日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 09月 19日 ( 8 )


2017年 09月 19日

九十九、通塞の案内者

日蓮はつね日頃、信力強盛な者に成仏の日が絶対にくると明言していた。そして信心ある者の臨終には、自分がかならず現われるといった。日蓮は死にさいし、立ち会うという。まるで冥界の主であるかのように。

このことを弟子檀那の手紙にくりかえし説いている。

但し日蓮をつえ()()らともたのみ給ふべし。けは()しき山、あしき道、つえをつきぬればたをれず。殊に手をひかれぬればまろ()ぶ事なし。南無妙法蓮華経は死出(しで)の山にてはつえはしらとなり給へ。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給ふべし。日蓮さきに立ち候はゞ、御(むか)へにまいり候事もやあらんずらん。また先に行かせ給はゞ、日蓮必ず閻魔法王にも(くわ)しく申すべく候。此の事少しもそら()事あるべからず。日蓮法華経の文の如くならば(つう)(そく)の案内者なり。只一心に信心おはして霊山を()し給へ。『弥源太殿御返事

日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん。 『国府尼御前御書

()し命ともなるならば法華経ばし(うら)みさせ給ふなよ。又閻魔(えんま)王宮にしては何とか仰せあるべき。をこがましき事とはおぼすとも、其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ。『一谷入道女房御書

中有(ちゅうう)の道にいかなる事もいできたり候はゞ、日蓮が()()なりとなのらせ給へ、わずかの日本国なれども、さがみ(相模)殿のうちのものと申すをば、さう(左右)なくおそるゝ事候。

日蓮は日本第一の()たう()の法師、たゞし法華経を信じ候事は、一閻浮提第一の聖人なり。其の名は十方の浄土にきこえぬ。定めて天地もしりぬらん。日蓮が弟子となのらせ給はゞ、いかなる悪鬼等なりとも、よも()らぬよしは申さじとおぼすべし。『妙心尼御前御返事

我等は穢土(えど)に候へども心は霊山(りょうぜん)に住むべし。御面(おかお)を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ。いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上(えじょう)にま()りあひ候はん。 『千日尼御前御返事

相かまへて相かまへて、自他の生死はしらねども、御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむか()いにまいり候べし。『上野殿御返事

故に法性(ほっしょう)の空に自在にとびゆく車をこそ(だい)(びゃく)牛車(ごしゃ)とは申すなれ。我より後に来たり給はん人々は、この車にめされて霊山へ御出で有るべく候。日蓮も同じ車に乗りて御迎ひにまかり向かふべく候。  『大白牛車御消息

御義口伝に云はく、皆とは十界なり、共とは(にょ)我等(がとう)()()なり、至とは極果の住処なり、宝処とは霊山なり。日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一同に皆共至宝処なり。共の一字は日蓮に共する時は宝処に至るべし、不共ならば阿鼻(あび)大城(だいじょう)()つべし云云。    『御義口伝上 化城喩品 第七皆共(かいぐ)至宝処(しほうしょ )の事』

弟子たちはこの手紙を読んで奮いたつ。生きては日蓮に随い、死しては日蓮にまみえる。この死への確信があればこそ、今の生が充実するのだ。
 妙法蓮華経 普賢菩薩勧発第二十八には次のように説かれている。

(にゃく)有人(うにん) 受持(じゅじ)読誦(どくじゅ)()()()(しゅ)。  若し人有りて 受持し読誦し その義趣を解せば

是人命終為( ぜにんみょうじゅうい)千仏授手(せんぶつじゅしゅ)    是の人命終せば、千仏の(みて)を授けて、
 令(りょう)不恐怖(ふくふ)不堕(ふだ)(あく)(しゅ)
     恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもう

法華経を信じる者には臨終の時、千の仏がむかえにきて手をさしのべるという。恐れることなく、悪道にも堕ちさせない。一仏二仏の手ではない、千仏の手がすくいあげるという。当時の強信徒は、臨終の間際に日蓮がこの千仏を率いてやってくると固く信じていた。

逆に謗法不信の者は獄卒がむかえにくる。

(けん)()読誦(どくじゅ) 書持(しょじ)経者(きょうしゃ)。  経を読誦し書持すること有らん者を見て、
  軽賎憎嫉(きょうせんぞうしつ) 而懐結恨(にえけっこん)。   軽賎憎嫉して結恨を(いだ)かん。

 此人( しにん)罪報(ざいほう) 汝今復聴(にょこんぶちょう)   此の人の罪報を汝今(また)聴け。
  其人(  ごにん)命終(みょうじゅう) 入阿鼻獄。
 其の人命終して阿鼻獄に入らん。

一方、法華不信の者は捕縛されて牢獄へゆくという。なんという厳しさであろうか。


                百、不滅の滅 につづく


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by johsei1129 | 2017-09-19 22:22 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 19日

九十八 日連一期の弘法、白蓮阿闍梨日興へ相承

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                              (日蓮大聖人御一代記より)

 宗仲邸に入ってから程なくして日蓮は危篤となった。
 知らせを聞いた弟子・信徒が池上邸に続々とあつまった。
 四条金吾は鎌倉から、富木常忍は下総、南条時光は駿河からかけつけた。日蓮の故郷安房からも多数の弟子・信徒が参集した。

日蓮はこれを聞き、身をおこした。衰弱していたが立ちあがり、池上家の持仏堂で立正安国論を講じた。九月二十五日のことである。

日蓮の弘教は立正安国論にはじまり、立正安国論におわるという。その終わりをまっとうする時がきた。
 日蓮がのこした法門は、法本尊を説いた「観心本尊抄」、人本尊を説いた「開目抄」はじめ、のちに五大部・十大部と称される重要御書が数多くある。その中で最後に「立正安国論」を説いたのは、『(いま)だ広宣流布流布せざる間、つまり国の主権者が法華経に帰依するまでは、(かん)(ぎょう)を続けなさい』という、すべての弟子・信徒に与えた日蓮の遺言であった。

客の曰く、今生後生誰か慎まざらん、誰か(したが)はざらん。此の経文を(ひら)きて(つぶさ)に仏語を承るに、誹謗の(とが)至って重く毀法(きぼう)の罪誠に深し。我一仏を信じて諸仏を(なげう)ち、三部経を仰ぎて諸経を(さしお)きしは(これ)私曲(しきょく)の思ひに非ず、則ち(せん)(だつ)(ことば)に随ひしなり。十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。今世には(しょう)(しん)(ろう)来生(らいしょう)には阿鼻(あび)()せんこと文明らかに()(つまび)らかなり疑ふべからず。(いよいよ)貴公の慈誨(じかい)を仰ぎ(ますます)愚客の()(しん)を開き、速やかに対治を(めぐ)らして早く泰平を致し、先ず生前を安んじ更に没後(もつご)(たす)けん。(ただ)我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも(いまし)めんのみ。

若い弟子たちの中に泣いている者がいる。

日蓮は座を見まわし、いつくしむように諭した。

「どうした。泣いてばかりいては、私の説法が聞けぬではないか」

しかし師を失おうとしている弟子たちの悲しみはとまらない。

池上邸は静寂につつまれた。


 十月八日となった。

日蓮は別室に横たわっていた。

そこに伯耆房日興をふくめた六人の僧が神妙にならんだ。

日蓮が死に向かう床で語る。

「わが滅度にあたり、弟子の中で六人をえらび、後継と定める。

日昭 弁阿闍(あじゃ)(り )(六十二歳)

日朗 大国阿闍梨(三十八歳)

日興 白蓮(びゃくれん)阿闍梨(三十七歳)

日向 佐渡阿闍梨(三十九歳)

日頂 伊予阿闍梨(三十一歳)

日持 蓮華阿闍梨 (三十三歳)

以上六名。人はみな、おまえたちを六老僧と呼ぶであろう」

日蓮は入門順に六人の弟子の名を挙げた。読み上げた順番に序列はない、つまり不次第(ふしだい)であるとも宣言した。この中で最長老は六十二歳の日昭で、他の五人は全て三十代だった。

「さりながらその中で上首を定めねばならぬ。在世・滅後ことなりといえども、付属の儀式はこれ同じ。たとえば四大六万の(じき)(てい)の本眷属ありといえども、上行菩薩をもって(けっ)(ちょう)付属の大導師と定めたように」
 結要とは
「要を結ぶ」と読む。法の要点をまとめ、その肝要を選ぶことである。釈迦は南無妙法蓮華経の大法をただ一人上行菩薩にさずけた。日蓮もまた自らの法を一人にさずけようとしている。

