2017年 03月 19日 ( 8 )


2017年 03月 19日

24 広宣流布の壁

金吾たち三名と訴人三名が沙汰人を前に対決した。

鎌倉時代の最大の特色は武士が中心となって裁判する形式が始まったことである。政権が公家から武家にうつり、裁判の公平が保たれるようになった。このため武家はもちろん農民、下人にいたるまで、権利という概念が生まれ、己が権利を主張するという、いわば訴訟行為が飛躍的にさかんになった。いきおいだれもが裁判の行方を注目するようになる。その熱気は現代の比ではない。

今のように民法や商法など、まるでない時代である。法律といえば、わずか三十年前に五十一箇条の御成敗式目ができたばかりだった。しかし訴訟の件数は猛烈な数にのぼっている。刑事事件もあれば民事もあり種々雑多だった。賞罰の形式もある程度自由である。上司と部下、使用人と下人の裁判もめずらしくなかった。

じっさい、この時代の人々にとって裁判は現代のスポーツ観戦のようなイベントであった。だれもが一つ一つの裁定の顛末を注目した。

新聞もマスコミもない時代である。いわゆる世論というものがない。人々は評定をとおして世情を感知していた。


評定所では多くの武士が傍聴人として集まっていた。

沙汰人が宣言する。

「これより訴人の訴えにしたがい、評定をおこなう。まず訴えを聞こう」

原告である訴人が前にでた。訴人は今まで目にしたことのない人物だった。

「ここにいる四条金吾、土木常忍、太田乗明の三名は法華宗の有力な信徒であります。念仏などの他宗を誹謗し、この鎌倉を混乱させております。またこの三名、御家人の身で幕府に仕えながら、人心をまどわすのはもってのほかであり処罰にあたるもの。すみやかにかれらの所領を召して追放すべきと存ずる」

沙汰人が手慣れたようにうながす。

「では論人、反論を」

四条金吾がまちかねたように前にでた。自信満々の口調である。

「まずは最初にお聞きしたいことがある。訴人であるあなた方はどなたか。私たちがお会いしたことのない面々でありますな。いったいだれの使いでわれらを訴えたのか」

「無礼な。使いではない」

富木常忍が交代した。

「では申しあげる。仏法の根本は教主釈尊の経典からでている。いわゆる低い教えから高いものまで千差万別である。一切衆生の不幸は、このなかの低い教えに執着することからはじまっている。念仏宗、禅宗は、仏が化導の初期に説かれた低級の教えである」

訴人がいきりだした。聴衆からも非難する声があがる。

仏法教学に長けた太田乗明が交代した。

「最高の教えとは法華経である。わが日蓮上人は仏法の一切を知る法華経の行者である。一切経の鏡で今日、日本の未来を写し出し、ただ一人外敵の来襲を予言し的中させきたのです。()このことはだれ一人知らぬ者はない。蒙古退治は日蓮上人をおいて、誰も他におらぬではないか」

聴衆からそうだ、その通りだ」と日蓮をひいきにする者の声と「念仏が低い教えとは何事だ」と批判する怒号が巻きおこった

ここで沙汰人があわてだした。この事務官は憶病だった。金吾たち三人は信仰を盾にして暗に幕府を非難している。いくら問注所という言い争いの場とはいっても幕府批判は御法度である。問注どころの騒ぎではない。

金吾がたたみかけた。

「世間にいわく、未萌(みぼう)を知るを聖人という。仏典にいわく三世を知るを聖人という。すみやかに法華経そして日蓮上人に帰依してこそ、日本国の安泰があるというもの。いかがかな」

訴人が反論した。

「おぬしらは幕府に仕えながら、幕府を悩ますのはなんとする。この日本国に蒙古の攻めがあるやもしれぬのに、日蓮は他宗の僧の首を切れ、寺院を焼きはらえと騒いでいる。これが大罪でなくしてなんであろう」

金吾は力強く答える。

「これはこれは異なことを申される。そもそも外敵が攻めてくることを九年前に予言したのはわれらが日蓮上人ただお一人である。この事お忘れなきように。また日蓮上人は他宗の僧の首を斬れ、寺院を焼きはらえなどとは一言もいってはおりません。良観殿、道隆殿、念阿殿が我が門下を陥れようと讒奏なされていることは周知の事実です。われわれ法華宗の祈りはほかでもない、わが国土の安穏、敵国の衰退であります。しかしここにおよんで法華経を誹謗する僧侶が祈れば、諸天善神が日本から去って、わが国の敗北は必至であるぞ」

沙汰人はさらに動揺した。

(なんと・・このままでは法華と他宗の公場対決になるではないか)

訴人が顔を真っ赤にして金吾側に反論した。

「われらは法華経を誹謗してはおらぬ。法華経を大切にする者も少なからずおるのだ。なのになぜそこまで他宗を攻撃するのだ」

 あらかじめ律儀に想定問答を準備していた千葉氏の文官、富木常忍がこれに即答する

「この日本国は法華経誹謗(ひぼう)の国である。法華経を大事といいながら、阿弥陀を祈り、座禅を組む。子を大切にして親を粗末にし、薬と思って毒薬を飲む。わが日蓮上人はこのことを憂い、鎌倉殿をはじめ各所に訴えるも答える御仁はおらず。御式目によるならば、さだめてお招きあって意見を述べるところを、さにあらず流罪されたのはいかなることか。この国の安穏を思うに、これは御政道の誤りというもの。蒙古退治は日蓮上人よりほかには叶うべからず。邪宗の祈りは日本国を早く滅ぼすのみ。去りし承久の世に、上皇に仕える高僧らが鎌倉退治を祈り、逆に滅ぼされたのをご存知ないか」

訴人が得意げに言上した。

「沙汰人、今の言葉、聞かれましたか。これぞ日蓮の徒党の正体でござる。民をあざむき幕府を誹謗する者どもでござる」

 沙汰人は汗をふいた。

「そのほうら三名。いまの言葉に嘘偽りはないか。さもなくば起請を書く用意があるのか」

起請は天地神明に誓うことである。これに背けば自決しなければならない。

太田乗明が答える。

「いかにも。ただわれわれも幕府に仕える身。われらの主人や同輩に対してはいささかの遺恨はござらぬ。沙汰人のご賢慮をあおぐまで」

場内が静かになった。

金吾たち三人は勝利を確信した。

逆に沙汰人は目を下にやり、思いつめている。裁判官として評決を下すことができない。

しんとした中、戸外で騒ぐ声が聞こえた。やがてその音がしだいに大きくなった。

「なにごとか」

評定所の門前では人だかりができていた。

訴人と論人の所従同士がはげしく争っていたのである。互いが刀で応戦しあっていた。

評定にいた人々が外にでた。

駆けつけた金吾が彼らをなじった。

「やめろ。やめんか」

常忍もつづく。

「評定所の前である。喧嘩狼藉は御法度であるぞ」

刃傷沙汰の罰は領地没収である。領地がなければ流罪になる。また刃傷の当事者が御家人でなければ牢送りだった。

双方がやっとひいた。

そこに沙汰人が割ってはいり、宣言してしまった。

「本日の評定は取りやめとする」

金吾ら三名が愕然とした。勝利は目前なのに思わぬ事態となった。

沙汰人は冷然と言いはなった。

「仏法の宗義は評定所の管轄外である。沙汰すべきにあらず。おのおの立ち去れい」

金吾たち三人が猛然と抗議したが聞きいれない。目の前にあった勝利が忽然と消えてしまった。


三人が館にもどり日蓮に平伏した。伯耆房らの弟子たちがかこんだ。

金吾が無念そうにもらす。

「まことに残念でございます」

常忍も打ちひしがれた。

「上人の義をのべる絶好の機会にあのような騒ぎをおこし、まことに申しわけございませぬ」

日蓮はなぐさめたが、さすがに落胆の色が濃い。この時の心境を太田乗明(金吾)への手紙でつぎのように記している。


(そもそも)此の法門の事、勘文の有無に()りて弘まるべきか、弘まらざるか。去年(こぞ)方々に申して候ひしかども、いな()()の返事候はず候。今年十一月の比、方々へ申して候へば、少々返事あるかたも候。()()た人の心もやわらぎて、さもやとをぼしたりげに候。又(かみ)()ざん()にも入りて候やらむ。              

 これほどの僻事(ひがごと)申して候へば、流・死の二罪の内は一定(いちじょう)と存ぜしが、いまゝでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候。いたれる道理にて候やらむ。又自界叛逆(ほんぎゃく)(なん)の経文も()ふべきにて候やらむ。山門なんどもいにしえにも百千万億倍すぎて動揺とうけ給はり候。

 それならず子細ども候やらん。(しん)(たん)高麗(こうらい)すでに禅門・念仏になりて、守護の善神の去るかの(あいだ)()の蒙古に従ひ候ひぬ。                         

 我が朝(日本)、又此の邪法弘まりて天台法華宗を(こつ)(しょ)のゆへに山門(あんのん)ならず、師檀違叛(いはん)の国と成り候ひぬれば、十が八、九はいかんがとみへ候。               

 人身すでにうけぬ。邪師又まぬかれぬ。法華経のゆへに流罪(るざい)に及びぬ。今死罪に行なはれぬこそ本意ならず候へ。あわれさる事の出来(しゅったい)し候へかし、とこそはげみ候ひて方々に(ごう)(げん)をかきて挙げをき候なり。すでに年五十に及びぬ。余命いくばくならず。いたづらに曠野(こうや)にすてん身を同じくは一乗法華のかたになげて雪山(せっせん)童子、薬王菩薩の跡をおひ、(せん)()有徳(うとく)の名を後代に留めて法華・涅槃(ねはん)経に説き入れられまいらせんと願うところなり。南無妙法蓮華経。                                   十一月二十八日          日蓮花押    【金吾殿御返事(大師講御書)】


【訳】そもそも、この法門のことは、諌暁の書の予言が現実になるか、現実にならないかによって、弘まるか、それとも弘まらないかが決まる。昨年十一通の書状で、何人かの人に申し上げたが、拒絶とも承諾とも、いずれとも返事がない。

今年の十一月ごろに、何人かの人々に申したところ、少々、返事をくださる人もいる。ほとんど、人の心も穏やかになって、そのとおりかもしれない、と思われたかのようである。また、執権殿の目にも入ったのかもしれない。

これほどの道理に合わないことを申し上げているのだから、流罪か死罪か、その二罪のうちにはいずれかには必ず処えられることは決まっている、と思っていたが今まで何ということもないのは不思議であると思う。日蓮の主張が最上・究竟の法理であるのではないだろうか。また、他国侵逼(しんぴつ)(なん)が起こるとの予言が的中したのであるから、自界叛逆難が起きるとの経文も符号(ふごう)するであろう。

比叡山・延暦寺なども、過去の山門と寺門派の抗争の時の動揺よりも百千万億倍過ぎた動揺である、とうけたまわっている。それどころではない深い理由などがあるのではないだろうか。震旦や高麗はすでに禅門・念仏になって守護する善神が去ってしまったので、かの蒙古に征服され従えさせられてしまった。わが日本もまたこの邪法がひろまって天台法華宗を軽んじたり、なおざりにしている故に、山門も安穏でなくなった。出家の師に対し檀那がそむく国となっているのであるから、十のうち八・九はどうであろうかとみえる。

すでにうけがたい人身をうけることができた。邪師もまた免れた。法華経の故に流罪に及んだ。今、死罪に行われないことこそ不本意である。ああ、そのようなことが起これと、法華経の弘通に励んでいる方々に語調の強い言葉を書いてさしあげておいたのである。

すでに年も五十近くになった。残された寿命もいくばくもない。いたずらに広野に捨てる身であるならば、同じくは一仏乗を説く法華経の方に投げて雪山童子や薬王菩薩の跡を追い、仙予国王や有徳王がその名を後の時代にとどめたように、日蓮もその名を後の時代にとどめて、末法の法華経・涅槃経に説き入れていただこうと願うところである。


日蓮は死罪に及ぶことを望んだ。それは自身が末法の本仏であることを証明するための必須条件であったからに他ならない。文応元年三十九歳の時に「立正安国論」を北条時頼に献上しているが、同時期に述作した「唱法華題目抄」ですでに末法に建立すべき本尊の相貌(そうみょう)を記している。


問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀(ならび)に常の所行(しょぎょう)は何にてか候べき、答えて云く、第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師(ほっし)品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず()(りゅう)行なるべし、道場を出でては行住(ぎょうじゅう)坐臥(ざが)をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一()・一句をも読み奉る可し、助縁(じょえん)には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に(したが)うべし、愚者(ぐしゃ)多き世となれば一念三千の観を先とせず、其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

この「唱法華題目抄」の記述を見る限り、日蓮は三十二歳で立宗し「南妙法蓮華経」と唱えるという末法における仏になるための「行」を広めていくが、いずれ末法の本尊を建立すべきと内証に秘めていたことは間違いない。
 それではいつ建立すべきなのか。釈尊は三十歳で成道し四十二年を経て霊鷲山に弟子を一同に集め、法華経の開教である無量義経・十功徳品第二で「四十余年 未顕真実」と宣言、そして同じ霊鷲山で釈尊究極の教えとして妙法蓮華経を説いた。

本尊は衆生が己の仏性を開くための縁となる存在である。それゆえ仏の命がそこに吹き込まれなければ、衆生は本尊と感応して仏性を開くことができない。本尊は衆生が仏心を成就することを念じて本仏自らが図現する必要があつた。

釈尊は法華経如来寿量品第十六の最後に『我亦為世父(中略)、毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏心(我また世の父と為りて(中略)いかにして衆生をして無上道に入らしめ、速やかに仏身を成就することを得せしめんといつも念じている)と説いている。

日蓮が幕臣、各宗派の僧侶に宛てた十一通の書状は、一往は「公場対決」で勝利し他宗への布施を止め、幕府を法華経信仰に立たせることにあったが、再往は自身に死罪が及び、それを乗り越えることで末法の本仏であることを現在の門下及び滅後の弟子・信徒に示すことだった。

