日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:小説 日蓮の生涯 上( 39 )


2016年 09月 20日

日蓮の生涯 概略

                     

                           英語版



日蓮は貞応(じょうおう)元年(1222)二月十六日、安房(あわ)郡東条郷()(みなと)に生まれた。


この時代、日本では源 頼朝により鎌倉幕府が開かれて四十年がたっていた。東洋では蒙古帝国が武力でアジアを席捲(せっけん)する途上にあり、西洋では十字軍の侵攻が始まっていた。世界的な闘諍の時代だったのである。


日蓮の父は三国太夫といい、母は梅菊といった。父の三国太夫は、詳細は不明だが漁師を生業としており、殺生を仕事としていた。日蓮はのちに「日蓮は日本国東夷(とうい)東条安房の国の海辺の(せん)()()が子也」(佐渡御勘気抄)と記されている。いっぽう母の梅菊は鎌倉時代の武将の一族だったことが知られている。母は和歌などに相当の教養があったとの説があり、日蓮のたぐいまれな文筆力はこの母の薫陶(くんとう)があったのではないかと考えられている。


日蓮は幼名を(ぜん)(にち)麿(まろ)といった。善日麿は十二歳となった天福元年(1233)、故郷の小湊からほど近い古刹(こさつ)、清澄寺にのぼり仏門に入った。()()日蓮は後に清澄寺の信徒に宛てた手紙で次のように記している。


生身(しょうしん)の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便(ふびん)とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の(そで)にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣(ほぼ)是を知りぬ] (清澄寺大衆中)


そして四年後、十六歳の時に正式に出家剃髪(ていはつ)し、名を()生房(しょうぼう)蓮長と改めた。是生とは日の下の人を生むの意味である。蓮長は妻帯をせず、一生を仏法にささげることを誓った。


だが清澄寺のあった安房は文化的に辺境の地だった。蓮長は仏教の中心であった鎌倉の鶴岡八幡、京都叡山(えいざん)、南都薬師寺等の諸寺院を訪ね、仏法の真髄を学んでいった。蓮長は十六年間にわたり研鑽に研鑽を重ね、ついに仏法の奥底を極めた。この時、蓮長は前途に苦難が待っていることを覚悟し「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん」と誓った。


建長五年(1253)四月二十八日、蓮長は故郷の安房に帰り、立宗を宣言した。そして自らの名を日蓮と改めた。場所は蓮長が「日本第一の智者となし給え」と祈った清澄寺の持仏堂においてだった。


「南無妙法蓮華経」。日蓮は全世界つまり一閻(いちえん)浮提(ぶだい)の人々がこの題目を唱えることによって成仏へのが開かれると宣言した。同時に民衆の成仏得道への道を(はば)んでいた四つの宗派を徹底的に破折した。念仏は無間(むけん)(ごう)、禅宗は天魔の法、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説(もうせつ)これを四()の格言という。の四()の格言は一切衆生の元品(がんぽん)()(みょう)を断ち切る利剣となった。


 だがこれを伝え聞いた安房の地頭、東条(かげ)(のぶ)が日蓮をすぐさま捕えようとした。景信は念仏の強信者であり、清澄寺を自分の支配下に置こうと目論(もくろ)んでいた。釈尊が法華経「末法で大白法を弘めると難がふりかかる」と予言していたとおり、日蓮にすぐさま難がふりかかった。


日蓮はこの難を避け、政都鎌倉を中心に布教を始めた。南無妙法蓮華経の題目を弘め、諸宗をきびしく()(しゃく)する布教は以後十八年続いた。諸宗を批判していくにつれ、名声とともに悪名高まっていった。また日蓮は弟子信徒に対して随力(ずいりき)弘通(ぐつう)を教え、その結果、弟子信徒の近親者、武家の同僚、他宗派の僧侶などに次第に日蓮に帰依(きえ)する弟子信徒が増えていった。


また当時は飢饉(ききん)や疫病が流行し大災害も頻発していた。「近年より近日に至るまで天変地夭(ちよう)飢饉(ききん)疫癘(えきれい)(あまね)く天下に満ち広く地上に(はびこ)る。牛馬(ちまた)に倒れ骸骨(みち)()てり、死を招くの(ともがら)既に大半に超え、悲しまざるの(やから)()えて一人も無し」。日蓮はこの悲惨な状況を記録し、解決の道を釈尊の一切経求めた。


くわえて(しょう)()元年(1257)五月に大地震がおきた。この大地震は鎌倉のすべての建物を破壊した。日蓮は連綿とつづく災害を偶然の出来事ではなく、念仏の悪法から起きることを喝破(かっぱ)し立正安国論を書き上げる。文応元年(1260)七月、日蓮はこれを幕府高官の宿屋入道を通じて、時の権力者である北条時頼に提出した。そのさい日蓮は宿屋入道に幕府が公認していた念仏と禅宗の庇護(ひご)の停止を進言した。さらにもし採用されない場合、内乱と他国の侵略が起きることを予言した。(第一回国家諌暁()


また立正安国論の執筆中に日蓮の後継者となる伯耆(ほうき)(ぼう)日興が入門した。弱冠十二歳の日興はこれ以後「日蓮に影の形に(したが)うがごとく」布教の前線に立つことになる。


立正安国論を提出した一か月後、念仏者が日蓮の草庵を襲った(松葉ヶ(やつ)の法難)。日蓮はからくも難を逃れた。これに加えて翌年の弘長元年(1261) 五月、鎌倉幕府は日蓮を伊豆流罪(るざい)に処分した。幕府内の重臣に念仏の強信者がいたためだった。しかし二年後、執権北条時頼はこの処分が讒言(ざんげん)によるものだったとして日蓮を赦免する。これを契機に日蓮門下の折伏の活動はさらに活発になっていった。


文永元年(1264)七月、空に大彗星があらわれ世情の不安は一層つのっていく。この年の十一月、日蓮は安房小松原で地頭の東条景信に襲撃される。(小松原の法難)。日蓮は(ひたい)に傷をこうむり左の腕を折る重傷を負ったが、法華経の行者に大難が降りかかるという金言を証明することで、自らが末法の法華経の行者であるとの確信をいっそう深めていった。


それから四年後の文永五年(1268)一月、日本の行く末に暗雲をもたらす事件が起きる。蒙古帝国の使節が太宰(だざい)()に到着し、通商を要求した。蒙古は強大な軍事力で朝鮮を滅ぼし、中国本土に侵攻していた。皇帝フビライは国書の中で日本に隷属を強要し、拒絶すれば攻撃すると脅した。鎌倉幕府はこの恫喝(どうかつ)を無視して国土防衛の準備をはじめた。この結果、蒙古の日本襲来は決定的となった。


 この事件は日蓮が九年前、立正安国論で予言した他国侵逼(しんぴつ)(なん)的中を意味した。日蓮はこの国難は自分でなければ解決できないと確信、この年の十月、執権北条時宗をはじめ鎌倉の各寺院に書状(十一通御書)を届け、公場対決を迫った。国主の前で諸宗の僧を集め、仏法の正邪を決するためである。日蓮は邪法への帰依を止めなければ、いよいよ国難が迫ると訴えた。


だが幕府をはじめ鎌倉の僧侶は日蓮の諫言(かんげん)を黙殺した。日蓮の勢力が強大となることを恐れたためだった。法華経を信奉する信徒の数は日本国の十分の一にまで達していた。


蒙古の国書到着から三年がたった文永八年(1271)六月、鎌倉幕府は極楽寺良観に()()を命じた。祈雨とは雨をふらせる祈祷(きとう)である。この年、日本の田畑は干ばつに見舞われていた。極楽寺良観は幕府公認の高僧であり、教義で対立する日蓮を激しく非難していた。日蓮はこの良観に祈雨の対決を申し出る。結果、良観はこの勝負に敗れ、保身のために日蓮を陥れる画策を始めた。良観は幕府の高官夫人に取り入り、執拗(しつよう)な讒言を浴びせた。この声は幕府内に広まり、日蓮を追及する空気が広がった。


九月十日、日蓮は幕府の重臣の(たいらの)(より)(つな)に召喚される。頼綱は幕府の軍事・警察を統括し、執権時宗の(ふところ)(がたな)とも言える存在だった。頼綱は日蓮に讒言の真偽を糾したが、日蓮は正法をもって蒙古に備えることを主張し頼綱の激高を誘った。


九月十二日夜、平頼綱は日蓮の草庵を襲った。頼綱は執権時宗の許可を受けずに日蓮を暗殺する計画をたてた。日蓮は額に傷を受けながら「(殿)ばら()但今日本国の柱をたおす」と叫び、自界(じかい)叛逆難(ほんぎゃくなん)と他国侵逼難を再度予言した。(第二回国家諌暁


日蓮は鎌倉の海岸「(たつ)の口」で斬首されることになった。しかし深夜丑寅(うしとら)の刻に突然現れた光物によって刑は中止。日蓮はこの絶体絶命の場でおきた奇瑞で、法華経に説く上行菩薩の再誕としての(しゃく)の姿を払い、久遠(くおん)元初(がんじょ)()受用報(じゅゆうほう)(しん)如来の本地を顕した。そして「日蓮は日本国の諸人にしう()()父母()なり」と宣言し、自分が主師親の三徳を備えた末法の本仏であると示した。


この日蓮の逮捕とともに、信徒にも追放・領地没収などの弾圧が始まった。日蓮は門下の信徒のうち「百人が九十九人」退転したと記している。執権北条時宗は日蓮を助命はしたものの、讒言を受けて佐渡ヶ島への流罪を決定した。


日蓮は佐渡の逆境の地で末法の本仏の立場から本尊を建立した。

末法に入り釈尊の法華経という「教」は残されていたが、仏となるための「行」は時代にそぐわなくなり力を失っていた。当然衆生は釈迦仏法を行じても「証」となる仏にはなれない。日蓮は末法の衆生に一(ぷく)の本尊を授与しその本尊に南無妙法蓮華経と唱えることで成仏するという未来永遠にわたる「行」を確立した。


あくる文永九年(1272)一月、佐渡塚原の地で他宗との争論に勝利した(塚原問答) 。この時日蓮は間もなく自界叛逆難が起こることを佐渡の守護代本間重連(しげつら)に予言する。一か月後、鎌倉で北条の一族同士で戦闘(二月騒動)が起き、幕府に衝撃を与えた。


文永十一年(1273)二月、執権北条時宗はついに日蓮を赦免した。時宗は蒙古帝国の攻撃に備え、日蓮の力を借り国運を高める策を立てた。この赦免によってそれまで禁教だった日蓮の宗義は事実上公認されるに至った。


この四月、日蓮は鎌倉に帰還し、北条時宗の意を受けた平頼綱と面会する。日蓮は頼綱の問いに「よも今年はすごし候はじ」と答えて蒙古が年内に攻めてくると予言、真言をはじめとした諸宗に祈祷祈願をさせてはならないことを説いた。(第三回国家諌暁


だが幕府は既成の宗派を排除することができなかった。日蓮は幕府を突き放し、甲斐(かい)()(のぶ)山に隠棲した。一応は「三度いさ()めて用いずば山林に交われ」の古言に従った行動だったが、再往は弟子の育成と出世の本懐を達成するためだった。


この年の十月、日蓮の予言どおり蒙古が来襲した。日本側は壱岐(いき)対馬(つしま)をはじめ大宰府を破られ敗北同然のあり様だった。蒙古軍は去ったが、日本はつぎの攻撃で亡国になるという悲観的な情報が伝わった。


日蓮は身延山に隠棲したあと九年の間、一歩も外へ出ることはなかったが、述作や本尊の建立、弟子の教育、信徒への手紙など令法(りょうぼう)()(じゅう)に全力を注いだ。鎌倉の信徒の一人、四条金吾は(たつ)の口の法難をともにした強信者だったが、主君から退転を迫られた。日蓮は鎌倉から遠くはなれた身延の草庵から激励の書を送った。また作事(さくじ)奉行の家に生まれた池上兄弟は父から念仏を強要され苦境に陥ったが、日蓮は「歯がみ」をして耐えるよう訴えた。


弘安二年(1279)九月、(あつ)(はら)の法難がおきた。富士熱原地方で弟子の日興の布教によって他宗の僧侶が続々と入信、この勢いが農民にも広がっていた。平頼綱はこの事態を重く見て、法華経を信奉する二十人の百姓を捕え退転を迫った。頼綱は日蓮を弾圧できない代わりに、もっとも社会的立場の弱い農民信徒を標的にした。これは日蓮の信徒が初めて受ける大難だった。百姓たちは脅迫されたが、かたくなに拒み、神四郎をはじめ三兄弟が処刑された。


日蓮は無名の農民が信仰をつらぬく姿に一閻(いちえん)浮提(ぶだい)、すなわち全世界の衆生が妙法をたもつ時を感じ、大御本尊建立にとりかった。それまでの一機一縁の本尊とはちがい、一閻浮提の一切衆生に与える大(まん)()()だった。日蓮は末法万年(じん)(みらい)(さい)()えるよう(くすのき)の大木を半丸太状態にした本体に大御本尊を図現した。


この大御本尊こそ立宗宣言から「余は二十七年なり」という歳月を要した出世の本懐だった。


この弘安二年十月十二日に建立された大御本尊は日蓮仏法の根本の法義である三大秘法(本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇(かいだん))を束ねる一大秘法となって現在富士大石寺の奉安堂に安置されている。



日蓮は日本が蒙古軍によって亡国となるであろうことを繰り返し説いていた。弘安四年(1281)、十四万の蒙古軍が4400の軍船で再度日本を襲った。蒙古は中国を征服した余勢を買い、大船で日本に迫ったが台風に遭遇、全滅して敗れ去った。この結果に亡国を唱えていた日蓮は沈黙を守ったが、諸宗の僧は自らの祈祷の成果であると吹聴した。富士大石寺二十六世の日寛は日本の勝利を「是れ蓮祖の勧誡に依って神明(しんみょう)、国を助くるなり」(報恩抄文段下)とし、日蓮の功績であると断言している。


