日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 04月 06日 ( 5 )


2017年 04月 06日

二十七、大難への予兆

 日が暮れて鎌倉中が暗くなってきた。

 極楽寺では人々が雨のおちる門前にあつまり、平形の数珠を投げすてた。

 日蓮の法華宗への転教である。

 寺の中では周防房と入沢入道が良観をさがしていた。

 行方不明になったのである。

 やがて良観は邸内の庭にいることがわかった。

 彼は草かげにうずくまり、湿った地面を凝視していた。

 雷光が良観のすさまじい怒りの顔面をてらした。

 良観は釈尊の仏敵、提婆(だいば)(だっ)()になることをきめた。いや、なるべくしてなった。

 なんとしてでも日蓮を葬り去ることをきめたのである。

 提婆達多は釈迦の命をねらいつづけ、最後は自らの親指に毒を仕込み、釈迦を毒殺しようとしたが、自分自身に毒が回り、大地が割れ現身のまま無間地獄におちたという。

 その提婆逹多が釈迦を憎んだ直接の理由は、公衆の面前で罵倒されたからである。

 世尊提婆(だいば)(だつ)()を汝愚人・人の(つばき)を食らふと罵詈(めり)せさせ給ひしかば毒箭(どくせん)の胸に入るがごとくをもひて、うらみて云はく「()(どん)仏陀(ぶつだ)にはあらず。我は(こく)(ぼん)(のう)(注)の嫡子、阿難尊者が兄、瞿曇が一類なり。いかにあしき事ありとも、内々教訓すべし。(これ)()(ほど)の人天大会に、此程の大禍を現に向かって申すもの大人仏陀の中にあるべしや。されば先々(さきざき)妻のかたき、今は一座のかたき、今日よりは生々世々に大怨敵(おんてき)となるべし」と誓ひしぞかし。『開目抄上

 瞿曇とは釈迦のことである。

 釈迦は悪意があって提婆を叱責したわけではない。

 提婆はもともと釈迦の弟子だった。彼は釈迦とおなじ印度の王族であり、いとこ同士だった。それだけに智慧もあり衆望もあつかったが反面、功名心が異常に強く、釈迦のあとは自分が引きつぐと慢心していた。

 釈迦はそのような提婆をいくども教訓したが提婆は聞かない。釈迦は彼のどす黒い心性を見抜き、未来を思って叱責したのだった。

 人の唾を食うとは痛烈である。

 それほど提婆の暗い本性は底知れなかった。名聞名利で生きる提婆にとって大衆の面前で罵倒されることは死ぬことよりもつらい。提婆の心中に毒の矢が刺さった。立身にはやる提婆にとって、公衆の面前で面罵されたことは抜きがたい恨みとなった。印度第一の美女、耶輸(やしゅ)多羅(たら)(にょ)を妻にしようとして釈迦に敗れた遺恨もあった。

 提婆は思った。釈迦を亡きものにすることが自分を救うことだ。いらい彼は終生、釈迦の命をねらった。

 男は恥に命を捨てるという。提婆は公衆の面前で恥をかかされて、その本性をあらわにした。

 ちなみに提婆逹多はこのあと三逆罪を犯す。()阿羅漢、破和合僧、出仏(すいぶつ)(しん)(けつ)である。まず釈迦の弟子であり養母だった摩訶波闍(まかはじゃ)波提(はだい)を殺害した。つぎに釈迦の教団から自分の弟子を連れ出して分裂させ、存亡の際まで追いつめた。最後は岩石を落として釈迦の小指をつぶしている。いかに悪人といえど、仏の身を傷つけたのは、あとにも先にも提婆達多と小松原の法難で日蓮の額を刀で切りつけた東条景信だけである


 良観は祈雨の勝負で立ち直れないまでの敗北を味わった。この恨みを晴らすためには、日蓮を抹殺する以外にない。いまの良観にとって日蓮の門下にくだるどころか、懺悔など露ほども考えられないことである。そのためにあらゆる手段を使わねばならない。僭聖(せんしょう)増上慢の本性をむき出しにしたのである。

 日蓮は釈迦と提婆逹多の二人の出会いが宿命であり、おなじく聖徳太子と物部守(もののべのもりや)の関係と同様であるという。法華経の行者の前に怨敵がいるのは必然であるといいきっている。

仏と提婆とは身と影のごとし、生々にはなれず。聖徳太子と守屋(注)とは蓮華の花果(けか)、同時なるがごとし。法華経の行者あれば必ず三類の怨敵(おんてき)あるべし。三類はすでにあり、法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし。一眼の眼の亀の(ふぼ)((注)に()ふなるべし。 『開目抄下

降雨の祈りを終えた日蓮の一行がしとしと降る雨の中、若宮大路を進んだ。

勝者の行進だった。

沿道の衆が大歓声でむかえた。

無理もない。

関東の一円はこの雨で蘇生した。飢饉は間一髪でまぬかれたのである。


祈雨の勝利によって日蓮に帰依する人々が熱狂的にひろまった。

晴れた日の広場に人々があつまった。

木々の緑はあざやかによみがえっていた。

伯耆房が館で法華経の説法をした。

また念仏の寺院では日朗が黒衣の僧と対面した。念仏僧が手をあわせて日朗に深々と頭をさげ、帰順の態度をしめした。

武家屋敷では三位房がいならぶ武士の前で説法した。武士の一人が手をあわせるのにつづき、ぞくぞくと三位房に合掌した。

三位房は得意そうな顔でうなずいた。

鎌倉中が寝静まった夜、いつものように日蓮は弟子たちを前に法華経の講義をした。座は熱気にあふれ、広宣(こうせん)流布(るふ)(注)への機運がいやがうえにも高まってきていた。

一念三千と申す事は迹門(しゃくもん)にすらなを()許されず(いか)(いわん)()(ぜん)(ぶん)()へたる事なり。一念三千の出処は(りゃっ)(かい)(さん)の十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の()()(はん)(もん)、迹門は本門の依義判文なり。(ただ)真実の()(もん)(はん)()は本門に限るべし。されば円の行まち()まち()なり(いさご)かず()へ大海を()なを()円の行なり。何に況や爾前の経をよみ弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。但これらは時時(よりより)の行なるべし。真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり。これは智者の(ぎょう)()なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととな()へさすべし。名は必ず体にいたる徳あり。法華経に十七種の名ありこれ通名なり。別名は三世の諸仏(みな)南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり。十章抄

 講義のあと、伯耆房がうれしさをこらえきれず話しだした。

「法華経の説法をぜひ聞きたいと懇願される御家人が多数でてまいりました」

日朗もつづいた。

「上人の祈雨が叶ったとの噂が広がり、鎌倉以外の地からも説法を請う者が数えきれないほどです。この十余年、日本国はみな念仏者でございましたが、上人のお力で十人に一人二人が南無妙法蓮華経と唱え、二三人は南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の両方を唱え、また未だ念仏を申す者も、心は法華経を信じているように見受けられます」

つづいて三位房も鼻高々だった。

「わたくしめも幕府をつかさどる武家の面々の前で説法することができました」

ここで彼は急に京都なまりになった。

「さきごろは京都でお公家様がたに召され、お話をいたして面目をほどこしました。そこでわたしは名を変えてみようかと思っております」
三位房はいささか公家なまりで滔々と語りだした。

日蓮が話をさえぎった。

「まて、三位房。そなたの話はいかにも気がかりに思われる」

三位房が意外な顔をした。法華経がいま勢いよく流布しているというのに日蓮の表情はけわしい。

「たもつ法はこの世にまたとない法門である。たとえ大菩薩であろうとなんであろう。まして日本の天皇はただ小島の(おさ)である。長なんどに仕える者どもに召されたとか、面目なんど申すのは、(せん)ずるところは日蓮を卑しんで申すようなものだ。総じて日蓮の弟子は京にのぼれば、はじめは忘れぬようにて、のちには天魔がついてものに狂う少輔房のようだ。おまえも少輔房のようになって天の怒りを招くことになる。わずかのあいだに名を変えるとは正気の沙汰とは思えない。言葉つきも声も京なまりになった。(ねずみ)がこうもりになったようだ。鳥にもあらず鼠にもあらず、田舎坊主にもあらず京法師にも似ず、すっかり少輔房になったようだ。言葉は田舎なまりで通せ。その浮かれた振る舞いは、なかなか悪い前兆であるぞ」

座が緊張した。

今や高弟となった三位房が信徒の面前で叱責された。しかし三位房の顔は納得していない。

日蓮がつづける。

「一切衆生の尊敬すべきものに三つあり。いわゆる主と師と親である。また習学すべきもの三つあり。儒教・外道・仏法である。この中に過去、現在、未来を見とおしてすぐれた教えは仏法である。その仏法の中でただ一つの正しい教えは法華経である。あらゆる虚飾をとりはらい、永劫の命を説いた法華経こそ真実の教えである。しかしだれもが法華経を見たが、読んだ者はいない」

弟子はいぶかしがった。

日蓮が法華経をひらく。

「『諸の無智の人有って悪口(あっく)罵詈(めり)等し及び(とう)(じょう)を加ふる者あらん』と。この一節は日蓮がこの世に生まれなければ、釈尊はほとんど妄語の人となったであろう。釈尊滅後、いったいだれが法華経のために悪口罵詈せられ、刀杖の難をうけた者がいたであろうか。日蓮がいなければ、法華経のこの偈は虚妄となってしまう」

日蓮の真意とは反対に、弟子の中で日蓮を疑う者がいた。

三位房はその筆頭で、内心ではこうつぶやいていた。

(師匠の思いあがりだ)

 日蓮は淡々と説いていく。

「『この悪僧、常に大衆の中にあって国王、大臣、()羅門(らもん)に向かって我等の悪を説く』と。今、世の僧らが日蓮を誹謗し流罪にしなければこの経文はむなしい。この釈尊の予言が適うゆえに、ただ日蓮一人がこれを身で読んだのである。いまもまた三類の強敵(ごうてき)がうごめいている。すでに()()良観らが訴状をしるして将軍家に献上しようとしているのだ。これが三類の強敵でなくして、なんであろうか」