この日蓮の本願は二年後、「竜の口」の法難として実現することになる。

日蓮はこの内証を、四条金吾でも富木常忍でもなく大田乗明(金吾)への消息文で吐露している。大田乗明には、日蓮が入滅する半年前の弘安四年の四月八日、本門戒壇の建立を後世に託した「三大秘法禀承事」を与えている。この書の中で日蓮は記す。

此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として日蓮(たしか)かに教主大覚世尊より口決相承せしなり・・・・今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり。()年来(としごろ)己心に秘す(いえど)も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の(ゆい)(てい)()定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可し。其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き送り候、一見の後、秘して他見有る可からず口外も(せん)()し。法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」

「地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」の文言は、日蓮が上行菩薩の再誕であることを意味しているが、この内証をあらわにしたのは、ほとんど(まれ)だった。わずかに後継の日興に口伝した就註法華経口伝(御義口伝)の寿量品二十七個の大事の二十五「建立御本尊の事」で「日蓮(たし)かに霊山に於て面授(めんじゅ)()(けつ)せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」とあるのみである。

当時の信徒には到底理解できることではなかった。うかつに口にすれば信徒に疑心をわかせるだけだった。

逆にこのことは日蓮にとって、在家信徒である大田乗明の法門への理解に対する信頼がいかに高かったかを物語っている。それゆえ他の信徒にたいしては誤解を招きかねない「死罪が降りかかるのを望んでいる」という心証を不用意に吐露することはなかった。


この究極の内証とは裏腹に、日蓮は窮した。

三十二の年より二十年近くにわたって法華経の正義を訴えつづけ題目を弘めた。諸宗をやぶり、法華経広布の国土を建てようとした。だが題目の流布はしたものの、日本国の根底は変わっていない。諸宗はいぜんもとのままであり、国主も聞く耳をもたなかった。

念仏を無間地獄という日蓮の悪名は高まるばかりである。それほどまでに日本国の迷妄は深い。
 こうして日蓮という名は世間から黙殺されたまま、歴史の荒波に埋もれようとしていた。

鎌倉の人々は口々にいった。日蓮は善戦したが所詮、一介の僧侶が天下の鎌倉様や極楽寺の良観様に楯突こうなどと、身の程知らずにもほどがあると。

しかし事は意外なところから日蓮と良観を取り巻く事態が急転換する。



                 25 極楽寺良観と日蓮、降雨の対決 につづく




上巻目次



by johsei1129 | 2017-03-19 22:03 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

23 強敵の胎動

日蓮の故郷、安房の砂浜に波が寄せては返し、幾万年も変わらぬ自然の営みが繰り返される。

しかしここ清澄寺では普段と違う慌ただしさに包まれていた。
 高僧の円智房が、今まさに臨終をむかえようとしていた。

道善房・浄顕房・義浄房らの僧侶、また古くからの檀家たちが円智房の床のそばに集まっていた。

幼い所化の中にはすでに涙ぐむ者がいた。

円智房はすでに身を起すこともできず、床に伏したまま静かに語り始めた。

「わたしはこの数十年、法華経を書写しながら一字ずつ三度、礼をしてまいりました。この功徳は来世でも輝くでありましょう。愚僧はこれから浄土へ行きまする。それにひきかえ日蓮は法華経をあやまって解釈した。強引な折伏はいずれ身をほろぼすことになるでしょう。皆々様はくれぐれも心するよう」

円智房は死の間際まで日蓮を蔑視していた。

声を殺して泣く者、手をあわせる者がいる。

円智房はついに息をひきとった。顔色は桃のように赤みを帯びていた。

清澄寺古参の老僧が讃歎した。

「成仏の相じゃ」

円智房の身は翌日の夜半に入棺、子の刻になり道善房の導師で葬儀が執り行われた。

葬儀が終わると彼の棺はひらかれ、顔に白布があてられた。

道善房と弟子の義浄房、浄顕房がすわる

道善坊は役目を終え、すっかり放心したかのようなよ表情をうかがわせていたが、葬儀の準備に奔走していた二人の弟子をねぎらった

これで円智房も無事冥途に旅だったことであろう。やれやれであるな。ところで今あらためて振り返って思えば、円智房殿は清澄寺の歴代の僧侶を代表する名僧であったな。信徒の尊敬を一身に集めた逸材であったな」

義浄房が不満げである。

「しかし、あやまちも多かったのではないでしょうか」

道善房が目をむいた。

「これ、葬儀が終わったばかりでなにをいう」

義浄房が棺に収まっている円智房の顔をじっとながめる。

「この方はお師匠をいじめぬいたお人です。日蓮上人のことも非難ばかりされておりました」

道善房がなだめた。

「よいよい、だがもう終わった。わしの気が弱いばかりに、おまえたちにも苦労をかけるな」

浄顕房がにじりよった。

「お師匠。お師匠様も法華経に帰依すれば日蓮上人もきっと喜ぶでしょう。僧侶が宗旨を変えるのはいくらでもあること。けっして恥ずかしいことではありませぬ。一刻も早いご決断を」

道善房はいつものように煮えきらない。
 やはり臆病なのか。

浄顕房と義浄房があきらめて顔を見あわせ、一礼をして去った。

道善房がひとり本堂にのこり、ため息をついた。彼は立ちあがったが、ふと思いついて棺にむかった。

なにかいやな予感がする。

道善房は円地房の顔にあてられた布を恐る恐るはずした。そして半分ほどあけたとき、円智房の顔面が墨で染めたように真っ黒になっているのを見てしまった。

円智房の片目が道善房をにらみつけるように開いている。

道善房がこの死相に仰天し、わななきながらあとずさりした。

円智房の顔色は最初桃色に輝いていたが、時間の経過とともに黒く変色していた。

その夜、浄顕房と義浄房が月にむかって南無妙法蓮華経と題目を唱えた。数人の信徒がうしろで唱和する。清澄寺では南無阿弥陀仏ではなく、日蓮が説く南無妙法蓮華経を唱える信徒が増えはじめていた。

ここに道善房がやってきた。

信徒たちが道善房に気づき、おどろいて席をあけた。

道善房は二人の弟子の背後にすわり、題目を唱えはじめた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・」

浄顕房と義浄房が聞きなれた師、道善房の声に気づいた。
 二人は思わず顔を見合せるが、二人とも自然に涙があふれ出し、互いの顔がおぼろげにしか見えない。かろうじて前をむき今度は師道善房の声に合わせ、夜が更けるまで唱題が続けられた。

唱題の声が一段と大きくなっていった。


道善房の法華経帰依の知らせは鎌倉の日蓮にもとどいた。日蓮の喜びはひとかたでない。十二の歳から親代わりになってくれた。その師匠に恩をかえすことができたのだ。
 日蓮は思う。
 かつて師道善房を強い調子で破折したが、あの時の強言が道善房を正信に目覚めさせたのだと。

この時の思いを義浄房・浄顕房に宛てて翌年の文永七年、四十九歳の時(あらわ)した『善無畏三蔵抄』で次のように記す()()

忠言耳に逆らひ良薬口に(にが)しと申すは是なり。今既に日蓮師の恩を報ず。定んで仏神納受し給はんか。

いっぽう鎌倉では日蓮の弘通が一段と熱を帯びていった。十一通の書状は幕府側に完全に無視されたかに見えたが、法華経の折伏の勢いはさらにつづいた。

日蓮門下の猛烈な弘教で念仏宗の勢いは止まった。これもまた強言のなせる業だった。

十一通の書状を献じてから、はや二年、文永七年ごろになると日蓮は法華経がこの日本国に確実に弘まっていることを実感、おなじ『善無畏三蔵抄』に次のように記している。。

然るに日蓮は安房国東条(とうじょう)(かた)(うみ)石中(いそなか)の賤民が子なり。威徳なく、有徳の者にあらず。なにゝつけてか、南都(なんと)北嶺(ほくれい)(注)のとゞめがたき天子(てんし)()()(注)の制止に叶はざる念仏をふせぐべきとは思へども、経文を亀鏡と定め、天台伝教の指南を手ににぎ()りて、建長五年より今年文永七年に至るまで、十七年が間是を責めたるに、日本国の念仏大体(とど)まり(おわ)んぬ。眼前に是見えたり。又口に()てぬ人々はあれども、心計りは念仏は生死をはな()るゝ道にはあらざりけると思ふ。

禅宗以て()くの如し。一を以て万を知れ。真言等の諸宗の誤りをだに留めん事、手ににぎりておぼゆるなり。

当世此の十余年已前は一向念仏者にて候ひしが、十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑ひをなす故に心中に法華経を信じ、又釈迦仏を造り(たてまつ)る。是亦日蓮が強言より起こる。譬へば栴檀(せんだん)()(らん)より生じ、蓮華は泥より出でたり。而るに念仏は無間地獄に()つると申せば、当世、牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染(かりそめ)にも(そし)るは、(やせ)(いぬ)が師子王をほへ、()(ざる)帝釈(たいしゃく)を笑ふに似たり。 

日蓮が聴衆でうまった鎌倉の館で説法をはじめた。

「国に災難がおきようとしているのに鎌倉殿からなんの返事もないのは、ひとえに鎌倉殿をとりまく邪宗の僧侶たちの讒言(ざんげん)によるものです。余は時宗殿に言おう。建長寺・極楽寺への布施を止めよと。

仏の滅後二千二百二十余年の間、だれも弘めなかった法華経の肝心、諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法のはじめに弘まる瑞相(ずいそう)に日蓮は先がけした。皆様方も二陣三陣と続いて釈尊の弟子、迦葉(かしょう)阿難(あなん)(注)にもすぐれ、天台・伝教さえも超えてくだされ。鎌倉殿といえど、唐土、天竺に比べれぱわずかの小島の主にすぎません。その主が脅そうとするのを、おじけづいては閻魔(えんま)王の責めをどう逃れるのか。仏の使いと名のりながら、臆病になる者は無下(むげ)の人です」

このとき日蓮にむかって石が投げられた。

矢継ぎ早の石つぶてが日蓮の肩にあたった。

日蓮がたもとをあげてふせぐ。

四条金吾が矢面に立ち、富木常忍・太田乗明が立ちあがった。

「なにをする」

投石した者が出口へと逃げていく。

金吾があとを追おうとしたが止まった。

そこに役人とおぼしき数人の武士が立っている。

「どなたかな」
 金吾が問い詰める。

「問注所の者である」

「問注所。おぬしら場所をまちがえておる。ここは日蓮上人のお館である」

役人はいった。

「いや日蓮殿ではなく、信徒の方々に御用があり参った次第です」

役人が日蓮の前に進み、立ちながら書状を読みあげた。

「そのほうの信徒、富木常忍・四条頼基・太田乗明の三名にお尋ねあり。明後日、三名は鎌倉問注所に出頭せよ。そのほうらの法華経の信仰について訴えあり。明後日、問注所において弁明せよ。三名の意向いかん」

常忍が正座して目を輝かせた。

「ぜひまいります」

金吾もつづいた。

「よろこんで出頭いたす」

太田がにこやかに答える。

「お役目ご苦労にございます。かならずうかがいますぞ」

「では明後日」

役人が去ったあと、三人が日蓮の前にすすみでた。

日蓮はこの急な事態に驚いたが、眼差しは明らかに輝いていた。来るべきものがようやくやってきたという思いだった。

 

文永六年五月九日、その日の朝のことだった。四条金吾は支度に忙しかった。

妻の日眼女が夫に帷子(かたびら)を着せる。

金吾は三十九になった。この十数年、日蓮を師として弘教にあけくれた。今日は彼にとって決戦の日である。

だが日眼女は心配な顔をあらわにした。

金吾が妻の顔をのぞく。

「どうした」

 日眼女はとりつくろった。

「いえ、なんでもありませぬ」

 金吾はおちついていた。

「案ずることはない。今日の評定はきっとうまくゆく。たとえわしが感情に走っても、富木殿や太田殿がかばってくれよう。心配いたすな」

日眼女はなおも憂い顔だった。

「いえ今日のことではありませぬ。これからのことです」

「これからのこと・・」

日眼女が金吾を見つめた。

「あなたは上人とお会いしてから見ちがえるようになりました。いつも怒ってばかりいたあなたが、ご自分を自制できる人になろうとは思いませんでしたわ。それだけでも法華経がすばらしいことはわかるのです。でも・・」

「でも、なんだ」

日眼女が背中をむいた。

「このままあなたがわたしたちをおいて、どこか別な世界に行ってしまうような気がしてなりませぬ。わたしはそれが不安で・・」

金吾が妻の肩に手をおいた。

「案ずるな。わしが妻と子をさしおいて、どこにいこうぞ。われら親子はいつも一緒じゃ。上人が申しておられたではないか。われら凡夫は(はえ)のようにはかない。だが千里を走る馬の背につけば、自由自在な世界に行けると。われら親子も一緒に上人の背中についていくだけだ」

日眼女はふりむいて金吾の目を見た。

「いまの言葉、お忘れなきよう・・」


金吾が勇壮に館からでた。従者がつづく。

そして若宮大路を勇ましくすすんだ。
 富木常忍・太田乗明・四条金吾の三人は、問注所に出むく前にそろって日蓮の館に立ち寄った。その時日蓮はあらかじめ問注所で訴える際の細々した注意事項を書き記した書状を用意していた。

「今日召し合はせ御問注の由承り候。各々御所念の如くならば、三千年に一度花さき(このみ)なる優曇華(うどんげ)に値へるの身か。西王母(せいおうぼ)(その)の桃、九千年に三度之を得るは東方朔(とうほうさく)が心か。一期(いちご)の幸ひ、何事か之に()かん。御成敗の甲乙は(しばら)く之を置く。(さき)立ちて(うつ)(ねん)を開発せんか。
 但し(けん)(じつ)御存知有りと雖も、駿馬(しゅんめ)にも(むち)うつの理之有り。今日の御出仕公庭に望みての後は、設ひ知音(ちいん)たりと雖も、(ほう)(ばい)に向かひて雑言(ぞうごん)を止めらるべし。両方召し合はせの時、御奉行人、訴陳の状之を読むの(きざ)み、何事に付けても御奉行人御尋ね無からんの外は一言をも出だすべからざるか。設ひ敵人等悪口を吐くと雖も、各々当身の事一・二度までは聞かざるが如くすべし。三度に及ぶの時、顔貌(げんみょう)を変ぜず、()(げん)を出ださず、(なん)()以て申すべし。
 各々は一処の同輩なり。私に於ては全く違恨(いこん)無きの由之を申さるべきか。又御供の雑人(ぞうにん)等に()く能く禁止を加へ、喧嘩(けんか)を出だすべからざるか。是くの如きの事、(しょ)(さつ)に尽くし難し、心を以て御斟酌(ごしんしゃく)有るべきか。
 此等の(きょう)(げん)を出だす事、恐れを存ずと雖も、仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成ぜんが為に愚言を出だす処なり。恐々謹言。
五月九日                     日 蓮 花押
三人御中」【問注得意抄


