2017年 03月 18日 ( 2 )


2017年 03月 18日

16 時頼、日蓮を赦免

鎌倉の北条重時邸では極楽寺良観を招いて盛大な宴会がひらかれていた。

重時の妻冶部卿、子の長時、そして親族が酒肴を前に楽しんでいた。

豪華な膳に盃がおかれる。

重時がしたたかに酔った。

「いやはや、この日本国にわしほど幸せな武士はいないであろうな。北条の一門として生まれ、息子も執権となった。まわりからは羨望の目でみられている。そして今、老いて念仏にすがり、来世の極楽往生をまつだけじゃ。さいわいに良観上人にめぐりあい、自分の土地に寺を建てることができた」

良観が賛嘆する。

「殿の極楽往生はまちがいございませぬ。阿弥陀如来にかわってお約束いたしましょう」

「いやこれはありがたい。早く死にたいものだわ」

みなが大いに笑った。

良観もほほえんで感謝する。

「ところで先日のご配慮、殿にはお手数をおかけしました」

「なんであったかな」

「日蓮の件です」

「ああそれか、忘れておったわい。あの坊主、生きておるかのう」

「あの御坊には、ほとほと手を焼きました。わたくしは戒律を重点としておりますが、念仏や禅宗を否定はしませぬ。どんな宗派であれ、仏の教えをひろめて国を繁栄させるのが僧侶のつとめかと」

「いかにも」

「あの男の(とが)法華経を絶対として、われらを非難したことにあります。日蓮はすぐれた素質をもつ僧侶だけに惜しいことです」

「わしの目の黒いうち、日蓮は浮かばれまい。幕府もあの男を許しはせん。ご安心くだされ良観殿」

「たのもしいかぎりでございます。殿がご健在でおられるかぎり、極楽寺も安泰でございましょう」

「おやおや。わしはまだ死ねないらしいぞ」

一同が腹を抱えて爆笑する。夜が更けてもにぎやかな宴はいつ果てるともなく続いていた。

重時が機嫌よく席をたった。

「飲みすぎたようだ。(かわや)へいく」

重時がふらふらと廊下へでた。

良観が息子の長時に酒をついだ。

「さあ、おひとつ」

赤ら顔の長時がうける。

「かたじけのうござる」

良観はさっそく後継ぎに媚びた。

「殿は幕府の棟梁。殿の時代が長く続けば、極楽寺もいずれ関東一の名刹になります」

「存じておりまするとも」

長時は機嫌がよい。親の七光りで執権となった。苦労を知らない口ぶりである。

だが二人の目があった時、廊下でするどい悲鳴があがった。その響きは二人の酔いをさますほどだった。

一同がなにごとかと廊下にでた。

重時が痙攣(けいれん)して倒れている。
「父上」

長時があわててかけより、重信を抱きかかえた。

 重時が口から泡をふきだし、うめいている。突然のことだった。みなどうしてよいかわからない。長時の顔が青ざめている。喜びが絶頂だっただけに、その落ち込みぶりは目をおおうばかりだった。

