日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:小説 日蓮の生涯 下( 54 )


2017年 04月 26日

88 女性信徒への手紙 一

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                        (日蓮大聖人御一代記より)

甲斐の山中はさびしい。
人里はなれ、おとずれる者はなく、館には日目らの小僧がいるだけである。
外に聞こえるのは、山猿や鹿のかすかな声だけ。

静寂があたりを支配していた。

人間が幾年もこの中にいるとき、どうしても内省的にならざるをえない。また自然に外からの知らせをまちわびる気持ちがわき、無性に人恋しくなる。

こんな時、なによりもありがたいのは手紙だった。いにしえの人が手紙を大切に保存していたことがうなずける。この時代、手紙とは墨によって人の息づかいや心までも包含する伝達手段だった。つまり手紙自体が生きていた。音信ともいうがまさにそのとおりであったろう。平家物語にも「はかなき筆の跡こそ後の世までの形見」とある。現代人にはわからない感覚である。そのような手紙をうけとった人のよろこびは尋常ではなかった。

 日蓮も同じである。

とりわけ、うちとけた故郷の人からの手紙には、なんども心をなぐさめている。

光日房は日蓮の故郷安房の天津の人である。彼は山中の日蓮を思って手紙をおくった。内容は安房の人々の近況をつづったものであろう。

冬の甲斐山中は雪深く、おとずれる者はいない。手紙をうけとった日蓮の感激はひとかたでない。日蓮は故郷の海を思い、自身の来し方をふりかえりながら、長文の返書をしたためた。

この手紙はのちに「種々御振舞御書」とよばれた。海音寺潮五郎は日本で最初の自伝といっている。この消息がなければ、おそらくこの小説は書けなかった。われわれは光日房に感謝しなければならない。

日蓮は消息の末尾に山中における心情をありのままにしるす。


されば鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。女人はみめ形よければ(ねた)む者多し。国を治むる者は他国の恐れあり。(たから)有る者は命危ふし。法華経を持つ者は必ず成仏し候。故に第六天の魔王と申す三界の主、この経を持つ人をば(あなが)ちに(ねた)み候なり。()の魔王、疫病(やくびょう)の神の目にも見えずして人に付き候やうに、古酒に人の酔ひ候如く、国主・父母・妻子に付きて法華経の行者を嫉むべしと見えて候。少しも(たが)はざるは当時の世にて候。日蓮は南無妙法蓮華経と唱ふる故に、二十余年所を追はれ、二度まで御勘気を(こうむ)り、最後には此の山にこもる。此の山の(てい)たらく、西は七面の山、東は天子のたけ()、北は身延山、南は鷹取(たかとり)の山。四つの山高きこと天に付き()さが()しきこと飛鳥もとびがたし。中に四つの河あり。所謂富士河・早河・大白河・身延河なり。其の中に一町ばかり(はざま)の候に庵室(あじち)を結びて候。昼は日をみず、夜は月を拝せず。冬は雪深く、夏は草茂り、問ふ人(まれ)なれば道をふみわくることかたし。殊に今年は雪深くして人問ふことなし。命を()として法華経(ばか)りをたのみ奉り候に御音信ありがたく候。しらず、釈迦仏の御使ひか、過去の父母の御使ひかと申すばかりなく候。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。

日蓮は山中から信徒に手紙をおくった。手紙は真筆や古写本として今にのこるだけでも五百通になんなんとする。

その中でもとりわけ在家・出家の女性にあてた手紙は驚くほど多い。日蓮は「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらうべからず」といったが、そのとおり女性にたいしても男同様、強い信心をうながした。

 この仏法は信徒一人一人の信力によってかがやく。信徒は日蓮がのこした本尊に祈ることによって法華経へ導かれ「福はかさなり候べし」つまり仏性を開き福運を積み重ねることができるという()()()()

 だが信徒によっては、法華経信仰のとらえ方が異なっていたのもまた事実であった。
 願いごとは日蓮が叶えてくれると思った信徒が多数いた。人頼りなのである。祈りが叶わないのは日蓮のせいであると。

 日厳尼もそうだった。

彼女は念仏宗のように、だれかが助けてくれると誤解していた。これでは自身の仏界はひらけない。

 日蓮は「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず」と、日厳尼に強い信心をうながす。五十九歳の手紙である。

  弘安三年十一月八日、尼(にち)(ごん)の立て申す(りゅう)(がん)の願書、並びに御布施の銭一貫文、又()()かたびら(帷子 )一つ、法華経の御宝前並びに日月天に申し上げ候ひ(おわ)んぬ。其の(うえ)は私に(ばか)り申すに及ばず候。叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮が()がにあらず。水()めば月うつ()る。風ふけば()()るぐごとく、みなの御心は水のごとし。信の()はきはにご()るがごとし。信心のい()ぎよきは()めるがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ。恐々。

  十一月二十九日          日蓮花押

                        『日厳尼御前御返事


         89 女性信徒への手紙 二 へ続く
下巻目次



by johsei1129 | 2017-04-26 06:47 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2015年 06月 13日

73 化儀をたすくる人

日蓮はこのあと、弟宗長に感激の手紙をおくっている。日蓮は病身だったが、書かずにはいられなかった。

とのばら二人は上下こそありとも、(殿)のだにも()()かく、心()がり、道理をだにもしらせ給わずば、(右衛)もん()大夫(たいふの)(さかん)殿はいかなる事ありとも、()やのかんだ(勘当)ゆる()べからず。()もん(衛門)()いう()は法華経を信じて仏になるとも、()やは法華経の行者なる子をかん()()うして地獄に()つべし。(殿)のは()にと()やとを()んずる人になりて、堤婆達多が()うにをはすべかりしが、末代なれども、()しこき上、欲なき身と生まれて三人ともに仏になり給ひ、()()た、()ゝかたの()いをも( 救)くひ給ふ人となり候ひぬ。又(殿)のゝ御子息等も()への代は()かうべしとをぼしめせ。

此の事は一代聖教をも引きて百千まい()()くとも、()くべしとはをもわねども、やせ()()まいと申し、身もくる()しく候へば、事々申さず。あわれあわれ、いつかげざん(見参)に入りて申し候はん。又むかいまいらせ候ひぬれば、あまりのうれ()しさに、かた()られ候はず候へばあらあら申す。よろづは心にすい()しはからせ給へ。女房の御事同じくよろこぶと申させ給へ。恐々謹言  『兵衛志殿御返事


面会したならば、あまりのうれしさに言葉がでないであろうという。感激がよく伝わっている。

宗長を突き放したかにみえた日蓮だが、むろん内心はちがう。劇的な改心を求めるためにわざと突き放した。

日蓮は晩年、弟子に法華経を講義し、それを日興上人が書き留めた御義口伝()で、次のように口伝している。

信解(しんげ)品六箇の大事 第四(しん)()悔恨(けこん)の事

日本国の一切衆生は子の如く日蓮は父の如し、法華不信の(とが)()つて無間大城に()ちて返つて日蓮を(うら)みん、又日蓮も声も(おし)まず法華を()つ可からずと云うべきものを霊山(りょうぜん)にて(くい)ること之れ有る可きか

()日本国の衆生は法華経を信じないで無間地獄に落ちて日蓮を恨むであろう、しかし日蓮とて声も惜まず法華を捨つ可からずと云うべきだったと悔いることであろう。

日蓮は、一度は法華経に帰依(きえ)した宗長が法華経を捨て無間地獄に落ちることは、自分自身が悔いることにもなると、声も惜しまず「法華を捨つ可からず」と宗長に説いたのだった。

では兄宗仲への思いはどうだったろう。

 日蓮は最後まで強信だった兄に、なかば尊敬をこめて書をおくる。

「当今は末法の始めの五百年に当たりて候。かゝる時刻に上行菩薩御出現あって、南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづ()け給ふべきよし経文分明なり。又流罪死罪に行はるべきよし明らかなり。日蓮は上行菩薩の御使ひにも似たり、此の法門を弘むる故に。神力品(じんりきぼん)に云わく「日月の光明の()く諸の(ゆう)(みょう)を除くが如く、()の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」等云云、此の経文に斯人(しにん)(ぎょう)世間(せけん)(いつつ)の文字の中の人の字をば誰とか(おぼ)()す、上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり、経に云く「我が滅度の後に(おい)(まさ)()の経を受持すべし、是の人仏道に於て(けつ)(じょう)して(うたがい)有ること無けん」云云。貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし」 『右衛門太夫殿御返事


兄宗仲を「上行菩薩の化儀をたすくる人」と称えている。

日蓮は(ごう)(じょう)な信徒には、自分の胸中をあますところなく吐露している。

このあと弟宗長にあてた手紙に、日蓮自身が愚痴をこぼす珍しい消息がある。

内容は身延山に隠棲したはずなのに、来客がひっきりなしにあり、とてもおちつけないという。弟子も多いときには六十人いて騒がしいばかりだという。そんな嬉しさ半分の内心のいらいらをユーモアたっぷりにつたえている。

其の上兄弟と申し、右近の尉の事と申し、食もあいついで候。人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかに()き候へども、これにある人々のあに()とて出来し、舎弟(しゃてい)とてさしいで、しきひ(敷居)候ひぬれば、かゝはやさにいか(如何)にとも申しへず。心にはしづ()かにあじち(庵室)むすびて、小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じて候に、かゝるわづ()らわしき事候はず。又と()あけ候わばいづくへも()げんと存じ候ぞ。かゝるわづらわしき事候はず。又々申すべく候。

なによりも()()んの大夫(たゆう)(さかん)(殿)のとの御事、( 父)ゝの御中と申し、上のをぼへと申し、面にあらずば申しつくしがたし。恐々謹言。 『兵衛志殿御返事


このようなうちとけた内容の手紙はめったにない。兄弟にあてた手紙だからこそ安心してしるしたのであろう。すこしおどけけた感もある。兄弟の(ごう)(しん)をいかによろこんでいるかがわかる。

日蓮は在家の信徒に自身の内証を明かすことはまれだった。

法華経の根本については極めて厳格だったが、自身の立場については常に控えめだった。

信徒へは、日蓮は殺生を生業とする漁師を父に持ち、一族の王子として生まれた釈尊とは異なり、最下層のスードラの身であると手紙で記している。

いっぽう弟子に対しては前述の御義口伝で説く。

 信解品六箇の大事 
第二捨父(しゃぶ)逃逝(じょうぜい)の事 
<
中略>御義口伝に云く父に於て三之れ有り、法華経・釈尊・日蓮是なり。法華経は一切衆生の父なり、此の父に背く故に流転(るてん)凡夫(ぼんぷ)となる。釈尊は一切衆生の父なり、此の仏に(そむ)く故に(つぶ)さに諸道を()ぐるなり。今日蓮は日本国の一切衆生の父なり

このように釈尊と並んで本仏であるという内証を口伝している。

日蓮は不用意に内証を信徒に語ることにより、いわば良観のように生き仏なとど神格化され、釈尊の説いた極説中の極説である法華経への信仰が損なわれることを危惧(きぐ)していた。
 たとえば
()()教信という強信徒がいる。富木常忍と同じく
下総(しもうさ)国の豪族、千葉氏の家臣で、教養も相当高かった思われ、日蓮は曾谷教信への手紙は楷書の漢文でしたためている。この曾谷教信は、日蓮が法華経の(かなめ)は方便品と寿量品で、本迹でたて分けると方便品は迹門で寿量品が本門であると説いたのを自己流に解釈、迹門である方便品は読誦せす、寿量品だけ読誦するとした。これを知った日蓮は自ら方便品を書写して教信に送り、方便品も読誦せよと諭している。

日蓮は信徒に対しては、終生法華経の行者、もしくは上行菩薩に先駆けて妙法を広めるという言葉で自分の立場を表現していた。唯一の例外と言えるのが、日蓮が滅度する年、弘安五年の四月八日に太田金吾に宛てた「三大秘法稟承事()」である。この書で日蓮は次のように説いている。

<前略>此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として日蓮(たし)かに教主大覚世尊より()(けつ)せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承(ぼんじょう)()()(ばか)りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。

