日蓮大聖人『御書』解説

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カテゴリ:重要法門(十大部除く)( 160 )


2017年 02月 04日

如説修行抄 要点解説その四

いよいよ本抄の終段に入り、日蓮大聖人は釈迦如来以来、如説修行の人は誰であるかを解き明かすとともに、「末法に入つては(天台伝教を越え本師釈迦如来に及ばんとする)日蓮並びに弟子檀那等是なり」と断じます。

「我等が本師・釈迦如来は在世八年の間折伏し給ひ、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年、今日蓮は二十余年の間権理を破す。其の間の大難数を知らず。
仏の九横の難に及ぶか及ばざるは知らず、恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値い給いし事なし。彼は只悪口・怨嫉計りなり、是は両度の御勘気・遠国に流罪せられ竜口の頚の座・頭の疵等其の外悪口せられ弟子等を流罪せられ、篭に入れられ檀那の所領を取られ御内を出だされし、是等の大難には竜樹・天台・伝教も争か及び給うべき。

されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有る可しと知り給へ、されば釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行者は釈尊・天台・伝教の三人はさてをき候ぬ、末法に入つては日蓮並びに弟子檀那等是なり。と。

我等を如説修行の者といはずば釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず。
提婆・瞿伽利・善星・弘法・慈覚・智証・善導・法然・良観房等は即ち法華経の行者と云はれ、釈尊・天台・伝教・日蓮並びに弟子・檀那は、念仏・真言・禅・律等の行者なるべし。
法華経は方便権教と云はれ、念仏等の諸経は還つて法華経となるべきか。東は西となり西は東となるとも、大地は持つ所の草木共に飛び上りて天となり、天の日月・星宿は共に落ち下りて地となるためしはありとも、いかでか此の理あるべき。

 
さらに大聖人は門下に対し「いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るる心なかれ、縦ひ頚をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこを以て・つつき・足にはほだしを打つてきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ<中略>諸天・善神は天蓋を指し、旛を上げて我等を守護して、慥かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり、あらうれしや・あらうれしや。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と諭し、励まされて本抄を結ばれます。

「哀なるかな今、日本国の万民、日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑ふとも、昨日は人の上・今日は身の上なれば日蓮並びに弟子・檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし。只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈みて大苦に値わん時、我等何計無慚と思はんずらん。

汝等何計うらやましく思はんずらん。一期を過ぐる事程も無ければ、いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るる心なかれ、縦ひ頚をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこを以て・つつき・足にはほだしを打つてきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ、死に死るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へはしり給はば、二聖・二天・十羅刹女は受持の者を擁護し、諸天・善神は天蓋を指し、旛を上げて我等を守護して、慥かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり、あらうれしや・あらうれしや。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

文永十年癸酉五月日     日蓮 花押
人々御中へ
此の書御身を離さず常に御覧有る可く候










by johsei1129 | 2017-02-04 19:47 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2017年 02月 03日

如説修行抄 要点解説その三

次に日蓮大聖人は、成仏得道の経は「法華経より外の諸経は一分の得益も・あるまじき」と示すとともに「此等のをきての明鏡を本として一分もたがえず唯有一乗法と信ずるを、如説修行の人とは仏は定めさせ給へり」と断じます。

「我等が本師・釈迦如来は初成道の始より法華を説かんと思食しかども、衆生の機根未熟なりしかば、先ず権教たる方便を四十余年が間説きて後に真実たる法華経を説かせ給いしなり。此の経の序分無量義経にして権実のはうじを指て方便真実を分け給へり。所謂以方便力・四十余年・未顕真実是なり。
大荘厳等の八万の大士・施権・開権・廃権等のいはれを心得分け給いて、領解して言く、法華経已前の歴劫修行等の諸経は終不得成・無上菩提と申しきり給ひぬ。然して後正宗の法華に至つて世尊法久後・要当説真実と説き給いしを始めとして無二亦無三・除仏方便説・正直捨方便・乃至不受余経一偈と禁め給へり。
是より已後は唯有一仏乗の妙法のみ一切衆生を仏になす大法にて、法華経より外の諸経は一分の得益も・あるまじきに、末法の今の学者・何れも如来の説教なれば皆得道あるべしと思いて、或は真言・或は念仏・或は禅宗・三論・法相・倶舎・成実・律等の諸宗・諸経を取取に信ずるなり。是くの如き人をば若人不信・毀謗此経・即断一切世間仏種・乃至其人命終・入阿鼻獄と定め給へり。此等のをきての明鏡を本として一分もたがえず唯有一乗法と信ずるを、如説修行の人とは仏は定めさせ給へり」と。

