譬喩無し、但し法体とは法性の理体なり譬喩とは即ち妙法の事相の体なり事相即理体なり理体即事相なり故に法譬一体とは云うなり、是を以て論文山家の釈に皆蓮華を釈するには法譬並べ挙ぐ」等云云、釈の意分明なる故重ねて云わず。

[当体義抄 本文] その三に続く




by johsei1129 | 2014-03-24 18:32 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2014年 03月 23日

『妙法蓮華経』の体(実体)は、十界の依正であることをあかした書【当体義抄】 その一

【当体義抄(とうたいぎしょう】
■出筆時期:文永十年、五十二歳御作(西暦1273年)
■出筆場所:佐渡ヶ島 一谷(いちのさわ)にて述作
■出筆の経緯:妙法蓮華経の体(実体)について、十界の依正[一切衆生及び国土(自然)]が、すなわち妙法蓮華経の当体であることを明かしている。 尚、依正とは、依報・正報の事で、仏法では人間と、それをとりまく国土(自然)は相互に密接に影響し合っている存在で、このことを「依正不ニ」と言い表している。
■本書は佐渡で大聖人に帰依した最蓮房に与えられている。最蓮房はもともと天台宗の学僧で、文永九年の一月十六日、十七日の二日間、大聖人が既存諸宗派・数百人の僧侶と法論された「塚原問答」を聴聞し、大聖人の確信に触れ、翌二月初旬に大聖人の弟子となり、日浄の名を頂いている。
■ご真筆: 現存していない。

[当体義抄 本文] その一

日蓮之を勘う

 問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり経に云く「所謂諸法・乃至・本末究竟等」云云、妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土」と云云、天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云、南岳大師云く「云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云、又天台釈して云く「衆生法妙」と云云。
 
 問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや、答う法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり、譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し、真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり、譬えば人夢に種種の善悪の業を見・夢覚めて後に之を思えば我が一心に見る所の夢なるが如し、一心は法性真如の一理なり夢の善悪は迷悟の無明法性なり、是くの如く意得れば悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為す可きなり。

大円覚修多羅了義経に云く「一切諸の衆生の無始の幻無明は皆諸の如来の円覚の心従り建立す」云云、天台大師の止観に云く「無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る」云云、妙楽大師の釈に云く「理性体無し全く無明に依る無明体無し全く法性に依る」云云、無明は所断の迷・法性は所証の理なり何ぞ体一なりと云うやと云える不審をば此等の文義を以て意得可きなり、大論九十五の夢の譬・天台一家の玉の譬誠に面白く思うなり、正く無明法性其の体一なりと云う証拠は法華経に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、大論に云く「明と無明と異無く別無し是くの如く知るをば是を中道と名く」云云、但真如の妙理に染浄の二法有りと云う事・証文之れ多しと雖も華厳経に云く「心仏及衆生是三無差別」の文と法華経の諸法実相の文とには過ぐ可からざるなり南岳大師の云く「心体に染浄の二法を具足して而も異相無く一味平等なり」云云、又明鏡の譬真実に一二なり委くは大乗止観の釈の如し又能き釈には籤の六に云く「三千理に在れば同じく無明と名け三千果成すれば咸く常楽と称す三千改むること無ければ無明即明・三千並に常なれば倶体倶用なり」文、此の釈分明なり。

 問う一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや、答う当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず謂ゆる権教の人・実教の人なり而も権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云わる可からず実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華・真如の妙体是なり涅槃経に云く「一切衆生大乗を信ずる故に大乗の衆生と名く」文、南岳大師の四安楽行に云く「大強精進経に云く衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す」文、又云く「法華経を修行するは此の一心一学に衆果普く備わる一時に具足して次第入に非ず亦蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し是を一乗の衆生の義と名く」文、又云く「二乗声聞及び鈍根の菩薩は方便道の中の次第修学なり利根の菩薩は正直に方便を捨て次第行を修せず若し法華三昧を証すれば衆果悉く具足す是を一乗の衆生と名く」文。

南岳の釈の意は次第行の三字をば当世の学者は別教なりと料簡す、然るに此の釈の意は法華の因果具足の道に対して方便道を次第行と云う故に爾前の円・爾前の諸大乗経並びに頓漸大小の諸経なり・証拠は無量義経に云く「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて菩薩の歴劫修行を宣説す」文、利根の菩薩は正直に方便を捨てて次第行を修せず若し法華経を証する時は衆果悉く具足す是を一乗の衆生と名くるなり・此等の文の意を案ずるに三乗・五乗・七方便・九法界・四味三教・一切の凡聖等をば大乗の衆生妙法蓮華の当体とは名く可からざるなり、設い仏なりと雖も権教の仏をば仏界の名言を付く可からず権教の三身は未だ無常を免れざる故に何に況や其の余の界界の名言をや、故に正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり、南岳釈して云く「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、是の故に法華経に云く「父母所生清浄常眼耳鼻舌身意亦復如是」文、又云く「問うて云く仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、答えて云く大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文、他経に有りと雖も下文顕れ已れば通じて引用することを得るなり。

大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり不同共の念仏者等は既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり、所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり。
正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり。能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり、是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり。敢て之を疑う可からず之を疑う可からず。

問う天台大師・妙法蓮華の当体譬喩の二義を釈し給えり爾れば其の当体譬喩の蓮華の様は如何、答う譬喩の蓮華とは施開廃の三釈委く之を見るべし、当体蓮華の釈は玄義第七に云く「蓮華は譬えに非ず当体に名を得・類せば劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文、又云く「今蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず乃ち是れ法華の法門なり法華の法門は清浄にして因果微妙なれば此の法門を名けて蓮華と為す即ち是れ法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり」

又云く「問う蓮華定めて是れ法華三昧の蓮華なりや定めて是れ華草の蓮華なりや、答う定めて是れ法蓮華なり法蓮華解し難し故に草花を喩と為す利根は名に即して理を解し譬喩を仮らず但法華の解を作す中下は未だ悟らず譬を須いて乃ち知る易解の蓮華を以て難解の蓮華に喩う、故に三周の説法有つて上中下根に逗う上根に約すれば是れ法の名・中下に約すれば是れ譬の名なり三根合論し雙べて法譬を標す是くの如く解する者は誰とか諍うことを為さんや」云云。