翌朝、北条重時邸に見舞いの御家人がぞくぞくと入っていった。

彼らは控えの間でひそひそと話し込んでいる。

「急に倒れたとか。わからんものだのう。で、病名は」

(ぎゃく)病という噂だ。急に熱がでて突然うなされるとか。なにしろ(かわや)で化け物を見たそうな・・」

「良観殿に莫大な寄進をした結果がこれか」

「ところで先月、重時殿はあの日蓮御坊を伊豆に島流しにしたばかりだ。たたりではないのか」

御家人が指を立てた。

「しっ、声が大きい」

「ところで内密だが、時頼様もご病気とのことだ。鎌倉の主がかわるやもしれんぞ」

時おり、奥の部屋から重時のうめき声がひびいた。

重時は床でもだえ、苦しんでいた。

妻の冶部卿と子の長時が涙目で見守る。一族郎党は消沈していた。

重時の病状が重態であることはまちがいなかった。

極楽寺良観も強力な後ろ盾ての悲運に、不安げな顔を隠せないでいた。

突然の悲劇だった。つい昨日までよろこびに満ちていた空気が一瞬にして去り、苦衷が舞いこんだ。

極楽寺良観は苦しむ重時のそばで手をあわせた。立場上、祈りで病魔をのぞかねばならない。

その時だった。

重時が布団から手をだし、良観の手をにぎった。その手が真っ黒に変色している。

女たちが悲鳴をあげた。

重時がうめく。

「助けてくだされ良観殿。いくら祈祷してもよくならぬ。なぜじゃ。わしほど念仏を大事にした者はおらぬはず」

「重時様、もう少しの辛抱ですぞ。極楽寺の大檀那、重時様には必ず阿弥陀如来のご加護があります

重時が良観の手をきつく握る。

良観が思わず顔をしかめ、力ずくでほどいた。

ここで重時がはじめて疑いの目をむけた。

重時はうめきながら良観を見すえた。


重時邸では途切れることなく念仏の声がひびいていた。その声に重時のうめき声がまじった。

臨終が近づいた。

重時は床で真っ黒になった腕を高くあげ、もがいた。

まわりで家族が泣き叫ぶ。

良観がその横で幾十人の弟子とともに念仏を唱えた。

高くあげた重時の黒い手がゆっくりと床にさがった

子の長時が叫んだ。

「父上」

家族が重時にとりすがった。

良観と弟子たちも集まり、死相をまじまじと見た。

顔が黒くなっていく。重時は首をねじまげ、良観を凝視したまま絶命した。六十三年の生涯だった。

良観の弟子たちがおびえた。その中の一人が死相の異様さに思わずつぶやく。

「死してのち黒きは地獄の相。黒色は地獄の(かげ)にたとえると・・」

良観がうろたえる弟子の腕をつかんでにらむ。

「重時様は成仏した。念仏を唱えきって極楽浄土にいかれた。静かな最後であったと伝えるのだ。忘れるな、よいか」
重時は床で真っ黒になった腕を高くあげ、もがいた。

まわりで家族が泣き叫ぶ。

良観がその横で幾十人の弟子とともに念仏を唱えた。

高くあげた重時の黒い手がおりていく。

子の長時が叫んだ。

「父上」

家族が重時にとりすがった。

良観と弟子たちも集まり、死相をまじまじと見た。

顔が黒くなっていく。重時は首をねじまげ、良観を凝視したまま絶命した。六十三年の生涯だった。

良観の弟子たちがおびえた。その中の一人が死相の異様さに思わずつぶやく。

「死してのち黒きは地獄の相。黒色は地獄の(かげ)にたとえると・・」

良観がうろたえる弟子の腕をつかんでにらむ。

「重時様は成仏した。念仏を唱えきって極楽浄土にいかれた。静かな最後であったと伝えるのだ。忘れるな、よいか」
 弘長元年(一二六一年)十一月三日、極楽寺良観の意を汲み日蓮を伊豆流罪に処した重時は、病に倒れて以降五カ月間、熱と悪寒に苦しみぬいてこの世を去った。


いっぽう北条時頼邸では兵隊が建物のまわりを厳重に固めていた。異変は明らかだった。

寝室で時頼が床に伏せている。目はつぶったままだった。まだ三十七歳である。

そばには時宗・時輔の兄弟と安達泰盛が見守った。

安達泰盛は外様御家人の筆頭である。この時三十歳。安達一族は和田、三浦といった有力な御家人を滅ぼし北条の独裁を確立した功績があった。御家人で泰盛の右に出るものはいなくなった。

時頼の正室葛西(かさい)殿、さらに側室の讃岐局もいた。葛西がのちの八代執権時宗を産み、讃岐が時宗の異母兄となる時輔を産んだ。

時頼が目をあけた。時宗、時輔の兄弟が一瞬顔を見合わせ同時につぶやいた。

「父上」

時頼が咳をしながら半身をおこした。

「これも宿命というものだな。わしは長くはないであろう。だが成すことは成しとげた。北条の家を守るため、いくたの敵を討ちたおした。もはやなにも後悔はない」

時頼がまわりを見わたす。

「あとはわが幕府をいかにつづけるかだ。泰盛」

安達泰盛がすすみでる。

「のちのちは、この時宗を執権につけよ」

時宗がおどろいた。兄の時輔が露骨にねたむ。

「かしこまりましてござる」

長子の時輔が口をはさんだ。

「父上、わたしは・・」

時頼は兄をなだめた。

「はじめから北条の跡取りは時宗と決めていた。時輔、おぬしは弟を補佐せよ」

時輔が憤然とでていった。

無理もない。

長兄として育てられた。自分が跡をつぐのは当然だと思っていた。だが時頼は時輔の出自を疑っていた。時頼は時輔を実の子かどうか疑っていたという。であるならば、胆力にもすぐれた嫡子時宗しか後継者はいない。

時頼が時宗を見つめ、まわりに聞こえるようにいった。

「おまえの兄は必ず敵にまわるだろう。だが安心せい」

時頼が配下に指図した。

(へい)左衛門尉(さえもんのじょう)を呼べ」

瞬間、安達泰盛が手をついて時頼にささやいた。

「殿、左衛門尉は性凶悪にして危険でございます。あやつを北条に組み入れることは大いに問題あるかと」

時頼は沈黙したままだった。

平頼綱が門をくぐった。警備の武士がおののいた。

若い頼綱が傲岸な表情ですすむ。人相は、眼光鋭い細い目と強い意志力を象徴するかのような鷲鼻(わしばな)をもっている。背は低かったという。

 平頼綱、人は彼を平の左衛門尉と呼んだ。執権北条氏に仕える御内人である。家令ともいう。

 この時、若干二十歳。

彼の祖父盛時は源頼朝の側近だった。秘書といってよい。多忙な頼朝の祐筆として鎌倉幕府の意志を全国に伝える下知を代筆した。吾妻鏡にも盛時が活躍する記録がのこされている。その子守綱は北条泰時、経時、時頼の三代に仕えた。この父の跡を継いだ頼綱は時宗の側近となる。頼綱は若年ながら、すでに鎌倉幕府を補佐する身内人の筆頭格だった。

先祖はもともと幕府の平の事務員である。なんの力もなかったが、頼朝のあとをうけて権力争いに血眼になった北条一族が和田、三浦などの有力御家人を滅ぼしたために、側用人として重用され強大となった。

北条が独裁者になっていくのと同時に側近が力をつけるのは自然の成りゆきである。独裁者の指示がつねに側近からでるためだ。外様御家人の没落とともに、頼綱のような御内人(みうちびと)が進出してきたのである。今や御家人で平頼綱に対抗できるのは安達泰盛しかいなかった。

