2017年 03月 26日

32 虎口からの脱出

f0301354_21184323.jpg
                       (日蓮大聖人御一代記より)

 黒衣の僧が極楽寺で輪になった。
 みな腕をくみ、険しい目で上を見たり、隣の仲間の僧の様子を伺ったりと落ち着きがない。
 戸が乱暴にひらき、良観があらわれた。彼は怒りと絶望で常軌を逸していた。

「日蓮が生きている、なぜだ」

「首を切ろうとしたら光り物があらわれ、刀が折れたというではないか」

念仏僧が恐ろしげにいう。

「人玉ではないか」
 別な僧侶が話に参加する。

「まさか人玉では刀は折れん」
 僧侶らは日蓮の光物の話題に熱中しだした。

良観がさえぎった。

「冗談をいっている場合ではない。日蓮が生きていれば、われらは破滅ですぞ。日蓮をはめた仕掛けが露見すれば、とがめられるのはわれわれだ」

良観が唇をかみしめる。

「手段を選んではならぬ。日蓮はなんとしても生かしてはおくわけにはいかぬ」

良観にとって日蓮が存在すること自体が危険なのだ。

当初、良観は策謀によって日蓮を殺害しようとした。指揮するのは平頼綱。まちがいなく成功するはずだった。しかし思わぬ事態で頓挫した。

日蓮は生きている。こんどは自分が狙われる番である。なんとしても日蓮をくじいてしまわねばならない。

良観はこの三十二年後、八十七歳で亡くなった。

彼はそれなりに成功をおさめ歴史に名をのこしたが、日蓮との祈雨対決での敗北は生涯、屈辱にさいなまれたようである。

彼はこののちも幕府から雨乞いを命じられ祈禱している。権力の庇護をうけている以上、ことわるわけにはゆかない。聖職者の衣をまとってはいたが、これほどつらいものはなかったろう。ふらせてあたりまえ、ふらなければ権威は失墜する。権力について名声を得たが、罵声を浴びるのも隣りあわせだった。生きるよりつらかったかもしれない。

彼の晩年は雨乞いに苦しめられて世を去った。松尾氏が解説する。

八十七歳嘉元元、累日炎旱、草枯レザルハナシ、(あまね)ク斎戒ヲ三万余ニ授ク、一日大般若ヲ摺寫(しょうしゃ)ス、一渧降(たいふら)ズ、五日ヲ()(せい)(ろう)ニ身命ヲ捨テンコトヲ祈誓シ、小蛇出現シテ甘雨降ル

嘉元元(一三○三)年、八十七歳の時には、連日日照りが続き、草木は枯れ続けた。そこで、忍性は斎戒を三万人余に授け、大般若経を摺写したが、一滴も降らなかった。五日後に自己の身命に代えてでも雨を降らせてほしいと精瀧に祈った。すると、小さな蛇が出現し、恵みの雨が降ったという。精瀧がどこかはっきりしないが、「極楽寺絵図」には、南側に請雨池が描かれ、西側には飛龍権現などが描かれており、そうした所に祀られた龍神であろうか。

そのせいか、嘉元元(一三○三)年、六月二三日に病気となり床に伏し、治療の甲斐無く、七月一二日に死去した。

さて日蓮は危機を脱したが、このあともしばらく浜にいた。

幕府によって連行された以上、おとなしくしていなければならない。処刑はまぬかれたが、追加の命令がくだるかもしれなかった。日朗たち五人は土牢に幽閉されたままである。緊迫した状況にかわりはなかった。

やがて幕府から使者がきたが、その口上は間のぬけたものだった。

はるか計りありて云はく、さがみ(相模)()()と申すところへ入らせ給へと申す。此は道知る者なし、さき()うち()すべしと申せども、うつ人もなかりしかば、さてやすらふ(小憩)ほどに、或る兵士(もののふ)の云はく、それこそその道にて候へと申せしかば、道にまかせてゆく。(うま)の時計りに()()と申すところへゆき()つき()たりしかば、本間の六郎左衛門が()へに入りぬ。『種々御振舞御書

知らせはきた。

相模の依智にいけという。今の神奈川県厚木市である。

だが案内する者がいない。

しばらく休んでいたら、この道だろうと教える者がいた。
 ずいぶんのんびりしている。しかし日蓮はこの知らせを聞いて佐渡に流罪かと推測した。依智領主の本間六郎左衛門重連(しげつら)は佐渡の守護代だったからである。

やがて日蓮は本間六郎左衛門の屋敷についたが、あろうことか日蓮は金吾に手配を頼んで鎌倉からやってきた兵士に酒をふるまった。

  さけ()とりよせて、も()ゝふ()どもに()ませてありしかば、(おのおの)()へるとてかう()べをうなだれ、手をあざ()へて申すやう、このほどはいかなる人にてやをはすらん、我等がたのみて候阿弥陀仏をそし()らせ給ふとうけ給はれば、にくみまいらせて候ひつるに、まのあたり()がみまいらせ候ひつる事どもを見て候へば、()うとさにとしごろ申しつる念仏はすて候ひぬとて、ひうち(火打)ぶくろ()よりすゞ(数珠)とりいだしてすつる者あり。今は念仏もうさずとせいじゃう(誓状)をたつる者もあり。六郎左衛門尉が郎従等(ばん)をばうけとりぬ、さえ(左衛)もん()じょう()もかへりぬ。

兵士たちは酒をふるまわれ、ほっとしたという。彼らにとってこの一日は激動の連続だった。

彼らは親の敵よりも憎かった日蓮が、うわさとはまったくちがう人物であったことにおどろいた。今となっては、日蓮は罪人ではなく、自分たちだったような感覚だった。

無理もない。

日蓮を捕らえてみれば、泣きわめくかと思いきや堂々としている。これまで竜の口に送られた罪人は、いざとなると命乞いをするのが常だった。意外だった。ほんとうに罪人なのか。しかも八幡様を罵倒するとは、なんという僧侶であろう。これはなにかあるにちがいない。そのきわめつきが暗闇から突如出現した光物だった。

最初、彼らは日蓮への憎悪で集団ヒステリーとなり、日蓮が八幡大菩薩を叱咤すると極度の不安にかられ、光物の出現で恐怖のどん底を味わうことになる。そして今は泥のような疲労感がのこった。彼らがとぼとぼと帰る姿が目に浮かぶようである。

四条金吾はひと安心したのであろう。いったん鎌倉へ帰っていった。日蓮には伯耆房たちが身の回りの世話をしていた。

こうして大難の翌日、九月十三日は暮れようとしていたが、またしても想像を絶する現象がおきた。

日蓮の目の前に星が下ったという。


其の夜は十三日・兵士(つわもの)ども数十人・坊の(あた)り並びに大庭になみ()()て候いき、九月十三日の夜なれば月・(おおい)に・はれてありしに夜中に大庭に立ち出でて月に向ひ奉りて・自我(じが)()少少よみ奉り諸宗の勝劣・法華経の文のあらあら申して(そもそも)今の月天は法華経の御座に(つらな)りまします名月天子ぞかし、宝塔(ほうとう)品にして(ぶつ)(ちょく)をうけ給い(ぞく)(るい)(ぼん)にして仏に(いただき)()でられまいらせ「世尊の(みことのり)の如く(まさ)(つぶさ)に奉行すべし」と誓状(せいじょう)をたてし天ぞかし、仏前の(ちかい)は日蓮なくば(むなし)くてこそをはすべけれ、今かかる事出来せばいそぎ悦びをなして法華経の行者にも・かはり仏勅をも・はたして誓言のし()しをば()げさせ給うべし、いかに今しるしのなきは不思議に候ものかな、(いか)なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず、しるしこそなくとも・うれ()がを()にて(すみ)渡らせ給うはいかに、大集経には「日月(みょう)を現ぜず」ととかれ、仁王経には「日月()を失う」とかかれ、最勝王経には「三十三天(おのおの)瞋恨(しんこん)を生ず」とこそ見え(はべ)るに・いかに月天いかに月天と()めしかば、其のしるしにや(そら)より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えん()より・とびをり或は大庭にひれ()()し或は家のう()ろへ()げぬ、やがて即ち(そら)かきくもりて大風吹き来りて()の島のなるとて(そら)のひびく事・大なるつ()みを打つがごとし。『種々御振舞御書


前述の天文学者、広瀬英雄氏はこの文を読んだ瞬間、これは金星(注)の最大光輝に関係があると思ったという。

最大光輝とは惑星が最も地球に近づく時、太陽の光を反射して強く光る現象をいう。実際に広瀬氏が天体運用表で計算してみると、九月十三日前後の金星は最大光輝に達しており、一等星の百倍もの光を放っていたはずであることが判明した。

地球から見ると、金星は明け方と夕方のみ観測することができる。明けの明星と(よい)明星一番星場合金星

方西明星った計算日没後、明星は二時間以上見当日日没午後五時星下日没七時推定る。

そして広瀬氏はこの夜の出来事をこう解釈する。


「十三日早朝の難を逃れることができた日蓮は依知に入り、佐渡地頭の邸の一室で弟子たちを励ましているうちに夜になった。日没ごろ夕食を済ませたが、弟子たちは次に来る沙汰が何か不安であった。そこで日蓮は夕食後一時間ほどたったとき、天と問答するため庭へ出た。西空には雲があって、そのあたりの星は見えなかったが、東の空は晴れていて、十三夜の月が出ていた。問答が佳境に入ったころ、西方の桜(梅)樹のあたりの雲が切れて、突然、最大光輝の金星が輝いて見えたので、同日朝の大流星に畏怖(いふ)監視恐怖おそ変騒真相江の島とくひびいたの天文現象関係う」


日蓮と天体の関係を言うならば、文永元年の大彗星があげられる。日蓮はこの彗星の出現を幾度となく説いて国家の危機を訴えた。

広瀬氏はいう。

「天変地異に刺激されて活動を活発化した日蓮は、その身と天体の一致まで信じるようになったのだと思う。そこまで天体信仰を(たか)い」


本間重連の屋敷にやわらかな日差しがさしていた。ここで日蓮と弟子たちは、まる一月も滞在することになる。

かし逆に鎌倉は騒動の真っ最中だった。


            33 二度目の流罪、日蓮佐渡ケ島へ につづく
上巻目次



金星

 ラテン語・英語名Venus。金星は、太陽系で太陽に近い方から二番目の惑星。また、地球に最も近い公転軌道を持つ惑星である。 地球型惑星であり、太陽系内で大きさと平均密度が最も地球に似た惑星であるため「地球の姉妹惑星」と表現されることがある。また、太陽系の惑星の中で最も真円に近い公転軌道を持っている。

f0301354_16590210.jpg



# by johsei1129 | 2017-03-26 14:54 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 25日

3 日蓮、生誕の地で覚悟の立宗宣言

                                    英語版
f0301354_11461109.jpg
                        (日蓮大聖人御一代記より)

 蓮長は故郷、安房の小湊についた
 潮のにおいがなつかしい。
 蓮長が山の坂道を登っていく。

坂の上に清澄寺が見えてきた。

小僧たちがいた。門前の掃除にあきたのだろう、集めた木の葉を互いにかけあって遊んでいる。

蓮長がにこやかに声をかけた。

「これこれ、掃除をきちんとしてから遊びなさい」

小僧たちは親しげに声をかける僧侶をあやしんだが、やがて気づいた。

「もしや・・・蓮長様でございますか」

蓮長がうなずくと小僧たちがあわてて本堂へ駆けていく。

境内に入った。

父母、道善房、浄顕房、義浄房、大尼たちが出迎える。

蓮長が満面の笑みで挨拶した。

「蓮長、ただいま叡山から帰ってまいりました」

母の梅菊はすでに涙ぐんで一言声をかけようとするが言葉が出ない。道善坊は凛々しい日蓮の姿を見て思わず手を合わせた。

大尼は我が子の成長を見るかの如く、にこやかにだった。兄弟子の浄顕房と義浄房は、成長しすっかり大きくなった蓮長をまぶしい目で出迎えた小僧たちは大人たちの背中越しから興味津々にのぞきこんでいる。

夜がふけて宴会がはじまった。

小僧が鼓をうつ。

上座に蓮長、両脇に道善房と大尼がすわった。左側には円智房、浄顕房、義浄房ら清澄寺の僧侶が並び、右側には父の三国太夫、母の梅菊、清澄寺の信徒がならんだ。みな蓮長の成長した姿を称賛し、笑顔で語らう。

三国太夫は、皆の蓮長への称賛が誇らしくもあり、化恥ずかしさもあった。梅菊は蓮長が無事に清澄寺に戻ってきたことが、ただただ嬉しかった。

いっぽう蓮長はときおり遠くを見通しているような目をし、明日の初の説法に思いを馳せていた。


翌日の早朝、境内はまだ暗い。

道善房が朝の勤行(ごんぎょう)共にしようと、蓮長の部屋をのぞいたが見当たらない。

小僧に聞いた。

「蓮長はどこぞにでかけたのかな」

「はい、早くに(かさ)ヶ森のほうに行くと言って出かけました」


太平洋を見わたす山の中腹。(かさ)が森は朝をむかえようとしていたがまだ暗い。

目の前に広い、あくまで広い太平洋の海原があった。

しだいに東の空が明るんできた

水平線のかなたにかすかに光が輝く

建長五年四月二十八日の朝、数十億年もの間、変わることがなく輝く太陽がいま昇った。

蓮長は三千大千世界に響き渡れとばかりに唱える。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経

朝、老若男女が清澄寺の参道をのぼっていく。

通りすがりの老婆がいぶかしんで聞いた。

「なにやら集まりごとでもあるのかえ」

「これから説法があるでな」

「ほう」

「蓮長とかいうお坊様が比叡山から帰られての。今日はそのかたのお話を拝聴するだ」

老婆が思いだした。

「蓮長・・・いたいた。賢げな子供であったが、もうそんなに立派になられたか」

「それでな、わしはその蓮長様が念仏のお話をされるだろうと思って楽しみなのじゃ。なにせ日本中に広まっておるからのう」

横の婦人が口をはさむ。

「いやいや蓮長様は禅宗ですよ。禅宗はお武家様のあいだで人気がおありじゃ。今は武士の世の中。蓮長様は流行にさといはずです」

老婆が急にはりきった。

「わらわも行きまする。わらわは真言の教えが聞きとうてな。この日本でいちばん尊いといえば真言にきまっておる。真言は高貴な僧侶がそろっておるからのう。ああ楽しみじゃ」

