日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:日寛上人 御書文段( 480 )


2017年 01月 14日

如説修行抄筆記 目次

日寛上人 御書文段



      如説修行抄筆記



一段  この抄の大意および題号の通別を説く

二段  宗教によって宗旨を弘むれば必ず大難あること

三段  弟子檀那を教誡したもう

四段  行者値難を以て末法の行者なることを明かす

五段  経文虚しからざるを明かす

六段  正しく如説修行を明かす

七段  摂折二門の大旨を判じ、蓮祖は末法如説修行の人なることを明かす




文段 総目次



by johsei1129 | 2017-01-14 17:00 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2017年 01月 14日

法華取要抄私記 目次

日寛上人 御書文段



   法華取要抄 私記



  この抄大いに分かちて二と為す所以

一 題目

  一 所抄の題目

  二 能抄の人

二 本文

  一 非を捨てて要を取るの意を明かす

  二 爾前と法華との勝劣を明かす

  三 末法の始めには法華の要法を流布せしめるの由来を明かす




文段総目次



by johsei1129 | 2017-01-14 08:31 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2016年 07月 07日

 法華取要抄私記 終 法華経を謗(ぼう)ずるは第一の重病なる事。題目は第一の良薬の事。


一 法華経一部は末法の為に説きたもうと之を判ずる事、七丁已下

付けたり、迹門八品(はっぽん)に二意有る事、七ヲ。

付けたり、末法は日蓮を以て正とする事、七ヲ。()(さん)の事、七ウ。

一 本門に二意有る事、七ウ

付けたり、(りゃっ)(かい)は脱、広開は末法の為なる事、七ウ。

付けたり、略開の心の事、八ウ。

付けたり、大衆は本門に入って(みょう)(かく)に入る事、八ウ。

付けたり、日蓮、天に向かって日月を見る、生身(しょうしん)の妙覚の仏なる事、八ウ。

付けたり、広開の心は一向(いっこう)に滅後の為なる事、九ヲ。

付けたり、()の文の事、八ヲウ。

付けたり、法華経を(ぼう)ずるは第一の重病なる事。題目は第一の良薬(ろうやく)の事、十ヲ。

付けたり、末法に流布せずんば諸仏菩薩の誓言(せいごん)は虚しき事、

一 多宝の証明等は末法の為の事、十ウ

付けたり、仏在世に無智の者(これ)無き事、十一ヲ。

付けたり、経釈(きょうしゃく)の事、十一ヲ。

一 正像二千年に残す所の秘法(これ)有りとの判、十一ウ

付けたり、三大秘法の事、十一ウ。

付けたり、正像に弘めざる子細(しさい)の事、十一ウ。

付けたり、末法に入って一切経は教のみ有って()得道(とくどう)の事、十一ウ。

付けたり、逆縁の為には(ただ)題目に限る事、十二ヲ。

付けたり、広略を捨てて(よう)を取る事、十二ヲ。

一 末法に入り此の法流布の先相(これ)有る事、十二ウ已下

付けたり、必ず之有るべしと云う証文。付けたり、先相(せんそう)見る事、十三ヲ。

付けたり、文永十一年に二つの()出現と聞く事、十三ヲ。

付けたり、大小の難起こるに因縁(これ)有る事、十四ヲ。

付けたり、災難は人に(したが)って大小有るべき事、十五ヲ。

付けたり、日月星の難の起こり様に依って国中の諍論(じょうろん)を知る事、十五ヲウ。

一 末法の始めには必ず上行菩薩出世して、三つの法門を建立(こんりゅう)して、四海一同に題目を流布せしむべき事、十五ウ

已上

私にいわく、総じて大の法門八()あり。

一は()(ぜん)・法華、勝劣の判。

二は教主の()(えん)・無縁の判。

三は迹門正宗(しょうしゅう)八品(はっぽん)に二意有る判。

四は本門に二意有る判。

五は多宝の証明等は末法の為の判。

六は正像未弘の秘法(これ)有る判。

七は広略を捨てて(よう)を取る事の判。

八は末法に上行菩薩出世して此の経法を(ひろ)めたもう判。

(しか)れば此の抄の大意は、()(ぜん)と法華と勝劣を判じ、末法の初めに上行菩薩出世して、法華経の中にも広略脱の行を捨てて、本門下種の要法を取って流布(るふ)せしむる事を明かす。故に「法華取要抄」と云うなり。以上(おわ)んぬ。



