カテゴリ:南条時光(上野殿)( 53 )


2016年 02月 26日

南条時光の弟七郎五郎の死を「さては、まことかまことかと、はじめてうたがいいできた りて候」と弔われた消息【南条殿御返事】

【南条殿御返事】
■出筆時期:弘安三年(1280) 九月七日以降と思われます。五十九歳御作る
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:大聖人は時光の弟・七郎五郎の突然の死去に関しては知らされた直後、叉四十九日の法要の時には【上野殿母御前御返事】を送られるなど、折に触れ何通もの消息を時光及び母御前に送られておられます。本書もその中の一通です。

大聖人は本消息を送られた約三か月前の弘安三年六月十五日に、時光とともに身延に見参された当時十六歳の七郎五郎に会われておられます。そして九月五日に七郎五郎は突然死去されます。
その直後に送られた消息が【上野殿御返事(弔慰御書)】です。
この消息には七郎五郎の印象について「あはれ肝ある者かな男や男やと見候いしに、又見候はざらん事こそかなしくは候へ」と記され、将来を期待されていたことを伺わせております。また七郎五郎の突然の死去について「まことともをぼへ候はねば、かきつくるそらもをぼへ候はず、又又申すべし」と記され「本当の事だと信じられない」と当時の心境を伝えられておられます。

本消息では「此の御ふみにもあそばされて候、さては、まことかまことかとはじめてうたがいいできたりて候」と記され、時光から白米等の御供養と共に送られた消息を読んで、あらためて七郎五郎の死がまぼろしという事に疑いが生じ現実の事だと感じられた心境を率直に綴られておられます。
このことから本消息は【上野殿御返事(弔慰御書)】を送られたあと何日か経過してから、あらためて送られ消息であると推察されます。
■ご真筆:富士大石寺所蔵(一般非公開)。

【南条殿御返事 本文】

はくまい(白米)ひとふくろ、いも一だ給び了んぬ。
抑故なんでう(南条)の七らうごらうどのの事、いままでは・ゆめかゆめか・まぼろしか・まぼろしかとうたがいて・そらごととのみをもひて候へば、此の御ふみにも・あそばされて候。
さては、まことかまことかとはじめて・うたがいいできたりて候。(この後の文は伝えられておられません)





by johsei1129 | 2016-02-26 23:00 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)
2016年 02月 25日

川流江河諸水の中に海これ第一なるが如く、此の法華経も亦復是 くの如し、と説いた【南条殿御返事】

【南条殿御返事】
■出筆時期:弘安三年(1280年)十二月十五日 五十九歳御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は南条時光並びに母の尼御前が、十六歳で亡くなった弟五郎の百ケ日の追善供養のため、しろ牙(こめ)二石、並びにいもの鵄一だを供養されたことへの返書となっております。
大聖人は法華経・薬王菩薩本事品で説かれて、法華経がそれ以外の一切経に優れていることを喩えた「十喩」の一つ、大海と江河の譬えを引いて、「故五郎殿の十六年が間の罪は江河の一てい、須臾の間の南無妙法蓮華経は大海の一てい」であると我が子及び弟を失い悲しみが未だ癒えないであろう尼御前と時光を励まされておられます。
尚、残念ながら後段の文はご真筆が残されておらず、また古写本も伝えられていないため詳細は不明ですが、「をやは死にて子にになわる、これ次第なり」と記されており、この文の後は、親が先に死ぬの通常の次第ではあるが、子に先立たれた事の意味また追善供養について説かれているものと推察されます。
■ご真筆:京都市本満寺、他二箇所にて断簡所蔵。
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【南条殿御返事 本文】

しろ牙(こめ)二石、並びにいもの鵄一だ、故五郎殿百ケ日等云云。
法華経の第七に云く、「川流江河諸水の中に海これ第一なるが如く、此の法華経も亦復是くの如し」等云云。
此の経文は法華経をば大海に譬へられて候、大海と申すは・ふかき事八万四千由旬、広きこと又かくのごとし。
此の大海の中にはなになにのすみ有りと申し候へば阿修羅王....

