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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 03月 08日

法華取要抄文段 十三  無作三身の本義を説きつくす


  十八日


一 問う、内証の寿量品の意は如何(いかん)

 答う、是れ宗門の秘事なりと雖も(しばら)く題号の「如来の」二字に()いて、略して之を示すべし。聞いて深く是れを信ぜよ。所詮、内証の寿量品の意は、一品の始終、皆是れ本門三箇(さんか)の秘法を説き顕すなり。

(しばら)く題号の「如来」の二字の如きは、若し文上の意は天台の釈の如し。如来と言うは十方三世の二仏、三仏、本仏、迹仏の通号なり。今正しく本地三仏の功徳を詮量(せんりょう)するなり云云。本地三仏とは即ち是れ釈尊久遠本果の(さん)(じん)なり。其の相は常の如し云云。

(けだ)し内証の寿量品の意は、正に御義口伝の如し。「如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作(むさ)の三身なり」云云。本地無作の三身とは、即ち是れ釈尊久遠名字の三身なり。(また)久遠元初の自受(じじゅ)(ゆう)(しん)と名づくるなり。自受用身とは境智冥合(みょうごう)の真仏なり。即ち所照の境は是れ無作の(ほっ)(しん)なり。能照の智は是れ無作の報身なり。起用(きゆう)は即ち是れ無作の応身なり。止観第六・九十に云く「境に()いて法身と為し、智に就いて報身と為し、(ゆう)を起すを応身と為す」等云云。

故に文の上の寿量の意は、釈尊久遠本果の三身を如来と云うなり。若し内証の寿量品の意は、釈尊久遠名字(みょうじ)の三身を如来と説くなり。故に文辞は一なりと雖も其の義は各別なり。若し深く此の意を得れば、久遠は即ち今に()り。今は即ち久遠なり。故に知んぬ、久遠名字の釈尊は即ち是れ今日(こんにち)の蓮祖聖人なり。今日の蓮祖聖人は即ち是れ久遠名字の釈尊なり。故に末法今時、内証の寿量品の如来とは、全く是れ蓮祖聖人の御事なり。故に口伝(くでん)に云く云云。(これ)を秘すべし、之を秘すべし。


  つづく

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by johsei1129 | 2016-03-08 21:00 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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