日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 11月 15日 ( 1 )


2017年 11月 15日

百、不滅の滅

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              (日蓮大聖人の不滅を祝う御会式 富士大石寺にて)

 弘安五年十月十三日(たつ)の時、日蓮が目をとじた。

()六十一年の生涯だった。

今でいえば午前八時頃、人々はすでに働きだしていた。
 伯耆房日興は葬儀の次第を詳細に記した「宗祖御遷化記録」に、このとき大地が震動したと記録している。地震は鎌倉にもおよんだ。人々は日蓮が他界したことを知る。

翌十四日の(いぬ)の時、夜の八時頃、日蓮の御尊体は最長老の弟子日昭、その甥の日朗により入棺された
。そして
()の刻、真夜中の十二時頃、葬送がはじまった。

松明の光を先頭に弟子檀那がすすむ。

四条金吾と池上宗仲の二人が左右に旗をかかげた。

香は富木常忍がうけもった。
 花弁をまき散らす散華(さんげ)は南条時光。
 太刀は池上宗長がうけた。

そして日蓮の棺が白衣の弟子十八名の肩に担がれてすすむ。
 前陣は日朗、後陣は最長老の日昭が担い、担ぎ手の中に日興と日持、そして日目がいた。列の最後方に亀王童と滝王童が日蓮の愛馬を引いた。

こうして厳粛な葬送を経て日蓮は荼毘(だび)に付された。


この日興が(したた)め、その内容を確認した四老僧(日昭・日朗・日興・日持)花押(かおう)が記された「宗祖御遷化記録」の真蹟(しんせき)は国の重要文化財として指定され、現在、日興が指名した新六老僧の一人、日代が開基した重須(おもす)西山本門寺に所蔵されている。(なお)、全文は次の通りである。(※日文字の法号は当方で追記)


 一、弘長元年辛酉伊豆國に流され御年四十

  伊東八郎左衛門尉に預けらるる 立正安国論一巻を造り、最明寺入道に奉る故也。(※北条時頼の法名)

  同三年二月二十二日、赦免(しゃめん)

一、文永八年辛未九月十二日佐土嶋に流され御年五十

  武州の前司(ぜんじ預けらるる 極楽寺長老良観房の訴状に依るなり。訴状は別紙に在り。

  同十一年甲戌二月十四日、赦免。

  同五月十六日甲斐(かいの)(くに)波木井身延山に隠居(いんきょ)す。地頭南部六郎入道

一、弘安五年丙午九月十八日武州池上に入御。地頭衛門太夫宗仲

  同十月十八日本弟子六人を定め置かる。此の状六人面々に帯す可し云々。日興一筆なり。


   


 一、弟子六人の事 不次第


 一、蓮花(れんげ)()(じゃ)() 日持

一、伊予公   日頂


-----(四老僧の花押)---------(日昭・日朗・日興・日持)


一、佐渡公    日向

一、白蓮(びゃくれん)阿闍梨 日興

一、大國阿闍梨 日朗

一、弁阿闍梨  日昭

右六人は本弟子なり。仍って向後(こうごの為に定むる所、(くだんの如し。


  弘安五年

  同十三日(たつの時、御滅。御年六十一 即時に大地震動す。

  同十四日(いぬの時、御入棺日朗

            日昭、(の時、御葬也。


一、御葬送次第

  先火     二郎三郎 鎌倉住人

  次大寶花   四郎次郎 駿河國富士

              上野住人

  次(はた)     左 四条左衛門尉

         右 衛門太夫

  次鐘     大田左衛門入道

  次(さん)()    南条七郎次郎

  次御経    大学亮

-----(四老僧の花押)---------

  次文机    富田四郎太郎

  次佛     大学三郎

  次御はきもの 源内三郎 御所御中間

  次御棺 御輿(みこし)

             侍従公(日浄)

             治部公(日位)

           左

             下野公

             蓮花阿闍梨(日持)

  前陣 大國阿闍梨

             出羽公

             和泉公(日法)

           右

             但馬公(日合)

             卿公(日目)