続いて大聖人は「難じて云く、左様に方便権教たる諸経諸仏を信ずるを法華経と云はばこそ、只一経に限りて経文の如く五種の修行をこらし、安楽行品の如く修行せんは如説修行の者とは云われ候まじきか如何」と、論難を立て、それに対し「末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり」と答えます。
「答えて云く凡仏法を修行せん者は摂折二門を知る可きなり一切の経論此の二を出でざるなり。されば国中の諸学者等仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず、四節・四季・取取に替れり、夏は熱く冬はつめたく春は花さき秋は菓なる春種子を下して秋菓を取るべし、秋種子を下して春菓を取らんに豈取らる可けんや。極寒の時は厚き衣は用なり、極熱の夏はなにかせん、凉風は夏の用なり冬はなにかせん。

仏法も亦復是くの如し、小乗の流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり。
然るに正像二千年は小乗権大乗の流布の時なり。末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり。天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鶏の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり。権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや。
されば末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ。
誰人にても坐せ、諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来らん事疑い無し」と。

如説修行抄 要点解説その四に続く




by johsei1129 | 2017-02-03 19:23 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2017年 02月 02日

如説修行抄 要点解説その二

引き続き日蓮大聖人は「問うて云く如説修行の行者は現世安穏なるべし何が故ぞ三類の強敵盛んならんや」と論難を立て、それに対し「釈尊、不軽菩薩、天台、伝教、此等の仏菩薩・大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり」と、示すと共に、「此れ等の人人を如説修行の人と云わずんば、いづくにか如説修行の人を尋ねん」と断じます。

「答えて云く釈尊は法華経の御為に今度・九横の大難に値ひ給ふ。過去の不軽菩薩は法華経の故に杖木瓦石を蒙り、竺の道生は蘇山に流され法道三蔵は面に火印をあてられ、師子尊者は頭をはねられ、天台大師は南三・北七にあだまれ、伝教大師は六宗ににくまれ給へり。
此等の仏菩薩・大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり、此れ等の人人を如説修行の人と云わずんばいづくにか如説修行の人を尋ねん」と。

さらに大聖人は、末法濁悪の世に日蓮が生まれたのは「仏勅」であると示し「法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起し」と、弟子信徒に向け、自身の決意を宣言します。

「然るに今の世は闘諍堅固・白法隠没なる上悪国悪王悪臣悪民のみ有りて正法を背きて邪法・邪師を崇重すれば国土に悪鬼乱れ入りて三災・七難盛に起れり。かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ。

法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起し、忍辱の鎧を著て妙教の剣を提げ一部八巻の肝心・妙法五字の旗を指上て、未顕真実の弓をはり正直捨権の箭をはげて大白牛車に打乗つて権門をかつぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或はにげ、或はひきしりぞき、或は生取られし者は我が弟子となる。或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり。
法王の一人は無勢なり、今に至るまで軍やむ事なし。

法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ。現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」と。

続いて大聖人は「問うて云く如説修行の行者と申さんは何様に信ずるを申し候べきや」と論難を立て、それに対し「予が云く然らず所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず、只仰いで仏の金言をまほるべきなり」と断じます。

「答えて云く、当世・日本国中の諸人・一同に如説修行の人と申し候は、諸乗一仏乗と開会しぬれば何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし。念仏を申すも真言を持つも・禅を修行するも・総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり等云云。
予が云く然らず所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず、只仰いで仏の金言をまほるべきなり」と。


如説修行抄 要点解説その三に続く





by johsei1129 | 2017-02-02 19:52 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2017年 01月 30日

