日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

2017年 03月 19日 ( 5 )


2017年 03月 19日

24 広宣流布の壁

金吾たち三名と訴人三名が沙汰人を前に対決した。

鎌倉時代の最大の特色は武士が中心となって裁判する形式が始まったことである。政権が公家から武家にうつり、裁判の公平が保たれるようになった。このため武家はもちろん農民、下人にいたるまで、権利という概念が生まれ、己が権利を主張するという、いわば訴訟行為が飛躍的にさかんになった。いきおいだれもが裁判の行方を注目するようになる。その熱気は現代の比ではない。

今のように民法や商法など、まるでない時代である。法律といえば、わずか三十年前に五十一箇条の御成敗式目ができたばかりだった。しかし訴訟の件数は猛烈な数にのぼっている。刑事事件もあれば民事もあり種々雑多だった。賞罰の形式もある程度自由である。上司と部下、使用人と下人の裁判もめずらしくなかった。

じっさい、この時代の人々にとって裁判は現代のスポーツ観戦のようなイベントであった。だれもが一つ一つの裁定の顛末に注目した。

新聞もマスコミもない時代である。いわゆる世論というものがない。人々は評定をとおして世情を感知していた。


評定所では多くの武士が傍聴人として集まっていた。

沙汰人が宣言する。

「これより訴人の訴えにしたがい、評定をおこなう。まず訴えを聞こう」

原告である訴人が前にでた。訴人は今まで目にしたことのない人物だった。

「ここにいる四条金吾、土木常忍、太田乗明の三名は法華宗の有力な信徒であります。念仏などの他宗を誹謗し、この鎌倉を混乱させております。またこの三名、御家人の身で幕府に仕えながら、人心をまどわすのはもってのほかであり処罰にあたるもの。すみやかにかれらの所領を召して追放すべきと存ずる」

沙汰人が手慣れたようにうながす。

「では論人、反論を」

四条金吾がまちかねたように前にでた。自信満々の口調である。

「まずは最初にお聞きしたいことがある。訴人であるあなた方はどなたか。私たちがお会いしたことのない面々でありますな。いったいだれの使いでわれらを訴えたのか」

「無礼な。使いではない」

富木常忍が交代した。

「では申しあげる。仏法の根本は教主釈尊の経典からでている。いわゆる低い教えから高いものまで千差万別である。一切衆生の不幸は、このなかの低い教えに執着することからはじまっている。念仏宗、禅宗は、仏が化導の初期に説かれた低級の教えである」

訴人がいきりだした。聴衆からも非難する声があがる。

仏法教学に長けた太田乗明が交代した。

「仏教の開祖釈尊が説かれた最高の教えとは法華経である。わが日蓮上人は仏法の一切を知りつくした法華経の行者である。一切経の鏡で今日、日本の未来を写し出し、ただ一人外敵の来襲を予言し的中させたのです。()このことはだれ一人知らぬ者はいない。蒙古退治は日蓮上人をおいて、誰も他におらぬではないか」

聴衆からそうだ、その通りだ」と日蓮をひいきにする声と「念仏が低い教えとは何事だ」と批判する怒号が巻きおこった

ここで沙汰人があわてだした。この事務官は憶病だった。金吾たち三人は信仰を盾にして暗に幕府を非難している。いくら問注所という言い争いの場とはいっても幕府批判は御法度である。問注どころの騒ぎではない。

金吾がたたみかけた。

「世間にいわく、未萌(みぼう)を知るを聖人という。仏典にいわく三世を知るを聖人という。すみやかに法華経そして日蓮上人に帰依してこそ、日本国の安泰があるというもの。いかがかな」

訴人が反論した。

「おぬしらは幕府に仕えながら、幕府を悩ますのはなんとする。この日本国に蒙古の攻めがあるやもしれぬのに、日蓮は他宗の僧の首を切れ、寺院を焼きはらえと騒いでいる。これが大罪でなくしてなんであろう」

金吾は力強く答える。

「これはこれは異なことを申される。そもそも外敵が攻めてくることを九年前に予言したのはわれらが日蓮上人ただお一人である。この事お忘れなきように。また日蓮上人は他宗の僧の首を斬れ、寺院を焼きはらえなどとは一言もいってはおりません。良観殿、道隆殿、念阿殿が我が門下を陥れようと讒奏なされていることは周知の事実です。われわれ法華宗の祈りはほかでもない、わが国土の安穏、敵国の衰退であります。しかしここにおよんで法華経を誹謗する僧侶が祈れば、諸天善神が日本から去って、わが国の敗北は必至であるぞ」

沙汰人はさらに動揺した。

(なんと・・このままでは法華と他宗の公場対決になるではないか)

訴人が顔を真っ赤にして金吾側に反論した。

「われらは法華経を誹謗してはおらぬ。法華経を大切にする者も少なからずおるのだ。なのになぜそこまで他宗を攻撃するのだ」

 あらかじめ律儀に想定問答を準備していた千葉氏の文官、富木常忍がこれに即答する

「この日本国は法華経誹謗(ひぼう)の国である。法華経を大事といいながら、阿弥陀を祈り、座禅を組む。子を大切にして親を粗末にし、薬と思って毒薬を飲む。わが日蓮上人はこのことを憂い、鎌倉殿をはじめ各所に訴えるも答える御仁はおらず。御式目によるならば、さだめてお招きあって意見を述べるところを、さにあらず流罪されたのはいかなることか。この国の安穏を思うに、これは御政道の誤りというもの。蒙古退治は日蓮上人よりほかには叶うべからず。邪宗の祈りは日本国を早く滅ぼすのみ。去りし承久の世に、上皇に仕える高僧らが鎌倉退治を祈り、逆に滅ぼされたのをご存知ないか」

訴人が得意げに言上した。

「沙汰人、今の言葉、聞かれましたか。これぞ日蓮の徒党の正体でござる。民をあざむき幕府を誹謗する者どもでござる」

 沙汰人は汗をふいた。

「そのほうら三名。いまの言葉に嘘偽りはないか。さもなくば起請を書く用意があるのか」

起請は天地神明に誓うことである。これに背けば自決しなければならない。

太田乗明が答える。

「いかにも。ただわれわれも幕府に仕える身。われらの主人や同輩に対してはいささかの遺恨はござらぬ。沙汰人のご賢慮をあおぐまで」

場内が静かになった。

金吾たち三人は勝利を確信した。

逆に沙汰人は目を下にやり、思いつめている。裁判官として評決を下すことができない。

しんとした中、戸外で騒ぐ声が聞こえた。やがてその音がしだいに大きくなった。

「なにごとか」

評定所の門前では人だかりができていた。

訴人と論人の所従同士がはげしく争っていたのである。互いが刀で応戦しあっていた。

評定にいた人々が外にでた。

駆けつけた金吾が彼らをなじった。

「やめろ。やめんか」

常忍もつづく。

「評定所の前である。喧嘩狼藉は御法度であるぞ」

刃傷沙汰の罰は領地没収である。領地がなければ流罪になる。また刃傷の当事者が御家人でなければ牢送りだった。

双方がやっとひいた。

そこに沙汰人が割ってはいり、宣言してしまった。

「本日の評定は取りやめとする」

金吾ら三名が愕然とした。勝利は目前なのに思わぬ事態となった。

沙汰人は冷然と言いはなった。

「仏法の宗義は評定所の管轄外である。沙汰すべきにあらず。おのおの立ち去れい」

金吾たち三人が猛然と抗議したが聞きいれない。目の前にあった勝利が忽然と消えてしまった。


三人が館にもどり日蓮に平伏した。伯耆房らの弟子たちがかこんだ。

金吾が無念そうにもらす。

「まことに残念でございます」

常忍も打ちひしがれた。

「上人の義をのべる絶好の機会にあのような騒ぎをおこし、まことに申しわけございませぬ」

日蓮はなぐさめたが、さすがに落胆の色が濃い。この時の心境を太田乗明(金吾)への手紙でつぎのように記している。


(そもそも)此の法門の事、勘文の有無に()りて弘まるべきか、弘まらざるか。去年(こぞ)方々に申して候ひしかども、いな()()の返事候はず候。今年十一月の比、方々へ申して候へば、少々返事あるかたも候。()()た人の心もやわらぎて、さもやとをぼしたりげに候。又(かみ)()ざん()にも入りて候やらむ。              