()今日召し合わせて、訴えの問注があると聞きました。三人が念願されたとおりであれば、三千年に一度花が咲き、菓がなるという優曇華に値える機会を得た身となりましょう。
 また九千年に三度しか実がならない西王母の園の桃を、東方朔が九千年に三度得たのと同じ気持ちでもありましょう。
 一生のうちで、これほどの幸いは、またとない機会です。
 御成敗の是非についてはともかく、あなた方はまずもって日頃の鬱念を訴えるべきです。ただし、すでにご存じのことでありますが、駿馬にも鞭うつということもありますから、本日出仕し、公の場所に出られたからには、たとえ知り合いの者であっても雑言を言ってはなりません。両者が呼び出され、御奉行人が訴えの文を読む間は、何事があっても奉行人から尋ねられない限り、一言でも口を出してはいけません。
 たとえ敵方が悪口を吐いたとしても、一度や二度までは聞いていないふりをすべきす。
 それが三度におよぶようであったら、顔色を変えず、無礼なことを言わず、やわらかな言葉で反論すべきです。
 相手方とは同じ部署の同輩であります。それ故、私事においては全く遺恨などありませんと言っておくべきです。また、御供の人はくれぐれも、喧嘩などしないよう注意しておくべきです。
 このような事は、書面ではすべてを書き尽くせないので、その他のことは私の意図を思って斟酌してください。

 これらのことを思いついたまま言っているようで恐れ入りますが、仏経と行者と檀那の三つが相応して、一事を成就することを願って愚言を述べたわけです。恐々謹言


 三人は日蓮のしたためた書状を読むと、信徒を思う師の心に触れ、思わず床に手をつけ感謝した。さらに常忍は日蓮から渡された書状に「問注時可存知由事(問注の時、存知すべき由の事)」とわざわざ書き込みをしている。この時の日蓮の真筆は常忍と乗明が開基した中山法華経時に現存する。
 だれが訴えたのかは定かではない。だが日蓮は問注では百戦錬磨である。げんに清澄寺と地頭の東条景信との領地をめぐる争いでは、日蓮は先頭になって訴え続け、すべて勝利している。法華宗が対論におよべば必ず勝つ。三人はそのために日々日蓮から薫陶を受けていたのだ。問注の勝利によって、法華経の正しさが鎌倉の人々に伝われば広宣流布がまた一歩近づくのだ



24 広宣流布の壁 につづく


上巻目次

 南都北嶺

 南都は奈良。北嶺は比叡山のこと。伝教が比叡山延暦寺に天台宗を開いて以来、南都に対してこう呼んだ。のち特に南都の興福寺と比叡山延暦寺をさした。


 天子虎牙

 虎牙とは虎の牙から転じて権力のこと。天皇の権力の意。


 阿難

梵名アーナンダ。阿難陀・阿難尊者ともいう。釈迦の従弟(いとこ)で提婆逹多の弟にあたるとされる。釈迦の声聞十大弟子の一人で多聞第一と呼ばれた。出家後、27歳で釈迦に常随給仕する役目となり、それ以後、釈迦の説法にはすべて立ち会ったとされる。釈迦入滅後、仏典の第一回結集の際には(じゅ)(しゅつ)者として中心的役割を果たした。そのため釈迦が説いた仏典の書き出しは全て「如是(にょぜ)我聞(がもん)(この様に私阿難は釈尊から聞きました)」の四文字で始まっている。また迦葉に次いで法灯伝持の第二祖(付法蔵第二)となったといわれている。




by johsei1129 | 2017-03-19 21:11 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

22 三類の怨敵

極楽寺の奥まった一室に一本のろうそくがともされていた。

この部屋に良観、建長寺の蘭溪(らんけい)道隆、念仏僧の然阿良忠が車座にすわった。

良観は律宗、南宋から渡来した道隆は禅宗、良忠は浄土宗の代表である。かつてこの三人は反目していた。しかし日蓮があらわれてからは「敵の敵は味方」とばかり結束して協力するようになった。

然阿がおもむろに口火を切る。

「見ましたか」

道隆が額にしわをよせる。明らかに戸惑いを隠せない。

「確かに。まことにあやしげな書状でございます」

念阿がうめくように吐き捨てる。

「日蓮め、九年も前の予言が当たったことをよいことに、鎌倉殿に訴え、われらと対決しようとは」

道隆はめずらしく愚痴をこぼした。

「予言が的中したと信徒が日蓮に流れている。おかげで座禅を組む者が、めっきりとへりました。この先、蒙古が実際に襲来したら、ますます日蓮にすがろうとして信徒が流れていくに違いない。これではわれわれの生きる手だてがなくなるというもの。良観殿、なにか名案はありませぬか」

良観ただ一人、なにか秘策でもあるかの様子でおちついている

「対決については無視することです。日蓮のこのたびの件は、われわれだけでなく平の左衛門尉様もいたくご立腹の様子。日蓮はこのままでいけば罰せられることは確実です」

念阿はそれでも不安な顔を消せない。

「しかし鎌倉殿の父、時頼殿は日蓮の伊豆流罪を赦免しておる。鎌倉殿がまた日蓮を罰するというのは無理があるのでは」

良観が声をひそめて語りだした。
「問題はそこです。なんとしても日蓮を蹴落とさなければならない。日蓮本人がむずかしいとすれば弟子檀那に狙いをつけましょう」
 道隆が首をかしげる。

「弟子檀那とな・・」

「さよう。日蓮の弟子の中には江間氏の配下の四条金吾など御家人が多数おります。ご政道を批判する者の信徒が幕府の中にいるのです。これは鎌倉殿にとっても由々しきこと」
「なるほど」

 念阿と道隆は、闇の中で良観の自信たっぷりの口調にうなずいた。

 日蓮は蒙古襲来の予言で幕府の眼をさました。世間は注目し、幕府も日蓮を起用する動きがあったが、これをおさえたのは宗教界では良観、幕府内では平の左衛門尉をはじめとする主流派だった。

他宗批判をくりかえす日蓮が幕府内で実権をにぎれば、彼らの地位は一夜のうちに転落する。良観らは幕府にとりいり讒言した。

北条時宗の耳にも日蓮への非難は聞こえていた。

いっぽう日蓮の耳には千葉家の富木常忍、御家人の四条金吾をはじめとする武家信徒を通じ、この策謀は聞こえていた。のちに佐渡で記された『開目抄』でつぎのように述べている。

(それ)昔像法の末には(ごみ)(ょう)(注)・修円(注)等、奏状をさゝげて伝教大師を(ざん)(そう)す。今末法の始めには良観・念阿等、偽書を注して将軍家にさゝぐ。あに三類の怨敵(注)にあらずや。開目抄下

四百年前の伝教大師でさえ非難された。日蓮もおなじであると。
 世間で崇拝されている良観や念阿が日蓮をよこしまに攻撃する。彼らは三類の怨敵ではないか、と断言している。


時宗は鎌倉御所の弓場にいた。

御家人がまわりに控えている。

時宗の矢が的の中心にあたった。

「お見事」

御家人がいっせいに声をあげる。

時宗はにこりともせず言った。

「筑紫にむかった大将には、弓の訓練を絶やさぬよう指示しておけ。蒙古兵は弓に長けていると聞いておる」

泰盛がうなずいた。

それはぬかりありません殿のお考えの通り、この度の蒙古との一戦は、海戦、または陸と海の戦いになり、弓矢での戦いが肝心となります。ただ恩賞の準備に困っております。分け与える土地が不足しておりまする」

時宗はこともなげだった。

「それは奉行であるそなたの仕事ではないか。よく考えよ」

平頼綱がにやりとして言上した。

「全国の体制固めの件。諸国に下知を飛ばしました。筑紫にむかう武士の数。軍資金の徴収、不用な土地の没収もすすめております」

 時宗が弓を引きしぼって矢をはなつ。矢が的の中央を射抜いたのをたしかめて言った。

「諸国の財政を苦しめてはならぬ。過酷な取り立ては不満分子を生む。そやつらは幕府にとって蒙古より脅威だ」

頼綱はつづける。

「そのことについて、各所に狼藉、浮浪人の輩をとらえております。とくにこの鎌倉では、不逞(ふてい)の者は一人もださぬよう警戒しておりまする。ただ鎌倉殿のお許しをえて捕縛したき者がおります」

泰盛があざ笑った。

「だれだ。この鎌倉に、そのような者がいたか」

「日蓮めにございます」

時宗が的をはずした。

頼綱がすすみでる。

「あの男、敵国攻撃の予言を盾に、幕府を悩まさんとしております。生かしておけば必ず禍根をのこすでありましょう。いま世情は蒙古襲来を恐れ、緊張しきっておりまする。日蓮を捕らえ、静めるのが肝要かと」

時宗がふたたび弓を引きしぼった。

「父上は日蓮殿を許した。わしもそれに従うまでだ」

頼綱が食いさがる。

「しかしあのような無礼な書状は幕府はじまっていらい、前代未聞、死罪に等しき内容でござる。首をはねるべきか、鎌倉追放か。弟子檀那どもは、所領ある者は土地をとりあげ、あるいは牢に入れて責め、あるいは島流しにすべきでございましょう」

ここで時宗がひとりごとのようにつぶやいた。

「父上はおおされた。だれがほんとうの部下であるか、よく考えよと。主人にこびる部下は多く、(いさ)める臣下は少ない。前途多難な時であるのに、わたしは孤独だ。日蓮殿がどのような人かは知らぬ。だがこのわたしにとって、頼もしい味方かもしれぬ」

座が一瞬で静まった。

家臣が気落ちしている。時宗が見たこともない顔だった。

たまらず苦笑いした。

「ゆるせ、おぬしたちも時宗の頼もしい味方である。おのおの方は皆立派な鎌倉武士だ。叱ったわけでもないのに、そんなに気落ちするな」

時宗が大笑いながら去っていく。

所従が頼綱に弓をすすめたが「おのれ日蓮めが」と叫び、持った弓を真っ二つに折ってしまった。

結局、十一通の書状への反応はまったくなかった。

日蓮は五十五歳の時に著した『種々御振舞御書』に悲憤をこめて次のように記している。

 日本国のたすかるべき事を御計らひのあるかとをも()わるべきに、さはなくして或は使ひ悪口(あっく)し、或はあざむき、或はとりも入れず、或は返事もなし、或は返事をなせども(かみ)へも申さず。   




          23  強敵の胎動  につづく
上巻目次


 護命

天平勝宝二年(七五○)~承和元年(八三四)。平安初期、法相宗の僧。美濃(岐阜県南部)の人。姓は秦氏。十歳で四国(こん)(こう)明寺(みょうじ)に入り、(どう)(こう)法師に師事する。その後、奈良元興寺の僧、(まん)耀(よう)(しょう)()について唯識論を極め、唐招提寺の唐僧・法進について(しゃ)()戒(沙弥の持つべき戒法)を受けた。天長四年(八二七)僧正となる。光仁十年(八一九)、伝教が比叡山に一乗戒壇の建立を願い上奏すると、護命はそれを非法として奏上し、伝教と祈雨を争ったが敗れた。著書として「法相研神章」など多くをのこしている。


 修円

 「しゅえん」ともいう。宝亀二年(七七一)~承和二年(八三五)。平安初期の法相宗の僧。大和の人。興福寺に住み、当時第一の学僧として有名であった。延暦二十一年(八○二)一月十九日、高雄山寺で伝教と法論を行い、論破された。伝教が唐から帰国後、伝法灌頂を受けた。弘仁九年(八一九)に伝教の大乗戒壇建立の請願に対し、同十年(八一九)護命らと共に反対する上奏を行った。伝教の後継者だった義真の没後、延暦寺総事になろうとしたが宗徒に反対されて室生山に移り没した。弟子には伝教と「三一論争」を行った徳一などがいる。著書に「因明纂要記」二巻などがある。


 三類の怨敵

三類の強敵(ごうてき)もいう。釈迦滅後、法華経の行者を種々の形で迫害する三種の敵人のこと。法華経勧持品第十三で説かれる。妙楽が法華文句記の中でその名を定義した俗衆(ぞくしゅ)増上慢・道門増上慢・僭聖(せんしょう)増上慢の三つ。

俗衆増上慢とは法華経の行者を悪口罵詈(めり)し刀杖を加えたりする仏法に無知な在俗の人々のこと。

「御義口伝に云はく、一文不通の大俗なり。悪口(あっく)罵詈(めり)等分明なり。」

道門増上慢とは慢心で邪智に富んだ僧侶をいう。
「御義口伝に云はく、悪世中比丘の悪世とは末法なり、比丘とは謗法たる弘法等是なり。法華の正智を捨て権教の邪智を本とせり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は正智の中の大正智なり。」『勧持品十三箇の大事

僭聖増上慢とは聖者のように(よそお)い、社会的に尊敬を受けるもので、内面では利欲に執し悪心を(いだ)いて,法華経の行者を怨嫉(おんしつ)し、ついには権力を利用して流罪・死罪にまで迫害を及ぼす敵人をいう。




by johsei1129 | 2017-03-19 20:27 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

