日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:四条金吾・日眼女( 37 )


2016年 02月 06日

真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり、と断じられた【四条金吾殿御返事】

【四条金吾殿御返事】
■出筆時期:建治三年(1277)五十六歳御作。
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は短文の消息ですが、法華経迹門、法華経本門、南無妙法蓮華経の優劣について明確に示された極めて重要な法門を記されておられます。
恐らく四条金吾が大聖人に、法華経本・迹及び妙法蓮華経の違いについて問われ、それへの答として本消息を送られたものと推察されます。
釈尊は法華経迹門までは、月氏国に応誕し悟りを得たとする「始成正覚」を示していて、寿量品第十六で始めて五百億塵点劫の久遠に成道したことを明かされますが、大聖人は「末法の機にかなはざる法なり」と示すとともに「真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」と断じておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【四条金吾殿御返事 本文】
法華経本迹相対して論ずるに、迹門は尚始成正覚の旨を明す故にいまだ留難かかれり。
本門はかかる留難を去りたり然りと雖も、題目の五字に相対する時は末法の機にかなはざる法なり。
真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり。
四条金吾殿御返事      日 蓮

【妙法蓮華経 如来寿量品第十六】
皆謂今釈迦牟尼仏 出釈氏宮 去伽耶城不遠 坐於道場 得阿耨多羅 三藐三菩提。
然善男子 我実成仏已来 無量無辺 百千万億 那由佗劫。 
[和訳]
皆、今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮廷を出て、伽耶城を去ること遠からず、道場に座し、
阿耨多羅三藐三菩提(仏の悟り)を得たと謂(おも)えり。
然し善男子よ、我、実に成仏して已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり。




by johsei1129 | 2016-02-06 21:43 | 四条金吾 | Comments(0)
2016年 01月 22日

四条金吾が佐渡の大聖人に使いの者を手配して、高麗・蒙古の状況を詳しく伝えたことを示した書【大 果報御書】

【大果報御書】
■出筆時期:文永十年(1273)9月 五十二歳御作。
■出筆場所:佐渡 一の谷入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本抄は前半箇所が欠けておりますが、「起請かかせて<中略>殿の上(主君)の御気色いかんがと、をぼつかなく候いつるに、なに事もなき事申すばかりなし」と記されておられる所から、四条金吾が佐渡へご供養の品々を使いのものに届けた事への返礼であると思われます。
また「御かへりの後七月十五日より上下いしはい(石灰)と申す虫ふりて」と石灰虫のことが記され、同様の内容が文永十年十一月三日の「土木殿御返事」にも書かれておられることから、出筆年は同じ年であると推察されます。
「御かへりの後」とは四条金吾が佐渡を訪れ大聖人に見参されたことを示していると思われます。さらに「かうらい(高麗)むこ(蒙古)の事うけ給わり候ぬ」と記されているように、蒙古襲来の情報を使いのものを通じて大聖人に詳しく伝えられてものと思われ、その意味で本消息はこの当時の大聖人と信徒の深い交流を示す貴重な一書となっております。
■ご真筆:現存しておりません。

【大果報御書 本文】

者どもをば少少は、をひ(追)いだし、或はきしやう(起請)かかせて・はう(法)にすぎて候いつるが、七月末八月の始に所領かわり一万余束の作毛をさへ・か(刈)られて山や(野)にまど(惑)ひ候ゆへに、日蓮なを・ばう(謗)じつるゆへ(故)かとのの(罵)しり候上、御かへりの後七月十五日より上下いしはい(石灰)と申す虫ふりて国大体三分のうへ(上)そん(損)じ候いぬ。

をほかた人のいくべしともみへず候、これまで候をもい・たたせ給う上なに事もと・をもひ候へども・かさねての御心ざしはうにもすぎ候か。

なによりもおぼつかなく候いつる事は、との(殿)のかみ(上)の御気色いかんがと・をぼつかなく候いつるに、なに事もなき事申すばかりなし。

かうらい(高麗)むこ(蒙古)の事うけ給わり候ぬ。なにとなくとも釈迦如来・法華経を失い候いつる上は・大果報ならば三年はよもとをもひ候いつるに、いくさ(戦)・けかち(飢饉)つづき候いぬ、国はいかにも候へ法華経のひろまらん事疑なかるべし。
御母への御事・経をよみ候事に申し候なり。此の御使いそぎ候へば・くはしく申さず候、恐恐。




by johsei1129 | 2016-01-22 21:03 | 四条金吾 | Comments(0)
2015年 12月 29日

教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云い、はかなきを畜といふ。と説いた【崇峻天皇御書】

【崇峻天皇御書】
■出筆時期:建治三年(1277年)九月十一日 五十六歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本消息は四条金吾が主君の江間氏よりを謹慎を命じられていた時に、大聖人は短気な金後に対し、崇峻天皇が聖徳太子の諫言を守らず蘇我の馬子に殺害された故事を引いて、主君や同僚を恨むことなく謹慎がとけるまで自重して事にあたるよう様々な生活指導されておられます。
また竜ノ口の法難で金吾が大聖人と共に殉死しようとされたことについて「返す返す今に忘れぬ事は頚切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん。設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず。同じく地獄なるべし」と、金吾の大聖人に随順する思いを称えられておられます。

さらに文末では「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり<中略>教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」と記され、法華経の信徒として賢き振る舞いをするよう諭されておられます。
※尚、本消息の経緯については『小説日蓮の生涯(下) 66 金吾の奉行所対決』を参照して下さい。
■ご真筆:身延久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失しております。

【崇峻天皇御書 本文】

白小袖一領・銭一ゆひ・又富木殿の御文のみ・なによりも・かきなしなまひじきひるひじき・やうやうの物うけ取りしなじな御使にたび候いぬ、さては・なによりも上の御いたはりなげき入つて候、たとひ上は御信用なき様に候へども・との其の内にをはして其の御恩のかげにて法華経をやしなひ・まいらせ給い候へば偏に上の御祈とぞなり候らん、大木の下の小木・大河の辺の草は正しく其の雨にあたらず其の水をえずといへども露をつたへ・いきをえて・さかうる事に候。

此れもかくのごとし、阿闍世王は仏の御かたきなれども其の内にありし耆婆大臣・仏に志ありて常に供養ありしかば其の功大王に帰すとこそ見へて候へ、仏法の中に内薫外護と申す大なる大事ありて宗論にて候、法華経には「我深く汝等を敬う」涅槃経には「一切衆生悉く仏性有り」馬鳴菩薩の起信論には「真如の法常に薫習するを以ての故に妄心即滅して法身顕現す」弥勒菩薩の瑜伽論には見えたり、かくれたる事のあらはれたる徳となり候なり、されば御内の人人には天魔ついて前より此の事を知りて殿の此の法門を供養するをささえんがために今度の大妄語をば造り出だしたりしを御信心深ければ十羅刹たすけ奉らんがために此の病はをこれるか、上は我がかたきとは・をぼさねども一たん・かれらが申す事を用い給いぬるによりて御しよらうの大事になりて・ながしらせ給うか、彼等が柱とたのむ竜象すでにたうれぬ、和讒せし人も又其の病にをかされぬ、良観は又一重の大科の者なれば大事に値うて大事を・ひきをこして・いかにもなり候はんずらん、よもただは候はじ。

此れにつけても殿の御身もあぶなく思いまいらせ候ぞ、一定かたきに・ねらはれさせ給いなん・すぐろくの石は二つ並びぬればかけられず車の輪は二あれば道にかたぶかず、敵も二人ある者をば・いぶせがり候ぞ、いかにとがありとも弟ども且くも身をはなち給うな、殿は一定・腹あしき相かをに顕れたり、いかに大事と思へども腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ・殿の人にあだまれて・をはさば設い仏には・なり給うとも彼等が悦びと云う、此れよりの歎きと申し口惜しかるべし、彼等が・いかにもせんと・はげみつるに、古よりも上に引き付けられまいらせて・をはすれば・外のすがたはしづまりたる様にあれども内の胸は・もふる計りにや有らん、常には彼等に見へぬ様にて古よりも家のこを敬ひ・きうだちまいらせ給いて・をはさんには上の召しありとも且く・つつしむべし、入道殿いかにもならせ給はば彼の人人は・まどひ者になるべきをば・かへりみず、物をぼへぬ心に・とののいよいよ来るを見ては一定ほのをを胸にたきいきをさかさまにつくらん、若しきうだちきり者の女房たち・いかに上の御そろうはと問い申されば、いかなる人にても候へ・膝をかがめて手を合せ某が力の及ぶべき御所労には候はず候を・いかに辞退申せども・ただと仰せ候へば御内の者にて候間・かくて候とてびむをも・かかずひたたれこはからず、さはやかなる小袖・色ある物なんども・きずして且く・ねうじて御覧あれ。