[この間の文はご真筆が伝えられておりません]

....字百千万の字あつまりて法華経とならせ給ひて候へば、大海に譬えられて候。
叉大海の一渧は江河のしずくと少しは同じといえども、其の義はるかにかわれり。
江河の一ていはただ一水なり、一雨なり。大海の一ていは四天下の水あつまて一ていをつくれり。
一河の一ていは一の金のごとし、大海の一ていは如意宝珠ごとし。一河の一ていは一のあじわい、大海の一ていは五味のあじわい、江河の一ていは一つの薬なり、大海の一ていは万種の一丸のごとし。

南無阿弥陀仏は一河の一てい、南妙法蓮華経は大海の一てい。阿弥陀仏は小河の一てい、法華経の一字は大海の一てい。故五郎殿の十六年が間の罪は江河の一てい、須臾の間の南無妙法蓮華経は大海の一てい等云々。 
夫れ以れば華はつぼみさいて菓なる、をやは死にて子にになわる、これ次第なり。譬えば...
[この後の文もご真筆が伝えられておりません]





by johsei1129 | 2016-02-25 22:31 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)
2016年 02月 20日

南条時光の所領・上野郷の殿原一同からお正月に供養されたもちいを「金のもちゐ」と称えられた書【上野郷主等御返事】

【上野郷主等御返事】
■出筆時期:弘安五年(1282年)一月十一日 六十一歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本消息は大聖人御遷化なされる年の正月十一日に認められた消息です。
上野郷は南条時光が支配する所領で、本消息の宛名が「上野郷主等の殿原(武士達の尊称)」となっておられるので、南条時光と配下の武士一同でもちゐ二十枚をご供養されたものと思われます。
大聖人は、徳勝童子が土のもちゐを仏にまいらせて一閻浮提の主となった、謂れを引いて、上野郷主の殿原一同のご供養をいたく喜ばれ「金のもちゐを法華経の御前にさゝげたり。後生の仏は疑ひなし」と称えられておられます。
■ご真筆:身延久遠寺にかって存在したが明示八年の大火で焼失。 高知市要法寺に形木所蔵。

【上野郷主等御返事 本文】
昔の徳勝童子は土のもちゐを仏にまいらせて一閻浮提の主となる。
今の檀那等は二十枚の金のもちゐを法華経の御前にさゝげたり。
後生の仏は疑ひなし。なんぞ今生にそのしるしなからむ。恐々。

正月十一日            日 蓮 花押
上ののがうす等のとのばら


by johsei1129 | 2016-02-20 18:58 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)
2016年 01月 12日

一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候、と説いた【上野殿御返事 】

【上野殿御返事】
■出筆時期:弘安四年年(1281)九月二十日 六十歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄をしるされた弘安四年九月は、大聖人が御遷化なされる約一年前で、南条時光(上野殿)も大聖人の病状のことは伝え聞いていたと思われ、滋養に良い、いも・ごぼう・大根を身延山中に届けられます。
本抄はその時光の真心のご供養にいする返書となっております。大聖人は「千金の金をもてる者もう(飢)えてしぬ。一飯をつと(苞)につつめる者に、これをと(劣)れり」と記され、師の体を気遣う時光のご供養の品々は、時に適ったものであると称えられておられます。
さらに結びでは「一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候」と短いながら自身滅後の広宣流布を託す、時光に重々の指導ををなされておられます。

尚、御年四十一歳(弘長二年二月十日)に流罪地の伊豆・伊東で著された【教機時国抄】では、「仏教を弘めん人は必ず時を知るべし、譬えば農人の秋冬田を作るに種と地と人の功労とは違わざれども一分も益無く還つて損す一段を作る者は少損なり。一町二町等の者は大損なり、春夏耕作すれば上中下に随つて皆分分に益有るが如し、仏法も亦復是くの如し、時を知らずして法を弘めば益無き上還つて悪道に堕するなり」と説かれておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【上野殿御返事 本文】