その頼綱があたりを見回しながらすすむ。

彼の一族は百人とも二百人ともいわれる。その代表として威風は完全にまわりを見くだしていた。

彼は主人時頼の前にすすみでた。
 泰盛が憎々しげに頼綱を見る。安達泰盛は御家人の代表、頼綱は御内人の代表である。よって立つ場所がちがう。両者の反目は宿命である。

「お呼びでございましたか」

「左衛門の(じょう)、おぬしの家は代々北条を守ってきた。わしのあとも、この時宗を柱として、あらゆる敵から守るのだ」

左衛門の尉が慇懃(いんぎん)答える。

「かしこまってござる。北条の執事として」
 と言ったところで、彼は泰盛ら御家人を見まわした。

「時宗様に刃むかう者は、必ず亡きものにいたしましょう」

その場にいた御家人衆は左衛門の尉のこの一言で震えあがった

時頼はほっとして床につき、意外なことをいった。

「わしの最後の遺命だ、日蓮を赦免せよ」

「日蓮を赦免と」

泰盛が驚き、声を出す。

「殿、日蓮は幕府を騒がしたかどで伊豆に流しております。なにゆえお許しに」

時頼は天井を見ていう。

「早まったことをした。ためしに罰を与えたが、あの僧はわれらに害はないはず。まわりの者がいうのに従ったが、明らかな目で見れば罪はない。わしも最後が近くなった。心のこりになることは死ぬ前にすべて片づけたい」 

泰盛が反論する。

「日蓮は殿のまつりごとを批判した男でございますぞ。なにとぞご再考を」

時頼がにやりとした。

「わしの部下は大勢いる。みな仕えているようにみえる。だがわしに意見する者は一人もおらぬ。あの剛直な日蓮は許しておけ。いずれはわれらの味方になるやもしれぬ」

時頼が目をつぶった。

時宗が父の命はもはやこれまでかと覚悟し叫んだ。

「父上」

しかし弘長三年(一二六三年)二月、日蓮の赦免を下した後、時頼は奇跡的に回復した。

彼は時宗の成長を見ながら九か月後の十一月二十二日に亡くなる。三十七歳の若さだった。

 日蓮は時頼の伊豆流罪赦免について後に次のように記している。


 きり()もの()ども・よりあひて()うど()等をかたらひて数万人の者をもつて夜中にをしよせ(うしな)わんとせしほどに・十羅刹の御計(おんはか)らいにてやありけん、日蓮其の難を脱れしかば・両国の()・心をあわ()せたる事なれば殺されぬを・()がにして伊豆の国へながされぬ、最明寺殿(ばか)りこそ子細(しさい)あるかとをもわれて、いそ()ゆる()されぬ。『破良観等御書』 

    

訳「権力を持つ者どもが集まり、町人等を唆し、数万人の者が夜中に草庵に押しかけ、日蓮を亡き者にしようとしたが、十羅刹のご加護であろうか、日蓮はその難をのがれた。そこで、相模と伊豆の両国の役人等が示し合わせ、殺されなかったことを咎にして伊豆の国に流罪されたのである。最明寺殿(時頼)だけは冤罪(えんざい)ではないかと思われ、早々に赦免されたのです。


日蓮は弘長三年二月二十三日、鎌倉に帰還する。

赦免された日蓮が伊豆をたち、相模の道をゆく。

遠くに鎌倉の山々がみえた。

日蓮と日興の師弟は胸をはって街道を歩く。

晴れて法華経布教の原点そして日本の権力の中心である鎌倉にかえるのだ。胸をはらずにはいられなかった。

伊豆法難は日蓮にとって一大転機となった。安房の領主、工藤吉隆にあてた手紙がのこる。

此の身に学文つかまつりし事、やうやく二十四五年にまかりなるなり。法華経を(こと)に信じまいらせ候ひし事は、わづかにこの六七年よりこのかたなり。又信じて候ひしかども()(たい)の身たる上、(あるい)は学文と云ひ、或は世間の事に(障 )えられて、一日わづかに一巻・一品(いっぽん)・題目計りなり。去年(こぞ)の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。其の故は法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて(これ)(ほど)の悦びは何事か候べき。凡夫の習い、我とはげみて菩提(ぼだい)(しん)()こして後世を願ふといへども、自ら思ひ出だし、十二時の間に一時二時こそはげみ候へ。是は思ひ出ださぬにも御経をよみ、読まざるにも法華経を行ずるにて候か。無量劫(むりょうこう)の間、六道四生輪回(りんね)し候ひけるには、或は謀反(むほん)をおこし、強盗夜打(ごうとうようち)等の罪にてこそ国主より(いましめ)をも(こうむ)り流罪死罪にも行なはれ候らめ。是は法華経を弘むるかと思ふ心の強盛なりしに依って、悪業の衆生に讒言(ざんげん)せられて、かゝる身になりて候へば、定めて後生(ごしょう)の勤めにはなりなんと覚え候。是程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の()経者(きょうしゃ)は、末代には有りがたくこそ候らめ。 『四恩抄

粗訳

これまでは一日わずかに一巻・一品(いっぽん)・題目ばかり読誦しておりましたが、流罪となったことで昼夜十二時(注)、法華経を修行するようになりました。悪業の衆生に讒言(ざんげん)せられてこのような身になりましたが、必ず来世への善行となることでしょう。このような志を昼夜十二時、(たゆ)まず保つ法華経の行者は、末法には存在し難いことです