返す返す御心への上なれども末代のありさまを仏の説かせ給いて候には濁世には聖人も居しがたし大火の中の石の如し、且くは・こらふるやうなれども終には・やけくだけて灰となる、賢人も五常は口に説きて身には振舞いがたしと見へて候ぞ、かうの座をば去れと申すぞかし、そこばくの人の殿を造り落さんとしつるにをとされずして・はやかちぬる身が穏便ならずして造り落されなば世間に申すこぎこひでの船こぼれ又食の後に湯の無きが如し、上よりへやを給いて居して・をはせば其処にては何事無くとも日ぐれ暁なんど入り返りなんどに定めて・ねらうらん、又我が家の妻戸の脇・持仏堂・家の内の板敷の下か・天井なんどをば、あながちに・心えて振舞い給へ、今度はさきよりも彼等は・たばかり賢かるらん、いかに申すとも鎌倉のえがら夜廻りの殿原にはすぎじ、いかに心にあはぬ事有りとも・かたらひ給へ。

義経はいかにも平家をば・せめおとしがたかりしかども・成良をかたらひて平家をほろぼし、大将殿は・おさだを親のかたきとをぼせしかども平家を落さざりしには頚を切り給はず、況や此の四人は遠くは法華経のゆへ近くは日蓮がゆへに命を懸けたるやしきを上へ召されたり、日蓮と法華経とを信ずる人人をば前前・彼の人人いかなる事ありとも・かへりみ給うべし、其の上殿の家へ此の人人・常にかようならば・かたきはよる行きあはじと・をぢるべし、させる親のかたきならねば顕われてとは・よも思はじ、かくれん者は是れ程の兵士はなきなり、常にむつばせ給へ、殿は腹悪き人にてよも用ひさせ給はじ、若しさるならば日蓮が祈りの力及びがたし、竜象と殿の兄とは殿の御ためにはあしかりつる人ぞかし天の御計いに殿の御心の如くなるぞかしいかに天の御心に背かんとはをぼするぞ設い千万の財をみちたりとも上にすてられまいらせ給いては何の詮かあるべき・已に上にはをやの様に思はれまいらせ水の器に随うが如くこうしの母を思ひ老者の杖をたのむが如く・主のとのを思食されたるは法華経の御たすけにあらずや、あらうらやましやとこそ御内の人人は思はるるらめ・とくとく此の四人かたらひて日蓮にきかせ給へさるならば強盛に天に申すべし、又殿の故・御父・御母の御事も左衛門の尉があまりに歎き候ぞと天にも申し入れて候なり、定めて釈迦仏の御前に子細候らん。

返す返す今に忘れぬ事は頚切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰に火を・たくがごとく・日輪にやみをなぐるが如くこそ候はんずれ、若しすこしも此の事をたがへさせ給うならば日蓮うらみさせ給うな

此の世間の疫病は・とののまうすがごとく年帰りなば上へあがりぬと・をぼえ候ぞ、十羅刹の御計いか今且く世にをはして物を御覧あれかし、又世間の・すぎえぬ・やうばし歎いて人に聞かせ給うな、若しさるならば賢人には・はづれたる事なり、若しさるならば妻子があとに・とどまりてはぢを云うとは思はねども、男のわかれのおしさに他人に向いて我が夫のはぢを・みなかたるなり、此れ偏に・かれが失にはあらず我がふるまひのあしかりつる故なり。

人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし。

第一秘蔵の物語あり書きてまいらせん、日本始りて国王二人・人に殺され給う、其の一人は崇峻天皇なり、此の王は欽明天皇の御太子・聖徳太子の伯父なり、人王第三十三代の皇にて・をはせしが聖徳太子を召して勅宣下さる、汝は聖智の者と聞く朕を相してまいらせよと云云、太子三度まで辞退申させ給いしかども頻の勅宣なれば止みがたくして敬いて相しまいらせ給う。君は人に殺され給うべき相ましますと、王の御気色かはらせ給いて・なにと云う証拠を以て此の事を信ずべき、太子申させ給はく御眼に赤き筋とをりて候人にあだまるる相なり、皇帝勅宣を重ねて下し・いかにしてか此の難を脱れん、太子の云く免脱がたし但し五常と申すつはものあり此れを身に離し給わずば害を脱れ給はん、此のつはものをば内典には忍波羅蜜と申して六波羅蜜の其の一なりと云云、且くは此れを持ち給いてをはせしが・ややもすれば腹あしき王にて是を破らせ給いき、或時人・猪の子をまいらせたりしかば・こうがいをぬきて猪の子の眼をづぶづぶと・ささせ給いていつか・にくしと思うやつをかくせんと仰せありしかば、太子其の座にをはせしが、あらあさましや・あさましや・君は一定人にあだまれ給いなん。

此の御言は身を害する剣なりとて太子多くの財を取り寄せて御前に此の言を聞きし者に御ひきで物ありしかども、有人蘇我の大臣・馬子と申せし人に語りしかば馬子我が事なりとて東漢直駒・直磐井と申す者の子をかたらひて王を害しまいらせつ、されば王位の身なれども思う事をば・たやすく申さぬぞ、孔子と申せし賢人は九思一言とてここのたびおもひて一度申す、周公旦と申せし人は沐する時は三度握り食する時は三度はき給いき、たしかに・きこしめせ我ばし恨みさせ給うな仏法と申すは是にて候ぞ。

一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢
きを人と云いはかなきを畜といふ。

建治三年丁丑九月十一日 日蓮 花押
四条左衛門尉殿御返事





by johsei1129 | 2015-12-29 21:08 | 四条金吾 | Comments(0)
2015年 12月 06日

主君江間馬氏から法華信仰を止めねば所領を没収すると迫られた四条金吾の窮状を救うべく記された書【頼基陳状】

【頼基陳状】
■出筆時期:建治三年(1272)六月二十五日 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:建治三年六月二十五日、四条金吾に主君江間馬氏から、法華信仰を止める起請文(誓約書)を書かなければ所領を没収し、家臣の身分を剥奪するとの下し文が届きます。これは半月前の六月九日、鎌倉桑ヶ谷での極楽寺良観の配下・竜象房と日蓮門下の三位房との法論で三位房が完璧に破析した事により、良観が日蓮憎しとして策謀したことに起因しております。四条金吾はその日直ぐに、下し文を添え桑ヶ谷問答の顛末と起請は書かない旨を記して大聖人に早便で送ります。この文は二十七日夕方には大聖人のもとに届き、大聖人は金吾の立場で主君にあてる陳状をしたためたのが本書となります。
本状は全編、竜ノ口法難で大聖人とともに自らも切腹しようと馳せ参じた徒尊き弟子の窮状を救おうとする大聖人の慈愛に満ち溢れておられます。
※「桑ヶ谷の法論」の顛末については『小説日蓮(下)65桑ヶ谷の法論』を参照して下さい。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日興上人筆(北山本門寺蔵)
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[古写本:日興上人筆(北山本門寺蔵)]

[頼基陳状 本文]
去ぬる六月二十三日の御下文・島田の左衛門入道殿・山城の民部入道殿・両人の御承りとして同二十五日謹んで拝見仕り候い畢んぬ、右仰せ下しの状に云く竜象御房の御説法の所に参られ候いける次第をほかた穏便ならざる由、見聞の人遍く一方ならず同口に申し合い候事驚き入つて候、徒党の仁其の数兵杖を帯して出入すと云云。

