日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ

2017年 03月 14日 ( 6 )


2017年 03月 14日

十三、立正安国論そして日興との運命の出会い

f0301354_21543439.gif
                   (立正安国論 巻頭部分 中山法華経寺蔵)

 日蓮はひとり鎌倉の町を背に西へむかった。旅姿で笠をかぶり、荷を背負っていた。その歩みは何かに突き動かされているかのように早い。そして崩壊の惨状を自分の眼に焼き付けるかのように周囲を見渡した。

馬上の武士がつぎつぎと行きかう。

馬車が復興のための材木を積んで通り過ぎていく。

日蓮は大地震を目の当たりして、かつて延暦寺で学んだ大集経の一文を思いだした。

仏法実に隠没せば(しゅ)(ほつ)(そう)皆長く、諸法も(また)忘失(もうしつ)せん。時に当たって虚空の中に大いなる声ありて地を震ひ、一切皆(あまね)く動ぜんこと(なお)水上(すいじょう)(りん)の如くならん。

仏法が威光を失う時、人々のひげは長く、髪も爪も長い。これによって世の善論は忘れ去られる。このとき空に大音響あって地震がおきる。それは水の波紋のように大地をゆり動かす。大集経では仏法と災害の関係をこうのべている。
 

日蓮が相模をでて駿河にはいった。

岩本山実相寺をたずねるためだった。この寺は今も静岡県富士市に現存する。

歴史は古い。

実相寺は久安元年(1145年)天台宗の智印によって開基された。きわだって特徴的なのは、ここに一切経が収められていたことである。膨大な経典は天台座主だった円珍(えんちん)()(しょう)(注)()が唐から招来したものだった。

日蓮はあらためて一切経を読み返す必要性を感じていた。

この寺には多くの住僧がいた。みな若い。そのなかに伯耆房という少僧がいた。

まだ十二歳である。今でいえば小学六年だが教育制度がなかったこの時代、武士も僧も誰しもが少年の頃から世に出た彼は天台の法門を学んでいた。のちに日蓮のあとを引きつぐ伯耆房日興はこの実相寺の住僧だった。

その伯耆房少年が三十七歳の日蓮とすれちがった。

少年は物思いに沈む日蓮をひと目見て、今まで会った僧とちがうものを感じた。

伯耆房がふり返ったが日蓮はかまわず通りすぎていく。

伯耆房は実相寺の門番に聞いた。

「あのお方は」

「日蓮とかいうお人でございますな」

横にいた友人がおどろいた。

「なに日蓮、鎌倉で悪名高い僧侶だぞ。それがここでなにをしに。まさか折伏ではあるまいな」

伯耆房が聞いた。

「しゃくぶく」

若僧がうなずく。

「念仏や禅をさかんに攻撃しているそうだ。鎌倉ではもっぱらのうわさだぞ」

門番がつぶやいた。

「それがあの坊様、この寺の一切経をみたいと申しましてな」

「経典をいまさらみてどうするのだ。あの年なら既に一切経の修学は終えているのではないか」

「わけは不明だが、ここに来てからは経蔵に篭もりっきりで何やら読んでいなさる」

実相寺の経蔵には経巻が棚の上にぎっしりとならべられている。

日蓮が小机の前に正座し経巻をひらいた。そしてじっくりと座ったまま動かなくなった。

夜、雪がふってきた。皿におかれた灯火をたよりに、経巻を読んだ。

いっぽう伯耆房少年は好奇心旺盛である。彼は戸をわずかにあけて様子をうかがった。

伯耆房は甲斐国(山梨県)巨摩(こま)郡大井荘(かじか)沢で生まれた。父は遠州の()氏で大井の(きつ)(ろく)といい、母は富士由井(ゆい)氏の娘で妙福といった。幼い時に父を失い、母は網島家に再嫁したため、伯耆房は祖父の由井氏に養育された。

七歳の時から天台宗四十九院に登って漢文学、歌道、国書、書道等をまなび、天台の教学を積んでいた。日蓮は十二の歳に出家しているから仏法習熟の度合いはかなり早い。

伯耆房は鎌倉からやってきた僧に興味をもった。

聞けば日蓮は比叡山延暦寺で修業したというではないか。延暦寺は日本天台宗の発祥の地である。伯耆房にとってあこがれの聖地だ。それだけに興味がわいた。仲間たちは日蓮を悪僧といったが好奇心のほうが勝った。どんな人物かは話を聞けばわかるではないか。

その日蓮は飽かずに経典を読みふけっていた。

月日がすぎ、年が明けた。雪解けの小川が流れている。

日蓮は髪やひげがのび放題になっていたが、思いつめたように筆を走らせていた。

窓からの光が文字をてらす。戸の外から声がした。

「ごめんください・・」

 日蓮は一瞬、経文から目を離し答えた。

「どうぞ」

戸が開かれると伯耆房が正座し頭をさげていた。彼は日蓮上人と話がしたかったが、経蔵にこもりきりでまったく機会がなかった。そこで思いきって戸をたたくことにした。

日蓮が伯耆房少年にほほえんだ。
「遠慮なく中へお入りください」
 日蓮は修行中の所化にたいしても偉ぶることはない。
 伯耆房が緊張気味に入室し、日蓮の前であらためて正座した。
 日蓮が伯耆房にほほえむ。

「なにか御用かな」

「失礼ですが、鎌倉の日蓮上人でございますか」

「いかにも」

「この寺で修業しております伯耆房と申します。さっそくお聞きしたいのですが」

日蓮がにこやかにうなずいた。伯耆房は、晩年になってもこの時の笑顔を忘れることはなかった。

「あのう。なにを調べておられるのでしょうか」

日蓮が僅かに首をかしげた。
 伯耆房が話を続ける。

「ここに来られてから半年のあいだ、本寺院の誰とも口もきかずに経文ばかりを読まれておられます。なにか大事なことでも調べられておられるのかと気になっておりました…」

日蓮が笑った。伯耆房はこんな明るい笑顔を見たことがなかった。

「それは心配をかけました。じつは去年の大地震でふと思うことがあり、一切経を拝見して確かめたかったのです」

「確かめたかったとは・・」
 伯耆房の眼が輝き始めた。少年の
真剣な眼差しに触れ、日蓮の口元が引きしまった。

「災いの根元です。いま日本では天災、飢饉、疫病が蔓延している。なげかない者は一人もいない。なぜおきるのか、これをふせぐにはどうしたらよいか。それを釈尊の一切経をひも解き、確かめたかったのです」

伯耆房が身をのりだした。

 日蓮がかたわらにおいてあった数枚の書付を見せた。

「いま書いているところです。題号は立正安国論としました。今の世の乱れは念仏宗の祖、法然が根元です。これを退治しなければ国がほろびる」

伯耆房は驚愕した。

「法然上人。まさかあの法然上人ですか。十三歳で比叡山に登り、知恵は日月にひとしく、徳は師の源光上人を超えたともいわれております。その法然上人は流罪になりながらも生涯をかけて念仏を弘めました。その上人のどこがいけないのですか」

伯耆房は思った。
(やはりこの日蓮上人は噂どおりの悪僧なのか)
 伯耆房の目が一瞬疑念を生じたかに見えた。こ
の反応をあらかじめ予想していたかのように、日蓮はわずかに笑みを浮かべ、話を続けた。

「からきことを(たで)の葉に習い、臭きことを(かわや)に忘れるという。慣れてしまうと、人はあやまりに気づかない。

法然の選択(せんちゃく)によって教主を忘れて西土の仏を貴び、付嘱をなげうちて東方の如来をさしおき、ただ四巻三部の経典をもっぱらにしてむなしく一代五時の妙典をなげうつ。これをもって弥陀の堂にあらざればみな供仏(くぶつ)の志をとどめ、念仏の者にあらざれば早く施僧の思いを忘る。

悲しいかな数十年のあいだ、百千万の人、魔縁にとろかされて多く仏教に迷う。()しかず、彼の万祈(ばんき)を修せんよりはこの一凶、つまり法然の念仏を禁ぜん」

 伯耆房は日蓮の迫力に圧倒され、一瞬躊躇したが、かろうじて言葉をはいた。

「禁ずるとは、念仏宗を罰するということですか」

日蓮が首をふる。

「いやそうではない。念仏宗への布施を止めるのです。今すぐ止めなければ、より大きな災いがおきます」
 伯耆房にとって「念仏を信じることが悪鬼を呼び,守護の善神が去っていく」などとは今まで耳にしたことがない。にわかには信じがたい。