弟子がかたずをのんだ。日蓮の教団を引きつぐのはだれなのか。

「今もってかくのごとし。六人以下数輩の弟子ありといえども、伯耆房日興をもって(けっ)(ちょう)付属の大将とさだむるものなり」

伯耆房が日蓮の後継者になることは予想されていたことだったが、日蓮と同郷で最長老の日昭は、三十歳も年下の日興が六人の上首になることは決して満足いくものではなかった。しかし日蓮が遷化(せんげ)されれば重しが取れる。あとは自分の思うままに行動するだけだと自分を納得させた。

日蓮はすでに後顧の憂いの無きように伯耆房日興を後継者とする遺言を書きのこしていた。

日蓮一期(いちご )弘法(ぐほう)、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通(ぐつう)大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と()ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。

  弘安五年壬午九月 日       日蓮花押

      血脈の次第日蓮日興

しかし安堵したわけではない。日蓮は死にのぞみ、日興をのぞく五人の未来を予見したように再び記した。

釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承(そうじょう)す。身延山久遠(くおん)寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

  弘安五年壬牛十月十三日 武州池上

                日蓮花押

この二通の遺言は二箇相承と呼ばれ、それぞれ『日蓮一期弘法付嘱書』『身延山付嘱書』の名がついている。

日蓮正宗二十六世の日寛が解説する。

今得意して云く、二箇の相承は(まさ)しくこれ弘宣(こうせん)伝持の付嘱なり。謂く「日蓮一期の弘法(ぐほう)、白蓮阿闍(あじゃ)()日興(にっこう)(これ)を付嘱す。本門弘通(ぐつう)の大導師たるべきなり」とは、これ弘宣付嘱なり。故に「本門弘通」等というなり。
「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり」とは、これ伝持付嘱なり。故に「別当たるべきなり」等というなり。秘すべし、秘すべし。             『撰時抄愚記


この二箇相承の行く末には紆余曲折がある。

この文書は日蓮の死後、日興が建てた重須(おもす)本門寺に保管されていたが、ちょうど三百年後の天正九年(一五八一年)三月、教義について争っていた西山本門寺の宗徒ならびに戦国大名武田勝頼の家臣増山権右衛門に奪われたのである。

当時、重須本門寺の貫首は日殿という僧であった。彼は三月二十八日、すぐさま重宝返還の訴状を武田勝頼に呈した。

しかし勝頼は日殿をまったく相手にしなかった。なにより重須本門寺と西山本門寺の教義上の争いを自ら裁定しようとはやっていた。勝頼は西山本門寺をあと押ししていた。そのために日蓮の相承書を奪い取り、裁定を西山本門寺側に有利にもちこもうとしたのである。

時は戦国時代、勝頼は相当焦っていたようである。武田一族はこの七年前、長篠の戦いで織田信長に大敗してから凋落の一途をたどっていた。軍神とうたわれた信玄はすでにいない。勝頼はあらゆる方法で勢力を挽回しなければならなかった。日蓮の宝物を搾取したのもそのひとつだった。

翌天正十年二月六日、日殿は訴えが入れられないのを不服として、断食して世を去った。五十七歳だったという。日蓮の遺言を守れなかったくやしさ、自身のふがいなさがつのっていたであろう。彼は戸を締め切り、いっさいの人を入れずに帰らぬ人となった。(富要第九巻)

翌月の三月十一日、武田勝頼は織田・徳川連合軍の攻めに耐えきれず、天目山麓において一族とともに滅んだ。勝頼は自分はもとより一族の女子供までをも、なで斬りにして自害している。

『信長公記』はその悲惨な最期をえがく。

三月三十日、武田四郎親子、簾中(れんちゅう)、一門、こがつこの山中へ引き(こも)らるゝの(よし)滝川左近(うけたまわ)り険難節所の山中へ分け入り、相(たず)ねられ候ところに、田子と云ふ所、平屋敷に、暫時柵を付け、居陣候。則ち先陣、滝川義太夫、篠岡平右衛門に下知を申しつけ、取り巻き候ところ、(のが)れがたく存知せられ、誠に花を折りたる如く、さもうつくしき歴貼(れきちょう)上臈(じょうろう)、子供、一貼に、引き寄せ引き寄せ、四十余人さし殺し、其の外、ちりぢりに(まか)りなり、切りて出で、討死(うちじに)候。

武田四郎とは勝頼のことである。長篠の戦いでは一万五千の軍を指揮していた男が、最後は四十人となって無残な死をとげた。名門武田家の滅亡だった。このあたり、北条や平頼綱の最後とよく似たところがある。

二箇相承はこの戦乱のおり、行方不明となり、今にいたるまで発見されていない。余談だがこの年の六月二日、織田信長が本能寺で自害している。

日蓮が日興を後継者として指名したことは、当時、弟子信徒のだれしもが疑っていなかった。

日蓮自身がその理由をしるす。

又弘長配流(はいる)の日も、文永流罪の時も、其の外諸所の大難の折節も、先陣をかけ、日蓮に影の形に随ふが如くせしなり。誰か之を疑はんや。

延山(えんざん)地頭発心の根元は日興が教化の力用なり。遁世(とんせ)の事、甲斐国三牧は日興(こん)()の故なり。  『百六箇抄

伯耆房日興は伊豆流罪の時も、佐渡の時もつねに日蓮のそばにいた。ほかの弟子もついてはいたが、日蓮の大願を具現する者ではなかった。弟子たちは日蓮に従っていたが、伯耆房日興以外、日蓮の真意を知ろうとし、またその大願を自分が実現しようとは思ってもいなかった。

地頭の波木井が信心に目覚めたのは伯耆房の折伏による。日蓮が身延に居を移したのは、伯耆房の采配によることはすでに述べた。この事実については五老僧といえど異を唱えることはできない。

 しかし、五老僧が素直に日興上人が身延山久遠寺の別当たるべきなり」という遺言を受け止めたわけではないことは、後々の事実が雄弁に物語っている。

        九十九 通塞の案内者 につづく


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by johsei1129 | 2017-09-19 22:18 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 19日

九十七、身延下山

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                      身延山

 日蓮の病状は悪化していくばかりだった。

弘安五年九月、日蓮はついに下山を決意した。九年すごした身延山を去ることにしたのである。この約九か月前の弘安四年十一月二十四日には、十間四面の大坊が完成したばかりだった。下山の理由は常陸(ひたち)の国に湯治に行くためという。
 日蓮は自身がそう遠くない日に遷化することは自覚していた。その場合、身延の僧坊ではあまりに地の利が悪い。また幼い所化たちが日々仏道修行に励んでいる。それに差し障りがあることは避けなければならない。また多くの信徒が集まるには鎌倉の信徒の大きな屋敷が良い。
 釈尊は自身の滅度の後、荼毘(だび)に付し遺骨を分けて舎利(しゃり)塔を立てることを遺言していた。しかしそれらの諸事は
()()(そく)()()()、つまり在家の男女信徒に任せるよう弟子たちに話している。弟子はあくまで修行、布教を続けなさいという意味である。鎌倉の信徒で大きな屋敷と言えば作事奉行、池上宗仲の屋敷であった。もし不穏なことが起きたとしても、幕府直轄の作事奉行の屋敷に手を出すことは考えられない。常陸の国の湯治とは、地主として長年世話なんってきた波木井(はきり)(さね)(なが)(おもんぱか)ってのことだろうと思われる。

日蓮が弟子に担がれ栗毛の馬にのった。伯耆房らの弟子たちがきびしい表情でついた。常陸まで何日かかるのか。病身の日蓮にとって決して楽な旅ではない。

地頭の波木井(はきり)(さね)(なが)は突然の知らせにおどろいたが日蓮の意思はかたい。波木井はあきらめて自分の子を付添いとし同行させた。

出発の時、実長はなおもいった。

「上人。なにも急いで発たれることはないのではありませぬか。もう少しゆるりとされては」

日蓮が弱々しく首をふった。

「病気でありますからもしやのこともありましょう。さりながら日本国の多くが扱いかねるわが身を、九年まで外護していただいた志は申すばかりもございませぬ。いずこにて死ぬるとも、墓はこの身延の沢といたしまする」

日蓮は一時の家主であった実長に深々と頭をさげた。しかし実情は違っていた。日蓮はこの九年間、飢えと寒さに苦しんだ。地主の実長は日蓮の窮状に無頓着だった。後代の信徒は波木井の冷淡さを非難している。だが日蓮は実長にいっさいの不平をもらさなかった。