いゑのいも一駄・ごばう一つと(注:苞)・大根六本。
いもは石のごとし、ごばうは大牛の角のごとし、大根は大仏堂の大くぎのごとし。あぢわひはとう利天の甘露のごとし。

石を金にかうる国もあり・土をこめ(米)にうるところもあり。千金の金をもてる者もう(飢)えてしぬ。
一飯をつと(苞)につつめる者に、これをと(劣)れり。

経に云く「うえたるよには、よねたつとし」と云云。一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候、又又申すべし、恐恐謹言。

弘安四年九月廿日 日 蓮 花 押
上野殿御返事

※注一つと(苞):食料品を運ぶためにわらなどを束ねたもの。この当時の人々はその苞(つと)に食品を包んで運んだ。



by johsei1129 | 2016-01-12 21:07 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)
2015年 12月 27日

身延山中の草庵の周辺の状況を詳しく記された貴重な一書【九郎太郎殿御返事】

【九郎太郎殿御返事】
■出筆時期:建治二年(1276年)九月十五日 五十五歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本消息を送られた九郎太郎殿は、駿河国富士方面の信徒で南条時光殿の父(故)南条兵衛七郎の近親、あるいは兄弟ではないかと思われます。

本抄は九郎太郎殿からいゑの芋一駄をご供養されたことへの返書となっており、大聖人は本消息で「いものやうに候石は一も候はず、いものめづらしき事くらき夜のともしびにもすぎ」と九郎太郎のご供養の志を喜ばれるとともに、身延の沢の状況を詳しく記されておられ、当時の大聖人の暮らしぶりを垣間見ることができる貴重な消息となっております。尚、本消息を記された二年後の弘安元年十一月一日に九郎太郎に送られた「九郎太郎殿御返事」では、故南条兵衛七郎の事が記されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【九郎太郎殿御返事 本文】

いゑの芋一駄・送り給び候、こんろん山と申す山には玉のみ有りて石なし、石ともしければ玉をもつて石をかう、はうれいひんと申す浦には木草なし・いをもつて薪をかう、鼻に病ある者はせんだん香・用にあらず、眼なき者は明なる鏡なにかせん。

此の身延の沢と申す処は甲斐国・波木井の郷の内の深山なり。西には七面のかれと申すたけ(岳)あり、東は天子のたけ・南は鷹取のたけ・北は身延のたけ・四山の中に深き谷あり。はこ(箱)のそこ(底)のごとし、峯にははこうの猿の音かまびすし、谷にはたいかいの石多し。

然れどもするがのいものやうに候石は一も候はず、いものめづらしき事くらき夜のともしびにもすぎ・かはける時の水にもすぎて候ひき、いかに・めづらしからずとは・あそばされて候ぞ、されば其には多く候か・あらこひしあらこひし、法華経・釈迦仏にゆづりまいらせ候いぬ、定めて仏は御志をおさめ給うなれば御悦び候らん、霊山浄土へまひらせ給いたらん時・御尋ねあるべし、恐恐謹言。

建治二年丙子九月十五日 日蓮花押
九郎太郎殿御返事




by johsei1129 | 2015-12-27 19:10 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)
2015年 12月 25日

よるひる法華経に申し候なり、御信用の上にも力もをしまず申させ給え<中略>各各の御信心のあつくうすきにて候べし、と諭された【南条殿御返事】

【南条殿御返事】
■出筆時期:建治二年(1276年)閏三月二十四日 五十五歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は南条時光が十八歳の時に送られた長文のご消息です。
閏三月は現在の五月末頃の時期で、時光が夏用の上着のかたびら(帷子)他、種々大聖人にご供養されたことへの返書となっております。

