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2015年 11月 17日

日興上人が御遷化なされる三ヶ月前に日目上人に血脈相承なされた書【日興跡条々事】

【日興跡条々事】
■出筆時期:元弘二年(1332年)十一月十日。日興上人八十七歳御作
■出筆場所:富士 重須談所にて。
■出筆の経緯:日興上人が日目上人に大石寺を管領することと、日蓮大聖人から附属された【一閻浮提総与の大御本尊】を附属することを記した相承書となります。
尚、「右、日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以来七十三歳の老体に至るも・・・」の御文は、日蓮大聖人が百六箇抄の末尾に記された「日興を以て結要付属の大将と定むる者なり。
又弘長配流の日も、文永流罪の時も、其の外諸処の大難の折節も、先陣をかけ、日蓮に影の形に随うが如くせしなり。誰か之を疑わんや。 又延山地頭発心の根元は日興教化の力用なり。遁世の事、甲斐の国三牧は日興懇志の故なり」の御文に習われたと拝されます。
■ご真筆:富士大石寺所蔵。
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[日興跡条々事 本文]

一、本門寺建立の時、新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし。

一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。

一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。
 
右、日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以来七十三歳の老体に至るも敢へて違失の義無し。十七の歳、日蓮聖人の所に詣で甲州身延山御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依って此くの如く書き置く所なり。仍って後の為証状件の如し。
 
十一月十日   日 興 花 押





by johsei1129 | 2015-11-17 13:42 | 日興上人 | Comments(0)
2015年 11月 02日

富士・熱原にて法難に立ち向かう日興上人に大聖人が法論の指南をした書【伯耆殿御書】

【伯耆殿御書】
■出筆時期:弘安二年(1279年)九月二十日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:この時期駿河富士方面で日興上人が天台僧、農民への折伏教化に邁進するに応じて、
様々な天台院主らの迫害が勃発していました。その矢面に立っていた日興上人に、具体的に法論の指南をされたのが本抄となります。それまで大聖人は常随給仕されていた日興上人に消息を出すことはありませんでしたが、本抄は日興上人に宛てた消息として伝えられ書の中で最初の手紙となります。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日興上人筆(北山本門寺所蔵)。

[伯耆殿御書 本文]

(これより前の分は残されておりません)

「形像舎利並余教典、唯置法華経一部」と申す釈と、「直専持此教則上供養」の釈をかまうべし。
余経とは小乗経と申さば、「況彼華厳○以法化之。故云乃至不受余経一偈」の釈を引け。

はわきどのへ

弘安二年九月二十日    日蓮


[現代訳]
「形像(仏像)・舎利、並に(法華経以外の)余の教典を差し置いて、唯、法華経一部だけを置く」と申す解釈と、「直ちに、専ら此の教(法華経)を持つ事が則ち最も上の供養となる」の釈を用いるべしべし。
(もし相手方が)余経とは小乗経の事を言うのかと申さば、(妙楽大師の五百問論の)「況彼華厳○以法化之。故云乃至不受余経一偈」の解釈を引用しなさい。

※:況彼華厳○以法化之故云乃至不受余経一偈:況や彼の華厳は但福を以て比す、此の経(法華経)の法を以て之を比するに同じからず、故に云く、しかして(法華経以外の)余経の一偈も受じせず。

by johsei1129 | 2015-11-02 21:28 | 日興上人 | Comments(0)
2015年 10月 10日

仮字の御書を先師恥辱として焼却した五老僧を、先師の跡を破滅すると断じた【富士一跡門徒存知事】

【富士一跡門徒存知事】
■出筆時期:延慶二年(1309) 日興上人六十四歳歳御作
■出筆場所:富士・重須談所にて。
■出筆の経緯:本抄は「日蓮一期の弘法」を付属された日興上人が、大聖人が御遷化直前に定めた六老僧の内、御自身以外の他の五老僧の謗法を詳細に記した書です。
当初日興上人は晩年を過ごされた重須談所の初代学頭に任じた日澄(にっちょう)に草案の作成を命じましたが未完に終わり、その草案を自ら補筆修正及び追加し完成されたものと思われます。
本書で示された大聖人の法門に対する日興上人と他の五老僧との最も大きな違いは、大聖人がその生涯の全てをかけて、末法万年尽未来際に残すべく記された御書に対する姿勢です。

日興上人は本書で「彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈は之無き者なり、縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若は俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて愚痴の者を引摂したまえり、而るに日興、聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云云、故に諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ。 此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり」と記され、大聖人が信徒に分かりやすいよう仮名混じりで書かれた消息を、五老僧が 「先師の恥である」として、漉き返したり焼却したことを、「先師の跡を破滅する」行為であると厳しく批判されておられます。そして日興上人は「具に之を註して後代の亀鏡と為すなり」と記し、後に五大部、十大部と称される重要御書及び消息文の収集保全に生涯精力を傾けていきます。
■ご真筆:現存しておりません。

[富士一跡門徒存知事 本文]

