日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:弟子・信徒その他への消息( 209 )


2016年 12月 11日

義浄房御書 要点解説

「義浄房御書」は、日蓮大聖人が「観心本尊抄」を文永十年四月二十五日に書き著せられてから一カ月ほど後の、同年五月二十八日に、清澄寺時代の兄弟子・義浄房に宛てられた消息です。
比較的短いお手紙ですが、文中で「秘すべし、秘すべし」と認められておられるように、「観心本尊抄」で説かれた末法の本仏としての内証を記された極めで重要な消息となっております。

大聖人は最初に「今経(※注)の所詮は十界互具・百界千如・一念三千と云ふ事こそゆゆしき大事にては候なれ」と断じ、次に自身の甚々の内証を解き明かします。
「次に寿量品の法門は日蓮が身に取つてたのみあることぞかし。天台・伝教等も粗しらせ給へども言に出して宣べ給はず、竜樹・天親等も亦是くの如し。
寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云。日蓮が己心の仏果を此の文に依つて顕はすなり。其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事この経文なり。秘す可し秘す可し」と。
上記の意は、法華経の核心である如来寿量品・自我偈の「一心欲見仏 不自惜身命」の仏とは、末法の本仏日蓮大聖人が覚知した己心の仏界を著わしていると宣言していることにほかなりません。
さらに「日蓮が己心の仏果を此の文に依つて顕はすなり」との御文は「観心本尊抄」文末の「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」の御文と符合致しております。

さらに日蓮大聖人は「無作の三身の仏果を成就せん事は恐くは天台伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり」と断じ、自らを、薬王菩薩の化身たる天台伝教を越えた「末法の本仏」であることを示唆するとともに、「相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり。法華経の御為に身をも捨て命をも惜まざれと強盛に申せしは是なり、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と義浄房を身命を惜しまず仏道修行をするよう諭されます。

※注:天台は已今当の三説(いこんとうのさんせつ)について、已説は法華経以前の諸経、今説は法華経の開教である無量義経、当説は法華経以後に説かれた涅槃経と定め、法華経はこれら已今当の三説に超過した経であると分別しますが、日蓮大聖人は本抄では今教を法華経として論を展開しております。





by johsei1129 | 2016-12-11 21:06 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2016年 06月 11日

法華経譬喩品第三の「今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子」の偈について詳細に講説された【今此三界合文】

【今此三界合文】

■出筆時期:文応元年(1260年)三十九歳御作。
■出筆場所:鎌倉 松葉ヶ谷の草庵と思われます。
■出筆の経緯:大聖人は正嘉二年二月、駿河国・岩本実相寺に入り大蔵経(釈尊の一切経)を読まれ二年後に立正安国論として結実し北条時頼(最明寺入道)に献じ国家諌暁を果たします。また合わせて法華経の法門を初心の弟子・信徒の教化のため数多く述作されておられ本書もその一つです。
本抄では法華経譬喩品第三で説かれている「今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子」の偈について詳細にその義を講説されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【今此三界合文 本文】
経に云はく「我も亦為れ世の父」と。経に云はく「今此の三界は皆是我が有なり 国主なり報身なり 其の中の衆生

は悉く吾が子なり 親父なり法身なり 而も今此の処は諸の患難多し、唯我一人のみ能く救護を為す 導師なり応身なりと。

  今此三界の事
  
文句の五に云はく「一には等子、二には等車、子等しきを以ての故に則ち心等し。一切衆生等しく仏性有るに譬ふ。

仏性同じきが故に等しく是子なり」と。記の五に云はく「子等しきを以ての故に則ち心等しと言ふは、先づ子等しきを明かさば、子に非ざること無きが故に、故に心必ず等し。其の心若し等しければ其の子必ず等し。心は即ち心性なり、故に仏性等し。皆是子なるに由るが故に心偏すること無し。財法復多し、是の故に心等し」と。又云はく「是の故に今経一実の外更に余法無く、一切衆生皆是吾が子なり。縁因は尚散善を収む」と。又云はく「経に一切衆生皆是吾が子と云ふは、大経の中に一切衆生皆大般涅槃に至らずと云ふこと無きが如し。子の義は因に在り、涅槃は果に在り、大乗の宗要此の二を逾ゆること莫し。皆悉く有りと云ふ。安んぞ権教に順じて一分無しと云はんや」と。文句の九に云はく「是我が弟子なり、我が法を弘むべし」と。記の九に云はく「子父の法を弘むるに世界の益有り」と。
  
 主師親の事

涅槃経第一に云はく「今日如来・応供・正遍知、衆生を憐愍し衆生を覆護す。等しく衆生を視ること羅・羅の如く、為に帰依の屋舎室宅と作る」と。涅槃の疏一に云はく「但三号を歎ずることは、三事を明かさんと欲するなり。
 初めに如来を歎ず。允に諸仏に同じて其の尊仰を生ず。是を世の父と為す。応供とは、是上福田にして能く善業を生ず。是を世の主と為す。正遍知とは能く疑滞を破し其の智解を生ず。是を世の師と為す」と。故に下の文に云はく「我等今より主無く、親無く、宗仰する所無し」云云。経に云はく「世間空虚に、衆生福尽き、不善の諸業増長す○

我等今より救護有ること無く、宗仰する所無く、貧窮孤露なり。一旦無上世尊に遠離したてまつらば、設ひ疑惑有りとも、当に復誰にか問ふべし」と。又云はく「救無く護無く宗仰する所無しとは、此は無主の苦を釈す。貧窮孤露にして一旦無上世尊に遠離すとは無親の苦を釈す。設ひ疑惑有りとも当に復誰にか問ふとは無師の苦を釈す」と。

経の第二に云はく「我等今より主無く親無く救無く護無く帰無く趣無くして貧窮飢困なり」と。涅槃の疏第二に云はく「無主は是仏を失ひ、無親は是法を失ひ、無救は是僧を失ふ。若し主無ければ忠護する所無く、若し親無ければ孝帰する所無く、若し師無ければ学趣く所無からん。既に主の為に護られず、又主として護るべき無きは、即ち栄無く禄無し。是の故に貧と言ふ。既に親として帰すべき無く、又親去りて帰せざれば、即ち生無く陰無きなり。是の故に窮と言ふ。既に師として趣くべき無く、又師として趣くを示さゞれば、即ち訓無く成無し。是の故に困と言ふ」と。

又云はく「主無く親無ければ家を亡ぼし国を亡ぼす」と。又云はく「一体の仏を主師親と作す」と。又云はく「世尊を挙げて主と為すことを許し、種智を挙げて師と為すことを許し、調御を挙げて親と為すことを許す。既に主と為すことを許せば即ち其の貧を断じ、既に親と為すことを許せば即ち其の窮をのぞき、既に師と為すことを許せば即ち其の困を除く」と。

 
   今此三界皆是我有
     外道 天尊 色界の頂に居る三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・大梵天王主
     儒家 世尊 三皇・五帝・三王
      竜逢・比干は主の恩を報ずる者なり
   
唯我一人能為救護
     
     儒家 四聖等
  師  外道 三仙・六師
      釈迦菩薩・常啼菩薩は師の恩を報ずる者なり
   
其中衆生悉是吾子
     
     儒家 父母六親 父方の伯父・伯母・母方の伯父・伯母・兄姉
  親
     外道 一切衆生の父母たる大梵天・毘紐天
      重華・西伯・丁蘭は孝養の者
      なり、三皇已前は父母を知らず人皆禽獣に同ず

 経に云はく「唯我一人のみ能く救護を為す」と。何ぞ二人救護すと云はざるや。二人なれば必ず成弁するなり。二人同心の利、金を断つ。鳥の二羽・車の両輪・日月・父母・福智・止観・日雨・両の目・仏弟子の二人・阿闍世の月光・耆婆・妙荘厳王の二子・二法更互に相依る。転次に左右の仏二人与力して救はざらんや。然りと雖も釈尊は敵対無きなり。十方三世の諸仏の神通利生・慈悲済度を合して対論すとも、釈迦一仏に及ぶべからず。例せば等荷擔の如き者、諸蓋の中の無明、中に於て荷ふ所偏に重しと云ふが如くなるべしと云云。宝積経十五に云はく「生死険難の悪道に往来し、愚癡無智にして常に盲にして目無し。誰か能く示導し、誰か能く救護せん。

初めに如来を歎ず。允に諸仏に同じて其の尊仰を生ず。是を世の父と為す。応供とは、是上福田にして能く善業を生ず。是を世の主と為す。正遍知とは能く疑滞を破し其の智解を生ず。是を世の師と為す」と。故に下の文に云はく「我等今より主無く、親無く、宗仰する所無し」云云。経に云はく「世間空虚に、衆生福尽き、不善の諸業増長す○我等今より救護有ること無く、宗仰する所無く、貧窮孤露なり。一旦無上世尊に遠離したてまつらば、設ひ疑惑有りとも、当に復誰にか問ふべし」と。又云はく「救無く護無く宗仰する所無しとは、此は無主の苦を釈す。貧窮孤露にして一旦無上世尊に遠離すとは無親の苦を釈す。設ひ疑惑有りとも当に復誰にか問ふとは無師の苦を釈す」と。経の第二に云はく「我等今より主無く親無く救無く護無く帰無く趣無くして貧窮飢困なり」と。涅槃の疏第二に云はく「無主は是仏を失ひ、無親は是法を失ひ、無救は是僧を失ふ。若し主無ければ忠護する所無く、若し親無ければ孝帰する所無く、若し師無ければ学趣く所無からん。既に主の為に護られず、又主として護るべき無きは、即ち栄無く禄無し。是の故に貧と言ふ。既に親として帰すべき無く、又親去りて帰せざれば、即ち生無く陰無きなり。是の故に窮と言
ふ。既に師として趣くべき無く、又師として趣くを示さゞれば、即ち訓無く成無し。是の故に困と言ふ」と。又云はく「主無く親無ければ家を亡ぼし国を亡ぼす」と。又云はく「一体の仏を主師親と作す」と。又云はく「世尊を挙げて主と為すことを許し、種智を挙げて師と為すことを許し、調御を挙げて親と為すことを許す。既に主と為すことを許せば即ち其の貧を断じ、既に親と為すことを許せば即ち其の窮を?き、既に師と為すことを許せば即ち其の困を除く」と。
 
   今此三界皆是我有
     外道 天尊 色界の頂に居る三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・大梵天王

 主
     儒家 世尊 三皇・五帝・三王
      竜逢・比干は主の恩を報ずる者なり
   唯我一人能為救護
     
     儒家 四聖等
  師
     外道 三仙・六師
      釈迦菩薩・常啼菩薩は師の恩を報ずる者なり
   其中衆生悉是吾子
     
     儒家 父母六親 父方の伯父・伯母・母方の伯父・伯母・兄姉
  親
     外道 一切衆生の父母たる大梵天・毘紐天
      重華・西伯・丁蘭は孝養の者
      なり、三皇已前は父母を知らず人皆禽獣に同ず

  経に云はく「唯我一人のみ能く救護を為す」と。何ぞ二人救護すと云はざるや。二人なれば必ず成弁するなり。

二人同心の利、金を断つ。鳥の二羽・車の両輪・日月・父母・福智・止観・日雨・両の目・仏弟子の二人・阿闍世の月光・耆婆・妙荘厳王の二子・二法更互に相依る。転次に左右の仏二人与力して救はざらんや。然りと雖も釈尊は敵対無きなり。十方三世の諸仏の神通利生・慈悲済度を合して対論すとも、釈迦一仏に及ぶべからず。例せば等荷擔の如き者、諸蓋の中の無明、中に於て荷ふ所偏に重しと云ふが如くなるべしと云云。宝積経十五に云はく「生死険難の悪道に往来し、愚癡無智にして常に盲にして目無し。誰か能く示導し、誰か能く救護せん。

 唯我一人のみ示すべく救ふべし」と。涅槃経三十五の巻の迦葉菩薩品に云はく「我処々の経中に於て説いて言はく

、一人出世すれば多人利益す。一国の中に二転輪王あり一世界の中に二仏出世すといはゞ、是の処有ること無けん」

と。大論の九に云はく「十方恒河沙の三千大千世界を名づけて一仏国土と為す。是の中更に余仏無し。実に一の釈迦牟尼仏のみなり」と。籤の九に云はく「十方に各釈迦の浄土有り」と。大集経に云はく「一切衆生受くる所の苦は、皆是如来一人の苦なり」と。涅槃経に云はく「一切衆生異の苦を受くるは、悉く是如来一人の苦なり」文。大論三十八に云はく「仏国とは恒沙等の如き諸の三千大千世界、是を一仏土と名づく。諸仏の神力能く普遍自在にして碍り無しと雖も衆生度する者局り有り」文。化城喩品に云はく「第十六は我釈迦牟尼仏なり。娑婆国土に於て阿耨多羅三藐三菩提を成ず」文。寿量品に云はく「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」文。提婆品に云はく「我釈迦如来を見たてまつるに、無量劫に於て難行苦行して、功を積み徳を累ねて未だ曽て止息したまはず。三千大千世界を観るに乃至芥子の如き計りも是菩薩にして、身命を捨てたまふ処に非ざること有ること無し」文。斎法功徳経に云はく「復仏の言はく、尸毘王と為りて鳩に代はりて鷹に身を施し○是くの如く無量劫に於て難行苦行して、功を積み徳を累ねて仏道を求め、未だ曽て止息せず。三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許りも、我が身命を捨てし処に非ざること有ること無し、此の衆生の為の故なり。然して後に乃ち菩提の道を成ずることを得て、釈迦牟尼如来と名づく」

