日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:小説 日蓮の生涯 上( 39 )


2017年 03月 25日

二、故郷、清澄寺の人々

                                          英語版

安房の国はいまの千葉県房総半島の南端である。

日ざしは亜熱帯を思わせた。

山の中腹にある寺院、清澄寺が太平洋を見おろしていた。

ここは都とうってかわった静けさがただよう。寺院では所化たちが広い門前を掃き清めていた。

清澄寺の講堂では笑い声がひびいた。

堂には本尊の()空蔵(くうぞう)菩薩像が安置されている。この講堂に蓮長の帰りを待つ人々がいた。

蓮長の父三国太夫と母の梅菊女、さらに古くからの信徒、大尼御前、住職の道善房、住僧の浄顕房、義浄房らが輪になってすわっている。
 大尼はこの寺の大檀那。道善房は蓮長の師匠。浄顕房と義浄房は兄弟子である。みな幼い時から蓮長を知っている。

世話好きの大尼がにこやかに話す。

「まことに蓮長はかしこい子供でありました。皆御存知のことではありますが、わらわは蓮長を幼い頃から目をかけていました。早いものでもう十二年。さぞかし立派なご僧侶になったことでありましょう」

大尼は名越流北条氏の祖である朝時の未亡人だった。朝時の兄は大政治家として名高い第二代執権北条泰時である。大尼は夫が安房の領主だった関係でこの地に根をおろしていた。世話好きな彼女は蓮長親子に目をかけ、物心両面で援助していた。

三国太夫が久しぶりに会った大尼に頭をさげる。

「まことに大尼様のおかげで蓮長この寺で仏門に入り、叡山で修行することができました父として、あらためてお礼を申しあげます」

母の梅菊も蓮長が成長し無事に清澄寺に戻る事への報恩の思いを込め、大尼に頭をさげた。

蓮長が立派な僧侶となってこの安房に帰ってくることを、一日千秋の思いで待ち続けていました。そのうえ二歳で登ったこのお寺で蓮長の説法を聞けるとは、母としてこんな幸せはありません

 大尼が老齢の住職、道善坊に話しかける

「比叡山はじめ四天王寺、薬師寺など京、奈良の名刹でかなりの修行をしたとのことですが、どんな説法をするか楽しみで気もそぞろです」

道善房が朴訥(ぼくとつ)に語りだした。

「さあて、どうでありましょう。蓮長は子供のころは確かにこの寺で抜きんでておりましたが、諸国の栄達が集まる延暦寺ではどうであったか。蓮長は強情なところもありますし、どんな説法をするか少々不安でもあります」

道善房は蓮長を十二歳から二十歳まであずかり育ててきた。第二の父親のような存在である。

大尼がくすくすと笑いだす。

「ほらまた道善房様の心配性が始まりました」

一同がつられて笑いだした。

なごやかな空気だったが、清澄寺の中には蓮長の帰りを快く思わない者がいた。

堂のすみで老僧の円智房と道義房が声を潜めて話していた。

「蓮長など取るに足らぬわ。比叡山で修行したとはいっても京の寺で身を立てることもできず、結局もとの田舎寺に戻ってくるとは。ここでなにができよう。道善房殿の跡を継ぐつもりなら、お笑い草だわ

「あの気弱な道善房のこと。味方が一人ふえたように思っているが、この清澄寺はわれらの手のうちだわ」

二人がほくそ笑んだ。

どこの世界でも勢力争いはある。

円智房と道義房は清澄寺の実力者であった。とりわけ円智房は清澄寺の大堂で三年のあいだ、一字三礼の法華()(注)を書きあげ十巻をそらに覚えた。そして五十年の間、法華経を一日一夜に二部ずつ読んだという。寺の大衆は、円智房はかならず仏になると讃えた。それだけに傲慢だった。彼は道義房とともに清澄寺を仕切っていた。そこに比叡山帰りの若僧があらわれた。おもしろく思うはずがない。

このとき門前で所化の小僧がなにやら騒いでいるが聞こえた。

「蓮長殿が帰ってきたのでは」

 大尼が浮き足立った。

 一同が玄関へおもむく。

しかし、門前では馬に乗った武士と寺の所化が言い争いをしていた。

武士の一人、地頭の東条景信が不敵な面構えでにらんでいる。

招かざる客である。みな表情をくもらせた。

景信が清澄寺の面々を見くだした。

「ほう、これはこれは、清澄寺のお歴々。おそろいでござったか。本日は長年にわたる土地争いに決着をつけようと思ってまいった」

若い浄顕房が景信をにらみながら𠮟りつけた。蓮長の兄弟子である。

「東条殿。なにを申される。地頭とはいえ、この寺で勝手なふるまいは許されませんぞ」

景信は横をむいた。

「わしはこの一帯を管理するもの。武家の棟領である鎌倉殿のご威光によってこの土地を支配しておる」

おなじく兄弟子の義浄房がまなじりを決して反駁する。

「それは地頭の支配する土地の上でのこと。この寺にはあなた様の支配は及びませぬ」

景信も黙って聞いてはいない。幕府の権威を傘に着て義浄房に言いかえす。

「さりながら、鎌倉殿に逆らう者どもがいるのも事実。旧態依然とした一部の寺院が勝手なふるまいをするのは許されぬこと」

 この件は清澄寺の存亡に関わることである。浄顕房は一歩も引かず景信を追い詰める。

「ならばその鎌倉殿に訴えて、どちらが正しいか決着をつければよいのではないか」

 その時、弟子たちと地頭の争いを見かねた住職の道善房が、あいだに割って入った

「景信様、じつはわが弟子の蓮長と申す者が、叡山での長い修行を終えて今日明日にも帰ってまいります。いまはその迎えの準備に忙しくしておりまする。恐れ入りますが、いまは言い争いしておる時ではございませぬ」 

景信は不敵だった。

「まあよいわ。いずれまた来るが、おのおのがた覚悟しておかれい。少しでも不埒なことがあれば、取締りにくるでな」

馬上の景信が去っていった。

源頼朝は鎌倉幕府を開くにあたり、自分の支配地に侍を派遣して守護と地頭をおいた。支配地といっても全国ではなく近畿より東の土地であり、くわえて寺社領には手をださなかった。

しかし寺院領の隣に地頭がおかれた場合、境界線の争いが絶えずおこっていたのである。


そのころ蓮長は鎌倉を出て(むつ)()、今の横浜をめざした。船にのるためである。内海(東京湾)を徒歩でぐるりと回るより、船のほうが早く安房に着き、楽であった。

だが厄介だったのは、途中に関所があったことだった。

関所前で人々がひしめいた。

旅人たちが銭をだして役人に納めている。銭のない者は生米をさしだした。この関所はつい最近になってできたものだった。それだけに人々はみな憤懣やるかたない。


関所の館でとある僧侶が武士を相手に談笑していた。

僧侶は粗末な法衣を着ているものの、腹が出て血色がよい。

名を良観といった。

良観は(あざな)名は忍性という。出身は大和である。十歳で信貴山に登り修行。十七歳の時、東大寺戒壇院で受戒した。二十四歳の時、真言律宗の名僧として名高かった叡尊に師事して出家した。建長四年(一二五二)に関東に下り、弘長元年(一二六二)鎌倉にはいって律宗を弘めた。

良観は幕府の信任が厚かった正元元年 (一二五九年) 第二代執権北条義時の三男、北条重時によって極楽寺が創建され,良観が開基となっている。


良観は異質な僧だった。

この関所は良観が経営していたのである。僧侶が交通機関の管理をするのは、今では意外に思われるが、当時このような設備の運営はおもに僧侶がたずさわっていた。

武家の世になって日はまだ浅い。北条氏が率いる幕府も財政は安定していない。これまで侍は合戦に明けくれていた。経済観念などまるでない。闘争には長けていても、統治能力は公家の足元にも及ばなかった。これでは橋や道路を建設するといった公共事業などできるものではない。運用手法の経験や財政からいって、知識階級に属し、潤沢な財力をもつ僧侶が中心となって国土の整備がすすめられたのである。

この当時、政治の中心は鎌倉でも経済は京都である。その京の資金をにぎっていたのは近畿出身の僧侶だった。

良観もまたその豊富な資金を使って幕府に取り入り、権勢を強めていった。東大寺出身で思いおこされるのは、七十年前に行われた大仏再建のための大規模な勧進(寄付)活動である。東大寺出身の彼は莫大な集金システムを学び、関東にやってきたのである。

良観が話の相手をしていたのは北条重時だった。念仏の強信者である。父は幕府の繁栄を築いた北条義時である。したがって重時は当然のように幕府の要職にあった。子の長時は五代執権北条時頼のあとを継いで執権となっている。北条の中でも名族だった。


重時は関所をながめながら、満足そうに盃を手にした。

関所の役人は通行人から徴収した大量の銭(中国から輸入した宋銭)を運んだ。銅銭は中央に穴がある。これをひもで通して千枚ずつにしていく。これを一貫といった。当時の貨幣価値は米一石が一貫で、現代では約五万円ほどになる。こうして何千貫という銭がうずたかく積まれていった。

米も山のように積まれていった。人はこれを「(むつ)()の関米」と呼んだ。


良観と北条重時がなごやかに語りあう。

重時は愉快だった。

「いや考えたものですな。関所を作って米や銭を徴収するとは。田舎武士には思いもつかぬ。名案でござる」 

太鼓腹の良観が重時を諭すように語りだした。

「鎌倉はまだまだ土木工事が必要でございます。このように人々から広くうすく税を集めれば、幕府の財政の助けにもなり、貧しい者に施すこともできます。わが律宗で教える仏の道にかなうというもの」

重時の盃がすすむ。

「いやありがたいことでござる。それに律宗の修行は、戒律を守ってさえおればよいのであるから修行がわかりやすい」

 良観が答える。

「わが宗派は幕府と一体であると考えております。北条氏あっての僧侶でございます。ただわたしはこのように幕府に尽くしておりますが、鎌倉の寺が今少し手狭なのが悩みでございます。殿、よろしくお計らいのほどを」

「そうでござったな。じつは鎌倉のわしの土地に寺院を建てる計画があってな、極楽寺と申す。いまその住職を求めているところでござる」

「それはよいお話。この良観にその寺をお任せあれば殿のご繁栄にもつながります」

 重時は我が意を得たりとばかりに、良観の申し出にうなずいた。


関所の入り口では蓮長が旅人の列の中にいた。彼は銭を取り出して役人に差し出した。


                    三、日蓮、生誕の地で覚悟の立宗宣言 につづく


上巻目次


法華経

梵語「サッ・ダルマ・プンダリーカ・スートラ((びゃく)蓮華のように正しく不思議で清浄な経)

漢訳は部分訳、異本を含め、十六種が伝えられるが、三本が完全な形で現存する。このうち鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』が最も広く流布しており、通常、法華経といえば妙法蓮華経をさす。

白蓮華をこの経の象徴としたのは、蓮華が他の草木と異なり泥中に咲き、煩悩(ぼんのう)を意味する泥に染まらず清浄な大輪の白い花を咲かせることから、煩悩即菩提(ぼだい)を意味しているとする。また蓮華が花と同時に蓮根と言う実(地下茎)を同時に持つことから、因果()()を象徴しているとする。蓮華の原産地はインド半島で、釈尊が布教していた地域では蓮華が多く生育していたと思われる

日蓮大聖人は末法の法華経は三大秘法の南無妙法蓮華経であると説いた。

「今末法に入りぬれば余経も法華経もせん()なし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候も・わ()くしの(はからい)にはあらず、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御(はからい)なり」上野殿御返事

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宋銭
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北宋銭(左の上の3枚)南宋銭(その他)



by johsei1129 | 2017-03-25 11:33 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 23日

一、故郷への旅立ち

                                    英語版

時は鎌倉時代、西暦一二五三年の春だった。
 琵琶湖の水面が比叡山をうつしていた。

延暦寺はこの比叡山の森の中にそびえていた。

おびただしいほど多くの僧侶が広大な堂内で読経し、外では僧侶たちが搭中の道を宿坊へと歩いていた。

この境内のとある小堂で老僧と若い僧が座して向かいあっていた。

若い僧は名を蓮長といった。

老僧が残念そうにいった。

蓮長、どうしてもいくのか。おぬしならいずれ天台座主(ざす)にもなろうものを

「有難いお言葉ですが、これからは法華経に身を任せ、一心に人々に説いてまいります」

蓮長はそう答えると、もう振り返ることなく塔中の坂をおりていった。

老僧はなごり惜しそうに、蓮長の姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。


三十二歳になった蓮長は、延暦寺を中心に諸寺院での十五年間の修行・学業を終え、故郷の安房に帰る決心をした。

蓮長は日笠をかぶり東海道を東に向かう。

うしろから馬に乗った武士の一団が走ってくる。烏帽子をつけ、弓をかついだ武士が走り去る。

「邪魔だ。どけ、どけい」

通行人があわててわき道にそれる。

蓮長がおもむろに来た道を振り返ると、比叡山が遠のいていた。

近江から安房への長い旅である。

初夏の穏やかな日差しが蓮長の網代笠(注)に差し込む。

街道の周囲には粟や稗の畑がどこまでも広がっている。

武士や庶民がすれちがう。大きな市女笠(注)をかぶった女性が、お供の下人を従えて行き交う。


蓮長は農家の前で立ち止まった。

百姓が一人の僧を囲んで集まっている。何やら話を聞いているようだ

この村に念仏僧が布教に訪れていた。

鎌倉時代、念仏宗は爆発的にひろまっていた。

農民が墨の阿弥衣(注)と袈裟(まと)僧に手をあわせた。

「ありがたや。念仏の坊様は。南無阿弥陀仏と唱えるだけで往生できるというだ」

「阿弥陀如来様、どうかわしらをお助けくだされ。このところの飢謹や疫病に、わしらはなすすべもございませぬ。阿弥陀様のお助けがなければ生きていけませぬ。あとは死んで極楽浄土を待つばかりでございます」