 これほどの僻事(ひがごと)申して候へば、流・死の二罪の内は一定(いちじょう)と存ぜしが、いまゝでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候。いたれる道理にて候やらむ。又自界叛逆(ほんぎゃく)(なん)の経文も()ふべきにて候やらむ。山門なんどもいにしえにも百千万億倍すぎて動揺とうけ給はり候。

 それならず子細ども候やらん。(しん)(たん)高麗(こうらい)すでに禅門・念仏になりて、守護の善神の去るかの(あいだ)()の蒙古に従ひ候ひぬ。                         

 我が朝(日本)、又此の邪法弘まりて天台法華宗を(こつ)(しょ)のゆへに山門(あんのん)ならず、師檀違叛(いはん)の国と成り候ひぬれば、十が八、九はいかんがとみへ候。               

人身すでにうけぬ。邪師又まぬかれぬ。法華経のゆへに流罪(るざい)に及びぬ。今死罪に行なはれぬこそ本意ならず候へ。あわれさる事の出来(しゅったい)し候へかし、とこそはげみ候ひて方々に(ごう)(げん)をかきて挙げをき候なり。すでに年五十に及びぬ。余命いくばくならず。いたづらに曠野(こうや)にすてん身を同じくは一乗法華のかたになげて雪山(せっせん)童子、薬王菩薩の跡をおひ、(せん)()有徳(うとく)の名を後代に留めて法華・涅槃(ねはん)経に説き入れられまいらせんと願うところなり。南無妙法蓮華経。                                   十一月二十八日          日蓮花押    【金吾殿御返事(大師講御書)】


【訳】そもそも、この法門のことは、諌暁の書の予言が現実になるか、現実にならないかによって、弘まるか、それとも弘まらないかが決まる。昨年十一通の書状で、何人かの人に申し上げたが、拒絶とも承諾とも、いずれとも返事がない。

今年の十一月ごろに、何人かの人々に申したところ、少々、返事をくださる人もいる。ほとんど、人の心も穏やかになって、そのとおりかもしれない、と思われたかのようである。また、執権殿の目にも入ったのかもしれない。

これほどの道理に合わないことを申し上げているのだから、流罪か死罪か、その二罪のうちにはいずれかには必ず処えられることは決まっている、と思っていたが今まで何ということもないのは不思議であると思う。日蓮の主張が最上・究竟の法理であるのではないだろうか。また、他国侵逼(しんぴつ)(なん)が起こるとの予言が的中したのであるから、自界叛逆難が起きるとの経文も符号(ふごう)するであろう。

比叡山・延暦寺なども、過去の山門と寺門派の抗争の時の動揺よりも百千万億倍過ぎた動揺である、とうけたまわっている。それどころではない深い理由などがあるのではないだろうか。震旦や高麗はすでに禅門・念仏になって守護する善神が去ってしまったので、かの蒙古に征服され従えさせられてしまった。わが日本もまたこの邪法がひろまって天台法華宗を軽んじたり、なおざりにしている故に、山門も安穏でなくなった。出家の師に対し檀那がそむく国となっているのであるから、十のうち八・九はどうであろうかとみえる。

すでにうけがたい人身をうけることができた。邪師もまた免れた。法華経の故に流罪に及んだ。今、死罪に行われないことこそ不本意である。ああ、そのようなことが起これと、法華経の弘通に励んでいる方々に語調の強い言葉を書いてさしあげておいたのである。

すでに年も五十近くになった。残された寿命もいくばくもない。いたずらに広野に捨てる身であるならば、同じくは一仏乗を説く法華経の方に投げて雪山童子や薬王菩薩の跡を追い、仙予国王や有徳王がその名を後の時代にとどめたように、日蓮もその名を後の時代にとどめて、末法の法華経・涅槃経に説き入れていただこうと願うところである。


日蓮は死罪に及ぶことを望んだ。それは自身が末法の本仏であることを証明するための必須条件であったからに他ならない。文応元年三十九歳の時に「立正安国論」を北条時頼に献上しているが、同時期に述作した「唱法華題目抄」ですでに末法に建立すべき本尊の相貌(そうみょう)を記している。


問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀(ならび)に常の所行(しょぎょう)は何にてか候べき、答えて云く、第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師(ほっし)品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず()(りゅう)行なるべし、道場を出でては行住(ぎょうじゅう)坐臥(ざが)をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一()・一句をも読み奉る可し、助縁(じょえん)には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に(したが)うべし、愚者(ぐしゃ)多き世となれば一念三千の観を先とせず、其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

この「唱法華題目抄」の記述を見る限り、日蓮は三十二歳で立宗し「南妙法蓮華経」と唱えるという末法における仏になるための「行」を広めていくが、いずれ末法の本尊を建立すべきと内証に秘めていたことは間違いない。
 それではいつ建立すべきなのか。釈尊は三十歳で成道し四十二年を経て霊鷲山に弟子を一同に集め、法華経の開教である無量義経・十功徳品第二で「四十余年 未顕真実」と宣言、そして同じ霊鷲山で釈尊究極の教えとして妙法蓮華経を説いた。

本尊は衆生が己の仏性を開くための縁となる存在である。それゆえ仏の命がそこに吹き込まれなければ、衆生は本尊と感応して仏性を開くことができない。本尊は衆生が仏心を成就することを念じて本仏自らが図現する必要があつた。

釈尊は法華経如来寿量品第十六の最後に『我亦為世父(中略)、毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏心(我また世の父と為りて(中略)いかにして衆生をして無上道に入らしめ、速やかに仏身を成就することを得せしめんといつも念じている)と説いている。

日蓮が幕臣、各宗派の僧侶に宛てた十一通の書状は、一往は「公場対決」で勝利し他宗への布施を止め、幕府を法華経信仰に立たせることにあったが、再往は自身に死罪が及び、それを乗り越えることで末法の本仏であることを現在の門下及び滅後の弟子・信徒に示すことだった。

この日蓮の本願は二年後、「竜の口」の法難として実現することになる。

日蓮はこの内証を、四条金吾でも富木常忍でもなく大田乗明(金吾)への消息文で吐露している。大田乗明には、日蓮が入滅する半年前の弘安四年の四月八日、本門戒壇の建立を後世に託した「三大秘法禀承事」を与えている。この書の中で日蓮は記す。

此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として日蓮(たしか)かに教主大覚世尊より口決相承せしなり・・・・今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり。()年来(としごろ)己心に秘す(いえど)も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の(ゆい)(てい)()定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可し。其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き送り候、一見の後、秘して他見有る可からず口外も(せん)()し。法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」

「地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」の文言は、日蓮が上行菩薩の再誕であることを意味しているが、この内証をあらわにしたのは、ほとんど(まれ)だった。わずかに後継の日興に口伝した就註法華経口伝(御義口伝)の寿量品二十七個の大事の二十五「建立御本尊の事」で「日蓮(たし)かに霊山に於て面授(めんじゅ)()(けつ)せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」とあるのみである。

当時の信徒には到底理解できることではなかった。うかつに口にすれば信徒に疑心をわかせるだけだった。

逆にこのことは日蓮にとって、在家信徒である大田乗明の法門への理解に対する信頼がいかに高かったかを物語っている。それゆえ他の信徒にたいしては「死罪が降りかかるのを望んでいる」という心証を不用意に吐露することはなかった。


この究極の内証とは裏腹に、日蓮は窮した。

三十二の年より二十年近くにわたって法華経の正義を訴えつづけ題目を弘めた。諸宗をやぶり、法華経広布の国土を建てようとした。だが題目の流布はしたものの、日本国の根底は変わっていない。諸宗はいぜんもとのままであり、国主も聞く耳をもたなかった。