文。懐中に云はく「法華経二十八品に付いて、前の十四品は是迹、後の十四品は是本なり。前の十四品の中には但釈迦如来は釈氏の宮を出でて伽耶城を去りて始めて正覚を成ずることを明かす。四十余年諸の衆生の為に三乗の法を説く。人・天・修羅は皆釈迦如来浄飯宮に於て、始めて菩提を得たまへりと謂へり」文。

又云はく「後の十四品は正しく如来久遠の成道を明かす。地涌の菩薩涌出し、先づ久成の相を顕はし、寿量品に正しく久遠の成道を説く」文。又云はく「本門に於て亦二種有り。一には随他の本門、二には随自の法門なり。
初めに随他の法門とは、五百塵点の本初の実成は正しく本行菩薩道所修の行に由る。久遠を説くと雖も其の時分を定め、遠本を明かすと雖も因に由て果を得るの義は始成の説に順ず。具に寿量品の中に説く所の五百塵点の如し」文。

また云く「次に随自の本門真実の本とは、釈迦如来は是三千世間の総体、無始より来(このかた)、本来無作の三身、法々皆具足して欠減有ること無し」と。文に云く「如来秘密神通之力」と。観普賢経に云く「釈迦牟尼仏を毘盧遮那偏一切処と名づけ、其の仏の住処を寂光土と名づく」文。


【妙法蓮華経・譬喩品第三】
 [原文]
 今此三界 皆是我有
 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難
 唯我一人 能為救護 雖復教詔 而不信受
 於諸欲染 貪著深故 是以方便 為説三乗
 令諸衆生 知三界苦 開示演説 出世間道

 [和訳]
 今、此の三界は皆是れ我(釈尊)が有なり。
 其中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而して今此の処は諸の患難多く、
 唯、我一人のみ能く救護を為すなり。復た、教え詔すと雖も、而して(その教えを)信受せず。
 諸の欲染に於て、貪著すること深き故なり。是を以って方便として三乗(声聞・縁覚・菩薩)を説き、
 諸の衆生をして、三界の苦を知ら令め、出世間の道を、開き示し演説するなり。 



 


by johsei1129 | 2016-06-11 22:21 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2016年 06月 02日

佐渡流罪以前に法華経の行者の立場で、仏は主師親の三徳を具していることを説かれた書【主師親御書】

【主師親御書】
■出筆時期:建長七年(1255年)三十四歳御作。
■出筆場所:鎌倉 松葉ヶ谷の草庵と思われます。
■出筆の経緯:本抄は立宗二年後に弟子・信徒教化のために著された書で、大聖人はあくまで法華経の行者の立場で「釈迦仏は我等が為には主なり師なり親なり」と説かれておられます。
そして本御書を著された十七年後、竜の口の法難で発迹顕本なされた日連大聖人は、流罪地の佐渡で【開目抄】を著されます。その開目抄(上)の冒頭で「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」と記され、仏は「主師親」の徳を具していると示すとともに、開目抄(下)の文末では「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」と断じ、自身が末法の本仏であることを宣言なされておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【主師親御書 本文】

釈迦仏は我等が為には主なり師なり親なり、一人してすくひ護ると説き給へり。阿弥陀仏は我等が為には主ならず親ならず師ならず、然れば天台大師是を釈して曰く「西方は仏別にして縁異なり仏別なるが故に隠顕の義成ぜず縁異なるが故に子父の義成ぜず。

又此の経の首末に全く此の旨無し眼を閉じて穿鑿せよ」と実なるかな釈迦仏は中天竺の浄飯大王の太子として十九の御年・家を出で給いて檀特山と申す山に篭らせ給ひ、高峯に登つては妻木をとり深谷に下つては水を結び難行苦行して御年三十と申せしに仏にならせ給いて一代聖教を説き給いしに、上には華厳・阿含・方等・般若等の種種の経経を説かせ給へども内心には法華経を説かばやと・おぼしめされしかども衆生の機根まちまちにして一種ならざる間仏の御心をば説き給はで人の心に随ひ万の経を説き給へり、此くの如く四十二年が程は心苦しく思食しかども今法華経に至つて我が願既に満足しぬ我が如くに衆生を仏になさんと説き給へり、久遠より已来或は鹿となり或は熊となり或時は鬼神の為に食われ給へり、此くの如き功徳をば法華経を信じたらん衆生は是れ真仏子とて是実の我が子なり此の功徳を此の人に与へんと説き給へり、是れ程に思食したる親の釈迦仏をば・ないがしろに思ひなして唯以一大事と説き給へる法華経を信ぜざらん人は争か仏になるべきや能く能く心を留めて案ずべし。

二の巻に云く「若し人信ぜずして・此の経を毀謗せば・即ち一切世間の仏種を断ず・乃至余経の一偈をも受けざれ」と文の心は仏にならん為には唯法華経を受持せん事を願つて余経の一偈一句をも受けざれと、三の巻に云く「飢国より来つて忽ち大王の膳に遇うが如し」と文の心は飢えたる国より来つて忽に大王の膳にあへり心は犬野干の心を致すとも迦葉・目連等の小乗の心をば起さざれ・破れたる石は合うとも枯木に花はさくとも二乗は仏になるべからずと仰せられしかば須菩提は茫然として手の一鉢をなげ迦葉は涕泣の声大千界を響すと申して歎き悲みしが今法華経に至つて迦葉尊者は光明如来の記別を授かりしかば目連・須菩提・摩訶迦旃延等は是を見て我等も定めて仏になるべし飢えたる国より来つて忽に大王の膳にあへるが如しと喜びし文なり。

我等衆生・無始曠劫より已来・妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども・無明の酒にたぼらかされて衣の裏にかけたりと・しらずして少きを得て足りぬと思ひぬ、南無妙法蓮華経とだに唱え奉りたらましかば速に仏に成るべかりし衆生どもの五戒・十善等のわずかなる戒を以て或は天に生れて大梵天・帝釈の身と成つていみじき事と思ひ或時は人に生れて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成つて是れ程のたのしみなしと思ひ少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持ち奉り速に仏になるべしと説き給へり、又四の巻に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」云云。

釈迦仏は師子頬王の孫・浄飯王には嫡子なり十善の位をすて五天竺第一なりし美女耶輸多羅女をふりすてて十九の御年・出家して勤め行ひ給いしかば三十の御年・成道し御坐して三十二相・八十種好の御形にて御幸なる時は大梵天王・帝釈・左右に立ち多聞・持国等の四天王・先後囲繞せり、法を説き給ふ御時は四弁・八音の説法は祇園精舎に満ち三智五眼の徳は四海にしけり、然れば何れの人か仏を悪むべきなれども尚怨嫉するもの多し、まして滅度の後・一毫の煩悩をも断ぜず少しの罪をも弁へざらん法華経の行者を悪み嫉む者多からん事は雲霞の如くならんと見えたり、然れば則ち・末代悪世に此の経を有りのままに説く人には敵多からんと説かれて候に世間の人人我も持ちたり我も読み奉り行じ候に敵なきは仏の虚言か法華経の実ならざるか、又実の御経ならば当世の人人・経をよみまいらせ候は虚よみか実の行者にてはなきか如何・能く能く心得べき事なり明むべき物なり。

四の巻に多宝如来は釈迦牟尼仏・御年三十にして仏に成り給ふに、初には華厳経と申す経を十方華王のみぎりにして別円頓大の法輪・法慧・垢徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩に対して三七日の間説き給いしにも来り給はず、其の二乗の機根叶はざりしかば瓔珞細軟の衣をぬぎすてそ弊垢膩の衣を著・波羅奈国・鹿野苑に趣いて十二年の間・生滅四諦の法門を説き給ひしに阿若・倶鄰等の五人証果し八万の諸天は無生忍を得たり、次に欲色二界の中間・大宝坊の儀式・浄名の御室には三万二千の牀を立て般若・白鷺池の辺・十六会の儀式・染浄虚融の旨をのべ給いしにも来り給はず、法華経にも一の巻乃至四の巻・人記品までも来り給はず宝塔品に至つて初めて来り給へり。

釈迦仏・先四十余年の経を我と虚事と仰せられしかば人用うる事なく法華経を真実なりと説かせ給へども仏と云うは無虚妄の人とて永く虚言し給はずと聞きしに一日ならず二日ならず一月ならず二月ならず一年二年ならず四十余年の程まで虚言したり仰せられしかば又此の経を実と説き給うも虚言にやあらんずらんと不審なししかば此の不審・釈迦仏一人しては舎利弗を始め事はれがたかりしに此の多宝仏・宝浄世界よりはるばると来らせ給いて法華経は皆是れ真実なりと証明し給いしに先の四十余年の経を虚言と仰せらるる事実の虚言に定まるなり、又法華経より外の一切経を空に浮べて文文・句句・阿難尊者の如く覚り富楼那の弁舌の如くに説くとも其れを難事とせず、又須弥山と申す山は十六万八千由旬の金山にて候を他方世界へつぶてに・なぐる者ありとも難事には候はじ、仏の滅度の後・当世・末代悪世に法華経を有りのままに能く説かん是を難しとすと説かせ給へり、五天竺・第一の大力なりし提婆達多も長三丈五尺・広一丈二尺の石をこそ仏になげかけて候いしか又漢土第一の大力楚の項羽と申せし人も九石入の釜に水満ち候いしをこそひさげ候いしか其れに是は須弥山をばなぐる者は有りとも此の経を説の如く読み奉らん人は有りがたしと説かれて候に人ごとに此の経をよみ書き説き候、経文を虚言に成して当世の人人を皆法華経の行者と思ふべきか能く能く御心得有るべき事なり。

五の巻提婆品に云く「若し善男子善女人有りて妙法華経の提婆達多品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕せずして十方の仏前に生ぜん」と、此の品には二つの大事あり一には提婆達多と申すは阿難尊者には兄・斛飯王には嫡子・師子頬王には孫・仏にはいとこにて有りしが仏は一閻浮提第一の道心者にてましまししに怨をなして我は又閻浮提第一の邪見放逸の者とならんと誓つて万の悪人を語いて仏に怨をなして三逆罪を作つて現身に大地破れて無間大城に堕ちて候いしを天王如来と申す記別を授けらるる品にて候、然れば善男子と申すは男此の経を信じまひらせて聴聞するならば提婆達多程の悪人だにも仏になる、まして末代の人はたとひ重罪なりとも多分は十悪をすぎずまして深く持ち奉る人仏にならざるべきや、二には娑竭羅竜王のむすめ竜女と申すは八歳のくちなは仏に成りたる品にて候此の事めづらしく貴き事にて候、其の故は華厳経には「女人は地獄の使なり能く仏種子を断ず外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」と。

文の心は女人は地獄の使・よく仏の種をたつ外面は菩薩に似たれども内心は夜叉の如しと云へり、又云く「一度女人を見る者はよく眼の功徳を失ふ設ひ大蛇をば見るとも女人を見るべからず」と云い、又有る経には「所有の三千界の男子の諸の煩悩を合せ集めて一人の女人の業障と為す」と三千大千世界にあらゆる男子の諸の煩悩を取り集めて女人一人の罪とすと云へり、或経には「三世の諸仏の眼は脱て大地に堕つとも女人は仏に成るべからず」と説き給へり、此の品の意は人畜をいはば畜生たる竜女だにも仏に成れりまして我等は形のごとく人間の果報なり、彼の果報にはまされり争か仏にならざるべきやと思食すべきなり。

中にも三悪道におちずと説かれて候其の地獄と申すは八寒八熱乃至八大地獄の中に初め浅き等活地獄を尋ぬれば此の一閻浮提の下一千由旬なり、其の中の罪人は互に常に害心をいだけりもしたまたま相見れば猟師が鹿にあへるが如し各各鉄の爪を以て互につかみさく血肉皆尽きて唯残つて骨のみあり或は獄卒棒を以て頭よりあなうらに至るまで皆打ちくだく身も破れくだけて猶沙の如し、焦熱なんど申すは譬えんかたなき苦なり鉄城四方に回つて門を閉じたれば力士も開きがたく猛火高くのぼつて金翅のつばさもかけるべからず、餓鬼道と申すは其の住処に二あり一には地の下五百由旬の閻魔王宮にあり、二には人天の中にもまじはれり其の相種種なり或は腹は大海の如くのんどは鍼の如くなれば明けても暮れても食すともあくべからず、まして五百生・七百生なんど飲食の名をだにもきかず或は己が頭をくだきて脳を食するもあり或は一夜に五人の子を生んで夜の内に食するもあり、万菓林に結べり取らんとすれば悉く剣の林となり万水大海に流入りぬ飲んとすれば猛火となる如何にしてか此の苦をまぬがるべき、次に畜生道と申すは其の住所に二あり根本は大海に住す枝末は人天に雑れり短き物は長き物にのまれ小き物は大なる物に食はれ互に相食んでしばらくもやすむ事なし。

或は鳥獣と生れ或は牛馬と成つても重き物をおほせられ西へ行かんと思へば東へやられ東へ行かんとすれば西へやらる山野に多くある水と草をのみ思いて余は知るところなし、然るに善男子・善女人・此の法華経を持ち南無妙法蓮華経と唱え奉らば此の三罪を脱るべしと説き給へり何事か是にしかん・たのもしきかな・たのもしきかな、又五の巻に云く「我れ大乗教を闡いて苦の衆生を度脱す」と心はわれ大乗の教をひらいてと申すは法華経を申す苦の衆生とは何ぞや地獄の衆生にもあらず餓鬼道の衆生にもあらず只女人を指して苦の衆生と名けたり。

五障三従と申して三つしたがふ事有つて五つの障りあり竜女我女人の身を受けて女人の苦をつみしれり然れば余をば知るべからず女人を導かんと誓へり。
南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

   日蓮 花押








by johsei1129 | 2016-06-02 20:25 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2016年 05月 30日