近くで聞いていた武士が歩みよる。

「そのほうら、考えがあさいな。蓮長殿は律宗で身を立てるおつもりじゃ。戒律を守り、橋をつくり、病人にほどこしをあたえる。律宗の僧侶ほど貴い者はないわ」 

人々が急ぎ足で通りすぎていく。

武士があわてた。

「こんな話をしとる場合じゃない。蓮長殿は、俊英の僧が国中から集まるあの叡山から帰ってきたのだ。その説法を聞き逃すわけにはいかない」

 みな駆け足で参道をあがっていった。

f0301354_12044340.jpg
 清澄寺の持仏堂は寺の中にある小じんまりした建物だった
 聴衆が三々五々集まってきた。

中央奥に小さな仏像があり、その前に父母、大尼、道善房らの僧侶が、蓮長を今か今かとまっていた。

みな晴れやかだが、なぜか道善房だけは一抹の不安を感じていた。生来の臆病がぬけずにいる。

これにたいし円智房と道義坊が傲岸不遜な顔つきですわった。蓮長の説法にわずかでも誤りがあれば、すぐに(ただ)して恥をかかせるつもりだった。

その蓮長が持仏堂に登場すると、場内が一瞬のうちに静まりかえった。

彼は中央すわり、人々に向かって手を合わせ、一礼してから、おもむろに語り始めた

「蓮長、比叡山から帰ってまいりました。長年諸国での私の仏道修行を支えてくださり、かたじけなくぞんじまする。この場をかりてお礼申しあげます。さてこのたびわたくしは法名を蓮長あらため、日蓮と名乗ります」

「日蓮・・・」

一同が軽くざわめく。

「比叡山・高野山・園城寺などの寺で学んだこと。それは仏が究極として説かれたことはただ一つであること、確かに悟りました

すべての男女がかたずを飲んだ。

日蓮は参集した人々に向かい、手を合わせて「南無妙法蓮華経」と力強く唱えた。

 聴衆がぽかんとしたが、日蓮はつづける。

釈尊は悟りを開いてから四十二年後に、(りょう)鷲山(じゅせん)で無量義経を説き『四十余年未顕(みけん)真実』と衆生に示し、その上で衆生得道の真実の教え「法華経」を説き明かしました。ところでここにご参集いただいた皆さまは、日本と言う言葉に、我が扶桑(ふそう)国の国土、島二つ、衆生、畜生、草木すべてが含まれることは御承知でしょう。それと同様に「南無妙法蓮華経」と言う五字・七字には法華経二十八品に説かれた釈尊並びに三世の諸仏の功徳がすべて含まれております。この妙法蓮華経に南無する、つまり()(みょう)することにより末法の衆生はその身のままで成仏することが(かな)うのです。それ故、成仏を願うならば他事なく『南無妙法蓮華経』と唱えることが末法の唯一の修行なのです。私は最初に皆様方に向かい南無妙法蓮華経と唱えました。それは皆さまの()(しん)に仏界と言う仏の命があるからです。釈尊は法華経方便品で、仏が娑婆(しゃば)世界に出現する「一大事因縁」として「開示悟入」を説きました。これは衆生に仏の知見を開き、示し、悟らしめ、仏道に入らしめることを意味します。つまりすべての衆生に備わる仏の命を開くことが成仏なのです」

 日蓮は叡山(えいざん)での研鑽(けんさん)の末に到達した自身の内証を、一気に説法した。

 人々は今まで見たことのない力強い説法者がいるのに気づいた。

円智房と道義坊がいぶかしげに薄笑いをする。

師匠の道善房は額の汗をおもわず素手でぬぐった。大尼はこれまでどの僧侶からも聞いたことがない「南無妙法蓮華経」という言葉に戸惑いが隠せない。日蓮の父母は不思議な話を聞いたかのように口を開けたままでいる。


日蓮はよどみなく、さらに説法を続ける。

わたくし日蓮は今日以降、日本中の隅々まで南無妙法蓮華経の題目をひろめてまいる所存です。日本国の一切衆生にこの題目を授けてまいります。さりながら、この世には仏の教えに背く悪法があるのも事実です正しい仏法を広めるためには、まず悪法を退治しなければ日本国の安泰はありえません

 道善房がうろたえ、思わず言葉がでた。

「悪法だと。仏が説いた教えにそのようなものがこの世にあると言うのか。そんな説法を続けるなら勘当するしかないぞ

 日蓮は師の、勘当という言葉にもひるむことなく説法を続ける

末法の今の世に悪法は四つあります。一つは念仏宗です法然上人の念仏宗は、釈尊が最高の経であるとした法華経を捨て、未顕真実の教え、阿弥陀経に説かれた阿弥陀仏を敬い『南無阿弥陀仏』と唱えよと説く大悪法です。阿弥陀仏はこの娑婆世界には無縁の仏です。娑婆世界の月氏国に生まれ、数多くの衆生を救済した釈尊は、一切衆生の父です。この父の最高の経を捨てろと説くことは不知恩の僧侶で、これを信じる衆生も僧ともども無間地獄に落ちることは必定です」

 聴衆から「念仏を唱えると地獄におちるのか」と悲鳴があがる

 耳をふさぐ者もいた。あとずさりして帰ろうとする者もいた。円智房は蓮長をにらみつけている。

次に禅宗は、仏法にして仏法にあらず。(きょう)()別伝を唱え、釈尊の一切経を無視する外道の教えです。涅槃(ねはん)経に曰く『仏の所説に随わざる者あらば、是れ魔の眷属(けんぞく)なり』と。故に禅宗を信ずる者は天魔の所為(しょい)も同然なのです

武士が怒りだす。

「なにをたわけたことを。禅宗は鎌倉殿も信奉しておるわい

だが日蓮はまったく動じない。

つぎに真言宗は密教という外道(げどう)の教えを敬い、釈迦は真言師の牛飼(うしかい)草履(ぞうり)(とり)にも足らぬと釈迦と法華経を(さげす)む亡国の教えです。娑婆(しゃば)世界と無縁な大日如来を敬う(いつわ)りの教えです。真言で祈れば必ず国が亡びます」

清澄寺の持仏堂から人々が一人、また一人と去っていった。

最後に律宗です。釈尊が五十年間説いた一切経で最も低い教えである戒律をふりかざす僧ら。かれらこそ末法とは無縁の国賊であります。以上あらあらのべました」

 聴衆の多くは清澄寺を後にしたが、日蓮の説法をもっと詳しく聞きたいと残る者もいた。

 道善房が日蓮に歩みよ

「蓮長、いや日蓮、なんということをいいだすのだ。日本国中の仏教徒を敵にまわすのか」

母の梅菊が手をこすりあわす。

「おまえ、ほかの宗派を(そし)ることだけはやめておくれ。念仏を地獄などと・・」

父の三国太夫も眉間に皺をよせた。

「どういうことなのだ。せっかくおまえを修行にだしたのに、そんなことを言いだすとは。どこでそんな考えを」

日蓮は冷静だった。

「父上、母上、お師匠様。私は叡山を出る時から決めておりました法華経とともに生きてまいります。この誓いは、だれにも破ることはできませぬ」

母が泣きだした。

ここで兄弟子の浄顕房が中に入った。

道善房和尚。今日の処はまあよいではございませんか。日蓮も、よほどの覚悟があったのであろう。今日の説法をすべて理解できたわけではないが、私は日蓮からもっと詳しく聞きたいと思ったのは確かです

おなじ兄弟子の義浄房が援護する。

わたしもいまの話を日蓮上人からもっとくわしく聞きとうございます。今日の説法だけで判断はできませんが、日蓮上人の確信だけは私の胸にしかと響きました

大尼もここぞとばかり助け船をだした。

「ほんに驚きましたが、わらわはむかしから蓮長、いや日蓮上人の親がわりも同然です。今日から私は日蓮上人を信じて南無阿弥陀仏ではなく、南無妙法蓮華経を唱えます。なんとなく地に沈む感じの南無阿弥陀仏とちがい、日蓮上人の唱える南無妙法蓮華経を聞いていると心が躍動するようです。梅菊様、太夫殿もきっと日蓮殿のお考えをわかってもらえます。安心してください

日蓮が大尼に手をあわせた。

「そのお言葉、一生忘れませぬ」

師の道善房が気もそぞろにふらりと外にでた。

そこに老僧の円智房が立ちはだかった。

「道善房殿、いやはや大変な弟子をおもちになりましたな。この責任はどのようにとられるか、楽しみにしておりますぞ」

道善房が聞く耳もたずとばかり、あたふたと逃げるように去っていった。


日蓮はこの後父母に改めて説法し、自ら二人を受戒させ、日蓮の文字を取って父を妙日、母を妙連と、それぞれ法名を与えた。

日蓮は後日、立宗宣言の時の父母、師道善房について次のように記している。


「一切の事は父母にそむ()き国王にした()がはざれば不孝の者にして天のせめ()かう()ふる。ただし法華経のか()きになりぬれば、父母・国主の事をも用ひざるが孝養ともなり国の恩を報ずるにて候。されば日蓮は此の経文を見候しかば、父母手を()りて()いせしかども、師にて候し人かん()()うせしかども、鎌倉殿の()勘気(かんき)を二度まで・かほり・すでに(くび)となりしかども、ついに()それずして候へば、今は日本国の人人も道理かと申すへんもあるやらん。日本国に国主・父母・師匠の申す事を用いずしてついに天のたす()けをかほる人は日蓮より(ほか)(いだ)しがたくや候はんずらん」『王舎城事


しかしこの騒動は安房を仕切る地頭、東条景信が知るところとなった。

景信は暖かな陽気に誘われのんびりと昼寝していたが、家来にたたき起こされ、がばとおきあがった。

「なに、念仏は無間地獄だと」

景信は念仏の熱狂的な強信者だった。彼は最初、怒り狂っていたが、やがて笑いだした。

「しめたぞ、その日蓮という僧を捕えるのだ。清澄寺にそのような悪人がいるのは地頭として黙認できることではない。そやつを捕らえ、寺の不始末を幕府に訴えるのだ。さすればあの寺はわが東条の支配下に落ちる。よし、ゆくぞ」

景信が刀をとって出ていく。従者があわててついていった。

景信とその配下が馬を疾駆させた。山道を走り、参道を登っていく。

寺では日蓮と浄顕房、義浄房とが座談の最中だった。日蓮が二人の兄弟子に請われて法華経の教えを説法していた時である。小僧が飛びこんできた。

「たいへんです。地頭がおしよせてきました。なぜ念仏が無間地獄なのだとわめいております」

浄顕房が片膝をたてた。

「しまった。もれたか。日蓮の身が危うい。早く立ち去るのだ」

日蓮がいずまいをただした。

「今回のことはわたしが原因です。わたしが申し開きを・・」

義浄房が止めた。

「いかん、東条とこの寺は土地争いで不倶戴天の敵なのだ。ここでおぬしを巻きこむわけにはいかぬ」

といったと同時に寺の中がざわめいた。

景信の武士が侵入してきたのだ。

どなり散らす声、猛々しい声がひびいた。

「日蓮という者はどこだ。日蓮はどこにいる」

いきり立った東条景信が音を立てて部屋の(ふすま)障子をあけた。そこには浄顕房と義浄房の二人しかいない。
 景信は鞭を浄顕房の鼻先にむけた。

「日蓮という者はどこにおる」

「ここにはおりませぬ。すでに立ち去りました」

義浄房が毅然と答える。

「景信様、地頭とはいえ、仏を奉る寺に土足で入るのは不謹慎ですぞ。大尼様は鎌倉殿の血筋でございます。景信様のためにもよからぬことかと」

景信が一瞬、声を失う。

「いやいや注進があってな。念仏は地獄という者がいるとのこと。そのような者を取りしまるのが地頭の役目だ。その者に加担する輩も引っとらえるつもりだ」

外から「いたぞ」の声がひびいた。

日蓮は裏山を小走りにおりていた。

武士が刀を抜いて日蓮に追いついた。

日蓮がふりむく。

武士が日蓮を囲んだ。

思いがけないことだった。初めての説法と同時に災難がふりかかった。日蓮はこれからの一生を垣間見る思いにかられた。

しかしこの時、百姓の一団が林から飛びだして日蓮をかばい、武士に立ちむかった。清澄寺の檀家衆だった。ほとんどが地元の百姓である。彼らは急を聞いて参集したのである。

百姓は手に棒をもって武士たちをにらむ。

武士が激高した。

「この百姓どもめ。悪坊主に味方するのか」

百姓たちが声をかけあい、棒をつきだして武士を押しやっていく。

武士も負けてはいない。

両者のにらみ合いがつづいたあと、景信があらわれた。彼は形勢不利と見たのか、武士たちを引きあげさせた。そして帰りぎわにおどした。

「今日のところはよいわ。だがおぼえておくぞ。地頭に逆らう者がいるとな。この礼はいつかきっと」

 景信が立ち去り、百姓たちがほっと息をついた。

浄顕房、義浄房が日蓮を導いて細い山道をおりていく。ともに息を殺していた。追手がくるかもしれない。

はるか対岸に三浦半島が見えた。さらにそのはるか彼方に白雪をかぶった富士山が見える。

義浄房が日蓮の小荷物を手渡した。

「これからどうする。京都にもどるか」

日蓮が首をふった。

「鎌倉へまいります」

「なぜだ。仏道で出世するならば京へ行ったほうがよかろう」

日蓮がきっぱりといった。

「いま日本の権力の中心は鎌倉でございます。日蓮は鎌倉を拠点に法華経を死身(ししん)弘法(ぐほう)して参る決意です

日蓮は挨拶をして山をおりていった。後姿がしだいに小さくなっていく。

浄顕房がひとりごとのようにいった。

「大丈夫かのう、日蓮は」

義浄房が目を輝かせた。

「なあに、この清澄寺で抜きんでた男だったのだ。案ずることはない」

この二人は兄弟子だったが、このあと日蓮を師とした。そして生涯にわたって日蓮の布教活動を支えていく。

日蓮はこの日の浄顕房と義浄房の計らいを、後に「本尊問答で次のように記している。


「貴辺は地頭のいかりし時、義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば、何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして(しょう)()をはなれさせ給うべし」