先ず日蓮聖人の本意は法華本門に於ては曾つて異義有るべからぜるの処、其の整足の弟子等忽に異趣を起して
法門改変す況や末学等に於ては面面異轍を生ぜり、故に日興の門葉に於ては此の旨を守つて一同に興行せしむべきの状・仍つて之を録す。
一、聖人御在生の時・弟子六人を定むる事、
弘安五年十月 日
之を定む
一 日昭 弁阿闍梨
二 日朗 大国阿闍梨
三 日興 白蓮阿闍梨
四 日向 佐渡阿闍梨
五 日頂 伊予阿闍梨
六 日持 蓮華阿闍梨
此の六人の内五人と日興一人と和合せざる由緒条条の事。
一、五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍つて公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云、又云く先師日蓮聖人・天台の余流を汲むと云云、又云く桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと欲す云云。
 日興が云く、彼の天台・伝教所弘の法華は迹門なり今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり、此の旨具に状に 載せ畢んぬ、此の相違に依つて五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ。
一、五人一同に云く、諸の神社は現当を祈らんが為なり仍つて伊勢太神宮と二所と熊野と在在所所に参詣を企て精誠を致し二世の所望を願う。日興一人云く、謗法の国をば天神地祗並びに其の国を守護するの善神捨離して留らず、故に悪鬼神・其の国土に乱入して災薙を致す云云、此の相違に依つて義絶し畢んぬ。
一、五人一同に云く、如法経を勤行し之を書写し供養す仍つて在在所所に法華三昧又は一日経を行ず。
 日興が云く、此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず、之に依つて日興と五人と堅く以て不和なり。
一、五人一同に云く、聖人の法門は天台宗なり仍つて比叡山に於て出家授戒し畢んぬ。
 日興が云く、彼の比叡山の戒は是は迹門なり像法所持の戒なり、日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり今末法所持の正戒なり、之に依つて日興と五人と義絶し畢んぬ。
 已前の条条大綱此くの如し此の外巨細具に注し難きなり。
一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・南部六郎入道(法名日円)は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の問帰依し奉る滅後其の年月義絶する条条の事。                

釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。
次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む二所・三島に参詣を致せり是二。
次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシの塔を供養奉加・之有り是三。
 次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四。 已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云、此の義に依つて去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ、仍つて御廟に相通ぜざるなり。

一、聖人の御例に順じ日興六人の弟子を定むる事。
聖人に常随給仕す。
一 日目
二 日華
三 日秀
四 日禅
五 日仙
聖人に値い奉らず。
六 日乗
已上の五人は詮ずるに聖人給仕の輩なり、一味和合して異義有るべからざるの旨・議定する所なり。
一、聖人御影像の事。
 或は五人と云い或は在家と云い絵像・木像に図し奉る事・在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。
 ここに日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの儘に図し奉る可きなり、之に依つて日興門徒の在家出家の輩・聖人を見奉る仁等・一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異らずと雖も大概そ相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り、相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、而る間・後輩に彼此是非を弁ぜしめんが為裏書に不似と之を付け置く。

一、聖人御書の事 付けたり十一ケ条
 彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈は之無き者なり、縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若は俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて愚痴の者を引摂したまえり、而るに日興、聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云云、故に諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ。
 此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり。

一、立正安国論一巻。此れに両本有り一本は文応元年の御作是れ最明寺殿・宝光寺殿へ奏上の本なり、一本は弘安年中身延山に於て 先本に文言を添えたもう、而して別の旨趣無し只建治の広本と云う。
一、開目抄一巻、今開して上下と為す。
 佐土国の御作・四条金吾頼基に賜う、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず。 一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。
 身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと開く、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず。
一、撰時抄一巻、今開して上中下と為す。
騎河国西山由井某に賜る、正本日興に上中二巻之れ在り 此中に面目 我に聞く事 下巻に於いては日昭が許に之れ在り。

一、下山抄一巻。
甲斐の国・下山郷の兵庫五郎光基の氏寺・平泉寺の住僧因幡房日永追い出さるる時の述作なり、直に御自筆を以て遺さる、正本の在所を知らず。
一、観心本尊抄一巻。
一、取要抄一巻。
一、四信五品抄一巻。
法門不審の条条申すに付いての御返事 なり仍つて彼の進状を奥に之を書く 已上の三巻は因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる、正本は彼の在所に在り。
一、本尊問答抄一巻。
一、唱題目抄一巻。
此の書・最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う、仍つて文言義理共に 爾なり
一、御筆抄に法華本門の四字を加う、故に御書に之無しと錐も日興今義に従つて之を置く、先例無きに非ざるか

一、本尊の事四箇条
一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る問・盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。
 日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。
一、上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの問・或は曼陀羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り、或は又沽却する族も有り、此くの如く軽賤する間・多分は以て失せ畢んぬ。
 日興が云く、此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し。
一、日興弟子分の本尊に於ては一一皆書き付け奉る事・誠に凡筆を以て直に聖筆をけがす事最も其の恐れ有りと雖も或は親には強盛の信心を以て之を賜うと雖も子孫等之を捨て、或は師には常随給仕の功に酬いて之を授与すと雖も弟子等之を捨つ、之に依つて或は以て交易し或は以て他の為に盗まる、此くの如きの類い其れ数多なり故に所賜の本主の交名を書き付くるは後代の高名の為なり。

一、御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賤する由・諸方に其の聞え有り所謂日向・日頂・日春等なり。
 日興の弟子分に於ては在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり。
 本尊人数等又追放人等、頸切られ、死を致す人等。