此の条跡形も無き虚言なり、所詮誰人の申し入れ候けるやらん御哀憐を蒙りて召し合せられ実否を糾明され候はば然るべき事にて候、凡そ此の事の根源は去る六月九日日蓮聖人の御弟子・三位公・頼基が宿所に来り申して云く近日竜象房と申す僧・京都より下りて大仏の門の西・桑か谷に止住して日夜に説法仕るが・申して云く現当の為仏法に御不審存ぜむ人は来りて問答申す可き旨説法せしむる間、鎌倉中の上下釈尊の如く貴び奉るしかれども問答に及ぶ人なしと風聞し候、彼へ行き向いて問答を遂げ一切衆生の後生の不審をはらし候はむと思い候、聞き給はぬかと申されしかども折節官仕に隙無く候いし程に思い立たず候いしかども、法門の事と承りてたびたび罷り向いて候えども頼基は俗家の分にて候い一言も出さず候し上は悪口に及ばざる事・厳察足る可く候。

ここに竜象房説法の中に申して云く此の見聞満座の御中に御不審の法門あらば仰せらる可くと申されし処に、日蓮房の弟子・三位公問うて云く生を受けしより死をまぬかるまじきことはり始めて・をどろくべきに候はねども、ことさら当時・日本国の災孼に死亡する者数を知らず眼前の無常・人毎に思いしらずと云ふ事なし、然る所に京都より上人・御下りあつて人人の不審をはらし給うよし承りて参りて候つれども御説法の最中骨無くも候なばと存じ候し処に・問うべき事有らむ人は各各憚らず問い給へと候し間・悦び入り候、先づ不審に候事は末法に生を受けて辺土のいやしき身に候へども中国の仏法・幸に此の国にわたれり是非信受す可き処に経は五千七千数多なり、然而一仏の説なれば所詮は一経にてこそ候らむに華厳・真言・乃至八宗・浄土・禅とて十宗まで分れてをはします、此れ等の宗宗も門は・ことなりとも所詮は一かと推する処に、弘法大師は我が朝の真言の元祖・法華経は華厳経・大日経に相対すれば門の異なるのみならず其の理は戯論の法・無明の辺域なり、又法華宗の天台大師等は諍盗醍醐等云云、法相宗の元祖慈恩大師云く「法華経は方便・深密経は真実・無性有情・永不成仏」云云、華厳宗の澄観云く「華厳経は本教・法華経は末教・或は華厳は頓頓・法華は漸頓」等云云、三論宗の嘉祥大師の云く「諸大乗経の中には般若教第一」云云。

浄土宗の善導和尚云く「念仏は十即十生・百即百生・法華経等は千中無一」云云、法然上人云く「法華経を念仏に対して捨閉閣抛或は行者は群賊」等云云、禅宗の云く「教外別伝・不立文字」云云、教主釈尊は法華経をば世尊の法は久しくして後に要当に真実を説きたもうべし、多宝仏は妙法華経は皆是真実なり十方分身の諸仏は舌相梵天に至るとこそ見えて候に弘法大師は法華経をば戯論の法と書かれたり、釈尊・多宝・十方の諸仏は皆是真実と説かれて候、いづれをか信じ候べき、善導和尚・法然上人は法華経をば千中無一・捨閉閣抛・釈尊・多宝・十方分身の諸仏は一として成仏せずと云う事無し皆仏道を成ずと云云、三仏と導和尚・然上人とは水火なり雲泥なり何れをか信じ候べき何れをか捨て候べき・就中彼の導・然両人の仰ぐ所の雙観経の法蔵比丘の四十八願の中に第十八願に云く「設い我れ仏を得るとも唯五逆と誹謗正法とを除く」と云云、たとひ弥陀の本願実にして往生すべくとも、正法を誹謗せむ人人は弥陀仏の往生には除かれ奉るべきか・又法華経の二の巻には「若し人信ぜざれば其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云、念仏宗に詮とする導・然の両人は経文実ならば阿鼻大城をまぬかれ給ふべしや、彼の上人の地獄に堕ち給わせば末学・弟子・檀那等・自然に悪道に堕ちん事・疑いなかるべし、此等こそ不審に候へ上人は如何と問い給はれしかば竜上人答て云く、上古の賢哲達をばいかでか疑い奉るべき、竜象等が如くなる凡僧等は仰いで信じ奉り候と答え給しを、をし返して此の仰せこそ智者の仰せとも覚えず候へ、誰人か時の代にあをがるる人師等をば疑い候べき、但し涅槃経に仏最後の御遺言として「法に依つて人に依らざれ」と見えて候、人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候、御辺はよもあやまりましまさじと申され候、御房の私の語と仏の金言と比には三位は如来の金言に付きまいらせむと思い候なりと申されしを。

象上人は人師にあやまり多しと候は・いづれの人師に候ぞと問はれしかば、上に申しつる所の弘法大師・法然上人等の義に候はずやと答え給い候しかば・象上人は嗚呼叶い候まじ我が朝の人師の事は忝くも問答仕るまじく候、満座の聴衆皆皆其の流にて御座す鬱憤も出来せば定めてみだりがはしき事候なむ恐れあり恐れありと申されし処に、三位房の云く人師のあやまり誰ぞと候へば経論に背く人師達をいだし候し憚あり・かなふまじと仰せ候にこそ進退きはまりて覚え候へ、法門と申すは人を憚り世を恐れて仏の説き給うが如く経文の実義を申さざらんは愚者の至極なり、智者上人とは覚え給はず悪法世に弘まりて人悪道に堕ち国土滅すべしと見へ候はむに法師の身として争かいさめず候べき、然れば則ち法華経には「我身命を愛まず」涅槃経には「寧ろ身命を喪うとも」等云云、実の聖人にてをはせば何が身命を惜みて世にも人にも恐れ給うべき、外典の中にも竜蓬と云いし者、比干と申せし賢人は頚をはねられ胸をさかれしかども夏の桀・殷の紂をば・いさめてこそ賢人の名をば流し候しか、内典には不軽菩薩は杖木をかほり師子尊者は頭をはねられ竺の道生は蘇山にながされ法道三蔵は面に火印を・さされて江南に・はなたれしかども正法を弘めてこそ聖人の名をば得候しかと難ぜられ候しかば。

竜上人の云くさる人は末代にはありがたし我我は世をはばかり人を恐るる者にて候、さやうに仰せらるる人とても・ことばの如くには・よもをはしまし候はじと候しかば。此の御房は争か人の心をば知り給うべき某こそ当時日本国に聞え給う日蓮聖人の弟子として候へ、某が師匠の聖人は末代の僧にて御坐候へども当世の大名僧の如く望んで請用もせず人をも諂はず聊か異なる悪名もたたず・只此の国に真言・禅宗・浄土宗等の悪法・並に謗法の諸僧満ち満ちて上一人をはじめ奉りて下万民に至るまで御帰依ある故に法華経・教主釈尊の大怨敵と成りて現世には天神・地祇にすてられ他国のせめにあひ、後生には阿鼻大城に堕ち給うべき由・経文にまかせて立て給いし程に此の事申さば大なるあだあるべし申さずんば仏のせめのがれがたし、いはゆる涅槃経に「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」等と云云、世に恐れて申さずんば我が身悪道に堕つべきと御覧じて身命をすてて去る建長年中より今年建治三年に至るまで二十余年が間・あえて・をこたる事なし、然れば私の難は数を知らず国王の勘気は両度に及びき、三位も文永八年九月十二日の勘気の時は供奉の一人にて有りしかば同罪に行はれて頚を・はねらるべきにてありしは身命を惜むものにて候かと申されしかば。

