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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 10月 16日

撰時抄愚記 上九 富士山は霊山浄土に似たらん最勝の地なり

八月七日

    第四段 滅後の()(きょう)を明かす

一 問うて云く()かなる時にか等

此の下は滅後の弘経を明かす、大いに分ちて二と()す。初めに略して末法は是れ深秘(じんぴ)の大法広布の時なることを示し、二に「問うて云く竜樹」の下九丁は、広く三時の弘経の次第を明かすなり。

初めに(また)四あり。初めに由、次に「問うて云く其の心」の下は(まさ)しく示し、三に「問うて云く其の証」の下は引証、四に「道心」の下は(けっ)(かん)なり。(まさ)に知るべし、略釈、広釈、例せば天台の釈の如し。深く(これ)を思うべし。初めの二問答、(とも)に是れ由なり。学者見るべし。

一 いか()なる時にか法華経を説くべきや

問に重々の意有り云云。「法華経」とは元意(がんい)の辺に約すれば文底下種の法華経なり。

一 (とう)(がく)大士(だいし)

問う、(せん)十に云く「本地(ほんち)の真因の初住より已来(このかた)、遠く今日乃至(ないし)未来の大小の衆機を(かんが)」云云。故に知んぬ、初住すら(なお)知る、(いわん)や等覚をや。

答う、住上は(いま)淵底(えんでい)を尽さず、仏は究竟(くきょう)して之を知るなり。故に如来に(のぞ)みて奪って「知りがたし」と云うなり。玄二・十九に云く「凡夫は知らず、二乗は彷彿(ほうふつ)として之を知り、菩薩は知ること深からず、仏は知ることを(ほとり)(つく)す、()き相師の(あき)らかに始終を見るが如し」文。菩薩は少納言(これ)(なが)の如く、(あるい)は未だ尽さざるの処あり。仏は許負(きょふ)が周の亜父を相するが如く、(あき)らかに始終を見るなり。新語の三・十八。盛衰記の十五・二十四。(注:彷彿 ありありと思いだすこと)

一 仏眼を()つて時機をかんが()へよ等

意は経文を借りて時機を知るべしとなり。(およ)そ眼は物を見るを以て其の(ゆう)と為す。仏は未来永々の時機を見そなわしたまい、即ち其の事を以て経文を()(あらわ)す。故に経文は是れ(ただ)ちに仏眼なり。日は照明を以て其の用と為す。経文明々たること(あたか)も日天の如し。故に経文の明々たるを()て以て機を照し、時を照し、国を照せ等云云。「経文明々たり」とは即ち大集(だいしつ)経の文是れなり。

一 問うて云く()の心等

此の下は(まさ)しく示す、又二あり。初めに経文を引く、即ち是れ月蔵(がつぞう)経九・二の文なり。次に「此の五箇(五の)の五百」の下は文旨を釈す、亦二あり。初めに異解(いげ)()げ、二には「彼の大集経」の下は正釈なり。

一 漢土(かんど)道綽(どうしゃく)禅師が云く

選択(せんちゃく)上初第一段に安楽集を引いて云く「二種の聖法を得て以て生死(しょうじ)(はら)。一には(いわ)く、(しょう)(どう)、二には謂く浄土(じょうど)()の聖道の一種は、今時は証し難し。大聖を去ること遥遠(ようおん)なるに()るが故に。理深(りじん)解微(げみ)に由るが故に。是の故に大集(だいしつ)月蔵経に云く、我が末法中の億々の衆生、行を起し道を修するに、(いま)だ一人も得る者有らず。(まさ)に今末法は五濁(ごじょく)悪世なり。(ただ)浄土の一門のみ有って、通入(つうにゅう)すべき(みち)なり」略少。

法然が私の料簡(りょうけん)の段に云く「初めに聖道門とは(これ)()いて二有り。乃至(しか)れば(すなわ)ち真言・仏心・天台・華厳(けごん)・法相・三論・地論(じろん)摂論(しょうろん)、此等の八家(はっけ)の意は(まさ)しく(ここ)()るなり」文。既に八家を以て通じて聖道に属して之を()つ。天台は即ち是れ法華経なり。故に今「法華経・華厳経」等と云うなり。

一 千中無一(これ)なり

是れ聖道の白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)の辺を指して「是なり」と云うなり。次に「通入すべき(みち)なりとは是なり」とは、是れ浄土の称名(しょうみょう)流布の辺を()して「是なり」と云うなり。

問う、前代の諸師の中に、何ぞ別して浄家(じょうけ)を挙ぐるや。

答う、此れに総別あり。総じて之を論ぜば、()の宗(もっぱ)ら盛んなるが故なり。

若し別して之を論ぜば、(すなわ)ち三意を含む。
 一には是れ所破の為なり。其の義知るべし。
 二には一分
所用(しょゆう)の為なり。(いわ)く、彼も大集経の白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)の時は第五の五百歳当世とする故なり。
 三には
(しばら)く所例の為なり。学者見るべし。

一 法華経の肝心(かんじん)たる等

一義に云く、如是(にょぜ)我聞(がもん)(かみ)の妙法蓮華経なりと。一義に云く、本地(じん)(じん)の南無妙法蓮華経なり等云云。

当流の意は、法華経の本門寿量品の肝心、久遠名字(みょうじ)の南無妙法蓮華経なり。久遠名字の南無妙法蓮華経とは、(すなわ)ち是れ本門の本尊の中央の南無妙法蓮華経なり云云、云云。

顕仏未来記二十七・三十に云く「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提(えんぶだい)に広宣流布せしめんか」等云云。

(まさ)に知るべし「法華経の肝心たる南無妙法蓮華経」とは即ち是れ本門の本尊なり。「四衆の口口(くちぐち)に唱う」とは本門の題目なり。(ただ)し本門戒壇の文無きは(ただ)是れ略するなり。広宣流布の時は必ず之を建立するが故なり。

秘法抄十五・三十一に云く「王臣一同に三秘密の法を(たも)たん時、勅宣(ちょくせん)(ならび)御教(みきょう)(しょ)を申し(くだ)して霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)に似たらん最勝の地を(たず)ねて戒壇を建立す可きものか。時を()つ可きのみ」(取意)と云云。

問う、「最勝の地」とは(いず)れの地を()すべけんや。

答う、是れ富士山なり。録外(ろくげ)十六・四十一に御相承()を引いて云く「国主()の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と()は是なり」と文。

                  

                   つづく
撰時抄愚記 上九 富士山は霊山浄土に似たらん最勝の地なり_f0301354_20141314.jpg
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by johsei1129 | 2015-10-16 20:48 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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