       大石寺興師付嘱(ふぞく)二十六()(ほう)

             日 寛 在判




 本書目次                   日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-07-07 22:35 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2016年 07月 07日

 法華取要抄私記 十八 爾前も法華経も無得道と云うなり。されば南条抄に「余経も法華経も詮(せん)なし」等云云。  


一「教のみ有って得道無し」とは。

啓蒙に云わく「爾前の大小・権実・顕密は(とも)に教は有れども無得道なり」と。

私に云く、此の義不可なり。「大小・権実・顕密」とは法華経も共に収めて(しか)と云うなり。是れ則ち爾前も法華経も無得道と云うなり。されば南条抄に「余経も法華経もせん()なし」等云云。

一「弗舎(ほっしゃ)(みっ)多羅(たら)(おう)」の事。(つぶさ)に啓蒙の如し。

一「本門の三()の法門」の

啓蒙に云わく「本門の言は迹化(しゃっけ)迹門の弘通に対して、末法の(ほん)()弘通の規模を顕さんが為なり。又『予が読む所の迹には非ず』と(えら)ぶが如く、宗家の本迹は本が家の迹にして、一妙法の上の本有の徳用なれば、(いち)()唯本(ゆいほん)の意にて、本門の三大秘法と名を立つる義と両向を以て(こころ)()べきなり。是れ則ち相待(そうたい)絶待(ぜったい)の意なり」と。又(ごん)抄に云わく「略を捨つる時は寿量品も捨つるなり。是れ相対の意なり。宗家の本迹は本地所証の妙法が家の本迹にして、(ほん)()の迹覚本覚を帰示せる体徳の妙用なれば、妙法(そく)本迹、本迹即妙法にして不可思議の重なり。是れ則ち絶待の妙の意なり」云云。又啓蒙に云わく「逆縁の正意の(かた)に約して広宣流布を点示するなり」云云。

私に云わく、三箇の法門、三大秘法抄にあり。是れ則ち一箇の相承なり。()れ本尊とは、総別・人法等と種々の分別あり云云。さて本迹の沙汰は一往再往ともに勝劣なり。総じて五重の勝劣あり。一には(ない)()相対、二には大小相対、三には権実相対、四には本迹相対、五には種脱相対の法門なり。()くの如き重々の相対の上に下種の法を顕すなり。文底(もんてい)とは是れなり。

一 此の御書は正本に年号月日なし。「土木(とき)殿へ」ともなし。後人(これ)を加う。さて年号月日の事は二説あり。一は文永十一(きのえ)(いぬ)五月二十四日、二に同じき正月二十四日と云云。中に於て五月と云う事分明なり。十三丁、()いて見よ。正本は中山に有り。

一 此の法華経は()(ぜん)の諸経・諸宗に超過して勝れたることを判ず。

付けたり、諸宗の(りゅう)()の事、初丁

付けたり、()(こん)(とう)の三字第一なる事、二丁ウ。

付けたり、諸経に已今当相似(そうじ)の文を()する事、三丁ヲ。

付けたり、所対を見て経々の勝劣(しょうれつ)を弁ずべきこと、三丁ウ。

一 教主の()(えん)無縁の判四丁ヲウ。「今法華経」の下、一に権果に約し、二に迹因に約し、三に本果に約す。

付けたり、大日如来・阿弥陀(あみだ)如来は我等が本師釈尊の所従なる事、五ヲ

付けたり、弥陀・釈迦とは宿(むか)()の生養(えん)異なりて父子の義を生ぜざる事、五ヲ。

付けたり、華厳経の十方台上の盧舎那(るしゃな)、大日経・金剛(こんごう)(ちょう)(きょう)の両界の大日、多宝の(きょう)()の事、五ウ。

付けたり、多宝も釈迦の(しょ)(じゅう)の事、五ウ。

付けたり、釈尊の忌日(きじつ)を他仏に()うるは誤りなる事、六ウ。


               つづく


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by johsei1129 | 2016-07-07 21:12 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2016年 07月 06日

