第九段 真言の誑惑を破す
一 法滅尽経に云く等文。
此の下は次に真言責破、亦二と為す。初めに証前起後、次に「此の例」の下は、正しく真言責破。初めの証前起後、亦二と為す。
初めに前を証し、次に「問うて云く」の下は起後。初めの証前、亦二と為す。初めに文を引き、次に「此の経文」の下は釈。初めの証前と云うは、正しく但蓮祖一人のみ法華の行者なることを証し、兼ねて謗法の者国中に充満することを証するなり。
文に云う「法滅尽経に云く乃至若しは一、若しは二」等とは、
問う、本経の文に云く「吾が般涅槃の後、法滅せんと欲する時、五逆濁世」等云云。既に「法滅せんと欲する時」と云う。像法の終りを説くの文なり。故に伝教大師此の経文を引き、正しく像法の終りなることを証するなり。故に顕戒論の下五に云く「時を知り山に住するの明拠を開示す。法滅尽経に云く『吾が般涅槃の後乃至悪人転多くして海中の沙の如く、善者甚だ少くして若しは一、若しは二ならん乃至三乗は山に入り、福徳の地に恬怕として自ら守り、以て欣快と為す』已上経文。今已に時を知る、誰か登山せざらんや」等云云。(注:恬怕=静かにして安らかなること。恬は静かの意。欣快=喜んで心地良いこと)故に知んぬ「若しは一若しは二」とは、正しく像法の終り、伝教・義真等の御事なり。何ぞ末法今時の蓮祖の事とせんや。
答う、実に所問の如く、像法の終りを説くなり。例せば安楽行品の三処の「末世の法滅せんと欲する時」の文の如し。伝教大師の云く「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り。故に安楽行品に云く『末世法滅の時』と」と云云。然るに今所弘の意は、彼の時の行事、既に末法に同じき故に、又像法の終りすら尚善人は「若しは一、若しは二」なり。況や末法の始めをや。故に末法の事を引証するなり。
問う、法滅尽経の説時は如何。
答う、此れ即ち普賢・涅槃の中間に之を説くなり。故に「是くの如く聞けり、一時仏、拘夷那竭国に在り、如来、三月あって当に般涅槃すべし」云云。啓蒙十四・七十三に之を引く。
問う、彼の経の中の文に云く「沙門の袈裟、自然に白に変ず」云云。此の文は法滅の相を明かすとせんや。
答う、爾らず、正しく白法流布の前相を明かすの文なり。具に予が文段要解の如し。
つづく
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