日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:小説 日蓮の生涯 中( 31 )


2017年 04月 24日

46 二月騒動の顛末

時宗の兄、北条時輔は京都南六波羅で酒を飲んでいた。

静かな夜だった。

美女がひとり、時輔によりそうばかりに酌をした。

時輔が赤ら顔になっている。

「はかどるな」

美女がほほえむ。

「よいことでございますわ。ご丈夫だからこそ、お酒もおいしくおめしになれます」

時輔はいまの境遇で満足そうだった。

「うまい酒に美しいおなごがそばにおる。なにもいうことはないわ。わしは幸せ者じゃ」

美女が目をほそめる。

「それはご本心でしょうか」

「なんだ。なにを申す」

「男たるもの、まだ欲しいものがおありのはず」

「思わせぶりだな。はっきりと申せ」

 女の目がさらにほそくなった。

「殿は執権時宗さまのお兄様。腹ちがいとはいえ、幕府のまつりごとには権利のあるお方。なのにご家来はわずかしかおりませぬ。時宗様のように指一つでたくさんの殿方を動かしたいのでは」

時輔が笑う。

「わしのまわりには、そなたのようにさぐりをいれる者ばかりじゃ。わしは権力なるものに執着はない。そう伝えよ。安心しろとな」

美女が少しはなれた。

「おぬし、時宗の間者であろう。うろたえるな。わかっておる。ではこちらから聞こう。わしの命はいつまでじゃ。時宗はいつ攻めてくる」

美女がさらにはなれる。

「その様子をみると、近いようじゃのう」

外でさわがしい声がする。剣を交える音、武士の絶叫、女の悲鳴が聞こえてきた。

部屋の戸がひらき、所従がかけこんできた。

「殿、討ち入りでござる」

時輔はおちつきはらった。

「どこから」

所従が苦渋にみちている。

「北六波羅にございます」

北の六波羅探題には、時宗の命をおびた北条義宗の軍団がいた。義宗は日蓮の伊豆流罪を画策した北条重時の孫である。

時輔がにたりとしたが酒をやめない。女はいつのまにかいなくなっていた。

「時宗め、きおったか」

彼は盃をかかげてつぶやいた。

「末法じゃのう。一族が殺しあい、弟が兄を討つ。乱れきっておるわ。だが時宗、この報いはかならず、おぬしにかえるであろう」

座敷の戸がやぶられて、獰猛(どうもう)な武士団が突入してきた。

鎧兜の武士が時輔の前にすすみでて膝をついた。

「時輔様。突然の無礼、お詫びいたしまする。ただ今より、われらとご同行いただきたく参上いたしました」

「いずこへ」

「相州鎌倉」

「あいわかった」

時輔が背後の刀に手をかけたとたん、ふりむきざまに武者を斬った。

武士団がいっせいに身がまえる。

「おぬしらの魂胆はわかっておるわ。道中でわしを葬るつもりであろう。ならばここでいさぎよく戦うまで。だれあろうわれこそは、先の執権、最明寺入道時頼の嫡男、北条時輔なるぞ。われと思う者はかかってきよ」

武士が勇んで時輔と組んだが、時輔のあざやかな太刀さばきに斬られて退場した。

つづいて新たな武士が登場したが、これも時輔に討たれた。

強い。一騎打ちでかなう相手ではない。

時輔が満面の笑みをうかべた。

「どうじゃ、かかってこぬか」

新たな武士が登場して組みあった。

時輔は優勢であったが、新手が卑怯にも時輔の背後をおそった。

背を斬られ、片膝をついた。

ここで時輔が笑った。最後の哄笑だった。

武士団が倒れた時輔をかこんでめった刺しにした。血潮が吹きだし、かえり血が全身にかかった。

武士たちは憑き物がとれたように立ちつくした。

鎌倉の侍所では時宗が一人、座禅を組み目をとじていた。

顔色は落胆と苦渋にみちている。二十一歳というのに、老人のように頬がこけていた。

武士ははかない。

鎌倉幕府の創始者である源頼朝は弟の義経を殺害している。

頼朝の父は義朝である。義朝は父為義を斬った。のちに義朝は戦いに敗れ、配下に裏切られて命を落とした。

その子頼朝は征夷大将軍となって頼家、実朝を生む。だが頼家は北条の手下に殺され、実朝は頼家の子()(ぎょう)に殺された。殺した公暁も直後に討たれた。

こう書いていくだけでも暗然としてくる。

時宗もまた兄を斬った。

彼もまたこの暗い因果に入りこんでしまった。彼は逃れられない宿命を背負った思いにとらわれた。独裁者の悲哀だった。

 鎌倉はいまだに喧噪が聞こえていた。侍所の入口はひときわ甲高い声がひびいた。
 ここに名越光時以下、八人の家来がとらわれの身となっていた。光時と金吾、この主従の命は風前の灯となっていた。

名越光時および家臣の女房子供、供侍までが邸内にはいろうと門番に懇願していた。一目無事を確認したいためだ。この中に金吾の妻日眼女と娘の月満御前がいた。

警備の兵が彼女たちをおしとどめた。

 侍所の中庭では頼綱の配下が藁束(わらたば)ってい。斬首の準備である。

いっぽう北条光時の館では、女房たちが障子や武具が散乱した床につどった。

赤子や幼子の泣き叫ぶ声が邸内にひびく。彼女たちは光時と運命をともにした家来の妻だった。

日眼女が月満御前をだいて侍所から帰ってきた。

女たちがうめく。

「なんの報いでありましょう。謀反の疑いをかけられるとは。わたしたちには神も仏も助けてはくれぬのか」

女たちが日眼女をみつけた。

「おお、これは金吾様の奥方。いまだに法華宗の日蓮上人を信じておられるとか。後生でございます。法華経のお力で夫の命を助けてくだされ」

 彼女たちは神仏に祈るほかはない。夫を助けてくれるのであればだれでもよい。夫の死を目前にした今となっては、流罪の身であろうと、竜の口の首の座から奇跡的に生還した日蓮にすがるしかなかった。

 日眼女は心に固く誓った。

竜の口の時、一度は夫の命をあきらめた。助かるすべはただひとつ法華経しかない。願いは叶うと信じて祈るしかなかった。

 

 遠く安房でも悲嘆に暮れている女性がいた。

大尼御前である。

彼女はかつて名越家に嫁いでいた。

名越がほろぶならば大尼も安泰ではない。日蓮が大難をうけたとき、大尼は日蓮を見たことも聞いたこともないといって法華経の信仰から退転した。

大尼はかけつけた道善房や浄顕房、義浄房にすがりついた。

「おしえてたもれ。わらわが法華経を捨てた報いであろうか」

日蓮の幼いころの師だった道善房は、清澄寺の大檀家でもある大尼が取り乱すのを見ておろおろするばかりだった。

かわりに若い浄顕房がはげました。

「大尼様、お気をつよく。いまですぞ。これまでのことをわびて法華経に懺悔なされませ。いやしくも武士の妻です、なにがおきようと覚悟せねばなりませぬ」

しかし大尼は半狂乱だった。

「なにかがおきるなどと、いわないでおくれ」

侍所の座敷には光時と八人の郎従がいた。

光時が八人を前にしていう。

「おそらくわれらは死罪となろう。身におぼえのないことながら、これも侍の宿命である」

光時は四条金吾に言葉をかけた。

「頼基、おぬしには幼子がいたのう。つらくはないか」

金吾は気丈にいう。

「殿、某は二代にわたり名越様に仕えてまいりました。これも運命と考え、いささかも憂いはございませぬ」

主君のまなざしはやさしかった。

「後悔はないのか」

金吾は懐の数珠をとりだし、手をあわせた。

「わたくしめは、いまだに日蓮上人の教えを信じておりまする。もし首斬られるならば、法華経にすがり、殿とならんで仏にまみえたてまつる覚悟にございます」

光時はじっと金吾を見つめた。

北条時宗がおなじ侍所で平頼綱、安達泰盛と膝をつきあわせていた。

頼綱が目を細めた。

「即刻首をはねるべきでござる」

泰盛が反対した。

「確たる証拠がないうえで処刑することは、のちのち幕府の信用をおとすことになる」

 泰盛にとって名越の滅亡は避けたい。名越の滅亡は執権の絶対化を意味した。泰盛は時宗の義兄だが、しょせん外様である。時宗が絶対君主になれば、側近の頼綱がさらに強大となる。自分が危うくなるのは目に見えていた。

その頼綱が泰盛をにらみつけた。

「鎌倉幕府はいま危機にある。われら北条はしょせん伊豆の田舎の出、武士の世界では新参者にすぎませぬ。執権の批判もいまだに根強い。また蒙古がいつ攻めてくるかもわからぬ現在、侍どもの不満を静めるのは恩賞加増にほかならぬ」

泰盛がおどろいた。

「では名越の所領を・・」

頼綱がうなずく。

「名越は北条一門でも有力な分家でござる。日頃なにかとわれらを批判するあの者どもをつぶせば、幕府体制をかため、財政の建て直しもはかれる」

頼綱の目が不気味に光る。

だが泰盛はあくまで抵抗する。

「いやそれではかえって幕府を弱めることになる。今回のことで京都の公家どもが騒ぐのは必死だ。名越を取りつぶせば、承久の二の舞になることは必定であろう」

頼綱は聞かない。

「騒がせればよいのよ。権力とは人を操ること。操られるのがいやな者は抹殺するまでのことだ」

泰盛が時宗に平伏した。

「どうか武家の頭領として、寛大なご措置を」

頼綱が強くせまる。

「このたびの騒動は光時殿の処分で仕上げでござる。ご決断を」

時宗が正面を見つめた。


光時と四条金吾ら八人が謁見の間に座った。みな覚悟した様子だった。

ここに時宗が登場した。頼綱と泰盛がつづいて座した。

金吾は覚悟をきめた。

しかし時宗の決断は意外だった。

泰盛が高らかに告げる。

「名越殿は無罪放免といたす」

室内がざわめいた。

安堵する家来がいる。だが名越光時は表情をかえない。

予期しないことだった。

これを伝え聞いた使者がすぐさま光時邸へかけこんだ。

「助かりましたぞ。光時様は無罪放免。おつきの面々も無事でござる」

名越の館に女子供の歓喜の声があふれた。

日眼女は赤ん坊をだき、数珠をにぎりながら「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えだす。目には涙があふれんばかりに浮かび、頬を伝って握った数珠に一滴二滴と落ちるが、かまわずいつ果てるともなく題目を唱え続けた。

時宗が光時に語る。
 その声は執権らしからぬ弱々しさだった。

「叔父上、余を許してくださるか。内憂外患、蒙古がいつ攻めてくるかわからぬ最中に、余は誤りをおかした。親子、兄弟、一族の平和を無惨に乱してしまった。さりながら今、目がさめた。北条一門が団結してこそ国難は防げようというもの。これが亡き兄の弔いとなればよいが・・」

老齢の光時が言上した。

「それを聞いて安堵いたした。それでこそ北条の頭領、われらの執権でござります。恨みは申さぬ。二人の弟は亡くしたが、これで幕府が盤石となれば彼らも浮かばれまする。ご安心くだされ、蒙古との戦いのおりは、われらが必ず先陣をきって敵の首を討ちとりましょうぞ」

事実、彼はこののち蒙古の戦いで獅子奮迅の戦いをすることになる。

光時が立ちあがった。

「ここ数日の混乱で配下の者どもは疲れきっております。われらはこれで」

光時主従が退出した。

頼綱がそれを見て鞭を折り、うらみがましく時宗を見た。

「千載一遇の機会をのがしましたな」

ふだん温厚な時宗も、この物言いは、さすがに聞き流すわけにはいかない。

「だまれ、左衛門尉。北条の血を引かぬおぬしになにがわかる」

 この二月騒動は幕府内でも批判が大きかった。時宗は越権行為の頼綱を処罰できなかったが、かわりに討伐に加わった五名の関係者を処刑している。騒動に加わった者にもいっさい恩賞はあたえなかった。

鎌倉の人々はこれを「ただ働き」と笑ったという。

首都の騒動を聞き、全国の御家人がぞくぞくと馳せ参じた。

到着した武士団は侍所へ直行した。彼らは引きもきらず主君の前にでて、型どおりの挨拶をしてさがった。

従者がつぎつぎに呼び出しの声をあげる。

「つぎに本間六郎(ほんまろくろう)左衛門尉(さえもんのじょう)重連(しげつら)殿、ご到着されました」

本間が時宗の前にすすみでた。彼は異例の速さで鎌倉に到着することができた。

安達泰盛がよろこぶ。

「これは本間殿。佐渡から遠路はるばる、祝着であるぞ」

本間が上目づかいで慎重に言上した。

「鎌倉殿におかれましては、このたびの難儀のおり、よくご無事であらせられました。われら御家人にとって、なによりでございまする」

「よく申された。いくさはおわった。長旅でお疲れでござろう。酒の用意を」

しかし本間はとめた。

「おまちくだされ。取り入って申しあげたき儀がございます。じつは先月、このたびの騒動を予言した者がおりまする」

時宗がおどろいた。

本間は一部始終を語った。

「なに、日蓮が・・」

厳粛な空気がただよった。

日蓮が竜の口の法難の最中、内乱がおきることを予言したのは記憶にあたらしい。今また、一月もしないあいだにこの大騒動を予告していたとは。

時宗がはじめて口をひらいた。

「本間殿、日蓮殿はいかがしておられる」

本間の返答は苦渋にみちていた。

(それがし)の宅の裏にある破れかけた三昧堂におわしまする。堂のまわりは死人を捨てる墓場でござる。拙者が見ても気の毒にて・・なにぶん流人のため、これといった施しもむずかしく・・」

