日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 09月 20日

日蓮の生涯 概略

                     

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日蓮は貞応(じょうおう)元年(1222)二月十六日、安房(あわ)郡東条郷()(みなと)に生まれた。


この時代、日本では源 頼朝により鎌倉幕府が開かれて四十年がたっていた。東洋では蒙古帝国が武力でアジアを席捲(せっけん)する途上にあり、西洋では十字軍の侵攻が始まっていた。世界的な闘諍の時代だったのである。


日蓮の父は三国太夫といい、母は梅菊といった。父の三国太夫は、詳細は不明だが漁師を生業としており、殺生を仕事としていた。日蓮はのちに「日蓮は日本国東夷(とうい)東条安房の国の海辺の(せん)()()が子也」(佐渡御勘気抄)と記されている。いっぽう母の梅菊は鎌倉時代の武将の一族だったことが知られている。母は和歌などに相当の教養があったとの説があり、日蓮のたぐいまれな文筆力はこの母の薫陶(くんとう)があったのではないかと考えられている。


日蓮は幼名を(ぜん)(にち)麿(まろ)といった。善日麿は十二歳となった天福元年(1233)、故郷の小湊からほど近い古刹(こさつ)、清澄寺にのぼり仏門に入った。()()日蓮は後に清澄寺の信徒に宛てた手紙で次のように記している。


生身(しょうしん)の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便(ふびん)とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の(そで)にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣(ほぼ)是を知りぬ] (清澄寺大衆中)


そして四年後、十六歳の時に正式に出家剃髪(ていはつ)し、名を()生房(しょうぼう)蓮長と改めた。是生とは日の下の人を生むの意味である。蓮長は妻帯をせず、一生を仏法にささげることを誓った。


だが清澄寺のあった安房は文化的に辺境の地だった。蓮長は仏教の中心であった鎌倉の鶴岡八幡、京都叡山(えいざん)、南都薬師寺等の諸寺院を訪ね、仏法の真髄を学んでいった。蓮長は十六年間にわたり研鑽に研鑽を重ね、ついに仏法の奥底を極めた。この時、蓮長は前途に苦難が待っていることを覚悟し「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん」と誓った。


建長五年(1253)四月二十八日、蓮長は故郷の安房に帰り、立宗を宣言した。そして自らの名を日蓮と改めた。場所は蓮長が「日本第一の智者となし給え」と祈った清澄寺の持仏堂においてだった。


「南無妙法蓮華経」。日蓮は全世界つまり一閻(いちえん)浮提(ぶだい)の人々がこの題目を唱えることによって成仏へのが開かれると宣言した。同時に民衆の成仏得道への道を(はば)んでいた四つの宗派を徹底的に破折した。念仏は無間(むけん)(ごう)、禅宗は天魔の法、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説(もうせつ)これを四()の格言という。の四()の格言は一切衆生の元品(がんぽん)()(みょう)を断ち切る利剣となった。


 だがこれを伝え聞いた安房の地頭、東条(かげ)(のぶ)が日蓮をすぐさま捕えようとした。景信は念仏の強信者であり、清澄寺を自分の支配下に置こうと目論(もくろ)んでいた。釈尊が法華経「末法で大白法を弘めると難がふりかかる」と予言していたとおり、日蓮にすぐさま難がふりかかった。


日蓮はこの難を避け、政都鎌倉を中心に布教を始めた。南無妙法蓮華経の題目を弘め、諸宗をきびしく()(しゃく)する布教は以後十八年続いた。諸宗を批判していくにつれ、名声とともに悪名高まっていった。また日蓮は弟子信徒に対して随力(ずいりき)弘通(ぐつう)を教え、その結果、弟子信徒の近親者、武家の同僚、他宗派の僧侶などに次第に日蓮に帰依(きえ)する弟子信徒が増えていった。


また当時は飢饉(ききん)や疫病が流行し大災害も頻発していた。「近年より近日に至るまで天変地夭(ちよう)飢饉(ききん)疫癘(えきれい)(あまね)く天下に満ち広く地上に(はびこ)る。牛馬(ちまた)に倒れ骸骨(みち)()てり、死を招くの(ともがら)既に大半に超え、悲しまざるの(やから)()えて一人も無し」。日蓮はこの悲惨な状況を記録し、解決の道を釈尊の一切経求めた。


