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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 24日

日蓮大聖人が晩年六老僧に法華経を講説しそれを日向が書き記した【御講聞書(おんこうききがき)】その二

【御講聞書 本文】その二

一 自証無上道・大乗平等法の事
 仰せに云く、末法当今に於て大乗平等の法を証せる事、日蓮等の類いに限れり。されば此の経文は教主大覚世尊・法華経の極理を証して番番に出世し給いて説き給うなり。
 所詮此の自証と云うは三十成道の時を指すなり。其の故は教主釈尊は十九出家・三十成道なり。然る間・自証無上道等と云へり。所詮此の品の心は十界皆成の旨を明せり。然れば自証と云うは十界を諸法実相の一仏ぞと説かれたり。地獄も餓鬼も悉く無上大乗の妙法を証得したるなり。自は十界を指したり。恣(ほしい)ままに証すと云う事なり。権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり。今日蓮等の類いは真実自証無上道・大乗平等法の行者なり。所謂南無妙法蓮華経の大乗・平等法の広宣流布の時なり云云。

一 我始坐道場・観樹亦経行の事
 仰せに云く、此の文は教主釈尊・三十成道の時を説き給えり。観樹の樹と云うは十二因縁の事なり。所詮十二因縁を観じて経行すと説き給えり。十二因縁は法界の異名なり・又法華経の異名なり。其の故は樹木は枝葉華菓あり。是れ即ち生住異滅の四相なり。大覚世尊・十二因縁の流転を観じ・経行し給えり。
 所詮末法当今も一切衆生・法華経を謗じて流転す可きを観じて・日本国を日蓮・経行して南無妙法蓮華経と弘通する事・又又此(かく)の如くなり。法華の行者は悉く道場に坐したる人なり云云。

一 今我喜無畏の事
 仰せに云く、此の文は権教を説き畢らせ給いて法華経を説かせ給う時なれば、喜びておそれなしと観じ給えり。其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給えり。若し法華経を説かずして空しくやあらんずらんと思召(おぼしめ)して畏れ深くありと云う文なり。さて今は恐るべき事なく、時節・来つて説く間・畏れなしと喜び給えり。
 今日蓮等の類も是くの如く、日蓮も三十二までは畏れありき。若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずして・あらんずらんと畏れありき。今は即ち此の恐れ無く・既に末法当時・南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間・恐れなし。終には一閻浮提に広宣流布せん事・一定(いちじょう)なるべし云云。

一 我聞是法音・疑網皆已除の事
 仰せに云く、法音とは南無妙法蓮華経なり。疑網とは最後品の無明を云うなり。此の経を持(たも)ち奉れば悉く除くと説かれたり。
 此の文は舎利弗が三重の無明・一時倶尽(くじん)する事を領解(りょうげ)せり。今日本国の一切衆生・法華経の法音を聞くと云えども未だ能く信ぜず、豈疑網・皆已に除かんや。除かざれば入阿鼻獄は疑ひ無きなり。
 疑の字は元品の無明の事なり。此の疑ひを断つを信とは云うなり。釈に云く「無疑曰信(むぎわっしん)」と云えり。身子は此の疑ひ無き故に華光仏と成れり。
 今日蓮等の類は題目の法音を信受する故に疑網更に無し。如我等無異(にょがとうむい)とて釈迦と同等の仏にやすやすとならん事疑ひ無きなり。
 疑網と云うは色心の二法に有る惑障なり。疑は心法にあり・網は色法にあり。此の経を持ち奉り信ずれば、色心の二法共に悉く除くと云う事なり。
 此の皆已の已の字は身子尊者・広開三顕一を指して已とは云うなり、今は領解の文段なり。身子・妙法実相の理を聴聞して心懐(しんね)大歓喜せしなり。
 所詮・舎利弗尊者程の智者・法華経へ来たつて華光仏となり疑網を断除せり。何に況んや末法当時の権人謗法の人人、此の経に値わずんば成仏あらんや云云。