問ふ一念三千の(まさ)しき証文如何。答ふ。次に申し出すべし。此に於て二種有り。方便品に云はく「諸法(しょほう)実相(じっそう)所謂(しょい)諸法(しょほう)(にょ)是相(ぜそう)乃至(ないし)欲令(よくりょう)衆生(しゅじょう)開仏(かいぶつ)知見(ちけん)」等云云。底下(ていげ)の凡夫理性所具の一念三千か。寿量品に云はく 「然我実(ねんがじつ)成仏(じょうぶつ)已来(いらい)無量無辺」等 云云。 大覚世尊久遠実成の当初(そのかみ)証得の一念三千なり。今日蓮が時に感じ此の法門広宣流布するなり。()年来(としごろ)己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の(ゆい)(てい)等定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間、貴辺に対し書き(のこ)し候。一見の後秘して他見有るべからず、口外も(せん)無し。法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり、秘すべし秘すべし。

弘安五年卯月(うづき)八日           日 蓮 花 押
太田金吾殿御返事

 文末では「
一見の後、秘して他見有るべからず、口外も詮無し」と厳命している。日蓮は自分の内証は、自身が滅度した後、日本の広布を担う後世の弟子・信徒のためにこそ明らかにすべきだと確信していた。

 池上騒動の四年後の弘安五年十月十三日、日蓮は長男宗仲の館で世を去る。武蔵の国、今の東京都大田区池上である。
 当初日蓮は病気療養のため、常陸の湯へ行く目的で身延を出た。途中、宗仲の館にとどまり、立正安国論の生涯最後の講義をし、宗仲の館を終焉の地としたのは奇遇というより、宗仲の日蓮を尊ぶその思いの強さであろうと思われる。
 池上宗仲は日蓮が遷化すると、法華経一部二十八品の全文字数である漢字69,384文字に合わせ、六万九千三八四坪を法華宗の寺領として寄進する。日蓮が定めた六老僧の一人で、宗仲のいとこでもあるといわれている日朗がこの寺院を継承、以来「池上本門寺」と称されている。
 この池上本門寺には日蓮が池上兄弟に宛てた「兄弟抄」などの真筆が現在も残されている。

(

         74  疫病国土を襲う   につづく
下巻目次



by johsei1129 | 2015-06-13 21:16 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2015年 05月 23日

終章 日本の仏法 月氏へ流れる

日興の跡を継いだ日目も師日蓮の意思を厳格に受け継いだ。鎌倉の武家・京の公家へと為政者への(かん)(ぎょう)を続け、その回数は四十二度にも及んだ。

正安元年(1299)六月の奏聞のときには、永年の願いであった公場対決が実現し、京都六波羅探題(はらたんだい)において、北条宗宣(十一代執権)が帰依する念仏僧・十宗房道智を完膚なきまでに論破する。

元弘三年(正慶二年1333)には百五十年間続いた鎌倉幕府が滅亡し、京都に天皇を頂点政治体制が敷かれることになった。

日目はすでに七十四歳という高齢だったが天奏の決意を固め、翌十一月、弟子の日尊、日郷を供として京都へ向かった。しかし途中、美濃の垂井(たるい)(現在の岐阜県垂井町)の宿に至って病床に伏し、日尊、日郷に天奏の完遂と、後継者の日道への遺言を残して十一月十五日、七十四歳で入滅する。

その後、日尊は日目の意思を守り上洛。また日郷は日目の遺骨を抱いて十二月に大石寺へ帰山する。日尊は京都に残り翌年の建武元年(1334)に代奏を果たした。

以下に日目の天奏の申状を記す。

日蓮聖人の弟子日目誠惶誠恐謹んで言す。殊に天恩を蒙り、且つは一代説教の前後に任せ、且つは三時弘経の次第に准じて正像所弘の爾前迹門の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められんと請うの状副え進ず
 一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の勘文
 一通 先師日興上人申状 元徳二年
 一、 三時弘経の次第 
 右、謹んで案内を(かんが)えたるに、一代の説教は(ひと)り釈尊の遺訓なり、取捨(しゅしゃ)(よろ)しく仏意に任すベし、三時の弘経は則ち如来の(ごう)(ちょく)なり、進退全く人力に非ず。(そもそも)一万余宇の寺塔を建立して、恒例の講経(りょう)()を致さず、三千余の社壇を崇めて如在の礼奠(れいてん)怠懈(たいげ)せしむることなし。(しか)りと雖も顕教密教の護持も叶わずして、国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈祷も(しるし)なく、自他の反逆(とし)()うて(ごう)(じょう)なり、神慮(はか)られず仏意思い難し。(つらつら)微管(びかん)を傾け(いささ)か経文を(ひら)きたるに、仏滅後二千余年の間、正像末の三時流通の(ほど)、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三つあり、所謂(いわゆる)法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。之を(しん)(ぎょう)せらるれば、天下の安全を致し国中の逆徒を(しず)めん、此の条如来の金言分明(ふんみょう)なり大師の解釈炳焉(へいえん)たり。就中(なかんずく)我が朝は是れ神州なり、神は非礼を受けず、三界は皆仏国なり、仏は則ち謗法を(いまし)む。(しか)れば則ち爾前(にぜん)迹門(しゃくもん)の謗法を退治せば、仏も(よろこ)び神も慶ぶ。法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え国も栄えん。望み()う、(こと)に天恩を(こうむ)り諸宗の悪法を棄捐(きえん)せられ、一乗妙典を崇敬(すうぎょう)せらるれば、金言しかも(あやま)たず、妙法の唱え(えん)()に絶えず、玉体(つつが)()うして宝祚(ほうそ)の境、天地と(さかい)無けん。日目、先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ。誠惶(せいこう)誠恐(せいきょう)謹んで(もう)す。  元弘三年十一月     日目

この日蓮・日興の精神をあやまたず記した申状は、ついに日目の手で届けられることはなかった。天奏を目前にして、臨終を迎える心情はどうだったのか。日目を看取った日郷が、門流の者に語った伝承をもとに綴った記録がのこる。
                 

目上(もくじょう)御遺言に曰く、此の申状奏せずして(つい)に臨終す。此の土の受生(じゅしょう)所用(しょゆう)無しと(いえど)も、今一度人間に生れ、此の状を奏すべし。若し此の状奏聞の人、未来に()いて(これ)有らば、日目が再来と知るべし。 富要四巻「申状見聞」

訳「この申状を奏進できず、ついに臨終を迎えることは、まことに無念の極みである。此の土に生を受けて以来、自分には取り立てての功績はなかったが、今一度人間に生を受け、なんとしてもこの申状を奏したい。もしもこの状を奏聞する者が将来・未来に現われたなら、日目の再来と知るべきである」

いらい日蓮正宗では広宣流布の代に、日目上人が現われるという言い伝えがある。

日蓮が弘安五年(西暦1282)十月十三日に滅度して以来、本年(2015)で733年になろうとしている。
 現在の日本の仏教界の現状を省みると、日蓮が四箇の格言(律国賊、禅天魔、真言亡国、念仏無限)で徹底的に破折した鎌倉仏教は、既に形骸化し葬式仏教となり下がり、民衆及び国家権力への精神的影響力は喪失している。
 また釈尊が大集経で予言した仏滅後の「
多造塔寺堅固(※注1)」の時代を中心としてつくられた仏教寺院・伽藍は、民衆が仏道を求めて見参する場ではなく、一律に入場料を徴収して拝観させるという、まるで動物園か遊戯施設のごとくに変貌を遂げた。
 出家僧の姿も俗世間を断つ本来の出家とは程遠く、鎌倉仏教の時代は出家僧の常識だった剃髪、非婚、非肉食等の戒律は宗派により多少の濃淡はあっても、ほとんど有名無実化していった。つまり出家とは名ばかりで、これらの僧侶を擁する寺社・仏閣は、そもそも在家の供養を受ける資格はないであろう。
 供養とは、あくまで在家信徒の「三宝 (仏・法・僧)」を敬う思いを表しており、金額の多可ではなく、それぞれの分に応じて自ら進んで供養するから功徳となる。決して出家僧侶の側が金額を決めて徴収するものではない。
 その状況の中で日蓮の唱えた「南無妙法蓮華経」は信仰の自由が確立した戦後、確実に日本の民衆に浸透していった。戦後、雨後の筍のように発生した新興宗教の大半は「南無阿弥陀仏」ではなく「南無妙法蓮華経」と唱え、法華経を拠り所とした。教外別伝を唱え仏典を否定した禅宗(現在の曹洞宗)でさえ「妙法蓮華経如来寿量品」を読誦するようになった。
 新興宗教の
なかには日蓮が認めた一期一会の直筆の本尊を、鎌倉時代から所蔵してきた寺院から譲り受け、自宗の本尊とする宗派もある。
 しかし決定的なのは、
一閻浮提総与の大御本尊を根本の本尊としていないことと、日蓮から付属を受けた第二祖日興上人、そして一閻浮提の御座主第三祖日目上人の血脈がないことである。それ故、日蓮の本尊を拝みながら同時に神社に参詣するという、日興上人存命時の「波木井実長」と全く同じ謗法を無意識で犯していることになる。
 いっぽう日興上人以外の五老僧及び日蓮存命中の強信徒が開基した寺社・仏閣のその後の行方はどうなったであろう。
 その中の多くは日蓮を上行菩薩の再誕として日蓮大菩薩と仰ぎ、一閻浮提総与の大御本尊を根本の本尊とはしていない。
 菩薩とは仏になる前の修業中の身である。かりに日蓮が菩薩であるならば、菩薩が本尊を図現し、末法の衆生に「これは仏の当体であるから、これに題目を唱えることで成仏できる」と説いていることになる。これはとんでもない大増上慢になるであろう。仏になっていない菩薩が己の魂を墨に染め流して本尊を図現するならば、これはあくまで菩薩の境涯を図現したことになる。
 釈尊は妙法蓮華経如来寿量品第十六でこう説いている。

 「如是我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数」
 訳「かくの如く我成仏して以来、はなはだ久遠で、寿命は無量で限りなく長い阿僧祇劫である。また滅することなく常に住している。我は本より菩薩の道を行じ、仏となって得た寿命はなお未だ尽きず、またその上の倍数の寿命を得ている」

 日蓮はこの文「我本行菩薩道」の底に「南無妙法蓮華経」が秘沈していると断言している。つまり久遠元初に釈迦牟尼は南無妙法蓮華経を唱えて成道し、その南無妙法蓮華経を日蓮自身も覚知し本尊として図現したのだ。
 仏道を成就するためには教(仏が覚知した悟り)・行(仏性を覚知するための修行法)・証(その修行で仏となったあかし)が必要となる。釈迦滅後正法千年、像法千年を経て末法に入ると、法華経という教は存在しても、末法での修行法はなく、当然仏というあかしも存在しないことになる。
 日蓮は建長五年の立宗宣言いらい、己心に本尊を想い描き、その本尊に帰命することで、竜の口の首の座の大難を乗り越え、上行菩薩としての迹を払い、末法の本仏としての本地を顕した。
 そして文永八年九月十二日の竜の口から約一ヶ月後の十月九日、佐渡へ出立するまで留め置かれた相模
依智の本間重連邸で、初めて本尊をあらわした。消息を書くために常に備えていた小筆では文字が小さいので、楊の枝をほどいて書き記したと言われている。脇書きに「相州本間依智郷書之」とあり現在、京都立本寺に所蔵されている。日蓮は妙法蓮華経の虚空会の儀式を図現し、その本尊に南無妙法蓮華経と唱えるという修行法を確立し、自らが仏となることで末法において教行証を具現化したのだった。

