カテゴリ:妙法比丘尼( 5 )


2015年 12月 14日

妙法尼のご供養の志を「民のほねをくだける白米、人の血をしぼれるが如くなる古酒 を仏、法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道疑うべしや」と称えられた【妙法尼御 返事】

【妙法尼御返事】
■出筆時期:弘安元年(1278年)五月一日 五十七御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は松野入道に送られておりますが実質の内容駿河国・岡安に住む妙法尼への消息となっております。妙法尼は六老僧の一人、日持上人の父である松野六郎左衛門入道の縁戚と伝えられており、本消息の追伸「日月は地におち須弥山はくづるとも、彼の女人仏に成らせ給わん事疑いなしあらたのもしや・たのもしや」は松野入道に妙法尼の信仰を称えていることを伝えられた文言と思われます。
 尚、本消息を記された弘安元年は前年から疫病が大流行し、鎌倉幕府はこの年の五月二十六日には、日本国内二十二の社司(神主)に疫病退治の祈祷を命じられたほどでした。
大聖人はこのような厳しい状況の中、常に変わることなくご供養を続けられた妙法尼の志を「民のほねをくだける白米、人の血をしぼれるが如くなるふるさけ(古酒)を仏、法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道、疑うべしや」と称えられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

[妙法尼御返事 本文]

干飯一斗・古酒一筒.ちまき・あうざし・たかんな方方の物送り給いて候。

草にさけ(咲)る花、木の皮を香として仏に奉る人、霊鷲山へ参らざるはなし。
況んや民のほねをくだける白米、人の血をしぼれるが如くなるふるさけ(古酒)を仏、法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道、疑うべしや。

五月一日  日 蓮 花 押
妙法尼御返事
日月は地におち須弥山はくづるとも、彼の女人仏に成らせ給わん事疑いなし、あらたのもしや・たのもしや。




by johsei1129 | 2015-12-14 19:56 | 妙法比丘尼 | Comments(0)
2015年 08月 24日

南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしや、と説かれた【六難九易抄】

【六難九易抄((妙法尼御前御返事)】
■出筆時期:弘安元(1278)七月三日  五十七歳 御作
■出筆場所:鎌倉 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄の対告衆は、ご真筆が残されていなため確定ではありませんが、古来より駿河国岡宮に住んでいた妙法尼と言われております。妙法尼はおそらく夫の頼みだと思われますが、法華経について大聖人に質問され、本抄はその問への返書となっております。

大聖人は冒頭で「先法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事ありがたき大善根にて候<中略>末法のけふこのごろ法華経の一句一偈のいはれをも尋ね問う人はありがたし<中略>爰に知んぬ若し御持ちあらば即身成仏の人なるべし」と記すとともに、「今此の御不審は法華経宝塔品の六難九易の六の難き事の内なり」と、妙法尼を称えられておられます。
さらに妙法尼の質問の趣旨について「南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしやと、此の御不審所詮に候」と記し、「一切の事につけて所詮・肝要と申す事あり。法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候、朝夕御唱え候はば正く法華経一部を真読にあそばすにて候」と「法華経の肝心の南無妙法蓮華経の題目を唱ることが肝要である」と諭されておられます。

末尾に「委くは見参に入り候て申すべく候と申させ給へ」と記されておられますので、法門の詳しいことは見参された時に申しますので、そのように伝えてください」と、尼御前の夫に見参を促されておられます。
尚、本書を送られた二年後に、妙法尼が夫が臨終の際「妙法蓮華経を昼夜唱え、臨終間際には二声大きな声で唱え、生前より色も白く、形も損なわなかった」と大聖人に知らせた手紙への大聖人り返書 [妙法尼御前御返事]が残されております。
■ご真筆:現存しておりません。

[六難九易抄(妙法尼御前御返事) 本文]

先法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事ありがたき大善根にて候、須弥山を他方の世界へつぶてになぐる人よりも・三千大千世界をまりの如くにけあぐる人よりも無量の余の経典を受け持ちて人に説ききかせ聴聞の道俗に六神通をえせしめんよりも、末法のけふこのごろ法華経の一句一偈のいはれをも尋ね問う人はありがたし、此の趣を釈し給いて人の御不審をはらさすべき僧もありがたかるべしと、法華経の四の巻・宝塔品と申す処に六難九易と申して大事の法門候、今此の御不審は六の難き事の内なり、爰に知んぬ若し御持ちあらば即身成仏の人なるべし、此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候。

南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候、然れども同じ一句の中にも肝心にて候、南無妙法蓮華経と唱うる計りにて仏になるべしやと、此の御不審所詮に候・一部の肝要八軸の骨髄にて候。

人の身の五尺・六尺のたましひも一尺の面にあらはれ・一尺のかほのたましひも一寸の眼の内におさまり候、又日本と申す二の文字に六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賤・七珍万宝・一もかくる事候はず収めて候、其のごとく南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字・一字ももれず・かけずおさめて候。

されば経には題目たり仏には眼たりと楽天ものべられて候、記の八に略して経題を挙ぐるに玄に一部を収むと妙楽も釈しおはしまし候、心は略して経の名計りを挙ぐるに一部を収むと申す文なり。一切の事につけて所詮・肝要と申す事あり。法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候、朝夕御唱え候はば正く法華経一部を真読にあそばすにて候、二返唱うるは二部乃至百返は百部・千返は千部・加様に不退に御唱え候はば不退に法華経を読む人にて候べく候、天台の六十巻と申す文には此のやうを釈せられて候、かかる持ちやすく行じやすき法にて候を末代悪世の一切衆生のために説きをかせ給いて候。