六十一歳となった日蓮は死期が迫ったことを悟り、弘安五年(1282)九月、後継者を白蓮(びゃくれん)阿闍(あじゃ)()日興に定めた。日蓮は遺言で「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり」としるし、後継者日興に広宣流布を託した。そして自分に続く後代のすべての僧侶に対し、日文字をつけて名乗らなければ自然(じねん)の法罰を(こうむ)るべし」と戒めた。


このあと日蓮は九月八日に身延山を下山し、武蔵の国池上(むね)(なか)邸に逗留、病身をおして立正安国論を弟子に講義した。そして十月八日、門下の中心となる六老僧を定めたあと、十三日(たつ)の刻、池上邸で入滅した。


 後継者の日興は日蓮の死後、六年のあいだ身延山久遠寺(くおんじ)の別当として日蓮の法門を守ったが、この間日興を庇護するはずの地頭波木井(はきり)(さね)(なが)が四箇の謗法を犯した。仏像の造立、神社参拝、謗法への供養、念仏堂建設だった。さらに六老僧の一人日向(にこう)がこれを許容したため、身延山の謗法は蔓延(まんえん)していく。身延の地主が謗法に染まり、それを(いさ)めても聞かない以上、もはやその地に留まることはできない。正応元年(1288)十二月、日興は断腸の思いで謗法の地身延山を去り、二年後の正応三年(1290)、父子二代に渡り日蓮の薫陶を受けた(ごう)信徒南条時光の寄進により、駿河に富士大石(だいせき)()を開創して大御本尊を安置した。日興はこの地で四十三年のあいだ、宗祖日蓮の法義を守り続けた。


正慶元年(1332)、八十八歳の日興は直弟子の日目にあとを託す。その内容は広宣流布の(あかつき)に師日蓮が建立した本門戒壇の大御本尊を本門寺に懸けることであり「大石寺は御堂(みどう)と云ひ墓所(むしょ)と云ひ日目之を管領(かんりょう)し、修理を加勤行(ごんぎょう)を致して広宣流布を待つべきなり」として師日蓮と同様の言葉をのこした。そして翌年、広宣流布と(まん)(ねん)救護(くご)のため未来の弟子信徒に二十六ヶ条の戒律をのこして世を去った。「富士の(りゅう)()(いささ)かも先師の御弘(ごぐ)(つう)()せざる事」「当門流に於ては御抄を心肝に染め(ごく)()を師伝して()(いとま)あれば台家を聞くべき事」。先師とは日蓮、御抄とは日蓮が(したた)めた御書である。これら二十六条の置文は今も富士大石寺にて固く守られている。


後継者日目は、日興死去の年の十一月、京都朝廷へ申状を提出する天奏の旅に出た。生涯で四十二度目の国家(かん)(ぎょう)だったといわれる。だが途上の美濃(みの)垂井(たるい)で病のために入滅、七十四歳だった。日目は死の床にあって臨終をむかえる無念を語り、自分に代って諌暁を成し遂げる者がいれば日目の再来であると遺言して世を去った。


こうして三代にわたる弘法(ぐほう)の精神は脈々と受け継がれ、日蓮から日興、日興から日目と継承されている大御本尊を信仰の根本とする日蓮門下の信徒は、現在世界五十ヵ国以上にまで及んでいる





小説 日蓮の生涯 



by johsei1129 | 2016-09-20 22:22 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2015年 04月 19日

小説 日蓮の生涯 上 

                             英語版        
                         
作 小杉 貢  監修 三浦 常正    平成26年1月3日  公開


        日蓮の生涯 概略

上巻目次
23 強敵の胎動  
34 弟子への遺言     


中巻目次   下巻目次 

                             (大石寺三門と富士山)   
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  1 故郷への旅立ち につづく 



by johsei1129 | 2015-04-19 19:54 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(4)
2014年 12月 03日

12 国家諌暁の契機となった正嘉の大地震、勃発

聴衆が松葉ケ谷に集まった。

四条金吾・富木常忍・工藤吉隆・池上兄弟ら古参の信徒のほか、見覚えのない黒衣の僧侶もいる。

土間のかげで二人の子供たちも顔をだして様子を見ている。孤児だった二人は寝食の恩をうけていらい、自然に日蓮の下働きをひきうけた。日蓮は少年をそれぞれ熊王、鷹王と呼んでかわいがった。
 その日蓮が薄墨の衣を身にまとい聴衆に語る。

「仏法を滅ぼす者はだれであるか。権人(きりびと)であろうか、それとも一介の庶民であろうか。そうではない。みなに立派な僧と慕われ、世の尊敬を集める僧侶が釈尊の仏法を滅ぼすのです。経にいわく『師子(しし)の中の虫の師子を食らう』と。仏法を他の敵はやぶりがたい。仏法の中の僧侶こそ仏法を滅ぼす者です」
 黒衣の僧がさえぎった。
「日蓮とやら。その僧侶とはだれをいうのか。(それがし)は思いあたるふしがないのだが」

日蓮が静かに答える。

「極楽寺良観殿でございます」

聴衆にどよめきがおこる。日蓮の信徒もおどろいた様子だった。

黒衣の僧がなじる。

「なにを血迷っておるか。良観上人はこの鎌倉で生き仏といわれておる。関所を作って木戸銭を集めては深い川に橋をつくり、荒れた土地に道路をつくっておるのだ。あのような尊い方を師子身中の虫などと」

日蓮はこたえる。

「いま良観上人のふるまいを見るに、財宝をたくわえ、借銭、蓄財を所行としている。それが僧侶の姿でしょうか。だれがこれを信ずるであろう。関所を設けることは旅人にとって、わずらいです。眼前のことである。あなたは見ておらぬか」

黒衣の僧が日蓮に強く反駁(はんぱく)する

「なんといっても良観殿は鎌倉殿の御帰依あつい。おぬしのような卑しい身分ではない。(かみ)の信任あればこそ、僧侶の力がそなわるもの。鎌倉殿のご帰依なくては、いかに正論を吐いたところでなんになろう」
 日蓮は毅然としてかえす。 

「鎌倉殿が名君であれば、必ず法華経はご理解できるはずです。笑うことなかれ。いにしえにも釈迦に阿闍(あじゃ)()王(注)()天台大師に陳隋の皇帝(注)()伝教(でんきょう)大師には(かん)武天()皇(注)()がおられた。今はそれを信ずるまで」

黒衣の僧侶が笑って出ていった。

四条金吾が怒った。おとなしく聞いていたが我慢ならない。

「なんと無礼な坊主だ。わたしが問いつめてみます」

日蓮はとめた。

「まちなさい金吾殿、放っておきなさい。彼らはわれわれの様子を見にきたのです」

短気な金吾は日蓮の制止を利かずにいきり立つ。日蓮は金吾の気を冷ますかのごとく諭した。

「最初から話を聞く態度ではない。彼らはわが法華宗が広がっていることに、おだやかではなくなっているのです


騒動が一段落すると、日蓮は皆に新しい弟子を紹介した。

「ところで門下に有望な若者が入門してまいりましたのでお引き合わせいたします」

若い僧が手をついた。

「三位房日行と申します。僧俗立場は異なれど異体同心で法華経の弘通に励んでいきましょう」 

三位房が得意満面の表情で皆に一礼をした。一同も深々と三位房に頭をさげる。

工藤吉隆がおもわず声をあげた。

いやあ、いつの間にか上人のこの館も賑やかになりもうしたな

金吾がおおげさにいう。

「これでは良観殿も我々の様子も見たくなるわい」

一同が笑った。


この時だった。草庵の床がゆれ始めた。

一同がさわぐ。金吾が指図した。

「地震だ。おのおの静まれい。窓を、戸を開けよ」
 いきり立っていた金吾が皆に冷静に指示した。
地震がおきた時、戸や窓を開いておかないと外に脱出できず、建物が倒壊した場合圧死してしまう危険があった。 

このころ鎌倉では地震が頻発し、めずらしくはなかった。だが今夜はとりわけ揺れが大きい。

同じころ、鎌倉幕府執権の館が小刻みにゆれた。障子がガタガタしだした。

北条時頼は立ちあがり天井を見守った。

そこに時宗、時輔の兄弟が飛びこんできた。

「父上」

「これは大きいぞ。急ぎ兵を呼びあつめろ」

兄弟があわてて出ていく。

この時、床が上下にゆれた。

時頼が叫ぶ。

「たてゆれだ」

鎌倉の町全体が波のようにゆれる。

住民が家財道具をだしながら悲鳴をあげた。彼らは外に出て、井戸のまわりにむらがった。このとき、井戸から人の声がひびいた。不気味な音響がこだまする。住民がまた散った。

さらに地面がまた激しく横揺れし、たまらず民家が倒壊しはじめた。

悲鳴がひびく。

日蓮の庵室も大きくゆれた。

「あぶない、みなさん外へ」

と言ったとたん、家屋が真っ二つにちぎられ、床下からひびのはいった地面があらわれた。

絶叫がこだまする。

大切にしていた経巻が転がっていく。日蓮は経巻が落ちる瞬間につかみとった。周囲の弟子たちが懸命に日蓮をかばうように抱きかかえた。

月明かりの中、草庵は無惨に破壊された。月明かりが目も当てられないほどの惨状を照らす。

町のほうぼうでは火の手があがっている。

逃げまどう人々が走りまわる中、弟子たちが集まり、一人一人を確認した。

「大丈夫でござるか。けがは。みなさんおられますか。行方不明の者はおられませんか

たいまつを手に四条金吾、常忍らがひかえる。

日蓮が信徒に告げた。

「みなさんは一刻も早く本宅へ帰ってください」

金吾がうなずいた。

「ではゆこう」

一同が四方に走り去り、筑後房日朗らの弟子が草庵のあった場所に立ちつくす。

みな安堵のあまり、泣き出しそうだった。

「上人、われらは全員無事でございます。まったく奇跡としか・・」

日蓮が思い出したようにうめいた。

「子供たちはどうした。あの二人は・・」

一同が青くなり、あたり一面をさがしまわった。

「おーい。熊王、鷹王・・」

やがて倒壊した建物の脇で鷹王が倒れているのを見つけた。横で熊王がうずくまって泣いている。

「鷹王・・」

かけよったが鷹王の息がない。

日蓮は眠るような鷹王を抱いて題目を唱え続けた。
 余震が収まると鷹王の身は日蓮と弟子たちにより、法華経の題目によって弔われ、夜になってその日のうちに荼毘(だび)付された。
 

朝、鎌倉の町は押しつぶされた家々がならんだ。

家族という家族が、地面に横たわる死体のそばで泣き叫んだ。

この震災はのちに正嘉の大地震といわれた。マグニチュード七から七・五だったという。鎌倉の建物という建物は、ひとつのこらず倒れた。鎌倉八幡宮も無惨に傾いている。
 『吾妻鏡』はこの地震について特筆している。

 八月二十三日 乙巳(きのとみ) (いぬ)刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きこと無し。山岳類崩し、人屋(てん)(とう)。築地皆悉く破損し、所々の地裂け水湧き出る。中下馬橋辺地裂け破れ、その中より火災燃え出る。色青しと。


午後八時ごろ、大地震はおきた。築地とは土をつき固め、上に屋根をかけた土塀である。これがすべて破損したというから、地震がいかに巨大だったかがわかる。

翌朝から日朗や日昭らの弟子たちが廃墟のあとを片づけ始めた。かろうじて生きのこった小僧の熊王も悲しみをこらえ手伝う。熊王は日蓮のもとで兄弟のように育った鷹王を失った。

ひととおり片がつくと、南無妙法蓮華経と書かれた卒塔婆(そとうば)にむかって一同手をあわせた。

しかしここに日蓮の姿がない。
 日蓮は早朝、弟子たちに岩本実相寺に向かうことを告げ、すでに一人旅立っていた。
 


     13 立正安国論そして日興との運命の出会い につづく
上巻目次


 阿闍世王

梵名アジャータシャトル。未生怨と訳す。マカダ国の王。マカダは当時インド第一の強国だった。太子であった時、提婆逹(だいばだっ)()と親交を結び、仏教の外護者であった父備婆(びんば)(しゃ)()王を監禁し、獄死させて王位についた。さらに釈迦を迫害したが、のちに懐悔(かいげ)し、経典の第一回結集の外護者となった。釈迦は自分の命をさいて、四十年の寿命を阿闍世に与えたという。


天台大師 

 五三八~五九七。中国南北朝・(ずい)代の天台宗開祖。姓は陳氏、(いみな)智顗(ちぎ)。十八歳の時、果願寺の法緒のもとで出家。天嘉元年(五六○)大蘇山に南岳大師訪れ厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の『()(しん)精進・()(みょう)真法』の句に至ってついに法華三昧を感得したといわれる。三十二歳の時、宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。至徳三年(五八五)に陳主の再三の要請で仁王経等を講じ、禎明元年(五八七)法華文句を講説した。陳末の戦乱の頃、隋の晋王広(煬帝)に菩薩戒を授け智者大師の号を賜った。その後、故郷に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止(まかし)(かん)を講じたついで天台山に入り六十歳で没する彼の講説は弟子の章安(灌頂(かんじょう))によって筆記され、法華三大部(法華文句(もんぐ)、法華玄義、摩訶止観)としてまとめられた。尚、日蓮大聖人は天台大師を、薬王菩薩の再誕で、日本では伝教大師(最澄)として応誕したと説いている。「薬王菩薩・漢土に出世して天台大師と云われ此の法門を覚り給いしかども」(一念三千法門) また「聖人御難事」では「天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う」と示され、()天台大師が摩呵止観の講説により出世の本懐を遂げたと断じている。