 ここで日蓮が出世の本懐と宣言した「一閻浮提総与の大御本尊」と、日興上人、日目上人の血脈を受け継いで代々の貫首が書写する本尊と、それに南無妙法蓮華経と唱える信徒との関係を現代の身近なものしてGPS(全地球測位システム :Global PositioningSystem)で例えてみよう。
 GPSの核となる
GPS衛星(実際は精度を上げるため複数)は原子時計の時刻データと天体暦(軌道)情報を発信する。ナビゲーターはその情報を受け取り、現在地を地図上に表示し、ユーザーが指定した目的地まで正確に誘導する。ユーザーはナビゲーターの情報に基づき目的地まで移動する。時にはユーザーは紙の地図で正しく移動しているか、確認しながら目的地にたどり着く。
 この場合、慈悲の当体の大御本尊は人々を成仏に導く、いわばGPS衛星本体の役割を果たす。宗祖日蓮大聖人、第二祖日興上人、第三祖日目上人の血脈を受け継いだ貫首が正しく大御本尊を書写した御本尊は、ナビゲーターの役割を果たし、信徒はこの御本尊に唱題することで大御本尊の力用を寸分たがわず自身の生命に再現することができる。そして紙の地図に相当するのが、釈尊の残した法華経であり、日蓮大聖人が残された御書となろう。
 日蓮大聖人が弘安二年十月十二日に建立した「大御本尊」には、釈尊の説いた極説を持し、流布し、後世に伝えようとした仏教徒の情念が結実している。仏滅後、仏典結集のため参集した阿難、摩訶(まか)迦葉(かしょう)を中心とする五百人にも及ぶ仏弟子の阿羅漢たち。妙法蓮華経を漢訳し、法華経の日本伝来の礎を築いた天才
()()羅什(らじゅう)。激しい法論に真っ向から立ち向かい、妙法蓮華経を諸教の王と確立した中国の天台大師、日本の伝教大師。
 日蓮はこの釈迦仏法の本流に立った上で、「
仏滅後二千二百三十余年之間、一閻浮提之内未曾有(みぞう)大曼荼羅」を建立した。この大御本尊に帰命せずに「日蓮大菩薩」と崇めることは「法華経を()むると(いえど)(かえ)って法華の心を(ころ)す」と同様、「日蓮を賛むると雖も還って日蓮の心を死す」所業となることは、火を見るよりも明らかであり、人々は成仏への正しい道に迷うことになる。

最後に筆者のつたない体験を紹介してこの小説の終わりとする。
 筆者は過日、総本山大石寺を訪れた。大石寺の緑の山々は霧雨におおわれて間近に迫り、静寂の世界があたりを支配していた。
 たまたま訪れた宿坊は
(とこ)灯坊(ひぼう)という海外信徒専用の宿舎だった。鉄筋の三階で地下にはシャワー室がある。部屋は十人程度が寝泊まりできるように区切られてあった。様々な国や人種の信徒が集まるため、小部屋にしているのだろう。館内にはインターネットの設備もある。海外信徒の利便を考えて様々な工夫がなされていた。
 その夜、宿坊で御住職の法話があった。この御住職は海外部に所属され、一年の半分以上は外国での布教という。法話の内容も海外での苦労話だった。その口調は淡々としていたが、かえって我々の心に染み入った。
 御住職はインドでの体験を話された。インドにも法華講の信徒は大勢いる。御住職は各地を回って彼らを激励した。
 「いつかは日本へ行き、戒壇の大御本尊様にお目通りできるよう励みましょう」と。
 ところが信徒の中で「自分は日本に行けない」という人がいた。
 そこで御住職は「そんなことはありません、かならず日本に行けますよ」と激励したが、その信徒はどうしても行けないという。金銭的な理由ではないらしい。
 理由を聞いてみると、その信徒はある都市のスラム街の生まれだという。生まれた住所も、両親の名前もはっきりしない。日本でいう戸籍がないのである。したがってパスポートを取得できない。日本に行くどころか、インドの外にもでられない。この信徒は最後に告げた。
「だからわたしは来世で大御本尊様にお会いするのです」

 日蓮大聖人は流罪地の佐渡で世界広布の予言をしている。

月は西より出でて東を照し、日は東より出でて西を照す、仏法も又以て()くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く。  「顕仏未来記 文永十年五月十一日

インドで発祥した仏教は日本に伝わった。大聖人の仏法は日本に始まりインドにかえると断言されている。さらに大聖人は自らを旃陀(せんだ)()の生まれと仰せられた。こインドの信徒も低い階層の衆生である
 筆者は思う。この信徒が日本に行くことは不可能なのだろうか。望みはないのだろうか。いや、そうではない。大御本尊様の慈悲をもってすれば、必ず日本に行けるはずだ。その可能性はいつか必ず訪れる。
 仏法の発祥地インドでは、釈迦仏法はすっかり廃れてしまったが、そこには再び日本から流布された日蓮大聖人の仏法の萌芽が見えている。大聖人が一人始められた布教の線は、確実に月氏の国に伝わっている。この小説に登場した弟子・信徒と同じく、日蓮大聖人をかぎりなく慕い、大御本尊にまみえることを夢に見る人々がインドにおられる。そして我らと同じく南無妙法蓮華経と唱え、生涯信心強盛であることを誓っている。
 今世はむろん、来世までも。

              完


 注1.  釈尊は入滅後の教えの変遷について大集経で、正しく伝わる正法時代が千年、似た教えが伝わる像法時代が千年続き、その後白法穏する末法に入ると説いている。さらに正法、像法二千年を五百年ごとに区切り次のような時代になると予言している。はじめの五百年を解脱(げだつ)堅固(けんご)といい、仏法で悟りを得る時代、次の五百年は禅定堅固で、禅定(心を定めて想念する)により悟りを得る時代、次の五百年は読誦(どくじゅ)多聞(たもん)堅固で、経文の読誦が盛んに行われる時代、次の五百年は多造(たぞう)塔寺(とうじ)堅固で寺社・仏閣が盛んに建造される時代である。最後の末法の最初の五百年は、闘諍(とうじょう)堅固・白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)の時代に入り、争いごとが盛んとなり、白法が隠没する時代であると説いている。
 日蓮大聖人も佐渡流罪中に述作した撰時抄で次のように記している。

「大集経に大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂(いわゆる)我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上(いじょう)一千年、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟(ごんしょう)して白法隠没せん等云云」(撰時抄: 建治元年 五十四歳御作)


          参考文献

「平成新編 日蓮大聖人御書」 大石寺

「新編日蓮大聖人御書全集」 堀日亨編 日蓮正宗大石寺版 発行創価学会

「日寛上人文段集」 創価学会教学部編 聖教新聞社

「富士宗学要集」 全十巻 堀日亨編 創価学会

「熱原法難史」 堀慈琳 興門史料刊行会

「真訓両読 妙法蓮華経並開結」 細井日達編 創価学会

「日蓮大聖人 御書辞典」 創価学会教学部編

「日蓮正宗 富士年表」 富士学林

 法華経()()() 訳者:坂本幸男(鳩摩羅什原本)、岩本裕(サンスクリット原典) 岩波書店
 図解ブッダの教え 監修者 田上太秀 
西東社


「現代語訳 吾妻鑑」 全十六巻 五味文彦・本郷和人・西田智弘編 吉川弘文館

「日本の時代史8 京・鎌倉の王権」 五味文彦編 吉川弘文館

「日本の時代史9 モンゴルの襲来」 近藤成一編 吉川弘文館

「日本の中世1 中世のかたち」 石井進 中央公論社

「中世を読み解く 古文書入門」 石井進 東京大学出版会

「鎌倉武士の実像 合戦と暮らしのおきて」 石井進 平凡社

「中世政治社会思想 上」 日本思想大系21 石井進ほか編 岩波書店

「朝日百科 日本の中世」 朝日新聞社

「蒙古の襲来」 海音寺潮五郎 河出文庫

「忍性 慈悲ニ過ギタ」 松尾剛次 ミネルヴァ書房

「もっと行きたい鎌倉 歴史散歩」 奥富敬之 新人物文庫

「一度は歩きたい鎌倉 史跡散歩」 奥富敬之・奥富雅子 新人物文庫

「最澄」(人物叢書) 田村晃祐 吉川弘文館

「現代語訳 平家物語」 全三巻 中山義秀訳 河出文庫

「中世的世界の形成」 石母田正 岩波文庫
  ウィキペディア(Wikipedia)日本語版https://ja.wikipedia.org/




by johsei1129 | 2015-05-23 22:30 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2015年 05月 21日

82 三烈士、旅立つ

鎌倉の牢内はなおも苦しい戦いがつづいていた。

百姓たちは神四郎ら三人をのぞき、すべてが退転にかたむいた。十七人の百姓が神四郎、弥五郎、弥六郎を責めていたのである。
 彼らは伯耆房の激励にいったんは信心をかためたが、またも退転の心がわいた。

「なぜ左衛門尉様のいうことをきかない。おまえたちのせいで、こんなところにほうりこまれたのだ」

「いいかげんにあきらめろ。一生ここにいるのか。こうまで強情をはったら、左衛門尉はどんなことをするかわかったものでないぞ」

「飯も満足に食べられない。これが限界だ。いままでよくやったのだ。満足ではないか。このままでは全員飢え死ぬだけだ」

仏と魔との戦いだった。

神四郎ら三人がなにをいってもむだだった。三人はひたすらだまり、耐えるしかない。かれらにも限界が近づいていた。

この時、牢内が静まった。

頼綱の長男宗綱があらわれたのである。

宗綱は静かに告げた。

「あす神四郎、弥五郎、弥六郎の三人が斬首の刑ときまった」

百姓が仰天した。

宗綱はわめく百姓をなだめた。

「それでどうだ。死罪とひきかえに法華経を捨てるのだ。お前たちが日蓮を捨てて念仏に帰れば、三人はもとより全員が無罪放免となる」

長男の目はやさしかった。

十七人の百姓がうなずいた。鬼のような侍どものなかで、この長男だけは信用できた。げんにこうしてかばってくれているではないか。

だが神四郎、弥五郎、弥六郎はかたい表情でだまったままである。

十七人が三人にすがった。

「神四郎、お前にいかれたらだれを頼っていけばよいのだ。熱原に帰ろう。われらを見捨てないでくれ。たのむ」

弥五郎、弥六郎もすがりつかれるが、なおも表情をこわばらせて動かない。

宗綱があきれ顔になって三人を見つめた。

「おまえたち、妻子はないのか、命が惜しくはないのか。このままでは身を粗末にするだけではないか。わたしのいうことがうそだと思うのか。わたしは起請してもよい。おまえたち三人の命は安堵するのだ。なぜだまっている」

神四郎は宗綱の言葉をきかず十七人に語りかけた。その声はすみきっていた。

「おまたち、われらは心の田畑に仏の種を植えたのではなかったか。ここで枯らしてどうする。春に種をまき、秋には実る。丹誠こめて水をやり大事に育てる。やがて春の日ざしとやさしい夏の雨がふりそそぐ。自分で種をつんでは実りはないぞ。どんな困苦があろうと、どんなに脅されようと、法華経の種を絶やしてはならぬ。これがわたしの遺言だ」

百姓たちはわめいたが、神四郎はほほえんだ。

「なぜ泣く。わたしが首をはねられるのがむだ死にだというのか。わたしはおまえたちの肥やしになるのだ。お前たちは法華経を最後まで信じとおした証人として生きよ。そうだ、これからも妙法をうけ、(たも)つ者たちがあらわれるだろう」

神四郎が宙を見つめる。

「彼らもわれらと同じく大難にあうだろう。その時、われらを思いだす。最後まで法華経を信じとおしたわれらを。大難に屈せず潔く、法華経のほかには仏になる道なしと題目を唱える者たちだ。聖人を愛し、国を思い、ひとたび決意したならば、決然とやりとげる人たちだ。そんな人たちが地からわきでるようにあらわれる。われらは彼らのために手本となろう。そのことを思うだけで満足だ」

神四郎が宗綱にむかって正座した。

「聞いてのとおりでございます。わたくし神四郎の首はさしあげますが、弥五郎、弥六郎の両名はどうか安堵のほど、よろしくお願いたてまつります」

ここで弥五郎がにこやかにいった。

「神四郎、なにをいう。水くさいぞ。ともに誓った仲ではないか。最後まで一緒だぞ」

弥六郎もにこやかだった。

「そのとおり。善につけ悪につけ法華経を捨つるは地獄の業なり。神四郎、おぬし功徳をひとりじめにする気か」

三人が無限の悦びとともに手をとりあった。

神四郎は涙ながらにつぶやいた。

「異体同心だな」

「まったく。最後でひとつになった」

「こんな所で・・」

三人が牢内で高らかに笑いあった。十七人の百姓が三人に手を合わせていく。

神四郎は立ちつくしている平宗綱に告げた。

「わざわざこのようなところにおこしくだされ、申しわけございませぬ。また貴重なお話恐縮にございます。さりながらわれらはあなた様のようなかたを悪知識と呼んでおります。どうぞお引きとりくださいませ」