九月八日、一行が山をおりた。波木井実長が呆然と見送った。

一行は人気のない道をすすんだ。日蓮が下山するとあってはどんなさわぎがおきるか知れない。一行を指揮する伯耆房は身を隠すように()山道を選んだ。

身延山の急な坂を下る。

日蓮が眠るように馬にのっている。伯耆房が手綱をはなさず見守った。

さらに一行は富士川をこえる。

日蓮は弟子に背負われて川をこえた。

彼らは武蔵野にでた。一行が壮大な夕日を背にすすむ。

富士山がしだいに小さくなっていった。

武蔵の池上宗仲邸は林にかこまれた武家屋敷だった。今の東京都大田区である。

身延出立から十日後の九月十八日、日蓮は敬愛する信徒、宗仲の屋敷にたどりついた。

宗仲は弟の宗長とそろって門に立っていた。二人は師を自らの屋敷に迎える喜びは大きかったが、師の病を考えると手放しでは喜べない。しかし二人は精いっぱいの笑顔で日蓮を出迎えた。

日蓮が兄弟の笑顔を見てわずかにほほえんだ。

「お世話になり申す」

かつてきびしく指導した兄弟に深々と頭をさげた。

日蓮はこの武蔵から甲斐の波木井に生涯最後の手紙をおくった。かつての家主にこまやかな配慮がよみとれる。

(かしこ)み申し候。みち()ほど()べち()事候はで、池上までつきて候。みちの間、山と申し、かわ()と申し、そこばく大事にて候ひけるを、きう()だち()()護せられまいらせ候ひて、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候。さてはやがて()へりまいり候はんずる道にて候へども、所()うの()にて候へば、不ぢ()うなることも候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候()を、九年まで御きえ(帰依)候ひぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも()かをば()のぶさわ(延沢)にせさせ候べく候。又くり()かげ(鹿毛)の御馬はあまり()しろ()くをぼへ候程に、いつまでもうし()なふまじく候。ひたち(常陸)()()かせ候はんと思ひ候が、もし人にもぞとられ候はん。又そのほか()いたはしくをぼへば、()よりかへり候はんほど、かづさ(上総)もばら(藻原)殿のもとにあづけをきたてまつるべく候に、しらぬ()ねり()をつけて候ひては、()ぼつか()なくをぼへ候。まかりかへり候はんまで、此の()ねり()()けをき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢのために申し候。恐々謹言。

九月十九日          日蓮

進上 波木井殿御侍

()うのあいだ、はん()()うをく()へず候事、恐れ入って候。 『波木井殿御報            

やっとのことで池上に到着した。九年のあいだ養われたことは感謝にたえない。ついては、いずこの地で死のうと墓は身延におくといっている。また栗毛の馬がひときわ気にいったので馬使いをつけた。存知のために前もってお知らせしたという。当時、馬泥棒が頻発していた。

さらに病気のために自分の印、すなわち花押をしるすことができないことをわびている。なんという腰の低さだろう。


 日蓮が池上宗仲邸に入ってまもなく事件が起きた。
 幕府役人・二階堂伊勢守の子で比叡山学僧・二階堂伊勢法印が、日蓮が滞在していることを聞きつけ、池上宗仲邸に大勢の供を引き連れ、法論をいどんできたのである。その時日蓮は「卿公に相手させよ」と言いつけ、問答に勝れた日目上人が日蓮の身代わりで伊勢法印と問答に臨むことになった。
 問答は、第一番の「即往安楽世界、阿弥陀仏」の経文に始まり、十番ほど行われたが、全て法印を
屈伏させたという。この結果についは日蓮もさぞ満足したものと思われる。
 日蓮は日目を極めて重要視していた。後を託した日興は別格としても、他の五老僧よりもむしろ日目を重要視している。
 そのことがよくわかるのは日目に下付した御本尊にある。
日蓮は弘安二年二月、日目に御本尊を下付している。他の弟子には授与名を「沙門○○授与之」と図現年月を右脇に小さくしたためているが、それに対し日目に下付した御本尊には「釈子日目授与之」と右側にほとんど中央の日蓮の文字と同じ大きさで明確にしたためている。弘安三年十一月に下付した日昭にも釈子日照伝之と左下に記しているが極めて小さい。
 おそらく日蓮は、日目は日興の後継者となり、三代で日本広布の基礎を築くことが出ると確信していたと思われるの。


          九十八、日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興へ相承 につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2017-09-19 22:07 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 19日

九十六、妙覚の山

身延の草庵はひっそりとしていた。

伯耆房が日蓮の部屋にはいった。

朝餉(あさげ)の支度ができました。南条殿が供養されました米をたいて・・」

伯耆房は日蓮が本尊の前で倒れているのを見た。

「お師匠」

伯耆房があわてて日蓮をだきおこす。

「だれか」

人間だれしもかならず一度は臨終をむかえる。死は不吉だとか、死は思いたくもないとしても、のがれた者はだれもいない。生の行く末が死だと思えば、人生ははかないということになるが、死をむかえる覚悟をしたうえで、ひるがえって生を考えれば、有意義な人生をおくることができる。

しかし人はそれに気づかない。

日蓮は信徒の松野六郎左衛門入道に手紙をおくった。松野殿は駿河国庵原郡松野の人である。娘が南条時光の父兵衛に嫁いだ縁によって日蓮に帰依した。

子供が多くいる。蓮華寺を建立した長男の六郎左衛門尉、日蓮の高弟でのちの六老僧の一人となる日持そして南条家に嫁いだ娘が知られている。

消息から推測すると、松野はかなり教養の深い人だったと思われる。また彼は日蓮と同年輩だった。それだけに日蓮は松野に親しみをこめ、妙法をたもつ者の生き方を訴える。おなじ老いをむかえる者への手紙である。


 種々の物送り給び候
(おわ)んぬ。山中のすま(住居)ゐ思ひ()らせ給ふて、雪の中ふみ分けて御訪(おんとぶら)ひ候事 御 志( おんこころざし)定めて法華経・(じゅう)羅刹(らせつ)( し)ろし()し候らん。さては涅槃経に云はく「人命の(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)(そん)すと(いえど)も明日(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀(せんだ)()の羊を()って()()に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、(なお)火宅の如し。(しゅう)()充満(じゅうまん)して(はなは)怖畏(ふい)すべし」等云々。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫(ぼんぷ)をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。(しか)りと(いえど)須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を()こざす、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ()らんがために、いとまを入れ衣を(かさ)ねんとはげ()む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと()もみへずなるべき身を(やしな)はんとて多くの(たから)たく()はふ。    『松野殿御返事
 

われわれは屠殺場へおもむく羊であるという。またこの世界は火炎が充満する苦しみの世界であると。

現代の文明は死から逃避している。人々は死を忌み嫌い、遠ざける。終焉がないかのように。

日蓮は雪山童子の故事をひいて死の尊厳を説いている。くわえて仏法をもとめず、いたずらに生を終える人のはかなさをしるす。おなじ松野への手紙である。

(つらつら)世間を観ずるに、生死無常の理なれば生ずる者は必ず死す。されば()()のあだにはかなき事、譬へば電光(いなびかり)の如く、朝露に向かひて消ゆる似たり。風の前の(ともしび)の消えやすく、芭蕉の葉の破れやすきに異ならず。人皆此の無常を(のが)れず。(つい)に一度は黄泉(よみじ)(たび)(おもむ)くべし。(しか)れば冥土の旅を思ふに、闇々として()らければ日月星宿(せいしゅく)の光もなく、せめて灯燭(とうしょく)とてとも()す火だにもなし。かゝる(くら)き道に又()もなふ人もなし。(しゃば)にある時は、親類・兄弟・妻子・眷属(けんぞく)集まりて父は(あわ)れみの志高く、母は悲しみの情深く、夫妻は偕老同穴(かいろうどうけつ)(ちぎ)りとて、大海にあるえび()は同じ畜生ながら夫妻ちぎり細やかに、一生一処にともなひて離れ去る事なきが如し。鴛鴦(えんおう)(ふすま)の下に枕を並べて遊び(たわむ)る仲なれども、彼の冥途の旅には伴ふ事なし。冥々として(ひと)り行く。誰か来たりて是非を(とぶら)はんや。(あるい)老少(ろうしょう)不定(ふじょう)の境なれば、老いたるは先立ち若きは留まる。是は順次の道理なり。歎きの中にもせめて思ひなぐさむ(かた)も有りぬべし。老いたるは留まり、若きは先立つ。されば恨みの至って恨めしきは幼くして親に先立つ子、(なげ)きの至って歎かしきは老いて子を先立つる親なり。是くの如く生死無常、老少不定の境、あだ()にはかなき世の中に、但昼夜に今生の(たくわ)へをのみ思ひ、朝夕に現世の(わざ)のみなして、仏をも敬はず、法をも信ぜず。無行(むぎょう)無智(むち)にして(いたずら)に明かし暮らして、閻魔(えんま)の庁庭に引き迎えられん時は、何を以てか資糧として三界の長途(ちょうと)を行き、何を以て(せん)(ばつ)として生死の(こう)(かい)を渡りて、実報(じっぽう)寂光(じゃっこう)の仏土に至らんや