21 僭聖増上慢、極楽寺良観への書状

 侍所平頼綱の部屋でも書状が読みあげられていた。

 頼綱は従者が恐る恐る読みあげるのを憤然として聞いた。

 蒙古国の牒状到来に()いて言上せしめ候ひ(おわ)んぬ。

(そもそも)先年日蓮立正安国論に之を勘へたるが如く、少しも違わず()(ごう)せしむ。然る間重ねて訴状を以て(しゅう)(うつ)(ひら)かんと欲す。(ここ)を以て(かん)()を公前に飛ばし、争戟(そうげき)を私後に立つ。(しかしなが)ら貴殿は一天の(おく)(とう)たり、万民の手足たり。(いか)でか此の国滅亡せん事を歎かざらんや慎まざらんや。早く(すべから)く対冶を加へて謗法の(とが)を制すべし。

 夫以(それおもんみ)れば・・

 頼綱は書状をつかんで破りすててしまった。

 書状は建長寺の蘭渓道隆にも届いた。

 道隆は北条時頼の帰依した禅僧であり、鎌倉仏教界の第一人者である。日蓮は十月十一日、弟子日持に届けさせた書状で対決をいどんだ。それ故この書状は全編、闘志にみなぎっている。

(それ)仏閣(ぶつかく)(のき)並べ(なら)法門(いえ)ごとに(いた)る。仏法の繁栄は身毒(けんどく)尸那(しな)にも(ちょう)()し、僧宝の行儀(ぎょうぎ)は六通の羅漢の如し。然りと(いえど)も一代諸経に於て未だ勝劣(せん)(じん)を知らず(しかしなが)禽獣(きんじゅう)に同じ、(たちま)ちに(さん)(とく)の釈迦如来を(なげう)つて他方の仏菩薩を信ず。是(あに)逆路伽耶陀(ぎゃくろがやだ)(注)の者に非ずや。念仏は無間(むけん)地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説(もうせつ)と云々。

(ここ)に日蓮()ぬる文応元年の(ころ)、勘へたるの書を立正安国論と名づけ、宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ。此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難(しき)りに起こり(あまつさ)へ他国より此の国を責めらるべきの由之を勧へたり。然るに去ぬる正月十八日牒状(ちょうじょう)到来すと。日蓮が勘へたる所に之少しも(たが)はず普合せしむ。諸寺諸山の祈祷の威力滅する故か。(はた)(また)悪法の故なるか。

 鎌倉中の上下万人、道隆聖人をば仏の如く之を仰ぎ、良観聖人をば羅漢(らかん)の如く之を尊む。其の外寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿等の長老等は「()慢心(まんしん)(じゅう)(まん)未得謂(みとくい)()(とく)」(注)の増上慢の大悪人なり。何ぞ蒙古国の大兵を調伏(じょうぶく)せしむべけんや。(あまつさ)へ日本国中の上下万人(ことごと)く生け取りとなるべし。今生には国を亡ぼし後生(ごしょう)には必ず無間(むけん)()せん。日蓮が申す事を御用ひ無くんば後悔之有るべし。此の(おもむき)鎌倉殿・宿屋入道殿・(へいの)左衛門尉(さえもんのじょう)殿等へ之を進状せしめ候。一処に寄り集まりて御評議有るべし。()へて日蓮が()(きょく)の義に非ず。只経論の文に任す処なり。(つぶさ)には紙面に載せ難(の がた)(しかしなが)ら対決の時を()す。書は(ことば)を尽くさず。言は心を尽くさず。恐々謹言。

文永五年戊辰十月十一日       日蓮花押

進上 建長寺道隆聖人侍者御中   『建長寺道隆への御状

 書状は極楽寺良観にも届けられた。

 良観はこぶしをにぎりしめた。

 彼は律宗とともに念仏もひろめていた。したがって立正安国論で「念仏無間」と説く日蓮とは真っ向から対立し、信者の争奪をくりひろげていた。

 そこに挑発ともいえる書状がきた。内容は良観を完膚なきまでに下したものだ。良観は歯ぎしりする思いだったに違いない。

西戌(さいじゅう)大蒙古国の到来に()いて鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候。日蓮()ぬる文応元年の(ころ)、勘へ申せし立正安国論の如く(ごう)(まつ)(ばか)りも之に相違せず候。此の事如何(いかん)。長老(にん)(しょう)速やかに嘲弄(ちょうろう)の心を(ひるがえ)し、早く日蓮に帰せしめたまふべし。若し然らずんば『人間を軽賎(きょうせん)する者、白衣(びゃくえ)(ため)に法を説く』の(とが)(のが)れ難きか。依法不依人(注)とは如来の金言なり。良観上人の住処を法華経に説きて云はく『或は()(れん)(にゃ)に有り、(のう)()にして(くう)(げん)に在()』(注)と。阿練若は無事(むじ)(ほん)ず。(いか)でか日蓮を讒奏(ざんそう)するの条、住処と相違せり。(しかしなが)ら三学にたる矯賊(きょうぞく)の聖人なり。僣聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)(注)にして今生は国賊、来世は那落(ならく)()(ざい)せんこと必定せり。(いささ)かも先非(せんぴ)を悔いなば日蓮に帰すべし。この(おもむき)を鎌倉殿を始め奉り、建長寺等其の外へ披露(ひろう)せしめ候。

所詮本意を遂げんと欲せば対決に()かず。即ち三蔵(せん)(ごん)の法を以て、諸経中王の法華に向かふは、江河と大海と華山(かざん)妙高(みょうこう)()(注)との勝劣の如くならん。蒙古国調伏(じょうぶく)の秘法は定めて御存知有るべく候か。日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国対冶(たいじ)の大将たり。

 

 十一通の書状を届けた日以後、おおぜいの信徒が日蓮の館につどった。

 四条金吾・土木常忍・太田乗明・日妙・池上兄弟らは微動だにせず、まっすぐ師日蓮の目を見つめていた。しかしほとんどの信徒は自分たちにも類が及ぶのではないかという不安にかられ、下をむいている。

 日蓮の言葉はきびしい。いままでに聞いたことがないほどだ。

「大蒙古帝国の書状到来について、十一通の書状をもって方々へ申しあげました。さだめて日蓮が弟子檀那は流罪、死罪はまぬがれまい。この事を少しも驚いてはなりません。かたがたへの訴えは、あえて(いか)らせるため、而強毒(にごうどく)()(注)の故であります。また日蓮が望むところでもあります。おのおの方はくれぐれも用心あるべし。少しも妻子眷属を思ってはなりません。権威を恐れてはなりません。いまこそ過去遠々刧の宿縁をたち切って、成仏の種を植える時なのですぞ」

「流罪、死罪はまぬがれまい」との日蓮の厳しい言葉を聞き、聴衆の中から一人二人と立ち去っていく者がいた。親しい仲間同士で連れそって出ていく者たちもあらわれた。



               22 三類の怨敵 につづく
上巻目次


 逆路伽耶陀

 法華経安楽行品第十四にある、古代インドの外道の一派で逆順世派のこと。世情の趣くままに教を立てる順世派に逆らい、世論に順わないで法を説いていた外道の一派。順世派の師であるチャールヴァーカの立てた教義にしたがわないで反対の説を立てたために、後代、師の意にそわず反逆の罪を犯す者のたとえに用いられた。

 ()慢心(まんしん)(じゅう)(まん)未得謂(みとくい)()(とく)

「我慢の心充満せん。(いま)()ざるを()れ得たりと(おも)う」と読む。法華経勧持品第十三にある。諸菩薩が法華経を弘教する誓いで唱えた言葉。悪世の中の比丘は、邪智にして心(おご)り、究極の法を知らないで増上慢に陥る意。

 依法不依人

 「法に依って人に依らざれ」と読む。涅槃経に説かれている法の四依の一つ。仏法の勝劣浅深・判釈については仏の経文を用い、人師・論師の言を用いてはならないとの意。

 日蓮大聖人は報恩抄で「依法不依人」の法と人について「依法(えほう)と申すは一切経、不依(ふえ)(にん)と申すは仏を除き奉りて(ほか)普賢(ふげん)菩薩・文殊(もんじゅ)()()菩薩乃至(ないし)上にあぐるところの諸の人師なり」と断じている。つまり仏は諸法の実相を極めているから「違いなく、(とが)なし」だが、普賢菩薩・文殊師利菩薩といえども、(いま)だ極めきっていないのだから、その言に依存してはならないと説いている。いわんやその他の諭師、人師は言うまでもない。

或は()(れん)(にゃ)に有り、(のう)()にして(くう)(げん)に在り

 阿練若は梵語でアーランニャ。空家・閑処・寂静処(じゃくじょうしょ)無諍声(むじょうしょう)と訳す。原語の『森林に住む』との云いから、人里離れた静かなところをさし、僧侶の修行の好適地をいい、のちに寺の意にも用いられた。

 納衣は法衣の一種。人の捨てた布を拾い集めて洗濯し、これを縫いつくろって作った法衣。納はつくろうの意。「衲衣」とも書く。(きたな)(ぬの)(きれ)を集めて作るので糞掃(ふんぞう)()ともいった。空閑は阿練若と同義。

 僭聖増上慢

 聖人の姿に似せて聖人として振る舞い、権力に近づいて正法を弘める者を迫害する者をさす。三類の強敵(敵人)の第三。似非(えせ)聖者。法華経勧持品第十三には、仏滅後、法華経を弘通する時、正法の行者を迫害する三種の人格を説いている。僭は下の者が分をこえて上になぞらい(おご)ることをいう。聖は智徳が万人にすぐれている意。ゆえにこの第三類は、通常は聖人のように振る舞っているが、内面は邪見が強く常に貪欲に執着している者をいう。

「御義口伝に云はく、第三の比丘なり、良観等なり、(にょ)六通(ろくつう)羅漢(らかん)の人と思ふなり」    『勧持品十三箇の大事  第九 或有阿練若の事

崋山と妙高

 崋山は中国の名山である秦嶺山脈の支脈である終南山脈の峰(二二○○㍍)。諸経・周礼などにも名がみえ、古来から西岳と呼ばれ、五岳の一つに数えられている。

 妙高とは須弥山のこと。妙高・安明ともいう。古代インドの世界観で世界の中心にあるとされる山。

 而強毒之

 「(しか)して()いて(これ)を毒す」と読む。正法を信じない衆生に強いて説き、仏縁を結ばせること。折伏化導と同義。法華文句巻十上に「()(すで)に善有るには釈迦小を以て之を(しょう)()し、()(いま)だ善有らざれば、不軽(ふきょう)は大を(もつ)て而して強いて之を毒す」とある。煩悩多き衆生は福徳が薄いため、自ら妙法を求めることをしない。ゆえに()えて三毒の心を起こさせて(どっ)()の縁を結ばせ、妙法を受持し仏道を成じさせることをいう。

「御義口伝に云はく、聞とは名字即なり、所詮は而強毒之の題目なり、皆とは上慢の四衆等なり、信とは無疑曰(むぎわっ)(しん)明了なるなり、伏とは法華に帰伏するなり、随とは心を法華経に移すなり、従とは身を此の経に移すなり。所詮(いま)日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る行者は末法の不軽菩薩なり。」 『常不軽品三十箇の大事 第十 聞其諸説 皆信伏随従の事』



by johsei1129 | 2017-03-19 19:51 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

20 北条時宗を諌暁

 このままでは(らち)が明かない。

 翌十月、日蓮は意を決し、弟子を使いとして一斉に関係各所に書状を届けた。相手は北条時宗を筆頭に幕府要人および仏教寺院である。日蓮の鬼気迫る行動だった。

 伯耆房は日蓮の書状をもって宿屋入道の館に出向いた。だが、屈強な門番に止められた。

 伯耆房は取り次ぎの役人に告げた。

「日蓮上人の使い、伯耆房日興と申します。鎌倉殿あてに書状を持参いたしました」

 いっぽう日朗は書状をもって侍所にむかい、門前に立った。

 門番が日朗を制止した。日朗は屈しない。

「日蓮上人の弟子、日朗と申す者。平の左衛門尉様にこの書状をご持参いたした。御計らいのほどを」

 日昭は極楽寺にむかった。

「極楽寺良観殿に書状あり。日蓮上人の弟子、日昭がまいった」

 日持は建長寺に走った。

「建長寺道隆殿に書状あり。日蓮上人の弟子、日持がまいった」 

 日蓮の書状は合計十一箇所に及んだ。届けられた先は北条時宗、幕臣の平頼綱・宿屋入道・北条弥源太、寺院および僧侶の建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺である。

 日蓮は国主北条時宗の前で鎌倉の七ケ寺との対決を望んだ。建長寺をはじめとした七ケ寺こそ国をほろぼす元凶だからである。

 日蓮はこの七ケ寺の本質をつく。この時の心境を弘安元年九月六日、妙法比丘尼に送った消息で次のように記している。

而るに又()(あずま)にうつりて年を()るまゝに、彼の国主を失ひし真言宗等の人々鎌倉に下り、相州の足下にくゞり入りて、やうやうにた()かる故に、(もと)上臈(じょうろう)なればとてすか()されて鎌倉の諸堂の別当となせり。又念仏者をば善知識とたのみて大仏・長楽寺・極楽寺等とあが()め、禅宗をば寿福寺・建長寺等とあがめをく。隠岐法皇の果報の尽き給ひし(とが)より百千万億倍すぎたる大科鎌倉に出来(しゅったい)せり。妙法比丘尼御返事 

(訳文)五十年前、後鳥羽上皇が承久の変に敗れ、隠岐へ流されたあげく崩御したのも邪教のゆえである。この邪教の輩は東の鎌倉へうつり、北条にとりいって国を傾けている。今また蒙古を前にして、邪正を定めないまま国が滅びようとしている。相州すなわち時宗の前で悪比丘が根をはっている。これを退治することができるのは自分しかいない。

北条時宗は従者が日蓮からの書状を読みあげるのを聞いていた。横で安達泰盛がじっと時宗の表情をうかがっている。

 日蓮が送った十一通の中で、執権時宗にあてた書は極めて格調が高い。訴えながらも日本の国主への敬意にあふれている。対句を多用し、読む者をして歌うような(なめ)らかさでしたためている。その気品は時宗の父北条時頼に呈した立正安国論を思わせる。日蓮は子の時宗にも全く同じ心魂を費やした。この書状もまた時頼の時と同様、幕臣宿屋入道をつうじて提出された。