                       4 日蓮、鎌倉で弘教を開始 につづく
上巻目次



# by johsei1129 | 2017-03-25 21:36 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 25日

2 故郷、清澄寺の人々

                                          英語版

安房の国はいまの千葉県房総半島の南端である。

日ざしは亜熱帯を思わせた。

山の中腹にある寺院、清澄寺が太平洋を見おろしていた。

ここは都とうってかわった静けさがただよう。寺院では所化たちが広い門前を掃き清めていた。

清澄寺の講堂では笑い声がひびいた。

堂には本尊の()空蔵(くうぞう)菩薩像が安置されている。この講堂に蓮長の帰りを待つ人々がいた。

蓮長の父三国太夫と母の梅菊女、さらに古くからの信徒、大尼御前、住職の道善房、住僧の浄顕房、義浄房らが輪になってすわっている。
 大尼はこの寺の大檀那。道善房は蓮長の師匠。浄顕房と義浄房は兄弟子である。みな幼い時から蓮長を知っている。

世話好きの大尼がにこやかに話す。

「まことに蓮長はかしこい子供でありました。皆御存知のことではありますが、わらわは蓮長を幼い頃から目をかけていました。早いものでもう十二年。さぞかし立派なご僧侶になったことでありましょう」

大尼は名越流北条氏の祖である朝時の未亡人だった。朝時の兄は大政治家として名高い第二代執権北条泰時である。大尼は夫が安房の領主だった関係でこの地に根をおろしていた。世話好きな彼女は蓮長親子に目をかけ、物心両面で援助していた。

三国太夫が久しぶりに会った大尼に頭をさげる。

「まことに大尼様のおかげで蓮長この寺で仏門に入り、叡山で修行することができました父として、あらためてお礼を申しあげます」

母の梅菊も蓮長が成長し無事に清澄寺に戻る事への報恩の思いを込め、大尼に頭をさげた。

蓮長が立派な僧侶となってこの安房に帰ってくることを、一日千秋の思いで待ち続けていました。そのうえ二歳で登ったこのお寺で蓮長の説法を聞けるとは、母としてこんな幸せはありません

 大尼が老齢の住職、道善坊に話しかける

「比叡山はじめ四天王寺、薬師寺など京、奈良の名刹でかなりの修行をしたとのことですが、どんな説法をするか楽しみで気もそぞろです」

道善房が朴訥(ぼくとつ)に語りだした。

「さあて、どうでありましょう。蓮長は子供のころは確かにこの寺で抜きんでておりましたが、諸国の栄達が集まる延暦寺ではどうであったか。蓮長は強情なところもありますし、どんな説法をするか少々不安でもあります」

道善房は蓮長を十二歳から二十歳まであずかり育ててきた。第二の父親のような存在である。

大尼がくすくすと笑いだす。

「ほらまた道善房様の心配性が始まりました」

一同がつられて笑いだした。

なごやかな空気だったが、清澄寺の中には蓮長の帰りを快く思わない者がいた。

堂のすみで老僧の円智房と道義房が声を潜めて話していた。

「蓮長など取るに足らぬわ。比叡山で修行したとはいっても京の寺で身を立てることもできず、結局もとの田舎寺に戻ってくるとは。ここでなにができよう。道善房殿の跡を継ぐつもりなら、お笑い草だわ

「あの気弱な道善房のこと。味方が一人ふえたように思っているが、この清澄寺はわれらの手のうちだわ」

二人がほくそ笑んだ。

どこの世界でも勢力争いはある。

円智房と道義房は清澄寺の実力者であった。とりわけ円智房は清澄寺の大堂で三年のあいだ、一字三礼の法華()(注)を書きあげ十巻をそらに覚えた。そして五十年の間、法華経を一日一夜に二部ずつ読んだという。寺の大衆は、円智房はかならず仏になると讃えた。それだけに傲慢だった。彼は道義房とともに清澄寺を仕切っていた。そこに比叡山帰りの若僧があらわれた。おもしろく思うはずがない。

このとき門前で所化の小僧がなにやら騒いでいるが聞こえた。

「蓮長殿が帰ってきたのでは」

 大尼が浮き足立った。

 一同が玄関へおもむく。

しかし、門前では馬に乗った武士と寺の所化が言い争いをしていた。

武士の一人、地頭の東条景信が不敵な面構えでにらんでいる。

招かざる客である。みな表情をくもらせた。

景信が清澄寺の面々を見くだした。

「ほう、これはこれは、清澄寺のお歴々。おそろいでござったか。本日は長年にわたる土地争いに決着をつけようと思ってまいった」

若い浄顕房が景信をにらみながら𠮟りつけた。

「東条殿。なにを申される。地頭とはいえ、この寺で勝手なふるまいは許されませんぞ」

景信は横をむいた。

「わしはこの一帯を管理するもの。武家の棟領である鎌倉殿のご威光によってこの土地を支配しておる」

おなじく兄弟子の義浄房がまなじりを決して反駁する。

「それは地頭の支配する土地の上でのこと。この寺にはあなた様の支配は及びませぬ」

景信も黙って聞いてはいない。幕府の権威を傘に着て義浄房に言いかえす。

「さりながら、鎌倉殿に逆らう者どもがいるのも事実。旧態依然とした一部の寺院が勝手なふるまいをするのは許されぬこと」

 この件は清澄寺の存亡に関わることである。浄顕房は一歩も引かず景信を追い詰める。

「ならばその鎌倉殿に訴えて、どちらが正しいか決着をつければよいのではないか」

 その時、弟子たちと地頭の争いを見かねた住職の道善房が、あいだに割って入った

「景信様、じつはわが弟子の蓮長と申す者が、叡山での長い修行を終えて今日明日にも帰ってまいります。いまはその迎えの準備に忙しくしておりまする。恐れ入りますが、いまは言い争いしておる時ではございませぬ」 

景信は不敵だった。

「まあよいわ。いずれまた来るが、おのおのがた覚悟しておかれい。少しでも不埒なことがあれば、取締りにくるでな」

馬上の景信が去っていった。

源頼朝は鎌倉幕府を開くにあたり、自分の支配地に侍を派遣して守護と地頭をおいた。支配地といっても全国ではなく近畿より東の土地であり、くわえて寺社領には手をださなかった。

しかし寺院領の隣に地頭がおかれた場合、境界線の争いが絶えずおこっていたのである。


そのころ蓮長は鎌倉を出て(むつ)()、今の横浜をめざした。船にのるためである。内海(東京湾)を徒歩でぐるりと回るより、船のほうが早く安房に着き、楽であった。

だが厄介だったのは、途中に関所があったことだった。

関所前で人々がひしめいた。

旅人たちが銭をだして役人に納めている。銭のない者は生米をさしだした。この関所はつい最近になってできたものだった。それだけに人々はみな憤懣やるかたない。


関所の館でとある僧侶が武士を相手に談笑していた。

僧侶は粗末な法衣を着ているものの、腹が出て血色がよい。

名を良観といった。

良観は(あざな)名は忍性という。出身は大和である。十歳で信貴山に登り修行。十七歳の時、東大寺戒壇院で受戒した。二十四歳の時、真言律宗の名僧として名高かった叡尊に師事して出家した。建長四年(一二五二)に関東に下り、弘長元年(一二六二)鎌倉にはいって律宗を弘めた。

良観は幕府の信任が厚かった正元元年 (一二五九年) 第二代執権北条義時の三男、北条重時によって極楽寺が創建され,良観が開基となっている。


良観は異質な僧だった。

この関所は良観が経営していたのである。僧侶が交通機関の管理をするのは、今では意外に思われるが、当時このような設備の運営はおもに僧侶がたずさわっていた。

武家の世になって日はまだ浅い。北条氏が率いる幕府も財政は安定していない。これまで侍は合戦に明けくれていた。経済観念などまるでない。闘争には長けていても、統治能力は公家の足元にも及ばなかった。これでは橋や道路を建設するといった公共事業などできるものではない。運用手法の経験や財政からいって、知識階級に属し、潤沢な財力をもつ僧侶が中心となって国土の整備がすすめられたのである。

この当時、政治の中心は鎌倉でも経済は京都である。その京の資金をにぎっていたのは近畿出身の僧侶だった。

良観もまたその豊富な資金を使って幕府に取り入り、権勢を強めていった。東大寺出身で思いおこされるのは、七十年前に行われた大仏再建のための大規模な勧進(寄付)活動である。東大寺出身の彼は莫大な集金システムを学び、関東にやってきたのである。

良観が話の相手をしていたのは北条重時だった。念仏の強信者である。父は幕府の繁栄を築いた北条義時である。したがって重時は当然のように幕府の要職にあった。子の長時は五代執権北条時頼のあとを継いで執権となっている。北条の中でも名族だった。


重時は関所をながめながら、満足そうに盃を手にした。

関所の役人は通行人から徴収した大量の銭(中国から輸入した宋銭)を運んだ。銅銭は中央に穴がある。これをひもで通して千枚ずつにしていく。これを一貫といった。当時の貨幣価値は米一石が一貫で、現代では約五万円ほどになる。こうして何千貫という銭がうずたかく積まれていった。

米も山のように積まれていった。人はこれを「(むつ)()の関米」と呼んだ。


良観と北条重時がなごやかに語りあう。

重時は愉快だった。

「いや考えたものですな。関所を作って米や銭を徴収するとは。田舎武士には思いもつかぬ。名案でござる」 

太鼓腹の良観が重時を諭すように語りだした。

「鎌倉はまだまだ土木工事が必要でございます。このように人々から広くうすく税を集めれば、幕府の財政の助けにもなり、貧しい者に施すこともできます。わが律宗で教える仏の道にかなうというもの」

重時の盃がすすむ。

「いやありがたいことでござる。それに律宗の修行は、戒律を守ってさえおればよいのであるから修行がわかりやすい」

 良観が答える。

「わが宗派は幕府と一体であると考えております。北条氏あっての僧侶でございます。ただわたしはこのように幕府に尽くしておりますが、鎌倉の寺が今少し手狭なのが悩みでございます。殿、よろしくお計らいのほどを」

「そうでござったな。じつは鎌倉のわしの土地に寺院を建てる計画があってな、極楽寺と申す。いまその住職を求めているところでござる」

「それはよいお話。この良観にその寺をお任せあれば殿のご繁栄にもつながります」

 重時は我が意を得たりとばかりに、良観の申し出にうなずいた。


関所の入り口では蓮長が旅人の列の中にいた。彼は銭を取り出して役人に差し出した。


                    3 日蓮、生誕の地で覚悟の立宗宣言 につづく
上巻目次


法華経

梵語「サッ・ダルマ・プンダリーカ・スートラ((びゃく)蓮華のように正しく不思議で清浄な経)

漢訳は部分訳、異本を含め、十六種が伝えられるが、三本が完全な形で現存する。このうち鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』が最も広く流布しており、通常、法華経といえば妙法蓮華経をさす。

白蓮華をこの経の象徴としたのは、蓮華が他の草木と異なり泥中に咲き、煩悩(ぼんのう)を意味する泥に染まらず清浄な大輪の白い花を咲かせることから、煩悩即菩提(ぼだい)を意味しているとする。また蓮華が花と同時に蓮根と言う実(地下茎)を同時に持つことから、因果()()を象徴しているとする。蓮華の原産地はインド半島で、釈尊が布教していた地域では蓮華が多く生育していたと思われる

日蓮大聖人は末法の法華経は三大秘法の南無妙法蓮華経をであると説いた。

「今末法に入りぬれば余経も法華経もせん()なし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候も・わ()くしの(はからい)にはあらず、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御(はからい)なり」上野殿御返事

f0301354_11312637.jpg



# by johsei1129 | 2017-03-25 11:33 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 23日

1 故郷への旅立ち

                                    英語版

時は鎌倉時代、西暦一二五三年の春だった。
 琵琶湖の水面が比叡山をうつしていた。

延暦寺はこの比叡山の森の中にそびえていた。

おびただしいほど多くの僧侶が広大な堂内で読経し、外では僧侶たちが搭中の道を宿坊へと歩いていた。

この境内のとある小堂で老僧と若い僧が座して向かいあっていた。

若い僧は名を蓮長といった。

老僧が残念そうにいった。

蓮長、どうしてもいくのか。おぬしならいずれ天台座主(ざす)にもなろうものを

「有難いお言葉ですが、これからは法華経に身を任せ、一心に人々に説いてまいります」

蓮長はそう答えると、もう振り返ることなく塔中の坂をおりていった。

老僧はなごり惜しそうに、蓮長の姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。


三十二歳になった蓮長は、延暦寺を中心に諸寺院での十五年間の修行・学業を終え、故郷の安房に帰る決心をした。

蓮長は日笠をかぶり東海道を東に向かう。

うしろから馬に乗った武士の一団が走ってくる。烏帽子をつけ、弓をかついだ武士が走り去る。

「邪魔だ。どけ、どけい」

通行人があわててわき道にそれる。

蓮長がおもむろに来た道を振り返ると、比叡山が遠のいていた。

近江から安房への長い旅である。

初夏の穏やかな日差しが蓮長の網代笠(注)に差し込む。

街道の周囲には粟や稗の畑がどこまでも広がっている。

武士や庶民がすれちがう。大きな市女笠(注)をかぶった女性が、お供の下人を従えて行き交う。


蓮長は農家の前で立ち止まった。

一人の僧を囲んで百姓が集まっている。何やら話を聞いているようだ

この村に念仏僧が布教に訪れていた。

鎌倉時代、念仏宗は爆発的にひろまっていた。

農民が墨の阿弥衣(注)と袈裟(まと)僧に手をあわせた。

「ありがたや。念仏の坊様は。南無阿弥陀仏と唱えるだけで往生できるというだ」

「阿弥陀如来様、どうかわしらをお助けくだされ。このところの飢謹や疫病に、わしらはなすすべもございませぬ。阿弥陀様のお助けがなければ生きていけませぬ。あとは死んで極楽浄土を待つばかりでございます」

僧が農民の手を取り、声をかける。

「まことによい心がけです。これぞ阿弥陀仏の教えにかなうというもの。南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生の願いは必ずかないますぞ」