 法華取要抄私記 十七 当家の法門は一切の仏・菩薩等をなげすてて、但(ただ)声をばかりに「南無妙法蓮華経・日蓮大聖人、南無妙法蓮華経・日蓮大聖人、未来を救いたまえ」と唱うべしと云う事なり。


 されば末法の本尊とは、本門の南無妙法蓮華経日蓮大聖人是れなり。是れ我等が為の能引(のういん)なり。十界の聖衆は、是れ日蓮(たい)()の十界の聖衆なり。日蓮体具の十界を顕す時に、釈迦・多宝等の十界の聖衆を書き顕し給う者なり。

されば(のう)()の人(すで)に下種の(ほっす)なる間、所具の釈迦・多宝等の十界の聖衆も皆悉く生身の妙覚の仏なり。(ほん)()の菩薩なり。本有の声聞なり乃至本有の提婆(だいば)なり。然れば則ち、本門下種の南無妙法蓮華経日蓮聖人より(ほか)に全く一法も無し。()って南無妙法蓮華経日蓮聖人を以て本尊と為し、能引とするが故に「所化(しょけ)以て同体なり」とは遊ばされたり。

(ただ)し観心本尊抄の文は一往(いちおう)文の上を遊ばされたり。全く文底(もんてい)の大事を遊ばされず。されば自ら(いま)だ遊ばされざることわりなり。()し御自身に、我を以て本尊とせよと遊ばされたらば、(いず)れの人か之を信ずべけんや。此れを以て文底に秘して、文の上を遊ばされたり。されば当家(とうけ)の習う法門は是れなり。

然るに一致宗は、吾が祖を習い失うて本尊に迷う。如何(いかん)が成仏すべけんや。されば撰時抄の下二十八に云く「上一人より下万民に至るまで一切の仏寺一切の神寺をばなげすてて、各各声をつる(連合)べて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え(たなごころ)を合わせてたすけ給え、日蓮の()(ぼう)・日蓮の御房とさけび候はん」云云。

報恩抄の下三十四に云わく「(ひとつ)には日本乃至一閻(いちえん)()(だい)・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂(いわゆる)宝塔(ほうとう)の内の釈迦・多宝・(そのほか)の諸仏(ならび)に上行等の四菩薩(きょう)()となるべし」文已上。此の御書に「本門の教主釈尊」とは久遠名字の釈尊なり。是れ則ち今日(こんにち)の日蓮聖人、()(たい)()(ゆう)(ただ)一体の御形なり。()って末法には我が身を本尊とせよと云う事を「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とは遊ばされたり。(しか)れば則ち今日の宝塔の中の釈迦・多宝も、此の本仏の臣下・大臣なり。(いわん)や其の已外をや。(ここ)を以て「釈迦・多宝(そのほか)」とは遊ばされたり。全く今日(こんにち)の応仏昇進の釈迦・多宝を以て本尊とせよと遊ばされたるには(あら)ず。

(しか)るを一致の(やから)脱仏を以て下種の本尊と為すと云えるは(かわら)を以て玉と為し、石を以て(こがね)に執するに似たり。されば撰時抄の御文体は、上も下も智者も愚者も、末法に入って上行出世の後は、一切の仏・菩薩、一切の明神・天神(てんじん)等をなげすてて、(ただ)声をばかりに「南無妙法蓮華経・日蓮大聖人、南無妙法蓮華経・日蓮大聖人、未来を救いたまえ」と唱うべしと云う事なり。

聖人知三世抄に云わく「日蓮は一閻浮提(いちえんぶだい)第一の聖人なり」云云。


               つづく


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by johsei1129 | 2016-07-06 16:22 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2016年 07月 06日

