日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:小説 日蓮の生涯 上( 39 )


2017年 03月 16日

14 国家諌暁と松葉ケ谷の法難


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                        (日蓮大聖人御一代記より)

 文応元年八月、鎌倉八慢宮では大祭が行われていた。

能楽「太平楽」が催されている。

鎌倉幕府の征夷大将軍以下貴族・殿上人・武士の面々が着飾っている。この将軍は京都からきていたが飾りものだった。将軍の格は執権より上だが政治力はまったくない。

北条幕府は京都から源頼朝の血をひく幼児を将軍として鎌倉にまねき、物心がつくと、ていよく京都に帰すのをくりかえした。征夷大将軍とは名ばかりで、まさに幕府の傀儡であった。

いっぽう同じ鎌倉の時頼の館はいつものとおり大勢の武士で警護されていた。

時頼が一室で畳にすわっている。彼は三十三になっていた。

目の前には机と書がならべてあり、係の者がつぎつぎと書類を運んでくる。

時頼が額にしわを寄せて紙面を見ている。

横に時輔、時宗の兄弟がいる。まだ幼さがのこっていた。時輔は十一歳、時宗は九歳になった。さらに安達泰盛、宿屋入道、北条重時がいる。幕府の中枢がここにあった。

時頼がしばらく書類を見ていたが突然ほうりなげた。

「ええい、面倒だわ。こんな紙切れになんで目をとおさねばならぬ。この仕事は長時がすべきもの。いまは長時が執権なのだ。わしは隠居の身ではなかったか」

三十歳の泰盛がなだめた。泰盛は安達義景の三男。三浦氏討伐に大功があり、外様御家人の筆頭である。

「殿は北条の宗家代表でござる。細かい事務は長時殿の仕事ですが、重大なことは殿でなければ」

時頼が吐きすてる。

「地震で倒れた御所の普請をどうするか。京都や鎌倉の大番役を誰にするか。ほかに興味を引くようなものはないのか、まったく。外は祭だ。放生会(ほうじょうえ)(注)の真っ最中というのに」

側近の宿屋入道が進みでた。

「殿、ここにかわったものがございますが」

時頼がものうげに答える。

「なんだ、申せ」

宿屋入道が経巻をさしだした。表面に「立正安国論」とある。

「鎌倉の僧侶、日蓮という者が幕府に(かん)(ぎょう)いたしております」

時頼が横をむいた。

「わかっておるわ。わが北条の安泰を祈るため寺を建てていただきたい。それについては金子がいる。時と場所を選んでいただきたい。いい加減、聞きあきたわ」

「いえ、そうではありませぬ。ここ数年の日本国の転変、飢饉などの災害を防ぐ方法があると申しております」

一同が宿屋をにらんだ。
 災害にたいしては手をつくしている。これ以上なにをしろというのか。

時頼が代弁した。

「ほう、それはなんじゃ。普請や作事をふやせとか、年貢をもっと高めよというのじゃな。それはもうやりつくした。人知は尽くしておるわ」

「いえそれが・・解決の道はほかにあると」

「ほう、にわかには信じられぬな。その道とはいったいなんなのだ」

「日蓮は仏法に問題があると申しております」

北条重時が口をはさんだ。彼はこの時六十三歳。分別ざかりであるはずの重時がいきどおった。

「ばかな。この日本国に神社仏閣は軒をならべておる。仏法に災害の原因があるだと。どこにあるというのだ」

 宿屋があらたまった。

「諸悪の根元が、念仏宗にあるといっております」

一同がおどろいた。極楽寺を支援する重時が息まく。

「なんと。なにかのまちがいではないか。念仏はわしも国中のものも信仰しておる。それが悪の根元だと。宿屋、その坊主を引っ捕らえてくわしく吟味せい」

時頼が重時を制止した。

「叔父上、しばらく。宿屋、それでなにをせよというのだ。念仏の僧侶を罰せよとでもいうのか」

 宿屋が慎重にこたえる。

「いいえ。罰するのではなく布施を止めよと申しております」

重時が激高した。

「馬鹿な。念仏の寺に布施をするのは誰でもしていることだ。まったくの暴論だ」

時頼が興味を失った。

「すておけ。この世には変わった者もおる。わが幕府を倒そうという輩さえこの鎌倉にはびこっておるのだ。いちいち気にしては、まつりごとに支障がおきる。まして世に知られぬ卑しい僧であろう」

平伏した宿屋が顔をあげた。

「ただ気になることが・・日蓮という僧侶、もしこの警告を受け入れなければ、さらに大きな災難がおこると申しておりまする」

「さらなる災難。なんだそれは」
「自界叛逆の難、他国侵逼の難と申しております」

()()( )

時頼はいらいらした。

「宿屋、わかりやすく申せ」

宿屋が緊張してこたえる。

「自界叛逆難とは内乱のこと、他国侵逼難とは他国からの侵略を意味します」

「なに」

一同がざわめいた。

日蓮が入信したばかりの伯耆房とともに駿河の岩本実相寺から帰ってきた。松葉ヶ谷の草庵では弟子たちが集まっていた。日朗、鏡忍房、三位房らの弟子、四条金吾、土木常忍ら檀越もきていた。少年の熊王もいる。

みな久しぶりに見る日蓮の姿がまぶしく声を掛けることができない。

それを察した日蓮がまず声をかけた。

「長い間留守にしていました。心配をかけて申しわけなかった。あの地震がきっかけで、鎌倉殿にどうしても知らせなければならないことがあり、立正安国論の述作に時間を要してしまいましたが、ようやく書き上げることができました。これからはみなさんのそばを片時もはなれることはありませんぞ」

日朗が不安げにきいた。

「上人、町では上人の書のことでうわさが飛びかっております」

年長の日昭もおちつきがない。

「念仏者どもの間でよからぬうわさが」

鏡忍房が前にでた。

「上人が幕府によばれて土牢に閉じこめ、島流しになると」

日蓮はみなの心配をよそに笑顔である。

「仏が生きておられる時でさえ迫害があった。法華経の経文のとおりである。いわんや末法の今、われらに災難がふりかからぬわけがない。今こそ強盛の信心を奮いおこす時です」

若い弟子たちが目を輝かす。だがこの中で唯ひとり、三位房が疑いの眼差しむけた。

日蓮はここで伯耆房を見かけてほほえんだ。

「みなさん、よろこんでください。このたび弟子が一人できた。伯耆房、前へ」

伯耆房がすすみでて床に手をおいた。

「岩本実相寺の伯耆房と申します。このたび縁あって上人の弟子となりました。よろしくお願いいたします」

日蓮は伯耆房を見つめた。

「伯耆房、今日よりそなたの法名を日興と名づける。我が一門の弟子は所化の小僧以外、みな法名に日文字をつける。将来日蓮亡き後、もし日文字の法名を名のならければ自然の法罰を受けると心得よ。よいな」

「はい」

伯耆房の顔は日蓮門下に連なった喜びに満ちていた

日蓮がまわりを見わたす。

「みなさん、いまやわれらは鎌倉のみにとどまるときではない。これからは天皇・公家がいる京にも布教の手をのばそうと思う。ついては三位房」

三位房が目を輝かせた。

「そなたは京にいき、公家にこの法門を説いて聞かせよ。耳慣れぬ話であるから苦労は多いだろうが、妙法の種をまいていくのだ。これを持参せよ」

日蓮が三位房に銅銭をあたえた。銅銭はいまの五円と同じで中央に穴があり、ひもを通して千枚を束ねたのを一貫文といった。当時の貨幣はすべて中国からの輸入である。日本製もあったが品質が悪く、だれも見むきしなかった。

「いままでの供養をあつめ、たくわえておいた銭です、大事に使ってくだされ。今年は日照り続きで作物が実らぬ。道中くれぐれも気をつけてゆきなされ」

三位房は日蓮から京の布教を指名され、優越感に満ちていた

「かならず法華経の教えを伝えてまいります」


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 月光が日蓮の小庵を照らしていた。
 弟子たちが寝静まっている。

日蓮はひとまず為政者への諫暁をなしとげた達成感で心地よい眠りについていた。

立正安国論の反響はまだなかった。北条時頼は自分の書を読んだろうか。知らせはない。

日蓮は寝床で思う。

時頼が名君であったなら、かならず一言はあるだろう。おろかであれば迫害をもって答えるにちがいない。

賢王の世には道理かつべし。愚主の世に非道先をすべし。聖人の世には法華経の実義顕はるべし等と心うべし。 開目抄

はたして日蓮は北条時頼に会えたのであろうか。日蓮が文永六年に残した『故最明寺入道見参御書』には「(禅宗は)寺々を挙げて、日本国中の旧寺(延暦寺などの法華経寺院)御帰依を捨てしめんが為に、天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時、之を申す」と記され、さらに文永七年十二月に認めた『法門申さるべき様の事』にも「故最明寺入道に向つて、禅宗は天魔のそいなるべしのちに勘文もつてこれをつげしらしむ」と記している。

立正安国論では「律、念仏、禅、真言」の四宗の中でも、庶民に蔓延していた念仏に対し特に批判を強めて書いていたが、武士の間で禅宗がもっぱら信じられていた。そのため武士の棟梁たる時頼に直参した際、あえて禅宗に対する批判を直言したものと思われる。

なお日蓮を時頼に引き合わせるために尽力したのは寺社奉行として立正安国論を日蓮から時頼に取り次いだ宿屋光則と、立宗早々に日蓮に帰依し、幕府儒官だった大学三郎と思われる。日蓮は故最明寺入道に立正安国論を献上する際事前大学三郎に見せていたとも伝えられている。また宿屋光則は立正安国論献上が奇縁となり日蓮に帰依することとなった。

いずれにしろ日蓮は法華経の行者として責任をはたし、国家諌暁を成し遂げた満足感は深かった。

謗法(ほうぼう)を知りながら時の権力者に知らせない者は、悪人とともに無間の獄に堕ちるという。

 しかし国家諌暁の結果は「愚主の世に非道先をすべし」となった

 また鎌倉の民衆も後に日蓮が「中興入道御消息」で次のように記されたようになっていく。


はじめは日蓮只一人唱へ候しほどに、見る人、()う人、聞く人耳をふさぎ、眼をいからかし、口をひそめ、手をにぎり、()をかみ、父母・兄弟・師匠・善友もかたきとなる。後には所の地頭・領家かたきとなる。後には一国さはぎ、後には万民をどろくほどに


静かな夜だった。立正安国論を献上して一カ月ほど過ぎた文応元(一二六〇)年八月二十七日のことである。
 外では黒衣の念仏僧を先頭にして百人ほどの群衆が音もなく集まり、松葉ケ谷の草庵をとりかこんでいた。

