日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 11月 16日

百三、正義を伝うる者

日興は波木井実長に反省を求め、懺悔(ざんげ)をしるして師日蓮の仏前にそなえることをすすめた。

しかし実長には聞こえない。

彼は腹立ちまぎれに、自分は日向を師匠としていると声高にいったという。地頭の名聞からか、地主である(おご)りからか、自分は仏法を理解していると思ったか、実長には日興の諫言が耳にはいらない。

だからといって日興は実長を責めたりはしない。かりそめにも師の日蓮を九年にわたり養った檀那である。日興も実長から恩をうけたのだ。いつかは目覚めて改心するかもしれないからだった。

かわりに日興は日向(にこう)をはじめとした五老僧をきびしく糾弾している。人を導くはずの者が、師に敵対するとはなにごとか。

日興は今さらながら師の言葉をかみしめた。

外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。「師子身中の虫の師子を()む」等云云  『佐渡御書

身延は謗法の山と化した。日蓮の仏法が日蓮の弟子によって滅びようとしている。

日興はもはや自分がこの地にいることはできないとさとった。地頭の供養を断って去ることは、艱難がまちかまえていることを意味したが妥協はできない。日蓮の法をあやまたず、つぎの世にのこしていくためだった。

後代、このような日興を(かたく)なであると批判する者がいるが、その言葉の中身は五老僧とおなじ水準である。かれらには法を守る責任が欠けているのである。

その五老僧は転落していった。

かれらは日蓮亡きあと、まず自分の名をかえた。日蓮の弟子とは名のらず、天台沙門といった。退転した三位房が慢心のあまり、名をかえたのと似ている。

つぎに折伏を用いず世間と妥協した。他宗に加わり国家安泰の祈祷を行った。あの竜の口の法難の時、退転した弟子たちが「我等はやは()らかに法華経を弘むべし」といったのとおなじである。

すべては身の安全をはかるためだった。

日蓮の教えはいまだに世の批判をうけている。五老僧は強情な日蓮とは一線を画して非難を避けた。保身をはかり、謗法の供養をうけるために日蓮の義を捨てた。こうして国家を祈り、名をあげようとした。日向が天長地久と祈ったように。

日興はいきどおる。


祈国の段亦以て不審なり。所以は(いかん)、文永免許の(いにしえ)先師()()の分既に以て顕はれ(おわ)んぬ、何ぞ(せん)(しょう)道門の怨敵(おんてき)に交はり坐して(とこしなえ)に天長地久の御願を祈らんや  『五人所破抄

師日蓮は佐渡流罪赦免のおり、幕府から蒙古退治の祈祷を依頼された。このとき日蓮は条件として諸宗の僧の首を刎ねることを申しでた。邪宗をともにする祈祷は、逆に国を滅ぼすからである。日蓮は諸宗退治が許されないと知るや、鎌倉を去り身延の山中に入った。これが日蓮の精神である。

五老僧はすすんで増上慢の僧とともに国を祈った。立正安国の精神は踏みにじられたのである。

彼らの無智は信じがたい。

五人は日蓮の著作などはないという。耳を疑う言葉である。

彼の五人一同の義に云はく、聖人御作(おんさく)()書釈(しょしゃく)は之無き者なり。縦令(たとい)少々之有りと雖も、或は在家の人の為に、仮文字を以て仏法の因縁を(ほぼ)之を示し、若しは俗男俗女の一毫(いちごう)の供養を(ささ)ぐる消息(しょうそく)(へん)(さつ)に施主分を書きて愚痴(ぐち)の者を引摂(いんじょう)し給へり。而るに日興は聖人の御書と号して之を談じ之を詠む、是先師の恥辱を顕はす云云。故に諸方に散在する処の御筆をば或は()かえ()しに成し、或は火に焼き(おわ)んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に(つぶさ)に之を(しる)して後代(こうだい)()(きょう)と為すなり。  『富士一跡門徒存知事

五人は日蓮が弟子檀那にのこした仮名文字の書をみとめない。

仏法といえば漢字で表現していた時代である。五老僧は仮名文字の消息など、知恵の足らない在家信徒にあたえた手紙であり、供養の礼をしるしたものばかりで、価値はないばかりか、師の恥をさらすものだとした。それなのに日興はありがたく読み談じている。五人は俗男俗女を相手にする日興を軽蔑した。それはとりもなおさず、一閻浮堤広宣流布をめざした師日蓮を見下したものとなった。

五人は日蓮の書をすき返してもとの白紙にもどしたり、焼却している。後代の弟子にとって、目をおおうばかりの所業がなされていた。

五人はつねに日蓮のそばにいたわけではない。遠くはなれた地にいるために、師の教えを体読できなかった。仏法の真髄を学ぶには劣悪な環境だった。彼らにも言い分はあろう。だが百歩ゆずって彼らの言い分をみとめても、日蓮亡きあと、五人は日興を手本にして正義をつぐべきだったのだ。彼らの心地に「当如敬仏」の精神はなかった。求道心の一分でもあれば、日興を師範として仏法を学ぶべきだったのだ。