謹んで言上せしめ候。(そもそも)正月十八日西戌(せいじゅう)大蒙古国の牒状到来すと。日蓮先年諸経の要文を集め之を勘へたること立正安国論の如く少しも(たが)はず普合(ふごう)しぬ。日蓮は聖人の一分に当たれり。未萌(みぼう)を知るが故なり。

(しか)る間重ねて此の由を驚かし奉る。急ぎ建長寺、寿福寺、極楽寺、多宝寺、浄光明寺、大仏殿等の御帰依を止めたまへ。然らずんば重ねて又四方より()め来るべきなり。

(すみ)やかに蒙古の人を調(じょう)(ぶく)して我が国を安泰(あんたい)ならしめ給へ。彼を調伏せられん事、日蓮に非ざれば之(かな)うべからず。(かん)(しん)(くに)()れば則ち其の国正しく、争子(そうし)家に在れば則ち其の家直し。国土の安危は政道の直否に在り、仏法の邪正は経文の明鏡()る。

(それ)此の国は神国なり。神は非礼を()けたまわず。天神七代・地神五代の神々、其の外諸天善神等は、皆一乗擁護(おうご)の神明なり。然も法華経を以て食と為し、正直を以て力と為す。法華経に云わく『諸仏救世者(くせしゃ)は大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現ず』と。一乗捨棄(しゃき)の国に(おい)ては(あに)善神怒りを成さざらんや。

仁王(にんのう)(きょう)に云わく『一切の聖人去る時七難必ず起こる』と。彼の()(おう)伍子胥(ごししょ)(注)が(ことば)を捨て吾が身を亡ぼし、(けつ)(ちゅう)(注)は(りゅう)()(注)を失ひて国位を(ほろ)ぼす。今日本国既に蒙古国に奪はれんとす。(あに)嘆かざらんや、豈驚かざらんや。

日蓮が申す事御用ひ無くんば、(さだ)めて後悔之有るべし。日蓮は法華経の御使ひなり。経に云わく『則ち如来の使ひ、如来の所遣(しょけん)として、如来の()を行ず』と。三世諸仏の事とは法華経なり。

この由方々へ之を驚かし奉る。一所に集めて御評議有りて御報に(あず)かるべく候。所詮は万祈(ばんき)(なげう)ちて諸宗を御前に召し合わせ、仏法の邪正を決し給へ。澗底(かんてい)長松(ちょうしょう)未だ(いま)知らざるは(りょう)(しょう)(あやま)()り(注)、闇中(あんちゅう)(きん)()を未だ見ざるは愚人の(とが)り(注)()。三国仏法の分別に於ては殿前(でんぜん)在り、()所謂(いわゆる)阿闍(あじゃ)()・陳・隋・桓武是なり。()へて日蓮が私曲(しきょく)(あら)ず。(ただ)(ひとえ)に大忠を(いだ)く故に、身の為に之を申さず。神の為、君の為、国の為、一切衆生の為に言上(げんじょう)せしむる所なり。恐々謹言。                    

 文永五年十月十一日           日蓮花押

 謹上 宿屋入道殿                 『北条時宗への御状

 泰盛が怒りだした。

「なんという無礼で傲慢(ごうまん)書状だ」

 時宗は瞑目したまま黙考をしていた。


                       21  僭聖増上慢、極楽寺良観への書状 につづく
上巻目次


 呉王・伍子胥 

 呉王。

 中国・春秋時代の呉の王。(在位紀元前四九六~四七三)。父王闔閭(こうりょ)は越王(こう)(せん)との戦いに敗れ、太子・夫差(ふさ)に復讐を遺言して死ぬ。王位に就いた夫差は二年後に越を会稽で破った。呉の名臣伍子胥(ごししょ)は、越が後日、力を回復するのを恐れ、勾践を殺そうとするが、夫差は和を請う勾践を許した。勾践は(きも)()めて復讐を誓い、兵力の回復に努め、呉に攻め入り、ついに勝利を収めた。夫差は敗走して和を請うたが、勾践は許さなかったため、伍子胥の諫言を用いなかったことを悔やんで自害し呉は滅亡した。

 伍子胥

?~紀元前四八五年。中国・春秋時代、呉王に仕えた重臣。父の伍奢(ごしゃ)は楚の平王に仕えたが、平王二年(紀元前五ニ七)内紛のために兄の()(しょう)と共に殺された。そのため彼は楚を去って敵国の呉王闔閭(こうりょ)に仕え、孫武と共に楚を破り、平王の墓をあばいて、その(しかばね)に鞭をうって復讐をとげた。その後、闔閭の子・夫差に仕え、夫差が大いに(えつ)軍を破った時、越の後難を危惧した彼の再三の進言が聞き入れられず、逆に自害させられた。その時「わが目をくりぬいて呉の東門にかけておけ、やがて越が呉を滅ぼす様をみよう」といって死んだという。彼の予言どおりに呉は滅ぼされた。

 桀・紂

 中国古代の王。()の桀王、殷の紂王のこと。

 夏の桀王は中国古代、夏王朝最後の王。名を()()という。史記によると、不道徳で酒池肉林(しゅちにく りん)をきわめ、暴虐で人民を苦しめた。忠臣(りゅう)(ほう)(いさ)めたが用いず頭をはねたほどの暴悪ぶりだった。のち(いん)(とう)王に滅ぼされた。殷王朝最後の(ちゅう)王とともに悪王の代表とされている。

 殷の紂王は紀元前十一世紀頃、中国・殷王朝最後の王.名は(じゅ)、死後、(しん)と称された。悪王の名が高く、臣下の言に耳をかさず農民を重税で苦しめ、周の武王に滅ぼされて殷王朝は崩壊した。のち、()(けつ)王とともに、桀紂と称され、悪王の(たとえ)に用いられるようになった。

 竜・比

 竜蓬と比干のこと。共に中国古代の忠臣。竜蓬は夏の桀王に、比干は殷の紂王に仕えたが、ともに主君の暴虐を諫めて容れられず殺された。殷も夏も忠言を聞かなかったため滅亡したといわれる。

 

 澗底(かんてい)長松(ちょうしょう)未だ知らざるは(りょう)(しょう)の誤り

 澗底とは谷川のこと。または谷の深い所。優れた(たくみ)が険しい谷で誰も知られずに茂る立派な松を知らないのは、良匠の名に恥じること。転じて優れた人材を草の根を分けても探し出すことの必要性をいう。

 闇中(あんちゅう)(きん)()を未だ見ざるは愚人の(とが)なり

 錦衣を着た人がいても、闇の中では見ることができないこと。愚人は天下に賢人、聖人のいるのがわからないことのたとえ。



by johsei1129 | 2017-03-19 18:57 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

19 日蓮、国家諌暁を決断

  

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                                (モンゴル型鉄製兜 賀名生の森歴史民俗資料館蔵)


 こうしたただならぬ政治状況に、庶民の間でも蒙古来襲の噂がひろまった。この事は日蓮以外、
日本国のだれもが予期しないことだった。
 日蓮は九年前、立正安国論で他国の侵略を予言していた。人々は日蓮の不吉な警告を無視して中傷まで浴びせたが、蒙古の国書到来によって眠りから覚まされた。

 日蓮は釈尊の一切経を読み、経文のとおりに未来を予言した。邪法をそのままにすれば、未だ惹起(じゃっき)しない二つの難がおきる。自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)難、他国侵逼(しんぴつ)難である。

当時朝鮮半島を支配していた高麗は一国をあげて念仏を信奉したために亡国となった。まつりごとの善悪ではない、森羅万象を極めた仏法の正邪によって国の存亡が決まる。

予言はまず他国侵逼の形であらわれた。仏法が正しければ、蒙古の攻めは現実となる。とすれば残るもう一つの難「自界叛逆」が起こるのも必定だった。

日蓮がこの牒状を知ったのは、鎌倉に国書が届いた三ケ月後だった。日蓮はこの年、四十七歳になっていた。文応元年、三十九歳の時、北条時頼に『立正安国論』を献じ九年を経て、今度は時頼の息子時宗に予言的中を告げる蒙古からの国書が届いた。

日蓮の感慨はふかい。

文永六年十二月八日、自ら書写した立正安国論にこの時の思いを奥書として追記している。

文応元年之を(かんが)ふ。

去ぬる正嘉(しょうか)元年八月廿三日戌亥(いぬい)の剋の大地震を見て之を(かんが)ふ。

其の後文応元年七月十六日を以て、宿谷(やどや)禅門に付して故最明寺入道殿(たてまつ)れり。その後文永元年七月五日大明星の時弥々(いよいよ)此の災の根源を知る。文応元年より文永五年(のちの)正月十八日に至るまで九箇年を経て、西方大蒙古国より我が朝(おそ)ふべきの由牒状(ちょうじょう)之を渡す。又同六年重ねて牒状之を渡す。既に勘文之に叶ふ。之に準じて之を思に未来(また)(しか)るべきか。此の書(しるし)有る文なり(ひとえ)に日蓮の力に非ず、法華経の真文感応(かんのう)の致す所か。  立正安国論奥書

「未来も亦然るべきか」に日蓮の思いがつたわる。未来の日本の国主が邪法を奉れば、国難は避けられない、と予言している。法華経どころか仏教の上に靖国神社を位置づけて崇拝した日本は、太平洋戦争で史上初めて外国に国土を占領された。その靖国神社を今も崇めている現政権は、中国、北朝鮮に日本の領海を脅かされ続けている。


日蓮は決意した。いよいよ立ちあがる時だ。

他国侵逼という国難を乗りきる方法を知るのは、日本国に自分をおいてほかにはいない。
 蒙古襲来は、鎌倉幕府が邪宗を国家鎮護の宗教として据え、かつ多額の布施を邪宗派に施していることが根本原因だ。蒙古から国書が届いた今こそ、執権北条時宗に法華経信仰と邪宗への布施を止めるよう再度の国家諌暁をすべき千載一遇の機会なのだ。

そして邪法を退治するには、国主の前で各宗の僧をあつめ、正邪を決める『公場対決』をする以外に方法はない。
 天台大師も伝教大師も、この対決による決着で法華経を広宣流布し、天下の泰平を開いている。天台大師は法華玄義巻九で「法華折伏・破権門理(法華は折伏にて、権門の理を破す)」と説いた。日蓮もまたこの方程式を踏襲しようとしていた。
 日蓮は自身の著作(御書)で『公場対決』について次のように度々言及している。
 

()出世(しゅっせ)の邪正を決断せんこと必ず公場なる可きなり。『強仁状御返事


論談を致さゞれば才の長短を表はさず、(けっ)(ちゃく)に交はらざれば智の賢愚を測らず  念仏者追放宣旨御教書事 山門申状

 

ことの邪正是非は一対一の対論で決まる。これを衆目の中で行えば、その差がいっそうきわ立ち、見る者聞く者に利益となる。近代の議会制度の精神はこれを体現している。つまり日蓮の考えは、十二世紀の鎌倉時代に民主主義を志向していたことになる。力による決着は永続しない。よりすぐれた人間の智慧の論争が、よりすぐれた結論を引きだす事は自明の理である。

日蓮は釈尊が「唯仏(ゆいぶつ)与仏(よぶつ) 乃能(ないのう)究盡(くじん) 諸法実相()()()()()()()()唯仏と仏のみ、すなわち森羅万象の法を能く極め(つく):妙法蓮華経方便品第二)」と説いた法華経をもって諸宗にいどもうとした。

まず四月、幕府に影響力をもつ法鑒(ほうがん)という僧に手紙をしたため善処をうながした。

日蓮正嘉の大地震、同じく大風、同じく飢饉、正元元年の大疫等を見て記して云はく、他国より此の国を破るべき先相なり。自讃に似たりと雖も、若し此の国土を()()せば復仏法の破滅疑ひ無き者なり。而るに当世高僧は謗法の者同意の者なり復自宗玄底(げんてい)を知らざる者なり。定めて勅宣(ちょくせん)御教書(みぎようしょ)を給ひて此の凶悪祈請(きしょう)するか。(いよいよ)瞋恚(しんに)()し、国土を破壊(はえ)せん(うたがい)無き者なり。

日蓮(また)之を退治するの方之を知る。叡山を除きて日本国には但一人なり(たと)へば日月の二つ無きが如く、聖人肩を並べざるが故なり()し此の妄言(もうげん)ならば、日蓮(たも)つ所の法華経守護の(じゅう)羅刹(らせつ)冶罰之(じばつこれ)(こうむ)らん(ただ)(ひとえ)に国(ため)(ほう)の為人の為にして身の為に之を申さず。

(また)門に対面()故に之を告ぐ、之を用ひざれば定めて後悔有るべし。恐々謹言。

文永五年太歳戊辰四月五日   日蓮花押

法艦御房

 しかしいっこうに音沙汰はない。幕府はなにをしているのであろう。危機は迫っている。

四ケ月後の八月二十一日、日蓮はかつて立正安国論をとりついだ幕臣、宿屋入道光則に同様の書をおくった。しかし光則より返事が来ない。日蓮は蒙古の牒状いらい、さかんに幕臣へ書を送り意見を具申した。光則もその一人だった。だがこれも返事がない。冒頭にそのいきどおりをしるす。

其の(のち)は書・絶えてさず、不審極まり(そもそも)去ぬる正嘉八月二十三日戌亥(いぬいの)刻の大地震、日蓮諸経を引いて之(かんが)へたるに、念宗と禅宗とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神瞋恚(しんに)()して起こす所の災ひなり()し此を退治無くんば、他国の為に此の国を破らるべきの由、勘文一通を撰し、正元庚申七月十六日御辺(ごへん)に付け奉りて故最明寺入道殿へ之を進覧すの後九年を経て今年大蒙古国の牒状之有るよし)風聞(ふうぶん)云云文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり。而るに日本国中、日蓮一人彼西戎(せいじゆう)調(じよう)(ぶく)するの人たる可しと()ねて之を知り、文に之を勘ふ。