如説修行抄 要点解説その一

如説修行抄は日蓮大聖人が佐渡の地で認められた書で、宛名は特定の信徒ではなく、人々御中へとなっております。
大聖人の御書は、特定の信徒若しくは複数の信徒に宛てられた消息が多い中で、本抄は当時の門下一同に与えられるという、きわめて貴重な御書となっております。さらに宛名に「此の書御身を離さず常に御覧有る可く候」 とわざわざ追記されておられ、大聖人の佐渡流罪、弟子の投獄、信徒の所領没収等の大難に揺れる信徒を励まし、諭す意味で、佐渡の地から送られた書であると推察されます。
尚、本抄の概要は次の通りです。
■出筆時期:文永十年(西暦1273年)五月、五十二歳御作。
■出筆場所:佐渡ヶ島 一谷(いちのさわ)入道の館
■ご真筆:現存しておりません。古写本:日尊書写(茨城県富久寺所蔵)。

日蓮大聖人は冒頭で「夫れ以んみれば末法流布の時、生を此の土に受け此の経を信ぜん人は、如来の在世より猶多怨嫉の難甚しかるべしと見えて候なり」と示し、釈迦在世より末法の信徒の方が一層苦難が多いことの理由を詳細に解き明かし「されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし、況滅度後の大難の三類甚しかるべし」と断じます。

「夫れ以んみれば末法流布の時・生を此の土に受け此の経を信ぜん人は、如来の在世より猶多怨嫉の難甚しかるべしと見えて候なり。

其の故は在世は能化の主は仏なり、弟子又大菩薩・阿羅漢なり。人天・四衆・八部・人非人等なりといへども調機調養して法華経を聞かしめ給ふ猶怨嫉多し。何に況んや末法今の時は教機時刻当来すといへども、其の師を尋ぬれば凡師(日蓮)なり、弟子又闘諍堅固・白法隠没・三毒強盛の悪人等なり。故に善師をば遠離し、悪師には親近す。

其の上、真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには、三類の敵人(注)決定せり。
されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし、況滅度後の大難の三類甚しかるべしと」
然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども、大小の難来る時は今始めて驚き、肝をけして信心を破りぬ。兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり。

予が或は所を・をわれ或は疵を蒙り・或は両度の御勘気を蒙りて遠国に流罪せらるるを見聞くとも今始めて驚くべきにあらざる物をや」と。


注 三類の敵人 俗衆増上慢、道門増上慢、僭聖増上慢の三つの敵人のこと。
法華経勧持品第十三で、仏滅後、法華経を弘通する時、正法の行者を迫害する三種の人格を説いている。
俗衆増上慢:法華経の行者を悪口めり罵詈し、刀杖を加えたりする仏法に無知な在俗の人々のこと。
道門増上慢:慢心で邪智に富んだ僧侶をいう。
僭聖増上慢:聖者を装い世の尊敬を受ける者で、内面では利欲に執し悪心を懐いて法華経の行者を怨嫉し、権力を利用し法華経の行者を死罪にまで及ぼす敵人をいう。


如説修行抄 要点解説その二に続く



by johsei1129 | 2017-01-30 20:54 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2017年 01月 29日

顕仏未来記 要点解説その四

日蓮大聖人は本抄の終段で「問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何」と論難を立て、末法で「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」と断じます。

「問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり、仏法必ず東土の日本より出づべきなり、其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか、所謂仏生の時・転法輪の時・入涅槃の時吉瑞・凶瑞共に前後に絶えたる大瑞なり」と。

さらに大聖人は、仏の出現にはそれに相応した瑞相があることを次のように示し、末法に仏が出現する事を解き明かすると共に「悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ」と記すことで、日蓮自身が「未だ見聞せざる教主釈尊」であることを信徒に暗示します。

「仏は此れ聖人の本なり、経経の文を見るに仏の御誕生の時は五色の光気・四方に遍くして夜も昼の如し仏御入滅の時には十二の白虹・南北に亘り大日輪光り無くして闇夜の如くなりし。其の後正像二千年の間・内外の聖人・生滅有れども此の大瑞には如かず。而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか。
大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん。
当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし、惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり。天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り華の盛なるを見て池の深きを知る」等云云、妙楽の云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云」

日蓮此の道理を存して既に二十一年なり、日来の災・月来の難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす。今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり、世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え。幸なるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことを、悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ。
願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん、我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん、我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん、但し今夢の如く宝塔品の心を得たり。

此の経に云く「若し須弥を接つて他方の無数の仏土に擲げ置かんも亦未だ為難しとせず、乃至若し仏の滅後に悪世の中に於て能く此の経を説かん是れ則ち為難し」等云云。
伝教大師云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり。
天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し・叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」等云云。安州の日蓮は恐くは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加えて三国(天竺、漢、日)四師(釈尊、天台、伝教、日蓮)と号く。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と。





by johsei1129 | 2017-01-29 23:41 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2017年 01月 27日