「布施を止めることが、なぜ災いをふせぐことになるのですか」

「災いといっても、しょせん人からおこることです。善人にほどこし、悪人の施をとどめれば災難を消し、天下泰平となる。ならば邪宗の布施を止めることです()

「念仏の布施を止めなければどうなるのですか。いま以上の災難があるというのですか」

日蓮が経典を手にした。

「経文には仏法を誹謗することがつづき、邪法を止めなければ、国に七つの大難がおこると説く。

五つの難は目の前にある。(にん)衆疾(しゅしつ)(えき)の難、星宿(せいしゅく)変化(へんげ)難、日月薄蝕(にちがつはくしょく)の難、非時風雨の難、過時不雨の難である。

もしまず国土を安んじて現当を祈らんと欲すれば、すみやかに情慮をめぐらし、急いで退治を加えねばならぬ。ゆえんはいかん。五難たちまちに起こり、二難なおのこる。自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)(なん)他国(たこく)侵逼(しんぴつ)の難なり。いわゆる『兵革の災』『他方の怨賊国内を侵涼す』『四方の賊来りて国を侵す』これである。

もしのこるところの難、悪法の(とが)によってならび起こり競い来らば、その時いかがせん。帝王は国家を(もとい)として天下を治め、人民は田園を領して世上を保つ。しかるに他方の賊きたりてその国を侵逼し、自界叛逆してその地を略奪せば、どうして驚かないではいられよう、どうして騒がないではいられようか。国を失い家を滅せば、いずれのところにか世を逃れん。すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の(せい)(ひつ)を祈るべきものか」
 日蓮の説法が終わるや否や、伯耆房が床に手をつけて声をあげた。

「日蓮上人様、いまだ拙い所化の身ですがわたしを弟子にしてください」

伯耆房はこの人に近づいていけば、正しい仏への道を歩むことができると直感した。そう思った瞬間に言葉がでてしまった。

日蓮の返答は我が親にもまして慈愛にあふれていた。

「わたしにはすでに弟子がいますが、みな毎日の食にも四苦八苦しております。それでも良いのであれば、私を父と思って、生涯ともに修行してまいりましょう」

 伯耆房が誓う。

「わたしはこの寺で生活しております。ご不便はおかけしません。なにとぞわたしを弟子のひとりに加えてください」

日蓮は笑みを浮かべながら力強く二度、三度とうなずいた。

「これで今日から伯耆房殿は私の弟子です。私の弟子は法名に日文字をつけるのが習わしですので、伯耆房殿にも良い名を考えておきます」
 伯耆房は呆気なく日蓮が入門を許したことに驚くとともに、日文字のついた法名を受けることでさらに驚いた。
「ありがたく存じます」
 伯耆房は深々と床に手をついて日蓮の部屋を後にした。

 日蓮が伯耆房と出会ったのは正嘉二年の二月だったが、奇しくもこの月の十四日、日蓮の父妙日が亡くなった。鎌倉幕府を国家諌暁するための述作を急いでいた日蓮は故郷に戻ることはなかった。だが、この時期に書かれた「一代聖教大意」の末尾に正嘉二年二月十四日と認めている。父の死を弔む故と強く推察される。

 父の死の悲しみを胸に秘めて日蓮はさらに筆を進める。

今は国宝となっている「旅客来たりて嘆いて曰く」で始まる「立正安国論」はこの岩本実相寺で草案が練られた。

日蓮はこれを幕府の実質の支配者である北条時頼に献上しようとしていた。当時、時頼は俗の身のまま出家して最明寺入道と名乗り、執権職を義兄弟の北条長時に譲っていたが、鎌倉幕府の実権は依然として時頼が持っていた。

急がねばならない。大災害はつづいていた。
 日蓮はこの当時の鎌倉の災害の状況を『安国論御勘由来』で次のように記している。

正嘉(しょうか)元年太歳丁巳八月二十三日戌亥(いぬい)の時、前代に超えたる大地振(じしん)。同二年八月一日大風。同三年大飢饉。(しょう)(げん)元年(だい)(やく)(びょう)。同二年庚申四季に亘りて大疫(だいえき)()まず。万民既に大半に超えて死を招き(おわ)んぬ。(しか)る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈祷(きとう)有り。(しか)りと雖も一分の(しるし)も無く、還りて飢疫等を増長す。日蓮世間の(てい)を見て(ほぼ)一切経を(かんが)ふるに、御起請(きしょう)験無く還りて凶悪を増長するの(よし)、道理文証之を()(おわ)んぬ。


                     
      十四、国家諌暁と松葉ヶ谷の法難 につづく


上巻目次



円珍智証

弘仁五年(八一四)~寛平三年(八九一)。平安初期、天台宗寺門派の祖。延暦寺第五代座主。智証大師と号す。讃岐の人。俗姓は和気氏。空海の甥または姪子という。延暦寺の義真に学び、顕密両経を学んだ。日蓮は智証が法華経第一の教義を曲げたとしてきびしく批判した。



by johsei1129 | 2017-03-14 22:16 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(1)
2017年 03月 14日

十二、国家諌暁の契機となった正嘉の大地震、勃発

聴衆が松葉ケ谷に集まった。

四条金吾・富木常忍・工藤吉隆・池上兄弟ら古参の信徒のほか、見覚えのない黒衣の僧侶もいる。

土間のかげで二人の子供たちも顔をだして様子を見ている。孤児だった二人は寝食の恩をうけていらい、自然に日蓮の下働きをひきうけた。日蓮は少年をそれぞれ熊王、鷹王と呼んでかわいがった。
 その日蓮が薄墨の衣を身にまとい聴衆に語る。

「仏法を滅ぼす者はだれであるか。権人(きりびと)であろうか、それとも一介の庶民であろうか。そうではない。みなに立派な僧と慕われ、世の尊敬を集める僧侶が釈尊の仏法を滅ぼすのです。経にいわく『師子(しし)の中の虫の師子を食らう』と。仏法を他の敵はやぶりがたい。仏法の中の僧侶こそ仏法を滅ぼす者です」
 黒衣の僧がさえぎった。
「日蓮とやら。その僧侶とはだれをいうのか。(それがし)は思いあたるふしがないのだが」

日蓮が静かに答える。

「極楽寺良観殿でございます」

聴衆にどよめきがおこる。日蓮の信徒もおどろいた様子だった。

黒衣の僧がなじる。

「なにを血迷っておるか。良観上人はこの鎌倉で生き仏といわれておる。関所を作って木戸銭を集めては深い川に橋をつくり、荒れた土地に道路をつくっておるのだ。あのような尊い方を師子身中の虫などと」

日蓮はこたえる。

「いま良観上人のふるまいを見るに、財宝をたくわえ、借銭、蓄財を所行としている。それが僧侶の姿でしょうか。だれがこれを信ずるであろう。関所を設けることは旅人にとって、わずらいです。眼前のことである。あなたは見ておらぬか」

黒衣の僧が日蓮に強く反駁(はんぱく)する

「なんといっても良観殿は鎌倉殿の御帰依あつい。おぬしのような卑しい身分ではない。(かみ)の信任あればこそ、僧侶の力がそなわるもの。鎌倉殿のご帰依なくては、いかに正論を吐いたところでなんになろう」
 日蓮は毅然としてかえす。 

「鎌倉殿が名君であれば、必ず法華経はご理解できるはずです。笑うことなかれ。いにしえにも釈迦に阿闍(あじゃ)()王(注)()天台大師に陳隋の皇帝(注)()伝教(でんきょう)大師には(かん)武天()皇(注)()がおられた。今はそれを信ずるまで」