祈雨の勝利によって鎌倉での日蓮の評判は激的に好転したが、同時に日蓮を亡き者にしようとする勢力はその本来の力をむきだしにして策謀しはじめた。

良観は念仏僧の然阿とともに、訴状を将軍家にさしだして日蓮を訴え、建長寺道隆は自ら奉行所に出むいて讒言した。

日蓮はこの動きを察知していた。それはきたるべき大難の予兆だった。

弟子たちは法華経の流布が進展していることに浮かれていたが、一人さめていたのである。


 ここで疑問が残る。日蓮はなぜ良観に降雨の対決を迫ったのかという疑問が。

 疑問の一つは、宗教の正邪は経による法論で決すべきと主張してきた日蓮が、なぜ降雨の対決で正邪を決しようと良観に迫ったのか。

 もう一つは、日蓮はこの時代では確実な予測が極めて困難な、しかも七日先までの天候について如何(いか)にして予知できたのであろうか、かりに予知測ができたとしたら、その根拠はいったい何だったのか。一説には日蓮は安房・()(みなと)の漁師の家で生まれたので、父親から天候の予測を聞いて育ったから雨が降らないことをあらかじめ予測ができたのだろう、と言う主張がある。しかし天候は変動する。しかも七日先までに雨が降らないという確実な予測は困難だ。

 生涯、法華経の弘通(ぐつう)に身を投じた日蓮が、宗教の正邪ではなく、雨が降らすことができるかどうかで宗教の勝劣を決するというのは、ある意味、博打(ばくち)同然であるとさえ思えてくる。そうなれば行き着く結論は、日蓮は自らが天候を自在に左右するだけの力用(りきゆう)を有していて、その絶対的確信をもって良観との降雨の対決に持ち込んだとしか考えられない。

 その意味で、日蓮大聖人は、良観に降雨の対決を迫った時点で、すでに末法の本仏としての確信を得ていたのでは、と強く推察される。

 
          二八、極楽寺良観の策謀 につづく


上巻目次

 斛飯王   

釈迦の父()()()()(じょう)(ぼん)(おう)の弟で、釈迦の叔父。竜樹の大智度論によると提婆(だいば)(だっ)()・阿難兄弟のの父となっている。

 守屋

物部守屋(もののべのもりや)のこと。?~五八七年。大和時代の中央貴族。()()()()敏達・用明朝に大連となり、父・尾輿の排仏論を受けて崇仏派の蘇我馬子と対立した。日本書紀によると、敏達天皇十四年、馬子が大野岡に塔を起こして仏会を行ったのに対し、その頃、起こった疫病は崇仏が原因であるとして中臣(なかとみ)勝海(のかつみ)と共に排仏を上奏した。そして勅によって寺を焼き、仏像を焼いて難波の堀江に流した。その時、疱瘡が流行し、天皇・守屋・馬子共に患い、ついに天皇は逝去した。次いで用明天皇二年、勅によって崇仏が行われたが、守屋はこれに反対して軍勢をおこした。天皇の没後、(あな)穂部(ほべの)(おうじ)を擁立しようとして更に馬子と対立し、数度の戦いの後、(うまや)(どの)皇子(おうじ)(聖徳太子)が四天王に祈願した矢にあたって敗死した。以後、物部氏は衰退した。

一眼の亀の浮き木

 大海にすむ一眼の亀が、広大な海の中で我が身を癒す栴檀の浮き木にあいがたいこと。人間に生まれて正法にあうことの難しさをたとえたもの。

「仏には()いたてまつること得難し。()曇波(どんば)()()の如く、又、一眼の亀の浮き木の(あな)に値えるが如し」 「妙荘厳王本事品」

 広宣流布

仏法を広く()べ流布すること。法華経薬王菩薩本事品第二十三に「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提(えんぶだい)に広宣流布して、断絶して悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉(やしゃ)鳩槃(くはん)()等に、()便(たより)を得せしむること無けん」とある。仏法を広く世界に弘め伝えることによって平和な社会を築くことをいう。歴史上では、紀元前三世紀ごろ、インドの()(そか)王時代の小乗教流布、六世紀、中国・天台の法華経迹門(しゃくもん)の流布などがあり、日本では平安初期に伝教大師が法華経迹門の戒壇を比叡山に建立している。

日蓮大聖人は末法に広宣流布すべき法門として三大秘法を打ち立て、在世中に本門の本尊を顕し、滅後に本門の戒壇の建立を遺命した。

「御義口伝に云はく、畢竟(ひっきょう)とは広宣流布なり、住一乗とは南無妙法蓮華経の一法に住すべき者なり、是人とは名字即の凡夫なり、仏道とは究竟(くきょう)(そく)是なり、疑とは根本疑惑の無明を指すなり。末法当今は此の経を受持する一行計りにして成仏すべきこと決定(けつじょう)なり云云。」 『神力品八箇の大事 畢竟(ひっきょう)(じゅう)一乗(いちじょう)○是人於仏道 決定(けつじょう)()有疑(うぎ)の事』

 地涌の菩薩

釈迦の説法を助け、滅後の弘教を誓った本化の菩薩のこと。法華経従地涌出品第十五に説かれている。地涌の大士・地涌千界の大菩薩・本化の菩薩ともいい、末法に妙法を弘通するために出現する菩薩をいう。滅後の弘通を勧める釈迦の呼びかけに応えて大地の底から()き出てきたゆえに「地涌の菩薩」といい、上行・無辺(むへん)(ぎょう)・浄行・安立(あんりゅう)(ぎょう)の四菩薩を上首とする。釈迦は他方および迹化の菩薩を退(しりぞ)けて、如来神力品第二十一で上行等の四菩薩を上首とする地涌の菩薩に妙法を結要付嘱し、末法の弘通を託している。末法に三大秘法の南無妙法蓮華経を唱える者が地涌の菩薩となる。

「今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は従地涌出の菩薩なり。外に求むる事無かれ云云。」『御義口伝 二十八品は悉く南無妙法蓮華経の事』



by johsei1129 | 2017-04-06 22:08 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 04月 06日

二十六、日蓮、降雨へ渾身の祈り

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                        (日蓮聖人御一代記より)
 良観が阿弥陀像の前で正座した。
 そこに入沢入道が息を切らせて走りこんできた。
「日蓮の使いがきております」

 良観がおどろいたのと同時に日蓮の弟子、日朗があらわれた。

 薄墨色の法衣を着た日朗は黒衣の僧を見まわし、一字一句かみしめるように言い伝えた。

「日蓮上人の弟子、筑後房日朗が謹んで上人の伝言を申しあげまする。雨の祈りは本日一日、良観上人にとって運命の日でござる。もし本日雨がふらなければ、かねてのお約束どおり日蓮上人の弟子となって、一から法華経の修行に励み候べし。さもなくば山林に身を隠するがよろしかろう」

極楽寺の信者が日朗につかみかかったが、周防房と入沢入道が止めた。信者は日蓮への憎しみをむきだしにしたが、周防房が懸命にさとした。

「さわぐな。ここで手をあげれば、われわれの負けだ」

 信者は日朗に罵声をあびせた。

「まだ終わったわけではないぞ」

 彼らは罵りながら早々に日朗を追いだした。

 日がかたむき、祈祷所に風が舞う。

 極楽寺の信者が一人二人去っていく。

 このうち一人が腹立たしげに平形の念珠を地面にたたきつけた。平型は念仏宗の象徴である。

 信者がまばらになっていく。

 ここで二度目の使者、日昭があらわれた。

「日蓮上人の弟子、弁阿闍梨日昭が上人の伝言を申しあげる。良観殿、もう日はくれる。いさぎよく負けを認めなされ。良観殿、見苦しい姿を見せるのはやめたまえ。しょせん戒律・念仏はとるにたらず、法華経におよばないのだ。良観殿、観念したまえ」

 良観には聞こえない風だった。彼はなおもうつろな顔で念仏を唱えていた。

 太陽が山の端にさしかかり一日が終わろうとしている。

 ここで良観は突然、もっていた数珠を引きちぎり空に叫んだ。怨恨をこめた怒声だった。

「なぜふらぬ。余はかつて雨をふらせないことはなかったのだ。だが今なぜふらぬ。余のどこに落ち度がある。余はこんなところで祈る者ではないのだ。鎌倉はもとより、奈良・京都に君臨する大僧正、いや大師と呼ばれるにふさわしい身なのだ。そうだ、余に失敗は許されぬ。これからも愚かな大衆の上に君臨しなければならない身だ。それなのになぜ今・・」

 良観が頭を地面にこすりつけ、なんどもたたいた。

 それでもなお諦めきれない良観の信者は念仏を唱え続ける。やめれば敗北を認めることになる。それはさすがに耐えきれないのだろう。

 良観の敗北が決定的になった時、三度目の使者、伯耆房日興が登場し夕陽を背に高らかに告げた。

「日蓮上人の弟子、伯耆房日興が上人の伝言を申しあげる。忍性良観殿、雨ふらずして悪風のみ吹きたるは何事である。戒律第一の良観聖人は法華・真言の義理をきわめ、慈悲第一と聞こえたもう。それが数百人の宗徒をひきいて七日のうちになぜふらすことができぬ。これをもって思いたまえ、一丈の堀をこえぬ者、十丈二十丈の堀をこうべきか。やすき雨さえふらすことができぬ、いわんやかたき往生成仏をや。しかれば今よりは日蓮を(あだ)みたもう邪見をば、これをもって(ひるがえ)したまえ。なんじ来世を恐ろしく思わば、約束のままに急ぎ来たりたまえ。雨ふらす法と仏になる道を教えてつかわそう」

