人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2016年 03月 08日

法華取要抄文段 十五  内証の寿量品の意は、本門三箇の秘法を説き顕す 一向に滅後末法の為なり

(けだ)し寿量文底本因妙の行者は、既に無作三身の真仏を信ずるが故に、其の人は(また)是れ無作三身の如来なり。

故に御義口伝に云く「此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂(いわゆる)信の一字なり、()って経に云く『我等(がとう)当信(とうしん)(じゅ)仏語(ぶつご)』と、信受の二字に(こころ)を留む可きなり」等云云。

涅槃経に「一切衆生、大乗を信ずるが故に大乗の衆生と名づく」と云えるは(すなわ)此の意なり。況やまた権迹の行者は無作三身の所作を行ぜず。何ぞ無作三身と名づくるをもちいんや。例せば不忠・不孝の人をば忠臣・孝子と名づけざるが如し。ただ無作三身の所作しょさを行ぜざるのみに非ず、かえって謗法の悪行をす。故に無間むけんの罪人と名づくるなり。玄の二・二十一に云く「譬えば世間に悪行をす者を名づけて半人と為すが如し。既に悪行を行ずれば、地獄のと名づくるなり」等云云。けだし寿量の文底本因妙の行者は、まさしく無作三身の所作を行ず、故に無作三身の如来なり。

御義口伝に云く「無作の三身の所作(しょさ)は何者ぞと云う時、南無妙法蓮華経なり」云云。

()し全く(がん)(かい)が所作を行ぜば、(あに)顔回に非ざるべけんや。(しか)れば則ち権迹(ごんしゃく)の行者は、不信不行の故に無作三身に非ず。若し本因妙の信者は、信行具足(ぐそく)の故に即ち是れ無作三身なり。

故に御義口伝に云く「今日蓮等の(たぐい)(こころ)(そう)じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那(だんな)なり」等云云。又云く「無作の三身の当体の蓮華の仏は日蓮が弟子檀那(だんな)等なり、南無妙法蓮華経の宝号を(たも)(たてまつ)る故なり」云云。

当体義抄に云く「但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は乃至倶体(くたい)()(ゆう)無作(むさ)(さん)(じん)の本門寿量の当体(とうたい)蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の(なか)の事なり」云云。  

当に知るべし、蓮祖の門弟は是れ無作三身なりと雖も、(なお)是れ因分にして究竟(くきょう)果分(かぶん)の無作三身に非ず。但是れ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり。若し六即に配せば、一切衆生は無作三身とは是れ()(そく)なり。蓮祖の門弟は無作三身とは中間(ちゅうげん)の四位なり。蓮祖大聖は無作三身とは即ち是れ究竟(くきょう)(そく)なり。故に究竟円満の本地無作三身とは、(ただ)是れ蓮祖大聖人の御事なり。

故に御義口伝に云く「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号(ほうごう)を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の()の三大事とは是なり」文。

末法の法華経の行者、(あに)蓮祖大聖に非ずや。其の義は開目抄撰時抄等の諸文の中に分明(ふんみょう)なり。「無作三身の宝号」等とは久遠くおん名字みょうじの釈尊の宝号をも南無妙法蓮華経と云うなり。

故に撰時抄に云く「南無釈迦()尼仏(にぶつ)・南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし」云云。

又蓮祖聖人の宝号をも南無妙法蓮華経と云うなり。

故に又云く「南無妙法蓮華経、日蓮の御房(ごぼう)、日蓮の御房と()び候はん」(取意)等云云。

()の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ち是れ人法(たい)(いつ)の本門の本尊なり。此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる所作は、即ち是れ本門の題目なり。本尊及び行者の所住の(ところ)は、即ち是れ本門の戒壇(かいだん)なり。故に内証の寿量品の意は、本門三箇(さんか)の秘法を説き顕すなり。題号の「如来」の両字、既に(しか)なり。入文の始終、之に(じゅん)じて()すべし。深く心中に秘して口外すべからず云云。此の内証の寿量品は一向(いっこう)に滅後末法の為なり云云。





目 次



by johsei1129 | 2016-03-08 21:57 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


<< GOSHO 上野殿御返事(子宝書)      法華取要抄文段 十四  一切衆... >>