竜象房口を閉て色を変え候しかば此の御房申されしは是程の御智慧にては人の不審をはらすべき由の仰せ無用に候けり・苦岸比丘・勝意比丘等は我れ正法を知りて人をたすくべき由存ぜられて候しかども我が身も弟子・檀那等も無間地獄に堕ち候き、御法門の分斉にてそこばくの人を救はむと説き給うが如くならば師檀共に無間地獄にや堕ち給はんずらむ今日より後は此くの如き御説法は御はからひあるべし、加様には申すまじく候へども悪法を以て人を地獄にをとさん邪師をみながら責め顕はさずば返つて仏法の中の怨なるべしと仏の御いましめ・のがれがたき上聴聞の上下皆悪道にをち給はん事不便に覚え候へば此くの如く申し候なり、智者と申すは国のあやうきを・いさめ人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ、是はいかなるひが事ありとも世の恐しければ・いさめじと申されむ上は力及ばず、某は文殊の智慧も富楼那の弁説も詮候はずとて立たれ候しかば、諸人歓喜をなし掌を合せ今暫く御法門候へかしと留め申されしかども・やがて帰り給い了んぬ、此の外は別の子細候はず・且つは御推察あるべし・法華経を信じ参らせて仏道を願ひ候はむ者の争か法門の時・悪行を企て悪口を宗とし候べき、しかしながら御ぎやうさく有る可く候・其上日蓮聖人の弟子と・なのりぬる上罷り帰りても御前に参りて法門問答の様かたり申し候き、又た其の辺に頼基しらぬもの候はず只頼基をそねみ候人のつくり事にて候にや早早召し合せられん時其の隠れ有る可らず候。

又仰せ下さるる状に云く極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉ると此の条難かむの次第に覚え候、其の故は日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば久成如来の御使・上行菩薩の垂迹・法華本門の行者・五五百歳の大導師にて御座候聖人を頚をはねらるべき由の申し状を書きて殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ死罪を止て佐渡の島まで遠流せられ候しは良観上人の所行に候はずや・其の訴状は別紙に之れ有り、抑生草をだに伐るべからずと六斎日夜説法に給われながら法華正法を弘むる僧を断罪に行わる可き旨申し立てらるるは自語相違に候はずや如何・此僧豈天魔の入れる僧に候はずや、但し此の事の起は良観房・常の説法に云く日本国の一切衆生を皆持斎になして八斎戒を持たせて国中の殺生・天下の酒を止めむとする処に日蓮房が謗法に障えられて此の願叶い難き由歎き給い候間・日蓮聖人此の由を聞き給いて・いかがして彼が誑惑の大慢心を・たをして無間地獄の大苦をたすけむと仰せありしかば、頼基等は此の仰せ法華経の御方人大慈悲の仰せにては候へども当時日本国・別して武家領食の世きらざる人にてをはしますを・たやすく仰せある事いかがと弟子共・同口に恐れ申し候し程に、去る文永八年太歳辛未六月十八日大旱魃の時・彼の御房祈雨の法を行いて万民をたすけんと申し付け候由・日蓮聖人聞き給いて此体は小事なれども此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばやと仰せありて、良観房の所へつかはすに云く七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と・守敏と弘法なり、仍て良観房の所へ周防房・入沢の入道と申す念仏者を遣わす御房と入道は良観が弟子又念仏者なりいまに日蓮が法門を用うる事なし是を以て勝負とせむ、七日の内に雨降るならば本の八斎戒・念仏を以て往生すべしと思うべし、又雨らずば一向に法華経になるべしと・いはれしかば是等悦びて極楽寺の良観房に此の由を申し候けり、良観房悦びないて七日の内に雨ふらすべき由にて弟子・百二十余人・頭より煙を出し声を天にひびかし・或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて種種に祈請す、四五日まで雨の気無ければたましゐを失いて多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに・七日の内に露ばかりも雨降らず其の時日蓮聖人使を遣す事・三度に及ぶ、いかに泉式部と云いし婬女・能因法師と申せし破戒の僧・狂言綺語の三十一字を以て忽にふらせし雨を持戒・持律の良観房は法華真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給う上人の数百人の衆徒を率いて七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ後生をそろしく・をぼし給はば約束のままに・いそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、旱魃弥興盛に八風ますます吹き重りて民のなげき弥弥深し、すみやかに其のいのりやめ給へと第七日の申の時・使者ありのままに申す処に・良観房は涙を流す弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる日蓮御勘気を蒙る時・此の事御尋ね有りしかば有りのままに申し給いき、然れば良観房・身の上の恥を思はば跡をくらまして山林にも・まじはり・約束のままに日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきに・さはなくして無尽の讒言を構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧かと日蓮聖人かたり給いき・又頼基も見聞き候き、他事に於ては・かけはくも主君の御事畏れ入り候へども此の事はいかに思い候とも
・いかでかと思はれ候べき。

仰せ下しの状に云く竜象房・極楽寺の長老見参の後は釈迦・弥陀とあをぎ奉ると云云、此の条又恐れ入り候、彼の竜象房は洛中にして人の骨肉を朝夕の食物とする由露顕せしむるの間、山門の衆徒蜂起して世末代に及びて悪鬼・国中に出現せり、山王の御力を以て対治を加えむとて住所を焼失し其の身を誅罰せむとする処に自然に逃失し行方を知らざる処にたまたま鎌倉の中に又人の肉を食の間・情ある人恐怖せしめて候に仏菩薩と仰せ給う事所従の身として争か主君の御あやまりをいさめ申さず候べき、御内のをとなしき人人いかにこそ存じ候へ。

同じき下し状に云く是非につけて主親の所存には相随わんこそ仏神の冥にも世間の礼にも手本と云云、此の事最第一の大事にて候へば私の申し状恐れ入り候間・本文を引くべく候、孝経に云く「子以て父に争わずんばあるべからず臣以て君に争わずんばあるべからず」、鄭玄曰く「君父不義有らんに臣子諌めざるは則ち亡国破家の道なり」

新序に曰く「主の暴を諌めざれば忠臣に非ざるなり、死を畏れて言わざるは勇士に非ざるなり」、伝教大師云く「凡そ不誼に当つては則ち子以て父に争わずんばあるべからず臣以て君に争わずんばあるべからず当に知るべし君臣・父子・師弟以て師に争わずんばあるべからず」文、法華経に云く「我れ身命を愛まず但無上道を惜む」文、涅槃経に云く「譬えば王の使の善能談論し方便に巧にして命を他国に奉ずるに寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿さざるが如し智者も亦爾り」文、章安大師云く「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれとは身は軽く法は重し身を死して法を弘む」文、又云く「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐り親むは則ち是れ彼が怨なり能く糺治する者は彼の為めに悪を除く則ち是れ彼が親なり」文、頼基をば傍輩こそ無礼なりと思はれ候らめども世の事にをき候ては是非父母主君の仰せに随い参らせ候べし。

其にとて重恩の主の悪法の者に・たぼらかされ・ましまして悪道に堕ち給はむをなげくばかりなり、阿闍世王は提婆六師を師として教主釈尊を敵とせしかば摩竭提国・皆仏教の敵となりて闍王の眷属・五十八万人・仏弟子を敵とする中に耆婆大臣計り仏の弟子なり、大王は上の頼基を思し食すが如く仏弟子たる事を御心よからず思し食ししかども最後には六大臣の邪義をすてて耆婆が正法にこそ・つかせ給い候しが・其の如く御最後をば頼基や救い参らせ候はんずらむ此の如く申さしめ候へば阿闍世は五逆罪の者なり彼に対するかと思し食しぬべし、恐れにては候へども彼には百千万倍の重罪にて御座すべしと御経の文には顕然に見えさせ給いて候、所謂「今此の三界は皆是れ我有なり其中の衆生は悉く是れ吾子なり」文・文の如くば教主釈尊は日本国の一切衆生の父母なり師匠なり主君なり阿弥陀仏は此の三の義ましまさず、而るに三徳の仏を閣いて他仏を昼夜朝夕に称名し六万八万の名号を唱えましますあに不孝の御所作にわたらせ給はずや、弥陀の願も釈迦如来の説かせ給いしかども終にくひ返し給いて唯我一人と定め給いぬ、其の後は全く二人三人と見え候はず、随つて人にも父母二人なし何の経に弥陀は此の国の父・何れの論に母たる旨見へて候・観経等の念仏の法門は法華経を説かせ給はむ為の・しばらくの・しつらひなり、塔くまむ為の足代の如し、而るを仏法なれば始終あるべしと思う人・大僻案なり、塔立てて後・足代を貴ぶほどのはかなき者なり、又日よりも星は明と申す者なるべし・此の人を経に説いて云く「復教詔すと雖も而も信受せず其の人・命終して阿鼻獄に入らん」、当世・日本国の一切衆生の釈迦仏を抛つて阿弥陀仏を念じ法華経を抛つて観経等を信ずる人或は此くの如き謗法の者を供養せむ俗男・俗女等・存外に五逆七逆・八虐の罪ををかせる者を智者と竭仰する諸の大名僧並びに国主等なり、如是展転至無数劫とは是なり、此くの如き僻事をなまじゐに承りて候間・次を以て申せしめ候、宮仕を・つかまつる者・上下ありと申せども分分に随つて主君を重んぜざるは候はず、上の御ため現世・後生あしくわたらせ給うべき事を秘かにも承りて候はむに傍輩・世に憚りて申し上ざらむは与同罪にこそ候まじきか。随つて頼基は父子二代・命を君に・まいらせたる事顕然なり・故親父中務某故君の御勘気かふらせ給いける時・数百人の御内の臣等・心かはりし候けるに中務一人・最後の御供奉して伊豆の国まで参りて候き、頼基は去る文永十一
年二月十二日の鎌倉の合戦の時、折節・伊豆の国に候しかば十日の申の時に承りて唯一人・筥根山を一時に馳せ越えて御前に自害すべき八人の内に候き、自然に世しづまり候しかば今に君も安穏にこそわたらせ給い候へ、爾来・大事小事に付けて御心やすき者にこそ思い含まれて候・頼基が今更・何につけて疎縁に思いまいらせ候べき、後生までも随従しまいらせて頼基・成仏し候はば君をも・すくひまいらせ君成仏しましまさば頼基も・たすけられ・まいらせむと・こそ存じ候へ。