経文に云く「於末法中・於後末世法欲滅時・受持読誦・悪世末法時・能持是経者・後五百歳中広宣流布」と、此れ等の文の心は当時末法の代には法華経を持ち信ずべきよしを説かれて候、かかる明文を学しあやまりて日本・漢土・天竺の謗法の学匠達皆念仏者・真言・禅・律の小乗・権教には随い行じて法華経を捨てはて候ぬ、仏法にまどへるをば・しろしめされず、形まことしげなれば云う事も疑ひあらじと計り御信用候間、をもはざるに法華経の敵・釈迦仏の怨とならせ給いて今生には祈る所願も虚しく命もみじかく後生には無間大城をすみかとすべしと正しく経文に見えて候。

さて此の経の題目は習い読む事なくして大なる善根にて候、悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候は、水の底なる石に火のあるが如く百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる、世間のあだなるものすら尚加様に不思議あり、何に況や仏法の妙なる御法の御力をや、我等衆生悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三仏性の因によりて即法・報・応の三身と顕われん事疑ひなかるべし、妙法経力即身成仏と伝教大師も釈せられて候、心は法華経の力にてはくちなはの竜女も即身成仏したりと申す事なり御疑候べからず委くは見参に入り候て申すべく候と申させ給へ。

弘安元年戊寅七月三日 日 蓮 花押
妙法尼御前御返事

by johsei1129 | 2015-08-24 20:50 | 妙法比丘尼 | Comments(0)
2015年 05月 09日

法華経の御為と申すには、何なる事有りとも背かせ給うまじきぞかし、と説いた【妙法尼御前御返事(明衣書)】

【妙法尼御前御返事(明衣書)】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281年) 六十歳 御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は駿河国・岡宮に住んでいた妙法尼に送られたご消息文です。
大聖人は夫に先立たれ、法華経を信仰するがゆえ世間の避難を浴びても信心を貫いている妙法尼を、法華経で説かれている不軽菩薩、また釈尊の養母で、何度も出家を願い出てついに仏教史上最初の女性出家僧(比丘尼)となった、摩訶波闍波提比丘尼家の如しと称えられております。
摩訶波闍波提比丘尼は法華経観持品第十三で、釈尊より未来に「一切衆生喜見如来」となるとの記別を受けているが、大聖人は「一切衆生喜見仏と申すは別の事にあらず。今の妙法尼御前の名にて候べし」と激励されております。  
■ご真筆:現存していない。

[妙法尼御前御返事(明衣書) 本文]

 明衣一つ給び畢んぬ。女人の御身、男にもをくれ親類をもはなれ、一二人ある、むすめもはかばかしからず便りなき上、法門の故に人にもあだまれさせ給ふ女人、さながら不軽菩薩の如し。仏の御姨母、摩訶波闍波提比丘尼は女人ぞかし。而るに阿羅漢とならせ給いて声聞の御名を得させ給ひ、永不成仏の道に入らせ給いしかば、女人の姿をかへ、きさきの位を捨てて仏の御すすめを敬ひ、四十余年が程、五百戒を持ちて昼は道路にたたずみ、夜は樹下に坐して後生をねがひしに、成仏の道を許されずして永不成仏のうきなを流させ給いし。くちをしかりし事ぞかし。女人なれば過去遠遠劫の間有るに付けても無きに付けても、あだなを立てし。はづかしく口惜かりしぞかし。
其の身をいとひて形をやつし尼と成りて候へば、かかるなげきは離れぬとこそ思ひしに、相違して二乗となり永不成仏と聞きしは、いかばかり、あさましくをわせしに、法華経にして三世の諸仏の御勘気を許され、一切衆生喜見仏と成らせ給いしは、いくら程か、うれしく悦ばしくをはしけん。

 さるにては法華経の御為と申すには、何なる事有りとも背かせ給うまじきぞかし。
 其に仏の言わく、大音声を以て普く四衆に告げたまわく、誰れか能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん等云云。我も我もと思うに諸仏の恩を報ぜんと思はん尼御前女人達、何事をも忍びて我が滅後に此の娑婆世界にして法華経を弘むべしと三箇度まで、いさめさせ給いしに、御用ひなくして他方の国土に於て広く此の経を宣べんと申させ給いしは、能く能く不得心の尼ぞかし。幾くか仏悪しと、をぼしけん。されば仏はそばむきて八十万億那由佗の諸菩薩をこそ、つくづくと御覧ぜしか。されば女人は由なき道には名を折り、命を捨つれども成仏の道はよはかりけるやと、をぼへ候に、今末代悪世の女人と生れさせ給いてかかるものをぼえぬ、島のえびすにのられ打たれ責られしのび法華経を弘めさせ給う彼の比丘尼には、雲泥勝れてありと仏は霊山にて御覧あるらん。

 彼の比丘尼の御名を一切衆生喜見仏と申すは別の事にあらず。今の妙法尼御前の名にて候べし。王となる人は過去にても現在にても十善を持つ人

の名なり。名はかはれども師子の座は一也。此の名も、かはるべからず。彼の仏の御言をさかがへす尼だにも、一切衆生喜見仏となづけらる。是は仏の言をたがへず此の娑婆世界まで名を失ひ命をすつる尼なり。彼は養母として捨て給はず、是は他人として捨てさせ給はば偏頗の仏なり。争でかさる事は候べき。況や其中衆生悉是吾子の経文の如くならば、今の尼は女子なり、彼の尼は養母なり。養母を捨てずして女子を捨つる仏の御意やあるべき。