一行が若宮大路をゆく。松葉ケ谷の館に近づくと、日蓮を知る通行人が驚いて声をあげる。「皆の衆、日蓮上人が元気に戻ってきました」

 日蓮と日興は感慨深げに館の前にたたずむ。

熊王少年が一行を見つけ、一目散で日蓮に抱きついた。

商店の女が声をかける。

「お帰りなさい。上人様」

皮肉なものだ。

鎌倉を出る時、人々は罵倒したが、赦免されると手のひらをかえしたように祝った。

館には百名になんなんとする信徒が日蓮の帰りをまっていた。

師匠日蓮はもう罪人ではない。喜びにあふれた顔がみちていた。

四条金吾や土木常忍らが笑顔でむかえた。金吾の妻日眼女は赤子を抱いていた。

日蓮が一人一人に挨拶をかわし、やがて赤子をみつけた。

「おっ、これは・・」

四条金吾が深々と頭をさげた。

「おかげさまで元気になりました。一時はどうなるかと思いましたが。妙法のお力です」

信頼する金吾の赤子の病状が回復したことを聞き、日蓮の悦びはひとかたでない。

「法華経の力はもちろんですが、ご夫妻の信心の強さがあったればこそですぞ。けなげな信心だからこそ病は消え去ったのです。どれ」

日蓮が赤子をそっとうけとり、まるで自分の子のように、あやしてはしゃいだ。流罪の苦労など、まるでなかったかのように。

金吾は、わが子が上人に抱かれる福運をしみじみ噛みしめるかのように、じっと見つめていた。

松葉ケ谷の地に夕日がさしはじめる。

日蓮が二年ぶりに説法するとあって信徒があつまってきた。黒衣の念仏僧も来ている。窓にも人がのぞいた。

「このたびは赦免となり、鎌倉に帰ることができました。というのも鎌倉殿がこのたびの流罪を家臣の讒言(ざんげん)と知ったからです。天台、伝教の弘通の如く仏法の正邪は公場における法論で決すべきです。法論ではかなわないと逃げまわり、相手の僧を罪に陥れるとはなにごとでありましょう。正法を阻むことこそ、国を危うくするもの。これ御政道の誤りではなく念仏・禅宗の害毒による。法華経に云わく『如来(にょらい)の現在にすら猶怨(なおおん)(しつ)(注)多し(いわん)(めつ)()の後をや』と。教主釈尊の時でさえ留難はあった。まして今、この悪世末法の世ではなおのことです。私はこのたびの流罪で身にあたって思い知りました。みなさんも南無妙法蓮華経と唱えれば必ず難が降りかかります。またそれでなければ妙法ではない。成仏は難しいことではない、法華経をたもつことが難しいのです」


      17 小松原の法難 日蓮、額に傷を負うにつづく
上巻目次



昼夜十二時

旧暦では「()の刻」のように、十二支で一日を表していたので一日は十二時となる。


怨嫉

()うらみ・ねたむこと。正しい法を教え通り実践する者をあだむこと。おもに仏法を信ずる者に対する非難・中傷をいう。「(さわ)り未だ除かざるを怨といい、聞くことを喜ばざるを嫉という」(妙楽)  





by johsei1129 | 2017-03-18 23:19 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 18日

15 日蓮、伊豆配流の難を蒙る

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                         (伊東市 城ヶ崎海岸)
 
 下総はいまの千葉県北部を中心とする一帯である。現在とちがい田園が広がっていた。
 夕陽が土木常忍の館を染めた。
日蓮は齢四十になっていた。
故郷清澄寺で立宗宣言して八年がたつ。あっという間の歳月だった。日蓮は物思いにふけっているのか、の端に沈まんとする夕陽を見ていた。
となりの部屋では弟子たちが筆を走らせ経巻を書写している。また所化の小僧はをくんで富木の家人とともに夕餉の支度をした。法門について議論しあっている弟子もいた。
日蓮はこの下総の地でさかんに布教を進めた。下総は富木常忍の地盤であり、縁故の武士も多い。
日蓮は常忍の館で早速、百日百座説法を始めた。この説法に常忍が知人を招いた。この「百日百座説法」を機縁として、大田乗明、千葉氏家臣・曽谷教信、富木常忍の縁戚で幕府御家人の秋元太郎らが入信した。

大田乗明は幕府の問注所の役人である。日蓮と同年齢だったという。下総国葛飾群八幡荘中山郷に住み、富木常忍、曽谷教信、金原法橋とともに下総中山を中心に日蓮の()()にあたった。大田乗明の祖父は問注所の初代執事である三善(やす)(のぶ)で、その子三善康連(やすつら)から大田姓を名のったといわれている。乗明は康連の子で、三代続けて問注所の役人であった。

いっぽうの曽谷教信は、下総国葛飾郡曽谷に住んでいたので曽谷と称した。教信は日蓮の二歳下で、元仁元年(一二二四年)、国分村曽谷の(ゆう)(しゅ)、大野政清の長子として生まれた。邑主とは地主の意味である。曽谷は北信越にも所領があり、かなり裕福だったという。曽谷の孝行は有名である。父の死去の日から十三年間、法華経の自我偈(じがげ)(注)を毎朝読んだという。

また秋元太郎は「この時の日蓮の説法を聞いて弟子に定まった」と、日蓮に消息を書き、そのことを日蓮は秋元殿御返事で次のように記している。


御文(くわし)く承り候い(おわ)んぬ、御文に云く、末法の始、五百年にはいかなる法を弘むべしと思ひまいらせ候しに、聖人の(おおせ)を承り候に、法華経の題目に限つて弘むべき由、聴聞(ちょうもん)申して御弟子の一分に定まり候。殊に五節供はいかなる由来、何なる所表、何を以て正意としてまつり候べく候や。[秋元殿御返事]


伯耆房が椀に白湯をはこんできた。日蓮は待ちかねていたのか、ごくりと飲み干した

そこに当主の常忍が入ってきた。

日蓮はにこやかだった。

「常忍殿。いつもながら世話になります」

常忍があらたまって身なりを正し日蓮の前に正座した。

「上人、そんなもったいないお言葉痛み入ります。上人の説法で私の縁戚、同僚が入信し法友ができました。感謝に堪えません。ところで僭越ですがわたしに一つ考えがございます」

さて考えとは、布教についてかな

そうです。上人、これからはこの下総の地を本拠とされてなはいかがでございましょう。ここは鎌倉とちがい、敵もなく、守護の千葉氏は幕府内でも有力な御家人です。北条氏とて、うかつに手出しは来ません。また上人の故郷も近い。海山の幸もほかとはちがって恵まれております。いかがでしょう」