一、本門寺を建つ可き在所の事。
 五人一同に云く、彼の天台・伝教は存生に之を用いらるるの間・直に寺塔を立てたもう、所謂大唐の天台山・本朝の比叡山是なり而るに彼の本門寺に於ては先師・何の国・何の所とも之を定め置かれずと。
 ここに日興云く、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由・奏聞し畢んぬ、仍つて広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり。
一、王城の事。
 右、王城に於ては殊に勝地を撰ぶ可きなり、就中仏法は王法と本源躰一なり居処随つて相離るべからざるか、仍つて南都七大寺・北京比叡山・先蹤之同じ後代改まらず、然れば駿河の国・富士山は広博の地なり一には扶桑国なり二には四神相応の勝地なり、尤も本門寺と王城と一所なるべき由・且は往古の佳例なり且は日蓮大聖人の本願の所なり。

一、日興集むる所の証文の事。
 御書の中に引用せらるる・若は経論書釈の文・若は内外典籍伝の文等、或は大綱・随義転用し或は粗意を取つて述用し給えり、之に依つて日興散引の諸文典籍等を集めて次第に証拠を勘校す、其の功未だ終らず且らく集むる所なり。
一内外論の要文上下二巻
開目抄の意に依つて之を撰ぶ。
一本迹弘経要文上中下三巻撰時抄の意に依つて之を撰ぶ。
一漢土の天台・妙楽・邪法を対治して正法を弘通する証文一巻。
一日本の伝教大師・南都の邪宗を破失して法華の正法を弘通する証文一巻
已上七巻之を集めて未だ再治せず。
一、奏聞状の事。
一先師聖人文永五年申状一通。
一同八年申状一通。
一日興其の年より申状一通。
一漢土の仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。
一本朝仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。
一三時弘経の次第並びに本門寺を建つ可き事。
一先師の書釈要文一通。
一、追加八箇条。
近年以来日興所立の義を盗み取り己が義と為す輩出来する由緒条条の事。
一、寂仙房日澄始めて盗み取つて己が義と為す彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり、仍つて甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり御遷化の後民部阿闍梨を師と為す帰依僧、なり而るに去る永仁年中・新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず、聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す、ここに日澄・本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る、此の仁・盗み取つて自義と為すと

雖も後改悔帰伏の者なり、一、去る永仁年中越後国に摩詞一と云う者有り天台宗の学匠なり日興が義を盗み取つて盛んに越後国に弘通するの由之を聞く。
一、去る正安年中以来・浄法房天日と云う者有り聖人に値い奉る日興が義を盗み取り鎌倉に於て之を弘通す、又祖師の添加を蔑如す。
一、弁阿闍梨の弟子少輔房日高去る嘉元年中以来日興が義を盗み取つて下総の国に於て盛んに弘通す。
一、伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり、而るに去る年月・日興が義を盗み取つて四脇士を副う彼の菩薩の像は宝冠形なり。
一、民部阿闍梨も同く四脇士を造り副う、彼の菩薩像は比丘形にして納衣を著す、又近年以来諸神に詣ずる事を留むるの由開くなり。
一、甲斐国に肥前房日伝と云う者有り寂日坊向背の弟子なり日興が義を盗み取つて甲斐国に於て盛んに此の義を弘通す是れ又四脇士を造り副う彼の菩薩の像は身皆金色・剃髪の比丘形なり、又神詣を留むるの由之を聞く。
一、諸方に聖人の御書之を読む由の事。
此の書札の抄・別状有り之を見る可し。

by johsei1129 | 2015-10-10 19:35 | 日興上人 | Comments(0)
2015年 08月 18日

大聖人滅後、宗祖の遺命を守ることに精魂を込めた日興上人の心境が吐露された書【美作房御返事】


【美作房御返事】
■出筆時期:弘安七年(1284年)十月十八日 日興上人三十九歳 御作
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は、大聖人御遷化の二年後に日興上人から美作房日保に宛てられた書です。美作房は上総国興津の領主・佐久間重貞の子で、大聖人が生母梅菊の危篤で故郷・安房に帰られた時、重貞が大聖人の説法を聞き法華経に帰依したことで、翌年わずか七歳で得度し大聖人から日保の名を賜った。
本書は大聖人の三回忌法要がおこなわれた直後に記されておられ、この法要で五老僧が一人も身延の大聖人の墓に参詣しにこなかった事、また大聖人の墓を守るために作られた「墓所可守番帳事」(六老僧含め十八名の弟子が交代で墓所を守る取り決めで真筆が西山本門寺に現存)」が守られず、墓地の周辺が荒れ果てていることを痛む苦しい胸の内を率直に訴え、美作房に身延に見参するよう呼びかけておられます。また「安国論の事、御沙汰何様なるべく候らん」と記され、幕府執権が北条時宗から貞時に変わった時、日興上人が大聖人の意思を引き継ぎ「立正安国論」を幕府に献上したことを伺わせる記述も見受けられます。
さらに「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由、御遺言には承り候へども、不法の色も見えず候」記し、四年後の身延離山を予感させる記述も見られるが、この時点では地頭の波木井氏に謗法の兆候が無かったことを伺わせます。尚、波木井氏は弘安八年(1285年)に日興上人の呼びかけで六老僧の一人日向が身延に戻ってきてから日向の影響で念仏の道場建立するなど決定的な謗法を犯したため、ついに日興上人は身延離山に至ります。
■ご真筆:現存しておりません。