 時宗はすぐさまいった。

「執権の命令である。待遇をあげよ。誰か武家の屋敷に場所をかえるのだ。ただしよいか、このわしが指図したことを、だれにも漏らしてはならぬ」

本間が顔をあげ、自分のことのようによろこんだ。

「さっそく手配いたしまする」

日蓮はみごとに自界叛逆難を的中させたが喜んではいない。邪法によってますます国がみだれることを憂いていた。

さらに嘆くべきは二月騒動のおり、命を落とした信徒がいたことだった。彼らの名は伝わっていない。日蓮は信徒の死に不安をつのらせて、急ぎ鎌倉に手紙をつづった。

 

佐渡国は紙候はぬ上、面々に申せば(わずら)いあり。一人も()るれば(うら)みありぬべし。此の(ふみ)を心ざしあらん人々は寄り合ふて御覧じ、(りょう)(けん)候ひて心なぐさませ給へ。世間にまさる歎きだにも出来すれば、劣る歎きは物ならず。当時の(いくさ)に死する人々、実不実は置く、(いくばく)か悲しかるらん。いざはの入道、さかべの入道、いかになりぬらん。かは()()()山城(やましろ)(とく)行寺(ぎょうじ)殿(どの)等のこと、いかにと書き付けて給ふべし。外典書の(じょう)(がん)(せい)(よう)、すべて外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかゝれ候はぬに、かまへてかまへて給び候べし。

此の(ふみ)は富木殿のかた、三郎左衛門殿・大蔵たうのつじ(塔辻)十郎入道殿等・さじき(桟敷)の尼御前、一々に見させ給ふべき人々の御中へなり。京・鎌倉に(いくさ)に死せる人々を書き付けてたび候へ。外典抄・文句二・玄四本末・(かん)(もん)宣旨(せんじ)等、これへの人々もちてわたらせ給へ。『佐渡御書

いざわ(井沢)の入道、さかべの入道、河野辺の入道と得行寺。この四人はかつて竜の口の法難の時、日朗とともに土牢にはいった信徒といわれている。彼らは法難につづいてこの騒動にまきこまれたのか。遠く離れているだけに、日蓮の焦燥はつのった。

冨木殿とは土木常忍、三郎左衛門尉は四条金吾、大蔵塔の辻とは鎌倉の地名で、ここに十郎入道と名乗る信徒が住んでいたという。十郎入道は本間重連の家人という説があるが確かでない。桟敷の尼は自分の下人を佐渡までつかわしたほどの強信者である。彼らはいずれも日蓮の帰還をまちこがれる信徒だった。

また日蓮はいくさのことを案じるとともに、数々の書物を送るよう依頼している。貞観政要は名君といわれた唐の太宗の言行録であり、ほかに「外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかゝれぬ」と切望している。

仏教書も手元にないものがある。文句とは法華文句、玄とは法華玄義である。いずれも法華経の肝要を天台(智顗)大師が解説した書である。

当時の佐渡は文化的には不毛に近い僻地であった。そもそも法門を記すための紙がない。

「かまへてかまへて」といっている。五十一歳の日蓮はそれほど佐渡の地で末法の本仏としての自身の法門を書き上げ、後世に残すことを渇望していた。

鎌倉の北条光時邸は傾きかけた門や破れた木戸が散らばり、大騒動があったことを物語っていた。

四条金吾を先頭に郎党八人が帰ってきた。

一族が歓喜したのはいうまでもない。女子供や所従たちが涙にむせんだ。

四条金吾は月満御前をだきかかえた。その夫の姿を見つめる日眼女の目に、もはや涙はなかった。

彼女はこの数日間、寝ずに祈っていた。夫の無事を目の当たりに見て、法華経の功力(くりき)を思わないではいられなかった。

主君光時が登場し床几にすわった。
 彼の前に八人が正座した。

「このたびのそのほうらの働き、感じいったぞ。退散する者もいた、お前たちのようにわしと命をともにする者もいた。ここぞという時、家来かどうかわかるのだな。礼をいうぞ。ここで一人一人、望みをのべよ。遠慮なく申せ。かなえてしんぜよう」

家来の一人がすかさずいった。

「某はいただいている所領がいささかせまくなっておりまする。所従を養うにもひもじくなっている始末。加増していただければ幸いとぞんじまする」

「あいわかった」

つぎの家来がいう。

「某は領地はいりませぬ。ただ銅銭を拝領し、今後の蓄えといたしたく思いまする」

光時がうなずいた。

彼らは図々しいのではない。忠を尽くした者は恩賞にあずかって当然の時代だった。また主人は忠臣に積極的にこたえる義務があった。この考えは現代の政治力学がうごめく複雑な労使関係より、はるかに単純で平明である。

「わたくしは爵位をたまわりとうござます。武士は位があって面目が立つもの。左衛門尉をいただければ、一族の誉れともなります。どうか周旋ねがいとうございまする」

「もっともなことだ。すぐにも手配しよう」

四条金吾の番になった。

金吾はだまっている。

光時がにこやかに催促した。

「どうした頼基、願いごとはないのか。今回のそなたの働きぶりからすれば、ありすぎるほどであろう」

金吾が重い口をひらいた。

「殿、わたくしはお(いとま)をいただきとうございます」

 一同がざわめく。同僚が猜疑の目で金吾を見た。

「暇をとる。どうした。わしからはなれてどうする」

「旅にでとうございます」

「旅、どこへ」

「佐渡ヶ島にございます」

光時が考えあぐねた。

「あの島にはわしの領地はない。米も良くはとれぬ。やせた土地だ。ほかをあたえよう」

「いえ所領ではありませぬ。佐渡にお会いしたい方がおられまする」

光時はしばらく考えこんでいたが、はっとした。

金吾が手を床につけた。

「某の師匠、日蓮上人が無実の罪であの島に流されております。ひと月ほどお暇をいただければ、佐渡へまかりいでたいと考えまする」

 光時がむきになった。

「日蓮は罪人だぞ」

 金吾が胸をはった。

「その罪人が日本国の騒動を予言したのはまぎれもない事実にございます。われら主従はその当事者として、からくも生きのびました。殿、未萌(みぼう)を知る者を聖人と申します。しかれば日蓮上人は罪人ではなく、聖人ではないでしょうか」

 光時が食いさがった。

「わしをおいて日蓮につくのか」

「殿、頼基は箱根の山をこえ、馳せ参じたときも、殿と腹を切る覚悟をきめたときも、法華経のお題目を唱えておりました。某が晴れてここに殿と相まみえるのは日蓮聖人のおかげだと感じておりまする。それ故一刻も早くおたずねし、報恩の誠をつくすのが人の道と料簡しておりまする」

光時が不満そうにだまった。
 金吾がせまる。

「殿は願いごとをかなえるとお約束なさいました。今日ほど殿に仕えて、うれしゅうことはございませぬ」

光時が投げだすようにいった。

「よい、勝手にいたせ」
「おお、ありがたき幸せ」
 金吾が小躍りして喜んだ。

二ヶ月後の四月、金吾は佐渡へ出発した。そして無事日蓮と対面し鎌倉へ帰っている。 

日蓮は竜の口で生死をともにし、あまつさえ鎌倉武士として宮仕えの身でありながら佐渡をおとずれた愛弟子を讃えた。だが賞賛するだけではない。金吾にさらなる強い信心をうながしている。妻の日眼女とともに、強盛な信心をたもてという。

法華経の信心をとをし給へ。火をきるにやす()みぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。()しき名さえ流す、(いわ)んやよき名をや。いかに況んや法華経ゆへの名をや。女房にも此の(よし)を云ひふくめて日月・両眼さう()のつばさ調ひ給へ。日月あらば(めい)()あるべきや、両眼あらば三仏の顔貌(げんみょう)拝見疑ひなし。さう()のつ()さあらば寂光(じゃっこう)宝刹(ほうさつ)へ飛ばん事須臾(しゅゆ)刹那(せつな)なるべし。(くわ)しくは又々申すべく候。恐惶謹言

五月二日  日蓮花押  『四条金吾殿御返事(煩悩即菩提御書)』


日蓮は妻日眼女への感謝も忘れない。金吾のかげで夫をささえる日眼女の姿を見ていた。金吾が信心を(たも)てるのも日眼女のおかげであるという。

日蓮は信心強盛な妻たちの激励を忘れなかった。難信難解の仏法であり、大難の最中である。妻の理解なしに信心をつづけるのは至難なのだ。

日蓮の婦人への気配りはこまやかである。日眼女しかり、土木常忍の女房しかり。阿仏房の妻千日尼、池上兄弟の女房など、数えきれない。

おのおのわずかの御身と生まれて、鎌倉にゐながら人目をもはゞからず、命をもおしまず、法華経を御信用ある事、たゞ事ともおぼえず。但おしはかるに、(にご)れる水に玉を入れぬれば水のすむがごとし。しらざる事をよき人におしえられて、其のまゝに信用せば道理に()こゆるがごとし。釈迦仏・普賢(ふげん)薩(注)()薬王菩( )宿(しゅく)(おう)()( )等の各々の御心中に入り給へるか。法華経の文に閻浮提(えんぶだい)に此の経を信ぜん人は普賢菩薩の御力なりと申す是なるべし。

女人はたとへば藤のごとし、をとこは松のごとし。須臾(しゅゆ)はな()れぬれば立ちあがる事なし。然るにはかばかしき下人もなきに、かゝる乱れたる世に此のとの(殿)をつかはされたる心ざし、大地よりもあつし、地神(さだ)んでしりぬらん。虚空よりもたかし。梵天帝釈もしらせ給ひぬらん。

人の身には同生同名と申す(ふたり)のつかひを、天生まるゝ時よりつけさせ給ひて影の身にしたがふがごとく須臾(しゅゆ)もはなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしもおとさず、遥々(はるばる)天にの()て申し候と仏説き給ふ。

此の事ははや天もしろしめしぬらん。たのもし、たのもし。  日蓮花押

此の御文は藤四郎殿の女房と、常によりあひて御覧あるべく候。 『同生同名御書

最愛の夫を多難の地に送った日限女を絶賛している。

藤四郎の女房とはだれであろう。一説には弟子日向の父、男金藤四郎というがさだかではない。いずれにしてもこの迫害の時期に退転せず、法華経信仰を貫いた信徒たちは、互いによりそって信心の灯をともし続けていた。


                  47 強信の日妙婦人 につづく
中巻目次


 普賢菩薩

 文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈迦の脇士。法華経普賢菩薩勧発品第二十八や普賢経では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。

「御義口伝に云はく、此の法華経を閻浮提に行ぜんは普賢菩薩の()(しん)の力に依るなり。此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護成るべきなり云云。」『普賢品六箇の大事




by johsei1129 | 2017-04-24 07:17 | 小説 日蓮の生涯 中 | Comments(0)
2015年 05月 07日

50 日妙、御本尊を授かる

 日妙は唱題の中、厳粛に本尊を授かった。
 彼女は本尊をうやうやしくだきしめ、喜びにひたった。

「ありがとうございます。つぎに、わたくしごとですが・・」

 日妙がいいにくそうである。

「再婚のことですね」

 日蓮は日妙をさとす。

「いかなる男を夫にされても、法華経のかたきならば随ってはなりませぬ。いよいよ強盛の志をたもつことだ。氷は水からつくるが水よりも冷たい。青きことは(あい)からでるが藍よりも色はまさる。おなじ御本尊にておわすれど、志をかさぬれば他人よりも色まさり、利生もあるのです」

 日妙は心から満足した。この日蓮の声を聞くために、千里をこえてやってきたのだ。踊りあがりたかった。

 それにしてもなんというお方であろう。流人の身でありながら、これほどまで弟子を思っていてくださるとは。

「上人様、わたしの心に迷いがなくなりました。空が晴れて地が明るくなったようです。持ちあわせの銭を使い果たした甲斐がございました」

 阿仏房がここで口をはさんだ。

「そのことじゃが。聞けば鎌倉に帰る手立てがないと聞いとりますがの」

 日妙は気丈だ。

「はい。ですがしばらくこちらでおつとめし、たくわえたいと存じます」

 ここで国府尼が日蓮に手をついた。

「上人様。おねがいでございます。日妙様の帰りの算段は、わたしども夫婦にさせてくだされ」

 国府尼がひもで通された銅銭を日蓮の前にさしだした。するとせきを切ったようにまわりの者も銭を前においた。

余談だが帰郷の費用はこれだけでは足りなかった。このため日蓮は家主の一の(さわ)入道に口添えし、用立してもらった。その際「法華経一部十巻」を渡す約束をしている。その時の経緯については建治五年、身延の草庵から一谷入道の女房に宛てられた『一谷入道女房御書』に次のように記されてる。