             

             信乃公

             伊賀公

           左

             摂津公(日仙)

             白蓮阿闍梨(日興)

  後陣 弁阿闍梨

             丹波公

             大夫公(日祐) 

           右

             筑前公

             (そつ)(日高)


  次天蓋(てんがい)    大田三郎左衛門

  次御大刀   兵衛志

  次御腹巻   椎地四郎

  次御馬    亀王童

         瀧王童

-----(四老僧の花押)---------

一、御所持佛教事

   御遺言に云はく

   佛は釈迦立像 墓所の(かたわらに立て置く可し云々。

   経は私集最要文注法花経と名づく 同じく墓所の寺に(め置き、六人香花当番の時之を被見す可し。

   自余の聖教は沙汰の限りに非ず云々。

   (よって御遺言に任せ記す所(くだんの)(ごとし)


     弘安五年十月十六日    執筆日興 花押


日蓮は自分が不滅であるという。

第六即滅化(そくめつけ)(じょう)の事

御義口伝に云はく、我等が滅する当体は化城なり。此の滅を滅と見れば化城なり。不滅の滅と知見するを宝処とは()ふなり。是を寿(じゅ)量品(りょうぼん)にしては()(じつ)不滅度(ふめつど)とは説くなり。滅と云ふ見を滅するを滅と云ふなり。三権(さんごん)(そく)(いち)(じつ)の法門之を思ふべし。(あるい)は即滅化城とは謗法の寺塔を滅する事なり。今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は化城即宝処なり。我等が居住の山谷(せんごく)(こうや)皆々(じょう)寂光(じゃっこう)の宝処なり云云。『御義口伝上 化城喩品

さらに 寿量品「如来如実(にょじつ)知見(ちけん) 三界之相(さんがいしそう) 無有(むう)生死(しょうじ)」について御義口伝で断言している。

 此の品は万法を無作(むさ)の三身と見るを如実知見と云う。無作の覚体なれば何に()
って生死と云わんや

この武州池上の地で不思議なことがおきた。
木枯らしが吹く中、桜が咲いて満開となった。後代の弟子信徒はこの機縁にちなみ、日蓮の命日には末寺に桜の造花を飾ってこの日を寿(ことほ)ことが慣例となる。

日蓮門下と名乗る者たちは、この十月十三日を大切にしてきた。信徒たちはこの命日がきたことに祝賀の意をあらわし「おめでとうございます」とよろこびあう。日蓮が不滅である証左として。

日蓮滅後四百年後に誕生した大石寺二十六世(にち)(かん)は大難に耐えぬき、御本尊をのこした宗祖日蓮大聖人に、限りない報恩の辞を記している

 仍( よつ)て権教権門のやから、(あるい)は誹謗悪口(あっく)をなし、或は(じょう)(もく)()(しゃく)の難(あまつさ)へ両度まで流罪に()ひ玉ひ、しかのみならずきづを(こうむ)り、(たつ)の口には首の座にまでなをり玉ふ如く大難に値ひ玉ふといへども(ひとつ)には仏の付属の故に(ひとえ)に末代今時の各々我等を不便(ふびん)思召(おぼしめ)す大慈大悲より、是れ此の大難を(しの)ぎ、此の本門寿量の妙法を弘通(ぐつう)なされてある故に、今我等は易々(やすやす)と之れを唱へ即身成仏すること(ひとえ)に宗祖の御恩徳に()るなり云々。     富要第十巻『寿量品談義』

ここで信徒の一人、秋山孫次郎(やす)(ただ)の逸話をあげねばならない。

秋山は甲斐の中巨摩(こま)郡の中野にいた武士だった。甲斐にいたころ、信心強盛の父とともに伯耆房日興が書写した御本尊を授与された。

その後、功名を得て四国讃岐に赴任、讃岐の高瀬一郷の民を純信に進ましめ、今の香川県讃岐本門寺の開基檀那となった。

伯耆房日興は讃岐の法華宗の興隆に心を強く打たれ、秋山孫次郎に対し「西国参拾参箇国の導師たるべき」とも「西三(じゅう)一箇国の法華棟梁たるべき」とも賞賛し、讃岐広布を委ねている。いかに泰忠に期待していたかがわかる。