 法華取要抄私記 十六  御本尊に迷う輩(やから)の邪曲・僻見(びゃっけん)をしるす


一 総じて此の一段の御法門について、一致宗の云える事あり。

啓蒙の二十・二十六已下に、()(じょう)()(しょ)九ヲを引き(おわ)って云わく「此の一段の(たい)()は本迹観心の奥義を以て納得すべし。(たい)()所判の在世の脱の類に権者実者を明かし、能引・所引を論ずる意なり。又本迹にも新聖旧聖の品を()かてり。我が()一往弁じたもう時は、本迹二門に当機を立てて、迹門八品に()(もん)の法を聞いて入実し、本門(りゃっ)(かい)に来たって増道するの(おもむき)を弁じたもうなり。今此の一段は、再往滅後(しょう)()の義に約して、在世の二乗等を総じて能引としたまえり。されば釈尊の出世、多宝の証明等、皆(ひとえ)に我等が為なりと信得に及ばせば、勇猛の安心に住して下種得脱の大利を得ん事(たなごころ)を指すが如くならん。是れ当家観心の深意なり」と。又云わく「当家の行者は他の本迹高広の()(きゅう)聖応(しょうおう)を妙経の五字の要法に収め、無二の信力に住して自己の色心即妙法の全体なりと心得れば、自他不二・(めい)()一体にして三力相応し、即身成仏の素懐を(たちま)ちに()ぐる初心相応の易行観心なり。(なお)立ち入って深く心得る義を云わば、本尊抄に云わく『今本()娑婆(しゃば)世界は三災を離れ○迹仏迹土を表する故なり』以上。是れ則ち十界具足の為体(ていたらく)にして無始(ほん)()なり。されば舎利弗等乃至提婆(だいば)等に至るまで(みな)本有の眷属なり。されば世々番々に本懐を()げたもう時に至っては、本()十界の相貌(そうみょう)を顕して無始迷倒の衆生を引き入れ、本有無作(むさ)の己心に具足の本尊に(かい)()せしめたもう。『所化(しょけ)以て同体』とは此の意なり。是れ則ち本尊と自己と一体不二の玄旨、観心本尊の奥蔵(おうぞう)なり。されば在世の儀式を能引とし、末法の衆生を所引としたもう元意、恐らくは(ここ)に在るべきか」已上略抄。

私に云わく、(これ)()の義は邪義なり。

()ず一は在世の儀式を能引とし、末法の衆生を所引とす。二は他の本迹高広の()(きゅう)の聖応等を妙法五字に収めて、自己の色心即妙法の全体と()すれば成仏するなりと。三は大師の判釈を以て例して吾が祖の(りゅう)()を判ずる事已上。

此の三解の法門、大いに邪曲なり。甚だ僻見(びゃっけん)なり。されば本尊とは、劣を捨てて勝を取って本尊とするなり。但し小乗の(やから)は小乗の本尊なり。大乗の輩は大乗の本尊なり。迹門(しゃくもん)の行者は迹門の本尊なり。本門の行者は本門の本尊なり。(だつ)の行者は脱の本尊なり。下種の行者は下種の本尊なるべし。

されば在世の儀式、塔中(たっちゅう)の釈迦・多宝・上行等、文殊・(しゃ)()(ほつ)等の十界の聖衆は、脱益(だっちゃく)の者の為の能引なるべし。何ぞ此の義を以て我等が為の能引とせんや。()し我等が為に(だつ)の衆を能引とせば能所不対なり。何を以て成仏せんや。其の上、阿難・目連等、()(みょう)・竜樹等、天台・伝教等は小乗・権大乗・迹門の()(つう)にして熟脱の導師なり。是等の大小・権実の導師も我等が為の能引か。()し能引に非ずと云わば、何ぞ本尊に之を書き(たてまつ)らんや。若し能引と云わば、大小・権実混乱の本尊か、如何(いかん)


            つづく


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by johsei1129 | 2016-07-06 15:56 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2016年 07月 06日