念仏を無間地獄という日蓮の悪名は高まるばかりである。それほどまでに日本国の迷妄は深い。
 こうして日蓮という名は世間から黙殺されたまま、歴史の荒波に埋もれようとしていた。

鎌倉の人々は口々にいった。一介の僧侶が天下の鎌倉様や極楽寺の良観様に楯突こうなどと、身の程知らずにもほどがあると。

しかし事は意外なところから日蓮と良観を取り巻く事態が急転換する。



   25 極楽寺良観と日蓮、降雨の対決 につづく




上巻目次



by johsei1129 | 2017-03-19 22:03 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

21 僭聖増上慢、極楽寺良観への書状

 侍所平頼綱の部屋でも書状が読みあげられていた。

 頼綱は従者が恐る恐る読みあげるのを憤然として聞いた。

 蒙古国の牒状到来に()いて言上せしめ候ひ(おわ)んぬ。

(そもそも)先年日蓮立正安国論に之を勘へたるが如く、少しも違わず()(ごう)せしむ。然る間重ねて訴状を以て(しゅう)(うつ)(ひら)かんと欲す。(ここ)を以て(かん)()を公前に飛ばし、争戟(そうげき)を私後に立つ。(しかしなが)ら貴殿は一天の(おく)(とう)たり、万民の手足たり。(いか)でか此の国滅亡せん事を歎かざらんや慎まざらんや。早く(すべから)く対冶を加へて謗法の(とが)を制すべし。

(
)

 頼綱は書状をつかんで破りすててしまった。

 書状は建長寺の蘭渓道隆にも届いた。

 道隆は寛元4年(1246年)南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖で、建長5年(1253年)、北条時頼によって鎌倉に禅寺として創建された建長寺に招かれて開山となった。鎌倉仏教界の第一人者である。日蓮は十月十一日、弟子日持に届けさせた書状で対決をいどんだ。それ故、この書状は全編、闘志にみなぎっている。

(それ)仏閣(ぶつかく)(のき)並べ(なら)法門(いえ)ごとに(いた)る。仏法の繁栄は身毒(けんどく)尸那(しな)にも(ちょう)()し、僧宝の行儀(ぎょうぎ)は六通の羅漢の如し。然りと(いえど)も一代諸経に於て未だ勝劣(せん)(じん)を知らず(しかしなが)禽獣(きんじゅう)に同じ、(たちま)ちに(さん)(とく)の釈迦如来を(なげう)つて他方の仏菩薩を信ず。是(あに)逆路伽耶陀(ぎゃくろがやだ)(注)の者に非ずや。念仏は無間(むけん)地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説(もうせつ)と云々。

(ここ)に日蓮()ぬる文応元年の(ころ)、勘へたるの書を立正安国論と名づけ、宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ。此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難(しき)りに起こり(あまつさ)へ他国より此の国を責めらるべきの由之を勧へたり。然るに去ぬる正月十八日牒状(ちょうじょう)到来すと。日蓮が勘へたる所に之少しも(たが)はず普合せしむ。諸寺諸山の祈祷の威力滅する故か。(はた)(また)悪法の故なるか。

 鎌倉中の上下万人、道隆聖人をば仏の如く之を仰ぎ、良観聖人をば羅漢(らかん)の如く之を尊む。其の外寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿等の長老等は「()慢心(まんしん)(じゅう)(まん)未得謂(みとくい)()(とく)」(注)の増上慢の大悪人なり。何ぞ蒙古国の大兵を調伏(じょうぶく)せしむべけんや。(あまつさ)へ日本国中の上下万人(ことごと)く生け取りとなるべし。今生には国を亡ぼし後生(ごしょう)には必ず無間(むけん)()せん。日蓮が申す事を御用ひ無くんば後悔之有るべし。此の(おもむき)鎌倉殿・宿屋入道殿・(へいの)左衛門尉(さえもんのじょう)殿等へ之を進状せしめ候。一処に寄り集まりて御評議有るべし。()へて日蓮が()(きょく)の義に非ず。只経論の文に任す処なり。(つぶさ)には紙面に載せ難(の がた)(しかしなが)ら対決の時を()す。書は(ことば)を尽くさず。言は心を尽くさず。恐々謹言。

文永五年戊辰十月十一日       日蓮花押

進上 建長寺道隆聖人侍者御中   『建長寺道隆への御状

 書状は極楽寺良観にも届けられた。

 彼は律宗とともに念仏もひろめていた。したがって立正安国論で「念仏無間」と説く日蓮とは真っ向から対立し、信者の争奪をくりひろげていた。

 そこに挑発ともいえる書状がきた。内容は良観を完膚なきまでに下したものだ。良観は歯ぎしりする思いだったに違いない。

西戌(さいじゅう)大蒙古国の到来に()いて鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候。日蓮()ぬる文応元年の(ころ)、勘へ申せし立正安国論の如く(ごう)(まつ)(ばか)りも之に相違せず候。此の事如何(いかん)。長老(にん)(しょう)速やかに嘲弄(ちょうろう)の心を(ひるがえ)し、早く日蓮に帰せしめたまふべし。若し然らずんば『人間を軽賎(きょうせん)する者、白衣(びゃくえ)(ため)に法を説く』の(とが)(のが)れ難きか。依法不依人(注)とは如来の金言なり。良観上人の住処を法華経に説きて云はく『或は()(れん)(にゃ)に有り、(のう)()にして(くう)(げん)に在()』(注)と。阿練若は無事(むじ)(ほん)ず。(いか)でか日蓮を讒奏(ざんそう)するの条、住処と相違せり。(しかしなが)ら三学にたる矯賊(きょうぞく)の聖人なり。僣聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)(注)にして今生は国賊、来世は那落(ならく)()(ざい)せんこと必定せり。(いささ)かも先非(せんぴ)を悔いなば日蓮に帰すべし。この(おもむき)を鎌倉殿を始め奉り、建長寺等其の外へ披露(ひろう)せしめ候。

所詮本意を遂げんと欲せば対決に()かず。即ち三蔵(せん)(ごん)の法を以て、諸経中王の法華に向かふは、江河と大海と華山(かざん)妙高(みょうこう)()(注)との勝劣の如くならん。蒙古国調伏(じょうぶく)の秘法は定めて御存知有るべく候か。日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国対冶(たいじ)の大将たり。

 

 十一通の書状を届けた日以後、おおぜいの信徒が日蓮の館につどった。

 四条金吾・土木常忍・太田乗明・日妙・池上兄弟らは微動だにせず、まっすぐ師日蓮の目を見つめていた。しかしほとんどの信徒は自分たちにも類が及ぶのではないかという不安にかられ、下をむいている。

 日蓮の言葉はきびしい。いままでに聞いたことがないほどだ。

「大蒙古帝国の書状到来について、十一通の書状をもって方々へ申さしめました。さだめて日蓮が弟子檀那は流罪、死罪はまぬがれまい。この事を少しも驚いてはなりません。かたがたへの訴えは、あえて(いか)らせるため、而強毒(にごうどく)()(注)の故であります。また日蓮が望むところでもあります。おのおの方はくれぐれも用心あるべし。少しも妻子眷属を思ってはなりません。権威を恐れてはなりません。いまこそ過去遠々刧の宿縁をたち切って、成仏の種を植える時です」

「流罪、死罪はまぬがれまい」との日蓮の厳しい言葉を聞き、聴衆の中から一人二人と立ち去っていく者がいた。親しい仲間同士で連れそって出ていく者たちもあらわれた。



               22 三類の怨敵 につづく
上巻目次


 逆路伽耶陀

 法華経安楽行品第十四にある、古代インドの外道の一派で逆順世派のこと。世情の趣くままに教を立てる順世派に逆らい、世論に順わないで法を説いていた外道の一派。順世派の師であるチャールヴァーカの立てた教義にしたがわないで反対の説を立てたために、後代、師の意にそわず反逆の罪を犯す者のたとえに用いられた。

 ()慢心(まんしん)(じゅう)(まん)未得謂(みとくい)()(とく)