其れに付ひて諸僧の説法を聴聞仕りて何れか成仏の法と・うかがひ候処に日蓮聖人の御房は三界の主・一切衆生の父母・釈迦如来の御使・上行菩薩にて御坐候ける事の法華経に説かれて・ましましけるを信じまいらせたるに候、今こそ真言宗と申す悪法・日本国に渡りて四百余年去る延暦二十四年に伝教大師・日本国にわたし給いたりしかども此の国にあしかりなむと思し食し候間宗の字・をゆるさず・天台法華宗の方便となし給い畢んぬ、其の後・伝教大師・御入滅の次を・うかがひて弘法大師・伝教に偏執して宗の字を加えしかども・叡山は用うる事なかりしほどに・慈覚・智証・短才にして二人の身は当山に居ながら心は東寺の弘法に同意するかの故に我が大師には背いて始めて叡山に真言宗を立てぬ・日本亡国の起り是なり、爾来・三百余年・或は真言勝れ法華勝れ一同なむど諍論・事きれざりしかば王法も左右なく尽きざりき、人王七十七代・後白河法皇の御宇に天台の座主明雲・一向に真言の座主になりしかば明雲は義仲にころされぬ頭破作七分是なり、第八十二代隠岐の法皇の御時・禅宗・念仏宗出来つて真言の大悪法に加えて国土に流布せしかば、天照太神・正八幡の百王・百代の御誓やぶれて王法すでに尽きぬ、関東の権の大夫義時に天照太神・正八幡の御計いとして国務をつけ給い畢んぬ、爰に彼の三の悪法・関東に落ち下りて存外に御帰依あり、故に梵釈・二天・日月・四天いかりを成し先代・未有の天変・地夭を以ていさむれども・用い給はざれば鄰国に仰せ付けて法華経・誹謗の人を治罰し給う間、天照太神・正八幡も力及び給はず、日蓮聖人・一人・此の事を知し食せり、此くの如き厳重の法華経にて・をはして候間、主君をも導きまいらせむと存じ候故に・無量の小事をわすれて今に仕われまいらせ候、頼基を讒言申す仁は君の御為不忠の者に候はずや、御内を罷り出て候はば君たちまちに無間地獄に堕ちさせ給うべし、さては頼基・仏に成り候ても甲斐なしとなげき存じ候。

抑彼の小乗戒は富楼那と申せし大阿羅漢・諸天の為に二百五十戒を説き候しを・浄名居士たんじて云く「穢食を以て宝器に置くこと無れ」等云云、鴦崛摩羅は文殊を呵責し・嗚呼蚊蚋の行は大乗空の理を知らずと、又小乗戒をば文殊は十七の失を出だし如来は八種の譬喩を以て是をそしり給うに・驢乳と説き蝦蟆に譬えられたり、此れ等をば鑒真の末弟子は伝教大師をば悪口の人とこそ・嵯峨天皇には奏し申し候しかども経文なれば力及び候はず、南都の奏状やぶれて叡山の大戒壇立ち候し上は、すでに捨てられ候し小乗に候はずや、頼基が良観房を蚊蚋蝦蟆の法師なりと申すとも経文分明に候はば御とがめあるべからず。

剰へ起請に及ぶべき由仰せを蒙むるの条存外に歎き入て候、頼基・不法時病にて起請を書き候程ならば君忽に法華経の御罰を蒙らせ給うべし、良観房が讒訴に依りて釈迦如来の御使・日蓮聖人を流罪し奉りしかば聖人の申し給いしが如く百日が内に合戦出来して若干の武者滅亡せし中に、名越の公達横死にあはせ給いぬ、是れ偏に良観房が失ひ奉りたるに候はずや、今又・竜象・良観が心に用意せさせ給いて頼基に起請を書かしめ御座さば君又其の罪に当らせ給はざるべしや、此くの如き道理を知らざる故か、又君をあだし奉らむと思う故か、頼基に事を寄せて大事を出さむと・たばかり候・人等・御尋ねあつて召し合わせらるべく候、恐惶謹言。

建治三年丁丑六月二十五日 四条中務尉頼基・請文





by johsei1129 | 2015-12-06 18:09 | 四条金吾・日眼女 | Comments(0)
2015年 11月 28日

女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと嫌われまします、但法華経ばかりに女人仏になると説かれて候、と説いた【日眼女造立釈迦仏供養事】

【日眼女造立釈迦仏供養事】
■出筆時期:弘安二年(1271年)二月二日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は四条金吾の妻日眼女が三十七歳の厄年にあたり一体三寸の釈尊木像造立しその開眼を願いで銭三貫を供養されたことへの返書となっておられます。大聖人は夫の四条金吾が父母の追善供養のため釈尊木像造立した時も開眼供養されておられます。※参照:【四条金吾釈迦仏供養事】

この釈尊の木像は一体三寸と記されておられるように高さが9cm程の小さいもので、信仰の対象としての本尊ではなく、大聖人が冒頭で記されておられるように、あくまで普段肌身離さず身に付けるお守りの意味であると拝されます。
大聖人も伊豆流罪の時、重病に苦しんでいた地頭伊東八郎の願いで病気平癒の祈念し、無事回復したお礼として漁師が海中から引き上げた釈迦仏像を供養され、生涯身につけておられました。※参照:【船守弥三郎殿許御書】

大石寺二十六世の日寛上人は大聖人が信徒の釈迦仏造立を許された理由について『末法相応抄・下』 で次のように説かれておられます。
「今謹んで案じて曰わく、本尊に非ずと雖も而も之を称歎す。略して三意有り。一には猶是れ一宗弘通の初めなり是の故に用捨時宜に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼の人々適釈尊を造立す豈称歎せざらんや。三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり。学者宜善く之を思うべし」
■ご真筆:身延久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失。

[日眼女造立釈迦仏供養事 本文]

御守書てまいらせ候三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女・御供養の御布施前に二貫今一貫云云。

法華経の寿量品に云く「或は己身を説き或は他身を説く」等云云、東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等・文殊師利・舎利弗等・大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星・阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり。

例せば釈尊は天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり、釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり、譬えば頭をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき。

今の日眼女は三十七のやくと云云、やくと申すは譬えばさいにはかどますにはすみ人にはつぎふし方には四維の如し、風は方よりふけばよはく・角より吹けばつよし・病は肉より起れば治しやすし節より起れば治しがたし、家にはかきなければ盗人いる・人には・とがあれば敵便をうく、やくと申すはふしぶしの如し、家にかきなく人に科あるがごとし、よきひやうしを以てまほらすれば盗人をからめとる、ふしの病をかぬて治すれば命ながし。

