日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 03月 12日 ( 1 )


2017年 03月 12日

七、三災七難(大災害が日本を襲う)

                          英語版


日蓮が切通しを歩く。

鎌倉から武蔵をぬけて下総へ、東京湾を一周する道をとった。鎌倉で布教した信徒にこの方面の縁者が多い。道行くかたわらこの一帯を布教してまわったのである。

だが日蓮の意気込みを削ぐかのように、荒涼とした風景がつづいた。

田畑が荒れている。

まわりを見わたすと、やせ細った馬が道端に倒れている。今にも餓死しようとしていた。

日蓮が思わず眉をひそめる。

女の泣き声がどこからか、風にのって聞こえてきた。その哀調は悲しむようであり、恨むようであった。ただごとではない響きだ。

声の聞こえる方を向くと、一町ほど先に朽ちかけた百姓の母屋がぽつんとある

日蓮は誘われたようにこの家をたずねた。

玄関の戸を開け、中をのぞき込むと母親らしき女泣きくずれていた。そばには幼子が伏せている。
 日蓮がかけよった。

「いかがいたした」

女は日蓮の法衣を見て手をあわせた。何日食べていないのか痩せこけてげっそりとしていた

「お坊様、いま子供が亡くなりました」

「なんと不憫な。この子はなんと申す」

「まだ名前はつけておりません」

日蓮は子供のそばにひざまずくと合掌し「南無妙法蓮華経」と数回唱え、子供の死を弔った

日蓮は女にたずねた。

「父親はどうなされた」

「私を捨てて出ていきました。この飢饉で食べるものが尽きて、もうここには住めないと。わたしは子供をおいていくわけにもいかず、残っておりました」

「それはひどい」

「その上、はやり病がおきて、村の者はだれもいなくなりました」

日蓮が籠からにぎり飯をさしだす。

あ、これを食べて元気を出し、この子が来世に仏国土に生まれるよう南無妙法蓮華経と唱えるのです

 母親は泣きじゃくりながら子供の口元に握り飯を置き、日蓮の姿が見えなくなるまで南無妙法蓮華経と唱え続けた。


日蓮はさらに暗い殺伐とした空の下を行く。

歩み続けていくと、やがて異様なにおいがしてきた。いまだ体験したことのない臭気だった。

見ると、村のはずれで人々がすわりこみ、生き物を焼いているようだった。

そのまわりで女子供や年寄りが泣いていた。

近よって焼き場を見ると、なんとそれは何人もの死体であった。

「どういたした」

 うずくまった翁の返事が力ない。

「はやり病でございます。この一帯は疫病が充満しておりますだで。死人はすぐ焼けとの守護代様のご命令でこれで数え切れぬほどの・・」

老人がはずれの小屋を指さした。

日蓮は小屋の中に骸骨が充満しているのを見て愕然とした。

後ずさりし、ひざをくずす。

「なんということだ」

百姓がつぶやいた。

「作物はとれず、疫病が蔓延しておる。この村は全滅です」

この時、大地がたてにゆれた。そして強い横ゆれがおきた。かなり大きな地震だ。焼き場の山がくずれ、火の粉が飛びかった。

女子供が日蓮にしがみついた。

村人たちが絶叫し逃げまどう。

日蓮が揺れに負けまいと仁王立ちになった。

鎌倉に帰っても状況は変わらなかった。切通しの両側には無数の乞食がひざをかかえ、延々とならんでいた。みなぐったりとして動かない。

食を乞う声がひびく。

「お恵みを、お恵みを・・」 

日蓮が厳しい眼差しで周囲を見わたした。助けようとしてもなすすべがなかった。

田園地帯には二つの太陽があらわれたという。

百姓は枯れはてた田畑で太陽を指さしなげく。

祈祷師は太陽にむかって手を合わせた。

 

鎌倉時代は武士が台頭した下克上が特徴とされるが、同時に大災害が頻発した時代でもあった。

 例えば日蓮が立正安国論を献上した建長五年から翌年の建長六年にかけて、建長五年六月十日鎌倉大地震、建長六年一月十日鎌倉大火、五月九日大風により幕府政所(まんどころ)の文書散失、五月十一日京都大地震、七月一日鎌倉大風雨と、立て続けに災難が発生している。