蓮長はそのかたわらを歩いていく。

念仏宗は浄土宗ともいう。

法然が始めた念仏は日本国中の庶民の間で猛烈にひろまっていた。南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるという極めて単純な教えが、飢饉・疫病などの苦境にあえぐ当時の民衆の心を捉えた。この念仏の広がりは、ついこの五十年前、後鳥羽上皇の時からだった。あまりの人気ぶりに、天台宗の総本山延暦寺の高僧までもが念仏を唱えたほどだった。いっぽう鎌倉幕府は、当時の庶民が、飢饉・疫病等の現世の苦しさから逃れようと極楽浄土を願い自殺者が絶えなかったことから、元仁(一二四四年)八月五日以降、たびたび「専修念仏」を禁止にした。


蓮長がさらに街道を東へすすむ。

彼は故郷への道すがら、武士の都である鎌倉を通るつもりだった。

当時、京都から鎌倉までは十二日かかったという。比叡山から安房まではどれだけを要したか。すくなくとも十五日はかかったろう。

はるかかなたに白雪をかぶった富士があらわれた。

当時の人々は、現代人が思う以上に富士山に畏敬の念をいだいていた。
 鎌倉時代の紀行文『海道記』にいう。

「富士山を見ると、都で聞いたとおり、天の中ほどにそびえ四方の山から抜きでている。山上は鳥が越える道、(ふもと)は獣の通る道だ。雪が頭巾のようで頂上を白く覆っている。また雲が腹巻のようで、中腹を長くとり囲んでいる。高いことは天に梯子(はしご)をかけたようで、登る者は登りきれずにもどってくる。麓の長いことはめぐるに幾日もかかるほどで、行く者は山を背負うようにして歩く。温泉が山頂にわき出で、細い煙がかすかにあがり、冷たい池が中腹に水をたたえて、あふれる流れが川となっている。本当にこの山は多くの山の中でも比べるものがない霊山である」

畑の風景が途切れ、家なみがつづいてきた。

鎌倉が近くなった。人通りも多くなってきた。物売りの声もする。

妖艶に着飾った娘が出てきた。はだけた胸、小股まであらわにして蓮長に近づく。

遊女である。とわり、ともいった。この時代、遊女はれっきとした職業である。彼女たちは宿場町にかならずいた。

当時の紀行文『春の深山路』に宿場町小田原の様子がえがかれている。

   酒匂(さかわ)の宿に暮るる程に着きたれば、例の君・海女(あま)ども、又若き遊女(あそびめ)ども具して()ののしる。

酒匂の地名は今も神奈川県小田原市にある。

蓮長が日の暮れるころ酒匂に着くと、いつものように女たちが遊女を連れて、客を無理に取ろうと大声でさわいでいた。にぎやかな光景である。

可憐な娘が蓮長に声をかけた。

「これは、これは、若いお坊様。どちらへ」

蓮長が答える。

「安房の国で向かいます」

 娘はいきなり蓮長の手をとった。

「お坊様、わたしを鎌倉へ連れていってくれませぬか。鎌倉にはわらわの夫がおりまする。わけあってこのような身になりましたが、わらわが鎌倉の都に入りさえすれば、もとの夫婦にもどれまする。どうかわたしと一緒に」

蓮長は遊女に絡まれても嫌がる顔を見せない。黙って見つめ、この女の行く末に思いを馳せた。

京が公家の拠点なら、鎌倉は武家の中心地治安はきびしい。一介の遊女が入ることは不可能だった。

女が愛くるしい唇をひらいた。

「お坊様は、わらわがそら事をいっているとお思いでございますか」

そこに年増の女が出てきて娘をさとした。

「これこれ。お坊様をからかってはなりませぬ」

年増の女は蓮長にわびをいれた。
「失礼いたしました。このおなごは殿方を見ては仲良くなりたがる癖があります」

蓮長は久しぶりに宿場の人々のやり取りを聞き、にこやかだった

「よいのです。長らく山で修行しておりましたので、見るものすべてが珍しく感じられます。女性(にょしょう)に声をかけられたのは何年ぶりでござろうか」

女たちが笑いだした。

「まあ、なんと正直なお坊様」

蓮長は会釈をして去った。

今まで笑っていた女たちは、答礼をするとすぐに通りがかりの武士をつかまえて誘いだした。

蓮長は鎌倉の入り口にきた。

鎌倉は南が太平洋に面し、三方は山に囲まれた要害の地だった。鎌倉に入るためには通馬一頭が通れるように深く掘られた、いわゆる切り通し(注)通らねばならなかった。

群衆が切通しの入り口でごったがえしている。

警護の武士が左右にならび、通行人の風体を確かめていた。

武士が通りすぎようとした蓮長を刀でさえぎった。

「まてい。名はなんと申す」

「安房国清澄寺の僧、是生房(ぜしょうぼう)蓮長と申します」

「安房か。それでおぬしはこの鎌倉を通りすぎると申すか」

「いかにも。比叡山をはじめとして約二十年、修行してまいりました。仏法をきわめ、故郷の山へ帰るところでございます」

「宗派はなんだ。やはり念仏か」

蓮長が首をふった。

「では、いまどき武士のあいだではやっておる禅宗か」

蓮長がまたも首をふる。

「ではこ近頃、鎌倉でもてはやされておる良観殿の律宗か。それとも高貴な僧侶が唱える真言でござるか」

「そのどちらでもございませぬ」

武士が不審がった。

「ばかな。それ以外の宗派がこの日本国のどこにおる。さてはおぬし、にわか坊主ではあるまいな。であればここを通すわけにはまいらぬぞ」

蓮長が穏やかな目でいった。

「十年の修行で仏法の究極を極めることができました。それを故郷清澄寺で説法し、父母、師匠の恩に報いたいのであります」

「仏法の究極とは」

「法華経でございます」

 武士がいう。

「法華経とな。初めて聞くな。南無阿弥陀仏ではないのか」

蓮長がまたも首をふる。

「それは方便の教え。釈迦の真実の教えではありません」

武士が刀の柄を手にやる。

「いよいよあやしい奴。おぬしを通すわけにはまいらぬ」

それを見て、それまで穏やかに受け答えした蓮長だったが、武士を強い調子で言い放った。

「釈迦如来の真実の教えを伝え、人々を救済し、国を栄えさせようとする者を通さなければ、仏にお叱りを受け、来世は地獄に堕ちますぞ。それでよければお覚悟を」

蓮長と武士がにらみあった。

武士は蓮長を試すつもりだったのか、にやりとして通した。

蓮長は鎌倉にはいった。

市場がある。

そこは人でごったがえしていた。ここで町民は銭で米・布・鳥・酒などの必需品と交換した。

鎌倉は源頼朝が都を定めていらい、京都と争うほどにぎわっていた。出店は(さる)(とり)すなわち午後四時から七時あたりが、もっとも混雑したという。現代でも同じである。

道のわきに物売りたちがひしめく。

庶民がそれをのぞき見しながら歩く。

汗だくの男たちがふんどし姿で木材を積んだ馬車を引く。

蓮長がこの様子を見ながら通りすぎていく。なにもかもが新鮮だった。

 

この町のにぎやかさがわかる史料がのこっている。北条泰時は仁治元年(一二四○)鎌倉で取締りの規則を発布している。鎌倉中を行政区に分けて奉行人を置き、かたく禁止せよという。この日からさかのぼること十三年前、蓮長が十九歳の時だった。

内容はつぎの人々を取り締まる件についてだった。

一、盗人のこと

一、旅人のこと

一、辻捕(つじとり)のこと

一、悪党のこと

一、丁々辻々の売買のこと

一、小路を狭くなすこと

一、辻々の盲法師ならびに辻相撲のこと

一、押買のこと

これらの人々は鎌倉によほど多くいたことがわかる。

辻捕とは路上で女性を捕えること。人さらいである。物騒な話だが、鎌倉では頻繁だった。

町角では盲目の琵琶法師が平家物語をうたい、いたるところで辻相撲がおこなわれ、小町屋とよばれる商店が品物を店先にならべて道をせまくし、所かまわず売り買いが始まるなど、大都市ならではの繁栄ぶりがうかがわれる。押売りではなく押買いとはおもしろいではないか。


 港へ出た。和賀江の浦であった。

ここでは新都にふさわしい港湾が完成していた。五十ばかりの大船がひしめきあう。その脇に数十の小船がむらがっている。

おびただしい人夫が積み荷を忙しげに船からおろしている。

そこには色あざやかな陶磁器があった。中国・宋からの輸入品であろう。

蓮長がそれを飽かずにながめた。

『海道記』は当時の和賀江海岸の繁栄をしるしている。

この延辺(えんへん)につきて、おろおろ歴覧(れきらん)すれば、東南(とうなん)(かど)一道(かずみち)は、舟檝(しゅうしょう)()(しょう)()のあき(ひと)は、百族(ひゃくぞく)(つか)れにぎはひ、東西北の三界は、高卑の山、屏風(びょうぶ)の如くに立ち廻りて、所を飾れり。

(訳)少しばかり見物すると、東南の角の方面は船の集まる港で、商人はだれもかれも忙しさに疲れるほど賑わっており、東西北の三方は高い山や低い山が屏風のように取り巻き、ここを飾っているかのようだ」

当時のにぎわいが目に浮かぶようである。


市中の広場では流鏑馬(やぶさめ)の神事がおこなわれていた。

群衆が馬の通路の際までひしめいている

優美に着飾った馬上の武士が走りぬけ、矢を引きしぼって見事的を射ぬいた。

いっせいに人々の喝采がおきる。

(
)

蓮長は由比の浜にたどり着いた。

『海道記』の作者は貞応二年(一二二三)四月、京都から鎌倉に下り、五月には帰京の途についている。友人との二人旅だった。当時は治安が良かったのだろう。貞応二年といえば蓮長が生まれる三年前であるから、当時の鎌倉の様子をほぼ正確にとらえているものとみられる。

(さる)(ななめ)に、()()の浜におちつきぬ。(しばら)く休みて、この所をみれば、数百(すうひゃく)(そう)の船、とも綱をくさりて、大津(おおつ)の浦に似たり。千万(せんばん)()の宅、(のき)(なら)ベて、大淀の(わたり)にことならず。御霊(ごりょう)の鳥居の前に日をくらして後、若宮大路より宿所につきぬ。

(訳)午後五時ごろ由比の浜におちついた。しばし休憩して浜の様子を見ると、由比の浜は数百艘の船が綱を鎖のように集めてつながれ、ひしめきあっている。そのにぎわいは琵琶湖の大津の光景に似ている。おびただしい数の人家が密集した様子は伊勢神宮に近い大淀の町のようである。御霊社の鳥居の前で日が暮れたあと、若宮大路をすぎて宿に着いた。

蓮長はその足で海岸沿いに東へむかい、竜の口の刑場に来た。

江の島が見える。

今は高層建築がならび、サーファーや観光客でにぎわっているが、当時は処刑場だった。今でもこの付近では処刑されたと思われる人骨が発見されている。


人々がむらがっていた。

罪人が竜の口にひきだされていたのである。

砂浜の中央に首を落とすための穴があった。

役人が口上を告げる。

「この者は鎌倉で盗みをはたらき、そのうえ人まで殺し、罪浅からぬ者なり。各地が飢饉で食物乏しいとはいえ、都の住人にあるまじきふるまい。よって打ち首といたす」

首切り役人が無表情に刀を抜いた。

今までおとなしかった罪人が、目かくしをされたとたん、あばれだした。

「お許しくだされ、もう二度と人は殺しません」

役人が取り囲み、罪人をおさえ、首を穴におしこむ。

罪人がはげしく首をふった。

首切り役人が「南無阿弥陀仏」と罪人に唱え、一刀のもとに首をおとした。

群衆の悲鳴があがった。


 その夜、蓮長は縁故の寺院で一泊し、ふたたび鎌倉を歩いた。禅寺をたずねた。

 武士が十数人、結跏(けっか)趺坐(ふざ)(注)座前を組んでいる。この当時、禅宗は武士を中心に信徒を集め爆発的に流行していた。

 僧が(けい)(さく)(注)をもって静かに部屋を歩きまわる。

 眠りかけてた武士の右肩に僧が警策を当てる。武士は思わず顔を赤らめ、合掌したまま首を左に傾け右肩をあけ。僧が今度は強く警策で右肩を打った。警策を受けおわった武士は合掌低頭したあと、頭を上げ背筋を伸ばして元の姿勢に戻った。

 蓮長がそれを窓ごしに見ていた。

 禅宗が鎌倉武士にこれほどまでに広まっているのかと、鎌倉での禅宗の広がりを肌で感じた。


若宮大路を通る。

なだらかな登り坂である。

遠くに鶴岡八幡宮が見えた。

八幡宮は河内源氏の二代目棟梁、源頼義が建立した。頼義は京都の石清水八幡宮の分霊を鎌倉の由比郷にむかえて神社を建て、源氏の氏神とした。のちに子孫の源頼朝は関東を平定し、八幡は武士の神となった。このために源氏に従う武士のだれもが八幡を崇拝していた。

『海道記』と同時代の紀行文である『東関紀行』は、八幡宮のいわれを簡潔に述べている。


「そもそもこの鎌倉の起りを申すと、亡き右大将頼朝と申し上げる人が、清和天皇の九代の子孫として、武士の家に生まれた。頼朝は去る治承の末の頃になって、忠義の兵をあげて、朝敵を打ち平らげたことから、朝廷からの恩賞が次々と下されて将軍に任じられた。頼朝は幕府をこの土地に定め、寺や寺社をこの場所にお建てになってから、いまの栄える土地となった。

それらの中でも、鶴が岡の八幡宮は、松や柏の緑がますます濃く茂り、神前の供物が絶える時がない。楽人を決めて四季の御神楽が必ず行われ、役目の者に命じて八月の放生会が催される。神をあがめる儀式は本社の石清水八幡宮に異ならないということだ」

 八幡宮から海にむかい、なだらかに下る直線の道路がつづく。

ここに騎馬の一団が八幡宮から静かにおりてきた。

乗っているのは北条時頼、つづいて長子(とき)(すけ)、次子時宗、さらに郎党がつづく。

時頼は鎌倉幕府の第五代執権である。若干二十七歳。

執権は立場上、鎌倉将軍の下だが、頼朝以後の将軍はあくまで傀儡(かいらい)であり、実権は軍事力を握っていた北条氏にあった。したがって執権の時頼は日本国の実質の国主であるといってよかった。