僧が農民の手を取り、声をかける。

「まことによい心がけです。これぞ阿弥陀仏の教えにかなうというもの。南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生の願いは必ずかないますぞ」

蓮長はそのかたわらを歩いていく。

念仏宗は浄土宗ともいう。

法然が始めた念仏は日本国中の庶民の間で猛烈にひろまっていた。南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるという極めて単純な教えが、飢饉・疫病などの苦境にあえぐ当時の民衆の心を捉えた。この念仏の広がりは、ついこの五十年前、後鳥羽上皇の時からだった。あまりの人気ぶりに、天台宗の総本山延暦寺の高僧までもが念仏を唱えたほどだった。いっぽう鎌倉幕府は、当時の庶民が、飢饉・疫病等の現世の苦しさから逃れようと極楽浄土を願い自殺者が絶えなかったことから、元仁(一二四四年)八月五日以降、たびたび「専修念仏」を禁止にした。


蓮長がさらに街道を東へすすむ。

彼は故郷への道すがら、武士の都である鎌倉を通るつもりだった。

当時、京都から鎌倉までは十二日かかったという。比叡山から安房まではどれだけを要したか。すくなくとも十五日はかかったろう。

はるかかなたに白雪をかぶった富士があらわれた。

当時の人々は、現代人が思う以上に富士山に畏敬の念をいだいていた。
 鎌倉時代の紀行文『海道記』にいう。

「富士山を見ると、都で聞いたとおり、天の中ほどにそびえ四方の山から抜きでている。山上は鳥が越える道、(ふもと)は獣の通る道だ。雪が頭巾のようで頂上を白く覆っている。また雲が腹巻のようで、中腹を長くとり囲んでいる。高いことは天に梯子(はしご)をかけたようで、登る者は登りきれずにもどってくる。麓の長いことはめぐるに幾日もかかるほどで、行く者は山を背負うようにして歩く。温泉が山頂にわき出で、細い煙がかすかにあがり、冷たい池が中腹に水をたたえて、あふれる流れが川となっている。本当にこの山は多くの山の中でも比べるものがない霊山である」

畑の風景が途切れ、家なみがつづいてきた。

鎌倉が近くなった。人通りも多くなってきた。物売りの声もする。

妖艶に着飾った娘が出てきた。はだけた胸、小股まであらわにして蓮長に近づく。

遊女である。とわり、ともいった。この時代、遊女はれっきとした職業である。彼女たちは宿場町にかならずいた。

当時の紀行文『春の深山路』に宿場町小田原の様子がえがかれている。

   酒匂(さかわ)の宿に暮るる程に着きたれば、例の君・海女(あま)ども、又若き遊女(あそびめ)ども具して()ののしる。

酒匂の地名は今も神奈川県小田原市にある。

蓮長が日の暮れるころ酒匂に着くと、いつものように女たちが遊女を連れて、客を無理に取ろうと大声でさわいでいた。にぎやかな光景である。

可憐な娘が蓮長に声をかけた。

「これは、これは、若いお坊様。どちらへ」

蓮長が答える。

「安房の国に向かいます」

 娘はいきなり蓮長の手をとった。

「お坊様、わたしを鎌倉へ連れていってくれませぬか。鎌倉にはわらわの夫がおりまする。わけあってこのような身になりましたが、わらわが鎌倉の都に入りさえすれば、もとの夫婦にもどれまする。どうかわたしと一緒に」

蓮長は遊女に絡まれても嫌がる顔を見せない。黙って見つめ、この女の行く末に思いを馳せた。

京が公家の拠点なら、鎌倉は武家の中心地治安はきびしい。一介の遊女が入ることは不可能だった。

女が愛くるしい唇をひらいた。

「お坊様は、わらわがそら事をいっているとお思いでございますか」

そこに年増の女が出てきて娘をさとした。

「これこれ。お坊様をからかってはなりませぬ」

年増の女は蓮長にわびをいれた。
「失礼いたしました。このおなごは殿方を見ては仲良くなりたがる癖があります」

蓮長は久しぶりに宿場の人々のやり取りを聞き、にこやかだった

「よいのです。長らく山で修行しておりましたので、見るものすべてが珍しく感じられます。女性(にょしょう)に声をかけられたのは何年ぶりでござろうか」

女たちが笑いだした。

「まあ、なんと正直なお坊様」

蓮長は会釈をして去った。

今まで笑っていた女たちは、答礼をするとすぐに通りがかりの武士をつかまえて誘いだした。

蓮長は鎌倉の入り口にきた。

鎌倉は南が太平洋に面し、東西北の三方は山に囲まれた要害の地だった。したがって鎌倉に入るためには馬一頭が通れるように深く掘られた、いわゆる切り通し(注)を通らねばならなかった。

群衆が切通しの入り口でごったがえしている。

警護の武士が左右にならび、通行人の風体を確かめていた。

武士が通りすぎようとした蓮長を刀でさえぎった。

「まてい。名はなんと申す」

「安房国清澄寺の僧、是生房(ぜしょうぼう)蓮長と申します」

「安房か。それでおぬしはこの鎌倉を通りすぎると申すか」

「いかにも。比叡山をはじめとして約二十年、修行してまいりました。仏法をきわめ、故郷の山へ帰るところでございます」

「宗派はなんだ。やはり念仏か」

蓮長が首をふった。

「では、いまどき武士のあいだではやっておる禅宗か」

蓮長がまたも首をふる。

「ではこ近頃、鎌倉でもてはやされておる良観殿の律宗か。それとも高貴な僧侶が唱える真言でござるか」

「そのどちらでもございませぬ」

武士が不審がった。

「ばかな。それ以外の宗派がこの日本国のどこにおる。さてはおぬし、にわか坊主ではあるまいな。であればここを通すわけにはまいらぬぞ」

蓮長が穏やかな目でいった。

「二十年の修行で仏法の究極を極めることができました。それを故郷清澄寺で説法し、父母、師匠の恩に報いたいのであります」

「仏法の究極とは」

「法華経でございます」

 武士がいう。

「法華経とな。初めて聞くな。南無阿弥陀仏ではないのか」

蓮長がまたも首をふる。

「それは方便の教え。釈迦の真実の教えではありません」

武士が刀の柄を手にやる。

「いよいよあやしい奴。おぬしを通すわけにはまいらぬ」

それを見て、それまで穏やかに受け答えした蓮長だったが、武士を強い調子で言い放った。

「釈迦如来の真実の教えを伝え、人々を救済し、国を栄えさせようとする者を通さなければ、仏にお叱りを受け、来世は地獄に堕ちますぞ。それでよければお覚悟を」

蓮長と武士がにらみあった。

武士は蓮長を試すつもりだったのか、にやりとして通した。

蓮長は鎌倉にはいった。

市場がある。

そこは人でごったがえしていた。ここで町民は銭で米・布・鳥・酒などの必需品と交換した。

鎌倉は源頼朝が都を定めていらい、京都と争うほどにぎわっていた。出店は(さる)(とり)すなわち午後四時から七時あたりが、もっとも混雑したという。現代でも同じである。

道のわきに物売りたちがひしめく。

庶民がそれをのぞき見しながら歩く。

路上では汗だくの男たちがふんどし姿で木材を積んだ馬車を引く。

蓮長がこの様子を見ながら通りすぎていく。なにもかもが新鮮だった。

 

この町のにぎやかさがわかる史料がのこっている。この日からさかのぼること十三年前、蓮長が十九歳の時、北条泰時は仁治元年(一二四○)鎌倉で取締りの規則を発布している。鎌倉中を幾つかの行政区に分けて奉行人を置き、つぎの人々を取り締まる件についてだった。

一、盗人のこと

一、旅人のこと

一、辻捕(つじとり)のこと

一、悪党のこと

一、丁々辻々の売買のこと

一、小路を狭くなすこと

一、辻々の盲法師ならびに辻相撲のこと

一、押買のこと

この種の人々は鎌倉によほど多くいたことがわかる。

辻捕とは路上で女性を捕えること。人さらいである。物騒な話だが、鎌倉では頻繁だった。

町角では盲目の琵琶法師が平家物語をうたい、いたるところで辻相撲がおこなわれ、小町屋とよばれる商店が品物を店先にならべて道をせまくし、所かまわず売り買いが始まるなど、大都市ならではの繁栄ぶりがうかがわれる。押売りではなく押買いとはおもしろいではないか。


 港へ出た。和賀江の浦であった。

ここでは新都にふさわしい港湾が完成していた。五十ばかりの大船がひしめきあう。その脇に数十の小船がむらがっている。

おびただしい人夫が積み荷を忙しげに船からおろしている。

そこには色あざやかな陶磁器があった。中国・宋からの輸入品であろう。

蓮長がそれを飽かずにながめた。

『海道記』は当時の和賀江海岸の繁栄をしるしている。

この延辺(えんへん)につきて、おろおろ歴覧(れきらん)すれば、東南(とうなん)(かど)一道(かずみち)は、舟檝(しゅうしょう)()(しょう)()のあき(ひと)は、百族(ひゃくぞく)(つか)れにぎはひ、東西北の三界は、高卑の山、屏風(びょうぶ)の如くに立ち廻りて、所を飾れり。

(訳)少しばかり見物すると、東南の角の方面は船の集まる港で、商人はだれもかれも忙しさに疲れるほど賑わっており、東西北の三方は高い山や低い山が屏風のように取り巻き、ここを飾っているかのようだ」

当時のにぎわいが目に浮かぶようである。


市中の広場では流鏑馬(やぶさめ)(注)の神事がおこなわれていた。

群衆が馬の通路の際までひしめいている

優美に着飾った馬上の武士が走りぬけ、矢を引きしぼって見事的を射ぬいた。

いっせいに人々の喝采がおきる。

(
)

蓮長は由比の浜にたどり着いた。

『海道記』の作者は貞応二年(一二二三)四月、京都から鎌倉に下り、五月には帰京の途についている。友人との二人旅だった。当時は治安が良かったのだろう。貞応二年といえば蓮長が生まれる三年前であるから、当時の鎌倉の様子をほぼ正確にとらえているものとみられる。

(さる)(ななめ)に、()()の浜におちつきぬ。(しばら)く休みて、この所をみれば、数百(すうひゃく)(そう)の船、とも綱をくさりて、大津(おおつ)の浦に似たり。千万(せんばん)()の宅、(のき)(なら)ベて、大淀の(わたり)にことならず。御霊(ごりょう)の鳥居の前に日をくらして後、若宮大路より宿所につきぬ。

(訳)午後五時ごろ由比の浜におちついた。しばし休憩して浜の様子を見ると、由比の浜は数百艘の船が綱を鎖のように集めてつながれ、ひしめきあっている。そのにぎわいは琵琶湖の大津の光景に似ている。おびただしい数の人家が密集した様子は伊勢神宮に近い大淀の町のようである。御霊社の鳥居の前で日が暮れたあと、若宮大路をすぎて宿に着いた。

蓮長はその足で海岸沿いに東へむかい、竜の口の刑場に来た。

江の島が見える。

今は高層建築がならび、サーファーや観光客でにぎわっているが、当時は処刑場だった。今でもこの付近では処刑されたと思われる人骨が発見されている。


人々がむらがっていた。

罪人が竜の口にひきだされていたのである。

砂浜の中央に首を落とすための穴があった。

役人が口上を告げる。

「この者は鎌倉で盗みをはたらき、そのうえ人まで殺し、罪浅からぬ者なり。各地が飢饉で食物乏しいとはいえ、都の住人にあるまじきふるまい。よって打ち首といたす」

首切り役人が無表情に刀を抜いた。

今までおとなしかった罪人が、目かくしをされたとたん、あばれだした。

「お許しくだされ、もう二度と人は殺しません」

役人が取り囲み、罪人をおさえ、首を穴におしこむ。

罪人がはげしく首をふった。

首切り役人が「南無阿弥陀仏」と罪人に唱え、一刀のもとに首をおとした。

群衆の悲鳴があがった。


 その夜、蓮長は縁故の寺院で一泊し、ふたたび鎌倉を歩いた。

 禅寺をたずねた。

 武士が十数人、結跏(けっか)趺坐(ふざ)(注)座前を組んでいる。この当時、禅宗は武士を中心に信徒を集め爆発的に流行していた。

 僧が(けい)(さく)(注)をもって静かに部屋を歩きまわる。

 眠りかけてた武士の右肩に僧が警策を当てる。武士は思わず顔を赤らめ、合掌したまま首を左に傾け右肩をあけ。僧が今度は強く警策で右肩を打った。警策を受けおわった武士は合掌低頭したあと、頭を上げ背筋を伸ばして元の姿勢に戻った。