君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏(ないそう)()らるべきか。委細(いさい)見参(げんざん)を遂げて申すべく候。恐々謹言。

文永五年八月二十一日       日蓮花押

宿屋左衛門入道殿

だが期待とは裏腹に、宿屋はいっこうに日蓮に会おうとはしない。なしのつぶてである。なんということであろう。仏法に盲目であるばかりか、国難にも無神経なのか。

一月後の九月、日蓮は再度、より強い調子で宿屋に書状を送った。官僚として主君に取りつぎせずに放置すれば、事によっては主君に罰せられると。

宿屋にとって耳が痛かったにちがいない。


去ぬる八月の(ころ)()(さつ)を進ぜしむるの後、今月に至るも是非に付け返報(たま)はらず、(うつ)(ねん)散じ難(さん がた)し。怱々(そうそう)の故に亡せしむるか。軽略せらるゝの故に此の一行(おし)むか。本文に云はく「師子(しし)少兎(しょうと)(あなど)らず大象(おそ)れず」云云。若し又万一他国の兵この国を襲ふ出来(しゅったい)せば、知りて奏せざる(とが)(ひとえ)()(へん)(かか)るべし。仏法を学ぶの法は身命を捨て国恩を報ぜんが為なり。全く自身の為に非ず。本文に云はく「雨を見て竜を知り(はちす)を見て池を知る」等云云災難急を見る故に度々(たびたび)之を驚かす。用ひざる而も(しか)之を(いさ)強・・   宿屋入道再御状

現存する書はここで途切れる。日蓮のいきどおりが素直にあらわれている。

 幕府中枢の反応はその後もまったくなかった。日蓮の訴えは執権の耳にとどいていないこれは時宗から「相手にするな」と捨て置かれたか幕府重臣の手で闇に葬られていたかのいずれかであったことは明らかだった。




       20 北条時宗を諌暁 につづく
上巻目次


by johsei1129 | 2017-03-19 18:17 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

18 他国侵逼難の的中 蒙古の国書到着

十七歳の時宗がひとり、父時頼の位牌に手をあわせ祈っていた。侍所の静かな一室である。

時頼は五年前に亡くなっていた。三十七歳の若さだった 。

その子時宗は文永五年(1268年)三月五日、若干十八歳で第八代執権となった。父時頼は二十歳で第五代執権となったが、時宗はさらに二歳早く執権職に就任したことになる。
 時宗は北条家の総領、ひいては日本の支配者として君臨しなければならない。彼はここから逃げるわけにはいかなかった。この運命とも宿命ともいうべき試練に耐えていかねばならない。

時宗はだれもいない部屋で、せつない思いを誰はばかるところなくみせた。

「父上、なにとぞわが北条をお守りください。日本は今までは父上のおかげで安泰でありました。さりながら武士の世の習い、戦乱は必ずやってくるでありましょう。わが一族の中にさえ、反逆をたくらむ者がおります。まして御家人においてはなおさらのこと。主従はもとより父母・兄弟・夫婦にいたるまで争う世です。これを避けるためには、父上のお力にすがるしかありませぬ」

平頼綱が戸の向こうでかしずいていた。

「殿、時刻にございます」

時宗がふりかえった。

ここで彼は弱さを吹きとばして剛毅な顔にかえた。

 

は口元を引き締め、広間に通じる長い廊下を一直線にすすむ。頼綱があわてて後に従った。

広間では武士がぎっしりと整列していた。みな鎧甲を身にまとい、この日の晴れ舞台にふさわしい最高の出で立ちで時宗を待っていた。

上座には腹違いの兄時輔がすでに坐っている。

下座には御家人の代表格がすわり、その背後に配下の武士がひかえる。

彼らの思いは一つではない。北条に心服随従する御家人もいれば、北条一門でも傍系の兄時輔と同じく現状に憤懣やるかたない者もいた。

またここに日蓮門下の信徒もいた。北条の分家、北条(名越)光時には四条金吾。また千葉下総介には富木常忍。また評定所の高官、太田乗明もひかえた。

さらに広間につづく広大な庭には雑人や薙刀持ちなど、所従の部隊が所せましとひかえている。

時宗が登場した。

部隊から歓声があがった。

御家人がいっせいに起立して頭をさげた。しかし兄の時輔だけは起立せず、傲然としたままである。

時宗が床几に座り、おくれて平頼綱がそばに立つ。

最有力の御家人、安達泰盛が立ち上がり、時宗の一歩前に進み出た。

「これより相模(さがみ)(かみ)、北条時宗様の執権就任の儀を行う。みなのもの静粛に」

小声で泰盛を侮蔑する者がいる。

(時宗様の義理の兄であるだけで大きな顔をしおって)

この発言が耳に届かない泰盛は新しい執権時宗を盛り立てる大演説をつづけた。

「亡き時頼様のあとをうけ、このたび幼きより武運の誉れ高い時宗殿が執権に就任した。おのおのがた、この若き鎌倉の頭領をもりたてるのだ」

武士団がいっせいに応じた。

「おなじくご子息であらせられる時輔殿は、京都六波羅にご着任される」

一同がどよめいた。

この時、当の時輔が立ちあがった。
「なぜわしが京都にいって公家の機嫌を取らねばならぬ。わしこそが鎌倉の頭領のはずだ。兄のわしがなぜ執権とならんのだ」

泰盛が困った顔でなだめる。

「時輔様、なんども申しあげたとおり、第三代執権、時頼様の遺言でござる」

時輔の興奮はさめない。

「ええい、聞きとうないわ」

時輔がざわめく武士団の中央を通りすぎ去っていった。時宗の執権就任にあからさまに反旗を翻す態度であった。

場内がざわついた。予想外の展開である。一枚岩と思われた北条の思わぬほころびに笑みを浮かべる御家人もいた

泰盛が半ばあきれ顔で時宗のそばに控えた。

つぎに平頼綱がせきばらいをして立ち、武士団の前にでた。

「拙者、時宗様の執事をつとめる平頼綱、人呼んで(へい)の左衛門尉と申す」

御家人の一人がもらした。

「ふん、北条の番犬めが」

頼綱が番犬といった武士をにらんだ。

「執事とは時宗様の家事をとりしきり、場合によっては身を盾にしてお守り申しあげる者。このなかには今日の晴れ舞台を快く思わぬ者がいるとは思えないが、例えいたとしてもそれはそれでよい。この頼綱、そのような者どもが仮に盾つくことあれば、草の根をわけても首かき斬ってくれよう」

頼綱が座を見わたす。

「おのおの、そのつもりでいられよ」

ここで名越光時が我慢できずに声をはりあげた。

「左衛門尉、場所をわきまえぬか。執事の分際で口がすぎるぞ」

名越光時は北条の分家筆頭である。ここで一言いわなければ一門に対して示しがつかない。

みなざわめきだした。
 しかし時宗が扇子をさっと頭上にあげると、座がいっせいに静まった。このあたり若干十八歳とはとても思えない。
時宗は執権就任という一大事に、父時頼の背中を見て育った賜物ともいえる振舞を見せつけた。

時宗が檄を飛ばす。彼の口調はいたずらに絶叫するわけではないが、頭領にふさわしく力強い。

「われわれ武士は世の乱れから誕生した。公家が政治を壟断(ろうだん)し、民の苦しみを見すごした。このためわれら武家が世を治めることとなった。源頼朝様いらい、その精神はかわっていない。たまたま北条がこの天下の政事をうけもったが、このわしもおぬしら武士の身分を安堵するであろう。この二十年、いくさはなく平穏ながら、こまかな争いは絶えない。多くの武士に少ない土地。水少なければ魚さわぎ、木ひくければ鳥がざわめく。おのおの不満はあろう。だがこれからも武断の世はつづく。頼朝様の精神をつぐ者は誇りをもて。この幕府に刃向かう者あれば八幡大菩薩になりかわり、撃退するまで」

時宗の檄に答え、武士団が雄叫びをあげてこたえる。雑兵も持っている薙刀を天に届けとばかり高く突き出した。

鎌倉に(とき)の声がいくどもこだました。

実はこの年の正月、鎌倉のはるか西、九州博多湾で大事件がおきていた。

中国大陸から蒙古の大船が来航したのである。

船にはいかめしい蒙古の武将につづいて高麗の役人が乗っていた。物々しい出で立ちだった。

博多湾は朝鮮半島をひかえ、南宋との貿易もあって多数の商船が行きかっていた。高麗や中国の船がまざり、にぎやかな湾にひときわ大きな蒙古船が到着した。

民百姓は集まり、船からおりる一行を見てささやきあった。

蒙古の使者は上陸して太宰府へむかった。

広々とした太宰府の建物に蒙古の一行が入っていく。

かれらは床にしつらえた椅子にすわり、ひ弱な日本の役人と対面した。

蒙古人がおもむろに言上した。

「われらは大蒙古国、フビライ皇帝の使者としてまいった。日本国王に告げる」

一行が書を読みあげた。

上天(けん)(めい)、大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る、(ちん)(おも)ふに(いにしえ)より小国の君は、境土相接すれば(なお)(こう)(しん)(しゅう)(ぼく)(つと)む、(いわん)んや我が祖宗は天の明命を受けて()()(えん)(ゆう)す、遐方(かほう)異域()(おそ)(とく)(おも)ふ者(ことごと)く数ふべからず、朕即位の(はじめ)、高麗の無辜(むこ)の民、久しく(ほう)(てき)(つか)るを以って即ち(へい)()めしめ、其の彊域(きょういき)(かえ)し其の旄倪(ぼうげい)()へす、高麗の君臣感戴(かんたい)して来朝す、義は君臣と(いえど)も而して歓は父子の若し、王の君臣を計るに亦已に之を知る、高麗は朕の東藩なり、日本は高麗に密邇(みつじ)し開国以来、亦時に中国に通ず、朕の()に至っ一乗(いちじょう)使(つかい)の以て和好を通ずるなし、尚恐る、王国之を知ること末だ(つまびら)かならざることを、故に特に使を遣はして書を持して朕が志を布告す、(こいねがわ)くは自今以往、間を通じ好を結び、以て相親睦せん、且つ聖人は四海を以て家となす、相通好せざる、(あに)一家の理ならんや、兵を用ひるに至っては、()(いず)れが好む所ならん、王其れ之を図れ、不宣
(


ふせん
)


  大意は以下のとおりである。

天の慈しみを受けて最高の位についた大蒙古国の皇帝が、書を日本の国王に送る。
 朕思うに、昔から小国の王は国境が接する国とは修好につとめるものである。ましてや、朕の先祖は、天の命によって世界を支配している。遠方の異国でも朕の威力を畏れ、徳を慕うものは数え切れない。
 朕が即位したばかりのころ、高麗の民が戦乱に疲れていたので戦争をやめて講和し、老人子供を故郷に帰らせた。高麗は感謝して朝貢に来た。朕と高麗とは君と臣の関係だが、喜びあうことは父子のような間柄である。
 貴国や貴国の重臣、その家臣たちも、この事は知っていよう。高麗は朕の東方の属国である。
 日本は高麗に接した国で建国以来、しばしば中国に朝貢に来た。ところが朕の代になってからは、ただの一度も来ていない。なぜか。おそらく貴国は世界の情勢を知らないのであろう。

したがって使いを派遣し、国書を持たせて朕の意思を知らせる。いまから親交を結ぼうではないか。聖人は世界を一家と考える。親交を結ばないのは一家とはいえない。
 日本がこのことを理解できないとき、武力を用いることになるが、それは皇帝の望むところではない。日本の国王よ、よく理解せよ。


日本側の役人が驚愕した。「至用兵夫孰所好」とある。明らかな恫喝である。

上天(けん)(めい)とは蒙古の文章に使われている決まり文句である。意味は「長生なる天の力において」という。蒙古は自分たちが天の力によって世を支配していると考えていた。日本も天の定めに従い、蒙古に仕えよという。

当時、ユーラシア大陸の情勢は日本でも知られていた。チンギスハンから始まる子孫が大陸を席巻(せっけん)して大帝国を築いたことも、隣の高麗が奮戦むなしく敗れて属国となったことも周知だった。世祖フビライが中国に侵入し、宋帝国を破って漢民族を南に追いつめていることも。

鎌倉は南宋の船がゆきかう。情報の伝達は早い。蒙古兵の強さも知っていた。日本人は当初、蒙古の災禍は必ず日本におよぶと予想していた。海をはさむとはいえ、大陸とは目と鼻の先である。身の危険を感じないではいられない。根底に不安感があった。

しかし蒙古の台頭は、しょせん対岸の火事だった。人間は不安がつのると始めは忘れないように緊張をたもつが、時がたつにつれ不安の元から回避するようになる。緊張感が無意識に麻痺(まひ)してしまう。「蒙古は来るかもしれない」から「来ないだろう」という世情にかわっていった。

第二次世界大戦の時、アメリカは日本軍部の暗号を解読し、日本が米国との戦争に踏み切ることはわかっていた。しかしまさかはるか海を隔てたハワイを攻撃するとは予想だにしなかった。

また現代でもアメリカはタリバンが米国内でテロを引き起こすことを十二分に予想し対策を講じていたが、民間航空機をハイジャックしてニューヨークの世界貿易センタービル、ペンタゴン等に激突させるとは想像さえしていなかった。

日蓮は「立正安国論」で、ただ一人他国侵逼を予言したが、だれも信じなかった。信じないどころか鎌倉幕府は伊豆流罪に処した。

そこに国書が到来した。

寝耳に水である。国中に来るべきものが来たという不安が一気に蔓延した。


夜の鎌倉は寝静まっていたが、幕府侍所だけは丑三つ時になっても松明が消えることはなかった。衛兵が微動だにせず立ち続けている

館の執権の部屋にいくつか置かれた秉燭(ひょうそく)(注)の灯芯が明るく灯っていた。まわりに幕府の中枢が集まる。執権時宗、評定衆の安達泰盛、執事の平頼綱、御内人(みうちびと)(注)の宿屋入道らである