此の道理を深く御存知あるべし。しげければ、とどめ候い畢んぬ。

                                             日 蓮 花押

妙法尼御前

by johsei1129 | 2015-05-09 21:56 | 妙法比丘尼 | Comments(0)
2015年 05月 05日

老いも若きも定め無き習いなりされば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと説いた【妙法尼御前御返事】

【妙法尼御前御返事】
■出筆時期:弘安三年(西暦1280)七月十四日 五十九歳御作 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄を送られた妙法尼は、詳細は不明だが駿河国岡宮に住んでいた婦人といわれる。妙法尼が夫の臨終の際「妙法蓮華経を昼夜唱え、臨終間際には二声大きな声で唱え、生前より色も白く、形も損なわなかった」と大聖人に知らせた手紙への返書となっております。大聖人は本抄で「一代聖教を定むる名目に云く黒業は六道にとどまり白業は四聖となる、此等の文証と現証をもんてかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか」と妙法尼の亡き夫は天上界に生まれるであろうと讃えられておられます。 さらに「故聖霊(亡き夫)、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給いしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給う、 煩悩即菩提・生死即涅槃・即身成仏と申す法門なり、かかる人のえんの夫婦にならせ給へば又女人成仏も疑なかるべし」と、妙法尼の成仏も疑なかるべしと、断じておられます。
■ご真筆: 池上本門寺(第1紙、第3紙~7紙)所蔵、千葉福正寺(断簡所蔵)。
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 [妙法尼御前御返事 本文]

 御消息に云く、めうほうれんくゑきやうをよるひるとなへまいらせ、すでにちかくなりて二声かうしやうにとなへ、乃至いきて候し時よりも、なをいろもしろくかたちもそむせずと云云。

 法華経に云く「如是相乃至本末究竟等」云云。大論に云く「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」等云云。守護経に云く「地獄に堕つるに十五の相・餓鬼に八種の相・畜生に五種の相」等云云。天台大師の摩訶止観に云く「身の黒色は地獄の陰に譬う」等云云。

 夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが、念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし、風の前の露尚譬えにあらず。かしこきもはかなきも、老いたるも若きも定め無き習いなり。されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師、人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と、並に臨終の後とに引き向えてみ候へば、すこしもくもりなし。此の人は地獄に堕ち給う乃至人天とはみへて候を、世間の人人、或は師匠、父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ申し候。悲いかな師匠は悪道に堕ちて、多くの苦みしのびがたければ、弟子はとどまりゐて師の臨終をさんだんし、地獄の苦を増長せしむる。

 譬へばつみふかき者を口をふさいできうもんし、はれ物の口をあけずしてやまするがごとし。
しかるに今の御消息に云く、いきて候し時よりもなをいろしろく、かたちもそむせずと云云。

 天台の云く白白は天に譬ふ、大論に云く「赤白端正なる者は天上を得る」云云。天台大師御臨終の記に云く色白し、玄奘三蔵御臨終を記して云く色白し、一代聖教を定むる名目に云く「黒業は六道にとどまり白業は四聖となる」、此等の文証と現証をもんてかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか、はた又法華経の名号を臨終に二反となうと云云。

 法華経の第七の巻に云く「我滅度の後に於て応に此の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」云云。一代の聖教いづれもいづれもをろかなる事は候はず、皆我等が親父・大聖教主釈尊の金言なり皆真実なり皆実語なり。其の中にをいて又小乗・大乗・顕教・密教・権大乗・実大乗あいわかれて候。仏説と申すは二天・三仙・外道・道士の経経にたいし候へば、此等は妄語・仏説は実語にて候。此の実語の中に妄語あり、実語あり、綺語もあり悪口もあり。其の中に法華経は実語の中の実語なり、真実の中の真実なり。真言宗と華厳宗と三論と法相と倶舎・成実と律宗と念仏宗と禅宗等は、実語の中の妄語より立て出だせる宗宗なり。法華宗は此れ等の宗宗には・にるべくもなき実語なり。法華経の実語なるのみならず、一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば、法華経の御力にせめられて実語となり候。いわうや法華経の題目をや。

 白粉の力は漆を変じて雪のごとく白くなす、須弥山に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至過去遠遠劫の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。
しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給いしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給う。煩悩即菩提・生死即涅槃・即身成仏と申す法門なり。かかる人のえんの夫婦にならせ給へば、又女人成仏も疑なかるべし。若し此の事虚事ならば釈迦・多宝・十方・分身の諸仏は妄語の人、大妄語の人、悪人なり。一切衆生をたぼらかして地獄におとす人なるべし。 提婆達多は寂光浄土の主となり、教主釈尊は阿鼻大城のほのをにむせび給うべし。

 日月は地に落ち、大地はくつがへり、河は逆に流れ、須弥山はくだけをつべし。日蓮が妄語にはあらず十方三世の諸仏の妄語なり、いかでか其の義候べきとこそをぼへ候へ。委くは見参の時申すべく候。

七月十四日                  日  蓮  花 押
妙法尼御前申させ給へ




by johsei1129 | 2015-05-05 23:04 | 妙法比丘尼 | Comments(0)
2014年 10月 23日

末法に入り法華経を信じて仏になる者は爪の上の土よりも少しと説いた【妙法比丘尼御返事】

【妙法比丘尼御返事】
■出筆時期:弘安元年九月六日(西暦1278年) 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:駿河の岡宮に住まれていた妙法比丘尼に宛てられた御書。妙法比丘尼が兄・尾張次郎兵衛の死去を伝えるとともに、兄嫁より託された太布帷子をご供養することを記した大聖人への手紙の返書となっている。付法蔵経に説かれている「僧に商那和修という衣を捧げた功徳で商那衣にまとわれて生まれ、遂には阿難尊者の御弟子となり出家したという商那和修比丘」にも匹敵する功徳があると讃えられている。尚、大聖人はご消息文としては異例の長文となっている本抄を含め、4通の御書を送られるほど妙法比丘尼を大切にされており、妙法比丘尼が女性ながら大聖人への強い信仰の持ち主であったことを物語っている。
■ご真筆: 現存していない。