 日蓮答える
「ご親切にかたじけない。だがこの日蓮はあくまでに日本の権力の中心地、鎌倉で法を弘めるつもりです。鎌倉はこの日本の都。日本の主が住むところです。その主が法華経をたもつまで、わたしは法をひろめてまいりたい」
「過日、聖人が最明寺殿に見参された以降、幕府の動きがさっぱり伝わってきませんが、立正安国論への幕府の対応はどうなったのでありましょうか。最明寺殿はご覧になったのかどうか。いろいろとさぐりをいれましたが、いっこうに埒が明きません」
 日蓮が一口湯を含んでから答えた
 「幕府重臣として宿屋殿、また儒官の大学三郎殿がおられるので、最明寺殿がたとえご覧にならなくとも肝心な事は聞かされているはずです。また周辺の者には驚きであったはず。もし最明寺殿が賢人ならばかならずわかるはずです
 常忍が胸中でつぶやく
 (もし、最明寺殿が愚かなら上人にはどんな難がふりかかるのやら)

数日後、富木常忍の屋敷に突然見知らぬ武士が三人訪れた
騎馬の武士三人が常忍邸にかけつけたのである。
「だれかおらぬか」
鏡忍房が玄関でひざまずいて応対した。
「こちらは下総国守護の文官、土木常忍のお屋敷でございすが、なにか」
「ここに日蓮御房はおられるか」
筆頭弟子の鏡忍房は、相手の素性が不明なため慎重に答える。
日蓮聖人は確かにおりますが、どのような御用件でしょうか
「鎌倉からの使者である。通せ」

これを聞いた日蓮は一人で客間にはいり、上座にむかって手をあわせた。
使者の三人が部屋に入り、つかつかと床の間を背に、上座の中央と左右に座る。その後少し間を置いて、富木家の家人が茶と菓子を膳に載せ、使者の前に恭しく差し出す
上座の真ん中に座った上役と思われる使者は、運ばれた善を一瞥(いちべつ)すると、すぐに日蓮に向かって問いかけた。「そのほうが日蓮御房であるか」
使者は幕府の権威を傘に、あくまで居丈高である
「いかにも日蓮と申します」
 左右に座る使者は懐から紙を出し、二人の会話を筆記している。
「このたびの仰せ、鎌倉へ出頭せよとの知らせである。場所は幕府政所。あいわかったか」
「うけたまわりました。で、いつ」
「すぐにも」
「どのような件で」
「それはわれらの知るところではない。必ずまいるよう」
使者たちは、出された膳に手をつけることなく、役目を終えるとすぐに出ていった
別室で待機していた常忍と弟子たちが、どっと客間に入ってきた。
日昭がすぐに問いかける。
「上人、時頼さまからの使者でございますか」
「どうもそのようだな」
日蓮はそう答えると、常忍にむきなおった。
「常忍殿。今までのこと、お世話になりました。明日鎌倉へ出立いたします」
座が緊張した。
日朗が不安げにいう。
「上人、それは考えものではないでしょうか。鎌倉はまだ危険です。時頼様が上人をどのように扱うのかわからない今、出かけるのは虎の口にはいるようなものではありませんか。再度念仏者どもが襲ってこないともかぎりません」
上機嫌になった大進房が止めた。
「筑後房、心配は無用だ。わざわざ鎌倉から使者がこられた。上人の祈りがとどいたのだ。わしはお供する。そんなに心配なら、そなたもついてくるがよい」
日蓮が昇りはじめた月にむかい南無妙法蓮華経と唱えた。

弘長元年五月十二日、日蓮の一行は朝比奈の切り通しをぬけて鎌倉に入った。切り通しは鎌倉に七か所あったという。鎌倉が三方を山にかこまれているため、山を掘削し、人馬が通れるようにした道である。
 日蓮を先頭に弟子の一団が若宮大路をすすむ。
町人が一様におどろいた。
法華宗の日蓮ではないか」
みな日蓮が生きていたことに驚いた
鎌倉に戻ってまた騒動がおきなければよいけれど
女たちが不安げに日蓮を見つめていた

政所では鎧甲をつけた屈強な武士が門を守っていた。
日蓮が門を見あげて入る。
豪壮な建物に広い庭があった。だれもいない。警護の武士が立っているだけだった。
役人が先導して日蓮を案内した。
庭に粗末な(むしろ)一枚だけ敷かれているこれは日蓮を罪人として見なしていることになる。だが日蓮は、来るものが来たとばかり全く表情を変えない。
役人が筵を指さした。
「ここに」
日蓮はゆっくりとすわり、足結跏趺坐(けっかふざ)に組んだ。
三人の役人が出てきた。そして筵の日蓮を見おろした。
「法華宗の僧侶、日蓮。そのほうを伊豆流罪とする」
いきなりの下達である。
日蓮が真正面に役人を見た。
役人は下文を淡々と読みあげていく。
「そのほう法華経を第一とし、念仏を無間地獄、禅宗を天魔の所業等などと誹謗した罪浅からず。くわえて鎌倉諸処で口論をいたし、各宗の僧を悩ましめた罪状は明らかなり。そのうえ前年鎌倉の松葉ヶ谷で火付けをいたし、世を惑わしたのは幾多の証人から明らかである。これほどの重罪のかずかず、死罪・打ち首が正当なるも、僧侶の衣をまとっておる者、みだりに命を召しては八幡のおとがめあり。よって伊豆に遠島申しつけるものなり」
下達を宣言すると、役人はすぐに立ち上がろうとしたが日蓮が止めた。
「おまちくだされ。罪状の件、究明されてはおりませぬ。各宗の僧侶を召し集め、正邪を決することが先決でありましょう。でなければご政道にもおとるもの。式目の定めは・・」
役人が聞こえないかのようにひきあげた。
かわりに二人の武士が近づいた。二人とも罪人見る目つきをしている
常忍や弟子たちは外でまちうけていた。
みな心配顔だった。
やがて馬に乗った日蓮がでてきた。表情がけわしい。
日蓮が武士に囲まれて通りすぎた。
常忍がその武士を見てつぶやいた。
「あれは罪人担当の役人では・・」
日朗が泣きそうになって走ってくる。
「上人は伊豆に流罪とのご沙汰です」
「なに、日蓮上人が流罪だと」
 ふだん温厚な常忍も思わず怒号をあげる。