時宗の前にはフビライの書状がおかれている。蒙古の国書は文永五年の一月十八日、鎌倉に到着した。

「ただならぬ書状がきた。そこでみなの意見を聞こう。忌憚(きたん)なくのべよ」

時宗は会議の冒頭にこう述べた後、目をとじ腕を組み、じっと黙考している。

 安達泰盛がきりだす。

「まことに青天の霹靂(へきれき)でござる。わが日本と通商をせよと。さもなくば攻撃するとのこと。ゆゆしき事態でござる。このうえは蒙古の要求どおり通商するのがよいかと思われます。いまのわれらに防衛の準備は整っておりませぬ」

 いつもは傲岸な平頼綱だが、国難ともいえる事態に慎重だった。

「敵は蒙古。チンギスハンの流れをくむ騎馬軍団と聞いております。海際ではおさえることができても、陸上となればほぼ互角。日本の国土が戦乱にまみえるのは目に見えておる。となりの高麗は二十年の戦いで敗れ去った。降伏のしるしに皇太子を人質にとられ、国土には骸骨があふれているとか」

御内人(みうちびと)の宿屋光則がつづいた。彼は九年前、日蓮の立正安国論を時宗の父時頼に取りついだ人物である。時頼が病床に伏したとき、そばに侍っていた数少ない幕府要人の一人でもあった。

「この国書はただの挨拶と思われます。太宰府に来ている使者も好意的とのこと。蒙古と国交をひらき、貿易の利益を幕府にもたらすことが肝要かと」

 三人が時宗を見た。

 時宗はしばらくの沈黙のあと、目をむいて怒りだした。

「おぬしら臆したか。この国書は無礼千万である。わが日本が蒙古の属国となっていかがする。脅しに屈して、どこにわれらの安泰がある。断じて無視せよ。でなければ一戦あるのみ」

 国書は主である時宗にとって、挑戦状をたたきつけられたにもひとしい。激怒するのは当然である。

 泰盛が時宗の気迫にたじろいだ。

 頼綱がいよいよ俺の出番かといわんばかりに不敵にほほえむ。

 宿屋光則は(これで日蓮上人の予言が的中することは必定)と思わざる得なかった。

 安達泰盛は執権の腹が決まった以上止む無しとばかり渋々配下に指示した。

まず指揮官を九州に送れ。全国の神社仏閣に蒙古退治の祈祷をさせよ」

 頼綱も、抜け目なく即座に配下に伝達した

「日本国の意思を統一しなければならぬ。幕府の方針にさからう者は厳罰に処する。いまこそ北条が日本国の主として全国を指揮するのだ」

 宿屋入道も他の身内人及び所従に指示を出した

「使者は丁重に扱え。高麗に偵察隊を潜入させよ。蒙古の動静をつぶさに報告せよ」

 ちなみに幕府は翌月の二月七日に京の朝廷にこの件を奏したが、天皇に当事者能力はない。すべては時宗ひきいる鎌倉幕府にゆだねられた。

 皮肉なことだった。

 北条氏は他氏排斥を企て、有力御家人の三浦氏や和田氏を滅ぼし、国内に敵はいなくなっていた。独裁体制を築くために、満を侍して青年時宗が登場したが、そこに立ちはだかったのが蒙古だった。蒙古民族のすさまじい勢いは、武士ならばだれもが知っている。今後、蒙古の対応をめぐって論議がおこるのは明らかである。

 朝廷は承久の変いらい、鳴りをひそめているが水面下で幕府を批判してくるだろう。幕府内でも黙っていない者がでてくる。一番の危険人物は時宗の腹違いの兄、北条時輔であり彼を支える御家人である。その中でもとりわけ勢力をもつのが北条の分家、名越一族だった。


 侍所が九州に向かう軍馬で混雑した。

 御家人と所従が整然と列をなし、門をでる。

 八幡宮では武将が手をあわせて祈った。兵士もいっせいに手をあわせた。

 彼らの妻子眷属も涙ながらに祈った。

 四月、幕府は全国の社寺に蒙古調伏の祈祷を命じた。朝廷も七月十七日に異国降伏を祈願している。こうして日本はいっせいに危機の中にいる実感をいだいたのである。

 このふってわいたような不安は、時代こそちがうが、七百年後に大国アメリカに宣戦布告し、太平洋戦争に突入した世情と同じだったかもしれない。

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        宗性筆『蒙古國牒状』「調伏異朝怨敵抄」所収 東大寺尊勝院所蔵

    

             19 日蓮、国家諌暁を決断 につづく
上巻目次



評定衆

幕府の最高政務機関。行政・司法・立法のすべてを司っていた。


執事

御内人の筆頭格。


御内人

執権北条氏の家督・得宗に仕えた、武士、被官、従者。


秉燭(ひょうそく)

室内の灯火器具。菜種油等を入れる油皿と、その中央に油を吸い上げる灯心を置く。



by johsei1129 | 2017-03-19 17:44 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

17 小松原の法難 日蓮、額に傷を負う

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                  (日蓮大聖人御一代記より)
                        
 時はめぐり文永の世となった。日蓮は四十三歳になり、あの立宗宣言から十年がすぎていた
 七月五日の夏の夜だった。
鎌倉は寝静まっていたが、夜空に人の頭ほどもある巨大な彗星が出現した。
世の人はこれを文永の大彗星(注)といった。現代とちがい、人々は天変の兆しとして恐れた。
 その光の尾が真っ暗な夜空いっぱいにのびている。深黒の闇に貼りついたようだった。
 人々が指さした。
 一様に不安な顔、おびえきった顔で彗星を見あげた。
 日蓮も夜空をにらんだ。
 まちがいなく凶変の前兆だった。四百年前、比叡山延暦寺に大乗経の戒壇を建立した伝教大師最澄はいう。

 弥天( みてん)の七難は大乗経に非ずんば何を以てか除くことを()ん、未然の大災は菩薩僧に非ずんば豈冥滅(あにみょうめつ)することを得んや。  『下山御消息

 大乗経の最要である法華経は弘まってはいるが一国の規模ではない。立正安国論で一凶と断じた念仏宗も根絶されてはいなかった。日蓮はただ一人、自界叛逆、他国侵逼の二難がおこることを訴えたが、幕府は流罪で答えた。
許されはしたものの依然、だれも聞く耳をもたない。かえって笑うばかりだった。鎌倉でも極楽寺良観を筆頭に嘲笑した。良観は幕府の庇護をうけている。幕府から迫害を受け、人びとを惹きつける豪勢な寺院も持たない日蓮とは、よって立つ基盤がちがっていた。それにもかかわらず双方の信徒の争奪は激しかった。このため危機を感じた良観は高座で口をきわめて日蓮を嘲弄(ちょうろう)した。
 日蓮はこの前兆を憂いた。

文永元年甲子七月五日、彗星東方に出でて余光大体一国土に及ぶ。(これ)又世始まりてより已来(いらい)無き所の(きょう)(ずい)なり。内外典(ないげてん)の学者も其の凶瑞の根源を知らず。余(いよいよ)悲歎を増長す。『安国論御勘由来()()

 執権の館でも時宗、安達泰盛、平頼綱が夜空を飛来する彗星を見つめていた。
 若干十三歳の時宗がまんじりともせず夜空を凝視する。
 泰盛がつぶやいた。
「これほどの彗星はいまだかつてなかったこと。不吉じゃのう」
 時宗が独りごとのようにいった。
陰陽師(おんみょうじ)に占わせよ」

同じころ、日蓮の故郷・安房小湊では、生母梅菊女あらため妙蓮尼が床に伏せていた。
 重い病だった。父の三国太夫は六年前、すでに亡くなっている。
 近所の村人がかけつけ、妙蓮を必死で看病していた。古参信徒の大尼もつきそっていた。兄弟子の浄顕房、義浄房も妙蓮の病変を聞いてかけつけた。
 妙蓮がうなされている。
「日蓮、日蓮・・」
 村人は妙連の病状は死を待つばかりとなり悲嘆に暮れていた。
 妙蓮の介護でそばにいた大尼は日蓮の帰郷を待ちわびていた
「日蓮殿には危篤と知らせておきましたが。はたして間に合うかどうか」
 その時入口がざわめき、戸がひらいて旅姿の日蓮があらわれた。帰郷は清澄寺での立宗宣言以来十二年ぶりである。連れの弟子、鏡忍房、伯耆房、日朗があとにつづいた。
 大尼が思わず立ちあがって日蓮を迎えた。
「よく帰ってこられました」
 日蓮は母が危篤と聞き、とるものもとりあえず鎌倉を旅立った。ここは地頭の東条景信が目を光らせている。危険を覚悟の里帰りだった。
 日蓮は妙連の枕元で看病していた大尼に手をついた
「母の世話をたまわり、かたじけなく存じます。それで容態はいかがでしょう」
 大尼が首をふる。
「さきほどから、そなたの名をなんども呼んでおられました」
 大尼が日蓮と妙連の母子の対面がかなったったことで感極まり、袂で涙をぬぐった。
 日蓮が母妙蓮尼のかたわらに正座した。こうしていられるのは何年ぶりであろう。
 母はうわごとのようにつぶやいていた。
「日蓮、日蓮・・」
 やがて梅菊が目をひらいた。ぼんやりした視界に日蓮がうつる。母は信じられない顔だった。
「・・無事でしたか。流罪になったと聞きました。もう会えないと思っていました」
 日蓮がおだやかにいう。
「母上、もう罪人ではありませぬ。ご安心ください。重い病気と聞きました。私が祈りましょう。必ず治りますぞ」
 梅菊が日蓮の励ましの声を聞き、妙蓮尼の表情が一瞬でにこやかになった。
「わたしも南無妙法蓮華経と唱えているのですよ。おまえの噂はここにも聞こえてきます。不思議なことにお題目を唱えていると、おまえに会っているような気がするのです」

 日蓮は母の話を黙って聞き続け、時折笑顔でうなずいた。まるで「あなたが日蓮の事を心配して下さっていることは、全てわかっていますよ」とでもいいたけだった。

 日蓮の慈愛溢れる笑顔を見つめるていると、妙連
は急に生気を取りもどした。
「おまえのいうことは、母はどんなことでも信じますよ。日本中が敵になっても、母はおまえの味方ですよ。おまえをこのお腹に宿したときのことはよく覚えています。夢を見たのですよ。比叡山の頂に腰をかけて、富士の山からのぼる太陽を(いだ)いたとき、おまえを(はら)みました。驚いたことに、おまえの父も同じ夢を見たのです。そして生まれた夜も夢を見ました。富士山の頂に登って四方を見たのです。明らかなこと(たなごころ)を見るようでした」
 日蓮は心配した。
「母上、あまりお話ししてはよくありませぬ。さ、お休みを」
 妙蓮尼日蓮に言い足りないのか話をやめない。
「これが最後かもしれぬ。少しだけ一緒にお題目を唱えておくれ。強情なおまえでも、母のいうことは聞かねばなりませぬ」
 梅菊が身を起こし手をあわせた。
 日蓮は母に内在する仏界に向かい、静かに唱和する。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・」
母が妙法を(たも)っていてくださる。日蓮は悲しさとともに無上のよろこびを感じとった。この祈りと村人らの懸命の看病が功を奏し、梅菊は四年の寿命をのばすことになる。

日蓮はこのあと古巣の清澄寺を立ち寄り、道善房らと別れの挨拶をした。
弟子の鏡忍房や伯耆房が防御用の薙刀(なぎなた)をもつ。ひさびさの再会だったが、地頭の東条景信が目を光らせている。長居はできなかった。
 日蓮はかつての師、道善坊に頭をさげた。
「お世話になりました」
 日蓮は時間の許すかぎり道善房と話がしたかった。十二の歳から親がわりになってくれた人である。しかし道善房は法華経の信心に目ざめていない。生来の臆病が身につき、念仏を捨てきれないでいた。
「いやいや。元気な顔を見て安心した。わしも少しばかり話したいこともあったが。これからどこへ行かれる」
「安房天津の領主、工藤吉隆殿に招かれております。今日はそちらへ」
 工藤は安房の領主である。八年前、四条金吾とともに強信者になっていた。
 兄弟子だった浄顕房が不安を口にした。
「道中くれぐれも気をつけてくだされ。景信がつけ狙っているとのことだ。さきほど知らせが入りました」

 安房東条の地頭、景信は日蓮に対する積年の恨みをはたそうとしていた。
 日蓮が安房に来ている。日蓮の命運は景信の手中にあるのも同じだった。この時を逃しては千歳の恨みをのこす。領地争いで敗れた恨みは片時も忘れていない。日蓮は地頭の敵であり、念仏の敵である。生かしておくわけにはいかなかった。
 日蓮は出発まぎわ、道善房にほほえんだ。
「行く手に大難があるのは、もとより覚悟の上です」
 文永元年十一月十一日、日の一行安房天津の工藤吉隆の屋敷に向け出発した。
 小松原の街道に陽がかたむく。わきに大きな岩のある道がつづく。
 日蓮一行が左に山、右に太平洋の大海原を見て進む。
 鏡忍房らの弟子たち、そして荷物をもった下人が供をしていた。
 工藤吉隆の屋敷が近くなった。
 一行はなにごともなかったことに安堵しかけた。
 このとき、突如として彼らの背後から騎馬があらわれた。そのうしろには薙刀を構えた念仏者の群れがつづいた。
 地頭景信が叫んだ。
「今日が日蓮の最後である。打ちもらすな」
 念仏者がこたえる。
「あれぞ阿弥陀如来の敵、生きては帰さぬ」
 景信が刀を抜き、怒濤のごとく日蓮めがけて突撃した。怨恨を晴らすときがきたのだ。刃剣が夕日に反射して輝いた。
 その時、日蓮は鳴りひびく馬の蹄の音にふりむいたが、一瞬おそく景信の刃がふりかかった。日蓮はのけぞったが、額の右側を四寸を切られ、血がふきだした。四寸といえば十二センチ。かなりの出血だった。
 馬上の景信がしてやったりとばかり、勝ち誇る。
 弟子の鏡忍房・日朗・伯耆房が防戦するが、周囲をかこまれてしまった。
 ここで鏡忍房が大声で下人にどなった。
「工藤様の館はすぐそこだ。早く知らせよ」
 鏡忍房は太刀をがむしゃらに振り回し、景信一味の囲いを破る。そこを下人が抜けでて吉隆の屋敷に向かった。
 おたがいの刀が火花を上げ激しくぶつかる。景信側からは弓矢も飛んできた。
 日蓮も杖を使って応酬したが、勝負は見えていた。