 法華取要抄私記 十五 「是経」の二字は文底の題目なり。「能持」は日蓮聖人なり。今末法に入って後は、我等が此の下種の妙法を持ち奉る、是れ則ち「能持」なり。


一 一品(いっぽん)二半は始めより終わりに至るまで等

一品二半宗は之に依るか。今(いわ)く、是れ(なお)御本意に非ず。されば大聖の御法門は従浅(じゅうせん)()(じん)の次第なり。所謂(いわゆる)外道に対して仏教第一なり。又小に対して大第一なり。又(ごん)に対して(じつ)第一なり。又迹に対して本門第一なり。又脱益(だっちゃく)に対して下種第一なり。()くの如く重々の法門あり。今は其の中に本迹相対の法門なり。()って迹に対して本門の正宗(しょうしゅう)を以て一向に滅後のためとは云うなり。

総じて此の書の第三段に、第十七番の問答料簡(りょうけん)有り。其の中に始めの九番は教相を遊ばされたり。後の八番の問答は正しく種脱相対の法門なり。(かしこ)の下にて御深意を尋ぬべきなり。されば「一品二半」とは文上を遊ばされたり。文底は末法流布(るふ)の要法なり。依って観心本尊抄に「彼は脱、此れは種なり彼は一品二半、此れは(ただ)題目の五字なり」文云云。

一 此の()良薬(ろうやく)文。

末法の我等が為に留め置くと云う事なり。(よっ)て滅後を以て本と為す。

一 神力品に云く、仏の滅後の後を以て能く()の経を持つ故に等

(この)(きょう)」の二字は文底の題目なり。「能持(よくたもつ)」は日蓮聖人なり。今末法に入って後は、我等が此の下種の妙法を(たも)ち奉る、是れ則ち「能持」なり。されば此の本因下種の要法を唱え奉る時は、十方三世の諸仏もよろ()こび給いて「能持是経」の者を守護し給うべし。記の十・三十九に云く「若し能持と云うは四法を(たも)つなり」文。

一 (やく)王品(おうぼん)文。

「此の経は即ち()れ」等とは、「此の経」とは下種の要法なり。「人の病」とは我等衆生の事なり。「良薬」は此の下種の要法の事なり。

一 七子の中の第一

太田抄に相違の事を()()す。啓蒙の二十・二十五云云。

此の経文は耆婆(ぎば)大臣の説なり。()(しょ)の十八に云く「今云く、円家の七方便根性を取って七と為す。七子の中、逆過を起こす者に心則ち(ひとえ)に重し」云云。

一 上段に「()ず先例を引く」

(ごん)抄に云わく「五百塵点劫(じんてんごう)の説を先例と云えり」と。啓に云く「狂子服薬病尽(びょうじん)(じょ)()の例を挙げ(おわ)って、未来得脱の機の為に、此の良き良薬を留め置くに、則ち取って之を服す。毒病(どくびょう)(かい)()せしける証に備えたもう義なるべし」云云。二十七已下。

一 (こん)(りゅう)()(ぶつ)(せい)(りゅう)()(ぶつ)

次第の如く(しゃ)()(ほつ)・目連に配すべし。啓蒙は非なり。

一 頓尽(とんじん)の大菩薩

三周入実の故なり。是れ則ち新得(しんとっ)()(たぐい)なり。

一 (ほん)を以て之を論ずれば文。

一義に云く、久遠(くおん)の本なりと。一義に云く、近本なり、是れ則ち五百品に出ずる処なりと。啓に出ず云云。(せん)の一に云く「()(かく)の声聞は(もと)是れ菩薩、富楼那(ふるな)等の如し」云云。記の一の末に云く「応化は垂迹(すいじゃく)に約して全く旧聖を(はな)す。仏道は利他に約して新記の者を語す」云云。私に云く、近本という事、玄の七の文に分明(ふんみょう)なり云云。