日蓮が馬に乗せられ、目の前を通りすぎていく。

北条時頼は政所の廊下をゆっくりと歩いていた。従うのは重時である。
時頼は格子窓の前で止まった。
 彼は僧侶が馬に乗って通りすぎるのを見た。
重時がしかたなくひざまずいた。
時頼がつぶやくようにきく。
「あれはどの寺の僧侶だ」
「罪人の護送でござる」
 時頼がわずかに驚いた。
「僧侶であるぞ」
「いかにも。日蓮と申す者」
「にちれん・・はて聞いた名だな」
重時の口調は弁解がましい。
「過日、念仏は無間地獄といった立正安国論なる書をたてまつった坊主でござる。このたび関東において破戒の僧、怠慢の坊主どもを取り締まる下知を出したばかり。あの日蓮はその最たる者でござる」
時頼はゆっくりと思いだした。
「たしか、われらが手をこまねいていれば、日本国に内乱と他国の侵略があると予言めいたことをいった者か」
「ありもしないことをのべて幕府を混乱する罪は死罪よりも重いもの。このたびの仕置の責任は、重時が一身に負っております。いかが」
時頼がなにごともなかったように歩きだす。
重時が時頼の同意を得たとばかり、にやりと笑みを浮かべた

人々が八幡宮の門前で手をあわせていた。そこに兵卒に囲まれた馬がゆく。
常忍と弟子たちが馬上の日蓮によりそって進んだ。
沿道で野次馬がさわいだ。
「あれはどの寺の僧侶だ」
「知らないのか、日蓮とかいう坊主よ。ほら南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経とばかり唱える・・」
「坊主が伊豆に島流しか」
「鎌倉様に楯突くからこの様だ」
群衆は思い思いに馬上の日連に罵声を浴びせる。
「念仏を唱える者は、地獄に堕ちると責めた罰だ。自業自得じゃ」
「打ち首にならないだけ、幸せというもんだ」
沿道をとりかこんだ野次馬からつぎつぎと罵声があがった。さらに事情を知る武士の中から馬上の日蓮に声がかかる。
「日蓮上人殿、いくさはいつおこるのじゃ」
群衆がどっと笑いだす。
「どの国が攻めてくるのか教えてくだされ。宋か、それとも高麗か」
群衆はその声に追従し、さらに高笑いする。
このなかに涙目の女性がいた。日願女と日妙である。二人とも群衆から遠く離れ、日蓮にそっと手をあわせた。日眼女は夫の四条金吾とともに知らせを聞いてかけつけた。 
金吾が富木常忍と出くわし、問い詰めた。
「どういうことだ」
「早まったのだ。こうとわかっておれば上人を鎌倉にはこさせなかったものを」
 二人は歯ぎしりする思いだった。

馬は由比ヶ浜に着いた。
雨がふりだした。海も白波をたて荒い。
日蓮が馬からおりて船にのる
船には漕ぎ手と、船に同乗する目付の武士がまっていた。二人とも日蓮を見る目は僧を敬う目つきではない、あくまで凶悪な罪人を見る眼だった。
十六歳になった日朗が泣きながら日蓮を乗せた船を追いかける。
お武家様、わたしがお供しますわたしも一緒に乗せてください
そばにいた役人が()で日朗をはら突き
 日蓮が止めた。
まて筑後房船には乗るな。お前まで罪人になる。これも鎌倉殿の沙汰だ。お前は鎌倉でやるべき大事なことがある
師の表情がけわしい。今まで見せたことのない気迫である。
役人が弟子たちをなだめた。
「安心いたせ。伊豆は近い。われらは安全に日蓮殿をおくりとどける。みなの者立ち去れい」
日蓮が船に乗り込む。
船は海上にすすみ、鎌倉が遠くなっていった。
あたりは一面の海となった。
波がさらに荒くなってきた。
漕ぎ手と役人が用意していた縄で自分の体を舟板に縛りつける。海にほうり出されないためだった。
二人はおたがいの目をあわせた。
日蓮は船の上で目をとじ南無妙法蓮華経」とつぶやき続けていた
ここでいきなり船が大きくゆれた。日蓮は一瞬よろめいたが、すぐに目を開け船の端をがっしりとつかんだ。
漕ぎ手の船頭は日蓮の挙動がおかしかったのか、思わず笑いころげる。
海岸では弟子の筑後房が雨にうたれ、船がみえなくなるまで波打際を走り続けた。

日蓮を乗せた船が大きくゆれた。
船首が垂直ちかくに傾く。
つぎに全身に波がおそいかかってきた。
日蓮はせまい船のなかで、ころげまわりながら身をささえる。
こぎ手が笑った。
「これはよい波じゃ。罪人にとって好都合というところか」
「これでは伊豆にたどりつけまい」
命綱をつけた役人が笑う。
「のう日蓮とやら。いっそのこと海の藻屑(もくず)とならぬか
二人が大声で笑った。
どうせ罪人である。護送の途中で波が荒かったため、行方不明になったと報告しても責められない。
日蓮が船中をころがりながら、懸命に身をささえた。全身をうつ激痛はこん棒に打たれたようだった。さらにまともに浴びる海水打撲した傷口に染み込み、火傷でもしたかのような痛みだった。こうして日蓮の顔には急速に疲労の色があらわれた。安房育ちの日蓮は荒海のこわさを知っている。
やがて船は伊豆川奈の海岸にたどりついた。
日蓮が船から投げ出されるように砂浜に捨て置かれた