時頼親子が悠々と若宮大路をすすむ。

沿道の群衆が道を開けて頭をさげた。

「あれが最明寺様だ」

時頼は自信が開基した禅寺の最明寺で出家した。そのため人々は彼を最明寺と呼んだ。

七歳の長子時輔が時頼の馬に近づく。まだ少年ながら、世を憂うような表情を見せている。

「父上,執権をおやめになるというのはまことでございますか」

時頼が答える。

「まだおりるつもりはない。だがわしも幕府を取り仕切ってはや十年。そろそろ潮時ではあるな」

つづいて弟の時宗が近づいた。時宗はわずか五歳。時輔とちがって表情は天真爛漫そのものだった。

「父上、今はまだ引退するときではございませぬ。われら北条に楯つく輩も多い時節。父上がおればこそ幕府は安泰というもの」

兄の時輔が露骨にいやな顔をした。

この兄弟腹違いである。そして時頼の血統の(さが)のか、なにごとにも競争心をむきだしにした。

時頼が笑った。

「心配するでない。おまえたちの将来の手は打っておる」

親子が威勢よく馬を駆った。

 

   2 故郷、清澄寺の人々につづく

網代笠(あじろがさ)
細く削った竹で編んだ笠。主に僧侶が使用した。

市女笠(いちめがさ)
平安時代以降の代表的な女性用かぶり笠。

阿弥衣
麻やイラクサの繊維で俵を編 むようにして作った法衣(ほうえ)一つ。

切り通し
写真は鎌倉七切り通しのうちの一つ、名越(なごえ)の切り通し。
f0301354_22564020.jpg
結跏趺坐(けっかふざ)
仏教における最も尊い坐り方。両足を組み合わせ、両腿の上に乗せる。如来坐像ではこの坐り方が用いられている。坐禅時の坐り方として行なわれた。

警策(けいさく)
坐禅のとき、修行者の肩ないし背中を打つための棒。(けい)(かく)(さく)(れい)の略。


# by johsei1129 | 2017-03-23 22:38 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 20日

31 発迹顕本

f0301354_22490992.jpg
               (竜の口へつづく湘南の海岸 前方は江の島)

  すでに真夜中になっていた。
 宣時邸の門前では、幾本もの松明(たいまつ)が赤々と暗闇を照らしていた

平頼綱があらわれ鎧姿で馬にのった。

このあと日蓮が屋敷からでてきた。

兵士が両側にまっすぐ直立し、日蓮がそのあいだをすすむ。

兵士の中には、何故僧が打ち首になるのか戸惑いを隠せない者もいた。しかし頼綱の命は絶対であり従うしかない。

彼らは日蓮を鞍のない裸馬に乗せた。

松明をもつ先頭の一団が夜の鎌倉を出発した。戦闘でもないのに、真夜中に多数の兵士が隊列を組んで鎌倉の街道を進んでいく。異様な光景だった

味方はいない。

弟子たちは捕縛され追いたてられて散りじりとなり、小僧の熊王だけが、とぼとぼと馬のあとをついていく。熊王は歩きながら泣きじゃくる。少年は日蓮に助けられていらい、身辺の雑事を引きうけていた。その日蓮が死の淵に立たされている。父親が連れ去られて、泣かない子がどこにいよう。

やがて日蓮の目に鶴岡八幡宮の社がみえてきた。

八幡宮は月明かりの中、悠然とそびえ建っている。

頼綱が馬をおり、武士の神である八幡宮にむかって頭をさげた。郎従や兵士も一列に静止して頭を下げる。
 頼綱がふたたび馬にのり、全軍がすすもうとしたその時だった。

日蓮が声をあげた。

「またれい」

日蓮が、一行を制する声を聞いて兵士がおもわず歩みを止めた

「この期におよんで、おじけづいたか」

頼綱が軽蔑の目でみた。死を前にしての狼狽は恥とされる。

しかし日蓮はおちついていた。

「おのおの方、騒ぐべからず。べつのことはなし。八幡大菩薩に最後に申すべきことあり」

日蓮は馬からおりたとたん、あろうことか八幡を大音声で叱責した。人がかわったような叫びだった。

「いかに八幡大菩薩は、まことの神か」

一列にならんだ兵士が驚愕し、体をふるわせた。われらの氏神を罵倒するとはなんという僧侶。

日蓮が腹の底から雄たけびをあげる。

()()()()今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。そのうえ身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間地獄におつべきを、助けんがために申す法門なり。また大蒙古国よりこの国を攻むるむらば、天照大神・正八幡とても安穏におわすべきか。

 そのうえ釈迦仏が法華経を説きたまいしかば、多宝仏・十方の諸仏・菩薩あつまりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天ならびに天竺・漢土・日本国等の善神聖人あつまりたりし時、おのおの法華経の行者におろかなるまじき由の誓状まいらせよとせめられしかば、一々に御誓状をたてられしぞかし。

 さるにては日蓮が申すまでもなし、急ぎ急ぎこそ誓状の宿願をとげさせたもうべきに、いかにこの処にはおちあわせたまわぬぞ」

日蓮の大音声が闇夜に響きわたる。

平頼綱が呆然とした。

最後に日蓮がおどすように叫ぶ。

「日蓮、今夜首切られ霊山浄土へまいりてあらん時は、まず天照大神・正八幡こそ誓いを用いぬ神にて候いけれと、さしきりて教主釈尊に申しあげ候わんずるぞ。痛しとおぼさば、急ぎ急ぎ御計らいあるべし」

この日蓮の大音声は「八幡大菩薩が法華経の行者を守るという誓いを破り、日蓮が今夜首を切られ、霊山浄土へ行くようなことになったら、誓いを守らない神だと教主釈尊に言いつけるぞ」という趣旨である。
 だが八幡大菩薩は闇につつまれ、沈黙したままだった。

日蓮がふたたび馬にまたがる。

全軍馬をすすめたが鎌倉幕府の守り神、八幡大菩薩を叱りつけるという日蓮のただならぬ大音声に驚愕し、兵士の中には身震いする者も少なくなかった

頼綱の軍馬が若宮大路をくだる。

月明かりの下、人影はなかった。

この大路は昔、征夷大将軍源頼朝の妻、政子の安産のために開かれた。いま兵隊は僧侶の首を刎ねるためにとおる。

ここに日妙と娘の乙御前が手をあわせていた。日妙は気丈に振る舞っているが、乙御前は涙が止まらない。

「日蓮聖人様」

日妙が日蓮の馬に近づいたが、兵士にはねとばされてしまった。

乙御前が母にだきつく。二人は地べたにすわりこみ、日蓮の無事を祈るばかりだった。


隊列はかまわずすすむ。

前方に黒衣の僧の一団がみえた。

彼らは日蓮にむかって念仏を唱和しだした。

そのなかに扇子を開いて顔を隠す者がいる。僧侶は扇子の骨の間から日蓮を見つめた。

極楽寺良観その人だった。


月光が闇夜の太平洋を照らしていた。

日蓮の隊列はようやく由比の浜についた。

ここに(やしろ)があった。鎌倉の基礎を築いた権五郎景政を祀る()(りょう)だった。

ここを右手におれて江の島竜の口の道を進もうとしたとき、日蓮がまたも声をかけた。

「しばしまて。告げるべき人あり。熊王よ」

熊王少年すぐにかけよった。

「熊王、四条金吾殿を呼んでまいれ」

少年は日蓮の目を見てうなずき、一目散で飛ぶように走った。

熊王にとって日蓮は育ての親以上であり、人生の師でもあった。日蓮にお供することが自分の人生そのものになっていた。その日蓮に死が迫る。

熊王は四条金吾様ならこの絶体絶命の窮地から救ってくれると直感した。彼はそう思うと、いてもたってもいられず、まるで空中を飛び跳ねるかのように金吾の屋敷にむかって駆け抜けた。

四条金吾の屋敷には明かりがついていた。

熊王がやっとのことでたどりつく。熊王の膝はもはや立たなくなっていた。彼は屋敷の明かりにむかって声をふりしぼった。

「きんごさま・・」

扉が開き、燭台を手にした金吾がでてきた。金吾はこの夜中になにごとかと警戒したが、熊王少年とわかるとすぐに事態を飲み込んだ。

「熊王ではないか、聖人に何かおきたか」

少年は涙声で告げた。

「聖人が、聖人がお呼びです。頼綱様の兵隊にさらわれて」

「しまった、今どこだ」

「由比の浜の御霊(ごりょう)の前です」

金吾が熊王をかかえて家に入れてると、すぐさま支度をはじめた。

着物の裾をしばり、刀を差した。そして勇躍外へでようとしたが、目の前に妻の日眼女があらわれた。
 娘をだいている。

日眼女は正座した。

金吾もゆっくりとひざを折った。

「すまぬ・・聖人に一大事だ。いかねばならぬ。帰ってはこぬかもしれぬ・・」

妻は不思議に笑顔である。

「覚悟しておりました。おまえ様、それでこそ日蓮聖人の一のお弟子」

「わしこそ、そなたを妻にしたのが誇りであった。すまぬ、月満をたのむ」

金吾が外にでて、月天子にむかって叫んだ。

「どうか日蓮聖人をお守りくだされ」

金吾は裸足で一目散に油井の浜にむかった。また居合わせた金吾の兄弟三人もあとにつづいた。

のこった日眼女が娘をかかえ、おなじく叫ぶ。

「どうか日蓮聖人を、四条金吾頼基(よりもと)お助けくだされ」

たどりついた金吾は月夜の下、馬上の日蓮が由比の浜で兵士に取りかこまれているのを見た。

最初、兵士は金吾におどろいて薙刀(なぎなた)ふせいだ。しかし平頼綱は興奮する兵士をなだめた。

「静まれ、静まれ。その者をとおしてやれ。日蓮一番の弟子、四条中務三郎左衛門尉頼基殿のおでましだ」

 頼綱に侮蔑の口吻がまじる。法華宗の金吾は御家人のあいだでも有名である。頼綱は師弟の最後の対面を許した。

金吾が馬の手綱をとった。

「ご無事でしたか。不肖の弟子ですが、なんとか間に合いました」

師日蓮は意外にもにこやかだった。

「今宵、首を斬られにまいるのです。この数年があいだ願っていたことです。この娑婆世界に(きじ)となったときには(たか)につかまれ、(ねずみ)となったときには猫に食われした。あるいは妻のために、子のために、また敵に身を失ったことは大地微塵よりも多いのです。いずれにしても死は一定です。されば日蓮、今世では貧道の身と生まれ父母の孝養は心に足らず、国の恩に報いる力もない。このたび首を法華経にたてまつり、その功徳を父母にたむけます。そのあまりはそなた方弟子檀那に分けてさしあげよう。問注があった日の夜、館で申したことはこの日の事だったのです」

平頼綱が改めて全軍に力強く命じた。

「これより、竜の口にむかう」

先頭に松明をもつ兵士数人。つづいて日蓮をかこむ軍団がすすむ。

平頼綱はここで軍団を見送り、鎌倉へ引きかえした。

頼綱の仕事はここで終わった。あとは自邸に帰って日蓮の首をまてばよい。闇にまぎれて暗殺するのは幕府執事のやることではない。あとは雑兵どもにまかせればよいと・・。

澄みきった秋の夜長、空には一片の月と無数の星霜が輝く。

右にけわしい山々。左に広大な太平洋を望む。

日蓮を乗せた馬は、金吾のもつ手綱に引かれて潮騒の音がやまない海岸線を粛々とすすむ。

いっぽうこの時間、北条時宗邸の寝室では、時宗が妻(のり)子の大きな腹をなでていた。彼はこの夜中に深刻な事態が進行中であることをつゆ程も知らない。

二人はたがいにほほえみあった。

時宗が祝子の腹に耳をあてた。

「早くでてこぬかのう」

祝子が笑う。

「そんなわがままをいってはなりませぬ。もう少したたないと生まれてはきませぬ」

「まちどおしいのう。生まれる日がはやくこぬかのう」

「殿はどうあれ。わたしは今がいちばんでございます」

「どうしてじゃ」

「このように殿にだいじにされるのが、いちばんうれしゅうございますもの」

祝子が時宗の胸に顔をうずめた。

この時、戸の向こうからささやく声がした。

「殿、殿、お休みでございまするか。殿・・」

安達泰盛の声だった。

時宗は何事かと立ち上がり、(ふすま)あけた

泰盛が正座してかしこまっている。

祝子がおどろいた。

「お兄さま」

時宗は泰盛の突然の訪問に戸惑いをかくせない。

「泰盛殿、この夜半に、いかがした」

泰盛が頭をあげ、憤怒の目を光らせた。

「たったいま注進がございました。日蓮の御坊が頼綱の兵に拉致され、竜の口にむかったとのことでございます」

「なに、日蓮殿を首を斬るというのか」

竜の口は斬首の代名詞である。祝子が時宗の背にだきついてふるえた。

時宗の声が邸内にひびきわたる。

「止めよ。頼綱に申せ。御台所懐妊の時に、僧侶の首を斬るとは何事ぞ。日蓮殿に罪はない。誤っては後悔あるべし」

月明かりの下、配下の武士が馬にとび乗った。

泰盛が時宗の書状を託して叱咤(しった)した。

「いそげ、竜の口だ」

泰盛は頼綱の横暴に憤っていた。頼綱の専横がつづけば自分も危うくなる。どうすればよいか。

泰盛は考えを張りめぐらした。

日蓮の処刑を妨害すれば、頼綱の力をそぐことになる。日蓮を助けるためではない。己の保身のためにだ。

日蓮を乗せた馬が海岸線の道を竜の口に向け、さらにすすむ。

現在もそうだが、左は海、右はせりたった山がつづいている。逃げ場はない。

平頼綱は闇の中で日蓮を葬るつもりでいる。鎌倉幕府は要人の処刑をつねに隠密裏に行った。都では斬らない。平家の処刑しかり、承久の変で捕えた公家しかりである。

かたや四条金吾は日蓮の馬の手綱をとり胸をはった。さえぎる敵などないかのように。

金吾はすでに覚悟を決めていた「平頼綱が竜の口と決めた以上、日蓮上人の死は免れない。ならば自分も腹を切るまで」と。

金吾は日蓮から日ごろ度々聞かされていた。「死は一定」と。

いずれ人は死ぬ。されば何のために死ぬかで来世の命運が決まる。武士としての師は北条一門の名越光時だが、三世に亘る法華経の師は日蓮に他ならない。その師ともに霊山に行くことができるのなら、己の人生に何の不足があろうか。