此の釈の意は至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり。
聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、故に伝教大師云く「一心の妙法蓮華とは因華・果台・倶時に増長す三周各各当体譬喩有り。

総じて一経に皆当体譬喩あり別して七譬・三平等・十無上の法門有りて皆当体蓮華有るなり、此の理を詮ずる教を名けて妙法蓮華経と為す」云云、妙楽大師の云く「須く七譬を以て各蓮華権実の義に対すべし○何者蓮華は只是れ為実施権・開権顕実・七譬皆然なり」文、又劫初に華草有り聖人理を見て号して蓮華と名く此の華草・因果倶時なること妙法蓮華に似たり故に此の華草同じく蓮華と名くるなり水中に生ずる赤蓮華・白蓮華等の蓮華是なり、譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり此の華草を以て難解の妙法蓮華を顕す天台大師の妙法は解し難し譬を仮りて顕れ易しと釈するは是の意なり。
 
[当体義抄 本文] その二に続く





by johsei1129 | 2014-03-23 21:24 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2014年 03月 21日

『妙法蓮華経』こそが末法弘通の本尊であることを明かした書『法華取要抄』 その三

[法華取要抄 本文] その三
 問うて云く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり、問うて曰く正像等に何ぞ弘通せざるや、答えて曰く正像に之を弘通せば小乗・権大乗・迹門の法門・一時に滅尽す可きなり、問うて曰く仏法を滅尽するの法何ぞ之を弘通せんや、答えて曰く末法に於ては大小・権実・顕密共に教のみ有つて得道無し一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ、逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり、疑つて云く何ぞ広略を捨て要を取るや、答えて曰く玄奘三蔵は略を捨てて広を好み四十巻の大品経を六百巻と成す羅什三蔵は広を捨て略を好む千巻の大論を百巻と成せり、日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり、九包淵が馬を相するの法は玄黄を略して駿逸を取る支道林が経を講ずるには細科を捨てて元意を取る等云云、仏既に宝塔に入つて二仏座を並べ分身来集し地涌を召し出し肝要を取つて末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有る可からず。

疑って云く今世に此の法を流布せば先相之れ有りや、答えて曰く法華経に「如是相乃至本末究竟等」云云、天台云く「蜘虫掛りて喜び事来たりかん鵲鳴いて客人来る小事猶以て是くの如し何に況や大事をや」取意、問うて曰く若し爾れば其の相之れ有りや、答えて曰く去ぬる正嘉年中の大地震・文永の大彗星・其より已後今に種種の大なる天変・地夭此等は此先相なり、仁王経の七難・二十九難・無量の難、金光明経・大集経・守護経・薬師経等の諸経に挙ぐる所の諸難皆之有り但し無き所は二三四五の日出る大難なり、而るを今年佐渡の国の土民は口口に云う今年正月廿三日の申の時西の方に二の日出現す或は云く三の日出現す等云云、二月五日には東方に明星二つ並び出ず其の中間は三寸計り等云云、此の大難は日本国先代にも未だ之有らざるか、最勝王経の王法正論品に云く「変化の流星堕ち二の日倶時に出で他方の怨賊来つて国人喪乱に遭う」等云云、首楞厳経に云く「或は二の日を見し或は両つの月を見す」等、薬師経に云く「日月薄蝕の難」等云云、金光明経に云く「彗星数ば出で両つの日並び現じ薄蝕恒無し」大集経に云く「仏法実に隠没せば乃至日月明を現ぜず」仁王経に云く「日月度を失い時節返逆し或は赤日出で黒日出で二三四五の日出ず或は日蝕して光無く或は日輪一重二三四五重輪現ぜん」等云云、此の日月等の難は七難二十九難無量の諸難の中に第一の大悪難なり、問うて曰く此等の大中小の諸難は何に因つて之を起すや、答えて曰く「最勝王経に曰く非法を行ずる者を見て当に愛敬を生じ善法を行ずる人に於て苦楚して治罰す」等云云、法華経に云く・涅槃経に云く・金光明経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行われず」等云云、大集経に云く「仏法実に隠没し乃至是くの如き不善業の悪王悪比丘我が正法を毀壊す」等、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起る」等、又云く「法に非ず律に非ず比丘を繋縛すること獄囚の法の如くす爾の時に当つて法滅せんこと久しからず」等、又云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説かん其の王別まえずして此の語を信聴せん」等云云、此等の明鏡を齎て当時の日本国を引き向うるに天地を浮ぶること宛も符契の如し眼有らん我が門弟は之を見よ、当に知るべし此の国に悪比丘等有つて天子・王子・将軍等に向つて讒訴を企て聖人を失う世なり、問うて曰く弗舎密多羅王・会昌天子・守屋等は月支・真旦・日本の仏法を滅失し提婆菩薩・師子尊者等を殺害す其の時何ぞ此の大難を出さざるや、答えて曰く災難は人に随つて大小有る可し正像二千年の間悪王悪比丘等は或は外道を用い或は道士を語らい或は邪神を信ず仏法を滅失すること大なるに似たれども其の科尚浅きか、今当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは小を以て大を打ち権を以て実を失う人心を削て身を失わず寺塔を焼き尽さずして自然に之を喪す其の失前代に超過せるなり。

我が門弟之を見て法華経を信用せよ目を瞋らして鏡に向え、天瞋るは人に失有ればなり、二の日並び出るは一国に二の国王並ぶ相なり、王と王との闘諍なり、星の日月を犯すは臣・王を犯す相なり、日と日と
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[真筆箇所本文]
競出四天下一同諍論也
明星並出太子与太子諍
論也 如是乱國土後 出現
上行等聖人 本門三法門
建立之 一四天四海一同妙
法蓮華經廣宣流布
無疑者歟

競い出るは四天下一同の諍論なり、明星並び出るは太子と太子との諍論なり、是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無き者か。

[法華取要抄 本文] 完。

by johsei1129 | 2014-03-21 20:06 | 御書十大部(五大部除く) | Comments(0)
2014年 03月 20日

『妙法蓮華経』こそが末法弘通の本尊であることを明かした書『法華取要抄』 その二

[法華取要抄 本文] その二
 夫れ諸宗の人師等或は旧訳の経論を見て新訳の聖典を見ず或は新訳の経論を見て旧訳を捨置き或は自宗の曲に執著して己義に随い愚見を注し止めて後代に之を加添す。
株杭に驚き騒ぎて兎獣を尋ね求め智円扇に発して仰いで天月を見る非を捨て理を取るは智人なり。