 蓮長がそれを窓ごしに見ていた。

 禅宗が鎌倉武士にこれほどまでに広まっているのかと、鎌倉での禅宗の広がりを肌で感じた。


若宮大路を通る。

なだらかな登り坂である。

遠くに鶴岡八幡宮が見えた。

八幡宮は河内源氏の二代目棟梁、源頼義が建立した。頼義は京都の石清水八幡宮の分霊を鎌倉の由比郷にむかえて神社を建て、源氏の氏神とした。のちに子孫の源頼朝は関東を平定し、八幡は武士の神となった。このために源氏に従う武士のだれもが八幡を崇拝していた。

『海道記』と同時代の紀行文である『東関紀行』は、八幡宮のいわれを簡潔に述べている。


「そもそもこの鎌倉の起りを申すと、亡き右大将頼朝と申し上げる人が、清和天皇の九代の子孫として、武士の家に生まれた。頼朝は去る治承の末の頃になって、忠義の兵をあげて、朝敵を打ち平らげたことから、朝廷からの恩賞が次々と下されて将軍に任じられた。頼朝は幕府をこの土地に定め、寺や寺社をこの場所にお建てになってから、いまの栄える土地となった。

それらの中でも、鶴が岡の八幡宮は、松や柏の緑がますます濃く茂り、神前の供物が絶える時がない。楽人を決めて四季の御神楽が必ず行われ、役目の者に命じて八月の放生会が催される。神をあがめる儀式は本社の石清水八幡宮に異ならないということだ」

 八幡宮から海にむかい、なだらかに下る直線の道路がつづく。

ここに騎馬の一団が八幡宮から静かにおりてきた。

乗っているのは北条時頼、つづいて長子(とき)(すけ)、次子時宗、さらに郎党がつづく。

時頼は鎌倉幕府の第五代執権である。若干二十七歳。

執権は立場上、鎌倉将軍の下だが、頼朝以後の将軍はあくまで傀儡(かいらい)であり、実権は軍事力を握っていた北条氏にあった。したがって執権の時頼は日本国の実質の国主であるといってよかった。

時頼親子が悠々と若宮大路をすすむ。

沿道の群衆が道を開けて頭をさげた。

「あれが最明寺様だ」

時頼は自身が開基した禅寺の最明寺で出家した。そのため人々は彼を最明寺と呼んだ。

七歳の長子時輔が時頼の馬に近づく。まだ少年ながら、世を憂うような表情を見せている。

「父上,執権をおやめになるというのはまことでございますか」

時頼が答える。

「まだおりるつもりはない。だがわしも幕府を取り仕切ってはや十年。そろそろ潮時ではあるな」

つづいて弟の時宗が近づいた。時宗はわずか五歳。時輔とちがって表情は天真爛漫そのものだった。

「父上、今はまだ引退するときではございませぬ。われら北条に楯つく輩も多い時節。父上がおればこそ幕府は安泰というもの」

兄の時輔が露骨にいやな顔をした。

この兄弟腹違いである。そして時頼の血統の(さが)のか、なにごとにも競争心をむきだしにした。

時頼が笑った。

「心配するでない。おまえたちの将来の手は打っておる」

親子が威勢よく馬を駆った。

 

   二 故郷、清澄寺の人々につづく

網代笠(あじろがさ)
細く削った竹で編んだ笠。主に僧侶が使用した。

市女笠(いちめがさ)
平安時代以降の代表的な女性用かぶり笠。

阿弥衣
麻やイラクサの繊維で俵を編 むようにして作った法衣(ほうえ)一つ。

切り通し
写真は鎌倉七切り通しのうちの一つ、名越(なごえ)の切り通し。
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流鏑馬(やぶさめ)
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結跏趺坐(けっかふざ)
仏教における最も尊い坐り方。両足を組み合わせ、両腿の上に乗せる。如来坐像ではこの坐り方が用いられている。坐禅時の坐り方として行なわれた。

警策(けいさく)
坐禅のとき、修行者の肩ないし背中を打つための棒。(けい)(かく)(さく)(れい)の略。


by johsei1129 | 2017-03-23 22:38 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 20日

二十九、平頼綱への諌暁

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                  良観、問注所へ日蓮を讒訴する図 日蓮大聖人御一代記より


良観は日蓮つぶしの策を懸命にめぐらした。時宗が日蓮の処罰に消極的であるのを知ると、尼御前を中心とした女性たちに訴えたのである。尼御前たちは良観を盲目的に信じている。彼女たちにとって日蓮が蒙古来襲を予言したのも雨をふらせたのも、ただの偶然である。逆に良観の涙ながらの訴えは女たちを動かした。情に動く尼御前は、日蓮憎しの感情を爆発させた。

日蓮はこの良観による策謀のはげしさを、五年後の建治五年に著した『報恩抄』で次のように証言している。

かういよいよ身を()しまず()めしかば、禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行(ぶぎょう)につき、或はきり(権家)人につき、或はきり(権閨)女房につき、或は後家(ごけ)(あま)御前等えつひて無尽のざんげん(讒言)をなせし程に、最後には天下第一の大事、日本国を失わんと(じゅ)()する法師なり。故最明寺(こさいみょうじ)殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし、但須臾(しゅゆ)(くび)をめせ。弟子等をば又或は頸を切り、或は遠国につかはし、或は(ろう)に入れよと尼()ぜん()たち()いからせ給ひしかば、そのまゝに行われけり。

最明寺入道とは北条時頼、極楽寺入道とは重時のそれぞれの法名である。日蓮は鎌倉幕府に多大な功績のあった二人を無間地獄に堕ちたという。

良観をはじめとして日蓮を憎む者たちの逆襲が始まった。祈雨の勝負で日蓮の名声は高まったが、それにもまして憎悪する者たちの怒りは強まったのである。

だが日蓮は憎悪する者、すなわち三類の強敵を恐れない。日蓮に妥協はない。折伏はいよいよ強まった。両者の激突は決定的になっていく。

日蓮はかれらの本性を嫉妬に狂う女性にたとえている。

(たと)へば女人物をねためば胸の内に大火もゆる故に、身変じて赤く、身の毛さかさまにたち、五体ふるひ、面に炎あがり、かほは朱をさしたるが如し。目まろ()になりて、()の眼のね()みをみるが如し。手わなゝきて、か()わの葉を風の吹くに似たり。か()はらの人是を見れば大鬼神に異ならず。日本国の国主・諸僧・比丘・比丘尼等も又()くの如し。たのむところの弥陀念仏をば、日蓮が無間地獄の(ごう)と云ふを聞き、真言は亡国の法と云ふを聞き、持斎は天魔の所為(しょい)と云ふを聞いて、念珠をくりながら歯をくひちがへ、(れい)をふるに()びをどりおり、戒を持ちながら悪心をいだ()く。極楽寺の生き仏の良観聖人、折り紙をさゝ()げて(かみ)へ訴へ、建長寺の道隆聖人は輿(こし)に乗りて奉行人にひ()まづく。諸の五百戒の尼御前等ははく()つか()ひてでん()そう()をなす。  『妙法比丘尼御返事

日蓮は弟子信徒に問注所への喚問が決まったことを告げた。

弟子たちの中には顔を曇らせる者もいたが、日蓮はいつになく機嫌が良かった。伯耆房日興にとって、こんな笑顔の上人を見るのははひさしぶりのことだった。

「先ほど侍所から呼びだしがありました。まちにまったことです。かならず何事かおこるでしょう。仏は記している。釈迦滅後二千年すぎて、末法のはじめに法華経の肝心である題目の五字ばかりを弘めん者があらわれる。その時、悪王悪人が大地の土くれより多くして在家の信徒を語らい、あるいは誹謗し、あるいは打ち、あるいは牢に入れ、あるいは所領を召し、あるいは流罪、あるいは首をはねる、などいうとも退転なく弘むるほどならば、あだをなす者は、国主は同士討ちをはじめ、餓鬼のごとく身を食らい、のちには他国より攻められるべし。これひとえに梵天・帝釈・日月・四天王らが、法華経の敵なる国を他国より攻めさせたもうなるべしと」

弟子や信徒がざわついた。不安がたかまっている。

「おのおの、わが弟子と名なのらん人々は一人も臆病であってはなりませぬ。親を思い、妻子を思い、所領をかえりみてはなりませぬ。はるか昔よりこのかた、われらは親子のため、所領のために命を捨てたことは大地(だいち)微塵(みじん)よりも多かった。しかし法華経のゆえには一度も捨てることがなかった。法華経をあれこれ行じてはいたが、大難がおきると退転してとどまった。たとえば湯をわかしても水を入れ、火をおこすのをやめてしまうようなものです。おのおの思い切りなされ。この身を法華経に替えるのは、石を黄金にかえ(ふん)を米にかえることなのです。よろしいかな」

即座に四条金吾が口元を引き締め返事をした。

これにつられて信徒がつぎつぎと立ちあがり、誓いの言葉をのべていく。

いいしれぬ高揚感がみなぎっていた。みな敵などないかのように陽気に叫んだ。

「わたしはどんな難があっても退転はいたしませぬ」

(それがし)は一生この信心を貫いてみせます」

「わたしはどんな権威も恐れませぬ。勇気をもって法華経が第一であるといいきります」 
  

喚問の日がきた。文永八年九月十日である。

日蓮が侍所の門をくぐりぬけていく。

うす暗い廊下をわたる。

警護の武士が通りすぎる日蓮を凝視する。

日蓮は表情を変えず、まっすぐに進む。

広間では侍所の面々がいた。みな緊迫した面持ちで日蓮があらわれるのをまっている。

中央に平頼綱。そのわきに郎従の少輔房(しょういぼう)がいた。
 その少輔房がしたり顔で発言する。

「日蓮はまず腹の内は見せますまい。弁舌はたくみとのこと。この場ではのらりくらりと答えるだけでしょうな。さもなくば、われらにおじ気づいて思うことの半分も言えぬはず。ここにきた者は泣いてわびる者もおりますからな」

 頼綱はつまらなそうだった。

 天下をとりしきる北条の執事が一介の坊主を相手にしなければならない。少輔房の話を右から左に聞き流していた頼綱がつぶやいた。

「このわしにどのようにでるか。良観のように尻尾をふるのならよし。さもなくば・・」

「首を斬るまで」と少輔房が冗談めかしに相槌をうった。

すると頼綱が不敵な笑いをうかべて少輔房をとがめた。

「これ、めったなことを申すな。若殿からお叱りをうけるぞ。日蓮は世間を騒がすだけの男だ。この日本のあらゆる坊主が立身出世したいように、日蓮も幕府に取り入りたいのだ。おどして甘い話をもちかければ、なびくであろうて」

頼綱はこの時三十歳。日蓮とは二十歳年下の若さだったが、鎌倉幕府創設いらい、御内人の筆頭として執事を務めた一族の威光といい、執権時宗の後ろ盾といい、こわいものなしの傲慢さをもちあわせている。そのためだれも頼綱に意見をいえない。彼はますます傍若無人となった。

役人が声をあげた。

「日蓮上人が出頭いたしまする」

日蓮が登場した。いつになく静かな面持ちだった。

頼綱の郎党が日蓮をとりかこみ、なめまわすように見た。あたかも獲物をねらう野獣の目だった。

日蓮が下座につく。

少輔房が口火を切った。

「そのほうが日蓮か。さっそくだが聞こう。おぬしの嫌疑はかず知れぬ。兇徒を集め、刀杖を蓄えている疑いあり。いつわりないか」

日蓮はすぐさま答えた。

「そのとおりです」

一同が驚愕した。彼らは日蓮が自分で不利となる証言をいうとは思わなかった。ずばり言ってのけるとは。

日蓮はこともなげにつづける。

「ただし兇徒とは全くのいつわりであります。法華経の信徒を兇徒呼ばわりする者にそのままお返しいたします。つぎに刀杖の件ですが、法華経守護のための弓箭(きゅうせん)(へい)(じょう)は仏法の定まれる法にございます。例せば国王守護のために刀杖を集むるがごとしでございます」

 あまりの返答ぶりにみな言葉がでない。

勇猛なはずの少輔房の声がふるえた。

「されば今は亡き北条時頼様、重時様を地獄に堕ちたと申し、建長寺、極楽寺を焼きはらえと申し、良観上人、道隆上人の首をはねよと申したということ。これらはまさか本心ではあるまいな、いつわりであろうな」

