日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

2017年 09月 18日 ( 15 )


2017年 09月 18日

九十一、千日尼と阿仏房

佐渡で日蓮に帰依した阿仏房と国府入道の夫妻は日蓮を最後まで守りとおした強信者である。夫妻は日蓮が赦免され佐渡を去ったあとも、流罪中に人目を忍んで供養した日々の事を忘れることができなかった。

聞けば日蓮は鎌倉をはなれ、甲州の身延という山にこもったという。日蓮が佐渡をはなれたときは弾圧から解放されたばかりだった。あまりに唐突な別れから一年がすぎた。いとしさは募るばかりだった。

阿仏房と国府入道は甲州行きを決意し準備にとりかかった。

これには妻の力をかりなければならない。千日尼は阿仏房を、是日尼は国府入道をはげまし甲斐へおくった。

日蓮の感激はひとかたでない。

その様子を知るのには、のこされた史料があまりにも少ない。いまはほとんど推測するだけだが、わずかに是日尼へあてた手紙の断片がのこっている。尼のおかげで夫が身延にくることができた。日蓮は妻の功に感謝する。

()()の国より此の甲州まで入道の来たりしかば、あらふしぎ(不思議)やとをも()ひしに、又今年来て()つみ、水くみ、た()ぎこり、だん()王の()()仙人(せんにん)につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ。()でをもちてつくしがたし。これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし。又御本尊一ぷくかきてまいらせ候。霊山浄土にてはかならずかならず()()ひたてまつるべし。恐々謹言。

卯月十二日          日蓮花押

尼是日               『是日尼御書

「法華経を我が得しことは(たきぎこり()つみ水くみつかへしぞ得し」(拾遺和歌集)

日蓮は奈良時代の高僧行基の和歌をひいている。行基は檀王が阿私仙人につかえたように、日々給仕して法華経を体読したという。

檀王とは釈迦の過去世の姿、阿私仙人は提婆達多の過去世の姿である。妙法蓮華経提婆達多品第十で、檀王は阿私仙人に千年のあいだ身を粉としてつかえ、今の釈迦仏となった。日蓮は国府入道が檀王であり「霊山浄土にてはかならずかならずゆきあひたてまつるべし」と約束している。そしてこの大功徳により是日尼も成仏すると、その志を称えている。

 提婆達多品の阿私仙人の下で檀王が修行した話は、平安時代の歌人藤原俊成も次のように和歌を詠んでいる。

「薪こり峰の木の()をもとめてぞ、()がた()法は聞きはじめける」


国府入道同様、佐渡の法友阿仏房も負けじと日蓮をたずねた。

日蓮の感激はこれまたひとかたでない。そしてその思いは妻、千日尼への深い感謝となった。

千日尼の年齢はさだかでない。だが阿仏房の年からすると、かなりの高齢であったことはまちがいない。

日蓮はつらかった佐渡の日々を述懐した。

  而るに日蓮佐渡国へながされたりしかば、彼の国の守護等は国主の御計らひに随って日蓮をあだむ。万民は其の命に随う。念仏者・禅・律・真言師等は鎌倉よりもいかにもして此へわたらぬやう計れと申しつかわし、極楽寺の良観等は武蔵(むさし)前司(ぜんじ)殿の(わたくし)御教書(みきょうしょ)を申して、弟子に持たせて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計らひはさてをきぬ。地頭・地頭等、念仏者・念仏者等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて、かよ()う人をあるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつ()をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世かわす()らむ。只悲母(はは)の佐渡国に生まれかわりて有るか。(中略)

  法華経には過去に十万億の仏を供養せる人こそ今生には退せぬとわみへて候へ。されば十万憶供養の女人なり。其の上、人は見る眼の前には心ざし有れども、さしはなれぬれば、心は()すれずともさてこそ候に、去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間此の山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし。『千日尼御前御返事

          

この消息で日蓮は千日尼を「十万億供養の女人」とよんでいる。これほどの賛辞がほかにあろうか。

夫の阿仏房は弘安二年三月二十一日、亡くなった。九十一歳と伝えられる。日蓮はふかい悔やみをのべて回向した。

日蓮は未亡人となった千日尼に手紙を書く。

されば故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑ふとも、法華経の明境をもって其の影をうかべて候へば、(りょう)鷲山(じゅせん)の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東()きにをはすと日蓮は見まいらせて候。若し此の事そら()ごと()にて候わば、日蓮がひがめにては候はず、釈迦如来の『()尊法(そんほう)久後(くご)要当説(ようとうせつ)真実(しんじつ)()御舌(おんした)と、多宝仏(たほうぶつ)の『妙法華経、(かい)()真実(しんじつ)』の舌相(ぜっそう)と、四百万億那( な)()()の国土にあさ()のごとく、()ねのごとく、星のごとく、竹のごとくぞく()()くとすきもなく(つら)なりゐてをはしましゝ諸仏如来の、一仏も()け給はず(こう)長舌(ちょうぜつ)大梵(だいぼん)王宮(のうぐう)()し付けてをはせし御舌(おんした)どもの、く()らの死にてくさ()れたるがごとく、い()しのよりあつまりてくされたるがごとく、皆一時に()ちくされて、十方(じっぽう)世界(せかい)の諸仏如来大妄語の罪に()とされて、寂光の浄土の金るり(瑠璃)の大地、はたと()れて、提婆(だいば)がごとく無間(むけん)大城(だいじょう)にかぱと入り、(ほう)(れん)(こう)比丘尼(びくに)(注)がごとく身より大妄語の猛火ぱといでて、実報(じっぽう)()(おう)(注)の花のその()一時に(かい)じん()の地となるべし。いかでかさる事は候べき。故阿仏房一人を寂光の浄土に入れ給はずば諸仏は大苦に()ち給ふべし。たゞをいて物を見よ物を見よ。仏のま()と・そら()事は此にて見奉るべし。『千日尼御返事


いま阿仏房は霊鷲山にある多宝仏の宝塔の中にいるという。阿仏房はそこで東むきの座にいて成仏しているという。もしこの事がいつわりならば、釈迦をはじめすべての諸仏の舌がくさるという。そしてすべての諸仏が無間地獄に突き落とされるという。阿仏房は必ず成仏するという日蓮の確信が、文中にみなぎっている。
 夫がいかに日蓮を慕っていたかを間近に見ていた千日尼にとって、これほどまでに称える日蓮の手紙は、夫を支えてきた自分自身の人生をも讃えられていると感じいったことだろう。


いへにをとこなければ人のた()しゐなきがごとし。くう()()をばたれ()にか()ゐあわせん。よき物をばたれにかやしなうべき。一日二日たが()いしをだにもをぼつかなしとをもいしに、こぞ(去年)の三月廿一日にわかれにしが、こぞもまちくらせどもみゆる事なし。今年もすで()に七つき()になりぬ。たといわれこそ来たらずとも、いかにをと()づれ()はなかるらん。ちりし花も又さきぬ。をちし(このみ)も又なりぬ。春の風もかわらず、秋のけしきもこぞのごとし。いかにこの一事のみかわりゆきて、本のごとくなかるらむ。月は入りて又いでぬ。雲はきへて又来たる。この人の出でてかへらぬ事こそ天もうらめしく、地もなげかしく候へとこそをぼすらめ。いそぎいそぎ法華経をら()れう()とたのみまいらせ給ひて、り()()ん浄土へまいらせ給ひて、みまいらせさせ給ふべし。 『千日尼御返事

千日尼は日蓮の称賛にこたえるように信心の灯を絶やさない。

彼女は子の遠藤藤九郎守綱に託して、はるか甲斐身延山に夫の遺骨をおさめた。そしてまた翌年、守綱に墓を弔わせている。

おそらく阿仏房は自分の遺骨は佐渡ではなく、はるか離れた日蓮のもとに置くよう遺言していたものと思われる。それほど阿仏房は日蓮に帰依する思いが強かった。またそれを支えた千日尼の信仰心もただものではない。
 守綱青年は千日尼の薫陶もあって強盛な信徒に育った。佐渡・北陸の弘教につとめ、のちに出家して後阿仏房と称した。さらに自邸をあらためて阿仏坊妙宣寺としたといわれる。

日蓮は、夫亡き後も強盛な信をつらぬく千日尼及び子藤九郎守綱への賛辞を惜しまない。


 而るに故阿仏聖霊は日本国北海のい()すの()りしかども、後世ををそれて出家して後世を願ひしが、流人(るにん)日蓮に()ひて法華経を持ち、去年(こぞ)の春仏になりぬ。尸陀(しだ)(さん)()(かん)(注)は仏法に()ひて、生をいとい死を願ひて帝釈(たいしゃく)と生まれたり。阿仏上人は濁世(じょくせ)の身を(いと)ひて仏になり給ひぬ。其の子藤九郎(とうくろう)(もり)(つな)は此の(あと)をつぎて一向法華経の行者となりて、去年は七月二日、父の舎利(しゃり)(くび)()け、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登りて法華経の道場に此をおさめ、今年は又七月一日身延山に登りて慈父のはかを拝見す。子にすぎたる(たから)なし、子にすぎたる財なし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。  『千日尼御返事

 ちなみに現在の佐渡市・妙宣寺には、日蓮のご消息文三巻(国府尼御前御返事、千日尼御前御返事、千日尼御返事:国重要文化財)と、千日尼、阿仏房にそれぞれ与えられた日蓮直筆の御本尊二幅が所蔵されている。



               九十二、南条時光の信仰 につづく


下巻目次


法蓮香比丘尼

宝蓮香比丘尼とも書く。大仏頂首楞厳経巻八に説かれている尼。大妄語の罪により、体の節節から猛火を出して、生きながらにして無間地獄に堕ちたという。

実報華王

 実報は実報土・蓮華蔵世界、華王は華厳経の教主・盧遮那仏のこと。

 尸陀山の野干

尸陀山はインドの毘摩(びま)大国にあった山。夜干は狐の一種。未曾有経巻上によると、この山に住んでいた野干が師子王に追われて(かれ)井戸に落ち、三日を経て餓死する寸前に、万物の無常を嘆き、仏に帰命して罪障消滅を願う一偈を説いた。これを聞いた帝釈は諸天を率いて説法を請うたといわれる。



by johsei1129 | 2017-09-18 21:45 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 18日

九十、大尼御前への思い

信徒の中でも退転した者は数えきれない。

その中に女性も数多くいた。

彼女たちは世間の恐ろしさといい、日蓮への不信といい、自身の不明もあって信仰を捨てた。

大尼御前もその一人である。

日蓮の両親は大尼から経済的な援助をうけ、日蓮も大尼の恩をうけて世に出ることができた。大尼もはじめは日蓮を崇拝していた。

しかし大尼は竜の口、佐渡流罪とつづく大難の中で信心を捨ててしまった。信心強盛に見えたが、いったん日蓮が苦境におちいるとぐらついた。

日蓮は五十四歳の時、大尼の嫁にあたる新尼という女性に消息をおくっている。佐渡から甲州にはいった翌年である。

新尼は大尼のように佐渡流罪の時も退転せず、かろうじて法華経信仰を貫いた。

日蓮はその新尼には本尊を下付したが、大尼には与えなかった。新尼にその心中を語る。

  日蓮が重恩の人なれば(たす)けたてまつらんために、此の御本尊をわたし奉るならば(じゅう)羅刹(らせつ)(さだ)んで偏頗(へんぱ)法師(ほつし)とをぼしめされなん。又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗はなけれども、尼御前我が身のとが()をばしらせ給はずしてうら()みさせ給はんずらん。此の(よし)をば委細(いさい)助阿闍(すけのあじゃ)()の文にかきて候ぞ。召して尼御前の見参(げんざん)に入れさせ給ふべく候。

  御事にをいては御一味なるやうなれども御信心は色あらわれて候。()()の国と申し、此の国と申し、度々の御志ありてたゆ()むけしきはみへさせ給はねば、御本尊はわたしまいらせて候なり。それも(つい)にはいかんがとをそれ思ふこと、薄氷(うすらい)をふみ太刀(たち)(むか)ふがごとし。くは()しくは又々申すべく候。それのみならず、かまくら(鎌倉)にも御勘気の時、千が九百九十九人は()ちて候人々も、いまは世間やわ()らぎ候かのゆへに、()ゆる人々も候と申すに候へども、此はそれには似るべくもなく、いかにもふび(不便)んには思ひまひらせ候へども、骨に肉をば()へぬ事にて候へば、法華経に相違せさせ給ひ候はん事を叶ふまじき(よし)、いつまでも申し候べく候。恐々謹言。

二月十六日         日蓮花押

新尼御前御返事

 日蓮は新尼に本尊を与えたが、その心中は薄氷を踏み、太刀にむかうように不安をおぼえるといっている。新尼は佐渡の日蓮を支援し、甲斐の山中にも供養の品々を送りとどけている。それでも心もとないという。強信をつづけるのはそれほど困難である。