日蓮はこの災難を複数の書にくりかえし記している。

旅客()たりて(なげ)いて(いわ)く、近年より近日に至るまで、天変・地夭(ちよう)飢饉(ききん)疫癘(えきれい)(あまね)く天下に満ち、広く地上に(はびこ)る。牛馬(ちまた)(たお)れ、(がい)(こつ)道に()てり、死を招くの(ともがら)既に大半に超え、之を悲しまざるの(やか)(らあ)えて一人(いちにん)も無し。


(いよいよ)飢疫に(せま)り、乞客(こつかく)()(あふ)れ死人(まなこ)に満てり。()せる(しかばね)(ものみ)と為し、並べる(かばね)を橋と()す。『立正安国論


今此の国土に種種の災難起こることを見聞するに所謂(いわゆる)建長八年八月自り正元二年二月に至るまで、大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病等種種の災難連連として今に絶えず、大体国土の人数尽くべきに似たり。之に依って種種の祈請を致す人之多しと雖も其の験無きか。  『災難対治抄


而るに当世は随分国土の安穏を祈ると(いえど)も、去ぬる正嘉(しょうか)元年には大地大いに動じ、同二年に大雨大風(みょう)(じつ)を失へり。定めて国を(ほろぼ)すの悪法此の国に有るかと(かんが)ふるなり。 守護国家論

死骸は物見台となり、橋となっているという。この悲惨な様子は誇張ではない。

日蓮が生まれる四十年前、鴨長(かものちょう)(めい)は「方丈記」で京都の飢饉の様子を記録している。この具体的な記述は現代のわれわれを震撼させる。


 また養和のころとか、久しくなりて覚えず、二年があひだ、世の中飢渇(けかち)して、あさましき事(はべ)りき。或は春・夏ひでり、或は秋、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるい()なみありて、秋刈り冬収むるぞめきはなし。

これによりて、国々の民、或は地を棄てて境を出で、或は家を忘れて山に住む。さまざまの御(いのり)はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、みなもとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて(のぼ)るものなければ、さのみやは(みさお)もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま()ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、(うれ)へ悲しむ声耳に満てり。 「方丈記 養和の飢饉()」より。


このあと長明は大地震の様子をえんえんと述べる。天変地異が人々を絶望させた。

日蓮が北条時頼(最明寺入道)に立正安国論を献上したのは、正嘉年間におきた大地震がきっかけだった。

朝廷や幕府はこの災害に無策だったわけではない。祈祷や秘法がさかんに行われたが効果はあがらない。

さらに元号の改変を行ったがこれも効き目はなかった。

現代の日本は天皇が崩御すると改元する。

だがこの時代はちがった。

天変地異、疫病、凶作がきっかけで、なんども変更された。為政者も必死の思いで災難からぬけだそうとしていたのだ。

ちなみに日蓮は貞応元年に生まれ、六十一歳で亡くなったが、この間、二十二回にわたり年号が変わっている。

元仁、嘉禄、安貞、寛喜、貞永、天福、文暦、嘉禎、暦仁、延応、仁冶、寛元、宝治、建長、康元、正嘉、正元、文応、弘長、文永、建治、弘安である。おぼえきれるものではない。