竜の口の刑場に波がよせては返す。

暗闇に広大な太平洋がひろがる。

砂浜の一角の四方に松明がともされ、兵士が守りをかためていた。

ひとりの兵士が首のおちる穴を掘る。

太刀取りの依智三郎直重は傲然と床几に腰かけ、名刀蛇胴丸を左脇に立てて日蓮の到着を待っていた。その刀の柄が松明に照らされ不気味に光った。

時宗の使者が海岸線を疾駆していた。だがいま一歩おそかった。

日蓮の一行はすでに竜の口の目と鼻の先まで近づいていた。

月明かりの下、彼方に江ノ島が見えてきた。

ここで金吾は日蓮の馬の手綱を引きながら思いにふける。彼は日蓮との出会いを回想していた。

はじめて会った時、金吾は日蓮に食ってかかった。それをやさしく受けとめてくれた師匠の笑顔。

入信して日蓮に喜ばれた日。

我が子をだいてよろこぶ日蓮の姿。

そして証人となるようにと言われた時の日蓮の親をも凌ぐ愛情。

いまになって、どれもこれもがいとしい。

金吾がますます感傷にふけった。

(ああそうだ、そうだったのだ。このお方は自分の主であり、師匠であり、父だったのだ。今それがしかとわかった)

 この時金吾は、日蓮から説法をうけた法華経()(じょう)()()を思い起こした。「在在諸仏土(じょう)()(しぐ)(しょう)」ここかしこの仏国土に、常に師と俱に生るるなり、と。


やがて前方に刑場の灯がみえた。

悲愁が金吾を襲った。

刑場の兵士がさわぐ。

「きたぞ」

兵士が日蓮の馬をとりかこんだ。

ここで金吾が感きわまり、手綱をつかみながら声をふりしぼった。

「上人、ここで今生のお別れでございます・・」

金吾は大声で泣いた。

ふだんは短気で強情な四十一歳の男だった。しかし涙が流れるのをとめることができない。

馬上の日蓮は金吾を見て慈愛の目をみせた。しかしつぎの瞬間、厳父の顔で金吾を叱りつけた。

「なんと情けない武士だ、金吾よ。これほどのよろこびをなぜ笑わぬ。なぜ約束をやぶるのだ」

金吾は手綱をつかみながらひざまずき、泣くのをやめない。

御書にいう。

左衛門尉申すやう、ただ今なりとなく()。日蓮申すやう、かく()のとのばらかな。これほどの悦びをば笑えへかし。いかにやく()そく()をばたがへらるゝぞ 『種々御振舞御書

最後の最後まできびしい師匠であった。この期におよんでも弟子を叱った。だが日蓮にとって一緒に死のうとする金吾の気持ちを思えば、これほどうれしいことはない。しかし今、自身が末法の法華経の行者として最大の岐路を迎える瞬間がせまっている。その時になにがおきるのか。日蓮は予感していた。だがそこに証人がいなければ、後世に正しく伝わらなくなる。歴史の荒波に藻屑として消えるやもしれないのだ。

日蓮は金吾をさますため叱責した。

(四条金吾よ、しっかりするのだ、心して見ておけ)

日蓮が馬からおり、刑場へおもむく。

現在の午前三時前後、丑寅の刻であった。

月と松明の明かりの中、筵がしかれている。そこに首切り役人がまっていた。

日蓮は敷物に正座し手をあわせた。

ここでようやく伯耆房ら弟子たちが追いついた。彼らは数珠をとりだし、涙とともに題目を唱えはじめた。つねひごろ気丈な伯耆房の目頭からも、さすがに一筋の涙がこぼれた。

四条金吾は日蓮のななめうしろに正座した。そして上半身裸となり、短刀の鞘からおもむろに刀をぬく。日蓮と死を共にするためだ。

号令がかけられた。

「はじめ」

日蓮が唱える。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・」

首切り役人が日蓮の左うしろにすすみ、ゆっくりと刀をぬき、高くかかげた。

この時である。

どこからか、光が刀剣に反射した。

役人があやしんで動きをとめた。

光は海のむこう、江の島方向の太平洋の暗闇からだった。

満月と見まごうほどの大きさの白い光り物が、ゆっくりとこちらにむかってくる。

「あれはなんだ」

目の前の江ノ島全体が不気味にかがやいた。

兵士が絶叫した。

光が音もなく、兵士一人一人の顔を照らし、竜の口の刑場一面が真昼のようになった。

「でた」

首切り役人は倒れ伏し、兵士は悲鳴をあげて逃げ散った。武士は馬からおり、ふるえながら手をあわせる。馬の上でうずくまる者もいた。

古来、竜の口の法難についてはさまざまなことがいわれてきた。斬る瞬間に雷がおちたとか、刀がこなごなにわれたとか、まことしやかにいわれるが真相は以上である。

光物に関する詳細な史料はただ一つ、日蓮がのこした『種々御振舞御書』にしかない。

()しま()のかたより月のごとくひかり()たる(もの)まり()のやうにて辰巳(たつみ)(東南の方角)のかたより戌亥(いぬい)(西北)のかたへひか()りわたる。十二日の夜のあけ()ぐれ()、人の(かお)()へざりしが、物のひか()り月()のやうにて人々の面もみなみゆ。太刀取り目くらみ()ふれ臥し、兵共(つわものども)おぢ(おそ)れ、けう()さめ()て一町計りはせのき、或は馬よりおりてかしこまり、或はうま()の上にてうずくまれるもあり。

兵隊は刑場周辺に散り散りとなった。のこされたのは日蓮と金吾、伯耆房ら日蓮門下の弟子信徒だけとなった。

奇跡であった。

読者はこの劇的な事件が作り話と思われるかもしれない。

じつは光物の登場はこれがはじめてではない。

北条幕府の公式記録「吾妻鏡」におなじ光物の記録がある。この日からさかのぼること五十年前、寿永元年六月二十日のことだった。

  戌剋(イヌノコク)。鶴岳辺有光物。指前浜辺飛行。其光及数丈(シバラク)不消。

(午後八時頃、鶴岡の辺に光る物があらわれた。前浜の辺へと飛んでいき、その光は数丈に及び、しばらく消えなかった)

 鶴岳とは日蓮が叱咤した八幡宮の場所である。光物はここから海にむかって飛来したという。竜の口の光物は寅の刻、午前三時頃の深更にあらわれた。また進入経路も五十年前とは逆で、太平洋から内陸にむかって飛んでいる。


またこの現象を科学的な見地から推測した学者がいる。東京天文台長で、東大教授だった広瀬英雄は、この光物の正体は彗星が落とした破片(流星)だったという。

この日、文永八年九月十二日は太陽暦で今の十月二十五日にあたる。日蓮によると光物が出現する直前は真っ暗で、人の顔も見えなかった。この時を「あけぐれ」と呼んでいる。天体運用表で計算してみると、当日の月没時刻は午前三時四十四分(日本標準時)であるから、死刑執行予定時刻は月没ごろかその少しあと、ほぼ現在の午前四時前と考えてよい。(うし)の刻の終わりである。

さらに広瀬はこの光物が、おひつじ・おうし座の流星群に属するものと考えた。なぜならこの流星群は十月下旬に活動し、しばしば明るい流星を発生させるからである。この流星群を発生させる母体がエンケ彗星である。この彗星は太陽の周りを3.3年の周期で公転する。その軌道に沿って落としていった小さな破片(流星)が地球に落下し、日蓮の命を救ったという。『流星光底の長蛇・日蓮と星』一九七三年

f0301354_23334811.jpg
                  エンケ彗星 Wikipedia より

 いずれにせよ光物は日蓮を闇の中で葬ろうという陰謀を、白日のもとに暴いたのだった。

 四条金吾は絶体絶命の窮地を乗り越えたことに驚愕するとともに無事であることの喜びで師のもとにかけよった

「聖人、ご無事でなによりでございます」

しかし日蓮はどうしたことか意外な行動にでた。

立ちあがり、逃げ散った兵士を叱ったのである。

いかにとのばら・かかる大禍ある召人(めしうど)にはとを()のくぞ近く打ちよれや打ちよれや。 
 ()あけば・いかにいかに(くび)(きる)べくわいそぎ切るべし夜明けなば()ぐる()しかりなん。  「種々御振舞御書

「どうしたおのおのがた。この囚人になぜ離れる。もどらぬか。近くにきてこの日蓮を斬ってしまえ。もう夜が明ける。急いで斬るべきだ。明るくなれば見苦しいではないか」

 すさまじい気迫である。

だが兵士は草や砂に身をかがめて動けず恐怖にふるえた。戦いでは勇猛果敢でも、得体の知れない相手には死ぬほど臆病だった。

日蓮はなおも怒ったように呼ぶ。

()()()()(
)

答える者はだれもなかった。

この時、かがやく朝日がかなたの水平線から顔を出し、暗闇がやぶられた。

日蓮が光を真正面に受け、砂浜に正座した。

そして太陽にむかい、手をあわせて「南無妙法蓮華経」と一声題目を唱え、地にひれ伏した。

よせる波がざわめく。

ひれ伏していた日蓮が上体をおこすと、太陽の光線が日蓮の全身をてらした。

四条金吾、伯耆房らの弟子信徒がこの姿に打ち震え、かけよって日蓮その人にひれ伏した。

元初の日天子が天空にみなぎり、日蓮とその門下をてらす。

日蓮はこの時の心情を、九日後に四条金吾に宛てた手紙で次のように書きのこしている。


今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪はたつのくち。相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におと()るべしや。其の故はすでに法華経の故なるがゆへなり。経に云はく「十方仏土の中には(ただ)一乗の法のみ有り」と、此の意なるべきか。此の経文に一乗法と説き給ふは法華経の事なり。十方仏土の中には法華経より(ほか)は全くなきなり。「仏の方便の説をば(のぞ)く」と見えたり。()し然らば日蓮が難に()う所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界(注)の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には(たつ)(のくち)に、日蓮が命をとゞめをく事は、法華経の御故なれば寂光土(じゃっこうど)(注)ともいうべきか。神力品(じんりきぼん)に云はく「若しは林中に於ても、若しは園中に於ても、若しは山谷(さんごく)曠野(こうや)にても、是の中に乃至(ないし)(はつ)涅槃ねはん)したまふ」とは是か。 『四条金吾殿御消息



           32 虎口からの脱出 につづく
上巻目次

発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん

)迹を(ひら)いて本を(あらわ)す、と読み下す。天台は、法華経如来寿量品第十六で、釈尊が始成正覚(釈迦族の王宮をでて出家し、菩提樹の下で悟りを開いた)という迹を(はら)って五百(じん)(てん)(ごう)()()他阿(たあ)僧祇(そうぎ)久遠(くおん)成道(じょうどう)したという「久遠(くおん)(じつ)(じょう)」の本地を顕したと説いた。日蓮大聖人は竜の口の法難で、上行菩薩の再誕という迹を発って、末法の本仏としての本地を顕した。


娑婆世界

苦悩が充満している人間世界のこと。忍土・忍界ともいう。娑婆は梵語サハーの音訳で、勘忍(かんにん)・能忍と訳す。また娑婆とは法華経弘通の世界である。釈尊は法華経如来寿量品第十六で「我常在此 娑婆世界説法敎化 亦於餘處 百千萬億 那由佗 阿僧祇國 導利衆生(我は娑婆世界で常に説法敎化してきた。また余所の幾千万億の国でも衆生を導き利してきた」と説いている。ここから狭義の意味では娑婆は釈尊有縁の仏国土=地球と言える。また余所の幾千万億の国という表現は、この宇宙に仏が出現する仏国土つまり星は無数にあることを示している。

「御義口伝に云はく、本化弘通の妙法蓮華経を大忍辱(にんにく)の力を以て弘通するを娑婆と云ふなり。忍辱は寂光土なり。此の忍辱の心に釈迦牟尼仏あり。娑婆とは堪忍世界と云ふなり云云」『神力品八箇の大事』

寂光土

常寂光土ともいう。観無量寿経疏等で天台が説いた四土の一つ。真実の本仏が住する国土のこと。常は本有(ほんぬ)常住またはその体である(ほっ)(しん)、寂は寂滅・解脱、光は光明・諸相を照らす智慧般若(はんにゃ)の意。この常住・寂滅・光明の仏土が常寂光土である。しかし釈迦は法華経如来寿量品第十六で「是れより(このかた)(われ)(つね)()の娑婆世界()って説法教化す」と説いて娑婆世界が即常寂光土であることを明かした。日蓮大聖人は妙法(たも)つ者の住所が常寂光土であると説く。

「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は化城即宝処なり。我等が居住の山谷(せんごく)(こう)()皆々常寂光の宝処なり云云」『御義口伝 化城喩品七個の大事




# by johsei1129 | 2017-03-20 21:03 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 20日

29  平頼綱への諌暁

良観は日蓮つぶしの策を懸命にめぐらした。時宗が日蓮の処罰に消極的であるのを知ると、尼御前を中心とした女性たちに訴えたのである。尼御前たちは良観を盲目的に信じている。彼女たちにとって日蓮が蒙古来襲を予言したのも雨をふらせたのも、ただの偶然である。逆に良観の涙ながらの訴えは女たちを動かした。情に動く尼御前は、日蓮憎しの感情を爆発させた。

日蓮はこの良観による策謀のはげしさを、五年後の建治五年に著した『報恩抄』で次のように証言している。

かういよいよ身を()しまず()めしかば、禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行(ぶぎょう)につき、或はきり(権家)人につき、或はきり(権閨)女房につき、或は後家(ごけ)(あま)御前等えつひて無尽のざんげん(讒言)をなせし程に、最後には天下第一の大事、日本国を失わんと(じゅ)()する法師なり。故最明寺(こさいみょうじ)殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし、但須臾(しゅゆ)(くび)をめせ。弟子等をば又或は頸を切り、或は遠国につかはし、或は(ろう)に入れよと尼()ぜん()たち()いからせ給ひしかば、そのまゝに行われけり。