 良観が伯耆房をにらみ、声をうならせた。記録によれば、彼は泣いて感情をむきだしにしたという。

 尋常ではない。鎌倉の生き仏といわれた聖人である。良観がこれほどの屈辱をうけたことはいまだかつてない。

 しかし伯耆房は容赦なく言いはなつ。

「干魃はいよいよさかん、悪風はますます吹きかさなって民のなげきいよいよ深い。すみやかにその祈りをやめたまえ」

 信徒が我にかえったように念仏をやめ、伯耆房を仰ぎ見た。

 怨念の声があがった。

 この怨嗟(えんさ)の響きが外にもれ、様子を見ていた群衆が逃げだした。

 日蓮はのちにこの祈雨について、建治五年五十六歳の時、著した「下山御消息」で次のように記している。

 起世経に云はく「諸の衆生放逸(ほういつ)()し、清浄の行を汚す、故に天即ち雨を(くだ)さず」と。又云はく「不如法(ふにょほう)なる有り、慳貪(けんどん)嫉妬(しっと)邪見(じゃけん)顛倒(てんどう)せる故に天則ち雨を(くだ)さず」と。又(きょう)(りつ)異相(いそう)に云はく「五事有って雨無し。一二三これを略す。四には雨師(うし)淫乱、五には国王理をもって治めず、(うし)(いか)る故に()らず」云云。此等の経文の亀鏡をもって両火房が身に指し当てゝみよ、少しもくもりなからむ。一には名は持戒ときこゆれども実には放逸(ほういつ)なるか。二には慳貪なるか。三には嫉妬なるか。四には邪見なるか。五には淫乱なるか。()の五にはすぐべからず。又此の経は両火房一人には(かぎ)るべからず。昔をか()み今をもしれ。

 両火房とは良観の別称である。祈りが叶わないのは、放逸・慳貪・嫉妬・邪見・淫乱のゆえという。

良観は完膚なきまでに敗れた。この瞬間、名声は地におちた。

 北条時宗邸では安達泰盛と平頼綱が激論していた。扇子をかざしながら非難の応酬である。

 泰盛が唾をとばして頼綱をなじった。

「おぬしも雨乞いの件は賛成したではないか」

 頼綱が食ってかかる。

「なにを申す。わしがいいたいのは結果だ。この責任をどうするのだ。この七日間、期待をかけたばかりに、干魃はひどくなったのだ。責任をとられよ」

「おぬしこそなにをしていた。北条の官房でありながら、無策の毎日だったではないか。その言葉、そのままかえすぞ」

 すわっていた二人が刀をつかんで立ち膝になった。
 時宗が怒る。

「まて。つまらぬ争いはやめよ。すぎたことはいたしかたない。これからどうするかが問題であろう」

 二人がふてくされてすわった。しばらくして泰盛がつぶやいた。

「それにしても、町では日蓮が良観の祈祷をさえぎったとの評判でござる。それがまことならば許してはおけぬ」

 頼綱が吐きすてた。

「日蓮にそのような力はないわ。良観に実力がなかっただけのことだ。まったく、金の力で成りあがった坊主に期待をかけるとはな」

 時宗の前で頼綱頼になじられた泰盛は、悔しさで身震いした。泰盛の妹で、父亡き後養子とした覚山尼は、時宗の正室となっている。泰盛は北条の外戚として時宗を支えている。北条とは無縁の頼綱ごときに非難される筋合いはないと怒りが収まらない。この二人の軋轢(あつれき)は幕府を揺るがす火種となった。

 いっぽう泰盛の思いなど眼中にない頼綱が主人に告げる。

「いずれにしても日蓮は捕らえるつもりでござる。われらを支配者と認めぬ者は首を斬るのが筋」

 時宗がなだめた。

「頼綱、早まるな。父上の遺言である。日蓮上人に手を出してはならぬ」

 頼綱はねばる。

「今回の件で日蓮の一派が勢いづき、信者をふやしております。危険は増しておる。殿、日蓮は良観のように従順ではございませぬぞ。あやつを捕縛しなければ、必ず禍根をのこします。事がおきる前に処理すべきでござる」

 泰盛がいきどおった。

「執権の命令を聞かぬか。そんなことをしても、だれも納得せぬわ」

 頼綱が目を細めた。

「日蓮は祈祷に勝っただけだ。雨をふらせたわけではない。今回の件は時がすぎればおさまる。かえって鎌倉のだれもが雨を止めた日蓮を恨むであろう。日蓮の逮捕は世を静めることになる。もっとも日蓮にふらす力があればべつだが」

 時宗と泰盛が腕を組んだ。

 この時、小姓があわただしくやってきて時宗の耳にささやいた。

 幕府の重鎮が談合している最中に、時宗お墨付きの小姓とはいえ、割って入るとは急な事態が起きたことは間違いない。

 泰盛と頼綱がなにごとかと時宗の目を見る。

 時宗がつぶやいた。

「日蓮殿が雨の祈祷をされる」

「なんとなんと、日蓮殿が祈祷とは」

 思いがけない展開に泰盛は一瞬笑みをこぼす。いっぽう良観の肩を持つ頼綱は憎々しげに泰盛を睨みつけた。

 ぎらつく太陽の下、町衆が日蓮の館の前でひしめきあった。群衆は暑い日刺しにさらされぬよう傘をさすか、かぶり物をつけている。

 日蓮らの一行が出てきた。彼らは良観の黒衣とは対照的に、薄墨の衣であらわれた。

 鎌倉の期待は一気に日蓮にあつまった。

 大衆が歓声をあげる。

「日蓮上人様」

 なかには「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱える者まででてきた。日照りに苦しむ農民にとって雨の願いは切実だ。良観殿の念仏がだめなら、日蓮上人の法華経にすがるしかないとの思いがひしひしと伝わってくる。
 一行は四条金吾、土木常忍を露払いとして出発した。
伯耆房、日朗、日昭が香炉、燭台、花立をもってすすむ。少年の熊王は誇らしげに南無妙法蓮華経と大書した旗をもった。

 群衆がそのあとをついていった。彼らは日蓮の背中によびかけた。

「日蓮上人、どこへゆきなさる」

 伯耆房が固い決意でいる。だがほとんどの弟子は不安な面持ちだった。

 極楽寺は閑散としていた。信者は広い本堂にまばらである。

 良観はやつれてはいたが平静をよそおっていた。彼は苦しまぎれに話しだした。

「このたびの件はわけもないことでございます。雨の祈りというものは、十回祈って一回ふれば大成功なのです。このつぎはこの良観、かならずふらせてみせましょう。であるから雨をふらせるのに勝負ということは、あまりに軽率なことで・・」

 良観は赤恥をかかされても説法をやめない。はなれた信者をつなぎとめようと必死だった。

 ここに周防房が汗まみれで本殿に入ってきた。

 良観がとがめる。

「いかがいたした。そのあわてぶりは」

 周防房はいかにも恐ろしげだった。

「日蓮が雨の祈りを始めるとのことです」

 これを聞いた信者がつぎつぎと外へでていった。

 鎌倉郊外。

 強い紫外線のもと、日蓮の一行が田舎道をすすむ。彼らは小高い山裾の道を歩いていた。群衆がついていく。

 林に囲まれた池があった。

 一行が池のほとりに(むしろ)をしいた。

 伯耆房らが香炉や経机を運んで準備をはじめた。

 群衆があきれた。

「こんなへんぴな所で祈るのか」

「しかもたったあの人数で・・」

 四条金吾が最後尾で聴衆を静める。

「みなの衆、日蓮上人の祈りがはじまりまするぞ。お静かに願いつかまつります」
 金吾も町民や農民に対してはいつもとちがっていやさしく語る

 日蓮がおもむろに胸から一枚の板をとりだし、筆でさらさらと祈祷文をしたためた。そして板をゆっくりと池に入れ、手をあわせ一声力強く「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と題目を三遍唱えた。このあと方便品第二、如来寿量品第十六を読誦する勤行がはじまった。

 鎌倉御所では汗まみれの泰盛と頼綱がうらめしく空を見ていた。

 庭の花が枯れかかっている。

 極楽寺では良観が座敷をせわしげに歩き回った。良観は膳の美食にも手をつけられない。不安にさいなまれる自分をどうすることもできない。

 日蓮の読経()がつづく。

「毎時作是念。以何令衆生。得入無上道。即成就仏身。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経経・・」

 伯耆房日興が太鼓をたたく。この音にあわせて日蓮が題目を唱えはじめた。

 日蓮はあらかじめ弟子たちに『雨が降るまで唱題は止めない』と厳命していた。

 雌雄を決する時がきた。日蓮門下の弟子一同、また金吾・常忍・乗明等の強信徒も決死の形相で日蓮につづく。

 群衆がしばらく見守っていたが、灼熱の空に変化はない。

 首をふって帰る者がでてきた。

「ふるわけがない。これでもう、だれも信じられなくなったわ」

 この時、かたわらの大きな葉に一粒のしずくがおちた。

 炎天下に田畑は枯れきった。

 ひとりの百姓が桶を天秤で運んできた。桶は井戸からくんだ水である。日の出から沈むまで、何回もくみあげた。大切な畑のためだった。それでも足りない。

 百姓は汗だくになりながら桶をおいた。水は半分にも満たない。

 そこへ赤子が近づいて水を飲もうとした。子供もかわいていたのだ。

「おとう。みず、みず」

 百姓が子供に気づいたがおそかった。子供が桶をたおしてしまった。

 おどろいて駆けより、流れた水をすくったが、水は乾いた地面に吸い込まれた。

 思わず子供をつきとばした。赤子が泣きじゃくる。

 はっとして我にかえった。

 妻が家から出てきて子供をかばい、涙声でなじった。

「子供にあたってどうする」

 妻は子を抱きかかえ家にはいる。家では床に伏せた老婆がいた。

 百姓が子供の泣き声を聞きながら畑にうずくまり、なんども土をたたいた。

 しぼりだすように涙がでる。土をつかんだ手の甲に、涙がぽたりぽたりとおちた。もう限界だった。

 しかしどうしたことか、百姓はしずくがまわりの地面にも落ちているのに気づいた。

 はっとして空を見あげた。

 一片の雲が真上にあるのを見た。

 雨がぱらぱらと落ちてきた。

 百姓に生気がもどった。

「雨だ」

 百姓がいそいで家にかえった。

「雨だ、雨だぞ」

 妻、子供、寝ていた老婆も、外を見あげた。

 雨がしずしずとふる。すべてをうるおす甘露だった。空はうす曇りとなり、水滴がゆっくりとおちてきた。

 人々は思わず道にでた。みなよろこびの顔で雨露にうたれた。

 池では群衆が空を見あげて大騒ぎになっていた。

「雨だ、雨だ」

 空全体がみるみる薄黒い雲でおおわれていく。

 だきあう者、泣きだす者。雨で顔をあらう者がいる。祈っていた四条金吾も土木常忍も抱きあってよろこんだ。いつも冷静沈着な太田乗明が涙ぐむ。

 伯耆房の太鼓が響く中、なおも題目の声がひびく。

 この時、雷が光とともに音をたてた。轟音は地面をゆるがし、歓声がいっそう高くなった。

 やがて群衆が日蓮の姿に気づいた。

 一心不乱に題目をあげている。雨がふろうがふるまいが懸命に祈っている。その姿は降雨という、ひと時の現象が問題ではなく、その先にある成仏こそが大切なのだと教えているかのようだった。

