日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 11月 21日 ( 4 )


2015年 11月 21日

撰時抄愚記 下五


  第二十二段 真言の
(ぜん)無畏(むい)を破す


一 真言宗と申すは

 此の下は第三に、真言宗を破す、三あり。初めに無異等を破し、次に弘法(こうぼう)を破し、三には覚鑁(かくばん)を破す云云。真言宗の事は七帖(しちじょう)一本五十四已下、()いて見よ。

一 善無畏三蔵(さんぞう)

(とう)()三十十六已下。

一 会二(えに)()()の一乗

 二乗所修の法を()し、二乗の人を破する故なり。開目の三十三

一 (しか)して善無畏三蔵

  此の下は善無畏(しゅ)()の相なり。「をこつかれ」とは笑い(あざけ)る義なり。

一 一行(いちぎょう)禅師(ぜんじ)文。

宋高僧伝の五・三、統紀の三十・十九。

一 かさむ。 

一 法師(ほっし)品・神力品等

  法師品は勿論(もちろん)「当説」の文なり。神力品は「四句の要法」の文か。(すで)に「如来の一切の所有(しょう)の法乃至(みな)此の経に於て宣示(せんじ)顕説(けんぜつ)す」等云云。

一 大日経に(じゅう)(しん)(ぽん)

  大日経義釈に云く「此の経の宗は横に一切の仏教を()ぶ。唯蘊(ゆいうん)無我(むが)等と説くが如きは即ち諸部の小乗を摂す。唯蘊阿頼耶(あらや)と説くが如きは諸経の八識等を摂す。(ごく)()自性(じしょう)と説くが如きは即ち華厳・般若等を摂す。如実(にょじっ)()自心(じしん)(とう)と説くが如きは仏性・一乗・如来秘密、(みな)其の中に入る」等云云。既に「如実知自心」の句に法華・大日経を(せっ)す。即ち是れ究竟(くきょう)真実の法なり、故に(さき)の諸句は皆是れ未顕真実なりと云云。

一 釈迦仏は舎利(しゃり)(ほつ)弥勒(みろく)に向って等

  是れ迹本二門の対告(たいごう)(しゅ)なり。

一 水と(にゅう)とのやうに一味となすべし等。 

  大日経義釈に「理同」と書するは是れなり。

一 (さん)(みつ)相応(そうおう)

  印は即ち(しん)(みつ)、真言は()(みつ)一念三千は()(みつ)なり。

一 真言は(こう)なる将軍

  此の(たとえ)蘇悉地経(そしっじきょう)疏の一・七に()ず、啓蒙十二・三十に引く。天台、文の八に云く「(ほこ)に当る難事」等云云。之を思い合わすべし。

宗祖破して云く、三十五・七に云く「裸形(らぎょう)猛者(もさ)の進んで大陣を破ると甲冑(かっちゅう)を帯せる猛者の退(しりぞ)いて一陣をも破らざる」等云云。(法華真言勝劣事)

一 一行(いちぎょう)阿闍(あじゃ)()は此のやうに()きけり等

 第七・七に云く「()(じょう)法華(ほっけ)(げん)に、法華経と諸大乗は(こころ)は一と書きてこそ候えと、此が謗法の根本にて候か。嘉祥に(とが)あらば善無畏も(のが)れ難し」等云云。されば現身に鉄縄(てつじょう)(すじ)を付けられ、臨終に悪相を現ず等は常の如し。また一行阿闍梨も()()国に流されたり。是れ現罰なるべし。三国伝の二・三十八、知覚禅師の万善同帰集の下三十二、盛衰記の五・十一、()いて見よ。盛衰記に「一行、玄宗(げんそう)を相して云く、(おも)(じに)に死にたまわん相ありと。また()()を相して云く、野辺にて死にたまわん相ありと」云云。此の事、(たが)わざるなり。太平記の三十七巻の如し。又十八史略の五・十九には少異あり。()いて見よ。

一 又末法に()めさせん等

  真言宗をば末法に(ゆず)り、伝教は之を責めたまわざりしなり。

一 一筆(いっぴつ)みへて候文。

 依憑集(えひょうしゅう)序に云く「新来の真言家は筆受の相承を(ほろぼ)」云云。


                              つづく
撰時抄愚記下 目次


by johsei1129 | 2015-11-21 09:40 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 11月 21日

撰時抄愚記 下四

    十三日


  第二十一段 禅宗を破す


一 
()宗は又此の便(たより)を得て等

 此の下は第二に禅宗を破す。「律」の字、恐らくは(あやま)れり。(まさ)に「禅」の字に作るべし。律宗は(もと)是れ()(さい)なり。何ぞ「此の便を得て」と云わんや。(いわん)(ただ)三宗の謬誤(びゅうご)を破するをや。次に「禅宗と申す宗」等とは是れ判釈(はんじゃく)の言に非ず。禅徒が一切の道俗を勧むるの辞なり。