(もと)銭に利分を添えて返さんとすれば、又弟子が云く御約束(たが)ひなんど申す。(かたがた)進退(きわま)りて候へども人の思わん様は狂惑(おうわく)の様なるべし。力及ばずして法華経を一部十巻渡し奉る。入道よりもうばにてありし者は内内(ないない)(法華経に)心よせなりしかば是を持ち給へ

:日蓮はいざ約束を果たそうとするが、未だ念仏信仰から抜けきらない一谷入道に法華経を送ることに躊躇(ちゅうちょ)する。かわりに利子をつけて金銭で返そうとすると、弟子に約束を破ることになると言われ、進退極まりない状態になった。入道の祖母が法華経に心をよせているとのことなので、この方に法華経を持たせてください。
 
 日妙親子が島をはなれ鎌倉に帰っていく。
 かつての船頭が親子を船にのせた。

来た時とはうってかわって大勢の見送りがある。

「お前さんは偉いお方だったんですね」
 船頭はいささか罰が悪い。
「そんなことはありません。偉いのは、ほらそこに薄墨の法衣をまとっておられる日蓮上人様です」
 船がでた。

 日妙は日蓮の姿を目に焼き付けるように見続けた。これが最後かもしれないのだ。

 乙御前は船から落ちまいとしっかりと母の手を握りしめる。

 阿仏房老人が岸壁でこの様子を見ていた。彼は日妙の姿を見てつぶやいた。

「偉いおなごだのう。女人は愛する男をしのんで千里の道をたずね、石となり木となり鳥となり、蛇となったというが、日妙殿はそれ以上だ」

 この三年後、彼もまた日蓮を慕って海山をこえることになる。


 弟子のほとんどが「肝をけして」退転した中で、強盛な信心を見せる者があらわれた。師子は子を谷底に落として勇気を見るというが、勇敢にはいあがった弟子を見ることができたのである。その意志の強靭さは日蓮以上ではなかろうか。しかも女性である。

妙法の歴史の中で、名をはせた女性は少ない。日妙の強信は、釈迦の養母で釈迦教団の最初の女性出家者(比丘尼(びくに))となった摩訶(まか)波闍(はじゃ)波提(はだい)(マハーパジャーパティ・別注)をも超えると日蓮は言う。

日蓮の日妙に対する思いはつぎの手紙につづられている。

然るに玄奘は西天に法を求めて十七年、十万里にいたれり。伝教御入唐但二年なり。波涛三千里をへだてたり。此等は男子なり、上古なり、賢人なり、聖人なり。いまだきかず女人の仏法をもとめて千里の道をわけし事を。竜女が即身成仏も、摩訶波闍波提比丘尼の記莂(きべつ)にあづかりしも、しらず権化(ごんげ)にやありけん。また在世の事なり。男子女人其の性(もと)より別れたり。火はあたゝかに水はつめたし。海人(あま)は魚をとるにたくみなり。山人は鹿をとるにかしこし。女人は淫事(いんじ)にかしこしとこそ経文にはあかされて候へ。いまだきかず、仏法にかしこしとは。

当に知るべし、須弥山(しゅみせん)をいたゞきて大海をわたる人をば見るとも、此の女人をば見るべからず。砂をむして飯となす人をば見るとも、此の女人をば見るべからず。当に知るべし、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈・四王等、此の女人をば影の身にそうがごとくまぼり給ふらん。日本第一の法華経の行者の女人なり。ゆえに名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云云。

 相州鎌倉より北国佐渡国、其の中間一千里に及べり。山海はるかにへだて、山は峨々(がが)海は涛々(とうとう)、風雨時にしたがふ事なし。山賊海賊充満せり。すくすく(宿々)とまり(泊 )とまり()民の心虎のごとし犬のごとし。現身に三悪道の苦を()るか。其の上当世の乱世、去年より謀叛(むほん)の者国に充満し、今年二月十一日合戦、それより今五月のすゑ、いまだ世間安穏ならず。(しか)れども(ひとり)の幼子あり。あづくべき父もたのもしからず。離別すでに久し。かたがた筆もおよばず、心(わきま)へがたければとゞめ了んぬ。

文永九年太歳壬申五月二十五日       日蓮花押

 日妙聖人                      『日妙聖人御書』 


 権化とは仮にあらわれた姿をいう。竜女も摩訶波闍波提も女性ではあるが、釈迦在世のことであり、おぼつかない。しかし今、日蓮の目の前にその女性があらわれた。 

 日蓮の賛嘆はとめどない。手紙の中で彼女を楽法梵(ぎょうぼうぼん)()にたとえ、釈迦菩薩にたとえ、薬王菩薩にたとえ不軽(ふきょう)菩薩にたとえている。
 これらの菩薩は命を捨てて仏法を求めた人々であった。日妙もまた同じであると。
 手紙の末尾は「かたがた筆もおよばず、心弁へがたければとゞめ了んぬ」と結びがつかないまま終わっている。

 幕府の弾圧で多くの信徒が退転する中、日妙の佐渡見参は女性の身でもこれほどの強い信仰を持てることを見せつけ、日蓮の魂を確実にゆさぶることになった。



      51 良観の陰謀 につづく 
中巻目次       

   

別注 摩訶波闍波提(マハーパジャーパティ) 
 仏伝によると、釈迦の生母マーヤーは釈迦誕生後七日で亡くなり、妹のマハーパジャーパティが養母となる。釈迦(しゃか)は成道六年後に釈迦族の王宮に里帰りをするが、その時一族の多くが釈迦の弟子として出家。マハーパジャーパティも何度も出家を願い出るが、女性は男性修行僧(比丘(びく))の修行の妨げになるとして釈迦はマハーパジャーパティの願いを拒絶する。それを取り持ったのが釈迦の従兄弟で、釈迦の従者(秘書)をしていた多聞第一の阿難(アーナンダ)
であった。阿難は釈迦に「あなたは全ての人は平等だと説かれました。女性でも出家し四諦(したい)八正道を実践すれば悟りを得られるのですね」と問うと、釈迦は「その通りだ」と答え「マハーパジャーパティはあなたの生母で恩ある方です。出家を許してください」と懇願、阿難の熱意にうたれ、ついに釈迦はマハーパジャーパティの出家を許す。ここに仏教で初めての女性修行僧(比丘尼)が誕生することになる。またマハーパジャーパティは妙法蓮華経序品第一では、六千人の比丘尼の筆頭として法華経説法の座に連なり、観持品第十三では釈尊より、未来に「一切衆生喜見如来」となるとの記別を受けている。



by johsei1129 | 2015-05-07 20:59 | 小説 日蓮の生涯 中 | Comments(0)
2014年 12月 03日

小説 日蓮の生涯 中

作 小杉 貢  監修 三浦 常正   平成26年1月3日    公開

中巻目次


35  真冬の佐渡へ

36  末法の本仏を宣言

37  佐渡への船出 

38  孤島佐渡での苦境 

39  自界叛逆難の気配 

40  退転する弟子たち 

41  大難をこえる道 

42  阿仏房と怨嫉の島 

43  塚原問答の勝利 

44  自界叛逆難の的中 

45  守護代、本間重連の帰伏 

46  二月騒動の顛末 

47  強信の日妙婦人 

48  始めて本尊を顕わす 

49  御本尊建立を説き明かす 

50  日妙、御本尊を授かる 

51  良観の陰謀 

52  留難ふたたび 

53  時宗、赦免を決断 

54  鎌倉帰還 

55  最後の諌暁

56  幕府を突き放す 

57  鎌倉を去る

58  身延入山 

59  蒙古襲来 

60  三度の高名 

61  弟子たちの布教  

62  山中の日蓮  

    
                     上巻目次  下巻目次

                                           (佐渡ヶ島全景)


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by johsei1129 | 2014-12-03 11:51 | 小説 日蓮の生涯 中 | Comments(0)
2014年 11月 29日

62 山中の日蓮

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             (身延山頂から富士山・富士川を望む。山の険しさがわかる)


 日蓮は甲斐の山奥に安住することになったが、ひもじい暮らしはあいかわらずだった。

食卓には豆と薄い汁がならぶ。

日蓮と弟子たちが口にした。

日向(にこう)がいう。

「上人、波木井殿はなにか申しておりましたか」

日蓮が豆をふくみながら答える。

「なにを」

「このような食では身がもちませぬ。われらがここに来たとき、波木井殿は食べ物のことは心配せずともよいと申したはずですが」

日蓮の目が笑う。

「波木井殿とて苦しいのだ。年貢がままならねば幕府から(とが)めがある。それに加え、われらのこともやっかいであろう。なにより間借りしている身なのだ。日向よ、ありがたく思わねば」

同じ夜、波木井実長は裕福な食膳にかこまれていた。日蓮のとは対照的だった。

波木井には日蓮を庇護してやっているという思いがある。彼は日蓮を信奉してはいたが、同時に日蓮の家主でもある。

波木井は思う。

自分と日蓮の立場は同等である。自然、扱いはどうしてもぞんざいとなった。その心情は振舞にあらわれた。実長のこの思いは日蓮がここに住んだ八年間かわらなかった。このため日蓮は口には出さなかったが、衣食について苦しい日々をかさねなければならなかった。

信徒から単衣(ひとえぎぬ)一領を送られて感謝した手紙がのこっている。衣の送り主は駿河の南条一族の一人という。身延山に入った翌年の手紙である。ここにその窮状がみてとれる。

かゝる身なれば()()が如く雪を食として命を継ぎ、()(りょう)が如く(みの)をきて世をすごす。山林に交わって(このみ)なき時は空しくして両三日を過ぐ。鹿の皮破れぬれば裸にして三・四月に及べり。かゝる者をば何としてか(あわ)れとおぼしけん。未だ見参(げんざん)にも入らぬ人の(はだえ)を隠す衣を送り給び候こそ、(いか)にとも存じがたく候へ。   『単衣抄

三日食べず、三月のあいだ着るものもない。まして着るものは衣ではなく鹿の皮だったという。くわえて山の冬はきびしい。「飢寒の二苦」は日蓮の終焉までつづいた。

弟子の育成に傾ける熱い思いとは裏腹に、身辺は苦しい日々だった。

日蓮は甲斐の山にこもったが、安閑としているわけではない。弟子の育成、法門の述作、弟子檀那への手紙を次から次へとしたためていた。甲斐身延での著作は現存するだけでも膨大である。日蓮は文永十一年五月十七日に駿河国・波木井に到着してから弘安五年十月十三日に入滅するまでの八年間で、真筆、古写本で確認されている書は三百二十点ほどにもなる。

この当時、新聞はなくテレビやラジオもない。携帯もなければネットもない。まして唯一の通信手段の紙は貴重だった。日蓮は使い古しの紙まであつめ、書きあげていった。意思伝達の手段は文字と人の口だけである。日蓮は伯耆房をはじめとする弟子たちに、薫陶に薫陶をかさねて旅立たせた。

述作については筆をとる前、いかに人の心に伝わっていくか、練りに練って思索をつくした。そうしていったん構想がまとまれば大胆に記述していった。長文の重要法門をしたためる時以外は、ほとんど下書きなどない。すべて頭の中でまとめた。今のわれわれには到底真似はできない。

述作とならんで身魂をくだいたのは本尊の建立だった。

中央に「南無妙法蓮華経日蓮」としたため、そのまわりに己心の十界( )(注)を象徴する如来、菩薩、天人、諸王をしるして弟子檀那にあたえた。

この強い思いを消息の中で訴えている。

日蓮がた()しひをすみ()にそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。仏の御心(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云はく「顕本遠寿(おんじゅ)を以て其の命と為す」と釈し給ふ。    『経王殿御返事

日蓮は一人一人の信徒に仏法の極意を伝えるため、本尊を書きあらわした。「すみにそめながして」とある。全魂をこめたといってよい。日蓮が疲れきって筆が止まったときは、伯耆房に命じて書きあらわしている。この書きあらわすことを建立という。仏塔の建立とおなじ意味である。日蓮は釈迦滅後二千年の末法で、この本尊だけが生きる法であると確信していた。

また本尊は目に見えて信心強盛な者だけにあたえられる。浅い了見の者にはけっしてあたえなかった。

日蓮のあとをついだ伯耆房日興は本尊をうける者の資格をのべている。


在家出家の中に或は身命を捨て或は(きず)(こうむ)り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に(かたじけな)くも書写し(たてまつ)り之を授与する者なり。    『富士一跡門徒御存知事

本尊はだれにでもあたえるものではない。

日蓮は大難のつらさに耐えかねて、信心を捨てる者の多さを身にしみて体験した。はじめは熱心で日蓮につくようにみえて、難がおきたとたん、たちまち信心を捨て非難する者のなんと多いことか。そのような者にとって本尊はただの紙きれにすぎない。彼らは法を下げ、人を悪道におとすだけである。日蓮は苦々しい思いでいた。