一 以本願故・説三乗法の事
 仰せに云く、此の経文は身子尊者・成道の国・離垢(りく)世界にて三乗の法は悪世には非ず。然りと雖も身子本願の故に説くと云えり。其の本願と云うは身子菩薩の行を立てしに乞眼の婆羅門に眼を抉(く)じられて、其の時・菩薩の行を退転したり。此の菩薩の行を百劫立てけるに六十劫なして・今四十劫たらざりき。此の時・乞眼に眼を抉じられて其の時・菩薩の行を退して願成仏日・開三乗法の願を立てたるなり。上品浄土・不須開漸(ふしゅ・かいぜん)なれば三乗の法を説く事は更に以てあるまじけれども以本願故の故にて三乗の法を説くなり。此の行は禅多羅仏の所にして立つるなり。此の事は身子が六住退とて大なる沙汰なり。重重の義勢之れ在り、輙(たやす)く心得難きの事なり。或は欲怖地前の意、或は権者退云云。所詮は六住退とは六根・六境に菩薩の行を取られたりと云う事なり。
 之を以て之を思うに、末法当今・法華経を修行せんには、必ず身子が退転の如くなるべし。所詮身子が眼を取らるるは菩薩の智慧の行を取らるるなり。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経の眼を持ち奉るに謗法の諸人に障礙(しょうげ)せらるる。豈眼を抉(くじ)り取らるるに非ずや。
 所詮彼の乞眼(こつげん)の婆羅門・眼を乞いしは身子が菩薩の行を退転せしめんが為に・乞いて蹈みつぶして捨てたり。全く菩薩の供養の方を本として眼をば乞わざりしなり。只だ退転せしめん為なり。身子は一念菩薩の行を立てて・かかる事に値えり。向後(こうご)は菩薩の行をば立つ可からず、二乗の行を立つ可しと云つて後悔せし故に成仏の日・説三乗法するなり。所詮乞眼婆羅門の責を堪えざるが故なり。法華経の行者・三類の強敵を堪忍して妙法の信心を捨つ可からざるなり。信心を以て眼とせり云云。

一 有大長者の事
 仰せに云く此の長者に於いて天台大師・三の長者を釈し給えり。一には世間の長者・二には出世の長者・三には観心の長者是なり。此の中に出世観心の長者を以て此の品の長者とせり。長者とは釈迦如来の事なり。観心の長者の時は一切衆生なり。
 所詮法華経の行者は男女共に長者なり。文句の五に委しく釈せり。末法当今の長者と申すは日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり。されば三の長者を釈する時、文句五に云く「二に位号を標するに三と為す。一は世間の長者・二は出世の長者・三は観心の長者なり。世に十徳を備う。一には姓貴(しょうき)・二には位高・三には大富・四には威猛・五には智深・六には年耆(ねんぎ)・七には行浄・八には礼備(らいび)・九には上歎・十には下帰(げき)なり」云云。
 又云く「出世の長者は、仏は三世の真如実際の中より生ず。功成り道著(あら)われて十号極り無し。法財万徳悉く皆具(つぶさ)に満せり。十力雄猛にして魔を降し外(げ)を制す。一心の三智通達せずと云うこと無し。早く正覚を成じて久遠なること斯くの如し。三業・智に随つて運動して失(とが)無し、仏の威儀を具して心大なること海の如し。十方の種覚・共に称誉する所なり。七種の方便・而も来たつて依止す。是を出世の仏・大長者と名く。
 三に観心とは、観心の智実相より出で生じて仏家にあり。種性真正(しゅしょう・しんしょう)なり。三惑起らず未だ真を発(おこ)さずと雖も、是れ如来の衣を着れば寂滅忍と称す。三諦に一切の功徳を含蔵す。正観の慧(え)・愛見(あいけん)を降伏す。中道双べ照して権実並びに明らかなり。久く善根を積みて・能く此の観を修す。
 此の観・七方便の上に出でたり。此の観・心性を観ずるを上定(じょうじょう)と名くれば即ち三業過(とが)無し、歴縁(りゃくえん)対境するに威儀・失(とが)無し。能く此くの如く観ず。是れ深信解の相、諸仏皆歓喜して持法の者を歎美したもう。天竜・四部・恭敬(くぎょう)供養す。下の文に云く、仏子是の地に住すれば即ち是れ仏受用し給い、経行し及び坐臥(ざが)し給わんと。既に此の人を称して仏と為す。豈観心の長者と名けざらんや」と。
 此の釈分明に観心の長者に十徳を具足すと釈せり、所謂引証の文に分別功徳品の則是仏受用(そくぜ・ぶつじゅゆう)の文を引けり、経文には仏子住此地とあり。此の字を是の字にうつせり。経行若坐臥の若を及(ぎゅう)の字にかえたり。又法師品の文を引けり。所詮仏子とは法華経の行者なり。此地とは実相の大地なり。経行若坐臥とは法華経の行者の四威儀の所作の振舞、悉く仏の振舞なり。我等衆生の振舞の当体・仏の振舞なり。此の当体のふるまいこそ長者なれ。仍つて観心の長者は我等凡夫なり。然るに末法当今の法華経の行者より外に観心の長者無きなり。
 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚・不求自得の長者に非ずや。既称此人為仏(きしょうしにん・いぶつ)の六字に心を留めて案ずべきなり云云。