 海にいるエビは雄雌そろっておなじ穴にいる。これを偕老同穴という。転じて夫婦仲のむつまじいことをあらわす。夫婦が一生を共にし、おなじ墓穴にはいる意味である。それでも世を去るときは一人なのだ。

 鴛鴦の衾とは男女(とも)()の夜具をいう。鴛鴦とはオシドリのこと。これまた良い夫婦仲の形容詞だが、死にのぞめばはなれてしまう。

 日蓮は仏法の根本命題である死について、若い時から思索をかさねていた。現代人が忘れているテーマである。

例えば日蝕がある。古代の人々は突然太陽が欠け始め、ついには昼なのに真っ暗になると、この世の終わりが来たと恐れをなしたただろう。
 しかし現代の人間は、日蝕は天体の運行で起きる現象で「月が地球と太陽の間に入り、月の影に入った地域では太陽が欠け、あるいは全く見えなくなる」ことを知っている。また将来おきる日食の日時と地球上の位置を正確に知ることができ、日蝕を天体ショーとして楽しんでいる。これは天体の運行という法則を把握しているからできることである。

釈尊は妙法蓮華経方便品第二で「仏所成就。第一希有(けう)難解(なんげ)之法(しほう)唯仏(ゆいぶつ)与仏(よぶつ)乃能(ないのう)究尽(くじん)。諸法実相」と説く。() 仏が成就した所業とは、最高の稀有で難解な法で、唯、仏と仏のみが、()く諸法の実相を極め尽くしたことである。
 つまり人々は、生と死の法則がわからないので死に対し不安になり恐れる。釈尊も日蓮も命の法則を極めているから死に対し恐ることはないとする。なぜなら仏法は生命は一つでなく、(ほっ)(しん)(ほう)(しん)(おう)(じん)の三身と見る。無始無終の魂魄(こんぱく)である法身、一個の受精卵として母親の胎内で生まれ、老いて朽ち果てていく有始有終の応身、そして修行し悟り、仏となって衆生を救う有始無終の報身。つまり我々が通常、人とみる応身は必ず死んで行くが、魂魄としての法身は現世の所業=善行または悪行の結果を受け、新たな生として誕生するとする。それ故現世での所業が大事になってくる。日蓮はこの法報応(ほっぽうおう)(さん)(じん)を月に見立てて説いている。


「三身の事、()(げん)経に云く「仏・三種の身は方等(ほうどう)より生ず是の大法印は涅槃(ねはん)海を印す、此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず、此の三種の身は人天の福田(ふくでん)にして応供(おうぐ)の中の最なり」云云、 三身とは一には(ほっ)(しん)如来、二には(ほう)(しん)如来、三には(おう)(じん)如来なり。此の三身如来をば一切の諸仏必ず()()す、(たと)へば月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします 『四條金吾釈迦仏供養事:
建治二年七月十五日』五十五歳御作)

 言い換えると、法身とは生命の本質そのもの、報身は生命の智慧、境涯と言え、応身とは生命の色心(実際に生きている当体)をいう。
 例えば七十五億人とも言われている今生きている地球上の人々には誰しもが生まれたばかりの赤ん坊の瞬間があった。しかしその赤ん坊は今どこにもいない。応身とはまさにそういう身なのだ。それ故恐るべきは死ではなく、現在どのように生きているかを恐るべきなのだ。現在の生き様が次の生を決めるのだから。
 この生命の法を知り尽くした日蓮は、いま妙法蓮華経に帰命しているかどうかを恐れている。
仏法は人間の再誕を説き、
再誕後の世界はその人の臨終の相から予見できるという。日蓮は法華経の鏡で人の死後を当てることができるといった。信じる法の邪正によって臨終の相がきまると。

死をむかえるためによりよい人生をおくる。これはだれしも願うことである。よりよい人生とは、妙法をたもつことで初めて叶えられる。


 とても此の身は
(いたずら)に山野の土となるべし。惜しみても何かせん。惜しむとも惜しみとぐべからず。人久しといえども百年には過ぎず。其の間の事は(ただ)一睡(いっすい)の夢ぞかし。受けがたき人身を受けて、(たまたま)出家せる者も仏法を学し謗法の者を責めずして(いたずら)遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を()たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人なり。()づべし恥づべし、恐るべし。

日蓮はここで妙法をたもつ者の臨終を説いている。妙法を唱えきった者には苦渋に満ちたこの娑婆世界が、実は寂光土であったことがわかるという。

(しか)るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。世の中もの()からん時も今生の( く)さへかなしし。()してや来世の苦をやと(おぼ)()しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ(まこと)の悦びなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登りて四方をきっと(屹度)見るならば、あら(おも)(しろ)や法界寂光土にして瑠璃(るり)を以て地とし(こがね)の縄を以て八つの道を(さか)へり。(そら)より四種の花ふり、虚空に音楽聞こえて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、娯楽快楽(けらく)し給ふぞや。我等も其の数に(つら)なりて遊戯(ゆげ)し楽しむべき事はや近づけり。信心弱くしてはかゝる目出たき所に行くべからず、行くべからず。不審の事をば尚々(なおなお)承るべく候。(あな)(かしこ)穴賢。

                  九十七、身延下山  につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2017-09-19 22:00 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 19日

九十五、時光の蘇生

弟の突然の死があっても、時光の信心はゆるぎなかった。

彼は懸命に日蓮を援助した。熱原の法難もかげで支えた。このことは鎌倉で知らぬ者はない。

このため幕府はいよいよ時光を快く思わない。人々も悪人のように憎む。時光は地頭でありながら、幕府を公然と批判する日蓮の信徒であると。幕府は多くの公事をおしつけてせめた。

時光は乗る馬もなく、妻は衣もなくなったという。それでも彼は銭一貫文を日蓮のもとにおくった。なんという健気な信仰の若者であろう。

 日蓮は貧窮する時光をはげます。

「仏にやす()やすとなる事の候ぞ、()しへまいらせ候はん。人のものををし()ふると申すは車のおも()けれども油をぬりてまわり、ふね()を水にうかべてゆき()やすきやうにをしへ候なり。仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃(かんばつ)かわ()けるものに水をあたへ、寒冰(かんぴょう)こご()へたるものに火をあたふるがごとし。又二つなき物を人にあたへ、命の()ゆるに人の()にあふがごとし。<中略>月氏国に()(だつ)長者と申せし者は七度貧になり、七度長者となりて候いしが最後の貧の時は万民皆()げうせ死にをはりて、ただ、()おとこ()二人にて候いし時、五升の米あり五日のか()てとあて候いし時、迦葉(かしょう)・舎利弗・阿難・(らご)()・釈迦仏の五人、次第に入らせ給いて五升の米を()ひとらせ給いき、其の日より五天竺第一の長者となりて、祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)をばつくりて候ぞ、これをもつて・よろづを心()させ給へ」『上野殿御返事(須達長者御書)』

仏にたやすく成る道があるので教えて差し上げよう。人がものを教えるというのは、車が重い時でも油を塗ることによって回り、船を水に浮かべて往来し易くなる様に教えるのである。仏に成り易い道というのは特別なことではない。旱魃で(のど)の渇いた人に水を与え、寒さで凍えた人に火を与える様な事である。又二つとない物を人に与え、命が絶えようとしている時に、人に施す事である。<中略>

 インドの須達長者という人は七度貧乏になり、七度長者となったが、最後は万民が皆逃げ去り死に絶えて、夫婦二人だけになった。その時五升の米があり五日分の糧に充てようとしていた時、迦葉・舎利弗・阿難・羅睺羅・釈迦の五人が次々に入って来て、五升の米を乞われたので全て差し上げた。その日から全インド第一の長者になって祇園精舎を造ったのである。この例に(なら)って万事を心がけていきなさい。


 こうして平穏にもどったかと思われた矢先、またも悲劇がおそいかかった。

時光本人が重病となったのである。

病のしらせは前年の九月に日蓮のもとにとどいていた。

御使ひの申し候を承り候。是の所労(しょろう)難儀のよし聞こえ候。いそぎ療治(りょうじ)をいたされ候ひて御参詣有るべく候。 『南条殿御返事:弘安四年九月十一日 六十歳御作』