暗闇の中、たいまつに顔を照らされ眼だけがぎらぎらと光っている。やがて彼らは手に持ったたいまつをかかげ、日蓮の草庵に火を放った。

たちまちパチパチと音がして火の手が上がる。立正安国論の反動は最悪の結果であらわれた

日蓮が群衆が騒ぐ音で目を覚ますと、寝室が灰色の煙に包まれていた。

「みなの者、おきよ、火事だ」

弟子たちがあわてて立ちあがり、外に出ようとしたが、群衆が立ちふさがっているのに驚愕した。

群衆が一様にわめいている。

「念仏の敵だ。殺せ、殺してしまえ」

弟子たちは群衆に分け入り、必死に日蓮の退路を確保しようとしていた

日蓮がまわりを煙に囲まれ迷った。

この時、伯耆房が日蓮の手を引いた。

「上人、こちらです」

伯耆房が裏口へむかう。弟子たちがつづいた。


 念仏者の群衆が燃え盛る炎に歓声をあげた。家屋が炎につつまれ焼けくずれる。

覆面をした二人の武士が念仏者の背後に立っていた。

ここに町役人がかけつけた。

「何事だ。鎌倉で火付けは重罪中の重罪だ。引っ捕らえるぞ。みなの者、神妙にせよ」

草庵を取り囲んでいた群衆は、文字通り火の粉を散らすようにあわてふためいて逃げだした。

火の勢いがおちつくと火消し衆が日蓮の草庵の打ちこわしにとりかかった。

その様子を覆面の武士二人が遠巻きにこの様子をじっと見ている。北条重時、長時の親子だった。

長時はいま執権の職にいる。父の重時は極楽寺良観の大檀那で極楽寺殿といわれていた。重時にとって日蓮は念仏の敵であり、良観の敵であった。

日蓮は後日、池上兄弟の弟、兵衛(ひょうえの)(さかん)(宗長)に宛てた消息で次のように北条重時を評している。


極楽寺殿は、いみじかりし人ぞかし。念仏者等にたぼらかされて日蓮をあだませ給しかば、我が身といい、其の一門皆ほろびさせ給う。    『兵衛志殿御返事


群衆の声がひびいた。

「日蓮が逃げたぞ」

念仏者が日蓮を追う。
 黒衣の僧が先導し、
薙刀(なぎなた)をもって追いかける。暗闇にたいまつの火が走った。

走る日蓮らの目の前に一人の武士が立っていた。暗がりの中から現れたのは四条金吾だった。

日蓮は安堵した。

「おお金吾殿」

「上人、こちらへ」

金吾が谷へおりる狭い道へ案内した。

「かたじけない」

そこへ群衆が殺到した。

金吾がさえぎって両手を広げる。

「とまれ」

群衆は興奮しきっている。

「だれだおまえは。日蓮の仲間か」

 金吾が大声で叫ぶ。

「なにがあったかは知らぬが、わずか数人の者を大勢で取りこめようとはなにごとだ。そこにおるのはどこの坊主だ。殺生を禁ずる坊主がなにをしておる」

黒衣の僧がたじろいだが、壇越がかわりになじった。

「やかましい。われらは念仏の敵を退治しておる。ええい邪魔だ。どけ」

群衆がたいまつを金吾にむけるが、彼はすばやく刀を抜いた。たいまつは切断されて宙に浮き、火の粉が群衆らの頭にふりかかった。

群衆が悲鳴をあげる。金吾がそのすきを見て逃げ去った。

日蓮らの一行は山裾の小さな洞窟にひそんでいた。

けがをしている弟子がいる。

日蓮が声を潜めてはげました。

「けがはないか、体は大丈夫か。皆、よくぞ逃げおおせた」

日朗は顔が青ざめ、震えが止まらなかった。

伯耆房が駆けより、日朗の肩をだいた。

遠くで群衆の遠吠えがする。

ここでだれかの近づく足音がしてきた。

何者か。弟子たちが耳を澄ます。

日蓮は覚悟をきめた。三位房がうなだれる。

足音の主は敵ではなかった。富木常忍が月あかりの中で日蓮をさがし回っていたのである。

常忍が小声でささやく。

「上人、上人・・」

日蓮の目が輝いた。

「その声は富木殿」

洞窟の入口で日蓮は富木常忍と再会した。

常忍は日蓮の無事を確認し、ようやく安堵した。

「よくぞご無事で。さ、参りましょう」

「いずこへ」

「鎌倉にいては上人の身が危険です。ひとまず下総のわたしの屋敷へ避難しましょう」

日蓮がおもわず手をあわせた。

「かたじけない」

そこへ四条金吾も息を切らせてかけつけた。

日蓮は金吾に声をかける。

「よくぞあの炎の中を切りぬけられましたな。金吾殿、まことにあっぱれ」

常忍が四条金吾に告げる。

「金吾殿、上人はわれわれと共に鎌倉をはなれて、いっとき下総へ避難する」

「名案じゃ。鎌倉はわしにまかせよ。富木殿、上人をたのんだぞ。さ、早く」

一行が金吾をのこし、闇にまぎれて出発した。

日蓮がふりかえり、ふりかえり金吾を見た。金吾は両足で大地を踏みしめ、悠然と見送った。

その時、金吾は法華信徒の多難な行く末に思いをはせた。と同時に、心の師日蓮を一生涯、命をかけて守ることを胸中に刻んだ。

峠に朝日がさしてきた。

山中には蝉の声がかまびすしい。

常忍を先頭に日蓮の一行が汗だくになってすすむ。

鎌倉では日蓮は焼け死んだという噂が広まっていた。今のうちである。念仏者が無事を知れば今度こそあぶない。

一行は峠から鎌倉を見下ろした。

弟子たちが額にしたたり落ちる汗をぬぐう。

日蓮が鎌倉を背に下総へと去っていった。

下総につづく田舎道では強い日差しが一行を襲った。

田畑が枯れきっている。

百姓が鍬をいれるが、土はまるで砂のように手ごたえがない。

彼らは枯れた苗を見て頭をかかえた。

農園に旱魃が始まっていた。

日蓮の一行は周囲の人々を気にしながら道をゆく。追手がくるかもしれなかった。みな汗まみれの姿である。

弟子のひとり、大進房がうめいた。

「みず、水をくださらんか」

兄弟子の鏡忍房がさえぎった。

「水は貴重だ。がまんしろ」

彼らは黙々と歩いた。


鎌倉も炎天下だった。真夏の太陽が容赦なく照りつける。

街では汗まみれの女たちが井戸で水をくもうとするが、深くまで桶をおろしても水はわずかしか残っていない。

「この井戸も枯れたわ」

女たちが落胆した。

「ああここもおしまいかえ。雨がふってくれたらのう」

「なにもいいことはないのう。死人ばかりが増えよる」

「聞いたかえ。極楽寺の良観さまが雨乞いの祈りをなされるそうな」

「鎌倉さまのご命令とか。でもねえ、期待しないほうがええやろ。あの坊さまはいろんなことをやりよる。道をつくったり病人をなおしたり。でも雨を降らすのは・・」

「金もうけのほうも得意だそうな。あの肉づき。うまいものをたんと食うているらし」

一同が笑ったが、すぐにため息にかわった。

極楽寺の境内は町人や武士がひしめいていた。

ここでも太陽がぎらついている。群衆はすでに汗だくだった。

良観が登場し、境内中央に正座した。

祈祷の壇がしつらえ、台の上には阿弥陀像がおかれている。

そこに水を入れた黄金の椀がおかれた。

良観のうしろに黒衣の僧侶がいならぶ。彼らは庭に敷かれた板敷に正座した。

良観が手をあわせ仏像に祈る。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・」

僧侶もいっせいに唱和した。そして群衆も祈っていく。

良観が祈りの最中に椀の水を仏像にかけた。

このとき紺碧の空に入道雲がわきおこり、空が暗くなっていった。

そして突然の雷鳴がひびいた。

群衆がどっと歓声をあげる。

良観の裾に雨水が一滴おちた。

やがて鎌倉に静かな雨がふりそそいだ。

群衆が歓喜し、讃歎の声がこだましていった。

鎌倉極楽寺の邸内に高らかな笑い声が聞こえる。

美僧が酒をはこんだ。

そこには北条重時をはじめ、黒衣の僧が主の良観をかこんでいた。

重時は盃を手に、すこぶる機嫌がよい。

「さすが良観和尚。今日の祈りは天に通じたのであろう。将軍家も鎌倉殿もいたくお喜びでござるぞ」

良観はこともなげである。

「先ほど、八幡宮の別当が雨をふらす術を伝授ねがいたいとの申し出がございました」

「それにしてもみごとな。この重時にもお教えねがいたいものですな」

良観は謙遜する。

「いえ、私が仏法をわずかにものしておりますゆえ、天があわれみをかけたのでございましょう。このような立派な寺を建てていただいた重時様のお力でもあります」

「さすがは良観殿。あれほどの技をなしとげて、あくまで謙虚でござるな。鎌倉のほかの坊主どもに聞かせてやりたいものじゃ。とくにあの日蓮に見せてやりたかったのう」

「松葉が谷におりました僧ですな。わたしの信者がたいそう日蓮のもとに改宗しております」

「なんの因果か、あの火事で行方知れず。焼け死んだとのうわさじゃ。まあ自業自得というところか」

重時が笑いながらつづける。

「しかし傑作な僧でござった。念仏は地獄におちるとか、日本はこのままでいくと内乱と他国の責めをうけるとか。ありもしないことをいいおって。内乱はいざ知らず、わが日本は周囲を海という自然の擁壁に囲まれておる十人百人ならともかく、海を隔てた大陸から、何千何万もの兵と兵糧をどう運ぶのだ。だから建国以来、他国の攻めをうけたことはない。こんなこともわからんとは、なんとおかしな坊主だ」

 しかし良観は重時とちがい疑い深かった。

「ですが日蓮の信者はまだ鎌倉に多くおりまする。なにとぞ引きつづき警戒を」

「なにを心配めされるな。良観和尚ほどのお人が、たった一人の坊主を恐れることはない。日蓮がいなくなったのでござる。信者も自然消滅するにきまっておる」

良観が真顔になった。

「重時様。じつは今、日蓮は下総におるとのうわさがございます」

重時の盃がとまった。

「なに、下総とな。守護は千葉(より)(たね)じゃな」

良観がうなずいた。

「さかんに布教をしているとの噂です。この良観とて、得体の知れぬ者は気味わるいものでございます。大事にならぬように手を打ったほうが懸命かと」

良観はこの時四十五歳。日蓮より六歳年上だった。円熟味を増した年齢だったが心配の種は早めに摘んでおきたい。

「良観殿、わかり申した。任せてくだされ」

こう言うと重時は盃の酒を一気に飲み干した。


                 15 日蓮、伊豆配流の難を蒙る につづく
上巻目次


 注



放生会(ほうじょうえ

 捕えた魚や鳥獣を放し、殺生を戒める仏教の儀式。天武天皇が六七七年八月十七日に諸国へ詔を下し放生を行わしめたのが起源とされる。神道にも取り入れられ、春または秋に全国の寺院、八幡宮で催される。




by johsei1129 | 2017-03-16 22:43 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 14日

13  立正安国論そして日興との運命の出会い

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                   (立正安国論 巻頭部分 中山法華経寺蔵)

 日蓮はひとり鎌倉の町を背に西へむかった。旅姿で笠をかぶり、荷を背負っていた。その歩みは何かに突き動かされているかのように早い。そして崩壊の惨状を自分の眼に焼き付けるかのように周囲を見渡した。

馬上の武士がつぎつぎと行きかう。

馬車が復興のための材木を積んで通り過ぎていく。

日蓮は大地震を目の当たりして、かつて延暦寺で学んだ大集経の一文を思いだした。

仏法実に隠没せば(しゅ)(ほつ)(そう)皆長く、諸法も(また)忘失(もうしつ)せん。時に当たって虚空の中に大いなる声ありて地を震ひ、一切皆(あまね)く動ぜんこと(なお)水上(すいじょう)(りん)の如くならん。

仏法が威光を失う時、人々のひげは長く、髪も爪も長い。これによって世の善論は忘れ去られる。このとき空に大音響あって地震がおきる。それは水の波紋のように大地をゆり動かす。大集経では仏法と災害の関係をこうのべている。
 

日蓮が相模をでて駿河にはいった。

岩本山実相寺をたずねるためだった。この寺は今も静岡県富士市に現存する。

歴史は古い。

実相寺は久安元年(1145年)天台宗の智印によって開基された。きわだって特徴的なのは、ここに一切経が収められていたことである。膨大な経典は天台座主だった円珍(えんちん)()(しょう)(注)()が唐から招来したものだった。

日蓮はあらためて一切経を読み返す必要性を感じていた。

この寺には多くの住僧がいた。みな若い。そのなかに伯耆房という少僧がいた。

まだ十二歳である。今でいえば小学六年だが教育制度がなかったこの時代、武士も僧も誰しもが少年の頃から世に出た彼は天台の法門を学んでいた。のちに日蓮のあとを引きつぐ伯耆房日興はこの実相寺の住僧だった。

その伯耆房少年が三十七歳の日蓮とすれちがった。

少年は物思いに沈む日蓮をひと目見て、今まで会った僧とちがうものを感じた。

伯耆房がふり返ったが日蓮はかまわず通りすぎていく。

伯耆房は実相寺の門番に聞いた。

「あのお方は」

「日蓮とかいうお人でございますな」

横にいた友人がおどろいた。

「なに日蓮、鎌倉で悪名高い僧侶だぞ。それがここでなにをしに。まさか折伏ではあるまいな」

伯耆房が聞いた。

「しゃくぶく」

若僧がうなずく。

「念仏や禅をさかんに攻撃しているそうだ。鎌倉ではもっぱらのうわさだぞ」

門番がつぶやいた。

「それがあの坊様、この寺の一切経をみたいと申しましてな」

「経典をいまさらみてどうするのだ。あの年なら既に一切経の修学は終えているのではないか」

「わけは不明だが、ここに来てからは経蔵に篭もりっきりで何やら読んでいなさる」

実相寺の経蔵には経巻が棚の上にぎっしりとならべられている。

日蓮が小机の前に正座し経巻をひらいた。そしてじっくりと座ったまま動かなくなった。

夜、雪がふってきた。皿におかれた灯火をたよりに、経巻を読んだ。

いっぽう伯耆房少年は好奇心旺盛である。彼は戸をわずかにあけて様子をうかがった。

伯耆房は甲斐国(山梨県)巨摩(こま)郡大井荘(かじか)沢で生まれた。父は遠州の()氏で大井の(きつ)(ろく)といい、母は富士由井(ゆい)氏の娘で妙福といった。幼い時に父を失い、母は網島家に再嫁したため、伯耆房は祖父の由井氏に養育された。

七歳の時から天台宗四十九院に登って漢文学、歌道、国書、書道等をまなび、天台の教学を積んでいた。日蓮は十二の歳に出家しているから仏法習熟の度合いはかなり早い。

伯耆房は鎌倉からやってきた僧に興味をもった。

聞けば日蓮は比叡山延暦寺で修業したというではないか。延暦寺は日本天台宗の発祥の地である。伯耆房にとってあこがれの聖地だ。それだけに興味がわいた。仲間たちは日蓮を悪僧といったが好奇心のほうが勝った。どんな人物かは話を聞けばわかるではないか。

その日蓮は飽かずに経典を読みふけっていた。

月日がすぎ、年が明けた。雪解けの小川が流れている。

日蓮は髪やひげがのび放題になっていたが、思いつめたように筆を走らせていた。

窓からの光が文字をてらす。戸の外から声がした。

「ごめんください・・」

 日蓮は一瞬、経文から目を離し答えた。

「どうぞ」

戸が開かれると伯耆房が正座し頭をさげていた。彼は日蓮上人と話がしたかったが、経蔵にこもりきりでまったく機会がなかった。そこで思いきって戸をたたくことにした。

日蓮が伯耆房少年にほほえんだ。
「遠慮なく中へお入りください」
 日蓮は修行中の所化にたいしても偉ぶることはない。
 伯耆房が緊張気味に入室し、日蓮の前であらためて正座した。
 日蓮が伯耆房にほほえむ。

「なにか御用かな」

「失礼ですが、鎌倉の日蓮上人でございますか」

「いかにも」

「この寺で修業しております伯耆房と申します。さっそくお聞きしたいのですが」

日蓮がにこやかにうなずいた。伯耆房は、晩年になってもこの時の笑顔を忘れることはなかった。

「あのう。なにを調べておられるのでしょうか」

日蓮が僅かに首をかしげた。
 伯耆房が話を続ける。

「ここに来られてから半年のあいだ、本寺院の誰とも口もきかずに経文ばかりを読まれておられます。なにか大事なことでも調べられておられるのかと気になっておりました…」

日蓮が笑った。伯耆房はこんな明るい笑顔を見たことがなかった。

「それは心配をかけました。じつは去年の大地震でふと思うことがあり、一切経を拝見して確かめたかったのです」

「確かめたかったとは・・」
 伯耆房の眼が輝き始めた。少年の
真剣な眼差しに触れ、日蓮の口元が引きしまった。

「災いの根元です。いま日本では天災、飢饉、疫病が蔓延している。なげかない者は一人もいない。なぜおきるのか、これをふせぐにはどうしたらよいか。それを釈尊の一切経をひも解き、確かめたかったのです」

伯耆房が身をのりだした。

 日蓮がかたわらにおいてあった数枚の書付を見せた。

「いま書いているところです。題号は立正安国論としました。今の世の乱れは念仏宗の祖、法然が根元です。これを退治しなければ国がほろびる」

伯耆房は驚愕した。

「法然上人。まさかあの法然上人ですか。十三歳で比叡山に登り、知恵は日月にひとしく、徳は師の源光上人を超えたともいわれております。その法然上人は流罪になりながらも生涯をかけて念仏を弘めました。その上人のどこがいけないのですか」

伯耆房は思った。
(やはりこの日蓮上人は噂どおりの悪僧なのか)
 伯耆房の目が一瞬疑念を生じたかに見えた。こ
の反応をあらかじめ予想していたかのように、日蓮はわずかに笑みを浮かべ、話を続けた。

「からきことを(たで)の葉に習い、臭きことを(かわや)に忘れるという。慣れてしまうと、人はあやまりに気づかない。

法然の選択(せんちゃく)によって教主を忘れて西土の仏を貴び、付嘱をなげうちて東方の如来をさしおき、ただ四巻三部の経典をもっぱらにしてむなしく一代五時の妙典をなげうつ。これをもって弥陀の堂にあらざればみな供仏(くぶつ)の志をとどめ、念仏の者にあらざれば早く施僧の思いを忘る。

悲しいかな数十年のあいだ、百千万の人、魔縁にとろかされて多く仏教に迷う。()しかず、彼の万祈(ばんき)を修せんよりはこの一凶、つまり法然の念仏を禁ぜん」

 伯耆房は日蓮の迫力に圧倒され、一瞬躊躇したが、かろうじて言葉をはいた。

「禁ずるとは、念仏宗を罰するということですか」

日蓮が首をふる。

「いやそうではない。念仏宗への布施を止めるのです。今すぐ止めなければ、より大きな災いがおきます」
 伯耆房にとって「念仏を信じることが悪鬼を呼び,守護の善神が去っていく」などとは今まで耳にしたことがない。にわかには信じがたい。

「布施を止めることが、なぜ災いをふせぐことになるのですか」

「災いといっても、しょせん人からおこることです。善人にほどこし、悪人の施をとどめれば災難を消し、天下泰平となる。ならば邪宗の布施を止めることです()

「念仏の布施を止めなければどうなるのですか。いま以上の災難があるというのですか」

日蓮が経典を手にした。

「経文には仏法を誹謗することがつづき、邪法を止めなければ、国に七つの大難がおこると説く。

五つの難は目の前にある。(にん)衆疾(しゅしつ)(えき)の難、星宿(せいしゅく)変化(へんげ)難、日月薄蝕(にちがつはくしょく)の難、非時風雨の難、過時不雨の難である。

もしまず国土を安んじて現当を祈らんと欲すれば、すみやかに情慮をめぐらし、急いで退治を加えねばならぬ。ゆえんはいかん。五難たちまちに起こり、二難なおのこる。自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)(なん)他国(たこく)侵逼(しんぴつ)の難なり。いわゆる『兵革の災』『他方の怨賊国内を侵涼す』『四方の賊来りて国を侵す』これである。

もしのこるところの難、悪法の(とが)によってならび起こり競い来らば、その時いかがせん。帝王は国家を(もとい)として天下を治め、人民は田園を領して世上を保つ。しかるに他方の賊きたりてその国を侵逼し、自界叛逆してその地を略奪せば、どうして驚かないではいられよう、どうして騒がないではいられようか。国を失い家を滅せば、いずれのところにか世を逃れん。すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の(せい)(ひつ)を祈るべきものか」
 日蓮の説法が終わるや否や、伯耆房が床に手をつけて声をあげた。

「日蓮上人様、いまだ拙い所化の身ですがわたしを弟子にしてください」

伯耆房はこの人に近づいていけば、正しい仏への道を歩むことができると直感した。そう思った瞬間に言葉がでてしまった。

日蓮の返答は我が親にもまして慈愛にあふれていた。

「わたしにはすでに弟子がいますが、みな毎日の食にも四苦八苦しております。それでも良いのであれば、私を父と思って、生涯ともに修行してまいりましょう」

 伯耆房が誓う。

「わたしはこの寺で生活しております。ご不便はおかけしません。なにとぞわたしを弟子のひとりに加えてください」

日蓮は笑みを浮かべながら力強く二度、三度とうなずいた。

「これで今日から伯耆房殿は私の弟子です。私の弟子は法名に日文字をつけるのが習わしですので、伯耆房殿にも良い名を考えておきます」
 伯耆房は呆気なく日蓮が入門を許したことに驚くとともに、日文字のついた法名を受けることでさらに驚いた。
「ありがたく存じます」
 伯耆房は深々と床に手をついて日蓮の部屋を後にした。