[美作房御返事 本文]
熊と申さしめんと欲し候の処、此の便宣候の間悦び入り候。 今年は聖人の御第三年に成らせ給い候いつるに身労なのめに候はば何方へも参り合せ進らせて、御仏事をも諸共に相たしなみ進らすべく候いつるに、所労と申 し、又一方ならざる御事と申し、何方にも参り合せ進らざず候いつる事、恐入り候上、歎き存じ候。 抑代も替りて候。

 聖人より後も三年は過ぎ行き候に、安国論の事、御沙汰何様なるべく候らん。鎌倉には定めて御さはぐり候らめども、是れは参りて此の度の御世間承らず候に、当今も身の術なきままはたらかず候へば仰せを蒙ることも候はず、万事暗暗と覚え候。 

 此の秋より随分寂日房と申し談じ候いて、御辺へ参らすべく候いつるに其れも叶わず候。何事よりも身延沢の御墓の荒はて候いて、 鹿かせきの蹄に親り縣らせ給い候事、目も当てられぬ事に候。 

 地頭の不法ならん時は我も住むまじき由、御遺言には承り候へども、不法の色も見えず候。
 其の上聖人は日本国中に我を待つ人無かりつるに、此の殿ばかりあり。然れば墓をせんにも国主用いん程は尚難くこそ有らんずれば、いかにも此の人の所領に臥すべき御状候いし事、日興の賜ってこそあそばされてこそ候いしか。

 是れは後代まで定めさせ給いて候を、彼には住せ給い候はぬ義を立て候はん。如何が有るべく候らん。所詮縦い地頭不法に候はば昵んで候なん。 争でか御墓をば捨て進らせ候はんとこそ覚え候。 師を捨つべからずと申す法門を立てながら、忽ちに本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難に術なく覚え候。 此くの如き子細も如何がと承り度く候。波木井殿も見参に入り進らせかたらひ給い候。 如何が御計らい渡らせ給い候べき。委細の旨は越後公に申さしめ候い了んぬ。

 若し日興等が心を兼ねて知し食す事渡らせ給うべからず、其の様誓状を以て真実知者のほしく渡らせ給い候事、越前公に申させ候い畢んぬ。 波木井殿も同じ事におわしまし候。 さればとて老僧達の御事を愚かに思い進らせ候事は、法華経も御知見候へ。 
 地頭と申し某等と申し、努努無き事に候、 今も御不審免れ候へば悦び入り候の由、地頭も申され候。某等も存じ候。
 其の旨さこそ御存知わたらせ給い候らん。
 聞こしめして候へば、 白地に候様にて御墓へ御入堂候はん事苦しく候はじと覚え候。 当時こそ寒気の比にて候へば叶わず候とも、明年の二月の末三月のあわいに、 あたみ湯冶の次いでには如何が有るべく候らん。越後房の私文には苦しからず候、 委細に承り候はば先づ力付き候はんと波木井殿も仰せ候なり。 
いかにも御文には尽し難 く候て、併ら省略候い畢んぬ。恐恐謹言。
       
     弘安七年甲申十月十八日         僧 日興 判
     進上 美作公御房御返事

by johsei1129 | 2015-08-18 20:36 | 日興上人 | Comments(0)
2015年 08月 07日

日蓮一期の弘法を付属された日興上人が取りまとめた【宗祖御遷化記録】

【宗祖御遷化記録】
■出筆時期:弘安五年(西暦1282年)十月十六日 日興上人三十七歳 御作。
■出筆場所:池上宗仲邸と思われる。
■出筆の経緯:大聖人が池上宗仲邸で弘安五年十月十三日に御遷化され、その時の「御葬送次第」その他を、日興上人が取りまとめた記録である。弟子の他四条金吾、南条時光、大田乗明らも御葬送の列に参加されていることが記されておられます。
この書は、「日蓮一期弘法附属書」で「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を附属す、本門弘通の大導師たるべきなり」とされた日興上人の、最初の仕事となりました。
ご真筆が残っており、本書を束ねた冊子の合わせ目の裏に四老僧(日昭・日朗・日興・日持)の花押が記されている※日向・日頂は不在だったと思われる。
■ご真筆:西山本門寺 所蔵(国重要文化財)
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[宗祖御遷化記録 本文]


一、弘長元年辛酉伊豆國被流。御年四十
  預伊東八郎左衛門尉。造立正安国論一巻
            奉最明寺入道故也。
  同三年二月二十二日赦免。

一、文永八年辛未九月十二日被流れ佐土嶋。御年五十
  預武州前司。依極楽寺長老
        良観房訴状也。訴状在別紙。
  同十一年甲戌二月十四日赦免。
  同五月十六日甲斐國波木井身延山隠居。地頭南部
                    六郎入道


一、弘安五年丙午九月十八日武州池上入御。地頭衛門
                    太夫宗仲
  同十月十八日本弟子六人被定置。此状六人面々
                 可帯云々日興一筆也。