沈黙がながれた。

平頼綱がじれ、はじめて声をかけた。

「どうした日蓮、答えぬか」

日蓮は一旦呼吸を整え、気力を振りしぼり一気に論陣を張った。

「それらのこと一言も(たが)わず申しました」

武士がまた驚嘆した。扇子をおとす者がいる。頼綱も唖然(あぜん)とした。

「ただし、時頼殿、重時殿が亡くなった時に地獄に堕ちた、ということはいつわりであります。なぜならこれらのことは、お二人の御存生の時からすでに申しあげていること」

頼綱が日蓮の前で仁王立ちになった。

「気でも狂ったか」

 頼綱にはそうとしか思えない。幕府にたいする挑戦ではないか。これでは自分を処罰せよといっているようなものだ。

日蓮は、戸惑いを隠せない幕府役人には目もくれず、淡々と話し続けた。

「それらのことはこの国を思って申した事。世を安穏に保たんと(おぼ)し召すならば、かの僧侶どもを召しあわせてお聞きくだされ。そうではなく理不尽に行われるのであれば国に後悔あり。日蓮重罪をうけるならば、仏の使いを用いぬことなり。梵天・帝釈・日月・四天のおとがめあって流罪死罪の後、百日、一年、三年、七年の内に自界(じかい)叛逆難(ほんぎゃくなん)と申して、ご一門は同士討ちをはじめるでありましょう」

一同がさわぐ。

怒声を浴びた日蓮は声高になった。

「そののちは他国侵逼難(たこくしんぴつなん)といって四方より、ことには西方より攻められるであろう。そのとき後悔あるべし、平の左衛門の尉殿」

頼綱が激高した。

「たわけ者めが。なにを申すか。おまえなぞ、今すぐにでも首を斬れるのだ。わしをだれだと思っている」

日蓮は頼綱の目を見すえた。

「侍大将なり」

頼綱がさらに逆上した。

「なめておるのか。日本国の武士をつかさどる者に、なんという口のききかただ。あの無礼な書状といい、いまの暴言といい、だんじて許せぬ。さらし首にしてくれようか」

 日蓮は諭すように頼綱に語りかける。

「貴殿は天下の棟梁ですぞ。なぜ日本国を救う柱を損なおうとするのか。なによりも国難に思いをめぐらして、すべからく異敵を退ける事こそ肝要でありましょう。世を安んじ、国を安んずるを忠となし孝となす。これひとえに我が身のために申すにあらず。日本国のため、幕府のため、民のために申しあげるのです」

場内は日蓮の気迫にのまれたが、頼綱だけは日蓮にあらんかぎりの罵声を浴びせた。

「ええい、ここから立ち去れ、安房の乞食坊主め。念仏無間、禅天魔と悪口(あっく)をほしいままにし、兵杖をたくわえて世を乱す。おぬしこそ地獄に堕ちようぞ。かならず首をはねてやる」

頼綱の罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)がやまない。日蓮は安房の地頭だった東条景信を思いだした。景信も横暴のかぎりをつくしたが頼綱の比ではない。景信は一地頭だが、頼綱は天下を仕切っていた。のちにこの時の様子をしるす。

太政入道のく()ひしやうに、すこしもはゞかる事なく物にくるう  『種々御振舞御書

頼綱は平清盛のように狂乱の本性をあらわした。極楽寺良観は僭聖(せんしょう)増上慢の本性を、頼綱は第六天の魔王(注)の本性をむきだしにした。

日蓮は頼綱の予想された反応に驚きもせず、泰然として問注所を後にした。

 平頼綱は日蓮が去ったあとも、こぶしを握りしめたまま立っていた。

彼は自分が今の日本を支配する者と自負していた。主の時宗以外、右に出る者はないと思っていた。御家人の安達泰盛さえ眼下においた。しかしこの高慢心は日蓮によって砕かれた。

(この俺に意見する者がいたとは)


灯心が侍所の一室で光り、平頼綱と北条宣時を不気味にてらす。

頼綱がきりだした。

「危険だ。今まであのような男を見たことがない。このままほおっておけば一大事となろう」

宣時は不安げにいう。

「しかし若殿がどうでるか問題だ。殿は日蓮をかばっているようにみえる」

頼綱が宣時の不安を振り払うかのように断言した。

「殿はまだお若い。これからはわれらの出番だ。われらが日蓮を隠密裏に処置し、全てがとどこおりなく終わった後に報告すれば、殿ももはや手出しはできない。後の祭りということだ」

日蓮を闇から闇へ葬る策謀だった。頼綱は日蓮を処刑することに決めた。独裁者の側近が使う手である。日蓮を処刑したあと、処理済の案件として時宗に報告すれば、いっときひと悶着あったとしても、時間がたてば最後は不問に付すしかない。

日蓮は彼らの本質を見ぬいていた。(くぼ)(あま)御前の手紙にしるす。

これにつけても(かみ)と国とのためあはれなり。木のした()なるむし()の木を()らひ()うし、師子の中のむしの師子を食らひ()しなふやうに、守殿の御をん()にてすぐる人々が、守殿の御威を()りて一切の人々を()どし、なやまし、わづらはし候うえ、(かみ)の仰せとて法華経を失ひて、国もやぶれ、主をも失って、返って各々が身を()ろぼさんあさましさよ。『窪尼御前御返事

守殿とは時宗のことである。頼綱は日蓮を罰しようとして、かえって災いが自分の身にふりかかるのを、この時は露ほども知らない。
 日蓮は罵声を浴びたが、彼らの末路を思うとあわれを感じ、懸命の説得に動いた。

日蓮は問注所で対面した翌々日の申の時(午後三時~五時)、立正安国論を添えて頼綱に次の書状(一昨日御書)をとどけている。日蓮は自身が罪人となることを回避しようとしたわけではない。あくまで日本の国主、時宗が法華経に帰依することを願っていた。そのため側近の頼綱に一()の望みをかけた。


()一昨日見参に罷入(まかりいり)候の条悦び入り候。(そもそも)人の世に在る誰か後世を思わざらん仏の出世は(もっぱ)ら衆生を救わんが為なり。(ここ)に日蓮比丘(びく)と成りしより(かたがた)法門を開き、已に諸仏の本意を覚り、早く出離(しゅつり)の大要を得たり。其の要は妙法蓮華経(これ)なり。一乗の崇重、三国の繁昌の()、眼前に流る、誰か疑網(ぎもう)(のこ)さんや。而るに専ら正路に背いて(ひとえ)(じゃ)()を行ず然る間、聖人国を捨て、善神(いかり)を成し、七難並びに起つて四海(しず)かならず。(まさ)(いま)世は悉く関東に帰し人は皆士風を貴ぶ。就中(なかんずく)日蓮生を此の土に得て(あに)吾が国を思わざらんや。()つて立正安国論を造つて故最明寺入道殿の御時、宿屋の入道を以て見参に入れ(おわ)んぬ。而るに近年の間、多日の程、(けん)(じゅう)(中国の異民族)浪を乱し()(てき)(蒙古)国を伺う。先年勘え申す所、近日()(ごう)せしむる者なり。彼の太公が(いん)の国に入りしは西伯(せいはく)の礼に依り、(ちょう)(りょう)が秦朝を(はか)りしは漢王の(まこと)を感ずればなり。是れ皆時に当つて賞を得たり、(はかりごと)()(ちょう)の中に(めぐ)らし勝つことを千里の外に決せし者なり。(それ)()(ぼう)を知る者は(りく)(せい)()(注)なり。法華を弘むる者は諸仏の使者なり。而るに日蓮(かたじけな)くも(じゅ)(れい)(かく)(りん)(注)の文を開いて、()(おう)烏瑟(うしつ)(注)の志を覚る。(あまつさ)へ将来を勘へたるに(ほぼ)普合することを得たり。先哲に及ばずと(いえど)(さだ)んで(こう)(じん)には(まれ)なるべき者なり。法を知り国を思ふの志(もっと)も賞せらるべきの(ところ)邪法(じゃほう)邪教(じゃきょう)(やから)讒奏(ざんそう)讒言(ざんげん)するの(あいだ)久しく大忠(だいちゅう)(いだ)いて而も未だ()(ぼう)を達せず。(あまつさ)へ不快の見参に(まか)り入ること(ひとえ)に難治の次第を(うれ)ふる者なり。

伏して(おもんみ)れば(たい)(ざん)に昇らずんば天の高きを知らず、深谷に入らずんば地の厚きを知らず。()て御存知の為、立正安国論一巻(これ)を進覧す。(かんが)()する所の文九牛(きゅうぎゅう)一毛(いちもう)り。未()を尽くさざるのみ。

(そもそも)貴辺は当時天下棟梁(とうりょう)なり。何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮(けんりょ)(めぐ)して(すべから)く異敵を退くべし。世を安んじ国を安んずるを忠と為し孝と為す(これ)(ひとえ)に身の為に之を述べず、君の為、仏の為、神の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり。恐々謹言。


  文永八年九月十二日               日蓮花押

謹上 平左衛門尉殿                      


日蓮はこの書で、時宗の側近である頼綱に、事実上の第二回目の国家諌暁を成し遂げた。しかし頼綱の方針が覆ることはなかった。日蓮が言ったとおり、頼綱は御しがたい「難治」だった。
 そして日蓮は、この文永八年九月十二日の第二回目の国家諌暁が、生涯最大の運命の分岐点となることを願っていた。


竜の口の法難 へつづく


上巻目次


 

第六天の魔王

第六天とは他化自在天のこと。()(じゅん)ともいう。欲界の六欲天の最頂に住する。大智度論に「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。また多くの眷属とともに仏道を成ずるのを妨げ、智慧の命を奪うので(だつ)(みょう)ともいう。三障四魔の中の天子魔にあたる。この魔は一切衆生の命に宿る。

「元品の法性(ほっしょう)梵天(ぼんてん)帝釈(たいしゃく)等と(あら)われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」 『治病抄』

六正の聖臣

「ろくせいのせいしん」とも読む。儒家で正しい臣下の標準を六種に分類した六正(聖臣・良臣・忠臣・智臣・貞臣・直臣)のうちの最高の臣下・聖臣のこと。いまだ現れない事柄や存亡の機・得失を予知して、常に主君を安泰にしておく臣下をいう。


( )・鶴林の文

 鷲嶺は霊鷲山の意で法華経のこと。鶴林は釈迦入滅の地の沙羅樹林で涅槃経のこと。


()(おう)烏瑟(うしつ)

どちらも仏の異称。鵞は鵞鳥のこと。応化の仏の三十二相の中の手足指縵網(しゅそくしまんもう)相(手足の指の間に水かきがあること)から転じたもの。

 烏瑟とは、(ぶっ)(ちょう)()(けん)(ちょう)(にく)(けい)と訳す。仏の三十二相の一つ。頂骨が隆起し、(もとどり)のようなさまをさす。






by johsei1129 | 2017-03-20 17:55 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 20日

二十八、極楽寺良観の策謀

時宗の妻祝子(のりこ)が二人の乳母に両手をかかえられ館の廊下を歩いていた。

身重であった。

色白く、一見ひ弱に見える十九歳の若妻が、二十歳の時宗の前にゆっくりとかしずき、うやうやしく両手をそろえる。

祝子は安達泰盛の腹違いの妹で、四十歳の泰盛とはかなりの歳のひらきがあった。このため父亡き後、泰盛は祝子を養子にしていた。

「殿にはご機嫌よろしゅうあそばされ、なによりにございます」
「大きくなったのう」
 時宗は満面の笑みで祝子の腹に目をやる。
彼女は腹をなぜた。

「わらわもあとすこしで願いが叶えられまする」
 祝子は今執権の妻として幸せの絶頂にいた。

今日の時宗はにこやかである。

「安静にいたせ。その子は北条の頭領になるやもしれぬ」

「わらわも殿の望む男の子を生みとうございます。わらわのまわりは、みな男であることを願っておりますが、もし叶わなければ心苦しゅうございます」

「そんなことは気にするな。男であれ、女であれ元気に生まれてくるのがなにより。どちらが生まれてくるかは天の思し召し。案ずることはない。今は安静がなにより大事だ」

「それをうかがいまして安心いたしました。肩の荷がおりたような気がします。身も不自由で、なにかと周りの者も気ぜわしい毎日で・・」   

乳母が気を利かして出ていった。

祝子はだれもいなくなったのを確かめると、そっと時宗にだきついた。涙目である。

「もっと殿に会いとうございます。わらわのわがままでございましょうか」

 時宗が祝子の肩を強くだいた。

「我慢いたせ。もう少しの辛抱ではないか。わしもそなたに会いたい。国の一大事を片づけなければ、わしも自由になれないのだ」

祝子が夫の目を見つめた。

「むくりのことでございますか」

 当時、人々は蒙古のことを「むくり」とよんでいた。

「むくりだけではない。このたびの飢饉もなんとかやり過ごすことができた。次から次へと、わしの手に負えぬことばかりだが」

時宗はもう一度、祝子の腹に手をあてる。

「この子のためにも、懸命に執権のお役目を果たすだけだ」

祝子がふたたび時宗の胸に顔をうずめた。至福の時である。

その時、時宗は戸のむこうに人の気配を感じた。

執事の平頼綱だった。

「殿、来客でございます」

「左衛門の尉、いま手がこんでおる。あとにせい」
 時宗は祝子を抱いたまま返事をする。

頼綱の返事はいつもとちがい歯ぎれが悪い。

「それが困ったことに・・」

「どうした。だれがきたのだ」

「葛西殿、讃岐の局、冶部卿、そのほか尼御前方が多数お見えで」

祝子は思わず時宗からはなれ、身繕いをする。

時宗が吐き捨てる。

「幕府が窮状のさなかに、母上たちはいったいなんの用なのだ」

謁見の間ではすでに大勢の尼や女房がいならんでいた。

筆頭は亡き北条時頼の正室、葛西殿。側室の讃岐尼、北条重時の未亡人冶部卿がいる。彼女たちは後家尼の象徴である黒衣をまとっていた。

突然の来訪である。

時宗が上座で対面した。その横には頼綱、安達泰盛のほか、葛西殿謁見(えっけん)知らせを聞いた北条宣時ら幕府重臣がならんだ。

葛西殿がうやうやしく挨拶する。

殿、おひさしゅうござります。元気そうな尊顔を拝し、安心しました。祝子(のりこ)殿も、見目麗しくなによりです。殿は日ごろ何かと煩わしい事がおありとおもわれますので、早速ですが一言申し上げさせていただきます。昨今、内外に多くの憂いがあり、時宗殿なら間違うことはないと思ってはおりますが、わらわも生来の気の弱さもあって心配でなりませぬ」