 日蓮が伯耆房と出会ったのは正嘉二年の二月だったが、奇しくもこの月の十四日、日蓮の父妙日が亡くなった。鎌倉幕府を国家諌暁するための述作を急いでいた日蓮は故郷に戻ることはなかった。だが、この時期に書かれた「一代聖教大意」の末尾に正嘉二年二月十四日と認めている。父の死を弔む故と強く推察される。

 父の死の悲しみを胸に秘めて日蓮はさらに筆を進める。

今は国宝となっている「旅客来たりて嘆いて曰く」で始まる「立正安国論」はこの岩本実相寺で草案が練られた。

日蓮はこれを幕府の実質の支配者である北条時頼に献上しようとしていた。当時、時頼は俗の身のまま出家して最明寺入道と名乗り、執権職を義兄弟の北条長時に譲っていたが、鎌倉幕府の実権は依然として時頼が持っていた。

急がねばならない。大災害はつづいていた。
 日蓮はこの当時の鎌倉の災害の状況を『安国論御勘由来』で次のように記している。

正嘉(しょうか)元年太歳丁巳八月二十三日戌亥(いぬい)の時、前代に超えたる大地振(じしん)。同二年八月一日大風。同三年大飢饉。(しょう)(げん)元年(だい)(やく)(びょう)。同二年庚申四季に亘りて大疫(だいえき)()まず。万民既に大半に超えて死を招き(おわ)んぬ。(しか)る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈祷(きとう)有り。(しか)りと雖も一分の(しるし)も無く、還りて飢疫等を増長す。日蓮世間の(てい)を見て(ほぼ)一切経を(かんが)ふるに、御起請(きしょう)験無く還りて凶悪を増長するの(よし)、道理文証之を()(おわ)んぬ。


                     
      14 国家諌暁と松葉ヶ谷の法難 につづく
上巻目次



円珍智証

弘仁五年(八一四)~寛平三年(八九一)。平安初期、天台宗寺門派の祖。延暦寺第五代座主。智証大師と号す。讃岐の人。俗姓は和気氏。空海の甥または姪子という。延暦寺の義真に学び、顕密両経を学んだ。日蓮は智証が法華経第一の教義を曲げたとしてきびしく批判した。



by johsei1129 | 2017-03-14 22:16 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(1)
2017年 03月 14日

12 国家諌暁の契機となった正嘉の大地震、勃発

聴衆が松葉ケ谷に集まった。

四条金吾・富木常忍・工藤吉隆・池上兄弟ら古参の信徒のほか、見覚えのない黒衣の僧侶もいる。

土間のかげで二人の子供たちも顔をだして様子を見ている。孤児だった二人は寝食の恩をうけていらい、自然に日蓮の下働きをひきうけた。日蓮は少年をそれぞれ熊王、鷹王と呼んでかわいがった。
 その日蓮が薄墨の衣を身にまとい聴衆に語る。

「仏法を滅ぼす者はだれであるか。権人(きりびと)であろうか、それとも一介の庶民であろうか。そうではない。みなに立派な僧と慕われ、世の尊敬を集める僧侶が釈尊の仏法を滅ぼすのです。経にいわく『師子(しし)の中の虫の師子を食らう』と。仏法を他の敵はやぶりがたい。仏法の中の僧侶こそ仏法を滅ぼす者です」
 黒衣の僧がさえぎった。
「日蓮とやら。その僧侶とはだれをいうのか。(それがし)は思いあたるふしがないのだが」

日蓮が静かに答える。

「極楽寺良観殿でございます」

聴衆にどよめきがおこる。日蓮の信徒もおどろいた様子だった。

黒衣の僧がなじる。

「なにを血迷っておるか。良観上人はこの鎌倉で生き仏といわれておる。関所を作って木戸銭を集めては深い川に橋をつくり、荒れた土地に道路をつくっておるのだ。あのような尊い方を師子身中の虫などと」

日蓮はこたえる。

「いま良観上人のふるまいを見るに、財宝をたくわえ、借銭、蓄財を所行としている。それが僧侶の姿でしょうか。だれがこれを信ずるであろう。関所を設けることは旅人にとって、わずらいです。眼前のことである。あなたは見ておらぬか」

黒衣の僧が日蓮に強く反駁(はんぱく)する

「なんといっても良観殿は鎌倉殿の御帰依あつい。おぬしのような卑しい身分ではない。(かみ)の信任あればこそ、僧侶の力がそなわるもの。鎌倉殿のご帰依なくては、いかに正論を吐いたところでなんになろう」
 日蓮は毅然としてかえす。 

「鎌倉殿が名君であれば、必ず法華経はご理解できるはずです。笑うことなかれ。いにしえにも釈迦に阿闍(あじゃ)()王(注)()天台大師に陳隋の皇帝(注)()伝教(でんきょう)大師には(かん)武天()皇(注)()がおられた。今はそれを信ずるまで」

黒衣の僧侶が笑って出ていった。

四条金吾が怒った。おとなしく聞いていたが我慢ならない。

「なんと無礼な坊主だ。わたしが問いつめてみます」

日蓮はとめた。

「まちなさい金吾殿、放っておきなさい。彼らはわれわれの様子を見にきたのです」

短気な金吾は日蓮の制止を利かずにいきり立つ。日蓮は金吾の気を冷ますかのごとく諭した。

「最初から話を聞く態度ではない。彼らはわが法華宗が広がっていることに、おだやかではなくなっているのです


騒動が一段落すると、日蓮は皆に新しい弟子を紹介した。

「ところで門下に有望な若者が入門してまいりましたのでお引き合わせいたします」

若い僧が手をついた。

「三位房日行と申します。僧俗立場は異なれど異体同心で法華経の弘通に励んでいきましょう」 

三位房が得意満面の表情で皆に一礼をした。一同も深々と三位房に頭をさげる。

工藤吉隆がおもわず声をあげた。

いやあ、いつの間にか上人のこの館も賑やかになりもうしたな

金吾がおおげさにいう。

「これでは良観殿も我々の様子も見たくなるわい」

一同が笑った。


この時だった。草庵の床がゆれ始めた。

一同がさわぐ。金吾が指図した。

「地震だ。おのおの静まれい。窓を、戸を開けよ」
 いきり立っていた金吾が皆に冷静に指示した。
地震がおきた時、戸や窓を開いておかないと外に脱出できず、建物が倒壊した場合圧死してしまう危険があった。 

このころ鎌倉では地震が頻発し、めずらしくはなかった。だが今夜はとりわけ揺れが大きい。

同じころ、鎌倉幕府執権の館が小刻みにゆれた。障子がガタガタしだした。

北条時頼は立ちあがり天井を見守った。

そこに時宗、時輔の兄弟が飛びこんできた。

「父上」

「これは大きいぞ。急ぎ兵を呼びあつめろ」

兄弟があわてて出ていく。

この時、床が上下にゆれた。

時頼が叫ぶ。

「たてゆれだ」

鎌倉の町全体が波のようにゆれる。

住民が家財道具をだしながら悲鳴をあげた。彼らは外に出て、井戸のまわりにむらがった。このとき、井戸から人の声がひびいた。不気味な音響がこだまする。住民がまた散った。

さらに地面がまた激しく横揺れし、たまらず民家が倒壊しはじめた。

悲鳴がひびく。

日蓮の庵室も大きくゆれた。

「あぶない、みなさん外へ」

と言ったとたん、家屋が真っ二つにちぎられ、床下からひびのはいった地面があらわれた。

絶叫がこだまする。

大切にしていた経巻が転がっていく。日蓮は経巻が落ちる瞬間につかみとった。周囲の弟子たちが懸命に日蓮をかばうように抱きかかえた。

月明かりの中、草庵は無惨に破壊された。月明かりが目も当てられないほどの惨状を照らす。

町のほうぼうでは火の手があがっている。

逃げまどう人々が走りまわる中、弟子たちが集まり、一人一人を確認した。

「大丈夫でござるか。けがは。みなさんおられますか。行方不明の者はおられませんか

たいまつを手に四条金吾、常忍らがひかえる。

日蓮が信徒に告げた。

「みなさんは一刻も早く本宅へ帰ってください」

金吾がうなずいた。

「ではゆこう」

一同が四方に走り去り、筑後房日朗らの弟子が草庵のあった場所に立ちつくす。

みな安堵のあまり、泣き出しそうだった。

「上人、われらは全員無事でございます。まったく奇跡としか・・」

日蓮が思い出したようにうめいた。

「子供たちはどうした。あの二人は・・」

一同が青くなり、あたり一面をさがしまわった。

「おーい。熊王、鷹王・・」

やがて倒壊した建物の脇で鷹王が倒れているのを見つけた。横で熊王がうずくまって泣いている。

「鷹王・・」

かけよったが鷹王の息がない。

日蓮は眠るような鷹王を抱いて題目を唱え続けた。
 余震が収まると鷹王の身は日蓮と弟子たちにより、法華経の題目によって弔われ、夜になってその日のうちに荼毘(だび)付された。
 

朝、鎌倉の町は押しつぶされた家々がならんだ。

家族という家族が、地面に横たわる死体のそばで泣き叫んだ。

この震災はのちに正嘉の大地震といわれた。マグニチュード七から七・五だったという。鎌倉の建物という建物は、ひとつのこらず倒れた。鎌倉八幡宮も無惨に傾いている。
 『吾妻鏡』はこの地震について特筆している。

 八月二十三日 乙巳(きのとみ) (いぬ)刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きこと無し。山岳類崩し、人屋(てん)(とう)。築地皆悉く破損し、所々の地裂け水湧き出る。中下馬橋辺地裂け破れ、その中より火災燃え出る。色青しと。


午後八時ごろ、大地震はおきた。築地とは土をつき固め、上に屋根をかけた土塀である。これがすべて破損したというから、地震がいかに巨大だったかがわかる。

翌朝から日朗や日昭らの弟子たちが廃墟のあとを片づけ始めた。かろうじて生きのこった小僧の熊王も悲しみをこらえ手伝う。熊王は日蓮のもとで兄弟のように育った鷹王を失った。

ひととおり片がつくと、南無妙法蓮華経と書かれた卒塔婆(そとうば)にむかって一同手をあわせた。

しかしここに日蓮の姿がない。
 日蓮は早朝、弟子たちに岩本実相寺に向かうことを告げ、すでに一人旅立っていた。
 


     13 立正安国論そして日興との運命の出会い につづく
上巻目次


 阿闍世王

梵名アジャータシャトル。未生怨と訳す。マカダ国の王。マカダは当時インド第一の強国だった。太子であった時、提婆逹(だいばだっ)()と親交を結び、仏教の外護者であった父備婆(びんば)(しゃ)()王を監禁し、獄死させて王位についた。さらに釈迦を迫害したが、のちに懐悔(かいげ)し、経典の第一回結集の外護者となった。釈迦は自分の命をさいて、四十年の寿命を阿闍世に与えたという。


天台大師 

 五三八~五九七。中国南北朝・(ずい)代の天台宗開祖。姓は陳氏、(いみな)智顗(ちぎ)。十八歳の時、果願寺の法緒のもとで出家。天嘉元年(五六○)大蘇山に南岳大師訪れ厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の『()(しん)精進・()(みょう)真法』の句に至ってついに法華三昧を感得したといわれる。三十二歳の時、宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。至徳三年(五八五)に陳主の再三の要請で仁王経等を講じ、禎明元年(五八七)法華文句を講説した。陳末の戦乱の頃、隋の晋王広(煬帝)に菩薩戒を授け智者大師の号を賜った。その後、故郷に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止(まかし)(かん)を講じたついで天台山に入り六十歳で没する彼の講説は弟子の章安(灌頂(かんじょう))によって筆記され、法華三大部(法華文句(もんぐ)、法華玄義、摩訶止観)としてまとめられた。尚、日蓮大聖人は天台大師を、薬王菩薩の再誕で、日本では伝教大師(最澄)として応誕したと説いている。「薬王菩薩・漢土に出世して天台大師と云われ此の法門を覚り給いしかども」(一念三千法門) また「聖人御難事」では「天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う」と示され、()天台大師が摩呵止観の講説により出世の本懐を遂げたと断じている。


 陳隋の皇帝

陳隋は中国の王朝名。

陳は南北朝時代、南朝最後の王朝。永定元年(五五七)~禎明三年(五八九)。梁の武帝の跡を受けて建国し、隋に滅ぼされた。天台は五代後主や文武官僚の帰依をうけた。

隋は五八一年~六一九年。楊堅(高祖文帝)が建てた統一国家。秦・漢の古代国家以後、南北に分裂していた中国を統合し唐の統一国家の基礎を築いた。

 桓武天皇

天平九年(七三七)~延暦二十五年(八○六)。第五十代天皇。律令制の改革、平安遷都を行った。延暦四年(七八五)、伝教大師が比叡山を建立すると、天皇はこれを天子本命の道場と号し、六宗を捨てて伝教に帰依した。同七年、伝教は桓武天皇のために根本一乗止観院を建てた。



by johsei1129 | 2017-03-14 21:27 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 14日

11 生涯の法敵、極楽寺良観

 極楽寺は広大な所領をもつ寺院であった。敷地にはいくつもの施設が群れをなして建っている。

この寺は第二代執権北条義時の三男、北条重時の寄進によって建築された。今も鎌倉市にのこる極楽寺は、かつての栄華を想像できないほど小さいが、当時は病院と大学をあわせたほどの規模があった。現在も極楽寺町の地名がのこる。ここには子院が四十九か所。ほかに施薬院、療病院、薬湯寮までそろっていた。
 北条重時は忍性良観を開山に迎えた。良観はのちに日蓮と降雨対決という数奇な運命をたどる事になる。

境内は難民であふれかえっていた。

僧侶が柄杓(ひしゃく)(かゆ)をもり、難民にほどこす。貧しい人々が列をなし「ありがたや」とぱかりに受け取っていく。

療病院では幾人もの僧侶が白い口当てをして患者を診た。小僧がその横で看護にあたった。

目がただれた者。咳こむ女人や(らい)患者もいる。病に苦しむ者たちが順番にずらりと並んでいた。

この敷地の中に戸を閉め切り、だれも入れない堂があった。

堂は上窓の光しか差さない。ここに数十人の僧が机の上で算盤を入れていた。その横では銅銭をひもで通し、まとめていく僧侶たちがいた。

かれらの後ろにはきらびやかな色の反物、箱に入った銅銭が積みあげられていく。

極楽寺良観は慈善活動とともに商業にも手を広げていた。経済基盤が安定しないと慈善はできない。極楽寺は宗教施設であると共に、商社の機能をも有していたことになる。

仏教史学者の松尾剛次氏は良観について丹念な研究をのこしている。氏は忍性良観が管轄していた材木座海岸のことを述べる。

和歌江嶋は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工島であった。現在は、干潮時に黒々とした丸石が露頭するのみである。由比ガ浜は、遠浅で中国船などの大きな船の着岸には適さず、六浦の方がそうした船の入港には適していたのだ。

ところが、貞永元年(一二三二)年七月一二日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「船着岸の煩ひなからんがため、和賀江嶋を築くべし」と、鎌倉幕府に申請した。時の執権北条泰時は大いに喜んで許可し、諸人とともに協力した。

ところで、この和賀江嶋の修築と維持・管理に関しても、忍性を中心とした極楽寺が大きな役割を果たした。史料にいう。

飯島敷地升米ならびに嶋築および前濱(まえはま)殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺生禁断といい、嚴密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、壽算長遠のためなり、忍性()菩薩()()( )()任せて()、其沙汰あるべく候、恐々謹言