 義理ある大尼でも本尊はあたえない。

骨とは信心であり、肉とは過去の恩である。骨は肉には代えられない。過去の恩にかえて、おのれの信念を曲げるわけにはいかない。

 大尼はこの道理がわからない。彼女は日蓮が幼いころから手塩にかけて育てたのにと、うらぎられた思いしかなかった。

この仏法はすでに日蓮だけのものではなくなっている。ここでたわむれにも大尼の願いを聞けば、法華経の守護神である十羅刹から非難されるとまでいっている。

また日蓮は大尼に本尊をあたえたとしても、彼女はいずれまた退転するであろうことを見ぬいていた。大尼はそれほど縁に紛動されやすかった。

しかし日蓮は大恩ある彼女をわすれない。

故郷清澄寺への手紙には、大尼への熱い思いをしるす。翌年五十五歳の時だった。


領家の尼ごぜんは女人なり、愚癡なれば人々のいひを()せば、さこそとましまし候らめ。されども恩をしらぬ人となりて、後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ不便に候へども、又一つには日蓮が父母等に恩をか()らせたる人なれば、いかにしても後生をたすけたてまつらんとこそいのり候へ。

 だがこの努力もむなしく、大尼は正信にめざめなかったようである。

日蓮は彼女にひときわ厳しい消息をおくる。晩年五十九歳の時だった。

  ごく()そつ()えん()()王の(たけ)は十()ばかり、面は()をさし、眼は日月のごとく、()まん()ぐわ()の子のやうに、く()しは大石のごとく、大地は船を海にうかべたるやうにうごき、声はらい()のごとくはたはたと()りわたらむには、よも南無妙法蓮華経とはをほ()せ候はじ。日蓮が弟子にてはをはせず。よくよく内をしたゝめて、を()せをか()り候はん。なづき(頭脳)をわり、()()めていのりてみ候はん。たゞ()()きのいのりとをぼ()しめせ()。これより後はのちの事をよくよく御かため候へ。恐々謹言。

九月九日           日蓮花押

  大尼御前御返事

 大尼の臨終の時に閻魔王の怪物が登場するという。

 まんぐわとはまぐわのことで、牛や馬に引かせて土をかきならす農具である。横の()に刃を(くし)状にとりつける。今の日本ではめったにみられないが、つい最近まで使われていた。閻魔王の歯はこのとがった刃のようだという。

日蓮は頭蓋骨をわるように身を痛めて祈れという。

神仏の信仰は今よりもはるかに厚かった時代である。大尼はこれを読んでふるえあがったろう。大恩ある大尼だけに、彼女を成仏させようという厳しさはひととおりでなかった。


           九十一、千日尼と阿仏房 につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2017-09-18 21:28 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 18日

八十九、女性信徒への手紙 二 妙法比丘尼・持妙尼・内房御前

f0301354_16492079.jpg

 女性は夫という伴侶があって輝く。日妙のように信心を先として離縁した女性はまれである。日蓮も「女人は男の為に命を()つ」という。

 その愛する夫に先立たれた嘆きは、いかばかりか。たがいの愛情が深ければなおさらである。それは女性の身になってみなければわからない。墨染(すみぞめ)の衣に身をやつし、まどろめば夢に見、さめれば面影に立つ。

日蓮は手紙の中で、女性の心中にわけいり悲愁の思いを同じくしている。大難はものともしない日蓮だが、人々の悲しみは自分のこととして同情をよせた。あらゆる悲嘆に無関心ではいられなかった。

尾張の次郎兵衛という人が亡くなった。死因は定かではない。ただ幼い子をのこして亡くなったというから、若死だったようである。

妻のなげきはひとかたでない。

日蓮は妻の心情をくみとり、一書を送った。

是はさておきぬ。彼の女房の御歎きいかゞとをしはかるにあはれなり。たとへばふぢ()はな()のさかんなるが、松にかゝりて思ふ事もなきに、松のには()かに()ふれ、つた()かき()にかゝれるが、かきの破れたるが如くにをぼすらん。内へ入れば主なし。やぶ()れたる家の柱なきが如し。客人(まろうど)来れども外に出でてあひしらうべき人もなし。夜のくらきには、ねや()すさまじく、はか()をみれば、しるしはあれども声もきこへず。又思ひやる死出の山、三途の河をば誰とか越え給ふらん、只(ひと)り歎き給ふらん。とゞめをきし御前たちいかに我をば()とり()るらん。さはちぎ()らざりとや歎かせ給ふらん。かたがた秋のふけゆくまゝに、冬の嵐のをとづるゝ声につけても、弥々(いよいよ)御嘆き(おも)り候らん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。   妙法比丘尼御返事

閨とは寝室。すさまじくとは殺風景で冷ややかという意味である。ひとりのこされた婦人の苦しい心情を、自分のことのようにしるしている。

また持妙尼という未亡人にあてた手紙がある。

彼女は伯耆房日興の叔母で、高橋六郎兵衛の妻であったといわれる。

持妙尼は亡き夫の命日に、供養の金銭を師日蓮に送った。
 日蓮は深い愛情を()でている。

内容は心にしみわたるものがある。日蓮、五十五歳の時の手紙という。
 ここに全文をのせる。

 御そうぜん(僧膳)れう()送り給び候ひ(おわ)んぬ。すでに()入道殿のかくるゝ日にておはしけるか。()かう()まぎれ候ひけるほどに、うちわす(打忘)れて候ひけるなり。よもそれにはわす()れ給はじ。

  ()()ともうせしつわものは、漢王の御使ひに胡国(ここく)と申す国に入りて十九年、めもをと(女夫)こをはなれ、をとこもわするゝ事なし。あまりのこひ()しさに、おとこの衣を秋ごとにき()たのう()にて()ちけるが、おも()ひや()をりてゆきにけん、おとこの()ゝにきこへけり。ちん()()(注)といゝしものは、めをとこ(婦夫)はな()れけるに、()ゞみを()りてひとつづつ()りにけり。わするゝ時はとり()とびさり(飛去)けり。さうし(相思)といゐしものは、おとこを()ひては()にいたりて木となりぬ。相思樹(そうしじゅ)(注)と申すはこの木なり。大唐(だいとう)へわたるにしが(志賀)の明神(注)()と申す神をはす。おとこのも()こしへゆきしをこひて(かみ)となれり。しま()のすがたを()なににたり。まつらさよ(松浦佐与)ひめ()(注)といふ是なり。()にしへよりいまにいたるまで、をやこのわかれ、主従のわかれ、いづれか()らからざる。されどもを()こを()なのわかれほどた()げなかりけるはなし。過去遠々(おんのん)より女の身となりしが、このをとこ娑婆(しゃば)最後のぜん()()しき()(注)なりけり。

  ()りし()なをちしこのみは()きむすぶ いかに()人のかへらざるらむ

  こぞ(去年)()くことしもつらき月日かな おもひはいつも()れぬものゆえ

 法華経の題目となへまいらせて、まいらせ候へ。

  十一月二日          日蓮花押

持妙尼御前御返事

男女の別れほど尊いものはないという。恋愛を経験しなければ、いえない一言ではないだろうか。日蓮は恋愛の経験があったのだろうか。そう思わせるほどこの手紙は男女の情感に迫るものがある。
「散った花、落ちた木の実は(次の年には)再び咲き結ぶのに、なぜ亡くなった人は帰らないのだろうか」
「去年も悲しく、今年もつらい月日なのか、愛する夫を失った思いはいつも晴れないものだから」
 日蓮の消息で書かれることは極めてめずらしいこの二首の和歌は、持妙尼の心中をうたっている。「あなたの思いは日蓮はよくわかっております」という、持妙尼御前に強く共感している内容で、人間日蓮の一面がよく現れている。
 亡くなった夫のことをいつまでも想い続けるのは、仏法の見方からすれば凡夫の煩悩といってよい。しかし失った夫への思いにとらわれている女人に理を説いても通じない。
 法華経を象徴する白蓮華は他の草花・木花と異なり、泥中に大輪の清浄な白い花を咲かせる。これは煩悩即菩提を意味する。法華経は煩悩を滅することなく、その情念を菩提すなわち悟りへと昇華させる。日蓮は持妙尼の夫への思慕心に共感すると同時に「法華経の題目をとなへまいらせて、まいらせ候へ」と持妙尼にその思いを法華経に伝えるよう促し、煩悩の昇華を法華経に委ねるのだった。

内房(うつぶさ)の尼御前は現在の静岡県庵原郡内房に住んでいた。
 尼は日蓮の母親のような高齢であった。信心は純粋なようにみえたが、ある時、神社に参拝したついでに身延の日蓮をたずねようとした。

日蓮は神社に参拝するという謗法を尼御前が犯したことを聞き、謗法を犯したばかりの信徒と直ちに会うことにためらい、会おうとせず尼御前をかえした。尼御前は理由がわからず、途方にくれた。だが日蓮は会うわけにはいかない。いっぽうでこのことを不審に思う彼女を退転させてもいけなかった。

日蓮は三沢小次郎という信徒に、内房の尼に会わなかった理由を説明して尼御前の気持ちをはらし、信心に疑いをもたないよう説得を依頼している。

日蓮は内房の尼のほかにも、物見遊山で身延の草庵に見学にくる信徒を追いかえしている。

うつぶさ(内房)の御事は御としよ(年寄)らせ給ひて御わたりありし、いた()わしくをも()ひまいらせ候ひしかども、うぢが(氏神)みへまい()りてある()いでと候ひしかば、げざ(見参)んに入るならば定めて()みふかゝるべし。其の故は神は所従なり、法華経は主君なり。所従のついでに主君への()ざん()は世間にもをそれ候。其の上(あま)御身(おんみ)になり給ひてはまづ仏を先とすべし。かたがたの御とが()ありしかば、げざ(見参)せず候。此又尼ごぜん一人にはかぎらず、其の外の人々も、()()のゆのついでと申す者を、あまた()()へして候。尼ごぜんはをや()のごとくの御としなり。御なげきいたわしく候ひしかども、この義をしらせまいらせんためなり。  『三沢抄

     
    九十、 大尼御前への思い につづく


下巻目次


                             注

 ちんし

陳子。中国六朝時代の故事に出てくる人物。陳の国の太子に仕えていた(じょ)(とく)(げん)が妻との離別に際して、鏡を()りその半分を妻に渡した。のち半鏡を探し出した夫は妻の居所を知ったが、その時、妻はすでに他人の妻となっていたという。大平広記にある。また一説には同じく夫婦離別の際、鏡を破って半片を分けあった。後、その妻が人と通じてしまったとき、鏡はカササギと化して飛び夫の前に至ったという。

 相思樹

中国・戦国時代、夫が従軍して久しく帰らないので、その妻が思慕して死んでしまった。その墓の上に木が生じ、枝葉がすべて夫のいる方を向いていたという。相思樹はこの墓上の木をいう。

 しがの明神

福岡県糠屋郡の志賀島にある志賀海神社の祭神。この明神は志賀の(あら)()安曇(あずみ)()の祭る綿津(わたつ)()の三神で、古くから海の守護神として祭られ万葉集にも歌がのこる。

 まつらさよひめ

松浦佐与姫。肥前国(佐賀県)松浦に住んでいたという伝説的な美女。作用姫とも書く。宣化天皇の頃、任那(みまな)に行く大友狭手彦(おおとものさでひこ)と契りを結んだが、夫との別れを惜しんで山に登り、船にむかって()()(肩かけ)を振り続けたという。その山は領布麾(ひれふり)の嶺と名づけられた。古来、夫婦の別れの悲しさの譬えとして万葉集巻五などをはじめ多くの文学・演劇などにうたわれた。

 ぜんちしき

善知識。正直・有徳の友人のこと。悪知識に対する語。仏・菩薩・人・天等を問わず、人を仏道に導き入れる者をいう。
「善知識と申すは、一向師にもあらず、一向弟子にもあらずある事なり」『開目抄上



by johsei1129 | 2017-09-18 21:17 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 18日

八十八、女性信徒への手紙 一 光日房

f0301354_21552837.jpg
                        (日蓮大聖人御一代記より)

甲斐の山中はさびしい。
人里はなれ、おとずれる者はなく、館には日目らの小僧がいるだけである。
外に聞こえるのは、山猿や鹿のかすかな声だけ。

静寂があたりを支配していた。

人間が幾年もこの中にいるとき、どうしても内省的にならざるをえない。また自然に外からの知らせをまちわびる気持ちがわき、無性に人恋しくなる。

こんな時、なによりもありがたいのは手紙だった。いにしえの人が手紙を大切に保存していたことがうなずける。この時代、手紙とは墨によって人の息づかいや心までも包含する伝達手段だった。つまり手紙自体が生きていた。音信ともいうがまさにそのとおりであったろう。平家物語にも「はかなき筆の跡こそ後の世までの形見」とある。現代人にはわからない感覚である。そのような手紙をうけとった人のよろこびは尋常ではなかった。

 日蓮も同じである。

とりわけ、うちとけた故郷の人からの手紙には、なんども心をなぐさめている。

光日房は日蓮の故郷安房の天津の人である。彼は山中の日蓮を思って手紙をおくった。内容は安房の人々の近況をつづったものであろう。

冬の甲斐山中は雪深く、おとずれる者はいない。手紙をうけとった日蓮の感激はひとかたでない。日蓮は幼少の頃すごした故郷安房に思いを馳せ、自身の波乱万丈の人生をふりかえりながら、長文の返書をしたためた。