大聖人は、主君の御勘気に触れ牢に十二年間入れられていた大橋太郎の子が、出家し法華経を読誦することで父に会え、主君の御勘気もとけた謂れを記され、幼くして父を亡くした時光に対し「この御孝養の志を閻魔法王・梵天・帝釈天までも知しめしぬらん。釈迦仏・法華経もいかでか捨てさせ給うべき<中略>この(法華経へのご供養の)御心ざし彼(大橋太郎の子息)に違わず。これは(日蓮が)涙をもちて書きて候なり」と称えられておられます。

さらに当時噂させていた文永の役に続く蒙古の再度の来襲に触れ「各各も不便とは思へども助けがたくやあらんずらん。よるひる法華経に申し候なり。(法華経を)御信用の上にも力もをしまず申させ給え。あえてこれより(日蓮)の心ざしのゆわきにはあらず、各各の御信心のあつくうすきにて候べし」と、一層法華経信仰に励むよう諭されておられます。
■ご真筆:富士大石寺所蔵(一般非公開)。

[南条殿御返事 本文]

かたびら一つ・しをいちだ・あぶら五そう・給び候い了んぬ、ころもはかんをふせぎ又ねつをふせぐ・みをかくし・みをかざる、法華経の第七やくわうぼんに云く「如裸者得衣」等云云、心ははだかなるものの・ころもをへたるがごとし、もんの心はうれしき事をとかれて候。

ふほうぞうの人のなかに商那和衆と申す人あり衣をきてむまれさせ給う、これは先生に仏法にころもを・くやうせし人なり、されば法華経に云く「柔和忍辱衣」等云云、こんろん山には石なし・みのぶのたけにはしをなし、石なきところには・たまよりも・いしすぐれたり、しをなきところには・しを・こめにもすぐれて候、国王のたからは左右の大臣なり・左右の大臣をば塩梅と申す、みそしを・なければよわたりがたし・左右の臣なければ国をさまらず、あぶらと申すは・涅槃経に云く風のなかに・あぶらなし・あぶらのなかに・かぜなし・風をぢする第一のくすりなり、かたがたのものをくり給いて候御心ざしのあらわれて候事申すばかりなし、せんするところは・こなんでうどのの法華経の御しんようのふかかりし事のあらわるるか、王の心ざしをば臣のべ・をやの心ざしをば子の申しのぶるとはこれなり、あわれことのの・うれしと・をぼすらん。

つくしにををはしの太郎と申しける大名ありけり、大将どのの御かんきを・かほりて・かまくらゆひのはまつちのろうにこめられて十二年めしはじしめられしとき・つくしをうちいでしに・ごぜんにむかひて申せしは・ゆみやとるみとなりて・きみの御かんきを・かほらんことは・なげきならず、又ごぜんに・をさなくよりなれしかいまはなれん事いうばかりなし、これはさてをきぬ、なんしにても・によしにても一人なき事なげきなり、ただしくわいにんのよし・かたらせ給う・をうなごにてやあらんずらん・をのこごにてや候はんずらん、ゆくへをみざらん事くちおし、又かれが人となりて・ちちというものも・なからんなげき・いかがせんとをもへども・力及ばずとていでにき。

かくて月ひすぐれ・ことゆへなく生れにき・をのこごにてありけり、七歳のとし・やまでらにのぼせてありければ・ともだちなりけるちごども・をやなしとわらひけり、いへにかへりて・ははにちちをたづねけり、ははのぶるかたなくして・なくより外のことなし、此のちご申す天なくしては雨ふらず・地なくしてはくさをいず、たとい母ありとも・ちちなくばひととなるべからず、いかに父のありどころをば・かくし給うぞとせめしかば・母せめられて云うわちごをさなければ申さぬなり・ありやうはかうなり、此のちごなくなく申すやう・さてちちのかたみはなきかと申せしかば、これありとて・ををはしのせんぞの日記・ならびにはらの内なる子に・ゆづれる自筆の状なり、いよいよをやこひしくて・なくより外の事なし、さて・いかがせんといゐしかば・これより郎従あまた・ともせしかども・御かんきをかほりければ・みなちりうせぬ、そののちは・いきてや又しにてや・をとづるる人なしと・かたりければ・ふしころび・なきて・いさむるをも・もちゐざりけり。