黒衣の僧侶が笑って出ていった。

四条金吾が怒った。おとなしく聞いていたが我慢ならない。

「なんと無礼な坊主だ。わたしが問いつめてみます」

日蓮はとめた。

「まちなさい金吾殿、放っておきなさい。彼らはわれわれの様子を見にきたのです」

短気な金吾は日蓮の制止を利かずにいきり立つ。日蓮は金吾の気を冷ますかのごとく諭した。

「最初から話を聞く態度ではない。彼らはわが法華宗が広がっていることに、おだやかではなくなっているのです


騒動が一段落すると、日蓮は皆に新しい弟子を紹介した。

「ところで門下に有望な若者が入門してまいりましたのでお引き合わせいたします」

若い僧が手をついた。

「三位房日行と申します。僧俗立場は異なれど異体同心で法華経の弘通に励んでいきましょう」 

三位房が得意満面の表情で皆に一礼をした。一同も深々と三位房に頭をさげる。

工藤吉隆がおもわず声をあげた。

いやあ、いつの間にか上人のこの館も賑やかになりもうしたな

金吾がおおげさにいう。

「これでは良観殿も我々の様子も見たくなるわい」

一同が笑った。


この時だった。草庵の床がゆれ始めた。

一同がさわぐ。金吾が指図した。

「地震だ。おのおの静まれい。窓を、戸を開けよ」
 いきり立っていた金吾が皆に冷静に指示した。
地震がおきた時、戸や窓を開いておかないと外に脱出できず、建物が倒壊した場合圧死してしまう危険があった。 

このころ鎌倉では地震が頻発し、めずらしくはなかった。だが今夜はとりわけ揺れが大きい。

同じころ、鎌倉幕府執権の館が小刻みにゆれた。障子がガタガタしだした。

北条時頼は立ちあがり天井を見守った。

そこに時宗、時輔の兄弟が飛びこんできた。

「父上」

「これは大きいぞ。急ぎ兵を呼びあつめろ」

兄弟があわてて出ていく。

この時、床が上下にゆれた。

時頼が叫ぶ。

「たてゆれだ」

鎌倉の町全体が波のようにゆれる。

住民が家財道具をだしながら悲鳴をあげた。彼らは外に出て、井戸のまわりにむらがった。このとき、井戸から人の声がひびいた。不気味な音響がこだまする。住民がまた散った。

さらに地面がまた激しく横揺れし、たまらず民家が倒壊しはじめた。

悲鳴がひびく。

日蓮の庵室も大きくゆれた。

「あぶない、みなさん外へ」

と言ったとたん、家屋が真っ二つにちぎられ、床下からひびのはいった地面があらわれた。

絶叫がこだまする。

大切にしていた経巻が転がっていく。日蓮は経巻が落ちる瞬間につかみとった。周囲の弟子たちが懸命に日蓮をかばうように抱きかかえた。

月明かりの中、草庵は無惨に破壊された。月明かりが目も当てられないほどの惨状を照らす。

町のほうぼうでは火の手があがっている。

逃げまどう人々が走りまわる中、弟子たちが集まり、一人一人を確認した。

「大丈夫でござるか。けがは。みなさんおられますか。行方不明の者はおられませんか

たいまつを手に四条金吾、常忍らがひかえる。

日蓮が信徒に告げた。

「みなさんは一刻も早く本宅へ帰ってください」

金吾がうなずいた。

「ではゆこう」

一同が四方に走り去り、筑後房日朗らの弟子が草庵のあった場所に立ちつくす。

みな安堵のあまり、泣き出しそうだった。

「上人、われらは全員無事でございます。まったく奇跡としか・・」

日蓮が思い出したようにうめいた。

「子供たちはどうした。あの二人は・・」

一同が青くなり、あたり一面をさがしまわった。

「おーい。熊王、鷹王・・」

やがて倒壊した建物の脇で鷹王が倒れているのを見つけた。横で熊王がうずくまって泣いている。

「鷹王・・」

かけよったが鷹王の息がない。

日蓮は眠るような鷹王を抱いて題目を唱え続けた。
 余震が収まると鷹王の身は日蓮と弟子たちにより、法華経の題目によって弔われ、夜になってその日のうちに荼毘(だび)付された。
 

朝、鎌倉の町は押しつぶされた家々がならんだ。

家族という家族が、地面に横たわる死体のそばで泣き叫んだ。

この震災はのちに正嘉の大地震といわれた。マグニチュード七から七・五だったという。鎌倉の建物という建物は、ひとつのこらず倒れた。鎌倉八幡宮も無惨に傾いている。
 『吾妻鏡』はこの地震について特筆している。

 八月二十三日 乙巳(きのとみ) (いぬ)刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きこと無し。山岳類崩し、人屋(てん)(とう)。築地皆悉く破損し、所々の地裂け水湧き出る。中下馬橋辺地裂け破れ、その中より火災燃え出る。色青しと。


午後八時ごろ、大地震はおきた。築地とは土をつき固め、上に屋根をかけた土塀である。これがすべて破損したというから、地震がいかに巨大だったかがわかる。

翌朝から日朗や日昭らの弟子たちが廃墟のあとを片づけ始めた。かろうじて生きのこった小僧の熊王も悲しみをこらえ手伝う。熊王は日蓮のもとで兄弟のように育った鷹王を失った。

ひととおり片がつくと、南無妙法蓮華経と書かれた卒塔婆(そとうば)にむかって一同手をあわせた。

しかしここに日蓮の姿がない。
 日蓮は早朝、弟子たちに岩本実相寺に向かうことを告げ、すでに一人旅立っていた。
 


     十三、立正安国論そして日興との運命の出会い につづく


上巻目次


 阿闍世王

梵名アジャータシャトル。未生怨と訳す。マカダ国の王。マカダは当時インド第一の強国だった。太子であった時、提婆逹(だいばだっ)()と親交を結び、仏教の外護者であった父備婆(びんば)(しゃ)()王を監禁し、獄死させて王位についた。さらに釈迦を迫害したが、のちに懐悔(かいげ)し、経典の第一回結集の外護者となった。釈迦は自分の命をさいて、四十年の寿命を阿闍世に与えたという。


天台大師 

 五三八~五九七。中国南北朝・(ずい)代の天台宗開祖。姓は陳氏、(いみな)智顗(ちぎ)。十八歳の時、果願寺の法緒のもとで出家。天嘉元年(五六○)大蘇山に南岳大師訪れ厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の『()(しん)精進・()(みょう)真法』の句に至ってついに法華三昧を感得したといわれる。三十二歳の時、宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。至徳三年(五八五)に陳主の再三の要請で仁王経等を講じ、禎明元年(五八七)法華文句を講説した。陳末の戦乱の頃、隋の晋王広(煬帝)に菩薩戒を授け智者大師の号を賜った。その後、故郷に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止(まかし)(かん)を講じたついで天台山に入り六十歳で没する彼の講説は弟子の章安(灌頂(かんじょう))によって筆記され、法華三大部(法華文句(もんぐ)、法華玄義、摩訶止観)としてまとめられた。尚、日蓮大聖人は天台大師を、薬王菩薩の再誕で、日本では伝教大師(最澄)として応誕したと説いている。「薬王菩薩・漢土に出世して天台大師と云われ此の法門を覚り給いしかども」(一念三千法門) また「聖人御難事」では「天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う」と示され、()天台大師が摩呵止観の講説により出世の本懐を遂げたと断じている。


 陳隋の皇帝

陳隋は中国の王朝名。

陳は南北朝時代、南朝最後の王朝。永定元年(五五七)~禎明三年(五八九)。梁の武帝の跡を受けて建国し、隋に滅ぼされた。天台は五代後主や文武官僚の帰依をうけた。

隋は五八一年~六一九年。楊堅(高祖文帝)が建てた統一国家。秦・漢の古代国家以後、南北に分裂していた中国を統合し唐の統一国家の基礎を築いた。

 桓武天皇

天平九年(七三七)~延暦二十五年(八○六)。第五十代天皇。律令制の改革、平安遷都を行った。延暦四年(七八五)、伝教大師が比叡山を建立すると、天皇はこれを天子本命の道場と号し、六宗を捨てて伝教に帰依した。同七年、伝教は桓武天皇のために根本一乗止観院を建てた。



by johsei1129 | 2017-03-14 21:27 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 14日

十一、生涯の法敵、極楽寺良観

 極楽寺は広大な所領をもつ寺院であった。敷地にはいくつもの施設が群れをなして建っている。

この寺は第二代執権北条義時の三男、北条重時の寄進によって建築された。今も鎌倉市にのこる極楽寺は、かつての栄華を想像できないほど小さいが、当時は病院と大学をあわせたほどの規模があった。現在も極楽寺町の地名がのこる。ここには子院が四十九か所。ほかに施薬院、療病院、薬湯寮までそろっていた。
 北条重時は忍性良観を開山に迎えた。良観はのちに日蓮と降雨対決という数奇な運命をたどる事になる。