一 「文殊(もんじゅ)」等とは。

(もん)の二・五十六・五十九、記の二・五十九・六十二、文真記の二・二十六に云云。

一 「応生(おうしょう)」とは。

玄の六・六十一。()の方便土より此の界に託生(たくしょう)するは応生なり。下方の出来(しゅったい)、妙音の東方来の相、身の(まま)にて来たる、是れ則ち応生なり云云。


               つづく


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by johsei1129 | 2016-07-06 00:46 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2016年 07月 03日

 法華取要抄私記 十四 「日・月」とは、実には日蓮聖人の御事なり。是れを体中の体用(たいゆう)と云うなり。日蓮は体なり、日月は用なり。


一 次に問答に二。初めに問、次に答。

一 「一半(いっぱん)」とは。

啓に二義有り。一義に云わく、略開の半品(はんぽん)の中にて(また)分けたもうに依って、念を入れて一半と()ぶなりと。又一義に云わく、(ふん)別品(べつほん)の半品に対して、此の品の奥を一半としたもうなりと。

一 不思議解脱(げだつ)に住して我と別円二教を演説す。

古本に云わく「不思議解脱を満じて、別円を演説す」等云云。新華厳(けごん)五の妙厳品第一・五に云わく「(また)次に普賢菩薩摩訶(まか)(さつ)、不思議解脱の方便海に入り、如来の功徳海に入る」文。(けい)の二十・二十ウに之を引く。

一 「又勝は劣を()ぬ」とは。

開目抄の上四十五に云わく「蔵通(ぞうつう)二教は又、別円の枝流なり。別円二教を知る人、必ず蔵通二教を知るべし」文。之を以て今の文を思え。「又勝」の中に「知」の字有るべし。(おそ)らくは伝写の脱落か。総じて此の一段の文は開目抄の上四十已下に同じ。

一 (あるい)は釈尊の師匠なるか、善智識とは是なり。

開目抄の上四十五、之に同じ。(かしこ)に云く「されば、華厳経に此等の大菩薩をかず()へて、善智識と説かれしは是なり」云云。

然るに啓運・啓蒙に「善智識か」と云えるは非なり。()華厳の一・五に云わく「其の名を普賢(ふげん)菩薩と()う乃至光明尊徳菩薩と()くの如き等の諸菩薩と(とも)に是れ廬舎那(るしゃな)(ぶつ)の宿世の善友。一切の功徳大海を成就(じょうじゅ)す」云云。啓蒙には此の文を引いて其の下を知らずと見えたり。写伝者の(あやま)りとすること(しょう)()なり。啓運も又之に同ず。

一 迹門の八品に乃至始めて未聞(みもん)の法を聞いて

開目抄の上終に云わく「経に云く『我等昔より(このかた)乃至未だ(かつ)て是くの如き深妙の上法を聞かず』等云云。伝教大師の云く『我等昔より(このかた)(しばしば)世尊の説を聞くとは(むかし)法華経の前に華厳等の大法を説くを聞くなり。法華(ゆい)一仏乗の故なり』」等云云。

一 (これ)()の人々は弟子と成りぬ

開目抄の下初に云わく「(また)今よりこそ諸大菩薩も梵天・四天等も教主釈尊の御弟子にては候へ」文。

一「法華経に来至(らいし)して」とは。

玄の一に「(ぞう)(どう)損生(そんしょう)して、(くらい)大覚に(とな)る」等云云。(せん)の一の本云云。

一 (くらい)妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり

天台家の法門は、一生入妙覚の法門有無不同なり。証真法師は「教のみあり、人無し」と云えり。其の(ほか)(あるい)は之有り云云。()決定(けつじょう)なり。経に云く「一生に、(まさ)に三菩提を得べし」等云云。但し迹門の意は、妙覚の位を立つれども、()(みょう)無実なり。本門の意は、妙覚を立つるは真実なり。されば「妙覚の位に入る」とは、本覚の(さとり)を開く、是れ則ち妙覚の位に入ると云うなり。()って「生身の妙覚」と遊ばされたり。されば本地()(じょう)の妙覚の位に入る、此の事を釈には『当位即妙、不改(ほん)()』と判じたもう。されば「妙覚」とは、(ほん)の妙覚は本覚なり、迹の本覚は始覚なり。()し与うる(とき)は迹門に妙覚の位有り。若し奪う(とき)んば迹は始覚にして妙覚に非ざるなり。当体義抄二十三・二十二に云わく「迹門の当分(とうぶん)(みょう)(がく)の仏有りと雖も乃至(けん)()()する者なり」文。此の書の寿量の真仏は()(おん)の名字の妙覚なり。