宗綱が信じられない顔で、ふりかえりふりかえりながら出ていった。

三人はその夜、一睡もせず談笑し、心から楽しんだという。

弘安二年十月十五日の朝、三烈士は呼びだされた。

「熱原法華講、神四郎、弥五郎、弥六郎、でませい」

のこった百姓は涙とともに題目を唱えはじめた。嗚咽のまじった唱題だった。牢内に妙法がひびきわたる。

明るい空の下、縄でくくられた三名が目かくしされ正座した。

三人の口元に満足の笑みがうかび、静けさがただよった。これで思いのこすことはない。

その時である。

屋敷の外から神四郎の妻子が絶叫する声がきこえてきた。

「おとう」

「あんた」

この声を聞いて神四郎の心がはげしくゆれた。

彼は弾圧から今にいたるまで、妻子を思わない日はなかった。だが心に心を戦わせ、今まできた。しかしここで命よりも大切な妻子の生の声を聞いて、がく然としてしまった。

「このまま妻や子をのこして死ぬのか・・」

神四郎は無念の思いとともに涙をうかべた。心中に逆風がうずまき、退転の心が走った。

と同時に、彼は日蓮の言葉を思いだした。

我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然(じねん)仏界(ぶっかい)にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども疑いををこして皆すてけん。つたなき者のならひは約束せし事を、まことの時はわするゝなるべし。妻子を不便(ふびん)とおもうゆへ、現身にわかれん事をなげくらん。多少曠刧(こうごう)にしたしみし妻子には、心とはなれしか、仏道のためにはなれしか、いつも同じわかれなるべし。我法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返ってみちびけかし。  『開目抄

日蓮門下であれば、だれもが口ずさむ一節だった。

神四郎は自分でも不思議なほど動じなくなった。迷いから()め、決然と覚悟した。この間、一瞬である。

神四郎の口元に笑みがうかんだ。

三人が目かくしをされながら語りあう。

「神四郎」

「おお弥五郎か」

「首をはねられて、われらはどこへいく」

神四郎のこたえはさわやかだった。

「千の仏がわれらをむかえにくるというぞ」

弥六郎が感嘆した。

「ほう千仏か。それは頼もしい」

「そしておそれなく、悪道におちることなく、霊山浄土にはこぶというぞ」

神四郎が最後にいった。

「弥五郎、弥六郎。また会おう」

「おお」

三烈士がしずかに首をかたむけた。

武士が緊張して背後にまわった。

甲斐では日蓮が大御本尊に祈っていた。そして全信徒が唱和した。

三人も題目を唱えはじめた。その声は大空にこだましていった。

刀剣がふるえながら高くあがり、おろされて三人の声がとまった。

牢内では十七人の百姓が格子をつかんで狂ったように叫んだ。

「わたしも首をはねてくだされ」

「わたしもここで死にまする」

警護の役人は百姓が発狂したと思って逃げだした。
 すれちがった平頼綱親子がこの異様さにたじろいだ。

頼綱が命じた。

「なんという者どもだ。こやつら全員の首をはねろ」

次男の為綱が刀をぬくが、長男の宗綱がすがりつく。

「父上、ここはお考えくださいませ。ここで百姓全員の首をはねてしまえば、評定はあきらかにわれらの負けですぞ。百姓の口をふさいだわれらは世間でなんといわれるか。鎌倉殿からもおとがめがあるはず」

頼綱は長男を鞭打ち、しばらく怒りにふるえた。

「よかろう、放免してやれ。だがな、評定はわれらが必ず勝つ」

この事態を受け、現地で農民信徒を励ましていた伯耆房(ほうきぼう)日興は、直ちに急使を立て身延の大聖人へ報告する。伯耆房の手紙は翌々日の十月十七日(とり)(午後六時頃)には日蓮のもとに到着する。

 日蓮はこの書を見て直ちに次の書状をしたため、その日の(いぬ)(午後八時頃)には伯耆房に送っている。

今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す、彼等御勘気を(こうむ)るの時、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云。(ひとえ)に只事に非ず、定めて平金吾の身に十羅刹(らせつ)入り(かわ)りて法華経の行者を試みたもうか。例せば雪山童子、尸毘(しび)(おう)等の如し。()(また)悪鬼其の身に入る者か。釈迦・多宝・十方の諸仏・(ぼん)(たい)等、五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓(おちかい)は是なり。大論に云く、能く(どく)を変じて(くすり)と為す。天台云く(どく)(へん)じて薬と為す云云。妙の字(むな)しからずんば定めて須臾(しゅゆ)賞罰(しょうばつ)有らんか。

伯耆房等、深く此の旨を存じて問注(もんちゅう)()ぐ可し。平金吾に申す可き様は、文永の御勘気の時聖人の仰せ忘れ給うか、其の(わざわい)未だ(おわ)らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか、最後に申し付けよ。恐恐。  十月十七日戌時 日 判                                         聖人等御返事                                                        この事()ぶるならば此方には()がなしとみな人申すべし。又大進房が落馬あらわるべし。あらわれば人人ことに()づべし、天の御計らいなり、各にはおづる事なかれ、()よりもてゆかば定めて子細()でき()ぬとおぼふるなり。今度の使にはあわぢ(淡路)房を遣すべし。 『聖人等御返事

日蓮はこの手紙で、熱原の三烈士が処刑されるまで「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えていたことは「偏に只事に非ず」と驚嘆されるとともに「経文の半偈(はんげ)を聞く為に鬼に身を投げ出した釈迦前世の雪山童子の如し」と讃えられている。
 実際に日蓮門下で、法華経を信仰するがゆえに処刑の場に立たされたのは「竜の口法難」の日蓮以外では、熱原の三烈士だけである。佐渡流罪の時には日朗を含む五人の弟子・信徒が投獄されているが、処刑までは至っていない。本書の宛名は聖人等御返事になっている。実際は日興上人へ送られているが、他の手紙では宛名はすべて「伯耆殿」となっている。また日興上人の弟子で、ともに熱原の農民を励ましていた日秀、日弁に対しては同じ年の十月十二日の伯耆房殿御返事で「日秀、日弁等へ下す」と記している。
 日蓮は宛名に聖人と付けたのは過去に日妙聖人ただ一人で、そのほかは上野殿に対し上野賢人と言う宛名を記しているだけである。佐渡流罪の法難で投獄された日朗に宛てた手紙でも宛名は「筑後殿」となっている。いわば身内とも言える弟子への手紙で、聖人と宛名を記した御書は一つもない。
 日蓮は、日興からの手紙は、実際は熱原の三烈士が日興に託した熱原の三烈士そのものからの手紙と受けとめ、法難で死した三烈士を弔って日蓮が与えた称号であろうと強く推察される。



               83 三烈士よ永遠なれ につづく

下巻目次
 



by johsei1129 | 2015-05-21 22:51 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 12月 02日

小説 日蓮の生涯 下

 作 小杉 貢  監修 三浦 常正  平成26年 (2014) 1月3日 公開

下巻目次

 
85 弘安の役  
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by johsei1129 | 2014-12-02 13:48 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

104 大導師 日興上人

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                           (富士宮から見る富士山)

 日興はこのあと富士のふもと、駿河上野で四十四年の春秋をおくり、八十八歳で亡くなった。

日興は臨終にあたり、師の日蓮と同じように後継者として六人の弟子を定めている。その中で「一が中の一弟子」日目を指名して世を去った。

日興は文永十一年、日目が十五歳の時に出会っている。師匠日蓮が五十三歳で身延山中に草庵を構えたときである。そしてこの二年後の建治二年四月八日、釈尊の生誕日に日興は日目を得度した。
 晴れて日興の弟子となった日目だったが、日興はその年の十一月二十四日、早々と日目を身延の大聖人の元で常随(じょうずい)給仕(きゅうじ)させた。おそらく日目の資質を見極め、自分の後を(ゆだ)ねるのは日目であると決断し、自分と同じ道を歩ませようと考えてのことだと推察される。

日興は元弘三年一月十三日「日興跡条条事」で、日蓮から付属された「日蓮一期の弘法」を日目に付属する旨を記した。

一、本門寺建立の時は新田(にいだ)(きょう)阿闍(あじゃ)()日目を座主(ざす)と為し、日本国乃至(いち)閻浮提(えんぶだい)の内、山寺等に()いて、半分は日目嫡子分(ちゃくしぶん)として管領せしむべし、残るところの半分は自余の大衆等之れを領掌(りょうしょう)すべし。
一、日興が身に()て給はるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝す、本門寺に()け奉るべし。
一、大石寺は御堂(みどう)と云い墓所(むしょ)と云い、日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり。
 右日目は十五の(とし)、日興に()い法華を信じてより以来、七十三才の老体に至るも()えて違失の義無し。十七の(とし)、日蓮聖人の所に詣で(甲州身延山)御在生七年の間常随給仕し、御遷化(ごせんげ)の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞(そうもん)の功他に異なるに依つて此くの如く書き置くところなり、()つて後の()め証状(くだん)の如し。
十一月十日                 日  興 判

                                       『日興跡条々事』

 日興はこうして日蓮の法義を次の世代日目に相承し、広宣流布の血脈(けちみゃく)を絶やすことなく次の世代に引き継いだ

師の日蓮は生前、日興のことを

「万年救護(くご)(しゃ)(びょう)の弟子」

と呼び

(けっ)(ちょう)付属の大導師」

とも呼んだ。

写瓶とは(かめ)の水をそのままうつすように、法の水をあやまたず後世に伝えることをいう。

結要付属とは釈迦が法華経において地涌(じゆ)千界の上首、上行菩薩に末法の要法をさずけた儀式をいう。

結要とは南無妙法蓮華経の題目である。

日蓮は日興を結要の法をそなえた大導師と呼んだ。日蓮の目にくるいはなかったのだ。そしてその日興は後を託した日目を「一閻浮提の御座主」と呼んだ。

ここで波木井(はきり)氏のその後をしるす。

南部氏ともいわれた波木井氏は鎌倉幕府滅亡後、南北朝の争乱にまきこまれた。かれらは後醍醐天皇の南朝側について戦ったが、南朝は足利尊氏率いる北朝に敗れた。南北朝の統一後も、南部氏は足利ひきいる北朝に臣従の態度を見せなかった。

こうして一三九三年、南部一族はついに甲斐の所領のいっさいを捨て、はるか東北に去っていった。日興離山後、百四年目のことである。

また波木井氏の中に日蓮がのこした身延山久遠寺を守る一族がいたが、一五二七年、武田信玄の父信虎によって、隣国の駿河今川氏に内通したという理由で討伐され、波木井氏は完全に滅亡した。理由は波木井が隣国の駿河今川氏に内応したというかどだった。「自業自得果」「還著於(げんちゃくお)本人(ほんにん)」の経文どおりあろう。

()()

日興の晩年はさびしいものだったという。講義をするにも数人の弟子しか集まらなかった。五老僧はことごとく去り、弟子たちは四散した。

しかし数の多寡は問題ではない。日興は今ではなく、自分のあとを見すえていた。いつの日か、かならずこの妙法が広宣流布する時がくるであろう。自分はその道筋に足跡をのこすのだと。

日興は日蓮滅後五十二年後の元弘三年二月七日、八十八歳で世を去った。この前年の五月一日には、熱原の法難でともに戦い、出家僧と在家信徒という関係を超えた生涯の法友ともいえる南条時光が七十四の生涯を終えている。

元弘三年は内外ともに大事件がおきた年である。
 四月十六日には日興の死をまっていたように、足利尊氏が北条幕府に反旗をひるがえした。五月二十一日には新田義貞が鎌倉をおとしいれ、翌日に北条氏は滅ぶ。六月五日、天皇後醍醐は京都に還幸し、建武の新政がはじまった。そして十一月十五日、日興のあとをついだ三祖日目が天奏のため京都に旅立つがその途上、美濃(たる)()の地であえなく入滅、後代の弟子に永遠の範をしめした。