境内は難民であふれかえっていた。

僧侶が柄杓(ひしゃく)(かゆ)をもり、難民にほどこす。貧しい人々が列をなし「ありがたや」とぱかりに受け取っていく。

療病院では幾人もの僧侶が白い口当てをして患者を診た。小僧がその横で看護にあたった。

目がただれた者。咳こむ女人や(らい)患者もいる。病に苦しむ者たちが順番にずらりと並んでいた。

この敷地の中に戸を閉め切り、だれも入れない堂があった。

堂は上窓の光しか差さない。ここに数十人の僧が机の上で算盤を入れていた。その横では銅銭をひもで通し、まとめていく僧侶たちがいた。

かれらの後ろにはきらびやかな色の反物、箱に入った銅銭が積みあげられていく。

極楽寺良観は慈善活動とともに商業にも手を広げていた。経済基盤が安定しないと慈善はできない。極楽寺は宗教施設であると共に、商社の機能をも有していたことになる。

仏教史学者の松尾剛次氏は良観について丹念な研究をのこしている。氏は忍性良観が管轄していた材木座海岸のことを述べる。

和歌江嶋は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工島であった。現在は、干潮時に黒々とした丸石が露頭するのみである。由比ガ浜は、遠浅で中国船などの大きな船の着岸には適さず、六浦の方がそうした船の入港には適していたのだ。

ところが、貞永元年(一二三二)年七月一二日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「船着岸の煩ひなからんがため、和賀江嶋を築くべし」と、鎌倉幕府に申請した。時の執権北条泰時は大いに喜んで許可し、諸人とともに協力した。

ところで、この和賀江嶋の修築と維持・管理に関しても、忍性を中心とした極楽寺が大きな役割を果たした。史料にいう。

飯島敷地升米ならびに嶋築および前濱(まえはま)殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺生禁断といい、嚴密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、壽算長遠のためなり、忍性()菩薩()()( )()任せて()、其沙汰あるべく候、恐々謹言

貞和五年二月十一日    尊氏在判

極楽寺長老

この史料(『極楽律寺史』)は、足利尊氏が貞和五年二月一一日日付で、極楽寺に対して「飯島敷地升米ならびに嶋築および前濱殺生禁斷事」をもとの通り支配権を認めたことを示している。すなわち飯島(和賀江嶋の敷地)で、着岸した船から関米をとる権利を認められたが、それは飯島の維持・管理(嶋築き)の代償でもあったことかがわかる。また前濱の殺生禁断権も認められていた。しかもそうした権利は、傍点部からわかるように、忍性以来の事であった。(中略)さらに極楽寺は、前浜の殺生禁断権を認められていた。このことは称名寺が握った権利と同様、浜での一般人の漁を禁じ、漁民に対しては、一定の金品を寺院に寄附することで漁を認める権利である。それゆえ、極楽寺は漁民に対しても統括権を得ていたといえる。この点は、叡尊が弘安九(一二八六)年に宇治橋を修造した際に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められたように、極楽寺とその末寺が管理する川においてもいえる場合が多かったと考えられる。 『忍性 慈悲ニ過ギタ』より

良観の経済基盤の巨大さがわかる。良観の経済活動は北条のあとの足利尊氏の時代にまでも影響力が及んでいたのである。歴史家が鎌倉の北半分は北条家が支配し、南半分は良観が支配していたというのは、あながち誇張ではなかった。

良観は野望をもっていた。

それは経済力をもって時の権力を操り、日本国に君臨することだった。

良観が弘めた律宗は戒律を説くだけであり、教義の中身は低い。これでは宗教上は新興の日蓮の法華宗巨大な比叡山延暦寺を中心とする既成勢力にあなどられてしまう。これをおぎなうために、幕府権力を利用して批判勢力をおさえ、自身の栄達をはかった。

良観の出自は奈良東大寺である。

彼は奈良すなわち南都仏教の代表だが、奈良仏教はすでに時代おくれになっていた。桓武天皇の時代、伝教大師が出現して南都仏教を徹底して破折(はしゃく、)没後七日目にして嵯峨天皇より大乗戒壇設立の勅許が下る。また桓武天皇は奈良を捨てて新都平安京を建設したため、奈良仏教は見る影もなくなっていた。

そのあと伝教の比叡山延暦寺から新しい仏教の旗手がつぎつぎと誕生した。法然、親鸞、道元、日蓮など、新時代の宗派はこの延暦寺からでている。蓮も延暦寺を拠点として十年余年修学し鎌倉で布教を始めていたこのため奈良仏教の代表である良観は、なんとしても律宗を日本国にひろめ、奈良の栄華をとりもどそうとしたのである。

極楽寺の居室は壁の装飾があざやかである。

良観はあでやかな僧服をまとっていた。彼の横では大檀那である北条重時や弟子たちが盃を重ねていた。

 鎌倉武士は京の公家と比べると普段は質素な食事をしていたが、今日ばかりはいわゆる晴れの膳が並んだ。

 玄米に麦・粟を混ぜて()かしたおこわ。近海でとれた鯛の塩焼き、大ぶりの()でた車海老、色もあざやかな季節の野菜の煮つけ、(かも)(かぶ)のあつもの(吸い物)、大根の味噌漬け、蜂蜜が添えられた揚げ菓子、別の膳には海水を煮詰めた塩と(びしお)(塩辛)と白酒が折敷(おしき)(お盆)に置かれていた。

稚児が重時に酒をくむ。重時は機嫌よくうけた。

「まことに立派な寺ができあがった。鎌倉一じゃ。ここに念仏堂はもとより病院、入院寮、難民を入れる建物もできあがった。なによりじゃ」

良観が恐縮し、重時にうやうやしく礼をいう。

「重時様のおかげでございます。まことに殿のお力には敬服いたします」

重時が盃をおく。

「われらが和尚を援助するのは、戒律を重んじるためであり幕府のためでもある。身よりのない者や病人どもを救済すれば、治安の維持も図れる。われらにとっても好都合。和尚にとっても・・」

良観が手をあわせた。

「この身にとって恐れ多いことでございます。わたしとしては、このようなにぎやかな場所は避けて、山の中の静かな寺で持戒しなければならぬのですが」

重時が笑った。

「なにを今さら。良観和尚といえば、今や御家人でさえも恐れはばかるお人じゃ。まして今この日本国は飢謹、疫病で弱りきっておる。鎌倉のだれもが上人の威徳を頼っておりますぞ」

「さようでございますか。しかし鎌倉の皆が皆と言うわけにはいきますまいげんにこの良観を悪人と呼ぶ御坊もいる様子でございます」

重時が横目でにらんだ。

「なに。それはどこの何者でござる」

「たしか日蓮と名乗る僧侶でございます。松葉ヶ谷に住んでいるとか」

「坊主でござるか。で、その者はなんと言っておるのか」

「念仏を唱える者は地獄に堕ちると言っており申す」

重時は念仏の強信者である。彼は一瞬怒りの表情をあらわしたがすぐ笑いだした。

「和尚、心配めさるな。どこの世界にも瘋癲(ふうてん)白痴はおるもの。安心くだされ。この重時はもとより、幕府の面々がついておりますぞ」

重時が高笑いした。

稚児がやってきて良観に手をついた。

「お師匠様、そろそろお時間です」

良観がうなずいて立った。説法の時間である。

長い廊下をすすむ。

供の弟子が良観の美服を脱がせ、質素な法衣に変身させた。慈善僧の身なりは華美であってはならない。

本堂は数百人の聴衆で埋まっていた。

ざわめきが絶えない。

そこに良観を先頭にして数十人の弟子が大挙して入場すると歓声がこだました。

「良観さま」

女たちは絶叫して涙を流し、袂で顔をおおう。男たちは手を振って良観の名を呼んだ。僧や尼たちは手を合わせて念仏を唱える。
 僧侶の説法の座とは思えない異様な光景である。

北条重時は鎌倉の庶民の良観にたいする度を越した熱狂ぶりに感嘆した。

良観が説法の場につき、笑顔で答えた。

歓声がなかなかやまない。良観はいまや鎌倉一の名僧とはやしたてられ、現代でいうところのカリスマだった。

やがて良観が軽く咳払いをすると場内がようやく静まりかえった。

「お忙しいところ、よくおこしいただきました。本日は八斎戒をお教えいたしましょう。戒律のお話です。眠りたいかたは眠ってけっこうでございますぞ」

 子供たちがくすくす笑い、親に頭を小突かれている

この中に日蓮の弟子、鏡忍房日暁と筑後房日朗がいた。

鏡忍房が立ちあがった。

「良観様。わたしたちは良観様を尊敬しております。鎌倉のだれもが上人を慕っております」

突然の発言だったが良観はにこやかにうなずいた。

「良観様のおかげで道路が広くなり港が整備され、いままでより、いっそう住みやすくなりました。良観様のおかげです」

良観がほほえんだ。

「そうもちあげなくともよろしい」

聴衆に笑いがあがる。ここまではよかった。

日朗が笑みを浮かべて立ちあがった。

「しかしあのような普請は、さぞかし大変でございましょう。とくに銭の入り用は苦労のいること。関所で庶民の米をとりあげ、山の材木を買い占めては高く売る。そうしなければあのような事業は困難でしょう」