この手紙はのちに「種々御振舞御書」と名づけられる。海音寺潮五郎はこの日蓮の「種々御振舞御書」を日本で最初の自伝といっている。この消息がなければ、おそらく本、小説「日蓮の生涯」は書けなかった。現在、日蓮を信奉するわれわれは光日房に感謝しなければならない。

日蓮は消息の末尾に山中における心情をありのままにしるす。


されば鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。女人はみめ形よければ(ねた)む者多し。国を治むる者は他国の恐れあり。(たから)有る者は命危ふし。法華経を持つ者は必ず成仏し候。故に第六天の魔王と申す三界の主、この経を持つ人をば(あなが)ちに(ねた)み候なり。()の魔王、疫病(やくびょう)の神の目にも見えずして人に付き候やうに、古酒に人の酔ひ候如く、国主・父母・妻子に付きて法華経の行者を嫉むべしと見えて候。少しも(たが)はざるは当時の世にて候。日蓮は南無妙法蓮華経と唱ふる故に、二十余年所を追はれ、二度まで御勘気を(こうむ)り、最後には此の山にこもる。此の山の(てい)たらく、西は七面の山、東は天子のたけ()、北は身延山、南は鷹取(たかとり)の山。四つの山高きこと天に付き()さが()しきこと飛鳥もとびがたし。中に四つの河あり。所謂富士河・早河・大白河・身延河なり。其の中に一町ばかり(はざま)の候に庵室(あじち)を結びて候。昼は日をみず、夜は月を拝せず。冬は雪深く、夏は草茂り、問ふ人(まれ)なれば道をふみわくることかたし。殊に今年は雪深くして人問ふことなし。命を()として法華経(ばか)りをたのみ奉り候に御音信ありがたく候。しらず、釈迦仏の御使ひか、過去の父母の御使ひかと申すばかりなく候。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。

日蓮は山中から信徒に手紙をおくった。手紙は真筆や古写本として今にのこるだけでも五百通になんなんとする。

その中でもとりわけ在家・出家の女性にあてた手紙は驚くほど多い。日蓮は「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらうべからず」といったが、そのとおり女性にたいしても男同様、強い信心をうながした。

 この仏法は信徒一人一人の信力によってかがやく。信徒は日蓮がのこした本尊に祈ることによって法華経へ導かれ「福はかさなり候べし」つまり仏性を開き福運を積み重ねることができるという()()()()

 だが信徒によっては、法華経信仰のとらえ方が異なっていたのもまた事実であった。
 願いごとは日蓮が叶えてくれると思った信徒が多数いた。人頼りなのである。祈りが叶わないのは日蓮のせいであると。

 日厳尼もそうだった。

彼女は念仏宗のように、だれかが助けてくれると誤解していた。これでは自身の仏界はひらけない。

 日蓮は「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず」と、日厳尼に強い信心をうながす。日蓮五十九歳の手紙である。

  弘安三年十一月八日、尼(にち)(ごん)の立て申す(りゅう)(がん)の願書、並びに御布施の銭一貫文、又()()かたびら(帷子 )一つ、法華経の御宝前並びに日月天に申し上げ候ひ(おわ)んぬ。其の(うえ)は私に(ばか)り申すに及ばず候。叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮が()がにあらず。水()めば月うつ()る。風ふけば()()るぐごとく、みなの御心は水のごとし。信の()はきはにご()るがごとし。信心のい()ぎよきは()めるがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ。恐々。

  十一月二十九日          日蓮花押

 日厳尼御前御返事


         八十九、女性信徒への手紙 二 へ続く


下巻目次



by johsei1129 | 2017-09-18 21:08 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 18日

八十七、鎌倉幕府の最後

f0301354_16460580.jpg
                                       (鎌倉 東勝寺跡)

  鎌倉の饗宴はつづいていた。

人々は外にでて踊り歌った。夜は全市で(かがり)()がたかれ、おそくまで喧騒がやまなかった。

御家人たちも浮かれていた。なかば半狂乱だった。

無理もない。

一国の滅亡が目前だったのだ。しかも相手は史上最強の蒙古軍団である。それを神風が吹きとばしてくれた。浮かれない者は一人をのぞいていなかった。

その一人、北条時宗はにがい顔でいた。踊りさわいだ御家人たちは、ようやく時宗の様子がおかしいことに気づいた。

場が静粛になった。

時宗が立つ。

「おのおの方、なにをそんなに浮かれておる。秋風にわずかの水で、敵船賊船が沈んだのを勝ったと思ったか。おぬしたちは大将軍を生け取りにしたのか。祈りが成就したなどと、だれがいえる。それで戦果はどうだった。われらはほんとうに勝利したのか。蒙古大王の首は取ったのか」

一同が静まりかえった。

「おぬしらはわかっておらぬ。ここには国を愛し、案ずる者がいない」

時宗を理解する者がだれもいない。

彼はさびしく去った。

執権の苦渋が見てとれる。

時宗の最大の理解者は日蓮であった。時宗は国土防衛に全魂をこめ、日蓮は国土滅亡を叫びつづけた。どちらも国の未来を思うゆえだった。

日蓮を赦免した時宗だったが、ついに日蓮に帰依することはなかった。日蓮は言う。

 涅槃経に説き給はく、末法に入って法華経を謗じて地獄に堕つる者は大地微塵よりも多く、信じて仏になる者は爪の上の土よりも少しと説かれたり。『妙法比丘尼御返事
 

ここで鎌倉幕府の最後、すなわち滅亡の過程を見ていこう。

時宗は弘安の役の三年後に亡くなった。三十四歳の若さだった。国内の治安と蒙古の備えで一生をおわった。神経をすり減らして亡くなったという歴史家もいる。彼の毎日は焦燥でうまっていたのではないだろうか。

相談できる者はだれもいない。

家令の平頼綱は一国の未来を占う相談相手ではない。もう一人の有力者安達泰盛はしょせん外様の御家人である。うっかり胸の内を披露するには危険が大きすぎた。これでは孤独にならざるをえない。悶々とした日々であったろう。

時宗のあとにのこされたのは、わずか十四才の北条貞時だった。当然側近が口をだすことになる。平頼綱と安達泰盛の二人だった。北条の側用人と外様御家人が政務を仕切ればどうなるか。はげしい対立が決定的となった。

一時は安達泰盛が北条の分家を配流するなどして優勢だった。このため外様の御家人がいっせいに台頭しだした。これに不満をもつ北条一族が、平頼綱を先頭にして泰盛を攻撃した。日蓮滅後わずか三年のことである。

この時の状況は奥富敬之・奥富雅子両氏の著作にくわしい。

弘安八年(一二八五)十一月十七日の(さる)の刻(午後五時)、なにも知らずに常のごとくに出仕してきた泰盛親子は、頼綱が密かに伏せておいた討手に(から)め取られ、その場で惨殺された。

その直後、寸時もおかず発せられた北条軍は、鎌倉(あま)(なわ)の安達氏邸を急襲した。泰盛の弟時景、甥時長などの一族は、抵抗する間もなく誅殺(ちゅうさつ)された。

その夜、平頼綱ら御内人勢力は、これを好機として鎌倉中を荒し回った。日頃から対立する傾向のある外様御家人たちの邸を襲撃して、その勢力の削減を図ったのである。この夜誅殺された御家人の数は、五百人を超えたという。主な家名だけでも二十を優に超えている。

多くは、武蔵・上野・信濃に本領をもつものであった。しかし中には、三河・近江・播磨・美作・因幡・安芸などの武士もあり、さらには九州諸国の武士にまでおよんでいた。

続いて、各地の外様御家人のもとにも、追手が差し向けられた。筑前岩門(いわと)では(しょう)()氏の間に合戦が行われている。

外様御家人たちの完全なる敗退であった。鎌倉幕府は、御内人勢力のものとなった。これが後に「霜月騒動」といわれた顛末である。

以後の幕政は御内人の利害のみを追求する形で行われた。一般凡下(ぼんげ)非職(ひしょく)はもちろん、御家人の利害すらも無視されていた。賄賂が盛行し、不正な裁判が行われた。密偵がばらまかれ、拷問が行われた。弾圧の恐怖に、諸人はおびえることになった。

かつて源頼朝が新興の東国武士の府として建設した鎌倉は、一転して奸佞(かんねい)邪悪がはびこる暗黒の世界と化した。

弘安合戦のあと、権勢の人になったのは平頼綱であった。しかし、彼の権勢も長くは続かなかった。若年だった北条時宗の嫡男、北条貞時はこの時すでに二十二歳になっていた。霜月騒動から八年後の正応六年(一二九三)四月二十二日、貞時の手が動いた。

この日の早朝、かつての安達泰盛親子と同様、なにも知らずに出仕してきた平頼綱・頼盛(資宗(すけむね))親子は、殿中(でんちゅう)に伏せてあった討手に生け捕りにされ、頼綱は自害した。

時を移さず、鎌倉経師ケ谷(けいしがやつ)の頼綱邸は、貞時の発した軍勢にひしひしと包囲された。近隣の小野・笠井などの館に火がかけられ、やがて頼綱の一族郎党九十三人は、猛火に包まれて斬り死にしていった。

奇しくもこの頼綱邸は、かつて安達泰盛の追捕を受けた佐介時元の旧邸だったのではないかと考えられる。

この時頼綱はすでに出家し、平禅門果円と称していた。これによって後にこの乱を平禅門の乱という。

貞時は得宗家御家人の筆頭である執事に()()誅戮(ちゅうりく)を加えて、得宗貞時は幕政の実権を回復した。しかし、すでに御内人たちは権力と腐敗の味を知ってしまっていたのである。

以降,事実上、鎌倉幕政の実権を掌握していた御内人に(おど)らされて、虚位と虚名を争う北条氏一門諸家における対立と暗闘が続いた。しかしそれは迫りくる運命の前には、なにほどの影響も与えなかった。すでにして鎌倉は清新の気を失い、絶え間なく続いた戦火と(けっ)(こん)(いろど)られて、腐敗と汚職に(まみ)れ果てていたのである。

弘安の役の五十二年後に鎌倉幕府は滅ぶ。

新田義貞率いる倒幕軍は海岸線をとおり、鎌倉に突入した。この海岸は竜の口の法難の時、日蓮が裸馬に乗り処刑場まで送られた道だった。

道とはいっても海がせまっていたため、大軍は通れない。しかし不思議なことに、この日は海の水がひいて一気に鎌倉を陥れることができたという。

鎌倉を守るのは時宗の孫、高時だった。防戦一方となった幕府軍は、東のはての東勝寺にたてこもる。

ついに倒幕軍は寺を包囲、幕府軍はここで観念し、高時はじめ北条一族と御家人の五百名はそろって自決し、幕府は滅びた。

北条一族はもともと伊豆の片田舎の出だった。それが国を支配するほどにまでなった。今でいえば山あいの村長が、総理大臣にのぼりつめるようなものである。まったくの成りあがりだが、北条氏は武士団を統率し国内を懸命におさめた。

一族の娘政子が頼朝に嫁いだのがきっかけとはいえ、名もない部族が長きにわたって日本国を統治できるものではない。

日蓮はその理由を一族から名君がでたことをあげている。日蓮の人物評はどれも手きびしいが、北条実時と泰時の親子は評価している。実時は承久の変を平定し、武家の世をひらいた。日蓮は実時のことを「文武きはめ尽くせし人」といってほめている。また泰時は御成敗式目を制定し、自らも公平なさばきをみせて名君とよばれた。道理を大切にし、武道の高揚に努めたのだ。

しかし時頼、時宗の代になり、衰退がはじまった。平頼綱のような御内人を起用し、血のつながらない外様御家人を徹底的にほろぼした。あげくはその御内人にあやつられて腐敗堕落していく。

日蓮は北条の末路について、古今の王の例をひきながら予言している。

周の(ぶん)(おう)は老いたる者をやしなひていくさに勝ち、其の末三十七代八百年の間、()()ゑには、ひが事ありしかども、根本の功によりてさか()へさせ給ふ。阿闍(あじゃ)()(おう)は大悪人たりしかども、父びん()()さら(沙邏)王の(ほとけ)を数年や()なひまいらせし故に、九十年の間位を持ち給ひき。当世も又かくの如く、法華経の御かたきに成りて候代なれば、須臾(しゅゆ)も持つべしとはみえねども、故(ごんの)太夫(たいふ)殿・武蔵前司(むさしのぜんじ)入道(にゅうどう)殿の御ま()ごと()いみじくて(しばら)く安穏なるか。其れも始終は法華経の(かたき)と成りなば(かな)ふまじきにや。此の人々の御(びゃく)(あん)には、念仏者等は法華経に()いん()なり、日蓮は念仏の敵なり、我等は何れをも信じたりと云々。日蓮()めて云く、代に大禍(だいか)なくば(いにしえ)にすぎたる疫病・飢饉・大兵乱はいかに。(めし)も決せずして法華経の行者を二度まで大科に行ひしはいかに、不便(ふびん)不便。 『日女御前御返事