 周囲の期待とはうらはらに病状は重くなった。

病名は不明である。しかし確実に死にいたる病だった。薬もきかない。父兵衛七郎、弟五郎につづいて時光の番となったのである。時光はまだ二十三歳の若者なのだ。南条家はあきらかに短命の宿業をもっていた。

翌年の二月にはいり、ついに時光は危篤となった。

日蓮は事の重大さを知り、病床から身をおこして日朗に口述筆記させ、伯耆房日興に指図して時光に()を飲ませるよう指示した。

符とは経文を灰にして水にまぜた薬である。

日蓮はこのたびの時光の病がたとえ定業(寿命)であったとしても、なんとしても命を伸ばそうと必死だった。

兼ねて又此の経文は廿八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候。然るに聖人の御乳母の、ひと()ゝせ()御所労御大事にならせ給ひ候て、やがて死なせ給ひて候ひし時、此の経文をあそばし候て、浄水をもってまいらせさせ給ひて候ひしかば、時をかへずいきかえらせ給ひて候経文なり。なんでうの七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こゝろざしふかきものなり。たとい定業なりとも今度ばかりえん()まわう(魔王)たすけさせ給へと御せい()()ん候。明日(とら)()(たつ)(こく)しや()うじがは(進河)の水とりよせさせ給ひ候て、このき()もん()はい()にやきて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候。恐々謹言。

  二月廿五日          日朗花押

謹上 はわき公御房            『伯耆公御房御消息

日蓮はこの書で「たとえ寿命だとしても、今度ばかりは閻魔大王助け給え、と御誓願候」とまで言い切っている。
 符の由来は、教主釈尊が乳母であり育ての母だった
摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)、マハープラジャーパティーの重病を救った故事による。

日蓮が符をつかうのははじめてではない。

十年前、四条金吾の妻日眼女が懐胎した時、安産のための符をおくっている。

懐胎(かいたい)のよし承り候い(おわ)んぬ、それについては符の事仰せ候、日蓮相承(そうじょう)の中より(えら)み出して候、()く能く信心あるべく候。たとへば秘薬なりとも毒を入れぬれば薬の用すくなし、つ()ぎなれども、わる(臆病)びれたる人のためには何かせん、就中(なかにも)夫婦共に法華の持者なり、法華経流布あるべきたね()をつぐ所の玉の子出で生れん()()(たく)覚え候ぞ。色心二法をつぐ人なり、(いかで)かをそなはり候べき、とくとくこそうまれ候はむずれ、此の薬をのませ給はば疑いなかるべきなり 『四条金吾女房御書


 そして符を与えた翌日、四条家に無事女の子が誕生し、日蓮はよろこんで生まれた子を(つき)(まろ)御前と名づけている。

日蓮は自らしたためた法華経薬王品の経文を焼き、その灰を寅卯辰の刻すなわち午前三時から午前九時までの間に、精進河の水一合で調合し、時光にあたえるよう指示した。精進河は今も「静岡県富士宮市精進川」として地名がのこる。

薬王品の二十八字の経文とはおそらくつぎの文であろう。

 此経則為。閻浮提人。病之良薬。若人有病。得聞是経。病則消滅。不老不死。

(此の経は則ち閻浮提(えんぶだい)人の病の良薬なり。()人病有らんに、此の経を聞くこと得ば、病(すなわち消滅して不老不死ならん)

()の効用とは一体なにか? 日蓮は晩年、自分の「やせやまい」に関して、医師でもあった四条金吾が調合した薬を服用して良くなったと消息に書いている。また病気の起こる原因について次のように記している。

病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順(環境不順)ならざる故に病む、二には飲食(おんじき)(せつ)ならざる故に病む、三には坐禅調わざる故に病む、四には鬼(伝染病)便(たよ)りを得る、五には魔の所為(精神病)、六には業(宿業)の起るが故に病む(大田入道殿御返事)」

このうち一から五までは医療で治すことができる。六の業(宿業)が原因の病だけは法華経の信仰で罪障消滅しなければ治らない。
 では符の効用はとは何か
? 日蓮はどのような効用があると考えていたのか
? 
 実際に日蓮が実際に符を使った例は極めて少ない。日眼女が懐胎した時に使用した例を考えれば、これは精神的な不安を取り除くために提供したのではないかと推察される。懐妊は病気ではない。しかし初産であれば不安がつのる。そのため日眼女は大聖人に符のご下付を願い、日蓮も応じたと思われる。
 では時光の場合はどうであったろう。
 時光は病が重篤であると使いの者を日蓮のもとに行かせた際、一頭の馬を供養している。時光が日蓮に馬の供養を記した御書はこの時だけで、極めて異例である。この馬の供養は、時光が自身の命が残り少ないと感じ、自身の身代わりとして自分と共にした愛馬を贈ったのではないかと推察される。日蓮はそれほどまで追い詰められた時光に
「まだ諦めるのは早い。私がついている」
と時光の生きる気力を奮い立たせるために、()
われたわけではないが、自ら進んで符を与えたのではないか。日眼女に与えた符は特にどの経文とも記していない。しかし時光に与えた符は「此の経文廿八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候」と明示している。
 色心不二は仏法の基本原理である。日興から日蓮の言葉を聞き、符を受けとった時光は、まちがいなく今一度生きる気力を奮い立たせ、内在する自然治癒(ちゆ)
力を増したことであろう。
 一般的に新薬を治験するとき、必ず治験薬を飲むグループと
でんぷんなどで作ったプラセボ
(偽薬)を飲むグループに分けて比較し、厳密な効果を計測するという。つまり偽薬と知らせないで治験薬だとして飲ませても、人によっては薬を飲んだという安心感で自然治癒力を引き出し効果がでるケースがあるという。

日蓮は思う。

自分の死後、弟子たちにさまざまな苦難があるだろう。だが日蓮の弟子と名のる者はあらゆる困難をこえねばならない。こえなければ未来はない。

またその弟子たちをささえるのは信徒檀那である。日蓮はその法華講衆の要となるのが南条時光であるとみた。それゆえになんとしてでも時光を蘇生させねばならぬ。

日朗に口述筆記させた三日後の二月二十八日、日蓮は寝たきりだったが時光のためにおきた。そして最後の力をふりしぼり、消息を書く。

宛先はだれでもなく、時光に巣くう病魔鬼神にむけたものである。

文字どおり生きるか死ぬか、生かすか殺すかの書である。
 全編鬼気がせまる。

かなる過去の宿習にて、かかる身とは生るらむと悦びまいらせ候、上の経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候いける者が、法華経計りをば用いまいらせず候いけれども、仏くやう(供養)の功徳莫大なりければ・謗法の罪に依りて貧賎の身とは生れて候へども、又此の経を信ずる人となれりと見へて候、此れをば台の御釈に云はく「人の地に倒れて(かえ)って地より起つが如し」等云云。地に()うれたる人は、かへりて地よりをく。法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には( )うれ候へども、かへりて法華経の御手(みて)にかゝりて仏になるとこと()わられて候。

 しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生まれて悪人とは申すべけれども心は善人なり。其の故は、日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば(あるい)は所領或は田畠等にわづらいをなし、結句(けっく)は命に及ぶ人々もあり。信じがたき上、ちゝ()・故上野は信じまいらせ候ひぬ。又此の者嫡子(ちゃくし)となりて、人もすゝめぬに心中より信じまいらせて、上下万人に、あるいはいさめ或はをどし候ひつるに、ついに捨つる心なくて候へば、すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か。

命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。又鬼神めらめ、此の人をなやますは、剣をさかさまにのむか、又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵(おんてき)となるか。あなかしこあなかしこ。此の人のやまいを(たちま)ちになをして、かへりてま()りとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか。其の義なくして現在には頭破(ずは)(しち)()(とが)に行なはれ、後生には大無間地獄に()つべきか。永くとゞめよ永くとゞめよ。日蓮が(ことば)をいやしみて後悔あるべし。後悔あるべし。

