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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 04月 12日

 当体義抄文段 七  如来は是れ妙法の人、妙法は是れ如来の法。人法殊なりと雖も、其の体は是れ一なり


一 問う一切衆生皆(ことごと)く等

  是の下は次に信受に約するなり。

  問う、(さき)には法体に約し、今は信受に約す。其の不同は如何。

  答う、前に法体に約せる意は、信と不信とを(えら)ばず、十界の()(しょう)を通じて妙法蓮華の当体とするなり。今、信受に約する意は、不信謗法の類を簡び捨て、(ただ)妙法信受の人を以て別して妙法の当体とするなり。故に其の義、大いに異なるなり。例せば台家(たいけ)に於て、法体に約する時は「若し理に()って論ぜば法界に非ずと云うこと無し」等と釈し、観門に約する時は「取著(しゅじゃく)の一念には三千を具せず」と釈するが如し。今(また)(また)()くの如し云々。止観第九・五十九、()の九末三十四、異論決上三十等、()いて見よ。  

一 当世の諸人(これ)多しと雖も二人を出でず等

  信受に約す、亦二。初めに略して()を簡び、()(あらわ)す。次に「涅槃経」の下は広く非を簡び、是を顕すなり。而して「権教方便(ほうべん)の念仏等を信ずる」等とは非を簡ぶなり。「(じっ)(きょう)の法華経を信ずる」等とは、是れ是を顕すなり。  

一 涅槃経に云く、一切衆生等

  此の下は広く()を簡び()を顕すなり。(ここ)に亦二。初めに文を引いて義を釈し、次に「此等の文の(こころ)を案ずるに」の下は、正しく非を簡び是を顕す。

  初めの文を引いて義を釈するに、亦二。初めに文を引き、次に「南岳(なんがく)の釈の意」の下は義を釈す。

  初めの文を引く、亦三。初めに涅槃経に云く、次に大強(たいごう)精進(しょうじん)(きょう)、三に四安楽行なり。  

一 一切(いっさい)衆生大乗を信ずる故に大乗の衆生と名く

  涅槃(ねはん)経に「大乗」と説くは、即ち是れ法華経なり。法華経とは妙法蓮華なり。故に文意に云く、一切衆生、妙法蓮華を信ずる故に妙法蓮華の当体(とうたい)と名づくるなりと。故に知んぬ、妙法蓮華を信ぜざる人をば妙法蓮華の当体とは名づけざるなり。  

一 大強精進経等。

  南岳大師の安楽行儀の七紙に之を引きたもうなり。  

一 衆生と如来と乃至(ないし)法蓮華経と称す

  問う、「妙法蓮華経」と称する意は如何(いかん)

  答う、「衆生と如来」とは即ち是れ蓮華の二字なり。謂く、「衆生」は是れ因、「如来」は是れ果。「()」の一字は因果倶時を顕すなり。「同共(どうぐ)一法(いちほっ)(しん)」とは即ち是れ法の一字なり。謂く、衆生、如来に同共すれば九界(そく)仏界なり。如来、衆生に同共すれば仏界即九界なり。十界互具、百界千如は即ち是れ法の字なり。「清浄(しょうじょう)(みょう)無比(むひ)」とは即ち是れ妙の一字なり。此の五字は通じて能歎(のうたん)の辞なるが故なり。中に於て「清浄」の二字は、衆生と如来との蓮華を(たん)ず。「妙無比」の三字は、(どう)()一法身の法の字を歎ずるなり。是の故に「妙法蓮華経」と称するなり。  

一 南岳(なんがく)大師(だいし)等。

  四安楽行三紙の文なり。「一心に一字を学すれば」とは是れ因なり。「衆果(しゅうか)(あまね)(そな)わる」とは是れ果なり。「一時に具足して」とは是れ()()なり。「次第(しだい)(にゅう)に非ず」とは是れ非を簡ぶ。「必ず蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し」等とは()を顕すなり。下の文も之に(じゅん)じて知るべし。  

一 南岳の(しゃく)の意は等

  此の下は次に義を釈するなり。是れを亦三と為す。初めに四安楽(あんらく)(ぎょう)の文を釈し、次に大強精進経の文を釈し、三に涅槃経の文を釈す。(もん)無きは是れを略するなり。初めに四安楽行を釈するに、道理・文証(これ)有り。学者之を見るべし。  

一 法華経に同共(どうぐ)して等

  問う、経文は(にん)に約して「如来と同共」等と云う。今、何ぞ法に約して「法華経に同共して」等と云うや。

  答う、如来は是れ妙法の人、妙法は是れ如来の法。人法(こと)なりと雖も、其の体は是れ一なり云云。


                     つづく

当体義抄文段 目次 



by johsei1129 | 2016-04-12 09:10 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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