[妙法比丘尼御返事 本文]

 御文に云くたふかたびら一つあによめにて候女房のつたうと云云。又おはりの次郎兵衛殿六月二十二日に死なせ給うと云云。
付法蔵経と申す経は仏我が滅後に我が法を弘むべきやうを説かせ給いて候。其の中に我が滅後正法一千年が間次第に使をつかはすべし。第一は迦葉尊者二十年・第二は阿難尊者二十年・第三は商那和修二十年・乃至第二十三は師子尊者なりと云云。其の第三の商那和修と申す人の御事を仏の説かせ給いて候やうは、商那和修と申すは衣の名なり。此の人生れし時衣をきて生れて候いき不思議なりし事なり。六道の中に地獄道より人道に至るまでは何なる人も、始はあかはだかにて候に、天道こそ衣をきて生れ候へ。たとひ何なる賢人聖人も人に生るるならひは皆あかはだかなり。一生補処の菩薩すら尚はだかにて生れ給へり。何かに況や其の外をや。然るに此の人は商那衣と申すいみじき衣にまとはれて生れさせ給いしが、此の衣は血もつかずけがるる事もなし。譬えば池に蓮のをひ(生)、をし(鷲)の羽の水にぬれざるが如し。此の人次第に生長ありしかば、又此の衣次第に広く長くなる。冬はあつく夏はうすく春は青く秋は白くなり候し程に、長者にてをはせしかば何事もともしからず。後には仏の記しをき給いし事たがふ事なし。故に阿難尊者の御弟子とならせ給いて御出家ありしかば、此の衣変じて五条・七条・九条等の御袈裟となり候き。かかる不思議の候し故を仏の説かせ給いしやうは、乃往過去・阿僧祇劫の当初、此の人は商人にて有りしが、五百人の商人と共に大海に船を浮べてあきなひをせし程に海辺に重病の者あり。しかれども辟支仏と申して貴人なり。先業にてや有りけん、病にかかりて身やつれ心をぼれ不浄にまとはれてをはせしを、此の商人あはれみ奉りて、ねんごろに看病して生しまいらせ、不浄をすすぎ、すててそ布の商那衣をきせまいらせてありしかば、此聖人悦びて願して云く、汝我を助けて身の恥を隠せり。この衣を今生後生の衣とせんとて、やがて涅槃に入り給いき。此の功徳によりて過去・無量劫の間、人中天上に生れ生るる度ごとに、此の衣、身に随いて離るる事なし。乃至今生に釈迦如来の滅後第三の付嘱をうけて、商那和修と申す聖人となり、摩突羅国の優留荼山と申す山に大伽藍を立てて無量の衆生を教化して仏法を弘通し給いし事二十年なり。
 所詮商那和修比丘の一切のたのしみ不思議は、皆彼の衣より出生せりとこそ説かれて候へ。
而るに日蓮は南閻浮提日本国と申す国の者なり。此の国は仏の世に出でさせ給いし国よりは東に当りて二十万余里の外遥なる海中の小島なり。而るに仏、御入滅ありては既に二千二百二十七年なり。月氏・漢土の人の此の国の人人を見候へば、此の国の人の伊豆の大島・奥州の東のえぞなんどを見るやうにこそ候らめ。而るに日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり。此の度いかにもして仏種をもうへ、生死を離るる身とならんと思いて候し程に、皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し程に、いささかの事ありて、此の事を疑いし故に一の願をおこす。日本国に渡れる処の仏経、並に菩薩の論と人師の釈を習い見候はばや、又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり。此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に、一の不思議あり。我れ等がはかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし。いづれもいづれも、心に入れて習ひ願はば生死を離るべしとこそ思いて候に、仏法の中に入りて悪しく習い候ぬれば謗法と申す大なる穴に堕ち入つて、十悪五逆と申して、日日・夜夜に殺生・偸盗・邪婬・妄語等をおかす人よりも、五逆罪と申して父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼となりて身には二百五十戒をかたく持ち、心には八万法蔵をうかべて候やうなる、智者聖人の一生が間に一悪をもつくらず、人には仏のやうにをもはれ、我が身も又さながらに悪道にはよも堕ちじと思う程に、十悪・五逆の罪人よりも、つよく地獄に堕ちて阿鼻大城を栖として永く地獄をいでぬ事の候けるぞ。譬えば人ありて世にあらんがために国主につかへ奉る程に、させるあやまちはなけれども我心のたらぬ上身にあやしきふるまひかさなるを、猶我身にも失ありともしらず、又傍輩も不思議ともをもはざるに后等の御事によりてあやまつ事はなけれども、自然にふるまひあしく王なんどに不思議に見へまいらせぬれば、謀反の者よりも其の失重し。此の身とがにかかりぬれば父母・兄弟・所従なんども又かるからざる失にをこなはるる事あり。

 謗法と申す罪をば我れもしらず人も失とも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり。所謂勝意比丘・苦岸比丘なんど申せし僧は、二百五十戒をかたく持ち三千の威儀を一もかけずありし人なれども、無間大城に堕ちて出づる期見へず。又彼の比丘に近づきて弟子となり檀那となる人人、存の外に大地微塵の数よりも多く、地獄に堕ちて師とともに苦を受けしぞかし、此の人後世のために衆善を修せしより外は又心なかりしかども・かかる不祥にあひて候しぞかし。