 群衆はかぶり物をはずし、雨に濡れるのを厭わず地面に正座し、いっせいに手をあわせた。日蓮にたいする感謝の一念が自然に人々をそうさせた。彼らにとって眼の前の日蓮は神・仏と仰ぐべき救世主だった。はじめは単なる野次馬だった。法華経の信心など、まるで縁のない民であった。だが今、池をとりかこむすべての大衆が太鼓の音にあわせ唱えはじめた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・」

 民衆は、雨に濡れ粗末なむしろに座る日蓮をとりかこんだ。かれらはこの日、日蓮門下の僧俗と一つになった。

            二七、大難への予兆 につづく


by johsei1129 | 2017-04-06 21:39 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 04月 06日

二十五、極楽寺良観と日蓮、降雨の対決

時は文永八年。日蓮は齢五十歳になっていた。
 太陽がぎらぎらと燃える。

田畑は干あがり始めていた。

乾いた砂ぼこりが舞う。

やせ細った馬がぐったりとしていた。

汗だくの百姓が鍬で土を掘るが砂のようにこぼれてしまう。彼は土おこしをあきらめた。

一面の大地に旱魃がはじまった。人々は十年前の正元元年春の大飢饉・大疫病をいやでも思いおこした。

百姓が心配そうに一枚一枚の葉をなでた。そして真っ赤な太陽をうらめしく見あげた。

鎌倉でも人々は灼熱の太陽の下、木かげや家の影でたむろしていた。

みなうらめしそうに空を見た。

北条時宗邸の一室に安達泰盛、平頼綱、北条宣時など幕府の御家人があつまった。みな扇子をふるのにいそがしい。

泰盛がうだるような暑さに閉口しながらも、ようやく会議の口火を切った。

「諸国が飢饉が蔓延しているとの知らせが頻繁に届いております」

頼綱が同調する。

「地頭も弱っておる。かれらは百姓に苗や銭を貸しているが、こう雨がふらねば共倒れになるのは必定じゃ」

宣時もつられて後追いする。

「各所で水争いがおきております。蒙古にくわえて、やっかいなことになり申した」

泰盛が時宗に伺った。

「その蒙古の使者が、また太宰府にきております。いかがすれば」

 時宗は吐きすてた。

「ほおっておけ。それよりも飢饉のことだ。なにか妙案はないのか。今年もまた不作となれば人心はますます乱れよう。いまは国がひとつにならねばならぬ時なのだ。蒙古どころではない。知恵をだすのだ」

北条宣時がまっていたとばかり言上した。

「殿、極楽寺の良観殿に祈らせてはいかがでございましょう」

宣時は良観の大檀那であり、念仏者である。

泰盛が手をうった。

「そうじゃ、それだ。良観殿がいた。雨乞いの名人だ。実績もあるぞ。あの僧ならば雨をふらす術にたけておる」

「殿、幕府の命により、良観殿をご指名くだされ。さすれば殿の御ためにも幕府の御ためにも、有難きことに」

泰盛が了解と察知し指示した。

「すぐに良観殿を政所に召されよ」

ほどなく極楽寺良観が政所迎賓の間に到着した。彼のそばには弟子の周防(すおう)房、入沢(いるさわ)入道がひかえる。

安達泰盛と北条宣時が真っ白い下文を携えて、あわてて迎賓の間に入ってきた。

泰盛はたった今しがた、時宗が花押をしたためた下文を読みあげた。

「諸国、干魃により被害すくなからず。わが幕府もこのまま手をこまねくは本意にあらず。よって汝極楽寺良観殿に雨の祈祷を命ずる。古来、五穀豊穣は上の願うところ、民の頼むところなり。(よろ)しく法の(しるし)をあらわし、民のため幕府のため勤めるよう」

良観の答えはうやうやしい。

「おそれ多いお言葉。しかとうけたまわりました。雨をふらすは、たやすくないとぞんじますが、かならずやご期待にそえるよう、阿弥陀仏に願いたてまつりまする」

 良観と北条宣時との目があった。
 

良観殿が幕府から降雨の祈祷を命じられた、との噂を聞きつけた信徒、武士、町民など大勢が良観一行を出迎えた。

 みな良観に手をあわせた。

 大檀那の北条光時が頭をさげる。四条金吾の主君である

「上人、雨の祈祷を時宗様からおおせられたとか」

良観がうなずいた。

「容易なことではありませんが、阿弥陀仏の本願により、祈りは間違いなく叶うでありましょう」

 町民が手をあわせた。

「良観様、お願いでございます。このままでいくと、鎌倉の田畑は全滅でございます。上人のお力で恵みをお与えくだされ」

 良観は満足だった。

「おまかせあれ、ふらせてみせよう。ただひとつ気がかりなのは『念仏無間、律国賊』などと、たわけたことをぬかす日蓮のことです。日本国の僧侶男女におしなべて戒律をもたせ、国中の殺生、天下の酒を止めよう思うのだが、日蓮がこの願いをさまたげておりまする。この日本国にとって嘆かわしいことでございます」

良観は五十六歳、鎌倉幕府の手厚い庇護もあり得意の絶頂にあった。

彼は執権時宗にも影響力をもっていた。飯島からの「関米」徴収権、鎌倉七道における木戸銭徴収権を得て幕府に上納していた良観は、国家鎮護の宗教的バックボーンとして、また経済的にも幕府と表裏一体の強い影響力を持つ存在だった。

 ふたたび松尾剛次氏の論文から引用する。松尾氏は良観の慈善活動が幕府と一体であったことを指摘している。

 桑ヶ谷は、現在の光則寺のある谷の北隣の谷で、極楽寺の東方に隣接する谷でもある。当初、極楽寺の建設予定地で、おそらく北条重時流の所領であったのだろう。それゆえ、忍性は、そこに病院を建て、病者の治療活動に邁進できたのであろう。

 ところで、こうした忍性の慈善救済活動を支えたのは、信者たちの寄付のみでなく、鎌倉幕府の後援も大きな意味をもっていた。(中略)桑ヶ谷の療病所では、二○年間で、四万六八○○人が治療を受けたが。その内、死者は一万四五○人で、実に五分の四の人が治癒したという。こうした治療活動は、北条時宗が発し、忍性が助けて実行していた点である。

 それゆえ、北条時宗は、土佐国(高知県)の大忍(おおさとの)(しょう)を忍性に与えて、桑ヶ谷での治療活動にかかる費用に充てさせたという。たしかに、極楽寺にも病宿(病院のこと)があり、極楽寺内での病宿で行うのがやりやすかったはずである。しかし極楽寺内の病宿ではなく、桑ヶ谷という極楽寺外で病院を作り、しかも二○年間で、四万六八○○人もの人々の治療活動を行っている。とすれば、桑ヶ谷での治療活動は、たんなる極楽寺の独自な活動という性格のものではなく、得宗(とくそう)(注)たる北条時宗の意向を代行するものであった。つまり、幕府の実質上の最高責任者である北条時宗が、忍性に救済事業を代行させていたのである。


極楽寺良観は権力の中枢にわけ入っている。彼の前に敵はいない。いるとすれば日蓮一人だったが、信者同士で小ぜりあいがある程度だ。良観にとって、無位無冠の日蓮など眼中になかったのである。

その夜、五十歳になった日蓮が説法をはじめた。頭には白いものが目立ちはじめた。

聴衆は暑さで扇子をふる者、汗をぬぐう者が大勢である。

この中に良観の弟子、周防房・入沢入道がいた。二人は偵察のためにきていた。日蓮に動きがあれば、すぐ良観に報告していた。

日蓮の説法はきびしさを増す。

「この鎌倉に良観という法師がおられます。身なりは質素であり、二百五十戒をかたくたもち威儀正しい。世間の無知の道俗はもちろん、国主より万民にいたるまで生き仏とあおいでいる。だが法華経を拝見するに、末法に入れば法華経を弘める者に、三人の強敵(ごうてき)があらわれると説かれている。余はその中のもっとも(はなは)だしい第三の敵はこの良観殿とみている」

周防房がたまらず口をはさんだ。

「おまちくだされ。なにを根拠にそのようなたわごとを」

日蓮はおもむろに法華経巻五を手にとり、勧持品第十三を開いた。

「唯願不為慮 於仏滅度後 恐怖悪世中 我等当広説 有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者 我等皆当忍。

 (ただ)願わくは(うらおも)いしたもう()からず、仏の滅度の後の恐怖(くふ)(あく)()の中に()いて我等(まさ)に広く説くべし。(もろもろ)の無智の人の悪口(あっく)罵詈(めり)等し及び(とう)(じょう)を加うる者有らん、我等皆(まさ)に忍ぶべし」ではじまる二十行の偈である。

仏の滅後、ひとりの僧侶があろう。戒律をたもつようにみせかけ、わずかに教典を読んでは飲食に執着し、その身を養うであろう。袈裟(けさ)を着るといえども信徒にむかい、猟師が鹿を狙うように、猫が鼠を伺うように。さらにこの僧は常にこの言葉を唱えるだろう、われ悟りを得たりと。外面は賢善をあらわし、内には貪欲をいだく。口をあけた()羅門(らもん46)のように、実には僧にあらずして僧の形をあらわし、邪見さかんにして正法を誹謗する」