時宗は母親の謁見の意図を探るかのように、慎重に返答する。

「母上、お久しぶりですが、元気な様子でなによりです。身重の祝子の様子伺いかと思いますが、ご心配めされるな。祝子もまもなく臨月ですが、なんのさわりもありませぬ。世継ぎが生まれるかどうかは、御家人が恐れをなす執権時宗といえど、いかんともしがたい事ですが、無事良い子が生まれてくるでしょう。わたくも、はやり病にもかからず、息災の日々でございます」

葛西が笑みを浮かべた。

「それはそれは、なによりです。わらわもあと少し長生きできるというもの」

時宗が切りだした。

「しかしおどろきましたな。母上、讃岐様そして亡き重時様のご正室・治部卿様がお集まりになるとは。よほどのことでございますか」

冶部卿が告げた。彼女の亡夫重時は日蓮を伊豆流罪にしている。

「われら仏門に帰依してより、思いは仏の道しかありませぬ。仏の道とは成仏すること」

 時宗が笑みをうかべる。

「それは殊勝でございます。父上も禅に熱心であられました。最後は仏にすがっておられました」

実母の葛西が意を決したように告げる。

「時宗殿。今日はそなたの父上のことでまいったのじゃ」

時宗が何事かとばかりに首をかしげる。

葛西が上目づかいに語りはじめた。

「仏の道とは念仏であれ、禅宗であれ、成仏を願うもの。さりながら殿、その仏教を破滅させようとする僧侶がこの鎌倉にいるのです。すでに御承知かと存じますが、名は日蓮と申す」

場がざわめいた。平頼綱がにやりとし、安達泰盛が不安にかられた。

「その日蓮を殿の手で捕らえていただきたいのです」

時宗は驚きをかくしてこたえる。

「なぜでござるか。日蓮殿は過日、旱魃の日本に雨をふらせて名声が高まっており、鎌倉の民もなびいていると聞いております。その日蓮殿を捕えよと」
 葛西の口調がしだいに強くなった。

「日蓮いわく、念仏は無間地獄の業因、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説と」
 重時の妻、治部卿がさらにたたみかける。

「そのうえ家々に先祖代々つたわる阿弥陀や観音の像を火に入れ、水に流しておりまする。また鎌倉中の罪人をかくまっているとのこと。そして刀・弓など武具をあつめているのです。ごぞんじでしたか」

時宗が弁護した。

「なにかのまちがいではござらぬか。事実なら、まず幕府に訴えがあるもの」

 葛西はくいさがる。

「かの日蓮は弁舌たくみで、よく人をまどわしまする。評定所に訴えても詭弁(きべん)(ろう)して沙汰人をいつわります。それゆえ、われらほかに手立てがなく、殿じきじきに訴えでた次第。どうかお取りなしを」

時宗はむきになった。

「おまちくだされ。亡き父上は日蓮殿を島流しにしましたが、それを悔やんで無罪としたのです。父上は日蓮殿を罪人とは思っておりませんでした。わたしもそれに従うまでです」

実母がここで涙を流し、感情をあらわにした。

「日蓮はおまえ様の父上、わが夫の時頼殿を地獄に堕ちたと申しているのですぞ」

冶部卿も周りに(はばか)()なく涙を流していた。

「日蓮はわが夫、重時殿も無間地獄にいると」

座が凍りついた。尼たちのすすり泣きがひろがる。

葛西が最後に告げた。

「殿、母として申します。あの憎い坊主を捕らえなければ、この身も殿も安穏ではありませぬ。どうか、良きにお計らいたもれ」

時宗が腕を組み、じっと天を仰いだ。

時宗は尼御前が退出したあとも腕を組んでいた。まわりには頼綱、泰盛、宣時がいる。

みな深刻である。

時宗が思案にくれてつぶやいた。

「あの母上たちの口ぶり、異様な興奮・・ただごとではない。だれかにそそのかされたか」

頼綱は尼たちを弁護する。

「後家尼御前の力は幕府でも絶大。御家人の大半は女どもの尻にしかれておる。尼将軍の政子様がお手本じゃ。また後家尼らの所領は数多い。蒙古との備えもあります。財政面で後家尼どもに援助してもらわねばなりませぬ。その意味で後家尼殿の御意向は粗略に扱うわけにはいきませぬ」

泰盛が反論した。

「しかし御成敗式目に鑑みれば、証拠がなければ日蓮を捕らえることはできぬ。他宗の批判は世上を惑わさないかぎり、幕府も許しております。武器を蓄え、悪人を集め、亡き殿を地獄に堕ちたなどという証拠は今のところありませぬ。それに・・」

頼綱がさえぎった。

「いや日蓮は捕らえるべきですな。この鎌倉ではいまや念仏にかわって法華経の題目がうずまいている。危険でござる。これ以上拡大させるべきではありませぬ。もし・・」

こんどは泰盛がさえぎった。

「殿、ひとつ考えがあります。日蓮の祈りの力用(りきゆう)恐るべきものでござる。蒙古の予言といい降雨の祈りといい、あれほどの力用を示した高僧はおりませぬ。蒙古の退治も日蓮を利用すれば必ずしるしがあるはず」

頼綱がいきりだした。

「ばかな。なにを申す」

泰盛もむきになった。

「おぬしこそ。幕府をほろぼす気か」

時宗は決断した。

「まて、母上まで出てきてはいたしかたない。一度は日蓮殿を問注所に召喚することにしよう」

泰盛は落胆した。

「日蓮殿を召喚する。結論はそれからだ。召し出して詰問すれば、尼御前たちは納得して静まるだろう。召喚の担当は頼綱、そちがせよ。だがくれぐれもはきちがえるな。日蓮殿は罪人ではない。丁重にあつかえ」

時宗は楽観的だった。

日蓮は悪人ではない。幕府が真意を聞いて公表でもすれば、自然に騒ぎはおさまると思っていた。しかしこれが頼綱の暴走をまねくことになる。

頼綱はうやうやしく時宗に平伏し、横に控えていた北条宣時に目で合図した。

尼御前の輿(こし)が葛西殿を先頭に若宮大路をすすむ。

執権の母である。すれちがう武士が頭をさげ、町民がひれふした。

そのなかで、ひときわ目だつ黒衣の僧が伏せていた。

葛西がにこやかに(すだれ)をあげて見おろした。

平伏した僧はこれに答え、うやうやしく顔をあげた。

極楽寺良観であった。


(    
)

              二十九、平頼綱への諌暁 につづく


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by johsei1129 | 2017-03-20 17:22 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

二十四、広宣流布の壁

金吾たち三名と訴人三名が沙汰人を前に対決した。

鎌倉時代の最大の特色は武士が中心となって裁判する形式が始まったことである。政権が公家から武家にうつり、裁判の公平が保たれるようになった。このため武家はもちろん農民、下人にいたるまで、権利という概念が生まれ、己が権利を主張するという、いわば訴訟行為が飛躍的にさかんになった。いきおいだれもが裁判の行方を注目するようになる。その熱気は現代の比ではない。

今のように民法や商法など、まるでない時代である。法律といえば、わずか三十年前に五十一箇条の御成敗式目ができたばかりだった。しかし訴訟の件数は猛烈な数にのぼっている。刑事事件もあれば民事もあり種々雑多だった。賞罰の形式もある程度自由である。上司と部下、使用人と下人の裁判もめずらしくなかった。

じっさい、この時代の人々にとって裁判は現代のスポーツ観戦のようなイベントであった。だれもが一つ一つの裁定の顛末に注目した。

新聞もマスコミもない時代である。いわゆる世論というものがない。人々は評定をとおして世情を感知していた。


評定所では多くの武士が傍聴人として集まっていた。

沙汰人が宣言する。

「これより訴人の訴えにしたがい、評定をおこなう。まず訴えを聞こう」

原告である訴人が前にでた。訴人は今まで目にしたことのない人物だった。

「ここにいる四条金吾、土木常忍、太田乗明の三名は法華宗の有力な信徒であります。念仏などの他宗を誹謗し、この鎌倉を混乱させております。またこの三名、御家人の身で幕府に仕えながら、人心をまどわすのはもってのほかであり処罰にあたるもの。すみやかにかれらの所領を召して追放すべきと存ずる」

沙汰人が手慣れたようにうながす。

「では論人、反論を」

四条金吾がまちかねたように前にでた。自信満々の口調である。

「まずは最初にお聞きしたいことがある。訴人であるあなた方はどなたか。私たちがお会いしたことのない面々でありますな。いったいだれの使いでわれらを訴えたのか」

「無礼な。使いではない」

富木常忍が交代した。

「では申しあげる。仏法の根本は教主釈尊の経典からでている。いわゆる低い教えから高いものまで千差万別である。一切衆生の不幸は、このなかの低い教えに執着することからはじまっている。念仏宗、禅宗は、仏が化導の初期に説かれた低級の教えである」

訴人がいきりだした。聴衆からも非難する声があがる。

仏法教学に長けた太田乗明が交代した。

「仏教の開祖釈尊が説かれた最高の教えとは法華経である。わが日蓮上人は仏法の一切を知りつくした法華経の行者である。一切経の鏡で今日、日本の未来を写し出し、ただ一人外敵の来襲を予言し的中させたのです。()このことはだれ一人知らぬ者はいない。蒙古退治は日蓮上人をおいて、誰も他におらぬではないか」

聴衆からそうだ、その通りだ」と日蓮をひいきにする声と「念仏が低い教えとは何事だ」と批判する怒号が巻きおこった

ここで沙汰人があわてだした。この事務官は憶病だった。金吾たち三人は信仰を盾にして暗に幕府を非難している。いくら問注所という言い争いの場とはいっても幕府批判は御法度である。問注どころの騒ぎではない。

金吾がたたみかけた。

「世間にいわく、未萌(みぼう)を知るを聖人という。仏典にいわく三世を知るを聖人という。すみやかに法華経そして日蓮上人に帰依してこそ、日本国の安泰があるというもの。いかがかな」

訴人が反論した。

「おぬしらは幕府に仕えながら、幕府を悩ますのはなんとする。この日本国に蒙古の攻めがあるやもしれぬのに、日蓮は他宗の僧の首を切れ、寺院を焼きはらえと騒いでいる。これが大罪でなくしてなんであろう」

金吾は力強く答える。

「これはこれは異なことを申される。そもそも外敵が攻めてくることを九年前に予言したのはわれらが日蓮上人ただお一人である。この事お忘れなきように。また日蓮上人は他宗の僧の首を斬れ、寺院を焼きはらえなどとは一言もいってはおりません。良観殿、道隆殿、念阿殿が我が門下を陥れようと讒奏なされていることは周知の事実です。われわれ法華宗の祈りはほかでもない、わが国土の安穏、敵国の衰退であります。しかしここにおよんで法華経を誹謗する僧侶が祈れば、諸天善神が日本から去って、わが国の敗北は必至であるぞ」

沙汰人はさらに動揺した。

(なんと・・このままでは法華と他宗の公場対決になるではないか)