此の十二因縁を如法に信じ持てば即身成仏疑ひ無し。此の十二因縁より外に仏法無し即ち法華経なりと我が身を知る 故なり。是をしらざるは即ち謗法なり、と説いた【十二因縁御書】

【十二因縁御書】
■出筆時期:康元元年建長七年(1256年)三十五歳御作。
■出筆場所:鎌倉 松葉ヶ谷の草庵と思われます。
■出筆の経緯:本抄は立宗三年後に著された書で、日連大聖人は弟子・信徒教化のため、法華経で説かれている十二因縁について詳しく講説なされておられます。
尚この年(康元元年)には、後に大聖人門下の中心的な強信徒となる四条金吾、工藤吉高(小松原法難で大聖人を守り殉死)、池上兄弟の兄・池上宗仲等が大聖人に帰依しております。
■ご真筆:現存しておりません。

【十二因縁御書 本文】
凡そ成仏とは、我が身を知るを仏に成るとは申すなり。我が身を知るとは、本よりの仏と知るを云ふなり。一切衆生螻蟻蚊虻まで生を受くる程のもの、身体は六根・六境・六識の十八界をもて組み立てたる身なり。此の衆生は五陰和合の身なり。釈に云はく「五陰和合を名づけて衆生と為す」と。此の五陰は十二因縁なる故なり。

其の十二因縁とは、無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死。此の十二因縁をば三世両重の因果と云ふ。初・八・九此の三つは煩悩なり。第二・第十此の二つは業なり。識・名色・六入・触・受・生・老死、此の七つは皆是苦なり。

十二因縁とは煩悩・業・苦の三道なり。無明・行の二つは過去の二因なり。識・名色・六入・触・受の五つは現在の五果なり。愛・取・有の三つは現在の三因なり。生・老死の二つは未来の両果なり。身に三つとは殺・盗・婬苦。口に四つとは悪口・両舌・妄語・綺語なり業。意に三つとは貪・瞋・癡煩悩。

此の十二因縁を如法に信じ持てば即身成仏疑ひ無し。此の十二因縁より外に仏法無し即ち法華経なりと我が身を知る故なり。是をしらざるは即ち謗法なり。「若人不信毀謗此経則断一切世間仏種」とは是なり。我
が身より外に別に仏無く、法華経無きなり。

縁起・非縁生は過去の二支、縁生・非縁起は未来の二支、縁起・縁生は中間の八支、非縁起・非縁生は無為の法なり。十二時とは、無明は過去の諸結の時なり。行は是過去の諸行の時なり。識は是相続心及び眷属の時なり。名色とは已に受生相続、未だ四種の色根を生ぜず、六入未だ具せざる時なり。胎内の五位とは、一には歌羅邏、二には阿浮曇、三には閉尸、四には健南、五には波羅奢伽。此くの如く胎外に生じて人と成る、是を衆生とするなり。

決の六に云はく「頭の円かなるは天に象る、足の方なるは地に象る、身内の空種なるは即ち是虚空なり。腹の温かきは春夏に法り、背の剛きは秋冬に法る。四体は四時に法る。大節の十二は十二月に法り、小節の三百六十は三百六十日に法る。鼻の息の出入するは山沢渓谷の中の風に法り、口の息の出入は虚空の中の風に法り、眼は日月に法り開閉するは昼夜に法り、髪は星辰に法り、眉は北斗に法り、脈は江河に法り、骨は玉石に法り、肉は土地に法り、毛は叢林に法り、五臓は天に在っては五星に法り、地に在っては五岳に法る」と。
身の肉は土、骨の汁は水、血は火、皮は風、筋は木。人の六根は、眼は物の色を見、耳は物の声をきく、鼻は物の香をかぐ、舌は一切の物の味をしる。身は一切の寒・熱・麁・細にふれて苦痛するなり。此の五根の功能は現に目に見えしる間やすし。第六の意と知云ふ物は、一切衆生我等が身中に持ちながら都て之を知らざるなり。我が心さへ知らず見ず、況んや人の上をや。当座の人々知ろし食されんや。仏も心をば不思議と仰せられたり。況んや其の已下をや。知らざる故は、此の心は長・短・方・円の形を離れたり、青・黄・赤・白・黒の色にも非ず、言語道断心行所滅の法なり。行住坐臥、語黙作々、因縁表白の喩ふべきに非ず。絵に書き作り出だすべき物にも非ず、是を習学する物にも非ず、仏より記?せられたることもなし、神の託宣に承る事もなし、親・師匠の手より譲られたる事もなし。天よりふり、地より涌きたるものにも非ず。極大不思議の物なり。

かゝるくせものなるを天台・妙楽二聖人の御釈、玄文に云はく「心は幻焔の如し、但曲者名字のみ有り、之を名づけて心と為す。適其れ有りと言はんとすれば色質を見ず。適其れ無しと言はんとすれば復慮想起こる。有無を以て思度すべからざるが故に、故に心を名づけて妙と為す。妙心軌るべし、之を称して法と為す。
心法は因に非ず果に非ず。能く理の如く観ずれば即ち因果を弁ふ。是を蓮華と名づく。一心、観を成ずるに由って亦転じて余心を教ふ、之を名づけて経と為す」と。

籤に云はく「有と言はゞ則ち一念都て無し。況んや十界の質像有らんや。無と言はゞ則ち復三千の慮想を起こす。況んや一界の念慮をや。此の有無を以て思ふべからざるが故に、則ち一念の心、中道なること冷然なり。故に知んぬ、心は是妙なり」と。

爰に知んぬ、我等が心は法華経なり、法華経なりと。法華経をしらざるは即ち我が身をしらざるなり。所謂、身を知らざる者あり、移宅に妻を忘れたる是なりと。されば仏にならざる者あり、後世の為に法華経を忘れたる者是なり。故に法華経を信ぜず謗る者は、諸仏に背き、諸天に背き、父母に背き、主師に背き、山に背き、海に背き、日月に背き、一切の物に背くなり。薬王の十喩見合はすべし。玄に云はく「眼・耳・鼻・舌皆是寂静の門なり。此を離て別に寂静の門無し」と。籤に云はく「実相常住は天の甘露の如く是不死の薬なり。今妙法を釈して能く実相に通ず、故に名づけて門と為す」と。寂静とは法華経なり。甘露とは法華経なり。止の三に云はく「如来の無礙智慧の経巻は具に衆生の身中に在り。けい倒して之を覆ひて信ぜず見えざるなり」と。

倩物の心を案ずるに、一切衆生等の六根は悉く法華経の体なりけりと、能く能く目をとぢ、心をしづめてつくづく御意得候へ。心が法華経の体ならんには、五根が法華の閉体にてある事は疑ひ無し。心は王なり、五根は眷属なり。目に見、耳に聞く等の事は、心がみせきかせするなり。五根の振る舞ひは併ら心が計らひなり。物を見るも心が所作なれば眼も法華経なり。耳に聞くも心が計らひなれば、耳即ち法華経なり。余根以
て之に同じ。死ねば随ひて五根も去る。五根の当体は死ねども其の形は滅せず。然れども心がなければ、いつか死人の物を見聞くや。譬へに合せん、法華を謗るもの亦是くの如し。我等が心法華にてあるを、而も法華を謗って心を失するは六根不具なり。法華経の心を失して爾前経立つべきや。法華を謗り不信にては、爾前諸宗等の小乗権法等は、心去りたる死骸にてこそあらめ云云。

今法華宗は法華経と云ふ我等が心を捨てざれば、死骸六根随って失せず。心即ち五根、五根即ち心なれば、心法成仏すれば色法共に成仏す。色心不二にして内外相具せり云云。

釈に云はく「蓮華の八葉は彼の八教を表はし、蓮台の唯一なるは八の一に帰するを表はす。一の中の八、八の中の一、常に一常に八、唯一唯八、一と成り八と成る、前無く後無し」と。止に云はく「夫一心に十法界を具す、介爾も心有れば即ち三千を具す」と。

弘に云はく「一身一念法界に遍し」と。義に云はく「三千と云ふも、法界と云ふも、法華経の異名なり」と。経に云はく「閻浮提の内に広く流布せしむ」と。閻浮とは天地なり、父母なり。又云はく「閻浮提の人の病の良薬」と。良薬は天地、父母なり。此くの如く我等衆生が身は併ら法華の体にて有るを、全く法華経を他国異朝の物と思ひ、天地水火の様に余処余処に思ひ作すなり。加様に目出たく貴き身を捨て終はりて、剰
へ謗じて悪処に落ちんは、浅猿く口惜しかるべきなり。

されば信じて我が身のいみじきやうは、六の巻随喜功徳品にあり。謗じて我が身の悪しき様は八の巻普賢品にあり。普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり。此の経を持つ者は即ち仏身を持ちて即ち仏事を行ずるなり」云云。譬喩品に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」と。普賢経に云はく「諸仏如来真実の法の子なり、汝大乗を行じて法種を断ぜざれ」云云。

日蓮花押






by johsei1129 | 2016-05-30 20:29 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2016年 05月 28日

浄土宗には現在の父たる教主釈尊を捨て他人たる阿弥陀仏を信ずる故に五逆罪の咎に依つて必ず無間大城に堕つ可き なり、と断じられた【念仏無間地獄抄】

【念仏無間地獄抄】
■出筆時期:建長七年(1255年)三十四歳御作。
■出筆場所:鎌倉 松葉ヶ谷の草庵と思われます。
■出筆の経緯:本抄は立宗二年後に著された書で、弟子・信徒教化のため、当時の民衆に広範囲に広まっていた法然の念仏(浄土)宗を厳しく破析した書となります。
大聖人は冒頭で「念仏は無間地獄の業因なり法華経は成仏得道の直路なり。早く浄土宗を捨て法華経を持ち生死を離れ菩提を得可き事」と断じられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【念仏無間地獄抄 本文】
念仏は無間地獄の業因なり法華経は成仏得道の直路なり。早く浄土宗を捨て法華経を持ち生死を離れ菩提を得可き事法華経第二譬喩品に云く「若人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん、其の人命終して阿鼻獄に入らん、一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん」云云 此の文の如くんば方便の念仏を信じて真実の法華を信ぜざらん者は無間地獄に堕つ可きなり念仏者云く我等が機は法華経に及ばざる間信ぜざる計りなり毀謗する事はなし何の科に地獄に堕つ可きか、法華宗云く信ぜざる条は承伏なるか、次に毀謗と云うは即不信なり信は道の源功徳の母と云へり菩薩の五十二位には十信を本と為し十信の位には信心を始と為し諸の悪業煩悩は不信を本と為す云云、然ば譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為せり今の念仏門は不信と云い誹謗と云い争か入阿鼻獄の句を遁れんや、其の上浄土宗には現在の父たる教主釈尊を捨て他人たる阿弥陀仏を信ずる故に五逆罪の咎に依つて必ず無間大城に堕つ可きなり、経に今此の三界は皆是我有なりと説き給うは主君の義なり其の中の衆生悉く是れ吾子と云うは父子の義なり而るに今此の処は諸の患難多し、唯我一人能く救護を為すと説き給うは師匠の義なり而して釈尊付属の文に此法華経をば付属有在と云云何れの機か漏る可き誰人か信ぜざらんや、而るに浄土宗は主師親たる教主釈尊の付属に背き他人たる西方極楽世界の阿弥陀如来を憑む故に主に背けり八逆罪の凶徒なり違勅の咎遁れ難し即ち朝敵なり争か咎無けんや、次に父の釈尊を捨つる故に五逆罪の者なり豈無間地獄に堕ちざる可けんや、次に師匠の釈尊に背く故に七逆罪の人なり争か悪道に堕ちざらんや此の如く教主釈尊は娑婆世界の衆生には主師親の三徳を備て大恩の仏にて御坐す此の仏を捨て他方の仏を信じ弥陀薬師大日等を憑み奉る人は二十逆罪の咎に依つて悪道に堕つ可きなり。

浄土の三部経とは釈尊一代五時の説教の内第三方等部の内より出でたり、此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず三世諸仏出世の本懐にも非ず唯暫く衆生誘引の方便なり譬えば塔をくむに足代をゆふが如し念仏は足代なり法華は宝塔なり法華を説給までの方便なり法華の塔を説給て後は念仏の足代をば切り捨べきなり、然るに法華経を説き給うて後念仏に執著するは塔をくみ立て後足代に著して塔を用ざる人の如し豈違背の咎無からんや、然れば法華の序分 ・無量義経には四十余年未顕真実と説給て念仏の法門を打破り給う、正宗法華経には正直捨方便・但説無上道と宣べ給て念仏三昧を捨て給う之に依て阿弥陀経の対告衆長老・舎利弗尊者・阿弥陀経を打捨て法華経に帰伏して華光如来と成り畢んぬ、四十八願付属の阿難尊者も浄土の三部経を抛て法華経を受持して山海慧自在通王仏と成り畢んぬ、阿弥陀経の長老舎利弗は千二百の羅漢の中に智慧第一の上首の大声聞・閻浮提第一の大智者なり肩を並ぶる人なし、阿難尊者は多聞第一の極聖・釈尊一代の説法を空に誦せし広学の智人なり、かかる極位の大阿羅漢すら尚往生成仏の望を遂げず仏在世の祖師此くの如し祖師の跡を踏む可くば三部経を抛ちて法華経を信じ無上菩提を成ず可き者なり。