今末の論師・本の人師の邪義を捨て置いて専ら本経本論を引き見るに、五十余年の諸経の中に法華経第四法師品の中の已今当の三字最も第一なり。

諸の論師・諸の人師定めて此経文を見けるか、然りと雖も或は相似の経文に狂い或は本師の邪会に執し或は王臣等の帰依を恐るるか、所謂金光明経の「是諸経之王」密厳経の「一切経中勝」六波羅蜜経の「総持第一」大日経の「云何菩提」華厳経の「能信是経・最為難」般若経の「会入法性・不見一事」大智度論の「般若波羅蜜最第一」涅槃論の「今者涅槃理」等なり。

此等の諸文は法華経の已今当の三字に相似せる文なり。然りと雖も或は梵帝・四天等の諸経に対当すれば是れ諸経の王なり或は小乗経に相対すれば諸経の中の王なり、或は華厳・勝鬘等の経に相対すれば一切経の中に勝れたり全く五十余年の大小・権実・顕密の諸経に相対して是れ諸経の王の大王なるに非ず、所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり。
強敵を臥伏するに始て大力を知見する是なり、其の上諸経の勝劣は釈尊一仏の浅深なり全く多宝分身の助言を加うるに非ず私説を以て公事に混ずる事勿れ、

諸経は或は二乗凡夫に対揚して小乗経を演説し、或は文殊・解脱月・金剛薩た等の弘伝の菩薩に対向して全く地涌千界の上行等には非ず、今・法華経と諸経とを相対するに一代に超過すること二十種之有り、其の中最要二有り所謂三五の二法なり三とは三千塵点劫なり諸経は或は釈尊の因位を明すこと或は三祇・或は動逾塵劫・或は無量劫なり、梵王云く此の土には二十九劫より已来知行の主なり第六天・帝釈・四天王等も以て是くの如し、釈尊と梵王等と始めて知行の先後之を諍論す爾りと雖も一指を挙げて之を降伏してより已来梵天頭を傾け魔王掌を合せ三界の衆生をして釈尊に帰伏せしむる是なり、又諸仏の因位と釈尊の因位と之を糾明するに諸仏の因位は或は三祇或は五劫等なり釈尊の因位は既に三千塵点劫より已来娑婆世界の一切衆生の結縁の大士なり。

此の世界の六道の一切衆生は他土の他の菩薩に有縁の者一人も之無し、法華経に云く「爾の時に法を聞く者は各諸仏の所に在り」等云云、天台云く「西方は仏別に縁異り故に子父の義成せず」等云云。
妙楽云く「弥陀釈迦二仏既に殊なり況や宿昔の縁別にして化導同じからざるをや結縁は生の如く成熟は養の如し生養縁異れば父子成ぜず」等云云、当世日本国の一切衆生弥陀の来迎を待つは譬えば牛の子に馬の乳を含め瓦の鏡に天月を浮ぶるが如し、又果位を以て之を論ずれば諸仏如来或は十劫・百劫・千劫已来の過去の仏なり。

教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従等なり、天月の万水に浮ぶ是なり、華厳経の十方台上の毘盧遮那・大日経・金剛頂経・両界の大日如来は宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり、例せば世の王の両臣の如し此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり、此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり不孝の失に依つて今に覚知せずと雖も他方の衆生には似る可からず、有縁の仏と結縁の衆生とは譬えば天月の清水に浮ぶが如く無縁の仏と衆生とは譬えば聾者の雷の声を聞き盲者の日月に向うが如し。

而るに或る人師は釈尊を下して大日如来を仰崇し或る人師は世尊は無縁なり阿弥陀は有縁なり、或る人師の云く小乗の釈尊と或は華厳経の釈尊と或は法華経迹門の釈尊と此等の諸師並びに檀那等釈尊を忘れて諸仏を取ることは例せば阿闍世太子の頻婆沙羅王を殺し釈尊に背いて提婆達多に付きしが如し、二月十五日は釈尊御入滅の日乃至十二月十五日も三界慈父の御遠忌なり、善導・法然・永観等の提婆達多に誑されて阿弥陀仏の日と定め畢んぬ、四月八日は世尊御誕生の日なり薬師仏に取り畢んぬ、我が慈父の忌日を他仏に替るは孝養の者なるか如何、寿量品に云く「我も亦為れ世の父・狂子を治する為の故に」等云云、天台大師云く「本此の仏に従つて初めて道心を発す亦此の仏に従つて不退地に住す乃至猶百川の海に潮すべきが如く縁に牽かれて応生すること亦復是くの如し」等云云。

 問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや。
答えて曰く方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り、上より下に向て次第に之を読めば第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫なり。安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す。在世の衆生は傍なり滅後を以て之を論ずれば正法一千年像法一千年は傍なり。末法を以て正と為す。

末法の中には日蓮を以て正と為すなり。問うて曰く其の証拠如何、答えて曰く況滅度後の文是なり、疑つて云く日蓮を正と為す正文如何、答えて云く「諸の無智の人有つて・悪口罵詈等し・及び刀杖を加うる者」等云云、問うて曰く自讃は如何、答えて曰く喜び身に余るが故に堪え難くして自讃するなり。

問うて曰く本門の心如何、答えて曰く本門に於て二の心有り一には涌出品の略開近顕遠は前四味並に迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり、二には涌出品の動執生疑より一半並びに寿量品・分別功徳品の半品已上一品二半を広開近顕遠と名く一向に滅後の為なり。

問うて曰く略開近顕遠の心如何、答えて曰く文殊弥勒等の諸大菩薩・梵天・帝釈・日月・衆星・竜王等初成道の時より般若経に至る已来は一人も釈尊の御弟子に非ず此等の菩薩天人は初成道の時仏未だ説法したまわざる已前に不思議解脱に住して我と別円二教を演説す釈尊其の後に阿含・方等・般若を宣説し給う。然りと雖も全く此等の諸人の得分に非ず、既に別円二教を知りぬれば蔵通をも又知れり、勝は劣を兼ぬる是なり。委細に之を論ぜば或は釈尊の師匠なるか、善知識とは是なり、釈尊に随うに非ず。
法華経の迹門の八品に来至して始めて未聞の法を聞いて此等の人人は弟子と成りぬ。舎利弗目連等は鹿苑より已来初発心の弟子なり、然りと雖も権法のみを許せり。今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり。若し爾れば今我等天に向つて之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり。