日蓮が建立した御本尊の中に、日興が筆を入れ、日蓮が花押をしるした本尊が現存する。この本尊は代々つたわり江戸時代、今の仙台染師町の仏眼寺に安置されていた。

寛永十三年(一六三六)、火災がおこり、この本尊にも火がせまったが、自ら飛び去って類焼をまぬがれたという。本尊は近隣の木にかかっていた。いわゆる「飛び曼荼羅」である。大名の伊達家は藩の宝として尊崇した。

日蓮は弟子に本尊を(たも)たせ、強信の徒にとどけた。法華経流布の勢いは拡大していく。すでに日本国の十人に一人が南無妙法蓮華経と唱えつつあった。日蓮が良観との降雨祈祷合戦に勝利した時の布教の勢いを上回るほどだった。

日蓮は大難をのりこえて信心をたもった者に本尊を下付しつづけた。この時下付した御本尊は、それぞれに弟子、信徒の授与名をいれた、いわば一機一縁の御本尊であった。その証拠に阿仏房へ御本尊を下付した時の消息文で「あまりにありがたく候へば、宝塔(御本尊)をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんば、ゆづることなかれ。信心強盛の者に非ずんば見することなかれ」(阿仏房御書)と記している。つまり全世界の人々が一同に奉る御本尊ではない。
 教主釈尊は二千二百年前、法華経で遺言した。


我が滅度の後、()の五百歳の中に、(えん)()(だい)に広宣流布して、断絶して悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉(やしゃ)鳩槃荼(くはんだ)等に、其の便(たより)を得せしむること無かれ。   「薬王菩薩本事品第二十三」

日蓮は自覚していた。

一閻浮提総与、すなわち全世界の一切衆生にあたえる本尊の建立が近くなっていることを。またそれが生涯をかけた目的、つまり出世の本懐を遂げることであることも。


                         63 日蓮と四条金吾 につづく
 中巻目次  

   十界

十種類の衆生の境界のこと。十法界ともいう。仏法で一個の生命体、生命現象を時間的な流れの観点から解明したもので、瞬間瞬間の時間の流れの中にあらわれる生命の境地を、十種に分別したもの。十法界の名称を下からあげれば、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十となる。また仏界は悟りで、ほかの九界は迷いであるから九迷一悟といい、十界のおのおのが他の十界をそなえるという生命観を十界互具という。

(しばしば)他面を見るに、(ある)時は喜び、或時は(いか)り、或時は(たい)らかに、或時は(むさぼ)り現じ、或時は(おろ)か現じ、或時は諂曲(てんごく)なり。瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡かは畜生・諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏(みょうぶく)して現われざれども委細(いさい)に之を(たず)ぬれば之有る可し」『観心本尊抄



by johsei1129 | 2014-11-29 22:11 | 小説 日蓮の生涯 中 | Comments(0)
2014年 11月 29日

61 弟子たちの布教

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                      (蒙古に備える武士たち。石垣は防塁とみられる)

太平洋のさざ波が相州鎌倉によせる。

この鎌倉の侍所に武士や町人がおしよせていた。かれらは建物にむかって怒声を発していた。異様な光景だった。

主の時宗にではない。ここに蒙古の使節が滞在していたからである。

蒙古は昨年の十月に博多を襲撃して焼きはらったばかりだった。この文永の役とよばれる戦いで日本は大損害をこうむった。

その蒙古が日本に使節を派遣したのである。彼らは文永の役の勝者として譲歩をせまった。威圧的な訪問だった。

鎌倉の人々は蒙古の使節に非難をあびせた。蒙古をゆるせないのは当然である。

蒙古の使者は杜世忠を正使とする五人だった。

彼らはこの年の四月十五日に長門国室津(山口県下関市)に上陸。捕らわれの身となって太宰府におくられた。そして八月になって太宰府から鎌倉に護送されたのである。

五人は幕府が用意した豪勢な客間にそろって着席していた。

正使の杜正忠は蒙古人である。副使は中国人、ほか朝鮮人一名、ウイグル人二名だった。

五人はみないらだっていた。正規の使節だというのに事実上、罪人同様のあつかいである。

「いったいどうなっているのだ。何日またせるのだ。われらは蒙古皇帝の使者としてきたのだ。なのに毎日毎日、意味のない挨拶ばかりだ。はやく切りあげたほうがよくはないか」

杜世忠がなだめた。

「まあまて。ここが我慢の時だ。歳月を要するのは覚悟したことではないか。国どうしがふたたび(やいば)を交えるのか、和解におわるのか。なにはともあれ鎌倉幕府の決断をまとうではないか」

別室では幕府の中枢が会議をしていた。会議は連日連夜にわたっていた。

いつものように瞑目する北条時宗を中心として安達泰盛、平頼綱、北条光時らが参集した。

重苦しい雰囲気がみなぎる。

安達泰盛が言上した。

「蒙古とは和睦すべきでござろう。いま日本国をとりまく情勢は緊迫しておりまする。蒙古は漢土で南宋を滅ぼす勢いでござる。このままいけば、再度わが国に攻めいるのは必至。今はいちおう和睦といたし、時間をかせぐのが最善の策と思われます」

平頼綱もめずらしく同調した。

「今はそうするしかございませぬ。文永のいくさでは天候が味方し、きゃつらは退散しましたが、残念ながら軍配は蒙古にあった。いくさの作法もちがえば、手にとる武器もまったくちがう。今戦えば九州武士団は全滅もありうる。北条を守るためにも今は和平に応じ、貿易を開始するのが妥当でござろう」

この二人の意見が日本国内の共通した認識だった。日本全体がおびえている。それもこれも去年の文永の役と呼ばれる戦いで、思いもかけない敗北を喫したからである。もう一戦交えれば、それこそ滅亡になりかねない。げんに漢土・朝鮮は滅亡しかかっている。

甲斐の山奥にいる日蓮は戦いの前からこのことを察知していた。日妙にあてた消息にいう。

 当世の人々の(もう)()国をみざりし時のお()りは、御覧ありしやうにかぎ()りもなかりしぞかし。去年の十月よりは一人もおごる者なし。()こし()しゝやうに、日蓮一人計りこそ申せしが、()()だに()たる程ならば、(おもて)をあはする人もあるべからず。(ただ)さる()の犬をおそれ、か()るの蛇をおそるゝが如くなるべし。是(ひとえ)に釈迦仏の御使ひたる法華経の行者を、一切の真言師・念仏者・律僧等ににくませて我と損じ、ことさらに天のにくまれを()ほれる国なる故に、皆人臆病になれるなり。譬へば火が水をおそれ、木が(かね)()ぢ、(きじ)(たか)をみて魂を失ひ、ね()みが猫に攻めらるゝが如し。一人もたすかる者あるべからず。()の時はいかゞせさせ給ふべき。(いくさ)には大将軍を魂とす。大将軍()くしぬれば歩兵(つわもの)臆病なり。  『乙御前御消息

幕府の首脳会議では時宗の動向に注目があつまっていた。

意外にも彼は突然立ちあがって怒りだした。

「おぬしら臆病風に吹かれしや。それでも鎌倉武士か。昨年の筑紫攻撃は国辱である。おぬしらは蒙古の申し状をみたのか。臣下の礼をしなければ攻撃するという。それが日本国の主に対する態度か。おのおの覚悟を決めよ。無礼者には無礼でたちむかえ。力でくる者には力でこたえるのだ」

泰盛がおそるおそる聞いた。

「では五人の使者は」

「打ち首といたす」

泰盛はこれで北条も終わりだとばかり表情が暗い。いっぽう時宗の性格を知り尽くしている頼綱は、予想どおりとばかりほくそ笑んだ。

時宗はすでに戦いに突入したかのように、矢継ぎ早に命じる。

「蒙古は再度筑紫をねらうであろう。九州の守護に命じて再度守りをかためるよう指示を出せ。全国の神社仏閣に蒙古退治の祈祷をさせよ。北条一門は太宰府に陣をとれ。御家人は兵士を動員し博多にむかえ」

勇ましい返事とともに所従が散った。

杜世忠ら五人は死罪と決まった。

群衆が竜の口の刑場にむらがり、喝采をあげていた。文永の役の恨みが晴らされる時だった。

蒙古の使者五人が正座した。彼らの背後に介錯人が立つ。

正使の杜世忠は宙を見てなげいた。

「国を出るとき妻子にいった。大役を果たして故郷に(にしき)をかざるであろうと。だがそれもかなわぬこととなった。これで蒙古と日本はいくさになる。この国がどのような報いをうけるのか、見とどけたかったが」

彼は悲痛な思いで辞世の句をうたった。

 出門妻子贈寒衣  門を出ずれば妻子寒衣を贈る。

 問我西行幾日帰  我に問う、西行し幾日にして帰る。

 来時儻佩黄金印  来る時もし黄金の印を()びれば。

 莫見蘇秦不下機  蘇秦を見て(はた)を下らざるなからん。

(家を出るとき、妻子は衣をくれてわたしにいった。いつお帰りですか。あなたが帰ってきたとき、黄金の印を身につけたならば、蘇秦の妻のように冷たくはいたしませんわ)

蘇秦とは中国戦国時代の外交家である。無類の弁舌家だった。彼は無名だったころ、大国の秦に対抗するため諸国を遊説して抗戦を説いた。だが家に帰っても妻は機を織りつづけて夫を無視したという。

杜世忠は蘇秦の弁舌で、なんとしても鎌倉幕府を説得したかった。だがそれはむなしくなった。

杜世忠の願望を断ち切るかのように、太刀取り人の剣が振りおろされた。

兵隊が鎌倉大路をすすむ。騎馬の軍団のあとに所従がゆく。

行く先ははるか九州である。

沿道には妻子たちが涙で行進を見送った。兵の中から耐えきれず妻子と抱きあう者がいた。彼らは顔と顔をあわせ、目と目をあわせてなげいた。

鎧の武士がむりやり彼らを引きはなした。

日蓮はこのやりきれない情景を手紙にのこしている。宛先は土木常忍の妻である。常忍の妻は病気だった。日蓮は彼女に病で苦しむとき、筑紫にむかう人々のつらさを思って嘆かないよう激励している。あわせてこの国が日蓮を苦しめた報いをうけているということも。

なによりもをぼ()つか()なき事は御所労なり。かまへてさもと三年、はじめのごとくに、()()せさせ給へ。病なき人も無常(むじょう)まぬかれがたし。但しとしのはてにはあらず。法華経の行者なり。非業の死にはあるべからず。よも業病(ごうびょう)にては候はじ。(たと)ひ業病なりとも、法華経の御力たのもし。阿闍(あじゃ)()王は法華経を持ちて四十年の命をのべ、(ちん)(しん)は十五年の命をのべたり。尼ごぜん又法華経の行者なり。御信心は月のまさるがごとく、しを()のみつがごとし。いかでか病も()せ、寿ものびざるべきと(ごう)(じょう)にをぼしめし、身を持し、心に物をなげかざれ。なげき出で()る時は、ゆき(壱岐)つしま(対馬)の事、だざ(大宰)ひふ()の事、かまく(鎌倉)らの人々の天の(たのしみ)()とにありしが、当時()()しへむかへば、()ゞまるめこ(女子)ゆく()をと()こ、()なるゝときはかわ()はぐ()がごとく、かを()とかをとをとりあ(取合)わせ、目と目とをあわせてなげきしが、次第にはなれて、()()のはま、()()ら、こし()()へ、さかわ(酒匂)()こね()ざか()。一日二日すぐるほどに、()ゆみあゆみと()ざかるあゆみも、かわ()も山もへだ()て、雲もへだつれば、うち()うものはな()だなり、ともなうものは()げきなり、いかにかなしかるらん。かくなげかんほどに、もう()()のつわもの()めきたらば、山か海も()どり()か、ふね()の内か、()うら()いかにて()()にあはん。これひとへに、(とが)もなくて日本国の一切衆生の父母となる法華経の行者日蓮をゆへもなく、或は()り、或は打ち、或は()()をわたし、ものにくる()いしが、十羅刹のせめを()ほりてなれる事なり。又々これより百千万億倍たへがたき事どもいで来るべし。かゝる不思議を目の前に御らんあるぞかし。我等は仏に疑ひなしとをぼせば、なにのな()きかあるべき。き()きになりてもなにかせん、天に生れてもようしなし。竜女があとをつぎ、摩訶波舎波提(まかはじゃはだい)比丘尼(びくに)れち()につらなるべし。あらうれしあらうれし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ。恐々(きょうきょう)謹言(きんげん)。  『富木尼御前御書