一 多有田宅(たうでんたく)の事
 仰せに云く、田宅とは長者の財宝なり。所詮田と云うは命なり、宅とは身なり。文句の五に田宅をば身命と釈せり。田は米なり、米は命をつぐ、宅は身をやどす・是は家なり。身命の二を安穏にするより外に財宝は無きなり。
 法門に約すれば田は定、宅は慧なり。仍つて定は田地の如し、慧は万法の如し。我等一心の田地より諸法の万法は起れり。法華一部方寸知るべしと釈して八年の法華も一心が三千と開きたるなり。
 所詮・田は定なれば妙の徳、宅は慧の徳なれば法の徳。又は本迹両門なり・止観の二法なり。教主釈尊・本迹両門の田宅を以つて一切衆生を助け給えり。
 田宅は我等衆生の色心の二法なり。法華経に値い奉りて南無妙法蓮華経と唱え奉る時、煩悩即菩提・生死即涅槃と体達するなり。豈多有田宅の長者に非ずや。
 多有と云う心は心法に具足する心数なり、色法に具足する所作なり。然らば多有田宅の文は一念三千の法門なり。其の故は一念は定なり、三千は慧なり。既に釈に云く「田宅は別譬(べっぴ)なり。田は能く命を養う。禅定の般若を資するに譬う。宅は身を栖(す)ます可し。実境の智の所託と為るに譬う」云云。此の釈分明なり。
 田宅は身命なり、身命は即ち南無妙法蓮華経なり。此の題目を持ち奉る者は豈多有田宅の長者に非ずや。今末法に入つて日蓮等の類・多有田宅の本主として如説修行の行者なり云云。

一 等一大車の事
 仰せに云く、此の大車とは直至道場(じきし・どうじょう)の大白牛車にして其の疾(はや)きこと風の如し。
 所詮南無妙法蓮華経を等一大車と云うなり。等と云うは諸法実相なり。一とは唯有一乗法なり。大とは大乗なり。車とは一念三千なり。仍つて釈には等の字を子等車等と釈せり。子等の等と如我等無異の等とは同なり。車等の等は平等大慧の等なり。
 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は男女・貴賤共に無上宝聚・不求自得の金言を持つ者なり。智者・愚者をきらわず共に即身成仏なり云云。
 疏の五に云く「一に等子・二に等車、子等しきを以ての故に則ち心等し。一切衆生等しく仏性有るに譬う。仏性同じきが故に等しく是れ子なり。第二に車等とは法等しきを以ての故に仏法に非ざること無し。一切法・皆摩訶衍(まかえん)なるに譬う。摩訶衍同じきが故に等しく是れ大車なり。而して各賜と言うは各々本習(ほんじゅう)に随う。四諦・六度・無量の諸法・各各旧習(おのおの・くじゅう)に於て真実を開示す。旧習同じからず、故に各と言う。皆摩訶衍なり故に大車と言う」云云。