日興は臨終の時、まどろみながら師の日蓮を思った。八十八年の星霜が流れたが、不思議なことに師の思い出しかのこっていない。

十二歳で師に出会い、日興の名をうけた。いらい鎌倉、伊豆、佐渡、甲州と身と影のごとく日蓮に付きしたがった。あの充実が今も胸にやどる。

思えば師匠日蓮は苦悩をよろこびにかえ、大衆を希望にみちびく雄大な人格だった。その人のそばにいた幸せ。日興にとってこの悦びは未来永劫に消えない。

同時に日興は切なさにつつまれた。

「ああ、いつまた聖人に会えるのだろう・・」

四条金吾が竜の口で別れの惜しさに泣いたというが、日興もまた同じだった。

日興は師がのこした本尊に祈る。

法華経化城喩品には、つぎの偈がある。

彼仏滅度後     彼の仏の滅度の後

是諸聞法者     是の諸の法を聞きし者は

在々(ざいざい)諸仏土     在在(ここかしこ)の諸の仏土に

常与師倶生(じょうよしぐしょう)      常に師と(とも)に生ぜん

 つぎの世でも師とともに、おなじ仏国土に生まれ、めぐりあうという。

日興はこの経文を命に刻み、題目をとなえた。乾いた大地が慈雨を求めるように、師にまた会いたいとひたすら渇仰した。

日興はさらに思う。

「それにしても、この世でよくぞ師匠にお会いできたものだ。師があの岩本実相寺をおとずれなければ、いまの自分はなかった。いや永劫の時の中で、よくぞ師とめぐり会えたものだ。仏法に奇跡はないというが、これほどの偶然がまたとあるだろうか。三千年に一度咲く優曇(うどん)()の花を見るよりも、一眼の亀が大海の浮き木に出会うよりもまれではないか。自分はなんという幸せ者か」

上野郷の夜は万点の星だった。

日興はこの大宇宙のひとつとして、自分自身を見つめていた。

日興は死去の一月前、遺言をのこす。

それは未来の弟子への戒めである。あわせて二十六ケ条。この二十六条のひとつひとつが先師日蓮への敬慕に満ちている。すべて未来の日蓮門下にあてたものである。

内容は日蓮仏法の真髄がこめられている。伊豆流罪、佐渡ヶ島で常随給仕し、日蓮が身延山中で草庵を構えると、甲斐国の布教に邁進、日蓮に影の形に従うがごとくの生涯だった日興だからこそ残せた指針であった。

釈尊には十大弟子がいたという。智慧第一と謳われ、方便品第二の対告衆となった舎利弗。釈尊に二十七歳の時から常随給仕し、滅後の仏典結集で「かくの如く我聞きき」と釈迦の説法を読み上げた声聞第一の阿難。仏を除けば説法で超える者はいないと賞賛された説法第一の富楼那。

日興はある意味、釈迦の十大弟子すべての資質を兼ね備えていたとさえ思える。

後代の弟子檀那は、いまでもこの遺言を鏡のごとくあおぐ。まさしく末法万年への金科玉条であり、この条項を弟子信徒が守ることで、未来の広宣流布の扉が開かれる。

ではつぎにその全文をしるす。

()(おもん)みれば末法弘通の(けい)(じつ)は極悪謗法の闇を照らし、久遠(くおん)寿量(じゅりょう)の妙風は伽耶(がや)(しじ)(ょう)(注)の(ごん)門を吹き払う、於戯(ああ)仏法に()うこと(まれ)にして(たと)へを(どん)()(はなしべ)()(たぐい)浮木(うきぎ)穴(注)()に比せん、(なお)以て()らざる者か。(ここ)に我等宿縁深厚なるに依って幸ひに此の経に()い奉ることを()、随って後学の為に条目を筆端に染むる事、(ひとえ)に広宣流布の金言を仰がんが為なり。

一、富士の立義(いささ)かも先師の御弘通に()せざる事。

一、五人の立義一々(いちいち)に先師の御弘通に違する事。

一、御書(いず)れも偽書に()し当門流を毀謗(きぼう)せん者之有るべし、()し加様の悪侶出来せば親近(しんごん)すべからざる事。

一、偽書を造って御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心()べき事。

一、謗法を呵責(かしゃく)せずして遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)()()並びに外書(げしょ)歌道を好むべからざる事。

一、檀那の社参物詣(ものもうで)を禁ず可し、(いか)(いわ)んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に(もう)づべけんや、返す返すも口惜(くちお)しき次第なり。是全く()()に非ず、経文御抄等に任す云云

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し(さしお)き、御抄以下の諸聖教(しょしょうぎょう)を教学すべき事。

一、学問未練(みれん)にして名聞名利の大衆は、()が末流に叶ふべからざる事。

一、予が後代の徒衆等権実を(わきま)へざるの間は、父母師匠の恩を振り捨て出離証(しゅつりしょう)( どう)の為に本寺に(もう)で学問すべき事。

一、義道の(らっ)()(注)無くして天台の学問すべからざる事。

一、当門流に於いては御抄を心肝に染め(ごく)()を師伝して、若し(ひま)有らば台家を聞くべき事。

一、論議講説等を好み自余を交ゆべからざる事。

一、未だ広宣流布せざる間は身命(しんみょう)を捨て、随力(ずいりき)弘通(ぐつう)を致すべき事。

一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如(とうにょ)敬仏(きょうぶつ)の道理に任せて(しん)(ぎょう)を致すべき事。

一、弘通(ぐつう)の法師に於ては下輩たりと(いえど)も、老僧の思いを為すべき事。

一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。

一、時の(かん)()(注)たりと雖も仏法に相違して己義を(かま)へば、之を用ふべからざる事。

一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫主之を(くじ)くべき事。

一、衣の墨、黒くすべからざる事。

一、(じき)(とつ)(注)を著すべからざる事。

一、謗法(ほうぼう)と同座すべからず、与同罪を恐るべき事。

一、謗法の供養を()くべからざる事。

一、(とう)(じょう)等に於ては仏法守護の為に之を許す、但し出仕の時節は帯すべからざるか。若し其れ大衆等に於ては之を許すべきかの事。

一、若輩(じゃくはい)たりと雖も高位の檀那より末座に()くべからざる事。

一、先師の如く()()()も聖僧たるべし。但し時の(かん)()(あるい)は習学の仁に於ては、(たと)ひ一旦の媱犯(ようはん)有りと雖も、衆徒に差し置くべき事。

一、巧於(ぎょうお)難問答の行者に於ては先師の如く(しょう)(がん)すべき事。

右の条目大略()くの如し、(まん)(ねん)救護(くご)の為に二十六箇条を置く。後代の学侶、()へて疑惑を生ずること(なか)れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず。()って定むる所の条々(くだん)の如し。

元弘三年癸酉正月十三日  日興花押   『日興遺誡置文

                  
         最終章 日本の仏法 月氏へ流れる につづく
下巻目次

                                        


 伽耶(がや)() (じょう)

釈迦が伽耶城近くの菩提樹の下で初めて悟りを開いたこと。久遠寿量に対する語。伽耶は仏陀伽耶(ぶっだがや)ともいい、釈迦が正覚を成した所。始成は()(じょう)正覚(しょうかく)のこと。

 浮木の穴
法華経妙荘厳王品二十七にある。一眼の亀が海中の浮木にあうことのむずかしさを説いて、衆生が正法にめぐりあい、受持することの困難さを説く。

「御義口伝に云はく、()とは小孔(しょうく)大孔(だいく)の二つ(これ)有り。小孔とは四十余年の経教なり、大孔とは法華経の題目なり。(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは大孔なり。一切衆生は(いち)(げん)の亀なり。栴檀(せんだん)浮木(うきき)とは法華経なり。生死(しょうじ)の大海に大孔ある浮木は法華経に之在り云云。」『厳王品三箇の大事 第二 浮木孔(ぶもっく)の事』

 (らっ)()

「らっきょ」とも読む。落ち着き。終結。物事を徹底して見極めることをいう。

 (かん)()

本来は貫籍(戸籍)の上首の意。①かしらに立つ人。頭領。②天台宗の座主の異称。のちに各宗総本山や大寺の管長の称ともなる。

 (じき)(とつ)

僧衣の一種。上衣と下衣を直接に綴じ合わせたことからこの名がある。直綴は腰から下に(ひだ)のある法衣で、諸宗で一般に用いられ、一般に『ころも』と称される。日蓮正宗では直綴の着用を禁じ、薄墨の素絹のみを衣とし着用する。



by johsei1129 | 2014-11-30 15:31 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

103 日興、身延離山

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                                (身延山)

 日蓮入滅八年後の正応元年冬、四十三歳となった日興は川沿いの道をたどり、身延山をおりていった。
 師の墓を離れなければならないのだ。断腸の思いであったろう。
 日興はその苦衷を波木井一族の一人、原殿にあてた消息にしたためる。原氏は一族の中にあったが、日興を理解していた。


身延沢を(まか)り出で候事、面目なさ本意(ほい)なさ申し尽し難く候へども(うち)(かえ)し案じ候へば、いづ(何処)くにても聖人の御義を相継ぎ(まいら)せて世に立て候はん事こそ(せん)にて候へ、さりともと思ひ奉るに御弟子(ことごと)く師敵対せられぬ、日興一人本師の正義を存じて本懐を()げ奉り候べき(ひと)に相当たりて覚え候へば本意忘ること無く候、又君達(きんだち)は何れも正義を御存知候へば悦び入り候、(こと)(さら)御渡り候へば入道殿不宜(ふぎ)に落ちはてさせ給ひ候はじと覚え候。

ここに日興の心中をかいま見る。

身延山で正法を興隆するという初志はもろくもくずれた。しかし日興は苦悩のどん底から思いだしていた。いかなることになろうと、聖人の正義を継いで世に立てることが自分の使命なのだと。

日興は原殿のかわらぬ信心をよろこんでいる。原殿が今までどおり日興のもとで教えをうければ、実長は不義におちいることがないであろうという。ここでも日興は実長をかばっている。

日興は最後にいう。

元より日蓮聖人に背き(まい)らする師(ども)をば捨てぬが(かえ)って(とが)にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給ふ可きか、何よりも御影(みえい)の此の程の御照覧如何(いかん)見参にあらざれば心中を尽し難く候、恐々謹言。 

               

日興は自分に言いきかせるようにいう。日蓮にそむく弟子を捨てないのは、かえって謗法になると。御影とは日蓮のことである。

日興が身延山をおりていったのは真冬だった。十一月とも十二月ともいわれる。山中には雪がつもっていた。師の日蓮が佐渡へ流罪となったのも真冬である。

日興は雪をふみわけながら思った。

師匠はこのことをなんと思われるだろうか。はからずもこの有様となってしまったが、師はわかってくださるだろうか。たよれるのは自分しかいない。亡き師はこんな自分を見守ってくださるだろうか。「御影の此の程の御照覧如何」とは無限の思いであったろう。

下山はさすがに大規模だった。日蓮自筆の大御本尊など、はこばれた宝は長持で二十七駄におよんだという。馬に二個背負わせるから合計で五十四棹になる。

江戸時代の史料にいう。

之に(より)て身延山の地・謗法となるがゆへ、日興上人・宗祖大聖人御付属の霊宝、本門戒壇の大御本尊・並に紫宸殿(ししんでん)の御本尊(注)、()御肉付の御歯(注)()・御焼骨其の(ほか)あらゆる霊宝等長持(ながもち)廿七駄方荷に収め給ひ、正応元年十一月・身延山を立ちのかせ給ひければ、波木井の一門大に驚き度々還往を()ひ奉れども思召(おぼしめ)し有りて帰らせ給はず、翌年春南条七郎修理太夫(たゆう)平時光殿の請招によって駿州(すんしゅう)富士上野にいたらせ給ひ、最勝の地を(えら)んで大石の原に御建立あって本門戒壇の大御本尊を安置し給ふ。 富要第七巻『大石要法血脈問答』  

日興はこのあと青年地頭の南条時光が領する富士上野郷に移り住み、ようやく安住の地をえた。時光についてはすでに書いたとおりである。日興が住むべき地は時光の上野郷以外にない。

そして日興は早くもこの年、今の大石寺の建立に着手している。

自ら鍬を取ったであろう。自ら木をはこんだであろう。自ら工具を手にしたであろう。日興には師の正義をここで立てるのだという意気ごみがつのっていた。

日興に続く弟子たちも、さっそく自らの坊を建立しはじめた。日目は蓮蔵坊を、日華は寂日坊を、日秀は理境坊を、日禅は南之坊を、日仙は百貫坊をそれぞれ建てていく。

壮観であった。彼らは日興にともない、師の正義を守り、弘通することに生きがいを感じていた。

こうして十月十二日、日蓮の命日の前日だった。

日興は真新しい本堂に板本尊を安置した。この本尊こそ「日興が身に()て給わる所の弘安二年の大御本尊」すなわち一閻浮提総与の大曼荼羅である。師の日蓮はこの本尊の広宣流布における意義を記していた。