顕仏未来記 要点解説その三

次に日蓮大聖人は「此の人は守護の力を得て、本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」と説き、自らが末法の法華経の行者である事を示すと共に、本抄の終段で、自身の未来記を解き明かしていきます。

「爾りと雖も仏の滅後に於て四味・三教等の邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん。
此の人は守護の力を得て、本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか。例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。彼の二十四字(注)と此の五字(妙法蓮華経)と其の語殊なりと雖も、其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ。
彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり。

大聖人は「何を以て之を知る、
汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと」と論難を立て、法華経の偈を引いて、末法の法華経の行者は数々の難が降りかかることを示し、「予よりの外には一人も之無し」と断じます。

「疑つて云く、何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを、答えて云く、法華経に云く「況んや滅度の後をや」、又云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」、又云く「数数擯出せられん」、又云く「一切世間怨多くして信じ難し」、又云く「杖木瓦石をもつて之を打擲す」、又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」等云云。
此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予(日蓮)よりの外には一人も之無し」

さらに大聖人は疑念に対し「日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん<中略>汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす、豈大悪人に非ずや」と、破折します。

「時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん、難じて云く汝は大慢の法師にして大天に過ぎ四禅比丘にも超えたり如何、答えて云く汝日蓮を蔑如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり、我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり、然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん、汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや」と。

引き続き大聖人は「月は西より出でて東を照し、日は東より出でて西を照す。仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」と示し、末法の法華経の行者としての未来記を解き明かすともに、「天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり」と断じます。

「疑つて云く如来の未来記汝に相当れり、但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下の中に全く二の日無し、四海の内豈両主有らんや。
疑つて云く何を以て汝之を知る、答えて云く
月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く。
妙楽大師の云く「豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや」等云云。
天竺に仏法無き証文なり、漢土に於て高宗皇帝の時北狄東京を領して今に一百五十余年、仏法王法共に尽き了んぬ。
土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く、大乗経は多分之を失す。日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し。故に遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」等云云、此等の釈の如くんば、天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり。
問うて云く月氏漢土に於て仏法無きことは之を知れり、東西北の三洲に仏法無き事は何を以て之を知る、答えて云く法華経の第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云、内の字は三洲を嫌う文なり」と。

顕仏未来記 要点解説その四に続く



by johsei1129 | 2017-01-27 23:41 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2017年 01月 26日

顕仏未来記 要点解説その二

次に日蓮大聖人は「問うて云く後五百歳は汝一人に限らず何ぞ殊に之を喜悦せしむるや」と論難を立て、法華経の偈、天台、伝教の釈、竜樹の大智度論の文言を引いて答えていきます。

答えて云く法華経の第四に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」文。
天台大師云く「何に況や未来をや理・化し難きに在り」文、妙楽大師云く「理在難化とは此の理を明すことは意・衆生の化し難きを知らしむるに在り」文。
智度法師云く「俗に良薬口に苦しと言うが如く此の経は五乗の異執を廃して一極の玄宗を立つ故に凡を斥ぞけ聖を呵し大を排し小を破る乃至此くの如きの徒悉く留難を為す」等云云。

伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り末の始、地を尋れば唐の東・羯の西、人を原れば則ち五濁の生・闘諍の時なり。経に云く猶多怨嫉・況滅度後と此の言、良に以有るなり」等云云。
此の伝教大師の筆跡は其の時に当るに似たれども、意は当時(伝教存命当時)を指すなり。
正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有りの釈は、(後五百歳の)心有るかな。経に云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」云云。

言う所の等とは此の経に又云わく「若は夜叉・若は羅刹・若は餓鬼・若は富単那・若は吉遮・若は毘陀羅・若はけん駄・若は烏摩勒伽・若は阿跋摩羅・若は夜叉吉遮・若は人吉遮」等云云。此の文の如きは先生に四味三教・乃至外道・人天等の法を持得して、今生に悪魔・諸天・諸人等の身を受けたる者が、円実の行者を見聞して留難を至すべき由を説くなり」と。