貞和五年二月十一日    尊氏在判

極楽寺長老

この史料(『極楽律寺史』)は、足利尊氏が貞和五年二月一一日日付で、極楽寺に対して「飯島敷地升米ならびに嶋築および前濱殺生禁斷事」をもとの通り支配権を認めたことを示している。すなわち飯島(和賀江嶋の敷地)で、着岸した船から関米をとる権利を認められたが、それは飯島の維持・管理(嶋築き)の代償でもあったことかがわかる。また前濱の殺生禁断権も認められていた。しかもそうした権利は、傍点部からわかるように、忍性以来の事であった。(中略)さらに極楽寺は、前浜の殺生禁断権を認められていた。このことは称名寺が握った権利と同様、浜での一般人の漁を禁じ、漁民に対しては、一定の金品を寺院に寄附することで漁を認める権利である。それゆえ、極楽寺は漁民に対しても統括権を得ていたといえる。この点は、叡尊が弘安九(一二八六)年に宇治橋を修造した際に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められたように、極楽寺とその末寺が管理する川においてもいえる場合が多かったと考えられる。 『忍性 慈悲ニ過ギタ』より

良観の経済基盤の巨大さがわかる。良観の経済活動は北条のあとの足利尊氏の時代にまでも影響力が及んでいたのである。歴史家が鎌倉の北半分は北条家が支配し、南半分は良観が支配していたというのは、あながち誇張ではなかった。

良観は野望をもっていた。

それは経済力をもって時の権力を操り、日本国に君臨することだった。

良観が弘めた律宗は戒律を説くだけであり、教義の中身は低い。これでは宗教上は新興の日蓮の法華宗巨大な比叡山延暦寺を中心とする既成勢力にあなどられてしまう。これをおぎなうために、幕府権力を利用して批判勢力をおさえ、自身の栄達をはかった。

良観の出自は奈良東大寺である。

彼は奈良すなわち南都仏教の代表だが、奈良仏教はすでに時代おくれになっていた。桓武天皇の時代、伝教大師が出現して南都仏教を徹底して破折(はしゃく、)没後七日目にして嵯峨天皇より大乗戒壇設立の勅許が下る。また桓武天皇は奈良を捨てて新都平安京を建設したため、奈良仏教は見る影もなくなっていた。

そのあと伝教の比叡山延暦寺から新しい仏教の旗手がつぎつぎと誕生した。法然、親鸞、道元、日蓮など、新時代の宗派はこの延暦寺からでている。蓮も延暦寺を拠点として十年余年修学し鎌倉で布教を始めていたこのため奈良仏教の代表である良観は、なんとしても律宗を日本国にひろめ、奈良の栄華をとりもどそうとしたのである。

極楽寺の居室は壁の装飾があざやかである。

良観はあでやかな僧服をまとっていた。彼の横では大檀那である北条重時や弟子たちが盃を重ねていた。

 鎌倉武士は京の公家と比べると普段は質素な食事をしていたが、今日ばかりはいわゆる晴れの膳が並んだ。

 玄米に麦・粟を混ぜて()かしたおこわ。近海でとれた鯛の塩焼き、大ぶりの()でた車海老、色もあざやかな季節の野菜の煮つけ、(かも)(かぶ)のあつもの(吸い物)、大根の味噌漬け、蜂蜜が添えられた揚げ菓子、別の膳には海水を煮詰めた塩と(びしお)(塩辛)と白酒が折敷(おしき)(お盆)に置かれていた。

稚児が重時に酒をくむ。重時は機嫌よくうけた。

「まことに立派な寺ができあがった。鎌倉一じゃ。ここに念仏堂はもとより病院、入院寮、難民を入れる建物もできあがった。なによりじゃ」

良観が恐縮し、重時にうやうやしく礼をいう。

「重時様のおかげでございます。まことに殿のお力には敬服いたします」

重時が盃をおく。

「われらが和尚を援助するのは、戒律を重んじるためであり幕府のためでもある。身よりのない者や病人どもを救済すれば、治安の維持も図れる。われらにとっても好都合。和尚にとっても・・」

良観が手をあわせた。

「この身にとって恐れ多いことでございます。わたしとしては、このようなにぎやかな場所は避けて、山の中の静かな寺で持戒しなければならぬのですが」

重時が笑った。

「なにを今さら。良観和尚といえば、今や御家人でさえも恐れはばかるお人じゃ。まして今この日本国は飢謹、疫病で弱りきっておる。鎌倉のだれもが上人の威徳を頼っておりますぞ」

「さようでございますか。しかし鎌倉の皆が皆と言うわけにはいきますまいげんにこの良観を悪人と呼ぶ御坊もいる様子でございます」

重時が横目でにらんだ。

「なに。それはどこの何者でござる」

「たしか日蓮と名乗る僧侶でございます。松葉ヶ谷に住んでいるとか」

「坊主でござるか。で、その者はなんと言っておるのか」

「念仏を唱える者は地獄に堕ちると言っており申す」

重時は念仏の強信者である。彼は一瞬怒りの表情をあらわしたがすぐ笑いだした。

「和尚、心配めさるな。どこの世界にも瘋癲(ふうてん)白痴はおるもの。安心くだされ。この重時はもとより、幕府の面々がついておりますぞ」

重時が高笑いした。

稚児がやってきて良観に手をついた。

「お師匠様、そろそろお時間です」

良観がうなずいて立った。説法の時間である。

長い廊下をすすむ。

供の弟子が良観の美服を脱がせ、質素な法衣に変身させた。慈善僧の身なりは華美であってはならない。

本堂は数百人の聴衆で埋まっていた。

ざわめきが絶えない。

そこに良観を先頭にして数十人の弟子が大挙して入場すると歓声がこだました。

「良観さま」

女たちは絶叫して涙を流し、袂で顔をおおう。男たちは手を振って良観の名を呼んだ。僧や尼たちは手を合わせて念仏を唱える。
 僧侶の説法の座とは思えない異様な光景である。

北条重時は鎌倉の庶民の良観にたいする度を越した熱狂ぶりに感嘆した。

良観が説法の場につき、笑顔で答えた。

歓声がなかなかやまない。良観はいまや鎌倉一の名僧とはやしたてられ、現代でいうところのカリスマだった。

やがて良観が軽く咳払いをすると場内がようやく静まりかえった。

「お忙しいところ、よくおこしいただきました。本日は八斎戒をお教えいたしましょう。戒律のお話です。眠りたいかたは眠ってけっこうでございますぞ」

 子供たちがくすくす笑い、親に頭を小突かれている

この中に日蓮の弟子、鏡忍房日暁と筑後房日朗がいた。

鏡忍房が立ちあがった。

「良観様。わたしたちは良観様を尊敬しております。鎌倉のだれもが上人を慕っております」

突然の発言だったが良観はにこやかにうなずいた。

「良観様のおかげで道路が広くなり港が整備され、いままでより、いっそう住みやすくなりました。良観様のおかげです」

良観がほほえんだ。

「そうもちあげなくともよろしい」

聴衆に笑いがあがる。ここまではよかった。

日朗が笑みを浮かべて立ちあがった。

「しかしあのような普請は、さぞかし大変でございましょう。とくに銭の入り用は苦労のいること。関所で庶民の米をとりあげ、山の材木を買い占めては高く売る。そうしなければあのような事業は困難でしょう」

場内がざわついた。

「良観上人でなければ、そのような振る舞いはできませぬ。まことに尊い。昔から律宗のご僧侶は商売や金銭の貸し借りには()けておりますから」

鏡忍房がたたみかける。

「まことの僧侶であるならば、仏教の奥底をきわめ、人々に成仏の道を示すのが本当の僧侶と思いますが、僧侶の身で納まるわけにはいかないようですな

良観が弟子に目くばせした。場内がざわめく中、極楽寺の僧が二人を追いはらう。

鏡忍房が去りぎわに叫んだ。

「わたしは松葉が谷に住む日蓮上人の弟子、鏡忍房日暁と申す者」
「おなじく筑後房日朗」

「日蓮上人は法華経こそ最高の教えであると申しております。説法をお聞きになりたいかたは、ぜひ松葉が谷へ」

二人はせきたてられ去った。

良観はそれでもにこやかだった。

「おもしろい御仁であること」

 そして一瞬真顔になった。

念仏者たちは日蓮が経文を前面にして攻撃してくるのに戦々恐々とした。

彼らはあろうことか、師の法然の教義を曲げることまでして防衛につとめた。

法然は選択集でいっさいの諸宗を否定したが、日蓮のきびしい指摘によって教義をまげ、諸行往生(注)を唱えだした。

日蓮はこの念仏僧らによる苦しまぎれの教義改悪を鋭く指弾する。

()の七八年が前までは諸行は永く往生すべからず、善導和尚の千中無一と定めさせ給ひたる上、選択(せんちゃく)には諸行を(なげう)てよ、行ずる者は群賊(ぐんぞく)と見えたりなんど放語を申し立てしが、又此の四五年の後は選択集のごとく人を(すす)めん者は、謗法の罪によって師檀共に無間(むけん)地獄に()つべしと経に見えたりと申す法門出来したりしげに有りしを、始めは念仏者こぞりて不思議の思ひをなす上、念仏を申す者無間地獄に堕つべしと申す悪人外道あり、なんどのゝしり候ひしが、念仏者無間地獄に堕つべしと申す語に智慧つきて(おのおの)選択集を(くわ)しく披見(ひけん)する程に、げにも謗法の書とや見なしけん、千中無一の悪義を留めて、諸行往生の由を念仏者(ごと)に之を立つ。(しか)りと雖も(いえど)(ただ)口にのみゆるして、心の中は(なお)本の千中無一の思ひなり。在家の愚人は内心の謗法なるをばしらずして、諸行往生の口にばかされて、念仏者は法華経をば(ぼう)ぜざりけるを、法華経を謗ずる由を(しょう)道門(どうもん)の人の申されしは僻事(ひがごと)なりと思へるにや。一向諸行は千中無一と申す人よりも謗法の心はまさりて候なり。(とが)なき(よし)を人に知らせて(しか)も念仏(ばか)りを(また)弘めんとたばかるなり。(ひとえ)に天魔の計りごとなり。 『唱法華題目抄

聖道門の人とは法華経を信じる人々をいう。念仏者は自らの悪義をかくしてまで、弥陀の名号を弘めねばならなくなっていた。



         12 国家諌暁の契機となった正嘉の大地震、勃発につづく
上巻目次



諸行往生

阿弥陀仏と唱えて、極楽浄土に生まれる念仏往生に対し、念仏以外の諸々の善行によっても往生することができるという説。法然の弟子長西、親鸞の法友、(ぜん)()(ぼう)証空などが説いた



by johsei1129 | 2017-03-14 20:12 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 14日

10 弟子への薫陶

鎌倉の下町に夕陽がさす。

下町には井戸が点々としてあった。

町人がこの井戸から水をくみあげる。

日蓮の弟子、筑後房日朗(注)も列にまじって水をくんだ。

彼はまだ十代である。下総国海上郡能手郷に生れ、幼名を吉祥丸といった。建長六年、父の平賀二郎有国とともに日蓮に帰依し、叔父の日昭のもとで得度した。

この頃になると日蓮の名は、良しきにつけ悪しきにつけ鎌倉中にひろまっていった。そして日蓮を慕って弟子となる僧があいついだ。

世間の評判は悪名高い日蓮だったが、じっさいに会うと気はやさしく、話は機知に富んでいた。しかも言葉の一つ一つが経文に裏打ちされて理路整然としている。聴き入る者は日蓮の確信あふれる説法ばかりでなく、人柄そのものにもひかれた。

日昭・日朗に続いて(きょう)(にん)(ぼう)大進房(だいしんぼう)少輔(しょうい)(ぼう)など、若い才能ある弟子が入門してきた。なかでも鏡忍房は日蓮より二十歳年上で弁舌、識見ともにすぐれ、当時の弟子の中で第一とされた。

日蓮が館に帰ってきた。

玄関を開けると、日朗が豆を煮込んでいた。

「お帰りなさいませ」

弟子たちが膳の準備をした。みな若いだけに食欲は旺盛である。

豆が盆に、漬物は皿にのせられた。この時代、庶民の主食は豆か、粟、稗に玄米を混ぜた雑穀である。白米は公家が食べていたが、ビタミン不足で脚気になり早死にだったという。

日蓮が豆をほうばりながら聞いた。

筑後房は、今日どちらに布教に出向かれたのかな

日朗少年は元気よい。

「はい。和賀江の海岸の付近を布教にまいりました」

「ほう」

「あの一帯は念仏の家が多くございました。また律宗の良観殿を熱烈に信仰しております」

日蓮はにこやかである。

「ご苦労であった。これも日朗にとって大切な修行だ。たくさんの人に信心を語っていきなさい」

ふと気がつくと、二人の子が窓から家の中をのぞきこんでいる。身なりが貧しい。子供は豆の皿を眺めていた。

弟子の大進房が追いはらった。

ここは子供の来るところではない。仏法の修行をする所です。早くうちに帰りなさい

日蓮が声をかける。

「どうした」

大進房がはきすてるようにいった。

「恐らく、みなしごでしょう。飢謹で離散した家の子供ではないかと。ちかごろ、この辺をうろついております」

「どれどれ」

日蓮が窓からのぞくと幼い二人が体をよりそい、かたまっていた。兄弟ではないようだ。

日蓮は豆の椀をとって外へでた。

子供たちは日蓮に気づくと逃げだしてしまった。

日蓮は子供たちが走り去るのを見届けると豆の椀を玄関においた。こうしておけば勝手に食べるであろう。

大進房があきれた。

「上人・・」

「よいではないか。孤児になったのはあの子らのせいではない。今はだれもがひもじい思いをしている。せめて自分のまわりだけでも施さなくては。眠るところもないのであろう。日朗、(むしろ)はなかったか」

「はい、ございますが」

「もってきなさい」

日蓮が筵を土間においた。

これでよい」

 そこに日朗が気を利かせ枕を二つ持ってきて蓆を敷いた隅においた。

日蓮はそれをみて何も言わず笑顔で見つめていた。


日が暮れて、いつもどおり日蓮の講義が始まった。

日蓮と弟子たちの関係はどうだったのだろう。日蓮はどのように門下と接したのか、具体的な史料はのこっていない。今となっては想像するだけだが手がかりはある。

日蓮のあとを継いだ伯耆房(ほうきぼう)日蓮門下が厳守すべき条項として『日興遺戒置文』といわれる書を残している。全部で二十六ケ条あるが、その中に日蓮門下の根本となる()(どう)弘法(ぐほう)の方針が示されている。

伯耆房は日蓮の教えをかたくなに守り、生涯くずさなかった僧である。日蓮の方軌をそのまま受けつぎ、後世の弟子に師と同じ手法で法を弘めるよう遺言した。

したがってこの「遺誡置文」は伯耆房の独創ではなく、日蓮が生前、弟子・信徒に残した教えを取りまとめて、そのまま記されたといってよい。ここに当時の日蓮教団の状況、師、弟子、信徒の関係性を垣間見ることができる。

まず目を引くのは、門下の衣の色が黒色ではなく、薄墨だったことである。

一、衣の墨・黒くすべからざる事。

現代の僧侶のような黒衣でもなく、色あざやかなものでもない。薄いねずみ色だった。日蓮、日興の血脈を引き継いでいる日蓮正宗の僧侶の法衣は、薄墨の色を今も変わらず守っている。

 なお『四菩薩造立抄』の冒頭に、富木常忍が日蓮に薄墨の法衣を供養したことが記されている。


 白小袖(こそで)一、薄墨(うすずみ)(そめ)(ころも)一、同色の袈裟(けさ)一帖(いちじょう)鵞目(がもく)一貫文給び候。今に始めざる御志、(ことば)を以て()べがたし。(いず)日を期してか対面を遂げ心中の朦朧(もうろう)を申し(ひらかば)や。


また二十六世の日寛は薄墨の理由をのべる。

  問ふ法衣の色に但薄墨を用る其(いわれ)如何、答ふ(また)多意有り、一には是名字(みょうじ)(そく)を表する故なり、(いわ)く末法は(これ)(ほん)未有(みう)(ぜん)の衆生にして最初下種の時なり(しかる)に名字即は是下種の位なり、故に荊溪(けいけい)(いわ)く聞法を種となす等云云。聞法(あに)名字に非ずや、種となす(あに)下種の位に非ずや、故に名字即を表して(ただ)薄墨を用るなり。  当家三衣抄