一 若し(しか)れば今我等

「今」とは末法なり。「我等」とは日蓮なり。「日・月」は是れ日蓮(たい)()の日月なり。是れ則ち日天と月天とは観心本尊の本地、()受用(じゅゆう)の本仏なり。「生身の妙覚」とは名字の妙覚なり。「本意」とは本因(ほんにん)(みょう)の位なり。是れ名字の妙覚、末法の大闇(だいあん)を照らしたもうなり。()って今末法に日蓮等天に向かって之を見れば、生身妙覚の本仏、名字の本位に()して、末法の衆生を()(やく)するなりと云う事なり。此の「日・月」とは、実には日蓮聖人の御事(おんこと)なり。是れを体中の体用(たいゆう)と云うなり。日蓮は体なり、日月は用なり。此れ御書に付いて重々の(じん)()有るなり云云。



               つづく


本書目次                    日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-07-03 21:47 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2016年 07月 02日

 法華取要抄私記 十三 法華経の一品二半は末法出離の要法に非ず。是れ則ち日蓮聖人御出現の後は去年(こぞ)の暦なり。六日のしょうぶなり


一 啓運抄に云わく「観心本尊抄に一往再王の判有り。今の文(これ)に同じ。然れば再往の深意は本門三段、総じて一部の法門は(みな)我等が為ぞと云う法門なり。是れ仏の本意、聖人の本懐なり。本尊抄に『本門の序正流通は(とも)に末法の始めを以て詮と為す』とは是なり。

私に云わく、此の下大いに誤りなり。彼の文に、本門は序正流通倶に本門の題目を以て弘通(ぐつう)すべしとなり。()って次下に、種脱を以て判ずる時に「在世の本門と末法の始めは一同に(じゅん)(えん)なり。但し彼は脱、此れは種なり。彼は一品(いっぽん)二半、此れは(ただ)題目の五字なり」已上。此の御書、種脱を以て勝劣を判じたもうなり。

初めの一句は時と為す。(すなわ)ち在世の本門説法の時と、今末法の始め本門弘通の時とは、一同の純円の時なりと云う事なり。

次の一句は教主に約す。彼の釈尊は(だつ)の教主なり。今の日蓮は下種の法主(ほっす)なり。

次の一句は観教に約す。彼の在世の得脱は一品二半を観心と為し、今末法には題目を以て(かん)(じん)と為すなり。

又彼の天台等は一品二半を以て本門と為し、今末法には題目を以て本門とするなり。()くの如く一同二異を判じたもう。是れ(あに)勝劣に非ずや。此れを以て之を案ずるに、末法の始めより序正流通(るつう)ともに本門下種の題目のみなり。如何(いかん)となれば一部を以て末法の所詮とするや。種熟脱を乱ずるのみに非ず、在世も滅後も、像法も末法も雑乱するなり。(だい)邪推(じゃすい)なり。

問うて云く、今の抄に云わく「一品二半は一向に滅後の為」と判じたもうは如何(いかん)

答えて云く、此の一段は是れは本門に二意を()して傍正を判ずる故に()くの如し。されども一品二半を以て我等が為の下種要法と為すと云うには非ず。故に下の文に云わく「日蓮は広略を捨てて肝要を取る、所謂(いわゆる)上行所伝の妙法蓮華経の五字なり」云云。此れ()し一品二半が我らが為の出離の要法なるならば、何ぞ「広略を捨つる」と云わんや。されば一品(いっぽん)二半の本門は始めより終わりに至るまで滅後の為とは、文底(もんてい)の意に末法の衆生の為に説法するという事、此の文の上の一品二半を以て末法下種の要法にせよと云う事には非ず。(かみ)の迹門(また)(しか)なり。是れ則ち日蓮聖人御出現の後は去年(こぞ)(こよみ)なり。六日のしょうぶなり。故に御相伝に云わく「法華経一部は朽木(くちき)の書なり」云云。