さらに日蓮大聖人は「疑つて云く正像の二時を末法に相対するに時と機と共に正像は殊に勝るるなり。何ぞ其の時機を捨てて偏に当時を指すや
」と論難を立て「経、行、証」の視点から正法、像法、末法の意味を解き明かしていきます。

「答えて云く仏意測り難し、予(日蓮)未だ之を得ず。試みに一義を案じ小乗経を以て之を勘うるに、正法千年は教行証の三つ具さに之を備う。像法千年には教行のみ有つて証無し。末法には教のみ有つて行証無し等云云。

法華経を以て之を探るに、正法千年に三事を具するは、(釈尊)在世に於て法華経に結縁する者か、其の後正法に生れて小乗の教行を以て縁と為し、小乗の証を得るなり。

像法に於ては在世の結縁微薄の故に、小乗に於て証すること無く、此の人・権大乗を以て縁と為して十方の浄土に生ず。

末法に於ては大小の益共に之無し。小乗には教のみ有つて行証無し、大乗には教行のみ有つて冥顕の証之無し、其の上正像の時の所立の権小の二宗・漸漸・末法に入て執心弥強盛にして小を以て大を打ち、権を以て実を破り、国土に大体謗法の者充満するなり。
仏教に依つて悪道に堕する者は大地微塵よりも多く正法を行じて仏道を得る者は爪上の土よりも少きなり。
此の時に当つて諸天善神其の国を捨離し、但邪天・邪鬼等有つて王臣・比丘・比丘尼等の身心に入住し、法華経の行者を罵詈・毀辱せしむべき時なり」と。


顕仏未来記 要点解説その三に続く



by johsei1129 | 2017-01-26 22:59 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2017年 01月 25日

顕仏未来記 要点解説その一

顕仏未来記(けんぶつみらいき)は、日蓮大聖人が流罪地の佐渡にて著わされました。
内容は、末法の法華経流布を予見した釈尊の未来記と合わせ、末法の本仏としての未来記を解き明かされた書となります。
本書の概要は次の通りです。
■出筆時期:文永十年五月十一日(西暦1273年)、日蓮大聖人52歳御作。
■出筆場所:佐渡ヶ島 一谷(いちのさわ)入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本文中に「世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え」とあります。本書を出筆された一年半ほど前に「開目抄」をしたため、自身が末法の本仏であることを詳細に認められており、さらに二か月前には『観心本尊抄」を著わされておられます。恐らく本書は、檀那(俗の信徒)にあて、より平易に自身が法華経に記されてる末法の本仏であることを示したものと考えられます。
■ご真:筆:身延山久遠寺 曽存(明治8年の大火で消失)

顕仏未来記 沙門 日蓮 之を勘う

顕仏未来記の題号は、日蓮大聖人が自ら名づけられました。大聖人は本抄冒頭で妙法蓮華経「薬王菩薩本事品 第二十三」の偈を引き「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」と示すとともに、釈迦在世ではなく、釈尊滅後の後の五百歳、つまり末法に生まれたことは喜びであると門下に示します。

法華経の第七に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云。
予一たびは歎いて云く、仏滅後既に二千二百二十余年を隔つ、何なる罪業に依つて仏の在世に生れず正法の四依・像法の中の天台・伝教等にも値わざるやと。亦一たびは喜んで云く何なる幸あつて後五百歳に生れて此の真文を拝見することぞや。在世も無益なり、前四味の人は未だ法華経を聞かず、正像も又由し無し、南三北七並びに華厳真言等の学者は法華経を信ぜず。
天台大師云く「後の五百歳遠く妙道に沾おわん」等云云。広宣流布の時を指すか。伝教大師云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」等云云。末法の始を願楽するの言なり、時代を以て果報を論ずれば竜樹・天親に超過し、天台・伝教にも勝るるなり」と。


妙法蓮華経  薬王菩薩本事品 第二十三
我滅度後。後五百歳中。広宣流布。於閻浮提。無令断絶。
悪魔魔民。諸天。龍。夜叉。鳩槃荼等。得其便也。
宿王華。汝当以神通之力。守護是経。
所以者何。此経則為。閻浮提人。病之良薬
[和訳]
我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於いて断絶して、
悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等に其の便を得さしむること無けん。
宿王華(菩薩)よ、汝は当に神通之力を以て、是の経(法華経)を守護すべし。
所以(ゆえん)はいかん。此の経は則ち、閻浮提の人の、病の良薬、為ればなり。