今教主釈尊を造立し奉れば下女が太子をうめるが如し国王・尚此の女を敬ひ給ふ何に況や大臣已下をや、大梵天王・釈提桓因王・日月等・此の女人を守り給ふ況や大小の神祇をや、昔優填大王・釈迦仏を造立し奉りしかば大梵天王・日月等・木像を礼しに参り給いしかば木像説いて云く「我を供養せんよりは優填大王を供養すべし」等云云、影堅王の画像の釈尊を書き奉りしも又又是くの如し、法華経に云く「若し人仏の為の故に諸の形像を建立す是くの如き諸人等皆已に仏道を成じき」云云、文の心は一切の女人釈迦仏を造り奉れば現在には日日・月月の大小の難を払ひ後生には必ず仏になるべしと申す文なり。

抑女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと・きらはれまします、但法華経ばかりに女人・仏になると説かれて候、天台智者大師の釈に云く「女に記せず」等云云、釈の心は一切経には女人仏にならずと云云、次下に云く「今経は皆記す」と云云、今の法華経にこそ竜女仏になれりと云云、天台智者大師と申せし人は仏滅度の後一千五百年に漢土と申す国に出でさせ給いて一切経を十五返まで御覧あそばして候いしが法華経より外の経には女人仏にならずと云云、妙楽大師と申せし人の釈に云く「一代に絶えたる所なり」等云云、釈の心は一切経にたえたる法門なり、法華経と申すは星の中の月ぞかし人の中の王ぞかし山の中の須弥山・水の中の大海の如し、是れ程いみじき御経に女人仏になると説かれぬれば一切経に嫌はれたるに・なにか・くるしかるべき、譬えば盗人・夜打・強盗・乞食・渇体にきらはれたらんと国の大王に讃られたらんと何れかうれしかるべき、日本国と申すは女人の国と申す国なり、天照太神と申せし女神のつきいだし給える島なり。

此の日本には男十九億九万四千八百二十八人・女は二十九億九万四千八百三十人なり、此の男女は皆念仏者にて候ぞ皆念仏なるが故に阿弥陀仏を本尊とす現世の祈りも又是くの如し、設い釈迦仏をつくりかけども阿弥陀仏の浄土へゆかんと思いて本意の様には思い候はぬぞ、中中つくりかかぬには・をとり候なり。

今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし、二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。

弘安二年己卯二月二日  日 蓮 花 押
日眼女御返事

【妙法蓮華経 方便品第二】

 乃至童子戲 聚沙為仏塔 如是諸人等 皆已成仏道
 若人為仏故 建立諸形像 刻彫成衆相 皆已成仏道
  <中略>
若人散乱心 入於塔廟中 一称南無仏 皆已成仏道
[和訳]

 乃至童子が戲に、砂で仏塔を為しても、是如き人は、皆已に仏道を成ずる。
 もし人、仏のために形像を建立し仏の衆相を彫刻し成せば、皆已に仏道を成ずる。
<中略>
 たとえ取り乱した心であっても、塔廟の中で一度南無仏と唱えれば皆已に仏道を成ずる。





by johsei1129 | 2015-11-28 18:20 | 四条金吾 | Comments(0)
2015年 11月 13日

日蓮に怨をなせし人人は先ず必ず無間地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成つて成仏す可し、と説いた【経王御前御書】

【経王御前御書】
■出筆時期:文永九年(1272) 五十一歳御作
■出筆場所:佐渡国にて。
■出筆の経緯:本抄は四条金吾が佐渡の日蓮大聖人に使者を遣わされて種々の品々を御供養するとともに、経王御前が誕生した事を伝えたことへの返書となっております。尚、四条金吾と妻日眼女には前年の五月八日に女の子が誕生し、大聖人より「月満」御前と名付けられておられます。
経王御前については「経王御前を儲さ給いて候へば現世には跡をつぐべき孝子なり、後生には又導かれて仏にならせ給うべし」と記されておられるように、四条金吾の跡継ぎたる男子が誕生したことを喜ばれておられます。

また文末では「世は亡び候とも日本国は南無妙法蓮華経とは人ごとに唱へ候はんずるにて候ぞ、如何に申さじと思うとも毀らん人には弥よ申し聞かすべし<中略>日蓮に怨をなせし人人は先ず必ず無間地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成つて成仏す可し」と断じ、法華経 常不軽菩薩品で説かれている「而強毒之(にごうどくし)の原理を説かれ、法華経弘通に一層励むよう諭されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

[経王御前御書 本文]

種種御送り物給び候い畢んぬ、
法華経第八・妙荘厳王品と申すには妙荘厳王・浄徳夫人と申す后は浄蔵・浄眼と申す太子に導かれ給うと説かれて候、経王御前を儲させ給いて候へば現世には跡をつぐべき孝子なり後生には又導かれて仏にならせ給うべし。

今の代は濁世と申して乱れて候世なり、其の上・眼前に世の中乱れて見え候へば皆人今生には弓箭の難に値いて修羅道におち後生には悪道疑なし。
而るに法華経を信ずる人人こそ仏には成るべしと見え候へ、御覧ある様にかかる事出来すべしと見えて候、故に昼夜に人に申し聞かせ候いしを用いらるる事こそなくとも科に行はるる事は謂れ無き事なれども、古も今も人の損ぜんとては善言を用いぬ習なれば終には用いられず世の中亡びんとするなり。

是れ偏えに法華経・釈迦仏の御使を責むる故に梵天・帝釈・日月・四天等の責を蒙つて候なり、又世は亡び候とも日本国は南無妙法蓮華経とは人ごとに唱へ候はんずるにて候ぞ、如何に申さじと思うとも毀らん人には弥よ申し聞かすべし、命生て御坐ば御覧有るべし。
又如何に唱うとも日蓮に怨をなせし人人は先ず必ず無間地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成つて成仏す可し、恐恐謹言。

四条金吾殿御返事   日 蓮 花押





by johsei1129 | 2015-11-13 16:15 | 四条金吾 | Comments(0)
2015年 11月 05日

一切衆生皆成仏道の根元と申すも只此の諸法実相の四字より外は全くなきなりと説いた【四条金吾殿御返事】

【四条金吾殿御返事】
■出筆時期:建治元年(1275年)七月二十二日 五十四歳御作。
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は、四条金吾が他宗の僧と「諸法実相の法門」について法論したと報告した事への返書となっております。
大聖人は「今経(法華経)は出世の本懐、一切衆生皆成仏道の根元と申すも只此の諸法実相の四字より外は全くなきなり」と説き、さらに「只此の経を持ちて南無妙法蓮華経と唱えて正直捨方便、但説無上道と信ずるを諸法実相の開会の法門とは申すなり」と説かれておられます。

釈尊は妙法蓮華経方便品第二で「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」と説き、この偈について大聖人は『諸法実相抄』で「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり、諸法は妙法蓮華経と云う事なり。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり。餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」と断じられておられます。

つまり森羅万象は諸法で貫かれており、その実相を究め尽くして覚知したのが仏であり、その実相こそ妙法蓮華経であります。
そしてその諸法の体を日蓮大聖人が具現されたのが「佛滅度後二千二百三十余年之間一閣浮提之内未曾有大漫荼羅也」であります。
■ご真筆:現存しておりません。

[四条金吾殿御返事 本文]

態と(わざわざ)御使喜び入つて候、又柑子五十・鵞目五貫文給び候い畢んぬ、各各御供養と云云。
又御文の中に云く去る十六日に有る僧と寄合うて候時、諸法実相の法門を申し合いたりと云云。

今経は出世の本懐・一切衆生皆成仏道の根元と申すも只此の諸法実相の四字より外は全くなきなり。
されば伝教大師は万里の波涛をしのぎ給いて相伝しまします此の文なり。一句万了の一言とは是なり。当世・天台宗の開会の法門を申すも此の経文を悪く意得て邪義を云い出し候ぞ。

只此の経を持ちて南無妙法蓮華経と唱えて正直捨方便、但説無上道と信ずるを諸法実相の開会の法門とは申すなり。其の故は釈迦仏・多宝如来・十方三世の諸仏を証人とし奉り候なり。相構えてかくの如く心得させ給いて諸法実相の四の文字を時時あぢわへ給うべし、良薬に毒をまじうる事有るべきや、うしほ(潮)の中より河の水を取り出す事ありや。