 陳隋の皇帝

陳隋は中国の王朝名。

陳は南北朝時代、南朝最後の王朝。永定元年(五五七)~禎明三年(五八九)。梁の武帝の跡を受けて建国し、隋に滅ぼされた。天台は五代後主や文武官僚の帰依をうけた。

隋は五八一年~六一九年。楊堅(高祖文帝)が建てた統一国家。秦・漢の古代国家以後、南北に分裂していた中国を統合し唐の統一国家の基礎を築いた。

 桓武天皇

天平九年(七三七)~延暦二十五年(八○六)。第五十代天皇。律令制の改革、平安遷都を行った。延暦四年(七八五)、伝教大師が比叡山を建立すると、天皇はこれを天子本命の道場と号し、六宗を捨てて伝教に帰依した。同七年、伝教は桓武天皇のために根本一乗止観院を建てた。




by johsei1129 | 2014-12-03 22:09 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2014年 11月 29日

34 弟子への遺言

日蓮は相模の依智にいたひと月のあいだ、弟子・信徒へ矢つぎ早に消息(手紙)を送っている。

 まず富木常忍には竜の口法難の三日後、九月十五日に届けている。

御嘆きはさることに候へどもこれには一定(いちじょう)と本より()して候へばなげ()かず候。いまゝで(くび)の切れぬこそ本意なく候へ。法華経の御ゆへに過去に頸をうし()なひたらば、かゝる少身の()にて候べきか。又「数々(さくさく)(けん)(ひん)(ずい)」と()かれて、度々(たびたび)(とが)にあたりて重罪を()してこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆへなり。『土木殿御返事

大難はもとより覚悟の上といっている。首を斬られなかったのが不本意だという。
 もちろん日蓮は自ら進んで死ぬつもりはない。
 日蓮は弘安元年五十七歳の時に著した神国王御書で「聖人横死せずと申す」と記している。自分が聖人なら横死などするはずがないと確信していた。単に法華経の行者なら修行の過程で難に遭い死し、その善業により来世で成仏することもあろう。しかし修行を極め、覚知した聖人()なら横死するわけがない。釈尊も提婆達多に再三狙われ、崖から岩を落とされて指から血を出している。また毒殺されそうにもなった。さらに酔った象により信徒が踏み潰され殺される難を受けている。しかし自身が横死することはなかった。
 いっぽう釈尊の二大弟子は法華経で将来仏になると宣言されながらも、ともに釈尊滅後の前に横死している。声聞の舎利弗は重病で死去、縁覚の目健連はバラモンに殺されている。極楽寺良観にもし敗れたら法華経を捨て念仏を唱えると約束して挑戦した雨乞いの祈祷も、一見博打のような行動に思えるが、日蓮は釈尊の究極の教え法華経のとおり行じて、もし敗れることがあるならば、釈尊は大妄語の仏となる。しかしそうはならないという絶対の確信のもと挑戦している。

日蓮は文応九年三十九歳の時に著した『唱法華題目抄』で末法に出現する本尊の相貌を示している。

問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀、並に常の所行は何にてか候べき。
 答えて云く、第一に本尊は法華経八巻一巻一品(あるい)は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても、法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし

そして文永九年六月十六日、佐渡で図現した御本尊には中央に南妙法蓮華経、その両脇に南無釈迦牟尼仏・南無多宝如来と認められている。

本尊を表すためには日蓮自身が末法の本仏であることを明白に末法の衆生に示さなければならい。そのためには釈尊と同じく死を被る難に遭い、それを乗り越えて見せなければならない。四条金吾に竜の口の場に証人として立ち合わせたのはその意味があったからである。

日蓮は法華経の行者としての身を竜の口で捨て去り、末法の本仏としての本地を示した。最初から法華経の行者としての命を捨てるつもりだったのだ。日蓮は弟子檀那とちがって、まったく動じていない。

 つぎは太田乗明、曽谷教信、金原法橋への消息である。

 譬()喩品(ゆぼん)に云はく「経を読誦し書持(しょじ)すること有らん者を見て軽賎憎嫉(きょうせんぞうしつ)して結恨(けっこん)(いだ)かん」と。法師品に云はく「如来の現在すら(なお)(おん)(しつ)多し、(いわん)や滅度の後をや」と。勧持品に云はく「刀杖を加へ乃至数々擯(しばしばひん)(ずい)せられん」と。安楽行品に云はく「一切世間、(あだ)多くして信じ難し」と。此等は経文には候へども、(いつ)の世にかゝるべしともしられず。過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ、身に()たりて()みまいらせ候ひけるとみへ()んべれ。現在には正像二千年はさて()きぬ。末法に入っては、此の日本国には当時は日蓮一人()へ候か。昔の悪王の御時、多くの聖僧の難に値ひ候ひけるには、又所従眷属(けんぞく)等・弟子檀那等()くそばくかなげき()候ひけんと、今をもちておし()()かり候。今日蓮法華経一部()みて候。一句・一()(なお)記(注)をか()れり。(いか)に況や一部をやと、いよいよた()もし。(ただ)をほけなく国土までとこそ、を()ひて候へども、我と用ひられぬ世なれば力及ばず。しげき()ゆへにとゞめ()候ひ(おわ)んぬ。  『転重軽受法門

 法華経勧持品に説かれた『刀杖を加へ乃至数々擯出せられん』はじめ、数々の経文に明らかのように、末法に入っては日蓮ただ一人が身読したと伝えている。

                 35 真冬の佐渡へ につづく
上巻目次

 


受記

求道者(菩薩)が仏から未来世に仏になるという記別を受けること。逆に仏が衆生に仏記を授けることを授記という。仏は求道者が未来世で成仏する時の仏の名号、出現する仏国土の名前、その仏が存在する時代((こう))の名前を明らかにして比丘()らに宣言する。例えば法華経譬喩品第三で舎利弗は釈尊から、法号を華光如来、仏国土を離垢(りく)、劫を大宝荘厳という記別を与えられる。さらに華光如来が十二劫すぎて滅度する際、堅満菩薩に華足安行多陀阿伽度となるという記別を与えると宣言している。()法華経では、提婆逹多・竜女・舎利(しゃり)(ほつ)迦葉(かしょう)等はおのおの天王如来、無垢証(むくしょう)如来、華光(けこう)如来、光明如来等の名号を与えられ、仏記を受けている。
 末法では妙法の授受を記という。

「御義口伝に云はく、記とは南無妙法蓮華経なり。授とは日本国の一切衆生なり。不信の者には授けざるなり、又(これ)を受けざるなり。今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経の記を受くるなり」  『授記品四箇の大事




by johsei1129 | 2014-11-29 16:46 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2014年 11月 29日

33 二度目の流罪、日蓮佐渡ヶ島へ

鎌倉侍所の大広間に御家人が集まり、喧々諤々(けんけんがくがく)の口論がはじまった。

日蓮の処遇についてである。

時宗が広間中央に腕をくみ瞑目していた。明らかに迷っている様子だった。日蓮をどうするか、決めかねていたのである。

彼の前で頼綱と泰盛が、つかみかからんばかりにののしりあった。

泰盛が大声でいう。

「許して召しかえすのだ。これはおぬしの勝手な行動だ」

頼綱は反論する。

「いや斬るべきでござる。このたびは侍所の責任者として行動したまでのこと。やましいことはござらん」

場内かまびすしく激論がつづく。

ここで北条宣時が提案した。

「どうであろう。日蓮は百日のうちにいくさがあるといった。それをまってはどうかな」

何人かの御家人が首をかしげる。笑う者さえいた。

泰盛が時宗に手をついた。

「殿、日蓮は赦免して保護すべきでござる。なにとぞお許しを・・」

頼綱が横から口をだす。

「殿、日蓮の首は斬っておかねば、のちのち後悔いたします。口封じせねば、幕府は危ういでありましょう」

時宗が瞑目したままだった。

そこへ従者が飛びこんできた。

「いま鎌倉の三ヶ所で火事でござる。火付けと思われます」

一同がさわぎ、御家人があわてて出ていった。

頼綱が時宗に言上する。

「すでに鎌倉の火付け、殺人ひまなし。すべて日蓮の残党の仕業でござる」

泰盛がさえぎった。

「ばかな。証拠もなしに。陰謀である」

頼綱が書面を提出した。そこにはおびただしい人名がしるされていた。

「すでに日蓮門下の二百六十人を手配してござる」

「なんと・・」

泰盛があきれた。

「このうち法華経を捨てぬ者は領地没収、鎌倉追放が妥当と思われまする」

頼綱は周到な用意と謀略で日蓮一派を壊滅するつもりでいる。

だが時宗は聞こえないように告げた。

「占ってみよ」

泰盛と頼綱は意外な展開に思わず互いの顔を見る。

陰陽師(おんみょうじ)を召せ」

陰陽師が威厳に満ちた姿であらわれた。やがて時宗の前で占術をはじめた。

当時の陰陽師の力は絶大である。陰陽師は物事の吉凶を占い、為政者に助言した。小事につけ大事につけ人々に注意を喚起させた。「吾妻鑑」には天文の異変や不吉な出来事から、将来を占う記事がうんざりするほどでてくる。

一同がかたずをのんで陰陽師を見守った。

しばらくして陰陽師は突然おどろき、おののいた。種々御振舞御書』にいう。

 (おおい)に国みだれ候べし・此の御房御勘気(ごかんき)のゆへなり、いそぎいそぎ召しかえさずんば世の中いかが候べかるらん

日蓮を罰することは断じてならぬ。陰陽師は日蓮を支持した。

泰盛は歓喜した。いっぽう頼綱は憮然としている。

長い沈黙のあと、時宗が重い口をひらいた。

「日蓮を流罪とする」

「どちらに」

「北海、佐渡ヶ島」

当時、佐渡は絶海の孤島である。今の南極や北極にひとしい。生還は絶望的だった。

いっとき喜んだ泰盛だったが佐渡流罪と聞いて落胆した。頼綱はつぎの策を練っていた。


                34 弟子への遺言 につづく
上巻目次



by johsei1129 | 2014-11-29 16:16 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2014年 11月 29日

30 竜の口の法難

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                      (日蓮聖人御一代図より)
 
信徒らは師日蓮の行く末に不安でいっぱいだった。
日蓮聖人が侍所で喚問されたという。ことによっては捕縛されて帰らぬ人になるかもしれない。さらに法華宗徒に弾圧があるかもしれない。うわさばかりが先行していた。みな戦々恐々となっていた。

その日蓮が帰ってきた。

「みなさん心配をかけました」

四条金吾が前にでた。

「聖人、一刻も早く鎌倉を立ち退()いてくだされ。侍所に兵が集まっています。上人を捕らえる噂がたっております。ほとぼりがさめるまで安全な場所にいてくだされ」

「それはできぬ」

一同がおどろいた。

常忍もすすみでた。

「なぜでござるか。聖人が逮捕されれば、われら法華衆は壊滅いたします」

 日蓮はおちついていた。

「耐えるのです。いまこそ日蓮一門の信心が試されるときですぞ」

この時、多くの信徒が立ちあがり、日蓮に背をむけてぞくぞくと去っていった。
 彼らは形勢が危ういのを感じとった。昨日までは他人事だったが、自分の身に危難がふりかかろうとしている。しりぞく心があらわにでた。
かつて不退の誓いをたてた者もおそるおそる背をむけた。

金吾がおどろく。

「まて、おぬしら、どこへ行く。今が肝心のときだぞ」

常忍も彼らを止めた。

「まて、どこへいくのだ」
 日蓮はのちにこの時の思いをつづっている。
 

我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然(じねん)に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏(あんのん)ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つ()なき者のならひは、約束せし事をまことの時はわするゝなるべし。妻子を不便(ふびん)とをもうゆえ、現身にわかれん事をなげくらん。多生(たしょう)曠劫(こうごう)にしたしみし妻子には、心とはな()れしか、仏道のためにはなれしか。いつも同じわかれなるべし。我法華経の信心をやぶらずして、霊山(りょうぜん58)にまいりて返ってみちびけかし。『開目抄下
      

信者が去っていくのと入れ違いに、幕府重臣の宿屋入道光則があらわれた。

日蓮とは旧知である。彼は立正安国論を北条時頼に取りついだ人物だった。宿屋は侍所の一件いらい、日蓮に善処を促していた。

宿屋が役人らしい出で立ちで正座する。彼の話はすぐさま核心をついた。

「どうしてもお聞き入れくださらぬか。いま日蓮殿や信徒にとって存亡の時でござる。幕府は法華経の信仰を認めているのでござる。ただ他宗の非難をやめよといっているだけなのだ。それさえなければ、幕府が手厚く保護いたすと。おわかりいただけませぬか」
「それはならぬ」
「なぜでござるか」

宿屋は日蓮を理解できない。日蓮は法華経と他の経を同等に考えるところに謗法があるという。

当世も法華経をば皆信じたるやうなれども法華経にてはなきなり。其の故は法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経と一なるやうを()く人をば悦んで帰依し、別々なるなんど申す人をば用ひず。たとい用ゆれども本意(ほい)なき事とをもへり 開目抄上

法華経のみが成仏の経であり、他経は成仏できず、かえって悪道におちる。

人々はこの道理がわからない。日蓮が良観や道隆の首を刎ねよ、極楽寺や建長寺を焼きはらえといったのも、仏法に(うと)人々を覚醒するためだった。

このように法華宗門下が崩壊しようとしている事態を受けても、日蓮は取り乱すどころか予期していることだとばかり、異常ともいえる落ちつきを示した。

「宿屋殿、ご親切はありがたい。しかしその申し出を受けることはできぬ」

この時、弟子や信徒の多くに落胆の色がありありとでた。日蓮は自ら進んで大難をうけようとしている。そんな日蓮をあらかさまに目で非難する者もいた。

「日本国の災難、蒙古の国難をまねいたのは念仏であり禅宗である。そのかれらを罰しなければ日本国の安泰はないのです」

ここで宿屋は幕府の驚くべき動きをうちあけた。

「上人、(それがし)は御家人の身ですが、日蓮殿を尊敬しております。また某は時宗殿が上人のお考えに立つことを願っておりました。しかし一昨日の問注で状況は一変いたした。平の左衛門尉以下、武士団はあなたがた法華宗の面々を一網打尽にする方針を決定いたした」