 かかる事を見候しゆへにあらあら経論を勘へ候へば、日本国の当世こそ其に似て候へ。代末になり候へば世間のまつり事のあらきにつけても世の中あやうかるべき上、此の日本国は他国にもにず仏法弘まりて国をさまるべきかと思いて候へば、中中・仏法弘まりて世もいたく衰へ人も多く悪道に堕つべしと見へて候。其の故は日本国は月氏・漢土よりも堂塔等の多き中に大体は阿弥陀堂なり。其の上家ごとに阿弥陀仏を木像に造り画像に書き、人毎に六万八万等の念仏を申す。又他方を抛うちて西方を願う愚者の眼にも貴しと見え候上、一切の智人も皆いみじき事なりとほめさせ給う。

 又人王五十代・桓武天皇の御宇に、弘法大師と申す聖人此の国に生れて、漢土より真言宗と申すめずらしき法を習い伝へ、平城嵯峨淳和等の王の御師となりて東寺・高野と申す寺を建立し、又慈覚大師・智証大師と申す聖人同じく此宗を習い伝えて、叡山・園城寺に弘通せしかば、日本国の山寺、一同に此の法を伝へ今に真言を行ひ鈴をふりて公家武家の御祈をし候。所謂二階堂・大御堂・若宮等の別当等是れなり。是れは古も御たのみある上当世の国主等家には柱、天には日月、河には橋、海には船の如く御たのみあり。

而るに日蓮は南閻浮提日本国と申す国の者なり。此の国は仏の世に出でさせ給いし国よりは東に当りて二十万余里の外遥なる海中の小島なり。而るに仏、御入滅ありては既に二千二百二十七年なり。月氏・漢土の人の此の国の人人を見候へば、此の国の人の伊豆の大島・奥州の東のえぞなんどを見るやうにこそ候らめ。而るに日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり。此の度いかにもして仏種をもうへ、生死を離るる身とならんと思いて候し程に、皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し程に、いささかの事ありて、此の事を疑いし故に一の願をおこす。日本国に渡れる処の仏経、並に菩薩の論と人師の釈を習い見候はばや、又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり。此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に、一の不思議あり。我れ等がはかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし。いづれもいづれも、心に入れて習ひ願はば生死を離るべしとこそ思いて候に、仏法の中に入りて悪しく習い候ぬれば謗法と申す大なる穴に堕ち入つて、十悪五逆と申して、日日・夜夜に殺生・偸盗・邪婬・妄語等をおかす人よりも、五逆罪と申して父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼となりて身には二百五十戒をかたく持ち、心には八万法蔵をうかべて候やうなる、智者聖人の一生が間に一悪をもつくらず、人には仏のやうにをもはれ、我が身も又さながらに悪道にはよも堕ちじと思う程に、十悪・五逆の罪人よりも、つよく地獄に堕ちて阿鼻大城を栖として永く地獄をいでぬ事の候けるぞ。譬えば人ありて世にあらんがために国主につかへ奉る程に、させるあやまちはなけれども我心のたらぬ上身にあやしきふるまひかさなるを、猶我身にも失ありともしらず、又傍輩も不思議ともをもはざるに后等の御事によりてあやまつ事はなけれども、自然にふるまひあしく王なんどに不思議に見へまいらせぬれば、謀反の者よりも其の失重し。此の身とがにかかりぬれば父母・兄弟・所従なんども又かるからざる失にをこなはるる事あり。

 謗法と申す罪をば我れもしらず人も失とも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ思いて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり。所謂勝意比丘・苦岸比丘なんど申せし僧は、二百五十戒をかたく持ち三千の威儀を一もかけずありし人なれども、無間大城に堕ちて出づる期見へず。又彼の比丘に近づきて弟子となり檀那となる人人、存の外に大地微塵の数よりも多く、地獄に堕ちて師とともに苦を受けしぞかし、此の人後世のために衆善を修せしより外は又心なかりしかども・かかる不祥にあひて候しぞかし。

 かかる事を見候しゆへにあらあら経論を勘へ候へば、日本国の当世こそ其に似て候へ。代末になり候へば世間のまつり事のあらきにつけても世の中あやうかるべき上、此の日本国は他国にもにず仏法弘まりて国をさまるべきかと思いて候へば、中中・仏法弘まりて世もいたく衰へ人も多く悪道に堕つべしと見へて候。其の故は日本国は月氏・漢土よりも堂塔等の多き中に大体は阿弥陀堂なり。其の上家ごとに阿弥陀仏を木像に造り画像に書き、人毎に六万八万等の念仏を申す。又他方を抛うちて西方を願う愚者の眼にも貴しと見え候上、一切の智人も皆いみじき事なりとほめさせ給う。

 又人王五十代・桓武天皇の御宇に、弘法大師と申す聖人此の国に生れて、漢土より真言宗と申すめずらしき法を習い伝へ、平城嵯峨淳和等の王の御師となりて東寺・高野と申す寺を建立し、又慈覚大師・智証大師と申す聖人同じく此宗を習い伝えて、叡山・園城寺に弘通せしかば、日本国の山寺、一同に此の法を伝へ今に真言を行ひ鈴をふりて公家武家の御祈をし候。所謂二階堂・大御堂・若宮等の別当等是れなり。是れは古も御たのみある上当世の国主等家には柱、天には日月、河には橋、海には船の如く御たのみあり。