場内がざわついた。

「良観上人でなければ、そのような振る舞いはできませぬ。まことに尊い。昔から律宗のご僧侶は商売や金銭の貸し借りには()けておりますから」

鏡忍房がたたみかける。

「まことの僧侶であるならば、仏教の奥底をきわめ、人々に成仏の道を示すのが本当の僧侶と思いますが、僧侶の身で納まるわけにはいかないようですな

良観が弟子に目くばせした。場内がざわめく中、極楽寺の僧が二人を追いはらう。

鏡忍房が去りぎわに叫んだ。

「わたしは松葉が谷に住む日蓮上人の弟子、鏡忍房日暁と申す者」
「おなじく筑後房日朗」

「日蓮上人は法華経こそ最高の教えであると申しております。説法をお聞きになりたいかたは、ぜひ松葉が谷へ」

二人はせきたてられ去った。

良観はそれでもにこやかだった。

「おもしろい御仁であること」

 そして一瞬真顔になった。

念仏者たちは日蓮が経文を前面にして攻撃してくるのに戦々恐々とした。

彼らはあろうことか、師の法然の教義を曲げることまでして防衛につとめた。

法然は選択集でいっさいの諸宗を否定したが、日蓮のきびしい指摘によって教義をまげ、諸行往生(注)を唱えだした。

日蓮はこの念仏僧らによる苦しまぎれの教義改悪を鋭く指弾する。

()の七八年が前までは諸行は永く往生すべからず、善導和尚の千中無一と定めさせ給ひたる上、選択(せんちゃく)には諸行を(なげう)てよ、行ずる者は群賊(ぐんぞく)と見えたりなんど放語を申し立てしが、又此の四五年の後は選択集のごとく人を(すす)めん者は、謗法の罪によって師檀共に無間(むけん)地獄に()つべしと経に見えたりと申す法門出来したりしげに有りしを、始めは念仏者こぞりて不思議の思ひをなす上、念仏を申す者無間地獄に堕つべしと申す悪人外道あり、なんどのゝしり候ひしが、念仏者無間地獄に堕つべしと申す語に智慧つきて(おのおの)選択集を(くわ)しく披見(ひけん)する程に、げにも謗法の書とや見なしけん、千中無一の悪義を留めて、諸行往生の由を念仏者(ごと)に之を立つ。(しか)りと雖も(いえど)(ただ)口にのみゆるして、心の中は(なお)本の千中無一の思ひなり。在家の愚人は内心の謗法なるをばしらずして、諸行往生の口にばかされて、念仏者は法華経をば(ぼう)ぜざりけるを、法華経を謗ずる由を(しょう)道門(どうもん)の人の申されしは僻事(ひがごと)なりと思へるにや。一向諸行は千中無一と申す人よりも謗法の心はまさりて候なり。(とが)なき(よし)を人に知らせて(しか)も念仏(ばか)りを(また)弘めんとたばかるなり。(ひとえ)に天魔の計りごとなり。 『唱法華題目抄

聖道門の人とは法華経を信じる人々をいう。念仏者は自らの悪義をかくしてまで、弥陀の名号を弘めねばならなくなっていた。



         十二、国家諌暁の契機となった正嘉の大地震、勃発につづく


上巻目次



諸行往生

阿弥陀仏と唱えて、極楽浄土に生まれる念仏往生に対し、念仏以外の諸々の善行によっても往生することができるという説。法然の弟子長西、親鸞の法友、(ぜん)()(ぼう)証空などが説いた



by johsei1129 | 2017-03-14 20:12 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 14日

十、弟子への薫陶

                              英語版


鎌倉の下町に夕陽がさす。

下町には井戸が点々としてあった。

町人がこの井戸から水をくみあげる。

日蓮の弟子、筑後房日朗(注)も列にまじって水をくんだ。

彼はまだ十代である。下総国海上郡能手郷に生れ、幼名を吉祥丸といった。建長六年、父の平賀二郎有国とともに日蓮に帰依し、叔父の日昭のもとで得度した。

この頃になると日蓮の名は、良きにつけ悪しきにつけ鎌倉中にひろまっていった。そして日蓮を慕って弟子となる僧があいついだ。

世間の評判は悪名高い日蓮だったが、じっさいに会うと気はやさしく、話は機知に富んでいた。しかも言葉の一つ一つが経文に裏打ちされて理路整然としている。聴き入る者は日蓮の確信あふれる説法ばかりでなく、人柄そのものにもひかれた。

日昭・日朗に続いて(きょう)(にん)(ぼう)大進房(だいしんぼう)少輔(しょうい)(ぼう)など、若い才能ある弟子が入門してきた。なかでも鏡忍房は日蓮より二十歳年上で弁舌、識見ともにすぐれ、当時の弟子の中で第一とされた。

日蓮が館に帰ってきた。

玄関を開けると、日朗が豆を煮込んでいた。

「お帰りなさいませ」

弟子たちが膳の準備をした。みな若いだけに食欲は旺盛である。

豆が盆に、漬物は皿にのせられた。この時代、庶民の主食は豆か、粟、稗に玄米を混ぜた雑穀である。白米は公家が食べていたが、ビタミン不足で脚気になり早死にだったという。

日蓮が豆をほうばりながら聞いた。

筑後房は、今日どちらに布教に出向かれたのかな

日朗少年は元気よい。

「はい。和賀江の海岸の付近を布教にまいりました」

「ほう」

「あの一帯は念仏の家が多くございました。また律宗の良観殿を熱烈に信仰しております」

日蓮はにこやかである。

「ご苦労であった。これも日朗にとって大切な修行だ。たくさんの人に信心を語っていきなさい」

ふと気がつくと、二人の子が窓から家の中をのぞきこんでいる。身なりが貧しい。子供は豆の皿を眺めていた。

弟子の大進房が追いはらった。

ここは子供の来るところではない。仏法の修行をする所です。早くうちに帰りなさい

日蓮が声をかける。

「どうした」

大進房がはきすてるようにいった。

「恐らく、みなしごでしょう。飢謹で離散した家の子供ではないかと。ちかごろ、この辺をうろついております」

「どれどれ」

日蓮が窓からのぞくと幼い二人が体をよりそい、かたまっていた。兄弟ではないようだ。

日蓮は豆の椀をとって外へでた。

子供たちは日蓮に気づくと逃げだしてしまった。

日蓮は子供たちが走り去るのを見届けると豆の椀を玄関においた。こうしておけば勝手に食べるであろう。

大進房があきれた。

「上人・・」

「よいではないか。孤児になったのはあの子らのせいではない。今はだれもがひもじい思いをしている。せめて自分のまわりだけでも施さなくては。眠るところもないのであろう。日朗、(むしろ)はなかったか」

「はい、ございますが」

「もってきなさい」

日蓮が筵を土間においた。

これでよい」

 そこに日朗が気を利かせ枕を二つ持ってきて蓆を敷いた隅においた。

日蓮は何も言わず笑顔で見つめていた。


日が暮れて、いつもどおり日蓮の講義が始まった。

日蓮と弟子たちの関係はどうだったのだろう。日蓮はどのように門下と接したのか、具体的な史料はのこっていない。今となっては想像するだけだが手がかりはある。

日蓮のあとを継いだ伯耆房(ほうきぼう)日蓮門下が厳守すべき条項として『日興遺戒置文』といわれる書を残している。全部で二十六ケ条あるが、その中に日蓮門下の根本となる()(どう)弘法(ぐほう)の方針が示されている。

伯耆房は日蓮の教えをかたくなに守り、生涯くずさなかった僧である。日蓮の方軌をそのまま受けつぎ、後世の弟子に師と同じ手法で法を弘めるよう遺言した。

したがってこの「遺誡置文」は伯耆房の独創ではなく、日蓮が生前、弟子・信徒に残した教えを取りまとめて、そのまま記したといってよい。ここに当時の日蓮教団の状況や師、弟子、信徒の関係性を垣間見ることができる。