問うて曰く誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや、答えて曰く寿量品の一品二半は始より終に至るまで正く滅後衆生の為なり滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり。
疑つて云く此の法門前代に未だ之を聞かず経文に之れ有りや、答えて曰く予が智前賢に超えず設い経文を引くと雖も誰人か之を信ぜん卞和が啼泣・伍子胥が悲傷是なり、然りと雖も略開近顕遠・動執生疑の文に云く「然も諸の新発意の菩薩・仏の滅後に於て若し是の語を聞かば或は信受せずして法を破する罪業の因縁を起さん」等云云、文の心は寿量品を説かずんば末代の凡夫皆悪道に堕せん等なり、寿量品に云く「是の好き良薬を今留めて此に在く」等云云、文の心は上は過去の事を説くに似たる様なれども此の文を以て之れを案ずるに滅後を以て本と為す先ず先例を引くなり、分別功徳品に云く「悪世末法の時」等云云、神力品に云く「仏滅度の後に能く是の経を持たんを以つての故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現じ給う」等云云、薬王品に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」等云云、又云く「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」等云云、涅槃経に云く「譬えば七子の如し父母平等ならざるに非ざれども然も病者に於て心則ち偏に重し」等云云、七子の中の第一第二は一闡提謗法の衆生なり諸病の中には法華経を謗ずるが第一の重病なり、諸薬の中には南無妙法蓮華経は第一の良薬なり、此の一閻浮提は縦広七千由善那八万の国之れ有り正像二千年の間未だ広宣流布せざるに法華経当世に当つて流布せしめずんば釈尊は大妄語の仏・多宝仏の証明は泡沫に同じく十方分身の仏の助舌も芭蕉の如くならん。

 疑つて云く多宝の証明・十方の助舌・地涌の涌出此等は誰人の為ぞや、答えて曰く世間の情に云く在世の為と、日蓮云く舎利弗・目〓等は現在を以て之を論ずれば智慧第一・神通第一の大聖なり、過去を以て之を論ずれば金竜陀仏・青竜陀仏なり、未来を以て之を論ずれば華光如来、霊山を以て之を論ずれば三惑頓尽の大菩薩、本を以て之を論ずれば内秘外現の古菩薩なり、文殊・弥勒等の大菩薩は過去の古仏・現在の応生なり、梵帝・日月・四天等は初成已前の大聖なり、其の上前四味・四教・一言に之を覚りぬ・仏の在世には一人に於ても無智の者之れ無し誰人の疑を晴さんが為に多宝仏の証明を借り諸仏舌を出し地涌の菩薩を召さんや方方以て謂れ無き事なり、経文に随つて「況滅度後・令法久住」等云云、此等の経文を以て之を案ずるに偏に我等が為なり、随つて天台大師当世を指して云く「後の五百歳遠く妙道に沾わん」伝教大師当世を記して云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」等云云、「末法太有近」の五字は我が世は法華経流布の世に非ずと云う釈なり。

[法華取要抄 本文] その三に続く


by johsei1129 | 2014-03-20 21:03 | 御書十大部(五大部除く) | Comments(0)
2014年 03月 19日

『妙法蓮華経』こそが末法弘通の本尊であることを明かした書『法華取要抄』 その一

【法華取要抄(ほっけしゅようしょう】
■出筆時期:文永十一年五月 五十三歳御作(西暦1274年)、日蓮大聖人が立宗宣言した年に帰依した最古参の強信者『富木常忍』に宛てた書。御書10大部の一つ。
■出筆場所:身延山 草庵にて著作
■出筆の経緯:文永十一年四月八日、鎌倉幕府の平左衛門尉に対し生涯三度目となる『国主諌暁』をなされたが、取り入れられず、今後は後世のために弟子への法門の相承を成すべき時と判断し、五月十二日に鎌倉を出て身延山に入る。そして最初に書き記したのが、『妙法蓮華経』こそが末法弘通の本尊であることをあきらかにした本書である。法華取要とは、法華経二十八品の要である『妙法蓮華経』を取り、本尊と成すことを意味している。
■ご真筆: 中山法華経寺所蔵(重要文化財) 時代写本:日興上人及び日目上人の書写(富士大石寺所蔵)


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[法華取要抄(第17紙)真筆本文:問云 如來滅後二千餘年龍樹~捨廣畧取要乎 答曰 玄奘]
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[法華取要抄(第24紙)真筆本文:文末:競出四天下一同諍論也~妙法蓮華經廣宣流布無疑者歟]

[法華取要抄 本文] その一
 

                                  扶桑沙門 日蓮 これを述ぶ。

夫れ以(おもんみ)れば月支西天より漢土日本に渡来する所の経論五千七千余巻なり、其中の諸経論の勝劣・浅深・難易・先後・自見に任せて之を弁うことは其の分に及ばず、人に随い宗に依つて之を知る者は其の義紛紕す、所謂華厳宗の云く「一切経の中に此の経第一」と、法相宗の云く「一切経の中に深密経第一」と、三論宗の云く「一切経の中に般若経第一」と、真言宗の云く「一切経の中に大日の三部経第一」と、禅宗の云く或は云く「教内には楞伽経第一」と、或は云く「首楞厳経第一」と或は云く「教外別伝の宗なり」と、浄土宗の云く「一切経の中に浄土の三部経末法に入りては機教相応して第一なり」と、倶舎宗・成実宗・律宗云く「四阿含・並に律論は仏説なり華厳経・法華経等は仏説に非ず外道の経なり」或は云く或は云く、而に彼れ彼れ宗宗の元祖等・杜順・智儼・法蔵・澄観・玄奘・慈恩・嘉祥・道朗・善無畏・金剛智・不空・道宣・鑒真・曇鸞・道綽・善導・達磨・慧可等なり、此等の三蔵大師等は皆聖人なり賢人なり智は日月に斉く徳は四海に弥れり、其の上各各に経律論に依り更互に証拠有り随つて王臣国を傾け土民之を仰ぐ末世の偏学設い是非を加うとも人信用を致さじ、爾りと雖も宝山に来り登つて瓦石を採取し栴檀に歩み入つて伊蘭を懐き取らば悔恨有らん、故に万人の謗りを捨て猥りに取捨を加う我が門弟委細に之を尋討せよ。