砂浜には悪天候もあってだれもいない。
日蓮は雨にうたれ、弱り切って砂に手をついた。声もでないほど衰弱している。
(ここで死ぬわけにはいかない)
仏国土日本を救うため北条時頼に諫言したが、答えはあまりにもむごかった。
やがて遠くから漁民が一人二人と集まり、日蓮のまわりをとりかこんだ。
日蓮は砂に伏せたままである。
漁民がささやきあった。
「罪人らしいな」
「僧侶が流されるとは。よほどあくどい者か」
「さあ」
「どうする。このままでいくと死ぬぞ」
「助ける必要はない。放っておけ」
そこに川奈の漁民、船守弥三郎が網をかつぎながらやってきた。真っ黒に日焼けた形相である。
「どうした。なにをしておる」
「おう弥三郎、罪人のようじゃ。弱っておる。どうしたらよいかのう」
弥三郎は怒った。
「たわけ。なぜ手当てしない」
「じゃが、地頭がうるさいでの」
「おまえたち、地頭がこわいか。わしらは漁師だ。苦しむ者を助けなければ、いざという時、天から見捨てられるぞ」
弥三郎が網を仲間の漁師に預け、日蓮をおこす。そして楽々と背にかつぎ、わが家へはこんだ。
「帰ったぞ」
妻が笑顔でむかえたが、かつがれた日蓮を見ておどろいた。
「浜で倒れていた。手当てしてくれ」
弥三郎は日蓮をゆっくりとおろし、土間にすわらせた。
妻はすぐに桶に湯を入れ、丁寧に日蓮の足を洗った。
日蓮は朦朧(もうろう)としながら、はじめて助かったことを実感した。そして無意識に手をあわせ
「かたじけのうござる」
弥三郎がぶっきらぼうに答えた。
「わけは聞かぬ。どなたかも知らぬが、ゆっくりと休まれるがよい」

翌朝、弥三郎が網をつくろっている。
女房は雑炊を煮こむ。
彼女は時おり日蓮を見た。
「このお坊さんは罪人ですか。また近所から白い目で見られますね」
弥三郎はいつものとおり、妻の言うことには答えず黙々と網をつくろう。
波の音だけが聞こえた。

船守弥三郎の居間には所せましと漁具がそろっている。朝、弥三郎はいつものように気むずかしい顔でいた。妻は外で日蓮の衣を干していた。
日蓮は依然横たわっている。
弟子の伯耆房が布きれを桶の水でしぼり、日蓮のひたいにあてた。日興は流罪騒動の時、実相寺にいた。あとで日蓮の流罪を知り、伊豆に渡って日蓮をさがしまわった。いま彼は伊豆にきて日蓮をさがしまわり、今ようやく弥三郎の家にたどりついたばかりだった。
日蓮が眠りからさめた。
「ここは」
 日蓮の声を聞き、伯耆房の顔が思わずほころんだ。
「お目ざめになりましたか」
日蓮が痛々しくおきあがった。
弥三郎と妻は正座して頭をさげる。夫妻は伯耆房から日蓮のことを詳しく聞いた。
伯耆房が紹介した。
「こちらは船守弥三郎ご夫妻でございます。上人が海辺で倒れていたのを、誠に有り難いことに助けて頂きました」
 日蓮が夫妻を見つめ頭をさげた。
「かたじけのうございます。みなこの日蓮を憎み、妬む中、助けてくれるとはまことに不思議です。いかなる宿縁でしょうか。過去に法華経の行者でおられたのでしょうか、今末法に生れて船守の弥三郎殿と生まれかわり、日蓮をあわれんでくださるのでしょうか」
 日蓮が夫を称えるのを聞き、弥三郎の妻は笑顔になり日蓮に手を合わせた。
「さ、お食事の用意ができています。めしあがってください」
女房が椀に玄米の雑炊をいれてさしだした。
日蓮はおどろいた。
「これは米ですか。今は乏しい時期でありましょう。痛みいります」
 弥三郎がいった。
「遠慮することはねえ。めしあがってくだされ」

川奈の海岸は砂浜が広く長い。
日蓮が伯耆房にかかえられて砂浜をゆく
やがて日蓮が伯耆房からはなれた。
「大丈夫だ。ひとりで歩ける」
日蓮が一人、はてしなく続く砂浜を、一歩一歩足跡を残して歩きつづけた。伯耆房がうしろから心配そうについていく。ひと月ほどたったころ、日蓮は移居したばかりの伊豆伊東の地頭・伊東八郎左衛門尉の屋敷から弥三郎夫妻に感謝の手紙を送った。 

日蓮(いぬ)五月(さつき)十二日流罪の時その()()きて候しに・いまだ名をも()をよびまいらせず候ところに・船よりあが()くる()しみ候いきところに・ねん()ごろにあたらせ給い候し事は・いかなる宿習(しゅくじゅう)なるらん、過去に法華経の行者にて・わたらせ給へるが今末法にふな()もり()の弥三郎と生れかわりて日蓮をあわ()れみ給うか、たとひ(仮令)男は・さもあるべきに女房の身として食をあたへ(せん)(ぞく)てうづ(手水)其の(ほか)さも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし 『船守弥三郎許御書