まず目を引くのは、門下の衣の色が黒色ではなく、薄墨だったことである。

一、衣の墨・黒くすべからざる事。

現代の僧侶のような黒衣でもなく、色あざやかなものでもない。薄いねずみ色だった。日蓮、日興の血脈を引き継いでいる日蓮正宗の僧侶の法衣は、薄墨の色を今も変わらず守っている。

 なお『四菩薩造立抄』の冒頭に、富木常忍が日蓮に薄墨の法衣を供養したことが記されている。


 白小袖(こそで)一、薄墨(うすずみ)(そめ)(ころも)一、同色の袈裟(けさ)一帖(いちじょう)鵞目(がもく)一貫文給び候。今に始めざる御志、(ことば)を以て()べがたし。(いず)日を期してか対面を遂げ心中の朦朧(もうろう)を申し(ひらかば)や。


また二十六世の日寛は薄墨の理由をのべる。

  問ふ法衣の色に但薄墨を用る其(いわれ)如何、答ふ(また)多意有り、一には是名字(みょうじ)(そく)を表する故なり、(いわ)く末法は(これ)(ほん)未有(みう)(ぜん)の衆生にして最初下種の時なり(しかる)に名字即は是下種の位なり、故に荊溪(けいけい)(いわ)く聞法を種となす等云云。聞法(あに)名字に非ずや、種となす(あに)下種の位に非ずや、故に名字即を表して(ただ)薄墨を用るなり。  当家三衣抄

名字即とは初めて仏法を信じ持つ人のことをいう。この仏法は、初めて信受した名字即の位で証果を得ることができる。順位や階級とは無縁である。
 また弟子たちには(じき)(とつ)の着用を禁じた。直綴は上衣と下着をつなぎ合せた法服である。腰から下に(ひだ)があるのが特徴だが、日蓮は直綴を許さず、()(けん)だけを着せた。素絹とは精製前の荒い絹糸のことで、日蓮は終生この姿でいた。色とりどりの法服とはまったく縁がない。

さらに袈裟は最下位の僧侶がつける五条を使った。衣とあわせて「素絹五条」という。あくまでも質素に徹した。

 袈裟は当初、インドで糞のように捨てられたボロ布をつなぎ合わせて作ったところから糞掃(ふんぞう)()ともいった。現在日本で使われている袈裟は、新品の布で作るが、この名残りで、わざわざ小片にした布をつぎ合わせて作っている。小さな布を縦につないだものを条と呼び、これを横に何条か縫い合わせて作られる。小布を数枚つないだ縦一列を一条という。日蓮につづく僧侶はいまも簡素な五条袈裟である。

袈裟は右肩を出すようにして、体に巻きつけるようにかける。右肩を出すのは相手に敬意を表す印度の習慣である。

また印度の僧侶は当初、袈裟一枚で生活していたが、北へ行くほど寒さをしのげないので、しだいに下衣をつけるようになった。これが法衣の始まりである。

話をもとにもどす。
 弟子たちは日蓮の薫陶もあり猛烈に勉学にいそしんだ。そして勉学が終われば法門について議論をはじめた。

一、学問未練(みれん)にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。

一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。

無学の者は自分の弟子にしないという。日蓮は十二歳の時から経典の修学にうちこんだ。弟子たちにも同じく、きびしい修練を課している。

勉学した上、対論、議論を好むことで仏法の理解は深まり、正邪を立てわける能力がついていく。弟子たちは互いの切磋琢磨によって成長していった。自余とは「そのほか」「その他のもの」の意味である。日蓮は自余を交えない純粋な討論をうながした。目的は仏法の奥底を学び、他宗の誤りをただすことである。目的を忘れると雑談になり、心は遊戯におちいる。批判精神を忘れると学業自体が停滞する。

一、謗法(ほうぼう)(注)()()(しゃく)せずして遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)の化()(ならび)に外書歌道を好む可からざる事。

さらに日蓮は数ある弟子の中でも、才能のある者は口をきわめて賞賛している。

一、身軽法(しんきょうほう)(じゅう)(注)の行者に於ては下劣の法師()りと(いえど)当如(とうにょ)(きょう)(ぶつ)(注)の道理に任せて(しん)(ぎょう)を致す可き事。

一、弘通(ぐつう)の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の(おもい)を為す可き事。

一、下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば(あお)いで師匠とす可き事。

下賎の者であろうと若年であろうと、果敢に法を弘め、智慧すぐれた者は尊敬し、年長の思いをなし、師匠とすべきだという。日蓮はこれを率先した。法の前に差別はない。身分や出自はいっさい関係ない。

日蓮はすぐれた才能を見いだすことを無上のよろこびとした。いまはじめてひらく妙法の世界に、自分と同じ智慧をもつ者があらわれはじめたのである。自分の分身ともいうべき弟子が涌出(ゆしゅつ)しはじめた。これほどうれしいことはない。日蓮は「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」(御義口伝下)といったが、まさにそれである。

とりわけ議論の中で巧みに答える弟子をほめたたえた。

一、巧於(ぎょうお)難問(なんもん)(どう)(注)の行者に於ては先師の如く賞翫(しょうがん)す可き事。

先師とは日蓮のことである。戒文は先師日蓮をなつかしむようにしるしている。

さらにすぐれた人材は大切に育てねばならない。彼らには雑用などの些事をとどめ、学問に専念させている。

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し(さしお)き御抄以下の諸聖教を教学す可き事。

 この頃の日蓮にとって、弘教は当然のことながら、何より未来への基盤を強固にするための優れた弟子の発掘に必死だった。

 ところで日蓮は弟子たちにどのような方法で仏法を講義したのか。

 日蓮がみずから図示した「釈迦一代五時鶏図 (継図)」という真筆が、現代まで断簡を含めると十余枚ほど残されている。この書は釈迦から末法までの仏教の伝来を右から左に、ちょうど鳥の羽を伸ばした状態で書かれた図で、日蓮はこれを壁からつりさげて弟子に教育したものと思われる。あたかも現代の教育現場で、教師が黒板に板書しながら生徒に教えているようなものである。

 『曾谷入道殿許御書』に「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し」と説かれているが、日蓮は自ら弟子たちにその通り実践していた。おそらくその図は、日蓮が身延に入山した以降は、弟子たちが各宿坊で日蓮同様に使用し、信徒に説法したものと思われる。

f0301354_14400828.jpg

                 『一代五時鶏図(千葉県弘法寺蔵)


真夜中、日蓮が灯心のもとで経巻を読み、そこに天台、妙楽、伝教等の論・釈の文言を書き加えていった。

その脇で弟子たちが眠りについている。

外ではこがらしが吹いていた。

 孤児の二人が肩をふるわせながら日蓮の草庵に近づいた。

二人は草庵の中をのぞきこむ。

日蓮が背をむいて、ひたすら経文を書いている。

やがて子供たちは入口においてある椀をみつけた。

日蓮が筆を休め、そっと土間をのぞき込む。

玄関には空の椀がころがっていた。

二人の子はいつのまにか筵にくるまって寝ている。

あどけない寝顔だった。

日蓮の顔に思わず笑みがこぼれた。



               十一、11 生涯の法敵、極楽寺良観につづく


上巻目次



筑後房(ちくごぼう)(にち)(ろう)

寛元三年四月八日(一二四五年) -元応二年一月二十一日(一三二○年)六老僧の一人。大国(だいこく)()(じゃ)()とも称する。下総(しもうさ)国の出身。父は平賀有国。六老僧の一人日昭は叔父で、池上兄弟とは縁戚にあたる。

日朗は建長六年、大聖人に帰依する。竜の口法難の際、幕府に捕えられ(つち)(ろう)に投獄された五人の一人。また佐渡の流罪中の大聖人を度々訪ねている。尚、日蓮大聖人()遷化(せんげ)の後、池上宗仲が法華経の文字数六九、三八四文字と同じ坪数の領地を寄進、ここに寺院を建立し開祖となる。現在の池上本門寺である。しかし残念ながら現在の池上本門寺は釈迦の立像を本尊としている。大聖人が図現した十界曼荼羅(まんだら)()(えい)(どう)に掲げられているが、本尊とはしていない。つまり日朗には日蓮大聖人の末法の本仏としての内証は伝わっていなかったことになる。