弟子信徒にさらなる動揺が走った。

「これは決して脅しではございませぬ。弟子たちは牢に入れ、武士は領地没収、信徒は鎌倉追放、そして上人は・・首を刎ねよと」

 そこに居合わせた弟子信徒の誰ひとりとして、声を出すものがいなかった。いや、あまりの衝撃に皆が皆、声を失なっていた。

 少し間をおいて直情径行な金吾が、宿屋に怒りを宿屋にぶつけた

「宿屋殿、無礼なことを申すな。上人にむかってなんたる雑言じゃ。わしも幕府に仕える身だ。聖人には一指たりとも触れさせはせぬぞ」

日蓮が金吾を制して言った。

「宿屋殿、それはもとより覚悟のこと。ご忠告ありがたし。だが余は命にかえて鎌倉殿に申しあげるつもりです。引きさがることはできませぬ。お引きとりくだされ」

 宿屋はあきらかに落胆の色をみせた。妥協を期待していただけに思わぬ結果である。

「これ以上申しても無駄でござるか。惜しいことです。上人のような方が。国を率いる大師にもなれたものを」

宿屋が惜しむように、ふりかえりながら去っていった。

秋の日がゆっくりと西にかたむく。

四条金吾が警戒のため、館の入口で仁王立ちとなり周囲を見渡していた。

彼はいま日蓮門下が重大な局面にあることを承知していた。宿屋がいったように、自分の身にも危険がせまっていることも知っていた。
 だが日蓮からはなれるわけにはいかなかった。
いやむしろ日蓮に接していらい、はなれられなくなっていた。日蓮を目の当たりにし、その慈愛を肌身で感じていた。日蓮上人を渇仰する気持ちは日増しに強まっていた。この気持ちはすぐそこに迫ろうとする大難から逃げ出そうとする己の弱さに、はるかに勝るものだった。

金吾は仏法を深くは理解してはいなかった。法華経の深淵な法理を追及する志は、それほど強いものではなかった。だが彼は、泣く子も黙るという鎌倉幕府の弾圧に、一歩もひるまない日蓮という偉人に惚れた。十五年前、鎌倉松葉ヶ谷の今の館とは比べ物にならないくらい小さな草案で、始めて説法を聞いた時からはなれられなくなった。日蓮とどこまでも共にすることを誓ったのである。

やがて夕闇となり、金吾がひと安心したように館に入り挨拶した。

「今日は何事もないようです。拙者はこれで失礼いたします。なにか動きがあれば駆けつけますので直ちにお知らせくだされ」

日蓮が正座し頭をさげた。

「金吾殿、暇なき宮仕えの身であるのにおそれいりまする。それはさておき、金吾殿に大事なお話があります」

金吾は襟をつくろった。

日蓮はいとおしむように金吾を見つめた。

「金吾殿、いままでよく尽くしてくれました。日蓮、うれしく思いますぞ。さて、これからの出来事は金吾殿の目でしっかり見とどけてくだされ。殿が証人となるのです。よいかな、約束しましたぞ」

日蓮が金吾の手を固くにぎった。

金吾は今までにない日蓮の頼みごとに、緊張のあまり返事ができない。

しかし同時に金吾は不思議に思った。

証人とはいったいなんのことであろう。これからの出来事とは。
 金吾はこの時点で、なにも理解できなかった。

九月長月は現代の十月。秋は確実に深まっていた。落ち葉が舞い散っている。

日蓮は弟子たちに講義をはじめた。法華経巻五が、日蓮の前にある経机におかれている。


「法華経第五の巻勧持品(かんじほん)にいわく『諸々の無知の人の悪口(あっく)罵詈(めり)等し、および(とう)(じょう)を加うる者有らん』と。この経文のとおり、悪世末法に法華経を弘める者は悪口罵詈され、刀や杖の難がある。おのおの方にはこれまで常々話したとおりである。日蓮は聖人ではない。だが法華経を説のごとく受持し、行ずれば聖人の如しです。今まで言いおいたことに、まちがいはなかった。このことをもって未来に私の身に何が起ろうとも疑いをもってはならぬ」

日蓮が遺言のように語っている。

伯耆房や日朗はまなじりを決したかのように大きく目を見開き、日蓮の顔を見続けた。
 日蓮は淡々と法華経の講義を続ける。

「法師品にいわく『即ち変化(へんげ)の人を(つか)はして、之が為に(えい)()()さん』。安楽行品にいわく『天の(もろもろ)の童子、以て(きゅう)使()を為さん。刀杖も加えず、毒も害すること(あた)わじ』またいわく『諸天昼夜に、常に法の為の故に(しか)も之を(えい)()す』。普門品にいわく『(あるい)は王難の苦に()いて(つみ)せらるるに臨んで寿(いのち)終わらんと欲せんに、彼の観音の力を念ぜば(つるぎ)()いで段段に()

れなん』(それがし)いま、大難に遭おうとしている。仏の使いには、必ずこの経文のとおりの現証がおきる。これをもって日蓮が法華経の行者にてあるかなきかを知るべしであろう」

この時、外から武士の雄叫びが聞こえた。と同時に窓から薙刀がとびだした。

日蓮がとっさに目の前の法華経第五の巻を懐にしまった。

戸が倒されて武士の一団が土足で踏みこんできた。

鎧と烏帽子姿の武士たちは気が狂ったように口々に叫ぶ。
 「日蓮はおるか、日蓮はどこにいる」 

弟子が体を張って食いとめようとしたが、武士はいともかんたんに突き飛ばす。

兵士は皆、地獄からはいあがったような目つきでで日蓮をにらんだ。さらに日蓮を守るようにまわりを囲んだ伯耆房ら弟子たちの首をつかみ、次から次と外にほうりだした。

平頼綱が最後に出てきてさらに激しい狼藉がはじまった。

郎従の少輔房が哄笑しながら日蓮の懐にあった法華経の経巻をぬきとって頭を三度打ちつけた。さらにそれに飽き足らず経巻を館中にまき散らした。

日蓮の額に血がにじむ。

激痛をおぼえながら、日蓮は法華経の不思議を思った。

杖の難には、すでに()うばう(輔房)つら()をうたれしかども、第五の巻をもてうつ。うつ杖も第五の巻、うたるべしと云ふ経文も五の巻、不思議なる未来記の経文なり。 『上野殿御返事

兵士たちも笑いながら経巻をまき散らし、あるいは踏み、あるいは身に巻きつけた。

館の部屋という部屋がさんざんに荒らされていく。

ここで日蓮は大音声を放った。

「あらおもしろや。平の左衛門尉がものに狂うを見よ。殿方、ただ今ぞ、日本国の柱を倒すなり」

兵士がおどろいて静まった。彼らは日蓮が泣いてひれ伏すかと思ったが、気丈に振る舞う姿を見て一様にささやいた。

「ほんとうにこの御坊は罪人なのか・・」

平頼綱がうち消す。

「罪人じゃ。鎌倉幕府を倒す謀反人である」

日蓮はかえす。

「われには世間の(とが)一分もなし。日蓮はこの関東の御一門の棟梁なり、日月なり、鏡なり、眼目なり。日蓮捨て去るとき、七(59)必ずおこるべし」

頼綱がかみつく。

「日蓮、おぬしは今夜で終わりだ。身からでた(さび)よ。運が尽きたな。天にかわって成敗してくれよう。のちのちまで悪僧の名をのこすであろう」

 日蓮は冷静だった。

「その悪僧がどうして鎌倉に雨をふらせることができたのだ」

頼綱が一瞬言葉をなくしたが、かまわず罵倒する。

「だまれ。おぬしの罪状は明白だ。侍所、後家尼御前、そしてなにより鎌倉幕府の上意である。神妙にいたせ」

ここで日蓮は頼綱の肺腑をえぐるように突いた。

「さにあらず。この黒幕は極楽寺良観なり。武家の棟梁たる者が、ただの一滴もふらせぬ僧に、なぜ肩入れいたす。国をほろぼす悪僧はここにあらず」

頼綱が逆上してめまいをおこした。刀を半分ぬいたが思いとどまって(さや)におさめた。市中で斬るのは(はばか)りがある。

「日蓮御坊を宣時様の館へ連行しろ。北条宣時様あずかりとする」

夕暮れ、館の外には日蓮が捕縛されたことを聞きつけ野次馬が集まってきた。

日蓮が外にでて馬にのる。

弟子の日朗と在家信徒の四人が追いかけて馬にとりすがった。だが日朗をふくめた五人は、抵抗しているとみられたのか捕縛されてしまった。ちなみにのこりの四人の信徒は、井沢入道、坂部入道、山城、徳行寺という名が伝わっている。

馬上の平頼綱が命令した。

「そやつらを土牢に放りこめ」

日蓮は馬上から乱暴に引き立てられていく日朗らを見つめた。釈尊も弟子が度々迫害されていたことを思えば、十分予測されたことではあったが、いざ、弟子や信徒までもが手荒に扱われるのを見ると、忍び難い思いが募った

兵士が日蓮の馬を引きだした。

伯耆房と少年の熊王が日蓮のあとを追う。

日がすっかり傾き、夜の帷が下りていた。

鎌倉市街では鎧をつけた兵士がさまざまな方向へ走っていった。

日蓮門下に対する一斉弾圧である。

「おぬしらが頼りとした日蓮は捕縛された。そのほう法華経の信心をいたしておろう。平の左衛門尉様の命により領地没収とする」

屋敷の主人が両手をあげた。

「まて、まってくれ」

妻があわてて法華経の経巻をもってきた。この主人は経巻を自らやぶってしまった。鎌倉各所でこんなやり取りがあいついだ。


 このころ強信徒の日妙は夫と口論していた。
幼い娘が母親につく。

夫が日妙をさとした。

「なんとしても法華経の信心はすてろ」

日妙はきかない。

「すてませぬ。わたしにはわたしの考えがあります。法華経の信心をすてるのは、もってのほかです」

「日蓮上人は鎌倉様のお咎めを受けたのだ。どうするつもりだ。鎌倉の信者はすべて退転したぞ。法華経を捨てなければ、幕府からきついとがめをうけるのだ。累はこの家にもおよぶ。おまえが信心やめなければ、このわしは・・」

日妙がさえぎった。

「そんな弱気なことでどうするのです。あなたは男です、そして一家の柱です。自分の考えをもってください。ご自分の道をお決めにならないで、これからどうするのです。それでも鎌倉武士ですか」

夫は痛いところを突かれて激高した。

「離縁だ。お前がいては、わしの家がなりたたぬわ」

日妙が涙目となった。

「あなた様のお気持ちがよくわかりました。それが本音でございますね。こちらこそ縁切りさせていただきます。二度とお会いいたしませぬ」

日妙が娘をつれ、出ていってしまった。

のこった夫は茫然としてその場に立ちつくした。

日蓮門下の信徒全体に動揺がひろがっていた。

彼らは不安をかかえてあつまった。

どれも沈痛な面もちでいる。

信徒の一人がきりだした。

「みな考えてみよ。なぜこうなったのだ。法華経は正しいのに、なぜ難をうけるのだ」

「それはしかたあるまい。上人があのように強情では。われわれにも災難がふりかかってしまうのだ」

「それだ。日蓮聖人の布教が問題なのだ。法華経はたしかに尊いお経だが、弘めかたにまちがいがあったのだ。聖人は師匠ではあるが、あまりにきびしすぎる。われらはおだやかに法華経を弘めようではないか」

信者たちが救われたようにうなずいた。

「念仏や禅宗を非難せず、相手のことも思いやっていこう。幅ひろくつきあうのだ。相手の欠点も大目に見ていこう。幕府にも協力していくのだ。そうすれば日蓮上人をこえることもできる」

信者たちがそうだそうだと言わんばかりにうなずきあった。

日蓮門下の信徒は事実上、壊滅状態となった。みな大難に驚き「(きも)を消しはてて」日蓮から離れていった。

日蓮はつね日頃、経文どおりに法華経を弘めれば大難にあうことを説いてきたが、弟子の耳には入っていなかった。難をうけ、乗りこえなければ己の境涯はひらけない。衆生が自らの過去遠々劫の罪障を消すことができるのはこの時である。逆境を乗りこえなければ「慈悲」を体現する仏の境涯には到達できない。だが弟子たちはまず権力への恐怖をおぼえてしまった。

さらに信徒の中には法華経を捨てないまでも、日蓮の失敗に学んで日蓮からはなれようとするものが続出した。彼らは日蓮と一線を画し、世間との迎合も視野に入れ、法華経を弘めようとした。()

日蓮は末法の本仏としての境涯から、これら不信の徒を分別する。彼らは念仏者よりも罪が深いと。日蓮は竜の口法難の半年後、流罪地の佐渡でこう記している。

  これはさて()きぬ。日蓮を信ずるやうなりし者どもが、日蓮が()くなれば疑ひを()こして法華経を()つるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我(かしこ)しと思わん僻人(びゃくにん)等が、念仏者よりも久しく阿鼻(あび)(60)にあらん事、不便(ふびん)とも申す計りなし。修羅が仏は十八界、我は十九界と云ひ、外道が云はく仏は一()(きょう)(どう)、我は九十五究竟道と云ひしが如く、日蓮御房は師匠にておわせども(あま)りにこ()し、我等は()はらかに法華経を弘むべしと云はんは、(ほたる)()が日月を()らひ、(あり)(づか)()(ざん)(くだ)し、井江(せいこう)が河海をあなづり、烏鵲(かささぎ)(らん)(ほう)をわらふなるべしわらふなるべし。  『佐渡御書

天空の月が北条宣時の館を照らす。

おびただしい兵士が建物のまわりに立ち、弓と薙刀で警戒していた。

一本の蝋燭だけが灯る部屋があった。日蓮がここに一人いる。

闇のむこうから宿屋入道がすすみでて、日蓮と対面した。再度の説得である。

「上人、あなたの信者はこの鎌倉で百人が九十九人は退転いたしました。これまででございます。この宿屋、最後のお願いにまいりました。なにとぞ今後は他宗を非難しないと認めますよう」