入沢(いるさわ)入道があざ笑う。

「なんというともわが良観上人は、時宗様もお認めなられる鎌倉随一の名僧でござる。先日も幕府より雨の祈りを命ぜられました。失礼ながら日蓮殿には願っても叶わぬことでございまする」

周防房も薄笑いし、日蓮に言い放った。

「これにて失礼いたす。所詮われらと日蓮殿とは水と油でございまするな。御坊がなにを申されても世間の人々は全く認めておりませぬ。これで失礼いたす。われらは雨乞いの準備がありますので・・」

その時、日蓮は二人が立ちあがるのを止めた。

「おまちなされい。六月十八日より雨の祈りとのこと。もし良観殿が七日のうちに雨をふらせたならば(それがし)は良観殿の弟子となろう」

聴衆は降雨の対決を迫る日連の発言に驚きの声を隠せなかった。

入沢と周防が顔を見合わせ、すわりなおした。

日蓮はつづける。

「七日のうちに雨一粒もふらすことができたならば、日蓮は良観殿の弟子となって二百五十戒をつぶさに(たも)たんうえに、念仏は無間地獄と申した法門は誤りだったと捨ててご覧に入れよう」

聴衆は日蓮の言葉にあっけにとられた。まさか雨乞いの名人に対決するとは。

周防房もまさかの展開に半信半疑だった。
「日蓮御坊殿、その言葉、うそいつわりはございますまいな」

日蓮は断言した。
「日蓮が帰伏したならば、余の弟子をはじめとして日本国は良観上人になびくでありましょう。逆に雨がふらずば、良観殿の戒律が誤りなのは明らかである。いさぎよく法華経に帰伏していただきます」

二人は思わぬ展開に互いの手をにぎりあった。

「信じがたい。良観上人にたちむかうとは。日蓮殿はうつけ者なのか・・」

 日蓮はふだん通り冷静であった。

「いにしえも雨乞いについて、勝負を決したためしは多い。いわゆる伝教大師と()(みょう)(注)と(しゅ)(びん)(こう)(ぼう)(注)となり。これをもって勝負といたそう」

二人は信じられないとばかり日蓮に念を押した。

「今の言葉、くつがえすことはできぬぞ。お忘れなきよう」

日蓮の弟子たちは茫然とした。その一人、大進房が飛びたしてきた。

「上人。良観殿は雨乞いの達人です。とてもかなうものでは・・」

 日蓮が真正面をむいた。

「現証で決着をつけるのです。良観の大慢心を倒して、無間地獄の苦を救うのだ」


周防房と入沢入道が高笑いしながら大路を小走りに去っていく。

二人は思った。

これでわが良観和尚の敵はいなくなった。いままで日蓮に煮え湯を飲まされてきたが、その日蓮が無謀な挑戦をしかけてきたのだ。笑いが止まらなかった。

干魃が本格的になっていた。

田畑の空には雲ひとつない、燃えるような太陽だけだった。くもりの日があっても風が鳴るだけで、渇きはいっそうひどくなっていった。

百姓が枯れかかった稲を心配そうに見た。そしてうらめしく空を見上げた。

今の日本には深刻な旱魃はない。だが灌漑設備の乏しい当時は、わずかな日照りで深刻な飢饉をもたらした。今も世界中では旱魃による飢饉が頻繁である。異常気象をふせぐのは人智ではどうにもならない。

科学が未発達だった時代、宗教による祈りはこうした自然の驚異にたいして世界共通の究極の解決策だった。万策尽きた人々にとって、あとにのこる手立ては祈りしかなかった。

館では日蓮を導師に弟子信徒が祈った。

日蓮はふだんと変わらなかった、弟子檀那はちがった。みな真剣な表情である。もし雨がふれば、自分たちの未来はない。師匠を良観の弟子にさせてはならない。悲壮な唱題だった。 


いっぽう極楽寺の入口は群衆でごったがえしていた。そこへ黒衣の僧が大挙して入っていく。
 群衆は汗だくになりながらも僧侶を迎え、手をあわせた。

ここに良観があらわれた。彼は僧侶の大群をひきいて登場した。

群衆が手をふり、歓声がひときわ大きくなった。

「良観様」

祈祷の場が極楽寺の境内にできた。急ごしらえの吹きさらしの家屋である。良観を先頭にして数百人の僧侶がつづく。壮観である。極楽寺を総動員した祈禱だった。

祈祷所には地蔵もあれば阿弥陀像もあり、あらゆる仏像がならべられた。この雑多な仏像の前に黄金のたらいがおかれた。稚児がうやうやしく柄杓の水をはこぶ。良観がその水をうけとり、たらいに入れた。そして僧侶の一団にむかって演説した。

「このたび鎌倉殿のおおせあって、雨の祈祷を行ずることになった。ここでわれらは民の苦しみを抜く祈りをおこなう。われらがいただく戒律と念仏が正しければ、雨はかならずふる。ふらぬと申す輩もいるようだが」

僧侶たちが傲慢に笑いだした。

「さりながら油断はならぬ。期限は七日間。おのおの自らの宗義をかたく守り、勤めあげるよう」

文永八年六月十八日、良観が読経を開始した。二十四日まで七日間の勝負である。雨がふれば日蓮は敗れ、良観の門下にくだる。

数百人の僧がいっせいにつづく。地鳴りに似た響きだった。

北条時宗が窓ごしに空を見ていた。安達泰盛、平頼綱がうしろでひかえる。

泰盛が口をひらく。

「いやはや、町では良観殿と日蓮の対決で、もちきりでござる。どちらが勝つか」

時宗が他人事のように聞いた。

「評判はどちらじゃ」

頼綱があざ笑った。

「良観にきまっておりまする。日蓮め、墓穴をほりましたな。蒙古の予言がまぐれ当たりだったのを幸いに、よりによって良観に刃向かうとは。勝負は七日間。七日をすぎたところで日蓮を捕らえるつもりでござる」

泰盛がおどろいた。

「捕らえる。罪状は」

「しれたこと。幕府の雨乞いを妨害したのでござる。これは幕府を非難するにひとしい。いかが」

泰盛が時宗を見た。

「いかがでございましょう」

時宗がだまったまま、かすかに聞こえる読経に耳をすませた。

祈りの効果は早速あらわれた。

町民が空を指さした。驚いたことに、雲一つなかった空のかたすみに黒雲がわいてきたのだ。

「見ろ。雲だ、雨雲だぞ」

町民が歓びにあふれた。

雲はつぎつぎに集まり、空が暗くなっていく。

良観の読経がこだましていた。

夕闇がせまった。今にも泣きだしそうな空となった。

良観がここで初日の読経を終えた。

引きあげる僧侶が満足げに見あげた。

「明日は間違いなくふるであろう。駿河ではすでに雨だそうな」

「日蓮め、後悔していることだろうて」

僧侶が笑いあった。

その夜、良観は勝利を確信して眠りについた。雨乞いは以前にも成功している。ぬかりはない。

こうなれば日蓮という目の上のこぶをはらい、幕府に恩を着せることができる。彼の師の叡尊が朝廷から興正菩薩の名を賜わり、四天王寺の別当となったように、身の栄達が目前だった。良観の喜悦ははかりしれない。自分を誹謗する者がいなくなるのだ。なんと心地よいことか。鎌倉は思いのままになる。良観は安堵感と同時に浮かれないではいられなかった。

良観はその日の未明に夢をみた。

厚い雨雲に覆われた薄暗い日中、良観がおごそかに祈る。

突然雷が天空に響き、大粒の雨がふり始めた。

群衆が喜びあう。

そこに日蓮がずぶぬれで近づき、おもむろに良観に手をあわせた。

良観は予期せぬ事態に思わず後ずさりする。
 そこで目が覚めた。はたして正夢となるのか。

翌朝。寝室は雨戸で閉めきられて暗かった。光がわずかにさしている。

外から弟子の呼ぶ声がする。

「お師匠様、お師匠様」

夢の余韻に浸っていた良観が驚いたようにとびおきた。

弟子の周防房だった。

「お時間でございます」

良観は恐る恐る雨戸をはずした。

(たのむから雨がふっていてくれ)

しかし強烈な光線が刃のように目を刺した。思わず袂で目をおおった。

鎌倉は灼熱の空にもどっていた。昨日までの雲は完全に消えていた。


読経が延々とつづく。

僧侶の頭から湯気がでてきた。

彼らは湿気のない空をうらめしそうに見あげた。

やがて燃えるような夕陽が鎌倉の西の空をおおった。

炎天の下、旅人が道ばたですわりこむ。

こうして良観の祈祷の二日目がおわった。

三日目の朝となった。

良観の弟子たちがみな焦りだした。良観を中心に輪ができた。みな一様に頭をかかえた。

「雨がふるどころか、空には一つの雲さえありません。良観様、なにかよい手だてはありませぬか」

「案ずることはない。延暦寺の開祖、伝教大師とて三日かかったのだ」

「しかしこれだけの大勢の僧が真剣に祈っているのに、全くしるしがないとは、いったいなにがいけないのだ」

 自身への疑いが広がり始めた。

 場の空気を察した良観が突然提案した。

「雨は必ず降らせねばならない。いまさら日蓮の門下にくだるわけにはいかない。背に腹は代えられぬ。どうであろう、このさい法華経で祈ってみるのは」

周防房が手をうった。

「そうでした。法華経があった。法然上人も法華経は衆生にとっては難信(なんしん)難解(なんげ)と説いてはいたが、すぐれた経であることは認めていた。このさい日蓮が頼みとする法華経で祈りましょう。我々は題目ではなく法華経一部を読誦(どくじゅ)ましょう。必ずしるしがあるはずです」