かたや日興は仏法の破滅をおそれ、立正安国論をはじめとする著作の目録をのこした。この目録がなければ、それこそ日蓮の書は五人のいうとおり、皆無となったであろう。現存する書は偽物とされ、仏法は跡形もなくなっていたろう。もちろんこの小説もない。日興と五人はかくも大きなへだたりである。雲泥の差とはこのことではないか。

謗法の者はまず三悪道におちるという。

日興はその証人として身延山を謗法の山にかえた民部日向の所行をしるす。

殊に去る卯月(うづき)朔日(ついたち)より諸岡(もろおか)入道の門下に候小家に籠居して画工を招き寄せ、曼荼羅(まんだら)を書きて同八日仏生日と号して、民部は入道の室内にして一日一夜説法して布施を(かか)へ出すのみならず、酒を興ずる間、入道其の心中を知りて妻子を喚び出して酒を勧むる間、酔狂(すいきょう)の余りに一声を()げたる事、所従眷属の嘲笑(ちょうしょう)口惜(くちお )しとも申す計りなし、日蓮の御(はじ)何事か之に過ぎんや、此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり。

かりにも日蓮門下と名のる者が、見苦しく布施をかかえ、酔態をさらして嘲笑をうける。日蓮からあとを託された日興にとって、これほどの屈辱はない。

日興は日向の醜態がやがて地頭の耳に入るであろうという。実長はそのうちに日向を見捨てるであろうと。


 ところで直弟子の中から六老僧を指名した日蓮は、自身滅度の後の遺弟の行く末をどのように考えていたのであろうか。()遷化(せんげ)の二日前に池上邸で日興に口伝(くでん)した血脈抄(けちみゃくしょう)「本因妙抄」に次のように極めて厳しい考えを示している。

(釈尊)(じゅく)(だつ)の教主・(それがし)(日蓮)は下種の法主(ほっす)なり、彼の一品(いっぽん)二半()舎利(しゃり)(ほつ)等の為には観心たり、我等凡夫(ぼんぷ)の為には教相たり、理即・短妄(たんもう)の凡夫の為の観心は、余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり。

()くの如く深義を知らざる僻人(びゃくにん)出来(しゅったい)して予が(りゅう)()は教相辺外と思う可き者なり、此等は皆宿業の(つたな)き修因感果の()(ごく)せるなるべし。

()の天台大師には三千人の弟子ありて章安(しょうあん)一人(ろう)(ねん)なり。伝教大師は三千人の衆徒を置く、義真()已後は其れ無きが如し。今以て()くの如し。数輩の弟子有りと(いえど)も疑心無く正義を伝うる者は(まれ)にして、一二の小石の如し。秘す可きの法門なり」


本抄文中の一二の小石とは、日興上人、日目上人であると強く推察される。日蓮は生前、日興を除いた五老僧が「疑心無く正義を伝うる者」とはならないことを已に喝破(かっぱ)していたのだ。

その証左として、現在まで続く五老僧の流れをくむ日蓮系各派は、弘安二年の本門戒壇の大御本尊を信奉せず、多くは釈迦の立像を本尊としている。日蓮直筆の(まん)()()本尊を掲げていても、本仏は釈迦像なのである。

まして日蓮が広宣流布の(あかつき)に戒壇を建立すべきと三大秘法稟承事」に記して遺弟に託したことなど僧侶も信徒も誰ひとりとして知る由もなかった。


(前略)霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提(えんぶだい)の人、懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず大梵天(だいぼんてん)(のう)帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり(中略)年来(としごろ)己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可し、其の後は何と()ゆとも叶うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も(せん)無し(後略)


     

          百四、日興、身延離山 に続く


下巻目次


 一品二半

 妙法蓮華経・(じゅう)()()(しゅっ)(ほん)第十五の後半の半品(はんぽん)、如来寿量品第十六の一品、分別功徳品第十七の前半の半品を合わせて一品(いっぽん)二半。日蓮は観心本尊抄で、この一品二半が妙法蓮華経の極説中の極説であるとし、これ以外は法華経と言えど小乗経であると断じ、さらに末法においては「(ただ)題目の五字なり」と解き明かした

 「本門に(おい)(じょ)(しょう)流通(るつう)有り、過去大通仏(だいつうぶつ)の法華経より乃至(ないし)現在の華厳(けごん)経乃至迹門(しゃくもん)十四品涅槃(ねはん)経等の一代五十余年の諸経、十方三世諸仏の微塵(みじん)の経経は皆寿量の序分なり。一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相(ふぞう)教と名く(中略) 在世の本門と末法の(はじめ)は一同に純円なり、(ただ)し彼(釈尊)は脱、此れ(日蓮)は種なり。彼は一品二半、此れは但題目の五字なり。」『観心尊抄』

 義真

 天応元年(七八一) - 天長十年(八三三)

 平安時代前期の天台宗の僧。奈良興福寺で法相を学び、(がん)(じん)の弟子から受戒される。その後最澄に師事し、延暦二十三年、中国語の通訳として最澄にともない唐へ渡り、最澄と同じく道邃(どうずい)から円頓戒を授戒し帰国する。弘仁十三年、最澄が没した後、比叡山大乗戒壇初の授戒の伝戒師となり、二年後の天長元年(八二四年)、初代の天台座主(ざす)に就任する。著書に「天台法華宗義集」がある。





by johsei1129 | 2017-11-16 22:45 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)


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