又五人並びに已下の諸僧等、日本乃至一閻浮提の(ほか)万国までも之を流布せしむと雖も、日興が嫡々(ちゃくちゃく)相承の曼陀羅(まんだら)を以て本堂の正本尊と為すべきなり。        『百六箇抄

 五老僧以下の弟子檀那が日本をはじめ全世界に妙法を弘めようとも、日興が譲り受けた大本尊を中心に据えよと。この大曼陀羅はこの富士大石寺に安置され、今日に至っている。

さらに師日蓮は心ある弟子に遺命していた。広宣流布の暁に、この大本尊を安置する本門の戒壇を建てよと。

戒壇とは王法仏法に(みょう)じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳(うとく)(おう)(かく)(とく)比丘(びく(注)の其の乃至(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みきょうしょ)を申し下して霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)に似たらん最勝の地を(たず)ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮(いちえんぶ)(だい)の人、懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず大梵天(だいぼんてん)(のう)帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり。 『三大秘法稟承事

壮大な仏閣を建てることが本門戒壇の建立ではない。日蓮は明確に「有徳(うとく)(おう)(かく)(とく)比丘(びく45)の其の乃至(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」と遺言している。
 この日いらい、今にいたるまで日興をふくめ、あらゆる弟子が本門戒壇の建立をめざした。

二十六世の(にち)(かん)が本門の戒壇について説く。

本門の戒壇に()あり、()あり。理は(いわ)く道理なり。また義の戒壇と名づく。謂く、戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る(ところ)の山々、寺々、家々は皆これ道理の戒壇なり。(まさ)に知るべし「是の処は即ち是れ道場」等云云。

次に()の戒壇とは即ち富士山(あも)生原(うがはら)に戒壇堂を建立するなり。『報恩抄文段

そして「有徳王・覚徳比丘の其の乃至を末法濁悪の未来に移さん時」が来るまで、本門の戒壇は建立できない。



       104 大導師日興上人 につづく

下巻目次



 紫宸殿の御本尊

紫宸殿すなわち政治の中心となる建物に掛ける本尊。

「一、蓮祖真筆大曼荼羅三枚続 一幅

弘安三太歳庚辰三月日、紫宸殿の本尊と号す、伝に云はく広布の時至りて鎮護国家のために禁裏の叡覧に入れ奉るべき本尊なり云々。」『冨要第五巻 富士大石寺明細誌』 


御肉付の御歯

日蓮大聖人が生前、日興に与えた歯のこと。歯には大聖人の肉片がついている。日量の「富士大石寺明細誌」によれば、日蓮大聖人は広宣流布の時に、この歯が光り輝くと予言している。門外不出の非開封だが、五十年に一度および貫主の交代時に公開される。

「日蓮聖人肉付の御歯一枚 

御生(ごしょう)(こつ)と称す、蓮祖の存日、生歯を抜き、血脈相承の証明と()て之を日興に(たま)ひ、()の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云、日興より日目に相伝し、代々附法の時之を譲り与ふ、一代に於て只一度(だい)(がわり)蟲払(むしばらい)(とき)を開封し奉り拝見に入れしむ、常途(じょうと)之を開かず。」『冨要第五巻 同』

有徳王・覚徳比丘

釈迦の過去世における菩薩修行中の因位の姿。涅槃経巻三金剛身品の文。拘尸(くし)()城に出現した歓喜増益如来の正法が、あと四十年で滅しようとしている末世に、多くの破戒の悪僧と戦い、正法を護持する覚徳比丘を守った。王はこの時全身に傷を受けて亡くなったが、護法の功徳で阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生まれ、その仏の第一の弟子となり、覚徳比丘は第二の弟子となった。正法が滅しようとする時の信仰者の心構えと、正法を守る者の功徳の大きさを示したもの。立正安国論 参照。



by johsei1129 | 2014-11-30 15:26 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

102 五老僧の邪義

さて日蓮没後、(さね)(なが)(たが)がはずれたかのようにつぎつぎと謗法をおかしていく。実長は日蓮の法義を軽く見ていた。

やがて其の次に富士の塔供養の奉加(ほうが)に入らせをはしまし候、以っての外の僻事(ひがごと)に候、(そう)じて此の廿(にじゅう)余年の間、()(さい)法師、影をだに指さざりつるに御信心如何様(いかよう)にも弱く成らせ給ひたる事の候にこそ候ぬれ。

富士の塔供養とは波木井領の福士に建てられた念仏の石塔の事である。

現存はしない。奈良時代から鎌倉時代にかけて、富士山に登って法悦を得ようとする行者の修行が発展して山中や山麓に道場が建ち、記念の石塔がつくられた。

実長はこれを支援した。謗法の供養である。

この二十年、邪宗の僧が身延山に入ったことはなかった。いまそれが破られたのだ。実長は奉加帳にはっきりと自分の名をしるした。彼は自慢したろうが、日興からすれば信心が惰弱になったとしかうつらない。

日興はいう。これら謗法の所以は、まったく五老僧の一人、民部(みんぶ)日向(にこう)の堕落からきたものであると。

是と申すは彼の民部阿闍梨世間の欲心深くして、へつらひ(てん)(ごく)したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思ひも寄らず(おおい)に破らんずる(ひと)よと此の二三年見つめ候て、さりながら折々は法門の曲りける事を(いわ)れ無き由を申し候つれども(あえ)て用ひず候、今年の大師講にも(けい)(びゃく)の祈願に天長地久(ちきゅう)御願(ごがん)円満、左右大臣文武百官、各願成就(じょうじゅ)とし給ひ候ひしを此の(いのり)は当時(いた)すべからずと再三申し候しに(いかで)か国の恩をば知り給はざるべく候とて制止を破り給ひ候し間、日興は今年問答講(つかまつ)らず候き

日興はしばしば訓戒を垂れたが、日向は聞く耳をもたない。日向の祈りは悪を退治しないで世界平和を祈るのとおなじである。国のためを思うならば、(こうべ)を破る折伏しか方法はないのだ。

日興としても、自分とともに弘教にはげんだ日向を簡単に処分することはためらった。いつかは目ざめるかもしれないからだ。釈迦が提婆逹多をさとし、日蓮が三位房を訓戒したのとおなじである。残念ながら二人は退転し報いをうける。

地頭実長は最後に釈迦の仏像をつくるという謗法をおかす。

日興は破折した。師の本懐である三大秘法の本尊を安置し、題目を唱えるのが日蓮の遺志を継ぐことであると。

()()()()()()()()()()()()()()聖人の文字にてあそばして候を御安置候べし、いかに聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主釈尊の木像を最前には破らせ給ふ可きと()ひて申して候し()()()()()()()

「教主釈尊の木像」とは御本尊のことである。にもかかわらず実長は日朗に奪いさられた仏像を再現しようとした。日興は師日蓮の御本尊のほかに信心の対象はないといさめたが、実長は聞かない。

日興は地頭の謗法に動じていない。師の法義をたもち、世に立てようとしたことに悔いはなく、むしろ誇りであるといいきっている。

五老僧の一人、日朗は竜の口の法難のおり、入獄して日蓮から賛辞をうけたほどの高弟だったが、日蓮滅後は甲斐を去り日興に敵対した。日朗が日蓮所持の仏像をなんのために盗みとったかは不明である。だが身延山の惨状を見れば、日朗にはほかになすべきことがあったのではないか。師の山の謗法を、なぜ漫然と見すごしたのか。

 こうして日蓮亡きあと、早くも正法の破壊がはじまった。

これと似た話がある。

釈迦が入滅して四十年のことだった。

十大弟子の一人、阿難はすでに老齢の域に達していた。

彼はとある竹林の中にはいった。

そこに一人の比丘(びく)がいるのをみとめた。この比丘は一つの法句をとなえていた。

()し人生じて百歳なりとも水の潦涸(ろうかく)を見ずんば、生じて一日にして之を賭見(とけん)することを得るに()かず。

潦涸とは生滅をいう、賭見は見ることである。水がたまり、蒸発するのを見なければ、生きている甲斐がないという意味である。比丘はこんなつまらない法句をくりかえし唱えていた。

阿難は比丘を破折(はしゃく)した。

「これは仏説ではない。汝は修行してはならない」

比丘は聞いた。

「では仏はなんと説かれたのですか」

阿難はこたえた。

  若し人生じて百歳なりとも生滅の法を()せずんば、生じて一日にして之を解了(げりょう)することを()んには()かず。

「これが仏説である。汝が唱えたのはこれを誤ったのだ」

比丘はこのことを自分の師匠に語った。

師は答えた。

「余が汝に教えたのは、まことの仏説である。阿難がとなえたのは仏説ではない。阿難は老衰して言葉にあやまりが多い。信じてはならぬ」

この比丘は阿難の教えを捨て、もとの誤った法句を唱えた。

阿難はふたたびおとずれた竹林でこれを聞きおどろいた。

「わたしが教えたものではない」

阿難はかさねて比丘にさとしたが、比丘は信用しなかった。阿難は亡き釈尊を思い、なげいたという。釈迦の死後わずか四十年の出来事だった。

かつて日蓮はこの故事を引き、法をあやまりなく伝えていくことが、いかに困難かを説いている。あたかも今の身延山の惨状を予言しているかのように。くわえてこの窮状に苦しむ日興をなぐさめるかのように。

仏の滅後四十年にさえ既に(あやま)出来(しゅったい)せり、(いか)(いわ)んや仏の滅後既に二千余年を過ぎたり、仏法天竺より唐土に至り唐土より日本に至る論師(ろんし)・三蔵・人師等伝来せり、定めて謬り無き法は万が一なるか、(いか)(いわん)や当世の学者・(へん)(しゅう)を先と為して我慢を(さしはさ)み、火を水と(あらそ)い之を(ただ)さず(たまたま)仏の教の如く教を()ぶる学者をも之を信用せず、故に謗法(ほうぼう)ならざる者は万が一なるか。『十法界明因果抄』

正法をたもつ者は万の中の一という。日興は身にしみて師の教えを思いだしていた。

それにしてもこのままでは師の正義が消えうせてしまう。訓戒しても地頭実長は聞く耳をもたない。もはや一つ所に住める相手ではなくなっていた。

日興は師の遺言を思いだしていた。

地頭の不法ならん時は我れも住むまじき由、御遺言とは承り候  富要第五巻『美作公御房御返事

日興はかつて日蓮からこの言葉をきいた時、まさか実長が謗法を犯すなどとは思いもよらなかった。実長は自分が折伏した人である。化導にも自信があった。なおかつ日蓮にも従順だったのだ。それが師亡きあと、人がかわったように反逆しようとは。

日興がこれ以上に憤ったのは、六老僧の一人日向(にこう)が波木井の謗法を容認したことだった。日向は熱原の法難の時、日興とともに戦いの矢面に立った人物である。教団内の人望もあった。日興でさえ、ひさびさに身延にかえってきた時、よろこんで要職につけたほどだったのだ。実長はこの日向を盾にして日興に対抗した。

日向は日蓮の法門を理解していなかった。題目を唱えれば、すべて許されるというのが彼の考えである。本尊は釈迦にしてもよい。神社参詣も自由である。こうなれば念仏を唱えても、真言を呪しても、座禅を組んでも、律を固持してもよいことになっていく。

日向は波木井に教えた。妙法をたもてばすべて許され、正も邪もなくなると。日向の法門の理解度が知れよう。

かたや師の日蓮は正邪をきびしく分けよといった。

又立つ浪吹く風・万物に()いて本迹(ほんじゃく)を分け勝劣を弁ず可きなり   富要第一巻『百六箇抄

日向は一切経を本迹にを立て分け、その勝劣を極めた日蓮の教えを追及することはなかった。おそらく百人前後になんなんとする日蓮の弟子の中から、六老僧と指名された弟子でさえ、このありさまだった。五老僧は日蓮を単に法華経の行者としか見ていなかった。日蓮が末法の本仏などと想像だにしていなかった。

日興はこの経緯について悲憤をこめてしるす。

(そう)じて此の事は三の子細にて候、一には安国論の正意破れ候ぬ、二には久遠(くおん)(じつ)(じょう)の釈尊の木像最前に破れ候、三には謗法の()始めて(ほどこ)され候ぬ、此の事共に入道殿の御(とが)にては渡らせ給ひ候はず、(ひとえ)謟曲(てんごく)したる法師の(とが)にて候へば(おぼ)()しなをさせ給ひ候て、自今以後安国論の如く聖人の御存知在世廿(にじゅう)年の様に信じ(まいら)せ候べしと改心の御状をあそばして()(えい)の御宝前に進らせさせ給へと申し候を御信用候はぬ上、軽しめたりとや思し食し候ひつらん、我れは民部(みんぶ)阿闍(あじゃ)()を師匠にしたるなりと仰せの由承り候し間、さては法花経の御信心逆に成り候ひぬ。