ははいわく・をのれをやまでらにのぼする事は・をやのけうやうのためなり、仏に花をもまいらせよ・経をも一巻よみて孝養とすべしと申せしかば・いそぎ寺にのぼりて・いえへかへる心なし、昼夜に法華経をよみしかば・よみわたりけるのみならず・そらにをぼへてありけり、さて十二のとし出家をせずして・かみをつつみ・とかくしてつくしをにげいでて・かまくらと申すところへたづねいりぬ。

八幡の御前にまいりて・ふしをがみ申しけるは・八幡大菩薩は日本第十六の王・本地は霊山浄土に法華経をとかせ給いし教主釈尊なり、衆生のねがいをみて給わんがために神とあらわれさせ給う、今わがねがいみてさせ給え、をやは生きて候か・しにて候かと申して・いぬの時より法華経をはじめて・とらの時までに・よみければ・なにとなき・をさなきこへはうでんに・ひびきわたり・こころすごかりければ・まいりてありける人人も・かへらん事をわすれにき、皆人いちのやうに・あつまりてみければ・をさなき人にて法師ともをぼえず・をうなにてもなかりけり。

をりしも・きやうのにゐどの御さんけいありけり、人めをしのばせ給いてまいり給いたりけれども御経のたうとき事つねにもすぐれたりければはつるまで御聴聞ありけりさてかへらせ給いておはしけるがあまりなごりをしさに人をつけてをきて大将殿へかかる事ありと申させ給いければめして持仏堂にして御経よませまいらせ給いけり。
さて次の日又御聴聞ありければ西のみかど人さわぎけり、いかなる事ぞとききしかば・今日はめしうどの・くびきらるると・ののしりけり、あわれ・わがをやは・いままで有るべしとは・をもわねども・さすが人のくびをきらるると申せば・我が身のなげきとをもひて・なみだぐみたりけり、大将殿あやしと・ごらんじて・わちごはいかなるものぞ・ありのままに申せとありしかば・上くだんの事・一一に申しけり、をさふらひにありける大名・小名・みすの内みな・そでをしぼりけり、大将殿・かぢわらをめして・をほせありけるは・大はしの太郎という・めしうど・まいらせよとありしかば・只今くびきらんとて・ゆいのはまへ・つかわし候いぬ、いまはきりてや候らんと申せしかば・このちご御まへなりけれども・ふしころびなきけり、ををせのありけるは・かぢわらわれと・はしりて・いまだ切らずばぐしてまいれとありしかば・いそぎ・いそぎゆいのはまへ・はせゆく、いまだいたらぬに・よばわりければ・すでに頚切らんとて刀をぬきたりけるとき・なりけり。

さてかじわら・ををはしの太郎を・なわつけながら・ぐしてまいりて・ををにはにひきすへたりければ・大将殿このちごに・とらせよとありしかば・ちごはしりをりて・なわをときけり、大はしの太郎は・わが子ともしらず・いかなる事ゆへに・たすかるともしらざりけり、さて大将殿又めして・このちごに・やうやうの御ふせたびて・ををはしの太郎をたぶのみならず、本領をも安堵ありけり。

大将殿をほせありけるは法華経の御事は昔よりさる事とわききつたへたれども・丸は身にあたりて二つのゆへあり、一には故親父の御くびを大上入道に切られてあさましとも・いうばかりなかりしに、いかなる神・仏にか申すべきと・おもいしに走湯山の妙法尼より法華経をよみつたへ千部と申せし時、たかをのもんがく房をやのくびをもて来りて・みせたりし上・かたきを打つのみならず・日本国の武士の大将を給いてあり、これひとへに法華経の御利生なり、二つには・このちごが・をやをたすけぬる事不思議なり、大橋の太郎というやつは頼朝きくわいなりとをもう・たとい勅宣なりとも・かへし申して・くびをきりてん、あまりのにくさにこそ十二年まで・土のろうには入れてありつるに・かかる不思議あり、されば法華経と申す事はありがたき事なり、頼朝は武士の大将にて多くのつみを・つもりてあれども法華経を信じまいらせて候へば・さりともと・こそをもへと・なみだぐみ給いけり。

