【提婆達多品八箇の大事】
第一 提婆達多(注)の事 文句の八に云く「本地は清凉にして迹(しゃく)に天熱を示す」と。
御義口伝に云く、提婆とは本地は文殊なり、本地清凉と云うなり。
迹には提婆と云うなり、天熱を示す是なり。清凉は水なり、此れは生死即涅槃なり。天熱は火なり、是は煩悩即菩提なり。
今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るに、煩悩即菩提・生死即涅槃なり。
提婆は妙法蓮華経の別名なり。過去の時に阿私仙人なり。阿私仙人とは妙法の異名なり。阿とは無の義なり、私無きの法とは妙法なり。
文句の八に云く「無私法を以て衆生に灑(そそ)ぐ」と云えり。
阿私仙人とは法界三千の別名なり、故に私無きなり。一念三千、之を思う可し云云。
(注)
提婆達多
釈迦族の一員で釈迦とは従兄弟同士となる。釈迦の従者で多聞第一と謳われた阿難(アーナンダ)は提婆達多の弟になる。
釈迦教団の中にあって、後に釈迦への批判を強め、教団の分裂を画策するとともに、マガダ国の国主・阿闍世王をそそのかし、度々釈迦を殺害しようと試みた。最後に毒薬を自分の親指に仕込んで毒殺しようとしたが、その毒が自分の体に回り、大地が割れて地獄に落ちたと伝えられている。
釈迦は妙法蓮華経・提婆達多品で、提婆達多は過去世で、釈迦が国王であった時に法華経という優れた経があることを教えてくれた阿私仙人であったと説いた。阿私仙人のように正しい教えに導く人を「善知識」という。
日蓮大聖人は【三三蔵祈雨事】で善知識について次のように説かれておられます。
『されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん。ただあつ(熱)き・つめ(冷)たきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たいせち(大切)なり。
而るに善知識に値う事が第一のかた(難)き事なり。されば仏は善知識に値う事をば一眼のかめの浮木に入り、梵天よりいと(糸)を下(さげ)て・大地のはりのめ(針の目)に入るにたと(譬)へ給へり。
而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく、善知識は爪上の土よりもすくなし』と。
【御義口伝 上】要点解説(88)に続く
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