沈黙がつづく。

日蓮にすべてを見とおしたような笑みがこぼれた。

今宵(こよい)首を斬られれば過去の重罪を今生に消して、未来の悪道からのがれることができます。まことに悦ばしいことです。臭き(こうべ)を放たれれば法華経の行者となることができる。日蓮が仏になるための第一の味方は東条景信、法師では良観、さらに平左衛門尉、時宗殿。この方々がいなければ、どうして法華経の行者になれたでありましょう。宿屋殿、あなたも善知識の一人です。礼をいいますぞ」

宿屋入道がうなだれた。

大広間では平頼綱と北条宣時が待ってた。

宿屋入道が放心した姿で部屋に入り、大きく左右に首をふった。

頼綱と宣時は、あとは打ち首にするだけだとばかりに無言でうなずく。



                   31 発迹顕本 につづく
上巻目次





58 霊山

釈迦が法華経を説いた霊鷲山をさす。古代インドのマカダ国の都、王舎城の東北にある山の名。釈迦はこの地で法華経などの諸経を説いたといわれる。大智度論巻三によると、山頂が鷲に似て、鷲が多くいるため霊鷲山と名づけられたとある。転じて仏のいる清浄な国土のこと。法華経を受持する者の住所が霊山である。現在は世界中の仏教徒が訪れて人が絶えない。釈迦布教活動の遺跡の一つとなっている。
「霊山とは御本尊並びに今日蓮等の
(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住所を説くなり云云」『御義口伝 寿量品二十七箇の大事

59 七難

正法を謗ずることによって起こる七種の災難。経典では仁王経、薬師経にそれぞれ七難が説かれている。

仁王経の七難

     一、日月失度難

     二、星宿失度難

     三、災火難  

     四、雨水難

     五、悪風難

     六、(こう)(よう)

     七、悪賊難

薬師経の七難

「薬師経に云はく()(せつ)(てい)()(かん)(じょう)(おう)災難起所謂人衆疾(にんじゅしつ)(えき)の難・他国侵逼(しんぴつ)難・自界叛逆(ほんぎゃく)難・星宿(せいしゅく)(へん)()難・日月薄蝕(にちがつはくしょく)の難・非時風雨の難・過時不雨の難あらん」『立正安国論


60 阿鼻地獄

無間地獄のこと。阿鼻とは梵語で無間と訳す。




by johsei1129 | 2014-11-29 16:03 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2014年 11月 10日

6 東条景信との確執

                                英語版

 日蓮の故郷、安房清澄寺の一帯では騒動がおきていた。

凶悪な武士らが寺の門前を固めている。

百姓がおののいた。

武士と郎党が土足で百姓の家に入りこみ、田植え道具を外にほうり投げた。

「この土地は我らが地頭、東条景信様の所領ときまった。おぬしらは即刻立ち去れい」

百姓の家族たちが泣き叫ぶ。

郎党が広い田畑の角々に薙刀をもって立つ。

地頭の東条景信が床几にすわり満足気である。かれは武力で一気に清澄寺の田畑を占領するつもりでいた。

この時代、鎌倉幕府の代官である地頭と旧来の領主との境界線では摩擦が絶えなかった。鎌倉幕府を開いた源頼朝も地頭の横暴を制止する下知をいくたびもだしている。だが権力に目ざめた武士階級の欲求を止めることは困難をともなった。

しのつく雨が清澄寺の屋根瓦に降り注いでいた

堂に大尼や道善房ら僧侶、名主、百姓らが集まっている。

 景信との度々の争いごとに疲れ、参集した者たちは皆、半ばあきらめの表情を隠しきれないでいた。

「すぐにでも清澄寺所領の二間(ふたま)を引き渡せとの要求じゃ」

「馬鹿な。先祖代々の土地だ。いくら地頭といっても人の土地を奪う権限はないはずだ」

「大尼さま、鎌倉に訴えでることはいかがでございましょう。わしら田舎の住人は手立てもなく、なにもできませぬ」

 清澄寺信徒らの強気の声に対し、大尼の態度はいつもとちがい弱々しい。

「地頭は鎌倉幕府の役人です。いくらわらわでも手出しできぬこと」

大尼の夫は北条泰時の弟、朝時といわれている。北条の有力な支族であったが、幕府を仕切る本家には口が出せない。

「では泣き寝入りするしかないのか」

気の弱い道善房は周囲の顔色を窺って思案している

「比叡山に訴えることはどうかな」

若い浄顕房がすぐに師をたしなめた。

「お師匠様、今は武家の世です。僧侶が抗議してもかなうものではございませぬ」

長老の円智房が道善坊を諭す。

「景信殿はこの寺をつぶそうというのではない。寺の土地をわずかのあいだ管理するということだ。そうであれば甘んじて受けるほかはないのではないか」

円智房は妥協しようという。泣く子と地頭には勝てないのか。

一同が暗く沈んだ。


この時、背後から声がした。

「皆の者、少し待たれい」

みながふりむくと、ずぶぬれの雨具をつけた日蓮が立っていた。

百姓が思わず喜んで立ちあがった。

浄顕房も喜んだ。

「おお日蓮上人ではないか。よく来た」

義浄房が日蓮の肩をたたく。

「どうだ鎌倉での布教活動は。なにか困っていることはないのか」 

日蓮は場の空気とは異なり、にこやかだった。

「日々の食糧の調達に少々苦労はありますが、入信した新しい信徒の供養もあり、何とかしのいでおります

日蓮が雨具を脱いで正座した。

「お話はしかと承りました。で方策はどうなさるつもりで」

みな黙ってしまった。

しばらくして日蓮がおもむろに語りはじめた。

「問注所に訴えるというのは、いかがでしょう」

一同が顔をあげた。

「地頭の横暴を取りしまるのは幕府の役目の一つなのです。われわれ領家の訴えを問注所に申し出れば解決できるはずです」

大尼が不安げである。

「しかし問注所といっても幕府の役人です。勝つ見込みがあるのかえ」

 日蓮が大尼を見すえて話しかけた。

「この件はわれわれに正義があります。清澄寺の領地を侵略したのは地頭なのです。これを前面にだせば勝てる。そもそも領地を守る方法はこれ以外にありません」

百姓の一人がつぶやいた。

「わざわざ鎌倉までいかねばならんのか」

円智房が日蓮を見くだすように言い放った。

問注所に訴えて勝てるとは、楽観的すぎないかここには訴訟に長けた者はおらぬ。それに評定は金と時間のかかるもの。負けた場合はなんとする。日蓮、考えが浅くないか」

日蓮は何を話すのかとじっと見つめる清澄寺の信徒を見渡し、きっぱりと答えた。

「私は十二の年にこの寺に入り、修行させていただきました。大尼殿には父母もお世話になっております。このご恩をお返しするため、何としてもお役に立ちたい。みなさんの考えはいかがかな」

一同考えこむが、日蓮の草庵に出向いた百姓が重い口を開いた。

「訴えるだ。ここであきらめたら、ずっと地頭のいうがままだ」

名主も同調しだした。

「そうだ、そうだ」

一同が日蓮を囲むように集まってきた。

鎌倉幕府の裁判所は源頼朝が自宅で始めたのが最初である。頼朝は自宅にべつな玄関を作り、小さな「問注所」の看板をつけた。日本で最初の裁判所である。これより以前は訴訟する場が定められていなかった。裁判は平安貴族の専横にまかせきりだったのだ。頼朝が裁判の場を定めたのは画期的だったのである。

ところがうまくゆかない。

頼朝は自分でなんでも決済しようと張りきったが、彼を頼って訴訟をもちこむ者が激増し、全国からやってくる。毎日、自宅の外で怒号が絶えない。頼朝はこの騒ぎにうんざりして問注所を移転している。

その鎌倉の問注所は格式ばった建物である。

入口は訴状を持った武士や百姓で混雑していた。

庭に面した広間があった。

中央に裁判官である沙汰人、そのわきに書記がいる。そのうしろに進行を見守る役人がひかえる。

この時代の裁判はまず書面で行われた。

原告と被告が三回ずつ、書面で対決する。最後に評定所で対決が行なわれた。

日蓮は景信の横暴を訴状にして問注所に訴えた。問注所はこれを景信にわたす。景信のほうは弁明書を作成して問注所にさしだす。これを陳状といった。問注所はこの陳状を清澄寺側にわたして反駁させる。このくりかえしを三度までおこなう。三問三答である。

問注所は書面の吟味だけをおこなう。たとえ疑わしいことがあっても自分達では調べない。疑いがあれば訴えたほうと訴えられた双方が独自に立証しなければならなかった。近代の裁判のように専業の弁護士はいないのである。

こうして問注所は最後に双方を呼び出し、口頭弁論させて結審した。

日蓮は仏法の研鑽のかたわら、貞永式目などの世間法にも精通していた。あらゆる条文を駆使して訴状をしたため、地頭の陳状に反駁した。

かたや景信は力ずくでおし通そうとした。彼は清澄寺の田畑を支配し、寺を念仏宗に変えようとした。このため執権北条時頼の補佐役で連署(注)の北条重時に応援を求めた。重時は極楽寺を開基し極楽寺殿といわれていた念仏の強信者である。問注所への影響力は清澄寺側を圧倒していた。

三問三答がおわり、対決の日がきた。

評定の庭に東条景信がでてきた。あいもかわらず居丈高である。

「いや待ちもうしたわ。くだらぬ訴えのおかげで宮仕えに支障がござる。迷惑至極にもほどがある」

沙汰人が両手をついた。

「これはこれは東条殿。わざわざのご足労、大儀でござった」

書記が告げた。

「次に清澄寺の面々」

清澄寺の名主、百姓、義浄房、浄顕房がでてきた。最後に道善坊がとぼとぼと出てきた。

沙汰人が弁論の開始を宣言する。

「ではこれより清澄寺の所領について問注をおこなう」

清澄寺の浄顕房が前にでる。

「清澄寺はもともと天台宗の寺でございます。頼朝様のはるか前よりある歴史ある寺でございます。それを地頭の景信殿が勝手に占拠なされ、付属の田畑をからめ取るは無法千万。ただいま仏の法が途絶えようとしております。直ちに地頭の非法を制止せられんことを」

景信が反論する。

「この景信は鎌倉殿の指図にしたがい、安房の一部を任されておる者。清澄寺は格式ある寺とは承知しておるが、管理する上で問題のある寺にございます」

清澄寺側が怒りに身を震わせて景信をのぞきこんだ。

「種々の法度に従わぬばかりか、日本国のおおかたが信心いたす念仏にも感心のない様子でござる。そればかりか念仏を無間地獄と申す坊主もでてまいった。こうなっては付近の土地を預かる地頭として、放置しておくことはでき申さぬ。三年ほどは、われら武家の管理下におくのがよろしいかと判断した次第」

沙汰人が冷たい視線で清澄寺側を見る。

「住人のほう、言い分は」

清澄寺領の名主がでてきた。

「手前どもはこの数百年のあいだ清澄寺の御坊様方の被護によって生活してまいりました。お武家様が新たな主人になるということは、百姓にとって耐えがたいことであると・・」

名主がはっとして口をおさえた。

沙汰人が言葉尻をとらえた。

「たえがたい・・」

景信が笑いだした。

沙汰人があきれる。

「わしも武士であるがのう・・問題の多い寺であるならば、治安能力の高い地頭が管理すべきであろう。まして景信殿は三年と期限を定めているではないか。清澄寺はこの期限付の条件で和解をしてもよいではないか」

浄顕房が叫んだ。

「期限付とは支配する者の常套手段でございます」

義浄房も立ちあがろうとするが名主が止めた。やはり権力にはかなわないのか。

景信が勝訴を確信し笑顔をふりまいた。優勢はあきらかである。

沙汰人が景信にうなずいた。

「この判決は明後日に」

沙汰人が立ち上がろうとした時、声があがった。

「お待ちくだされ」

声の主は日蓮だった。
「清澄寺の僧、日蓮が申し述べます。わが清澄寺は伝教大師の後をうけ、五百年続く由緒ある寺にございます。それを今、安易に地頭殿の保護下におかれるのは、いささか性急にすぎませぬか。寺院あくまで仏を敬い、衆生の仏により済度を図るための信仰の場所です。俗世間のための場所ではございません

景信が刀をつかむ。

「こやつでござる。念仏を無間地獄といつわったのは」

書記が興奮する景信をたしなめた。

「東条殿。ここは領地の審議をしておる。仏法の沙汰をしているのではありませぬ」

日蓮はつづける。

「もう一つ。この評定所は武士も百姓も、もちろん僧侶であろうと、分けへだてなく吟味する場所ではないでしょうか」

沙汰人があらたまった。

「その通りである」

「であるならば式目にあるとおり、ただ道理のおすところ、まわりをはばからず、権威を恐れず、沙汰すべきではござらぬか」

「いかにも」

「であるならばわが清澄寺が潔白なのは明かでございます。無謀な地頭が勝手に土地を横領するのを戒めるため、式目のとおり罰として地頭殿の土地をとりあげ、清澄寺に与えるのが筋でございましょう」

こんどは東条側が身をのりだした。

「なにをこしゃくな」

景信が立ちあがったが部下におさえられた。

清澄寺側も黙っていれば負けるとばかり、声を荒げて応戦した役人が静めるが双方の罵声がやまない。沙汰人があわてて閉会を宣言した。

「ええい、静まれ。本日の沙汰はこれをもって閉じる」

その夜、鎌倉の宿に僧や百姓が集まっていた。

みな腕を組み心配な様子である。

百姓がぼそりとつぶやいた。

「その評定の様子では勝ち目はないかのう」

「相手は武家じゃからのう。地頭の後ろ盾もあろう。十中八九は・・」

地頭相手ではどうしても悲観的になる。百姓たちは沈んでいたが、部屋の片隅で輪になって話し込んでいる人々がいるのに気づいた。

輪の中心は日蓮だった。手には法華経をにぎっている。

浄顕房、義浄房らが真剣に日蓮の話に耳を傾けている。

「あきらめてはいけませぬ。憶病でもいけませぬ。ここが勝負の時ですぞ。相手が武士といえども道理はかならず勝つ。地頭の横暴が許されてよいはずがない。みなさん、今こそ辛抱するときです」