わずか六十一年でこれだけの元号が変わっている。

この二十二の元号の中で一番長く続いたのは文永年間だったが、それでも十一年で改元された。

なお、日本の歴史上もっとも長く続いた元号は昭和で、六十三年続いた。


元号の読み名には、なんとしても世を安穏にしたいという為政者の願望がうかがわれる。

こうして人々は、末法という言葉の重みをひしひしと感じていたのである。 

若宮大路のむこうに八幡宮が見える。

 鎌倉幕府の政務・財務をつかさどる政所(まんどころ)では会議が始まっていた。

北条時頼、時輔・時宗の兄弟、時頼の叔父の北条重時、安達泰盛がいならぶ。下座には陰陽(おんよう)()が控えていた。

時頼はいらだって徘徊した。

「この国は天変・地震・飢饉・疫病に取りつかれている。いったい、どうなっておるのだ。神、仏から見捨てられたのか」

北条重時が各地の御家人から届いた書状を見ながらつぶやいた。

「関東で餓死者一万人。疫病に倒れた者二万。さらに二つの太陽があらわれ、黒白の虹がでたとのことです」

時頼の怒りは、やり場がない。

「これ以上悪いことはないといっていいほどだ。われら北条が天下をおさめて以来の危機である。地方に逆族の反乱がおこっても不思議ではないぞ」

 重時が憮然として答えた。

「今は祈ることしかできないのが現状でござろう」

「ならば京・鎌倉の寺社の祈祷はどうなっておる」

「本年一月には六斎日・二季彼岸()の殺生禁止をすでに命じており、六月には諸国の寺社に(しつ)(えき)退治の祈祷を命じております」

「それがなぜ通じない。かえって災難を増長させておるではないか。陰陽師、どうなっておるのだ。なにか良くなる策はないのか」

 陰陽師六壬式盤(りくじんちょくばん)(注)に目をやり、答える

「恐れ入りまする。今はただ、この国土に魔が入り、鬼がはびこっているとしかいいようがございませぬ」

 これを聞いていた時頼が言い放った。

陰陽師にも策がないなら、わしが決断するだけだ。米倉を開き、乞食にほどこせ。各地の薬草を取り集めよ。商人どもを使え。全国のすべての寺社に祈祷をつづけさせよ」

鎌倉の蓮花寺に聴衆がつめかけていた。念仏宗の大寺院である。

人々はこの苦しい世を乗りこえるには念仏にすがるしかないと参詣した。

聴衆の中に薄墨の法衣と袈裟をまとった日蓮がいる。

やがて黒衣の僧侶、然阿が説法をはじめた。

然阿は正式の名を然阿良忠という。石見(島根県)の出身。十六才で出家。円信・信蓮に従って倶舎、天台を学び、密蔵・源朝に従って密教を修行した。その後、弁阿聖光の立義を聞いて築後へ行き、その弟子となる。仁治元年(一二四○年)北条経時の要請で鎌倉に蓮花寺(のちの光明寺)を開き、授戒している。また後嵯峨天皇に円頓戒を授けて香衣を給わったという。鎌倉を代表する念仏僧である。       
 その然阿が静かに語りだす。

「この世は苦しみで満ちている。この苦しみから逃れるには、南無阿弥陀仏と唱えるしかない。ほかの教えは捨てるのです。われわれ凡夫に叶う教えは南無阿弥陀仏しかない。ほかの教えは理想が高すぎる。われわれは法華経も華厳経もわからない。これらを捨て去って南無阿弥陀仏とだけ唱えておれば往生できるのです」

ここで日蓮が声をあげた。

「すばらしい。まことにすばらしい」

然阿がほほえんで会釈した。日蓮はその笑顔をとらえた。

「成仏の教えは南無阿弥陀仏しかないとか、法華経などの教典を捨てよとは大胆ですな。その教えはだれがどこで説いたのですかな」

「お若い方。よくぞ聞かれました。阿弥陀経でございます」

日蓮は腕をくんで感心した。

「不思議ですな。阿弥陀経とは釈迦の説法のうちでも(ごん)大乗経といって法華経、涅槃(ねはん)経等の(じつ)大乗経と比べ一段程度の低い教えです。それを根拠に成仏は南無阿弥陀仏と唱えるしかないとか、ほかの経をすべて捨てるというのは仏教の開祖釈尊を(さげす)むことになるのではないかな。そもそも阿弥陀経に、他の経はすべて捨てよと説かれておられるのかな

然阿が一瞬、気色ばんだ。

「いやいや、それはちがう。法然上人が申されておる。われらはそれに従うまで」

「惜しいかな。せっかく叡山で修業したにもかかわらず、法然上人は低い教えに執着し釈迦の仏法をまげてしまった。無間(むけん)地獄にひとしい罪である。それを教える者も、人々を地獄に引き入れる悪人でありましょう」

然阿が興奮しだした。

「そなたはだれだ。名をなのれ」

日蓮は聴衆にむかっていった。

「みなさん、わたしは松葉ヶ谷に住む日蓮と申す僧でございます。今の話をくわしく聞きたければ、いつでもわたしのところへおこしくだされ」

満座の怒号の中、然阿の弟子が日蓮を堂内から追い出す。

 日蓮は堂々と去っていった。

日蓮は法華経を弘めるかたわら、他宗の寺におもむき、さかんに法論をしかけていった。

 その甲斐があり、松葉ヶ谷の日蓮の草庵にはしだいに大勢の聴衆がつめかけるようになっていった。

日蓮が草庵を訪れた人々に力強く話す。

「教主釈尊は説法をはじめて四十余年の後、未だ真実を顕していないとして法華経を説かれました。したがって法華経以前に説かれた阿弥陀経は、法華経で説かれた最高の悟りは含まれない方便の教えであり、法華経こそ八万法蔵といわれる一切経の王であり釈尊の究極の教えであります。それ故、法華経の題号である妙法蓮華経と唱えなければ末法の衆生が成仏することは叶いません。