今の御心ざしみ候へば故なんでうどのは・ただ子なれば・いとをしとわ・をぼしめしけるらめども・かく法華経をもて我がけうやうをすべしとは・よもをぼしたらじ、たとひつみありて・いかなるところに・おはすとも・この御けうやうの心ざしをば・えんまほうわう・ぼんでん・たひしやく・までも・しろしめしぬらん、釈迦仏・法華経もいかでか・すてさせ給うべき、かのちごのちちのなわを・ときしと・この御心ざし・かれにたがわず、これはなみだをもちて・かきて候なり。

むくりのおこれるよし・これにはいまだうけ給わらず、これを申せば日蓮房はむくり国のわたるといへば・よろこぶと申すこれゆわれなき事なり、かかる事あるべしと申せしかば・あだがたきと人ごとにせめしが・経文かぎりあれば来るなり・いかにいうとも・かなうまじき事なり、失もなくして国をたすけんと申せし者を用いこそあらざらめ、又法華経の第五の巻をもつて日蓮がおもてをうちしなり、梵天・帝釈・是を御覧ありき、鎌倉の八幡大菩薩も見させ給いき、いかにも今は叶うまじき世にて候へば・かかる山中にも入りぬるなり、各各も不便とは思へども助けがたくやあらんずらん、よるひる法華経に申し候なり、御信用の上にも力もをしまず申させ給え、あえてこれよりの心ざしのゆわきにはあらず、各各の御信心のあつくうすきにて候べし、たいしは日本国のよき人人は一定いけどりにぞなり候はんずらん、あらあさましや・あさましや、恐恐謹言。

後三月二十四日 日 蓮 花 押
南条殿御返事





by johsei1129 | 2015-12-25 19:01 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)
2015年 12月 17日

花は開いて果となり、月は出でて必ず満ち、燈は油をさせば光を増し、草木は雨ふれ ば栄う。人は善根をなせば必ずさかう、と説いた【上野殿御返事(十字六十枚書)】 【上野殿御返事(正月三日御書)】

■出筆時期:弘安三年(西暦1280) 五十九歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は南条時光(上野殿)が元旦に続き正月三日にも新年の祝いとして、十字六十枚・清酒一筒等をご供養されたことへの返書となっております。

大聖人は、時光が身延の山中で暮らす大聖人の事を思いやり、重ね重ね新年の祝いの供養されたことを「元三の御志、元一にも超へ、十字の餅、満月の如し」と大変喜ばれておられるていることが、本消息に満ち溢れておられると拝されます。

尚十字餅とは、中国・晋の時代に十字をつけた餅を食べて厄払いした風習が鎌倉時代に日本に伝えられ、お正月の祝いの餅となったようです。
■ご真筆:京都市本圀寺(断簡)蔵。
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【上野殿御返事(正月三日御書) 本文】

十字(むしもち)六十枚・清酒一筒・薯蕷(やまのいも)五十本・柑子(こうじ)二十・串柿一連・送り給び候い畢んぬ。
法華経の御宝前にかざり進らせ候。

春の始め三日種種の物・法華経の御宝前に捧げ候い畢んぬ。
花は開いて果となり・月は出でて必ずみ(満)ち・燈は油をさせば光を増し・草木は雨ふればさか(栄)う。
人は善根をなせば必ずさかう。其の上。元三の御志、元一(がんじつ)にも超へ、十字の餅、満月の如し。事事又又申すべく候。