権太夫とは北条実時、武蔵前司入道とは泰時のことである。この二人がすぐれていたので北条は世をたもつと見えたが、今は法華経の敵になったのであるから永続はしないという。

幕府の人々はおろかにもいう。念仏者は法華経をよく知っている。日蓮は念仏の敵である。われらはどちらも信じているから罪はないと。

彼らは目の前にある危機がわからない。飢饉・疫病・兵乱の規模が前代未聞であることがみえない。日蓮は開目抄をしるしたが、彼らの目にはなにも見えなかったのである。

北条は滅ぶべくしてほろびた。

『太平記』はその最後を華麗にし綴るが、じっさいの光景は悲惨きわまりない。

時宗の孫、高時は出家して相模入道と呼ばれた。討幕軍の猛攻の中、彼は暫し躊躇(ちゅうちょするが、長崎新左衛門という若者に手本をしめされて自害した。新左衛門は、あの平頼綱の遠戚である。

高時が自害したあと、一族はつぎつぎにとりつかれたように死を選ぶ。

この小冠(こかん)に義を進められて、相模入道も()り給へば、城入道つづいて切る。これを見て、堂上に座を列ねたる一門・他家の人々、雪の如くなる(はだえ)(おし)(はだ)脱ぎ脱ぎ、腹を截る人もあり、自ら首をかき落とす人もあり。思ひ思ひの最後の(てい)、ことにゆゆしくぞみえたりし。

(中略)この人々を始めとして、已上百三十余人、総じてその門葉たる人三百八十余人、我(さき)にと腹切って、屋形屋形に火をかけたれば、猛炎(さか)りに燃え上り、黒煙天を(かす)めり。庭上門前に並み居たる兵どもこれを見て、あるいは自ら腹を()()って炎の中に飛び入る者もあり、あるいは父子兄弟さし違へ、重なり()すもあり。血は流れて大地に(あふ)れ、袞々(こんこん)として(こう)()の如く(かばね)は行路に横たはって、累々として(こう)(げん)の如し。死骸は()けて見えざれども、後に名字を尋ぬれば、この一所に死する者、八百七十余人なり。この(ほか)門葉、恩顧の僧俗・男女、聞き伝へ聞き伝へ、泉下(せんか)に恩を報ずる者の、世上に悲しみを促す人、遠国の事は知らず、鎌倉中を考ふるに、総じて六千余人なり。     


 鎌倉幕府北条氏惣領(そうりょう)の家系(得宗(とくそう))に関わる者全てが、討幕の戦火の渦中で自害して果てた。

元弘三年五月二十二日、日蓮没後五十一年目のことだった。



     八十八、女性信徒への手紙一 へつづく


下巻目次



by johsei1129 | 2017-09-18 20:59 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 18日

八十六、亡国の始まり

f0301354_21373724.jpg
                                (日蓮大聖人御一代記より)

 日蓮はつねづね蒙古が日本を滅ぼすといった。謗法による罪科が極まったのだ。日蓮はこの二十余年、国主に三度警告し、あらゆる場で妙法を説いたが聞き入れられなかった。事ここにいたってなすすべはなかった。

日本が滅びてもよい。日本国が滅亡しても仏法はのこる。それでよいと考えていた。蒙古がどのような占領施策をとるのかはわからない。ただみじめな敗戦を機に、日本人が根本をあらためることに期待をいだいていた。

それにしても人間は目の前にある危機を正面から見ない。この(さが)はどこからくるのか。この期におよんでも彼らは目覚めない。仏法は迷いの根本を「元品(がんぽん)無明(むみょう)」と呼ぶ。底知れない無明が日本をおおっていた。

日蓮は彼らの不明をなげく。

いまにしもみよ。大蒙古国数万(そう)(ひょう)(せん)をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺・一切の神等をばなげすてゝ各々声をつる()()て南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱へ(たなごころ)を合わせてたすけたまえ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。例せば月支の大族王は(よう)(にち)(おう)に掌をあわせ、日本の(むね)(もり)(かげ)(とき)うや()まう、大慢(だいまん)のものは敵に随ふという、このことわりなり。彼の軽毀(きょうき)大慢の比丘等は始めには杖木をとゝのへて不軽菩薩を打ちしかども、後には掌をあわせて(とが)くゆ()。提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども、臨終の時には南無と唱へたりき。仏とだにも申したりしかば地獄には堕つべからざりしを、(ごう)ふか()くして(ただ)南無とのみと()へて仏とはいわず。今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無(ばか)りにてやあらんずらん。ふびんふびん。『撰時抄

月あかりの下、蒙古船どうしが太綱でつながれた。夜襲にそなえるためである。

船内では将校たちが上機嫌で酒に酔い大笑した。机上には戦利品の兜がならべられてある。将校が剣をとって舞った。博多の征服は目前だった。

いっぽう日本の軍勢は北条光時ら幕府首脳が円陣をくんで軍議の真っ最中だった。彼らはこの一日の激戦で疲労困憊している。まわりに意気消沈した兵士が充満した。

手下が無言で酒をついでまわる。

光時が盃をかかげる。

「あれほどの大軍じゃ。どうすることもできぬ。明日はわれらの最後の日となろう。鎌倉武士として、名に恥じない戦いをしてみせようぞ」

しかし光時の檄にこたえる者はわずかだった。

甲州身延では日蓮が燭台の明かりのもと、伯耆房日興を筆頭とした六老僧に講義をしていた。

法華経二十八品の文々句々にわたる講義だった。これはのちに「御義口伝」として日興が筆録し、日蓮の裁可を得てまとめられる。

伯耆房は全身で日蓮の講義をきいた。ここに一切衆生を救う方途がある。彼は日蓮の言葉を一言ももらすまいと、全身を耳にするかのような覚悟で聞いていた。

日蓮は齢六十となった。日々衰弱がつづいている。下り腹をはじめとして病にもおそわれていた。いやでも死期は近づいている。いきおい弟子の講義にも力がはいった。

この仏法を未来にのこさねばならない。講義は延々とつづき、終わりをむかえようとしていた。

第五 正法治国不邪枉(ふじゃおう)人民の事。

末法の正法とは南無妙法蓮華経なり。この五字は一切衆生をたぼらかす秘法なり。正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならん。されば玄義に云はく『若し此の法に()れば即ち天下泰平ならん』と。此の法とは法華経なり。法華経を信仰せば天下安全ならん事疑いあるべからず云云


 いっぽう日本の南、博多湾の晴れ渡った天空には、まばゆいばかりの無数の星々が一面にひろがっていた。

そこに蒙古の軍勢を待ち受ける光時ひきいる日本の兵士が防塁に横たわっていた。

真夜中というのに眠れない。明日は死をわけた戦いがまっている。兵士は不安にさいなまれていた。

この静かな夜に突然、一陣の風がふいた。歩哨がおどろいて立ちあがった。

「むくりか」

光時が夜空を見あげた。彼は西の空にどす黒い雲がわきおこるのを見た。輝く星が黒い雲でみるみる覆われていく。天候の急変があきらかだった。

「嵐だ」

と言ったとたん、轟音と暴風がまきおこり、兵士が吹きとばされた。

猛烈な風雨が襲ってきたのだ。

沖の蒙古船団もかたむいた。船内の調度品や戦利品が床に散らばった。

将軍が叫ぶ。

「日本軍か」

「いえ、嵐です」

「ばかな。月は澄んでいたぞ」

「将軍、柱がたおれますぞ」

海上はたけり狂ったように波しぶきが舞った。蒙古船隊が大波をまともに受けてゆれる。帆柱は折れ、船員が阿鼻叫喚の叫びをあげた。船同士はつながれていたために身動きがとれない。そのため船隊は風波に耐えきれず、衝突しながら一艘一艘、つぎつぎに沈没していった。

船員の悲鳴が大風とともに消え去った。

陸上では日本軍のやぐらが音をたててくずれ、闇にふきとばされた。馬でさえころがっていく。さけぶような突風の中、光時ら日本兵は地面にはいつくばった。

「ひけ、ひけ」

おろかにも中腰になった兵士が宙に浮いて飛ばされた。日本兵すべてが地に伏せ、防塁にとりついた。

弘安四年七月一日の朝、日本兵は異様な湾岸の光景に声をうしなった。

蒙古船が打ちあげられ大破している。そしておびただしい兵士が、波打ち際に死体となって横たわっていたのである。

元側の記録には三人しか生存しなかったとある。ほぼ全滅だった。

 蒙古来襲の様子を記録していた八幡愚童訓()では「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と記されているほど悲惨な状況だった。


蒙古艦隊全滅の急報が届いた鎌倉幕府の侍所にはすべての御家人が参集し、思いがけない勝利にわきたった。

平頼綱が勝利者の時宗に言上した。

「殿、祝着にぞんじまする。これで敵の反撃はしばらくありませぬ。これも殿の武運のおかげでござる」

泰盛も祝った。

「全国の寺社仏閣の祈りがかなって神風が吹きましたぞ。幕府として褒美をとらせましょう。日蓮め、日本国が滅ぶなどと、たわけたことをいいおって」

一同が爆笑した。

こうして国中が劇的な勝利に酔いしれた。

全国の寺社も一斉に神仏に感謝の念を奉じた。蒙古軍をおそった神風は自分たちの祈祷のゆえであるという。極楽寺良観はもちろん、彼の師である西大寺の叡尊も「()(あに)(しか)らんや」と語り、まるで自分の手柄のように吹聴した。逆に日蓮の門下には動揺がひろがった。


 元寇は蒙古軍の全滅で終わった。

 敗北を覚悟した状況で、神風が吹いたとはいえ、勝利したことに変わりはない。奇跡的な勝利ゆえ、喜びも大きかった。結果的に日本国の滅亡はかろうじて回避された。

日蓮の予言ははずれたのだろうか。それとも日蓮の予測に違い、真言の祈りが功を奏したのか。

日蓮は五年前の建治二年、次のように記している。

此の国の亡びん事疑いなかるべけれども、(しばら)く禁をなして国をたすけ給へと日蓮が()かうればこそ今までは安穏にありつれども、()うに過ぐれば罰あたりぬるなり。又此の度も用ひずば大蒙古国より打手を向けて日本国ほろぼさるべし『種々御振舞御書

国を助けよと日蓮が控えていたから今まで平和だったが、仏法の理を過ぎることがあれば罰があたるであろう。この度も日蓮を用いなければ日本は滅ばされるだろう、と。

また弘安二年十月一日に記した『聖人御難事』ではこう記している。


()最明寺殿(北条頼宗)の日蓮をゆるししと此の殿(北条時宗)(ゆる)ししは、(とが)なかりけるを人のざんげん(讒言)と知りて許ししなり


 弘安の役の現地の
総司令官は北条実政だったが、日本の総大将は言うまでもなく執権北条時宗である。時宗は蒙古来襲・二月騒動の勃発により、日蓮が立正安国論で父時頼に予言した他国侵逼難と自界叛逆が見事に符合したことに恐れをなし、周囲の反対を押し切って日蓮への佐渡流罪を赦免した。
 その上、日蓮を客人として招き、蒙古来襲の時期を尋ね、本年中は必定との貴重な答えを日蓮から得ている。さらに蒙古討伐の祈祷を依頼するとともに、大寺院の寄進を願い出ている。日蓮が願った他宗への布施の禁止と、時宗の法華経への改宗は受け入れられなかったが、時宗が事実上日蓮の法華宗を公認した意味は小さくない。時宗の日蓮ご赦免以降、平頼綱とて日蓮門下の弟子や武家の信徒に直接手を出すことはできなくなった。熱原法難は、農民であるがゆえ時宗の目の届かない(すき)突いた頼綱単独の弾圧だった。

弘安の役の時、聖人日蓮は厳然と身延山中に控えていた。そして日本の総大将北条時宗は日蓮を許し、門下による布教を認めた。また時宗自身、内心で日蓮を畏敬していたとも言えよう。

あるいはこれは全く想像の域を出ないが、九千艘にも及ぶ蒙古の巨大船団の来襲を知り、絶体絶命の危機を感じた時宗が思わず「南無妙法蓮華経」と心の中で念じていたとしても全く不思議ではない。日蓮は謗法による与同罪を恐れ、時宗の「蒙古討伐の祈祷」および寺社寄進の申し出を一瞥(いちべつ)せず拒絶したが、時宗が日蓮を用いようとしたことは間違いない。日蓮も「蒙古来襲は本年中にある」と言う確信を、平頼綱を通じて時宗に示している。つまるところ、北条時宗が日蓮および法華宗を認めたことが、諸法実相上は、台風来襲により日本が蒙古軍に占領されるという最悪の事態をぎりぎりで免れた要因だと強く推察される。

富木常忍は弘安の役の直後の七月十五日に、蒙古の船団が台風で絶滅したことを「世間では京都の思円上人(叡尊)の祈禱の効験と風潮しているが、そのようなはずがあるのでしょうか」と日蓮に手紙で問いかけている。