[法華取要抄 本文] その二に続


by johsei1129 | 2014-03-19 22:03 | 御書十大部(五大部除く) | Comments(0)
2014年 03月 18日

末法において報恩とは「妙法蓮華経」を説き仏身に入らしめる事であることをあかした書『報恩抄』 その六

[報恩抄 本文] その六
 問うて云く此の法実にいみじくばなど迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は善導が南無阿弥陀仏とすすめて漢土に弘通せしがごとく、慧心・永観・法然が日本国を皆阿弥陀仏になしたるがごとく・すすめ給はざりけるやらん、答えて云く此の難は古の難なり今はじめたるにはあらず、馬鳴・竜樹菩薩等は仏の滅後・六百年・七百年等の大論師なり、此の人人世にいでて大乗経を弘通せしかば諸諸の小乗の者・疑つて云く迦葉・阿難等は仏の滅後・二十年・四十年住寿し給いて正法をひろめ給いしは如来一代の肝心をこそ弘通し給いしか、而るに此の人人は但苦・空・無常・無我の法門をこそ詮とし給いしに今・馬鳴・竜樹等かしこしといふとも迦葉・阿難等にはすぐべからず是一、迦葉は仏にあひまいらせて解をえたる人なり、此の人人は仏にあひたてまつらず是二、外道は常・楽・我・浄と立てしを仏・世に出でさせ給いて苦・空・無常・無我と説かせ給いき、此のものどもは常楽我浄といへり、されば仏も御入滅なり又迦葉等もかくれさせ給いぬれば第六天の魔王が此のものどもが身に入りかはりて仏法をやぶり外道の法となさんとするなり、されば仏法のあだをば頭をわれ頚をきれ命をたて食を止めよ国を追へと諸の小乗の人人申せしかども馬鳴・竜樹等は但・一二人なり昼夜に悪口の声をきき朝暮に杖木をかうふりしなり、而れども此の二人は仏の御使ぞかし、正く摩耶経には六百年に馬鳴出で七百年に竜樹出でんと説かれて候、其の上楞伽経等にも記せられたり又付法蔵経には申すにをよばず、されども諸の小乗のものどもは用いず但めくらぜめにせめしなり、如来現在・猶多怨嫉・況滅度後の経文は此の時にあたりて少しつみしられけり、提婆菩薩の外道にころされ師子尊者の頚をきられし此の事をもつて・おもひやらせ給へ。

 又仏滅後・一千五百余年にあたりて月氏よりは東に漢土といふ国あり陳隋の代に天台大師出世す、此の人の云く如来の聖教に大あり小あり顕あり密あり権あり実あり、迦葉・阿難等は一向に小を弘め馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて実大乗の法華経をば或は但指をさして義をかくし或は経の面をのべて始中終をのべず、或は迹門をのべて本門をあらはさず、或は本迹あつて観心なしといひしかば、南三・北七の十流が末・数千万人・時をつくりどつとわらふ、世の末になるままに不思議の法師も出現せり、時にあたりて我等を偏執する者はありとも後漢の永平十年丁卯の歳より今陳隋にいたるまでの三蔵・人師・二百六十余人をものもしらずと申す上謗法の者なり悪道に墜つるといふ者・出来せり、あまりの・ものくるはしさに法華経を持て来り給へる羅什三蔵をも・ものしらぬ者と申すなり、漢土はさてもをけ月氏の大論師・竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩もいまだ実義をのべ給はずといふなり、此をころしたらん人は鷹をころしたるものなり鬼をころすにもすぐべしとののしりき、又妙楽大師の時・月氏より法相・真言わたり漢土に華厳宗の始まりたりしを・とかくせめしかば・これも又さはぎしなり。

 日本国には伝教大師が仏滅後・一千八百年にあたりて・いでさせ給い天台の御釈を見て欽明より已来二百六十余年が間の六宗をせめ給いしかば在世の外道・漢土の道士・日本に出現せりと謗ぜし上・仏滅後・一千八百年が間・月氏・漢土・日本になかりし円頓の大戒を立てんというのみならず、西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和の国・東大寺の戒壇は同く小乗臭糞の戒なり瓦石のごとし、其を持つ法師等は野干・猿猴等のごとしとありしかばあら不思議や法師ににたる大蝗虫・国に出現せり仏教の苗一時に・うせなん、殷の紂・夏の桀・法師となりて日本に生まれたり、後周の宇文・唐の武宗・二たび世に出現せり仏法も但今失せぬべし国もほろびなんと大乗・小乗の二類の法師出現せば修羅と帝釈と項羽と高祖と一国に並べるなるべしと、諸人手をたたき舌をふるふ、在世には仏と提婆が二の戒壇ありて・そこばくの人人・死にき、されば他宗には・そむくべし我が師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ・あらおそろしおそろしとののしりあえりき、されども経文分明にありしかば叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給いぬ、されば内証は同じけれども法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬・重病には仙薬・弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。

 問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり、例せば風に随つて波の大小あり薪によつて火の高下あり池に随つて蓮の大小あり雨の大小は竜による根ふかければ枝しげし源遠ければ流ながしと・いうこれなり、周の代の七百年は文王の礼孝による秦の世ほどもなし始皇の左道によるなり、日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり、極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳(のみ)、春は花さき秋は菓なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや。

  「我滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶して悪魔・魔民・諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便りを得せしむること無けん」等云云、此の経文若しむなしくなるならば舎利弗は華光如来とならじ迦葉尊者は光明如来とならじ目〓は多摩羅跋栴檀香仏とならじ阿難は山海慧自在通王仏とならじ摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならじ耶輸陀羅比丘尼は具足千万光相仏とならじ、三千塵点も戯論となり・五百塵点も妄語となりて恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち多宝仏は阿鼻の炎にむせび十方の諸仏は八大地獄を栖とし一切の菩薩は一百三十六の苦をうくべし・いかでかその義候べき、其の義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり、されば花は根にかへり真味は土にとどまる、此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