一 其車高広(ごしゃこうこう)の事
 仰せに云く、此の車は南無妙法蓮華経なり。即ち我等衆生の体なり。法華一部の総体なり。高広とは仏知見なり。されば此の車を方便品の時は諸仏智慧と説き、其の智慧を甚深無量と称歎(しょうたん)せり。歎の言には甚深無量とほめたり、爰(ここ)には其車と説いて高広とほめたり。されば文句の五に云く「其車高広の下は如来の知見深遠なるに譬う。横に法界の辺際(へんざい)に周く、堅(たて)に三諦の源底(げんてい)に徹す。故に高広と言うなり」と。
 所詮此の如来とは一切衆生の事なり。既に諸法実相の仏なるが故なり。知見とは色心の二法なり。知は心法・見は色法なり。色心二法を高広と云えり。高広即本迹二門なり、此れ即ち南無妙法蓮華経なり云云。

一 是朽故宅属于一人(ぜく・こたく・ぞくう・いちにん)の事
 仰せに云く、此の文をば文句の五に云く「出火の由を明す」と。此の宅とは三界の火宅なり。火と云うは煩悩の火なり。此の火と宅とをば属于一人とて釈迦一仏の御利益なり。弥陀・薬師・大日等の諸仏の救護(くご)に非ず、教主釈尊一仏の御化導なり。唯我一人・能為救護とは是なり。
 此の属于一人の文を重ねて五巻提婆品に説いて云く「三千大千世界を観るに乃至芥子(けし)の如き許(ばか)りも是菩薩にして身命を捨てたまう処に非ざること有ること無し。衆生の為の故なり」文。
 妙楽大師此の属于一人の経文を釈する時、記の五に云く「咸(ことごと)く長者に帰す。一色一香・一切皆然(しか)なり」と判ぜり。既に咸帰長者(げんきちょうじゃ)と釈して法界に有りとある一切衆生の受くる苦悩をば釈尊一人の長者に帰すと釈せり。一色一香一切皆然なりとは、法界の千草万木(まんもく)・飛華落葉(ひけらくよう)の為体(ていたらく)、是れ皆・無常遷滅の質(すがた)と見て仏道に帰するも属于一人の利益なり。此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入せしめんが為なり。
 所詮末法に入つて属于一人の利益は日蓮が身に当りたり。日本国の一切衆生の受くる苦悩は・悉く日蓮一人が属于一人なり。教主釈尊は唯我一人・能為救護、日蓮は一人能為救護云云。
 文句の五に云く「是朽故宅属于一人の下、第二に一偈有り、失火の由を明す。三界は是れ仏の化応の処。発心已来誓つて度脱せんと願う。故に属于一人と云う」と。此の釈に発心已来・誓願度脱の文、豈日蓮の身に非ずや云云。

一 諸鬼神等・揚声大叫(ようしょう・だいきょう)の事
  仰せに云く、諸鬼神等と云うは親類・部類等を鬼神と云うなり。我等衆生・死したる時、妻子眷属あつまりて悲歎するを揚声大叫とは云うなり。
 文句の五に云く「諸鬼神等の下・第四に一行半は被焼の相を明す。或は云く親属を鬼神と為し、哭泣(こくきゅう)を揚声と為す」と。

一 乗此宝乗・直至道場の事
 仰せに云く、此の経文は我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃を明かせり。其の故は文句の五に云く「此の因・易(かわ)ること無きが故に直至と云う」と。此の釈の心は爾前の心は煩悩を捨てて生死を厭(いと)うて別に菩提涅槃を求めたり。法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃と云えり。直と即とは同じ事なり。
 所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処即寂光土と心得可きなり。然れば此の実乗に乗じて忽ちに妙覚極果の位に至るを直至道場とは云うなり。直至と云う文の意は四十二位を爰(ここ)にて極めたり。
 此の直の一字は地獄即寂光・餓鬼即寂光土なり。法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも直至道場なり。道場とは究竟(くきょう)の寂光なり。仍つて乗此宝乗の上の乗は法華の行者、此の品の意にては中根の四大声聞なり、惣じて一切衆生の事なり、今末法に入つては日蓮等の類いなり。
 宝乗の乗の字は大白牛車の妙法蓮華経なり。然れば上の乗は能乗・下の乗は所乗なり。宝乗は蓮華なり。釈迦・多宝等の諸仏も此の宝乗に乗じ給えり。此れを提婆品に重ねて説く時「若在仏前・蓮華化生」と云云。
 釈迦・多宝の二仏は我等が己心なり。此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして釈迦・多宝・二仏・並座(びょうざ)して乗此宝乗・直至道場を顕わし給えり。
 此の乗とは車なり、車は蓮華なり。此の蓮華の上の妙法は我等が生死の二法・二仏なり。直至の至は此れより彼(かしこ)へいたるの至るには非ず。住処即寂光と云うを至とは云うなり。
 此の宝乗の宝は七宝の大車なり。七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり。此の題目の五字、我等衆生の為には三途の河にては船となり、紅蓮地獄(ぐれんじごく)にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり、飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり子となり、眷属となり家となり、無窮(むぐう)の応用を施して一切衆生を利益し給うなり。直至道場とは是なり。仍つて此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり。直の字に心を留めて之を案ず可し云云。