一 教外(きょうげ)別伝(べつでん)と申して等

  是れ(だい)(ぼん)(てん)(のう)問仏決疑(もんぶつけつぎ)(きょう)の意なり。彼の経に云く「大梵天王、霊山会上(りょうぜんえじょう)に至って、金色(こんじき)沙羅(しゃら)()を以て仏に(けん)じ、仏群生(ぐんじょう)の為に法を説きたまわんことを()う。世尊()に登って華を(ねん)じ、蓮華目を(まじろ)がす。人天万億(まんのく)(ことごと)く皆(はか)るもの()し。(ひと)金色の頭陀(ずだ)破顔(はがん)微笑(みしょう)す。世尊(のかまわ)く、(われ)に正法眼蔵・涅槃の妙心、実相微妙の法門有り、不立(ふりゅう)文字(もんじ)教外(きょうげ)別伝(べつでん)摩訶(まか)迦葉(かしょう)に分付す」等云云。

 (しか)るに此の経は偽経(ぎきょう)なり。開元(かいげん)貞元(じょうげん)の二録は之を()せず。故に(こう)(ほう)の開心抄に云く「大梵天王問仏決疑経は諸師引かず。伝録は之を載せず。近代の禅者、自録の中に此の文を引く。謀説(ぼうせつ)疑いなし、信用するに足らず」云云。

一 禅宗をしらずして等

  (かみ)は一代聖教を誹謗(ひぼう)するの辞なり。此の下は諸宗を誹謗するの相なり。(いわ)く、禅宗を知らずして諸経を読誦するは犬の(いかずち)いが()が如し。教門に(かかわ)るは(おおざる)の月の影をとるに似たり等云云。


                    つづく
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by johsei1129 | 2015-11-21 08:52 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 11月 21日

撰時抄愚記 下三


一 日本国に末法に入って一百余年等

  此の下は、次に日本の法然云云。末法に入って百三十三年に当り「()鳥羽院(とばいん)」の即位なり。法然は十代の帝王を経歴(きょうりゃく)す。別して後鳥羽の代に(もっぱ)法柄(ほうへい)()る。故に後鳥羽を標するなり。(つぶさ)安国論愚記の如し。

一 仏法は時機を()()為す()

  法然、()(まこと)に仏法は時機を本と為すと知らば、何ぞ妙法を弘めざるや。教主釈尊、(はるか)に時機を(かんが)みて云く「後の五百歳中」と云云。天台云く云云。妙楽云く云云。伝教云く「末法(はなは)だ近きに有り」等云云。

一 ()(しん)の先徳

  釈書の四二十、啓蒙の十一・七十已下、安国論の日辰抄、()いて見よ。

一 彼の往生(おうじょう)要集(ようしゅう)文。

  彼の序に云く「顕密の教法、()の文一に非ず。事理の業因(ごういん)、其の行()れ多し。利智精進(しょうじん)の人は(いま)(かた)しとせず。予が如き頑魯(がんろ)の者、(あに)(あえ)てせんや」と云云。

一 三論の(よう)(かん)が十因等文。

  釈書の五・三。

  彼の十因に云く「念仏の一行を開いて十因と()す。一には広大善根なるが故に、二には衆罪消滅するが故に、三には宿縁深厚(じんこう)なるが故に、四には光明摂取(しょうしゅ)するが故に、五には(しょう)(しゅう)護持(ごじ)するが故に、六には極楽に化生(けしょう)するが故に、七には三業(さんごう)相応するが故に、八には三昧(さんまい)発得(ほっとく)するが故に、九には(ほっ)(しん)同体なるが故に、十には本願に随順するが故に」云云。彼は(ただ)三部経のみを見て未だ未顕真実の文を見ず。嗚乎(ああ)(あわれ)むべし云云。

一 往生(おうじょう)要集の序の言、道理かとみへければ等

  国家論十・三十二の意は、与えて之を論ずるが(ごと)。今当抄(とうしょう)の意は、奪って之を論ずるなり。浄土の三師も(また)(しか)なり。

 国家論の意に云く「()(しん)僧都(そうず)(えい)(かん)二年に往生要集を造って末代の愚機を調(ととの)え、而る後、寛弘年中に一乗要決を造って本懐を()べたり。()中間(ちゅうげん)二十余年、(ごん)を先にし実を後にす。(あたか)も仏の如し」等云云。当抄の下の文に云く「()(しん)は伝教大師の獅子身中の虫なり」等云云。与奪(よだつ)自在の破文なり。

一 (けん)(しん)()()文。

 六十一代の座主なり。啓蒙(けいもう)の中に云云。

一 国主・山寺の僧等

  「国主」は即ち後鳥羽院、「山」は即ち叡山、「寺」は即ち三井寺(みいでら)なり。承久(じょうきゅう)三年の兵乱(ひょうらん)は、法然悪霊(あくりょう)と成り、其の身に入るが故なり。(すで)に是れ現証なり何の文証を求めんや。