  建治二年太歳丙子七月二十一日        之を記す

     甲州波木井郷身延山より安房の国・東条の郡・清澄山・浄顕房・義成房の許に奉送す


【報恩抄送文】

 御状給り候畢ぬ、親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ御心得候へ、御本尊図して進候・此の法華経は仏の在世よりも仏の滅後・正法よりも像法・像法よりも末法の初には次第に怨敵強くなるべき由をだにも御心へあるならば日本国に是より外に法華経の行者なしこれを皆人存じ候ぬべし、道善御房の御死去の由・去る月粗承わり候、自身早早と参上し此の御房をも・やがてつかはすべきにて候しが自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へばなにとなく此の山を出でず候、此の御房は又内内・人の申し候しは宗論や・あらんずらんと申せしゆへに十方にわかて経論等を尋ねしゆへに国国の寺寺へ人をあまたつかはして候に此の御房はするがの国へつかはして当時こそ来て候へ、又此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ詮なからん人人にきかせなば・あしかりぬべく候、又設いさなくとも・あまたになり候はばほかさまにも・きこえ候なば御ため又このため安穏ならず候はんか、御まへと義成房と二人・此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いては此の御房にあづけさせ給いてつねに御聴聞候へ、たびたびになり候ならば心づかせ給う事候なむ、恐恐謹言。

 七月二十六日                               日 蓮 花 押

  清澄御房

by johsei1129 | 2014-03-18 18:38 | 報恩抄(御書五大部) | Comments(0)
2014年 03月 17日

末法において報恩とは「妙法蓮華経」を説き仏身に入らしめる事であることをあかした書『報恩抄』 その五

[報恩抄 本文] その五
 問うて云く弘法大師の心経の秘鍵に云く「時に弘仁九年の春天下大疫す、爰に皇帝自ら黄金を筆端に染め紺紙を爪掌に握りて般若心経一巻を書写し奉り給う予講読の撰に範りて経旨の宗を綴る未だ結願の詞を吐かざるに蘇生の族途に彳ずむ、夜変じて而も日光赫赫たり是れ愚身の戒徳に非ず金輪御信力の所為なり、但し神舎に詣でん輩は此の秘鍵を誦し奉れ、昔予鷲峰説法の筵に陪して親り其の深文を聞きたてまつる豈其の義に達せざらんや」等云云、又孔雀経の音義に云く「弘法大師帰朝の後真言宗を立てんと欲し諸宗を朝廷に群集す即身成仏の義を疑う、大師智拳の印を結びて南方に向うに面門俄に開いて金色の毘盧遮那と成り即便本体に還帰す、入我・我入の事・即身頓証の疑い此の日釈然たり、然るに真言・瑜伽の宗・秘密曼荼羅の道彼の時より建立しぬ」、又云く「此の時に諸宗の学徒大師に帰して始めて真言を得て請益し習学す三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄等皆其の類なり」、弘法大師の伝に云く「帰朝泛舟の日発願して云く我が所学の教法若し感応の地有らば此三鈷其の処に到るべし仍て日本の方に向て三鈷を抛げ上ぐ遥かに飛んで雲に入る十月に帰朝す」云云、又云く「高野山の下に入定の所を占む乃至彼の海上の三鈷今新たに此に在り」等云云、此の大師の徳無量なり其の両三を示す・かくのごとくの大徳ありいかんが此の人を信ぜずして・かへりて阿鼻地獄に堕といはんや、答えて云く予も仰いで信じ奉る事かくのごとし但古の人人も不可思議の徳ありしかども仏法の邪正は其にはよらず、外道が或は恒河を耳に十二年留め或は大海をすひほし或は日月を手ににぎり或は釈子を牛羊となしなんど・せしかども・いよいよ大慢を・をこして生死の業とこそなりしか、此れをば天台云く「名利を邀め見愛を増す」とこそ釈せられて候へ、光宅が忽に雨を下し須臾に花をさかせしをも妙楽は「感応此の如くなれども猶理に称わず」とこそかかれて候へ、されば天台大師の法華経をよみて「須臾に甘雨を下せ」伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしておはせしも其をもつて仏意に叶うとは・をほせられず、弘法大師いかなる徳ましますとも法華経を戯論の法と定め釈迦仏を無明の辺域とかかせ給へる御ふでは智慧かしこからん人は用ゆべからず、いかにいわうや上にあげられて候徳どもは不審ある事なり、「弘仁九年の春・天下大疫」等云云、春は九十日・何の月・何の日ぞ是一、又弘仁九年には大疫ありけるか是二、又「夜変じて日光赫赫たり」と云云、此の事第一の大事なり弘仁九年は嵯峨天皇の御宇なり左史右史の記に載せたりや是三、設い載せたりとも信じがたき事なり成劫二十劫・住劫九劫・已上二十九劫が間に・いまだ無き天変なり、夜中に日輪の出現せる事如何・又如来一代の聖教にもみへず未来に夜中に日輪出ずべしとは三皇五帝の三墳・五典にも載せず仏経のごときんば壊劫にこそ二の日・三の日・乃至七の日は出ずべしとは見えたれども・かれは昼のことぞかし・夜日出現せば東西北の三方は如何、設い内外の典に記せずとも現に弘仁九年の春・何れの月・何れの日・何れの夜の何れの時に日出ずるという・公家・諸家・叡山等の日記あるならば・すこし信ずるへんもや、次ぎ下に「昔予鷲峰説法の筵に陪して親り其の深文を聞く」等云云、此の筆を人に信ぜさせしめんがためにかまへ出だす大妄語か、されば霊山にして法華は戯論・大日経は真実と仏の説き給けるを阿難・文殊が誤りて妙法華経をば真実とかけるか・いかん、いうにかいなき婬女・破戒の法師等が歌をよみて雨す雨を三七日まで下さざりし人は・かかる徳あるべしや是四、孔雀経の音義に云く「大師智拳の印を結んで南方に向うに面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云、此れ又何れの王・何れの年時ぞ漢土には建元を初とし日本には大宝を初として緇素の日記・大事には必ず年号のあるが、これほどの大事に・いかでか王も臣も年号も日時もなきや、又次ぎに云く「三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄」等云云、抑も円澄は寂光大師・天台第二の座主なり、其の時何ぞ第一の座主義真・根本の伝教大師をば召さざりけるや、円澄は天台第二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり、弟子を召さんよりは三論・法相・華厳よりは天台の伝教・義真の二人を召すべかりけるか、而も此の日記に云く「真言瑜伽の宗・秘密曼荼羅彼の時よりして建立す」等云云、此の筆は伝教・義真の御存生かとみゆ、弘法は平城天皇・大同二年より弘仁十三年までは盛に真言をひろめし人なり、其の時は此の二人現におはします又義真は天長十年までおはせしかば其の時まで弘法の真言は・ひろまらざりけるか・かたがた不審あり、孔雀経の疏は弘法の弟子・真済が自記なり信じがたし、又邪見者が公家・諸家・円澄の記をひかるべきか、又道昌・源仁・道雄の記を尋ぬべし、「面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云、面門とは口なり口の開けたりけるか眉間開くとかかんとしけるが誤りて面門とかけるか、ぼう書をつくるゆへに・かかるあやまりあるか、「大師智拳の印を結んで南方に向うに面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云、涅槃経の五に云く「迦葉仏に白して言さく世尊我今是の四種の人に依らず何を以ての故に瞿師羅経の中の如き仏瞿師羅が為に説きたまわく若し天魔梵破壊せんと欲するが為に変じて仏の像と為り三十二相・八十種好を具足し荘厳し円光一尋面部円満なること猶月の盛明なるが如く眉間の毫相白きこと珂雪に踰え乃至左の脇より水を出し右の脇より火を出す」等云云、又六の巻に云く「仏迦葉に告げたまわく我般涅槃して乃至後是の魔波旬漸く当に我が正法を沮壊す乃至化して阿羅漢の身及仏の色身と作り魔王此の有漏の形を以て無漏の身と作り我が正法を壊らん」等云云、弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云、而も仏身を現ず此れ涅槃経には魔・有漏の形をもつて仏となつて我が正法をやぶらんと記し給う、涅槃経の正法は法華経なり故に経の次ぎ下の文に云く「久く已に成仏す」、又云く「法華の中の如し」等云云、釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対して「法華経は真実・大日経等の一切経は不真実」等云云、弘法大師は仏身を現じて華厳経・大日経に対して「法華経は戯論」等云云、仏説まことならば弘法は天魔にあらずや、又三鈷の事・殊に不審なり漢土の人の日本に来りてほりいだすとも信じがたし、已前に人をや・つかわして・うづみけん、いわうや弘法は日本の人かかる誑乱其の数多し此等をもつて仏意に叶う人の証拠とはしりがたし。