最明寺入道とは北条時頼、極楽寺入道とは重時のそれぞれの法名である。日蓮は鎌倉幕府に多大な功績のあった二人を無間地獄に堕ちたという。

良観をはじめとして日蓮を憎む者たちの逆襲が始まった。祈雨の勝負で日蓮の名声は高まったが、それにもまして憎悪する者たちの怒りは強まったのである。

だが日蓮は憎悪する者、すなわち三類の強敵を恐れない。日蓮に妥協はない。折伏はいよいよ強まった。両者の激突は決定的になっていく。

日蓮はかれらの本性を嫉妬に狂う女性にたとえている。

(たと)へば女人物をねためば胸の内に大火もゆる故に、身変じて赤く、身の毛さかさまにたち、五体ふるひ、面に炎あがり、かほは朱をさしたるが如し。目まろ()になりて、()の眼のね()みをみるが如し。手わなゝきて、か()わの葉を風の吹くに似たり。か()はらの人是を見れば大鬼神に異ならず。日本国の国主・諸僧・比丘・比丘尼等も又()くの如し。たのむところの弥陀念仏をば、日蓮が無間地獄の(ごう)と云ふを聞き、真言は亡国の法と云ふを聞き、持斎は天魔の所為(しょい)と云ふを聞いて、念珠をくりながら歯をくひちがへ、(れい)をふるに()びをどりおり、戒を持ちながら悪心をいだ()く。極楽寺の生き仏の良観聖人、折り紙をさゝ()げて(かみ)へ訴へ、建長寺の道隆聖人は輿(こし)に乗りて奉行人にひ()まづく。諸の五百戒の尼御前等ははく()つか()ひてでん()そう()をなす。  『妙法比丘尼御返事

日蓮は弟子信徒に問注所への喚問が決まったことを告げた。

弟子たちの中には顔を曇らせる者もいたが、日蓮はいつになく機嫌が良かった。伯耆房日興にとって、こんな笑顔の上人を見るのははひさしぶりのことだった。

「先ほど侍所から呼びだしがありました。まちにまったことです。かならず何事かおこるでしょう。仏は記している。釈迦滅後二千年すぎて、末法のはじめに法華経の肝心である題目の五字ばかりを弘めん者があらわれる。その時、悪王悪人が大地の土くれより多くして在家の信徒を語らい、あるいは誹謗し、あるいは打ち、あるいは牢に入れ、あるいは所領を召し、あるいは流罪、あるいは首をはねる、などいうとも退転なく弘むるほどならば、あだをなす者は、国主は同士討ちをはじめ、餓鬼のごとく身を食らい、のちには他国より攻められるべし。これひとえに梵天・帝釈・日月・四天王らが、法華経の敵なる国を他国より攻めさせたもうなるべしと」

弟子や信徒がざわついた。不安がたかまっている。

「おのおの、わが弟子と名なのらん人々は一人も臆病であってはなりませぬ。親を思い、妻子を思い、所領をかえりみてはなりませぬ。はるか昔よりこのかた、われらは親子のため、所領のために命を捨てたことは大地(だいち)微塵(みじん)よりも多かった。しかし法華経のゆえには一度も捨てることがなかった。法華経をわずかに行じてはいたが、大難がおきると退転してとどまった。たとえば湯をわかして水を入れ、火をおこすのをやめてしまうようなものです。おのおの思い切りなされ。この身を法華経に替えるのは、石を黄金にかえ(ふん)を米にかえることなのです。よろしいかな」

即座に四条金吾が口元を引き締め返事をした。

これにつられて信徒がつぎつぎと立ちあがり、誓いの言葉をのべていく。

いいしれぬ高揚感がみなぎっていた。みな敵などないかのように陽気に叫んだ。

「わたしはどんな難があっても退転はいたしませぬ」

(それがし)は一生この信心を貫いてみせます」

「わたしはどんな権威も恐れませぬ。勇気をもって法華経が第一であるといいきります」 
  

喚問の日がきた。文永八年九月十日である。

日蓮が侍所の門をくぐりぬけていく。

うす暗い廊下をわたる。

警護の武士が通りすぎる日蓮を凝視する。

日蓮は表情を変えず、まっすぐに進む。

広間では侍所の面々がいた。みな緊迫した面持ちで日蓮があらわれるのをまっている。

中央に平頼綱。そのわきに郎従の少輔房(しょういぼう)がいた。
 その少輔房がしたり顔で発言する。

「日蓮はまず腹の内は見せますまい。弁舌はたくみとのこと。この場ではのらりくらりと答えるだけでしょうな。さもなくば、われらにおじ気づいて思うことの半分も言えぬはず。ここにきた者は泣いてわびる者もおりますからな」

 頼綱はつまらなそうだった。

 天下をとりしきる北条の執事が一介の坊主を相手にしなければならない。少輔房の話を右から左に聞き流していた頼綱がつぶやいた。

「このわしにどのようにでるか。良観のように尻尾をふるのならよし。さもなくば・・」

「首を斬るまで」と少輔房が冗談めかしに相槌をうった。

すると頼綱が不敵な笑いをうかべて少輔房をとがめた。

「これ、めったなことを申すな。若殿からお叱りをうけるぞ。日蓮は世間を騒がすだけの男だ。この日本のあらゆる坊主が立身出世したいように、日蓮も幕府に取り入りたいのだ。おどして甘い話をもちかければ、なびくであろうて」

頼綱はこの時三十歳。日蓮とは二十歳年下の若さだったが、鎌倉幕府創設いらい、御内人の筆頭として執事を務めた一族の威光といい、執権時宗の後ろ盾といい、こわいものなしの傲慢さをもちあわせている。そのためだれも頼綱に意見をいえない。彼はますます傍若無人となった。

役人が声をあげた。

「日蓮上人が出頭いたしまする」

日蓮が登場した。いつになく静かな面持ちだった。

頼綱の郎党が日蓮をとりかこみ、なめまわすように見た。あたかも獲物をねらう野獣の目だった。

日蓮が下座につく。

少輔房が口火を切った。

「そのほうが日蓮か。さっそくだが聞こう。おぬしの嫌疑はかず知れぬ。兇徒を集め、刀杖を蓄えている疑いあり。いつわりないか」

日蓮はすぐさま答えた。

「そのとおりです」

一同が驚愕した。彼らは日蓮が自分で不利となる証言をいうとは思わなかった。ずばり言ってのけるとは。

日蓮はこともなげにつづける。

「ただし兇徒とは全くのいつわりであります。法華経の信徒を兇徒呼ばわりする者にそのままお返しいたします。つぎに刀杖の件ですが、法華経守護のための弓箭(きゅうせん)(へい)(じょう)は仏法の定まれる法にございます。例せば国王守護のために刀杖を集むるがごとしでございます」

 あまりの返答ぶりにみな言葉がでない。

勇猛なはずの少輔房の声がふるえた。

「されば今は亡き北条時頼様、重時様を地獄に堕ちたと申し、建長寺、極楽寺を焼きはらえと申し、良観上人、道隆上人の首をはねよと申したということ。これらはまさか本心ではあるまいな、いつわりであろうな」

沈黙がながれた。

平頼綱がじれ、はじめて声をかけた。

「どうした日蓮、答えぬか」

日蓮は一旦呼吸を整え、気力を振りしぼり一気に論陣を張った。

「それらのこと一言も(たが)わず申しました」

武士がまた驚嘆した。扇子をおとす者がいる。頼綱も唖然(あぜん)とした。

「ただし、時頼殿、重時殿が亡くなった時に地獄に堕ちた、ということはいつわりであります。なぜならこれらのことは、お二人の御存生の時からすでに申しあげていること」

頼綱が日蓮の前で仁王立ちになった。

「気でも狂ったか」

 頼綱にはそうとしか思えない。幕府にたいする挑戦ではないか。これでは自分を処罰せよといっているようなものだ。

日蓮は、戸惑いを隠せない幕府役人には目もくれず、淡々と話し続けた。

「それらのことはこの国を思って申した事。世を安穏に保たんと(おぼ)し召すならば、かの僧侶どもを召しあわせてお聞きくだされ。そうではなく理不尽に行われるのであれば国に後悔あり。日蓮重罪をうけるならば、仏の使いを用いぬことなり。梵天・帝釈・日月・四天のおとがめあって流罪死罪の後、百日、一年、三年、七年の内に自界(じかい)叛逆難(ほんぎゃくなん)と申して、ご一門は同士討ちをはじめるでありましょう」

一同がさわぐ。

怒声を浴びた日蓮は声高になった。

「そののちは他国侵逼難(たこくしんぴつなん)といって四方より、ことには西方より攻められるであろう。そのとき後悔あるべし、平の左衛門の尉殿」

頼綱が激高した。

「たわけ者めが。なにを申すか。おまえなぞ、今すぐにでも首を斬れるのだ。わしをだれだと思っている」

日蓮は頼綱の目を見すえた。

「侍大将なり」

頼綱がさらに逆上した。

「なめておるのか。日本国の武士をつかさどる者に、なんという口のききかただ。あの無礼な書状といい、いまの暴言といい、だんじて許せぬ。さらし首にしてくれようか」

 日蓮は諭すように頼綱に語りかける。

「貴殿は天下の棟梁ですぞ。なぜ日本国を救う柱を損なおうとするのか。なによりも国難に思いをめぐらして、すべからく異敵を退ける事こそ肝要でありましょう。世を安んじ、国を安んずるを忠となし孝となす。これひとえに我が身のために申すにあらず。日本国のため、幕府のため、民のために申しあげるのです」

場内は日蓮の気迫にのまれたが、頼綱だけは日蓮にあらんかぎりの罵声を浴びせた。

「ええい、ここから立ち去れ、安房の乞食坊主め。念仏無間、禅天魔と悪口(あっく)をほしいままにし、兵杖をたくわえて世を乱す。おぬしこそ地獄に堕ちようぞ。かならず首をはねてやる」

頼綱の罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)がやまない。日蓮は安房の地頭だった東条景信を思いだした。景信も横暴のかぎりをつくしたが頼綱の比ではない。景信は一地頭だが、頼綱は天下を仕切っていた。のちにこの時の様子をしるす。

太政入道のく()ひしやうに、すこしもはゞかる事なく物にくるう  『種々御振舞御書

頼綱は平清盛のように狂乱の本性をあらわした。極楽寺良観は僭聖(せんしょう)増上慢の本性を、頼綱は第六天の魔王(注)の本性をむきだしにした。

日蓮は頼綱の予想された反応に驚きもせず、泰然として問注所を後にした。

 平頼綱は日蓮が去ったあとも、こぶしを握りしめたまま立っていた。

彼は自分が今の日本を支配する者と自負していた。主の時宗以外、右に出る者はないと思っていた。御家人の安達泰盛さえ眼下においた。しかしこの高慢心は日蓮によって砕かれた。

(この俺に意見する者がいたとは)

頼綱の目に赤い光線が走った。

灯心が侍所の一室で光り、平頼綱と北条宣時を不気味にてらす。

頼綱がきりだした。

「危険だ。今まであのような男を見たことがない。このままほおっておけば一大事となろう」

宣時は不安げにいう。

「しかし若殿がどうでるか問題だ。殿は日蓮をかばっているようにみえる」

頼綱が宣時の不安を振り払うかのように断言した。

「殿はまだお若い。これからはわれらの出番だ。われらが日蓮を隠密裏に処置し、全てがとどこおりなく終わった後に報告すれば、殿ももはや手出しはできない。後の祭りということだ」

日蓮を闇から闇へ葬る策謀だった。頼綱は日蓮を処刑することに決めた。独裁者の側近が使う手である。日蓮を処刑したあと、処理済の案件として時宗に報告すれば、いっときひと悶着あったとしても、時間が経てば最後は不問に付すしかない。

日蓮は彼らの本質を見ぬいていた。(くぼ)(あま)御前の手紙にしるす。

これにつけても(かみ)と国とのためあはれなり。木のした()なるむし()の木を()らひ()うし、師子の中のむしの師子を食らひ()しなふやうに、守殿の御をん()にてすぐる人々が、守殿の御威を()りて一切の人々を()どし、なやまし、わづらはし候うえ、(かみ)の仰せとて法華経を失ひて、国もやぶれ、主をも失って、返って各々が身を()ろぼさんあさましさよ。『窪尼御前御返事

守殿とは時宗のことである。頼綱は日蓮を罰しようとして、かえって災いが自分の身にふりかかるのを、この時は露ほども知らない。
 日蓮は罵声を浴びたが、彼らの末路を思うとあわれを感じ、懸命の説得に動いた。

日蓮は問注所で対面した翌々日の申の時(午後三時~五時)、立正安国論を添えて頼綱に次の書状をとどけている。日蓮は自身が罪人となることを回避しようとしたわけではない。あくまで日本の国主、時宗が法華経に帰依することを願っていた。そのため側近の頼綱に一()の望みをかけた。


()一昨日見参に罷入(まかりいり)候の条悦び入り候。(そもそも)人の世に在る誰か後世を思わざらん仏の出世は(もっぱ)ら衆生を救わんが為なり。(ここ)に日蓮比丘(びく)と成りしより(かたがた)法門を開き、已に諸仏の本意を覚り、早く出離(しゅつり)の大要を得たり。其の要は妙法蓮華経(これ)なり。一乗の崇重、三国の繁昌の()、眼前に流る、誰か疑網(ぎもう)(のこ)さんや。而るに専ら正路に背いて(ひとえ)(じゃ)()を行ず然る間、聖人国を捨て、善神(いかり)を成し、七難並びに起つて四海(しず)かならず。(まさ)(いま)世は悉く関東に帰し人は皆士風を貴ぶ。就中(なかんずく)日蓮生を此の土に得て(あに)吾が国を思わざらんや。()つて立正安国論を造つて故最明寺入道殿の御時、宿屋の入道を以て見参に入れ(おわ)んぬ。而るに近年の間、多日の程、(けん)(じゅう)(中国の異民族)浪を乱し()(てき)(蒙古)国を伺う。先年勘え申す所、近日()(ごう)せしむる者なり。彼の太公が(いん)の国に入りしは西伯(せいはく)の礼に依り、(ちょう)(りょう)が秦朝を(はか)りしは漢王の(まこと)を感ずればなり。是れ皆時に当つて賞を得たり、(はかりごと)()(ちょう)の中に(めぐ)らし勝つことを千里の外に決せし者なり。(それ)()(ぼう)を知る者は(りく)(せい)()(注)なり。法華を弘むる者は諸仏の使者なり。而るに日蓮(かたじけな)くも(じゅ)(れい)(かく)(りん)(注)の文を開いて、()(おう)烏瑟(うしつ)(注)の志を覚る。(あまつさ)へ将来を勘へたるに(ほぼ)普合することを得たり。先哲に及ばずと(いえど)(さだ)んで(こう)(じん)には(まれ)なるべき者なり。法を知り国を思ふの志(もっと)も賞せらるべきの(ところ)邪法(じゃほう)邪教(じゃきょう)(やから)讒奏(ざんそう)讒言(ざんげん)するの(あいだ)久しく大忠(だいちゅう)(いだ)いて而も未だ()(ぼう)を達せず。(あまつさ)へ不快の見参に(まか)り入ること(ひとえ)に難治の次第を(うれ)ふる者なり。