名字即とは初めて仏法を信じ持つ人のことをいう。この仏法は、初めて信受した名字即の位で証果を得ることができる。順位や階級とは無縁である。
 また弟子たちには(じき)(とつ)の着用を禁じた。直綴は上衣と下着をつなぎ合せた法服である。腰から下に(ひだ)があるのが特徴だが、日蓮はこれを許さず、()(けん)だけを着せた。素絹とは精製前の荒い絹糸のことで、日蓮は終生この姿でいた。色とりどりの法服とはまったく縁がない。

さらに袈裟は最下位の僧侶がつける五条を使った。衣とあわせて「素絹五条」という。あくまでも質素に徹した。

 袈裟は当初、インドで糞のように捨てられたボロ布をつなぎ合わせて作ったところから糞掃(ふんぞう)()ともいった。現在日本で使われている袈裟は、新品の布で作るが、この名残りで、わざわざ小片にした布をつぎ合わせて作っている。小布を数枚つないだ縦一列を一条という。日蓮につづく僧侶はいまも簡素な五条袈裟である。

袈裟は右肩を出すようにして、体に巻きつけるようにかける。右肩を出すのは相手に敬意を表す印度の習慣である。

また印度の僧侶は当初、袈裟一枚で生活していたが、北へ行くほど寒さをしのげないので、しだいに下衣をつけるようになった。これが法衣の始まりである。

話をもとにもどす。
 弟子たちは日蓮の薫陶もあり猛烈に勉学にいそしんだ。そして勉学が終われば法門について議論をはじめた。

一、学問未練(みれん)にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。

一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。

無学の者は自分の弟子にしないという。日蓮は十二歳の時から経典の修学にうちこんだ。弟子たちにも同じく、きびしい修練を課している。

勉学した上、対論、議論を好むことで仏法の理解は深まり、正邪を立てわける能力がついていく。弟子たちは互いの切磋琢磨によって成長していった。自余とは「そのほか」「その他のもの」の意味である。日蓮は自余を交えない純粋な討論をうながした。目的は仏法の奥底を学び、他宗の誤りをただすことである。目的を忘れると雑談になり、心は遊戯におちいる。批判精神を忘れると学業自体が停滞する。

一、謗法(ほうぼう)(注)()()(しゃく)せずして遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)の化()(ならび)に外書歌道を好む可からざる事。

さらに日蓮は数ある弟子の中でも、才能のある者は口をきわめて賞賛している。

一、身軽法(しんきょうほう)(じゅう)(注)の行者に於ては下劣の法師()りと(いえど)当如(とうにょ)(きょう)(ぶつ)(注)の道理に任せて(しん)(ぎょう)を致す可き事。

一、弘通(ぐつう)の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の(おもい)を為す可き事。

一、下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば(あお)いで師匠とす可き事。

下賎の者であろうと若年であろうと、果敢に法を弘め、智慧すぐれた者は尊敬し、年長の思いをなし、師匠とすべきだという。日蓮はこれを率先した。法の前に差別はない。身分や出自はいっさい関係ない。

日蓮はすぐれた才能を見いだすことを無上のよろこびとした。いまはじめてひらく妙法の世界に、自分と同じ智慧をもつ者があらわれはじめたのである。自分の分身ともいうべき弟子が涌出(ゆしゅつ)しはじめた。これほどうれしいことはない。日蓮は「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」(御義口伝下)といったが、まさにそれである。

とりわけ議論の中で巧みに答える弟子をほめたたえた。

一、巧於(ぎょうお)難問(なんもん)(どう)(注)の行者に於ては先師の如く賞翫(しょうがん)す可き事。

先師とは日蓮のことである。戒文は先師日蓮をなつかしむようにしるしている。

さらにすぐれた人材は大切に育てねばならない。彼らには雑用などの些事をとどめ、学問に専念させている。

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し(さしお)き御抄以下の諸聖教を教学す可き事。

 この頃の日蓮にとって、弘教は当然のことながら、何より未来への基盤を強固にするための優れた弟子の発掘に必死だった。

 ところで日蓮は弟子たちにどのような方法で仏法を講義したのか。

 日蓮がみずから図示した「釈迦一代五時鶏図 (継図)」という真筆が、現代まで断簡を含めると十余枚ほど残されている。この書は釈迦から末法までの仏教の伝来を右から左に、ちょうど鳥の羽を伸ばした態で書かれた図で、日蓮はこれを壁からつりさげて弟子に教育したものと思われる。あたかも現代の教育現場で、教師が黒板に板書しながら生徒に教えているようなものである。

 『曾谷入道殿許御書』に「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し」と説かれているが、日蓮は自ら弟子たちにその通り実践していた。おそらくその図は、日蓮が身延に入山した以降は、弟子たちが各宿坊で日蓮同様に使用し、信徒に説法したものと思われる。

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                 『一代五時鶏図(千葉県弘法寺蔵)


真夜中、日蓮が灯心のもとで経巻を読み、そこに天台、妙楽、伝教等の論・釈の文言等を書き加えていった。

その脇で弟子たちが眠りについている。

外ではこがらしが吹いていた。

 夜になり、孤児の二人が肩をふるわせながら日蓮の草庵に近づいた。

二人は草庵の中をのぞきこむ。

日蓮が背をむいて、ひたすら経文を書いている。

やがて子供たちは入口においてある椀をみつけた。

日蓮が筆を休め、そっと土間をのぞき込む。

玄関には空の椀がころがっていた。

二人の子はいつのまにか筵にくるまって寝ている。

日蓮は筆を休め、そっと土間を覗き込む。
 あどけない寝顔だった。

日蓮の顔に思わず笑みがこぼれた。



               11 生涯の法敵、極楽寺良観につづく


上巻目次



筑後房(ちくごぼう)(にち)(ろう)

寛元三年四月八日(一二四五年) -元応二年一月二十一日(一三二○年)六老僧の一人。大国(だいこく)()(じゃ)()とも称する。下総(しもうさ)国の出身。父は平賀有国。六老僧の一人日昭は叔父で、池上兄弟とは縁戚にあたる。

日朗は建長六年、大聖人に帰依する。竜の口法難の際、幕府に捕えられ(つち)(ろう)に投獄された五人の一人。また佐渡の流罪中の大聖人を度々訪ねている。尚、日蓮大聖人()遷化(せんげ)の後、池上宗仲が法華経の文字数六九、三八四文字と同じ坪数の領地を寄進、ここに寺院を建立し開祖となる。現在の池上本門寺である。しかし残念ながら現在の池上本門寺は釈迦の立像を本尊としている。大聖人が図現した十界曼荼羅(まんだら)()(えい)(どう)に掲げられているが、本尊とはしていない。つまり日朗には日蓮大聖人の末法の本仏としての内証は伝わっていなかったことになる。

謗法

誹謗(ひぼう)正法のこと。正法に背いて信受しないこと。または信受しない人。

「口に(そし)るを誹と言ひ、心に背くを謗と云ふ」(大智度論)

身軽法重

「身は軽く法は重し」と読む。章安の涅槃経疏巻十二菩薩品の文。教法弘通の精神を示した文で、衆生の身は軽く弘むべき法は重いとの意。一身を賭して教法を弘むべき旨を述べたもの。

当如敬仏

(まさ)に仏を敬うが(ごと)くすべし」と読む。仏を敬うように、妙法を受持する衆生に敬意を表すること。法華経普賢菩薩勧発品第二十八の文。同品に「()し是の経典を受持せん者を見ては、当に()って遠く(むか)うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」とある。

「無智の者は此の経を説く者に使はれて功徳をうべし。何なる鬼畜なりとも、法華経の一偈一句をも説かん者をば()当起遠迎当(とうきおんごうとう)(にょ)敬仏(きょうぶつ)』の道理なれば仏の如く互ひに敬ふべし。例へば宝塔品(ほうとうぼん)の釈迦多宝の如くなるべし。」  『松野殿御返事

巧於難問答

「難問答に巧みにして」と読む。法華経従地涌出品第十五の文。地涌の菩薩を我が弟子なりと明かした釈迦の言葉に、弥勒が疑問を呈した偈の中にあり、地涌の菩薩を称賛した句の一つ。あらゆる難解な論議に対しても巧みに正しく答えることをいう。



by johsei1129 | 2017-03-14 14:43 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 14日

9 女性信徒の出現

春の穏やかな陽ざしが武家屋敷にさしこむ。

ここには女房や後家尼たちが集まっていた。この中に金吾の妻日眼女やのちに大信者となる日妙がいた。

 日蓮は女性信徒の教化にも積極的だった。

法華経はもともと女人成仏の経典である。日蓮は唯一、女人成仏を説いた法華経に帰依すべきことを力説した。

「古来より女人は罪多き者といわれてきました。国を破る源ともいわれております。内典には五障(注)を明かし、外典には三従を教えております。三従とは、幼い時は親に従い、成人すれば夫に従い、老いては子に従う。かように幼い時より老耄(ろうもう)にいたるまで三人に従いて心にまかせず、思うことも言わず、見たきことをも見ず、聴聞したきことも聞かず、是を三従という。この三つの(さわ)りあるため、世間において自由ではない。仏法においても成仏できないとされておりました。しかし釈尊は法華経で初めて女人成仏を説いたのです」

 女性たちは念仏宗のことばかりを聞いていた。死んでから救われるだけの教えである。彼女たちはそんな説法に興味はない。だが日蓮はちがった。法華経は自分たち女性の成仏をじかに説いている。新鮮なおどろきだった。

「しかるに日本国の一切の女人は南無妙法蓮華経とは唱えずして、女人の往生成仏をとげざる双観・観経等によりて、弥陀の名号を一日に六万遍・十万遍なんど唱えるのは、仏の名号なれば(たくみ)なるには似たれども、女人不成仏・不往生の経によれるゆえに、いたずらに他人の(たから)を数える女人です。これひとえに悪知識にたぼらかされたためです。されば日本国の一切の女人の御かたきは、虎狼(ころう)よりも山賊海賊よりも、父母の敵・遊女(とわり)などよりも、法華経をば教えずして念仏などを教えるこそ一切の女人の敵です。女人の御身としては南無妙法蓮華経と唱えて法華経を信ずる女人にてあるべきに、当世の女人は一期(いちご)のあいだ弥陀の名号をばしきりに唱え、念仏の仏事をばひまなくおこない、法華経をば唱えず供養せず、あるいはわずかに法華経を持経者に読ませるけれども、念仏者をば父母兄弟のようにもてなし、持経者をば所従眷属よりも軽く思う。かくしてしかも法華経を信ずる由を名乗っている。早く早く心をひるがえし、正法に帰らねばなりませぬ」

当時の女性信徒が日蓮に心を開いていたことを示す、貴重な御書が残っている。

 その御書とは、比企(ひき)大学三郎の妻が、月ごとに巡る女性特有の(がっ)(すい)(月経の意)の時、仏道修行を、どのようにしたらよいかと、日蓮に問われたことへの返答の書「月水御書」である。

その中で日蓮は次のようにわかりやすく明快に説いている。


 日蓮、(ほぼ)聖教を見候にも、酒肉・()(しん)婬事(いんじ)なんどの様に、不浄を分明(ふんみょう)に月日をさして(いまし)めたる様に、月水をいみたる経論を未だ(かんが)へず候なり。在世の時多く盛んの女人、尼になり仏法を行ぜしかども、月水の時と申して嫌はれたる事なし。是をもつて()(はか)(はべ)るに、月水と申す物は外より(きた)れる不浄にもあらず。只女人のくせかたわ生死の種を継ぐべき(ことわり)にや、又長病(ながやまい)の様なる物なり。例せば()尿(にょう)なんどは人の身より出れども、()(きよ)くなしぬれば別にいみもなし、是体(これてい)(はべ)る事か。


日蓮はさらに女性信徒に説く。


 当世の一切の女人は仏の記し置き給ふ(ごの)五百歳二千余年に当たって、(これ)(まこと)の女人往生の時なり。例せば冬は氷(とぼ)しからず、春は花珍しからず、夏は草多く、秋は(このみ)多し。時節()くの如し。当世の女人往生も(また)此くの如し。(とん)多く(いかり)多く(おろか)多く(まん)多く(ねたみ)多きを嫌はず。(いか)(いわん)んや此等の(とが)無からん女人をや。女人往生抄


女性たちは夫の信心を通じて妙法を受持した。男のいうままに信心したが、彼女たちは法華経で説く女人成仏に関心をおぼえた。さらに驚くべきことに法華経は男女同等を説いていることを知った。これは彼女たちにとっては驚愕だった。

法華経以前の経典では、女性は何度も生まれ変わって男にならなければ成仏できないと説かれていた。女の身そのままで成仏はできないと説いてる。教典では、まるで女に恨みがあったのだろうかと思いたくなるほど女人に対し辛辣である。

「女人は地獄の使ひなり、()く仏の種子を断ず。外面は菩薩に似て内面は夜叉(やしゃ)の如し」(華厳経)()()()()

仮使(たとい)法界に偏する大悲の諸菩薩も、彼の女人の極業の(さわ)りを(ごう)(ぶく)すること(あた)はず」(十二仏名経)()()

「所有三千界の男子の諸の煩悩合集して一人の女人の業障と為る」(同)

「女人を見ること一度なるすら永く輪廻(りんね)の業を結す。何に況や犯すこと一度、定んで無間獄に堕す」(大論)。

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これを読む男性は女に生れなくてよかったと思うかもしれない。また女性にしても釈迦の女性批判には、思いあたる点があるかもしれない。

「苦の衆生とは別しては女人の事なり」(御義口伝上提婆品)という日蓮の指摘にもあるように、当時女性は圧倒的に社会的弱者であった。

だがこの女性の苦しみを打ち破ったのも釈尊だった。

釈尊は当初、比丘(男の出家僧)の修行の妨げなるとして女性の出家を認めなかった。最初の比丘尼(女の出家僧)は、釈尊の王宮時代の養母、摩訶波(まかは)(じゃ)波提(はだい)(マハーパジャパティー)だったが、彼女は再三出家を願い出たが釈尊に断られ続けた。見かねた釈尊の従者阿難が「マハーパジャーパティはあなたが恩ある方です。ぜひ出家を認めてください」と懇願し、ようやく許された。それでも出家者が守るべき戒(具足戒)は、比丘が二百五十戒に対し、比丘尼は三百四十八戒だった。

さらに釈尊は法華経で弟子たちに未来成仏の記莂をつぎつぎに与えたが、比丘ばかりでなく比丘尼にも成仏の約束をしている。

釈迦の叔母である摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)には一切衆生喜見仏、王宮時代の妻、耶輸(やしゅ)多羅女(たらにょ)には具足千万光相如来の記別をそれぞれ与えている。また蛇身の竜女が身を改めずして即身成仏し、舎利(しゃり)(ほつ)らの阿羅(あら)(かん)(注)を驚かせた。

日蓮は女性の本質について次のように説いている。

女人となる事は物に(したが)って物を随える身なり。『兄弟抄

女性はあらゆる社会の制約にしばられながら、信仰によって完全な自由を得られる。束縛されているように見えて「物を随える身」である。この自覚に立って妙法を唱えれば、自由自在の境涯をつかむことができる。女性にとって、これは法華経により盲目の目を開かれたようなものだった

日蓮の門下に(ごう)(しん)な女性が出現、続出したのは自然の成りゆきだった。日妙をはじめとして妙法尼、桟敷(さじき)の尼、千日尼、日眼女など、日蓮自身が驚くほど強信の女性が輩出していった。

                        10 弟子への薫陶につづく
上巻目次

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五障

女は、梵天(ぼんてん)(のう),帝釈天,魔王,転輪聖王,仏、にはなれないと言われてきた。竜樹の『大智度論』では五礙(ごげ)と称している。

阿羅漢(あらかん

)梵語arhanの音訳。一定の悟りを得、衆生から尊敬や供養を受けるにふさわしい僧の位。



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by johsei1129 | 2017-03-14 13:23 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 14日

8 日蓮を生涯支えた弟子、信徒の誕生

日蓮のもとに弟子となる若い僧がしだいに増えてきた。

日昭もその一人だった。

彼は日蓮が立宗宣言した建長五年四月二十八日から約半年後の十一月に弟子となった。生まれは下総国海上郡能手郷。日蓮より一歳年上である。十五歳のころ天台(てんだい)()(注)の寺で出家し、比叡山に登って天台の法門を習得したが、日蓮の立宗を聞いて鎌倉に下り弟子となり、松葉ヶ谷の草庵で修業することになった。