一 若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種の事
 仰に云く、此の経文の意は小善成仏を信ぜずんば一切世間の仏種を断ずと云う事なり。文句の五に云く「今経に小善成仏を明す。此れは縁因を取つて仏種と為す。若し小善の成仏を信ぜずんば則ち一切世間の仏種を断ずるなり」文。爾前経の心は小善成仏を明さざるなり。法華経の意は一華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる。
 縦い法界に充満せる大善なりとも・此の経に値わずんば善根とはならず。譬えば諸河の水・大海に入りぬれば鹹(うしほ)の味となる、入らざれば本の水なり。法界の善根も法華経へ帰入せざれば善根とはならざるなり。されば釈に云く「断一切仏種とは浄名には煩悩を以て如来の種と為す。此れ境界性(きょうがいしょう)を取るなり」と。此の釈の心は浄名経の心ならば我等衆生の一日一夜に作(な)す所の罪業・八億四千の念慮を起す。余経の意は皆三途の業因と説くなり。法華経の意は此の業因・即ち仏ぞと明せり。されば煩悩を以て如来の種子とすと云うは此の義なり。
 此の浄名経の文は正しく文在爾前・義在法華の意なり。此の境界性と云うは末師・釈する時、能生煩悩・名境界性と判ぜり。我等衆生の眼耳(げんに)等の六根に妄執を起すなり。是を境界性と云うなり。権教の意は此の念慮を捨てよと説けり、法華経の心は此の境界性の外に三因仏性の種子なし、是れ即ち三身円満の仏果となるべき種性なりと説けり。
 此の種性を権教を信ずる人は之を知らず・此の経を謗るが故に凡夫即極の義をも知らず、故に一切世間の仏種を断ずるなり。されば六道の衆生も三因仏性を具足して終に三身円満の尊容(そんよう)を顕す可き所に、此の経を謗ずるが故に六道の仏種をも断ずるなり。されば妙楽大師云く「此の経は遍く六道の仏種を開す。若し此の経を謗ずるは義・断に当るなり」と。
 所詮日蓮が意は一切の言は十界をさす。此の経を謗ずるは十界の仏種を断ずるなり。されば誹謗の二字を大論に云く「口に謗(そし)るを誹と云い、心に背くを謗と云う」と。仍つて色心三業に経て法華経を謗じ奉る人は入阿鼻獄疑い無きなり。所謂弘法・慈覚・智証・善導・法然・達磨等の大謗法の者なり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る、豈三世の諸仏の仏種を継ぐ者に非ずや云云。

一 捨悪知識親近善友の事
 仰せに云く、悪知識とは在世にては善星(ぜんしょう)・瞿伽利(くぎゃり)・提婆等是なり。善友とは迦葉・舎利弗・阿難・目連等是なり。末法当今に於て悪智識と云うは法然・弘法・慈覚・智証等の権人謗法の人人なり。善智識と申すは日蓮等の類の事なり。
 惣じて知識に於て重重之れ有り。外護の知識・同行の知識・実相の知識是なり。所詮実相の知識とは所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経是なり。知識とは形をしり・心をしるを云うなり。是れ即ち色心の二法なり。謗法の色心を捨てて法華経の妙境・妙智の色心を顕すべきなり。悪友は謗法の人人なり、善友は日蓮等の類いなり。