浄顕房が同調した。

「そうだ。その通りだ。日蓮上人の言うとおりだ。今こそわれら清澄寺が一心同体となる時だ」

義浄房の目が輝いていた。

「日蓮、よくぞいってくれた。頼もしいのう」

日蓮が経巻をにぎり立ちあがった。

「あとは祈るだけです。この法華経に力があるならば、願いはきっとかなうはず。今こそ題目の力をためす時です」

そこへ長老の円智房が立ちはだかった。

「日蓮、地頭殿にむかってなんたる雑言だ。おぬしのせいでこの清澄寺は滅亡だ。念仏を地獄などというおぬしに、魔がとりついておるのだ。評定など負けるに決まっておるわ。早くここから立ち去れ」

円智房の言葉にまわりは動揺したが日蓮は落ちついていた。

「円智房様。わたしは小僧の時からあなたを尊敬しておりました。しかしながら今はっきりとわかりました。あなたは臨終の時、念仏者よりも深く無間地獄の底におちるでありましょう」

日蓮が法華経の経巻をかかげた。

「汝早く信仰の寸心を改め、妙法に帰せしめたまえ」

円智房が答えられず去っていく。うしろに数人の信者がついていった。

日蓮は縁側にすわり、上天の月に向かって唱えはじめた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・」

背後には浄顕房が、つづいて義浄房がすわり唱和していく。そして幾十人の清澄寺の信徒が懸命に唱えていった。

決着の日がきた。

清澄寺の人々は評定所の入口を心配そうに見守った。

評定部屋には清澄寺側と景信側とが左右にわかれてすわった。

みな緊張の面もちである。ひそひそ話が飛びかう。

いっぽう景信は満足顔でいた。

やがて沙汰人らが前面にあらわれた。

室内が静まりかえり、書記が宣言した。

「それではこれより清澄寺領の帰属にたいする沙汰を申し述べる」

沙汰人が厳粛に告げた。

「この訴えについては清澄寺側の訴えを認める。地頭は早々に占拠した土地を返却するように命ずる」

瞬間、清澄寺の人々が手をにぎりあった。両手をあわせる者もいる。

対照的なのは、ぽかんとした顔の景信だった。彼は放心したようにいった。

「なにかのまちがいではござらぬか。地頭の言い分が通らぬとは」

沙汰人が緊張して答えた。

「われら評定所一同の判断でござる」

景信が立ちあがった。

「なんということだ」

景信は沙汰人を指さした。

「おぬしら、それでも武士か。なぜつぶれそうな寺を助ける。どういう了見だ」

沙汰人が静かに答える。

「東条殿。お気持ちはわからぬでもない。しかしながらここは評定の場である。ここで悪口雑言を吐けば領地没収と定められておる。お立場をよくわきまえられよ」

景信はおさまらない。

「ばかな。このようなことが許されてよいのか。よくもわしの顔に泥をぬりおったな。こうなった上は、守護にも鎌倉にも訴えるまでだ」

沙汰人は動じない。彼は幕府に仕えるが、同時に公正な法の実行者である。その彼が天井をむいて誓うようにいった。

「式目にいわく、ひとつ、わたしたちは賢くはなく、考えは浅いけれども、まっすぐに考え、ねじ曲げては考えませぬ」

書記が同じ姿勢で言いはなつ。

「ひとつ。特定の人の利益のためには働きませぬ」

評定役人もまたおなじだった。

「ひとつ。正しいことは正しいといいます。根拠がなければまちがっているといいます」

沙汰人がさらにいう。

「ひとつ。ある人のたくらみを隠すため、詳しい経過を知っているのに善悪を黙っているようでは、のちの人々から非難されると承知しております。いかがかな景信殿」

まさに正論である。

景信が場内で棒立ちになった。そして恨めし顔に去っていった。郎従がつづいて出ていく。

沙汰人が最後に宣言した。

「では評定の件、これまで」

終了宣言が発せられると同時に清澄側が声をあげ、歓喜を爆発させた。人々が肩を抱いた。


守護所の外でも歓びにわいた。

 清澄寺側の女たちは周りの目を(はばか)ることなく泣きくずれ「日蓮上人のおかけです」と叫んだ。

そのなかで日蓮は荷物を背負い、笠をかぶって旅の支度をした。

浄顕房が心配した。

「もう行くのか」

日蓮がうなずく。これから下総の富木常忍をたずねるつもりでいる。下総には富木の縁故の武士が多い。日蓮は彼を頼りに布教の線を張ろうとした。訴訟に勝った以上、自分の使命の道にもどらねばならない。

義浄房が日蓮の手をきつくにぎった。

「清澄寺を救ってもらったな。大尼様もとても喜んでおられる。くれぐれも気をつけていかれるがよい」

清澄寺信徒の百姓が握り飯のはいった籠をさしだした。

「これを持っていきなされ。今年は飢饉で作物が取れませなんだ。道中、米を手当てするのも難しかろうて」

「かたじけない」

 日蓮が百姓に深々と頭を下げた。

そこへ地頭景信が騎馬でゆっくりと通りすぎ、日蓮の前で止まった。

景信は怒りで顔を真っ赤にし、額に筋が走っていた。

みなが静まりかえった。

景信が馬上から見くだす。

「日蓮、今日のところは見のがしてくれよう。だがな、おぬしは念仏の敵であり、地頭の敵と決まった。こんど安房に帰ってくる時は生かしておかぬ。覚悟しておけ」

景信が顔を引きつらせて去っていく。郎従も横目で日蓮をにらみながら去っていった。

日蓮は景信の後姿を涼しげに見送った。

こうしていったん決着はついたが、このあとも清澄寺と地頭の争いはつづいた。しかしいずれも清澄寺の勝利で終わっている。

清澄寺を支えたのは日蓮だった。弘教のかたわら、弁護人であり、訴人として清澄寺の人々を支援している。日蓮は仏法を学びながら沙汰の達人でもあったのである。

日蓮はもし訴訟に敗れたならば法華経を捨てるとまで誓って奔走した。

故いかんとなれば、東条左衛門景(とうじょうさえもんかげ)(のぶ)が悪人として清澄のかい()しゝ(鹿)等を()りとり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせしに、日蓮(かたき)をなして領家のかた()うど()となり、清澄・(ふた)()の二箇の寺、東条が方につくならば日蓮法華経をすてんとせい()じょ()うの起請(きしょう)をかいて、日蓮が御本尊の手にゆい()つけていの()りて、一年が内に両寺は東条が手をはなれ候ひしなり。此の事は虚空蔵(こくうぞう)菩薩もいかでかすてさせ給ふべき。   『清澄寺大衆中


日蓮は清澄寺で得度したころ、()空蔵(くうぞう)薩に「日本第一の智者となし給へ」と祈ったという。


生身(しょうしん)の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便(ふびん)とや(おぼ)()しけん、明星(みょうじょう)の如くなる大宝珠(ほうじゅ)を給いて右の(そで)にうけとり候いし故に、一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣(ほぼ)(これ)を知りぬ」清澄寺衆中


日蓮はまた「日蓮が御本尊の手にゆい()つけていの()り」と記し、日蓮が仏門に入る機縁となった故郷清澄寺と人々への恩を報じようとするすさまじい執念を示した。

かたや地頭景信は北条の有力者を動かしてまで裁判に勝とうとしたがかなわない。このため景信は日蓮を心底憎悪するようになり、ついには文永元年の小松原の法難を引き起こすことになる。こうして日蓮は覚悟無くして故郷の土を踏めなくなってしまった。



              7 三災七難(大災害が日本を襲う) につづく
上巻目次


注 

 連署(れんしょ)

 鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり、実質上「副執権」の立場に位置する。元応三年(一二二四)、北条泰時が叔父の北条時房(ときふさ)を任命したのが最初。幕府の公文書に執権と連名で署名したことから連署と称された。執権の独走を抑えるための制度。



by johsei1129 | 2014-11-10 21:50 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2014年 11月 10日

4 日蓮、鎌倉で弘教を開始 二

                                  英語版


 日蓮は同時に禅宗を攻めた。文永五年(一二六八)に述作された「聖愚問答抄」で当時の禅僧の姿を如実に記している。


(ここ)(うきくさ)のごとく諸州を回り(よもぎ)のごとく県々(けんけん)に転ずる非人の、それとも知らず来たり、(かど)の柱に寄り立ちて(ほほ)()み語る事なし。あやしみをなして是を問ふに始めには云ふ事なし。後に()いて問ひを立つる時、彼が云はく、月蒼々(そうそう)として風忙々(ぼうぼう)たりと。形質(なりかたち)常に(こと)に、言語又通ぜず。其の至極(しごく)を尋ぬれば当世の禅法是なり。  

禅僧は言葉が通じないという。現代ではこれほどひどくはないが教えは昔とかわっていない。根本の中身は同じである。 

禅宗もまた念仏と同じく一切経を否定した。禅の宗旨は、釈尊は仏法の真髄を経ではなく、釈迦の弟子摩訶(まか)迦葉(かしょう)(注)一人に口伝であたえられたとする。したがって経文に真実はなく、学ぶのはむだであるという。これを教外別伝といった。この奥義を伝える者が達磨(だるま)以下の禅僧である。

日蓮は怒りをこめて彼らを糾弾する。

 禅宗と申す宗は教外別伝と申して、釈尊の一切経の外に迦葉(かしょう)尊者にひそかにさゝやかせ給ヘリ。されば禅宗をしらずして一切経を習うものは犬の(いかずち)かむ()がごとし。猿の月の影を()るに()たり云云。此の故に日本国の中に不孝にして父母にすてられ、無礼なる故に主君にかん()()うせられ、あるいは(じゃく)なる法師等の学文にも()うき、遊女のもの()ぐる()わしき本性に(かな)へる邪法なるゆへに、皆一同に持斎になりて国の百姓をくらう(いな)(むし)となれり。しかれば天は天眼をいか()らかし、地神は身をふるう。  『撰時抄

持斎とは仏門に入った人のことをいう。蝗虫とはイナゴのことである。ひとかどの道心をおこして仏道に入った者が、国の(つい)えをむさぼる害虫になっているという。

したがって禅宗がおこると、にわか坊主が続出した。なんの知識ももたず、修行もせず、見識もない者が、高僧らしくふるまう。こんな人間はいうまでもなく傲慢になる。日蓮の指摘のように常識さえもなくなってしまう。


 今時の禅宗は大段、仁・義・礼・智・信の五常に背けり。有智の高徳をおそれ、老いたるを敬ひ、幼きを愛するは内外典(ないげてん)の法なり。(しか)るを彼の僧家の者を見れば、昨日今日まで田夫(でんぷ)野人(やじん)にして黒白を知らざる者も、かちん(褐色)(じき)(とつ)をだにも()つれば、うち慢じて天台真言の有智高徳の人をあなづり、礼もせず其の上に居らんと思ふなり。(これ)傍若無人(ぼうじゃくぶじん)にして畜生に劣れり。(ここ)を以て伝教(だい)()(注)の御釈に云はく、川獺(せんだつ)祭魚のこゝざし、(りん)()父祖の食を通ず、鳩鴿(きゅうごう)三枝(さんし)の礼あり、(こう)雁連(がんつら)(みだ)らず、(こう)羊踞(よううずくま)りて乳を飲む。(いや)しき畜生すら礼を知ること是くの如し、何ぞ人倫に(おい)てその礼なからんやとあそばされたり取意。彼らが法門に迷へる事道理なり。人倫にしてだにも知らず、是天魔(てんま)()(じゅん)ふる()まひ()にあらずや。  新池御書

()日蓮は「川獺(かわうそ)でさえ正月にとらえた魚をていねいにならべ、先祖を祭るという伝説があり、林に棲む(からす)は自分を育ててくれた親やそのまた親が餓えないように、(えさ)をはこんで恩にむくいる。鳩は親鳥より三つ下の枝にとまるという。雁が列を乱さないのは知るとおりである。恙とは子羊のこと。羊の子は親に頭をさげて乳を飲む」と言う。このように動物でさえ礼を守り孝行をおこなう。これをはずすのは畜生以下であるとした。

ではなぜ禅宗がこの時代ひろまったのか。

理由は至極明白である。時の権力者が信奉していたからだった。
 時の権力者とは執権北条時頼である。時頼はすでに日本国を支配する皇帝といってよい。天皇もおり征夷大将軍も存在したが、武士がひれ伏すのは時頼だけだった。

 彼は宋から禅僧の蘭渓(らんけい)道隆(どうりゅう)を招いた。日蓮が二十五歳の時である。この七年後の建長五年に建長寺を創建し、道隆を請じている。建長五年は日蓮が安房の地で立宗宣言をした年である。
時頼はさらにこの三年後、道隆により出家し入道となり、法名を覚了房道崇と名のった。かなりの心酔ぶりである。時頼にしたがう者はぞくぞくと座禅を組んでいった。つられて道隆の名声も高くなっていったが、日蓮は道隆を見抜いていた。

日蓮は度度(たびたび)知つて日本国の道俗の(とが)を申せば、是は今生の(わざわい)・後生の(さいわい)なり。(ただ)し道隆の振舞は日本国の道俗知りて候へども、(かみ)(おそ)れてこそ尊み申せ、又内心は皆()とみて候らん。 『弥源入道殿御消息


禅宗は武士のあいだに広まったというが、実態はこのようなありさまだった。同時代に生きた日蓮はさらに言う。


建長寺・円覚寺の僧共の作法戒門を破る事は大山の(くず)れたるが如く、威儀の放埓(ほうらつ)なることは猿に似たり。是を供養して後世を助からんと思ふは、はかなしはかなし。『新池御書