謗法

誹謗(ひぼう)正法のこと。正法に背いて信受しないこと。または信受しない人。

「口に(そし)るを誹と言ひ、心に背くを謗と云ふ」(大智度論)

身軽法重

「身は軽く法は重し」と読む。章安の涅槃経疏巻十二菩薩品の文。教法弘通の精神を示した文で、衆生の身は軽く弘むべき法は重いとの意。一身を賭して教法を弘むべき旨を述べたもの。

当如敬仏

(まさ)に仏を敬うが(ごと)くすべし」と読む。仏を敬うように、妙法を受持する衆生に敬意を表すること。法華経普賢菩薩勧発品第二十八の文。同品に「()し是の経典を受持せん者を見ては、当に()って遠く(むか)うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」とある。

「無智の者は此の経を説く者に使はれて功徳をうべし。何なる鬼畜なりとも、法華経の一偈一句をも説かん者をば()当起遠迎当(とうきおんごうとう)(にょ)敬仏(きょうぶつ)』の道理なれば仏の如く互ひに敬ふべし。例へば宝塔品(ほうとうぼん)の釈迦多宝の如くなるべし。」  『松野殿御返事

巧於難問答

「難問答に巧みにして」と読む。法華経従地涌出品第十五の文。地涌の菩薩を我が弟子なりと明かした釈迦の言葉に、弥勒が疑問を呈した偈の中にあり、地涌の菩薩を称賛した句の一つ。あらゆる難解な論議に対しても巧みに正しく答えることをいう。



by johsei1129 | 2017-03-14 14:43 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 14日

九、女性信徒の出現

                             英語版


春の穏やかな陽ざしが武家屋敷にさしこむ。

ここには女房や後家尼たちが集まっていた。この中に金吾の妻日眼女やのちに大信者となる日妙がいた。

 日蓮は女性信徒の教化にも積極的だった。

法華経はもともと女人成仏の経典である。日蓮は唯一、女人成仏を説いた法華経に帰依すべきことを力説した。

「古来より女人は罪多き者といわれてきました。国を破る源ともいわれております。内典には五障(注)を明かし、外典には三従を教えております。三従とは、幼い時は親に従い、成人すれば夫に従い、老いては子に従う。かように幼い時より老耄(ろうもう)にいたるまで三人に従いて心にまかせず、思うことも言わず、見たきことをも見ず、聴聞したきことも聞かず、是を三従という。この三つの(さわ)りあるため、世間において自由ではない。仏法においても成仏できないとされておりました。しかし釈尊は法華経で初めて女人成仏を説いたのです」

 女性たちは念仏宗のことばかりを聞いていた。死んでから救われるだけの教えである。彼女たちはそんな説法に興味はない。だが日蓮はちがった。法華経は自分たち女性の成仏をじかに説いている。新鮮なおどろきだった。

「しかるに日本国の一切の女人は南無妙法蓮華経とは唱えずして、女人の往生成仏をとげざる双観・観経等によりて、弥陀の名号を一日に六万遍・十万遍なんど唱えるのは、仏の名号なれば(たくみ)なるには似たれども、女人不成仏・不往生の経によれるゆえに、いたずらに他人の(たから)を数える女人です。これひとえに悪知識にたぼらかされたためです。されば日本国の一切の女人の御かたきは、虎狼(ころう)よりも山賊海賊よりも、父母の敵・遊女(とわり)などよりも、法華経をば教えずして念仏などを教えるこそ一切の女人の敵です。女人の御身としては南無妙法蓮華経と唱えて法華経を信ずる女人にてあるべきに、当世の女人は一期(いちご)のあいだ弥陀の名号をばしきりに唱え、念仏の仏事をばひまなくおこない、法華経をば唱えず供養せず、あるいはわずかに法華経を持経者に読ませるけれども、念仏者をば父母兄弟のようにもてなし、持経者をば所従眷属よりも軽く思う。かくしてしかも法華経を信ずる由を名乗っている。早く早く心をひるがえし、正法に帰らねばなりませぬ」

当時の女性信徒が日蓮に心を開いていたことを示す、貴重な御書が残っている。

 その御書とは、比企(ひき)大学三郎の妻が、月ごとに巡る女性特有の(がっ)(すい)(月経の意)の時、仏道修行を、どのようにしたらよいかと、日蓮に問われたことへの返答の書「月水御書」である。

その中で日蓮は次のようにわかりやすく明快に説いている。


 日蓮、(ほぼ)聖教を見候にも、酒肉・()(しん)婬事(いんじ)なんどの様に、不浄を分明(ふんみょう)に月日をさして(いまし)めたる様に、月水をいみたる経論を未だ(かんが)へず候なり。在世の時多く盛んの女人、尼になり仏法を行ぜしかども、月水の時と申して嫌はれたる事なし。是をもつて()(はか)(はべ)るに、月水と申す物は外より(きた)れる不浄にもあらず。只女人のくせかたわ生死の種を継ぐべき(ことわり)にや、又長病(ながやまい)の様なる物なり。例せば()尿(にょう)なんどは人の身より出れども、()(きよ)くなしぬれば別にいみもなし、是体(これてい)(はべ)る事か。


日蓮はさらに女性信徒に説く。


 当世の一切の女人は仏の記し置き給ふ(ごの)五百歳二千余年に当たって、(これ)(まこと)の女人往生の時なり。例せば冬は氷(とぼ)しからず、春は花珍しからず、夏は草多く、秋は(このみ)多し。時節()くの如し。当世の女人往生も(また)此くの如し。(とん)多く(いかり)多く(おろか)多く(まん)多く(ねたみ)多きを嫌はず。(いか)(いわん)んや此等の(とが)無からん女人をや。女人往生抄


女性たちは夫の信心を通じて妙法を受持した。男のいうままに信心したが、彼女たちは法華経で説く女人成仏に関心をおぼえた。さらに驚くべきことに法華経は男女同等を説いていることを知った。これは彼女たちにとっては衝撃だった。

法華経以前の経典では、女性は何度も生まれ変わって男にならなければ成仏できないと説かれていた。女の身そのままで成仏はできないと説いてる。教典では、まるで女に恨みがあったのだろうかと思いたくなるほど女人に対し辛辣である。

「女人は地獄の使ひなり、()く仏の種子を断ず。外面は菩薩に似て内面は夜叉(やしゃ)の如し」(華厳経)()()()()

仮使(たとい)法界に偏する大悲の諸菩薩も、彼の女人の極業の(さわ)りを(ごう)(ぶく)すること(あた)はず」(十二仏名経)()()

「所有三千界の男子の諸の煩悩合集して一人の女人の業障と為る」(同)

「女人を見ること一度なるすら永く輪廻(りんね)の業を結す。何に況や犯すこと一度、定んで無間獄に堕す」(大論)。

()(
)

これを読む男性は女に生れなくてよかったと思うかもしれない。また女性にしても釈迦の女性批判には、思いあたる点があるかもしれない。

「苦の衆生とは別しては女人の事なり」(御義口伝上提婆品)という日蓮の指摘にもあるように、当時女性は圧倒的に社会的弱者であった。

だがこの女性の苦しみを打ち破ったのも釈尊だった。

釈尊は当初、比丘(男の出家僧)の修行の妨げになるとして女性の出家を認めなかった。最初の比丘尼(女の出家僧)は、釈尊の王宮時代の養母、摩訶波(まかは)(じゃ)波提(はだい)(マハーパジャパティー)だったが、彼女は再三出家を願い出たが釈尊に断られ続けた。見かねた釈尊の従者阿難が「マハーパジャーパティはあなたが恩ある方です。ぜひ出家を認めてください」と懇願し、ようやく許された。それでも出家者が守るべき戒(具足戒)は、比丘が二百五十戒に対し、比丘尼は三百四十八戒だった。

さらに釈尊は法華経で弟子たちに未来成仏の記莂をつぎつぎに与えたが、比丘ばかりでなく比丘尼にも成仏の約束をしている。

釈迦の叔母である摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)には一切衆生喜見仏、王宮時代の妻、耶輸(やしゅ)多羅女(たらにょ)には具足千万光相如来の記別をそれぞれ与えている。また蛇身の竜女が身を改めずして即身成仏し、舎利(しゃり)(ほつ)らの阿羅(あら)(かん)(注)を驚かせた。