仏の滅後に於ては祖師先徳多しと雖も大唐楊州の善導和尚にまさる人なし唐土第一の高祖なり云云、始は楊州の明勝と云える聖人を師と為して法華経を習たりしが道綽禅師に値つて浄土宗に移り法華経を捨て念仏者と成れり一代聖教に於て聖道浄土の二門を立てたり法華経等の諸大乗経をば聖道門と名く自力の行と嫌えり聖道門を修行して成仏を願わん人は百人にまれに一人二人千人にまれに三人五人得道する者や有んずらん乃至千人に一人も得道なき事も有るべし観経等の三部経を浄土門と名け此の浄土門を修行して他力本願を憑んで往生を願わん者は十即十生百即百生とて十人は十人百人は百人決定往生す可しとすすめたり、観無量寿経を所依と為して四巻の疏を作る玄義分・序分義・定善義・散善義是なり、其の外法事讃上下・般舟讃・往生礼讃・観念法門経此等を九帖の疏と名けたり、善導念仏し給へば口より仏の出給うと云つて称名念仏一遍を作すに三体づつ口より出給けりと伝へたり、毎日の所作には阿弥陀経六十巻・念仏十万遍是を欠く事なし、諸の戒品を持つて一戒も破らず三依は身の皮の如く脱ぐ事なく鉢〓は両眼の如く身を離さず精進潔斎す女人を見ずして一期生不眠三十年なりと自歎す、凡そ善導の行儀法則を云へば酒肉五辛を制止して口に齧まず手に取らず未来の諸の比丘も是くの如く行ずべしと定めたり、一度酒を飲み肉を食い五辛等を食い念
仏申さん者は三百万劫が間地獄に堕す可しと禁しめたり、善導が行儀法則は本律の制に過ぎたり、法然房が起請文にも書載たり、一天四海善導和尚を以て善知識と仰ぎ貴賤上下皆悉く念仏者と成れり・但し一代聖教の大王・三世諸仏の本懐たる法華の文には若し法を聞くこと有らん者は無一不成仏と説き給へり、善導は法華経を行ぜん者は千人に一人も得道の者有る可からずと定む何れの説に付く可きか、無量義経には念仏をば未顕真実とて実に非ずと言ふ法華経には正直捨方便但説無上道とて正直に念仏の観経を捨て無上道の法華経を持つ可しと言ふ此の両説水火なり何れの辺に付く可きや善導が言を信じて法華経を捨つ可きか法華経を信じて善導の義を捨つ可きか如何、夫れ一切衆生皆成仏道の法華経、一たび法華経を聞かば決定して菩提を成ぜんの妙典善導が一言に破れて千中無一虚妄の法と成り、無得道教と云はれ平等大慧の巨益は虚妄と成り多宝如来の皆是真実の証明の御言妄語と成るか十方諸仏の上至梵天の広長舌も破られ給ぬ、三世諸仏の大怨敵と為り十方如来成仏の種子を失う大謗法の科甚重し大罪報の至り無間大城の業因なり、之に依つて忽に物狂いにや成けん所居の寺の前の柳の木に登りて自ら頚をくくりて身を投げ死し畢んぬ邪法のたたり踵を回さず冥罰爰に見たり、最後臨終の言に云く此の身厭う可し諸苦に責められ暫くも休息無しと即ち所居の
寺の前の柳の木に登り西に向い願つて曰く仏の威神以て我を取り観音勢至来つて又我を扶けたまえと唱え畢つて青柳の上より身を投げて自絶す云云、三月十七日くびをくくりて飛たりける程にくくり縄や切れけん柳の枝や折れけん大旱魃の堅土の上に落て腰骨を打折て、二十四日に至るまで七日七夜の間悶絶躄地しておめきさけびて死し畢ぬ、さればにや是程の高祖をば往生の人の内には入れざるらんと覚ゆ此事全く余宗の誹謗に非ず法華宗の妄語にも非ず善導和尚自筆の類聚伝の文なり云云、而も流を酌む者は其の源を忘れず法を行ずる者は其の師の跡を踏む可し云云浄土門に入つて師の跡を踏む可くば臨終の時善導が如く自害有る可きか、念仏者として頚をくくらずんば師に背く咎有る可きか如何。

日本国には法然上人浄土宗の高祖なり十七歳にして一切経を習極め天台六十巻に渡り、八宗を兼学して一代聖教の大意を得たりとののしり、天下無雙の智者山門第一の学匠なり云云、然るに天魔や其の身に入にけん広学多聞の智慧も空く諸宗の頂上たる天台宗を打捨て八宗の外なる念仏者の法師と成りにけり大臣公卿の身を捨て民百姓と成るが如し、選択集と申す文を作つて一代五時の聖教を難破し念仏往生の一門を立てたり、仏説法滅尽経に云く五濁悪世には魔道興盛し魔沙門と作つて我が道を壊乱し悪人転た海中の沙の如く善人甚だ少くして若は一人若は二人ならん云云即ち法然房是なりと山門の状に書かれたり。

我が浄土宗の専修の一行をば五種の正行と定め権実顕密の諸大乗をば五種の雑行と簡て浄土門の正行をば善導の如く決定往生と勧めたり、観経等の浄土の三部経の外・一代顕密の諸大乗経・大般若経を始と為して終り法常住経に至るまで貞元録に載する所の六百三十七部・二千八百八十三巻は皆是千中無一の徒物なり永く得道有る可からず、難行・聖道門をば門を閉じ之を抛ち之を閣き之を捨て・浄土門に入る可しと勧めたり、一天の貴賤首を傾け四海の道俗掌を合せ或は勢至の化身と号し或は善導の再誕と仰ぎ一天四海になびかぬ木草なし、智慧は日月の如く世間を照して肩を並ぶる人なし名徳は一天に充ちて善導に超え曇鸞・道綽にも勝れたり貴賤・上下・皆選択集を以て仏法の明鏡なりと思い道俗・男女悉く法然房を以て生身の弥陀と仰ぐ、然りと雖も恭敬供養する者は愚癡迷惑の在俗の人・帰依渇仰する人は無智放逸の邪見の輩なり、権者に於ては之を用いず賢哲又之に随うこと無し。

然る間斗賀尾の明慧房は天下無雙の智人・広学多聞の明匠なり、摧邪輪三巻を造つて選択の邪義を破し、三井寺の長吏・実胤大僧正は希代の学者・名誉の才人なり浄土決疑集三巻を作つて専修の悪行を難じ、比叡山の住侶・仏頂房・隆真法橋は天下無雙の学匠・山門探題の棟梁なり弾選択上下を造つて法然房が邪義を責む、しかのみならず南都・山門・三井より度度奏聞を経て法然が選択の邪義亡国の基為るの旨訴え申すに依つて人王八十三代・土御門院の御宇・承元元年二月上旬に専修念仏の張本たる安楽・住蓮等を捕縛え忽ちに頭を刎ねられ畢んぬ、法然房源空は遠流の重科に沈み畢んぬ、其の時・摂政左大臣家実と申すは近衛殿の御事なり此の事は皇代記に見えたり誰か之を疑わん。
しかのみならず法然房死去の後も又重ねて山門より訴え申すに依つて人皇八十五代・後堀河院の御宇嘉禄三年京都六箇所の本所より法然房が選択集・並に印版を責め出して大講堂の庭に取り上げて三千の大衆会合し三世の仏恩を報じ奉るなりとて之れを焼失せしめ法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之れを掘り出して鴨河に流され畢んぬ。
宣旨・院宣・関白殿下の御教書を五畿・七道に成し下されて、六十六箇国に念仏の行者・一日片時も之れを置く可からず対馬の島に追い遣る可きの旨諸国の国司に仰せ付けられ畢んぬ、此等の次第・両六波羅の注進状・関東相模守の請文等明鏡なる者なり。

嘉禄三年七月五日に山門に下さるる宣旨に云く。
専修念仏の行は諸宗衰微の基なり、茲に因つて代代の御門・頻に厳旨を降され殊に禁遏を加うる所なり、而るを頃年又興行を構へ山門訴え申さしむるの間・先符に任せて仰せ下さるること先に畢んぬ、其の上且は仏法の陵夷を禁ぜんが為且は衆徒の欝訴を優に依つて其の根本と謂うを以て隆寛・成覚・空阿弥陀仏等其の身を遠流に処せしむ可きの由・不日に宣下せらるる所なり、余党に於ては其の在所を尋ね捜して帝土を追却す可きなり、此の上は早く愁訴を慰じて蜂起を停止す可きの旨・時刻を回さず御下知有る可く候、者綸言此の如し頼隆・誠恐・頓首謹言。
七月五日酉刻 右中弁頼隆奉わる
進上天台座主大僧正御房政所

同七月十三日山門に下さるる宣旨に云く。
専修念仏興行の輩を停止す可きの由・五畿七道に宣下せられ畢んぬ、且御存知有る可く候綸言此の如く之を悉にす・頼隆・誠恐・頓首謹言。
七月十三日 右中弁頼隆奉わる
進上天台座主大僧正御房政所

殿下御教書
専修念仏の事、五畿七道に仰せて永く停止せらる可きの由・先日宣下せられ候い畢んぬ、而るを諸国に尚其の聞え有り云云、宣旨の状を守つて沙汰致す可きの由・地頭守護所等に仰せ付けらる可きの旨・山門訴え申し候、御存知有る可く候、此の旨を以て沙汰申さしめ給う可き由・殿下の御気色候所なり、仍て執達件の如し。
嘉禄三年十月十日 参議範輔在り判
武 蔵 守 殿

永尊竪者の状に云く、此の十一日に大衆僉議して云く法然房所造の選択は謗法の書なり天下之を止め置く可からず、仍て在在所所の所持並に其の印板を大講堂に取り上げて三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしめ畢んぬ、又云く法然上人の墓所をば感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしめ畢んぬ。

嘉禄三年十月十五日・隆真法橋申して云く専修念仏は亡国の本為る可き旨文理之有りと。
山門より雲居寺に送る状に云く、邪師源空・存生の間には永く罪条に沈み滅後の今は且死骨を刎ねられ、其の邪類・住蓮・安楽・死を原野に賜い成覚・薩生は刑を遠流に蒙る殆ど此の現罰を以て其の後報を察す可し云云。
嗚呼世法の方を云えば違勅の者と成り帝王の勅勘を蒙り今に御赦免の天気之れ無し心有る臣下万民・誰人か彼の宗に於て布施供養を展ぶ可きや、仏法の方を云えば正法誹謗の罪人為り無間地獄の業類なり何れの輩か念仏門に於て恭敬礼拝を致す可きや、庶幾くば末代今の浄土宗・仏在世の祖師・舎利弗・阿難等の如く浄土宗を抛つて法華経を持ち菩提の素懐を遂ぐ可き者か。

日 蓮 花 押








by johsei1129 | 2016-05-28 23:21 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2016年 05月 22日

法華経弘通の法軌「衣座室の三軌」を詳細に講説した書【衣座室御書】

【衣座室御書】
■出筆時期:正嘉元年(1257) 三十六歳御作
■出筆場所:鎌倉 松葉ヶ谷の草庵と思われます。
■出筆の経緯:本抄は法華経・法師品第十に説かれている釈迦滅後の法華経弘通の方法を示した「衣座室の三軌」について、弟子信徒の教化のために詳細に講説された書と思われます。
■ご真筆:現存しておりません。

【衣座室御書 本文】

法師品に云はく「薬王其れ法華経を読誦すること有らん者は、当に知るべし、
是の人は仏[仏とは如来なり]の荘厳を以て自ら荘厳するなり」と。
|
戒聖行円頓戒
定聖行円頓定
慧聖行円頓慧

玄義の四に云はく「文に云はく、如来荘厳而自荘厳とは、即ち円の聖行なり」と。
法師品に云はく「如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し応に四衆の為に広く斯の経を説くべし」と。

経釈に云はく「如来の室[梵行の中の慈悲喜なり]とは一切衆生の中の大慈悲心是なり」と。
玄義に云はく「如来の室とは即ち円の梵行なり」と。

法師品に云はく「如来の衣とは柔和[嬰児行]忍辱[病行]の心是なり」と。
玄義の四に云はく「如来の衣に二種あり。柔和は即ち円の嬰児行なり。忍辱は即ち円の病行なり」と。

法師品に云はく「如来の座とは一切法空是なり」と。玄義の四に云はく「如来の座とは即ち円の天行なり」と。
十信、十住、十行、十回向

別教

初地の五地---不動地--戒       天行は、二地已上
---堪忍地--定|----聖行   嬰児行・病行は、五地の菩薩、
---無畏地--慧       天行の菩薩の示現なり。


---一子地--慈悲喜
|----梵行
---空平等地--捨


初住の五地---不動地--円戒
---堪忍地--円定|---名字
---無畏地--円慧

---一子地--円慈悲喜--観行
---空平等地--円捨--相似


日蓮花押


【妙法蓮華経 法師品第十】
薬王若有善男子。善女人。如来滅後。欲為四衆。
説是法華経者云何応説。是善男子。善女人。
入如来室。著如来衣。坐如来座。爾乃応為四衆。広説斯経。
如来室者。一切衆生中。大慈悲心是。如来衣者。柔和忍辱心是。
如来座者。一切法空是。安住是中。然後以不懈怠心。
為諸菩薩及四衆。広説是法華経。

[和訳]
薬王(菩薩)よ、若し善男子・善女人ありて如来の滅後に
四衆(比丘・比丘尼・俗男女信徒)の為に、是の法華経を説かんと欲せば、如何にして説かん。
是、善男子・善女人よ、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に坐して、
爾してまさに四衆の為に広く斯の経を説くべし。
如来の室とは一切衆生の中における大慈悲心、是なり。如来の衣とは、柔和忍辱の心、是なり。
如来の座とは、一切法は空、是なり。是の中に安住し、然後に懈怠なき心を以て、諸の菩薩及四衆の為に、広く是の法華経を広務べし。




by johsei1129 | 2016-05-22 00:07 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2016年 05月 19日