それに対し日蓮は次のように返信している。

七月御状の内に云く鎮西(ちんぜい)には大風吹き候て浦浦・島島に破損の船充満の間乃至京都には()(えん)上人・又云く()(あに)(しか)らんや等云云、此の事別して此の一門の大事なり、総じて日本国の凶事(きょうじ)なり()つて病を忍んで一端(ひとはし)是れを申し候はん、是(ひとえ)に日蓮を失わんと()()かろう事を造り出さん事(かね)て知る、其の故は日本国の真言宗等の七宗・八宗の人人の大科(たいか)今に始めざる事なり、然りと(いえど)(しばら)く一を挙げて万を知らしめ奉らん。<中略> 今(また)彼の僧侶の御弟子達、御祈祷(きとう)承はられて候げに候あひだ、いつもの事なれば秋風に(わずか)の水に敵船・賊船なんどの破損(つかまつ)りて候を大将軍(いけ)(どり)たりなんど申し、(いの)成就(じょうじゅ)の由を申し候げに候なり、又(もう)()の大王の(くび)の参りて候かと問い給うべし、其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず、御存知のためにあらあら申し候なり。乃至此の一門の人人にも相()れ給ふべし 『富城入道殿御返事』(弘安四年十月二十二日)

日蓮は思円上人が勅命によ七月一日に戒を説き、愛染法を修したところ、雷雲(にわか)に起こって西へ向かい、その夜西海に神風が吹いて蒙古の軍船が悉く覆没(ふくぼつ)したという虚構の霊験を作って流布させたのであろうと見抜き、この事が世間に信じられているようなことがあれば日本国の凶事であるとして、真言の祈祷は国を亡ぼし、家も我が身も亡ぼすことを、先例を挙げて説いている。

また、「祈りが叶ったというならば蒙古の大王の頸がとどいたのかと反問すべきである。そのほかのことはどのように言っても、返事をしてはならない。知っておかれたほうがよいと思うので、あらあら申したのである。なおこの事は一門の人々にも伝えておきなさい」と門下一同に知らしめている。

七月に届いた常忍の手紙の返書が十月になった訳は「老病()るの上又不食(ふしょく)()に候間未だ返報を奉らず候」と記しているが、その間日蓮は思円上人が日蓮の法華宗が幕府に認められたことに恐れをなし、作り話を吹聴していることを調べていたと思われる。 

時宗はかろうじて蒙古の日本侵略を際どく回避したが、日蓮が示していた日本亡国の危機が払拭されたわけではない。

この二度の元寇で日本側が物質的に得たものはなく、御家人たちを不満にしたとされる。弘安の役のあと、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、この戦争に対しても十分な恩賞給与がなされなかった。また、九州北部周辺へ動員された異国警固番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は解消されなかった。

貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった、十三世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。借金が棒引きされた御家人も、のちに商人が徳政令を警戒し御家人との取引・融資などを極端に渋るようになったため、結果的に資金繰りに行き詰まり没落の色合いを見せるようになった。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになった。これらの動きはやがて大きな流れとなり、最終的には鎌倉幕府滅亡の遠因の一つとなった。

 弘安の役から五十二年後の一三一三年、鎌倉幕府は滅ぶことになる。幕府により確立した封建制武家社会の崩壊は、いやがうえにも群雄割拠の内乱時代、つまり織田、豊臣、徳川が歴史を賑わした戦国時代をむかえることになる。このあと二七○年後の徳川幕府成立まで、日本は確固たる政権が失われ、国主不在の政治的混迷の時代を余儀なくされた。日蓮の予告どおり、亡国の時代をむかえたのである.

さらに文応元年(一二六○)七月十六日、当時の実質的国主・北条時頼に献上された立正安国論による日蓮の予言は、約七百年後に勃発した太平洋戦争で不幸にも的中した。

 五三八年、欽明天皇の時代に百済の聖明王により伝えられた仏教は、法華義疏(法華経の解説書)を著した聖徳太子によって法華経の理念に基づく政治がなされた。

聖徳太子は日本の八百万(やおろず)の神は、仏を守護する諸天善神とすることで、仏教を政の理念として政治を執行していったが、千四百年後、日本の軍事政権は、仏や諸天善神の下で政をする国王つまり天皇を最上位に置き、靖国神社という明治政府によってつくられた、いわば新参者の神を仏の上に置く宗教統制を敷いた。これは鎌倉幕府当時の法華経を用いず、劣っている爾前教の念仏、真言、禅、律を国家理念の基盤に置いた状況より一層破滅的ともいえる宗教政策だった。しかしこの宗教政策に真っ向から国家諫暁する聖人は存在しなかった。

宗祖日蓮大聖人から数えて六十二番目の当時の貫首日恭(にっきょう猊下(げいか)、五十九世をつとめた堀(にち)(こう上人に、猊下の座を降りて国家諫暁をしたいと相談されたという。それに対し日亨上人は猊下のままで諫暁されたほうが良いと述べたという。しかしついに国家諫暁はなされなかった。

その結果日本国は外国の兵士により罰せられ焦土と化し、終戦後日本はGHQにより占領される。まさに日本亡国となってしまった。

大御本尊建立以来、六百六十六年守り続けてきた富士大石寺は火災が発生、大御本尊は守られたが六十二世日恭猊下は覚悟の焼死をすることになる。

しかしその結果、日蓮が国家諫暁した最大の目的である国家による誤った宗教への布施は禁止された。

GHQは一九四五年十二月十五日、日本政府に対して神道指令を発し、国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督ならびに弘布は廃止された。

さらに日本国政府は一九四六年(昭和二一年)十一月三日に日本国憲法を公布。その憲法二十条で信教の自由、国の機関のすべての宗教への関与と財政的援助の禁止が謳われた。

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 二 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


憲法の公布は、鎌倉幕府当時であれば「勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みきょうしょ)」を申し下したと事と同義であろう。

このことで日蓮門下の弟子及び信徒は、法門の勝劣を説くことで布教をすすめることができ、日本広布の法的な環境は整ったことになった。



               八十七、鎌倉幕府の最後 につづく


                      注

八幡愚童訓 

鎌倉時代中期・後期に成立したと思われる八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起。石清水八幡宮の社僧の作と考えられる。(ウィキペディア)




by johsei1129 | 2017-09-18 18:27 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 18日

八十五、弘安の役、蒙古再び来襲


                    (蒙古来襲絵詞:ウィキペディアより)


 日蓮は蒙古の攻撃で日本国が滅ぶことを予言していた。法華経の兵法でなければ、国は必ず敗れる。日本国が滅んだのちに法華経が弘まっていくだろうという。新たな王のもとで妙法が栄えるといった。
日蓮はたとえ国が滅んでも妙法がのこればよいという。弟子たちの手紙にくりかえし説いている。

さては各々としのころいかんがとをぼしつるもう()()の事、すでにちかづきて候か。我が国のほろ()びん事はあさましけれども、これだにもそら()事になるならば、日本国の人々いよいよ法華経を(ぼう)じて万人無間地獄に()つべし。かれだにも()よるならば国はほろぶとも謗法(ほうぼう)はうすくなりなん。譬へば灸冶(やいと)をしてやまいをいやし、針冶(はりたて)にて人をなをすがごとし。当時はなげ()くとも後は悦びなり。日蓮は法華経の御使ひ、日本国の人々は大族(だいぞく)王の一閻浮提の仏法を失ひしがごとし。蒙古国は雪山(せっせん)()(おう)のごとし。天の御使ひとして法華経の行者をあだ()む人々を罰せらるゝか。又、現身に(かい)()ををこしてあるならば、阿闍(あじゃ)()(おう)の仏に帰して白癩(びゃくらい)()め四十年の寿(いのち)をのべ、無根の信(注)()と申す位にのぼりて現身に無生忍をえたりしがごとし。恐々謹言。『蒙古事

大族王とは古代インド磔迦(たくか)国の王である。大唐西域記によるとマカダ国を攻めた時、仏教徒であった幻日王にとらえられ、殺されかけたが幻日王の母の願いで助かり、カシミラ国にのがれた。ここで反乱をおこして王を殺し、さらに健駄(けんだ)()国を攻めて寺院仏塔を破壊し、国民の大多数を仏教徒であるとの理由で殺してヒンドゥー川に沈めるなどした。しかしその年の内に王も死去し無間地獄におちたという。

日蓮は日本国の人々が大族王であるという。懸命な折伏にもかかわらず、日本国は法華経を信じない。念仏、禅、真言という悪法をたもつ者が充満するばかりである。むろん国主も理解しない。

昔、カシミラ国の王となった()()()王が、僧尼を迫害し仏教を弾圧した。これを聞いた雪山下王が、国内の勇者三千人を(つの)って隊商に紛してカシミラ国へ入った。雪山下王は三千人から精鋭五百人を宮殿にのぼらせ、宝貨を献上するといつわって、袖にかくしもっていた刀で訖利多王を殺した。その後、カシミラ国にはふたたび仏教が栄えたという。

日蓮は雪山下王を蒙古にたとえている。蒙古は邪法に染まりきった日本を倒し、新しい国をつくるであろうと。

北条幕府は諫言をきかず、二度まで流罪し(はずか)しめ衆目にさらした。

では日本国が滅亡したとき、弟子はどうなるのか。

日蓮は妙法をたもつ者は国難の中でも必ず救われると答える。

若干十六歳の若き信徒、南条時光の手紙にしるす。

()のなか上につけ下によせて、なげきこそをゝ()く候へ()にある人々をば よ( 世)になき人々はきじ()たか()をみがき(餓鬼)毘沙門(びしゃもん)をたのしむがごとく候へども、たか()わし()につかまれびしゃもんは()()にせめらる。そのやうに当時日本国のたの()しき人々は、蒙古国の事を()ゝては、ひつじの虎の声を聞くがごとし。また筑紫へお()むきていとをしき()をはなれ子を()ぬは、皮をはぎ、肉をやぶるがごとくにこそ候らめ。いわうや、かの国よりおしよせなば、蛇の口のかえる、()うち()()がま()いたにをけるこゐ()ふな()のごとくこそおもはれ候らめ。今生はさておきぬ。命()えなば一百三十六の地獄に堕ちて無量劫(むりょうこう)()し。我らは法華経をたのみまいらせて候へば、あさきふち()に魚の()むが、天くもりて雨のふらんとするを、魚のよろこぶがごとし。

しばらくの苦こそ候とも、ついにはたのしかるべし、国王の一人の太子のごとし、いかでか位につかざらんとおぼしめし候へ。  恐々謹言。

弘安三年七月二日      日蓮花押

人にしらせずして、ひそかにをほせ候べし。    『上野殿御返事

博多湾はよく晴れていた。漁師ものんびりと釣りをしている。

ひげ面の兵士が、やぐらで水平線をみつめていた。頬がこけ、焼けた黒い顔が長い勤務をあらわしていた。彼はのどかすぎる風景にあくびをした。

鎌倉では時宗を中心に平頼綱、安達泰盛らの幕府首脳が酒を飲んでいた。

時宗の気分が晴れない。蒙古の来襲が今か今かという時である。すでに蒙古は二年前、南宋をほろぼしていた。こんどは日本の番である。

しかし時宗の心配をよそに、部下は笑いあっていた。とりわけ頼綱と泰盛がしたたかに酔っている。

泰盛の機嫌がいい。

「蒙古め、もう襲ってはこないのではあるまいか。あらつら漢土を征服したばかりだ。日本にやってくる余裕はないはずじゃ」

北条宣時も同調した。

「こんどばかりは日蓮の予言もはずれたな。あやつ、甲斐の山でさかんに蒙古がくると吹聴しておる。いつかしとめてくれよう」

頼綱は面白くなさそうだった。

「外の敵がおとなしかろうと安心はできぬ。内にも敵がおりますからな」

泰盛は頼綱のいうことがいちいち(しゃく)にさわる。

「左衛門尉、おぬしもおとなしくすることだ。熱原の失態は情けないことであったな。罪ない百姓の首を刎ねたのは、いずれおぬしの咎となるであろう。気をつかれよ」

頼綱がかえした。

「泰盛殿こそ気をつけよ。そなた、ちかごろ源姓を名乗ろうとしているとか。高望みされているようであるな。なんの含みでござる」

泰盛が不意をつかれてとりつくろった。

「なにをたわけたことを。おぬしは北条の門番としてつとめておればよいのだ」

頼綱も酔っていた。

「なにをいわせておけば。そちこそ成りあがりではないか。女房が殿の乳母であっただけだ。御家人の内輪もめで、のしあがっただけではないか」

泰盛が盃を頼綱の足元になげつけた。

「左衛門尉、おぼえておけ。いつか泣きをみるぞ」

頼綱も酔いながらにらみかえす。

「そのほうこそ。油断するな」

若い時宗がうんざりした声をだした。

「両方ともよさぬか。その気負いは蒙古のためにとっておけ」


その時、頼綱の従者が唐突に飛びこんできた。

「筑紫から注進がまいりました。沖合に大船団が集結。蒙古の旗印を掲げているとのこと」

「なにい、蒙古の旗印だと」

頼綱は大声で叫ぶと、手にしていた盃を目の前の膳に叩きつけるように置いた。

「ところで兵の数は」

「およそ四万とのこと」

一同が立ちあがった。

「ついにきたか」

 頼綱が時宗に言上した。

「報告のようすであれば、合戦はひと月以内におきまする。ただちに兵の準備を」

時宗はもっていた酒をかたむけ、膳にそそいだ。

頼綱がうなずいて従者に命令した。

「全軍に伝えよ。九州へ出陣だ。それとご家人に割り当てた石塁()に不備がないかすぐに検分し、瑕疵(かし)あれば直ちに九州のご家人に補修させよ

みな出ていき、静寂がおとずれた。時宗は宙をみつめながらぼそりといった。

「日蓮殿はどうされているかのう」

時宗以下の北条幕府は日蓮にひれ伏すことができない。目の前の国難がひかえているのになにもできずにいる。他国侵逼(しんぴつ)を予言し、二月騒動を的中させ、蒙古の年内の来襲をあてた日蓮を用いることができなかった。用いるだけでなく迫害をもって応えてしまった。