ある日、日昭が草庵の入り口に人の気配を感じ、日蓮に声をかけた。

「上人、お客様のようですが」

日昭が戸を開けた。

四条金吾が立っている。

日蓮が笑顔で立ちあがった。

「おおこれはこれは、いつぞやの剛毅なお武家殿」

金吾がかしこまって、ぎこちなく頭を下げた。

日蓮が快く招き入れる。

ふだんは人一倍居丈高な四条金吾が小さくなっている。

「あの節は無礼の段、面目なき次第でござった」

日蓮が首をふった。

「なんでもないことです。それよりも、このような粗末な草庵にわざわざおこしくだされ、うれしく思いますぞ」

金吾が袂をかいつくろう。

「先だってのお話、始めて聞くものでござった。ほかの寺院では聞いたことがありませぬ。わたしのような者でも、上人のおおせのように成仏することができましょうや」

 日蓮はおだやかに話しだした。

「いまこの国は天変・飢謹・疫病が蔓延しています。仏法ではこの苦しみの世界を穢土(えど)という。けがれた世界です。しかし衆生の心濁ればまわりもけがれ、心清ければ清浄となるのです。浄土(じょうど)といい穢土というのも、ふたつのへだてはありませぬ。ただわが心の善悪によるのです。

衆生というも、仏というもまた同じです。迷うときは衆生と名づけ、悟るときは仏と名づける。たとえば汚れた鏡も磨けば、万物を映し出すように。ただいまも迷う心は磨かざる鏡です。これを磨けば必ず成仏の明鏡となります。深く信心をおこして日夜に、またおこたらず磨くことです。ではどのように磨けばよいのでしょうか。末法においては、ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを磨くとはいうのです。

あなたは武門の家に生まれました。今はいくさがないとはいえ、他の人を殺し、はたまたいつご自身の命を落とすかもわからぬ宿命です。また主君に仕える身であるからには手柄を立て、一所を懸命に守らねばならない。しかしいくら名聞名利を得たとしても夢の中の栄え、珍しからぬ楽しみです。すべからく心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱え、他をも勧めんことこそ、今生の思い出となるのです」

金吾の心は日蓮の一言一言に突き動かされた。

「名聞名利でござるか。たしかに上人のおおせの通りです」

日蓮は金吾の表情に、なにか陰があるのを見てとった。

「金吾殿、なにか心配事でもあるようにみうけられるが」

 金吾ははっとした。この人は自分の心が読みとれるのだろうか。

「いいえ。今の教えを聞き、心が晴れた思いがいたしまする。ただ・・」

日蓮が身をのりだした。

 金吾が下をむく。

「じつは娘が一人おりますが生まれていらい病弱で、長く床に伏せっております。わたしも少々薬草の心得があり、調合し使ってはいるのですが、はかばかしくなく・・。いろいろな神仏に祈りましたが、いっこうに良くなりません」

 日蓮がうなずいた。

「承知しました。日蓮も及ばずながら、日蓮も金吾殿の大事なお子のため祈念いたしましょう無妙法蓮華経は師子がほえるのとおなじです。いかなる病が(さわ)りをなすことができましょうか。諸天善神は法華経の題目をたもつ者を守護します。ただし御信心によります。(つるぎ)なども勇気のない者には無用です。法華経の剣は信心のけなげな人が用いるもの。お子は必ず災い転じて幸いとなります。心を定め、御信心を奮い起こして祈念してくだされ」

 金吾は思わず手をついた。

しかとわかり申した。今から四条金吾頼基(よりもと)日蓮上人の信徒となり、南無妙法蓮華経と唱えていきます

金吾が返事するのと同時に、うしろから一斉に声があがった。

「入信おめでとうございます」

 驚いてふり向くと、大勢の町衆がいる。その中に富木常忍と安房天津の領主・工藤吉隆、幕府作事奉行を父に持つ池上宗仲、宗長の兄弟、さらに幕府儒官の比企(ひき)大学大学三郎がいた

 かれらは金吾のうしろで日蓮の話を聞いていたのである。

 金吾が顔を赤らめ、皆に頭を下げた。

 この時日蓮は三十五歳、四条金吾は九歳下の二十六歳、工藤吉隆は二十三歳、比企大学三郎は五十五歳だった。

 以後、四条金吾、池上宗仲、比企大学三郎は鎌倉の、また富木常忍、工藤吉隆は下総の有力な日蓮の檀越となった。彼らは信徒の中核として数々の法難に遭いながらも、生涯を妙法流布に捧げていくことになる。

 日蓮の布教はさらにつづく。

 幕府の御家人の中にも法華経に目覚める者がでてきた。四条金吾や木常忍など、御家人に仕える者もいたが、幕府の中枢にも法華経の理解者がでてきた。

 宿屋光則はその一人である。彼は俗の身分で出家し宿屋入道ともいったが、宿屋は北条時頼の側近中の側近として知られる。吾妻(あづま)(かがみ)()によると、後の時頼の臨終にして、看病のために出入りを許された七人の中に宿屋光則の名がある。

 日蓮は宿屋に会って意見交換をしている。宿屋は、いまだ無名に等しく決して高僧といえないが仏法の見識あふれる日蓮に好意をもった。


 

               9 女性信徒の出現 につづく
上巻目次


 天台宗

 中国隋代の天台大師智顗が開いた宗派。法華経を依経とするため、法華宗・天台法華宗という。法華経の教旨に基づき、釈迦の一代聖教を五時八教に分類して、諸経それぞれの意義と位置づけをし、仏教の真義は円教(法華経)に説かれる円融三諦であるとする。修行の段階に六即・五十二位を立て、一念に三千の法数を立てる。そして四種三昧・二十五方便・十境十乗観法(円頓止観)などの観法によって、すみやかに悟りを得、仏果を成ずることができると説く。

 日本へは鑑真が天台の典籍を伝えていたが、最澄が入唐中に道邃・行満から相承を受け、延暦二十四年(八〇五)に帰国後、比叡山で弘教に励んだ。そして最澄の没後七日目の弘仁十三年(八二二)六月十一日に大乗戒壇建立の勅許が下り、天長四年(八二七)五月に円頓戒壇が建立された。さらに貞観八年(八六六))、清和天皇より伝教大師諡号(しごう)が贈られた。日本史上初の大師号である。その後、慈覚(円仁)・智証(円珍)が入唐求法したが、智証が別派を立てたため、山門・寺門の分流が生じた。慈覚・智証はともに、天台宗の宗義に真言密教の教義を取り入れたため、日本の天台宗は急速に密教化していった。日蓮大聖人は伝教の弘教の結果設けられた大乗戒壇設立は、天台の弘教を超過したと評価している。


吾妻鏡

鎌倉時代に成立した日本の歴史書。治承四年(一一八○年)から文永三年(一二六六年)までの幕府の事績を編年体で記す。





by johsei1129 | 2017-03-14 11:32 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 12日

7 三災七難(大災害が日本を襲う)

日蓮が切通しを歩く。

鎌倉から武蔵をぬけて下総へ、東京湾を一周する道をとった。鎌倉で布教した信徒にこの方面の縁者が多い。道行くかたわらこの一帯を布教してまわったのである。

だが日蓮の意気込みを削ぐかのように、荒涼とした風景がつづいた。

田畑が荒れている。

まわりを見わたすと、やせ細った馬が道端に倒れている。今にも餓死しようとしていた。

日蓮が思わず眉をひそめる。

女の泣き声がどこからか、風にのって聞こえてきた。その哀調は悲しむようであり、恨むようであった。ただごとではない響きだ。

声の聞こえる方を向くと、一町ほど先に朽ちかけた百姓の母屋がぽつんとある

日蓮は誘われたようにこの家をたずねた。

玄関の戸を開け、中をのぞき込むと母親らしき女泣きくずれていた。そばには幼子が伏せている。
 日蓮がかけよった。

「いかがいたした」

女は日蓮の法衣を見て手をあわせた。何日食べていないのか痩せこけてげっそりとしていた

「お坊様、いま子供が亡くなりました」

「なんと不憫な。この子はなんと申す」

「まだ名前はつけておりません」

日蓮は子供のそばにひざまずくと合掌し「南無妙法蓮華経」と数回唱え、子供の死を弔った

日蓮は女にたずねた。

「父親はどうなされた」

「私を捨てて出ていきました。この飢饉で食べるものが尽きて、もうここには住めないと。わたしは子供をおいていくわけにもいかず、残っておりました」

「それはひどい」

「その上、はやり病がおきて、村の者はだれもいなくなりました」

日蓮が籠からにぎり飯をさしだす。

あ、これを食べて元気を出し、この子が来世に仏国土に生まれるよう南無妙法蓮華経と唱えるのです

 母親は泣きじゃくりながら子供の口元に握り飯を置き、日蓮の姿が見えなくなるまで南無妙法蓮華経と唱え続けた。


日蓮はさらに暗い殺伐とした空の下を行く。

歩み続けていくと、やがて異様なにおいがしてきた。いまだ体験したことのない臭気だった。

見ると、村のはずれで人々がすわりこみ、生き物を焼いているようだった。

そのまわりで女子供や年寄りが泣いていた。

近よって焼き場を見ると、なんとそれは何人もの死体であった。

「どういたした」

 うずくまった翁の返事が力ない。

「はやり病でございます。この一帯は疫病が充満しておりますだで。死人はすぐ焼けとの守護代様のご命令でこれで数え切れぬほどの・・」

老人がはずれの小屋を指さした。

日蓮は小屋の中に骸骨が充満しているのを見て愕然とした。

後ずさりし、ひざをくずす。

「なんということだ」

百姓がつぶやいた。

「作物はとれず、疫病が蔓延しておる。この村は全滅です」

この時、大地がたてにゆれた。そして強い横ゆれがおきた。かなり大きな地震だ。焼き場の山がくずれ、火の粉が飛びかった。

女子供が日蓮にしがみついた。

村人たちが絶叫し逃げまどう。

日蓮が揺れに負けまいと仁王立ちになった。

鎌倉に帰っても状況は変わらなかった。切通しの両側には無数の乞食がひざをかかえ、延々とならんでいた。みなぐったりとして動かない。

食を乞う声がひびく。

「お恵みを、お恵みを・・」 

日蓮が厳しい眼差しで周囲を見わたした。助けようとしてもなすすべがなかった。

田園地帯には二つの太陽があらわれたという。

百姓は枯れはてた田畑で太陽を指さしなげく。

祈祷師は太陽にむかって手を合わせた。

 

鎌倉時代は武士が台頭した下克上が特徴とされるが、同時に大災害が頻発した時代でもあった。

 例えば日蓮が立正安国論をした建長五年から翌年の建長六年にかけて、建長五年六月十日鎌倉大地震、建長六年一月十日鎌倉大火、五月九日大風により幕府政所(まんどころ)の文書散失、五月十一日京都大地震、七月一日鎌倉大風雨と、立て続けに災難が発生している。

日蓮はこの災難を複数の書にくりかえし記している。

旅客()たりて(なげ)いて(いわ)く、近年より近日に至るまで、天変・地夭(ちよう)飢饉(ききん)疫癘(えきれい)(あまね)く天下に満ち、広く地上に(はびこ)る。牛馬(ちまた)(たお)れ、(がい)(こつ)道に()てり、死を招くの(ともがら)既に大半に超え、之を悲しまざるの(やか)(らあ)えて一人(いちにん)も無し。


(いよいよ)飢疫に(せま)り、乞客(こつかく)()(あふ)れ死人(まなこ)に満てり。()せる(しかばね)(ものみ)と為し、並べる(かばね)を橋と()す。『立正安国論


今此の国土に種種の災難起こることを見聞するに所謂(いわゆる)建長八年八月自り正元二年二月に至るまで、大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病等種種の災難連連として今に絶えず、大体国土の人数尽くべきに似たり。之に依って種種の祈請を致す人之多しと雖も其の験無きか。  『災難対治抄


而るに当世は随分国土の安穏を祈ると(いえど)も、去ぬる正嘉(しょうか)元年には大地大いに動じ、同二年に大雨大風(みょう)(じつ)を失へり。定めて国を(ほろぼ)すの悪法此の国に有るかと(かんが)ふるなり。 守護国家論

死骸は物見台となり、橋となっているという。この悲惨な様子は誇張ではない。

日蓮が生まれる四十年前、鴨長(かものちょう)(めい)は「方丈記」で京都の飢饉の様子を記録している。この具体的な記述は現代のわれわれを震撼させる。


 また養和のころとか、久しくなりて覚えず、二年があひだ、世の中飢渇(けかち)して、あさましき事(はべ)りき。或は春・夏ひでり、或は秋、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるい()なみありて、秋刈り冬収むるぞめきはなし。

これによりて、国々の民、或は地を棄てて境を出で、或は家を忘れて山に住む。さまざまの御(いのり)はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、みなもとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて(のぼ)るものなければ、さのみやは(みさお)もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま()ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、(うれ)へ悲しむ声耳に満てり。 「方丈記 養和の飢饉()」より。


このあと長明は大地震の様子をえんえんと述べる。天変地異が人々を絶望させた。

日蓮が北条時頼(最明寺入道)に立正安国論を献上したのは、正嘉年間におきた大地震がきっかけだった。

朝廷や幕府はこの災害に無策だったわけではない。祈祷や秘法がさかんに行われたが効果はあがらない。

さらに元号の改変を行ったがこれも効き目はなかった。

現代の日本は天皇が崩御すると改元する。

だがこの時代はちがった。

天変地異、疫病、凶作がきっかけで、なんども変更された。為政者も必死の思いで災難からぬけだそうとしていたのだ。

ちなみに日蓮は貞応元年に生まれ、六十一歳で亡くなったが、この間、二十二回にわたり年号が変わっている。

元仁、嘉禄、安貞、寛喜、貞永、天福、文暦、嘉禎、暦仁、延応、仁冶、寛元、宝治、建長、康元、正嘉、正元、文応、弘長、文永、建治、弘安である。おぼえきれるものではない。

わずか六十一年でこれだけの年号が変わっている。

この二十二の元号の中で一番長く続いたのは文永年間だったが、それでも十一年で改元された。

なお、日本の歴史上もっとも長く続いた年号は昭和で、六十三年続いた。


元号の読み名には、なんとしても世を安穏にしたいという為政者の願望がうかがわれる。

こうして人々は、末法という言葉の重みをひしひしと感じていたのである。 

若宮大路のむこうに八幡宮が見える。

 鎌倉幕府の政務・財務をつかさどる政所(まんどころ)では会議が始まっていた。

北条時頼、時輔・時宗の兄弟、時頼の叔父の北条重時、安達泰盛がいならぶ。下座には陰陽(おんよう)()が控えていた。

時頼はいらだって徘徊した。

「この国は天変・地震・飢謹・疫病に取りつかれている。いったい、どうなっておるのだ。神、仏から見捨てられたのか」

北条重時が各地の御家人から届いた書状を見ながらつぶやいた。

「関東で餓死者一万人。疫病に倒れた者二万。さらに二つの太陽があらわれ、黒白の虹がでたとのことです」

時頼の怒りは、やり場がない。

「これ以上悪いことはないといっていいほどだ。われら北条が天下をおさめて以来の危機である。地方に逆族の反乱がおこっても不思議ではないぞ」

 重時が憮然として答えた。

「今は祈ることしかできないのが現状でござろう」

「ならば京・鎌倉の寺社の祈祷はどうなっておる」

「本年一月には六斎日・二季彼岸()の殺生禁止をすでに命じており、六月には諸国の寺社に(しつ)(えき)退治の祈祷を命じております」

「それがなぜ通じない。かえって災難を増長させておるではないか。陰陽師、どうなっておるのだ。なにか良くなる策はないのか」

 陰陽師六壬式盤(りくじんちょくばん)(注)に目をやり、答える

「恐れ入りまする。今はただ、この国土に魔が入り、鬼がはびこっているとしかいいようがございませぬ」

 これを聞いていた時頼が言い放った。

陰陽師にも策がないなら、わしが決断するだけだ。米倉を開き、乞食にほどこせ。各地の薬草を取り集めよ。商人どもを使え。全国のすべての寺社に祈祷をつづけさせよ」

鎌倉の蓮花寺に聴衆がつめかけていた。念仏宗の大寺院である。

人々はこの苦しい世を乗りこえるには念仏にすがるしかないと参詣した。

聴衆の中に薄墨の法衣と袈裟をまとった日蓮がいる。

やがて黒衣の僧侶、然阿が説法をはじめた。

然阿は正式の名を然阿良忠という。石見(島根県)の出身。十六才で出家。円信・信蓮に従って倶舎、天台を学び、密蔵・源朝に従って密教を修行した。その後、弁阿聖光の立義を聞いて築後へ行き、その弟子となる。仁治元年(一二四○年)北条経時の要請で鎌倉に蓮花寺(のちの光明寺)を開き、授戒している。また後嵯峨天皇に円頓戒を授けて香衣を給わったという。鎌倉を代表する念仏僧である。       
 その然阿が静かに語りだす。