              つづく


本書目次                    日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-07-02 22:21 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2016年 07月 01日

 法華取要抄私記 十二 日蓮大聖人は題目を本と為し、一部を迹と為したもう。是れ則ち本面迹裏(ほんめんしゃくり)の法門なり。されば末法流布の正体とは題目の五字に限るなり。


一 略開の経文 

師弟を答えて云わく「(われ)()の娑婆世界に於、()(のく)多羅(たら)三藐(さんみゃく)(さん)菩提(ぼだい)を得(おわ)って、此の諸の菩薩を教化示導(じどう)し」等云云。又所詮を答うるに「此の諸の菩薩は、(みな)此の娑婆世界の下、此の界の()(くう)の中に於て説いて住す」文。又下の()(じゅ)に云く「此等は是れ我が子なり、是の世界に()()す」等云云。又云く「娑婆世界の()(ほう)の空中に在って住す」文。又云く「我伽耶(がや)(じょう)()(だい)(じゅ)()()す」文。又云わく「我久遠より(このかた)(これ)()の衆を教化す」文。

(われ)伽耶城に於て」とは「我久遠より」の伽耶城なり。此れ則ち実には久遠五百塵点劫の昔の事なり。()くの如きの法門、之を聞く間、()(ろく)等の大菩薩は「(すい)脱在(だつざい)(げん)()騰本(とうほん)(しゅ)」して後、滅後の我等が為に広開近顕遠の法門を請じ給えり。(しか)るに啓運抄に「昔の伽耶は即ち今日の伽耶、今日の伽耶は即ち昔の伽耶にして、全体不二の(こころ)なり」と。恐らくは本意に(そむ)くか。

一 啓蒙二十・十四に云わく「今の文は正宗八品(はっぽん)を末法流布(るふ)の正体とする」等云云。

  私に云わく、(いま)だ此の法門を聞かず、迹門の正宗八品は凡そ末法流布の主体と云う事を。()れ天台は是迹門弘通なり。此れすら(なお)迹門の正宗のみに限らず、法華一部を以て弘通せり。但し迹面(しゃくめん)(ほん)()の修行なり。

又云く、日蓮大聖人は題目を本と為し、一部を迹と為したもう。是れ則ち本面(ほんめん)(しゃく)()の法門なり。されば末法流布の正体とは題目の五字に限るなり。何ぞ八品を流布(るふ)の正体と云わんや。御書一部の中に八品を以て正体と為す証文(これ)有りや。

(いだ)して云く、されば報恩抄の下に云く「(にょ)是我(ぜが)(もん)(かみ)の妙法蓮華経」等の文云云。是等の文は題目を本とする証文なり。されば天台大師は一品(いっぽん)二半を本と為し、余品を迹とす。又日蓮聖人は題目を本と為し、一部を迹と為したもう。いかなれば八品(はっぽん)を以て流布の正体と云うべけんや。甚だ(だい)邪推(じゃすい)なり。(だい)僻見(びゃっけん)なり。早く邪見を改め、速やかに正法に付くべし。

問うて云わく、既に如是我聞の上の題目を本と為す、(あに)一致に非ずや。

答う、題目に二あり。一には理の題目、二は()の題目なり。理の題目は末法流布の正体に非ず、事の題目を以て正体とするなり。御書に云く「末法に入て今日蓮が唱うる所の題目は前代(ぜんだい)に異なり自行化他に(わた)りて南無妙法蓮華経なり」と。下の十五・三十一にあり云云。


          つづく


本書目次                      日寛上人 文段目次



by johsei1129 | 2016-07-01 21:57 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)