 されば此の真言・禅宗・念仏等やうやく・かさなり来る程に人王八十二代・尊成・隠岐の法皇・権の太夫殿を失わんと年ごろ・はげませ給いけるゆへに大王たる国主なれば・なにとなくとも師子王の兎を伏するがごとく、鷹の雉を取るやうにこそ・あるべかりし上・叡山・東寺・園城・奈良七大寺・天照太神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が間・或は調伏・或は神に申させ給いしに二日・三日・だにも・ささへかねて佐渡国・阿波国・隠岐国等にながし失て終にかくれさせ給いぬ、調伏の上首・御室は但東寺をかへらるるのみならず眼のごとくあひせさせ給いし第一の天童・勢多伽が頚切られたりしかば調伏のしるし還著於本人のゆへとこそ見へて候へ、これはわづかの事なり此の後定んで日本国の諸臣万民一人もなく乾草を積みて火を放つがごとく大山のくづれて谷をうむるがごとく我が国・他国にせめらるる事出来すべし、此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり、いゐいだすならば殷の紂王の比干が胸を・さきしがごとく夏の桀王の竜蓬が頚を切りしがごとく檀弥羅王の師子尊者が頚を刎ねしがごとく竺の道生が流されしがごとく法道三蔵のかなやきをやかれしがごとく・ならんずらんとは・かねて知りしかども法華経には「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」ととかれ涅槃経には「寧身命を喪うとも教を匿さざれ」といさめ給えり、今度命をおしむならば・いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母・師匠をも・すくひ奉るべきと・ひとへに・をもひ切りて申し始めしかば案にたがはず或は所をおひ或はのり或はうたれ或は疵を・かうふるほどに去ぬる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気を・かうふりて伊豆の国伊東にながされぬ、又同じき弘長三年癸亥二月二十二日にゆりぬ。

 其の後弥菩提心強盛にして申せば・いよいよ大難かさなる事・大風に大波の起るがごとし、昔の不軽菩薩の杖木のせめも我身に・つみしられたり覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も此れには及ばじとをぼゆ、日本六十六箇国・嶋二の中に一日・片時も何れの所に・すむべきやうもなし、古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事・羅云のごとくなる持戒の聖人も富楼那のごとくなる智者も日蓮に値いぬれば悪口をはく・正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう、いわうや世間の常の人人は犬のさるをみたるがごとく猟師が鹿を・こめたるににたり、日本国の中に一人として故こそ・あるらめと・いう人なし道理なり、人ごとに念仏を申す人に向うごとに念仏は無間に堕つるというゆへに、人ごとに真言を尊む真言は国をほろぼす悪法という、国主は禅宗を尊む日蓮は天魔の所為というゆへに我と招ける・わざわひなれば人の・のるをも・とがめず・とがむとても一人ならず、打つをも・いたまず本より存ぜしがゆへに・かう・いよいよ身も・をしまず力にまかせて・せめしかば禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は篭に入れよと尼ごぜんたち・いからせ給いしかば・そのまま行われけり。