四十余年の文、二乗作仏を許さずんば菩薩の成仏も又之無きなり、と説かれた【爾前二乗菩薩不作仏事】

【爾前二乗菩薩不作仏事】
■出筆時期:正元元年(1259年) 三十八歳御作
■出筆場所:駿河国・岩本実相寺と思われます。
■出筆の経緯:緯:本抄は実相寺で一切経を読了された過程でしたためられた立宗初期の法門の一つで、弟子・信徒教化のためにしたためられたと思われます。内容は法華経以前の爾前経では二乗(声聞・縁覚)及び菩薩の成仏は叶わないと講説されておられます。
■ご真筆:身延久遠寺に存在していたが明治八年の大火で焼失。

【爾前二乗菩薩不作仏事 本文】
問うて云く二乗永不成仏の教に菩薩の作仏を許す可きや、答えて云く楞伽経第二に云く「大慧何者か無性乗なる、謂く一闡提なり・大慧・一闡提とは涅槃の性無し何を以ての故に解脱の中に於て信心を生ぜず涅槃に入らず、大慧・一闡提とは二種あり何等をか二と為す一には一切の善根を梵焼す二には一切衆生を憐愍して一切衆生界を尽さんとの願を作す大慧・云何が一切の善根を梵焼する謂く菩薩蔵を謗じて是くの如きの言を作す、彼の修多羅・毘尼・解脱の説に随順するに非ず諸の善根を捨つと是の故に涅槃を得ず、大慧・衆生を憐愍して衆生界を尽さんとの願を作す者是を菩薩と為す、大慧・菩薩は方便して願を作す若し諸の衆生の涅槃に入らざる者あらば我も亦涅槃に入らずと是の故に菩薩摩訶薩涅槃に入らず、大慧・是を二種の一闡提無涅槃性と名く是の義を以ての故に決定して一闡提の行を取る、

大慧菩薩・仏に白して言く世尊・此の二種の一闡提何等の一闡提か常に涅槃に入らざる、仏・大慧に告げたまわく菩薩摩訶薩の一闡提は常に涅槃に入らず何を以ての故に能善く一切諸法・本来涅槃なりと知るを以て是の故に涅槃に入らず一切の善根を捨つる闡提には非ず、何を以ての故に大慧彼れ一切の善根を捨つる闡提は若し諸仏・善知識等に値いたてまつれば菩提心を発し諸の善根を生じて便ち涅槃を証す」等と云云、此の経文に「若し諸の衆生涅槃に入らざれば我も亦涅槃に入らじ」等云云。

前四味の諸経に二乗作仏を許さず之を以て之を思うに四味諸経の四教の菩薩も作仏有り難きか、華厳経に云く「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きず」等と云云、一切の菩薩必ず四弘誓願を発す可し其の中の衆生無辺誓願度の願之を満せざれば無上菩提誓願証の願又成じ難し、之を以て之を案ずるに四十余年の文二乗に限らば菩薩の願又成じ難きか。

問うて云く二乗成仏之無ければ菩薩の成仏も之無き正き証文如何、答えて云く涅槃経三十六に云く「仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切に皆悉く之有らず是の故に名けて信不具足と為す」と三十六本三十二、此の文の如くんば先四味の諸菩薩は皆一闡提の人なり二乗作仏を許さず二乗の作仏を成ぜざるのみに非ず、将又菩薩の作仏も之を許さざる者なり、之を以て之を思うに四十余年の文二乗作仏を許さずんば菩薩の成仏も又之無きなり、一乗要決の中に云く「涅槃経三十六に云く仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ず一切皆悉く之有らず是の故に名けて信不具足と為すと三十六本三十二、第三十一に説く一切衆生及び一闡提に悉く仏性有りと信ずるを菩薩の十法の中の第一の信心具足と名くと、三十六本第三十、一切衆生悉有仏性を明すは是れ少分に非ず、若し猶堅く少分の一切なりと執せば唯経に違するのみに非ず亦信不具なり何に因つてか楽つて一闡提と作るや此れに由つて全分の有性を許すべし理亦一切の成仏を許すべし○」

慈恩の心経玄賛に云く「大悲の辺に約すれば常に闡提と為る大智の辺に約すれば亦当に作仏すべし、宝公の云く大悲闡提は是れ前経の所説なり前説を以て後説を難ず可からざるなり諸師の釈意大途之に同じ」文、金ぺいの註に云く「境は謂く四諦なり百界三千の生死は即ち苦なり此の生死即ち是れ涅槃なりと達するを衆生無辺誓願度と名く・百界三千に三惑を具足す此の煩悩即ち是れ菩提なりと達するを煩悩無辺誓願断と名く・生死即涅槃と円の仏性を証するは即ち仏道無上誓願成なり、惑即菩提にして般若に非ざること無ければ即ち法門無尽誓願知なり、惑智無二なれば生仏体同じ苦集唯心なれば四弘融摂す一即一切なりとは斯の言徴有り」文、慈覚大師の速証仏位集に云く「第一に唯今経の力用仏の下化衆生の願を満す故に世に出でて之を説く所謂諸仏の因位・四弘の願・利生断惑・知法作仏なり然るに因円果満なれば後の三の願は満ず、利生の一願甚だ満じ難しと為す彼の華厳の力十界皆仏道を成ずること能わず阿含・方等・般若も亦爾なり後番の五味・皆成仏道の本懐なる事能わず、今此の妙経は十界皆成仏道なること分明なり彼の達多無間に堕するに天王仏の記を授け竜女成仏し十羅刹女も仏道を悟り阿修羅も成仏の総記を受け人・天・二乗・三教の菩薩・円妙の仏道に入る、経に云く我が昔の所願の如きは今者已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむと云云、衆生界尽きざるが故に未だ仏道に入らざる衆生有りと雖も然れども十界皆成仏すること唯今経の力に在り故に利生の本懐なり」と云云。

又云く「第一に妙経の大意を明さば諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現し一切衆生・悉有仏性と説き聞法・観行・皆当に作仏すべし、抑仏何の因縁を以て十界の衆生悉く三因仏性有りと説きたもうや、天親菩薩の仏性論縁起分の第一に云く如来五種の過失を除き五種の功徳を生ずるが為の故に一切衆生悉有仏性と説きたもう已上謂く五種の過失とは一には下劣心・二には高慢心・三には虚妄執・四には真法を謗じ五には我執を起すなり、五種の功徳とは一には正勤・二には恭敬・三には般若・四には闍那・五には大悲なり、生ずること無しと疑うが故に大菩提心を発すこと能わざるを下劣心と名け、我に性有つて能く菩提心を発すと謂えるを高慢と名け、一切の法無我の中に於て有我の執を作すを虚妄執と名け一切諸法の清浄の智慧功徳を違謗するを謗真法と名け意唯己を存して一切衆生を憐むことを欲せざるを起我執と名く此の五に翻対して定めて性有りと知りて菩提心を発す」と。
日 蓮 花押








by johsei1129 | 2016-05-19 23:10 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2016年 05月 17日

弟子・信徒教化のため法華経の根幹の法門である『十二因縁』、『百界千如三千世間』、『三身(法・報・応)』をわかりやすく講説した書【一念三千理事】

【一念三千理事】
■出筆時期:正嘉二年(1258年) 三十七歳御作
■出筆場所:駿河国・岩本実相寺にてと思われます。
■出筆の経緯:大聖人は正嘉二年二月、駿河国・岩本実相寺に入り大蔵経(釈尊の一切経)を読まれ二年後に立正安国論として結実し北条時頼(最明寺入道)に献じ国家諌暁を果たします。また合わせて法華経の法門を初心の弟子・信徒の教化のため数多く述作されておられます。本書もその一つで、十二因縁、一念三千理事(百界千如三千世間)、三身((法・報・応))の事についてわかりやすく講説されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【一念三千理事 本文】

 十二因縁図、

問う流転の十二因縁とは何等ぞや答う一には無明倶舎に云く「宿惑の位は無明なり」文、無明とは昔愛欲の煩悩起りしを云うなり、男は父に瞋を成して母に愛を起す、女は母に瞋を成して父に愛を起すなり倶舎の第九に見えたり、二には行倶舎に云く「宿の諸業を行と名く」と文、昔の造業を行とは云うなり業に二有り、一には牽引の業なり我等が正く生を受く可き業を云うなり、二には円満の業なり余の一切の造業なり所謂足を折り手を切る先業を云うなり是は円満の業なり、三には識倶舎に云く「識とは正く生を結する蘊なり」文、
正く母の腹の中に入る時の五蘊なり、五蘊とは色受想行識なり亦五陰とも云うなり、四には名色倶舎に云く「六処の前は名色なり」文、五には六処倶舎に云く「眼等の根を生ずるより三和の前は六処なり」文、六処とは眼耳鼻舌身意の六根出来するを云うなり、六には触倶舎に云く「三受の因の異なるに於て未だ了知せざるを触と名く」文、

火は熱しとも知らず水は寒しとも知らず刀は人を切る物とも知らざる時なり、七には受倶舎に云く「婬愛の前に在るは受なり」文、寒熱を知つて未だ婬欲を発さざる時なり、八には愛倶舎に云く「資具と婬とを貪るは愛なり」文、女人を愛して婬欲等を発すを云うなり、九には取倶舎に云く「諸の境界を得んが為に?く馳求するを取と名く」文、今世に有る時世間を営みて他人の物を貪り取る時を云うなり、十には有倶舎に云く「有は謂く正しく
能く当有の果を牽く業を造る」文、未来又此くの如く生を受く可き業を造るを有とは云うなり、十一には生倶舎に云く「当の有を結するを生と名く」文、未来に正く生を受けて母の腹に入る時を云うなり、十二には老死倶舎に云く「当の受に至るまでは老死なり」文、生老死を受くるを老死憂悲苦悩とは云うなり。

 問う十二因縁を三世両重に分別する方如何、答う無明と行とは過去の二因なり識と名色と六入と触と受とは現在の五果なり愛と取と有とは現在の三因なり生と老死とは未来の両果なり、私の略頌に云く過去の二因[無明行]現在の五果[識名色六入触受]現在の三因[愛取有]未来の両果[生老死]と、問う十二因縁流転の次第如何、答う無明は行に縁たり行は識に縁たり識は名色に縁たり名色は六入に縁たり六入は触に縁たり触は受に縁たり
受は愛に縁たり愛は取に縁たり取は有に縁たり有は生に縁たり生は老死憂悲苦悩に縁たり是れ其の生死海に流転する方なり此くの如くして凡夫とは成るなり、問う還滅の十二因縁の様如何答う無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば則ち識滅す識滅すれば則ち名色滅す名色滅すれば則ち六入滅す六入滅すれば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す受滅すれば則ち愛滅す愛滅すれば則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す有滅すれば則ち生滅す生滅すれば則ち老死
憂悲苦悩滅す、是れ其の還滅の様なり仏は還つて煩悩を失つて行く方なり私に云く中有の人には十二因縁具に之無し又天上にも具には之無く又無色界にも具には之無し。

一念三千理事 

十如是とは如是相は身なり[玄二に云く相以て外に拠る覧て別つ可し文籤六に云く相は唯色に在り]文、如是性は心なり[玄二に云く性以て内に拠る自分改めず文籤六に云く性は唯心に在り]文、如是体は身と心となり[玄二に云く主質を名けて体となす]文、如是力は身と心となり[止に云く力は堪忍を用となす]文

如是作は身と心となり[止に云く建立を作と名く]文、如是因は心なり[止に云く因とは果を招くを因と為す亦名けて業となす]文、如是縁[止に云く縁は縁業を助くるに由る]文、如是果[止に云く果は剋獲を果と為す]
文、如是報[止に云く報は酬因を報と曰う]文、如是本末究竟等[玄二に云く初めの相を本と為し後ちの報を末と為す]文、三種世間とは五陰世間[止に云く十種陰果不同を以ての故に五陰世間と名くるなり]文、衆生世間[止に云く十界の衆生寧ろ異らざるを得る故に衆生世間と名くるなり]文、国土世間[止に云く十種の所居通じて国土世間と称す]文、五陰とは新訳には五蘊と云うなり陰とは聚集の義なり一に色陰五色是なり二に受陰領納
是なり三に相陰倶舎に云く想は像を取るを体と為すと文四に行陰造作是行なり五に識陰了別是れ識なり止の五に婆沙を引いて云く識先ず了別し次に受は領納し相は相貌を取り行は違従を起し色は行に由つて感ずと。

 百界千如三千世間の事、

十界互具即百界と成るなり、地獄[衆生世間十如是]五陰世間[十如是]国土世間[十如是地下赤鉄]、餓鬼[衆生世間十如是]五陰世間[十如是]国土世間[十如是地下]畜生[衆生世間十如是]五陰世間[十如是]国土世間[十如是水陸空]修羅[衆生世間十如是]五陰世間[十如是]国土世間[十如是海畔底]、人[衆生世間十如是]、五陰世間[十如是]国土世間[十如是須弥四州]、天[衆生世間十如是]五陰世間[十如是]国土世間[十如是宮殿]声聞[衆生世間十如是]五陰世間[十如是]国土世間[十如是同居土]、縁覚[衆生世間十如是]五陰世間[十如是]国土世間[十如是同居土]、菩薩[衆生世間十如是]五陰世間[十如是]国土世間[十如是同居方便実報]、仏[衆生世間十如是]五陰世間[十如是]国土世間[十如是寂光土]。

 止観の五に云く「心縁と合すれば則ち三種世間三千の性相皆心より起る」文、弘の五に云く「故に止観に正しく観法を明すに至つて並びに三千を以て指南と為す、乃ち是れ終窮究竟の極説なり故に序の中に説己心中所行の法門と云う良に以有るなり、請う尋ねて読まん者心に異縁無かれ」文、又云く「妙境の一念三千を明さずんば如何ぞ一に一切を摂ることを識る可けん、三千は一念の無明を出でず是の故に唯苦因苦果のみ有り」文、