   定

 一、弟子六人事 不次第

 一、蓮花阿闍梨 日持

 一、伊予公   日頂

-----(四老僧の花押)---------

 一、佐渡公 日持

 一、白蓮阿闍梨 日興

 一、大國阿闍梨 日朗

 一、弁阿闍梨  日昭

右六人者本弟子也。仍為向後所定如件。
  弘安五年十月八日
  同十三日辰時御滅。御年
           六十一即時大地震動。

  同十四日戌時御入棺日朗
           日昭、子時御葬也。

一、御葬送次第

  先火     二郎三郎鎌倉住人

  次大寶花   四郎次郎駿河國富士
             上野住人

  次幡     左 四条左衛門尉
         右 衛門太夫

  次鐘     大田左衛門入道

  次散花    南条七郎次郎

  次御経    大学亮


-----(四老僧の花押)---------

  次文机    富田四郎太郎

  次佛     大学三郎

  次御はきもの 源内三郎御所御中間

  次御棺 御輿也

             侍従公
             治部公
           左
             下野公
             蓮花阿闍梨

  前陣大國阿闍梨

             出羽公
             和泉公
           右
             但馬公
             卿公


             信乃公
             伊賀公
           左
             摂津公
             白蓮阿闍梨

  後陣弁阿闍梨

             丹波公
             大夫公
           右
             筑前公
             帥公

  次天蓋    大田三郎左衛門

  次御大刀   兵衛志

  次御腹巻   椎地四郎

  次御馬    ●王童
         瀧王童

-----(四老僧の花押)---------

一、御所持佛教事

   御遺言云
   佛者釈迦
     立像墓所傍可立置云々。
   経者私集最要文
     名注法花経
   同籠置墓所寺六人香花當番時
   可被見之。自餘聖教者非沙汰之限云々。
   仍任御遺言所記如件。

     弘安五年十月十六日    執筆日興花押





by johsei1129 | 2015-08-07 20:13 | 日興上人 | Comments(0)
2015年 04月 04日

熱原の三烈士を、鬼に身を投げて仏法を求めた雪山童子の如しと称えた【聖人等御返事】

【聖人等御返事(変毒為薬御書)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)十月十七日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:弘安二年十月十五日、冨士郷・熱原の農民、神四郎、弥五郎、弥六郎の兄弟が、平頼綱(平金吾)より法華経信仰をやめなければ殺すと弾圧され、それでも法華経信仰を捨なかった三人は断首される。この事態を受け現地で農民信徒を励ましていた伯耆房日興上人は、直ちに急使を立て身延の大聖人へ報告、手紙は翌々日の十月十七日午後六時頃到着する。大聖人は直ちに本書をしたため同日午後八時頃には日興上人に送っている。大聖人は本書で熱原の三烈士が処刑されるまで「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えていたことは「偏に只事に非ず」と驚嘆されるとともに「経文の半偈を聞く為に鬼に身を投げ出した釈迦前世の雪山童子の如し」と讃えられている。
 実際に日蓮門下で、法華経を信仰するがゆえに処刑の場に立たされたのは「竜の口法難」の日蓮大聖人以外では、熱原の三烈士だけである。
佐渡流罪の時、日朗上人含む五人の弟子・信徒が投獄されているが、処刑までは至っていない。
 尚、本書の宛名は聖人等御返事になっている。実際は日興上人へ宛てられた手紙であるが、大聖人は日興上人への他の手紙では、伯耆房殿若しくは伯耆殿となっている。また日興上人の弟子で、ともに熱原の農民を励ましていた日秀、日弁に対しては、同じ弘安二年十月十二日の「伯耆房御返事」で、日秀、日弁等へ下すと記している。その意味で本書の宛名「聖人等御返事」は、釈迦前世の雪山童子の如しと称えておられる「熱原の三烈士」を弔っての称号と強く推察される。
ちなみに、本書で「妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか」と予言されてるとおり、熱原法難の十四年後、執権北条貞時の軍に急襲され、平頼綱は自害し一族は滅ぼされた。
■ご真筆: 現存していない。古写本:日興筆(北山本門寺所蔵)
[聖人等御返事 本文]

今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す。

 彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云。偏に只事に非ず。定めて平金吾の身に十羅刹入り易りて、法華経の行者を試みたもうか。

 例せば雪山童子、尸毘王等の如し。将た又悪鬼其の身に入る者か。釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等、五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓は是なり。

 大論に云く、能く毒を変じて薬と為す。天台云く毒を変じて薬と為す云云。妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか。
伯耆房等、深く此の旨を存じて問注を遂ぐ可し。平金吾に申す可き様は、文永の御勘気の時聖人の仰せ忘れ給うか、其の殃未だ畢らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか、最後に申し付けよ。恐恐謹言。

十月十七日戌時               日 蓮 花押判
聖人等御返事
この事のぶるならば此方にはとがなしとみな人申すべし、又大進房が落馬あらわるべし、あらわれば人人ことにおづべし、天の御計らいなり、各にはおづる事なかれ、つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぼふるなり、今度の使にはあわぢ房を遣すべし。




by johsei1129 | 2015-04-04 23:15 | 日興上人 | Comments(0)
2015年 04月 02日

熱原の法難が勃発した直後に認められ、事に当たり奮闘する日興上人等を鼓舞された【伯耆殿並諸人御中御書】

【伯耆殿並諸人御中御書】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)九月二十六日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書を認められた五日前の弘安二年九月二十一日、神四郎、弥五郎、弥六郎始めとする20人の駿河・熱原の農民信徒が捕らえられ鎌倉に移送されるという「熱原」の法難が勃発する。大聖人は直ちに事にあたっていた日興上人を中心とする弟子信徒に対し、幕府への対応方法その他について細々と指南されたのが本書と思われます。
全十九紙の内、最後の一紙のみご真筆が残されておりますが残念ながら長文の前の部分は伝えられておりません。
その末尾の一紙では『此の事はすでに梵天・帝釈・日月等に申し入れて候ぞ』と記され農民信徒への諸天の加護を大聖人自ら祈られていることを示し、日興上人等を強く鼓舞されておられます。
■ご真筆:和歌山県 了法寺(第十九紙) 所蔵。
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※九月廿六日の日付の上に、日興上人が小さく弘安二年と追記されおられます。