顕仏未来記 要点解説その二に続く




by johsei1129 | 2017-01-25 22:53 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2017年 01月 24日

立正観抄 要点解説その五

次に日蓮大聖人は天台自身が、理ではなく、妙法そのものを証得(悟る)したかどうかと論難を立てます。
問う、天台大師真実に此の一言の妙法を証得したまわざるや。答う、内証爾らざるなり。外用に於ては之を弘通したまわざるなり。所謂内証の辺をば祕して、外用には三観と号して、一念三千の法門を示現し給うなり

引き続き「問う、何が故ぞ知り乍ら弘通し給わざるや」と論難を立て、それに答えます。

「答う、時至らざるが故に、付属に非ざるが故に、迹化なるが故なり。問う、天台此の一言の妙法を証得し給える証拠之有りや。答う、此の事天台一家の祕事なり。世に流布せる学者之を知らず。潅頂 玄旨の血脈とて天台大師自筆の血脈一紙之有り。天台御入滅の後は石塔の中に之有り。伝教大師御入唐の時八舌の鑰を以て之を開き、道邃和尚より伝受し給う血脈とは是なり。
此の書に云く「一言の妙旨・一教の玄義」文。伝教大師の血脈に云く「夫れ一言の妙法とは、両眼を開いて五塵の境を見る時は随縁真如なるべし。両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし。

故に此の一言を聞くに万法ここに達し、一代の修多羅一言に含す」文。
此の両大師の血脈の如くならば、天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり」と。

大聖人は以上の論難に答えるとともに、結論として「一心三観とは、所詮妙法を成就せん為の修行の方法なり。三観は因の義、妙法は果の義なり」と断じ、「若し此の止観・法華経に依らずといわば、天台の止観・教外別伝の達磨の天魔の邪法に同ぜん。都て然る可からず。哀れなり哀れなり」と、当時の延暦寺・天台宗を諫めます。
「但因の処に果有り、果の処に因有り、因果倶時の妙法を観ずるが故に、是くの如き功能を得るなり。
爰に知んぬ、天台至極の法門は法華本迹未分の処に無念の止観を立てて、最祕の上法とすと云える邪義大なる僻見なりと云う事を。
四依弘経の大薩たは既に仏経に依つて諸論を造る。天台何ぞ仏説に背いて無念の止観を立てたまわんや。若し此の止観・法華経に依らずといわば、天台の止観・教外別伝の達磨の天魔の邪法に同ぜん。都て然る可からず。哀れなり哀れなり」と。

<中略>
 「本朝の天台宗の法門は伝教大師より之を始む。若し天台の止観、法華経に依らずと云わば日本に於ては伝教の高祖に背き、漢土に於ては天台に背く。両大師の伝法既に法華経に依る、豈其の末学之に違せんや。違するを以て知んぬ、当世の天台家の人人、其の名を天台山に借ると雖も所学の法門は達磨の僻見と善無畏の妄語とに依ると云う事。

さらに日蓮大聖人は当時の延暦寺の僧に対し「天台の本意を失い、釈尊の妙法を下す<中略>大謗法罪顕れて止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出して、過無き天台に失を懸けたてまつる。故に、高祖に背く不孝の者、法華経に背く大謗法罪の者と成るなり」と厳しく破折します。