日蓮は時宗たちの心中を見とおしている。

鹿馬(ろくば)迷ひやすく、(よう)(きゅう)変じがたき者なり。墓無し墓無し。当時は余が(いにしえ)申せし事の(ようや)く合ふかの故に、心中には如何(いかん)せんとは思ふらめども、年来(としごろ)あまりに法にすぎてそしり悪口せし事が(たちま)ちに(ひるがえ)りがたくて信ずる由をせず、而も蒙古はつよりゆく。如何せんと(むね)(もり)(よし)(とも)が様になげくなり。

あはれ人は心あるべきものかな。孔子は()()一言、周交(しゅうこう)(たん)(ゆあみ)する時は三度にぎり、食する時は三度吐き給ふ。賢人は此くの如く用意をなすなり。世間の法にも、は()にすぎばあやしめといふぞかし。国を治する人なんどが人の申せばとて委細に尋ねずして、左右なく(とが)に行なはれしは、あはれくやしかるらんに、()(けつ)(おう)(とう)(おう)に責められ、()(おう)(えつ)(おう)に生けどりにせられし時は、賢者の諫暁を用ひざりし事を悔ひ、阿闍(あじゃ)()(おう)(あく)(そう)身に出で他国に(おそ)はれし時は、提婆(だいば)を見じ聞かじと誓ひ、乃至(むね)(もり)がいくさにまけ義経(よしつね)に生けどられて鎌倉に下されて(おもて)をさらせし時は、東大寺を焼き払はせ山王の御輿(みこし)()奉りし事を歎きしなり。

今の世もたがふべからず。日蓮を(いや)しみ諸僧を貴び給ふ故に、自然(じねん)に法華経の強敵(ごうてき)となり給ふ事を(わきま)へず、存の外に政道に背きて行なはるゝ間、梵釈・日月・四天・竜王等の大怨敵(おんてき)と成り給ふ。法華経守護の釈迦・多宝・十方分身の諸仏・地涌千界・迹化(しゃっけ)他方・二聖・二天・十羅刹女・鬼子母神は他国の賢王の身に入り()はりて国主を罰し国を亡ぜんとするをしらず。(まこと)天のせめにてだにもあるならば、たとひ鉄囲(てつち)(せん)を日本国に引き(めぐ)らし、須弥山(しゅみせん)(おお)ひとして、十方世界の四天王を集めて、()(ぎさ)に立ち並べてふせがするとも、法華経の敵となり、教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が(こうべ)を打ち、十巻共に引き散らして散々に()みたりし大禍(たいか)は、現当二世にのがれたくこそ候はんずらめ。日本守護の天照大神・正八幡等もいかでかかゝる国をばたすけ給ふべき。  『下山御消息

徴集された兵隊が鎌倉大路を進軍する。沿道には妻子が涙で見おくった。

大寺院では僧侶の群れが色とりどりの法衣で敵国降伏を祈った。彼らの背後には信徒が密集して祈願した。

いっぽう蒙古の大戦隊は朝鮮沿岸に集結した。蒙古と高麗の連合軍だった。元寇以前では類を見ない世界史上、最大規模の艦隊であった。戦艦が最大九千艘ともいわれる巨大な船隊が満載の兵士をのせ、玄界灘の波をかきわけてすすんだ。

さらに驚くべきことがあった。

北条幕府は探知していなかったが、中国大陸からも大船団十万人が日本にむけ出航していたのである。蒙古に敗れた南宋の兵だった。フビライは敗残の兵に日本への出兵を命じたのである。高麗からの四万とあわせて計十四万の大軍団であった。史上まれにみる派兵である。

弘安四年五月二一日、蒙古軍は対馬沖に到着し、世界村大明浦に上陸。蒙古と日本の雌雄を決する戦いが始まった。

戦況は一進一退の状態が続き、六月になっても決着はつかない。
 日蓮は六月十六日、全信徒に書を送った。他国侵逼が的中したことを誇って人に語ってはならないという。弟子の軽挙妄動を戒めている。

 花押

小蒙古国の人大日本国に寄せ来るの事

我が門弟並びに檀那等の中に、()しは他人に向かひ、(はた)(また)自ら言語に及ぶべからず。若し此の旨に違背(いはい)せば門弟を離すべき等の由存知する所なり。此の旨を以て人々に示すべく候なり。

弘安四年太歳辛巳六月十六日

人々御中                  『小蒙古御書

快晴の日だった。

博多湾では物見やぐらの兵士が、あわてふためいておりてきた。

敵船が海上をうめつくしている。

日本軍が呼応するように騎馬隊を先頭に出陣した。

四条金吾の主人、北条光時が先頭にいる。彼は海上をうめつくした蒙古船団を見て、呆然と立ちつくした。

日本軍は陸上二十キロにわたって築かれた防塁にとりつき、長弓を手にもつ。

海上の蒙古軍もまた人の高さまで積みあげた防塁を見て驚きの声をあげた。

光時が日本の全軍に告げる。

「よいかこの場を死守せよ。ここを破られれば、わが日本の明日はない」

この時、蒙古船から爆薬が飛び、日本軍の陣中で破裂した。人馬が悲鳴をあげる。このすきに蒙古軍は下船して突撃した。

日本軍は長弓をいっせいに放った。前回の敗退からあみだされた戦法である。蒙古兵に日本得意の一騎打ちは通じない。砂浜で蒙古を撃破し、肉弾戦をさけるためだった。

長弓の殺傷力ははかりしれない。はるか遠くからでも敵を突き刺した。「平家物語」の那須与一は四十間(約七十二メートル)から的を射当てている。幕府は強弓の武者をそろえていた。

爆薬の煙が充満するなか、大量の弓が放たれた。突撃する蒙古兵がつぎつぎとたおれていく。日本軍は懸命に弓をひきはなつ。

北条光時も檄をとばした。

「撃て、撃て。命ある限り撃ち続けるのだ」

爆薬が光時のすぐ近くで炸裂し、弓手が吹き飛んだ。光時がかわって弓を引く。矢は、はるか彼方の蒙古兵を突き刺した。

やがて蒙古兵がなだれをうって防塁にとりついた。光時はのりこえようとする蒙古兵を斬りふせた。数万の蒙古兵が高さ二メートル、長さ二十キロの防塁にとりついていく。激戦は陽が傾くまでおよんだ。日本軍はしばらくもちこたえたが、ついに突破された。蒙古軍は防塁をとびこえて日本軍を斬りつけていった。激戦となったが日本軍がしだいにおされていく。

光時は従者とともに騎上で奮戦するが、疲労の色が濃くなった。

「援軍はどうした」

「援軍はすべて到着しました。今の勢力が限界でございます」

従者が斬られた。

蒙古兵はいっせいに光時を襲ったが、からくも逃げきった。

文永の役につづいて日本軍の敗走が決定的となっていた。

蒙古はいっせいに勝ちどきをあげる。しかしここで蒙古の将軍は沖の艦船に兵を戻して言った。

「明日この港には、蒙古の旗が立ちならぶであろう」
 蒙古軍がふたたび勝ちどきをあげた。




          八十六、 亡国の始まり につづく



下巻目次



無根の信

無根とは信心がないこと。信心のない者が仏力によって信心をおこすこと。


石塁

北条時宗は蒙古再襲来の備えとして、九州の御家人に、博多沿岸約二十キロに及ぶ高さ二・三メータの石塁(元寇防塁)をご家人の負担で築かせていた。割当は各御家人の所領に基づき、おおよそ一ヘクタール当たり三十センチの構築だったという。





by johsei1129 | 2017-09-18 15:36 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 18日

八十四、四条金吾、横難に遭う

日蓮は伯耆房から問注の顛末について報告をうけた。

評定は熱原の農民信徒にお咎めなしで終決した。頼綱は法廷の場で争うことをあきらめたのである。

法華衆に安堵がひろがった。身延の山中には祭りのように人がむらがり、日蓮の館に米や野菜の山ができた。熱原の危急をきいて信徒があつまったのだ。

日蓮は上機嫌だったが、この人々の中に四条金吾の従者を見かけた。顔なじみの爺である。

この爺は常に金吾のそばをはなれずにいた。だがどうしたのか、金吾本人がここにいない。爺はなぜ一人でここにいるのか。

日蓮が急に不安になった。

「たしかそなた、金吾殿の・・金吾殿はどこにおられる」

爺はにこやかだった。

「はあ、主人は殿様と酒盛りがありまして、わしが一人でまいりました。金吾様は自分のことは大丈夫だから、お前は甲斐へ行って聖人の手伝いをせよとおおせで」

金吾が一人で鎌倉にいる。危険だ。
「金吾殿があぶない」

この夜、鎌倉では光時と金吾の主従が酒宴の席にいた。

宴が行われる庭には、かがり火がいくつも炊かれていた。

光時の妻が金吾に酒をそそぐ。妻は夫の病をなおした金吾に絶大の信頼をよせていた。

金吾が顔を真っ赤にしている。

「殿、しつこいようですがお考えを」

光時が笑った。

「わかっておる、まったくおまえの法華経狂いには、ほとほと愛想がつきるわ」

一同も笑うが金吾はにこりともしない。

「殿、まじめに聞いてくだされ。この金吾は殿から過分な所領をいただき、恐縮いたしておりまする。某を憎む同僚もあまたおるというのに、かたじけなき次第。さりながら金吾は殿になにもお返しすることができませぬ。このうえは日蓮聖人の教えを(たも)っていただくことが殿への御奉公と存ずるのでございます」

「わかった。考えよう。だがわしはいずれ筑紫へいく。蒙古がまちがいなく攻めてくる。その準備で今はいとまもない身だ。合戦があればどうなるかわからぬ。もし命があれば、おぬしのいうとおりにするとしよう」

金吾が酔いながら涙をうかべた。

「殿、それを聞いて安心いたしました。ではそろそろ」

「帰りは気をつけるがよい。爺はどうした」

「甲斐におります。聖人のもとに」

「それは心配だ。家来をつけよう」

「ご心配は無用にございます。それよりも蒙古退治の件、ご無事を祈っておりまする」

「あいわかった」

日蓮は金吾の身を案じていた。

激情家の金吾は同僚に憎まれ、いさかいが絶えない。その金吾が加増されたのである。同僚の嫉妬は頂点に達していた。同僚たちは金吾が生きているのが耐えられない。金吾の命は彼らの手の中にあった。

日蓮は常日頃、金吾にこまごまと注意していた。とくに酒には格段、気をつけるよう促した。

かまへて・かまへて御用心候べし、いよいよ・にくむ人人ねら()ひ候らん、御さ()もり()夜は一向に止め給へ、只女房と酒うち飲んで・なにの御不足あるべき、他人のひる()の御さ()()おこ(油断)たるべからず、酒を離れて・()らうひま()有るべからず、返す返す、恐々謹言。  『主君耳入法門免与同罪事

帰り道は満月に照らされて足元が明るい。

金吾がひとり、ふらつきながら鼻歌をならして見あげた。

「美しいのう。在世の月は今も月、在世の花は今も花。あの月があと何度満ち欠けすれば、法華経流布の世となるのかのう」

この時、金吾は気配を感じ一瞬振り返ると、なにかが光った。
 光は刀剣からだった。覆面をした武士が剣を上段に構えて斬りかかった。

金吾は光に反応し、すばやく刀を払って敵の刃をかわした。撃剣が火花を飛ばす。

金吾がすぐに正眼に構え相手を威圧する。

いつのまにか四人の武士にとりかこまれた。四人はみな覆面をしていた。金吾は動じない。酒気はふきとんでいた。

(やはり襲ってきたか)

覆面の武士は金吾を完全にとりかこんだ。逃げ場がない。絶体絶命だが金吾は全知全能を絞った。どこかに隙があるはずだ。

覆面からわずかに見える目が笑っている。金吾は瞬間、彼らが助太刀のいない金吾一人なら簡単に殺せると楽観していると感じた。そう思うと心に余裕が出てきた。

「人ちがいでござろう。それがし中務(なかつかさ)三郎左衛門尉頼基、人呼んで四条金吾と申す」

武士は金吾の声など耳に入らない。間合いを詰め、雄叫びをあげて金吾に斬りかかってきた。

金吾はその剣をはらい、すり足で下がる。

「恨みを買うおぼえはない。あるとすれば過日それがし、わが主君から過分なる所領をいただいた。だが家臣は多い。餌を求め、少ない水に魚さわぎ、せまい林に鳥があらそう。するとおぬしらは魚か、はたまた鳥でござるか」