法然上人はこの法華経を「捨閉(しゃへい)閣抛(かくほう)」つまり、捨て、閉じ、(さしお)き、(なげう)って念仏を唱えよと言います。それ故、釈尊の最高の教えを誹謗(ひぼう)する法然上人の南無阿弥陀仏を唱えれば、無間地獄に陥るのは必定(ひつじょう)なのです」

 念仏の僧侶たちは日蓮にかなわなかった。

日蓮は経文を先として念仏の邪義を攻めたので念仏者は反抗できなかったのである。

 昔から法然の念仏を批判した者は多かった。念仏禁止の宣旨もでた。比叡山もかつては念仏を弾圧したが、勢いは止まらず法然の教えは広まった。それを日蓮は食いとめはじめた。

日蓮はその理由を次のように語っている。

  (とし)三十二建長五年の春の(ころ)より念仏宗と禅宗とをせめはじめて、後に真言宗等をせむるほどに、念仏者等始めにはあなづる。日蓮いかにかしこくとも明円(みょうえん)房・(こう)(いん)僧上(注)・顕真座主(ざす)(注)()()()()()()等にはすぐべからず。彼の人々だにも始めは法然上人をなん()ぜしが、後にみな堕ちて(あるい)は上人の弟子となり、或は門家(もんけ)となる。日蓮は彼がごとし。(われ)()めん、我つめんとはやりし程に、いにしへの人々は但法然をなんじて、善導(ぜんどう(注)道綽(どうしゃく)等をせめず。又経の権実をいわざりしかばこそ、念仏者はをご()りけれ。今日蓮は()()・法然等をば無間地獄(注)()につきをとして、(もっぱ)ら浄土の三部経を法華経にをしあ(推合)はせてせむるゆへに、(ほたる)()に日月、江河に大海のやうなる上、念仏は仏のしばらくの戯論(けろん)の法、実にこれをもって生死をはなれんとをも()わば、大石を船に造りて大海をわたり、大山を()なて険難を越ゆるがごとしと難ぜしかば、(おもて)()かうる念仏者なし。   『破良観等御書

明円、公胤、顕真はいずれも念仏に帰伏した僧である。なかでも顕真は天台座主でありながら念仏にひかれて宗旨替えをした。

念仏者たちは日蓮も同じだと思っていた。師の法然を責めても勝つわけがないと。

 だが日蓮の手法はちがう。

法華経を至高とし、念仏者がすがる浄土三部経を戯論(けろん)くだし、法然の師である中国の善導までふくめて無間(むけん)と破折した。釈尊の一切経および梵・漢の主要な論・釈を把握した上で諸宗派の僧を攻めていったのである。

日蓮は十六の年で得度し、三十二で立宗するまで、またそれ以降も内外の典籍を研鑽し続けていた。当然ながら善導の書も読みこんでいる。この日蓮の研鑽の成果は正安国論を始め、生涯書きのこした五百以上に及ぶ著作(御書)に次第に明らかにされていくことになる。

日が傾いていた。

馬上の武士、四条金吾が鎌倉の街を悠然と進んでいた。

従者が馬の口をとる。

金吾が自邸の門をくぐり、大声で呼んだ。

「いま帰ったぞ」

妻の日眼女がでてきた。

「お帰りなさいませ」

「子の様子はどうじゃ」

二人が家の奥に入っていく。

部屋の戸を開けると幼子が布団に寝ている。

金吾が寝顔をのぞきこんだ。いかつい金吾が慈愛にあふれた表情をみせた。

妻の日眼女がつぶやくように言った。

「少し良くなったようですが」

「もう少し様子を見た方がよいか。一進一退だのう」

「申しわけありません。私がいたらぬばかりに」

「おぬしのせいではない。世間でも、はやり病がまん延しておる。いくら防いでもこればかりはどうにもならぬ」

金吾の部屋には小さな土びんがずらりとならんでいた。

金吾は薬草に長じていた。今でいう薬剤師であり、医師でもあった。主君の病を治した実績がある。

彼は小さじで薬を調合し、皿に盛った。そして日眼女に薬をわたした。

「明日の朝、これを娘に」

日眼女がうなずいた。

 四条金吾は北条光時(名越光時とも)に仕える幕府御家人である。光時の父は名君北条泰時の弟朝時だった。北条の直系ではない。だが北条と名のるだけでも人々に重きを置かれた。