一 無上宝聚不求自得の事
  仰せに云く、此の無上宝聚に於て一には釈尊の因行果徳の万行(まんぎょう)・万善(まんぜん)の骨髄を宝聚と云うなり。二には妙法蓮華経の事なり。不求とは中根の四大声聞は此くの如き宝聚を任運自在と得たり。此実我子・我実其父の故なり。総じては一切衆生の事なり。自得と云うは、自は十界の事なり。此れは自我得仏来の自と同じ事なり。得も又同じ事なり。末法に入つては自得とは日蓮等の類いなり。自とは法華経の行者、得とは題目なり。得の一字には師弟を含みたり。与うると得るとの義を含めり。
 不求とは仏法に入るには修行・覚道の辛労あり。釈迦如来は往来娑婆・八千反の御辛労にして求め給う功徳なり。さて今の釈迦牟尼仏と成り給えり。法華経の行者は求めずして此の功徳を受得せり。仍(よ)って自得とは説かれたり。
 此の自の字は一念なり、得は三千なり。又自は三千・得は一念なり。又た自は自なり、得は他なり。総じて自得の二字に法界を尽せり。
 所詮此の妙法蓮華経を自(おのづ)より得たり。自とは釈尊なり、釈尊は即ち我が一心なり。一心の釈迦より受得し奉る南無妙法蓮華経なり。日蓮も生年三十二にして自得し奉る題目なり云云。

一 薬草喩品の事
 仰せに云く、薬とは是好良薬の南無妙法蓮華経なり。妙法を頂上にいただきたる草なれば薬に非ずと云う事なし。草は中根の声聞なれども惣じては一切衆生なり。譬えば土器に薬をかけたるが如し。我等衆生・父母果縛の肉身に南無妙法蓮華経の薬をかけたり。煩悩即菩提・生死即涅槃は是なり云云。此の分を教うるを喩とは申すなり。釈に云く「喩とは暁訓なり」と。提婆・竜女の畜生・人間も、天帝(てんたい)・羅漢・菩薩等も、悉く薬草の仏に非ずと云う事なし。末法当今の法華の行者の日蓮等の類い、薬草にして日本国の一切衆生の薬王なり云云。

一 現世安穏・後生善処の事
 仰に云く、所詮此の妙法蓮華経を聴聞し奉るを現世安穏とも後生善処とも云えり。既に上に「是の法を聞き已(おわ)って」と説けり。聞は名字即の凡夫なり。妙法を聞き奉る所にて即身成仏と聞くなり。「若し能く持つこと有らば・即ち仏身を持つなり」とは是なり。
 聞く故に・持ち奉るの故に三類の強敵来たる。来たるを以て現世安穏の記文顕れたり。法華の行者なる事疑ひ無きなり。法華の行者はかかる大難に値うべしと見えたり。大難に値うを以て後生善処の成仏は決定せり。是れ豈現世にして安穏なるに非ずや。
 後生善処は提婆品に分明に説けり。所詮現世安穏とは法華経を信じ奉れば三途(さんず)八難の苦をはなれ、善悪上下の人までも皆教主釈尊・同等の仏果を得て自身本覚の如来なりと顕す。自身の当体・妙法蓮華経の薬草なれば現世安穏なり。爰(ここ)を開くを後生善処と云うなり。
 妙法蓮華経と云うは妙法の薬草なり。所詮現世安穏は色法・後生善処は心法なり。十界の色心・妙法と開覚するを現世安穏・後生善処とは云うなり。所詮法華経を弘むるを以て現世安穏・後生善処と申すなり云云。