日蓮は女性の本質について次のように説いている。

女人となる事は物に(したが)って物を随える身なり。『兄弟抄

女性はあらゆる社会の制約にしばられながら、信仰によって完全な自由を得られる。束縛されているように見えて「物を随える身」である。この自覚に立って妙法を唱えれば、自由自在の境涯をつかむことができる。女性にとって、これは法華経により盲目の目を開かれたようなものだった

日蓮の門下に(ごう)(しん)な女性が続出したのは自然の成りゆきだった。日妙をはじめとして妙法尼、桟敷(さじき)の尼、千日尼、日眼女など、日蓮自身が驚くほど強信の女性が輩出していった。

                        十、 弟子への薫陶につづく


上巻目次

()()()()()(
)

五障

女は、梵天(ぼんてん)(のう),帝釈天,魔王,転輪聖王,仏、にはなれないと言われてきた。竜樹の『大智度論』では五礙(ごげ)と称している。

阿羅漢(あらかん

)梵語arhanの音訳。一定の悟りを得、衆生から尊敬や供養を受けるにふさわしい僧の位。



()()(
)







by johsei1129 | 2017-03-14 13:23 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 03月 14日

八、日蓮を生涯支えた弟子・信徒の誕生

                               英語版


日蓮のもとに弟子となる若い僧がしだいに増えてきた。

日昭もその一人だった。

彼は日蓮が立宗宣言した建長五年四月二十八日から約半年後の十一月に弟子となった。生まれは下総国海上郡能手郷。日蓮より一歳年上である。十五歳のころ天台(てんだい)()(注)の寺で出家し、比叡山に登って天台の法門を習得したが、日蓮の立宗を聞いて鎌倉に下り弟子となり、松葉ヶ谷の草庵で修業することになった。

この日、日昭が草庵の入り口に人の気配を感じ、日蓮に声をかけた。

「上人、お客様のようですが」

日昭が戸を開けた。

四条金吾が立っている。

日蓮が笑顔で立ちあがった。

「おお、これはこれは、いつぞやの剛毅なお武家殿」

金吾がかしこまって、ぎこちなく頭を下げた。

日蓮が快く招き入れる。

ふだんは人一倍居丈高な四条金吾が小さくなっている。

「あの節は無礼の段、面目なき次第でござった」

日蓮が首をふった。

「なんでもないことです。それよりも、このような粗末な草庵にわざわざおこしくだされ、うれしく思いますぞ」

金吾が袂をかいつくろう。

「先だってのお話、始めて聞くものでござった。ほかの寺院では聞いたことがありませぬ。わたしのような者でも、上人のおおせのように成仏することができましょうや」

 日蓮はおだやかに話しだした。

「いまこの国は天変・飢謹・疫病が蔓延しています。仏法ではこの苦しみの世界を穢土(えど)という。けがれた世界です。しかし衆生の心濁ればまわりもけがれ、心清ければ清浄となるのです。浄土(じょうど)といい穢土というのも、ふたつのへだてはありませぬ。ただわが心の善悪によるのです。

衆生というも、仏というもまた同じです。迷うときは衆生と名づけ、悟るときは仏と名づける。たとえば汚れた鏡も磨けば、万物を映し出すように。ただいまも迷う心は磨かざる鏡です。これを磨けば必ず成仏の明鏡となります。深く信心をおこして日夜に、またおこたらず磨くことです。ではどのように磨けばよいのでしょうか。末法においては、ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを磨くとはいうのです。

あなたは武門の家に生まれました。今はいくさがないとはいえ、他の人を殺し、はたまたいつご自身の命を落とすかもわからぬ宿命です。また主君に仕える身であるからには手柄を立て、一所を懸命に守らねばならない。しかしいくら名聞名利を得たとしても夢の中の栄え、珍しからぬ楽しみです。すべからく心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱え、他をも勧めんことこそ、今生の思い出となるのです」

金吾の心は日蓮の一言一言に突き動かされた。

「名聞名利でござるか。たしかに上人のおおせの通りです」

日蓮は金吾の表情に、なにか陰があるのを見てとった。

「金吾殿、なにか心配事でもあるようにみうけられるが」

 金吾ははっとした。この人は自分の心が読みとれるのだろうか。

「いいえ。今の教えを聞き、心が晴れた思いがいたしまする。ただ・・」

日蓮が身をのりだした。

 金吾が下をむく。

「じつは娘が一人おりますが生まれていらい病弱で、長く床に伏せっております。わたしも少々薬草の心得があり、調合し使ってはいるのですが、はかばかしくなく・・。いろいろな神仏に祈りましたが、いっこうに良くなりません」

 日蓮がうなずいた。

「承知しました。日蓮も及ばずながら、金吾殿の大事なお子のため祈念いたしましょう無妙法蓮華経は師子がほえるのとおなじです。いかなる病が(さわ)りをなすことができましょうか。諸天善神は法華経の題目をたもつ者を守護します。ただし御信心によります。(つるぎ)なども勇気のない者には無用です。法華経の剣は信心のけなげな人が用いるもの。お子は必ず災い転じて幸いとなります。心を定め、御信心を奮い起こして祈念してくだされ」

 金吾は思わず手をついた。

しかとわかり申した。今から四条金吾頼基(よりもと)日蓮上人の信徒となり、南無妙法蓮華経と唱えていきます

金吾が返事するのと同時に、うしろから一斉に声があがった。

「入信おめでとうございます」

 驚いてふり向くと、大勢の町衆がいる。その中に富木常忍と安房天津の領主・工藤吉隆、幕府作事奉行を父に持つ池上宗仲、宗長の兄弟、さらに幕府儒官の比企(ひき)大学三郎がいた

 かれらは金吾のうしろで日蓮の話を聞いていたのである。

 金吾が顔を赤らめ、皆に頭を下げた。

 この時日蓮は三十五歳、四条金吾は九歳下の二十六歳、工藤吉隆は二十三歳、比企大学三郎は五十五歳だった。

 以後、四条金吾、池上宗仲、比企大学三郎は鎌倉の、また富木常忍、工藤吉隆は下総の有力な日蓮の檀越となった。彼らは信徒の中核として数々の法難に遭いながらも、生涯を妙法流布に捧げていくことになる。

 日蓮の布教はさらにつづく。

 幕府の御家人の中にも法華経に目覚める者がでてきた。四条金吾や木常忍など、御家人に仕える者もいたが、幕府の中枢にも法華経の理解者がでてきた。

 宿屋光則はその一人である。彼は俗の身分で出家し宿屋入道ともいったが、宿屋は北条時頼の側近中の側近として知られる。吾妻(あづま)(かがみ)()によると、後の時頼の臨終にして、看病のために出入りを許された七人の中に宿屋光則の名がある。

 日蓮は宿屋に会って意見交換をしている。宿屋は、いまだ無名に等しく決して高僧といえないが仏法の見識あふれる日蓮に好意をもった。


 

               九 女性信徒の出現 につづく


上巻目次


 天台宗

 中国隋代の天台大師智顗が開いた宗派。法華経を依経とするため、法華宗・天台法華宗という。法華経の教旨に基づき、釈迦の一代聖教を五時八教に分類して、諸経それぞれの意義と位置づけをし、仏教の真義は円教(法華経)に説かれる円融三諦であるとする。修行の段階に六即・五十二位を立て、一念に三千の法数を立てる。そして四種三昧・二十五方便・十境十乗観法(円頓止観)などの観法によって、すみやかに悟りを得、仏果を成ずることができると説く。

 日本へは鑑真が天台の典籍を伝えていたが、最澄が入唐中に道邃・行満から相承を受け、延暦二十四年(八〇五)に帰国後、比叡山で弘教に励んだ。そして最澄の没後七日目の弘仁十三年(八二二)六月十一日に大乗戒壇建立の勅許が下り、天長四年(八二七)五月に円頓戒壇が建立された。さらに貞観八年(八六六))、清和天皇より伝教大師諡号(しごう)が贈られた。日本史上初の大師号である。その後、慈覚(円仁)・智証(円珍)が入唐求法したが、智証が別派を立てたため、山門・寺門の分流が生じた。慈覚・智証はともに、天台宗の宗義に真言密教の教義を取り入れたため、日本の天台宗は急速に密教化していった。日蓮大聖人は伝教の弘教の結果設けられた大乗戒壇設立は、天台の弘教を超過したと評価している。


吾妻鏡

鎌倉時代に成立した日本の歴史書。治承四年(一一八○年)から文永三年(一二六六年)までの幕府の事績を編年体で記す。





by johsei1129 | 2017-03-14 11:32 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)