又云く「一切の諸業十界百界千如三千世間を出でざるなり」文、籤の二に云く「仮は即ち衆生実は即ち五陰及び国土即ち三世間なり千の法は皆三なり故に三千有り」文、弘の五に云く「一念の心に於て十界に約せざれば事を収むること?からず三諦に約せざれば理を摂ること周からず十如を語らざれば因果備わらず三世間無んば依正尽きず」文

、記の一に云く「若三千に非ざれば摂ること?からず若し円心に非ざれば三千を摂せず」文、玄の二に云く「但衆生法は太だ広く仏法は太だ高し初学に於て難と為し心は則ち易しと為す」文、弘の五に云く「初に華厳を引くことは心の工なる画師の如く種種の五陰を造る一切世界の中に法として造らざること無し、心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり心仏及び衆生是の三差別無し若し人三世一切の仏を求め知らんと欲せば当に是くの如く
観ずべし心は諸の如来を造る」と、金?論に云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土なり」

 三身の事、

先ず法身とは大師大経を引いて「一切の世諦は若し如来に於ては即ち是第一義諦なり衆生顛倒して仏法に非ずと謂えり」と釈せり、然れば則ち自他依正魔界仏界染浄因果は異なれども悉く皆諸仏の法身に背く事に非ざれば善星比丘が不信なりしも楞伽王の信心に同じく般若蜜外道が意の邪見なりしも須達長者が正見に異らず、即ち知んぬ此の法身の本は衆生の当体なり、十方諸仏の行願は実に法身を証するなり、次に報身とは大師の云く「法如如の智如如真実の道に乗じ来つて妙覚を成ず智如の理に称う理に従つて如と名け智に従つて来と名く即ち報身如来なり盧舎那と名け此には浄満と翻ず」と釈せり、此れは如如法性の智如如真実の道に乗じて妙覚究竟の理智法界と冥合したる時理を如と名く智は来なり。






by johsei1129 | 2016-05-17 19:55 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2016年 05月 13日

大聖人が亡き父を弔う意味を込めて記されたと拝される書【一代聖教大意】

【一代聖教大意】
■出筆時期:正嘉二年(1258) 二月十四日 三十七歳御作。
■出筆場所:駿河国・岩本実相寺にてと思われます。
■出筆の経緯:大聖人は正嘉二年二月、駿河国・岩本実相寺に入り大蔵経(釈尊の一切経)を読まれ二年後に立正安国論として結実し北条時頼(最明寺入道)に献じ国家諌暁を果たします。また合わせて法華経の法門を初心の弟子・信徒の教化のため数多く述作されておられます。本書もその一つですが、この頃著された御書の大半は述作年月日が示されておりませんが、本御書のみ正嘉二年二月十四日と記されておられます。
この正嘉二年(1258) 二月十四日は、大聖人の父(妙日)が故郷安房の地で逝去された日であります。大聖人はその知らせを聞いても帰郷することなく岩本実相寺にて大蔵経の閲覧と法門の述作を続けられておられました。恐らく大聖人は亡き父を弔う意味を込めて本書に述作年月日を記されたのではと拝したいと思います。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日目上人筆(保田 妙本寺所蔵)
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[富士大石寺第三祖 日目上人筆写本]



【一代聖教大意 本文】
四教は一には三蔵教・二には通教・三には別教・四には円教なり。
始に三蔵とは阿含経の意なり・此の経の意は六道より外を明さず但し六道地餓畜修人天の内の因果の道理を明す、但し正報は十界を明すなり地・餓・畜・修・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏なり依報が六にて有れば六界と申すなり、

此の教の意は六道より外を明さざれば三界より外に浄土と申す生処ありと言わず又三世に仏は次第・次第に出世すとは云へども横に十方に並べて仏有りとも云わず、三蔵とは一には経蔵亦云定蔵二には律蔵亦云戒蔵三には論蔵亦云慧蔵なり但し経律論の定戒慧・戒定慧・慧定戒と云う事あるなり、戒蔵とは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒なり・定蔵とは味禅定名・浄禅・無漏禅なり・慧蔵とは・苦・空・無常・無我の智慧なり、戒定慧の勝劣と云うは但上の戒計りを持つ者は三界の内の欲界の人天に生を受くる凡夫なり、但し上の定計りを修する人は戒を持たざれども定の力に依つて上の戒を具するなり、此の定の内に味禅・浄禅は三界の内・色無色界へ生ず無漏禅は声聞・縁覚と成つて見思を断じ尽し灰身滅智するなり、慧は又苦・空・無常・無我と我が色心を観ずれば上の戒・定を自然に具足して声聞・縁覚とも成るなり、故に戒より定は勝れ定より慧は勝れたり、而れども此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり、されば阿含経を総結する遺教経には戒を説けるなり、此の教の意は依報には六界・正報には十界を明せども而も依報に随つて六界を明す経と名くるなり、又正報に十界を明せども縁覚・菩薩・仏も声聞の悟に過ぎざれば但声聞教とも申す、されば仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教なり、声聞に付いて七賢七聖の位あり、六道は凡夫なり。

一に五停心
三賢 二に別想念処 外凡
三に総想念処
七賢 智と言う事なり
一に〓法
四善根 二に頂法 内凡
三に忍法
四に世第一法
此の七賢の位は六道の凡夫より賢く生死を厭ひ煩悩を具しながら煩悩を発さざる賢人なり、例せば外典の許由巣父が如し。

一に数息 息を数えて散乱を治す
二に不浄 身の不浄を観じて貪欲を治す
五停心 三に慈悲 慈悲を観じて嫉妬を治す
四に因縁 十二因縁を観じて愚癡を治す
五に界方便 地水火風空識の六界を観じて障道を治す又は念仏と云う
一に身 外道は身を浄と言い仏は不浄と説き給う
別想念処 二に受 外道は三界を楽と言い仏は苦と説き給う
三に心 外道は心を常と言い仏は無常と説き給う
四に法 外道は一切衆生に我有りと云い仏は無我と説き給う

外道は常心楽受我法浄身仏は苦・不浄・無常・無我と説く総想念処とは先の苦・不浄・無常・無我を調練して観ずるなり〓法は智慧の火・煩悩の薪を蒸せば煙の立つなり故に〓法と云う、頂法は山の頂に登つて四方を見るに雲無きが如し、世間出世間の因果の道理を委く知つて闇き事無きに譬えたるなり、始め五停心より此の頂法に至るまで退位と申して悪縁に値へば悪道に堕つ而れども此の頂法の善根は失せずと習うなり、忍法は此の位に入る人は永く悪道に堕ちず、世第一法は此の位に至る賢人なり但今聖人と成る可きなり。
七聖三 正と言う事なり

一に見道 二 随信行 鈍根
随法行 利根
信解 鈍根
二に修道 三 見得 利根
身証 利鈍に亘る
三に無学道 阿羅漢
二 慧解脱 鈍根

倶解脱 利根見・思の煩悩を断ずる者を聖と云う、此の聖人に三道あり、見道とは見・思の内の見惑を断じ尽くす、此の見惑を尽くす人をば初果の聖者と申す、此の人は欲界の人・天には生るれども永く地・餓・畜・修の四悪趣には堕ちず、天台云く「見惑を破るが故に四悪趣を離る」文、此の人は未だ思惑を断ぜず貪・瞋・癡・有り、身に貪欲ある故に妻を帯す、而れども他人の妻を犯さず、瞋恚あれども物を殺さず、鋤を以て地をすけば虫・自然に四寸去る、愚癡なる故に我が身・初果の聖者と知らず、婆娑論に云く「初果の聖者は妻を八十一度・一夜に犯すと」取意天台の解釈に云く「初果地を耕すに虫四寸を離るるは道共の力なり」と、第四果の聖者・阿羅漢を無学と云ひ亦は不生と云う、

永く見思を断じ尽して三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず見思の煩悩無きが故なり、又此の教の意は三界六道より外に処を明さざれば生処有りと知らず・身に煩悩有りとも知らず又生因なく但灰身滅智と申して身も心もうせ虚空の如く成るべしと習う、法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは二乗是なり、此の教の修行の時節は声聞は三生鈍根六十劫利根又一類の最上利根の声聞一生の内に阿羅漢の位に登る事あり、縁覚は四生鈍根百劫利根菩薩は一向凡夫にて見思を断ぜず而も四弘誓願を発し六度万行を修し三僧祇・百大劫を経て三蔵教の仏と成る仏と成る時始めて見思を断尽するなり、見惑とは一には身見亦我見と云う二には辺見亦断見常見と云う三には邪見亦撥無見と云う四には見取見亦劣謂勝見と云う五には戒禁取見亦非因計因非道計道見と云うなり見惑は八十八有れども此の五が根本にて有るなり、思惑とは一には貪・二には瞋・三には癡・四には慢なり思惑は八十一有れども此の四が根本にて有るなり、此の法門は阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論に具に明せり、別して倶舎宗と申す宗有り又諸の大乗に此の法門少少明す事あり・謂く方等部の経・涅槃経等なり但し華厳・般若・法華には此の法門無し。

次に通教とは大乗の始なり又戒定慧の三学あり、此の教の意のおきて大旨は六道を出でず少分利根なる菩薩六道より外に推し出すことあり、声聞・縁覚・菩薩・共に一の法門を習い見思を三人共に断じ而も声聞・縁覚・灰身滅智の意に入る者もあり入らざる者もあり、此の教に十地あり。
一 乾慧地 三賢
二 性地 四善根 賢人
三 八人地 見道位聖人見惑を断ず
四 見地 初果の聖人十地
五 薄地
六 離欲地 思惑を断ず
七 已弁地 阿羅漢 見思を断じ尽す
八 辟支仏地 習気を尽す
九 菩薩地 誓つて習を扶けて生ずるなり
十 仏地 見思を断じ尽す

此通教の法門は別して一経に限らず方等経般若経心経観経阿弥陀経雙観経金剛般若等の経に散在せり、此通教の修行の時節は動踰塵劫を経て仏に成ると習うなり、又一類の疾く成ると云う辺もあり・已上・上の蔵通二教には六道の凡夫・本より仏性ありとも談ぜず始めて修すれば声聞・縁覚・菩薩・仏とおもひおもひに成ると談ずる教なり。
次に別教又戒定慧の三学を談ず此の教は但菩薩計りにて声聞縁覚を雑えず、菩薩戒とは三聚浄戒なり五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・梵網の五十八の戒・瓔珞の十無尽戒・華厳の十戒・涅槃経の自行の五支戒・護佗の十戒・大論の十戒・是等は皆菩薩の三聚浄戒の内・摂律儀戒なり、摂善法戒とは八万四千の法門を摂す、饒益有情戒とは四弘誓願なり定とは観練熏修の四種の禅定なり慧とは心生十界の法門なり、五十二位を立つ五十二位とは一に十信・二に十住・三に十行・四に十回向・五に十地等覚一位妙覚二位なり、已上五十二位。
十信 退位 凡夫菩薩未だ見思を断ぜず
十住 不退位
五十二位 十行
十回向 見思塵沙を断ぜる菩薩十地 無明を断ぜる菩薩等覚妙覚 無明を断じ尽せる仏なり
此の教は大乗なり戒定慧を明す・戒は前の蔵通二教に似ず尽未来際の戒・金剛宝戒なり、此の教の菩薩は三悪道を恐しとせず二乗道を恐る地・餓・畜等の三悪道は仏の種子を断ぜず二乗の道は仏の種子を断ずればなり、大荘厳論に云く「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障えず若し自利の心を起さば是れ大菩提の障なり」と、此の教の習は真の悪道とは三無為の火〓なり真の悪人とは二乗を云うなり、されば悪を造るとも二乗の戒をば持たじと談ず、故に大般若経に云く「若し菩薩設い恒河沙劫に妙なる五欲を受くるとも菩薩戒に於ては猶犯と名けずと・若し一念二乗の心を起さば即ち名けて犯と為す」文、此の文に妙なる五欲とは色・声・香・味・触の五欲なり・色欲とは青黛・珂雪・白歯等声欲とは絲竹管絃・香欲とは沈檀芳薫・味欲とは猪鹿等の味・触欲とは〓膚等なり、此に恒河沙劫に著すれども菩薩戒は破れず一念の二乗の心を起すに菩薩戒は破ると云える文なり、太賢の古迹に云く「貪に汚さるると雖も大心尽きざるをもつて無余の犯無し起せども無犯と名く」文、二乗戒に趣くを菩薩の破戒とは申すなり華厳・般若・方等総じて爾前の経にはあながちに二乗をきらうなり定慧此れを略す、梵網経に云く「戒をば謂いて大地と為し定をば謂いて室宅と為す智慧は為灯明なり」文、此の菩薩戒は人・畜・黄門・二形の四種を嫌わず但一種の菩薩戒を授く、此の教の意は五十二位を一一の位に多倶低劫を経て衆生界を尽して仏に成るべし一人として一生に仏に成る者無し、又一行を以て仏に成る事無し一切行を積んで仏と成る微塵を積んで須弥山と成すが如し、華厳・方等・般若・梵網・瓔珞等の経に此の旨分明なり、但し二乗界の此の戒を受くる事を嫌ふ、妙楽の釈に云く「〓く法華已前の諸経を尋ぬるに実に二乗作仏の文無し」文。

次に円教とは此の円教に二有り一には爾前の円・二には法華・涅槃の円なり、爾前の円に五十二位・又戒定慧あり、爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く「初発心の時便ち正覚を成ずと」又云く「円満修多羅」文、浄名経に云く「無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず」文、般若経に云く「初発心より即ち道場に坐す」文、観経に云く「韋提希時に応じて即ち無生法忍を得」文、梵網経に云く「衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり」文、此は皆爾前の円の証文なり、此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり、其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても仏に成る少少開会の法門を説く処もあり、所謂浄名経には凡夫を会し煩悩悪法も皆会す但し二乗を会せず、般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず、観経等の経に凡夫一毫の煩悩をも断ぜず往生すと説くは皆爾前の円教の意なり、法華経の円経は後に至つて書く可し已上四教。