而るに又代東にうつりて年をふるままに彼の国主を失いし、真言宗等の人人鎌倉に下り相州の足下にくぐり入りて、やうやうにたばかる故に、本は上\4
なればとてすかされて鎌倉の諸堂の別当となせり。又念仏者をば善知識とたのみて大仏・長楽寺・極楽寺等とあがめ、禅宗をば寿福寺・建長寺等とあがめをく。隠岐の法皇の果報の尽き給いし失より百千万億倍すぎたる大科・鎌倉に出来せり。かかる大科ある故に天照太神・正八幡等の天神・地祇・釈迦・多宝・十方の諸仏、一同に大にとがめさせ給う故に、隣国に聖人有りて万国の兵をあつめたる大王に仰せ付けて、日本国の王臣万民を一同に罰せんとたくませ給うを、日蓮かねて経論を以て勘へ候いし程に、此れを有りのままに申さば国主もいかり、万民も用ひざる上、念仏者・禅宗・律僧・真言師等定めて忿りをなしてあだを存じ、王臣等に讒奏して我が身に大難おこりて、弟子乃至檀那までも少しも日蓮に心よせなる人あらば科になし、我が身もあやうく命にも及ばんずらん。いかが案もなく申し出すべきとやすらひし程に、外典の賢人の中にも世のほろぶべき事を知りながら申さぬは諛臣とて、へつらへる者、不知恩の人なり。されば賢なりし竜逢、比干なんど申せし賢人は、頚をきられ胸をさかれしかども、国の大事なる事をばはばからず申し候いき。仏法の中には仏いましめて云く、法華経のかたきを見て世をはばかり恐れて申さずば、釈迦仏の御敵いかなる智人・善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし。譬へば父母を人の殺さんとせんを、子の身として父母にしらせず、王をあやまち奉らんとする人のあらむを、臣下の身として知りながら代をおそれて申さざらんがごとしなんど禁られて候。

 されば仏の御使たりし提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭をはねられ、竺の道生は蘇山へ流され、法道は面にかなやきをあてられき。此等は皆仏法を重んじ王法を恐れざりし故ぞかし。されば賢王の時は仏法をつよく立つれば、王両方を聞あきらめて勝れ給う智者を師とせしかば、国も安穏なり。所謂、陳・隋の大王、桓武・嵯峨等は天台智者大師を南北の学者に召し合せ、最澄和尚を南都の十四人に対論せさせて論じかち給いしかば、寺をたてて正法を弘通しき。大族王・優陀延王・武宗・欽宗・欽明・用明或は、鬼神・外道を崇重し、或は道士を帰依し、或は神を崇めし故に、釈迦仏の大怨敵となりて身を亡ぼし、世も安穏ならず。其の時は聖人たりし僧侶大難にあへり。今日本国すでに大謗法の国となりて他国にやぶらるべしと見えたり。
此れを知りながら申さずば、縦ひ現在は安穏なりとも後生には無間大城に堕つべし。後生を恐れて申すならば流罪・死罪は一定なりと思い定めて、去ぬる文応の比、故最明寺入道殿に申し上げぬ。されども用い給う事なかりしかば、念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に、かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ。されば極楽寺殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし。其の後何程もなくして召し返されて後、又経文の如く弥よ申しつよる。又去ぬる文永八年九月十二日に佐渡の国へ流さる。日蓮御勘気の時申せしが如くどしうちはじまりぬ。それを恐るるかの故に又召し返されて候。しかれども用ゆる事なければ万民も弥弥悪心盛んなり。

しらせて後用いずば我が失にはあらずと思いて、去ぬる文永十一年五月十二日、相州鎌倉を出でて六月十七日より此の深山に居住して門一町を出でず既に五箇年をへたり。
本は房州の者にて候いしが、地頭東条左衛門尉景信と申せしもの極楽寺殿・藤次左衛門入道、一切の念仏者にかたらはれて度度の問註ありて、結句は合戦起りて候上、極楽寺殿の御方人理をまげられしかば、東条の郡ふせがれて入る事なし。父母の墓を見ずして数年なり。又国主より御勘気二度なり。第二度は外には遠流と聞こへしかども内には頚を切るべしとて、鎌倉竜の口と申す処に九月十二日の丑の時に、頚の座に引きすへられて候いき。いかがして候いけん、月の如くにをはせし物、江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず、とかうせし程に子細どもあまたありて、其の夜の頚はのがれぬ。又佐渡の国にてきらんとせし程に、日蓮が申せしが如く鎌倉にどしうち始まりぬ。使はしり下りて頚をきらず、結句はゆるされぬ。今は此の山に独りすみ候。
佐渡の国にありし時は、里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり。彼処に一間四面の堂あり。そらはいたまあわず四壁はやぶれたり、雨はそとの如し雪は内に積もる。仏はおはせず筵畳は一枚もなし。然れども我が根本より持ちまいらせて候教主釈尊を立てまいらせ、法華経を手ににぎり蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず食もあたへずして四箇年なり。彼の蘇武が胡国にとめられて十九年が間、蓑をき雪を食としてありしが如し。

 今又此山に五箇年あり。北は身延山と申して天にはしだて、南はたかとりと申して鶏足山の如し。西はなないたがれと申して鉄門に似たり、東は天子がたけと申して富士の御山にたいしたり。四の山は屏風の如し、北に大河あり早河と名づく、早き事箭をいるが如し。南に河あり波木井河と名づく、大石を木の葉の如く流す。東には富士河北より南へ流れたりせんのほこをつくが如し、内に滝あり身延の滝と申す、白布を天より引くが如し。此の内に狭小の地あり、日蓮が庵室なり。深山なれば昼も日を見奉らず夜も月を詠むる事なし。峯にははかうの猿かまびすしく、谷には波の下る音鼓を打つがごとし。地にはしかざれども大石多く、山には瓦礫より外には物もなし。国主はにくみ給ふ、万民はとぶらはず、冬は雪道を塞ぎ、夏は草をひしげり。鹿の遠音うらめしく蝉の鳴く声かまびすし、訪う人なければ命もつぎがたし。はだへをかくす衣も候はざりつるに、かかる衣ををくらせ給えるこそいかにとも申すばかりなく候へ。