なりふりかまってはいられない。良観は法華経の巻物八巻を用意すると、すぐに声を合わせて読経をはじめた。

「如是我聞、一時仏住・・」

するとどうしたことであろう。鎌倉の山なみから黒々とした雲がわきおこってきた。

黒雲は一天をおおうようになった。

良観が声を一段と強める。

この時だった。

悲鳴に似た音をたてて突風がおき、吹きさらしの建物をゆらした。

宝殿に安置していた諸仏、諸菩薩の立像が倒れだした。

僧侶たちは驚いて読経をやめたが、ひとり良観だけは懸命に唱えていた。


 鎌倉市街には砂嵐が襲った。
 町民が悲鳴をあげて逃げまどう。

屋根が突風で吹き飛ばされた。切望していた雨ではなく逆風だった。

混乱に明け暮れた三日目の夜がふけた。

夜中じゅう、鎌倉の町には風が切るような音をたてた。

北条時宗は執権の間で町を格子ごしにながめていた。

いつものように泰盛、頼綱が控えている。

泰盛がうなった。

「いかん。この風は。いよいよ日照りがすすむぞ」

農地は地割れをおこしはじめた。くわえて空っ風が追い打ちをかけた。

 土地をひきはらう百姓が続出した。彼らは当座の荷をかつぎ、身寄りのいるところへ肩をおとしながら去っていった。

 明るいうちに支度できる百姓はよかった。ほとんどの農家が借金を払えず夜逃げした。

 だがその中でも土地に居すわり、収穫をあきらめずにいる百姓がいた。

 家には妻が力なくすわりこんでいる。奥には老婆と幼い子供がよりそって寝ていた。

 百姓は叫んだ。

「おれは負けんぞ。かならず米を実らせてやる」

四日目。風の吹く中、然阿良忠を先頭にした黒衣の僧百名が大路を行進した。

 沿道の町民は念仏僧の大群に目をみはった。

 百名は極楽寺についた。

 良観が笑顔で出むかえ、然阿と対面した。

「よくぞ来られました」

念阿がうなずく。

「ですぎた振舞ではないかと躊躇(ちゅうちょ)しましたが、加勢いたすことにしました。この鎌倉を日蓮に我が物顔で振る舞わせる訳にはいきません(せん)ずる所、雨を降らす法は念仏をおいてほかにござらぬ」

 良観一門が祈る。然阿一門がそれに続く。祈祷所全体が前に倍した声で念仏を唱え始めた。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・」

念仏の声が乾いた空に増幅され周囲に響き渡る。しかし刺すような光線が祈祷所にそそぐ。さらにこの光線が良観を襲った。

良観が思わずかがみこんだ。


やがて夜がふけていった。

祈祷所から汗だくの僧侶が極楽寺に引きあげた。みな争うように水を飲みこんだ。

良観と周防房、入沢入道の三人は、なおも祈祷所にのこり、念仏を唱えていた。

弟子の二人が顔を見あわせ、背中越しに良観に話しかけた。
「お師匠様、明日がございます。今日はここまでとしたほうが・・」

しかし良観は耳に入らないのか念仏を唱え続けている。

二人が前へでて、良観の顔をのぞいて仰天した。
 げっそりと頬が落ちている。なにかにとり()れた形相である。

 良観は弟子の問いかけに答えることなく、ふらふらと立ちあがった。


あくる日も祈りがつづいた。

僧侶のなかに祈りながらも床に伏して倒れる者がでてきた。意識がもうろうとしている。熱射病である。口から泡を吹く者、嘔吐する者もいた。一人もう一人と前に倒れ、横に倒れて担ぎだされていく。

 良観はあいかわらず憑かれたように祈り続けていた。

 周防房と入沢入道も体調に異変が起きていた。苦しみだした。


ついに日蓮と約束した七日目の朝がきた。

雨の気配はなく、乾いた風が吹く。

朝、良観はふらふらと祈祷所にむかった。

驚いたことに、良観の目の前を然阿の集団が横ぎった。彼らは退去するところだった。良観があわてて追いかけた。

「然阿殿。いかがいたした。今日が最後でございますぞ。どちらへ」

然阿は、ばつ悪そうだった。

「これは貴殿と日蓮との賭け事でしたな。われらがさしでがましい事をしでかすのはどうかと思いましてな」

良観の口ぶりは哀願がこもる。

「とんでもございませぬ。然阿殿はわれわれにとって心強い味方ですぞ。どうかおのこりあって・・」

「いや失礼いたす。六日間、飽かずに祈ったのでござる。それにこの空です。今日一日でふるとは、思いませなんでな」

ここで良観がはじめて然阿に詰問した。

「然阿殿、余は今まで律僧でありながら、そなたの念仏を弘めてきたのですぞ。貴殿にとって余は一番の味方のはず。この良観は鎌倉殿も御帰依の身。この上はどうなるか承知でしょうな」

然阿が突きはなした。

「それでは。法要がありますので」

然阿らが大挙して去っていく。

良観が背をむけた一団をなじった。

 然阿はふりむかずに去った。彼は最初、数をたよりに加勢したが、分が悪いのを見ると、素知らぬように逃げた。
 当時、悪い事態をさらに悪化させる人を
立入(たていり)(もの)と呼んだ。然阿は良観にとって立入者だった。



              二六、日蓮、降雨へ渾身の祈り  につづく


上巻目次



得宗

鎌倉幕府北条氏惣領の家系をいう。初代執権北条時政以後、二代義時の嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時まで九代続いた。


護命 ()()()()()()()()()()()修円

22 三類の怨敵 参照

 



by johsei1129 | 2017-04-06 21:22 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 04月 06日

二十三、強敵の胎動

日蓮の故郷、安房の砂浜に波が寄せては返し、幾万年も変わらぬ自然の営みが繰り返される。

しかしここ清澄寺では普段と違う慌ただしさに包まれていた。
 高僧の円智房が、今まさに臨終をむかえようとしていた。

道善房・浄顕房・義浄房らの僧侶、また古くからの檀家たちが円智房の床のそばに集まっていた。

幼い所化の中にはすでに涙ぐむ者がいた。

円智房はすでに身を起すこともできず、床に伏したまま静かに語り始めた。

「わたしはこの数十年、法華経を書写しながら一字ずつ三度、礼をしてまいりました。この功徳は来世でも輝くでありましょう。愚僧はこれから浄土へ行きまする。それにひきかえ日蓮は法華経をあやまって解釈した。強引な折伏はいずれ身をほろぼすことになるでしょう。皆々様はくれぐれも心するよう」

円智房は死の間際まで日蓮を蔑視していた。

声を殺して泣く者、手をあわせる者がいる。

円智房はついに息をひきとった。顔色は桃のように赤みを帯びていた。

清澄寺古参の老僧が讃歎した。

「成仏の相じゃ」

円智房の身は翌日の夜半に入棺、子の刻になり道善房の導師で葬儀が執り行われた。

葬儀が終わると彼の棺はひらかれ、顔に白布があてられた。

道善房と弟子の義浄房、浄顕房がすわる

道善坊は役目を終え、すっかり放心したかのようなよ表情をうかがわせていたが、葬儀の準備に奔走していた二人の弟子をねぎらった

これで円智房も無事冥途に旅だったことであろう。やれやれであるな。ところで今あらためて振り返って思えば、円智房殿は清澄寺の歴代の僧侶を代表する名僧であったな。信徒の尊敬を一身に集めた逸材であったな」

義浄房が不満げである。

「しかし、あやまちも多かったのではないでしょうか」

道善房が目をむいた。

「これ、葬儀が終わったばかりでなにをいう」

義浄房が棺に収まっている円智房の顔をじっとながめる。

「この方はお師匠をいじめぬいたお人です。日蓮上人のことも非難ばかりされておりました」

道善房がなだめた。

「よいよい、だがもう終わった。わしの気が弱いばかりに、おまえたちにも苦労をかけるな」

浄顕房がにじりよった。

「お師匠。お師匠様も法華経に帰依すれば日蓮上人もきっと喜ぶでしょう。僧侶が宗旨を変えるのはいくらでもあること。けっして恥ずかしいことではありませぬ。一刻も早いご決断を」

道善房はいつものように煮えきらない。
 やはり臆病なのか。

浄顕房と義浄房があきらめて顔を見あわせ、一礼をして去った。

道善房がひとり本堂にのこっていたが、ふと思いついた。

彼は棺にむかった。なにかいやな予感がする。

道善房は円地房の顔にあてられた布を恐る恐るはずした。そして半分ほどあけたとき、円智房の顔面が墨で染めたように真っ黒になっているのを見た。

円智房の片目が道善房をにらみつけるように開いている。

道善房がこの死相に仰天し、わななきながらあとずさりした。

円智房の顔色は最初桃色に輝いていたが、時間の経過とともに黒く変色していた。

その夜、浄顕房と義浄房が月にむかって南無妙法蓮華経と題目を唱えた。数人の信徒がうしろで唱和する。清澄寺では南無阿弥陀仏ではなく、日蓮が説く南無妙法蓮華経を唱える信徒が増えはじめていた。

ここに道善房がやってきた。

信徒たちが道善房に気づき、おどろいて席をあけた。

道善房は二人の弟子の背後にすわり、題目を唱えはじめた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・」

浄顕房と義浄房が聞きなれた師、道善房の声に気づいた。
 二人は思わず顔を見合せるが、二人とも自然に涙があふれ出し、互いの顔がおぼろげにしか見えない。かろうじて前をむき今度は師道善房の声に合わせ、夜が更けるまで唱題が続けられた。

唱題の声が一段と大きくなっていった。


道善房の法華経帰依の知らせは鎌倉の日蓮にもとどいた。日蓮の喜びはひとかたでない。十二の歳から親代わりになってくれた。その師匠に恩をかえすことができたのだ。
 日蓮は思う。
 かつて師道善房を強い調子で破折したが、あの時の強言が道善房を正信に目覚めさせたのだと。

この時の思いを義浄房・浄顕房に宛てて翌年の文永七年、四十九歳の時(あらわ)した『善無畏三蔵抄』で次のように記す()()