全国の寺社に敵国降伏の祈祷が命じられた。

建治元年一月には、東寺の長者道宝が伊勢大神宮に参籠し敵国調伏を祈願した。東寺は真言宗の本山である。また同じ年の十月には全国の十二社が敵国降伏を祈っている。

どの寺院でもきらびやかな袈裟をまとった高僧が宗徒をあつめて異国降伏を祈った。

だが日蓮は日本国がかえって絶望的な状況にむかっているという。
 武蔵の信徒で、父が鎌倉幕府の作事奉行であった池上宗長への手紙にしるす。

今度(このたび)は又此の調伏三度なり。今我が弟子等死したらん人々は仏限をもて是を見給ふらん。命つれなくて生きたらん(まなこ)に見よ。国主等は他国に責めわたされ、調伏の人々は(あるい)は狂死、或は他国或は山林に()くるべし。教主釈尊の御使ひを二度までこうじ(街路)をわたし、弟子等をろう()に入れ、或は殺し或は害し、或は(とこ)()()ひし故に、其の(とが)必ず国々万民の身に一々にかゝ()るべし。或は又白癩(びゃくらい)黒癩(こくらい)・諸悪重病の人々おほ()かるべし。我が弟子等此の由を存ぜさせ給へ。恐々謹言。

 九月九日                    日蓮花押

此の文は別しては兵衛(ひょうえ)(さかん)殿へ、総じては我が一門の人々御覧有るべし。他人に聞かせ給ふな。  『兵衛志殿御書』(弘安元年9月9日57歳御作)

「調伏三度なり」という。一度目は源平の戦い、二度目は承久の戦いである。いずれも邪宗、とりわけ真言の祈祷に頼ったために平家も後鳥羽上皇も敗れた。

蒙古調伏の祈禱もまた真言によってなされようとしている。滅亡は明かだった。

ちなみに源平の戦いは武士同士の争い。承久の合戦は武士と王朝の争いだった。三度目は王朝と王朝の闘諍である。規模が大きくなるにつれ、惨状が目も当てられないことになっていく。

「他人に聴かせ給ふな」とは日本国が亡国となることを他人にあらかさまに語ってはならないということである。法華経を誹謗する人々に真実を告げても、今となっては無意味である。それよりも日蓮の門下は日本の滅亡を覚悟しておくように促している。

博多湾では炎天下、兵士が領民をかりたてていた。海岸線に沿って防塁を築くためである。この石積みの壁は高いもので三メートル、長さ二十キロにわたった。

文永の役では蒙古兵を上陸させて敗北を喫した。この苦い経験から、水際で蒙古を防ごうとしたのである。

兵士もふんどし姿で岩石をはこぶが疲労の色が濃い。博多にはさらに新たな兵隊がぞくぞくと到着していた。

甲斐の国身延にはこの喧騒はとどかない。

高い山に囲まれていた。西に七面の山、東に天子の岳、北は身延山、南は鷹取の山である。ここに四つの川が流れる。富士河、早河、大白河、身延河だった。

このふもと、一町ばかりの土地に日蓮の庵室があった。

この身延山の様子を伝えた手紙がのこっている。宛先は新池(にいけ)左衛門尉という。新池氏は遠江国磐田郡新池、いまの静岡県袋井市に住んでいた。鎌倉幕府の直参で、伯耆房の折伏により日蓮に帰依したという。

新池は米三石をはるばる身延の山へ送った。日蓮は山中のけわしさをつづる。

其の上遠江国(とおとうみのくに)より甲州波木井の郷身延山へは道三百余里に及べり。宿々のいぶせさ、嶺に昇れば日月をいたゞき、谷へ下れば穴へ入るかと覚ゆ。河の水は矢を射るが如く早し。大石ながれて人馬むかひ難し。船あやうくして紙を水にひた()せるが如し。男は山がつ、女は山母(やまうば)の如し。道は縄の如くほそく、木は草の如くしげし、かかる所へ尋ね入らせ給いて候事、何なる宿習なるらん、釈迦仏は御手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に随ひ、日月は眼となりかはらせ給いて入らせ候いけるにや、ありがたしありがたし。    『新池殿御消息

林の中で、土地の百姓たちの笑い声がひびいた。

彼らは車座になって話しこんでいた。

「むくりが攻めてくるじゃと。こんな山奥にくるわけがなかろう」

「いや、わからんぞ。鎌倉ではもっぱらのうわさというぞ。こんど攻めてきたら勝ち目はない。兵隊がぞくぞくと筑紫へ行くのを見たが、どれもなげきの目じゃ」

「もし攻めてきたら、この山奥も逃げる者でいっぱいになるかもな」

一同が笑いあった。

「ところでどうじゃ。あの坊様は」

「日蓮とかいう人か。ほんにこんな山奥へよくきたもんじゃ。食べるものにも困っているそうな。あれでえらい坊様なのかえ」

百姓がうなずいた。

「なんでも鎌倉様が大きな寺を建ててやるという誘いを蹴って、この山へきたということだ」

「そりがあわなかったのかのう」

「だが、気さくな方じゃ。このあいだもな、ぶらっとわしの家にきて、あの山の名はなんという、あの河はなんという、今年の作柄はどうか、こまごま聞いてきおった。あんまりうちとけた話をされるので思わず話が長くなったわ」

「しかしあの坊様、いつまでもつかのう。波木井(はきり)様がついているとはいえ、夏は草茂く、冬は雪深い。ひもじい思いはつのるはず。なみの坊主なら、そろそろ逃げだすところだぞ」

唱題の声が古びれた堂にひびいた。日蓮と弟子たちが題目を唱えていた。

唱題が終わり、日蓮は講義をはじめた。

すでに室内は若い弟子であふれている。旅姿の者もいる。

日蓮の頭は白くなっていた。その口調はいつになく強かった。

「教主釈尊が涅槃したまいて二千年、末法の世となった。いま末法にはいり二百年である。釈迦の予言のとおりならば、仏法の中において言訟(ごんしょう)がおき闘諍(とうじょう)がはじまり、釈尊の法が滅尽する時である。仏の未来記がまことならば、必ずこの世界に闘諍がおきる。

伝え聞く。かの漢土において三百六十ヶ国、二百六十州はすでに蒙古にうち破られた。都はすでに破られて徽宗・欽宗の二人の皇帝は北の(えびす)に生け捕りとなり世を去った。徽宗の孫、高宗皇帝は長安を攻め落とされて田舎の臨安に落ちさせたまい、今に数年があいだ都を見ていないという。高麗六百余国も新羅・百済の諸国も、みな蒙古皇帝に攻めおとされた。このたびの壱岐、対馬そして筑紫のように。仏の予言は地に落ちていない。あたかも海が潮時を(たが)わないのと同じである。

これをもって案ずるに、釈迦の仏法がかくれ、法華経の大白法が日本国ならびに一閻浮提(いちえんぶだい)()()することも疑いはない。大地がおどりあがろうと、高山がくずれおちようと、春のあとに夏はきたらずとも、日が東へかえるとも、月が地におつるとも、この事は一定(いちじょう)である」

伯耆房らの弟子が真剣に聞いた。逆に三位房、大進房はうわの空で天井をながめていた。

「このために念仏・禅・真言の邪宗を責めて国主にも訴えたが、三たび諫言しても聴きいられなかった。賢人の習い、三度いさめて用いられずば山林に交われという。よって最後にはこの山にこもることとなった。日蓮は身延の山を離れることはない。もしここから出ることになれば、末もとおらぬ者と後世の人は笑うであろう。ならば大海の底の千曳(ちびき)の岩は動くとも、日蓮はここをはなれることはない。

みなには手塩にかけて教えたつもりである。法華経の肝心、南無妙法蓮華経が流布するかどうかは、おのおのにかかっている」

伯耆房が日蓮に誓った。

「上人、われらは法華経の肝心である妙法蓮華経の五字を、必ず弘めてまいります」

日蓮はうなずいて弟子たちに弘教の地を指図した。

「ではそれぞれの受けもつところを告げる。伯耆房は駿河の地に」

「はい、わたしは岩本実相寺と熱原滝泉寺を拠点に活動してまいります。かならず妙法の種をまいてまいります」

「日朗は鎌倉へ」

「はい、鎌倉には四条金吾殿はじめ、強信徒が多数おります。私はこの人たちと手を携え、とともに妙法をひろめてまいります」

「学浄房は佐渡へ」

「はい、佐渡の阿仏房様、国府入道様のもとで布教してまいります。守護代の本間様にも協力を仰ぎます」

弟子たちが旅姿で出発した。

日蓮がわらじのひもを結ぶ伯耆房に声をかけた。

「駿河は幕府の所領が多い。わかっておるな」

「はい」

「ことに富士の一帯は北条の後家尼御前の土地だ。気をつけよ。彼らの行きずりにも、富士鹿島の辺に立ちよることはひかえよ」

伯耆房が澄みとおる目でほほえんだ。

「ご安心ください」

伯耆房は颯爽とでていった。

             62 山中の日蓮 につづく
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by johsei1129 | 2014-11-29 22:00 | 小説 日蓮の生涯 中 | Comments(0)
2014年 11月 29日

60 三度の高名

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      (身延草庵跡)

 鎌倉の日妙の家は質素な作りだった。
 日妙は少年の荷造りを手伝っていた。少年の頭はきれいに剃られている。

そばで娘の(おと)御前が色とりどりの貝殻で遊んでいる。

少年はこれから甲斐身延の日蓮のもとへ所化として修行に行く。一人旅だった。

日妙が母親の目で、あどけない少年につげた。

「さあできましたよ。気をつけていくのですよ。病気がはやっています。気をつけて。生水をのんではいけません。命とりになります。よいですか」

「承知しました。それではいってまいります」

少年が日妙に頭をさげた。

「いままで親がわりになっていただき、ありがとうございました。このことは上人にもお伝えいたします。しばらくのあいだ留守にいたします。日妙さまもお元気で」

少年が旅立つ。

日妙はその後姿に、佐渡へ旅した自分を重ねあわせた。彼女は少年の背中に手をあわせた。

「どうか上人様のところへ無事つきますように。どうか立派な日蓮上人の弟子になりますように。どうか国をひきいる上人になれますように・・」

少年が小さくなっていく。その姿は十二の歳で旅立った日蓮と似ているようだった。

遊んでいた乙御前が心配した。

「お母さま。どうかしましたか」

 日妙がほほえむ。

「なんでもありません。さあお勤めしましょう」

 お勤めとは勤行のことである。

乙御前がふくれた。

「お母さま。わたしはいま遊んでおります」

母が娘と目をあわせた。

「お勤めしたら、いくらでも遊んでよいですよ。さあ祈りましょう。御本尊様に祈って、かなわぬことはないのです。わたしたちの行く末も、国の未来も」

日蓮は佐渡流罪中に、彼女に手紙を送っている。

日妙婦人は千里の海山をこえて罪人の自分をたずねにきた。日蓮の日妙への慈愛は娘の乙御前にもそそがれた。日妙のよろこびはいかばかりであったろう。

をとごぜんがいかにひと(成人)ゝなりて候らん。法華経にみやづ(宮仕)かわせ給ふほうこう(奉公)をば、をとごぜんの御いのちさい()わいになり候はん。いまは法華経をしのばせ給ひて仏にならせ給ふべき女人なり。かへすがへす、ふみ()ものぐ(物臭)さき者なれども、たびたび申す。又御房たちをもふびん(不便)にあたらせ給ふとうけ給わる。申すばかりなし。『乙御前母御書

若い弟子たちを養育する日妙に感謝している。「申すばかりなし」とは最大級の賛辞である。ふるい立つものがあったろう。

日妙親子が手をあわせ、題目を唱えはじめた。見つめるのは命がけの旅でさずかった御本尊だった。

日妙はこのあとも長く鎌倉にいた。そして幼い弟子たちを物心両面で支えていく。

宵の月が幕府被官、宿屋入道光則の館をてらす。

宿屋は縁側に立って月を見ていた。
 彼は物思いにふけった。やがて正座し、月にむかって手をあわせ、弱々しい声で唱えはじめた。

「南無妙法蓮華経」

宿屋は立正安国論を北条時頼に取りついだ人物である。彼は日蓮の強烈な個性に圧倒されていた。

 のちに宿屋は入信し、彼の屋敷は光則寺として今も鎌倉にのこる。

鎌倉では四条金吾が本尊に題目を唱えていた。妻日眼女と子の月満御前が唱和した。

金吾の骨太な声がひびく。彼は唱えながら日蓮の言葉をかみしめた。

苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうち()なへ()させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいた()し給へ。 『四条金吾殿御返事

下総の土木常忍邸に勇ましい太鼓の音がひびいた。

土木常忍と太田乗明、そして部屋をうめた信徒が一幅の本尊に題目をあげる。

常忍の子は出家して日蓮の弟子となり、日頂と名のった。その若い日頂が導師をつとめる。

一人一人が本尊を見つめ唱和した。その声が空にひびく。

佐渡ヶ島は雪のまじる波が音をたてていた。南無妙法蓮華経と唱える声が、吹雪の寒々とした音をかき消すかのように聞こえてくる。

館には阿仏房と妻千日尼、国府入道夫妻そのほか島の信徒が、所せましと正座し、日蓮が図現した本尊に向かい題目をあげていた。日蓮がはるか甲斐から阿仏房に送ったのである。

その阿仏房への手紙にしるす。

あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ()る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり。阿仏房さながら北国の導師とも申しつべし。  『阿仏房御書