「この世は苦しみで満ちている。この苦しみから逃れるには、南無阿弥陀仏と唱えるしかない。ほかの教えは捨てるのです。われわれ凡夫に叶う教えは南無阿弥陀仏しかない。ほかの教えは理想が高すぎる。われわれは法華経も華厳経もわからない。これらを捨て去って南無阿弥陀仏とだけ唱えておれば往生できるのです」

ここで日蓮が声をあげた。

「すばらしい。まことにすばらしい」

然阿がほほえんで会釈した。日蓮はその笑顔をとらえた。

「成仏の教えは南無阿弥陀仏しかないとか、法華経などの教典を捨てよとは大胆ですな。その教えはだれがどこで説いたのですかな」

「お若い方。よくぞ聞かれました。阿弥陀経でございます」

日蓮は腕をくんで感心した。

「不思議ですな。阿弥陀経とは釈迦の説法のうちでも(ごん)大乗経といって法華経、涅槃(ねはん)経等の(じつ)大乗経と比べ一段程度の低い教えです。それを根拠に成仏は南無阿弥陀仏と唱えるしかないとか、ほかの経をすべて捨てるというのは仏教の開祖釈尊を(さげす)むことになるのではないかな。そもそも阿弥陀経に、他の経はてすべて捨てよと説かれておられるのかな

念阿が一瞬、気色ばんだ。

「いやいや、それはちがう。法然上人が申されておる。われらはそれに従うまで」

「惜しいかな。せっかく叡山で修業したにもかかわらず、法然上人は低い教えに執着し釈迦の仏法をまげてしまった。無間(むけん)地獄にひとしい罪である。それを教える者も、人々を地獄に引き入れる悪人でありましょう」

然阿が興奮しだした。

「そなたはだれだ。名をなのれ」

日蓮は聴衆にむかっていった。

「みなさん、わたしは松葉ヶ谷に住む日蓮と申す僧でございます。今の話をくわしく聞きたければ、いつでもわたしのところへおこしくだされ」

満座の怒号の中、然阿の弟子が日蓮を堂内から追い出す。

 日蓮は堂々と去っていった。

日蓮は法華経を弘めるかたわら、他宗の寺におもむき、さかんに法論をしかけていった。

 その甲斐があり、松葉ヶ谷の日蓮の草庵にはしだいに大勢の聴衆がつめかけるようになっていった。

日蓮が草庵を訪れた人々に力強く話す。

「教主釈尊は説法をはじめて四十余年の後、未だ真実を顕していないとして法華経を説かれました。したがって法華経以前に説かれた阿弥陀経は、法華経で説かれた最高の悟りは含まれない方便の教えであり、法華経こそ八万法蔵といわれる一切経の王であり釈尊の究極の教えであります。それ故、法華経の題号である妙法蓮華経と唱えなければ末法の衆生が成仏することは叶いません。

法然上人はこの法華経を「捨閉(しゃへい)閣抛(かくほう)」つまり、捨て、閉じ、(さしお)き、(なげう)って念仏を唱えよと言います。それ故、釈尊の最高の教えを誹謗(ひぼう)する法然上人の南無阿弥陀仏を唱えれば、無間地獄に陥るのは必定(ひつじょう)なのです」

 念仏の僧侶たちは日蓮にかなわなかった。

日蓮は経文を先として念仏の邪義を攻めたので念仏者は反抗できなかったのである。

 昔から法然の念仏を批判した者は多かった。念仏禁止の宣旨もでた。比叡山もかつては念仏を弾圧したが、勢いは止まらず法然の教えは広まった。それを日蓮は食いとめはじめた。

日蓮はその理由を次のように語っている。

  (とし)三十二建長五年の春の(ころ)より念仏宗と禅宗とをせめはじめて、後に真言宗等をせむるほどに、念仏者等始めにはあなづる。日蓮いかにかしこくとも明円(みょうえん)房・(こう)(いん)僧上(注)・顕真座主(ざす)(注)()()()()()()等にはすぐべからず。彼の人々だにも始めは法然上人をなん()ぜしが、後にみな堕ちて(あるい)は上人の弟子となり、或は門家(もんけ)となる。日蓮は彼がごとし。(われ)()めん、我つめんとはやりし程に、いにしへの人々は但法然をなんじて、善導(ぜんどう(注)道綽(どうしゃく)等をせめず。又経の権実をいわざりしかばこそ、念仏者はをご()りけれ。今日蓮は()()・法然等をば無間地獄(注)()につきをとして、(もっぱ)ら浄土の三部経を法華経にをしあ(推合)はせてせむるゆへに、(ほたる)()に日月、江河に大海のやうなる上、念仏は仏のしばらくの戯論(けろん)の法、実にこれをもって生死をはなれんとをも()わば、大石を船に造りて大海をわたり、大山を()なて険難を越ゆるがごとしと難ぜしかば、(おもて)()かうる念仏者なし。   『破良観等御書

明円、公胤、顕真はいずれも念仏に帰伏した僧である。なかでも顕真は天台座主でありながら念仏にひかれて宗旨替えをした。

念仏者たちは日蓮も同じだと思っていた。師の法然を責めても勝つわけがないと。

 だが日蓮の手法はちがう。

法華経を至高とし、念仏者がすがる浄土三部経を戯論(けろん)くだし、法然の師である中国の善導までふくめて無間(むけん)と破折した。釈尊の一切経および梵・漢の主要な論・釈を把握した上で諸宗派の僧を攻めていったのである。

日蓮は十六の年で得度し、三十二で立宗するまで、またそれ以降も内外の典籍を研鑽し続けていた。当然ながら善導の書も読みこんでいる。この日蓮の研鑽の成果は正安国論を始め、生涯書きのこした五百以上に及ぶ著作(御書)に次第に明らかにされていくことになる。

日が傾いていた。

馬上の武士、四条金吾が鎌倉の街を悠然と進んでいた。

従者が馬の口をとる。

金吾が自邸の門をくぐり、大声で呼んだ。

「いま帰ったぞ」

妻の日眼女がでてきた。

「お帰りなさいませ」

「子の様子はどうじゃ」

二人が家の奥に入っていく。

部屋の戸を開けると幼子が布団に寝ている。

金吾が寝顔をのぞきこんだ。

いかつい金吾が慈愛にあふれた表情をみせた。

妻の日眼女がつぶやくように言った。

「少し良くなったようですが」

「もう少し様子を見た方がよいか。一進一退だのう」

「申しわけありません。私がいたらぬばかりに」

「おぬしのせいではない。世間でも、はやり病がまん延しておる。いくら防いでもこればかりはどうにもならぬ」

金吾の部屋には小さな土びんがずらりとならんでいた。

金吾は薬草に長じていた。今でいう薬剤師であり、医師でもあった。主君の病を治した実績がある。

彼は小さじで薬を盛りながら調合し、皿に盛った。そして日眼女に薬をわたした。

「明日の朝、これを娘に」

日眼女がうなずいた。

 四条金吾は北条光時(名越光時とも)に仕える幕府御家人である。光時の父は名君北条泰時の弟朝時だった。北条の直系ではない。だが北条と名のるだけでも人々に重きを置かれた。

四条金吾も二代続いた光時の家来として鎌倉で名を知られていたが、とりわけ有名だったのは、その性きわめて強情短気だったことである。

居間の中央に大きな囲炉裏がある。

下女が夕飯の支度をはじめた。

金吾が飯をとった。

日眼女がその横で機嫌をとる。

「いかがでございました。今日は」

金吾はぶっきらぼうに答える。

「なにもない。単調な宮仕えだ。光時様も北条の分家とはいえ、お元気であらせられる。今のところは安泰であろう」

「今のところは・・」

「執権時頼様が引退されたあとはどうなるかわからぬ。いまや本家に権力が集中しておる。これからは、われら分家の家臣はいつどうなるかわからぬ」

「まさかいくさでも」

「わしも武士のはしくれ。その時は覚悟せねばならぬ」

日眼女がしんみりとしたが、気を取り直して酒をとり、金吾の杯にそそいだ。

「さあさあ、心配事はよそにおいて」

日眼女がにこやかに金吾を見つめた。

「あのお坊様のお話をまたしてください」

金吾は露骨にいやな顔をした。

「もうしとうはない」

 日眼女はかまわず話を続ける。

「あの日はたいそう怒ってましたわね。お坊様に・・」

「日蓮という僧侶はわしの暴言にも、たじろがなかった。骨のある僧かもしれぬ」

「あなたの話を聞いていると、まるであなたを僧侶にしたようなお方ですわね」

金吾は思い出していた。

日蓮の言葉が耳にのこっている。

「男ははじ()に命をすて、女は男の為に命を()つ」

いっぽう、日蓮の信徒となった富木常忍は鎌倉の千葉邸に勤めていた。富木は日蓮より六歳年上である。それだけに分別にも長けた人物だった。

富木の主君千葉氏は全国に所領をもっていた。下総をはじめとして畿内、九州にまで領地があった。常忍は千葉氏の披官として訴訟の取扱、年貢の徴収、輸送、財政の管理など多忙であった。

富木の父はもともと因幡(鳥取)の出である。因幡国の富城郡に本領があった。父が千葉家に仕えたため、子の常忍も関東入りして出仕することになった。

富木親子は有能な官僚だった。承久の戦乱はとうに終わり、治世の安定が急務の時である。千葉氏のような実力者は才能ある文官を求めていたのである。

その千葉邸では事務官が机を並べ、書き物をしていた。そのあわただしさは現代の会社とかわらない。広間には馬や荷車が忙しく出入りしていた。

事務室では富木常忍が机で文書を(したた)めている。その横で同僚が書類に目を通していた。彼は届いたばかりの下し文を読んでいた。苦い顔である。

「また鎌倉殿から作事の下命じゃ」

 みなが「またか」とばかりに顔を見合せる。

「おいおい、千葉家が守護とはいえ、財政は逼迫しておる。なんとかことわる手はないのか。どこだ、作事は」

「京都、蓮華王院」

「それはまた、たいそう金のかかること」

常忍が思案する。

「まず殿の上洛の算段をせねばならぬ。少なく見積もって二百貫」

同僚がなげいた。

「ないぞ、ないぞ、そんな金は下総にも、鎌倉にも」

三人が腕を組んだ。

常忍が口をひらく。

「では九州の年貢から調達するのはどうだ」

同僚が手を打った。

「そうであった。金は商人から借り入れし、決済は九州で取り立てさせよう」

地方の財政難は今に始まったものではない。中世人も苦労していた。彼らは()(しゃく)という商人や運送業者を駆使して幕府の指示をこなしていたのである。年貢の収穫が遠隔地であれば馬借が取り立てる。為替の一種だった。

同僚がぼやいた。

「しかし物入りだのう。わが殿は京都の大番役を務めたばかりではないか。つぎからつぎへと責められるな。鎌倉殿は人使いが荒すぎるぞ」

常忍がたしなめた。

「これこれ。滅多なことを申すでない。殿が安泰でいられるのも鎌倉殿のおかげではないか。われわれは殿のために、あらゆる手段で策を講じなければ」

 同僚たちが一同に笑った。

富木殿、お説ごもっともです。我ら一同しかと承りました。法華宗(ごう)信徒の富木殿にはかないません

富木の法華信仰は有名である。みな苦笑しながら仕事にもどった。

彼らは文書を整理し、使い古しの紙は捨てていた。この紙を常忍がひろいあつめた。

同僚が怪訝(けげん)な顔をした。使用済の紙など、なんに使うのか。

松葉ヶ谷の草庵に夕日がさしていた。

日蓮が筆をとる。

常忍から届けられた使い古しの紙に筆を入れている。表は書き込まれていたが、裏面はまだ使える。この紙は常忍たち千葉家の役人が使っていたものである。

当時、紙は貴重だった。()き返しといって再利用していたほどである。

常忍は雑紙の束をとどけ、日蓮と弟子たちはこの雑紙の裏に仏典や天台教学を書き写し、研鑽していたのである。余談だが、このおかげで表面に書かれていた千葉家の文書が現代まで伝わり、鎌倉時代を知る貴重な紙背資料となっている。


                8 日蓮を生涯支えた弟子、信徒の誕生につづく
上巻目次


 注

六斎日・二季彼岸

仏教用語で、毎月八・十四・十五・二十三・二十九・三十日を「六斎日」、春秋二季にある彼岸の期間を「二季彼岸」と称し、持戒清浄で過ごす日とされていた。

六壬式盤

陰陽(おんみょう)()が使用した占いの道具。文字・図が記された四角い盤の上に、邦楽等が記された円盤上の物が乗っている。

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公胤僧上

 平安末期から鎌倉前期にかけての天台宗の僧。源氏将軍の威光をうけ、しばしば鎌倉へ下向した。北条政子の依頼により源頼家の遺児である公暁を弟子としてあずかっている。一方で後鳥羽上皇の信任も厚かった。法然が選択集をあらわしたとき「浄土決疑抄」を執筆して非難したが、のちに法然に会って法門を聞くにおよんで帰依したという。

顕真

大治五年(一一三○)~建久三年(一一九ニ)比叡山延暦寺第六十一代座主。美作守藤原顕能の子。比叡山に登って顕教を座主の明雲に学び、密灌(みつかん)(密教の秘密灌頂という儀式)を法印相実から受ける。後に法然の専修念仏の義を信じ、余行を捨てて専ら念仏三昧にふけった。文治六年(一一九○)三月に天台座主となり、建久元年(一一九○)五月、権僧正となったが、同三年十一月没す。

善導

大業九年(六一三)~永隆二年(六八一)。中国浄土教善道流の祖。姓は朱氏。臨淄(山東省)、または泗州(安徽省)の生まれといわれる。道綽(五六二~六四五)のもとで観無量寿経を学び、念仏を行じた。師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。最後はこの世が苦しみに満ちているとして極楽往生を願い、柳の木から身を投げて死去した。

「此の身諸苦に逼迫せられて情偽反易し、暫くも休息すること無し。乃ち所居の寺の前の柳樹に登りて、西に向かって願って云はく、仏の威神(しばしば)以て我を摂し、観音勢至も亦来たって我を助けたまへ。此の心をして正念を失はざらしめ恐怖を起こさず。弥陀の法の中に於て以て退堕を生ぜざらんと。願し(おわ)って其の樹の上に極まり身を投じて自ら絶えぬ」(類聚伝)

無間地獄

 八大地獄(八熱地獄ともいう)の一つ。大阿鼻地獄ともいう。間断なく大苦を受けるのでこの名がある。欲界の最底部にあり、縦横八万由旬で周囲に七重の鉄の城があるという。五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・(すい)(ぶつ)(しん)(けつ)・破和合僧)の一つを犯す者と、正法誹謗の者はこの地獄に堕ちるとされる。

「法華経二の巻に云はく『其の人(みょう)(じゅう)して阿鼻獄(あびごく)に入らん』云云。阿鼻地獄と申すは天竺の言、唐土日本には無間と申す。無間はひまなしとかけり。一百三十六の地獄の中に一百三十五はひま候。十二時の中にあつけれども、又すゞしき事もあり。()へがたけれども、又ゆるくなる時もあり。此の無間地獄と申すは十二時に一時(ひととき)かた時も大苦ならざる事はなし。故に無間地獄と申す。此の地獄は此の我等が居て候大地の底、二万()(じゅん)をすぎて最下(さいげ)の処なり」 『光日上人御返事



by johsei1129 | 2017-03-12 22:52 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 11日