忠言耳に逆らひ良薬口に(にが)しと申すは是なり。今既に日蓮師の恩を報ず。定んで仏神納受し給はんか。

いっぽう鎌倉では日蓮の弘通が一段と熱を帯びていった。十一通の書状は幕府側に完全に無視されたかに見えたが、法華経の折伏の勢いはさらにつづいた。

日蓮門下の猛烈な弘教で念仏宗の勢いは止まった。これもまた強言のなせる業だった。

十一通の書状を献じてから、はや二年、文永七年ごろになると日蓮は法華経がこの日本国に確実に弘まっていることを実感、おなじ『善無畏三蔵抄』に次のように記している。。

然るに日蓮は安房国東条(とうじょう)(かた)(うみ)石中(いそなか)の賤民が子なり。威徳なく、有徳の者にあらず。なにゝつけてか、南都(なんと)北嶺(ほくれい)(注)のとゞめがたき天子(てんし)()()(注)の制止に叶はざる念仏をふせぐべきとは思へども、経文を亀鏡と定め、天台伝教の指南を手ににぎ()りて、建長五年より今年文永七年に至るまで、十七年が間是を責めたるに、日本国の念仏大体(とど)まり(おわ)んぬ。眼前に是見えたり。又口に()てぬ人々はあれども、心計りは念仏は生死をはな()るゝ道にはあらざりけると思ふ。

禅宗以て()くの如し。一を以て万を知れ。真言等の諸宗の誤りをだに留めん事、手ににぎりておぼゆるなり。

当世此の十余年已前は一向念仏者にて候ひしが、十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑ひをなす故に心中に法華経を信じ、又釈迦仏を造り(たてまつ)る。是亦日蓮が強言より起こる。譬へば栴檀(せんだん)()(らん)より生じ、蓮華は泥より出でたり。而るに念仏は無間地獄に()つると申せば、当世、牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染(かりそめ)にも(そし)るは、(やせ)(いぬ)が師子王をほへ、()(ざる)帝釈(たいしゃく)を笑ふに似たり。 

日蓮が聴衆でうまった鎌倉の館で説法をはじめた。

「国に災難がおきようとしているのに鎌倉殿からなんの返事もないのは、ひとえに鎌倉殿をとりまく邪宗の僧侶たちの讒言(ざんげん)によるものです。余は時宗殿に言おう。建長寺・極楽寺への布施を止めよと。

仏の滅後二千二百二十余年の間、だれも弘めなかった法華経の肝心、諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法のはじめに弘まる瑞相(ずいそう)に日蓮は先がけした。皆様がたも二陣三陣と続いて釈尊の弟子、迦葉(かしょう)阿難(あなん)(注)にもすぐれ、天台・伝教さえも超えてくだされ。鎌倉殿といえど、唐土、天竺に比べれぱわずかの小島の主にすぎません。その主が脅そうとするのを、おじけづいては閻魔(えんま)王の責めをどう逃れるのか。仏の使いと名のりながら、臆病になる者は無下(むげ)の人です」

このとき日蓮にむかって石が投げられた。

矢継ぎ早の石つぶてが日蓮の肩にあたった。

日蓮がたもとをあげてふせぐ。

四条金吾が矢面に立ち、富木常忍・太田乗明が立ちあがった。

「なにをする」

投石した者が出口へと逃げていく。

金吾があとを追おうとしたが止まった。

そこに役人とおぼしき数人の武士が立っている。

「どなたかな」
 金吾が問い詰める。

「問注所の者である」

「問注所。おぬしら場所をまちがえておる。ここは日蓮上人のお館である」

役人はいった。

「いや日蓮殿ではなく、信徒の方々に御用があり参った次第です」

役人が日蓮の前に進み、立ちながら書状を読みあげた。

「そのほうの信徒、富木常忍・四条頼基・太田乗明の三名にお尋ねあり。明後日、三名は鎌倉問注所に出頭せよ。そのほうらの法華経の信仰について訴えあり。明後日、問注所において弁明せよ。三名の意向いかん」

常忍が正座して目を輝かせた。

「ぜひまいります」

金吾もつづいた。

「よろこんで出頭いたす」

太田がにこやかに答える。

「お役目ご苦労にございます。かならずうかがいますぞ」

「では明後日」

役人が去ったあと、三人が日蓮の前にすすみでた。

日蓮はこの急な事態に驚いたが、眼差しは明らかに輝いていた。来るべきものがようやくやってきたという思いだった。

 

文永六年五月九日、その日の朝のことだった。四条金吾は支度に忙しかった。

妻の日眼女が夫に帷子(かたびら)を着せる。

金吾は三十九になった。この十数年、日蓮を師として弘教にあけくれた。今日は彼にとって決戦の日である。

だが日眼女は心配な顔をあらわにした。

金吾が妻の顔をのぞく。

「どうした」

 日眼女はとりつくろった。

「いえ、なんでもありませぬ」

 金吾はおちついていた。

「案ずることはない。今日の評定はきっとうまくゆく。たとえわしが感情に走っても、富木殿や太田殿がかばってくれよう。心配いたすな」

日眼女はなおも憂い顔だった。

「いえ今日のことではありませぬ。これからのことです」

「これからのこと・・」

日眼女が金吾を見つめた。

「あなたは上人とお会いしてから見ちがえるようになりました。いつも怒ってばかりいたあなたが、ご自分を自制できる人になろうとは思いませんでしたわ。それだけでも法華経がすばらしいことはわかるのです。でも・・」

「でも、なんだ」

日眼女が背中をむいた。

「このままあなたがわたしたちをおいて、どこか別な世界に行ってしまうような気がしてなりませぬ。わたしはそれが不安で・・」

金吾が妻の肩に手をおいた。

「案ずるな。わしが妻と子をさしおいて、どこにいこうぞ。われら親子はいつも一緒じゃ。上人が申しておられたではないか。われら凡夫は(はえ)のようにはかない。だが千里を走る馬の背につけば、自由自在な世界に行けると。われら親子も一緒に上人の背中についていくだけだ」

日眼女はふりむいて金吾の目を見た。

「いまの言葉、お忘れなきよう・・」


金吾が勇壮に館からでた。従者がつづく。

そして若宮大路を勇ましくすすんだ。
 富木常忍・太田乗明・四条金吾の三人は、問注所に出むく前にそろって日蓮の館に立ち寄った。その時日蓮はあらかじめ問注所で訴える際の細々した注意事項を書き記した書状を用意していた。

「今日召し合はせ御問注の由承り候。各々御所念の如くならば、三千年に一度花さき(このみ)なる優曇華(うどんげ)に値へるの身か。西王母(せいおうぼ)(その)の桃、九千年に三度之を得るは東方朔(とうほうさく)が心か。一期(いちご)の幸ひ、何事か之に()かん。御成敗の甲乙は(しばら)く之を置く。(さき)立ちて(うつ)(ねん)を開発せんか。
 但し(けん)(じつ)御存知有りと雖も、駿馬(しゅんめ)にも(むち)うつの理之有り。今日の御出仕公庭に望みての後は、設ひ知音(ちいん)たりと雖も、(ほう)(ばい)に向かひて雑言(ぞうごん)を止めらるべし。両方召し合はせの時、御奉行人、訴陳の状之を読むの(きざ)み、何事に付けても御奉行人御尋ね無からんの外は一言をも出だすべからざるか。設ひ敵人等悪口を吐くと雖も、各々当身の事一・二度までは聞かざるが如くすべし。三度に及ぶの時、顔貌(げんみょう)を変ぜず、()(げん)を出ださず、(なん)()以て申すべし。
 各々は一処の同輩なり。私に於ては全く違恨(いこん)無きの由之を申さるべきか。又御供の雑人(ぞうにん)等に()く能く禁止を加へ、喧嘩(けんか)を出だすべからざるか。是くの如きの事、(しょ)(さつ)に尽くし難し、心を以て御斟酌(ごしんしゃく)有るべきか。
 此等の(きょう)(げん)を出だす事、恐れを存ずと雖も、仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成ぜんが為に愚言を出だす処なり。恐々謹言。
五月九日                     日 蓮 花押
三人御中」【問注得意抄


()今日召し合わせて、訴えの問注があると聞きました。三人が念願されたとおりであれば、三千年に一度花が咲き、菓がなるという優曇華に値える機会を得た身となりましょう。
 また九千年に三度しか実がならない西王母の園の桃を、東方朔が九千年に三度得たのと同じ気持ちでもありましょう。
 一生のうちで、これほどの幸いは、またとない機会です。
 御成敗の是非についてはともかく、あなた方はまずもって日頃の鬱念を訴えるべきです。ただし、すでにご存じのことでありますが、駿馬にも鞭うつということもありますから、本日出仕し、公の場所に出られたからには、たとえ知り合いの者であっても雑言を言ってはなりません。両者が呼び出され、御奉行人が訴えの文を読む間は、何事があっても奉行人から尋ねられない限り、一言でも口を出してはいけません。
 たとえ敵方が悪口を吐いたとしても、一度や二度までは聞いていないふりをすべきす。
 それが三度におよぶようであったら、顔色を変えず、無礼なことを言わず、やわらかな言葉で反論すべきです。
 相手方とは同じ部署の同輩であります。それ故、私事においては全く遺恨などありませんと言っておくべきです。また、御供の人はくれぐれも、喧嘩などしないよう注意しておくべきです。
 このような事は、書面ではすべてを書き尽くせないので、その他のことは私の意図を思って斟酌してください。

 これらのことを思いついたまま言っているようで恐れ入りますが、仏経と行者と檀那の三つが相応して、一事を成就することを願って愚言を述べたわけです。恐々謹言


 三人は日蓮のしたためた書状を読むと、信徒を思う師の心に触れ、思わず床に手をつけ感謝した。さらに常忍は日蓮から渡された書状に「問注時可存知由事(問注の時、存知すべき由の事)」とわざわざ書き込みをしている。この時の日蓮の真筆は常忍と乗明が開基した中山法華経時に現存する。
 だれが訴えたのかは定かではない。だが日蓮は問注では百戦錬磨である。げんに清澄寺と地頭の東条景信との領地をめぐる争いでは、日蓮は先頭になって訴え続け、すべて勝利している。法華宗が対論におよべば必ず勝つ。三人はそのために日々日蓮から薫陶を受けていたのだ。問注の勝利によって、法華経の正しさが鎌倉の人々に伝われば広宣流布がまた一歩近づく。