宝塔とは御本尊のことである。

佐渡は日蓮が去ったあとも法華経の勢いはやまなかった。弾圧をのりこえた信心は、いやがうえにも強固となった。しかし念仏者との確執は今もつづいている。

みな必死の形相で祈る。全員の題目が空にひびきわたった。

いっぽう甲斐山中では、うっそうと茂る森林に沢の音がひびく。

館では日蓮が本尊に力強い題目を唱えていた。日蓮は祈りながら、五十三年の生涯をふりかえった。

やるべきことはやりとげたのだ。とりわけ国主を三たび諌めたことは誇らしかった。三度の諫暁で自分の名を後代にとどめることができた。この満足感はたとえようもない。そしてこれを可能にした法華経の力。日蓮は悦びをおさえきれない。

外典に云はく、未萌(みぼう)をしるを聖人という。内典に云はく、三世を知るを聖人という。余に三度のかう()()うあり。一つには()にし文応元年七月十六日に立正安国論を最明寺殿に(そう)したてまつりし時、宿屋(やどや)の入道に向かって云はく、禅宗と念仏宗とを(うしな)ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ひなきならば、此の一門より事をこりて他国にせめられ給ふべし。二つには去にし文永八年九月十二日(さる)の時に平左衛門尉に向かって云はく、日蓮は日本国の棟梁(とうりょう)なり。予を失ふは日本国の柱を倒すなり。只今に自界(じかい)逆難(ほんぎゃくなん)とてどし(同士)()ちして、他国侵逼難(たこくしんぴつなん)とて此の国の人々他国に打ち殺さるゝのみならず、おおくいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をば()きはらいて彼等が頸を()()はま()にて切らずば、日本国必ず滅ぶべしと申し候ひ(おわ)んぬ。第三には去年(こぞ)文永十一年四月八日左衛門尉に語って云はく、王地に生まれたれば身をば(したが)へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為(しょい)なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古国を調伏せん(こと)真言師には仰せ付けらるべからず。()し大事を真言師調伏(じょうぶく)するならば、いよいよ此の国ほろぶべしと申せしかば、(より)(つな)問うて云はく、いつごろかよせ候べき。予言はく、経文にはいつとは()へ候はねども、(てん)御気色(みけしき)いかりすくなからず、()うに見えて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。(ただ)(ひとえ)に釈迦如来の御神(みたましい)我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。  『撰時抄
                       

日蓮が唱える。

弟子たちがつづいて唱和していった。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」

すべての題目が満月の輝く澄みきった空にひびきわたった。



          61 弟子たちの布教 につづく
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by johsei1129 | 2014-11-29 21:49 | 小説 日蓮の生涯 中 | Comments(0)
2014年 11月 29日

59 蒙古襲来

http://pds.exblog.jp/pds/1/201405/25/54/f0301354_00214272.jpg?w=1920&h=648  竹崎季長 蒙古襲来絵詞                    

月になった。

北九州の博多湾に物見やぐらがそびえていた。やぐらは湾を一望できるように立っていた。

兵士がその頂上で海のかなたをにらんでいる。

武士団がぞくぞくとあつまり、騎馬の武士や兵隊でうめつくされた。

武士団といっても組織だってはいない。組織化されるのはずっとあとの戦国時代である。この当時、形態はばらばらだった。何十人の軍団もあれば、主従二人だけというのもある。刀の鍛錬をする者、弓をひいて腕をためす者、輪をつくって酒をくみかわす者、それぞれが戦いを前に意気ごんでいた。

ここには親子の武士もいた。二人ともに古びた鎧をつけている。父親が幼い武者姿の子供をさとした。

「このたびのいくさは、わが一族にとって千載一遇の好機であるぞ。大いに力を発揮すれば、失いし所領をとりもどすことができよう。敵の首を見事にうちとれば恩賞は思うままだ。ここでわが一族の進退がきまる。よいか一番乗りをはたすのだ。おくれるでないぞ」

子供が口元をひきしめた。

鎌倉時代は個人戦である。武士の一人一人が自分の功名のために戦う。名声を得るためなのだが、目的は恩賞である。そのためには自分の名前をアピールしなければならない。名を知られずに華々しく戦ってもなんの意味もなかった。だが乱戦になれば敵味方の区別さえわからなくなる。そこで彼らは兜や鎧に自分の名をしるした布をぶらさげたり、弓の一本一本に自分の名を書いた。戦功をのこすためだった。勇ましいわりには細かい。だがこれらは後日、軍目付が証拠として採用するための目印となった。最終的な軍務評定は軍奉行がくだし恩賞が決定した。この文永の役の奉行は安達泰盛である。

武者はたがいに酒をくみかわし大いに笑った。

中央に大将の大友頼康、副将の少弐(しょうに)(すけ)(よし)がいる。

まわりに武者が大勢でひかえた。みな荒々しくどう猛だった。

大友頼康は豊後守護職を世襲し、一族は北九州一帯にひろがっていた。少弐資能も父親の職を世襲して筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の五カ国を支配している。

品の良い二人とちがって、あらくれ武者が息まく。

「なにむくりだと。北の(えびす)どもではないか。この日本刀でけ散らしてくれるわ。あやつらは草原で名をはせたと聞いておる。わざわざ船に乗ってなにをするというのだ」

「蒙古などわれらの敵ではないわ。まことわれら御家人が九州くんだりやってくることはないのだわ。鎌倉殿も心配性だのう。これでは幕府がいつまでもつか、おぼつかぬわ」

 一同が笑った。えらく威勢がよい。

じっさい当初の日本軍の士気はこんなものだった。異常ともいえる熱気である。いまだ見たこともない敵にあたるときは、おごり高ぶるものらしい。

興奮した武士が立つ。

「そこで相談じゃが。蒙古の大将の首はこのわしがとる。その首をとって鎌倉殿に献上するつもりじゃ。おのおのがた、そう心得よ」

一同が立ちあがって非難ごうごうとなった。光景は野獣とかわらない。

大将の大友が手をあげて静まらせた。

「おのおのがた。油断はならぬぞ。相手は高麗を滅ぼした蒙古なのだ。どれだけの力をもっているのか見当もつかぬ。いずれにせよ、ここは鎌倉武士の強さを見せつける時だ。ぬかりはないな」

伝令が走ってきた。

「ただいま偵察船から伝令がまいりました。蒙古の船団が対馬を攻め、壱岐に押しよせたとのこと」
「いよいよ蒙古がやってきたぞ」
「蒙古なにするものぞ」

一同が口々に雄叫びをあげ、それぞれの守備位置に散っていった。


蒙古は数十艘の大型船を中心に玄界灘を進んでいた。これまたどう猛な蒙古兵が船に乗っている。

船が風をうけ、波をかきわけすすむ。

巨大な蒙古船は壱岐の港に着岸した。

漁民や武士や女までがなにごとかと港にあつまった。

好奇心からである。

島民は目の前で巨大な船が、ゆっくりと停泊するのをながめていた。

船上にはだれも見えなかった。しかし突然、甲板に蒙古兵があらわれ、弓でいっせいに射撃を開始した。

島民や武士たちが悲鳴をあげて逃げまどう。女たちが泣き叫んで逃げていった。

一方鎌倉では、蒙古来襲を告げる早馬が時宗のもとへ駆けこんだ。時宗の横には泰盛と頼綱がひかえる。

時宗が思わず立った。

「なに蒙古が船出したと」

「しかり。まず対馬を攻め、つぎに壱岐を攻めた様子であります」 

「壱岐のつぎはどこに上陸する」

「船の進行からみて、九州北岸と思われまする」

伝令が去っていく。

頼綱がうなった。

「やはり博多か。読んだとおりだ」

時宗が西の空を見あげにらむ。

「ここから博多まで何日かかる」

頼綱がこたえた。

「早くとも二十日」

 時宗がはやる。

「もう勝敗は決したかもしれぬ。泰盛、じっとしてはおれぬ、馬を出せ。わしも出陣するぞ」

泰盛がとめた。

「殿、おちついてくだされ。殿は幕府の大将でござるぞ。いま九州へ下向なさるとなれば関東が留守になりまする。そのすきをねらって名越のような者が鎌倉を攻めないともかぎりませぬ。こらえてくだされ」

時宗が空を見てくやしがった。

「なにもするなというのか。ただ運命をまてというのか」
 
 暗闇の博多湾に数百艘の蒙古船が音もなくおしよせてきた。

蒙古兵がぞくぞくと小舟で着岸して砂浜にあがった。上陸した兵士は点呼とともに整列していった。

夜が明けてきた。

日本の偵察隊が蒙古の軍団を見つけて注進した。

蒙古の船腹には対馬・壱岐の島民がつながれていた。彼らは手に穴をあけられて数珠つなぎになっていた。二つの島は全滅したのである。

蒙古軍団の三万が整列した。

爆薬を積んだ発射砲がならべられた。爆薬は日本史上、はじめて登場した。

そこに日本軍が騎馬団を先頭に対峙した。 

日本国の大将と蒙古の将軍との目があった。

やがて両軍がじわじわと進軍し、差をつめていく。

この時、日本側から数騎の武士が飛びだして大音声で挑発した。

ぬけがけである。

「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にも見たまえ。われこそは鎮西奉行、豊前の守、少弐資能なるぞ。いざ打ちよってかかってこよ。相手いたす」

「物の数にては候わねども、筑前大友の家来、仙波十郎なるぞ。尋常に立ちあえ」

しかし蒙古軍は相手にせず、ひたすら日本軍にむかってくる。

馬上の武士がいらだった。

「おぬしら、いくさの作法を知らんのか。ではまいるぞ」

騎馬が駆けようとしたとたん、空中で爆弾が炸裂した。

そのすさまじい音で馬が悲鳴をあげて立ちあがり、武士がふりおとされた。

日本人がはじめて聞く音だった。兵士が動揺する。

この瞬間、蒙古軍がいっせいに襲いかかった。

対する日本側は一騎打ちで戦う。反対に蒙古軍は組織戦である。武士をかこみ、めった刺しにしていった。

「おのれ卑怯な」

武士は弓で攻めたが蒙古兵は盾で防ぐ。

かわりに蒙古兵は短弓の銃でつぎつぎと馬上の武士を倒していく。木製の銃は弓よりも回転率が高い。機関銃のように飛んできた。装備がまるでちがう。両者の激突は文明の差をそのままあらわした。

耳をつんざく音が空中で鳴る。馬が悲鳴をあげる。

子供をさとした老武士が果敢に蒙古軍の中央を突進し、敵の武将を斬りたおした。子供もつづく。

だが勇ましいのはここまでだった。

大将の大友と少弐がおびえて逃げてしまったのである。

兵士はそれにもかかわらず懸命にふせいだが、全軍が総くずれとなり後退していった。

蒙古軍が勢いにのって博多の町に突入し、火をつけまわった。町全体が焦土と化した。彼らはさらに九州の首都である大宰府にも突入して焼きはらった。

史上最強の蒙古軍団が中国、高麗につづいて日本の国土を蹂躙していった。

博多湾に一日が終わろうとしていた。

蒙古兵がぞくぞくと船に引きあげていく。夜戦になれば不利とみたからだった。

蒙古の船内では武将同士がテーブルをはさんで言い争っていた。

船内のすみには高麗の役人が膝をかがめてひかえている。

ろうそくの明かりがモンゴル人を不気味にうつした。

「さらに攻めよう。この勢いでいけば、日本国を占領できる」

「いやひきあげるべきだ。日本軍は侮れぬ。食料の不安もある。ここはいったん帰るべきだ」

「よく考えろ。日本の将軍は二十そこそこの若僧というではないか。好機はいまだ。せめてこの港をおさえて城をつくるのだ」

「ならぬ。たしかにわれわれは最初の戦で勝利した。だがこのあとはわからぬぞ。日本軍の手の内は把握できたのだ。高麗にひきかえし、日本を完全に支配する準備をとるのだ」

武将同士が激論のあげく、つかみかかろうとしたが将軍があいだにはいった。

将軍は冷静だった。

「深追いをやめ、高麗にもどろう。だが最初の一撃で日本軍に勝利したのは大きい。皇帝陛下もさぞお喜びであろう。われらはこの勝利をもって引きあげればよい。不満もあろう。だがわれわれは高麗との連合軍だ。もし高麗人が裏切れば、無敵のわれらが危険な目にあわないともかぎらぬ」

将軍はそういって高麗の役人をにらんだ。

「つぎは日本の滅亡となるであろう」

雨が甲板をたたきだした。風と波が船をゆるがす。

伝令がおりてきた。

「波が荒くなってまいりました」

大将は満足した。

「これが潮時だな。引きあげるぞ」

蒙古の船隊が強風と雨の中を去っていった。

文永の役の敗北は日本のあらゆる人々に衝撃をあたえた。

幕府は日本軍の敗走をひたかくしにしたが、眼前の事実はかくせない。またたく間に国中にひろまった。

それは甲斐の山にいる日蓮にも伝わった。のこされた消息が生々しく伝える。

十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるゝのみならず、大宰府もやぶられて(しょう)()の入道・大友等()()げに()げ、其の外の兵者(つわもの)ども其の事ともなく大体打たれぬ。又今度()せるならば、いかにも此の国()()はと見ゆるなり。種々御振舞御書