  二月二十八日

 伯耆房に下す        『法華証明抄

 日蓮は弘安二年十月十二日の大御本尊の建立で出世の本懐を成し遂げた。また弟子に対して末法の本仏としての法華経の講義も弘安三年五月二十八日に終えている。自身滅後の後を託す日興には一月十一日「百六箇抄」の口伝を終えている。ここで滅度しても全く悔いはない。あるいは日蓮は、時光の寿命を延ばすことができるなら、残された寿命は時光に与えても構わないと祈ったとしても不思議ではない。熱原の三烈士は日蓮に大御本尊建立の機縁を与えた。その熱原の農民信徒を外護したのは弟子の日興であり、信徒では南条時光その人だった。
 日蓮は竜の口に向かう途中、馬からおりて八幡大菩薩を叱りつけた。「日蓮今夜
(くび)切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神、正八幡こそ起請(きしょう)を用いぬかみ()にて候いけれと、さしきりて(指し示して)教主釈尊に申し上げ候はんずるぞ。いたしとおぼさばいそぎいそぎ御計(おんはか)らいあるべし(種々御振舞御書)」と。このたびも「
鬼神」らを叱りつけたのである。

南条時光は快方にむかった。見事に時光は蘇生した。彼はこの日からちょうど五十年の寿命をうけ、一生を法華経の信心で貫き通した。日蓮亡き後、自分の領地を提供して伯耆房日興をまねき、今の大石寺の基礎を築いた。そして時光は七十四歳で波乱に満ちた、しかし日蓮に生涯殉じた潔い生涯を終える。彼の所領だった富士の麓の上野郷はいま、日蓮大聖人、日興上人を慕う世界各国の信徒であふれている。

法華経如来寿量品に「(きょう)()寿命」とある。さらに寿命を(たま)うの意味である。

釈迦は阿闍(あじゃ)()王に四十年の命をあたえ、天台大師は兄に十五年の命をあたえたと伝えられている。そして日蓮は母の寿命を四年のばし、南条時光に五十年の命をあたえたのである。


        九十六、妙覚の山 につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2017-09-19 21:56 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 19日

九十四、南条一族の病魔

甲斐は山にかこまれ塩がない。塩がなければ日々食べるものも味もなく、味噌もつくれない。味噌は当時の必需品である。熟した大豆や麦に塩と(こうじ)をまぜて発酵させた。

疫病が蔓延していた。

食生活が変調をきたせば病魔がおそってくる。死活問題だった。このあと三百年たった戦国時代でも、同じ甲斐の武田信玄が塩不足で苦しんでいる。海辺から遥か離れた山あいならではの苦難があった。
 正月からの雨は七月に入って大雨となり、身延山中の日蓮の草庵に通じる道を遮断した。こまったことに塩が手にはいらない。

二十二歳になった時光は窮状を察して塩を身延におくりとどける。

塩一駄・はじ()かみ()送り給び候。

(こがね)多くして日本国の(いさご)のごとくならば誰かた()らとして、()このそこ()におさむべき。(もち)多くして一閻浮提の大地のごとくならば、誰か米の恩をおも()くせん。今年は正月より日々に雨ふり、ことに七月より大雨ひま()なし。このところは山中なる上、南は波木井河、北は早河、東は富士河、西は深山なれば、長雨・大雨、時々日々につゞく間、山()けて谷を()づみ、石ながれて道をふせ()ぐ。河たけ()くして船わたらず。富人なくして五穀()もし。商人なくして人あつ()まる事なし。七月なんどは()ほ一升を銭百、しほ五合を麦一斗に()へ候ひしが、今はぜん()たい()しほなし。何を以てか()うべき。みそ(味噌)()えぬ。小児(しょうに)()しの()ぶがごとし。かゝるところにこのしほを一()給びて候。御志、大地よりもあつく虚空よりもひろし。余が言は力及ぶべからず。たゞ法華経と釈迦仏とにゆづ()りまいらせ候。事多しと申せども紙上にはつくしがたし。恐々謹言。『上野殿御返事:塩一駄御書』

塩一升の価格がつりあがり、百文するという。百文あれば米一石(一八○リットル)が手にはいった時代である。庶民には手がだせない。

日蓮は時光の志を称えるとともに、さらなる強い求道心をうながす。

かつ()へて食をねがひ、(かっ)して水をしたうがごとく,恋ひて人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごとく、みめ()()ちよき人、べに()しろいものをつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給へ。さなくしては後悔あるべし。『上野殿御返事

恋人に会いたいと想う気持ちのように、法華経には信心をしなさいといっている。

彼が二十三歳の時、熱原の法難がおきた。

時光は地元の代表として伯耆房日興とともに法難の矢面に立った。

彼は熱原の百姓を応援し、なりふりかまわず正法の徒を援助しつづけた。母も妻も弟の五郎も必死であった。放免された百姓十七人を引きうけたのは時光である。そのほか事件にかかわった人々をかばいつづけた。

日蓮は、時光が信徒を守るために獅子奮迅する姿を称え、手紙をとどけた。その直筆の断簡が日蓮正宗総本山大石寺に今も残る。

願はくは我が弟子等、大願ををこせ。去年(こぞ)去々(おと)(とし)やく()びゃ()うに死にし人々のかずにも入らず、又当時(もう)()()めに()ぬかるべしともみへず。とにかくに死は一定なり。其の時のなげ()きは()()のごとし。をなじくはかり()にも法華経のゆえに命をすてよ。つゆ()を大海にあつらへ、ちり()を大地にうづむとをもへ。法華経の第三に云はく「願はくは此の功徳を以て(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。恐々謹言。

十一月六日          日蓮花押

上野賢人殿御返事

これはあつ()わら()の事のありがたさに申す御返事なり。

宛先に上野賢人殿とある。日蓮は最初、聖人としるした。しかし時光の慢心をおそれたか、聖の文字を消して賢と書きなおしている。

日蓮の心配は杞憂だった。

時光は日蓮の薫陶をうけて、いよいよたくましい青年となっていく。

こうして万事順調と思われたさなか、突然の悲報がおそった。

熱原法難の翌年の弘安三年九月五日、弟の南条五郎が亡くなったのである。

五郎はわずかに十五歳だった。病死とされているが、あまりにも突然だった。

この二か月前、五郎は時光とともに身延山にのぼり、日蓮と対面したばかりだった。日蓮は若い兄弟を丁重にもてなし、よろこびもひとしおだったのだ。

人生ははかないというが、いざ身近な人々が亡くなると衝撃よりも脱力感におそわれる。日蓮はなによりも、幼き我が子を突然失った母尼御前を察した。日蓮は自身の心境を素直にしるす。

南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生まれて死するなら()いとは、智者も愚者も上下一同に知りて候へば、初めてなげ()くべしをどろくべしとわをぼ()えぬよし、我も存じ人にも()しえ候へども、時に()たりてゆめ()かま()ろしか、いまだわ()まへがた()く候。まして母のいかんがなげかれ候らむ。父母にも兄弟にもをくれはてゝ、い()をしきを()こにすぎわか()れたりしかども、子どもあまた(数多)をはしませば、心な()さみてこそをはし候らむ。い()をしき()こゞ(児子)、しかも()()ゞ、みめ()()ちも人にすぐれ、心もかいがいしく()へしかば、よその人々もすゞしくこそみ候ひしに、あやなくつぼ()める花の風にしぼみ、満月のにわ()かに失せたる()がごとくこそ()ぼすらめ。まことゝもをぼへ候はねば、()つく()るそらもをぼへ候はず。又々申すべし。恐々謹言。

九月六日          日蓮花押

上野殿御返事

追伸。此の六月十五日に見(たてまつ)り候ひしに、あはれ(きも)ある者かな、男なり男なりと見候ひしに、又見候はざらん事こそかな()しくは候へ。さは候へども釈迦仏・法華経に身を入れて候ひしかば臨終目出たく候ひけり。心は父君と一所に霊山浄土に参りて、手をとり頭を合わせてこそ悦ばれ候らめ。あはれなり、あはれなり。 『上野殿御返事(弔慰御書)

母尼の嘆きは日蓮が心配したように、とりわけ深い。五郎は夫が亡くなった時、お腹にいた子だった。若くして夫に先立たれ、いま最愛の子を失った。女人にとってこれほどの悲しみがどこにあろう。

我が子を失い悲嘆にくれる母尼御前に、人並みの激励や説法ではその心を癒すことはできない。絶望した母の心中にわけいり、その気持ちをくみとって一体となるしかない。母尼の嘆きは日蓮の嘆きなのだ。彼女の苦しみは日蓮の苦しみなのだ。

日蓮は「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是日蓮一人の苦なるべし」(御義口伝)と説いている。
 南条五郎の四十九日がきた。

日蓮は、四十九日を迎えるこの時期なら母もすでに出家して尼となっており、気持ちも落ち着いて法門の話も素直に聞けるだろうと見計らい、尼御前に手紙をしたためたと思われる。