泰忠の子孫はこの遺命をよく守り、江戸時代には二千余軒の檀家がいたという。

その泰忠は晩年、子孫に次のような遺書をのこした。時は足利時代、日蓮滅後九十二年のことである。

この遺言には、泰忠がかぎりなく慕う日蓮の命日のことがしるされている。

一、十月十三日の御事はやす()たゞ()あと()()()うせんずるなん()()ねうし(女子)まごひこ(孫彦)いた()()でち()うをいた()し申すべきなり、()の御だう()よりほか()にか()そめにも御だう()()()の御だう()そむ()き申すまじき印にまたないない(内内)きや()()いといひ又はおぢ(伯叔父)なか()いとこ(従兄弟)なか()にもうら()むる事ありとも十三日にあい()たが()いに心を一つにして御ほ()け大上人をやすたゞ(泰忠)()おぎ申す()とくに、十五日まで()みなみ(皆皆)な一()ころにて御つと()めも申し候べく候、又しら()びよ()()さる()()くと(殿)ばら()をもぶんぶん(分分)()たがつてね()ごろにもてなし(接待)申すべきなり、()ない()いか(如何)なる()こん()ありと()ふとも、十月十三日はい()ゝかも()()なき事をばおも()()まつ()り申すべきなり。

一、()しこのじ()うをそむ()いていらん(違乱)()たさんずるこども(子供)は御ほ()け大上人十()せち()まん()ほさつ(菩薩)の御ばち()かぶ()るのみならず、やすたゞ(泰忠)ため()にはなが()ふけふ(不孝)もの()なり、ゆづ()ると()ろおば一ぶん()なりともちぎやう(知行)べからず 『富要 第八巻』

泰忠は子孫に御堂すなわち寺院を守り、かりそめにもほかの寺を建てて法を乱してはならないと遺言する。大上人とは日蓮のことである。命日の十月十三日から三日間は一所に参集して勤行し、人々をねんごろにもてなせという。親族の中でどんな遺恨があっても、この三日間だけは心を一つにせよという。

猿楽、白拍子とは今でいう芸能人のことである。芸能人を招いてまで命日を祝えという。

泰忠はこの遺言にそむくことがあれば、日蓮はもとより十羅刹・八幡大菩薩からも罰をうけ、泰忠にも不孝の者であるから、一所たりとも相続はさせないといいきっている。

初七日の法要を池上宗仲邸で滞りなく終えると、十月二十一日、日蓮の遺骨を首に懸けた日興を先頭に、日蓮の遺弟一行が、池上宗仲邸を出立した。身延では地頭の波木井がまっている。

だがこの悲しみの中で、日向(にこう)ら五人が浮かれた笑顔にかわっていった。

「みんな、なにを悲しんでいるのだ。上人がおおせのように笑っていこうではないか」

「そうだ、そのとおりだ。われらは自由になったのだ」

この時、伯耆房日興が立ちどまり、五人を叱責した。

「おぬしらなにをいっている。聖人の遺骨にむかって恥ずかしくないのか。

『未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて(ずい)(りき)弘通(ぐつう)を致すべき事』

この聖人の言葉をすでに忘れたのか。聖人からはなれるのか。はなれたい者はここで立ち去れ。止めはしない」

伯耆房日興の威風は、師日蓮とかさなりあって見えた。

一同が伯耆房の気迫に威圧されてだまりこんだ。

しばしの沈黙のあと、一行はふたたび進んだ。

七合目まで白雪に覆われた、雄大かつ壮麗な富士が近づいてきた。

伯耆房は在りし日の日蓮を思い起こすかのごとく偉大な富士を見あげた。
 十月二十五日、一行がようやく身延の館にもどってきた。

  

  
     百一、身延の地頭、波木井実長の謗法 につづく


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by johsei1129 | 2017-11-15 22:33 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)