 
弥三郎夫妻は日蓮の世話するなかで日蓮の威徳に触れ自然に帰依することになった。
日蓮は伊東八郎左衛門より病気平癒の祈祷依頼を受けて祈念し、病気は平癒した。この事を機縁に八郎左衛門も日蓮に帰依し、伊藤の漁師が海中から引きあげた釈迦立像を日蓮に寄進する。この釈迦立像を日蓮は生涯、随身し、日興に「自身の墓所の傍らに立てておくべし」と遺言している。
尚、日蓮が釈迦立像を身につけていたことについて日寛上人は「六巻抄・末法相応抄下」で次のように記されている。

一には(なお)是れ一宗弘通(ぐつう)の初めなり、是の故に用捨時宜(じぎ)に随うか。
二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに()の人々(当時の信徒)(たまたま)、釈尊を造立す。()称歎(しょうたん)せざらんや。
三には吾が祖(日蓮聖人)の観見の前には一体仏の当体、全く是れ一念三千即()受用(じゅゆう)の本仏の故なり。

また日興は伊豆にいる間、日蓮に常随給仕しながら伊豆宇佐美・吉田の地を弘教、熱海真言僧の金剛院行満を改宗、行満は日行となり自坊を大乗寺と号した。
 この大難にあった日蓮はつぎのような書をのこしている。法華経は至高の経典である。その法華経を末法に弘通する日蓮を罰する者には報いがくると。

()
法華の持者を(いまし)むるは釈迦如来を禁むるなり梵釈四天(ぼんしやくしてん)如何(いかが)驚き給はざらん。十羅刹女頭破(ずは)七分(しちぶん)()、此の時に非ずん(いつ)の時か果し給ふべき頻婆娑(ひんばしゃ)()王を禁獄せ阿闍(あじゃ)()、早く現身大悪(だいあく)(そう)感得(かんとく)しき。法華の行者を禁獄する人、何ぞ現身に悪瘡を感ぜざらんや。    同一鹹味御書

梵釈とは梵天帝釈のこと。四天とは四天王(注)のことである。十羅刹女は鬼子母神の娘で、悪鬼羅刹の姿であるが法華経をたもつ者を梵天帝釈とともに守護し、敵対する者を責めるという。
 頻婆娑羅王は古代インドの大国、マカダの王だった。彼は釈尊を厚く崇拝したが、王子の阿闍世は提婆(だいば)(だっ)()(注)()の誘惑を受けて父を殺害してしまった阿闍世はその報いを受けて全身(かさ)を生じ重態となったという


                  16 時頼、日蓮を赦免  につづく
上巻目次


自我偈(じがげ

)法華経如来寿量品第十六の「自我(じが)(とく)仏来(ぶっらい)」から「(そく)成就仏(じょうじゅぶっ)(しん)」にいたる文。「自我得仏来」の「自我」の二字をとって自我偈という。

()(サンスクリット語: gāthā)とは、仏典の記述を韻文(いんぶん)形式で記したもの。法華経では詳細に記した後に、要約した内容を偈として繰り返して記す様式となっている。これは経の概要を記憶し口伝で衆生に伝えるために、韻文形式で覚え易くしたものと推測される。

妙法蓮華経は釈尊五十年の説法の極説(ごくせつ)だが、如来寿量品第十六の自我偈は極説中の極説といえる。釈尊が無量百千万億歳()僧祇(そうぎ)という長遠の過去に成道(成仏)し、その後常に衆生を教化してきたという如来の寿命の図ることができないほどの長さ、そして過去の記憶を余すことなく蘇らせることができるという如来の智慧の深さ、さらに如何(いか)にして衆生を無上道に入らしめるかを常に念じているという如来の広大無辺な功徳・慈悲が、漢字五百十文字の偈(詩)に説き明かされている。

寿量品二十七箇の大事 第廿一 自我偈の事                               

御義口伝に云はく、自とは九界なり、我とは仏身なり、偈とはことはるなり、本有(ほんぬ)とことはりたる偈頌(げじゅ)なり。深く之を案ずべし。(ことわり)様とは南無妙法蓮華経なり」


四天王 
 三千大世界(宇宙)の東西南北に住して仏法を守護する大王。東に()(こく)天、南に増長天、西に広目天、北に()沙門(しゃもん)天が住する。日蓮大聖人が図現された御本尊では、向かって右上に持国天王、左上に毘沙門天王、右下に大広目天王、左下に増長天王と(したた)められておられる。

提婆達多 Devadatta
釈迦在世当時、仏弟子となりながら退転し、逆罪を犯して釈迦を迫害した悪比丘。提婆達兜・禘婆達多・地婆達多等とも書き、略して提婆・達多・調達(じょうだつ)ともいう。天授・天熱などと訳す。出生に関しては諸経によって異説があるが、起世経には甘露(かんろ)王の子で阿難の弟にあたるとあり、大智度論巻三には(こく)(ぼん)(のう)の子で阿難の兄にあたるとされ、釈迦のいとこにあたる。幼い頃から釈迦に敵対し、釈迦に与えられた白象を打ち殺したり、()輸陀(しゅだ)()(ひめ)を争って敗れたりした。後に出家して釈迦の弟子となったが、高慢な性格から退転し、新教団を(つく)ったり釈迦を殺そうとするなど五逆罪を犯した。また()(じゃ)()王をそそのかして、その父王を殺させたが、後に阿闍世王は釈迦に帰依し、提婆達多は生きながら無間地獄に()ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、釈迦が過去世に修行中、()()仙人として釈迦の善知識となったのが提婆達多とされ、天王仏として未来成仏の記別を与えられ、悪人成仏の例とされている。




by johsei1129 | 2017-03-18 16:30 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)