次に五時、五時とは一には華厳経結経梵網経別円二教を説く、二には阿含結経遺教経但三蔵教の小乗の法門を説く、三には方等経・宝積経・観経等の説時を知らざる権大乗経なり結経瓔珞経、但し蔵・通・別・円の四教を皆説く、四には般若経結経仁王経通教・別教・円教の後三教を説く三蔵教を説かず、華厳経は三七日の間の説・阿含経は十二年の説・方等・般若は三十年の説、已上華厳より般若に至る四十二年なり、山門の義には方等は説時定まらず説処定まらず般若経三十年と申す、寺門の義には方等十六年・般若十四年と申す、秘蔵の大事の義には方等般若は説時三十年・但し方等は前・般若は後と申すなり、仏は十九出家・三十成道と定むる事は大論に見えたり、一代聖教五十年と申す事は涅槃経に見えたり、法華経已前・四十二年と申す事は無量義経に見えたり、法華経・八箇年と申す事は涅槃経の五十年の文と無量義経の四十二年の文の間を勘うれば八箇年なり、已上十九出家・三十成道・五十年の転法輪・八十入滅と定む可し、此等の四十二年の説教は皆法華経の汲引の方便なり、其の故は無量義経に云く「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり○方便力を以てす、四十余年には未だ真実を顕さず初に四諦を説き阿含経なり次に方等十二部経摩訶般若華厳海空を説く」文。

私に云く説の次第に順ずれば華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃なり、法門の浅深の次第を列ぬれば阿含・方等・般若・華厳・涅槃・法華と列ぬべし、されば法華経・涅槃経には爾くの如く見えたり華厳宗と申す宗は智厳法師・法蔵法師・澄観法師等の人師・華厳経に依つて立てたり、倶舎宗・成実宗・律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師・阿含経に依つて立てたり、法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等・方等部の内に上生経・下生経・成仏経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依つて立てたり、三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて吉蔵大師立て給へり、華厳宗と申すは華厳と法華涅槃は同じく円教と立つ余は皆劣と云うなる可し、法相宗には解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云う、三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり、

但し法相の依経・諸の小乗経は劣なりと立つ、此等は皆法華已前の諸経に依つて立てたる宗なり、爾前の円を極として立てたる宗どもなり、宗宗の人人の諍は有れども経経に依つて勝劣を判ぜん時はいかにも法華経は勝れたるべきなり、人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し。
五には法華経と申すは開経には無量義経一巻法華経八巻・結経には普賢経一巻上の四教・四時の経論を書き挙ぐる事は此の法華経を知らん為なり、法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きなり、爾前の諸経は一経・一経を習うに又余経を沙汰せざれども苦しからず、故に天台の御釈に云く「若し余経を弘むるには教相を明さざれども義に於て傷むこと無し若し法華を弘むるには教相を明さずんば文義闕くること有り」文、法華経に云く「種種の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」文、種種の道と申すは爾前一切の諸経なり仏乗の為とは法華経の為に一切の経を説くと申す文なり。

問う諸経の如きは或は菩薩の為或は人天の為或は声聞・縁覚の為機に随つて法門もかわり益もかわる此の経は何なる人の為ぞや、答う此の経は相伝に有らざれば知り難し所詮悪人・善人・有智・無智・有戒・無戒・男子・女子・四趣・八部総じて十界の衆生の為なり、所謂悪人は提婆達多・妙荘厳王・阿闍世王善人は韋提希等の人天の人・有智は舎利弗・無智は須利槃特・有戒は声聞・菩薩・無戒は竜・畜なり女人は竜女なり、総じて十界の衆生・円の一法を覚るなり此の事を知らざる学者・法華経は我等凡夫の為には有らずと申す仏意恐れ有り、此の経に云く「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経に属せり」文、此の文の菩薩とは九界の衆生・善人・悪人・女人・男子・三蔵教の声聞・縁覚・菩薩・通教の三乗・別教の菩薩・爾前の円教の菩薩・皆此の経の力に有らざれば仏に成るまじと申す文なり、又此の経に云く「薬王多く人有りて在家出家の菩薩の道を行ぜんに若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養することを得ること能わずんば当に知るべし是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず、若し是の経典を聞くことを得ること有らば乃ち能く菩薩の道を行ずるなりと」文、此の文は顕然に権教の菩薩の三祇・百劫・動踰塵劫・無量阿僧祇劫の間の六度万行・四弘誓願は此の経に至らざれば菩薩の行には有らず善根を修したるにも有らずと云う文なり、又菩薩の行無ければ仏にも成らざる事も顕然なり。

天台妙楽の末代の凡夫を勧進する文、文句に云く「好堅・地に処して牙已に百囲せり頻伽〓に在つて声衆鳥に勝れたり」文、此の文は法華経の五十展転の第五十の功徳を釈する文なり、仏苦に校量を説き給うに権教の多劫の修行・又大聖の功徳よりも此の経の須臾・結縁の愚人の随喜の功徳百千万億勝れたる事経に見えつれば此の意を大師譬を以て顕し給えり、好堅樹と申す木は一日に百囲にて高くをう、頻伽と申す鳥は幼だも諸の大小の鳥の声に勝れたり、権教の修行の久きに諸の草木の遅く生長するを譬へ、法華の行の速に仏に成る事を一日に百囲なるに譬へ、権教の大小の聖人をば諸鳥に譬へ法華の凡夫のはかなきを〓の声の衆鳥に勝るるに譬う、妙楽大師重ねて釈して云く「恐らくば人謬りて解せる者初心の功徳の大なることを測らずして功を上位に推り此の初心を蔑る故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕す」文、末代の愚者は法華経は深理にして・いみじけれども我等が下機に叶わずと言つて法を挙げ機を下して退する者を釈する文なり。

又妙楽大師末代に此の法の捨てられん事を歎いて云く「此の円頓を聞きて崇重せざる者は良に近代に大乗を習える者の雑濫するに由るが故なり、況や像末に情澆く信心寡薄に円頓の教法・蔵に溢れ函に盈れども暫くも思惟せず便ち目を瞑ぐに至る・徒に生じ徒に死す一に何ぞ痛ましきや有る人云く聞いて行ぜずんば汝に於て何ぞ預らん此れは未だ深く久遠の益を知らず、善住天子経の如き文殊舎利弗に告ぐ法を聞き謗を生じて地獄に堕つるは恒沙の仏を供養する者に勝れたり地獄に堕つと雖も地獄より出でて還つて法を聞くことを得ると、此れは仏を供し法を聞かざる者を以て校量と為り聞いて謗を生ずる尚遠種と為す況や聞いて思惟し勤めて修習せんをや」と、又云く「一句も神に染ぬれば咸く彼岸を資く思惟修習永く舟航に用いたり随喜見聞恒に主伴と為る、若は取・若は捨・耳に経て縁と成り或は順・或は違・終に斯れに因つて脱すと」文、私に云く若取・若捨・或順・或違の文は肝に銘ずるなり。

法華翻経の後記に云く釈僧肇記「什羅什三蔵なり姚興王に対して曰く予昔天竺国に在りし時〓く五竺に遊びて大乗を尋討し大師須梨耶蘇摩に従つて理味を餐受するに頂を摩でて此の経を属累して言く、仏日西に隠れ遺光東北を照らす〓の典東北諸国に有縁なり汝慎んで伝弘せよ」と文、私に云く天竺よりは此の日本は東北の州なり、慧心の一乗要決に云く「日本一州・円機純熟・朝野遠近・同じく一乗に帰し緇素貴賤悉く成仏を期す・唯一師等あつて若し信受せず権とや為ん実とや為ん権為らば責む可し」浄名に云く「衆の魔事を覚知して其行に随わず善力方便を以て意に随つて度すと実為らば憐む可し」此経に云く「当来世の悪人は仏説の一乗を聞いて迷惑して信受せず法を破して悪道に堕つ」文。

妙法蓮華経・妙は天台玄義に云く「言う所の妙とは妙は不可思議に名くるなり」と、又云く「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す」と、又云く「妙とは最勝・修多羅・甘露の門なり故に妙と言うなり」と、法は玄義に云く「言う所の法とは十界十如・権実の法なり」、又云く「権実の正軌を示す故に号して法と為す」と、蓮華は玄義に云く「蓮華とは権実の法に譬うるなり」、又云く「久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てし不二の円道に会す之を譬うるに華を以てす」文、経は又云く「声仏事を為す之を称して経と為す」文、私に云く法華以前の諸経に小乗は心生ずれば六界・心滅すれば四界なり、通教以て是くの如し、爾前の別円の二教は心生の十界なり小乗の意は六道四生の苦楽は衆生の心より生ずと習うなりされば心滅すれば六道の因果は無きなり、大乗の心は心より十界を生ず、華厳経に云く「

心は工なる画師の如く種種の五陰を造る一切世界の中に法として造らざること無し」文、造種種五陰とは十界の五陰なり仏界をも心法をも造ると習う・心が過去・現在・未来の十方の仏と顕ると習うなり、華厳経に云く「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当に是くの如く観すべし心は諸の如来を造ると」法華已前の経のおきては上品の十悪は地獄の引業・中品の十悪は餓鬼の引業・下品の十悪は畜生の引業・五常は修羅の引業・三帰・五戒は人の引業・三帰・十善は六欲天の引業なり、有漏の坐禅は色界・無色界の引業・五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観は声聞・縁覚の引業・五戒・八戒・乃至三聚浄戒の上に六度・四弘の菩提心を発すは菩薩なり仏界の引業なり、蔵通二教には仏性の沙汰なし但菩薩の発心を仏性と云う、別円二教には衆生に仏性を論ず但し別教の意は二乗に仏性を論ぜず、爾前の円教は別教に附して二乗の仏性の沙汰無し此等は皆〓法なり、今の妙法とは此等の十界を互に具すと説く時・妙法と申す、十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し十界互に具すれば百法界なり、玄の二に云く「又一法界に九法界を具すれば即ち百法界有り」文、法華経とは別の事無し十界の因果は爾前の経に明す今は十界の因果互具をおきてたる計りなり、爾前の経意は菩薩をば仏に成るべし声聞は仏に成るまじなんど説けば菩薩は悦び声聞はなげき人天等はおもひもかけずなんとある経もあり、或は二乗は見思を断じて六道を出でんと念い菩薩はわざと煩悩を断ぜず六道に生れて衆生を利益せんと念ふ、或は菩薩の頓悟成仏を見・或は菩薩の多倶低劫の修行を見・或は凡夫往生の旨を説けば菩薩声聞の為には有らずと見て人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生・聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らず四十二年をば過ぎしなり。

然るに今経にして十界互具を談ずる時・声聞の自調自度の身に菩薩界を具すれば六度万行も修せず多倶低劫も経ぬ声聞が諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具する間をもはざる外に声聞が菩薩と云われ人をせむる獄卒・慳貪なる凡夫も亦菩薩と云はる、仏も又因位に居して菩薩界に摂せられ妙覚ながら等覚なり、薬草喩品に声聞を説いて云く「汝等が所行は是れ菩薩の道なり」と、又我等六度をも行ぜざるが六度満足の菩薩なる文・経に云く「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前しなん」と、我等一戒をも受けざるが持戒の者と云わるる文・経に云く「是則ち勇猛なり是則ち精進なり是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名く」文。

問うて云く諸経にも悪人が仏に成る華厳経の調達の授記・普超経の闍王の授記・大集経の婆籔天子の授記・又女人が仏に成る胎経の釈女の成仏・畜生が仏に成る阿含経の鴿雀の授記・二乗が仏に成る方等だらに経・首楞厳経等なり、菩薩の成仏は華厳経等・具縛の凡夫の往生は観経の下品下生等・女人の女身を転ずるは雙観経の四十八願の中の三十五の願・此等は法華経の二乗・竜女・提婆菩薩の授記に何なるかわりめかある、又設いかわりめはありとも諸経にても成仏はうたがひなし如何、答う予の習い伝うる処の法門・此の答に顕るべし此の答に法華経の諸経に超過し又諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし秘蔵の故に顕露に書さず。

問うて曰く妙法を一念三千と言う事如何、答う天台大師・此の法門を覚り給うて後・玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説き給いしかども此の一念三千をば談義し給はず、但十界・百界・千如の法門ばかりにておはしませしなり、御年五十七の夏四月の比〓州の玉泉寺と申す処にて御弟子・章安大師と申す人に説ききかせ給いし止観十巻あり、上の四帖に猶をしみ給いて但六即・四種三昧等・計の法門にてありしに五の巻より十境・十乗を立てて一念三千の法門を書き給へり、此れを妙楽大師末代の人に勧進して言く「並に三千を以て指南と為す○請うらくは尋ね読まん者心に異縁無かれ」文、六十巻・三千丁の多くの法門も由無し但此の初の二三行を意得可きなり、止観の五に云く「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す此の三千一念の心に在り」文、妙楽承け釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に〓ねし」文、日本の伝教大師比叡山建立の時・根本中堂の地を引き給いし時・地中より舌八つある鑰を引き出したり、此の鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代・妙楽大師の御弟子・道邃和尚に値い奉りて天台の法門を伝へ給いし時、天機秀発の人たりし間・道邃和尚悦んで天台の造り給へる十五の経蔵を開き見せしめ給いしに十四を開いて一の蔵を開かず、其時伝教大師云く師此の一蔵を開き給えと請い給いしに邃和尚云く「此の一蔵は開く可き鑰無し天台大師自ら出世して開き給う可し」と云云其の時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給いしに此の経蔵開けたりしかば経蔵の内より光・室に満ちたりき、其の光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなりありがたき事なり、其の時・邃和尚は返つて伝教大師を礼拝し給いき、天台大師の後身と云云、依つて天台の経蔵の所釈は遺り無く日本に亘りしなり、天台大師の御自筆の観音経・章安大師の自筆の止観・今比叡山の根本中堂に収めたり。