「我慢の心充満せん。(いま)()ざるを()れ得たりと(おも)う」と読む。法華経勧持品第十三にある。諸菩薩が法華経を弘教する誓いで唱えた言葉。悪世の中の比丘は、邪智にして心(おご)り、究極の法を知らないで増上慢に陥る意。

 依法不依人

 「法に依って人に依らざれ」と読む。涅槃経に説かれている法の四依の一つ。仏法の勝劣浅深・判釈については仏の経文を用い、人師・論師の言を用いてはならないとの意。

 日蓮大聖人は報恩抄で「依法不依人」の法と人について「依法(えほう)と申すは一切経、不依(ふえ)(にん)と申すは仏を除き奉りて(ほか)普賢(ふげん)菩薩・文殊(もんじゅ)()()菩薩乃至(ないし)上にあぐるところの諸の人師なり」と断じている。つまり仏は諸法の実相を極めているから「違いなく、(とが)なし」だが、普賢菩薩・文殊師利菩薩といえども、(いま)だ極めきっていないのだから、その言に依存してはならないと説いている。いわんやその他の諭師、人師は言うまでもない。

或は()(れん)(にゃ)に有り、(のう)()にして(くう)(げん)に在り

 阿練若は梵語でアーランニャ。空家・閑処・寂静処(じゃくじょうしょ)無諍声(むじょうしょう)と訳す。原語の『森林に住む』との云いから、人里離れた静かなところをさし、僧侶の修行の好適地をいい、のちに寺の意にも用いられた。

 納衣は法衣の一種。人の捨てた布を拾い集めて洗濯し、これを縫いつくろって作った法衣。納はつくろうの意。()()()糞掃(ふんぞう)()ともいった。空閑は阿練若と同義。

 僭聖増上慢

 聖人の姿に似せて聖人として振る舞い、権力に近づいて正法を弘める者を迫害する者をさす。三類の強敵の第三。似非(えせ)聖者。法華経勧持品第十三には、仏滅後、法華経を弘通する時、正法の行者を迫害する三種の人格を説いている。僭は下の者が分をこえて上になぞらい(おご)ることをいう。聖は智徳が万人にすぐれている意。ゆえにこの第三類は、通常は聖人のように振る舞っているが、内面は邪見が強く常に貪欲に執着している者をいう。

「御義口伝に云はく、第三の比丘なり、良観等なり、(にょ)六通(ろくつう)羅漢(らかん)の人と思ふなり」    『勧持品十三箇の大事  第九 或有阿練若の事

崋山と妙高

 崋山は中国の名山である秦嶺山脈の支脈である終南山脈の峰(二二○○㍍)。諸経・周礼などにも名がみえ、古来から西岳と呼ばれ、五岳の一つに数えられている。

 妙高とは須弥山のこと。妙高・安明ともいう。古代インドの世界観で世界の中心にあるとされる山。

 而強毒之

 「(しか)して()いて(これ)を毒す」と読む。正法を信じない衆生に強いて説き、仏縁を結ばせること。折伏化導と同義。法華文句巻十上に「()(すで)に善有るには釈迦小を以て之を(しょう)()し、()(いま)だ善有らざれば、不軽(ふきょう)は大を(もつ)て而して強いて之を毒す」とある。煩悩多き衆生は福徳が薄いため、自ら妙法を求めることをしない。ゆえに()えて三毒の心を起こさせて(どっ)()の縁を結ばせ、妙法を受持し仏道を成じさせることをいう。

「御義口伝に云はく、聞とは名字即なり、所詮は而強毒之の題目なり、皆とは上慢の四衆等なり、信とは無疑曰(むぎわっ)(しん)明了なるなり、伏とは法華に帰伏するなり、随とは心を法華経に移すなり、従とは身を此の経に移すなり。所詮(いま)日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る行者は末法の不軽菩薩なり。」 『常不軽品三十箇の大事 第十 聞其諸説 皆信伏随従の事』



by johsei1129 | 2017-03-19 19:51 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

20 北条時宗を諌暁

 このままでは(らち)が明かない。

 翌十月、日蓮は意を決し、弟子を使いとして一斉に関係各所に書状を届けた。相手は北条時宗を筆頭に幕府要人および仏教寺院である。日蓮の鬼気迫る行動だった。

 伯耆房は日蓮の書状をもって宿屋入道の館に出向いた。だが、屈強な門番に止められた。

 伯耆房は取り次ぎの役人に告げた。

「日蓮上人の使い、伯耆房日興と申します。鎌倉殿あてに書状を持参いたしました」

 いっぽう日朗は書状をもって侍所にむかい、門前に立った。

 門番が日朗を制止した。日朗は屈しない。

「日蓮上人の弟子、日朗と申す者。平の左衛門尉様にこの書状をご持参いたした。御計らいのほどを」

 日昭は極楽寺にむかった。

「極楽寺良観殿に書状あり。日蓮上人の弟子、日昭がまいった」

 日持は建長寺に走った。

「建長寺道隆殿に書状あり。日蓮上人の弟子、日持がまいった」 

 日蓮の書状は合計十一箇所に及んだ。届けられた先は北条時宗、幕臣の平頼綱・宿屋入道・北条弥源太、寺院および僧侶の建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺である。

 日蓮は国主北条時宗の前で鎌倉の七ケ寺との対決を望んだ。建長寺をはじめとした七ケ寺こそ国をほろぼす元凶だからである。

 日蓮はこの七ケ寺の本質をつく。この時の心境を弘安元年九月六日、妙法比丘尼に送った消息で次のように記している。

而るに又()(あずま)にうつりて年を()るまゝに、彼の国主を失ひし真言宗等の人々鎌倉に下り、相州の足下にくゞり入りて、やうやうにた()かる故に、(もと)上臈(じょうろう)なればとてすか()されて鎌倉の諸堂の別当となせり。又念仏者をば善知識とたのみて大仏・長楽寺・極楽寺等とあが()め、禅宗をば寿福寺・建長寺等とあがめをく。隠岐法皇の果報の尽き給ひし(とが)より百千万億倍すぎたる大科鎌倉に出来(しゅったい)せり。妙法比丘尼御返事 

(訳文)五十年前、後鳥羽上皇が承久の変に敗れ、隠岐へ流されたあげく崩御したのも邪教のゆえである。この邪教の輩は東の鎌倉へうつり、北条にとりいって国を傾けている。今また蒙古を前にして、邪正を定めないまま国が滅びようとしている。相州すなわち時宗の前で悪比丘が根をはっている。これを退治することができるのは自分しかいない。

北条時宗は従者が日蓮からの書状を読みあげるのを聞いていた。横で安達泰盛がじっと時宗の表情をうかがっている。

 日蓮が送った十一通の中で、執権時宗にあてた書は極めて格調が高い。日本の国主への敬意にあふれている。対句を多用し、読む者をして歌うような(なめ)らかさでしたためている。その気品は時宗の父北条時頼に呈した立正安国論を思わせる。日蓮は子の時宗にも全く同じ心魂を費やした。この書状もまた時頼の時と同様、幕臣宿屋入道をつうじて提出された。

謹んで言上せしめ候。(そもそも)正月十八日西戌(せいじゅう)大蒙古国の牒状到来すと。日蓮先年諸経の要文を集め之を勘へたること立正安国論の如く少しも(たが)はず普合(ふごう)しぬ。日蓮は聖人の一分に当たれり。未萌(みぼう)を知るが故なり。

(しか)る間重ねて此の由を驚かし奉る。急ぎ建長寺、寿福寺、極楽寺、多宝寺、浄光明寺、大仏殿等の御帰依を止めたまへ。然らずんば重ねて又四方より()め来るべきなり。

(すみ)やかに蒙古の人を調(じょう)(ぶく)して我が国を安泰(あんたい)ならしめ給へ。彼を調伏せられん事、日蓮に非ざれば之(かな)うべからず。(かん)(しん)(くに)()れば則ち其の国正しく、争子(そうし)家に在れば則ち其の家直し。国土の安危は政道の直否に在り、仏法の邪正は経文の明鏡()る。