5 四条金吾登場

                              英語版


道に枯れ葉が落ち、秋の気配がただよってきた。

日蓮は松葉ヶ谷の草庵に参詣する人々に、気よく法華経の信心と他宗の誤りを説いていった。

巷間伝えられる日蓮の辻説法だが、のこされた書を見るかぎり実際にはしていない。たまたま道端で会話する事はあっても、布教の基本は草庵内で、静かに落ち着いて聞ける環境でおこない、時に法門について質問があれば、その者の志を称え、問答をしながら説いていった。

日蓮が立宗宣言した建長五年の末、十二月九日に同郷の信徒、富木常忍に送った最初の消息文が今も残っている。

 よろこびて御とのびと給はりて候。ひるはみぐるしう候へば、よるまいり候はんと存じ候。ゆうさりとりのときばかりに給はるべく候。又御はたり候ひて法門をも御だんぎあるべく候。

 十二月九日  日蓮

 とき殿             『富木殿御返事

()

 お迎えの殿人をつかわして頂けるとのことで喜んでおります。日中は人目につきますので、夜にお伺いしたいと思います。夕方の(とり)(6時ごろ)の刻にお迎え頂ければと思います。また、こちらにもおいで頂き法門について御談義できればよいかと存じます


辻説法は見た目は派手だが効果は少ない。今も政治家が街頭でマイクをにぎるが、聴衆はお目当ての政治家の姿、顔は見ても、演説はほとんど聞いていない。

釈迦も基本は王や豪族から寄進された寺院、たとえば竹林精舎(注)などで説法をしている。

鎌倉八幡宮に雪がふる。

通りかかる武士や町民が宮にむかって手をあわせている。

鎌倉八幡宮は鶴岡八幡宮ともいう。康平六年(一○六三年)河内源氏二代目の源頼義が京都の石清水八幡宮護国寺から勧請したのが始まりである。それいらい源氏の守護神としてあがめられた。そのため八幡宮の前を通る者は必ず手をあわせた。


日蓮の松葉ヶ谷の草庵にも粉雪が舞い込んできた。

 日蓮は季節の変化に時の流れを感じつつも、草庵では変わることなく、根気よく聴衆に法華経の説法を続けていた。

 

 時が過ぎ、やがて立宗宣言をした建長五年から三度目の春を迎えた。元号は建長八年(一二五六年)十月五日に、康元と改元された。

 若宮大路(だん)(かずら)()の両脇には桜の花が咲き乱れ、鎌倉の人々は陽春の喜びに満ち満ちていた。

 草庵の窓からは花から花へと優雅に飛び交う蝶が見える

日蓮の名がしだいに鎌倉にひろまってきた。

 日蓮に帰依し、南妙法蓮華経と唱える信徒が一人また一人と誕生した。

草庵に参集する聴衆の中には武士もまじっていた。

盛況である。

日蓮がいつものように法華経の経巻を手に語りだした。

「普賢経にいわく『衆罪は(そう)()の如し。()(にち)()く消除す』と。すなわち正しい仏法を信ずれば、過去世の罪障は消え去っていくという意味であります」

「おまちくだされ」

若い武士が唐突に日蓮の話をさえぎった。まだ二十代であろう。青年は眉間に皺をよせた。

「いまの話、納得いかぬものあり。人間、毎日を罪深く生きておるもの。まして我ら武士は殺生もいとわぬ者どもでござる。いかに仏であろうと罪深い我らを救うことができましょうや」

 突然の質問だった。

日蓮は笑みを浮かべて答える。

「まことによい質問です。この問いに答えるためには、まず我らはなんのためにこの世に生まれたかを考えねばならない。末法の衆生は地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゅら)・人・天の六道を巡り巡っている。縁に触れ願いがかなえば有頂天になり、主君から(とが)められ勘気(かんき)を受ければ地獄に陥る。ある時は怒り、ある時は嘆き、時に畜生のように上の者にへつらい、下の者を(さげす)む。この繰り返しでは現世も安穏に暮らせず、後生も善き処には生まれないでしょう。そのためには仏の道に入らなければなりません」

「ほう、では仏を信じない者は、なんに命をかけていると」

日蓮が諭すようにその武士に語りかけた。

世間では男は(はじ)に命を捨て、女は男のために命を捨てるといいます。又、畜生の身である魚は命を惜しむゆえに池に住むが、池の浅いことを嘆いて池の底に穴を掘って()む。しかし(えさ)にばかされて網にかかる。鳥は木に住みます。木が低いことで敵に狙われる事を()じて木の上の枝にすむが、餌にばかされて網にかかってしまう。人もまた同じことです。世間の価値のない浅いことに身命(しんみょう)を失うことはあっても、人に生まれて最も大事な仏の道に命を捨てる事は難しいのです。それ故、仏になる人もいないのです

 日蓮に諭された侍は憤って反論する。

「ばかな。武士は一所懸命といって自分の土地を死ぬまでたもち、一族郎党を守るのが役目である。それが武士というもの。餌にばかされるというのはなんたる雑言。撤回されよ」

この様子を見ていた別の武士が口をはさんだ。どことなく気品があり、おちついた口調である。

「失礼ながら、この場は説法をうかがう貴い場でござる。良薬口ににがく忠言耳に逆らう。たとえ自分の考えとはちがっていても、心を静めて聞くのが武士ではありませぬか」

侍がさらに興奮した。

「なにを聞いた口を。このわしに忠言するとは、よほどの愚か者じゃな。われこそは北条光時様の家臣、(なか)(つかさ)三郎左衛門の尉頼基(じょうよりもと)、人呼んで四条金吾(注)と申す者。この鎌倉ではだれも知らぬ者はない。おぬし、名乗ってみよ」

下総(しもふさ)千葉の(すけ)の家臣、土木常忍と申します同郷の縁もあり四年前に日蓮上人の信徒となりました。本日は鎌倉に所用があり、有難くも上人の法座にまいることができまし。四条金吾とやら。ここは武士も百姓もへだてのないところでござる。法を求めるのに身分などは関係などはござらぬではないか。いかがかな」

まさに正論である。

勢いにまかせて声を張りあげたが四条金吾は返答に窮した。彼は顔を真っ赤にして立ちあがった。

「拙者、所用がある、御免」

日蓮はあえて引き止めなかった。弟子たちには「あの御仁は近々必ずこの草庵に見参するでしょう」と言い伝えた。

 

この時、日蓮は四条金吾が去った出口に旅姿の百姓が立っているのに気づいた。長旅で疲れきった様子である。見覚えのある顔だ。

日蓮が思わず中腰になった。

「おお、そなたは・・」

安房清澄寺の百姓だった。彼は日蓮を見つけて、ほっとして土間にすわりこんだ。

「上人、お助けくだされ、清澄寺が・・」


                   6 東条景信との確執 につづく
上巻目次




竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)

 中インドのマガダ国の首都、王舎城(現ビハール州ラージギル)に実在した最初の寺院。迦蘭陀長者が所有していた竹園で、長者が釈尊に帰依したことから仏教の僧園として寄進、その土地に頻婆娑羅(ビンビサーラ)王が僧侶暮らすための伽藍を建立したといわれいる。

 大唐西域記で『釈尊がしばしば、そのほとりで法を説いた』と記された「カランダの池」が、インド政府考古局の調査で発掘され、竹林精舎がこの地にあったことが確認された。

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 段葛(だんかずら)

神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮、若宮大路のなかで、二の鳥居から鶴岡八幡宮までの車道より一段高い歩道をいう。終着点には三の鳥居があり、鶴岡八幡宮の境内へと到る。

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 四条金吾 

 寛喜二(一二三〇)年生まれ。妻の日眼女は寛元元(一二四三)年生まれであることが『四条金吾殿女房御返事』「今三十三の御やく」の記述よりわかる。尚、四条金吾の母は池上家の娘と伝えられている。




by johsei1129 | 2017-03-11 23:09 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 11日

4 日蓮、鎌倉で弘教を開始  一

     英語版
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                       (鶴岡八幡宮)

鎌倉の建長寺の本堂で北条時頼の親子が座禅を組んでいた。
 寺のまわりには警固の武士が集まった。ものものしい警戒ぶりである。
 親子の向かいには黒衣の禅僧、道隆がいる。

道隆は宋から招来した高僧で(あざな)蘭渓(らんけい)。南宋・西蜀(四川省)の人である。三十三歳の時、弟子を伴って日本に渡航し、翌年入京して泉涌寺來迎院にはいった。さらに鎌倉におもむいて壽福寺・浄楽寺にいたが、北条時頼が日蓮の立宗と同じ建長五年に建長寺を建立すると、請ぜられて開山となり時頼の帰依をうけた。

時頼はすでに執権の職から離れていた。だが(さね)(とき)(やす)(とき)とつづく北条の直系は健在で、その権勢は他の御家人を圧倒していた。

また時頼は朝廷でさえ支配下においていた。

きっかけは承久三年(一二二一年)に、()鳥羽(とば)上皇が源頼朝の正室北条政子の弟・第二代執権北条義時を討伐する兵を挙げて敗れた「承久の乱」だった。その結果、義時は後鳥羽上皇を謀反(むほん)(とが)隠岐(おき)へ、順徳天皇を佐渡にそれぞれ配流(はいる)した。また後鳥羽上皇の第一王子だった(つち)御門(みかど)上皇は無実ながら自ら進んで土佐への配流に処された。これ以降、鎌倉幕府は朝廷支配を確立することになる。

この意味で鎌倉幕府の執権は、日本における皇帝ともいってよかった。

親子の背後に(きょう)(さく)をもつ禅僧が立つ。

まず長男時輔が肩をうたれた「何故」とばかり顔をしかめる。

つぎに時宗がうたれた。時宗は兄の反応とちがう。しまったという顔をしたが合掌(がっしょう)低頭(ていとう)してから背筋を伸ばし、また静かに目をつぶった。

道隆がほほえむ。
「やはりお若いだけあって、心が動きなさるな」

父の時頼が目をつむりながら語る。
「ほう、和尚は二人の心を読みとってござるか」

道隆が得意気である。
「時輔殿は時宗殿に対抗心むき出しでございます。弟などに負けられぬという気持ちがありあり」
「ほう、では弟は」
「とりもなおさずお父上の行く末を案じているとお見受けしました」
「わしのか」
「時頼様のあと、いずれが鎌倉の主となるのか。年の上では兄者の時輔殿、器量では自分がなるものかと」

気の荒い時輔が口をはさむ。
「道隆殿、口がすぎないか」

だが時頼が長兄の時輔をとがめた。
「まてまて、和尚の読みは憶測も入っておる。そのようなことで心を乱さないのが禅宗の教えじゃ」

道隆の口元に笑みがこぼれる。

時頼が瞑目しながら聞いた。
「では和尚、わしの心は」

道隆が考えこんだ。
「このごろの天災や飢饉のことではございませぬかな」
「そのようにみえるか」

「鎌倉幕府は今や安泰とみられております。であれば時頼様はこれから内政の充実に心をくだかれておられるはず。しかし、さしもの時頼様も飢餓、疫病、天変にはかなわぬものとお嘆きでは」

「ちがうな」

予想外の反応に道隆の表情が一瞬こわばる。

「和尚のことを考えているのよ。南宋よりわざわざ来られた貴い僧じゃ。わが日本国は宋との貿易を重んじるため、鎌倉の港も整備した。しかしそれは宋のまつりごとが安泰だからできること。その宋が北方の(えびす)におびやかされている」

道隆の額に汗が流れる。

「御存知で・・」

「この寺を建てたのは和尚が中国でならびない情報通であるからこそ。様々な話もわしの耳に入れてほしいものだのう。この日本国に禅宗をひろめようと、お思いなさるのであれば、損になることではないと思うがの」

道隆が下をむいた。

「それがなかなか思うにまかせませぬ。日本国はいま念仏宗が大半を占めまする。それにいま、鎌倉ではわれら禅宗をふくめ、あらゆる宗派を攻撃する僧侶がおりまして」

「ほうそれは奇怪な」

「たしか日蓮とかいう・・」

時頼が笑った。

「わしは海を隔てた他国との外交に不安あり。和尚には、おひざ元鎌倉の日蓮とやらに心配ありか」

鎌倉時代の庶民の家はいまにも倒れそうなものばかりだった。壁は土で固められ、屋根は板を重ね、風で飛ばないように重石をのせていた。現代からみれば貧民街を思わせるが、いつの時代でも人々はたくましい。 

庶民のふだん着は小袖に袴を履き、足元をひもでむすび、腰には腰刀と火打ち袋をつけていた。いまでも田舎で見かけるモンペの格好であり、今のわれわれにも馴染みがある。

現代と際立って違うのは、男が烏帽子をつけていたことである。老いも若きも黒い三角の冠を頭におき、顎でしばって固定させていた。寝る時もつけたという説もある。平安時代の貴族文化が庶民におりてきたと思われる。

食生活は質素だった。主食は玄米に麦、粟を混ぜて蒸かしたもので、現代の様に精米を水から炊くことはなかった。白米は貴族が食したが、そのため貴族の寿命は概して短かった。


日蓮の草庵は質素な建物だった。

安房の田舎からきた一介の僧である。頼るのは故郷安房国のわずかな信徒のみだった。

鎌倉の南東に位置し、初代執権の北条時政が館を構えたという名越に松葉ヶ(やつ)とよばれた地があった。町民の家もあれば武士の家もある。ここは海に近い。ゆるい坂道をくだれば活気にあふれた材木座海岸がある。近くには北条の支族である名越氏の屋敷があった。名越は大尼の実家である。ここは幕府の中枢が住む八幡宮周辺からは遠い。大多数の僧は権力に近づくことにやっきになったが、日蓮はまず松葉ヶ谷に草庵を構え、武士や町民に布教を開始した。

人々はもの珍しいことに興味をおぼえる。

「おい、どこにいくんだ」

「いやなに、最近松葉ケ谷に越してきたとかいう坊さんだ。ありがたい説教をされるというのでな」

「ほう、そいつはおもしれえ。どれ、聞いてやろうじゃねえか」

「そんならおらも行く、ところで銭をとられやしねえか」

町民たちが日蓮の草庵に入っていく。

中では日蓮をかこんで聴衆が十人程度いた。町人もいれば女性も武士もいる。みな板敷にすわって日蓮の話を聞いていた。壁には南無妙法蓮華経と大きく書かれた紙が貼ってあり、その前には質素な宝殿があり、法華経八巻、開経の無量義経一巻、結経の普賢経一巻、計十巻が中央に奉納されていた。

 日蓮は宝殿を背にして説法を始めた。

「念仏を信じる人は南無阿弥陀仏と唱えます。お釈迦様を祈るのではなく、阿弥陀を祈っている。そもそも阿弥陀は釈迦仏が阿弥陀経で説いた仏です。いわば釈迦仏を親とするなら阿弥陀仏は他人と同じです。それ故、衆生が親の釈迦仏をないがしろにして他人を崇めるのは親をさげすむのとおなじです

聴衆が首をかしげた。

「禅宗の僧は教外別伝といい、仏の教え以外に口伝(くでん)()(しょう)につたえられたと妄説を立てています。そんなことはありえません。禅宗は仏教を始めた大恩ある釈尊をのけ者にする天魔の教えです」

聴衆が一人、二人と去っていった。首をふって帰る者もいた。

そしてだれもいなくなった。

日蓮はそれでも平然としていた。

日蓮は法華経の題目である南無妙法蓮華経を直接説いていった。聞いている人の機根にかかわらず、いきなり説いていく。これを折伏といった。

釈迦はこれとは逆に四十余年にわたって衆生を誘引した。仏法の核心である法華経を説くために、さまざまな法を説いていった。これを調機調(ちょうきじょう)(よう)という。釈迦は出世の本懐である法華経を説き始めるのに四十数年を要したのである。

日蓮は釈迦とちがって法華経の核心を直ちに説いていった。

この方法は法華経の()()「常不軽菩薩品第二十」に示されているそこに登場する不軽菩薩(注)全ての大衆に分け隔てなく「全ての衆生に仏となる命(仏界(ぶっかい))がある」と説いていったのが折伏である。大衆は法華経の縁をもっていない。これを(ほん)未有(みう)(ぜん)(注)いう。このため大衆は