建長寺は時頼が建て、円覚寺は息子の時宗が建てた。両寺とも現存しているが、日蓮この両寺に供養して後世善処を願うのは浅はかだ、と断じている。




                   5 四条金吾登場 につづく
上巻目次




摩訶迦葉

迦葉。尼倶利陀(にくりだ)長者の息子。釈迦(しょう)(もん)十大弟子の一人で、頭陀(ずだ)第一といわれる。法華経の会座(えざ)(授記品第六)で、光明如来の記別を受けた。釈尊滅後、阿闍(あじゃ)()(おう)()()を受け、仏典結集の座長として摩竭陀(まかだ)国の王舎城の南、七葉窟(ようくつ)で、羅漢(あらかん)五百余と半年以上に渡り、釈尊の説いた教えを取りまとめた。また付法蔵の第一として二十年間、小乗教を弘通した。

 伝教大師

神護景雲元年(七六七)~弘仁十三年(八二二)。平安初期、日本天台宗の開祖最澄のこと。()()()()()()()十二歳で出家し、()暦四年(七八五)東大寺で具足戒を受け、いったん故郷に戻ったがその後比叡山へ入り、草庵を結んで諸経論を究めた。延暦七年(七八八)に草庵を延暦寺と号し、さらに延暦十二年(七九三)一乗止観院と改めた。延暦二十一年(八○二)に高雄寺で華厳・法相・三論等の碩学十余人と、宗の優劣を論じた。延暦二十三年(八○四)に入唐して()()()()()()()()天台の義、および禅、真言を学び、翌年帰国し延暦二十五年(八○六)天台宗を開いた。弘仁四年(八一三)に嵯峨天皇の護持僧となり、また旧仏教界の反対の中で、大乗戒壇実現の努力を続けた。没後七日の六月十一日に大乗戒壇の勅許がおりた。

日蓮大聖人はこの大乗戒壇を高く評価し「仏法の人をすべて一法となせる事は,内証は竜樹・天親にもこえ南岳・天台にもすぐれて見えさせ給ふなり」(撰時抄)と称賛している。弟子に義真・円澄・慈覚などがいる。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「山家学生式」など多数。

 なお、日蓮大聖人は観抄」で「()れ天台大師は(むかし)霊山(りょうぜん)(あり)ては薬王と名け、今漢土に在ては天台と名け、日本国の中にては伝教と名く。三世の弘通(ぐつう)(とも)に妙法と(なづ)」と説いている。





by johsei1129 | 2014-11-10 21:40 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2014年 09月 09日

7 三災七難 (大災害が日本を襲う)

日蓮が切通しを歩く。

鎌倉から武蔵をぬけて下総へ、東京湾を一周する道をとった。鎌倉で布教した信徒にこの方面の縁者が多い。道行くかたわらこの一帯を布教してまわったのである。

だが日蓮の意気込みを削ぐかのように、荒涼とした風景がつづいた。

田畑が荒れている。

まわりを見わたすと、やせ細った馬が道端に倒れている。今にも餓死しようとしていた。

日蓮が思わず眉をひそめる。

女の泣き声がどこからか、風にのって聞こえてきた。その哀調は悲しむようであり、恨むようであった。ただごとではない響きだ。

声の聞こえる方を向くと、一町ほど先に朽ちかけた百姓の母屋がぽつんとある

日蓮は誘われたようにこの家をたずねた。

玄関の戸を開け、中をのぞき込むと母親らしき女泣きくずれていた。そばには幼子が伏せている。
 日蓮がかけよった。

「いかがいたした」

女は日蓮の法衣を見て手をあわせた。何日食べていないのか痩せこけてげっそりとしていた

「お坊様、いま子供が亡くなりました」

「なんと不憫な。この子はなんと申す」

「まだ名前はつけておりません」

日蓮は子供のそばにひざまずくと合掌し「南無妙法蓮華経」と数回唱え、子供の死を弔った

日蓮は女にたずねた。

「父親はどうなされた」

「私を捨てて出ていきました。この飢饉で食べるものが尽きて、もうここには住めないと。わたしは子供をおいていくわけにもいかず、残っておりました」

「それはひどい」

「その上、はやり病がおきて、村の者はだれもいなくなりました」

日蓮が籠からにぎり飯をさしだす。

あ、これを食べて元気を出し、この子が来世に仏国土に生まれるよう南無妙法蓮華経と唱えるのです

 母親は泣きじゃくりながら子供の口元に握り飯を置き、日蓮の姿が見えなくなるまで南無妙法蓮華経と唱え続けた。


日蓮はさらに暗い殺伐とした空の下を行く。

歩み続けていくと、やがて異様なにおいがしてきた。いまだ体験したことのない臭気だった。

見ると、村のはずれで人々がすわりこみ、生き物を焼いているようだった。

そのまわりで女子供や年寄りが泣いていた。

近よって焼き場を見ると、なんとそれは何人もの死体であった。

「どういたした」

 うずくまった翁の返事が力ない。

「はやり病でございます。この一帯は疫病が充満しておりますだで。死人はすぐ焼けとの守護代様のご命令でこれで数え切れぬほどの・・」

老人がはずれの小屋を指さした。

日蓮は小屋の中に骸骨が充満しているのを見て愕然とした。

後ずさりし、ひざをくずす。

「なんということだ」

百姓がつぶやいた。

「作物はとれず、疫病が蔓延しておる。この村は全滅です」

この時、大地がたてにゆれた。そして強い横ゆれがおきた。かなり大きな地震だ。焼き場の山がくずれ、火の粉が飛びかった。

女子供が日蓮にしがみついた。

村人たちが絶叫し逃げまどう。

日蓮が揺れに負けまいと仁王立ちになった。

鎌倉に帰っても状況は変わらなかった。切通しの両側には無数の乞食がひざをかかえ、延々とならんでいた。みなぐったりとして動かない。

食を乞う声がひびく。

「お恵みを、お恵みを・・」 

日蓮が厳しい眼差しで周囲を見わたした。助けようとしてもなすすべがなかった。

田園地帯には二つの太陽があらわれたという。

百姓は枯れはてた田畑で太陽を指さしなげく。

祈祷師は太陽にむかって手を合わせた。

 

鎌倉時代は武士が台頭した下克上が特徴とされるが、同時に大災害が頻発した時代でもあった。

 例えば日蓮が立正安国論をした建長五年から翌年の建長六年にかけて、建長五年六月十日鎌倉大地震、建長六年一月十日鎌倉大火、五月九日大風により幕府政所(まんどころ)の文書散失、五月十一日京都大地震、七月一日鎌倉大風雨と、立て続けに災難が発生している。

日蓮はこの災難を複数の書にくりかえし記している。

旅客()たりて(なげ)いて(いわ)く、近年より近日に至るまで、天変・地夭(ちよう)飢饉(ききん)疫癘(えきれい)(あまね)く天下に満ち、広く地上に(はびこ)る。牛馬(ちまた)(たお)れ、(がい)(こつ)道に()てり、死を招くの(ともがら)既に大半に超え、之を悲しまざるの(やか)(らあ)えて一人(いちにん)も無し。


(いよいよ)飢疫に(せま)り、乞客(こつかく)()(あふ)れ死人(まなこ)に満てり。()せる(しかばね)(ものみ)と為し、並べる(かばね)を橋と()す。『立正安国論


今此の国土に種種の災難起こることを見聞するに所謂(いわゆる)建長八年八月自り正元二年二月に至るまで、大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病等種種の災難連連として今に絶えず、大体国土の人数尽くべきに似たり。之に依って種種の祈請を致す人之多しと雖も其の験無きか。  『災難対治抄


而るに当世は随分国土の安穏を祈ると(いえど)も、去ぬる正嘉(しょうか)元年には大地大いに動じ、同二年に大雨大風(みょう)(じつ)を失へり。定めて国を(ほろぼ)すの悪法此の国に有るかと(かんが)ふるなり。 守護国家論

死骸は物見台となり、橋となっているという。この悲惨な様子は誇張ではない。

日蓮が生まれる四十年前、鴨長(かものちょう)(めい)は「方丈記」で京都の飢饉の様子を記録している。この具体的な記述は現代のわれわれを震撼させる。


 また養和のころとか、久しくなりて覚えず、二年があひだ、世の中飢渇(けかち)して、あさましき事(はべ)りき。或は春・夏ひでり、或は秋、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるい()なみありて、秋刈り冬収むるぞめきはなし。

これによりて、国々の民、或は地を棄てて境を出で、或は家を忘れて山に住む。さまざまの御(いのり)はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、みなもとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて(のぼ)るものなければ、さのみやは(みさお)もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま()ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、(うれ)へ悲しむ声耳に満てり。 「方丈記 養和の飢饉()」より。


このあと長明は大地震の様子をえんえんと述べる。天変地異が人々を絶望させた。

日蓮が北条時頼(最明寺入道)に立正安国論を献上したのは、正嘉年間におきた大地震がきっかけだった。

朝廷や幕府はこの災害に無策だったわけではない。祈祷や秘法がさかんに行われたが効果はあがらない。

さらに元号の改変を行ったがこれも効き目はなかった。

現代の日本は天皇が崩御すると改元する。

だがこの時代はちがった。

天変地異、疫病、凶作がきっかけで、なんども変更された。為政者も必死の思いで災難からぬけだそうとしていたのだ。

ちなみに日蓮は貞応元年に生まれ、六十一歳で亡くなったが、この間、二十二回にわたり年号が変わっている。

元仁、嘉禄、安貞、寛喜、貞永、天福、文暦、嘉禎、暦仁、延応、仁冶、寛元、宝治、建長、康元、正嘉、正元、文応、弘長、文永、建治、弘安である。おぼえきれるものではない。

わずか六十一年でこれだけの年号が変わっている。

この二十二の元号の中で一番長く続いたのは文永年間だったが、それでも十一年で改元された。

なお、日本の歴史上もっとも長く続いた年号は昭和で、六十三年続いた。


元号の読み名には、なんとしても世を安穏にしたいという為政者の願望がうかがわれる。

こうして人々は、末法という言葉の重みをひしひしと感じていたのである。 

若宮大路のむこうに八幡宮が見える。

 鎌倉幕府の政務・財務をつかさどる政所(まんどころ)では会議が始まっていた。

北条時頼、時輔・時宗の兄弟、時頼の叔父の北条重時、安達泰盛がいならぶ。下座には陰陽(おんよう)()が控えていた。

時頼はいらだって徘徊した。

「この国は天変・地震・飢謹・疫病に取りつかれている。いったい、どうなっておるのだ。神、仏から見捨てられたのか」

北条重時が各地の御家人から届いた書状を見ながらつぶやいた。

「関東で餓死者一万人。疫病に倒れた者二万。さらに二つの太陽があらわれ、黒白の虹がでたとのことです」

時頼の怒りは、やり場がない。

「これ以上悪いことはないといっていいほどだ。われら北条が天下をおさめて以来の危機である。地方に逆族の反乱がおこっても不思議ではないぞ」

 重時が憮然として答えた。

「今は祈ることしかできないのが現状でござろう」

「ならば京・鎌倉の寺社の祈祷はどうなっておる」

「本年一月には六斎日・二季彼岸()の殺生禁止をすでに命じており、六月には諸国の寺社に(しつ)(えき)退治の祈祷を命じております」

「それがなぜ通じない。かえって災難を増長させておるではないか。陰陽師、どうなっておるのだ。なにか良くなる策はないのか」

 陰陽師六壬式盤(りくじんちょくばん)(注)に目をやり、答える

「恐れ入りまする。今はただ、この国土に魔が入り、鬼がはびこっているとしかいいようがございませぬ」

 これを聞いていた時頼が言い放った。

陰陽師にも策がないなら、わしが決断するだけだ。米倉を開き、乞食にほどこせ。各地の薬草を取り集めよ。商人どもを使え。全国のすべての寺社に祈祷をつづけさせよ」

鎌倉の蓮花寺に聴衆がつめかけていた。念仏宗の大寺院である。

人々はこの苦しい世を乗りこえるには念仏にすがるしかないと参詣した。

聴衆の中に薄墨の法衣と袈裟をまとった日蓮がいる。

やがて黒衣の僧侶、然阿が説法をはじめた。

然阿は正式の名を然阿良忠という。石見(島根県)の出身。十六才で出家。円信・信蓮に従って倶舎、天台を学び、密蔵・源朝に従って密教を修行した。その後、弁阿聖光の立義を聞いて築後へ行き、その弟子となる。仁治元年(一二四○年)北条経時の要請で鎌倉に蓮花寺(のちの光明寺)を開き、授戒している。また後嵯峨天皇に円頓戒を授けて香衣を給わったという。鎌倉を代表する念仏僧である。       
 その然阿が静かに語りだす。

「この世は苦しみで満ちている。この苦しみから逃れるには、南無阿弥陀仏と唱えるしかない。ほかの教えは捨てるのです。われわれ凡夫に叶う教えは南無阿弥陀仏しかない。ほかの教えは理想が高すぎる。われわれは法華経も華厳経もわからない。これらを捨て去って南無阿弥陀仏とだけ唱えておれば往生できるのです」

ここで日蓮が声をあげた。

「すばらしい。まことにすばらしい」

然阿がほほえんで会釈した。日蓮はその笑顔をとらえた。

「成仏の教えは南無阿弥陀仏しかないとか、法華経などの教典を捨てよとは大胆ですな。その教えはだれがどこで説いたのですかな」

「お若い方。よくぞ聞かれました。阿弥陀経でございます」

日蓮は腕をくんで感心した。

「不思議ですな。阿弥陀経とは釈迦の説法のうちでも(ごん)大乗経といって法華経、涅槃(ねはん)経等の(じつ)大乗経と比べ一段程度の低い教えです。それを根拠に成仏は南無阿弥陀仏と唱えるしかないとか、ほかの経をすべて捨てるというのは仏教の開祖釈尊を(さげす)むことになるのではないかな。そもそも阿弥陀経に、他の経はてすべて捨てよと説かれておられるのかな