【伯耆殿並諸人御中御書 本文】

(下記本文の前一紙から十八紙はご真筆も古写本も伝えられておりません)

此の事はすでに梵天・帝釈・日月
等に申し入れて候ぞ。あへてたが
えさせ給ふべからず。各々天の御
はからいとをぼすべし。恐々謹言。

    九月廿六日              日  蓮 花 押

 伯耆殿並びに諸人御中




by johsei1129 | 2015-04-02 22:19 | 日興上人 | Comments(0)
2014年 11月 11日

法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なりと説いた書【滝泉寺申状】

【滝泉寺申状】
■出筆時期:弘安二年十月(西暦1279年) 五十八歳 御作(代作)。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書の題号である滝泉寺は駿河国富士郡の天台宗寺院で、この寺院の僧、日秀・日弁らは日興上人の教化により大聖人に帰依した。これに怒りをなした院主代の行智は彼等を寺から追放するために幕府に訴えにでる。本書は日興上人の反訴状の草案に大聖人が添削加筆し、最終的に日興上人が取りまとめ問註所に訴状として提出している。本草案は全11紙からなり、前半の8紙は大聖人が書き記し、残りは主に日興上人が書き記していると思われる。
■ご真筆: 中山法華経寺所蔵(重要文化財)。
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[滝泉寺申状 ご真筆 中山法華経寺所蔵]

[滝泉寺申状 本文]

駿河の国・富士下方滝泉寺の大衆・越後房日弁・下野房日秀等謹んで弁言す。
 当寺院主代・平左近入道行智・条条の自科を塞ぎ遮らんが為に不実の濫訴を致す謂れ無き事。
 訴状に云く日秀・日弁・日蓮房の弟子と号し法華経より外の余経或は真言の行人は皆以て今世後世叶う可からざるの由・之を申す云云取意。

 此の条は日弁等の本師日蓮聖人・去る正嘉以来の大彗星大地動等を観見し一切経を勘えて云く当時日本国の体たらく権小に執著し実経を失没せるの故に当に前代未有の二難を起すべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、仍て治国の故を思い兼日彼の大災難を対治せらる可きの由、去る文応年中・一巻の書を上表す立正安国論と号す勘え申す所皆以て符合す既に金口の未来記に同じ宛も声と響との如し、外書に云く「未萠を知るは聖人なり」内典に云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る」云云、之を以て之を思うに本師は豈聖人なるかな巧匠内に在り国宝外に求む可からず、外書に云く「隣国に聖人有るは敵国の憂なり」云云、内経に云く「国に聖人有れば天必ず守護す」云云。 外書に云く「世必ず聖智の君有り而して復賢明の臣有り」云云、此の本文を見るに聖人・国に在るは日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり諸竜を駆り催して敵舟を海に沈め梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし、君既に賢人に在さば豈聖人を用いずして徒に他国の逼を憂えん。

 抑大覚世尊・遥に末法闘諍堅固の時を鑒み此くの如きの大難を対治す可きの秘術を説き置かせらるるの経文明明たり、然りと雖も如来の滅後二千二百二十余年の間・身毒・尸那・扶桑等・一閻浮提の内に未だ流布せず、随つて四依の大士内に鑒みて説かず天台伝教而も演べず時未だ至らざるの故なり、法華経に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布す」云云、天台大師云く「後五百歳」妙楽云く「五五百歳」伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り末の初め地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原ぬれば則五濁の生・闘諍の時」云云、東勝西負の明文なり。

 法主聖人・時を知り国を知り法を知り機を知り君の為臣の為神の為仏の為災難を対治せらる可きの由・勘え申すと雖も御信用無きの上・剰さえ謗法人等の讒言に依つて聖人・頭に疵を負い左手を打ち折らるる上・両度まで遠流の責を蒙むり門弟等所所に射殺され切り殺され毒害・刃傷・禁獄・流罪・打擲・擯出・罵詈等の大難勝げて計う可からず、ここに因つて大日本国・皆法華経の大怨敵と成り万民悉く一闡提の人と為るの故に天神・国を捨て地神・所を辞し天下静ならざるの由・粗伝承するの間・其の仁に非ずと雖も愚案を顧みず言上せしむる所なり、外経に云く「奸人朝に在れば賢者進まず」云云、内経に云く「法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり」云云。