(それ)此の国は神国なり。神は非礼を()けたまわず。天神七代・地神五代の神々、其の外諸天善神等は、皆一乗擁護(おうご)の神明なり。然も法華経を以て食と為し、正直を以て力と為す。法華経に云わく『諸仏救世者(くせしゃ)は大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現ず』と。一乗捨棄(しゃき)の国に(おい)ては(あに)善神怒りを成さざらんや。

仁王(にんのう)(きょう)に云わく『一切の聖人去る時七難必ず起こる』と。彼の()(おう)伍子胥(ごししょ)(注)が(ことば)を捨て吾が身を亡ぼし、(けつ)(ちゅう)(注)は(りゅう)()(注)を失ひて国位を(ほろ)ぼす。今日本国既に蒙古国に奪はれんとす。(あに)嘆かざらんや、豈驚かざらんや。

日蓮が申す事御用ひ無くんば、(さだ)めて後悔之有るべし。日蓮は法華経の御使ひなり。経に云わく『則ち如来の使ひ、如来の所遣(しょけん)として、如来の()を行ず』と。三世諸仏の事とは法華経なり。

この由方々へ之を驚かし奉る。一所に集めて御評議有りて御報に(あず)かるべく候。所詮は万祈(ばんき)(なげう)ちて諸宗を御前に召し合わせ、仏法の邪正を決し給へ。澗底(かんてい)長松(ちょうしょう)未だ(いま)知らざるは(りょう)(しょう)(あやま)()り(注)、闇中(あんちゅう)(きん)()を未だ見ざるは愚人の(とが)り(注)()。三国仏法の分別に於ては殿前(でんぜん)在り、()所謂(いわゆる)阿闍(あじゃ)()・陳・隋・桓武是なり。()へて日蓮が私曲(しきょく)(あら)ず。(ただ)(ひとえ)に大忠を(いだ)く故に、身の為に之を申さず。神の為、君の為、国の為、一切衆生の為に言上(げんじょう)せしむる所なり。恐々謹言。                    

 文永五年十月十一日           日蓮花押

 謹上 宿屋入道殿                 『北条時宗への御状

 泰盛が怒りだした。

「なんという無礼で傲慢(ごうまん)書状だ」

 時宗は瞑目したまま黙考をしていた。


                       21  僭聖増上慢、極楽寺良観への書状 につづく
上巻目次


 呉王・伍子胥 

 呉王。

 中国・春秋時代の呉の王。(在位紀元前四九六~四七三)。父王闔閭(こうりょ)は越王(こう)(せん)との戦いに敗れ、太子・夫差(ふさ)に復讐を遺言して死ぬ。王位に就いた夫差は二年後に越を会稽で破った。呉の名臣伍子胥(ごししょ)は、越が後日、力を回復するのを恐れ、勾践を殺そうとするが、夫差は和を請う勾践を許した。勾践は(きも)()めて復讐を誓い、兵力の回復に努め、呉に攻め入り、ついに勝利を収めた。夫差は敗走して和を請うたが、勾践は許さなかったため、伍子胥の諫言を用いなかったことを悔やんで自害し呉は滅亡した。

 伍子胥

?~紀元前四八五年。中国・春秋時代、呉王に仕えた重臣。父の伍奢(ごしゃ)は楚の平王に仕えたが、平王二年(紀元前五ニ七)内紛のために兄の()(しょう)と共に殺された。そのため彼は楚を去って敵国の呉王闔閭(こうりょ)に仕え、孫武と共に楚を破り、平王の墓をあばいて、その(しかばね)に鞭をうって復讐をとげた。その後、闔閭の子・夫差に仕え、夫差が大いに(えつ)軍を破った時、越の後難を危惧した彼の再三の進言が聞き入れられず、逆に自害させられた。その時「わが目をくりぬいて呉の東門にかけておけ、やがて越が呉を滅ぼす様をみよう」といって死んだという。彼の予言どおりに呉は滅ぼされた。

 桀・紂

 中国古代の王。()の桀王、殷の紂王のこと。

 夏の桀王は中国古代、夏王朝最後の王。名を()()という。史記によると、不道徳で酒池肉林(しゅちにく りん)をきわめ、暴虐で人民を苦しめた。忠臣(りゅう)(ほう)(いさ)めたが用いず頭をはねたほどの暴悪ぶりだった。のち(いん)(とう)王に滅ぼされた。殷王朝最後の(ちゅう)王とともに悪王の代表とされている。

 殷の紂王は紀元前十一世紀頃、中国・殷王朝最後の王。()()悪王の名が高く、臣下の言に耳をかさず農民を重税で苦しめ、周の武王に滅ぼされて殷王朝は崩壊した。のち、()(けつ)王とともに、桀紂と称され、悪王の(たとえ)に用いられるようになった。

 竜・比

 竜蓬と比干のこと。共に中国古代の忠臣。竜蓬は夏の桀王に、比干は殷の紂王に仕えたが、ともに主君の暴虐を諫めて容れられず殺された。殷も夏も忠言を聞かなかったため滅亡したといわれる。

 

 澗底(かんてい)長松(ちょうしょう)未だ知らざるは(りょう)(しょう)の誤り

 澗底とは谷の深い所。優れた(たくみ)が険しい谷で誰も知られずに茂る立派な松を知らないのは、良匠の名に恥じること。転じて優れた人材を草の根を分けても探し出すことの必要性をいう。

 闇中(あんちゅう)(きん)()を未だ見ざるは愚人の(とが)なり

 錦衣を着た人がいても、闇の中では見ることができないこと。愚人は天下に賢人、聖人のいるのがわからないことのたとえ。



by johsei1129 | 2017-03-19 18:57 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

19 日蓮、国家諌暁を決断

  

f0301354_14140879.jpg

                                (モンゴル型鉄製兜 賀名生の森歴史民俗資料館蔵)


 こうしたただならぬ政治状況に、庶民の間でも蒙古来襲の噂がひろまった。

この事は日蓮以外、日本国のだれもが予期しないことだった。
 日蓮は九年前、立正安国論で他国の侵略を予言していた。人々は日蓮の不吉な警告を無視して中傷まで浴びせたが、蒙古の国書到来によって眠りから覚まされた。

 日蓮は釈尊の一切経を読み、経文のとおりに未来を予言した。邪法をそのままにすれば、未だ惹起(じゃっき)しない二つの難がおきる。自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)難、他国侵逼(しんぴつ)難である。

当時朝鮮半島を支配していた高麗は一国をあげて念仏を信奉したために亡国となった。まつりごとの善悪ではない、森羅万象を極めた仏法の正邪によって国の存亡が決まる。

予言はまず他国侵逼の形であらわれた。仏法が正しければ、蒙古の攻めは現実となる。とすれば残るもう一つの難「自界叛逆」が起こるのも必定だった。

日蓮がこの牒状を知ったのは、鎌倉に国書が届いた三ケ月後だった。日蓮はこの年、四十七歳になっていた。文応元年、三十九歳の時、北条時頼に『立正安国論』を献じ九年を経て、今度は時頼の息子時宗に予言的中を告げる蒙古からの国書が届いた。

日蓮の感慨はふかい。

文永六年十二月八日、自ら書写した立正安国論にこの時の思いを奥書として追記している。

文応元年之を(かんが)ふ。

去ぬる正嘉(しょうか)元年八月廿三日戌亥(いぬい)の剋の大地震を見て之を(かんが)ふ。

其の後文応元年七月十六日を以て、宿谷(やどや)禅門に付して故最明寺入道殿(たてまつ)れり。その後文永元年七月五日大明星の時弥々(いよいよ)此の災の根源を知る。文応元年より文永五年(のちの)正月十八日に至るまで九箇年を経て、西方大蒙古国より我が朝(おそ)ふべきの由牒状(ちょうじょう)之を渡す。又同六年重ねて牒状之を渡す。既に勘文之に叶ふ。之に準じて之を思に未来(また)(しか)るべきか。此の書(しるし)有る文なり(ひとえ)に日蓮の力に非ず、法華経の真文感応(かんのう)の致す所か。  立正安国論奥書