怒った武士が刀をふりおろすが、金吾は刃こぼれしないよう棟でがっちり受けとめ、体をあわせた。
 そして覆面をのぞいて大声をあげた。

「おお、その目はたしか島田入道。仏門に片足を入れて、闇打ちが得意とな」

島田が怒りのあまり金吾の剣をはらい、斬りつけようとするが、一瞬はやく金吾が刃先で胴をはらった。島田は悲鳴をあげてさがる。

のこる三人が顔を見合わせる。その目は「酔っているはずなのにこんなに強いのか」と語っている。
 彼らの息づかいがはげしくなった。

いっぽう金吾は自分でも不思議なくらい冷静だった。

「どうかのう、わしを生かしてはくれぬかのう。この金吾、身分は低いが法華経をたもつ身。古い袋が黄金(こがね)をつつみ、蛇が玉をもつようなもの。この金吾が(あるじ)とも師匠とも親とも慕う日蓮聖人のもとに、いましばらく身をおきたい。阻む者は魔であり鬼とみなすしかないぞ」

武士が上段に構え金吾に斬りかかったが、また金吾は安々とくい止めた。その時一人が、金吾のうしろを回り、背中へ大上段にふりおろした。

金吾はすばやくしゃがみ、体をかわす。ふりおろした武士はあやまって仲間を斬ってしまった。斬られた武士は悲鳴をあげて去っていく。

のこるは二人。

二人の息づかいが異様にはげしい。剣先が定まらない。

「どうしても相手いたすか。殺生は仏の禁ずることながら、事ここにおよんではいたしかたなし。この金吾も覚悟を決めようぞ」

金吾はもはや相手を見下し、脅すように力強く言い放った。
 いっぽう覆面の武士は目の錯覚か、金吾が上段に構えるのと同時に、その横に同じ金吾がもう一人ならぶのをみた。月の光が金吾の背後から不気味にてらした。

「ではまいるぞ。臨・(りん)兵・(ぴょう)闘・者・(とうしゃ)皆・(かい)陣・列・在・前 (じんれつざいぜん)

刺客は二人の金吾がいっせいに襲ってくるのを見て、悲鳴をあげ逃げ去った。

金吾は敵が去っていくのを見届けると、ほっとして、へなへなと地面にすわりこんでしまった。

そして両の手をまじまじとながめた。自分の力ではなかった。

日蓮は金吾から急報をうけ、即刻返事をしたためた。

先度強敵ととり()()ひについて御文給ひき(くわ)しく見まいらせ候。さてもさても敵人()らはれさせ給ひしか。前々の用心といひ、けなげ(健気)といひ、法華経の信心強き故に難なく存命せさせ給ふ。目出たし目出たし。

(それ)運きはまりぬれば兵法(ひょうほう)もいらず。果報つきぬれば(しょ)(じゅう)もしたがはず所詮(しょせん)運ものこり、果報()かゆる故なり。(中略)これにつけてもいよいよ強盛に大信力をいだし給へ。我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべからず。門(注)()はつはものゝ名をとり、兵法の大事をきはめたり。されども王命に()けぬはんくわひ(樊 噲 )(注)ち()うりう(注)()もよしなし。ただ心こそ大切なれ。いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、()れたる()くち()()()()くるがごとくなるべし。はげみをなして強盛に信力()だし給ふべし。すぎし存命不思議とおもはせ給へ。なに兵法(ひょうほう)よりも法華経の兵法をもちひ給ふべし。諸余(しょよ)怨敵(おんてき)皆悉(かいしつ)摧滅(さいめつ)』の金言むなしかるべからず。兵法剣形(けんぎょう)大事も此の妙法より出でたり。ふかく信心をとり給へ。あへて臆病(おくびょう)にては(かな)ふべからず候。恐々謹言。『四条金吾殿御返事(法華経兵法事)』



                  八十五、弘安の役、蒙古再び来襲 につづく 


下巻目次


                             注

 将門

?~天慶三年(九四○)。平安時代に叛乱を起こした武将。平高望(たかもち)の孫で、鎮守府将軍良将の子。相馬小次郎という。下総(しもうさ)(千葉県)に勢力をもっていたが、父の遺領問題から一族と争いを起こし承平五年(九三五)に叔父の(くに)()を殺害、ついで一族の良兼・良正・貞盛の攻撃を破り、一族の最高権力者となった。のちに常陸(茨城県)国府を焼き打ちし、下野・上野両国府を得た。自ら新皇と称して下総国猿島(さしま)郡石井郷に王城を築き、律令国家の建設をめざした。このため朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任じ、将門の乱の鎮圧にむかわせたが、平貞盛が藤原秀郷(ひでさと)の助けを得て先に将門を討った。(天慶の乱)

 樊噲

?~紀元前一八九年。中国・前漢代の武将。江蘇省沛県の人。卑しい身分の出身で、早くから沛公(漢の高祖・劉邦) に仕え、沛公の漢朝建国をたすけた。とくに鴻門の会では范増の計画を打ち破り、沛公の危機を救っている。

 張良

?~紀元前一六八年。中国・漢代の建国の功臣。韓の出身。韓を滅ぼした秦の始皇帝を恨み、刺客を集めて始皇帝を殺そうとしたが果たせず、下邳(かひ)に隠れた。そこで(こう)(せき)老人から太公兵法を学んだといわれ、劉邦の挙兵に呼応して軍師となって活躍した。のち秦を滅ぼし、鴻門(こうもん)の会において劉邦の危機を救い、漢の建国に貢献した。



by johsei1129 | 2017-09-18 11:17 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 18日

八十三、永遠なれ、熱原の三烈士

http://pds.exblog.jp/pds/1/201405/24/54/f0301354_23472199.jpg?w=1024&h=685                      (富士大石寺にのこる三烈士の墓碑。後方にそびえるのは奉安堂。一閻浮堤総与、本門戒壇の大御本尊を安置)
 
 奉行をはさみ、伯耆房日興と平頼綱の対決がはじまった。

頼綱は自ら乗りこんで決着をつけようとした。執権時宗の直属の家令である。背後には行智ほか、威儀を正した御家人の一団が鎮座していた。対する百姓側には日向ら弟子団をはじめとして四条金吾らの信徒がならぶ。勝敗の行方はだれが見ても滝泉寺側に傾いていた。

伯耆房がこれを打ち破るかのように言上する。

「まずはじめに罪ない百姓三名を斬罪に処せられたのは如何。評定いまだ終わらぬうちに、証人の百姓を死にいたらしめたのは利あらずの覚悟であるか」

御家人が憤怒の形相でさわぐ。

平頼綱は慇懃に返答する。

「百姓三名はこの頼綱に不埒な態度あり。いたしかたなく処罰した。これ幕府をつかさどる者として、また武士として当然の処置である。誤解めさるな」

伯耆房が強言する。

「不埒な態度とは意外でござるな。牢に入っている者が不埒な態度など取りようがないではないか。そもそも民百姓は天下をささえ、武士を養う者、田園を耕して世を保つ者。その百姓の命を奪うとは、人の上に立つ者の所行ならんや」

頼綱の頬に痙攣(けいれん)が走った。

彼はかつてこれほどの悪口あっく)をいわれたことがない。あるとすれば日蓮だけである。だが感情に走ってはならない。あくまで落ちつきをよそおった。

「百姓は法華経を放そうとはしなかった。この世は念仏を唱えるのが習いである。このわしもそうしておる。日蓮と徒党をくむ輩は断じて排除いたす」

御家人が気勢をあげた。

伯耆房が冷静に反論する。

「日蓮聖人を敵だといわれるか。日本国の侍大将にしては、いささか愚かな発言でござるな」

御家人が大声をあげて激高したが伯耆房は一歩も引かない。

「いま日本国が敵とすべきは日蓮聖人ではなく、近くきたる大蒙古ではござらぬか。聖人はこの二十余年、敵国退治の秘法を貴殿にも鎌倉殿にも披露してきたが、いまだに迷っておられるのはなぜか。あまつさえ無辜(むこ)の百姓の刃傷におよんでは、なにをかいわんや。日本国の滅亡、眼前に見えたり」

御家人が立ちあがったが頼綱がとめた。激したほうが負けである。

頼綱がにやりと笑う。

「では伺う。おぬしらが慕う日蓮とは何者ぞや。安房の漁師の生まれ、身分いやしい天台かぶれの坊主ではないのか」

伯耆房が静かにこたえる。

「外典にいわく、未萌(みぼう)を知るを聖人という。内典にいわく、三世を知るを聖人という。わが日蓮聖人は、近くは正法を誹謗する(とが)により日本国の内が乱れ、他国の攻めにあうことを予見された。聖人は過去・現在・未来を(かんが)みさせ給い、すぎし事、きたるべき事を鏡にかける。これを三世を知るという。ならば日蓮聖人は聖人に過ぎる大聖人であらせられる」  

こんどは百姓側が気勢をあげる。

頼綱が笑う。

「大聖人とな。ふざけたことを。ならば仏とひとしいと申すのか」

「いかにも仏である」

場内が騒然とした。百姓の側にも戸惑う者がいる。

「伯耆房とやら。奉行人の前であるぞ。気でも狂うたか」

伯耆房はあますところなく語る。

「主師親の三徳を備えられた方を御本仏という。日蓮大聖人は主であり、師匠であり、親である。この三つの徳を(たも)つかたは日蓮大聖人以外にあらず。前にも、そして未来にも。四天(してん)()の中にまったく二の日なし、四海の内(あに)両主あらんや」

御家人たちが笑うが伯耆房はつづけた。

「かの教主釈尊は、近くは去ってのち三月の涅槃これを知る。遠くは後の五百歳、一閻浮提広宣流布疑いなきものなり。しかれば近きをもって遠きを思い、現をもって当を知る、如是本末究竟等これなり。

おのおの笑うなかれ。自界叛逆、他国侵逼をもって大聖人の智慧を信じよ。軽毀する者は(こうべ)七分に破れ、信ずる者は福を安明(あんみょう)に積まん」

頼綱は笑いながら奉行人に告げた。

「聞いておられたか。これが日蓮一派の正体でござる。もはや評定はこれまで。打ちきりとすべきではござらぬか」

奉行がきびしい表情で、伯耆房に頼綱への論駁をうながした。

「最後にのべることがおありか」

伯耆房はここぞとばかり力をこめた。

「平の左衛門尉殿。貴殿はかならず滅びさるであろう」

場内が一瞬静寂となる。
 鎌倉の権勢を極める頼綱になにをいうのか。みなあっけにとられた。

伯耆房は見るからに高揚していた。汗だくになりながら息も絶え絶えに、つぎの言葉を吐いた。

「法華経の行者の首を落とした罪ははかりしれぬ。その報いとして、法華経守護の鬼子母神、十羅刹女がかならずや貴殿にとりつくであろう。次男とともに、貴殿の首は討ちとられるであろう」

このとき、頼綱が大剣を抜いてゆっくりと伯耆房の首にあてた。

一同がまたもあっとした。悪口をあびたとはいえ、僧侶の首をはねるのか。

頼綱の手がふるえる。

「伯耆房日興とやら。さすが日蓮一の弟子であるな。日本国侍大将のこのわしに、よくぞ言ってのけた。八年前、日蓮の首をはねようとしたが果たせなんだ。このうえは、おぬしの首をもって日蓮に進呈いたすとしよう」

頼綱が刃を高くあげた。伯耆房はこれまでと目をつぶり手をあわせた。一瞬、日蓮の姿がうかんだ。

だがこの時、奉行がさけんだ。

「左衛門尉殿、場所をわきまえよ。ここは評定所なるぞ。式目のとおり、刃傷は法度なり」

頼綱が鋭い眼光で奉行をにらむ。

だが奉行はまったく動じない。

「ここで刃傷におよべば、そなたの負けは火を見るより明らか。百姓を斬り、僧侶を討てば古今未曾有の不祥事。後世に汚名をのこすおつもりか」

頼綱がようやく刀をおろした。汗をふきだし息を切らせながら言い訳した。

「むろん斬りはせぬ。ただこやつがどんな顔をするかと思ってな」

場にいるすべての人々が興ざめた目で見た。

気まずくなった頼綱はゆっくりとでていく。そしてふりむき、伯耆房に言い放った。

「日蓮に伝えよ。わしは滅びない。どんな敵がいようと殲滅させてくれよう。いまの言葉おぼえておけ。いつまでも、おぬしらをつけねらっているぞ」

頼綱はさらに法華衆の一人一人を舐めるようにながめた。

「わしはたとえ地獄におちても、そなたらのそばを離れぬ。いつの世にも身と影のごとくつきまとい、南無妙法蓮華経と唱える者を苦しめるであろう。時には魔となり、時には鬼となって・・」