 又風聞の如くんば高僧等を崛請して蒙古国を調伏す云云、其の状を見聞するに去る元暦・承久の両帝・叡山の座主・東寺・御室・七大寺・園城寺等検校長吏等の諸の真言師を請い向け内裏の紫宸殿にして咒咀し奉る故源右将軍並に故平右虎牙の日記なり、此の法を修するの仁は敬つて之を行えば必ず身を滅し強いて之を持てば定めて主を失うなり、然れば則ち安徳天皇は西海に沈没し叡山の明雲は流矢に当り後鳥羽法皇は夷島に放ち捨てられ東寺・御室は自ら高山に死し北嶺の座主は改易の恥辱に値う、現罰・眼に遮り後賢之を畏る聖人・山中の御悲みは是なり。

 次ぎに阿弥陀経を以て例時の勤と為す可きの由の事。
 夫れ以みれば花と月と水と火と時に依つて之を用ゆ必ずしも先例を追う可からず、仏法又是くの如し時に随つて用捨す、其の上・汝等の執する所の四枚の阿弥陀経は四十余年未顕真実の小経なり、一閻浮提第一の智者たる舎利弗尊者は多年の間・此の経を読誦するも終に成仏を遂げず然る後・彼の経を抛ち末に法華経に至つて華光如来と為る、況や末代悪世の愚人・南無阿弥陀仏の題目計りを唱えて順次往生を遂ぐ可しや、故に仏・之を誡めて言く法華経に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」と云云教主釈尊正しく阿弥陀経を抛ちたまう云云又涅槃経に云く「如来は虚妄の言無しと雖も若し衆生の虚妄の説に因るを知れば」と云云、正しく弥陀念仏を以て虚妄と称する文なり、法華経に云く「但楽て大乗経典を受持し乃至余経の一偈をも受けざれ」云云、妙楽大師云く「況や彼の華厳但以て称比せん此の経の法を以て之を化するに同じからず故に乃至不受余経一偈と云う」云云。彼の華厳経は寂滅道場の説・法界唯心の法門なり、上本は十三世界微塵品・中品は四十九万八千偈・下本は十万偈四十八品今現に一切経蔵を観るに唯八十・六十・四十等の経なり、其の外の方等・般若・大日経・金剛頂経等の諸の顕密大乗経等を尚・法華経に対当し奉りて仏自ら或は未顕真実と云い或は留難多きが故に或は門を閉じよ或は抛て等云云、何に況や阿弥陀経をや、唯大山と蟻岳との高下・師子王と狐兎とのす力(もう)なり。今日秀等専ら彼等小経を抛ち専ら法華経を読誦し法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱え奉る豈殊忠に非ずや、此等の子細御不審を相貽さば高僧等を召され是非を決せらる可きか、仏法の優劣を糺明致す事は月氏・漢土・日本の先例なり。今明時に当つて何ぞ三国の旧規に背かんや。

 訴状に云く今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ云云取意。

 此の条・跡形も無き虚誕なり日秀等は損亡せられし行者なり不安堵の上は誰の人か日秀等の点札を叙用せしむ可き将た又おう弱なる土民の族・日秀等に雇い越されんや、然らば弓箭を帯し悪行を企つるに於ては行智云く近隣の人人争つて弓箭を奪い取り其の身に召し取ると云うが如き子細を申さざるや、矯飾の至り宜しく賢察に足るべし。
日秀・日弁等は当寺代代の住侶として行法の薫修を積み天長地久の御祈祷を致すの処に行智は乍に当寺霊地の院主代に補し寺家・三河房頼円並に少輔房日禅・日秀・日弁等に行智より仰せて、法華経に於ては不信用の法なり速に法華経の読誦を停止し一向に阿弥陀経を読み念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せしむるの間、頼円は下知に随つて起請を書いて安堵せしむと雖も日禅等は起請を書かざるに依つて所職の住坊を奪い取るの時・日禅は即ち離散せしめ畢んぬ、日秀・日弁は無頼の身たるに依つて所縁を相憑み猶寺中に寄宿せしむるの間此の四箇年の程・日秀等の所職の住坊を奪い取り厳重の御祈祷を打ち止むるの余り悪行猶以て飽き足らず為に法華経行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈在世の調達に非ずや。

 凡そ行智の所行は、法華三昧の供僧・和泉房蓮海を以て、法華経を柿紙に作り紺形に彫くそうしぶかみこんがたほるは重科の上謗法なり。仙予国王は閻浮第一の持戒の仁、慈悲喜捨を具足する菩薩の位なり。而も又師範なり。然りと雖も法華経を誹謗するばら門五百人が頭を刎ね、其の婆羅こうべは功徳に依って妙覚の位に登る。歓喜仏の末、諸の小乗・権大乗の者法華経の行者覚徳比丘を殺害せんとす。有徳国王は諸の小権法師等を、或は射殺し、或は切り殺し、或は打ち殺して迦葉仏等と為る。戒日大王・宣宗皇帝・聖徳太子等は此の先証を追って仏法のかいにちせんそう怨敵を討罰す。此等の大王は皆持戒の仁にして、善政未来に流る。今行智の重科は□□べからざるか。然りと雖も日本一同に誹謗を為すの上は其の子細御尋ねに随って之を申すべし。