念阿が一瞬、気色ばんだ。

「いやいや、それはちがう。法然上人が申されておる。われらはそれに従うまで」

「惜しいかな。せっかく叡山で修業したにもかかわらず、法然上人は低い教えに執着し釈迦の仏法をまげてしまった。無間(むけん)地獄にひとしい罪である。それを教える者も、人々を地獄に引き入れる悪人でありましょう」

然阿が興奮しだした。

「そなたはだれだ。名をなのれ」

日蓮は聴衆にむかっていった。

「みなさん、わたしは松葉ヶ谷に住む日蓮と申す僧でございます。今の話をくわしく聞きたければ、いつでもわたしのところへおこしくだされ」

満座の怒号の中、然阿の弟子が日蓮を堂内から追い出す。

 日蓮は堂々と去っていった。

日蓮は法華経を弘めるかたわら、他宗の寺におもむき、さかんに法論をしかけていった。

 その甲斐があり、松葉ヶ谷の日蓮の草庵にはしだいに大勢の聴衆がつめかけるようになっていった。

日蓮が草庵を訪れた人々に力強く話す。

「教主釈尊は説法をはじめて四十余年の後、未だ真実を顕していないとして法華経を説かれました。したがって法華経以前に説かれた阿弥陀経は、法華経で説かれた最高の悟りは含まれない方便の教えであり、法華経こそ八万法蔵といわれる一切経の王であり釈尊の究極の教えであります。それ故、法華経の題号である妙法蓮華経と唱えなければ末法の衆生が成仏することは叶いません。

法然上人はこの法華経を「捨閉(しゃへい)閣抛(かくほう)」つまり、捨て、閉じ、(さしお)き、(なげう)って念仏を唱えよと言います。それ故、釈尊の最高の教えを誹謗(ひぼう)する法然上人の南無阿弥陀仏を唱えれば、無間地獄に陥るのは必定(ひつじょう)なのです」

 念仏の僧侶たちは日蓮にかなわなかった。

日蓮は経文を先として念仏の邪義を攻めたので念仏者は反抗できなかったのである。

 昔から法然の念仏を批判した者は多かった。念仏禁止の宣旨もでた。比叡山もかつては念仏を弾圧したが、勢いは止まらず法然の教えは広まった。それを日蓮は食いとめはじめた。

日蓮はその理由を次のように語っている。

  (とし)三十二建長五年の春の(ころ)より念仏宗と禅宗とをせめはじめて、後に真言宗等をせむるほどに、念仏者等始めにはあなづる。日蓮いかにかしこくとも明円(みょうえん)房・(こう)(いん)僧上(注)・顕真座主(ざす)(注)()()()()()()等にはすぐべからず。彼の人々だにも始めは法然上人をなん()ぜしが、後にみな堕ちて(あるい)は上人の弟子となり、或は門家(もんけ)となる。日蓮は彼がごとし。(われ)()めん、我つめんとはやりし程に、いにしへの人々は但法然をなんじて、善導(ぜんどう(注)道綽(どうしゃく)等をせめず。又経の権実をいわざりしかばこそ、念仏者はをご()りけれ。今日蓮は()()・法然等をば無間地獄(注)()につきをとして、(もっぱ)ら浄土の三部経を法華経にをしあ(推合)はせてせむるゆへに、(ほたる)()に日月、江河に大海のやうなる上、念仏は仏のしばらくの戯論(けろん)の法、実にこれをもって生死をはなれんとをも()わば、大石を船に造りて大海をわたり、大山を()なて険難を越ゆるがごとしと難ぜしかば、(おもて)()かうる念仏者なし。   『破良観等御書

明円、公胤、顕真はいずれも念仏に帰伏した僧である。なかでも顕真は天台座主でありながら念仏にひかれて宗旨替えをした。

念仏者たちは日蓮も同じだと思っていた。師の法然を責めても勝つわけがないと。

 だが日蓮の手法はちがう。

法華経を至高とし、念仏者がすがる浄土三部経を戯論(けろん)くだし、法然の師である中国の善導までふくめて無間(むけん)と破折した。釈尊の一切経および梵・漢の主要な論・釈を把握した上で諸宗派の僧を攻めていったのである。

日蓮は十六の年で得度し、三十二で立宗するまで、またそれ以降も内外の典籍を研鑽し続けていた。当然ながら善導の書も読みこんでいる。この日蓮の研鑽の成果は正安国論を始め、生涯書きのこした五百以上に及ぶ著作(御書)に次第に明らかにされていくことになる。

日が傾いていた。

馬上の武士、四条金吾が鎌倉の街を悠然と進んでいた。

従者が馬の口をとる。

金吾が自邸の門をくぐり、大声で呼んだ。

「いま帰ったぞ」

妻の日眼女がでてきた。

「お帰りなさいませ」

「子の様子はどうじゃ」

二人が家の奥に入っていく。

部屋の戸を開けると幼子が布団に寝ている。

金吾が寝顔をのぞきこんだ。

いかつい金吾が慈愛にあふれた表情をみせた。

妻の日眼女がつぶやくように言った。

「少し良くなったようですが」

「もう少し様子を見た方がよいか。一進一退だのう」

「申しわけありません。私がいたらぬばかりに」

「おぬしのせいではない。世間でも、はやり病がまん延しておる。いくら防いでもこればかりはどうにもならぬ」

金吾の部屋には小さな土びんがずらりとならんでいた。

金吾は薬草に長じていた。今でいう薬剤師であり、医師でもあった。主君の病を治した実績がある。

彼は小さじで薬を盛りながら調合し、皿に盛った。そして日眼女に薬をわたした。

「明日の朝、これを娘に」

日眼女がうなずいた。

 四条金吾は北条光時(名越光時とも)に仕える幕府御家人である。光時の父は名君北条泰時の弟朝時だった。北条の直系ではない。だが北条と名のるだけでも人々に重きを置かれた。

四条金吾も二代続いた光時の家来として鎌倉で名を知られていたが、とりわけ有名だったのは、その性きわめて強情短気だったことである。

居間の中央に大きな囲炉裏がある。

下女が夕飯の支度をはじめた。

金吾が飯をとった。

日眼女がその横で機嫌をとる。

「いかがでございました。今日は」

金吾はぶっきらぼうに答える。

「なにもない。単調な宮仕えだ。光時様も北条の分家とはいえ、お元気であらせられる。今のところは安泰であろう」

「今のところは・・」

「執権時頼様が引退されたあとはどうなるかわからぬ。いまや本家に権力が集中しておる。これからは、われら分家の家臣はいつどうなるかわからぬ」

「まさかいくさでも」

「わしも武士のはしくれ。その時は覚悟せねばならぬ」

日眼女がしんみりとしたが、気を取り直して酒をとり、金吾の杯にそそいだ。

「さあさあ、心配事はよそにおいて」

日眼女がにこやかに金吾を見つめた。

「あのお坊様のお話をまたしてください」

金吾は露骨にいやな顔をした。

「もうしとうはない」

 日眼女はかまわず話を続ける。

「あの日はたいそう怒ってましたわね。お坊様に・・」

「日蓮という僧侶はわしの暴言にも、たじろがなかった。骨のある僧かもしれぬ」

「あなたの話を聞いていると、まるであなたを僧侶にしたようなお方ですわね」

金吾は思い出していた。

日蓮の言葉が耳にのこっている。

「男ははじ()に命をすて、女は男の為に命を()つ」

いっぽう、日蓮の信徒となった富木常忍は鎌倉の千葉邸に勤めていた。富木は日蓮より六歳年上である。それだけに分別にも長けた人物だった。

富木の主君千葉氏は全国に所領をもっていた。下総をはじめとして畿内、九州にまで領地があった。常忍は千葉氏の披官として訴訟の取扱、年貢の徴収、輸送、財政の管理など多忙であった。

富木の父はもともと因幡(鳥取)の出である。因幡国の富城郡に本領があった。父が千葉家に仕えたため、子の常忍も関東入りして出仕することになった。

富木親子は有能な官僚だった。承久の戦乱はとうに終わり、治世の安定が急務の時である。千葉氏のような実力者は才能ある文官を求めていたのである。

その千葉邸では事務官が机を並べ、書き物をしていた。そのあわただしさは現代の会社とかわらない。広間には馬や荷車が忙しく出入りしていた。

事務室では富木常忍が机で文書を(したた)めている。その横で同僚が書類に目を通していた。彼は届いたばかりの下し文を読んでいた。苦い顔である。

「また鎌倉殿から作事の下命じゃ」

 みなが「またか」とばかりに顔を見合せる。

「おいおい、千葉家が守護とはいえ、財政は逼迫しておる。なんとかことわる手はないのか。どこだ、作事は」

「京都、蓮華王院」

「それはまた、たいそう金のかかること」

常忍が思案する。

「まず殿の上洛の算段をせねばならぬ。少なく見積もって二百貫」

同僚がなげいた。

「ないぞ、ないぞ、そんな金は下総にも、鎌倉にも」

三人が腕を組んだ。

常忍が口をひらく。

「では九州の年貢から調達するのはどうだ」

同僚が手を打った。

「そうであった。金は商人から借り入れし、決済は九州で取り立てさせよう」

地方の財政難は今に始まったものではない。中世人も苦労していた。彼らは()(しゃく)という商人や運送業者を駆使して幕府の指示をこなしていたのである。年貢の収穫が遠隔地であれば馬借が取り立てる。為替の一種だった。

同僚がぼやいた。

「しかし物入りだのう。わが殿は京都の大番役を務めたばかりではないか。つぎからつぎへと責められるな。鎌倉殿は人使いが荒すぎるぞ」

常忍がたしなめた。

「これこれ。滅多なことを申すでない。殿が安泰でいられるのも鎌倉殿のおかげではないか。われわれは殿のために、あらゆる手段で策を講じなければ」

 同僚たちが一同に笑った。

富木殿、お説ごもっともです。我ら一同しかと承りました。法華宗(ごう)信徒の富木殿にはかないません

富木の法華信仰は有名である。みな苦笑しながら仕事にもどった。

彼らは文書を整理し、使い古しの紙は捨てていた。この紙を常忍がひろいあつめた。

同僚が怪訝(けげん)な顔をした。使用済の紙など、なんに使うのか。

松葉ヶ谷の草庵に夕日がさしていた。

日蓮が筆をとる。

常忍から届けられた使い古しの紙に筆を入れている。表は書き込まれていたが、裏面はまだ使える。この紙は常忍たち千葉家の役人が使っていたものである。

当時、紙は貴重だった。()き返しといって再利用していたほどである。

常忍は雑紙の束をとどけ、日蓮と弟子たちはこの雑紙の裏に仏典や天台教学を書き写し、研鑽していたのである。余談だが、このおかげで表面に書かれていた千葉家の文書が現代まで伝わり、鎌倉時代を知る貴重な紙背資料となっている。


                8 日蓮を生涯支えた弟子、信徒の誕生につづく
上巻目次


 注

六斎日・二季彼岸

仏教用語で、毎月八・十四・十五・二十三・二十九・三十日を「六斎日」、春秋二季にある彼岸の期間を「二季彼岸」と称し、持戒清浄で過ごす日とされていた。

六壬式盤

陰陽(おんみょう)()が使用した占いの道具。文字・図が記された四角い盤の上に、邦楽等が記された円盤上の物が乗っている。

公胤僧上

 平安末期から鎌倉前期にかけての天台宗の僧。源氏将軍の威光をうけ、しばしば鎌倉へ下向した。北条政子の依頼により源頼家の遺児である公暁を弟子としてあずかっている。一方で後鳥羽上皇の信任も厚かった。法然が選択集をあらわしたとき「浄土決疑抄」を執筆して非難したが、のちに法然に会って法門を聞くにおよんで帰依したという。

顕真

大治五年(一一三○)~建久三年(一一九ニ)比叡山延暦寺第六十一代座主。美作守藤原顕能の子。比叡山に登って顕教を座主の明雲に学び、密灌(みつかん)(密教の秘密灌頂という儀式)を法印相実から受ける。後に法然の専修念仏の義を信じ、余行を捨てて専ら念仏三昧にふけった。文治六年(一一九○)三月に天台座主となり、建久元年(一一九○)五月、権僧正となったが、同三年十一月没す。

善導

大業九年(六一三)~永隆二年(六八一)。中国浄土教善道流の祖。姓は朱氏。臨淄(山東省)、または泗州(安徽省)の生まれといわれる。道綽(五六二~六四五)のもとで観無量寿経を学び、念仏を行じた。師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。最後はこの世が苦しみに満ちているとして極楽往生を願い、柳の木から身を投げて死去した。

「此の身諸苦に逼迫せられて情偽反易し、暫くも休息すること無し。乃ち所居の寺の前の柳樹に登りて、西に向かって願って云はく、仏の威神(しばしば)以て我を摂し、観音勢至も亦来たって我を助けたまへ。此の心をして正念を失はざらしめ恐怖を起こさず。弥陀の法の中に於て以て退堕を生ぜざらんと。願し(おわ)って其の樹の上に極まり身を投じて自ら絶えぬ」(類聚伝)

無間地獄

 八大地獄(八熱地獄ともいう)の一つ。大阿鼻地獄ともいう。間断なく大苦を受けるのでこの名がある。欲界の最底部にあり、縦横八万由旬で周囲に七重の鉄の城があるという。五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・(すい)(ぶつ)(しん)(けつ)・破和合僧)の一つを犯す者と、正法誹謗の者はこの地獄に堕ちるとされる。

「法華経二の巻に云はく『其の人(みょう)(じゅう)して阿鼻獄(あびごく)に入らん』云云。阿鼻地獄と申すは天竺の言、唐土日本には無間と申す。無間はひまなしとかけり。一百三十六の地獄の中に一百三十五はひま候。十二時の中にあつけれども、又すゞしき事もあり。()へがたけれども、又ゆるくなる時もあり。此の無間地獄と申すは十二時に一時(ひととき)かた時も大苦ならざる事はなし。故に無間地獄と申す。此の地獄は此の我等が居て候大地の底、二万()(じゅん)をすぎて最下(さいげ)の処なり」 『光日上人御返事



by johsei1129 | 2014-09-09 13:08 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)