くわえて(しょう)()元年(1257)五月に大地震がおきた。この大地震は鎌倉のすべての建物を破壊した。日蓮は連綿とつづく災害を偶然の出来事ではなく、念仏の悪法から起きることを喝破(かっぱ)し立正安国論を書き上げる。文応元年(1260)七月、日蓮はこれを幕府高官の宿屋入道を通じて、時の権力者である北条時頼に提出した。そのさい日蓮は宿屋入道に幕府が公認していた念仏と禅宗の庇護(ひご)の停止を進言した。さらにもし採用されない場合、内乱と他国の侵略が起きることを予言した。(第一回国家諌暁()


また立正安国論の執筆中に日蓮の後継者となる伯耆(ほうき)(ぼう)日興が入門した。弱冠十二歳の日興はこれ以後「日蓮に影の形に(したが)うがごとく」布教の前線に立つことになる。


立正安国論を提出した一か月後、念仏者が日蓮の草庵を襲った(松葉ヶ(やつ)の法難)。日蓮はからくも難を逃れた。これに加えて翌年の弘長元年(1261) 五月、鎌倉幕府は日蓮を伊豆流罪(るざい)に処分した。幕府内の重臣に念仏の強信者がいたためだった。しかし二年後、執権北条時頼はこの処分が讒言(ざんげん)によるものだったとして日蓮を赦免する。これを契機に日蓮門下の折伏の活動はさらに活発になっていった。


文永元年(1264)七月、空に大彗星があらわれ世情の不安は一層つのっていく。この年の十一月、日蓮は安房小松原で地頭の東条景信に襲撃される。(小松原の法難)。日蓮は(ひたい)に傷をこうむり左の腕を折る重傷を負ったが、法華経の行者に大難が降りかかるという金言を証明することで、自らが末法の法華経の行者であるとの確信をいっそう深めていった。


それから四年後の文永五年(1268)一月、日本の行く末に暗雲をもたらす事件が起きる。蒙古帝国の使節が太宰(だざい)()に到着し、通商を要求した。蒙古は強大な軍事力で朝鮮を滅ぼし、中国本土に侵攻していた。皇帝フビライは国書の中で日本に隷属を強要し、拒絶すれば攻撃すると脅した。鎌倉幕府はこの恫喝(どうかつ)を無視して国土防衛の準備をはじめた。この結果、蒙古の日本襲来は決定的となった。


 この事件は日蓮が九年前、立正安国論で予言した他国侵逼(しんぴつ)(なん)的中を意味した。日蓮はこの国難は自分でなければ解決できないと確信、この年の十月、執権北条時宗をはじめ鎌倉の各寺院に書状(十一通御書)を届け、公場対決を迫った。国主の前で諸宗の僧を集め、仏法の正邪を決するためである。日蓮は邪法への帰依を止めなければ、いよいよ国難が迫ると訴えた。


だが幕府をはじめ鎌倉の僧侶は日蓮の諫言(かんげん)を黙殺した。日蓮の勢力が強大となることを恐れたためだった。法華経を信奉する信徒の数は日本国の十分の一にまで達していた。


蒙古の国書到着から三年がたった文永八年(1271)六月、鎌倉幕府は極楽寺良観に()()を命じた。祈雨とは雨をふらせる祈祷(きとう)である。この年、日本の田畑は干ばつに見舞われていた。極楽寺良観は幕府公認の高僧であり、教義で対立する日蓮を激しく非難していた。日蓮はこの良観に祈雨の対決を申し出る。結果、良観はこの勝負に敗れ、保身のために日蓮を陥れる画策を始めた。良観は幕府の高官夫人に取り入り、執拗(しつよう)な讒言を浴びせた。この声は幕府内に広まり、日蓮を追及する空気が広がった。


九月十日、日蓮は幕府の重臣の(たいらの)(より)(つな)に召喚される。頼綱は幕府の軍事・警察を統括し、執権時宗の(ふところ)(がたな)とも言える存在だった。頼綱は日蓮に讒言の真偽を糾したが、日蓮は正法をもって蒙古に備えることを主張し頼綱の激高を誘った。


九月十二日夜、平頼綱は日蓮の草庵を襲った。頼綱は執権時宗の許可を受けずに日蓮を暗殺する計画をたてた。日蓮は額に傷を受けながら「(殿)ばら()但今日本国の柱をたおす」と叫び、自界(じかい)叛逆難(ほんぎゃくなん)と他国侵逼難を再度予言した。(第二回国家諌暁