去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は相模の国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん其の夜は・のびて依智というところへつきぬ、又十三日の夜はゆりたりと・どどめきしが又いかにやありけん・さどの国までゆく、今日切るあす切るといひしほどに四箇年というに結句は去ぬる文永十一年太歳甲戌二月十四日に・ゆりて同じき三月二十六日に鎌倉へ入り同じき四月八日平の左衛門の尉に見参してやうやうの事申したりし中に今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ、同じき五月の十二日にかまくらをいでて此の山に入れり、これは・ひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために身をやぶり命をすつれども破れざれば・さでこそ候へ、又賢人の習い三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり、此の功徳は定めて上三宝・下梵天・帝釈・日月までも・しろしめしぬらん、父母も故道善房の聖霊も扶かり給うらん、但疑い念うことあり目連尊者は扶けんとおもいしかども母の青提女は餓鬼道に墜ちぬ、大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿鼻地獄へ墜ちぬ、これは力のまますくはんと・をぼせども自業自得果のへんは・すくひがたし、故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし、但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ、後にすこし信ぜられてありしは・いさかひの後のちぎりきなり、ひるのともしびなにかせん其の上いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさどの国までゆきしに一度もとぶらはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし・それにつけても・あさましければ彼の人の御死去ときくには火にも入り水にも沈み・はしりたちても・ゆひて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せんとこそ・おもへども賢人のならひ心には遁世とは・おもはねども人は遁世とこそ・おもうらんに・ゆへもなくはしり出ずるならば末へも・とをらずと人おもひぬべし、さればいかにおもひたてまつれども・まいるべきにあらず、但し各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし、日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず。

 問うて云く法華経・一部・八巻・二十八品の中に何物か肝心なるや、答えて云く華厳経の肝心は大方広仏華厳経・阿含経の肝心は仏説中阿含経・大集経の肝心は大方等大集経・般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経・雙観経の肝心は仏説無量寿経・観経の肝心は仏説観無量寿経・阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経・涅槃経の肝心は大般涅槃経・かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目・其の経の肝心なり、大は大につけ小は小につけて題目をもつて肝心とす、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等・亦復かくのごとし、仏も又かくのごとし大日如来・日月燈明仏・燃燈仏・大通仏・雲雷音王仏・是等の仏も又名の内に其の仏の種種の徳をそなへたり、今の法華経も亦もつて・かくのごとし、如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復・一切経の肝心・一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂上の正法なり、問うて云く南無妙法蓮華経と心もしらぬ者の唱うると南無大方広仏華厳経と心もしらぬ者の唱うると斉等なりや浅深の功徳差別せりや、答えて云く浅深等あり、疑て云く其の心如何、答えて云く小河は露と涓と井と渠と江とをば収むれども大河ををさめず・大河は露乃至小河を摂むれども大海ををさめず、阿含経は井江等露涓ををさめたる小河のごとし、方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経等は小河ををさむる大河なり、法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨等の一切の水を一たいももらさぬ大海なり、譬えば身の熱者の大寒水の辺にいねつればすずしく・小水の辺に臥ぬれば苦きがごとし、五逆・謗法の大きなる一闡提人・阿含・華厳・観経・大日経等の小水の辺にては大罪の大熱さんじがたし、法華経の大雪山の上に臥ぬれば五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽に散ずべし・されば愚者は必ず法華経を信ずべし、各各経経の題目は易き事・同じといへども愚者と智者との唱うる功徳は天地雲泥なり、譬へば大綱は大力も切りがたし小力なれども小刀をもつて・たやすく・これをきる、譬へば堅石をば鈍刀をもてば大力も破がたし、利剣をもてば小力も破りぬべし、譬へば薬はしらねども服すれば病やみぬ食は服すれども病やまず、譬へば仙薬は命をのべ凡薬は病をいやせども命をのべず。

  疑つて云く二十八品の中に何か肝心ぞや、答えて云く或は云く品品皆事に随いて肝心なり、或は云く方便品・寿量品肝心なり、或は云く方便品肝心なり、或は云く寿量品肝心なり、或は云く開示悟入肝心なり、或は云く実相肝心なり。

 問うて云く汝が心如何答う南無妙法蓮華経肝心なり、其の証如何阿難・文殊等・如是我聞等云云、問うて云く心如何、答えて云く阿難と文殊とは八年が間・此の法華経の無量の義を一句・一偈・一字も残さず聴聞してありしが仏の滅後に結集の時・九百九十九人の阿羅漢が筆を染めてありしに先づはじめに妙法蓮華経とかかせ給いて如是我聞と唱えさせ給いしは妙法蓮華経の五字は一部・八巻・二十八品の肝心にあらずや、されば過去の燈明仏の時より法華経を講ぜし光宅寺の法雲法師は「如是とは将に所聞を伝えんとす前題に一部を挙ぐるなり」等云云、霊山にまのあたり・きこしめしてありし天台大師は「如是とは所聞の法体なり」等云云章安大師の云く記者釈して曰く「蓋し序王とは経の玄意を叙し玄意は文心を述す」等云云、此の釈に文心とは題目は法華経の心なり妙楽大師云く「一代の教法を収むること法華の文心より出ず」等云云、天竺は七十箇国なり総名は月氏国・日本は六十箇国・総名は日本国・月氏の名の内に七十箇国・乃至人畜・珍宝みなあり、日本と申す名の内に六十六箇国あり、出羽の羽も奥州の金も乃至国の珍宝・人畜乃至寺塔も神社もみな日本と申す二字の名の内に摂れり、天眼をもつては日本と申す二字を見て六十六国乃至人畜等をみるべし・法眼をもつては人畜等の此に死し彼に生るをもみるべし・譬へば人の声をきいて体をしり跡をみて大小をしる蓮をみて池の大小を計り雨をみて竜の分斉をかんがう、これはみな一に一切の有ることわりなり、阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども但小釈迦・一仏のみありて他仏なし、華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏いまさず、例せば華さいて菓ならず雷なつて雨ふらず鼓あつて音なし眼あつて物をみず女人あつて子をうまず人あつて命なし又神なし、大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言等又かくのごとし、彼の経経にしては大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず皆各各・当体の自用を失ふ、例せば衆星の光の一の日輪にうばはれ諸の鉄の一の磁石に値うて利性のつき大剣の小火に値て用を失ない牛乳・驢乳等の師子王の乳に値うて水となり衆狐が術・一犬に値うて失い、狗犬が小虎に値うて色を変ずるがごとし、南無妙法蓮華経と申せば南無阿弥陀仏の用も南無大日真言の用も観世音菩薩の用も一切の諸仏・諸経・諸菩薩の用皆悉く妙法蓮華経の用に失なはる、彼の経経は妙法蓮華経の用を借ずば皆いたづらのものなるべし当時眼前のことはりなり、日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく塩のひるがごとく秋冬の草の・かるるがごとく冰の日天に・とくるがごとく・なりゆくをみよ。

[報恩抄 本文] その六に続

by johsei1129 | 2014-03-17 22:40 | 報恩抄(御書五大部) | Comments(0)