(そもそも)故五郎殿かくれ給ひて既に四十九日なり。無常はつねの習ひなれども此の事うち()く人すらなを()しの()びがたし。いわ()うや母となり妻となる人をや。心のほど()()かられて候。人の子には()さなきもあり、をとなしきもあり、み()くきもあり、かたわ(不具)なるもあり、をもいになるべきにや。をのこ(男子)ゞたる上、かたわにもなし、()()にもさゝ()()なし、心も()さけあり。故上野(こうえの)殿(どの)には盛んなりし時()くれてなげき浅からざりしに、此の子をはら()みていまださん()なかりしかば、火にも入り水にも入らんと思ひしに、此の子すでに平安なりしかば、誰にあつらへて身をも()ぐべきと思ひて、此に心をなぐさめてこの十四五年はすぎぬ。いかにいかにとすべき。二人のをのこ(男子)ゞにこそにな()われめと、たのもしく思ひ候ひつるに、今年九月五日、月に雲をかくされ、花を風にふかせて、ゆめかゆめならざるか、あわれひさ()しきゆめ()かなとなげ()()り候へば、う()ゝに()て、すでに四十九日()せすぎぬ。まことならばいか()んが()せんいか()んが()せん。()ける花はちらずして、つぼめる花の()れたる。()いたる母はとゞまりて、わか()()()りぬ。なさ()()かりける、無常かな無常かな。かゝるなさけなき国をばいと()()てさせ給ひて、故五郎殿の御信用ありし法華経につかせ給ひて、常住(じょうじゅう)不壊(ふえ)のり()う山浄土へまいらせさせ給え。ちゝ()はりゃうぜんにまします。母は(しゃ)()にとヾまれり。二人の中間にをはします故五郎殿の心こそ、をもいやられてあわ()れにをぼへ候へ。事多しと申せどもとヾめ候ひ了んぬ。恐々謹言。

  十月二十四日       日蓮花押

 上野殿母尼御前御返事


     九十五、時光の蘇生 につづく


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by johsei1129 | 2017-09-19 21:36 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 19日

九十三、青年時光への薫陶

時光は足しげく甲斐にむかった。

彼の日蓮にたいする疑いは微塵もない。それだけに敵も雲のようにわいた。

日蓮はあらゆる法敵に立ちむかう手はずを細かく教えた。その内容は、現代のわれわれにも目に浮かぶように生々しい。日蓮五十六歳、時光二十一歳の手紙である。

さるにては、殿は法華経の行者に()させ給へりとうけ給はれば、もってのほかに人の()たしきも、()ときも、日蓮房を信じてはよもまど()いなん、(かみ)御気色(みけしき)もあしくなりなんと、かたう(方人)どなるやうにて御()くむ()候なれば、賢人までも人のたばかりをそ()ろしき事なれば、一定法華経すて給ひなん。なかなか()へてありせばよかりなん、大魔のつきたる者どもは、一人をけうくんし()としつれば、それをひっかけ(引懸)にして多くの人を()()とすなり。(中略)さればこの甲斐国にも少々信ぜんと申す人々候へども、おぼろげならでは入れまいらせ候はぬにて候。なかなかしき人の信ずるやうにてなめり(乱言)て候へば、人の信心をもやぶりて候なり。

たゞをかせ給へ。梵天・帝釈の御計らひとして、日本国一時に信ずる事あるべし。()の時我も(もと)より信じたり我も本より信じたりと申す人こそ、をゝ()()はせずらんめとおぼえ候。『上野殿御返事


真正面からくる敵は見破りやすい。味方のようにみせかけて、やさしく近づく者が一番あぶないといっている。

退転者は教団を乱し、多くの人をさそって悪道におとした。日蓮は身延山にはいったあとも、目に見えて強信な者しか弟子にしないという。おぼろげな者はうけつけない。「なかなかしき」とは現代の意味とは反対で、どっちつかずで中途半端という意味である。生半可な信徒はかえって他人の信心をやぶってしまう。数々の大難をのりこえ、多くの弟子を観察した結論だった。

ここで日蓮は不思議なことをいった。

日本国のすべての民が一同に信ずることが来るという。その時、もとから信じていたと言いだす者があわわれると。

日蓮はこのほか、こと細かに時光に指導した。それほど時光への世間の中傷ははげしかった。日蓮はまれにみる器量の弟子に心魂をそそいだ


我が命は事出できたらば(かみ)にまいらせ候べしと、ひとへにをもひきりて、何事につけて(ことば)をやわらげて法華経の信をうす()くなさんずるやうをた()かる人出来せば、我が信心を()ろむるかとおぼして、各々これを御()うくん()あるはうれしき事なり。たゞし、御身をけうくんせさせ給へ。上の御信用なき事はこれに()りて候を、上を()おど()させ給ふこそをかしく候へ。参りてけうくん申さんとおもひ候ひつるに、うわて(上手)うたれまいらせて候。閻魔(えんま)王に、我が身い()をしとおぼしめす()と子とをひっぱられん時は、時光に手をやすらせ給ひ候はんずらんと、()()にうち()ひておはすべし。
 訳:自分の命に万が一のことがあれば、主君の時宗様にさしあげましょうと,かたく思い切って何事も言葉を和らげていきなさい。法華経の信を薄くしようとすることを企む人が出て来たならば、私の信心を試しているのかと思って「あなた方が私を教訓してくれるのは嬉しいことである。しかし、御自身を教訓なされるがよい。主君の信用がないことは私も知っているのに、主君を持ち出して脅されることこそ、おかしいことである。出かけて行って教訓しようと思っていたのに、先手を打たれてしまった。閻魔王に自分自身と大切な妻子がひっぱられる時には、時光に手をすり合わされることであろう」と、憎らしげに、言い置かれるがよい。

 

日蓮はいまだに幕府に憎まれている。

時光もおなじだった。

心ない人々はいう。幕府につかえる地頭でありながら日蓮に味方すると。しかし時光にとっては幕府の威厳よりも日蓮への思慕のほうが勝っていた。

主君時宗の信用がないのは承知であるのに、主君をもちだして信心をおどそうとする者がいる。日蓮はこのような人々には悪態をもって扱えという。

時光は翌年の七月、白麦一駄と生姜(しょうが)をおくった。

身延山中は食糧がとだえていた。各地にいる弟子檀那は疫病と飢饉のために、日蓮を助けたくとも思うようにならない。

時光はこの絶望的な中にも、けわしい山河をこえて(かて)をとどけている。

日蓮は時光のありがたさに、すぐに返書をおくった。日蓮の肉声が聞こえるかのような消息だった。

今日蓮は聖人にはあらざれども、法華経に名をたてり。国主ににく()まれて我が身をせく上、弟子かよう(通行)人をも、或は()り、或はうち、あるは所領をとり、或はところをおふ。かゝる国主の内にある人々なれば、たとひ心ざしあるらん人々()ふ事なし。此の事事ふりぬ。なかにも今年は疫病(やくびょう)と申し、飢渇(けかち)と申し、とひくる人々もすくなし。たとひや()ひなくとも飢ゑて死なん事うたがひなかるべきに、麦の御と()らひ(こがね)にもすぎ(たま)にもこえたり。彼の()()ひえ()は変じて金人となる。此の時光が麦、何ぞ変じて法華経の文字とならざらん。此の法華経の文字は釈迦仏となり給ひ、時光が故親父の左右の御羽となり霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)へとび給へ。かけり給へ。かへりて時光が身を()ひはぐくみ給へ。恐々謹言。 『時光殿御返事


          九十四、南条一族の病魔 につづく


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by johsei1129 | 2017-09-19 21:26 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 19日

九十二、南条時光の信仰

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                            (日蓮大聖人御一代記より)

 南条時光は北条家の家臣で氏は平氏である。伊豆国南条郷(静岡県田方郡韮山町)を本領とするため南条と名のった。また父の兵衛七郎が、駿河国富士郡上野郷(静岡県富士宮市上野)に地頭として移住したので上野殿とも呼ばれた。
 南条家の信心はこの父兵衛七郎からはじまる。

彼は性格温厚で情がふかく、夫人も温良な人柄で、五男四女に恵まれた。

兵衛七郎は鎌倉在勤の時に日蓮に帰依して行増と名のった。しかしそれまでの念仏を捨てきれず病床に伏していたが、日蓮から消息をおくられた事を機縁に、念仏の執情を断ち切って法華経の信仰をつらぬいた。