訴人が顔を真っ赤にして金吾側に反論した。

「われらは法華経を誹謗してはおらぬ。法華経を大切にする者も少なからずおるのだ。なのになぜそこまで他宗を攻撃するのだ」

 あらかじめ律儀に想定問答を準備していた千葉氏の文官、富木常忍がこれに即答する

「この日本国は法華経誹謗(ひぼう)の国である。法華経を大事といいながら、阿弥陀を祈り、座禅を組む。子を大切にして親を粗末にし、薬と思って毒薬を飲む。わが日蓮上人はこのことを憂い、鎌倉殿をはじめ各所に訴えるも答える御仁はおらず。御式目によるならば、さだめてお招きあって意見を述べるところを、さにあらず流罪されたのはいかなることか。この国の安穏を思うに、これは御政道の誤りというもの。蒙古退治は日蓮上人よりほかには叶うべからず。邪宗の祈りは日本国を早く滅ぼすのみ。去りし承久の世に、上皇に仕える高僧らが鎌倉退治を祈り、逆に滅ぼされたのをご存知ないか」

訴人が得意げに言上した。

「沙汰人、今の言葉、聞かれましたか。これぞ日蓮の徒党の正体でござる。民をあざむき幕府を誹謗する者どもでござる」

 沙汰人は汗をふいた。

「そのほうら三名。いまの言葉に嘘偽りはないか。さもなくば起請を書く用意があるのか」

起請は天地神明に誓うことである。これに背けば自決しなければならない。

太田乗明が答える。

「いかにも。ただわれわれも幕府に仕える身。われらの主人や同輩に対してはいささかの遺恨はござらぬ。沙汰人のご賢慮をあおぐまで」

場内が静かになった。

金吾たち三人は勝利を確信した。

逆に沙汰人は目を下にやり、思いつめている。裁判官として評決を下すことができない。

しんとした中、戸外で騒ぐ声が聞こえた。やがてその音がしだいに大きくなった。

「なにごとか」

評定所の門前では人だかりができていた。

訴人と論人の所従同士がはげしく争っていたのである。互いが刀で応戦しあっていた。

評定にいた人々が外にでた。

駆けつけた金吾が彼らをなじった。

「やめろ。やめんか」

常忍もつづく。

「評定所の前である。喧嘩狼藉は御法度であるぞ」

刃傷沙汰の罰は領地没収である。領地がなければ流罪になる。また刃傷の当事者が御家人でなければ牢送りだった。

双方がやっとひいた。

そこに沙汰人が割ってはいり、宣言してしまった。

「本日の評定は取りやめとする」

金吾ら三名が愕然とした。勝利は目前なのに思わぬ事態となった。

沙汰人は冷然と言いはなった。

「仏法の宗義は評定所の管轄外である。沙汰すべきにあらず。おのおの立ち去れい」

金吾たち三人が猛然と抗議したが聞きいれない。目の前にあった勝利が忽然と消えてしまった。


三人が館にもどり日蓮に平伏した。伯耆房らの弟子たちがかこんだ。

金吾が無念そうにもらす。

「まことに残念でございます」

常忍も打ちひしがれた。

「上人の義をのべる絶好の機会にあのような騒ぎをおこし、まことに申しわけございませぬ」

日蓮はなぐさめたが、さすがに落胆の色が濃い。この時の心境を太田乗明(金吾)への手紙でつぎのように記している。


(そもそも)此の法門の事、勘文の有無に()りて弘まるべきか、弘まらざるか。去年(こぞ)方々に申して候ひしかども、いな()()の返事候はず候。今年十一月の比、方々へ申して候へば、少々返事あるかたも候。()()た人の心もやわらぎて、さもやとをぼしたりげに候。又(かみ)()ざん()にも入りて候やらむ。              

 これほどの僻事(ひがごと)申して候へば、流・死の二罪の内は一定(いちじょう)と存ぜしが、いまゝでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候。いたれる道理にて候やらむ。又自界叛逆(ほんぎゃく)(なん)の経文も()ふべきにて候やらむ。山門なんどもいにしえにも百千万億倍すぎて動揺とうけ給はり候。

 それならず子細ども候やらん。(しん)(たん)高麗(こうらい)すでに禅門・念仏になりて、守護の善神の去るかの(あいだ)()の蒙古に従ひ候ひぬ。                         

 我が朝(日本)、又此の邪法弘まりて天台法華宗を(こつ)(しょ)のゆへに山門(あんのん)ならず、師檀違叛(いはん)の国と成り候ひぬれば、十が八、九はいかんがとみへ候。               

人身すでにうけぬ。邪師又まぬかれぬ。法華経のゆへに流罪(るざい)に及びぬ。今死罪に行なはれぬこそ本意ならず候へ。あわれさる事の出来(しゅったい)し候へかし、とこそはげみ候ひて方々に(ごう)(げん)をかきて挙げをき候なり。すでに年五十に及びぬ。余命いくばくならず。いたづらに曠野(こうや)にすてん身を同じくは一乗法華のかたになげて雪山(せっせん)童子、薬王菩薩の跡をおひ、(せん)()有徳(うとく)の名を後代に留めて法華・涅槃(ねはん)経に説き入れられまいらせんと願うところなり。南無妙法蓮華経。                                   十一月二十八日          日蓮花押    【金吾殿御返事(大師講御書)】


【訳】そもそも、この法門のことは、諌暁の書の予言が現実になるか、現実にならないかによって、弘まるか、それとも弘まらないかが決まる。昨年十一通の書状で、何人かの人に申し上げたが、拒絶とも承諾とも、いずれとも返事がない。

今年の十一月ごろに、何人かの人々に申したところ、少々、返事をくださる人もいる。ほとんど、人の心も穏やかになって、そのとおりかもしれない、と思われたかのようである。また、執権殿の目にも入ったのかもしれない。

これほどの道理に合わないことを申し上げているのだから、流罪か死罪か、その二罪のうちにはいずれかには必ず処えられることは決まっている、と思っていたが今まで何ということもないのは不思議であると思う。日蓮の主張が最上・究竟の法理であるのではないだろうか。また、他国侵逼(しんぴつ)(なん)が起こるとの予言が的中したのであるから、自界叛逆難が起きるとの経文も符号(ふごう)するであろう。

比叡山・延暦寺なども、過去の山門と寺門派の抗争の時の動揺よりも百千万億倍過ぎた動揺である、とうけたまわっている。それどころではない深い理由などがあるのではないだろうか。震旦や高麗はすでに禅門・念仏になって守護する善神が去ってしまったので、かの蒙古に征服され従えさせられてしまった。わが日本もまたこの邪法がひろまって天台法華宗を軽んじたり、なおざりにしている故に、山門も安穏でなくなった。出家の師に対し檀那がそむく国となっているのであるから、十のうち八・九はどうであろうかとみえる。

すでにうけがたい人身をうけることができた。邪師もまた免れた。法華経の故に流罪に及んだ。今、死罪に行われないことこそ不本意である。ああ、そのようなことが起これと、法華経の弘通に励んでいる方々に語調の強い言葉を書いてさしあげておいたのである。

すでに年も五十近くになった。残された寿命もいくばくもない。いたずらに広野に捨てる身であるならば、同じくは一仏乗を説く法華経の方に投げて雪山童子や薬王菩薩の跡を追い、仙予国王や有徳王がその名を後の時代にとどめたように、日蓮もその名を後の時代にとどめて、末法の法華経・涅槃経に説き入れていただこうと願うところである。


日蓮は死罪に及ぶことを望んだ。それは自身が末法の本仏であることを証明するための必須条件であったからに他ならない。文応元年三十九歳の時に「立正安国論」を北条時頼に献上しているが、同時期に述作した「唱法華題目抄」ですでに末法に建立すべき本尊の相貌(そうみょう)を記している。


問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀(ならび)に常の所行(しょぎょう)は何にてか候べき、答えて云く、第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師(ほっし)品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず()(りゅう)行なるべし、道場を出でては行住(ぎょうじゅう)坐臥(ざが)をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一()・一句をも読み奉る可し、助縁(じょえん)には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に(したが)うべし、愚者(ぐしゃ)多き世となれば一念三千の観を先とせず、其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

この「唱法華題目抄」の記述を見る限り、日蓮は三十二歳で立宗し「南妙法蓮華経」と唱えるという末法における仏になるための「行」を広めていくが、いずれ末法の本尊を建立すべきと内証に秘めていたことは間違いない。
 それではいつ建立すべきなのか。釈尊は三十歳で成道し四十二年を経て霊鷲山に弟子を一同に集め、法華経の開教である無量義経・十功徳品第二で「四十余年 未顕真実」と宣言、そして同じ霊鷲山で釈尊究極の教えとして妙法蓮華経を説いた。

本尊は衆生が己の仏性を開くための縁となる存在である。それゆえ仏の命がそこに吹き込まれなければ、衆生は本尊と感応して仏性を開くことができない。本尊は衆生が仏心を成就することを念じて本仏自らが図現する必要があつた。

釈尊は法華経如来寿量品第十六の最後に『我亦為世父(中略)、毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏心(我また世の父と為りて(中略)いかにして衆生をして無上道に入らしめ、速やかに仏身を成就することを得せしめんといつも念じている)と説いている。

日蓮が幕臣、各宗派の僧侶に宛てた十一通の書状は、一往は「公場対決」で勝利し他宗への布施を止め、幕府を法華経信仰に立たせることにあったが、再往は自身に死罪が及び、それを乗り越えることで末法の本仏であることを現在の門下及び滅後の弟子・信徒に示すことだった。

この日蓮の本願は二年後、「竜の口」の法難として実現することになる。

日蓮はこの内証を、四条金吾でも富木常忍でもなく大田乗明(金吾)への消息文で吐露している。大田乗明には、日蓮が入滅する半年前の弘安四年の四月八日、本門戒壇の建立を後世に託した「三大秘法禀承事」を与えている。この書の中で日蓮は記す。

此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として日蓮(たしか)かに教主大覚世尊より口決相承せしなり・・・・今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり。()年来(としごろ)己心に秘す(いえど)も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の(ゆい)(てい)()定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可し。其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き送り候、一見の後、秘して他見有る可からず口外も(せん)()し。法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」

「地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」の文言は、日蓮が上行菩薩の再誕であることを意味しているが、この内証をあらわにしたのは、ほとんど(まれ)だった。わずかに後継の日興に口伝した就註法華経口伝(御義口伝)の寿量品二十七個の大事の二十五「建立御本尊の事」で「日蓮(たし)かに霊山に於て面授(めんじゅ)()(けつ)せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」とあるのみである。

当時の信徒には到底理解できることではなかった。うかつに口にすれば信徒に疑心をわかせるだけだった。

逆にこのことは日蓮にとって、在家信徒である大田乗明の法門への理解に対する信頼がいかに高かったかを物語っている。それゆえ他の信徒にたいしては「死罪が降りかかるのを望んでいる」という心証を不用意に吐露することはなかった。


この究極の内証とは裏腹に、日蓮は窮した。

三十二の年より二十年近くにわたって法華経の正義を訴えつづけ題目を弘めた。諸宗をやぶり、法華経広布の国土を建てようとした。だが題目の流布はしたものの、日本国の根底は変わっていない。諸宗はいぜんもとのままであり、国主も聞く耳をもたなかった。

念仏を無間地獄という日蓮の悪名は高まるばかりである。それほどまでに日本国の迷妄は深い。
 こうして日蓮という名は世間から黙殺されたまま、歴史の荒波に埋もれようとしていた。

鎌倉の人々は口々にいった。一介の僧侶が天下の鎌倉様や極楽寺の良観様に楯突こうなどと、身の程知らずにもほどがあると。

しかし事は意外なところから日蓮と良観を取り巻く事態が急転換する。



   二五、極楽寺良観と日蓮、降雨の対決 につづく




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by johsei1129 | 2017-03-19 22:03 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

二十一、僭聖増上慢、極楽寺良観への書状

 侍所平頼綱の部屋でも書状が読みあげられていた。

 頼綱は従者が恐る恐る読みあげるのを憤然として聞いた。

 蒙古国の牒状到来に()いて言上せしめ候ひ(おわ)んぬ。

(そもそも)先年日蓮立正安国論に之を勘へたるが如く、少しも違わず()(ごう)せしむ。然る間重ねて訴状を以て(しゅう)(うつ)(ひら)かんと欲す。(ここ)を以て(かん)()を公前に飛ばし、争戟(そうげき)を私後に立つ。(しかしなが)ら貴殿は一天の(おく)(とう)たり、万民の手足たり。(いか)でか此の国滅亡せん事を歎かざらんや慎まざらんや。早く(すべから)く対冶を加へて謗法の(とが)を制すべし。

(
)

 頼綱は書状をつかんで破りすててしまった。

 書状は建長寺の蘭渓道隆にも届いた。

 道隆は寛元4年(1246年)南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖で、建長5年(1253年)、北条時頼によって鎌倉に禅寺として創建された建長寺に招かれて開山となった。鎌倉仏教界の第一人者である。日蓮は十月十一日、弟子日持に届けさせた書状で対決をいどんだ。それ故、この書状は全編、闘志にみなぎっている。

