次に種脱を詳らかにすとは、此れを三段と為す。初めに略して在末の機縁を明かし、次に能説の教主を明かし、三に所説の法体を明かす。
初めに略して在末の機縁を明かすとは、謂く、在世の機縁は皆是れ本已有善の衆生なり。故に疏の十に云く「本已有善には釈迦、小を以て之を将護す」等云云。籤の十に云く「故に知んぬ、今日の逗会は昔成就の機に趣く」等云云。証真云く「経に云く『是の本因縁を以て今法華経を説く』云云。故に知んぬ、此の経は皆往縁の為なり」等云云。
取要抄に云く「仏の在世には一人に於ても無智の者之無し」等云云。是れ則ち本已有善の故なり。
末法の機縁は皆是れ本未有善の衆生なり。故に疏の十に云く「本未有善、不軽、大を以て而して之を強毒す」等云云。
太田抄に云く「今末法に入つて在世結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ。不軽菩薩、世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(取意)文。教行証抄、唱法華題目抄等、之を略す。
次に能説の教主を明かすとは、凡そ熟脱の教主は必ず是れ色相荘厳の尊形なり。故に経に云く「我相を以て身を厳り、光明、世間を照す、無量の衆に尊ばれ、為に実相の印を説く」等云云。文の四に云く「身相炳着にして光色端厳なれば衆の尊ぶ所と為って則ち信受すべし」云云。(注:炳着はきらきらとした服を着ること。炳は明らかの意)弘の六に云く「或は恐らくは度せん者の心に軽慢を生ぜん。謂く、仏の身相具せざれば一心に運を受くること能わず。乃至是の故に相好もて自ら其の身を厳る」等云云。当に知るべし、熟脱の化主は本已有善の衆生を利益す。若し其の身を厳らずんば、則ち所化の衆生、心に軽慢を生じ、下種の善根を破するの損あり。是の故に其の身を荘厳して、所説をして一心に信受せしむ。宿善を熟脱する故に、熟脱の教主は必ず是れ色相荘厳の形貌なり。
若し下種の教主、本未有善の衆生を利益する所以は逆縁を面と為す。故に外相を見て心に軽慢を生ずと雖も更に宿善を破するの損なし。而して却って逆縁を結ぶの益あり。故に其の身を厳らず。故に下種の教主は唯是れ凡身の当体なり。止観第六に云く「和光同塵は結縁の始め、八相成道は以て其の終りを論ず」等云云。然れば則ち種脱の形貌、文義分明なり。本迹の約身約位、之を思うべし。
つづく