四条金吾も二代続いた光時の家来として鎌倉で名を知られていたが、とりわけ有名だったのは、その性きわめて強情短気だったことである。

居間の中央に大きな囲炉裏がある。

下女が夕飯の支度をはじめた。

金吾が飯をとった。

日眼女がその横で機嫌をとる。

「いかがでございました。今日は」

金吾はぶっきらぼうに答える。

「なにもない。単調な宮仕えだ。光時様も北条の分家とはいえ、お元気であらせられる。今のところは安泰であろう」

「今のところは・・」

「執権時頼様が引退されたあとはどうなるかわからぬ。いまや本家に権力が集中しておる。これからは、われら分家の家臣はいつどうなるかわからぬ」

「まさかいくさでも」

「わしも武士のはしくれ。その時は覚悟せねばならぬ」

日眼女がしんみりとしたが、気を取り直して酒をとり、金吾の杯にそそいだ。

「さあさあ、心配事はよそにおいて」

日眼女がにこやかに金吾を見つめた。

「あのお坊様のお話をまたしてください」

金吾は露骨にいやな顔をした。

「もうしとうはない」

 日眼女はかまわず話を続ける。

「あの日はたいそう怒ってましたわね。お坊様に・・」

「日蓮という僧侶はわしの暴言にも、たじろがなかった。骨のある僧かもしれぬ」

「あなたの話を聞いていると、まるであなたを僧侶にしたようなお方ですわね」

金吾は思い出していた。

日蓮の言葉が耳にのこっている。

「男ははじ()に命をすて、女は男の為に命を()つ」

いっぽう、日蓮の信徒となった富木常忍は鎌倉の千葉邸に勤めていた。富木は日蓮より六歳年上である。それだけに分別にも長けた人物だった。

富木の主君千葉氏は全国に所領をもっていた。下総をはじめとして畿内、九州にまで領地があった。常忍は千葉氏の披官として訴訟の取扱、年貢の徴収、輸送、財政の管理など多忙であった。

富木の父はもともと因幡(鳥取)の出である。因幡国の富城郡に本領があった。父が千葉家に仕えたため、子の常忍も関東入りして出仕することになった。

富木親子は有能な官僚だった。承久の戦乱はとうに終わり、治世の安定が急務の時である。千葉氏のような実力者は才能ある文官を求めていたのである。

その千葉邸では事務官が机を並べ、書き物をしていた。そのあわただしさは現代の会社とかわらない。広場には馬や荷車が忙しく出入りしていた。

事務室では富木常忍が机で文書を(したた)めている。その横で同僚が書類に目を通していた。彼は届いたばかりの下し文を読んでいた。苦い顔である。

「また鎌倉殿から作事の下命じゃ」

 みなが「またか」とばかりに顔を見合せる。

「おいおい、千葉家が守護とはいえ、財政は逼迫しておる。なんとかことわる手はないのか。どこだ、作事は」

「京都、蓮華王院」

「それはまた、たいそう金のかかること」

常忍が思案する。

「まず殿の上洛の算段をせねばならぬ。少なく見積もって二百貫」

同僚がなげいた。

「ないぞ、ないぞ、そんな金は下総にも、鎌倉にも」

皆が腕を組んだ。

常忍が口をひらく。

「では九州の年貢から調達するのはどうだ」

同僚が手を打った。

「そうであった。金は商人から借り入れし、決済は九州で取り立てさせよう」

地方の財政難は今に始まったものではない。中世人も苦労していた。彼らは()(しゃく)という商人や運送業者を駆使して幕府の指示をこなしていたのである。年貢の収穫が遠隔地であれば馬借が取り立てる。為替の一種だった。