  弘安三年庚辰正月十一日       日 蓮  花 押
   上 野 殿






by johsei1129 | 2015-12-17 20:47 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)
2015年 12月 03日

法華経は釈迦仏の御いろ、世尊の御ちから、如来の御いのちなり、と説いた【上野殿 尼御前御返事(衣食御書)】

【上野殿尼御前御返事(衣食御書)】
■出筆時期:文永十一年(1274) 五十三歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は南条時光(上野殿)の母(尼御前)から銭一貫を送られたことへの返書となっております。
大聖人は文中で「法華経は釈迦仏の御いろ、世尊の御ちから、如来の御いのちなり」と記され、法華経に供養することの功徳の大きさについて述べられて上野殿尼御前の常に変わらぬ法華経への志を讃えられておられす。また後段では、強信徒であった亡き夫南条兵衛七郎に思いを馳せ「夫の別れは日々、夜々、月々、年々重なればいよいよ恋しく増さり」と、尼御前を慰められておられます。

文末の「又弟子をも一人つかわして御はか(墓)の<欠損箇所>一巻の御経をもと存じ候へども、この身はしろしめされて候がごとく、上下ににくまれて候ものなり」の箇所は、南条兵衛七郎の墓参りに弟子を遣わされたことと、大聖人自ら墓前にて法華経を唱えたいと願っているが、日本国中から非難されている今、南条家に無用な迷惑をかけるので留めていると、されておられます。

尚、九年前の文永二年三月八日に南条兵衛七郎殿が亡くなられた時、大聖人はわざわざ安房国から駿河上野郷を訪れ、南条兵衛の墓に墓参されておられます。※参照:【上野殿後家尼御返事】
■ご真筆:西山本門寺、京都市妙蓮寺、本蓮寺の三ヶ所にて断簡所蔵。

[上野殿尼御前御返事(衣食御書) 本文]

鵞目一貫・給い畢んぬ、それじき(食)はいろ(色)をまし・ちからをつけ・いのちをの(延)ぶ、ころも(衣)はさむ(寒)さをふせぎ、あつ(暑)さをさえ・はぢ(恥)をかくす、人にものをせ(施)する人は、人のいろをまし・ちからをそえ・いのちをつぐなり。

人のために火をともせば人のあかるきのみならず、我身もあかし、されば人のいろをませば我いろまし、人のちからをませば我ちからまさり、人のいのちをのぶれば我いのちののぶなり。

法華経は釈迦仏の御いろ、世尊の御ちから、如来の御いのちなり。
やまい(病)ある人は、法華経をくやう(供養)すれば身のやまいうすれ、いろまさり、
ちからつきてみれば、とのもさわらず、ゆめ(夢)うつヽ(現)かわずしてこそをはすら
め、そひ(添)ぬべき人のとぶら(訪)わざるも、うらめしきこそをはすらめ、

女人の御身として、をやこ(親子)のわかれにみをすて、かたちをかうる人すくなし、
をとこ(夫)のわかれは、ひゞ、よるよる・つきづき(月々)・としどし(年々)かさなれば、いよいよこい(恋)しくまさり、をさなき人もおはすなれば、たれをたのもてか人ならざらんと、かたがたさこそをはすらんれば、わがみもまいりて心をもなぐさめたてまつり、又弟子をも一人つかわして御はか(墓)の<欠損箇所>一巻の御経をもと存じ候へども、この身はしろしめされて候がごとく、上下ににくまれて候ものなり。
(この後の文はのこされておりません)





by johsei1129 | 2015-12-03 22:17 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)
2015年 12月 02日

夫れ水は寒積れば氷と為る、雪は年累つて水精と為る、悪積れば地獄となる、善積れば仏となる、女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる、と説いた【南条殿女房御返事】