当時、四十三歳だった日蓮は病床の兵衛に慈愛に満ちた消息をおくっている。


もしさき()()ゝせ給はゞ、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給ふべし、日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりと()()らせ給へ。よも()しん()なきことは候はじ。(ただ)一度は念仏、一度は法華経( )()へつ、二心ましまし、人の聞くには()かりなんどだにも候はゞ、よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ、のちにうら()みさせ給ふな。但し又法華経は今生のいの()りとも成り候なれば、もしやとして()きさせ給ひ候はゞ、あはれとくとく見参(げんざん)して、み()から申しひらかばや。語は()みに()くさず、ふみは心をつくしがたく候へばとゞめ候ひぬ。恐々謹言。 『南条兵衛七郎殿御書;文永元年十二月十三日』 

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芳心とはかんばしい心、美しい心、親切な心をいう。日蓮は兵衛に『もし日蓮より先に旅立たれたならば、梵天・帝釈天・四大天王・閻魔大王等に申しあげなさい。日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりと名乗りなさい。よもや粗末に扱われることはないであろう」と約束した。
 しかし日蓮の励ましをうけながらもすでに兵衛の病状は重く、この消息を送られた三ケ月後の翌文永二年三月八日、短い生涯を閉じることになる。
 おしまれる死去だった。

長男の時光が七歳、弟の五郎がまだ母のお腹にいる時だった。兵衛は三十歳になっていたかどうかの若さで世を去ったのである。

妻のなげきはつきなかったが、兵衛の臨終の相はすばらしかったという。
 このとき日蓮は、富士上野の南条家にわざわざ下向し兵衛の墓に参った。
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そして夫亡きあと、末永く信心をたもち立派に子供を育てている南条後家尼御前を激励する。くわえて成長した長男の時光が亡き兵衛と瓜二つだったと記している。

鵞目(がもく)十連・かわ()のり()二帖(にじょう)・し()うかう二十束給び候ひ(おわ)んぬ。

かまくら(鎌倉)にてかりそめの御事とこそ()もひまひらせ候ひしに、(思 )もひわす()れさせ給はざりける事申すばかりなし。こう(故上)()どの(殿)だにも()はせしかば、つねに申しうけ給はりなんとなげ()きをもひ候つるに、をん()かた()()に御みをわか()くしてとゞめをかれけるか。す(姿)たの()がわせ給はぬに、御心さえ()られける事いうばかりなし。法華経にて仏にならせ給ひて候とうけ給はりて、御はか()にまいりて候ひしなり。又この御心ざし申すばかりなし。今年の( )かち()にはじめたる山中(さんちゅう)に、()のもとにこの()()うち()しきたるやうなるす()か、をもひやらせ給へ。このほど()み候御経の一分を()との(殿)()(こう)しまいらせ候。あはれ人はよき()()つべかりけるものかなと、な()だかきあえずこそ候へ。(みょう)荘厳(しょうごん)(のう)は二子にみ()びかる。かの王は悪人なり。()うえの(上野)どの(殿)は善人なり。()れには()るべくもなし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 『南条後家尼御前御返事

七歳の時光は父兵衛の家督をつぎ、後家尼御前にあたたかく守られて成長していく。

また時光は驚くことに、父の純粋無垢な信心をそのままうけついだ。法華経を信仰することにまったくの疑いがない。物心ついたときから日蓮のもとに供養をおくりつづけた。

日蓮も時光の純粋無垢な信仰心に心打たれる。まるで父兵衛の純信が、子の時光にのりうつったかのようであると。

時光は地頭職の公務のかたわら、甲斐身延の山中に里芋(さといも)を送ったことがある。時光十六歳、日蓮五十四歳の時だった。

日蓮は書をおくり、時光を激励した。そこには早くも時光の信心に反対する勢力があったことがしるされている。

若い彼になにかと意見する者がいる。ことに人々が忌みきらう日蓮に肩入れをしてはいかがなものか、といってくる者がいた。上野郷のある駿河は幕府高官の所領がちらばっている。日蓮が弾圧されている渦中に、法華経をたもつには難儀な環境だった。

 日蓮はあらゆる弟子とおなじく、強盛な志をもてという。

此の身のぶ()さわ()は石なんどはおほく候。されどもかゝるものなし。その上夏のころなれば民のい()まも候はじ。又御造営と申し、さこそ候らんに、山里の事ををも()ひやらせ給ひて()りたびて候。所詮は()をや()のわかれのをしさに、父の御ために釈迦仏・法華経へまいらせ給ふにや、孝養の御心か。さる事なくば、梵王・帝釈・日月・四天その人の家をす()かとせんとちか()はせ給ひて候。いふにかひなきものなれども、約束と申す事はたがへぬ事にて候に、さりともこの人々はいかでか仏前の御約束をばたが()へさせ給ふべき。もし此の事まことになり候はゞ、わが大事とおもはん人々のいし(制止)候。又おほ()きなる難来たるべし。その時すでに此の事かなうべきにやとおぼ()()して、いよいよ強盛なるべし。さるほどならば聖霊・仏になり給ふべし。成り給ふならば来たりてま()り給ふべし。其の時一切は心にまか()せんずるなり。かへすがへす人のせいし(制止)あらば心にうれしくおぼすべし。恐々謹言。

同じ年の七月、時光は白麦一俵、小白麦一俵、河海苔(のり)五帖をおくった。白麦とは精白した麦のこと。河海苔は山間の渓流の石上に生ずる緑藻である。

日蓮は感謝の書をおくった。追伸には人生の先輩として、処世の心がまえをのべている。そこにはわが子のような心情がよみとれる。遠い甲斐にいながら、父にかわって若い時光に目をかけようとしたのだろう。

この()の中は、いみじかりし時は何事かあるべきと()えしかども、当時はことにあぶなげにみえ候ぞ。いかなる事ありともなげ()かせ給ふべからず。ふつとおも()ひきりて、()りょ()うなんどもたが()ふ事あらば、いよいよ悦びとこそをもひて、()うそ()ぶきてこれへわたらせ給へ。所地しらぬ人もあまりにすぎ候ぞ。当時つくし(筑紫)へむかひてなげ()く人々は、いかばかりかとおぼす。これは皆日蓮を、かみの()なづらせ給ひしゆえなり。『南条殿御返事

手紙のとおり、いまだ世情は安定していない。しかしどんな逆境にあっても、よろこびの心で対処せよという。所領さえも惜しんではならないという。そして自分のところに会いにきなさいといっている。

蒙古の不安もつづいていた。この災いの根本は執権時宗が日蓮を(さげす)んで見ているからだという。

 水が清ければ月はやどる。

時光の富士の清流のような汚れのない信仰心は、日蓮を突き動かした。日蓮はそんな時光がかわいくてしかたがない。

同じ五十四歳の時の手紙には、賢人・聖人とよばれる振舞を説いている。仏法の四恩、外道の四徳、いずれも現代人が忘れた教えである。

日蓮は父親のかわりとなって説く。

三世の諸仏の世に出でさせ給ひても、皆々四恩を報ぜよと説き、三皇・五帝・孔子・老子、(がん)(かい)等の(いにしえ)の賢人は四徳を修せよとなり。四徳とは、一には父母に孝あるべし、二には主に忠あるべし、三には友に()って礼あるべし、四には劣れるに逢ふて慈悲あれとなり。

 一に父母に孝あれとは、たとひ親はものに覚えずとも、()しざまなる事を云ふとも(いささか)も腹を立てず、誤る顔を見せず、親の云ふ事に一分も(たが)へず、親によき物を与へんと思ひて、せめてやる事なくば一日に二三度()みて向かへとなり、二に主に合ふて忠あるべしとは、いさゝかも主にう()ろめたなき心あるべからず。たとひ我が身は失はるとも、主には()まへて()かれと思ふべし。かく()れての信あれば、あらわれての徳あるなりと云云。三には友にあふて礼あれとは、友達の一日に十度二十度来たれる人なりとも、千里二千里来たれる人の如く思ふて、礼儀いさゝか()()に思ふべからず。四に劣れる者に慈悲あれとは、我より劣りたらん人をば我が子の如く思ひて一切あはれみ慈悲あるべし。此を四徳と云ふなり。是くの如く振る舞ふを賢人とも聖人とも云ふべし。此の四の事あれば、余の事にはよからねどもよき者なり。是くの如く四の徳を振る舞ふ人は、外典(げてん)三千巻をよまねども、読みたる人となれり。 『上野殿御消息(四徳四恩御書):建治元年』

 日蓮は、時光が幼い時に父親を失ったために、身近な教訓をうけることができない虚しさを知っていた。そのため自分が父親がわりになって立派に成長させようと懸命だった。


        九十三、青年時光への薫陶 につづく


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by johsei1129 | 2017-09-19 06:57 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)