「未来も亦然るべきか」に日蓮の思いがつたわる。未来の日本の国主が邪法を奉れば、国難は避けられない、と予言している。

法華経どころか仏教の上に靖国神社を位置づけて崇拝した日本は、太平洋戦争で史上初めて外国に国土を占領された。その靖国神社を今も崇めている現政権は、中国、北朝鮮に日本の領海を脅かされ続けている。


日蓮は決意した。いよいよ立ちあがる時だ。

他国侵逼という国難を乗りきる方法を知るのは、日本国に自分をおいてほかにはいない。
 蒙古襲来は、鎌倉幕府が邪宗を国家鎮護の宗教として据え、かつ多額の布施を邪宗派に施していることが根本原因だ。蒙古から国書が届いた今こそ、執権北条時宗に法華経信仰と邪宗への布施を止めるよう再度の国家諌暁をすべき千載一遇の機会なのだ。

そして邪法を退治するには、国主の前で各宗の僧をあつめ、正邪を決める『公場対決』をする以外に方法はない。
 天台大師も伝教大師も、この対決による決着で法華経を広宣流布し、天下の泰平を開いている。天台大師は法華玄義巻九で「法華折伏・破権門理(法華は折伏にて権門の理を破す)」と説いた。日蓮もまたこの方程式を踏襲した。
 日蓮は自身の著作(御書)で『公場対決』について次のように度々言及している。
 

()出世(しゅっせ)の邪正を決断せんこと必ず公場なる可きなり。『強仁状御返事


論談を致さゞれば才の長短を表はさず、(けっ)(ちゃく)に交はらざれば智の賢愚を測らず  念仏者追放宣旨御教書事 山門申状

 

ことの邪正是非は一対一の対論で決まる。これを衆目の中で行えば、その差がいっそうきわ立ち、見る者聞く者に利益となる。近代の議会制度はこの精神を体現している。つまり日蓮の考えは、十二世紀の鎌倉時代に民主主義を志向していたことになる。力による決着は永続しない。よりすぐれた人間の智慧の論争が、よりすぐれた結論を引きだす事は自明の理である。

日蓮は釈尊が「唯仏(ゆいぶつ)与仏(よぶつ) 乃能(ないのう)究盡(くじん) 諸法実相()()()()()()()()唯仏と仏のみ、すなわち森羅万象の法を能く極め(つく):妙法蓮華経方便品第二)」と説いた法華経をもって諸宗にいどもうとした。

まず四月、幕府に影響力をもつ法鑒(ほうがん)という僧に手紙をしたため善処をうながした。

日蓮正嘉の大地震、同じく大風、同じく飢饉、正元元年の大疫等を見て記して云はく、他国より此の国を破るべき先相なり。自讃に似たりと雖も、若し此の国土を()()せば復仏法の破滅疑ひ無き者なり。而るに当世高僧は謗法の者同意の者なり復自宗玄底(げんてい)を知らざる者なり。定めて勅宣(ちょくせん)御教書(みぎようしょ)を給ひて此の凶悪祈請(きしょう)するか。(いよいよ)瞋恚(しんに)()し、国土を破壊(はえ)せん(うたがい)無き者なり。

日蓮(また)之を退治するの方之を知る。叡山を除きて日本国には但一人なり(たと)へば日月の二つ無きが如く、聖人肩を並べざるが故なり()し此の妄言(もうげん)ならば、日蓮(たも)つ所の法華経守護の(じゅう)羅刹(らせつ)冶罰之(じばつこれ)(こうむ)らん(ただ)(ひとえ)に国(ため)(ほう)の為人の為にして身の為に之を申さず。

(また)門に対面()故に之を告ぐ、之を用ひざれば定めて後悔有るべし。恐々謹言。

文永五年太歳戊辰四月五日   日蓮花押

法艦御房

 しかしいっこうに音沙汰はない。幕府はなにをしているのであろう。危機は迫っている。

四ケ月後の八月二十一日、日蓮はかつて立正安国論をとりついだ幕臣、宿屋入道光則に同様の書をおくった。しかし光則より返事が来ない。日蓮は蒙古の牒状いらい、さかんに幕臣へ書を送り意見を具申した。光則もその一人だった。だがこれも返事がない。冒頭にそのいきどおりをしるす。

其の(のち)は書・絶えてさず、不審極まり(そもそも)去ぬる正嘉八月二十三日戌亥(いぬいの)刻の大地震、日蓮諸経を引いて之(かんが)へたるに、念宗と禅宗とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神瞋恚(しんに)()して起こす所の災ひなり()し此を退治無くんば、他国の為に此の国を破らるべきの由、勘文一通を撰し、正元庚申七月十六日御辺(ごへん)に付け奉りて故最明寺入道殿へ之を進覧すの後九年を経て今年大蒙古国の牒状之有るよし)風聞(ふうぶん)云云文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり。而るに日本国中、日蓮一人彼西戎(せいじゆう)調(じよう)(ぶく)するの人たる可しと()ねて之を知り、文に之を勘ふ。

君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏(ないそう)()らるべきか。委細(いさい)見参(げんざん)を遂げて申すべく候。恐々謹言。

文永五年八月二十一日       日蓮花押

宿屋左衛門入道殿

だが期待とは裏腹に、宿屋はいっこうに日蓮に会おうとはしない。なしのつぶてである。なんということであろう。仏法に盲目であるばかりか、国難にも無神経なのか。

一月後の九月、日蓮は再度、より強い調子で宿屋に書状を送った。官僚として主君に取りつぎせずに放置すれば、事によっては主君に罰せられると。

宿屋にとって耳が痛かったにちがいない。


去ぬる八月の(ころ)()(さつ)を進ぜしむるの後、今月に至るも是非に付け返報(たま)はらず、(うつ)(ねん)散じ難(さん がた)し。怱々(そうそう)の故に亡せしむるか。軽略せらるゝの故に此の一行(おし)むか。本文に云はく「師子(しし)少兎(しょうと)(あなど)らず大象(おそ)れず」云云。若し又万一他国の兵この国を襲ふ出来(しゅったい)せば、知りて奏せざる(とが)(ひとえ)()(へん)(かか)るべし。仏法を学ぶの法は身命を捨て国恩を報ぜんが為なり。全く自身の為に非ず。本文に云はく「雨を見て竜を知り(はちす)を見て池を知る」等云云災難急を見る故に度々(たびたび)之を驚かす。用ひざる而も(しか)之を(いさ)強・・   宿屋入道再御状

現存する書はここで途切れる。日蓮のいきどおりが素直にあらわれている。

 幕府中枢の反応はその後もまったくなかった。日蓮の訴えは執権の耳にとどいていないこれは時宗から「相手にするな」と捨て置かれたか幕府重臣の手で闇に葬られていたかのいずれかであったことは明らかだった。




       20 北条時宗を諌暁 につづく
上巻目次


by johsei1129 | 2017-03-19 18:17 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 19日

18 他国侵逼難の的中 蒙古の国書到着

十七歳の時宗がひとり、父時頼の位牌に手をあわせ祈っていた。侍所の静かな一室である。

時頼は五年前に亡くなっていた。三十七歳の若さだった 。

その子時宗は文永五年(1268年)三月五日、若干十八歳で第八代執権となった。父時頼は二十歳で第五代執権となったが、時宗はさらに二歳早く執権職に就任したことになる。
 時宗は北条家の総領、ひいては日本の支配者として君臨しなければならない。彼はここから逃げるわけにはいかなかった。この運命とも宿命ともいうべき試練に耐えていかねばならない。

時宗はだれもいない部屋で、せつない思いを誰はばかるところなくみせた。

「父上、なにとぞわが北条をお守りください。日本は今までは父上のおかげで安泰でありました。さりながら武士の世の習い、戦乱は必ずやってくるでありましょう。わが一族の中にさえ、反逆をたくらむ者がおります。まして御家人においてはなおさらのこと。主従はもとより父母・兄弟・夫婦にいたるまで争う世です。これを避けるためには、父上のお力にすがるしかありませぬ」