去ぬる文永十一年十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者か()めて有りしに宗の総馬尉(そうまのじょう)逃げければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生け取りにし,女をば或は取り集めて手を()おして船に()い付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又是くの如し。船おしよせて有りけるには、奉行入道豊前の前司は逃げて落ちぬ。松浦党(まつらとう)は数百人打たれ、或は生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども壱岐・対馬の如し。又今度(このたび)()(かん)が有るらん。彼の国の百万億の(つわもの)、日本国を引き(めぐ)らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ。 一谷入道御書

全滅した壱岐・対馬の惨状を知らせている。日蓮はいずれ、日本の全土が壱岐・対馬のようになるという。

人々はいやがうえにも覚悟しなければならないことを知った。


        60 三度の高名 につづく
中巻目次



by johsei1129 | 2014-11-29 21:43 | 小説 日蓮の生涯 中 | Comments(0)
2014年 11月 29日

58 身延入山

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五月の晴れわたる空の下、日蓮と弟子の日向が街道を歩いていた。

二人が汗をふきながら長い道をゆく。

日蓮は鎌倉を西に出て、駿河をぬけ甲斐にむかった。

甲斐には波木井(はきり)(さね)(なが)という地頭がいる。日蓮はこの波木井のもとに身をよせるつもりだった。波木井は伯耆房が化導した人物である。まちがいはなかろう。鎌倉を去った今となって、この地頭をたよるしかなかった。

日蓮は酒匂(小田原)をとおり、箱根の坂を避けて北上し竹ノ下についた。ここを南下して富士を右に見ながら車返(沼津)に着く。ここから西にすすみ、富士宮をとおり甲斐にはいった。富士山の南を半周する道のりである。

駿河は日蓮の信徒が多く住む。行けばかならず歓待されるはずだった。だが日蓮は会おうともせずに素通りした。

駿河に長くはいられない事情があった。この土地は北条時宗の管轄であり、ことに富士の一帯は幕府御家人の後家尼御前の所領が多かったのである。彼女たちは日蓮を目のかたきとし、法華宗の信徒を白い目でみていた。日蓮が来たとわかれば、ひと騒ぎはかならずおこる。駿河の信徒をまきぞえにはできなかったのである。

その駿河の信徒、高橋入道にあてた手紙がのこる。高橋は賀島(富士市)に住んでいた。妻は伯耆房日興の叔母である。強信者であり富士地方の中心的な存在だった。日蓮はこの高橋にも会わずに通りすぎた。

のちに高橋入道にあてた手紙の中で、佐渡から鎌倉に帰り、幕府に諫言して鎌倉を去った様子をしるしている。くわえて日蓮は駿河を通る時の苦しい胸の内をしるす。

(しか)去年(こぞ)の二月御勘気(ごかんき)()りて、三月の十三日に佐渡の国を立ち、同月の二十六日にかまくらに入り、同じき四月の八日、平さえ(左衛)もの()尉にあひたりし時、やうやうの事ども()いし中に、蒙古国はいつよすべきと申せしかば、今年よすべし。それにとて日蓮はな()して日本国にたすくべき者一人もなし。たすからんとをも()わしたまうならば、日本国の念仏者と禅と律僧等の(くび)を切ってゆい(由比)はま()にかくべし。それも今はすぎぬ。但し皆人のをもひて候は、日蓮をば念仏師と禅と律をそし()るとをもいて候。これは物のかず()にてかずならず。真言宗と申す宗がう()わしき日本国の大いなる呪詛(じゅそ)の悪法なり。弘法(こうぼう)大師と()(かく)大師、()(こと)まど()いて此の国を亡ぼさんとするなり。(たと)ひ二年三年にやぶ()るべき国なりとも、真言師に()のらする程ならば、一年半年にこの国せめらるべしと申しきかせ候ひき。

 たす()けんがために申すを(これ)程まであだ()まるゝ事なれば、()りて候ひし時()()の国よりいかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども、此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候ひき。又申しきかせ給ひし後はかまくらに有るべきならねば、足にまかせていでしほどに、便宜(びんぎ)にて候ひしかば、(たと)ひ各々はいと()わせ給ふとも、今一度はみたてまつらんと千度(ちたび)()もひしかども、心に心をたゝかいてすぎ候ひき。そのゆへはするが(駿河)の国は(こう)殿(どの)の御領、ことにふじ(富士)なんどは後家尼ごぜんの内の人々多し。故最明寺(さいみょうじ)殿・極楽寺殿の御かたきといきどをらせ給ふなれば、きゝつけられば各々の御なげ()きなるべしとをもひし心(ばか)りなり。いまにいたるまでも不便(ふびん)をも()ひまいらせ候へば御返事までも申さず候ひき。 『高橋入道殿御返事

「心に心をたゝかいて」とある。弟子檀那の期待に反し、駿河を通りすぎるのは苦渋の選択だった。

日蓮と弟子日向(にこう)は木陰で休んだ。

すでに駿河をとおり甲斐にはいった。国主に見放され、さまよう身である。さすがに疲労の色がこい。

日向が近くの農家で銭をさしだし、米と交換をたのんだがことわられた。
 百姓はみな冷たく言った。

「飢饉でな。売る米はないのじゃ」

日向があきらめてかえってきた。

「困りました」

 日蓮がはげます。

「よいのだ。がまんしよう。伯耆房が待っている。急ごう」

 日向が聞いた。

「身延の波木井(はきり)殿は上人をうけいれてくれるのでしょうか」

「わからぬ」

日蓮は鎌倉にいる土木常忍に消息を書いたあと、気弱に立ちあがった。

消息の内容は、身延までの詳しい日程を記すとともに、米が手に入らず、餓死しぬべしと素直に窮状を訴えている。

()かち()申すばかりなし。米一合も()らず。がし(餓死)しぬべし。此の御房たちもみな( 帰)へして但一人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給へ。

十二日さかわ(酒匂)、十三日たけ()した()、十四日くるまがへし、十五日を()()や、十六日()()、十七日この()とこ()ろ。いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中心中(しんちゅう)に叶ひて候へば、しばらくは候はんずらむ。結句(けっく)は一人に()て日本国を流浪(るろう)すべき()にて候。又たちとゞまるみならばげざん(見参)に入り候べし。恐々謹言。

十七日         日蓮花押

ときどの                『富木殿御書

鎌倉の町は兵士でごったがえした。蒙古と戦いうため、はるか筑紫へ行く兵士である。

整列した兵隊が甲冑をまとった武将を先頭に出発していく。

妻子や老いた親がむらがり、別れを惜しんだ。兵士も涙にくれるが引きはなされていく。

軍馬がだんだんと遠ざかる。

妻子と眷属はいつまでも見送っていた。

軍馬の列が街道につづいた。

日蓮は沿道でその姿をながめていたが、やがて背をむけるように山中に入っていった。

甲斐の道はうっそうとした林におおわれていた。日蓮が杖をとり登っていく。

すでにその衣は長旅で汚れきっている。すすむ道沿いに渓流の音、野鳥の鳴き声が響きだした。鹿や猿があらわれては消えた。世間とは隔絶した世界だった。

 峨々( がが)たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば(こうべ)(てん)()ち、幽谷(ゆうこく)に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。目(くら)き足冷ゆ。羅什(らじゅう)三蔵(そう)(れい)(注)(えん)()()(そく)(注)が大峰も只今なりと云云。  『忘持経事

甲斐身延は四方の山に囲まれたせまい平地だった。

武家の屋敷らしい建物が二三あるほかは、数件の百姓家があるだけである。人里はなれた秘境だった。

伯耆房が日蓮を見つけて駆けてきた。

「上人」

日蓮が目をほそめた。

「伯耆房、またせたな。ご苦労だった」

「お疲れでしたでしょう、さ、こちらでございます」

武家屋敷の主、波木井(さね)(なが)が一族とともに出むかえた。

伯耆房が紹介した。

「こちらが地頭、波木井実長殿でございます。波木井殿は以前、法華経の説法をしたおり入信されました。このたびは上人様が甲斐にこられるとお聞きになり、ぜひお招きしたいと申されました」

実長が頭をさげた。

「波木井六郎実長でござる。このたびは人里はなれたこの地へ、よくぞおいでになられました。ゆっくりとおすごしくだされ」

話す口調に高慢の響きがある。

「かたじけのうございます」

日蓮は深々と頭をさげた。それはいままで、だれにも見せたことのない姿だった。そしてまわりの山をながめた。

「この場所はわたくしの心にかなっている心持がいたします。波木井殿、どこでもよろしい、一軒家をお借りできないでしょうか」

実長がこたえる。

「一軒家でございますか。それは困りましたな・・そうじゃ。使っておらぬ屋敷があったな。古くてもよろしければ」

日蓮がまた深く頭をさげた。

実長が従者に指示した。

「上人様をお連れ申せ。長旅でお疲れのご様子じゃ。ゆっくりと休んでいただこう。さあどうぞ」

日蓮の一行が従者につられ、そのあとに実長がついていく。

地頭の大屋敷から半里ばかりの林だった。後方を大木に囲まれた古い家がある。

伯耆房と日向が暗然としてうらぶれた家屋を見あげた。二人は戸を開いて中を見たが、板敷にひびがはいり、壁にもよごれがしみついている。鎌倉の真新しい屋敷とは正反対だ。いやでも佐渡の三昧堂を思いだした。

実長は自嘲気味だった。

「いや失礼いたした。長年ほおっておいて、思ったよりいたんでおりますな。地頭とはいえ、やりくりはままなりませぬ。年貢をとるのも一苦労でしてな。家の普請も満足にできぬ。高名な上人にとって、このようなところはふさわしくないでしょうな」

日蓮は意外にもにこやかだった。

「いえ、これはよい屋敷ですぞ。ありがたし。しばらくここを借りて修行させてくださらぬか」

伯耆房と日向がおどろいて互いを見た。

実長が笑う。

「ご自由にどうぞ」

波木井という名は甲斐国身延の別名である。波木井氏は名を南部氏ともいった。甲斐の南端の地の意味である。

波木井実長の先祖は波乱に富んでいる。

血筋は河内源氏である。十一世紀なかばに奥州でおこった前九年の役(1051-1062)、後三年の役(11083-1087)で勝利をおさめた源義光が先祖となる。義光の兄は八幡太郎義家。この義家から五代目が鎌倉幕府を開いた源頼朝となる。

いっぽう義光は後三年の役後、常陸守、甲斐守と昇進し、これがきっかけとなって一族は甲斐に根をおろすことになった。

義光の孫には甲斐国守護となる武田信義がおり、弟の遠光は源頼朝の挙兵に参加し、石橋山の戦いで奮戦している。

波木井氏の初代光行はこの遠光の三男だった。所領は富士山の西側のふもと、富士川の右岸の南部領だったので波木井は南部とも名のるようになっていく。

光行はまたのちの東北南部藩の初代といわれる。彼は源頼朝や北条につかえ、その功により陸奥(青森県)の一部を所領とした。彼の子孫は東北で領土をひろげ、のちの南部藩を築いていく。

日蓮を身延山中にむかえた実長はこの光行の三男であった。
 なお日蓮は文永十一年五月十七日に身延・波木井に到着しているが、その一ヶ月後の六月十日に小さな暗室を新たに設けたことが御書に記されている。
 

去文永十一年六月十七日に、この山のなかに、()をうちきりてかりそめにあじち(庵室)をつくりて候いしが、やうやく四年がほど、はし()くち()かき()かべ()をち候へども、なを()す事なくて、よる()()をとぼさねども月のひ()りにて聖教をよみまいらせ、われ()と御経を()きまいらせ候はねども、風を()づから、()()へしまいらせ候いしが、今年は十二のはし()ら四方にか()べを()げ、四方のかべは一()()うれぬ。()だい()たも()ちがたければ、月はすめ雨はとど()まれと、はげみ候いつるほどに、人()なくして()くし()やうどもをせめ、食なくしてゆき()をもちて命をたすけて候ところに、さき()に、()()のど(殿)のよりいも()二駄これ一だは、たま()にもすぎ、(以下欠損)  庵室修復書』(建治3年 56歳御作)