伏して(おもんみ)れば(たい)(ざん)に昇らずんば天の高きを知らず、深谷に入らずんば地の厚きを知らず。()て御存知の為、立正安国論一巻(これ)を進覧す。(かんが)()する所の文九牛(きゅうぎゅう)一毛(いちもう)り。未()を尽くさざるのみ。

(そもそも)貴辺は当時天下棟梁(とうりょう)なり。何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮(けんりょ)(めぐ)して(すべから)く異敵を退くべし。世を安んじ国を安んずるを忠と為し孝と為す(これ)(ひとえ)に身の為に之を述べず、君の為、仏の為、神の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり。恐々謹言。


  文永八年九月十二日               日蓮花押

謹上 平左衛門尉殿                        『一昨日御書


日蓮はこの書で、時宗の側近である頼綱に、事実上の第二回目の国家諌暁を成し遂げた。しかし頼綱の方針が覆ることはなかった。日蓮が言ったとおり、頼綱は御しがたい「難治」だった。
 そして日蓮は、この文永八年九月十二日の第二回目の国家諌暁が、生涯最大の運命の分岐点となることを願っていた。


30 竜の口の法難 へつづく

上巻目次


 

第六天の魔王

第六天とは他化自在天のこと。()(じゅん)ともいう。欲界の六欲天の最頂に住する。大智度論に「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。また多くの眷属とともに仏道を成ずるのを妨げ、智慧の命を奪うので(だつ)(みょう)ともいう。三障四魔の中の天子魔にあたる。この魔は一切衆生の命に宿る。

「元品の法性(ほっしょう)梵天(ぼんてん)帝釈(たいしゃく)等と(あら)われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」 『治病抄』

六正の聖臣

「ろくせいのせいしん」とも読む。儒家で正しい臣下の標準を六種に分類した六正(聖臣・良臣・忠臣・智臣・貞臣・直臣)のうちの最高の臣下・聖臣のこと。いまだ現れない事柄や存亡の機・得失を予知して、常に主君を安泰にしておく臣下をいう。


( )・鶴林の文

 鷲嶺は霊鷲山の意で法華経のこと。鶴林は釈迦入滅の地の沙羅樹林で涅槃経のこと。


()(おう)烏瑟(うしつ)

どちらも仏の異称。鵞は鵞鳥のこと。応化の仏の三十二相の中の手足指縵網(しゅそくしまんもう)相(手足の指の間に水かきがあること)から転じたもの。

 烏瑟とは、(ぶっ)(ちょう)()(けん)(ちょう)(にく)(けい)と訳す。仏の三十二相の一つ。頂骨が隆起し、(もとどり)のようなさまをさす。






# by johsei1129 | 2017-03-20 17:55 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 20日

28 極楽寺良観の策謀

時宗の妻祝子(のりこ)が二人の乳母に両手をかかえられ館の廊下を歩いていた。

身重であった。

色白く一見ひ弱に見える十九歳の若妻が、二十歳の時宗の前にゆっくりとかしずき、うやうやしく両手をそろえる。

祝子は安達泰盛の腹違いの妹で、四十歳の泰盛とはかなりの歳のひらきがあった。このため父亡き後、泰盛は祝子を養子にしていた。

「殿にはご機嫌よろしゅうあそばされ、なによりにございます」
「大きくなったのう」
 時宗は満面の笑みで祝子の腹に目をやる。
彼女は腹をなぜた。

「わらわもあとすこしで願いが叶えられまする」
 祝子は今執権の妻として幸せの絶頂にいた。

今日の時宗はにこやかである。

「安静にいたせ。その子は北条の頭領になるやもしれぬ」

祝子が悲しげな顔をした。

「わらわも殿の望む男の子を生みとうございます。わらわのまわりは、みな男であることを願っておりますが、もし叶わなければ心苦しゅうございます」

「そんなことは気にするな。男であれ、女であれ元気に生まれてくるのがなにより。どちらが生まれてくるかは天の思し召し。案ずることはない。今は安静がなにより大事だ」

「それをうかがいまして安心いたしました。肩の荷がおりたような気がします。身も不自由でなにかと周りの者も気ぜわしい毎日で・・」   

乳母が気を利かして出ていった。

祝子はだれもいなくなったのを確かめると、そっと時宗にだきついた。涙目である。

「もっと殿に会いとうございます。わらわのわがままでございましょうか」

 時宗が祝子の肩を強くだいた。

「我慢いたせ。もう少しの辛抱ではないか。わしもそなたに会いたい。国の一大事を片づけなければ、わしも自由になれないのだ」

祝子が夫の目を見つめた。

「やはり、むくりのことでございますか」

 当時、人々は蒙古のことを「むくり」とよんでいた。

「むくりだけではない。このたびの飢饉もなんとかやり過ごすことができた。次から次へと、わしの手に負えぬことばかりだが」

時宗はもう一度祝子の腹に手をあてる。

「この子のためにも、懸命に執権のお役目を仕事を果たすだけだ」

祝子がふたたび時宗の胸に顔をうずめた。至福の時である。

この時、時宗は戸のむこうに人の気配を感じた。

執事の平頼綱だった。

「殿、来客でございます」

「左衛門の尉、いま手がこんでおる。あとにせい」
 時宗は祝子を抱いたまま返事をする。

頼綱の返事はいつもとちがい歯ぎれが悪い。

「それが困ったことに・・」

「どうした。だれがきたのだ」

「葛西殿、讃岐の局、冶部卿、そのほか尼御前方が多数お見えで」

祝子は思わず時宗からはなれ、身繕いをする。

時宗が吐き捨てる。

「幕府が窮状のさなかに、母上たちはいったいなんの用なのだ」

謁見の間ではすでに大勢の尼や女房がいならんでいた。

筆頭は亡き北条時頼の正室、葛西殿。側室の讃岐尼、北条重時の未亡人冶部卿がいる。彼女たちは後家尼の象徴である黒衣をまとっていた。

突然の来訪である。

時宗が上座で対面した。その横には頼綱、安達泰盛のほか、葛西殿謁見の知らせを聞いた北条宣時ら幕府重臣がならんだ。

葛西殿がうやうやしく挨拶する。殿、おひさしゅうござります。元気そうな尊顔を拝し、安心しました。祝子(のりこ)殿も、見目麗しく何よりです。殿は日ごろ何かと煩わしい事がおありとおもわれますので、早速ですが一言申し上げさせていただきます。昨今、内外に多くの憂いがあり、時宗殿なら間違うことはないと思ってはおりますが、わらわも生来の気の弱さもあって心配でなりませぬ」

時宗は母親の謁見の意図を探るかのように、慎重に返答する。

「母上、お久しぶりですが、元気な様子でなによりです。身重の祝子の様子伺いかと思いますが、ご心配めされるな。祝子もまもなく臨月ですが、なんのさわりもありませぬ。世継ぎが生まれるかどうかは、御家人が恐れをなす執権時宗と言えど、いかんともしがたい事ですが、無事良い子が生まれてくるでしょう。わたくも、はやり病にもかからず、息災の日々でございます」

葛西が笑みを浮かべた。

「それはそれは、なによりです。わらわもあと少し長生きできるというもの」

時宗が切りだした。

「しかしおどろきましたな。母上、讃岐様そして亡き重時様のご正室、治部卿様がお集まりになるとは。よほどのことでございますか」

冶部卿が告げた。彼女の亡夫重時は日蓮を伊豆流罪にしている。

「われら仏門に帰依してより、思いは仏の道しかありませぬ。仏の道とは成仏すること」

 時宗が笑みをうかべる。

「それは殊勝でございます。父上も禅に熱心であられました。最後は仏にすがっておられた」

実母の葛西が意を決したように告げる。

「時宗殿。今日はそなたの父上のことでまいったのじゃ」

時宗が何事かとばかりに首をかしげる。

葛西が上目づかいに語りはじめた。

「仏の道とは念仏であれ、禅宗であれ、成仏を願うもの。さりながら殿、その仏教を破滅させようとする僧侶がこの鎌倉にいるのです。すでに御承知かと存じますが、名は日蓮と申す」

場がざわめいた。平頼綱がにやりとし、安達泰盛が不安にかられた。

「その日蓮を殿の手で捕らえていただきたいのです」

時宗は驚きをかくしてこたえる。

「なぜでござるか。日蓮殿は過日、旱魃の日本に雨をふらせて名声が高まっており、鎌倉の民もなびいていると聞いております。その日蓮殿を捕えよと」
 葛西の口調がしだいに強くなった。

「日蓮いわく、念仏は無間地獄の業因、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説と」
 重時の妻、治部卿がさらにたたみかける。

「そのうえ家々に先祖代々つたわる阿弥陀や観音の像を火に入れ、水に流しておりまする。また鎌倉中の罪人をかくまっているとのこと。そして刀・弓など武具をあつめているのです。ごぞんじでしたか」

時宗が弁護した。

「なにかのまちがいではござらぬか。事実なら、まず幕府に訴えがあるもの」

 葛西はくいさがる。

「かの日蓮は弁舌たくみで、よく人をまどわしまする。評定所に訴えても詭弁(きべん)(ろう)して沙汰人をいつわります。われら、せんかたなく殿じきじきに訴えでた次第。どうかお取りなしを」

時宗はむきになった。

「おまちくだされ。亡き父上は日蓮殿を島流しにしましたが、それを悔やんで無罪としたのです。父上は日蓮殿を罪人とは思っておりませんでした。わたしもそれに従うまでです」

実母がここで涙を流し、感情をあらわにした。

「日蓮はおまえ様の父上、わが夫の時頼殿を地獄に堕ちたと申しているのです」

冶部卿も周りに(はばか)()なく涙を流していた。

「日蓮はわが夫、重時殿も無間地獄にいると」

座が凍りついた。尼たちのすすり泣きがひろがる。

葛西が最後に告げた。

「殿、母として申します。あの憎い坊主を捕らえなければ、この身も殿も安穏ではありませぬ。どうか良きにお計らいたもれ」

時宗が腕を組み、じっと天を仰いだ。

時宗は尼御前が退出したあとも腕を組んでいた。まわりには頼綱、泰盛、宣時がいる。

みな深刻である。

時宗が思案にくれてつぶやいた。

「あの母上たちの口ぶり、異様な興奮・・ただごとではない。だれかにそそのかされたか」

頼綱は尼たちを弁護する。

「後家尼御前の力は幕府でも絶大。御家人の大半は女どもの尻にしかれておる。尼将軍の政子様がお手本じゃ。また後家尼らの所領は数多い。蒙古との備えもあります。財政面で女どもに援助してもらわねばなりませぬ。その意味で後家尼殿の御意向は粗略に扱うわけにはいきませぬ」

泰盛が反論した。

「しかし御成敗式目に鑑みれば、証拠がなければ日蓮を捕らえることはできぬ。他宗の批判は世上を惑わさないかぎり、幕府も許しております。武器を蓄え、悪人を集め、亡き殿を地獄に堕ちたなどという証拠は今のところありませぬ。それに・・」

頼綱がさえぎった。

「いや日蓮は捕らえるべきですな。この鎌倉ではいまや念仏にかわって法華経の題目がうずまいている。危険でござる。これ以上拡大させるべきではありませぬ。もし・・」

こんどは泰盛がさえぎった。

「殿、ひとつ考えがあります。日蓮の祈りの力用は恐るべきものでござる。蒙古の予言といい降雨の祈りといい、あれほどの力量を示した高僧はおりませぬ。蒙古の退治も日蓮を利用すれば必ずしるしがあるはず」

頼綱がいきりだした。

「ばかな。なにを申す」

泰盛もむきになった。

「おぬしこそ。幕府をほろぼす気か」

時宗は決断した。

「まて、母上まで出てきてはいたしかたない。一度は日蓮殿を問注所に召喚することにしよう」

頼綱が喜びの顔、泰盛が落胆の表情をあらわした。

「日蓮殿を召喚する。結論はそれからだ。召し出して詰問すれば、尼御前たちは納得して静まるだろう。召喚の担当は頼綱、そちがせよ。だがくれぐれもはきちがえるな。日蓮殿は罪人ではない。丁重にあつかえ」

時宗は楽観的だった。

日蓮は悪人ではない。幕府が真意を聞いて公表でもすれば、自然に騒ぎはおさまると思っていた。これが頼綱の暴走をまねくことになる。

頼綱はうやうやしく時宗に平伏し、横に控えていた北条宣時に目で合図した。

尼御前の輿(こし)が葛西殿を先頭に若宮大路をすすむ。

執権の母である。すれちがう武士が頭をさげ、町民がひれふした。

そのなかで、ひときわ目だつ黒衣の僧が伏せていた。

葛西がにこやかに(すだれ)をあげて見おろした。

平伏した僧はこれに答え、うやうやしく顔をあげた。

極楽寺良観であった。


(    
)

              29 平頼綱への諌暁 につづく
上巻目次




# by johsei1129 | 2017-03-20 17:22 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 20日

27 大難への予兆

 日が暮れて鎌倉中が暗くなってきた。

 極楽寺では人々が雨のおちる門前にあつまり、平形の数珠を投げすてた。