平頼綱が戸の向こうでかしずいていた。

「殿、時刻にございます」

 

は口元を引き締め、広間に通じる長い廊下を一直線にすすむ。頼綱があわてて後に従った。

広間では武士がぎっしりと整列していた。みな鎧甲を身にまとい、この日の晴れ舞台にふさわしい最高の出で立ちで時宗を待っていた。

上座には腹違いの兄時輔がすでに坐っている。

下座には御家人の代表格がすわり、その背後に配下の武士がひかえる。

彼らの思いは一つではない。北条に心服随従する御家人もいれば、北条一門でも傍系の兄時輔と同じく現状に憤懣やるかたない者もいた。

またここに日蓮門下の信徒もいた。北条の分家、北条(名越)光時には四条金吾。また千葉下総介には富木常忍。また評定所の高官、太田乗明もひかえた。

さらに広間につづく広大な庭には雑人や薙刀持ちなど、所従の部隊が所せましとひかえている。

時宗が登場した。

部隊から歓声があがった。

御家人がいっせいに起立して頭をさげた。しかし兄の時輔だけは起立せず、傲然としたままである。

時宗が床几に座り、おくれて平頼綱がそばに座る。

最有力の御家人、安達泰盛が立ち上がり、時宗の一歩前に進み出た。

「これより相模(さがみ)(かみ)、北条時宗様の執権就任の儀を行う。みなのもの静粛に」

小声で泰盛を侮蔑する者がいる。

(時宗様の義理の兄であるだけで、大きな顔をしおって)

この発言が耳に届かない泰盛は新しい執権時宗を盛り立てる大演説をつづけた。

「亡き時頼様のあとをうけ、このたび幼きより武運の誉れ高い時宗殿が執権に就任した。おのおのがた、この若き鎌倉の頭領をもりたてるのだ」

武士団がいっせいに応じた。

「おなじくご子息であらせられる時輔殿は、京都六波羅にご着任される」

一同がどよめいた。

この時、当の時輔が立ちあがった。
「なぜわしが京都にいって公家の機嫌を取らねばならぬ。わしこそが鎌倉の頭領のはずだ。兄のわしがなぜ執権とならんのだ」

泰盛が困った顔でなだめる。

「時輔様、なんども申しあげたとおり、第三代執権、時頼様の遺言でござる」

時輔の興奮はさめない。

「ええい、聞きとうないわ」

時輔がざわめく武士団の中央を通りすぎ去っていった。時宗の執権就任にあからさまに反旗を翻す態度であった。

場内がざわついた。予想外の展開である。一枚岩と思われた北条の思わぬほころびに笑みを浮かべる御家人もいた

泰盛が半ばあきれ顔で時宗のそばに控えた。

つぎに平頼綱がせきばらいをして立ち、武士団の前にでた。

「拙者、時宗様の執事をつとめる平頼綱、人呼んで(へい)の左衛門尉と申す」

御家人の一人がつぶやく。

(ふん、北条の番犬めが)

「執事とは時宗様の家事をとりしきり、場合によっては身を盾にしてお守り申しあげる者。このなかには今日の晴れ舞台を快く思わぬ者がいるとは思えないが、例えいたとしても、それはそれでよい。この頼綱、そのような者どもが仮に盾つくことあれば、草の根をわけても首かき斬ってくれよう」

頼綱が座を見わたす。

「おのおの、そのつもりでいられよ」

ここで名越光時が我慢できずに声をはりあげた。

「左衛門尉、場所をわきまえぬか。執事の分際で口がすぎるぞ」

名越光時は北条の分家筆頭である。ここで一言いわなければ一門に対し、示しがつかない。

みなざわめきだした。
 しかし時宗が扇子をさっと頭上にあげると、座がいっせいに静まった。このあたり若干十八歳とはとても思えない。

時宗は執権就任という一大事に、父時頼の背中を見て育った賜物ともいえる振舞を見せつけた。

時宗が檄を飛ばす。彼の口調はいたずらに絶叫するわけではないが、頭領にふさわしく力強い。

「われわれ武士は世の乱れから誕生した。公家が政治を壟断(ろうだん)し、民の苦しみを見すごした。このためわれら武家が世を治めることとなった。源頼朝様いらい、その精神はかわっていない。たまたま北条がこの天下の政事をうけもったが、このわしもおぬしら武士の身分を安堵するであろう。この二十年、いくさはなく平穏ながら、こまかな争いは絶えない。多くの武士に少ない土地。水少なければ魚さわぎ、木ひくければ鳥がざわめく。おのおの不満はあろう。だがこれからも武断の世はつづく。頼朝様の精神をつぐ者は誇りをもて。この幕府に刃向かう者あれば八幡大菩薩になりかわり、撃退するまで」

時宗の檄に答え、武士団が雄叫びをあげてこたえる。雑兵も持っている薙刀を天に届けとばかり高く突き出した。

鎌倉に(とき)の声がいくどもこだました。

実はこの年の正月、鎌倉のはるか西、九州博多湾で大事件がおきていた。

中国大陸から蒙古の大船が来航したのである。

船にはいかめしい蒙古の武将につづいて高麗の役人が乗っていた。物々しい出で立ちだった。

博多湾は朝鮮半島をひかえ、南宋との貿易もあって多数の商船が行きかっていた。高麗や中国の船がまざり、にぎやかな湾にひときわ大きな蒙古船が到着した。

民百姓は集まり、船からおりる一行を見てささやきあった。

蒙古の使者は上陸して太宰府へむかった。

広々とした太宰府の建物に蒙古の一行が入っていく。

かれらは床にしつらえた椅子にすわり、日本の役人と対面した。

蒙古人がおもむろに言上した。

「われらは大蒙古国、フビライ皇帝の使者としてまいった。日本国王に告げる」

一行が書を読みあげた。

上天(けん)(めい)、大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る、(ちん)(おも)ふに(いにしえ)より小国の君は、境土相接すれば(なお)(こう)(しん)(しゅう)(ぼく)(つと)む、(いわん)んや我が祖宗は天の明命を受けて()()(えん)(ゆう)す、遐方(かほう)異域()(おそ)(とく)(おも)ふ者(ことごと)く数ふべからず、朕即位の(はじめ)、高麗の無辜(むこ)の民、久しく(ほう)(てき)(つか)るを以って即ち(へい)()めしめ、其の彊域(きょういき)(かえ)し其の旄倪(ぼうげい)()へす、高麗の君臣感戴(かんたい)して来朝す、義は君臣と(いえど)も而して歓は父子の若し、王の君臣を計るに亦已に之を知る、高麗は朕の東藩なり、日本は高麗に密邇(みつじ)し開国以来、亦時に中国に通ず、朕の()に至っ一乗(いちじょう)使(つかい)の以て和好を通ずるなし、尚恐る、王国之を知ること末だ(つまびら)かならざることを、故に特に使を遣はして書を持して朕が志を布告す、(こいねがわ)くは自今以往、間を通じ好を結び、以て相親睦せん、且つ聖人は四海を以て家となす、相通好せざる、(あに)一家の理ならんや、兵を用ひるに至っては、()(いず)れが好む所ならん、王其れ之を図れ、不宣
(


ふせん
)


  大意は以下のとおりである。

天の慈しみを受けて最高の位についた大蒙古国の皇帝が、書を日本の国王に送る。
 朕思うに、昔から小国の王は国境が接する国とは修好につとめるものである。ましてや、朕の先祖は、天の命によって世界を支配している。遠方の異国でも朕の威力を畏れ、徳を慕うものは数え切れない。
 朕が即位したばかりのころ、高麗の民が戦乱に疲れていたので戦争をやめて講和し、老人子供を故郷に帰らせた。高麗は感謝して朝貢に来た。朕と高麗とは君と臣の関係だが、喜びあうことは父子のような間柄である。
 貴国や貴国の重臣、その家臣たちも、この事は知っていよう。高麗は朕の東方の属国である。
 日本は高麗に接した国で建国以来、しばしば中国に朝貢に来た。ところが朕の代になってからは、ただの一度も来ていない。なぜか。おそらく貴国は世界の情勢を知らないのであろう。