日蓮は鎌倉の海岸「(たつ)の口」で斬首されることになった。しかし深夜丑寅(うしとら)の刻に突然現れた光物によって刑は中止。日蓮はこの絶体絶命の場でおきた奇瑞で、法華経に説く上行菩薩の再誕としての(しゃく)の姿を払い、久遠(くおん)元初(がんじょ)()受用報(じゅゆうほう)(しん)如来の本地を顕した。そして「日蓮は日本国の諸人にしう()()父母()なり」と宣言し、自分が主師親の三徳を備えた末法の本仏であると示した。


この日蓮の逮捕とともに、信徒にも追放・領地没収などの弾圧が始まった。日蓮は門下の信徒のうち「百人が九十九人」退転したと記している。執権北条時宗は日蓮を助命はしたものの、讒言を受けて佐渡ヶ島への流罪を決定した。


日蓮は佐渡の逆境の地で末法の本仏の立場から本尊を建立した。末法に入り釈尊の法華経という「教」は残されていたが、仏となるための「行」は時代にそぐわなくなり力を失っていた。当然衆生は釈迦仏法を行じても「証」となる仏にはなれない。


日蓮は末法の衆生に一(ぷく)の本尊を授与しその本尊に南無妙法蓮華経と唱えることで成仏するという未来永遠にわたる「行」を確立した。


あくる文永九年(1272)一月、佐渡塚原の地で他宗との争論に勝利した(塚原問答) 。この時日蓮は間もなく自界叛逆難が起こることを佐渡の守護代本間重連(しげつら)に予言する。一か月後、鎌倉で北条の一族同士で戦闘(二月騒動)が起き、幕府に衝撃を与えた。


文永十一年(1273)二月、執権北条時宗はついに日蓮を赦免した。時宗は蒙古帝国の攻撃に備え、日蓮の力を借り国運を高める策を立てた。この赦免によってそれまで禁教だった日蓮の宗義は事実上公認されるに至った。


この四月、日蓮は鎌倉に帰還し、北条時宗の意を受けた平頼綱と面会する。日蓮は頼綱の問いに「よも今年はすごし候はじ」と答えて蒙古が年内に攻めてくると予言、真言をはじめとした諸宗に祈祷祈願をさせてはならないことを説いた。(第三回国家諌暁


だが幕府は既成の宗派を排除することができなかった。日蓮は幕府を突き放し、甲斐(かい)()(のぶ)山に隠棲した。一応は「三度いさ()めて用いずば山林に交われ」の古言に従った行動だったが、再往は弟子の育成と出世の本懐を達成するためだった。


この年の十月、日蓮の予言どおり蒙古が来襲した。日本側は壱岐(いき)対馬(つしま)をはじめ大宰府を破られ敗北同然のあり様だった。蒙古軍は去ったが、日本はつぎの攻撃で亡国になるという悲観的な情報が伝わった。


日蓮は身延山に隠棲したあと九年の間、一歩も外へ出ることはなかったが、述作や本尊の建立、弟子の教育、信徒への手紙など令法(りょうぼう)()(じゅう)に全力を注いだ。鎌倉の信徒の一人、四条金吾は(たつ)の口の法難をともにした強信者だったが、主君から退転を迫られた。日蓮は鎌倉から遠くはなれた身延の草庵から激励の書を送った。また作事(さくじ)奉行の家に生まれた池上兄弟は父から念仏を強要され苦境に陥ったが、日蓮は「歯がみ」をして耐えるよう訴えた。


弘安二年(1279)九月、(あつ)(はら)の法難がおきた。富士熱原地方で弟子の日興の布教によって他宗の僧侶が続々と入信、この勢いが農民にも広がっていた。平頼綱はこの事態を重く見て、法華経を信奉する二十人の百姓を捕え退転を迫った。頼綱は日蓮を弾圧できない代わりに、もっとも社会的立場の弱い農民信徒を標的にした。これは日蓮の信徒が初めて受ける大難だった。百姓たちは脅迫されたが、かたくなに拒み、神四郎をはじめ三兄弟が処刑された。


日蓮は無名の農民が信仰をつらぬく姿に一閻(いちえん)浮提(ぶだい)、すなわち全世界の衆生が妙法をたもつ時を感じ、大御本尊建立にとりかった。それまでの一機一縁の本尊とはちがい、一閻浮提の一切衆生に与える大(まん)()()だった。日蓮は末法万年(じん)(みらい)(さい)()えるよう(くすのき)の大木を半丸太状態にした本体に大御本尊を図現した。


