次に、観心本尊抄は行の重とは、是れ則ち彼の抄に受持即観心の義を明かす故なり。彼の文に云く「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」云云。「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う乃至五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」等云云。是れ則ち事の一念三千の本尊を受持すれば、則ち事の一念三千の観行を成ずるなり。
三に当抄は証の重とは、下の文に云く「然るに日蓮が一門は(乃至)当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」等云云。
問う、凡そ諸文の意は、行証無きことに約して名づけて末法と為す。如何が是れを会せんや。
答う、諸門流の義の意に云く、権経に付順する故に、又時運に約する故に、末法無証と云うなり。若し今経の意に依れば、経力に約するが故に而も行証あり。普賢及び秀句等の如し云云。是れ仍未だ淵底を尽さず。
今謂く、諸文の中に末法無証と云うは、是れ熟脱の釈尊の化儀に約するが故に、末法無証と云うなり。若し本因妙の教主釈尊の化導に約せば、今は末法に非ず、還って是れ過去なり。過去とは久遠元初なり。故に行証有り。是れ当流の秘事なり。口外するべからず。当に知るべし、本因妙の教主釈尊とは、即ち是れ末法下種の主師親、蓮祖大聖人の御事なり。
別して大意を論ぜば、当抄は是れ証の重に当たるなり。是の故に当抄の始終、大いに分かつに二段なり。
初めに所証の法を明かし、次に能証の人を明かす。
初めの所証の法を明かすに亦三段有り。初めに法体に約し、次に信受に約し、三に解釈を引いて本有無作の当体蓮華を明かすなり。
次の能証の人を明かすに、亦三段有り。初めに如来の自証化他を明かし、次に如来在世の証得を明かし、三に末法の衆生の証得を明かすなり云云。
当体義抄文段 目次