同僚がぼやいた。

「しかし物入りだのう。わが殿は京都の大番役を務めたばかりではないか。つぎからつぎへと責められるな。鎌倉殿は人使いが荒すぎるぞ」

常忍がたしなめた。

「これこれ。滅多なことを申すでない。殿が安泰でいられるのも鎌倉殿のおかげではないか。われわれは殿のために、あらゆる手段で策を講じなければ」

 同僚たちが一同に笑った。

富木殿、お説ごもっともです。我ら一同しかと承りました。法華宗(ごう)信徒の富木殿にはかないません

富木の法華信仰は有名である。みな苦笑しながら仕事にもどった。

彼らは文書を整理し、使い古しの紙は捨てていた。この紙を常忍がひろいあつめた。

同僚が怪訝(けげん)な顔をした。使用済の紙など、なんに使うのか。

松葉ヶ谷の草庵に夕日がさしていた。

日蓮が筆をとる。

常忍から届けられた使い古しの紙に筆を入れている。表は書き込まれていたが、裏面はまだ使える。この紙は常忍たち千葉家の役人が使っていたものである。

当時、紙は貴重だった。()き返しといって再利用していたほどである。

常忍は雑紙の束をとどけ、日蓮と弟子たちはこの雑紙の裏に仏典や天台教学を書き写し、研鑽していたのである。余談だが、このおかげで表面に書かれていた千葉家の文書が現代まで伝わり、鎌倉時代を知る貴重な紙背資料となっている。


                八、日蓮を生涯支えた弟子、信徒の誕生につづく
上巻目次


 注

六斎日・二季彼岸

仏教用語で、毎月八・十四・十五・二十三・二十九・三十日を「六斎日」、春秋二季にある彼岸の期間を「二季彼岸」と称し、持戒清浄で過ごす日とされていた。

六壬式盤

陰陽(おんみょう)()が使用した占いの道具。文字・図が記された四角い盤の上に、北斗七星や邦楽等が記された円盤が乗っている。この円盤は天を意味し、四角は地を意味したと思われる。鎌倉時代の陰陽師はこの円盤の回転によって占う六壬式を必須とした。

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公胤僧上

 平安末期から鎌倉前期にかけての天台宗の僧。源氏将軍の威光をうけ、しばしば鎌倉へ下向した。北条政子の依頼により源頼家の遺児である公暁を弟子としてあずかっている。一方で後鳥羽上皇の信任も厚かった。法然が選択集をあらわしたとき「浄土決疑抄」を執筆して非難したが、のちに法然に会って法門を聞くにおよんで帰依したという。

顕真

大治五年(一一三○)~建久三年(一一九ニ)比叡山延暦寺第六十一代座主。美作守藤原顕能の子。比叡山に登って顕教を座主の明雲に学び、密灌(みつかん)(密教の秘密灌頂という儀式)を法印相実から受ける。後に法然の専修念仏の義を信じ、余行を捨てて専ら念仏三昧にふけった。文治六年(一一九○)三月に天台座主となり、建久元年(一一九○)五月、権僧正となったが、同三年十一月没す。

善導

大業九年(六一三)~永隆二年(六八一)。中国浄土教善道流の祖。姓は朱氏。臨淄(山東省)、または泗州(安徽省)の生まれといわれる。道綽(五六二~六四五)のもとで観無量寿経を学び、念仏を行じた。師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。最後はこの世が苦しみに満ちているとして極楽往生を願い、柳の木から身を投げて死去した。

「此の身諸苦に逼迫せられて情偽反易し、暫くも休息すること無し。乃ち所居の寺の前の柳樹に登りて、西に向かって願って云はく、仏の威神(しばしば)以て我を摂し、観音勢至も亦来たって我を助けたまへ。此の心をして正念を失はざらしめ恐怖を起こさず。弥陀の法の中に於て以て退堕を生ぜざらんと。願し(おわ)って其の樹の上に極まり身を投じて自ら絶えぬ」(類聚伝)

無間地獄

 八大地獄(八熱地獄ともいう)の一つ。大阿鼻地獄ともいう。間断なく大苦を受けるのでこの名がある。欲界の最底部にあり、縦横八万由旬で周囲に七重の鉄の城があるという。五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・(すい)(ぶつ)(しん)(けつ)・破和合僧)の一つを犯す者と、正法誹謗の者はこの地獄に堕ちるとされる。

「法華経二の巻に云はく『其の人(みょう)(じゅう)して阿鼻獄(あびごく)に入らん』云云。阿鼻地獄と申すは天竺の言、唐土日本には無間と申す。無間はひまなしとかけり。一百三十六の地獄の中に一百三十五はひま候。十二時の中にあつけれども、又すゞしき事もあり。()へがたけれども、又ゆるくなる時もあり。此の無間地獄と申すは十二時に一時(ひととき)かた時も大苦ならざる事はなし。故に無間地獄と申す。此の地獄は此の我等が居て候大地の底、二万()(じゅん)をすぎて最下(さいげ)の処なり」 『光日上人御返事



by johsei1129 | 2017-03-12 22:52 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)