一 皆悉到於・一切智地の事
  仰せに云く、一切智地と云うは法華経なり。譬えば三千大千世界の土地・草木・人畜等、皆大地に備りたるが如くなり。八万法蔵・十二部経、悉く法華に帰入せしむるなり。皆悉の二字をば善人も悪人も・迷ひも悟りも・一切衆生の悪業も善業も、其の外・薬師・大日・弥陀並びに地蔵・観音、横に十方・竪に三世、有りとある諸仏の具徳・諸菩薩の行徳・惣じて十界の衆生の善悪・業作等を皆悉と説けり。是を法華経に帰入せしむるを一切智地の法華経と申すなり。
 されば文句の七に云く「皆悉到於・一切智地とは、地とは実相なり、究竟して二に非ず故に一と名くるなり。其の性広博なり故に名けて切と為す。寂にして常照なり、故に名けて智と為す。無住の本より一切の法を立す、故に名けて地と為す。此れ円教の実説なり。凡そ所説有るは皆衆生をして此の智地に到らしむ」云云。
 此の釈は一切智地の四字を委しく判ぜり。一をば究竟と云い、切をば広博と釈し、智をば寂而常照(じゃくに・じょうしょう)と云い、地をば無住之本と判ぜり。
 然るに凡有所説(ぼんぬ・しょせつ)は約教を指し・皆令(かいりょう)衆生は機縁を納るるなり。十界の衆生を指して切と云い、凡有所説を指して究竟非二故名一也と云えり。一とは三千大千世界・十方法界を云うなり。其の上に人畜等あるは地なり。記の七に云く「切を衆に訓ず」と。仍つて一切の二字に法界を尽せり。諸法は切なり、実相は一なり。所詮・法界実相の妙体・照而常寂の一理にして十界三千・一法性に非ずと云う事なし。是を一と説くなり。
 さて三千の諸法の己己に本分なれば切の義なり。然らば一は妙・切は法なり。妙法の二字・一切の二字なり。無住之本は妙の徳、立一切法は法の徳なり。一切智地とは南無妙法蓮華経是なり。一切智地・即一念三千なり。今末法に入つて一切智地を弘通するは日蓮等の類い是なり。然るに一とは一念なり・切とは三千なり。一心より松よ・桜よと起るは切なり。是は心法に約する義なり。色法にては手足等は切なり、一身なるは一切なり。所詮色心の二法・一切智地にして南無妙法蓮華経なり云云。

一 此の一切智地の四字
 に法華経一部八巻文文句句を収めたり。此の一切智地とは三諦一諦・非三非一なり。三智に約すれば空智なり。さては三諦とは云い難し。然りと雖も三諦・一諦の中の空智なり。されば三諦に於て三三九箇の三諦あり。先ず空諦にて三諦を云う時は空諦と呼出だすが仮諦、空諦なるは空諦なり、不二するは中道なり。三諦同じく此くの如く心得可きなり。
 所詮此の一切智地をば九識法性と心得可きなり。九識法性をば迷悟不二・凡聖一如なれば空と云うなり。無分別智光を空と云うなり。此の九識法性とはいかなる所の法界を指すや。
 法界とは十界なり、十界即諸法なり、此の諸法の当体・本有(ほんぬ)の妙法蓮華経なり。此の重に迷う衆生の為に一仏現じて分別説三するは九識本法の都を立ち出でたるなり。
 さて終りに本の九識に引入する。夫れを法華経とは云うなり。一切智地とは是れなり。一切智地は我等衆生の心法なり、心法即ち妙法なり。一切智地とは是なり云云。

一 根茎枝葉(こんきょうしよう)の事
 仰せに云く、此の文をば釈には信戒定慧と云云。此の釈の心は、草木は此の根茎枝葉を以て増長と云うなり。仏法修行するも又斯(か)くの如し。
 所詮我等衆生・法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し。法華経の文の如く是名持戒の戒体を本として正直捨方便・但説無上道の如くなるは戒なり。法華経の文相にまかせて法華三昧を修するは定なり。題目を唱え奉るは慧なり。
 所謂(いわゆる)法界悉く生住異滅するは信、己己本分は戒、三世不改なるは定なり・各各の徳義を顕したるは慧なり。是れ即ち法界平等の根茎枝葉なり。是れ即ち真如実相の振舞なり。
 所謂戒定慧の三学・妙法蓮華経なり。此れを信ずるを根と云うなり。釈に云く「三学倶に伝うるを名けて妙法と曰う」と云云。

一 根茎枝葉の事
  仰せに云く、此れは我等が一身なり。根とは心法なり、茎とは我等が頭より足に至るまでなり、枝とは手足なり、葉とは毛なり、此の四を根茎枝葉と説けり。法界三千・此の四を具足せずと云う事なし。是れ即ち信戒定慧の体にして実相一理の南無妙法蓮華経の体なり。法華不信の人は根茎枝葉ありて増長あるべからず、枯槁(ここう)の衆生なるべし云云。





by johsei1129 | 2019-11-24 21:20 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)


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