             59 蒙古襲来 につづく

中巻目次


  葱嶺

 インド北方・パミール高原のこと。世界の屋根といわれ、西域交通の要所として隊商や僧侶がここを通った。葱はたまねぎのことでパミール高原は古くからの産地である。

 役の優婆塞

 舒明天皇六年(六三四)~?。大和の人。名は小角(おづぬ)(えん)の行者ともいう。修験道の開祖。幼い時から、生駒山、熊野に入り、苦行を続け、三十二歳の時、葛城山に入った。以来三十余年、穴居して岩窟の中に孔雀明王の像を安置し、呪を唱えて奇異な験術を得た。後に大峯(おおみね)、二上、高野など近畿一帯の高山に足跡をしるした。文武天皇の三年(六九九)に伊豆へ流罪となり、後に許されて西国へ行ったという。その後の消息は不明。




by johsei1129 | 2014-11-29 21:18 | 小説 日蓮の生涯 中 | Comments(0)
2014年 11月 29日

57 鎌倉を去る

 真夏の日ざしが照りつけていた。

市場では物売りがならぶ通りに、いつもの喧噪がはじまっていた。

売り手も買い手も汗にまみれる。

「暑いのう」

「まったくだ。こう雨がふらないと」

田畑の作物も干からびてしおれた。

百姓が笠をかぶり、うらめしそうに空を見あげた。

四月十日。日蓮が平頼綱と対面した二日後だった。

真言宗の僧、阿弥陀堂法印が政所の一室でうやうやしく平伏した。

相手は安達泰盛である。泰盛は扇子をふっていた。四月は旧暦で初夏である。

阿弥陀堂法印は加賀法印ともいう。名は定清。真言宗小野流定清方の祖である。鎌倉阿弥陀堂の別当であったためこの名がついた。

彼は当時の鎌倉仏教で真言宗を代表する僧である。出身は京都の名門東寺。東寺は弘法大師空海が嵯峨天皇よりたまわって以来、真言宗の本山として君臨していた。法印はこの寺で真言の奥義をきわめたといわれる。弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台・華厳の諸宗をみな胸にうかべていたという。

法印の顔立ちはりりしい。くわえて身なりに気品があふれていた。

 泰盛が笑顔で歓迎した。
「ようこそまいられた。幕府にとってまことによろこばしい。招いたのはほかでもない。蒙古が年内にも襲ってくるとの知らせもあってな。それに備えるための祈祷を世間にも名高い法印殿に願いたいのじゃ」

法印がうなずき、上品な京なまりで答えた。

「祈りには各種ございます。わが真言宗は弘法大師より四百年つづいた祈祷の法がございます。他宗は足元にもおよびませぬ。手はずさえ整えてくだされば、蒙古を防ぐこと請けあいでございます」

なんという自信であろう。泰盛が喜色をあらわにした。

「よくぞ申された。まことにこのところ、ごたごたがあってな。本来ならばもう一人、祈祷を申しつける僧がいたのだが」

法印が品よくほほえむ。

「日蓮でございますな。およしになってよかったと思われます。日蓮という男、所詮は身分の低い一介の法師、狂信下賤の者でございまする。わが真言の僧にくらべれば、天子と猿、公家と蝦夷(えみし)のちがいにございまする」

泰盛が小気味よく笑った。

「日蓮は猿と蝦夷か。これは面白いこきおろしじゃ。ついては手始めである。法印殿、諸国がいま日照りで困っておる。このまま水不足がつづけば飢饉はまちがいない。そこで相談じゃ。貴殿の祈りで雨をふらせてはもらえぬか。真言の秘法で雨雲をあつめてほしいのじゃ」

法印が手をあわせた。

「わらわでよければ」

「おお、引きうけてくださるか」

「日蓮ができたことを、わらわにできぬわけがございませぬ」

「かたじけない。さっそく準備をいたそう」

熱暑の中、鎌倉阿弥陀堂は戸をすべて閉めきった。

法印は暗い室内で祈祷を開始した。

護摩が炎を舞いあげる。

法印は汗にまみれながら(しょ)を振り、鈴を鳴らした。四百年前の弘法大師そのままの姿だった。

法印の形相が闇にうかびあがった。不気味に、かつ力強く真言の呪文を唱えていった。

鎌倉では人々が外へ出なくなった。外にいても木陰で休息した。田畑では水争いもおきていた。みなため息まじりに空を見あげた。

雨がほしい。

乾いた空が暮れていくが、阿弥陀堂法印はなおも祈りをやめない。真夜中になっても真言はつづいた。法印の顔がやがて鬼のようになっていく。

その翌日である。

不思議なことに鎌倉に黒雲があらわれ、みるみるうちに暗くなった。

雲はやがて空全体をおおい、はげしい雷とともに雨をおとした。

 奇跡だった。

人々が歓喜の顔で雨をあびた。子どもたちも外に出てはしゃぎまわった。

恵みの雨が鎌倉をはじめ国中にふりそそいだ。

北条時宗は縁側で満足そうに雨音を聞いた。

泰盛が得意気にやってきた。つづいて平頼綱が不機嫌な面もちできた。頼綱は泰盛の成功がおもしろくない。

「阿弥陀堂法印がやりました」

興奮するのも無理はない。わずか一日で雨がふった。しかも静かに一日一夜ふりつづけたのだ。

時宗はいつになく上機嫌だった。

「泰盛、よくやった。でかしたぞ。法印殿には長く鎌倉にいてもらおう。そうだ、引き出物をあたえよ。黄金三十両と馬をあたえよ。蒙古対冶の祈りも正式に要請しよう」

時宗が満足そうに空を見あげた。

鎌倉の市場にも静かな雨がそそいだ。

ここに町民が(ひさし)の下で笑いあった。手をたたくほどだった。

「よかった。よかった。雨のおかげで百姓もひとまず安心じゃ。これでわれらも暮らせるというもの。やれやれじゃ」

「それにしても日蓮め、おかしなことを申しおって。首を斬られるところを、すったもんだで許されて、おとなしくなるかと思ったらさにあらず。念仏や禅を(そし)るだけでない。真言も誹るとはな」

「そこにこの雨だ。よせばよかったのに。まことに真言の教えはめでたいのう」

彼らはまた笑い、手をたたいた。

 

日蓮の館では弟子たちが動揺した顔で空を見あげていた。

引っ越しの荷造りの最中だった。これからどこへゆくのか、ただでさえ不安にさいなまれていた。さらにいままで邪宗と非難した真言僧が雨をふらせたことで、疑心がひろがった。

当の日蓮は目を閉じたままでいる。

三位房と大進房がにじりよった。

「上人、真言でも雨をふらせることができましたな」

日蓮は目を閉じたままいう。

「真言はかならず国をほろぼす。真言をもって蒙古調伏を祈れば日本は早くほろぶ」

 三位房が責めるようにいう。

「ではなぜ雨がふったのです。阿弥陀堂法印の祈祷が法にかなったからではございませぬか」

日蓮が目をひらいた。

「しばしまて。弘法大師の悪義がまこととなって国の祈りとなるならば承久の時、上皇は勝ち幕府は敗れていた。弘法が法華経を華厳経に劣るとしたのは十住心論の文にある。釈尊を凡夫(ぼんぷ)であるとしるしたのは秘蔵(ひぞう)(ほう)(やく)にある。天台大師を盗人と書いたのは二教論にある。かかる僻事(ひがごと)を申す人の弟子、阿弥陀堂法印が日蓮に勝つならば、雨ふらす竜王は法華経のかたきである。梵天、帝釈、四天王に責められるであろう。なにか子細があるはずだ」

三位房と大進房はあきらかに日蓮をさげすんだ。ほかの弟子たちも笑ったという。

弟子どものいはく、いかなる子細のあるべきぞと、( )こづき(嘲笑)し 『種々御振舞御書

弟子たちはあらかさまに嘲笑した。彼らは日蓮を師としていなかったのか。直属の門下でさえこの有様だった。

だが日蓮はつづける。

「中国真言宗の善無畏も金剛智も不空も雨を祈った。雨はふったが暴風となって被害は増した。弘法は三十七日すぎて雨をふらした。これは雨をふらさぬのとおなじである。ひと月以上ふらない雨があろうか。たといふってもなんの不思議があろう。天台大師のように一座でふらすのが尊いのだ。これはなにかあるにちがいない」

といったとたん、どこからか轟音が鳴りだした。それは地響きとともに聞こえてきた。

三位房の笑いがとまった。

家屋の柱と梁がゆれだした。

伯耆房が日蓮をかばった。

みなが絶叫した。嵐だった。鎌倉を突風が襲った。

市場で笑っていた群衆が悲鳴をあげた。竜巻をともなう猛烈な風だった。彼らは売物小屋もろとも吹きとばされた。

大風は鎌倉の大小の神社、堂塔、民家を空に巻きあげ、地におとした。空に巨大な光り物が飛んだという。人々は牛馬とともに浮きあがり、地面にたたきつけられた。

北条時宗邸でも木戸や畳がゆれ、暴風がまきおこった。

時宗は荒れる風にむかって懸命に立っていた。

頼綱がかけよる。

「殿、早く避難を」

時宗が聞かずにいった。

「泰盛を呼べ」

泰盛がほうほうの体でやってきた。時宗はすぐさま命じた。

「祈祷をやめさせよ」

泰盛はなんのことかわからない。

時宗は必死だった。

「わからぬか。この風は法印のせいだ。祈祷をやめさせるのだ」

「さりながら、いましばらく猶予を」

時宗が鬼の形相になった。

「たわけ者。鎌倉中が吹き飛ばされるぞ」

泰盛があわてて出ていく。平頼綱が風をうけながら笑いをこらえた。

真言宗の開祖である善無畏、金剛智、不空の三人は、いずれも雨を祈って失敗している。祈禱のはじめは雨がふって天子を狂喜させたが、すぐさま暴風がおこり、かえって被害は甚大となってしまった。この暴風は祈祷のせいであるとして三人は所を追われている。

真言で祈ると悪風がおこる。日蓮は阿弥陀堂法印の事件を、三人の先達をあげ、きわめてユーモラスに記録している。

この三人の悪風は、漢土日本の一切の真言師の大風なり。さにてあるやらん。()ぬる文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂加賀法印、東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり。善無畏・金剛智・不空の悪法を、すこしもたがへず伝へたりけるか。心にくし、心にくし。  『報恩抄

翌朝、鎌倉は破壊された家屋でうまった。被害は鎌倉市街に集中した。

日蓮の真新しい屋形も無惨にかたむいていた。

弟子たちが散らばった木材をかたづける。

三位房と大進房が互いの肩をだいた。

「大丈夫か。よく助かったな」

「まったく。ひどい嵐だった」

大進房がまわりを見まわした。

「上人はどこだ」

旅姿の日蓮と弟子たちが鎌倉の街道を歩いていた。彼らは西へむかった。

通りすがりの人がふりむいた。

「あれは日蓮上人ではないか」

日蓮の一行が切り通しをすぎた。そして街を見おろす山の上に立った。

師弟が感慨深げに鎌倉を見おろす。

日蓮は北条時宗に見切りをつけた。この六年前、すでにしるしている。

主君を三度(いさ)むるに用ゐずば山林に交はれとこそ教へたれ  『聖愚問答抄下

国が危うい時、主君をいさめるのは臣下として当然である。いさめなければ不忠不孝となる。しかし三たび諫言しても用いられなければ、もはや諫言した者の罪ではない。喧騒を避けて静かな地で余生を送れとの意味であろう。この時代の賢人の常識だった。日蓮は六年前からこの信条を披露していた。

この処世術は孔子の言葉をあつめた「礼記」からきている。

人臣(にんしん)たるの礼、(あら)はには(いさ)めず、三たび諫めて聴かざれば、則ちこれを()る。   『曲礼下第二』

人の臣たる者の礼として、君のあやまちをあらわにはいさめない。(婉曲にいさめて)三度いさめても聞き入れられないときは地位をしりぞけという。

同じく孔子の「孝経」にも同じ意味の言葉がある。

三たび(いさ)めて()れずんば、身を(ほう)じて以て退(しりぞ)け。

日蓮は賢人の常識をわきまえていた。

これ以後、日蓮は折伏の矢面に立つことはなくなった。かわりに弟子信徒に懸命の指導をおこなった。これからは弟子たちが表舞台にたつ番だと。

日蓮はこれまで東奔西走し、身の危険をいくどもさらした。はずかしめられ、おとされ、大難もうけたが悔いはない。経文どおりである。かえって胸中に深い充実をおぼえた。

国土世間でふるまうことはすべてやりとげたのだ。これを思えば満足だった。国主を三たびいさめた。用いられずに終ったが、自分の不明が理由なのではない。いつの世にも賢王と愚王の二種類がいる。時宗が賢王ではなかったということだ。

ならばこれ以上世間にいる必要はない。これが節度というものだ。王の都を去るべきだ。

日蓮はさせる(とが)あるべしとはをも()はねども、此の国のならひ、念仏者と禅宗と律宗と真言宗にすか()されぬるゆえ()に、法華経をば上には()うとむよしをふるまひ、心には入らざるゆへに、日蓮が法華経のいみじきよし申せば、威音(いおん)(のう)(ぶつ)の末の末法に、不軽菩薩をにく()みしごとく、上一人より下万民にいたるまで、名をも()かじ、まして形をみる事はをも()ひよらず。さればたとひ(とが)なくとも、かくなさるゝ上はゆるしがたし。ましていわ()うや日本国の人の父母よりも()もく、日月よりもたかく()のみたまへる念仏を無間(むけん)の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺を()はら()ひ、念仏者どもが(くび)()ねらるべしと申す上、故最明寺(さいみょうじ)・極楽寺の両入()殿(注)を阿鼻(