「天台・伝教の解釈の如くんば、己心中の秘法は但妙法の一言に限るなり。然而、当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失う故に、天台の血脈相承の秘法を習い失いて、我と一心三観の血脈とて我意に任せて書を造り、錦の袋に入れて頚に懸け、箱の底に埋めて高直に売る故に、邪義国中に流布して天台の仏法破失するなり。天台の本意を失い、釈尊の妙法を下す。
是れ偏えに達磨の教訓、善無畏の勧なり。故に止観をも知らず、一心三観・一心三諦をも知らず、一念三千の観をも知らず、本迹二門をも知らず、相待・絶待の二妙をも知らず、法華の妙観をも知らず、教相をも知らず、権実をも知らず、四教・八教をも知らず、五時五味の施化をも知らず、教・機・時・国・相応の義は申すに及ばず、実教にも似ず、権教にも似ざるなり。道理なり道理なり。
天台・伝教の所伝は法華経は禅・真言より劣れりと習う故に、達磨の邪義、真言の妄語と打ち成つて権教にも似ず、実教にも似ず、二途に摂せざるなり。故に大謗法罪顕れて止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出して、過無き天台に失を懸けたてまつる。故に、高祖に背く不孝の者、法華経に背く大謗法罪の者と成るなり」
<中略>
然るに、法華経の仏は寿命無量、常住不滅の仏なり。
禅宗は滅度の仏と見るが故に外道の無の見なり。是法住法位、世間相常住の金言に背く僻見なり。禅は法華経の方便、無得道の禅なるを真実常住法と云うが故に外道の常見なり。若し与えて之を言わば、仏の方便三蔵の分斉なり。若し奪つて之を言わば、但外道の邪法なり。与は当分の義、奪は法華の義なり。法華の奪の義を以ての故に、禅は天魔外道の法と云うなり。問う、禅を天魔の法と云う証拠如何、答う前前に申すが如し」と。

最後に本抄の送り状を参照願います。
【立正観抄送状】
今度の御使い誠に御志の程顕れ候い畢んぬ。又種種の御志慥に給候い畢んぬ。
抑承わり候、当世の天台宗等、止観は法華経に勝れ禅宗は止観に勝る、又観心の大教興る時は本迹の大教を捨つと云う事。先ず天台一宗に於て流流各別なりと雖も、慧心・檀那の両流を出でず候なり。慧心流の義に云く、止観の一部は本迹二門に亘るなり。謂く、止観の六に云く「観は仏知と名く、止は仏見と名く、念念の中に於て止観現前す。乃至三乗の近執を除く」文、弘決の五に云く「十法既に是れ法華の所乗なり。是の故に還つて法華の文を用いて歎ず。若し迹説に約せば、即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し、寂滅道場を以て妙悟と為す。若し本門に約せば、我本行菩薩道の時を指して以て積劫と為し、本成仏の時を以て妙悟と為す。本迹二門只是此の十法を求悟す」文。始の一文は本門に限ると見えたり。次の文は正しく本迹に亘ると見えたり。
止観は本迹に亘ると云う事、文証此に依るなりと云えり。次に檀那流には止観は迹門に限ると云う証拠は、弘決の三に云く「還つて教味を借つて以て妙円を顕す。故に知んぬ、一部の文共に円成の開権妙観を成ずるを」文。
此の文に依らば、止観は法華の迹門に限ると云う事文に在りて分明なり。両流の異義替れども共に本迹を出でず。当世の天台宗、何くより相承して止観は法華経に勝ると云うや。但し予(日蓮)が所存は、止観法華の勝劣は天地雲泥なり。
 
 若し与えて之を論ぜば止観は法華迹門の分斉に似たり。其の故は天台大師の己証とは、十徳の中の第一は自解仏乗、第九は玄悟法華円意なり。霊応伝の第四に云く「法華の行を受けて二七日境界す」文。止観の一に云く「此の止観は、天台智者己心中に行ずる所の法門を説く」文。弘決の五に云く「故に止観に正しく観法を明すに至つて、並びに三千を以て指南と為す。故に序の中に云く「説己心中所行法門」文。己心所行の法とは、一念三千・一心三観なり。三諦三観の名義は瓔珞・仁王の二経に有りと雖も、一心三観・一念三千等の己心所行の法門をば、迹門の十如実相の文を依文として釈成し給い畢んぬ。

  爰に知んぬ、止観一部は迹門の分斉に似たりと云う事を。若し奪つて之を論ぜば、爾前・権大乗は即ち別教の分斉なり。其の故は、天台己証の止観とは道場所得の妙悟なり。所謂天台大師、大蘇の普賢道場に於て三昧開発し、証を以て師に白す。師の曰く、法華の前方便陀羅尼なりと。霊応伝の第四に云く「智顗(天台大師)、師に代つて金字経を講ず。一心具足万行の処に至つて、顗(智顗)、疑有り。師、為に釈して曰く、汝が疑う所は此乃ち大品次第の意なるのみ。未だ是法華円頓の旨にあらざるなり」文。講ずる所の経、既に権大乗経なり。又「次第」と云えり。故に別教なり。開発せし陀羅尼、又法華前方便と云えり。故に知んぬ、爾前帯権の経は別教の分斉なりと云う事を。己証既に前方便の陀羅尼なり。止観とは「己心中所行の法門」と云うが故に、明かに知んぬ、法華の迹門に及ばずと云う事を。何に況や本門をや。若し此の意を得ば、檀那流の義尤も吉なり。
 此等の趣を以て、止観は法華に勝ると申す邪義をば問答有る可く候か。委細の旨は別に一巻(立正観抄 )書き進らせ候なり。又日蓮相承の法門血脈、慥に之を註し奉る、恐恐謹言
文永十二乙亥二月二十八日      日 蓮  花押
最蓮房御返事