頼綱が薄笑いを浮かべて去っていった。

頼綱がどんなにあがいても法の力には勝てない。彼の末路は伯耆房の予言したとおりとなった。

この日から十四年後、頼綱は次男とともに北条時宗の子貞時の命により惨殺された。

くしくも大地震の日だった。

正嘉と変わらぬ推定マグニチュード七・五の地震が鎌倉をおそった。二万人が亡くなったという。この喧騒のなか、貞時の討伐隊が頼綱邸にむかった。

権力の頂点にいた頼綱は危険がせまっていることを予知しなかった。なすすべもなく次男とともにとらえられ、その場で自害した。享年五十二という。また長男の宗綱は佐渡に配流となった。

伯耆房日興はのちに自ら書写した本尊の脇書に神四郎を讃え、あわせて頼綱の末路をしるしている。

駿河の国富士の下方熱原の住人神四郎、法華衆と号し平の左衛門の為に頸を斬らるゝ三人の内なり、左衛門入道法華の衆の(くび)を斬るの後、十四年を経て謀叛(むほん)(はか)(ちゅう)せられ(おわん)ぬ、其子孫跡形無く滅亡し(おわん)ぬ   「富要第八巻」

 四百年後、日蓮正宗二十六世日寛は頼綱親子について次のように解説している。


今案じて云く、平左衛門入道果円の首を()ねらるるは、これ(すなわ)ち蓮祖の御顔を打ちしが故なり。最愛の次男安房守の首を()ねらるるは、これ則ち安房国の蓮祖の御(くび)を刎ねんとせしが故なり。嫡子(ちゃくし)宗綱の佐渡に流さるるは、これ則ち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり。その事、既に符合(ふごう)せり、(あに)大科免れ(がた)きに非ずや。 『撰時抄愚記

結局、評定は勝敗を決せず、うち切りとなった。

この事件はもともと日蓮憎しの感情からおきた。火のような憎悪は評定が進展するにつれ冷めていった。訴えた側の悪事もあきらかになり、だれも関わらなくなった。

さらに滝泉寺側に横死する者が続出して、勢いはますます下火となった。その横死した一人が三位房日行である。

日蓮はかつての弟子、三位房の最後についてしるす。

 はらぐろ( 腹黒)となりて大づちをあたりて候ぞ  『聖人御難事

大づちの意味は大難という説がある。不慮の事故であり、本人にとって無念の死だったことはあきらかだった。三位房のほかに大進房が急死している。大進房も日蓮の弟子だったが、熱原で敵対して直後に亡くなった。落馬が原因だったという。滝泉寺側の人々は色には出さなかったが、()じ恐れたのである。

十七名の百姓が開放され熱原に帰ってきた。彼らは村人とだきあって泣いた。十七人は駿河上野郷の青年地頭、南条時光がひきとった。

三つの墓が上野郷にできた。以来、この墓を霊峰富士が見守り続けている。


三人の死は日蓮の日本広布への確信を深めることになる。
 日蓮はそれまで布教の中心はあくまで出家した弟子が担っていくものだと考えていた。檀那つまり出家しない俗の信徒は、御本尊に向かって南無妙法蓮華経を唱え、出家僧に供養をすることが仏道修行の基本で、力あらば「随力演説もあるべきか」と信徒に書き記している。
 日蓮は入信してわずか一年の農民信徒が、命を落としても法華経の信仰を貫いた事実に驚愕した。日蓮が佐渡に流罪になった時、ほとんどの信徒は法華経信仰を捨ててしまった。彼らの多くは教養ある武士およびその眷属だった。
 日蓮はこの熱原の信徒たち、つまり法華講衆は日蓮仏法の未来を暗示していると感じただろう。日蓮は大御本尊の脇書に「弥四郎国重 法華講衆敬白」としたためている。
 この敬白の文字に、無名の農民信徒衆に対する限りなき敬意が示されている。

日蓮はふだんから難にあってこそ法華経の信心が試されるときびしくいってきた。妻子を(かえり)み身命を惜しんではならないと。

日蓮門下の行く末を託した伯耆房日興に、次のように言いのこしている。

御義口伝に云はく、身とは色法、命とは心法なり。事理(じり)不惜(ふしゃく)身命(しんみょう)(これ)有り。法華の行者田畠等を奪はるゝは理の不惜身命なり、命根を断たるゝを事の不惜身命と云ふなり。今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は事理(とも)()ふなり。 勧持品十三箇の大事 第二 不惜身命の事

妙法を唱える者は財産を失うことはもちろん命まで失うという。日蓮はこともなげにいった。

だがじっさいに難にあった弟子には自分のことのように嘆いた。竜の口の日朗しかり、四条金吾しかり、池上兄弟しかりである。

しかも神四郎ら三名は法華経に命をささげた。入信してまだ二年にも満たない彼らが身命を捨てた。いさぎよい死とはいえ、日蓮には悲嘆が先立った。

日蓮は思う。

仏法が真実ならば、かれらは寂光土にゆく。いや絶対に行かねばならない。日蓮はかれらを仏土に送ることを自分の責務とした。日蓮は竜の口で斬首の寸前を経験し、法華経を身で読む悦びを体得した。この崇高な体験は三人も同じはずなのだ。日蓮は悲しみにくれながら大難をのりこえる信心を訴える。
 日蓮は熱原の法難を予見していたかのごとく、次の書を六年前の文永十年五月に書き記している。

 

 一期( いちご)を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ、(たと)(くび)をば(のこぎり)にて引き切り・どう()をば( )しほこ(菱鉾)を以て・つつき・足にはほだしを打ってきり()を以てもむとも、命のかよはんほどは、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱へて死に(しぬ)るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾(しゅゆ)の程に飛び来たりて手をとり肩に(ひき)()けて霊山(りょうぜん)へはしり給はば二聖・二天・(じゅう)羅刹(らせつ)女は受持の者を擁護(ようご)し諸天・善神は天蓋(てんがい)を指し旗を上げて我等を守護して(たし)かに寂光の宝刹(ほうせつ)へ送り給うべきなり、あらうれしや・あらうれしや。 『如説修行抄

「ひしほこ」とは、先が菱のかたちをした鉾のこと。「ほだし」とは手かせ足かせをいう。このような物でおどされても、題目を唱えていけという。

熱原の三烈士は日蓮の教えに一字一句違えることなく、南無妙法蓮華経を唱え通して、霊山に旅立った。


         八十四、四条金吾、横難に遭う につづく 


下巻目次 




by johsei1129 | 2017-09-18 10:39 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 09月 18日

八十二、熱原の三烈士、霊山に旅立つ

鎌倉の牢内はなおも苦しい戦いがつづいていた。

百姓たちは神四郎ら三人をのぞき、すべてが退転にかたむいた。十七人の百姓が神四郎、弥五郎、弥六郎を責めていたのである。
 彼らは伯耆房の激励にいったんは信心をかためたが、またも退転の心がわいた。

「なぜ左衛門尉様のいうことをきかない。おまえたちのせいで、こんなところにほうりこまれたのだ」

「いいかげんにあきらめろ。一生ここにいるのか。こうまで強情をはったら、左衛門尉はどんなことをするかわかったものでないぞ」

「飯も満足に食べられない。これが限界だ。いままでよくやったのだ。満足ではないか。このままでは全員飢え死ぬだけだ」

仏と魔との戦いだった。

神四郎ら三人がなにをいってもむだだった。三人はひたすらだまり、耐えるしかない。かれらにも限界が近づいていた。

この時、牢内が静まった。

頼綱の長男宗綱があらわれたのである。

宗綱は静かに告げた。

「あす神四郎、弥五郎、弥六郎の三人が斬首の刑ときまった」

百姓が仰天した。

宗綱はわめく百姓をなだめた。

「それでどうだ。死罪とひきかえに法華経を捨てるのだ。お前たちが日蓮を捨てて念仏に帰れば、三人はもとより全員が無罪放免となる」

長男の目はやさしかった。

十七人の百姓がうなずいた。鬼のような侍どものなかで、この長男だけは信用できた。げんにこうしてかばってくれているではないか。

だが神四郎、弥五郎、弥六郎はかたい表情でだまったままである。

十七人が三人にすがった。

「神四郎、お前にいかれたらだれを頼っていけばよいのだ。熱原に帰ろう。われらを見捨てないでくれ。たのむ」

弥五郎、弥六郎もすがりつかれるが、なおも表情をこわばらせて動かない。

宗綱があきれ顔になって三人を見つめた。

「おまえたち、妻子はないのか、命が惜しくはないのか。このままでは身を粗末にするだけではないか。わたしのいうことがうそだと思うのか。わたしは起請してもよい。おまえたち三人の命は安堵するのだ。なぜだまっている」

神四郎は宗綱の言葉をきかず十七人に語りかけた。その声はすみきっていた。

「おまたち、われらは心の田畑に仏の種を植えたのではなかったか。ここで枯らしてどうする。春に種をまき、秋には実る。丹誠こめて水をやり大事に育てる。やがて春の日ざしとやさしい夏の雨がふりそそぐ。自分で種をつんでは実りはないぞ。どんな困苦があろうと、どんなに脅されようと、法華経の種を絶やしてはならぬ。これがわたしの遺言だ」

百姓たちはわめいたが、神四郎はほほえんだ。

「なぜ泣く。わたしが首をはねられるのがむだ死にだというのか。わたしはおまえたちの肥やしになるのだ。お前たちは法華経を最後まで信じとおした証人として生きよ。そうだ、これからも妙法をうけ、(たも)つ者たちがあらわれるだろう」

神四郎が宙を見つめる。

「彼らもわれらと同じく大難にあうだろう。その時、われらを思いだす。最後まで法華経を信じとおしたわれらを。大難に屈せず潔く、法華経のほかには仏になる道なしと題目を唱える者たちだ。聖人を愛し、国を思い、ひとたび決意したならば、決然とやりとげる人たちだ。そんな人たちが地からわきでるようにあらわれる。われらは彼らのために手本となろう。そのことを思うだけで満足だ」

神四郎が宗綱にむかって正座した。

「聞いてのとおりでございます。わたくし神四郎の首はさしあげますが、弥五郎、弥六郎の両名はどうか安堵のほど、よろしくお願いたてまつります」

ここで弥五郎がにこやかにいった。

「神四郎、なにをいう。水くさいぞ。ともに誓った仲ではないか。最後まで一緒だぞ」

弥六郎もにこやかだった。

「そのとおり。善につけ悪につけ法華経を捨つるは地獄の業なり。神四郎、おぬし功徳をひとりじめにする気か」

三人が無限の悦びとともに手をとりあった。

神四郎は涙ながらにつぶやいた。

「異体同心だな」

「まったく。最後の最後で三人がひとつになれた」

「日興上人のおかげだな」

三人が牢内で高らかに笑いあった。十七人の百姓が三人に手を合わせていく。

神四郎は立ちつくしている平宗綱に告げた。

「わざわざこのようなところにお越しいただき、恐縮にございます。さりながらわれらはあなた様のようなかたを悪知識と呼んでおります。どうぞお引きとりくださいませ」

宗綱が信じられない顔で、ふりかえりふりかえりながら出ていった。

三人はその夜、一睡もせず談笑し、心から楽しんだという。

弘安二年十月十五日の朝、三烈士は呼びだされた。

「熱原の法華講衆、神四郎、弥五郎、弥六郎、でませい」

のこった百姓は涙とともに題目を唱えはじめた。嗚咽のまじった唱題だった。牢内に妙法がひびきわたる。

明るい空の下、縄でくくられた三名が目かくしされ正座した。

三人の口元に満足の笑みがうかび、静けさがただよった。これで思いのこすことはない。

その時である。

屋敷の外から神四郎の妻子が絶叫する声がきこえてきた。

「おとう」

「あんた」

この声を聞いて神四郎の心がはげしくゆれた。

彼は弾圧から今にいたるまで、妻子を思わない日はなかった。だが心に心を戦わせ、今まできた。しかしここで命よりも大切な妻子の生の声を聞いて、がく然としてしまった。

「このまま妻や子をのこして死ぬのか・・」

神四郎は無念の思いとともに涙をうかべた。心中に逆風がうずまき、退転の心が走った。

と同時に、彼は日蓮の言葉を思いだした。

我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然(じねん)仏界(ぶっかい)にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども疑いををこして皆すてけん。つたなき者のならひは約束せし事を、まことの時はわするゝなるべし。妻子を不便(ふびん)とおもうゆへ、現身にわかれん事をなげくらん。多少曠刧(こうごう)にしたしみし妻子には、心とはなれしか、仏道のためにはなれしか、いつも同じわかれなるべし。我法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返ってみちびけかし。  『開目抄

日蓮門下であれば、だれもが口ずさむ一節だった。

神四郎は自分でも不思議なほど動じなくなった。迷いから()め、決然と覚悟した。この間、一瞬である。

神四郎の口元に笑みがうかんだ。

三人が目かくしをされながら語りあう。

「神四郎」

「おお弥五郎か」

「首をはねられて、われらはどこへいく」

神四郎のこたえはさわやかだった。

「日蓮聖人は、千の仏がわれらをむかえにくるというておられるぞ」

弥六郎が感嘆した。

「ほう千仏か。それは頼もしい」

「そしておそれなく、悪道におちることなく、霊山浄土にはこぶというぞ」

神四郎が最後にいった。

「弥五郎、弥六郎。また会おう」