したがって使いを派遣し、国書を持たせて朕の意思を知らせる。いまから親交を結ぼうではないか。聖人は世界を一家と考える。親交を結ばないのは一家とはいえない。
 日本がこのことを理解できないとき、武力を用いることになるが、それは皇帝の望むところではない。日本の国王よ、よく理解せよ。


日本側の役人が驚愕した。「至用兵夫孰所好」とある。明らかな恫喝である。

上天(けん)(めい)とは蒙古の文章に使われている決まり文句である。意味は「長生なる天の力において」という。蒙古は自分たちが天の力によって世を支配していると考えていた。日本も天の定めに従い、蒙古に仕えよという。

当時、ユーラシア大陸の情勢は日本でも知られていた。チンギスハンから始まる子孫が大陸を席巻(せっけん)して大帝国を築いたことも、隣の高麗が奮戦むなしく敗れて属国となったことも周知だった。世祖フビライが中国に侵入し、宋帝国を破って漢民族を南に追いつめていることも。

鎌倉は南宋の船がゆきかう。情報の伝達は早い。蒙古兵の強さも知っていた。日本人は当初、蒙古の災禍は必ず日本におよぶと予想していた。海をはさむとはいえ、大陸とは目と鼻の先である。身の危険を感じないではいられない。根底に不安感があった。

しかし蒙古の台頭は、しょせん対岸の火事だった。人間は不安がつのると始めは忘れないように緊張をたもつが、時がたつにつれ不安の元から回避するようになる。緊張感が無意識に麻痺(まひ)してしまう。「蒙古は来るかもしれない」から「来ないだろう」という世情にかわっていった。

第二次世界大戦の時、アメリカは日本軍部の暗号を解読し、日本が米国との戦争に踏み切ることはわかっていた。しかしまさかはるか海を隔てたハワイを攻撃するとは予想だにしなかった。

また現代でもアメリカはタリバンが米国内でテロを引き起こすことを十二分に予想し対策を講じていたが、民間航空機をハイジャックしてニューヨークの世界貿易センタービル、ペンタゴン等に激突させるとは想像さえしていなかった。

日蓮は「立正安国論」で、ただ一人他国侵逼を予言したが、だれも信じなかった。信じないどころか鎌倉幕府は伊豆流罪に処した。

そこに国書が到来した。

寝耳に水である。国中に来るべきものが来たという不安が一気に蔓延した。


夜の鎌倉は寝静まっていたが、幕府侍所だけは丑三つ時になっても松明が消えることはなかった。衛兵が微動だにせず立ち続けている

館の執権の部屋にいくつか置かれた秉燭(ひょうそく)(注)の灯芯が明るく灯っていた。まわりに幕府の中枢が集まる。執権時宗、評定衆(注)の安達泰盛、執事(注)の平頼綱、御内人(みうちびと)(注)の宿屋入道らである

時宗の前にはフビライの書状がおかれている。蒙古の国書は文永五年の一月十八日、鎌倉に到着した。

「ただならぬ書状がきた。そこでみなの意見を聞こう。忌憚(きたん)なくのべよ」

時宗は会議の冒頭にこう述べた後、目をとじ腕を組み、じっと黙考している。

 安達泰盛がきりだす。

「まことに青天の霹靂(へきれき)でござる。わが日本と通商をせよと。さもなくば攻撃するとのこと。ゆゆしき事態でござる。このうえは蒙古の要求どおり通商するのがよいかと思われます。いまのわれらに防衛の準備は整っておりませぬ」

 いつもは傲岸な平頼綱だが、国難ともいえる事態に慎重だった。

「敵は蒙古。チンギスハンの流れをくむ騎馬軍団と聞いております。海際ではおさえることができても、陸上となればほぼ互角。日本の国土が戦乱にまみえるのは目に見えておる。となりの高麗は二十年の戦いで敗れ去った。降伏のしるしに皇太子を人質にとられ、国土には骸骨があふれているとか」

御内人(みうちびと)の宿屋光則がつづいた。彼は九年前、日蓮の立正安国論を時宗の父時頼に取りついだ人物である。時頼が病床に伏したとき、そばに侍っていた数少ない幕府要人の一人でもあった。

「この国書はただの挨拶と思われます。太宰府に来ている使者も好意的とのこと。蒙古と国交をひらき、貿易の利益を幕府にもたらすことが肝要かと」

 三人が時宗を見た。

 時宗はしばらくの沈黙のあと、目をむいて怒りだした。

「おぬしら臆したか。この国書は無礼千万である。わが日本が蒙古の属国となっていかがする。脅しに屈して、どこにわれらの安泰がある。断じて無視せよ。でなければ一戦あるのみ」

 国書は主である時宗にとって、挑戦状をたたきつけられたにもひとしい。激怒するのは当然である。

 泰盛が時宗の気迫にたじろいだ。

 頼綱がいよいよ俺の出番かといわんばかりに不敵にほほえむ。

 宿屋光則は(これで日蓮上人の予言が的中することは必定)と思わざる得なかった。

 安達泰盛は執権の腹が決まった以上、やむなしとばかり渋々配下に指示した。

まず指揮官を九州に送れ。全国の神社仏閣に蒙古退治の祈祷をさせよ」

 頼綱も、抜け目なく即座に配下に伝達した

「日本国の意思を統一しなければならぬ。幕府の方針にさからう者は厳罰に処する。いまこそ北条が日本国の主として全国を指揮するのだ」

 宿屋入道も他の身内人および所従に指示を出した

「使者は丁重に扱え。高麗に偵察隊を潜入させよ。蒙古の動静をつぶさに報告せよ」

 ちなみに幕府は翌月の二月七日に京の朝廷にこの件を奏したが、天皇に当事者能力はない。すべては時宗ひきいる鎌倉幕府にゆだねられた。

 皮肉なことだった。

 北条氏は他氏排斥を企て、有力御家人の三浦氏や和田氏を滅ぼし、国内に敵はいなくなっていた。独裁体制を築くために、満を侍して青年時宗が登場したが、そこに立ちはだかったのが蒙古だった。蒙古民族のすさまじい勢いは、武士ならばだれもが知っている。今後、蒙古の対応をめぐって論議がおこるのは明らかである。

 朝廷は承久の変いらい、鳴りをひそめているが水面下で幕府を批判してくるだろう。幕府内でも黙っていない者がでてくる。一番の危険人物は時宗の腹違いの兄、北条時輔であり彼を支える御家人である。その中でもとりわけ勢力をもつのが北条の分家、名越一族だった。


 侍所が九州に向かう軍馬で混雑した。

 御家人と所従が整然と列をなし、門をでる。

 八幡宮では武将が手をあわせて祈った。兵士もいっせいに手をあわせた。

 彼らの妻子眷属も涙ながらに祈った。

 四月、幕府は全国の社寺に蒙古調伏の祈祷を命じた。朝廷も七月十七日に異国降伏を祈願している。こうして日本はいっせいに危機の中にいる実感をいだいたのである。

 このふってわいたような不安は、時代こそちがうが、七百年後に大国アメリカに宣戦布告し、太平洋戦争に突入した世情と同じだったかもしれない。

f0301354_21414597.jpg
        宗性筆『蒙古國牒状』「調伏異朝怨敵抄」所収 東大寺尊勝院所蔵

    

             19 日蓮、国家諌暁を決断 につづく
上巻目次



評定衆

幕府の最高政務機関。行政・司法・立法のすべてを司っていた。


執事

御内人の筆頭格。


御内人

執権北条氏の家督・得宗に仕えた、武士、被官、従者。


秉燭(ひょうそく)

室内の灯火器具。菜種油等を入れる油皿と、その中央に油を吸い上げる灯心を置く。



by johsei1129 | 2017-03-19 17:44 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)