 見し人聞きし人だにもあはれとも申さず、年比なれし弟子、つかへし下人だにも皆にげ失とぶらはざるに、聞きもせず見もせぬ人の御志哀なり。偏に是れ別れし我が父母の生れかはらせ給いけるか。十羅刹の人の身に入りかはりて思いよらせ給うか。唐の代宗皇帝の代に、子将軍と申せし人の御子、李如暹将軍と申せし人勅定を蒙りて、北の胡地を責めし程に、我が勢数十万騎は打ち取られ胡国に生け取られて四十年漸くへし程に、妻をかたらひ子をまうけたり。胡地の習い生取をば皮の衣を服せ毛帯をかけさせて候が、只正月一日計り唐の衣冠をゆるす。一年ごとに漢土を恋いて肝をきり涙をながす。而る程に唐の軍おこりて唐の兵、胡地をせめし時、ひまをえて胡地の妻子をふりすててにげしかば、唐の兵は胡地のえびすとて捕へて頚をきらんとせし程に、とかうして徳宗皇帝にまいらせてありしかば、いかに申せども聞もほどかせ給はずして、南の国、呉越と申す方へ流されぬ。李如暹歎いて云く、進ては涼原の本郷を見ることを得ず、退ては胡地の妻子に逢ふことを得ず云云。此の心は胡地の妻子をもすて又唐の古き栖をも見ず。あらぬ国に流されたりと歎くなり。我が身には大忠ありしかどもかかる歎きあり。

 日蓮も又此くの如し、日本国を助けばやと思う心に依りて申し出す程に、我が生れし国をもせかれ又流されし国をも離れぬ。すでに此の深山にこもりて候が彼の李如暹に似て候なり。但し本郷にも流されし処にも妻子なければ歎く事はよもあらじ。唯父母のはかと、なれし人人のいかがなるらんと、をぼつかなしとも申す計りなし。但うれしき事は武士の習ひ君の御為に、宇治勢多を渡し前をかけなんどしてありし人は、たとひ身は死すれども名を後代に挙げ候ぞかし。日蓮は法華経のゆへに度度所をおはれ戦をし、身に手をおひ弟子等を殺され、両度まで遠流せられ既に頚に及べり。是れ偏に法華経の御為なり。法華経の中に仏説かせ給はく、我が滅度の後、後の五百歳、二千二百余年すぎて此の経閻浮提に流布せん時、天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、たまたま信ずる者をば、或はのり打ち所をうつし、或はころしなんどすべし。其の時先さきをしてあらん者は三世十方の仏を供養する功徳を得べし。我れ又因位の難行・苦行の功徳を譲るべしと説かせ給う取意。

 されば過去の不軽菩薩は法華経を弘通し給いしに、比丘・比丘尼等の智慧かしこく二百五十戒を持てる大僧ども集まりて優婆塞・優婆夷をかたらひて不軽菩薩をのり打ちせしかども、退転の心なく弘めさせ給いしかば終には仏となり給う。昔の不軽菩薩は今の釈迦仏なり。それをそねみ打ちなんどせし大僧どもは、千劫阿鼻地獄に堕ちぬ。彼の人人は観経・阿弥陀経等の数千の経、一切の仏名・阿弥陀念仏を申し法華経を昼夜に読みしかども、実の法華経の行者をあだみしかば、法華経・念仏戒等も助け給はず、千劫阿鼻地獄に堕ちぬ。彼の比丘等は始には不軽菩薩をあだみしかども、後には心をひるがへして、身を不軽菩薩に仕うる事やつこの主に随うがごとく有りしかども、無間地獄をまぬかれず。今又日蓮にあだをせさせ給う日本国の人人も此くの如し。此は彼には似るべくもなし、彼は罵り打ちしかども国主の流罪はなし、杖木瓦石はありしかども疵をかほり頚までには及ばず。是は悪口杖木は二十余年が間ひまなし、疵をかほり流罪・頚に及ぶ、弟子等は或は所領を召され、或はろうに入れ、或は遠流し、或は其の内を出だし、或は田畠を奪ひなんどする事、夜打・強盗・海賊・山賊・謀叛等の者よりもはげしく行はる。此れ又偏に真言・念仏者・禅宗等の大僧等の訴なり。されば彼の人人の御失は大地よりも厚ければ此の大地は大風に大海に船を浮べるが如く動転す。天は八万四千の星・瞋をなし、昼夜に天変ひまなし。其の上日月・大に変多し仏滅後既に二千二百二十七年になり候に、大族王が五天の寺をやき十六の大国の僧の頚を切り、武宗皇帝の漢土の寺を失ひ仏像をくだき、日本国の守屋が釈迦仏の金銅の像を炭火を以てやき、僧尼を打ちせめては還俗せさせし時も是れ程の彗星大地震はいまだなし。彼には百千万倍過ぎて候大悪にてこそ候いぬれ。彼は王一人の悪心大臣以下は心より起る事なし。又権仏と権経との敵なり僧も法華経の行者にはあらず。是は一向に法華経の敵、王一人のみならず一国の智人並びに万民等の心より起れる大悪心なり。譬えば女人物をねためば胸の内に大火もゆる故に、身変じて赤く身の毛さかさまにたち、五体ふるひ面に炎あがり、かほは朱をさしたるが如し。眼まろになりてねこの眼のねづみをみるが如し、手わななきてかしわの葉を風の吹くに似たり、かたはらの人是を見れば大鬼神に異ならず。

