当体義抄文段 日寛之を記す
一 将に当抄を釈せんとするに須く三門に約すべし
所謂大意・釈名・入文判釈なり。
初めに大意、亦二と為す。初めに総じて大意を論じ、次に別して大意を論ず。妙楽の云く「凡そ一義を消するに、皆一代を混じて其の始末を窮めよ」。又云く「文の大意を得る則は元由に矒からず。文に随って解を生ぜば前後雑乱せん」等云云。
総じて大意を論ずとは、相伝に云く、開目抄と観心抄と当抄とを次の如く教・行・証に配するなり。
所謂開目抄には、一代諸経の浅深勝劣を判ずる故なり。此に五段の教相あり。
一には内外相対。謂く、通じて一代諸経を以て外典外道に対して之を論ずるなり。彼の文に云く「されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし」云云。
二には権実相対。謂く、八箇年の法華を以て四十余年の権経に対して之を論ずるなり。彼の文に云く「大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒沙の諸経を未顕真実・八年の法華は要当説真実と定め給しかば」等云云。
三には権迹相対。謂く、迹門の二乗作仏を以て爾前の永不成仏に対して之を論ずるなり。彼の結文に云く「此の法門は迹門と爾前と相対して」等云云。
四には本迹相対。謂く、但本門を以て通じて爾前・迹門に対して之を論ずるなり。彼の文に云く「本門にいたりて(乃至)迹門の十界の因果を打ちやぶって本門の十界の因果をとき顕す」等の文是れなり。
五には種脱相対。謂く、寿量品の文上は脱益、文底は下種なり。彼の文に云く「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底に秘し沈め給へり」等云云。
当に知るべし、一念三千の法門は一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底に秘し沈め給へるなり云云。此の一文の中に権実相対・本迹相対・種脱相対は分明なり。「日蓮が法門は第三の法門なり」云云。
諸宗の族は、但内外相対を知って自余の相対を知らず。一致門流の輩は、但権実相対を知って仍未だ本迹相対を知らず。況や種脱相対をや。諸の勝劣の人は、本迹相対を知ると雖も仍種脱相対に闇し。故に蓮祖の法門に達せざるなり。妙楽云く「凡そ諸の法相は所対不同なり」等云云。
宗祖云く「所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり」等云云。常に之を記憶せよ。
つづく
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