二十四、広宣流布の壁 につづく


上巻目次

南都北嶺

南都は奈良。北嶺は比叡山のこと。伝教が比叡山延暦寺に天台宗を開いて以来、南都に対してこう呼んだ。のち特に南都の興福寺と比叡山延暦寺をさした。


天子虎牙

虎牙とは虎の牙から転じて権力のこと。天皇の権力の意。


阿難

梵名アーナンダ。阿難陀・阿難尊者ともいう。釈迦の従弟(いとこ)で提婆逹多の弟にあたるとされる。釈迦の声聞十大弟子の一人で多聞第一と呼ばれた。出家後、27歳で釈迦に常随給仕する役目となり、それ以後、釈迦の説法にはすべて立ち会ったとされる。釈迦入滅後、仏典の第一回結集の際には(じゅ)(しゅつ)者として中心的役割を果たした。そのため釈迦が説いた仏典の書き出しは全て「如是(にょぜ)我聞(がもん)(この様に私阿難は釈尊から聞きました)」の四文字で始まっている。また迦葉に次いで法灯伝持の第二祖(付法蔵第二)となった。




by johsei1129 | 2017-04-06 20:17 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 04月 06日

二十二、 三類の怨敵

極楽寺の奥まった一室に一本のろうそくがともされていた。

この部屋に良観、建長寺の蘭溪(らんけい)道隆、念仏僧の然阿良忠が車座にすわった。

良観は律宗、南宋から渡来した道隆は禅宗、良忠は浄土宗の代表である。かつてこの三人は反目していた。しかし日蓮があらわれてからは「敵の敵は味方」とばかり、結束して協力するようになった。

然阿がおもむろに口火を切る。

「見ましたか」

道隆が額にしわをよせる。明らかに戸惑いを隠せない。

「確かに。まことにあやしげな書状でございます」

良忠がうめくように吐き捨てる。

「日蓮め、九年も前の予言が当たったことをよいことに、鎌倉殿に訴え、われらと対決しようとは」

道隆はめずらしく愚痴をこぼした。

「予言が的中したと信徒が日蓮に流れておる。おかげで座禅を組む者が、めっきりとへりました。この先、蒙古が実際に襲来したら、ますます日蓮にすがろうとして信徒が流れていくに違いない。これではわれわれの生きる手だてがなくなるというもの。良観殿、なにか名案はありませぬか」

良観ただ一人、なにか秘策でもあるかの様子でおちついている

「対決については無視することです。日蓮のこのたびの件は、平の左衛門尉様もいたくご立腹の様子。日蓮はこのままでいけば罰せられることは確実です」

然阿はそれでも不安な顔を消せない。

「しかし鎌倉殿の父、時頼殿は日蓮の伊豆流罪を赦免しておる。鎌倉殿がまた日蓮を罰するというのは無理があるのでは」

良観が声をひそめて語りだした。
「問題はそこです。なんとしても日蓮を蹴落とさなければならない。日蓮本人がむずかしいとすれば弟子檀那に狙いをつけましょう」
 道隆が首をかしげる。

「弟子檀那とな・・」

「さよう。日蓮の弟子の中には江間氏の配下に四条金吾など御家人が多数おります。ご政道を批判する者の信徒が幕府の中にいるのです。これは鎌倉殿にとっても由々しきこと」
「なるほど」

 念阿と道隆は、闇の中で良観の自信たっぷりの口調にうなずいた。

 日蓮は蒙古襲来の予言で幕府の眼をさました。世間は注目し、幕府も日蓮を起用する動きがあったが、これをおさえたのは宗教界では良観、幕府内では平の左衛門尉をはじめとする主流派だった。

他宗批判をくりかえす日蓮が幕府内で実権をにぎれば、彼らの地位は一夜のうちに転落する。良観らは幕府にとりいり讒言した。

北条時宗の耳にも日蓮への非難は聞こえていた。

日蓮の耳には千葉家の富木常忍、御家人の四条金吾をはじめとする武家の信徒を通じ、この策謀は聞こえていた。のちに佐渡で記された『開目抄』でつぎのように述べている。

(それ)昔像法の末には(ごみ)(ょう)(注)・修円(注)等、奏状をさゝげて伝教大師を(ざん)(そう)す。今末法の始めには良観・念阿等、偽書を注して将軍家にさゝぐ。あに三類の怨敵(注)にあらずや。開目抄下

四百年前の伝教大師でさえ非難された。日蓮もおなじであると。
 世間で崇拝されている良観や念阿が日蓮をよこしまに攻撃する。彼らは三類の怨敵ではないか、と断言している。


時宗は鎌倉御所の弓場にいた。

御家人がまわりに控()いる

時宗の矢が的の中心にあたった。

「お見事」

御家人がいっせいに声をあげる。

時宗はにこりともせず言った。

「筑紫にむかった大将には、弓の訓練を絶やさぬよう指示しておけ。蒙古兵は弓に長けていると聞いておる」

泰盛がうなずいた。

それはぬかりありません殿のお考えの通り、この度の蒙古との一戦は、海戦、または陸と海の戦いになり、弓矢での戦いが肝心となります。ただ恩賞の準備に困っております。分け与える土地が不足しておりまする」

時宗はこともなげだった。

「それは奉行であるそなたの仕事ではないか。よく考えよ」

平頼綱がにやりとして言上した。

「全国の体制固めの件。諸国に下知を飛ばしました。筑紫にむかう武士の数。軍資金の徴収、不用な土地の没収もすすめております」

 時宗が弓を引きしぼって矢をはなつ。矢が的の中央を射抜いたのをたしかめて言った。

「諸国の財政を苦しめてはならぬ。過酷な取り立ては不満分子を生む。そやつらは幕府にとって蒙古より脅威だ」

頼綱はつづける。

「そのことについて、各所に狼藉、浮浪人の輩をとらえております。とくにこの鎌倉では、不逞(ふてい)の者は一人もださぬよう警戒しておりまする。ただ鎌倉殿のお許しをえて捕縛したき者がおります」

泰盛があざ笑った。

「だれだ。この鎌倉に、そのような者がいたか」

「日蓮めにございます」

時宗が的をはずした。

頼綱がすすみでる。

「あの男、敵国攻撃の予言を盾に、幕府を悩まさんとしております。生かしておけば必ず禍根をのこすでありましょう。いま世情は蒙古襲来を恐れ、緊張しきっておりまする。日蓮を捕らえ、静めるのが肝要かと」

時宗がふたたび弓を引きしぼった。

「父上は日蓮殿を許した。わしもそれに従うまでだ」

頼綱が食いさがる。

「しかしあのような無礼な書状は幕府はじまっていらい、前代未聞、死罪に等しき内容でござる。首をはねるべきか、鎌倉追放か。弟子檀那どもは、所領ある者は土地をとりあげ、あるいは牢に入れて責め、あるいは島流しにすべきでございましょう」

ここで時宗がひとりごとのようにつぶやいた。

「父上はおおされた。だれがほんとうの部下であるか、よく考えよと。主人にこびる部下は多く、(いさ)める臣下は少ない。前途多難な時であるのに、わたしは孤独だ。日蓮殿がどのような人かは知らぬ。だがこのわたしにとって、頼もしい味方かもしれぬ」

座が一瞬で静まった。

家臣が気落ちしている。時宗が見たこともない顔だった。

たまらず苦笑いした。

「ゆるせ、おぬしたちも時宗の頼もしい味方である。おのおの方は皆立派な鎌倉武士だ。叱ったわけでもないのに、そんなに気落ちするな」

時宗が大笑いながら去っていく。

所従が頼綱に弓をすすめたが、「おのれ日蓮めが」と叫び、手に持った弓を真っ二つに折ってしまった。

結局、十一通の書状への反応はまったくなかった。

日蓮は五十五歳の時に著した『種々御振舞御書』に悲憤をこめて次のように記している。

 日本国のたすかるべき事を御計らひのあるかとをも()わるべきに、さはなくして或は使ひ悪口(あっく)し、或はあざむき、或はとりも入れず、或は返事もなし、或は返事をなせども(かみ)へも申さず。   




          二三、強敵の胎動  につづく


上巻目次


 護命

天平勝宝二年(七五○)~承和元年(八三四)。平安初期、法相宗の僧。()()()()()()()()()()()光仁十年(八一九)、伝教が比叡山に一乗戒壇の建立を願い上奏すると、護命はそれを非法として奏上し、伝教と祈雨を争ったが敗れた。


 修円

 延暦二十一年(八○二)一月十九日、高雄山寺で伝教と法論を行い、論破された。伝教が唐から帰国後、伝法灌頂を受けた。弘仁九年(八一九)に伝教の大乗戒壇建立の請願に対し、同十年(八一九)護命らと共に反対する上奏を行った。伝教の後継者だった義真の没後、延暦寺総事になろうとしたが宗徒に反対されて室生山に移り没した。


 三類の怨敵

三類の強敵(ごうてき)もいう。釈迦滅後、法華経の行者を種々の形で迫害する三種の敵人のこと。法華経勧持品第十三で説かれる。妙楽が法華文句記の中でその名を定義した俗衆(ぞくしゅ)増上慢・道門増上慢・僭聖(せんしょう)増上慢の三つ。

俗衆増上慢とは法華経の行者を悪口罵詈(めり)し刀杖を加えたりする仏法に無知な在俗の人々のこと。

「御義口伝に云はく、一文不通の大俗なり。悪口(あっく)罵詈(めり)等分明なり。」

道門増上慢とは慢心で邪智に富んだ僧侶をいう。
「御義口伝に云はく、悪世中比丘の悪世とは末法なり、比丘とは謗法たる弘法等是なり。法華の正智を捨て権教の邪智を本とせり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は正智の中の大正智なり。」『勧持品十三箇の大事

僭聖増上慢とは聖者のように(よそお)い、社会的に尊敬を受けるもので、内面では利欲に執し悪心を(いだ)いて,法華経の行者を怨嫉(おんしつ)し、ついには権力を利用して流罪・死罪にまで迫害を及ぼす敵人をいう。




by johsei1129 | 2017-04-06 20:01 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)