日本国の国主諸僧比丘比丘尼等も又是くの如し。たのむところの弥陀念仏をば日蓮が無間地獄の業と云うを聞き、真言は亡国の法と云うを聞き、持斎は天魔の所為と云うを聞いて念珠をくりながら歯をくひちがへ、鈴をふるにくびをどりたり、戒を持ちながら悪心をいだく。極楽寺の生仏の良観聖人、折紙をささげて上へ訴へ、建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく、諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひてでんそうをなす。是れ偏に法華経を読みてよまず聞いてきかず、善導・法然が千中無一と、弘法・慈覚・達磨等の、皆是戯論教外別伝のあまきふる酒にえはせ給いて、さかぐるひにておはするなり。法華最第一の経文を見ながら、大日経は法華経に勝れたり、禅宗は最上の法なり、律宗こそ貴けれ、念仏こそ我等が分にはかなひたれと申すは、酒に酔える人にあらずや。星を見て月にすぐれたり、石を見て金にまされり、東を見て西と云い、天を地と申す。物ぐるひを本として、月と金は星と石とには勝れたり、東は東天は天なんど有りのままに申す者をばあだませ給はば、勢の多きに付くべきか、只物ぐるひの多く集まれるなり。されば此等を本とせし云うにかひなき男女の皆、地獄に堕ちん事こそあはれに候へ。

 涅槃経には仏説き給はく、末法に入つて法華経を謗じて地獄に堕つる者は大地微塵よりも多く、信じて仏になる者は爪の上の土よりも少しと説かれたり。此れを以つて計らせ給うべし、日本国の諸人は爪の上の土、日蓮一人は十方の微塵にて候べきか。然るに何なる宿習にてをはすれば御衣をば送らせ給うぞ、爪の上の土の数に入らんとをぼすか、又涅槃経に云く「大地の上に針を立てて大風の吹かん時大梵天より糸を下さんに、糸のはしすぐに下りて針の穴に入る事はありとも、末代に法華経の行者にはあひがたし」 法華経に云く「大海の底に亀あり、三千年に一度海上にあがる栴檀の浮木の穴にゆきあひてやすむべし、而るに此の亀一目なるが而も僻目にて西の物を東と見、東の物を西と見るなり」と。末代悪世に生れて法華経並びに南無妙法蓮華経の穴に身を入るる男女にたとへ給へり。何なる過去の縁にてをはすれば、此の人をとふらんと思食す御心はつかせ給いけるやらん。法華経を見まいらせ候へば、釈迦仏の其の人の御身に入らせ給いてかかる心はつくべしと説かれて候。譬へばなにとも思はぬ人の酒をのみてえいぬれば、あらぬ心出来り、人に物をとらせばやなんど思う心出来る。此れは一生慳貪にして餓鬼に堕つべきを、其の人の酒の縁に菩薩の入りかはらせ給うなり。濁水に珠を入れぬれば水すみ、月に向いまいらせぬれば人の心あこがる、画にかける鬼には心なけれどもおそろし、とわりを画にかけば、我が夫をばとらねどもそねまし、錦のしとねに蛇をおれるは服せんとも思はず、身のあつきにあたたかなる風いとはし、人の心も此くの如し。法華経の方へ御心をよせさせ給うは女人の御身なれども、竜女が御身に入らせ給うか。

 さては又尾張の次郎兵衛尉殿の御事、見参に入りて候いし人なり。日蓮は此の法門を申し候へば他人にはにず多くの人に見て候へども、いとをしと申す人は千人に一人もありがたし。彼の人はよも心よせには思はれたらじなれども、自体人がらにくげなるふりなく、よろづの人になさけあらんと思いし人なれば、心の中はうけずこそをぼしつらめども、見参の時はいつはりをろかにて有りし人なり。又女房の信じたるよしありしかば、実とは思い候はざりしかども、又いたう法華経に背く事はよもをはせじなれば、たのもしきへんも候。されども法華経を失ふ念仏並びに念仏者を信じ、我が身も多分は念仏者にてをはせしかば、後生はいかがとをぼつかなし。譬えば国主はみやづかへのねんごろなるには、恩のあるもあり又なきもあり。少しもをろかなる事候へばとがになる事疑なし。法華経も又此くの如し、いかに信ずるやうなれども、法華経の御かたきにも知れ知らざれ、まじはりぬれば無間地獄は疑なし。

 是はさてをき候ぬ、彼の女房の御歎いかがとをしはかるに、あはれなり。たとへばふじのはなのさかんなるが松にかかりて思う事もなきに、松のにはかにたふれ、つたのかきにかかれるが、かきの破れたるが如くにをぼすらん。内へ入れば主なし、やぶれたる家の柱なきが如し。客人来れども外に出でてあひしらうべき人もなし。夜のくらきにはねやすさまじく、はかをみればしるしはあれども声もきこへず。又思いやる死出の山、三途の河をば誰とか越え給うらん、只独り歎き給うらん。とどめをきし御前たち、いかに我をばひとりやるらん。さはちぎらざりとや歎かせ給うらん。かたがた秋の夜のふけゆくままに冬の嵐のをとづるる声につけても、弥弥御歎き重り候らん、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。





by johsei1129 | 2014-10-23 23:37 | 妙法比丘尼 | Comments(0)