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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 05月 06日

されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば経の名にてはあらずして・はや我が身の 体にてありける、と説いた【十如是事】

【十如是事】
■出筆時期:正嘉二年(1258) 三十七歳御作
■出筆場所:駿河国・岩本実相寺にてと思われます。
■出筆の経緯:大聖人は正嘉二年二月、駿河国・岩本実相寺に入り大蔵経(釈尊の一切経)を読了され、二年後に立正安国論として結実。実質的に時の最高権力者であった北条時頼(最明寺入道)に献じ国家諌暁を果たします。また合わせて法華経の法門を初心の弟子・信徒の教化のため数多く述作されておられます。本書もその一つで、法華経方便品第二で説かれた「十如是事」を末法の法華経の行者の立場でわかりやすく講説されておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【十如是事 本文】

 我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文。
 初めに如是相とは我が身の色形に顕はれたる相を云うなり、是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦(けたい)とも云うなり。
 次に如是性とは我が心性を云うなり、是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり。
 三に如是体とは我が此の身体なり、是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり。
 されば此の三如是を三身如来とは云うなり。此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるが、はや我が身の上にてありけるなり。かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり。
 此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり。此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり。かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれども、すべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり。其の故は百界と云うは仮諦なり、千如と云うは空諦なり、三千と云うは中諦なり。空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども、唯一つの三諦にてある事なり。
 されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて、始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ、本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり。是を如是本末究竟等とは申したるなり。

 始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり。此の三諦を三身如来とも云へば、我が心身より外(ほか)には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物を、されば我が身が頓(やが)て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり。是をよそに思うを衆生とも・迷いとも・凡夫とも云うなり。是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚(さとり)とも聖人とも智者とも云うなり。かう解(さと)り明かに観ずれば、此の身頓(やが)て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり。

 譬えば春夏・田を作り・うへつれば秋冬は蔵に収めて心のままに用うるが如し。春より秋をまつ程は久しき様なれども、一年の内に待ち得るが如く、此の覚りに入つて仏を顕はす程は久しき様なれども、一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり。
 此の道に入ぬる人にも上中下の三根はあれども同じく一生の内に顕はすなり。上根の人は聞く所にて覚りを極めて顕はす。中根の人は若は一日・若は一月・若は一年に顕はすなり。下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば、一生の内に限りたる事なれば臨終の時に至りて諸のみえつる夢も覚りてうつつになりぬるが如く、只今までみつる所の生死(しょうじ)・妄想の邪思(ひがおもい)・ひがめの理(ことわり)はあと形もなくなりて本覚のうつつの覚りにかへりて法界をみれば皆寂光の極楽にて、日来賤(いやし)と思ひし我が此の身が・三身即一の本覚の如来にてあるべきなり。
 秋のいねには早(わせ)と中と晩(おく)との三のいね有れども、一年が内に収むるが如く、此れも上中下の差別ある人なれども、同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思い合せてあるべき事なり。

 妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは、何様なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば、我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり。されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば、経の名にてはあらずして・はや我が身の体にてありけると知りぬれば我が身頓(やが)て法華経にて、法華経は我が身の体をよび顕し給いける仏の御言にてこそありければ、やがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり。
 かく覚(さとり)ぬれば無始より已来(このかた)今まで思いならわしし・ひが思いの妄想(もうぞう)は昨日の夢を思いやるが如く、あとかたもなく成りぬる事なり。是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば、法華経を覚(さとり)て如法に一部をよみ奉るにてあるなり。十遍は十部・百遍は百部・千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり。かく信ずるを如説修行の人とは申すなり。南無妙法蓮華経。




by johsei1129 | 2016-05-06 18:52 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)


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