十八日
一 問う、内証の寿量品の意は如何。
答う、是れ宗門の秘事なりと雖も且く題号の「如来の」二字に就いて、略して之を示すべし。聞いて深く是れを信ぜよ。所詮、内証の寿量品の意は、一品の始終、皆是れ本門三箇の秘法を説き顕すなり。
且く題号の「如来」の二字の如きは、若し文上の意は天台の釈の如し。如来と言うは十方三世の二仏、三仏、本仏、迹仏の通号なり。今正しく本地三仏の功徳を詮量するなり云云。本地三仏とは即ち是れ釈尊久遠本果の三身なり。其の相は常の如し云云。
若し内証の寿量品の意は、正に御義口伝の如し。「如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり」云云。本地無作の三身とは、即ち是れ釈尊久遠名字の三身なり。亦久遠元初の自受用身と名づくるなり。自受用身とは境智冥合の真仏なり。即ち所照の境は是れ無作の法身なり。能照の智は是れ無作の報身なり。起用は即ち是れ無作の応身なり。止観第六・九十に云く「境に就いて法身と為し、智に就いて報身と為し、用を起すを応身と為す」等云云。
故に文の上の寿量の意は、釈尊久遠本果の三身を如来と云うなり。若し内証の寿量品の意は、釈尊久遠名字の三身を如来と説くなり。故に文辞は一なりと雖も其の義は各別なり。若し深く此の意を得れば、久遠は即ち今に在り。今は即ち久遠なり。故に知んぬ、久遠名字の釈尊は即ち是れ今日の蓮祖聖人なり。今日の蓮祖聖人は即ち是れ久遠名字の釈尊なり。故に末法今時、内証の寿量品の如来とは、全く是れ蓮祖聖人の御事なり。故に口伝に云く云云。之を秘すべし、之を秘すべし。
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