月は夜に出・日は昼出で給う此の事諍ふべきや。此れより後には加様に意得給いて御問答あるべし。但し細細は論難し給うべからず、猶も申さばそれがしの師にて候日蓮房に御法門候へと、うち咲うて打ち返し打ち返し仰せ給うべく候。
法門を書きつる間、御供養の志は申さず候。有り難し有り難し委くは是よりねんごろに申すべく候。

建治元年乙亥七月二十二日            日 蓮 花 押
四条中務三郎左衛門尉殿御返事

 【妙法蓮華経 方便品第二】

 仏所成就 第一希有 難解之法 唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相
 所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作
 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等

 [和訳]

 仏が成就する所の、第一の希有なる難解の法は、唯、仏と仏のみが乃ち、能く諸法の実相を究め尽せり。
 謂う所の諸法とは、是の如き相と、是の如き性と、是の如き体と、是の如き力有と、是の如き作用と
 是の如き原因と、是の如き縁と、是の如き結果と、是の如き報いと、是の如き本と末が究竟(究極と)して等しいことである。





by johsei1129 | 2015-11-05 21:41 | 四条金吾 | Comments(0)
2015年 10月 28日

賢人は八風と申して利衰毀誉称譏苦楽に冒されぬを賢人と申すなりと説いた【四条金吾殿御返事】

■出筆時期:建治三年(1277)四月 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は、主君江馬氏からの信頼が厚かった四条金吾が、同僚から妬まれ度々主君に讒言(ざんげん)されるのに耐え難くなり、主君に同僚を訴えようとかと大聖人に久しぶりに手紙を出され相談された事への返書となっております。

大聖人は「日蓮が御かんきの時、日本一同ににくむ事なれば<中略>所領をおいなんどせしに、其の御内になに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候」と記され、佐渡流罪の大難の時、所領を追い出された日蓮門下の信徒が多い中、金吾が主君からそのような仕打ちに合わなかった事は、由々しき大恩であり「この上は例え一分の御恩なくとも、恨むべき主君にあらず」と、自重するように諭されておられます。
そして「賢人は八風と申して八の風におか(冒)されぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。をを心は利あるに喜ばず、衰えるに嘆かず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天は守らせ給うなり。如かるをひり(道理)に主を怨みなんどし候へば、いかに申せども天守り給う事なし」と、厳しく指導されておられます。
尚、金吾は本抄を受け取ったすぐ後の五月二十三日、主君江間氏から御勘気を被りますが、その時も大聖人は短気な金吾に自重するよう細やかに指導をされております。そして翌年の建治四年一月、大聖人の指導と金吾の主君への至誠が通じ、江間氏から御勘気を解かれ所領も復活することになります。※参照:四条金吾殿御書(九思一言事)】
■ご真筆:京都市妙覚寺(断簡)所蔵、身延久遠寺所蔵分は明治八年の大火で焼失。

[四条金吾殿御返事(八風抄) 本文]

はるかに申し承り候はざりつれば、いぶせく候いつるに・かたがたの物と申し御つかいと申しよろこび入つて候。又まほりまいらせ候、所領の間の御事は上よりの御文ならびに御消息引き合せて見候い畢んぬ。

此の事は御文なきさきにすいして候、上には最大事と・おぼしめされて候へども、御きんずの人人のざんそうにてあまりに所領をきらい上をかろしめたてまつり候。ぢうあうの人こそををく候にかくまで候へば且らく御恩をば・おさへさせ給うべくや候らんと申しぬらんと・すいして候なり。

それにつけては御心えあるべし御用意あるべし、我が身と申しをやるいしんと申し、かたがた御内に不便といはれまいらせて候大恩の主なる上すぎにし、日蓮が御かんきの時・日本一同ににくむ事なれば弟子等も或は所領を・ををかたよりめされしかば又方方の人人も或は御内内をいだし或は所領をおいなんどせしに、其の御内に・なに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候。

このうへは・たとひ一分の御恩なくとも・うらみまいらせ給うべき主にはあらず、それにかさねたる御恩を申し所領をきらはせ給う事・御とがにあらずや。

賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなりしかるを・ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども天まほり給う事なし、訴訟を申せど叶いぬべき事もあり、申さぬに叶うべきを申せば叶わぬ事も候、夜めぐりの殿原の訴訟は申すは叶いぬべきよしを・かんがへて候しに・あながちに・なげかれし上日蓮がゆへに・めされて候へば・いかでか不便に候はざるべき、ただし訴訟だにも申し給はずば・いのりてみ候はんと申せしかば、さうけ給わり候いぬと約束ありて・又をりかみをしきりにかき・人人・訴訟ろんなんど・ありと申せし時に此の訴訟よも叶わじとをもひ候いしが・いままでのびて候。

だいがくどのゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだ・いのり叶いたるやうに・みえて候、はきりどのの事は法門の御信用あるやうに候へども此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば・いかんがと存じて候いしほどに・さりとては・と申して候いしゆへにや候けん・すこし・しるし候か、これに・をもうほど・なかりしゆへに又をもうほどなし、だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし、又だんなと師とをもひあひて候へども大法を小法をもつて・をかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、我が身も・だんなも・ほろび候なり。

天台の座主・明雲と申せし人は第五十代の座主なり、去ぬる安元二年五月に院勘をかほりて伊豆国へ配流・山僧大津よりうばいかへす、しかれども又かへりて座主となりぬ・又すぎにし壽永二年十一月に義仲に・からめとられし上・頚うちきられぬ・是はながされ頚きらるるを・とがとは申さず賢人・聖人もかかる事候、但し源氏の頼朝と平家の清盛との合戦の起りし時・清盛が一類・二十余人・起請をかき連判をして願を立てて平家の氏寺と叡山をたのむべし三千人は父母のごとし・山のなげきは我等がなげき・山の悦びは我等がよろこびと申して、近江の国・二十四郡を一向によせて候しかば、大衆と座主と一同に内には真言の大法をつくし・外には悪僧どもを・もつて源氏をいさせしかども義仲が郎等ひぐちと申せしをのこ義仲とただ五六人計り叡山中堂にはせのぼり調伏の壇の上にありしを引き出して・なわをつけ西ざかを大石をまろばすやうに引き下して頚をうち切りたりき、かかる事あれども日本の人人真言をうとむ事なし又たづぬる事もなし・去ぬる承久三年辛巳五六七の三箇月が間・京・夷の合戦ありき、時に日本国第一の秘法どもをつくして叡山・東寺・七大寺・園城寺等・天照太神・正八幡・山王等に一一に御いのりありき、其の中に日本第一の僧四十一人なり所謂前の座主・慈円大僧正・東寺・御室・三井寺の常住院の僧正等は度度・義時を調伏ありし上、御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに同じく十四日に・いくさに・まけ勢多迦が頚きられ御室をもひ死に死しぬ、かかる事候へども真言は・いかなるとがとも・あやしむる人候はず、をよそ真言の大法をつくす事・明雲第一度・慈円第二度に日本国の王法ほろび候い畢んぬ、今度第三度になり候、当時の蒙古調伏此れなり、かかる事も候ぞ此れは秘事なり人にいはずして心に存知せさせ給へ。

されば此の事御訴訟なくて又うらむる事なく御内をばいでず我かまくらにうちいて・さきざきよりも出仕とをきやうにて・ときどきさしいでて・おはするならば叶う事も候なん、あながちに・わるびれて・みへさせ給うべからず、よくと名聞・瞋との。※此の後の文は残されておりません。

by johsei1129 | 2015-10-28 21:14 | 四条金吾 | Comments(0)
2015年 10月 24日

法華経の敵に成ぬれば父母国主の事をも用ひざるが孝養ともなり国の恩を報ずるにて候と説いた【王舎城事】

【王舎城事】
■出筆時期:建治二年(1276年)四月十二日 五十五歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■執筆の経緯:本抄は四条金吾が銭一貫五百文をご供養されたことと、御所が焼亡したと報告されたことへの返書となっております。
大聖人は古代インドのマガダ国の首都で、釈尊が説法したことでも知られている王舎城が度々火災に合われたことの故事を引いて、御所が焼亡したのは「これは国王已にやけぬ知んぬ日本国の果報のつくるしるしなり、然に此の国は大謗法の僧等が強盛にいのりをなして日蓮を降伏せんとする故に弥弥わざはひ来るにや」と断じられておられます。※参照:王舎城