重複を恐れずいうならば、波木井の謗法は三点に集約される。

一つは法義の根幹である立正安国論が否定されたことである。神社参詣はむろんのこと、邪法のあやまりを正すという崇高な精神をふみにじった。

二つには根本尊敬の対象を否定したことだった。「久遠実成の釈尊の木像」とは御本尊のことだ。実長は日蓮が命とした本尊を釈迦の木像にかえてしまった。最前とは目の前ということである。日興の目の前でこの愚行がおこなわれた。

三には日興が身延を去る理由である。師日蓮は謗法の供養をうけなかった。邪宗をゆるす北条幕府からは、米一合たりともうけとらなかった。飢えに苦しみ、極寒の毎日でも、法を守りとおして一生を終えた。日興もおなじである。謗法の施をうけることは、謗法をみとめることである。日興は波木井をみとめることはできない。

日興はこのような波木井実長に反省を求め、懺悔(ざんげ)をしるして師日蓮の仏前にそなえることをすすめた。

しかし実長には聞こえない。

彼は腹立ちまぎれに、自分は日向を師匠としていると声高にいったという。地頭の名聞からか、地主である(おご)りからか、自分は仏法を理解していると思ったか、実長には日興の諫言が耳にはいらない。

日興は実長の法華経の信心が逆になったという。逆とは反逆のことである。日蓮日興の仏法にそむき、民部日向の謗法をうけ入れた。

だからといって日興は実長を責めたりはしない。かりそめにも師の日蓮を九年にわたり養った檀那である。日興も実長から恩をうけたのだ。いつかは目覚めて改心するかもしれないからだった。

かわりに日興は日向(にこう)をはじめとした五老僧をきびしく糾弾している。人を導くはずの者が、師に敵対するとはなにごとか。

日興は今さらながら師の言葉をかみしめた。

外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。「師子身中の虫の師子を()む」等云云  『佐渡御書

身延は謗法の山と化した。日蓮の仏法が日蓮の弟子によって滅びようとしている。

日興はもはや自分がこの地にいることはできないとさとった。地頭の供養を断って去ることは、艱難がまちかまえていることを意味したが妥協はできない。日蓮の法をあやまたず、つぎの世にのこしていくためだった。

後代、このような日興を(かたく)なであると批判する者がいるが、その言葉の中身は五老僧とおなじ水準である。かれらには法を守る責任が欠けているのである。

その五老僧は転落していった。

かれらは日蓮亡きあと、まず自分の名をかえた。日蓮の弟子とは名のらず、天台沙門といった。退転した三位房が慢心のあまり、名をかえたのと似ている。

つぎに折伏を用いず世間と妥協した。他宗に加わり国家安泰の祈祷を行った。竜の口の法難の時、退転した弟子たちが「我等はやは()らかに法華経を弘むべし」といったのとおなじである。

すべては身の安全をはかるためだった。

日蓮の教えはいまだに世の批判をうけている。五老僧は強情な日蓮とは一線を画して非難を避けた。保身をはかり、謗法の供養をうけるために日蓮の義を捨てた。こうして国家を祈り、名をあげようとした。日向が天長地久と祈ったように。

日興はいきどおる。

祈国の段亦以て不審なり。所以は(いかん)、文永免許の(いにしえ)先師()()の分既に以て顕はれ(おわ)んぬ、何ぞ(せん)(しょう)道門の怨敵(おんてき)に交はり坐して(とこしなえ)に天長地久の御願を祈らんや  『五人所破抄

師日蓮は佐渡流罪赦免のおり、幕府から蒙古退治の祈祷を依頼された。このとき日蓮は条件として諸宗の僧の首を刎ねることを申しでた。邪宗をともにする祈祷は、逆に国を滅ぼすからである。日蓮は諸宗退治が許されないと知るや、鎌倉を去り身延の山中に入った。これが日蓮の精神である。

五老僧はすすんで増上慢の僧とともに国を祈った。立正安国の精神は踏みにじられたのである。

彼らの無智は信じがたい。

五人は日蓮の著作などはないという。耳を疑う言葉である。

彼の五人一同の義に云はく、聖人御作(おんさく)()書釈(しょしゃく)は之無き者なり。縦令(たとい)少々之有りと雖も、或は在家の人の為に、仮文字を以て仏法の因縁を(ほぼ)之を示し、若しは俗男俗女の一毫(いちごう)の供養を(ささ)ぐる消息(しょうそく)(へん)(さつ)に施主分を書きて愚痴(ぐち)の者を引摂(いんじょう)し給へり。而るに日興は聖人の御書と号して之を談じ之を詠む、是先師の恥辱を顕はす云云。故に諸方に散在する処の御筆をば或は()かえ()しに成し、或は火に焼き(おわ)んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に(つぶさ)に之を(しる)して後代(こうだい)()(きょう)と為すなり。  『富士一跡門徒存知事

五人は日蓮が弟子檀那にのこした仮名文字の書をみとめない。

仏法といえば漢字で表現していた時代である。五老僧は仮名文字の消息など、知恵の足らない在家信徒にあたえた手紙であり、供養の礼をしるしたものばかりで、価値はないばかりか、師の恥をさらすものだとした。それなのに日興はありがたく読み談じている。五人は俗男俗女を相手にする日興を軽蔑した。それはとりもなおさず、一閻浮堤広宣流布をめざした師日蓮を見下したものとなった。

五人は日蓮の書をすき返してもとの白紙にもどしたり、焼却している。後代の弟子にとって、目をおおうばかりの所業がなされていた。

五人はつねに日蓮のそばにいたわけではない。遠くはなれた地にいるために、師の教えを体読できなかった。仏法の真髄を学ぶには劣悪な環境だった。彼らにも言い分はあろう。だが百歩ゆずって彼らの言い分をみとめても、日蓮亡きあと、五人は日興を手本にして正義をつぐべきだったのだ。彼らの心地に「当如敬仏」の精神はなかった。求道心の一分でもあれば、日興を師範として仏法を学ぶべきだったのだ。

かたや日興は仏法の破滅をおそれ、立正安国論をはじめとする著作の目録をのこした。この目録がなければ、それこそ日蓮の書は五人のいうとおり、皆無となったであろう。現存する書は偽物とされ、仏法は跡形もなくなっていたろう。もちろんこの小説もない。日興と五人はかくも大きなへだたりである。雲泥の差とはこのことではないか。

謗法の者はまず三悪道におちるという。

日興はその証人として身延山を謗法の山にかえた民部日向の所行をしるす。

殊に去る卯月(うづき)朔日(ついたち)より諸岡(もろおか)入道の門下に候小家に籠居して画工を招き寄せ、曼荼羅(まんだら)を書きて同八日仏生日と号して、民部は入道の室内にして一日一夜説法して布施を(かか)へ出すのみならず、酒を興ずる間、入道其の心中を知りて妻子を喚び出して酒を勧むる間、酔狂(すいきょう)の余りに一声を()げたる事、所従眷属の嘲笑(ちょうしょう)口惜(くちお )しとも申す計りなし、日蓮の御(はじ)何事か之に過ぎんや、此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり。

かりにも日蓮門下と名のる者が、見苦しく布施をかかえ、酔態をさらして嘲笑をうける。日蓮からあとを託された日興にとって、これほどの屈辱はない。

日興は日向の醜態がやがて地頭の耳に入るであろうという。実長はそのうちに日向を見捨てるであろうと。


           103 日興、身延離山 につづく
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by johsei1129 | 2014-11-30 15:21 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

101 地頭の謗法

身延の地頭、波木井(はきり)(さね)(なが)が信心に目ざめたのは日興の折伏による。日蓮が身延に居を移したのは日興の力があった。これはすでに述べた。このことはだれも口をはさむことはできない。

伯耆房日興が日蓮に出会ったのは、十二歳の時だった。いらい日蓮を親とも主とも師とも慕って今日まできた。

日興は師亡きあと、教団の統率者として師の教えを忠実に守り、後世に伝えようとした。弟子の育成にも必死だった。

だが時の経過とともに日興からはなれていく者がでてきた。師の日蓮は「身はをちねども心をち(あるい)は心は・おちねども身はおちぬ」の言葉をのこし、信念を続けることがいかに困難かを説いていた。このことは日蓮の死後にも現実化した。

六老僧は日蓮から前もって月単位で墓番を命じられていた。しかし日興以外の五人は三年とたたずに身延を去った。

日昭は相模浜土へ、日朗は鎌倉へ、日頂は下総へ下っていった。五人は墓守で一生を終わりたくはなかったのだろうか。彼らは若僧をつれて去ってしまった。

予想していたとおりだった。わずか三年で日蓮の墓は荒れはてる。

何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの(ひづめ)(まのあ)たり(かか)らせ給ひ候事、目も当てられぬ事に候 『美作公御房御返事

日蓮の墓は鹿のひづめで荒廃していたのである。信じられない話だが、だれも手をつける者がいない。
 日興の困難はさらにつづく。

日興は師亡きあと、九年のあいだ身延山に住み法を弘めたが、地頭波木井実長の邪義のため、離山を余儀なくされた。

波木井の邪義とは四つあった。日興は冷静にしるしている。

釈迦如来を造立(ぞうりゅう)供養して本尊と()し奉るべし、是一。

次に聖人御在生九箇年の間停止(ちょうじ)せらるゝ神社参詣其の年に之を始む、二所(にしょ)三島(みしま)に参詣を致せり、是二。

次に一門の勧進(かんじん)と号して南部の郷内のふく()()の塔を供養奉加(ほうが)之有り、是三。

次に一門仏事の助成と号して九品(くほん)念仏の道場一宇を造立し荘厳(しょうごん)せり、甲斐国其の処なり、是四。

已上四箇条の謗法を教訓する義に云はく、日向(にこう)これを許す云々。この義に依って()ぬる其の年月、彼の波木井入道並びに子孫と永く以て師弟の義を絶し(おわ)んぬ。仍って御廟(ごびょう)(あい)(つう)ぜざるなり。  『富士一跡門徒御存知の事
  

波木井の所行は日蓮の教義とあい容れない。波木井は日蓮と同じ土地にいながら日蓮の精神を理解できなかった。仏法の理解は距離とは関係ないことがわかる。

本尊は釈迦ではなく妙法の七字を建立する。神社参拝は災いをうける。善神はすでに社を去り、悪鬼のみがのこっているからだ。立正安国論のとおりである。まして念仏の建物を建て供養するなど、なにをかいわんやである。

さらに信じがたいのは、この邪義を五老僧の一人、民部日向が許したということだった。

日興はこの数々の謗法を『原殿御返事』に克明に記録している。以下はそれをたどってみることにする。

日興は最初、波木井の所行に愕然とした。

(そもそも)此の事の根源は去る十一月の(ころ)、南部孫三郎殿、此の御経聴聞のため入堂候の処に此の殿入道の(おおせ)と候て念仏無間(むけん)地獄の由聴き給はしめ奉る可く候なり、此の国に守護の善神無しと云ふ事云はるべからずと承り候し間、是れこそ存の(ほか)の次第に覚え候へ、入道殿の御心替らせ給ひ候かと、はつと推せられ候

日蓮滅後六年目の十一月の頃という。日興四十一歳のことである。

波木井一族の南部孫三郎という者が参詣し、実長の言葉を伝えた。

実長は日蓮がとなえた念仏無間地獄の義は了解したが、この国に守護の善神がいないことは納得できないという。神社参詣を肯定するかのような発言だった。日興ははじめて聞く地頭の唐突な言葉に衝撃をうけた。

日興は懸命に孫三郎を説得した。いま神社には悪鬼しか住みついていない。これは亡き師日蓮の教えではないか。

此の国をば念仏真言禅律の大謗法故、大小守護の善神捨て去る間、其の跡のほ()らには大鬼神入り(かわ)りて国土に飢饉・疫病・蒙古国の三災連々として国土衰亡の由、故日蓮聖人の勘文関東三代に仰せ含められ候ひ(おわん)ぬ、此の旨こそ日蓮阿闍(あじゃ)()の所存の法門にて候へ、是を国のため世のため一切衆生のための故、日蓮阿闍梨、仏の使いとして大慈悲を以って身命(しんみょう)を惜しまず申され候きと談して候