by johsei1129 | 2017-01-24 23:28 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)
2017年 01月 23日

立正観抄 要点解説その四

次に日蓮大聖人は「天台の本意は何法ぞや」と論難を立て、天台の核心「一心三観」を「法華の妙果を成ぜんが為なり」と示すと共に「如来の果地・果徳の妙法に対すれば可思議の三観なり」と断じ、「不思議の法」ではないと解き明かします。

今問う、天台の本意は何法ぞや。碩学等の云く「一心三観是なり」。今云く、一実円満の一心三観とは誠に甚深なるに似たれども、尚以て行者修行の方法なり。三観とは因の義なるが故なり。慈覚大師の釈に云く「三観とは法体を得せしめんが為の修観なり」云云。
伝教大師云く「今止観修行とは法華の妙果を成ぜんが為なり」云云。
故に知んぬ、一心三観とは果地・果徳の法門を成ぜんが為の能観の心なることを。何に況や、三観とは言説に出でたる法なる故に、如来の果地・果徳の妙法に対すれば可思議の三観なり」と。

次に「問う、一心三観に勝れたる法とは何なる法ぞや」更に論難を立て、それに答えます。
「答う、此の事誠に一大事の法門なり。唯仏与仏の境界なるが故に、我等が言説に出す可からざるが故に、是を申す可らざるなり。
是を以て経文には「我が法は妙にして思い難し言を以て宣ぶ可からず」云云。
妙覚果満の仏すら、尚、不可説・不思議の法と説き給う。何に況や等覚の菩薩、已下乃至凡夫をや」と。

大聖人は更に「問う、名字を聞かずんば何を以て勝法有りと知ることを得んや」と次々に論難を立て、それに答え、結論として「止観は天台己証の界如三千・三諦三観を正と為す、迹門の正意是なり」と断じます
「答う、天台己証の法とは是なり。当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり。故に相構え相構えて秘す可く秘す可き法門なり。然りと雖も汝が志神妙なれば其の名を出すなり。一言の法是なり。伝教大師の「一心三観一言に伝う」と書き給う是なり。問う、未だ其の法体を聞かず如何。答う、所詮一言とは妙法是なり。

「問う、何を以て知ることを得ん、妙法は一心三観に勝れたりと云う事を。
答う、妙法は所詮の功徳なり。三観は行者の観門なる故なり。
此の妙法を仏説いて言く「道場所得法、我法妙難思、是法非思量、不可以言宣」云云。天台の云く「妙は不可思議・言語道断・心行所滅なり。法は十界十如・因果不二の法なり」と。

三諦と云うも、三観と云うも、三千と云うも、共に不思議法と云うも、天台の己証は天台の御思慮の及ぶ所の法門なり。此の妙法は諸仏の師なり。

今の経文の如くならば、久遠実成の妙覚極果の仏の境界にして、爾前迹門の教主・諸仏菩薩の境界に非ず。
経に「仏与仏・乃能究尽」とは、迹門の界如三千の法門をば、迹門の仏が当分究竟の辺を説けるなり。
本地難思の境智の妙法は、迹仏等の思慮に及ばず、何に況や菩薩凡夫をや。
止観の二字をば「観名仏知・止名仏見」と釈するも、迹門の仏智・仏見にして妙覚極果の知見には非ざるなり。
其の故は止観は天台己証の界如三千・三諦三観を正と為す、迹門の正意是なり。故に知んぬ、迹仏の知見なりと云う事を。但止観に絶待不思議の妙観を明かすと云えども、只一念三千の妙観に且らく与えて絶待不思議と名くるなり」と。

立正観抄 要点解説その五に続く




by johsei1129 | 2017-01-23 22:41 | 重要法門(十大部除く) | Comments(0)