さらに「一切の事は父母にそむき国王にしたがはざれば不孝の者にして天のせめをかうふる、ただし法華経のかたきになりぬれば父母・国主の事をも用ひざるが孝養ともなり」と記し、法華経に随順するとが一切の肝要であると諭されておられます。
■ご真筆:身延山久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失。

[王舎城事 本文]

銭一貫五百文給び候い畢んぬ、

焼亡の事委く承つて候事悦び入つて候、大火の事は仁王経の七難の中の第三の火難・法華経の七難の中には第一の火難なり、夫れ虚空をば剣にてきることなし水をば火焼くことなし、聖人・賢人・福人・智者をば火やくことなし、例せば月氏に王舎城と申す大城は在家・九億万家なり、七度まで大火をこりてやけほろびき、万民なげきて逃亡せんとせしに大王なげかせ給う事かぎりなし、其の時賢人ありて云く七難の大火と申す事は聖人のさり王の福の尽くる時をこり候なり、然るに此の大火・万民をば・やくといえども内裏には火ちかづくことなし、知んぬ王のとが・にはあらず万民の失なりされば万民の家を王舎と号せば火神・名にをそれてやくべからずと申せしかば、さるへんもとて王舎城とぞなづけられしかば・それより火災とどまりぬ、されば大果報の人をば大火はやかざるなり。

これは国王已にやけぬ知んぬ日本国の果報のつくるしるしなり、然に此の国は大謗法の僧等が強盛にいのりをなして日蓮を降伏せんとする故に弥弥わざはひ来るにや、其の上名と申す事は体を顕し候に両火房と申す謗法の聖人・鎌倉中の上下の師なり、一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ、又一火は鎌倉にはなちて御所やけ候ぬ、又一火は現世の国をやきぬる上に日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて阿鼻の炎にもえ候べき先表なり、愚癡の法師等が智慧ある者の申す事を用い候はぬは是体に候なり、不便不便、先先御文まいらせ候しなり。

御馬のがい(野飼)て候へば又ともびきしてくり毛なる馬をこそまうけて候へ、あはれ・あはれ見せまいらせ候はばや、名越の事は是にこそ多くの子細どもをば聞えて候へ、ある人の・ゆきあひて理具の法門自讃しけるを・さむざむにせめて候けると承り候。

又女房の御いのりの事法華経をば疑ひまいらせ候はねども御信心やよはくわたらせ給はんずらん、如法に信じたる様なる人人も実にはさもなき事とも是にて見て候、それにも知しめされて候、まして女人の御心・風をば・つなぐとも・とりがたし、御いのりの叶い候はざらんは弓のつよくしてつるよはく・太刀つるぎにて・つかう人の臆病なるやうにて候べし、あへて法華経の御とがにては候べからず、よくよく念仏と持斎とを我もすて人をも力のあらん程はせかせ給へ、譬へば左衛門殿の人ににくまるるがごとしとこまごまと御物語り候へ、いかに法華経を御信用ありとも法華経のかたきを・とわりほどには・よもおぼさじとなり、一切の事は父母にそむき国王にしたがはざれば不孝の者にして天のせめをかうふる、ただし法華経のかたきに・なりぬれば父母・国主の事をも用ひざるが孝養ともなり国の恩を報ずるにて候。

されば日蓮は此の経文を見候しかば父母手をすりてせいせしかども師にて候し人かんだうせしかども・鎌倉殿の御勘気を二度まで・かほり・すでに頚となりしかども・ついにをそれずして候へば、今は日本国の人人も道理かと申すへんもあるやらん、日本国に国主・父母・師匠の申す事を用いずしてついに天のたすけをかほる人は日蓮より外は出しがたくや候はんずらん、是より後も御覧あれ日蓮をそしる法師原が日本国を祈らば弥弥国亡ぶべし、結句せめの重からん時・上一人より下万民まで・もとどりをわかつやつことなりほぞをくうためしあるべし、後生はさてをきぬ今生に法華経の敵となりし人をば梵天・帝釈・日月・四天・罰し給いて皆人に・みこりさせ給へと申しつけて候、日蓮・法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし、かう申せば国主等は此の法師のをどすと思へるか、あへてにくみては申さず大慈大悲の力・無間地獄の大苦を今生にけさしめんとなり、章安大師云く「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云、かう申すは国主の父母・一切衆生の師匠なり、事事多く候へども留候ぬ、又麦の白米一だはしかみ送り給び候い畢んぬ。

四月十二日     日 蓮 花 押
四条金吾殿御返事

by johsei1129 | 2015-10-24 20:12 | 四条金吾 | Comments(0)
2015年 10月 06日

釈尊と同じく八日に生まれた日眼女の子に月満(つきまろ)と命名した書【月満御前御書】

【月満御前御書】
■出筆時期:文永八年(1271年)五月八日 五十歳御作
■出筆場所:鎌倉市中 館にて。
■出筆の経緯:本書を記された前日の五月七日、大聖人は四条金吾の妻・日眼女より、初産ということもあり出産が遅れているのだろうと思われるが、護符の願い出があった。大聖人は直ぐに弁公(日昭上人)に護符と返書の消息[四条金吾女房御書]をもたせて日眼女のに届けます。
 護符を飲んだ日眼女は安心したのか、翌日無事女の子を出産します。前日の消息で大聖人は「法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く。日蓮又日月と蓮華との如くなり。信心の水すまば利生の月・必ず応を垂れ守護し給うべし。とくとくうまれ候べし法華経に云く「如是妙法」又云く「安楽産福子」云云」と記した通り、生まれた女の子に「月満」と名付けられます。

日蓮の日、つまり太陽は昇ると霜を一瞬で消し去るように、衆生の過去世の罪障を消滅させる意味があります。また月つまり満月は、貪・瞋・癡の三毒に取り付かれ闇夜をさまよう衆生の道案内の役目を意味します。おそらく大聖人は、前日日眼女に消息をしたためた時からこの月満(つきまろ)と命名することを考えられていたのではと思われます。

「法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く。日蓮又日月と蓮華との如くなり。」の意味を持つ月満と言う名を賜った四条金吾と妻の日眼女の喜びは、計り知れまいものがあったと思われるとともに、大聖人の信徒を思う慈愛の深さを感じざる得ません。
■ご真筆:現存しておりません。

[月満(つきまろ)御前御書 本文]

若童生れさせ給いし由承り候・目出たく覚へ候、殊に今日は八日にて候、彼れと云い此れと云い所願しをの指すが如く春の野に華の開けるが如し。

然れば・いそぎいそぎ名をつけ奉る月満御前と申すべし、其の上此の国の主八幡大菩薩は卯月八日にうまれさせ給ふ娑婆世界の教主釈尊も又卯月八日に御誕生なりき、今の童女又月は替れども八日にうまれ給ふ釈尊八幡のうまれ替りとや申さん、日蓮は凡夫なれば能くは知らず是れ併しながら日蓮が符を進らせし故なり、さこそ父母も悦び給うらん、殊に御祝として餅・酒・鳥目一貫文・送り給び候い畢んぬ是また御本尊・十羅刹に申し上げて候、今日の仏生れさせまします時に三十二の不思議あり此の事周書の異記と云う文にしるし置けり。

釈迦仏は誕生し給いて七歩し口を自ら開いて「天上天下唯我独尊・三界皆苦我当度之」の十六字を唱へ給ふ、今の月満御前はうまれ給いて・うぶごゑに南無妙法蓮華経と唱へ給ふか、法華経に云く「諸法実相」天台の云く「声為仏事」等云云、日蓮又かくの如く推し奉る、譬えば雷の音・耳しいの為に聞く事なく日月の光り目くらの為に見る事なし、定めて十羅刹女は寄り合うて・うぶ水をなで養ひ給うらん・あらめでたや・あらめでたや御悦び推量申し候、念頃に十羅刹女・天照太神等にも申して候、あまりの事に候間委くは申さず、是より重ねて申すべく候、穴賢穴賢。
         
月満御前え  日 蓮 花 押

by johsei1129 | 2015-10-06 00:25 | 四条金吾 | Comments(0)