                   つづく
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by johsei1129 | 2015-11-21 08:32 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)
2015年 11月 21日

撰時抄愚記 下二

一 道綽(どうしゃく)禅師(ぜんじ)文。

  註の四・二十一、啓蒙二・五十、()いて見よ。

  問う、此の師の謬誤(みょうご)如何(いかん)

  答う、此の師の(しょう)(どう)・浄土の二門は鸞公(らんこう)難易(なんい)の二道に異らず。故に選択集(せんちゃくしゅう)に云く「難行・易行、聖道・浄土は其の(ことば)(こと)なりと雖も、其の意は是れ同じ」等云云。(すで)に「其の意は是れ同じ」と云う、故に亦其の(あやま)りも是れ同じきなり。

亦別して之を論ずれば更に二失あり。一には(しょ)(りゅう)不成(ふじょう)(とが)、二には執権(しゅうごん)(ぼう)(じつ)の失なり。

  初めに所立不成の失とは、安楽集の上に云く「一には(いわ)く聖道、二には謂く往生(おうじょう)浄土なり。其の聖道の一種は今時(こんじ)証し難し。一には大聖を去ること遥遠(ようおん)なるに()り、二には理深(りじん)解微(げみ)に由る。是の故に大集月蔵経に云く『我が末法時の中の億々の衆生は(ぎょう)を起し道を修するとも、(いま)だ一人の得者有らず』と。当今(とうこん)末法は是れ五濁悪世にして(ただ)浄土の一門のみ有って通入すべき(みち)たるべし」已上。

  (およ)道綽(どうしゃく)の聖道は即ち是れ鸞公の難行道なり。鸞公の難行道は即ち是れ歴劫(りゃっこう)長遠(ちょうおん)の権大乗なり。故に(たと)い如来の在世と雖も、実に是れ難行・難証なり。何ぞ「大聖を去ること遥遠(ようおん)なるに由る」と云うや是一。

  古徳云く「高山の水は深谷(しんこく)(くだ)る能あり。最頂の教えは下機(げき)を救う力あり」云云。(たと)えば軽病には凡薬、重病には仙薬の如し。故に知んぬ、理深ならば即ち解微(げみ)に非ず、解微ならば則ち()(じん)に非ざることを。何ぞ「理深解微」と云うや(これ)二。

  又大集月蔵経の中に(すべ)て此の文無し。故に撰択伝弘の二十四に云く『経に此の文無し。(ただ)し是れ取意なり』云云。(なお)取意の文にも非ず。何となれば白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)の意は浅理(せんり)隠没の義なり。今所引の意は深理(じんり)隠没の義なり。故に知んぬ、彼の文の意に非ず、故に取意の文にも非ず、(まさ)しく是れ妄説なり是三。(あに)所立不成に非ずや。

  次に執権(しゅうごん)(ぼう)(じつ)とは「(ただ)浄土の一門のみ有って」とは即ち是れ執権なり。「(いま)だ一人の得者有らず」とは(あに)謗実に非ずや。

一 道綽(どうしゃく)が弟子に善導(ぜんどう)と云う者あり

  註四十三、啓蒙二五十、()いて見よ。

  問う、此の師の謬誤(びゅうご)如何(いかん)

  答う、此の師は即ち是れ(らん)(しゃく)に相承す。故にその謬誤(びゅうご)(また)鸞・綽の如し。若し別して之を論ぜば、此の師の正雑(しょうぞう)の二行は(もっぱ)弥陀(みだ)の三部経に()る。所謂(いわゆる)正行に(また)五種あり。読誦(どくじゅ)・観察・礼拝(らいはい)称名(しょうみょう)讃歎(さんだん)なり。此の五種を分ちて正助の二行と為す。(いわ)く、称名の一行を正行と為し、読誦等の四行を助行と為す。此の弥陀三部の正助の二行を除いて、自余の諸善を(ことごと)(ぞう)(ぎょう)と名づく。

而して雑行の(しつ)を判じて「千中無一」と謗じ、正行の(とく)を明かして「十即十生」と執するなり。法然、此等の意を結して云く「此の文を見て(いよいよ)(すべから)く雑を捨てて(せん)を修すべし。(あに)百即百生の専修(せんしゅう)正行(しょうぎょう)を捨てて、(かた)く千中無一の(ざっ)(しゅ)(ぞう)(ぎょう)に執せんや」等云云。既に是れ毀謗(きぼう)()(きょう)分明なり。豈「(にゅう)阿鼻獄(あびごく)」の人に非ずや。


                   つづく
撰時抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-11-21 08:24 | 日寛上人 御書文段 | Comments(0)