(それ)仏閣(ぶつかく)(のき)並べ(なら)法門(いえ)ごとに(いた)る。仏法の繁栄は身毒(けんどく)尸那(しな)にも(ちょう)()し、僧宝の行儀(ぎょうぎ)は六通の羅漢の如し。然りと(いえど)も一代諸経に於て未だ勝劣(せん)(じん)を知らず(しかしなが)禽獣(きんじゅう)に同じ、(たちま)ちに(さん)(とく)の釈迦如来を(なげう)つて他方の仏菩薩を信ず。是(あに)逆路伽耶陀(ぎゃくろがやだ)(注)の者に非ずや。念仏は無間(むけん)地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説(もうせつ)と云々。

(ここ)に日蓮()ぬる文応元年の(ころ)、勘へたるの書を立正安国論と名づけ、宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ。此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難(しき)りに起こり(あまつさ)へ他国より此の国を責めらるべきの由之を勧へたり。然るに去ぬる正月十八日牒状(ちょうじょう)到来すと。日蓮が勘へたる所に之少しも(たが)はず普合せしむ。諸寺諸山の祈祷の威力滅する故か。(はた)(また)悪法の故なるか。

 鎌倉中の上下万人、道隆聖人をば仏の如く之を仰ぎ、良観聖人をば羅漢(らかん)の如く之を尊む。其の外寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿等の長老等は「()慢心(まんしん)(じゅう)(まん)未得謂(みとくい)()(とく)」(注)の増上慢の大悪人なり。何ぞ蒙古国の大兵を調伏(じょうぶく)せしむべけんや。(あまつさ)へ日本国中の上下万人(ことごと)く生け取りとなるべし。今生には国を亡ぼし後生(ごしょう)には必ず無間(むけん)()せん。日蓮が申す事を御用ひ無くんば後悔之有るべし。此の(おもむき)鎌倉殿・宿屋入道殿・(へいの)左衛門尉(さえもんのじょう)殿等へ之を進状せしめ候。一処に寄り集まりて御評議有るべし。()へて日蓮が()(きょく)の義に非ず。只経論の文に任す処なり。(つぶさ)には紙面に載せ難(の がた)(しかしなが)ら対決の時を()す。書は(ことば)を尽くさず。言は心を尽くさず。恐々謹言。

文永五年戊辰十月十一日       日蓮花押

進上 建長寺道隆聖人侍者御中   『建長寺道隆への御状

 書状は極楽寺良観にも届けられた。

 彼は律宗とともに念仏もひろめていた。したがって立正安国論で「念仏無間」と説く日蓮とは真っ向から対立し、信者の争奪をくりひろげていた。

 そこに挑発ともいえる書状がきた。内容は良観を完膚なきまでに下したものだ。良観は歯ぎしりする思いだったに違いない。

西戌(さいじゅう)大蒙古国の到来に()いて鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候。日蓮()ぬる文応元年の(ころ)、勘へ申せし立正安国論の如く(ごう)(まつ)(ばか)りも之に相違せず候。此の事如何(いかん)。長老(にん)(しょう)速やかに嘲弄(ちょうろう)の心を(ひるがえ)し、早く日蓮に帰せしめたまふべし。若し然らずんば『人間を軽賎(きょうせん)する者、白衣(びゃくえ)(ため)に法を説く』の(とが)(のが)れ難きか。依法不依人(注)とは如来の金言なり。良観上人の住処を法華経に説きて云はく『或は()(れん)(にゃ)に有り、(のう)()にして(くう)(げん)に在()』(注)と。阿練若は無事(むじ)(ほん)ず。(いか)でか日蓮を讒奏(ざんそう)するの条、住処と相違せり。(しかしなが)ら三学にたる矯賊(きょうぞく)の聖人なり。僣聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)(注)にして今生は国賊、来世は那落(ならく)()(ざい)せんこと必定せり。(いささ)かも先非(せんぴ)を悔いなば日蓮に帰すべし。この(おもむき)を鎌倉殿を始め奉り、建長寺等其の外へ披露(ひろう)せしめ候。

所詮本意を遂げんと欲せば対決に()かず。即ち三蔵(せん)(ごん)の法を以て、諸経中王の法華に向かふは、江河と大海と華山(かざん)妙高(みょうこう)()(注)との勝劣の如くならん。蒙古国調伏(じょうぶく)の秘法は定めて御存知有るべく候か。日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国対冶(たいじ)の大将たり。

 

 十一通の書状を届けた日以後、おおぜいの信徒が日蓮の館につどった。

 四条金吾・土木常忍・太田乗明・日妙・池上兄弟らは微動だにせず、まっすぐ師日蓮の目を見つめていた。しかしほとんどの信徒は自分たちにも類が及ぶのではないかという不安にかられ、下をむいている。

 日蓮の言葉はきびしい。いままでに聞いたことがないほどだ。

「大蒙古帝国の書状到来について、十一通の書状をもって方々へ申さしめました。さだめて日蓮が弟子檀那は流罪、死罪はまぬがれまい。この事を少しも驚いてはなりません。かたがたへの訴えは、あえて(いか)らせるため、而強毒(にごうどく)()(注)の故であります。また日蓮が望むところでもあります。おのおの方はくれぐれも用心あるべし。少しも妻子眷属を思ってはなりません。権威を恐れてはなりません。いまこそ過去遠々刧の宿縁をたち切って、成仏の種を植える時です」

「流罪、死罪はまぬがれまい」との日蓮の厳しい言葉を聞き、聴衆の中から一人二人と立ち去っていく者がいた。親しい仲間同士で連れそって出ていく者たちもあらわれた。



               二二、三類の怨敵 につづく


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 逆路伽耶陀

 法華経安楽行品第十四にある、古代インドの外道の一派で逆順世派のこと。世情の趣くままに教を立てる順世派に逆らい、世論に順わないで法を説いていた外道の一派。順世派の師であるチャールヴァーカの立てた教義にしたがわないで反対の説を立てたために、後代、師の意にそわず反逆の罪を犯す者のたとえに用いられた。

 ()慢心(まんしん)(じゅう)(まん)未得謂(みとくい)()(とく)

「我慢の心充満せん。(いま)()ざるを()れ得たりと(おも)う」と読む。法華経勧持品第十三にある。諸菩薩が法華経を弘教する誓いで唱えた言葉。悪世の中の比丘は、邪智にして心(おご)り、究極の法を知らないで増上慢に陥る意。

 依法不依人

 「法に依って人に依らざれ」と読む。涅槃経に説かれている法の四依の一つ。仏法の勝劣浅深・判釈については仏の経文を用い、人師・論師の言を用いてはならないとの意。

 日蓮大聖人は報恩抄で「依法不依人」の法と人について「依法(えほう)と申すは一切経、不依(ふえ)(にん)と申すは仏を除き奉りて(ほか)普賢(ふげん)菩薩・文殊(もんじゅ)()()菩薩乃至(ないし)上にあぐるところの諸の人師なり」と断じている。つまり仏は諸法の実相を極めているから「違いなく、(とが)なし」だが、普賢菩薩・文殊師利菩薩といえども、(いま)だ極めきっていないのだから、その言に依存してはならないと説いている。いわんやその他の諭師、人師は言うまでもない。

或は()(れん)(にゃ)に有り、(のう)()にして(くう)(げん)に在り

 阿練若は梵語でアーランニャ。空家・閑処・寂静処(じゃくじょうしょ)無諍声(むじょうしょう)と訳す。原語の『森林に住む』との云いから、人里離れた静かなところをさし、僧侶の修行の好適地をいい、のちに寺の意にも用いられた。

 納衣は法衣の一種。人の捨てた布を拾い集めて洗濯し、これを縫いつくろって作った法衣。納はつくろうの意。()()()糞掃(ふんぞう)()ともいった。空閑は阿練若と同義。

 僭聖増上慢

 聖人の姿に似せて聖人として振る舞い、権力に近づいて正法を弘める者を迫害する者をさす。三類の強敵の第三。似非(えせ)聖者。法華経勧持品第十三には、仏滅後、法華経を弘通する時、正法の行者を迫害する三種の人格を説いている。僭は下の者が分をこえて上になぞらい(おご)ることをいう。聖は智徳が万人にすぐれている意。ゆえにこの第三類は、通常は聖人のように振る舞っているが、内面は邪見が強く常に貪欲に執着している者をいう。

「御義口伝に云はく、第三の比丘なり、良観等なり、(にょ)六通(ろくつう)羅漢(らかん)の人と思ふなり」    『勧持品十三箇の大事  第九 或有阿練若の事

崋山と妙高

 崋山は中国の名山である秦嶺山脈の支脈である終南山脈の峰(二二○○㍍)。諸経・周礼などにも名がみえ、古来から西岳と呼ばれ、五岳の一つに数えられている。

 妙高とは須弥山のこと。妙高・安明ともいう。古代インドの世界観で世界の中心にあるとされる山。

 而強毒之

 「(しか)して()いて(これ)を毒す」と読む。正法を信じない衆生に強いて説き、仏縁を結ばせること。折伏化導と同義。法華文句巻十上に「()(すで)に善有るには釈迦小を以て之を(しょう)()し、()(いま)だ善有らざれば、不軽(ふきょう)は大を(もつ)て而して強いて之を毒す」とある。煩悩多き衆生は福徳が薄いため、自ら妙法を求めることをしない。ゆえに()えて三毒の心を起こさせて(どっ)()の縁を結ばせ、妙法を受持し仏道を成じさせることをいう。

「御義口伝に云はく、聞とは名字即なり、所詮は而強毒之の題目なり、皆とは上慢の四衆等なり、信とは無疑曰(むぎわっ)(しん)明了なるなり、伏とは法華に帰伏するなり、随とは心を法華経に移すなり、従とは身を此の経に移すなり。所詮(いま)日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る行者は末法の不軽菩薩なり。」 『常不軽品三十箇の大事 第十 聞其諸説 皆信伏随従の事』



by johsei1129 | 2017-03-19 19:51 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

二十、北条時宗を諌暁

 このままでは(らち)が明かない。

 翌十月、日蓮は意を決し、弟子を使いとして一斉に関係各所に書状を届けた。相手は北条時宗を筆頭に幕府要人および仏教寺院である。日蓮の鬼気迫る行動だった。

 伯耆房は日蓮の書状をもって宿屋入道の館に出向いた。だが、屈強な門番に止められた。

 伯耆房は取り次ぎの役人に告げた。

「日蓮上人の使い、伯耆房日興と申します。鎌倉殿あてに書状を持参いたしました」

 いっぽう日朗は書状をもって侍所にむかい、門前に立った。

 門番が日朗を制止した。日朗は屈しない。

「日蓮上人の弟子、日朗と申す者。平の左衛門尉様にこの書状をご持参いたした。御計らいのほどを」

 日昭は極楽寺にむかった。

「極楽寺良観殿に書状あり。日蓮上人の弟子、日昭がまいった」

 日持は建長寺に走った。

「建長寺道隆殿に書状あり。日蓮上人の弟子、日持がまいった」 

 日蓮の書状は合計十一箇所に及んだ。届けられた先は北条時宗、幕臣の平頼綱・宿屋入道・北条弥源太、寺院および僧侶の建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺である。

 日蓮は国主北条時宗の前で鎌倉の七ケ寺との対決を望んだ。建長寺をはじめとした七ケ寺こそ国をほろぼす元凶だからである。

 日蓮はこの七ケ寺の本質をつく。この時の心境を弘安元年九月六日、妙法比丘尼に送った消息で次のように記している。

而るに又()(あずま)にうつりて年を()るまゝに、彼の国主を失ひし真言宗等の人々鎌倉に下り、相州の足下にくゞり入りて、やうやうにた()かる故に、(もと)上臈(じょうろう)なればとてすか()されて鎌倉の諸堂の別当となせり。又念仏者をば善知識とたのみて大仏・長楽寺・極楽寺等とあが()め、禅宗をば寿福寺・建長寺等とあがめをく。隠岐法皇の果報の尽き給ひし(とが)より百千万億倍すぎたる大科鎌倉に出来(しゅったい)せり。妙法比丘尼御返事 

(訳文)五十年前、後鳥羽上皇が承久の変に敗れ、隠岐へ流されたあげく崩御したのも邪教のゆえである。この邪教の輩は東の鎌倉へうつり、北条にとりいって国を傾けている。今また蒙古を前にして、邪正を定めないまま国が滅びようとしている。相州すなわち時宗の前で悪比丘が根をはっている。これを退治することができるのは自分しかいない。

北条時宗は従者が日蓮からの書状を読みあげるのを聞いていた。横で安達泰盛がじっと時宗の表情をうかがっている。

 日蓮が送った十一通の中で、執権時宗にあてた書は極めて格調が高い。日本の国主への敬意にあふれている。対句を多用し、読む者をして歌うような(なめ)らかさでしたためている。その気品は時宗の父北条時頼に呈した立正安国論を思わせる。日蓮は子の時宗にも全く同じ心魂を費やした。この書状もまた時頼の時と同様、幕臣宿屋入道をつうじて提出された。

謹んで言上せしめ候。(そもそも)正月十八日西戌(せいじゅう)大蒙古国の牒状到来すと。日蓮先年諸経の要文を集め之を勘へたること立正安国論の如く少しも(たが)はず普合(ふごう)しぬ。日蓮は聖人の一分に当たれり。未萌(みぼう)を知るが故なり。