一 自性 自力 迦毘羅外道
二 他性 他力 〓楼僧伽外道
四性計 三 共性 共力 勒娑婆外道
四 無因性 無因力 自然外道

外道に三人あり、一には仏法外の外道九十五種の外道・二に附仏法成の外道小乗・三には学仏法の外道妙法を知らざる大乗の外道なり。今の法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり、されば今仏に成るに新仏にあらず又他力も定めて他力に非ず他仏も我等凡夫の自具なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり、共と無因は略す。

法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名くされば爾前の経の人人は仏の九界の形を現ずるをば但仏の不思議の神変と思ひ仏の身に九界が本よりありて現ずるとは言わず、されば実を以てさぐり給うに法華経已前には但権者の仏のみ有つて実の凡夫が仏に成りたりける事は無きなり、煩悩を断じ九界を厭うて仏に成らんと願うは実には九界を離れたる仏無き故に往生したる実の凡夫も無し、人界を離れたる菩薩界も無き故に但法華経の仏の爾前にして十界の形を現して所化とも能化とも悪人とも善人とも外道とも言われしなり、実の悪人・善人・外道・凡夫は方便の権を行じて真実の教とうち思いなして・すぎし程に法華経に来つて方便にてありけり、実には見思無明も断ぜざりけり往生もせざりけりなんと覚知するなり、一念三千は別に委く書す可し。

此の経には二妙あり釈に云く「此の経は唯二妙を論ず」と一には相待妙・二には絶待妙なり、相待妙の意は前の四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌い、爾前をば当分と言い法華を跨節と申す、絶待妙の意は一代聖教は即ち法華経なりと開会す、又法華経に二事あり一には所開・二には能開なり開示悟入の文・或は皆已成仏道等の文、一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字・一一の字の下に皆妙の文字あるべしこれ能開の妙なり、此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり、阿含経・開会の文は経に云く「我が此の九部の法は衆生に随順して説く大乗に入るに為本なり」と云云、華厳経・開会の文は一切世間・天人及び阿修羅は皆謂えり今の釈迦牟尼仏等の文、般若経・開会の文は安楽行品の十八空の文、観経等の往生安楽・開会の文は「此に於て命終して即ち安楽世界に往く」等の文、散善開会の文は「一たび南無仏と称せし皆已に仏道を成じき」の文、一切衆生開会の文は「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」、外典開会の文は「若し俗間経書治世語言資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」文、兜率開会の文・人天所開会の文しげきゆへにいださず。

此の経を意得ざる人は経の文に此の経を読んで人天に生ずと説く文を見・或は兜率・〓利なんどにいたる文を見・或は安養に生ずる文を見て穢土に於て法華経を行ぜば経はいみじけれども行者不退の地に至らざれば穢土にして流転し久しく五十六億七千万歳の晨を期し或は人畜等に生れて隔生する間・自の苦しみ限り無しなんと云云或は自力の修行なり難行道なり等云云、此れは恐らくは爾前法華の二途を知らずして自ら癡闇に迷うのみに非ず一切衆生の仏眼を閉ずる人なり、兜率を勧めたる事は小乗経に多し少しは大乗経にも勧めたり西方を勧めたる事は大乗経に多し此等は皆・所開の文なり、法華経の意は兜率に即して十方仏土中・西方に即して十方仏土中・人天に即して十方仏土中と云云、

法華経は悪人に対しては十界の悪を説くは悪人・五眼を具しなんどすれば悪人のきわまりを救い、女人に即して十界を談ずれば十界皆・女人なる事を談ず、何にも法華円実の菩提心を発さん人は迷の九界へ業力に引かるる事無きなり。

此の意を存じ給いけるやらん法然上人も一向念仏の行者ながら選択と申す文には雑行・難行道には法華経・大日経等をば除かれたる処もあり委く見よ又慧心の往生要集にも法華経を除きたり、たとい法然上人・慧心・法華経を雑行・難行道として末代の機に叶わずと書き給うとも日蓮は全くもちゆべからず、一代聖教のおきてに違い三世十方の仏陀の誠言に違する故に・いわうや・そのぎなし、而るに後の人の消息に法華経を難行道・経はいみじけれども末代の機に叶わず謗らばこそ罪にてもあらめ、浄土に至つて法華経をば覚るべしと云云、日蓮が心は何にも此の事はひが事と覚ゆるなりかう申すもひが事にや有らん、能く能く智人に習う可し。

正嘉二年二月十四日 日蓮撰




by johsei1129 | 2016-05-13 21:58 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)
2016年 05月 11日

法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、と説いた【一念三千法門】

【一念三千法門】
■出筆時期:正嘉二年(1258) 三十七歳御作
■出筆場所:駿河国・岩本実相寺にてと思われます。
■出筆の経緯:大聖人は正嘉二年二月、駿河国・岩本実相寺に入り大蔵経(釈尊の一切経)を読まれ二年後に立正安国論として結実し北条時頼(最明寺入道)に献じ国家諌暁を果たします。また合わせて法華経の法門を初心の弟子・信徒の教化のため数多く述作されておられます。本書もその一つで、法華経方便品第二でとかれた「一念三千」を末法の法華経の行者の立場でわかりやすく講説されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【一代聖教大意 本文】
法華経の余経に勝れたる事何事ぞ此の経に一心三観・一念三千と云う事あり、薬王菩薩・漢土に出世して天台大師と云われ此の法門を覚り給いしかども先ず玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説きしかども此の一念三千の法門をば談じ給はず百界千如の法門計りなり、御年五十七の夏四月の比・刑州玉泉寺と申す処にて御弟子章安大師に教え給ふ止観と申す文十巻あり、上四帖に猶秘し給いて但六即・四種三昧等計りなり、五の巻に至つて十境・十乗・一念三千の法門を立て夫れ一心に具す等と云云是より二百年後に妙楽大師釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に遍し」と云云、此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす是れ僻事にて二義かけたり天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即・報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。

十界の衆生・各互に十界を具足す合すれば百界なり百界に各各十如を具すれば千如なり、此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり、百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て空の義なれば空諦の一なり三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり、本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、始の三如是は本覚の如来なり本覚の如来を悟り出し給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり仏は我等が所生の子なり、止の一に云く「止は則仏の母・観は即仏の父なり」と云云、譬えば人十人あらんずるが面面に蔵蔵に宝をつみ我が蔵に宝のある事を知らずかつへ死しこごへ死す、或は一人此の中にかしこき人ありて悟り出すが如し九人は終に知らず、然るに或は教えられて食し或はくくめられて食するが如し、弘の一の止観の二字は正しく聞体を示す聞かざる者は本末究竟等も徒らか、子なれども親にまさる事多し重華はかたくなはしき父を敬いて賢人の名を得たり、沛公は帝王と成つて後も其の父を拝す其の敬われし父をば全く王といはず敬いし子をば王と仰ぐが如し、其れ仏は子なれども賢くましまして悟り出し給へり、凡夫は親なれども愚癡にして未だ悟らず委しき義を知らざる人毘盧の頂上をふむなんど悪口す大なる僻事なり。

一心三観に付いて次第の三観・不次第の三観と云う事あり委く申すに及ばず候、此の三観を心得すまし成就したる処を華厳経に三界唯一心と云云、天台は諸水入海とのぶ仏と我等と総て一切衆生・理性一にて・へだてなきを平等大慧と云うなり、平等と書いては・おしなべて・と読む、此の一心三観・一念三千の法門・諸経にたえて之無し法華経に遇わざれば争か成仏す可きや、余経には六界八界より十界を明せどもさらに具を明かさず、法華経は念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、此の時法界を照し見れば悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり、されば天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり、此の時は十方世界皆寂光浄土にて何れの処をか弥陀薬師等の浄土とは云わん、是を以て法華経に「是の法は法位に住して世間の相常住なり」と説き給ふさては経をよまずとも心地の観念計りにて成仏す可きかと思いたれば一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり、天台の所釈に「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵・三世の如来の証得したもう所なり」と釈したり、さて此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る我等が身と心をば蔵に譬へ妙の一字を印に譬へたり、天台の御釈に「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す・権実の正軌を示す故に号して法と為す、久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てす、不二の円道に会す之を譬うるに華を以てす、声仏事を為す之を称して経と為す」と釈し給う、又「妙とは不可思議の法を褒美するなり又妙とは十界・十如・権実の法なり」と云云、経の題目を唱うると観念と一なる事心得がたしと愚癡の人は思い給ふべし、されども天台止の二に而於説黙と云へり、説とは経・黙とは観念
なり、又四教義の一に云く「但功の唐捐ならざるのみに非ず亦能く理に契うの要なるをや」と云云、天台大師と申すは薬王菩薩なり此の大師の説而観而と釈し給ふ元より天台の所釈に因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈あり四種の重を知らずして一しなを見たる人一向本迹をむねとし一向観心を面とす、法華経に法・譬・因縁と云う事あり法説の段に至つて諸仏出世の本懐・一切衆生・成仏の直道と定む、我のみならず一切衆生・直至道場の因縁なりと定め給いしは題目なり、されば天台玄の一に「衆善の小行を会して広大の一乗に帰す」と広大と申すは残らず引導し給うを申すなり、仮使釈尊一人・本懐と宣べ給うとも等覚以下は仰いで此の経を信ず可し況や諸仏出世の本懐なり、禅宗は観心を本懐と仰ぐとあれども其は四種の一面なり、一念三千・一心三観等の観心計りが法華経の肝心なるべくば題目に十如是を置くべき処に題目に妙法蓮華経と置かれたる上は子細に及ばず、又当世の禅宗は教外別伝と云い給うかと思へば又捨られたる円覚経等の文を引かるる上は実経の文に於て御綺に及ぶべからず候、智者は読誦に観念をも並ぶべし愚者は題目計りを唱ふとも此の理に会う可し、此の妙法蓮華経とは我等が心性・総じては一切衆生の心性・八葉の白蓮華の名なり是を教え給ふ仏の御詞なり。

無始より以来我が身中の心性に迷て生死を流転せし身今此の経に値ひ奉つて三身即一の本覚の如来を唱うるに顕れて現世に其内証成仏するを即身成仏と申す、死すれば光を放つ是れ外用の成仏と申す来世得作仏とは是なり、略挙経題・玄収一部とて一遍は一部云云、妙法蓮華経と唱うる時・心性の如来顕る耳にふれし類は無量阿僧祇劫の罪を滅す一念も随喜する時即身成仏す縦ひ信ぜざれども種と成り熟と成り必ず之に依て成仏す、妙楽大師の云く「若は取若は捨・耳に経て縁と成る、或いは順或いは違終いに斯れに因つて脱す」と云云、日蓮云く若取若捨或順或違の文肝に銘ずる詞なり法華経に若有聞法者等と説れたるは是か、既に聞く者と説れたり観念計りにて成仏すべくば若有観法者と説かるべし、只天台の御料簡に十如是と云うは十界なり此の十界は一念より事起り十界の衆生は出来たりけり、此の十如是と云は妙法蓮華経にて有けり此の娑婆世界は耳根得道の国なり以前に申す如く当知身土と云云、一切衆生の身に百界千如・三千世間を納むる謂を明が故に是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり、一切衆生と申すは草木瓦礫も一切衆生の内なるか、有情非情、抑草木は何ぞ金〓論に云く「一草一木・一礫一塵・各一仏性・各一因果・具足縁了」等と云云、法師品の始に云く「無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩〓羅伽・人と非人と及び比丘比丘尼、妙法蓮華経の一偈一句を聞いて乃至一念も随喜せん者は我皆阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く」と云云、非人とは総じて人界の外一切有情界とて心あるものなり況や人界をや。

法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す、玄の一に云く「上中下根皆記〓を与う」と云云、観心計りにて成仏せんと思ふ人は一方かけたる人なり、況や教外別伝の坐禅をや、法師品に云く「薬王多く人有て在家出家の菩薩の道を行ぜんに若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養すること得ること能わずんば当に知るべし是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず、若し是の経典を聞くこと得ること有らば乃ち能善菩薩の道を行ずるなり」と云云、観心計りにて成仏すべくんば争か見聞読誦と云わんや、此の経は専ら聞を以て本と為す凡此の経は悪人・女人・二乗・闡提を簡ばず故に皆成仏道とも云ひ又平等大慧とも云う、善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す故に即身成仏と申し一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ、義を知らざる人なれども唱ふれば唯仏と仏と悦び給ふ我即歓喜諸仏亦然云云、百千合せたる薬も口にのまざれば病愈えず蔵に宝を持ども開く事をしらずしてかつへ懐に薬を持ても飲まん事をしらずして死するが如し、如意宝珠と云う玉は五百弟子品の此の経の徳も又此くの如し、観心を並べて読めば申すに及ばず観念せずと雖も始に申しつるごとく所謂諸法如是相如云云と読む時は如は空の義なれば我が身の先業にうくる所の相性体力・其の具する所の八十八使の見惑・八十一品の思惑・其の空は報身如来なり、所謂諸法如是相云云とよめば是れ仮の義なれば我が此の身先業に依つて受けたる相性体力云云其の具したる塵沙の惑悉く即身応身如来なり、所謂諸法如是と読む時は是れ中道の義に順じて業に依つて受くる所の相性等云云、其に随いたる無明皆退いて即身法身の如来と心を開く、此の十如是・三転によまるる事・三身即一身・一身即三身の義なり三に分るれども一なり一に定まれども三なり。



by johsei1129 | 2016-05-11 23:35 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)