しかし実長と同心の孫三郎は納得しない。

ここで孫三郎は重大なことをいった。この神社参詣について、身延と鎌倉で異論がおこっているというのである。

孫三郎殿、念仏無間の事は深く信仰(つかまつ)り候(おわん)ぬ、守護の善神此の国を捨去(しゃこ)すと云ふ事は不審未だ晴れず候、其の故は鎌倉に御座(おわ)し候御弟子は諸神此の国を守り給ふ(もっと)も参詣すべく候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらる条、日蓮阿闍梨は入滅候、誰に()ってか実否を決す可く候と(くわ)しく不審せられ候

当時、鎌倉の弟子たちは神社参拝を認め、日興のいる身延は断固として認めなかった。

孫三郎の迷いはさめない。

師の日蓮は世を去った。神社参りが是か非かは決められないではないか。根本の師が世を去ったのだ。それならば新たな法義を立てるべきだといいたいのである。心中に後継者の日興を軽視する態度がみえる。

日興はこれにたいし、すべては師日蓮の遺言をもとに判断すべきであると訴える。いわゆる立正安国論をはじめとした御書とよばれる指針である。

二人の弟子の相違を定め玉ふべき事候、師匠は入滅候と申せども其の遺条(ゆいじょう)候なり、立正安国論是れなり、私にても候はず三代に披露し玉ひ候と申して候しかども尚御心中不明に候て御帰り候ひ畢んぬ。

日興は師がいない以上、われわれは師の書、いわゆる御書によって道を決めるべきだと諭した。熱をこめて説いたが、孫三郎は疑念をいだいたまま帰ってしまった。

日蓮滅後わずか七年後のことである。

早くも七年にして日蓮の法義が危うくなっていたのには驚かされる。神社参詣についても宗門の中で意見がわかれていたのである。

この遠因は孫三郎が三島の神社に参詣しようとしたことがはじまりだった。日興はこれを聞き、夜半おなじ波木井一族の弟子である越後公をつかわして叱責した。

是れと申し候は此の殿三島の社に参詣渡らせ給ふべしと承り候し(あいだ)夜半に出で候て越後公を以ていかに此の法門安国論の正意、日蓮聖人の大願をば破し給ふ可きを御存知ばし渡らせをはしまさず候かと申して永く留め(まい)らする

三島とは静岡県三島市伝馬町にある三島神社のことである。かつて源頼朝が平家追討の挙兵にあたって戦勝を祈願した。いらい鎌倉幕府の崇拝をうけ、伊豆山神社とともにニ所(もうで)として毎年正月、将軍自らが参詣した。そのため多くの武士の崇拝をうけていた。

孫三郎も幕府の一員として気軽に参賀しようとしたのである。

日興はこれをきびしく叱った。

あなたはなぜ日蓮聖人の御心を御存知ないのか。神社不敬は師日蓮の法義であることを、なぜわからないのか。

孫三郎は甲斐源氏の血をひく名門南部氏の一人である。日興の忠告はおもしろくない。

この出来事が実長の耳に入った。ここで実長は五老僧の一人民部日向(にこう)の意見をきいた。

驚くことに日向は日興の義をしりぞけた。

彼いわく、日興は日蓮の法門を理解しておらず、仏法の極みを知らないという。日向は言った。

()守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨()(てん)(よみ)に片方を読んで至極を知らざる者にて候、法華の行者参詣せば諸神も彼の社壇に(らい)()す可し(もっと)も参詣す可し()()()()()()()()

日興は実長に直談判して神社参詣を問いただしたが、実長はこれを日向の教えであると反論した。日向と実長は身延山の主である日興を見下していた。

日向は五老僧の中でただ一人、甲斐にもどってきていた。日興は喜んで彼を学頭職につけている。日興と日向とは熱原の法難で苦楽をともにした仲だったのだ。うれしくないはずがない。学頭とは僧侶教育の要職である。その日向が日蓮の法義を曲げようとしていたのである。

日興にとって神社不参拝は当たり前のことである。このことは日蓮のもとで幾度も薫陶を受けていた。耳には今も日蓮の言葉がのこる。

其の上此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味に()へて(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入り()はりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は(いたずら)に魔縁の(すみか)と成りぬ。国の(つい)え民の(なげ)きにて、い()かを並べたる計りなり。(これ)私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし。諸仏も諸神も謗法の供養をば全く()け取り給はず、况んや人間としてこれを()くべきや。 『新池御書



                   102 五老僧の邪義  につづく
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by johsei1129 | 2014-11-30 15:13 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2014年 11月 30日

100 不滅の滅

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              (日蓮の不滅を祝う御会式 富士大石寺にて)
 弘安五年十月十三日、日蓮が目をとじた。

(たつ)の時、今でいえば午前八時頃の早朝であった。六十一年の生涯だった。

伯耆房日興は葬儀の次第を詳細に記した「宗祖御遷化記録」に、このとき大地が震動したと記録している。地震は鎌倉にもおよんだ。人々は日蓮が他界したことを知る。

翌十四日の(いぬ)の時、夜の八時頃、入館。棺は日朗と日昭がうけた。そして()の刻、真夜中の十二時頃、葬儀がはじまった。

松明の光を先頭に弟子檀那がすすむ。

四条金吾と池上宗仲の二人が左右に旗をかかげた。

香は土木常忍がうけもった。
 花弁をまき散らす散華(さんげ)は南条時光。
 太刀は池上宗長がうけた。

そして日蓮の棺が白衣の弟子十八名にかこまれてすすむ。
 前陣は日朗、後陣は最長老の日昭が担い、担ぎ手の中に日興と日持、そして日目がいた。列の最後方に亀王童と滝王童が馬を引いた。

こうして厳粛のうちに荼毘(だび)に付された。

日蓮は自分が不滅であるという。

第六即滅化(そくめつけ)(じょう)の事

御義口伝に云はく、我等が滅する当体は化城なり。此の滅を滅と見れば化城なり。不滅の滅と知見するを宝処とは()ふなり。是を寿(じゅ)量品(りょうぼん)にしては()(じつ)不滅度(ふめつど)とは説くなり。滅と云ふ見を滅するを滅と云ふなり。三権(さんごん)(そく)(いち)(じつ)の法門之を思ふべし。(あるい)は即滅化城とは謗法の寺塔を滅する事なり。今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は化城即宝処なり。我等が居住の山谷(せんごく)(こうや)皆々(じょう)寂光(じゃっこう)の宝処なり云云。『御義口伝上 化城喩品

さらに 寿量品「如来如実(にょじつ)知見(ちけん) 三界之相(さんがいしそう) 無有(むう)生死(しょうじ)」について御義口伝で断言している。

 此の品は万法を無作(むさ)の三身と見るを如実知見と云う。無作の覚体なれば何に()
って生死と云わんや

この武州池上の地で不思議なことがおきた。
木枯らしが吹く中、不思議にも桜が咲いて満開となった。後代の弟子はこれにちなみ、日蓮の命日には桜の造花をかざることが慣例となる。

日蓮門下と名乗る者たちは、この十月十三日を大切にしてきた。信徒たちはこの命日がきたことに祝賀の意をあらわし「おめでとうございます」とよろこびあう。日蓮が不滅である証左として。

四百年後の大石寺二十六世(にち)(かん)は大難に耐えぬき、妙法をのこした宗祖に感謝する。

 仍( よつ)て権教権門のやから、(あるい)は誹謗悪口(あっく)をなし、或は(じょう)(もく)()(しゃく)の難(あまつさ)へ両度まで流罪に()ひ玉ひ、しかのみならずきづを(こうむ)り、(たつ)の口には首の座にまでなをり玉ふ如く大難に値ひ玉ふといへども(ひとつ)には仏の付属の故に(ひとえ)に末代今時の各々我等を不便(ふびん)思召(おぼしめ)す大慈大悲より、是れ此の大難を(しの)ぎ、此の本門寿量の妙法を弘通(ぐつう)なされてある故に、今我等は易々(やすやす)と之れを唱へ即身成仏すること(ひとえ)に宗祖の御恩徳に()るなり云々。     富要第十巻『寿量品談義』

ここで信徒の一人、秋山孫次郎(やす)(ただ)をあげねばならない。

秋山は甲斐の中巨摩(こま)郡の中野にいた武士だった。甲斐にいたころ、信心強盛の父とともに伯耆房日興の本尊をうけている。

その後、功名を得て四国讃岐に赴任、讃岐の高瀬一郷の民を純信に進ましめ、今の香川県讃岐本門寺の開基となった。

伯耆房日興は讃岐の興隆に感動し「西国参拾参箇国の導師たるべき」とも「西三(じゅう)一箇国の法華棟梁たるべき」ともいい広宣流布を命じている。いかに泰忠に期待していたかがわかる。

泰忠の子孫はこの遺命をよく守り、江戸時代には二千余軒の檀家がいたという。

その泰忠は晩年、子孫に遺書をのこした。時は足利時代、日蓮滅後九十二年のことである。

この遺言に泰忠がかぎりなく慕う日蓮の命日のことがしるされている。

一、十月十三日の御事はやす()たゞ()あと()()()うせんずるなん()()ねうし(女子)まごひこ(孫彦)いた()()でち()うをいた()し申すべきなり、()の御だう()よりほか()にか()そめにも御だう()()()の御だう()そむ()き申すまじき印にまたないない(内内)きや()()いといひ又はおぢ(伯叔父)なか()いとこ(従兄弟)なか()にもうら()むる事ありとも十三日にあい()たが()いに心を一つにして御ほ()け大上人をやすたゞ(泰忠)()おぎ申す()とくに、十五日まで()みなみ(皆皆)な一()ころにて御つと()めも申し候べく候、又しら()びよ()()さる()()くと(殿)ばら()をもぶんぶん(分分)()たがつてね()ごろにもてなし(接待)申すべきなり、()ない()いか(如何)なる()こん()ありと()ふとも、十月十三日はい()ゝかも()()なき事をばおも()()まつ()り申すべきなり。

一、()しこのじ()うをそむ()いていらん(違乱)()たさんずるこども(子供)は御ほ()け大上人十()せち()まん()ほさつ(菩薩)の御ばち()かぶ()るのみならず、やすたゞ(泰忠)ため()にはなが()ふけふ(不孝)もの()なり、ゆづ()ると()ろおば一ぶん()なりともちぎやう(知行)べからず 『富要 第八巻』

泰忠は子孫に御堂すなわち寺院を守り、かりそめにもほかの寺を建てて法を乱してはならないと遺言する。大上人とは日蓮のことである。命日の十月十三日から三日間は一所に参集して勤行し、人々をねんごろにもてなせという。親族の中でどんな遺恨があっても、この三日間だけは心を一つにせよという。

猿楽、白拍子とは今でいう芸能人のことである。芸能人を招いてまで命日を祝えという。

泰忠はこの遺言にそむくことがあれば、日蓮はもとより十羅刹・八幡大菩薩からも罰をうけ、泰忠にも不孝の者であるから、一所たりとも相続はさせないといいきっている。

日蓮の遺骨を抱いた一行が、武蔵をはなれ甲斐身延の帰路についた。身延では地頭の波木井がまっている。

だがこの悲しみの中で、日向(にこう)ら五人が浮かれた笑顔にかわっていった。

「みんな、なにを悲しんでいるのだ。上人がおおせのように笑っていこうではないか」

「そうだ、そのとおりだ。われらは自由になったのだ」

この時、伯耆房日興が立ちどまり、五人を叱責した。

「おぬしらなにをいっている。聖人の遺骨にむかって恥ずかしくないのか。

『未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて(ずい)(りき)弘通(ぐつう)を致すべき事』

聖人の言葉を忘れたか。聖人からはなれるのか。はなれたい者はここで立ち去れ。止めはしない」

伯耆房日興の威風は、師日蓮とかさなりあって見えた。

一同が伯耆房の気迫に威圧されてだまりこんだ。

しばしの沈黙のあと、一行はふたたび進んだ。

雄大な富士が近づいてきた。

伯耆房がなつかしむように山を見あげた。
 一行がようやく身延の房にもどってきた。

  

  
     101 地頭の謗法 につづく
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by johsei1129 | 2014-11-30 14:53 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)