(しか)る間重ねて此の由を驚かし奉る。急ぎ建長寺、寿福寺、極楽寺、多宝寺、浄光明寺、大仏殿等の御帰依を止めたまへ。然らずんば重ねて又四方より()め来るべきなり。

(すみ)やかに蒙古の人を調(じょう)(ぶく)して我が国を安泰(あんたい)ならしめ給へ。彼を調伏せられん事、日蓮に非ざれば之(かな)うべからず。(かん)(しん)(くに)()れば則ち其の国正しく、争子(そうし)家に在れば則ち其の家直し。国土の安危は政道の直否に在り、仏法の邪正は経文の明鏡()る。

(それ)此の国は神国なり。神は非礼を()けたまわず。天神七代・地神五代の神々、其の外諸天善神等は、皆一乗擁護(おうご)の神明なり。然も法華経を以て食と為し、正直を以て力と為す。法華経に云わく『諸仏救世者(くせしゃ)は大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現ず』と。一乗捨棄(しゃき)の国に(おい)ては(あに)善神怒りを成さざらんや。

仁王(にんのう)(きょう)に云わく『一切の聖人去る時七難必ず起こる』と。彼の()(おう)伍子胥(ごししょ)(注)が(ことば)を捨て吾が身を亡ぼし、(けつ)(ちゅう)(注)は(りゅう)()(注)を失ひて国位を(ほろ)ぼす。今日本国既に蒙古国に奪はれんとす。(あに)嘆かざらんや、豈驚かざらんや。

日蓮が申す事御用ひ無くんば、(さだ)めて後悔之有るべし。日蓮は法華経の御使ひなり。経に云わく『則ち如来の使ひ、如来の所遣(しょけん)として、如来の()を行ず』と。三世諸仏の事とは法華経なり。

この由方々へ之を驚かし奉る。一所に集めて御評議有りて御報に(あず)かるべく候。所詮は万祈(ばんき)(なげう)ちて諸宗を御前に召し合わせ、仏法の邪正を決し給へ。澗底(かんてい)長松(ちょうしょう)未だ(いま)知らざるは(りょう)(しょう)(あやま)()り(注)、闇中(あんちゅう)(きん)()を未だ見ざるは愚人の(とが)り(注)()。三国仏法の分別に於ては殿前(でんぜん)在り、()所謂(いわゆる)阿闍(あじゃ)()・陳・隋・桓武是なり。()へて日蓮が私曲(しきょく)(あら)ず。(ただ)(ひとえ)に大忠を(いだ)く故に、身の為に之を申さず。神の為、君の為、国の為、一切衆生の為に言上(げんじょう)せしむる所なり。恐々謹言。                    

 文永五年十月十一日           日蓮花押

 謹上 宿屋入道殿                 『北条時宗への御状

 泰盛が怒りだした。

「なんという無礼で傲慢(ごうまん)書状だ」

 時宗は瞑目したまま黙考をしていた。


                      二一、 僭聖増上慢、極楽寺良観への書状 につづく


上巻目次


 呉王・伍子胥 

 呉王。

 中国・春秋時代の呉の王。(在位紀元前四九六~四七三)。父王闔閭(こうりょ)は越王(こう)(せん)との戦いに敗れ、太子・夫差(ふさ)に復讐を遺言して死ぬ。王位に就いた夫差は二年後に越を会稽で破った。呉の名臣伍子胥(ごししょ)は、越が後日、力を回復するのを恐れ、勾践を殺そうとするが、夫差は和を請う勾践を許した。勾践は(きも)()めて復讐を誓い、兵力の回復に努め、呉に攻め入り、ついに勝利を収めた。夫差は敗走して和を請うたが、勾践は許さなかったため、伍子胥の諫言を用いなかったことを悔やんで自害し呉は滅亡した。

 伍子胥

?~紀元前四八五年。中国・春秋時代、呉王に仕えた重臣。父の伍奢(ごしゃ)は楚の平王に仕えたが、平王二年(紀元前五ニ七)内紛のために兄の()(しょう)と共に殺された。そのため彼は楚を去って敵国の呉王闔閭(こうりょ)に仕え、孫武と共に楚を破り、平王の墓をあばいて、その(しかばね)に鞭をうって復讐をとげた。その後、闔閭の子・夫差に仕え、夫差が大いに(えつ)軍を破った時、越の後難を危惧した彼の再三の進言が聞き入れられず、逆に自害させられた。その時「わが目をくりぬいて呉の東門にかけておけ、やがて越が呉を滅ぼす様をみよう」といって死んだという。彼の予言どおりに呉は滅ぼされた。

 桀・紂

 中国古代の王。()の桀王、殷の紂王のこと。

 夏の桀王は中国古代、夏王朝最後の王。名を()()という。史記によると、不道徳で酒池肉林(しゅちにく りん)をきわめ、暴虐で人民を苦しめた。忠臣(りゅう)(ほう)(いさ)めたが用いず頭をはねたほどの暴悪ぶりだった。のち(いん)(とう)王に滅ぼされた。殷王朝最後の(ちゅう)王とともに悪王の代表とされている。

 殷の紂王は紀元前十一世紀頃、中国・殷王朝最後の王。()()悪王の名が高く、臣下の言に耳をかさず農民を重税で苦しめ、周の武王に滅ぼされて殷王朝は崩壊した。のち、()(けつ)王とともに、桀紂と称され、悪王の(たとえ)に用いられるようになった。

 竜・比

 竜蓬と比干のこと。共に中国古代の忠臣。竜蓬は夏の桀王に、比干は殷の紂王に仕えたが、ともに主君の暴虐を諫めて容れられず殺された。殷も夏も忠言を聞かなかったため滅亡したといわれる。

 

 澗底(かんてい)長松(ちょうしょう)未だ知らざるは(りょう)(しょう)の誤り

 澗底とは谷の深い所。優れた(たくみ)が険しい谷で誰も知られずに茂る立派な松を知らないのは、良匠の名に恥じること。転じて優れた人材を草の根を分けても探し出すことの必要性をいう。

 闇中(あんちゅう)(きん)()を未だ見ざるは愚人の(とが)なり

 錦衣を着た人がいても、闇の中では見ることができないこと。愚人は天下に賢人、聖人のいるのがわからないことのたとえ。



by johsei1129 | 2017-03-19 18:57 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

十九、日蓮、国家諌暁を決断

  

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                                (モンゴル型鉄製兜 賀名生の森歴史民俗資料館蔵)


 こうしたただならぬ政治状況に、庶民の間でも蒙古来襲の噂がひろまった。

この事は日蓮以外、日本国のだれもが予期しないことだった。
 日蓮は九年前、立正安国論で他国の侵略を予言していた。人々は日蓮の不吉な警告を無視して中傷まで浴びせたが、蒙古の国書到来によって眠りから覚まされた。

 日蓮は釈尊の一切経を読み、経文のとおりに未来を予言した。邪法をそのままにすれば、未だ惹起(じゃっき)しない二つの難がおきる。自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)難、他国侵逼(しんぴつ)難である。

当時朝鮮半島を支配していた高麗は一国をあげて念仏を信奉したために亡国となった。まつりごとの善悪ではない、森羅万象を極めた仏法の正邪によって国の存亡が決まる。

予言はまず他国侵逼の形であらわれた。仏法が正しければ、蒙古の攻めは現実となる。とすれば残るもう一つの難「自界叛逆」が起こるのも必定だった。

日蓮がこの牒状を知ったのは、鎌倉に国書が届いた三ケ月後だった。日蓮はこの年、四十七歳になっていた。文応元年、三十九歳の時、北条時頼に『立正安国論』を献じ九年を経て、今度は時頼の息子時宗に予言的中を告げる蒙古からの国書が届いた。

日蓮の感慨はふかい。

文永六年十二月八日、自ら書写した立正安国論にこの時の思いを奥書として追記している。

文応元年之を(かんが)ふ。

去ぬる正嘉(しょうか)元年八月廿三日戌亥(いぬい)の剋の大地震を見て之を(かんが)ふ。

其の後文応元年七月十六日を以て、宿谷(やどや)禅門に付して故最明寺入道殿(たてまつ)れり。その後文永元年七月五日大明星の時弥々(いよいよ)此の災の根源を知る。文応元年より文永五年(のちの)正月十八日に至るまで九箇年を経て、西方大蒙古国より我が朝(おそ)ふべきの由牒状(ちょうじょう)之を渡す。又同六年重ねて牒状之を渡す。既に勘文之に叶ふ。之に準じて之を思に未来(また)(しか)るべきか。此の書(しるし)有る文なり(ひとえ)に日蓮の力に非ず、法華経の真文感応(かんのう)の致す所か。  立正安国論奥書

「未来も亦然るべきか」に日蓮の思いがつたわる。未来の日本の国主が邪法を奉れば、国難は避けられない、と予言している。

法華経どころか仏教の上に靖国神社を位置づけて崇拝した日本は、太平洋戦争で史上初めて外国に国土を占領された。その靖国神社を今も崇めている現政権は、中国、北朝鮮に日本の領海を脅かされ続けている。


日蓮は決意した。いよいよ立ちあがる時だ。

他国侵逼という国難を乗りきる方法を知るのは、日本国に自分をおいてほかにはいない。
 蒙古襲来は、鎌倉幕府が邪宗を国家鎮護の宗教として据え、かつ多額の布施を邪宗派に施していることが根本原因だ。蒙古から国書が届いた今こそ、執権北条時宗に法華経信仰と邪宗への布施を止めるよう再度の国家諌暁をすべき千載一遇の機会なのだ。

そして邪法を退治するには、国主の前で各宗の僧をあつめ、正邪を決める『公場対決』をする以外に方法はない。
 天台大師も伝教大師も、この対決による決着で法華経を広宣流布し、天下の泰平を開いている。天台大師は法華玄義巻九で「法華折伏・破権門理(法華は折伏にて権門の理を破す)」と説いた。日蓮もまたこの方程式を踏襲した。
 日蓮は自身の著作(御書)で『公場対決』について次のように度々言及している。
 

()出世(しゅっせ)の邪正を決断せんこと必ず公場なる可きなり。『強仁状御返事


論談を致さゞれば才の長短を表はさず、(けっ)(ちゃく)に交はらざれば智の賢愚を測らず  念仏者追放宣旨御教書事 山門申状

 

ことの邪正是非は一対一の対論で決まる。これを衆目の中で行えば、その差がいっそうきわ立ち、見る者聞く者に利益となる。近代の議会制度はこの精神を体現している。つまり日蓮の考えは、十二世紀の鎌倉時代に民主主義を志向していたことになる。力による決着は永続しない。よりすぐれた人間の智慧の論争が、よりすぐれた結論を引きだす事は自明の理である。

日蓮は釈尊が「唯仏(ゆいぶつ)与仏(よぶつ) 乃能(ないのう)究盡(くじん) 諸法実相()()()()()()()()唯仏と仏のみ、すなわち森羅万象の法を能く極め(つく):妙法蓮華経方便品第二)」と説いた法華経をもって諸宗にいどもうとした。

まず四月、幕府に影響力をもつ法鑒(ほうがん)という僧に手紙をしたため善処をうながした。

日蓮正嘉の大地震、同じく大風、同じく飢饉、正元元年の大疫等を見て記して云はく、他国より此の国を破るべき先相なり。自讃に似たりと雖も、若し此の国土を()()せば復仏法の破滅疑ひ無き者なり。而るに当世高僧は謗法の者同意の者なり復自宗玄底(げんてい)を知らざる者なり。定めて勅宣(ちょくせん)御教書(みぎようしょ)を給ひて此の凶悪祈請(きしょう)するか。(いよいよ)瞋恚(しんに)()し、国土を破壊(はえ)せん(うたがい)無き者なり。

日蓮(また)之を退治するの方之を知る。叡山を除きて日本国には但一人なり(たと)へば日月の二つ無きが如く、聖人肩を並べざるが故なり()し此の妄言(もうげん)ならば、日蓮(たも)つ所の法華経守護の(じゅう)羅刹(らせつ)冶罰之(じばつこれ)(こうむ)らん(ただ)(ひとえ)に国(ため)(ほう)の為人の為にして身の為に之を申さず。

(また)門に対面()故に之を告ぐ、之を用ひざれば定めて後悔有るべし。恐々謹言。

文永五年太歳戊辰四月五日   日蓮花押

法艦御房

 しかしいっこうに音沙汰はない。幕府はなにをしているのであろう。危機は迫っている。

四ケ月後の八月二十一日、日蓮はかつて立正安国論をとりついだ幕臣、宿屋入道光則に同様の書をおくった。しかし光則より返事が来ない。日蓮は蒙古の牒状いらい、さかんに幕臣へ書を送り意見を具申した。光則もその一人だった。だがこれも返事がない。冒頭にそのいきどおりをしるす。

其の(のち)は書・絶えてさず、不審極まり(そもそも)去ぬる正嘉八月二十三日戌亥(いぬいの)刻の大地震、日蓮諸経を引いて之