 堂舎修治の為に、日弁に御書下を給い構え置く所の上葺榑一万二千寸の内八千寸を之を私用せしむ、下方の政所代に勧め去る四月御神事の最中に法華経信心の行人・四郎男を刄傷せしめ去る八月弥四郎坊男の頚を切らしむ、日秀等に頚を刎ぬる事を擬して此の中に書き入れ無智無才の盗人・兵部房静印より過料を取り器量の仁と称して当寺の供僧に補せしめ、或は寺内の百姓等を催し鶉狩・狸殺・狼落の鹿を取りて別当の坊に於て之を食らい或は毒物を仏前の池に入れ若干の魚類を殺し村里に出して之を売る、見聞の人・耳目を驚かさざるは莫し仏法破滅の基悲んで余り有り。此くの如き不善の悪行・日日相積るの間日秀等愁歎の余り依つて上聞を驚かさんと欲す、行智条条の自科を塞がんが為に種種の秘計を廻らし近隣の輩を相語らい遮つて跡形も無き不実を申し付け日秀等を損亡せしめんと擬するの条言語道断の次第なり、冥に付け顕に付け戒めの御沙汰無からんや、所詮仏法の権実沙汰の真偽・淵底を究めて御尋ね有り且は誠諦の金言に任せ且は式条の明文に准し禁遏を加えられば守護の善神は変を消し擁護の諸天は咲を含まん、然れば則ち不善悪行の院主代・行智を改易せられ将た又本主此の重科を脱れ難からん何ぞ実相寺に例如せん、誤まらざるの道理に任せて日秀・日弁等は安堵の御成敗を蒙むり堂舎を修理せしめ天長地久御祈祷の忠勤を抽んでんと欲す、仍て状を勒し披陳言上件の如し。

弘安二年十月 日 沙門 日秀 日弁等上

大体此の状の様有るべきか。但し熱原の沙汰の趣に其の子細出来せるか。

by johsei1129 | 2014-11-11 22:43 | 日興上人 | Comments(0)
2014年 09月 06日

日興上人が、先師日蓮の門下が厳守すべきと記した二十六ヶ条の遺言【日興遺誡置文】その五

[日興遺誡置文 本文]その五

一、衣の墨・黒くすべからざる事。
[四菩薩造立抄]に下記の御文があり、当時日蓮大聖人は白小袖・薄墨染衣・同色の袈裟を法衣として身に着けていたことがわかります。
白小袖一・薄墨染衣一・同色の袈裟一帖・鵞目一貫文給び候、今に始めざる御志言を以て宣べがたし何れの日を期してか対面を遂げ心中の朦朧を申し披や」

一、直綴を着す可からざる事。
※注(直綴) :上衣の役目をもつ褊衫と下衣の役目をもつ裙をつづり合わせて作った僧衣。

上記の二条項で日興上人は門下の弟子(僧)に対し、先師日蓮同様、身繕いは質素を旨とすべきであると戒めている。
大聖人は普段雑泥色(現在の薄墨色)の単衣を身につけていたと云う。これは釈尊及び当時の弟子ら求道者が、『糞掃衣(ふんぞうえ):ボロ布を洗ってつづり合わせて作った衣』をまとっていた精神を継承していることを意味している。現代の派手な僧衣をまとって自らを飾っている僧侶は、既に仏となって衆生を救済しようとする求道者の道から、遥かに遠のいている位置に存在していると言わざるえない。

一、謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事。

一、謗法の供養を請く可からざる事。

一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す。
但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事。


一、若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。

一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し。但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の妖犯有りと雖も衆徒に差置く可き事。

一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫す可き事。

右の条目大略此くの如し、万年救護の為に二十六箇条を置く。後代の学侶敢て疑惑を生ずる事勿れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず。仍つて定むる所の条条件の如し。

元弘三年癸酉正月十三日  日 興 花押


[日興遺誡置文 本文] 完。


by johsei1129 | 2014-09-06 00:09 | 日興上人 | Comments(0)
2014年 09月 04日

日興上人が、先師日蓮の門下が厳守すべきと記した二十六ヶ条の遺言【日興遺誡置文】その四

[日興遺誡置文 本文]その四

一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。
 ※注(自余を交ゆ):先師日蓮大聖人の法門をひたすら談じ、説法すべきで、その際自余(我見)を交えてはならないと諌めておられます。

一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。
大聖人は松野殿御返事(十四誹謗抄)にて「然るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説有るべきか」と、説かれておられます。
さらに椎地四郎殿御書にても「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」と説かれ、随力弘通をご指南なされておられます。

一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。
※注(身軽法重):法の流布のためには自身の身はたとえ朽ち果てても構わない、という強い求道の姿勢。
    (当如敬仏):まさに仏の如くに敬う。
  大聖人は新池御書 で「後世を願はん者は名利名聞を捨てて、何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり」と説き、信徒に対し、身分の高い低いではなく、正しい法門を説く者こそ如来の如く敬うべだと諭しておられます。

一、弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事。

一、下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。
注:上記三条項は、身分の高低ではなく、優れた法門=妙法蓮華経を説く人こそ敬うべだということを示しておられます。

一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。

一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。
※上記二条項は、仏法における「依法不依人=法に依って人に依らざれ」の大原則を示しておられます。
  例え僧侶・信徒の頂点に立つ時の貫首(管主)と言えど、また多数の者による結論であっても、法門に相違しているならばそれは用いてはならない、と強く戒めておられます。

[日興遺誡置文 本文]その五に続く




by johsei1129 | 2014-09-04 21:05 | 日興上人 | Comments(0)