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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 11月 09日

撰時抄愚記 上二七


 第十六段 
竜樹(りゅうじゅ)(てん)(じん)()(つう)


一 竜樹・天親等

「世親」は(また)天親と云うなり。問の意に云く、(とも)法華論を作って月氏に弘通(ぐつう)したもう。竜樹・天親は、法華の実義を()べざるや云云。

一 竜樹門流・天竺(てんじく)に七十家

止観(しかん)第一・四紙に出ず。

一 此の四句(しく)()

(しょう)(しん)の意に云く、二十七品の中に(さき)の二十五品は大乗の空なり、意は般若に在り。後の二品は小乗を明かす云云。故に知んぬ、華厳(けごん)(ほう)(とう)般若(はんにゃ)の四教・三諦(さんたい)の法門にして法華開会(かいえ)三諦(さんたい)に非ざることを。()証次の如し。

一 四教・三諦(さんたい)の法門等

中論の四句は天台の釈に於て多義あり。(あるい)は四句を四教に配し、或は四句を円教の三(たい)と為し、或は四句を後の三教の意と為し、或は四教に各々(おのおの)四句を()し、或は四句を十界・四教に配す等。(つぶさ)には玄の第三、愚記の如し。

一 天台云く、中論を以て相比(あいひ)すること(なか)れ等

(げん)三・七十七。「又云く、天親」等文。止の五・三十八。「妙楽云く、若し破会(はえ)を論ぜば」等文。(せん)三・百十三。「従義の云く」等文。補註(ふちゅう)十三・二十五。

一 弘法(こうぼう)大師云く

二教論上・終。報恩抄の上二十五云云。

一 此の論一部七(ちょう)あり

菩提心論は竜樹の造に非ざるなり。諌迷(かんめい)七・六十七、中正(ちゅうしょう)十七・五十一。今文の意を示さば即ち五意あり。一には竜樹の言に非ざること多きが故に。二には目録(すで)不定(ふじょう)なるが故に。三には一代を(くく)る通論に非ざるが故に。四には荒量(こうりょう)の事多きが故に。五には余の狂惑(おうわく)に例して今の狂惑を知るが故に云云。()ず「此の論」の下は荒量の事多き中に、別して(あやま)りを()げて偽作(ぎさく)なることを顕わし「()の上不空」の下は余の狂惑を例して知るなり。狂惑とは、不空(わたくし)に作って竜樹に寄するが故なり。

一 (かん)()儀軌(ぎき)

観智の儀軌十一に云く「如来寿量品を誦し、如来の(りょう)鷲山(じゅせん)に処して常に妙法を説くを信じ、次に(まさ)に即ち無量寿命決定(けつじょう)如来の真言を(じゅ)すべし」文略抄。(つぶさ)に諸抄の如し。(もと)是れ不空三蔵、理趣の釈の中に釈迦如来を以て或は(かん)自在菩薩と()し、(あるい)は無量寿仏と為す。故に知んぬ、観智の儀軌の無量決定如来も(また)寿量品の釈迦如来を以て阿弥陀(あみだ)仏とすることを云云。中正の十六・五十五。

一 陀羅尼(だらに)(ほん)

補註(ふちゅう)八・二十ウ。文私の十・三十九。即ち今文に同じきなり。

一 羅什(らじゅう)三蔵一人を(のぞ)いて等

諌暁八幡抄二十七・三に云く「月氏より漢土(かんど)に経を渡せる訳人は一百八十七人なり、()の中に羅什三蔵一人を除きて前後の一百八十六人は純乳(じゅんにゅう)に水を加へ薬に毒を入れたる人人なり」等云云。即ち今文に同じ。

問う、()(しか)らば何ぞ常に他人の訳を引用するや。(いわん)や開経は曇摩伽(どんまか)陀耶舎(だやしゃ)の所訳なり。何ぞ之を(もち)うるや。

答う、「什師(じゅうし)の外は皆(あやま)り有り」とは、是れ(ぜつ)()光前(こうぜん)(たん)に対し舌根(ぜっこん)不焼(ふしょう)の徳に望むが故なり。(しか)りと(いえど)も、所訳の経論皆是れ(あやま)りなりと()うには非ず。(あるい)は謬らざるも有るべし、或は謬り少きも有るべし、或は謬り多きも有るべし。故に他人の訳と雖も、()し文義真正なる(とき)は之を用い、若し文義正しからざれば(すなわ)ち之を用いず。何ぞ(すべから)一向(いっこう)なるべけんや。故に今文に「他人の訳ならば用ゆる事もありなん」と云うなり。不空は謬り多き故に「()の人の訳せる経論は信ぜられず」と云うなり。中正の第三・十一。

一 羅什(らじゅう)三蔵の云く等

高僧伝の第二巻は文広し。註の中に略して引く。法華伝の一・十「()(おん)道安(どうあん)及び什師を(そし)る」等と補註(ふちゅう)五・二十八に之を()するが如し。感通伝十に「天人(いわ)く、此れ議すべからず、悠々(ゆうゆう)たる者の評する所ならんや」云云。「針を(くら)う」等は編年通論の第三に出でたり。

一 答えて云く()()なりとも等

感通伝十に云く「天人、什師を(たん)じて云く、其の人聡明(そうめい)にして()く大乗を()し、後に絶え前を(てら)す。之を仰ぐに及ばざるところなり。毘婆尸(びばし)(ぶつ)より已来(このかた)、経を訳す」等云云。

一 涅槃(ねはん)経の第三・第九

第三巻三十六に「水を醍醐(だいご)に加う」の(たとえ)あり。第九三十八に「前を抄して後に()け、後を抄して前に著け」等の文あり。(これ)()を指すべきなり。八幡抄二十七・四。

一 進退は人に()り何ぞ(せい)()(かかわ)らん

天台、法華論の初地(しょじ)無生(むしょう)の義を(しりぞ)け、「(もっぱ)ら別の義に()って(また)経に()せず」と云えるを、妙楽、之を(たす)けて訳者の謬りに属するなり。(けだ)し本文に在っては「聖旨」とは即ち(てん)(じん)なり。若し今文の意は(ただ)ちに是れ(ぶつ)()なり。故に「仏の御とが()にはあら()じ」と云うなり。故に転用(てんゆう)なるに似たり。


つづく


撰時抄愚記上 目次



by johsei1129 | 2015-11-09 22:08 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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