【南条殿女房御返事】
■出筆時期:弘安元年(1278) 五月二十四日 五十七歳御作。
■出筆場所:鎌倉 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は南条時光の妻が米2俵を御供養なされたことへの返書となっております。文末で「御所労の人の臨終正念・霊山浄土疑なかるべし」と記されておられるのは、本抄を記された前月の四月一日に時光に宛てられた消息『上野殿御返事』に記されている、時光の姪(姉の子で石河の兵衛入道殿のひめ御前)が大病のため南妙法蓮華経を唱えながら亡くなられた事と示していると思われます。
この時光の姪は、自身の病状が急変し、まもなくこの世を去るであろうことを大聖人に手紙で伝えておられます。そのことについて大聖人は「臨終に南無妙法蓮華経と唱えさせ給いける事は、一眼のかめの浮木の穴に入り、天より下いとの大地のはりの穴に入るがごとし」と、ひめ御前の法華経信仰への強い思いを称えられておられ、本消息でも「霊山浄土疑なかるべし・疑なかるべし」と示され、改めて姪を失った悲しみに浸っているであろう時光及び女房を励まされておられます。
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日興上人筆(富士大石寺蔵)。

[南条殿女房御返事 本文]

八木(米)二俵送り給び候い畢んぬ、度度の御志申し尽し難く候。

夫れ水は寒積れば氷と為る・雪は年累つて水精と為る・悪積れば地獄となる・善積れば仏となる・女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる。
法華経供養の功徳かさならば・あに竜女があとを・つがざらん、山といひ・河といひ・馬といひ・下人といひ・かたがた・かんなんのところに・度度の御志申すばかりなし。
御所労の人の臨終正念・霊山浄土疑なかるべし・疑なかるべし。

五月二十四日         日 蓮 花押
御返事





by johsei1129 | 2015-12-02 21:01 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)
2015年 11月 23日

法華経を山中にして読みまいらせ候人をねんごろに養わせ給ふは、釈迦仏を養いなひま いらせ法華経の命を継ぐにあらずや、と称えた【南条殿御返事】

【南条殿御返事】
■出筆時期:建治二年(1276年)三月十八日 五十五歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:南条時光が種々のご供養を身延の大聖人のもとに送られたことへの返書となっております。
大聖人は妙荘厳王が三聖を山中にやしなひて沙羅樹王仏になった謂れを引いて「されば必ずよみかかねども・よみかく人を供養すれば仏になる事疑ひなかりけり」と記され、身延山中の法華経の行者(日蓮大聖人)に供養する時光の志を讃えられておられます。
文末の追伸では恐らく時光の配下の者で共に供養されたと思われる橘三郎殿・太郎大夫の名を記され、本消息をははき殿(日興上人)に(文字が読めないであろう両名に)読んで聞かせるよう依頼されておられます。
大聖人は時光への消息文で橘三郎、太郎大夫の事を記したことを「一紙に云云恐れ入り候」と、わざわざ丁寧にことわりの文を添えておられ、この本仏の振る舞いに信徒の一分として襟を正さざる得ません。
■ご真筆:現存しておりません。

[南条殿御返事 本文]

いものかしら・河のり・又わさび・一一・人人の御志承り候いぬ。

鳥のかいこをやしなひ・牛の子を牛のねぶるが如し、夫れ衣は身をつつみ・食は命をつぐ。
されば法華経を山中にして読みまいらせ候人を・ねんごろに・やしなはせ給ふは、釈迦仏をやしなひまいらせ・法華経の命をつぐにあらずや。

妙荘厳王は三聖を山中にやしなひて・沙羅樹王仏となり、檀王は阿私仙人を供養して釈迦仏とならせ給ふ、されば必ずよみかかねども・よみかく人を供養すれば仏になる事疑ひなかりけり、経に云く「是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

建治二年三月十八日 日蓮 花押
謹上 南条殿御返事
橘三郎殿・太郎大夫殿・一紙に云云恐れ入り候、返す返すははき殿読み聞かせまいらせ給へ。





by johsei1129 | 2015-11-23 21:03 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)