下人があわてふためいて工藤吉隆邸にはいった。
 吉隆邸の居間は膳がならべられ、歓迎の準備の最中だった。吉隆は配下の者に食膳の指図をしていた。日蓮一行を迎える準備の最中だった。そこに下人が飛びこんで叫んだ
「この先で日蓮聖人が東条の軍勢に襲われています。直ぐに助太刀を」
 吉隆が怒気を発して号令をかける。
「いかん、みなの者、直ちに出陣じゃ。鎧をつける暇はない。刀を持って直ぐに馬に乗れ
日蓮と弟子たちは日ぐれの街道で必死に応戦していた。だが多勢に無勢である。全滅するのは時間の問題だった。
 騎馬の武士が日朗の肩を斬る。たまらず倒れた。
 日蓮も兵士が振りおろした棒で、したたかに左腕を打たれた。折れたようだ。額の出血は薄墨の衣を真っ赤に染めている。絶望的な状況だった。
 この時、工藤吉隆が到着し、単騎で東条の軍勢に突撃した。日蓮等を取り囲んだ囲みがとけた。
 馬上の吉隆が景信をなじる。
「東条景信、わが領内でなんたる振る舞い。僧侶を討つとは気でも狂ったか。鎌倉様に知られたら東条一族は断絶に処されるは必定であるぞ
 景信は一瞬怯んだが、気持ちは修羅の如くに高ぶっており居丈高に叫んだ。
「工藤吉隆、よくぞ来た。飛んで火にいる夏の虫、日蓮もろとも地獄におちろ」
 本来地頭は領主に従わねばならない。しかしいったん刃をまじえたら、その道理は通じなかった。地頭と領主ではない、勝った者が正義なのだ。
 吉隆の家来も加勢して戦場と化した。
 日蓮が左の腕をおさえ、囲みからはなれた。
 それを景信は見のがさない。刀剣を高くあげ、馬をかりたて突進した。
 景信がここぞとばかり日蓮の背中に刀をふりおろしたが、一瞬はやく鏡忍房が立ちふさがった。
 鏡忍房は袈裟がけに斬られ、勢いよくたおれた。
 日蓮が鏡忍房を抱きかかえる。
「鏡忍房、気をしっかりもて」
 鏡忍房は日蓮の目を見てほほえんだ。
「聖人、ご無事で」
 鏡忍房が片手で題目を唱えようとしたが、そのままくずれた。
 景信は鏡忍房の血を見て野獣の血がさわいだ。彼は笑いとともに気がふれたように絶叫した。
「あたら殺生をしたわ。日蓮、(とが)はおぬしにある。これが最後よ」
 日蓮はこれまでにない怒りを感じた。鏡忍房の薙刀を手にとり、馬上の景信をめがけ突いた。だが景信はたくみにかわす。
景信は立ち合いのすえに日蓮の薙刀の()を真っ二つに切りはらった。
 日蓮がこの衝撃で地面にたおれる。
 景信が勝ちほこった。
「日蓮、覚悟はよいか」
 景信が日蓮に直進する。
 素手になった日蓮は死を覚悟し、大音声で言いはなった。
「過去・現在の末法の法華経の行者を軽賤(きょうせん)する王臣・万民、始めは事なきやうにて(つい)()ろびざるは候わず」
 ここで不思議なことがおきた。
 景信が刀を振りおろそうとしたが、馬があばれだし、いうことをきかなくなった。制止しても止まらない。
 景信が懸命になだめる。
「どうした。気でも狂ったか」
 景信が日蓮を切ろうとするが、馬は後足を蹴ちらし、おりることもできなくなった。
 景信があせりだした。従う兵士も戦いどころではなくなった。
「どう、どう、どう」
 馬が急に前足を大きくあげた時、どうしたことか手綱が音をたててちぎれ、景信は大きくはね飛ばされた。そして路岩に仰向けに落ち、したたかに背中をうった。
 景信の断末魔の悲鳴がひびきわたる。
 景信の郎党はこの声を聞き、ひるんでしまった。かれらは景信の体をかかえて退却した。

 夕陽とともに敵が去っていく。
 味方が少しずつ集まってきた。みな疲労困憊の姿でいる。
 日蓮はすわりこんで鏡忍房を抱きしめたままだった。
 伯耆房と日朗らの弟子たちは鏡忍房にすがりついて泣いた。鏡忍房は若い弟子たちに慕われていた。寝食をともにした兄弟子が亡くなるとは。
 日蓮は周囲を見渡し、弟子信徒一人一人の安否を確認した
 ここに領主の工藤吉隆が血まみれとなって日蓮に歩みよった。
「上人、ご無事でしたか・・安堵いたしましたぞ。みなの者、よく上人を守った」
 吉隆がこういって倒れた。
 日蓮が皆に向かって叫んだ。
「早く吉隆殿に手当を」
 そこにこの事態を知った吉隆の父等一族五十騎が駆けつけ、日蓮一行を天津の工藤吉隆の館に避難させた。
 
 この大難はのちに小松原の法難とよばれた。大檀那の天津領主・工藤吉隆と弟子・鏡忍房が殉死している。日蓮も額に頭に傷をこうむり、左の腕を折られた。難にあうことは法華経の経文どおりであったが、あまりにも大きい代償であった。しかし日蓮は弟子・信徒を失った悲しみにいつまでも浸ってはいられなかった。
 一ケ月後、信徒の南条兵衛七郎にあてた手紙の中で、念仏者のはかないことをしるすとともに、法華経の行者として(とう)(じょう)()大難に遭遇したことの意味を、門下の弟子信徒に解き明かした。

 念仏実に往生すべき証文つよ()くば、此の十二年が間、念仏者無間地獄と申すをば、いかなると()ろへ申しいだしても()めずして候べきか.よくよくゆ()き事なり。(ほう)(ねん)善導(ぜんどう)等がかき()()きて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時より()りて候ひき。このごろの人の申すもこれにすぎず。結句(けっく)は法門かなわずして、()せてた()かいにし候なり。念仏者は数千万、かたうど多く候なり。日蓮は唯一人、かた()()ど一人これなし。いまゝでも()きて候はふか(不可)しぎ(思議)なり。今年も十一月十一日、安房(あわの)国東条の松原と申す(おおじ)にて、(さる)(とり)の時、数百人の念仏等に()ちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ(よう)()ふものわづ()かに三四人なり。いるや(射矢)ふる()あめ()のごとし、()たち(太刀)はい()づまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事の()にて候。自身も()られ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うち()()らされていまゝでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさりて候へ。第四の巻に云はく「(しか)も此の経は如来の現在すら猶怨(なおおん)(しつ27)多し(いわ)んや滅度の後をや」と。第五の巻に云はく「一切世間(あだ)多くして信じ(がた)し」等云々。日本国に法華経()み学する人これ多し。人の()ねら()ひ、ぬす()み等にて打ちはらるゝ人は多けれども、法華経の故にあ()またるゝ人は一人もなし。されは日本国の持経者はいまだ此の経文には()わせ給はず。(ただ)日蓮一人こそ()みはべれ。「我身(われしん)(みょう)を愛せず(ただ)無上道を惜しむ」是なり。されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。  南条兵衛七郎御書


後日、二つの墓が街道にならべられた。工藤吉隆と鏡忍房の墓だった。
 事件を聞いてかけつけた村人が二人の死を弔った清澄寺の別当・道善房や兄弟子の義浄房、浄顕房もその列に連なった
 東条景信の襲撃にともに立ち向かい、辛くも生き残った伯耆房と日朗は、日蓮門下最長老の弟子だった鏡忍房と、法門について激しい議論をした日々の姿に思いを馳せ、いつまでもすすり泣いた
 領主の工藤一族はのちに吉隆の子を日蓮の下で得度させ僧侶にし、法華経の血をつないだ。日蓮は吉隆の子に吉隆の一字を取り日隆の法名を与えた。そして日隆はこの地に鏡忍寺を建てることになる

 いっぽう東条景信の館では絶叫がひびいていた。
 景信が床にふせてうめく。背を打ちつけたのが致命傷となった。
 配下があばれる景信の体をおさえた。
「背骨が・・」
 景信が両手を高く天井にのばした。その指が黒くなりはじめた。
 みな恐怖で景信からはなれる。
 景信はその後、七日間苦しみぬき、やがて全身が黒色となり、狂気に打ち震え息絶えた。景信の一族は仏罰のすざましい現象を目の当たりにし、みな恐怖におののいた。
 日蓮は十六年後に『報恩抄』で、東条景信の死について次のように記している。

(ただ)(ひとつ)(みょう)()には、景信と円智・(じつ)(じょう)とが、さきに()きしこそ一のたす()かりとはをも()へども、彼等は法華経(じゅう)羅刹(らせつ)()めを()ほりて、はやく(うせ)ぬ。

日蓮と東条景信との積年の戦いはおわった。あしかけ十二年の歳月だった。双方傷ついたが、景信は仏罰を受け、日蓮は末法の法華経の行者として、確信を得ることになった 
 日蓮は景信について五十五歳の時、著した『種々御振舞御書』でこう述懐している。
 自分が法華経の行者になれた第一の味方は景信であると。
 景信のために故郷に足を踏み入れず、両親にも会えない日がつづいた。しかしその苦境があればこそ、法華経に強盛な信をとることができた。鎌倉の苦しい弘教もつづけることができたのである。それはこらうべくもなかったが、宿敵ともいえる景信がいなければ、やりとげることができたかどうか。
 長年の葛藤があればこそ成長があった。憎い敵だったが、逆説的に頼もしい味方だったのである。

釈迦如来の御ためには堤婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよく()すものは()()どよりも強敵(ごうてき)が人をばよくなしけるなり.眼前に見えたり。此の鎌倉の御一門の御繁盛は義盛と隠岐(おきの)法皇(ほうおう)しまさずんば(いか)か日本の主となり給ふべき。
されば此の人々は此の御一門の御ためには第一のかた()うど()なり。日蓮が仏にならん第一のかたうどは(かげ)(のぶ)法師(ほっし)には(りょう)(かん)道隆(どうりゅう)(どう)阿弥(あみ)陀仏(だぶつ)・平左衛門尉・(こう)殿(どの)ましまざずんば、(いか)でか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ

かた()うど()とは味方のこと。日蓮は味方よりも敵の存在が自分を成長させると説いた。釈迦は崖から岩を落とし自分を殺そうとした提婆達多を善知識(仏になる手助けをする存在)であるとし、法華経提婆達多品第十二で、未来に天王如来になると説いた。
 また北条一門の繁栄は和田義盛と後鳥羽上皇のおかげであり、この二人の強敵がいなければ、北条氏は日本の王にはなれなかったであろうと記している。
 そして日蓮が仏になるための一番の味方は、景信、法師では良寛・道隆・道阿弥陀仏、さらには平左衛門尉・守殿で、これらの強敵がいなければ、どうして法華経の行者になりえたであろうかと、強敵との出会いを悦んでいるとまで言い切っている。

日蓮は工藤吉隆の屋敷を後にし、近くの花房の蓮華寺に移り本格的な治療にあたった。

安房花房(はなぶさ)の蓮華寺は森の奥にある小さな寺院だった。
 日蓮は一室で経典を読んでいた。
 頭の包帯が痛々しい。折られた左腕は三角巾でつるしていた。
 弟子の伯耆房は日朗の手当をした。
 そこに道善房と義浄房・浄顕房が入ってきた。
 気弱な道善房がかつての愛弟子を心配した。

「日蓮、いや上人、けがは少しはよくなりましたか

見てのとおりですが、弟子や蓮華寺の皆が日々手当てしてくれますので、おかげ様で快方にむかっております。心配をおかけしました」
それはよかった。ひとまず安心しました。ところで妙蓮尼殿ですが上人の祈りのおかげでとても元気になりました。この噂が広まって、いま清澄寺では日蓮上人の話でもちきりじゃ。この道善房も母上の平癒で鼻が高いというものです」
 日蓮がいたむ腕をおさえて師に話しかけた。
「母上の平癒もこのたびの難も法華経への強盛な信力があればこそ乗りきったのです。お師匠もはやく妙法に帰依してください。もし法華経をたもたれたならば、弟子としてこれほどのよろこびはありませぬ」
 ここで道善坊が心中を吐露した。
「そのことだが日蓮、わしはもとより智恵はない。どこぞに取り立てられることもなく、年老いてこれといった縁もないので念仏の名僧にもなれまい。世間でひろまっているから南無阿弥陀仏と唱えているだけなのだ。また気がすすまなかったが先ごろ、いたしかたなく縁あって阿弥陀仏を五体まで作ってしまった。これもまた過去世からの宿習だと思っている。日蓮よ、この罪によってわしは地獄に堕ちるのだろうか」
 日蓮はさすがに哀れみを感じざるを得なかった。しかし相槌をうち、なぐさめる訳にもいかない。世法上はともかく、事仏法に於いては、例え師であろうと正すべきは正さなければ自身が与同罪を受けることになる。
 日蓮は大きく深呼吸したあと、師匠を叱りつけた。
「阿弥陀仏を五体つくったということは、五たび無間地獄におちるということです。法華経に釈迦如来はわれらの父親、阿弥陀仏は叔父と説かれている。叔父をうやまい、父親をゆるがせにすることはたいへんな親不幸で、悪人よりなお罪深いことです。悪人は仏法を信じない。それゆえ釈迦如来を捨てる罪もない。いずれ縁あって信ずることもあるでしょう。しかし、師匠は大善人とみられておりまするが、じつは親を捨て、他人についた大悪人です。法華経謗法の罪はまぬがれませんぞ」
 かつての弟子の非情ともいえる諫言だった。
 道善坊は反論する言葉もなく、ただうなだれるだけだった。
 のちに日蓮はこの時の心中を『善無畏三蔵抄』に次のようにつづっている。