この大御本尊こそ立宗宣言から「余は二十七年なり」という歳月を要した出世の本懐だった。


この弘安二年十月十二日に建立された大御本尊は日蓮仏法の根本の法義である三大秘法(本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇(かいだん))を束ねる一大秘法となって現在富士大石寺の奉安堂に安置されている。



日蓮は日本が蒙古軍によって亡国となるであろうことを繰り返し説いていた。弘安四年(1281)、十四万の蒙古軍が4400の軍船で再度日本を襲った。蒙古は中国を征服した余勢を買い、大船で日本に迫ったが台風に遭遇、全滅して敗れ去った。この結果に亡国を唱えていた日蓮は沈黙を守ったが、諸宗の僧は自らの祈祷の成果であると吹聴した。富士大石寺二十六世の日寛は日本の勝利を「是れ蓮祖の勧誡に依って神明(しんみょう)、国を助くるなり」(報恩抄文段下)とし、日蓮の功績であると断言している。


六十一歳となった日蓮は死期が迫ったことを悟り、弘安五年(1282)九月、後継者を白蓮(びゃくれん)阿闍(あじゃ)()日興に定めた。日蓮は遺言で「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり」としるし、後継者日興に広宣流布を託した。そして自分に続く後代のすべての僧侶に対し、日文字をつけて名乗らなければ自然(じねん)の法罰を(こうむ)るべし」と戒めた。


このあと日蓮は九月八日に身延山を下山し、武蔵の国池上(むね)(なか)邸に逗留、病身をおして立正安国論を弟子に講義した。そして十月八日、門下の中心となる六老僧を定めたあと、十三日(たつ)の刻、池上邸で入滅した。


 後継者の日興は日蓮の死後、六年のあいだ身延山久遠寺(くおんじ)の別当として日蓮の法門を守ったが、この間日興を庇護するはずの地頭波木井(はきり)(さね)(なが)が四箇の謗法を犯した。仏像の造立、神社参拝、謗法への供養、念仏堂建設だった。さらに六老僧の一人日向(にこう)がこれを許容したため、身延山の謗法は蔓延(まんえん)していく。身延の地主が謗法に染まり、それを(いさ)めても聞かない以上、もはやその地に留まることはできない。正応元年(1288)十二月、日興は断腸の思いで謗法の地身延山を去り、二年後の正応三年(1290)、父子二代に渡り日蓮の薫陶を受けた(ごう)信徒南条時光の寄進により、駿河に富士大石(だいせき)()を開創して大御本尊を安置した。日興はこの地で四十三年のあいだ、宗祖日蓮の法義を守り続けた。


正慶元年(1332)、八十八歳の日興は直弟子の日目にあとを託す。その内容は広宣流布の(あかつき)に師日蓮が建立した本門戒壇の大御本尊を本門寺に懸けることであり「大石寺は御堂(みどう)と云ひ墓所(むしょ)と云ひ日目之を管領(かんりょう)し、修理を加勤行(ごんぎょう)を致して広宣流布を待つべきなり」として師日蓮と同様の言葉をのこした。そして翌年、広宣流布と(まん)(ねん)救護(くご)のため未来の弟子信徒に二十六ヶ条の戒律をのこして世を去った。「富士の(りゅう)()(いささ)かも先師の御弘(ごぐ)(つう)()せざる事」「当門流に於ては御抄を心肝に染め(ごく)()を師伝して()(いとま)あれば台家を聞くべき事」。先師とは日蓮、御抄とは日蓮が(したた)めた御書である。これら二十六条の置文は今も富士大石寺にて固く守られている。


後継者日目は、日興死去の年の十一月、京都朝廷へ申状を提出する天奏の旅に出た。生涯で四十二度目の国家(かん)(ぎょう)だったといわれる。だが途上の美濃(みの)垂井(たるい)で病のために入滅、七十四歳だった。日目は死の床にあって臨終をむかえる無念を語り、自分に代って諌暁を成し遂げる者がいれば日目の再来であると遺言して世を去った。


こうして三代にわたる弘法(ぐほう)の精神は脈々と受け継がれ、日蓮から日興、日興から日目と継承されている大御本尊を信仰の根本とする日蓮門下の信徒は、現在世界五十ヵ国以上にまで及んでいる





小説 日蓮の生涯 



by johsei1129 | 2016-09-20 22:22 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)


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